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 (2014年7月6日記す)


そういち自画像
      著者そういち自画像

ブログ「団地の書斎から」のテーマ

団地の小さな書斎で、たまには「大きなこと」について考える。

世界史の大きな流れ。時代の変化。政治経済などの世の中のしくみ。そして、時代や社会をつくった人びとの生きかた。
    
自分のアタマで考えること。「考え」を文章でどう表現するか。
  
古い団地をリノベして暮らしています。「リノベと住まい」もテーマのひとつ。暮らしの中の小さなたのしみについても。 
    
これらをわかりやすく・ていねいに書きたい。


●著者「そういち」について

社会のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後、運輸関係の企業に勤務し、事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら教育研究のNPOに参加して、社会科系の著作や講演で活動。その後、十数年勤めた会社を辞め、独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て、現在はキャリアカウンセラーとして就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。 


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団地の書斎のそういち
撮影:永禮賢
2020年08月05日 (水) | Edit |
吉村大阪府知事が、まだ検証も不十分な、イソジンなどのうがい薬の新型コロナ感染症への効果について会見で語っていた。これには驚き、がっかりした。

この人は科学が苦手なのだ。つまり、「科学とは何か」のごく基本的なところがわかっていないのではないか。

多くの専門家による確認作業のうえに成立するからこそ、科学というものは信頼できる。

ある科学者が「実験的にこういう現象や法則が明らかになった」と報告したとしても、それがすぐに「科学的な真理」として認められるわけではない。疑い深いほかの専門家が同様の実験などを積み重ねて、「ほんとうだ」ということを確認してからでないと、認められない。

このような「ほかの科学者による、確認のための実験・検証」を「追試」という。教科書に出てくるような科学上の原理や法則は、ぼう大な追試をくぐり抜けてきたものだ。だから「真理」として信頼できる。

それよりはやや信頼性が落ちるが、医療の世界で妥当とされる治療法や承認された薬も、相当な追試・検証を経ている。

これは、「科学とは何か」に関する、ごく初歩的な話である。それを知事が多少ともわかっていれば、この「イソジンの効果」を研究している医師自身が「研究の途中」と言っている件を、会見で広めるなどいうことはなかったはずだ。

仮に将来「イソジンには効果がある」ことが定説となったとしても、今の時点で吉村知事がその説を広めたことは適切ではない。

私は、吉村知事は「現場の実務」についての感覚では、小池都知事よりもよほどしっかりしているのではと感じて、その点では好感を持っていた。若い頃に弁護士として働いていただけのことはある、そこはテレビタレントから政治家になった都知事とはちがうなあと。

弁護士は、現場の事実関係に分け入り、さまざまな細かいタスクをこなさなければならない実務的な仕事だ(私は企業の法務担当として何度も弁護士と仕事をしたので、そこはイメージできる)。

しかし、そんな吉村知事でも「科学」という素養は欠けていたようだ。それも無理はないかもしれない。「科学は膨大な確認作業のうえに成り立つ」ということは、学校教育では十分に教えていない。学校で教えるのは検証を経た「結果」のほうで、そこに至るプロセスについては、あまり教えない。

しかし、こういう「科学とは何か」の基本については、理系だろうと文系だろうと本来は知っていなければならないはずだ。政治家などのリーダーであればなおさらだ。

しかし、吉村知事でさえこんな調子なのだから、私たちのリーダーの多くはきっと科学がトコトン苦手なのだろう。

小池都知事も、実務が苦手なだけではなく、おそらく科学も苦手だ(スピーチやキャッチコピーは達人だが)。

先日の会見で都知事は「家庭内感染の防止のため、歯磨き粉は別々に」という主旨のことを述べていた。なんだかあやしい話だ。そのことを知事はどこかで小耳にはさんだのだろう。しかしその話はどれだけの検証を経ているのか?

