FC2ブログ
2020年01月01日 (水) | Edit |
*この記事は常にトップに表示されます。最新の記事はすぐ下です。
 (2014年7月6日記す)


そういち自画像
      著者そういち自画像

ブログ「団地の書斎から」のテーマ

団地の小さな書斎で、たまには「大きなこと」について考える。

世界史の大きな流れ。時代の変化。政治経済などの世の中のしくみ。そして、時代や社会をつくった人びとの生きかた。
    
自分のアタマで考えること。「考え」を文章でどう表現するか。
  
古い団地をリノベして暮らしています。「リノベと住まい」もテーマのひとつ。暮らしの中の小さなたのしみについても。 
    
これらをわかりやすく・ていねいに書きたい。


●著者「そういち」について

社会のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後、運輸関係の企業に勤務し、事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら教育研究のNPOに参加して、社会科系の著作や講演で活動。その後、十数年勤めた会社を辞め、独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て、現在はキャリアカウンセラーとして就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。 


●そういちの著書
【最新刊】
中心の移り変わりから読む 一気にわかる世界史←こちらをクリック
(日本実業出版,2016年8月末より全国書店・アマゾンなどで発売中,1300円+税)

  一気にわかる世界史・表紙

 
『自分で考えるための勉強法』(ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『四百文字の偉人伝』(古今東西の偉人100人余りを紹介,ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『健康と環境』(子ども向けの社会科の本,小峰書店,共著)
『フラッグス・る?』(世界の国ぐにをGDPでみる社会科の本,楽知ん研究所)


 
自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る


四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
秋田総一郎

商品詳細を見る

  
資源・環境・リサイクル〈10〉健康と環境資源・環境・リサイクル〈10〉健康と環境
(2002/04)
落合 大海、秋田 総一郎 他

商品詳細を見る

↑以上は,アマゾンなど多数のネット書店で発売中。電子書籍はスマホやパソコンでも読めます。

 
【講師いたします】
このブログでテーマにしている世界史,社会のしくみ,勉強法,文章術などについて。グループでも個人でもどうぞ。

お問い合わせは so.akitaあっとgmail.com まで(あっとは@に変換) 


団地の書斎のそういち
撮影:永禮賢
2018年10月28日 (日) | Edit |
私そういちは、勉強法や読書術などの「知の技法」に関心があります。本ブログでも「自分で考えるための勉強法」というシリーズがあるのです。そして、とくに「独学」ということには、強い想いを抱いています。私自身がいろいろなことで「独学者」といえるからです。今回は勉強法、とくに独学の意味について。


勉強は成功のためのものではない

世の中には、ビジネスマンなどの大人を対象とした、「勉強法」や「知の技法」をテーマにしたさまざまな本や記事があふれている。それらの多くに、私はやや違和感を感じる。

それは勉強というものを、人生における一般的な成功と安易に結びつけているからだ。

そこで論じられている「勉強」の先にあるものは、たいていの場合、高度の資格を身につけたり、会社勤めなどの仕事で成果を上げたり、あるいは知的なエリートとして周囲に認められたり、といったことである。

でも、読書術のような「知の技法」は、じつはそのような「成功」とはあまり関係がない。

「これからのビジネスマンには、リベラルアーツ(要するに深い教養のこと)が求められる」などと最近ときどき言われる。しかし、歴史や哲学や芸術についての教養が、会社での成果や出世にプラスになるなどということは、ほとんどあり得ない。そのような教養が本当に「役立つ」としたら、よほどのエリートにかぎられるだろう。そのことは、会社勤めなどの社会経験がある大人ならわかるはずだ。

もちろん仕事をするうえで、いろいろと真剣に学ぶことは大事だ。しかし、私たちが収入を得るために行っている仕事のほとんどは、知識人(学者・研究者、作家、コンサルタントなど)が説くような「知の技法」や「教養」が役立つ性質のものではなく、もっとシンプルで現場的なものだろう。だからこそ、本など読まなくても、いい仕事をしている人はたくさんいる。

おそらく知識人は、自分たちの「芸」を普通の人たちに買ってもらうために、役に立たないものを役に立つかのように無理に言っているだけなのである。

試験勉強だって、「知の技法」をとやかく言うまえに、しっかりとテキストを読み込んで覚えれば、たいていはなんとかなる。


人生を楽しくするために勉強する

では大人の勉強は、なんのためにするのだろうか? それは「人生を楽しくするため」だ。そして、人生を楽しくするような勉強というのは、それなりに方法論やノウハウが要る。

なぜかといえば、あたりまえかもしれないが、初歩的で簡単なこと、浅いことを学んでも楽しくないからだ。

それなりに高度で深い世界に分け入らないことには、興味や感動はわいてこない。そして、高度で深い世界を扱えるようになるには、それなりの技法やノウハウが必要になってくる。