歯磨き粉という「洗剤(一般にはウイルスを壊す界面活性剤を含む)」の一種が入った容器を共用することに、どれだけのリスクがあるのだろう?プッシュ式の手洗いの石鹸容器を共用するのと、どれだけちがうのだろう?歯磨き粉のチューブにウイルスのついた手で触ることがあると危険だからか?でも、そういうことは歯磨き粉にかぎった話ではないはずだ。

そんな私のような素人でも突っ込みどころがある話を、軽々しく、知事が会見で話してはいけない。

***

そして、科学が苦手なリーダーほど、科学者を自分の召使のように考える。

政府(つまり総理・官邸)の、専門家への態度はまさにそうだ。たとえば以前の専門家会議を廃止・改組して今の「部会」があるわけだが、その廃止・改組について、尾身ドクターのような有識者の中心人物が事前にきちんと知らされていなかった。政府側が記者会見で「これまでの専門家会議は廃止」と発表するまで知らなかったのだ。たしかに「召使」には、そんなことを知らせる必要はない。

心配なのは、リーダーが科学者を召使のように扱ううちに、リーダーのもとで働く科学者たちが召使マインドになってしまうことだ。あるいは召使として適応できた人ばかりが残って、科学者としての気概を持つ人たちが去ってしまわないか。そうなったら、わが国の新型コロナへの対応から「科学」というものが決定的に欠落してしまうことになる。

専門家部会の尾身会長は、今のところ「召使としての適応」と「科学者としての矜持」のあいだで揺れ動いている。

「国のリーダーが科学が苦手」というのは、ほんとうに困ったことだ。ただし、そのようなリーダーの姿は、私たちのあり方を反映しているのだろう。うがい薬は売り切れ続出のようだ。

(以上)
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2020年07月27日 (月) | Edit |
手洗い・マスクなどの努力

「ファクターX」とは、ノーベル賞の山中伸弥教授による言葉で、「新型コロナウイルスの感染拡大が、これまでのところ、日本で比較的抑えられた原因」のことだ。それがよくわからないので「X」という。

ファクターXの候補のひとつとして言われるもののひとつに、「手洗いの励行やマスク着用、外出自粛などの個々人の努力」ということがある。

たとえばマスク。今現在(2020年7月現在)、少なくとも都会では、日本人のほとんどは外出時や仕事中にマスクをしている。

しかし、報道をみると欧米ではマスクへの抵抗感は強く、「マスクを強制すべきか否か」についての議論がなかなか決着しない様子だ。

当局がマスク着用を呼びかけたり義務化したりしても、それに従わない人たちがいる。アメリカやブラジルのように、大統領がマスクに抵抗している国もある。そして、マスクに抵抗するような人たちが、どこまでこまめに手を洗っているのか、かなり不安な感じがする。


「感染は自動時得」と思うか

では、なぜ多くの日本人はマスクを着け、手洗いをまじめに行うのだろう?

これも、多くの人が薄々は感じていることだと思うが、世間体を強く気にする「同調圧力」が大きく作用しているのではないか? 

もちろん「病気が怖い」ということはあるわけだが、それに加えて「マスクをするなどして、しっかり対策しています」というスタンスでないと、周囲から冷たい目でみられてしまう、という意識があるのでは、ということだ。

このことは、「たぶんそうだろう」と思っても、立証はむすかしいところがある。しかし、そこに関係する研究を新聞記事で知った。

それは、三浦麻子・大阪大学教授らの研究グループが行ったもので、コロナなどの感染症について「感染は自業自得だと思うか」について各国の人たちに行ったアンケート調査である。

この調査は“3~4月、日本、米国、英国、イタリア、中国の5か国で各400~500人からインターネットで回答を得た”もので、“「感染は自業自得だと思うか」の質問に「全く思わない」から「非常に思う」まで6段階で尋ねた”。

その結果「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」の3つのいずれかを選んだ人の割合は、つぎの通りだった。