たとえば、さきほど述べた「リベラルアーツ」的な深い教養の世界は、売上や出世には役に立たないが、知ること自体が楽しい。しかし、本当に楽しくなるには、やはりそれなりの方法論や積み重ねが要る。私自身、それを実感してきた。

私そういちは、大学の法学部を出たあと会社勤めを続けながら、おもに歴史や社会科学――とくに世界史に興味を持って独学を続けてきた。そしてこの数年は、世界史に関する解説書(『一気にわかる世界史』日本実業出版社刊)を出版したりもしている。

また世界史の本のほかに古今東西の偉人について述べた著作や、このブログとも重なる勉強法・読書法についての著作もある。(『四百文字の偉人伝』『自分で考えるための勉強法』いずれもディスカヴァー・トゥエンティワン刊)この2冊は電子書籍だが、出版社が認めて商業出版してくれたものだ。

なお、会社のほうは十数年務めたあと辞めて、それから10年余りの間に、会社を立ち上げたり、カウンセラーの仕事をしたりしているのだが、その辺についてはまたあとで。

このような本の出版は、一応の成果といえるだろう。これは、ただぼんやりと、あるいはやみくもに読書したり勉強したりするのではなく、一定の方法論を意識しながら取り組んだ結果だと思っている。そのことで、世界史という膨大で複雑な対象を自分なりにとらえることができるようになった。深いレベルで「知るよろこび」を味わえるようになったのである。

そして、それがたのしくて勉強を続けることができた。指導してくれる先生がいたわけではなく、まったくの独学だった。

私にとって世界史の勉強は、当然ながら仕事にはまったく関係がなく、周囲には「そんなことをして何になる」という人もいた。しかし、楽しくてやめることができなかった。

まあ、「楽しい」といっても、ワクワクと盛り上がるという感じではない。あくまでじんわりとした楽しさであって、ついそれに時間を割いてしまう、というものだった。

そして、出版したといっても、私の本はあんまり売れていないので、ほとんどお金になっていない。もの書きとしての評価も得られてはいない。世間の反応としては、世界史の本に関連して、ビジネス雑誌の「教養特集」で取材を受けたことが少しあるくらいだ。いわゆる「成功」とは程遠い状態である。

しかしこのように、読書による独学を、商業的な出版物というかたちで世に出せたのは、やはりうれしいことだった。好きな独学を続けたことは、たしかに私の人生をより楽しいものにしてくれたのである。


独学が支える楽観的な見通し

これから先、仮に本の著者としての成功とは無縁のままだったとしても、私はこれまで続けてきた路線の独学や著述をやめないだろう。私は今50代前半だが、「60代、70代になっても、これを――読んだり書いたりを続けていたい」という気持ちだ。まあ「ぼちぼち」というペースであっても、とにかく続けているだろうと。

これは幸せなことだと思う。最近は「定年後をどうするか」といった、老後の孤独や退屈、あるいは虚しさを心配する人たちに向けた指南本が売れているが、私は「自分が老後に退屈することはないだろう。楽しむネタはいくらでもある」と思っている。

そのような楽観的な見通しを支えているのが、若い頃から続けてきた独学ということだ。

そんな私であれば、「人生を楽しくする独学術」について、初心者の人に述べてもよいのではないかと思うのだが、どうだろうか。


私のいろいろな独学

もう少し言わせてもらえば、私が独学してきたのは、著作のある世界史などの分野だけではない。

10年余り前、40歳を過ぎた頃に私は会社を辞めて、小さな会社を立ち上げ、その代表取締役になった。投資信託という金融関係の事業を行う会社である。会社員のときの仕事とはまったく異なる分野なのだが、これも独学から足を踏み入れたのである。

30代半ばから投資の世界に関心を持った私は、自分なりの勉強をしつつ、ファンドを買うなどして運用した。その結果得た何千万円かの利益をこの会社に投じた。

しかしこちらは、いろいろあって2年余りで手をひいてしまった。ただし、会社の事業であるファンドの運営は今も続いている。なお、私はこの起業で貯金を大きく減らしたが、借金は背負っていない。

その後私は、3年ほどぶらぶらと浪人生活を送った。そして現在は、非常勤で若い人の就職の相談に乗る「キャリアカウンセラー」の仕事をして、夫婦2人で細々と暮らしている。

その仕事の傍ら、書くことをしているのである。キャリアカウンセリングも、私にとっては未知の世界だったが、自分なりに勉強を重ねている。

また、住まいについても興味があって、独学をした。30代の頃、建築や住宅の本を読むのが好きだった。インテリアショップも、何も買わなくてもときどき覗いていた。

私の家は、古い団地を2006年にリノベーションしたものだ。当時はまだ「リノベーション」「団地リノベ」は現在ほど一般的ではなかった。しかし、自分なりの勉強で「比較的ローコストで、思うような住まいを手に入れる方法」として、団地リノベに注目したのである。

そして、建築家の寺林省二さんに設計を依頼して実現した。その後、団地リノベの実例として何度か雑誌や本に取り上げられ、私自身もこの家を気に入っている。

この家は、寺林さんたち専門家の仕事によるものだが、私は依頼者として全体の方向性やどんな専門家に(つまり誰に)頼むかなどを考えた。それが良い結果を生んだのは、住まいについての独学の成果だと思っている。


個として生きるためのエンジン

以上「自分語り」をしたが、どの取り組みもたいしたことないと言われれば、たしかにその通りだ。本は売れてないし、会社は経営しきれなかったし、お気に入りの自宅も所詮は古い団地にすぎない。そして、非常勤(非正規)の仕事で食いつなぐ毎日……。

しかし、自分のやりたいことを、自分のアタマで考えながらやってきたという感じはある。ひとつひとつの取り組みは、その過程ではやはり楽しかった。そしてこれからも、退屈したり絶望したりせずに、人生を過ごせるように思える。

私の場合、その推進力の核に「独学」の能力がある。

つまり、自分の目的や関心に沿ってものごとを探求し、それを楽しむ能力である。

そのような独学のセンスや経験については、私には一定のものがあると自負している。そのほかの能力――行動力や社交性や、強い意志や執念などについては人並み以下のようだ。他人の整理した知識の体系を覚える試験勉強も、大人になってからは本当に嫌だし苦手だ。だから成功とは縁がないのだろう。

そこで、ここで述べる独学の方法論を、ほかの面で私よりもすぐれている人が学んだら、きっと世間的な「成功」にも役立つはずだ。

独学ということが、会社を立ち上げることや家づくりにもかかわるなら、やはり「勉強法」や「知の技術」は、何かと使えるということだろう。最初のほうでは「役立たない」と言ったが、じつはそうでもないようだ。

独学術は、会社員などの組織人としてのときよりも、一個人として自分が本当に実現したいことをかなえるうえで役に立つ。つまり、「個として生きるためのエンジン」となるのである。

(以上)
関連記事
2018年10月21日 (日) | Edit |
2018年12月9日(日)に西新宿で下記のセミナーを開催します。今年は3月、8月に続き3回目。
半日(5時間)で世界史5000年の流れを一気にみわたすというもの。今回はとくに近現代史に時間を割いて、しっかりお伝えしていきます。

高校生以上の子どもさんと親子で、または高校生の参加もぜひ(これまでにも高校生とお父さんの参加がありました)。
よろしくお願いします。

親子・高校生も
5000年を半日でみわたす・大人のための
世界史「超要約」セミナー

●日時
2018年12月9日(日) 
12:45~18:00(12:30開場)

定員8名 予約制 

講師:このブログの著者・そういち
プロフィールは下記に

●会場
新宿・ノマドカフェ 「BASE POINT」(ベースポイント) 2F D
東京都新宿区西新宿7-22-3
*地図は下に
*紙のチラシをご覧になった方へ:訂正とお詫び
「3Fイベントスペース」とあるのは誤りで、同じ店の「2F D」に訂正いたします。
●参加費
6000円(学生5000円)
親子参加は2人で10000円(子どもさんが成人・社会人でも) 
当日支払い、フリードリンク付き

●お申込み・予約制です
メールにて so.akitaあっとgmail.com まで。(「あっと」は@に変換)
その際お名前(ハンドルネーム可)をお知らせください。
返信は翌日になることがあります。


会場(ベースポイント)地図
ノマドカフェ地図
JR新宿駅西口より徒歩8分
丸の内線西新宿駅より徒歩6分
大江戸線新宿西口駅より徒歩11分

ベースポイント
BASE POINT(会場)

世界史セミナー2018年3月24日その2
本セミナーの様子(2018年3月)

***

●講師プロフィール
そういち:社会のしくみ研究家。1965年生まれ。企業勤務のかたわら社会科系の著作やセミナーを行う。
著書は『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)のほか
『自分で考えるための勉強法』『四百文字の偉人伝』
(いずれもディスカヴァー・トゥエンティワン、電子書籍)など。
このほか、以下で世界史関連の記事を監修。
雑誌『プレジデントウーマン』(プレジデント社)2017年10月号「大人の学び直し 経済&歴史」特集
ムック『おとなのための教養入門』(プレジデント社、2018年7月刊)

***

世界史の勉強がむずかしいのは、対象範囲が非常に広いからです。
膨大な国や民族が出てきますが、学校の教科書では、
それらをできるだけ幅広く扱おうとして詰め込みすぎています。