日本11.5% 中国4.83% イタリア2.51% イギリス1.49% アメリカ1.0%

また、“反対に(感染が自業自得だとは)「全く思わない」と答えた人は“他の4か国は60~70%だったが、日本は29.25%だった”。

この結果について三浦教授は“日本ではコロナに限らず、本来なら「被害者」のはずの人が過剰に責められる傾向が強い……こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている”。

(読売新聞オンライン2020年6月29日『「コロナ感染が自業自得」日本は11%、米英の10倍……阪大教授など調査』より)


感染したときの社会的非難への恐怖

「感染は自業自得」という人の割合は、最も高い日本でも11%であり、全体からみれば少数派ではある。しかし、米英とくらべてその割合は10倍も高い。やはり日本と米英ではこの件に関し、大きな意識の違いがあることはまちがいないだろう。

つまり、日本ではコロナ感染は、責められるべきことなのだ。非常に「世間体が悪い」のである。

日本人の多くがマスク着用や手洗いをしっかり行うのには、単なる衛生観念だけでなく、このような社会心理的なものが作用しているのではないか?

つまり、「病気への恐怖」だけでなく、「感染したときの社会的非難への恐怖」がマスク着用や手洗い励行の大きな原動力となっている。


個人主義が弱い社会

日本社会には、周囲の目や世間体を強く気にして人に合わせようとする「同調圧力」的な雰囲気が存在する、とよくいわれる。私も経験的にそれはあると思う。

日本では、コロナに感染した人は感染症の被害者ではなく、「自分のせいで世間に迷惑をかけた者」とみなされる。「世間に迷惑をかける」というのは、「同調」からの逸脱である。そんなふうに考えるのは、それだけ同調圧力が強いということなのだろう。

同調圧力が強いというのは、個々人の価値観や判断を打ち出しにくい、「個人主義」が弱い社会だということだ。

そして、この個人主義の弱さは、感染症対策にはプラスに働く。政府が強権を発動しなくても、お互いに世間体を気にしてマスクを着けてこまめに手を洗い、さらにそのほかの行動を自粛する社会は、たしかに感染症を食い止めるうえでは有利なはずだ。

あるいは、個としての意識が弱いならば、マスクをつけることや、さまざまな予防を行うことを「弱さ」として忌み嫌う「強い人間」志向が邪魔することも比較的少ない。

以上をまとめると、「感染症の拡大をおさえるファクターXの根底にその社会の“個人主義の弱さ”という要素があるのでは」ということだ。


各国の人口あたりの感染者数

では、ほんとうに「個人主義が弱い」国では「個人主義が強い」国よりも感染拡大が抑えられているのだろうか?

以下は、2020年7月22日時点の「人口10万人あたりの新型コロナウイルス(累計)感染者数」の各国比較である。(日本経済新聞のウェブサイト「チャートで見る世界の感染状況 新型コロナウイルス」より)

米国1195人 ブラジル1048人 スペイン569人 ロシア541人 イタリア405人 フランス272人 韓国27人 日本21人 中国6人

※日経新聞のこのサイトにはデータがないが、ドイツと英国について同様の計算を私そういちが行ったところ、ドイツ 240~250人程度 英国 440~450人程度

どれだけ感染が拡大・蔓延したかの国際比較は、感染の絶対数ではなく人口あたりでみるのが良い。


先進国のあいだで状況が違う

今回の新型コロナの感染拡大で印象的だったことのひとつに「アメリカや西欧の主要国のような、医療や保健衛生が発達している先進国での蔓延」ということがある。

しかし、同じく先進国あるいは準先進国といえる日本、韓国、中国(そして台湾も)では、感染は比較的抑えられている。

感染症の蔓延というのは、一般的には発展途上国でより深刻であり、経済発展の進んだ社会は感染症への抵抗力があるというのは、基本的には正しいだろう。

清潔な水や石鹸もろくに手に入らない人が多くいるような社会では、感染症が深刻になるのは当然だ。

そして、アフリカなどの発展途上国の感染者数のデータは、調査・把握ができないためにおそらく過小になっている。だから、先進国のデータと一緒に比較はできない。

一方、先進国あるいは中国のような「新興国」レベルにまで発展している国ならば、感染者数について一定以上の把握ができているので、一応は比較可能と考えていい。その比較のなかで、欧米の人口あたり感染者が多く、日本、韓国、中国の感染者が少ないのは顕著な傾向だ。つまり、先進国のあいだで状況が違うのだ。