そこで、大人が世界史を学ぶ場合は、つぎのことが大切です。

①大まかな時代と出来事をおさえる
細かい年号や固有名詞にとらわれず、まずはざっくりと。

②それぞれの時代の中心的な大国をおさえる
世界史では時代ごとに繁栄した強国・大国があります。
古代ギリシア、ローマ帝国、中国の王朝、イスラムの帝国、大英帝国、アメリカ合衆国など……
それらを追いかけていくと、世界史の流れがつかめます。

以上の方針で、
古代から現代までの世界史5000年の流れを、
半日で一気にお話しします。


本セミナーによって、アタマのなかの断片的な知識が
「ひとつの物語」としてつながっていくでしょう。
世界史の本を読むための基礎知識も養えます。

世界史は自然科学と同様に、
世界の成り立ちについての基本的な学問です。
また、政治・経済や美術など、さまざまな教養の基礎になっています。

どの分野の本を読んでも、世界史の知識があるのとないのとでは
理解が大きく違ってくるでしょう。

こんなふうに世界史は「役に立つ」ことも多いですが、
それ以前に知る喜びのある分野です。
世界史を学ぶ最大の効用は、単に「楽しいから」と言ってもいいのです。

「大人のための」世界史セミナーですが、高校生以上の子どもさんと親子で、
または高校生の参加もぜひ。
若い人にこそ、受験のためだけではない「大人の世界史」を。

***

最後に、今年3月24日の本セミナーでお父さんと参加された高2男子の方の感想

世界史については“カタカナが多くて教科書も時間軸がややこしくて頭に入ってこない”と感じていたとのこと。これはほとんどの人にとって、そうでしょう。

でも“このセミナーを聞いているうちに先入観を捨てて、少しずつ好きになることができました。特に文化などが国から国へと移り、新しくなっていく過程が気になったので、これから調べてみて、親しくなっていこうと思います。本当にありがとうございました”とのことでした。

こちらこそ、ありがとうございます。
みなさまとお会いできることをたのしみにしています。

プレジデントウーマン地図
世界史上の繁栄の中心の移り変わり
『プレジデントウーマン』2017年10月号より

(以上)
関連記事
2018年09月09日 (日) | Edit |
8月5日に新しいブログ「そういち総研」をたちあげて、1か月余り。
9月上旬現在で、12本ほどの記事をアップしました。

そういち総研←こちらをクリック

今度は、世界史により特化した、より情報量の多い記事が集まったブログをつくりたいと考えてはじめたのです。

今のところ、アップした記事のテーマはつぎのようなものです。

一気に読める第二次世界大戦の要約、ヒトラーについて、日本の戦争と戦前の格差社会、世界最古とされるメソポタミアの都市、古代ギリシアの文明が西アジアの影響で生まれたこと、アメリカ合衆国憲法の特徴や成立過程、世界最古の文字、マルクスの根本的な誤り、1800年代イギリスの鉄道網、世界史の地域区分……

ついさきほどは、アメリカ合衆国憲法の制定過程・議論と説得によって成立した憲法 という記事をアップしました。

新ブログの記事には、「団地の書斎から」の記事を増補・改訂したものもありますが、この「アメリカ合衆国憲法の…」は、このブログでは未発表のものです。

新ブログ「そういち総研」の記事は、どれもかなり長文です。
しかし、ひとつひとつの記事から、世界史や社会にかんして一定の新しい視野がひらけてくる。

そんなふうに自負しています。

ご一読いただければ幸いです。もし感想などあれば、こちらのブログに投稿していただいてもありがたいです。こちらのブログも、今もちゃんと管理しておりますので。

(以上)
関連記事
2018年08月05日 (日) | Edit |
2018年8月5日に、新しい別のブログを立ち上げました。

そういち総研←こちらをクリック

今度は、世界史により特化した、より情報量の多い記事が集まったブログをつくりたいと考えています。オープニングとしては、初心者のために第二次世界大戦の全体像を述べた、長文の記事。

当ブログは、今後は基本的にはあまり更新せず、新ブログに移行していきます。2013年から当ブログを続けてきましたが、新しいものをやってみたくなりました。ただし、これまでこのブログで蓄積した記事も、生かしていくつもりです。

これまでおつきあいくださったみなさま、ありがとうございます。新ブログも、どうかよろしくお願いいたします。

*2018年10月27日追記 上記のように一度は書きましたが、新しいブログと並行して、このブログも続けていきます。新しい「そういち総研」では世界史に関する長文の記事に特化して、この「団地の書斎から」では、その他のさまざまな記事をのせていきます。2つのブログを、どうかよろしくお願いします。

(以上)
関連記事
2018年06月10日 (日) | Edit |
今年2018年は生誕200年ということで、カール・マルクス(1818~1883)のことが取り上げられる機会が増えているようです。

『週刊東洋経済』(2018年6月2日号)に掲載されたカール・ビルトさん(元スウェーデン首相)のコラムによると、マルクスの生誕地であるドイツのトーリアでマルクス像が設置されたり、中国の祝賀式典で習近平主席がマルクスについて「抑圧や搾取のない理想社会への道筋を示した」と礼賛しているとか。

また、ドイツの祝賀行事では、欧州委員会のユンケル委員長がマルクスを擁護して「自身が意図しなかったことに対して責任を負わされている」と発言したのだそうです。

そして、コラムの筆者・ビルトさんは、そのようなマルクス礼賛や擁護の発言をつよく批判しています。それを要約すると、こんな感じです。

・共産主義国家による残虐行為はマルクス思想が歪曲されたせいだ、などど擁護したところで、マルクスの描いた未来構想の影響はやはり無視できない。

・資本主義を否定した国がたどった末路と、資本主義を受け入れた国の発展をみれば、マルクス主義の失敗は明らか。そして、私有財産制を否定し、国家が経済をコントロールする社会からは、経済の活力だけでなく自由そのものが奪われてしまった。

こうした見解は、現代では一般的なものでしょう。私も基本的にはその通りだと思います。

では、なぜマルクス主義をかかげる国はみな、抑圧的な全体主義国家となってしまったのか?

「全体主義国家」とは、個人の自由を否定した、国家権力が無制限の独裁的な力を持つ国のことです。かつてのソ連やそれに従属する東ヨーロッパ諸国は、まさにそうでした。

ビルトさんは、あるポーランドの哲学者(レシェフ・コワコフスキ)の主張を引用して、マルクスは生身の人間にまるで興味がなかった、マルクスの無機質な教義が全体主義へとつながっていった、という主旨のことを述べています。

“(コワコフスキいわく)「人間には生死がある。男もいれば女もいる。老いも若きもいれば、健康な者もそうでない者もいる。マルクス主義者はこうした事実をほぼ無視している」 マルクスの無機質な教義に基づく政府が例外なく全体主義に向かったのはなぜか。その理由を、コワコフスキ氏の洞察は教えてくれている”(『週刊東洋経済』2018年6月2日号、72ページ)

これはちょっと……と私は思いました。

これは要するに「マルクスの思想は人間味がなく、だからその理論に基づく国は非人間的なものになった」という話です。いくらなんでも、幼稚で単純すぎる感じがしませんか?

マルクスを礼賛する習近平の主張は、自分たちの共産党独裁を正当化するためのものです。これは、世界の多数派の人には受け入れられないでしょう。

「マルクス主義の失敗はマルクス自身のせいではない」という擁護論については、マルクス礼賛よりは支持者がいるかもしれませんが、その数はかぎられるでしょう。

やはり、マルクスの考えには根本的なまちがいが含まれていたのでしょう。

それは、マルクス主義をかかげた国家がどうなったかをみれば、明らかです。マルクスの考えに大きなまちがいがないのに、それを受け継いだマルクス主義者があれだけの失敗をおかすなんて、ふつうは考えられません。でも、なぜかマルクス主義にかんしては「悪いのはマルクス主義者で、マルクス本人はまちがっていない」みたいなことが、たまにいわれます。

でも、マルクスの何がどうまちがっていたのか正確につかんでおかないと、私たちはまた同じようなまちがいをくり返すのではないでしょうか。社会主義国だけでなく、西側の先進国にも、マルクス主義の信奉者はおおぜいいたのです。

つまりこれから先、マルクス主義をかかげる国の失敗の記憶が薄れてしまえば、どうなるのか? 

そこに現代的な何か―ーたとえばエコ、共生、格差解消、インターネットのもたらす「解放」等々の新しい装いの「人間味」や「理想」の要素を取り入れた、21世紀バージョンの「マルクス主義」的な何かがあらわれたら? 

「マルクス主義の国家は失敗したから」「マルクスの理論は人間味がないから」みたいな認識しかなかったら、また大きな失敗をするかもしれません。

おととし(2016年に)亡くなった政治学者の滝村隆一さんは、マルクス主義者として出発した人でしたが、ソ連などの社会主義国家のひどい状況が広く認識されるようになった1970年代以降、「マルクスの何がまちがっていたのか」を解明しようとしました。

滝村さんは、マルクスの残した政治理論・国家理論について再検討しました。一方で、世界史におけるさまざまな国家についても研究を重ねています。

そして、滝村さんが達したひとつの結論は、「マルクスには、三権分立という考え方がまったく欠けている」ということでした。

立法府や行政府の行うことを、司法が憲法などに基づいてチェックするという国家の基本構造。それを絶対的に守るべきものと考える国民のコンセンサス。それが近代国家の根幹をなしているという認識がマルクスには欠けていて、マルクス主義者たちもその誤りをそっくり引き継いでいるのだと、滝村さんはいいます(滝村『国家論大綱』など)。