ただし、ここでいう「先進国」は、人口数千万(4000~5000万)以上の大国であり、北欧諸国やニュージーランドなどの人口数百万規模の国は含まない。

これらの小規模な先進国は、政府の方針を徹底しやすく、国民の団結も強固な傾向がある。そこで、感染症対策において大国とはかなり条件がちがうのではないか。そこで、ここでの考察からは除外する。また、人口2000万人台の台湾やオーストラリアは「中間型」といえるが、これも一応除外である。


「個人主義の弱さ」という共通性

日本、韓国、中国――これらの東アジアの国ぐに共通していることは何か?

まず、個人主義の弱さということ。

ここでいう「個人主義」をもう少し説明すると、「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」だ。こういう価値観のもとでは他人の価値観や意思も尊重しないといけないということになる。また、自分の考えに基づいて組織や社会のために行動することと個人主義は矛盾しない。

これは、自分の利益ばかりを考える「利己主義」とは区別される。米国や英国は欧米のなかでも、とくに個人主義が強いといわれるのはご承知のとおり。

一方韓国は、日本と同様に、あるいは日本以上に世間体を気にする「個人主義の弱い」社会なのではないだろうか。特別な情報・知識がなくとも、多少ニュースなどをみているだけでも、そのことは伝わってくる。それは日本と似たところがあるからだろう。

不祥事を起こした韓国の著名人の謝罪会見などの様子は、まさにそうだ。「世間をお騒がわせして申し訳ない」という感じ、世間様に吊し上げられている感じが場合によっては日本以上に強くなっている。

それにしても、三浦教授らはほんとうはぜひ韓国についても「感染は自業自得か」の調査をしてほしかった。

中国はどうか。中国人はかなり個人主義的だともいわれる。ただしそれは「家父長や社長、国家のリーダーなどの権力者が圧倒的な力を持っていて、その権力者にバラバラの個人が服従して束ねられている」という独裁国家的な社会のあり方に根ざしたものだという見解がある(たとえば、益尾知佐子『中国の行動原理』中公新書)。

中国に「個人主義」の傾向があるとしても、それは欧米的な「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」とは異質なものだということだ。

三浦教授らの調査で「感染は自業自得」とする人の割合が中国は約5%と、1%台の米英にくらべて大幅に高く、調査対象のなかで日本と米英の中間的なレベルにあるのは、中国が欧米とは異質であることを示すひとつの材料だろう。


もう一つの共通性「一定の経済発展」

そして、このような「個人主義の弱さ」に加えて、もうひとつの要素が日本、韓国、中国にはある。

それは「経済発展」という要素である。産業・経済が発達していて、感染予防のためのさまざまなリソースを多くの人たちが利用できる条件が備わっているということだ。

これは、たとえば同調圧力のもとで「マスクをしなければ」ということになれば、それを比較的スムースに実行できるということだ。発展途上国では、たとえ同調圧力があったとしても、なかなかそうはいかない。マスクなどのいろんなものが手に入りにくい。一方欧米では、マスクが入手できるとしても、自分の考えからあえてそれをしない人たちがいるわけである。

なお、今の中国も、完全に先進国とはいえないが、先進国に準じた技術や工業力を持っている。分野よっては欧米や日本を凌ぐ力がある。先進国に及ばない面があったとしても、独裁国家ならではの力の結集や人民への強制力によってカバーができる。