三権分立は、立憲主義(国家権力が憲法によってコントロールされること)を具体的に実現するしくみです。近代国家の基本設計といってもいいです。その観念がないまま、政治・経済のすべてをにぎる政府をつくったら、それはもうどうしようもない強力な全体主義国家になるしかありません。*

マルクス主義の根本的なまちがいは、私有財産の否定だけではないということです。

社会主義国家は、少なくとも当初は一定以上の民衆の支持を得ていたし、民主主義をかかげてもいました。外見的には西側諸国と似た体裁の「憲法」も制定されています。しかし、現実には民主主義も立憲主義も全否定する国家が生まれてしまった。

その根本には三権分立の否定ということがあった。そして、その誤りはマルクス自身のものだった。マルクスほどの学識・教養のある人物でも、そのような基本的なところでまちがえてしまった。

こうやって滝村さんの主張を述べると、じつにあたりまえな感じもします。
でも、世界の常識にはなっていないようです。

なにしろ、ビルト元首相のような欧米のインテリでさえ、「マルクスの理論には人間味がない」みたいなことしかいっていない。

そんな議論よりも、滝村さんのほうがはるかに深く・具体的に問題をとらえていると、私は思います。

ここで述べた滝村さんの主張(「三権分立の欠如」論)がのみこめない、あるいは全面的には賛成できないという方もいるでしょう。それでも、滝村さん的な探究の仕方のほうが、はるかに真剣で意味がありそうだとは思いませんか?

(以上)
[READ MORE...]
関連記事
2018年05月24日 (木) | Edit |
この社会には、職場や学校やご近所やサークル等々の無数のコミュニティがあり、そのなかには大小さまざまな形での権力者と、それに従う立場の人たちがいる。

そして、コミュニティの権力者がひどい暴君になって、従う人たちを不幸にすることがあります。そういうことは、この社会では無数に起きている。

今回の日大アメフト部の一件も、そのひとつです。

では、そんな暴君による不幸を防ぐには、どうすればいいのでしょうか。
むずかしい問題です。

一定の割合で、小さなコミュニティの暴君というのは、かならずあらわれるものです。

だから、人びとを不当に苦しめる暴君がいたら、それに注意や処罰を与える上位の権力が必要です。苦しんでいる人にとっての訴える先が要るわけです。それが人権を守るうえでは重要です。

「訴える先」といえば、警察や裁判所、あるいはその分野の所管官庁、つまり国家があると思うかもしれません。

たしかに国家に求められる役割に、支配する側とされる側を超えた第三者的な立場で、公正なジャッジをするということがあります。「第三者的な権力」ということが、近代国家の本来の立ち位置です。

そして、そのことは先進国ではある程度実現しています。現代の先進国では、国家はかならずしも社会の有力者の味方とはかぎらない。

しかし、国家というのは、ふつうの人間にとってはきわめて遠いものです。権威がありすぎて、おいそれとアクセスできないところがある。身近なコミュニティ内のトラブルで警察にかけこんだり、裁判を起こすというのは、大きな抵抗があります。たとえば学校の部活で、不当に「干された(試合に出してもらえない)」からといって、裁判はなかなか起こせないでしょう。日本ではとくにそうです。

また、国家による権力行使というのは重たいことですから、対応は慎重です。国家がなかなか動いてくれないということもある。

つまり、遠い存在の「第三者権力」では、十分に機能しない恐れがあるのです。きめ細かく人権を守ることができないかもしれない。

だから、個人と国家のあいだに立つ「中間団体」が必要なのです。特定の地域や分野などにおいていくつもの小さなコミュニティを束ねて、そのうえに立つ「第三者権力」です。

それは個人にも、身近でアクセスしやすい存在です。そのような中間団体に対し、個人が比較的容易にを相談や訴えをすることができて、公正なジャッジが期待できるなら、人権を守る力となります。

たとえば、大学の部活で指導者がひどいことをして、大学に相談したけどとりあってもらえないとき、あとは警察や裁判沙汰しかないというのでは、人権というのは守られにくいのです。

しかしそんなときに、各大学や運動部に対し、強力な指導・処罰の権限をもった、大学の連合会やスポーツの協会のような組織があれば、救われる人がいるはずです。そういう「連合会」「協会」は、ここでいう「中間団体」です。

日本にも、無数の連合会や協会はあります。しかしそのほとんどは、個人と国家のあいだに立って人権を守る機能を果たせていないように思います。その意味で、日本では中間団体が十分に育っていないのではないか。

そのような組織運営は、欧米のほうが上手なのかもしれない(ただ、具体的な実情について、私は知りません)。

じっさい、最近のスポーツ界の不祥事(人権侵害)において、相撲でもレスリングでも、その世界の「協会」というのは、ほとんど「第三者権力」として機能しませんでした。その基本的なスタンスは、世論が騒ぎ出すまでは、小さなコミュニティの権力者(たとえばパワハラの疑いのあるコーチ)を守るということばかりでした。

やはり、十分に発達した中間団体は、私たちにとって必要です。そして、これからの課題のようです。

そのような中間団体には、コミュニティの自治や自由を侵害する恐れもあります。あるいは中間団体に訴える権利を個人が乱用して、別の人権侵害が起こる危険もあります。たとえば学校の部活で、モンスターペアレント的な訴えで無実のコーチが苦しむようなことがあるかもしれません。

しかし、そのような副作用があるとしても、今の日本では中間団体をもっと強化する必要があるように思うのです。多くの人にとって、副作用を上回る利益があるのではないか。

また、コミュニティの「自治」が強く自覚されている世界では、暴君がはびこることがとくに多いようです。スポーツ界や大学、あるいは宗教法人などは、そういう自治の世界の典型なので、注意や自覚が必要です。

あとはあまり言われませんが、町内会などの地域の自治組織も、似たところがあるかもしれません。

地域の自治組織を規制する団体というのは、国家以外には存在しません。たとえば、権威のある「全国町内会連合会」なんてものはないわけです。町内会のなかで人権侵害やひどい不正があって、内輪の話し合いで解決しないとき、あとは裁判沙汰しかありません。でも裁判沙汰というのは、非常に抵抗がある。ということは、「暴君」にとっては、やりやすいわけです。

このように社会において一般的な、大きな構造的問題と関わっているからこそ、今回のアメフト部の問題がこれだけの騒ぎになるのでしょう。

そして、ここまで書いて最後に思うのは、ではそういう強力な中間団体を育てるとして、私たちはそれを健全に運営できるだろうか?ということです。個人の権利を守るのではなく、けっきょくはコミュニティの権力の後ろ盾、利権の温床、国家の代理人といった方向で育ってしまうのではないか。その疑念も抱かずにはいられません。

(以上)
関連記事
2018年05月22日 (火) | Edit |
日本の映画作品が、カンヌ映画祭で一番の賞をとったニュース。たしかに素晴らしいことで、映画にさほど関心があるわけではない私も、うれしいです。

でも、ふと思いました。

ニュースでは、「世界3大映画祭のひとつ」とか言っているけど、日本にはそんな映画祭はないのだなあ、と。それは、さびしい。

もうそろそろ、外国の賞をもらって「何年ぶりの受賞です!」みたいに喜んでばかりはいられないのではないか。

もちろん、その立派な賞を受けた個人や関係者は、ほんとうに喜ばしいことだと思います。そのことは別にして、日本の国や社会としては、ちょっと冷静に考えてもいい。

日本は、先進国レベルにまで経済が発展して、もう50年は経ちます。もうそろそろ、賞をもらって喜ぶ側ではなく、賞をあげるほうの国になることを、本気で考えたらどうだろうか。

世界のなかでほんとうに優位な国は、ほかの国の人が欲しがる賞を、たくさん主宰している国です。

「賞をあげる国」というのは、文化において、「何が価値があるか」を管理している側です。それができるだけの系統だった考えや、表現力、組織運営の能力などを持っている。その点で、私たちは欧米人にまったく歯が立ちません。

たぶん、これから10年くらいのうちが、「賞をあげる側の国」になれるラストチャンスです。そういう国になるための、一歩を踏み出すのです。

外国からの観光客が増えて、喜んでもらえているようなのですから、まだ可能性はあります。外国人が評価してくれる、日本人の得意な世界で、「何が価値か」を打ち出していけるようになれないものだろうか。

たとえばマンガやアニメーションで、圧倒的に権威のある賞とか、できてもよさそうです。

でも宮崎監督や故高畑監督でさえ、外国の映画賞への参加を、おおいに喜んだりしていました。あの2人の監督は、ほんとうは外国人から賞をもらう側じゃなくて、アニメの分野では、世界のすぐれた誰かに賞をあげて励ます側でしょう。

そういう状態では、ぼんやりしているうちに、ラストチャンスを逃してしまう。

なにしろ、こういう大きな受賞があったとき、「賞をあげる国になろう」という人が、あまりいないのですから。

(以上)
関連記事
2018年03月26日 (月) | Edit |

世界史セミナー2018年3月24日その2

3月24日に、東京・西新宿で「世界史『超要約』セミナー」を開催しました。
当日は高校生も含む12名の方が参加してくださいました。ありがとうございました。

このセミナーは、私の著書『一気にわかる世界史』(日本実業出版社刊)ベースに、世界史5000年の最も重要な大きな流れを、2時間余りで「超要約」してお伝えするものです。

週末(土曜日)の開催なので、「親子・高校生も」と呼びかけたところ、お父さんと高校生・お父さんと若者といったご参加もありました。高校生(男子)のお父さんによれば、息子さんが世界史の履修を選択することになったので、参考になるものはないかとネットでさがして、本セミナーをみつけてくださったとのこと。

本セミナーは、受験勉強で高得点をめざす内容ではないのですが、しかし「世界史を学ぶ」ということの入門の役目は果たせるのではないかと思います。

高校生の方、若者の方が静かに熱心に講師の話に耳を傾けてくださっていたのは、私としてもたいへんうれしいことでした。

高2男子の方の感想にあったのですが、世界史については“カタカナが多くて教科書も時間軸がややこしくて頭に入ってこない”と感じていたとのこと。これはほとんどの人にとって、そうでしょう。

でも“このセミナーを聞いているうちに先入観を捨てて、少しずつ好きになることができました。特に文化などが国から国へと移り、新しくなっていく過程が気になったので、これから調べてみて、親しくなっていこうと思います。本当にありがとうございました”とのことでした。

こちらこそ、ありがとうございます。うれしいです。

本セミナーが「世界史入門」の役目を果たせるとしたら、それは「世界史は学べば面白そうだ」という感覚が得られる点にあると思っています。「面白そうだ」という感覚が、「入門」においては、一番大事です。

それも、テレビでたまにやっているような、人物のエピソードやびっくりするような事件の話で「面白い」というのではない。

そうではなく、「世界史そのものの大きな流れ」を感じてもらう。その感動や面白さを、ほんのさわりではありますが、お伝えすることが、本講座の目的です。

人物やエピソードももちろん大事で有効です。私には古今東西100人余りの偉人を紹介した『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン刊)という著作もあるくらいで、「人物」にはおおいに興味があります。でもそのことはまた別の機会に、と考えています。

人類の大いなる歩みに対する、感動・おどろき。

これは、世界史というジャンルだけが伝え得るメッセージです。

そのようなメッセージを伝えるセミナーをこれからも開催していきますので、よろしくお願いいたします。
今回のセミナーについていただいたさまざまな感想などについては、また今度ご紹介します。

 会場ベースポイント2018年3月
会場のカフェ「ベースポイント」(西新宿)

(以上)
関連記事
2018年02月25日 (日) | Edit |
ピョンチャンオリンピックが、閉会しました。

北朝鮮の参加、韓国との合同チームの結成では、「オリンピックの政治利用」をめぐっての話もありました。多くの場合「オリンピックの政治利用はいけないに決まっている」という前提で語られるわけです。

しかし、オリンピックというのは、本来の目的からして巨大な政治的装置ではないでしょうか。たんなるスポーツの祭典などではない。

もちろんスポーツ大会ではあるのですが、それを素材として、国際的な「平和」を演出することが、オリンピックの最も重要な特徴です。そこが多くの国際スポーツ大会とのちがいです。サッカーワールドカップでさえ、オリンピックとくらべれば、たんなるスポーツ大会です。

だからこそ、開会式や閉会式などの儀式的な面に、異様なまでに力を入れる。儀式を通じての理念の確認やメッセージの発信が、オリンピックでは大事なのです。

古代オリンピックは、その開催時期の3か月のあいだ、ポリス(ギリシアの都市国家)の間でなんらかの戦争が行われていても、停戦となっていました。

そのルールは、ポリス間の戦争が絶えなかったギリシア世界を、戦争の泥沼に陥らないようにする、歯止めの意味を持っていたはずです。

そのコンセプトを、近代世界において再現したのが、今に続く近代オリンピックです。それはひとつの社会的な発明でした。

オリンピックというのは、そもそも非常に政治的なものなのです。

戦争が絶えない国際社会のなかで、破滅的な戦争の歯止めに少しでもなれば、というのがオリンピックというイベントの果たすべき機能です。

それを実現するには、むき出しの国威発揚やナショナリズムはたしかにマイナスです。しかし、国家を代表する選手の対抗戦である。だから、話がややこしい。

オリンピックじたいは、本来政治的なもの。しかしそれは「国際協調」とか「世界平和」という政治目的であって、そのためには、個々の国家の国益を押し出すような政治利用は排除されるべきだ、ということ。

その点で、今回の北朝鮮や韓国の動きは、それぞれの国益や政治的意図があまりにも前面に出ていたので、問題視されて当然でしょう。

そのような各国の政治的利害を、ほんの一時であれ棚上げにして忘れさせてくれる(そんな気分にさせてくれる)ことこそが、オリンピックの目指す政治的機能であり、平和への貢献なのです。

スポーツそのものは、おそらく平和にはほとんど貢献しない。

しかし、スポーツを素材としたオリンピックという国際イベントは、世界の平和に対し、それなりの影響力を持つ政治的装置です。だからこそ、私たちの多くは、このイベントに妙にひきつけられるのです。

(以上)
関連記事