「東アジア的社会」というカテゴリー

日本、韓国、中国には、もちろん違いがある。しかし、「個人主義の弱さ」「一定以上の経済発展」という2点については、この3国は共通している。その2点についても、個人主義の弱さの具体的な中身や、経済発展の度合いなどに違いはある。

しかしこれらの東アジアの3国は、欧米(とくに米英)のような個人主義の伝統が強くある国ぐにとも、経済発展が不十分なアジア・アフリカの発展途上国とも明らかに異なる、独特なカテゴリーとなっている。

これは「東アジア的社会」といったらいいだろうか。このカテゴリーには、台湾もおそらく含まれるだろうし、東南アジアの一部の国も含まれるかもしれない。

以上、「個人主義が弱く、かつ経済発展の進んだ国=東アジア的社会で、コロナの感染が比較的抑えられている」というのが結論である。

この2つの要素・条件はかなり漠然としていて、「ファクターX」といえる次元のことがらではないかもしれない。しかし、ファクターXを成り立たせている(かもしれない)社会の基本条件とはいえるだろう。

これは、「当たり前じゃないか」と言われてしまいそうな結論ではある。「個人主義」も「経済発展」も、社会を論じるうえではごくありきたりの概念だ。しかし、ここで述べた「当たり前」のことも、じつはあまり明確には述べられていないのではないかと、私は思っている。


「東アジア的アプローチ」と「合理的アプローチ」

そして、気になるのはここでいう「東アジア的社会」は、これからもコロナ感染症との戦いで、欧米よりも優位であり続けるかどうか、ということだ。

私はこのような東アジア的なアプローチには、限界があると思っている。コロナとの戦いで最も強いモデルは、これではない。最強なのは「当局が明確で科学的・合理的な方針を打ち出し」かつ「国民の多くがそれに自発的に合意・納得して協力する」というかたちのはずだ。

これまでの欧米では、この2つのうちの片方もしくは両方に弱いところがあった。未知のウイルスに対して科学的・合理的な方針を打ち出すことには困難が伴ったし、そのような状態では危機意識に個人差があるのも当然だった。そこで、個人主義的な国民は必ずしも当局の方針に従わなかった(マスクの件は典型的だ)。

しかし、このウイルスとの戦いでの経験値が増すにつれて「当局の合理的方針」と「合意・納得に基づく国民の協力」の2つが機能するようになっていくのではないか。

このようなあり方は「合理的アプロ―チ」とでもいえばいいだろうか。

たとえば新型コロナの感染者が今のところ(2020年7月下旬現在)激減してきたニューヨーク市の状態は、そのような「合理的アプローチ」による事例の先駆けなのかもしれない。ニューヨークでは、一時は感染が蔓延したものの、最近は大量のPCR検査、3000人もの専門スタッフによる感染者やその周辺の行動の追跡、感染者・濃厚接触者の隔離といった対策を行う体制整備を着々とすすめていた。このことは、最近さかんに報じられている。

そして、韓国(そして台湾)には、「東アジア的アプローチ」だけでなく、「合理的アプローチ」の要素もあったのである。一時よく報道されたような、感染者の検査・隔離・追跡などについての運営の様子をみれば、それは明らかだ。


日本での「合理的アプローチ」の弱さ

日本では、残念ながら「合理的アプローチ」の要素は弱かったといえるだろう。

だから「何で日本はこんなに感染者が少ないのだ」と世界から言われるのだ。「アベノマスクみたいな政府の不合理な対応や不手際が目立つのに、なぜ?」というわけだ。「ファクターX」というのも、そういう問いかけの一種ともいえる。日本は最も純度の高い「東アジア的アプローチ」の事例なのだ。

7月下旬現在の日本の状況は、弱い個人主義や同調圧力のもとでの「東アジア的アプローチ」の限界を示しているのかもしれない。政府は相変わらず系統だった方針を打ち出せていない。「感染対策をしっかりと」と呼びかけながら「旅行に行こう(ただし東京は除く)」と言っている。

また、当局には明確な軸がないので、目の前の事象に反応するばかりという面が強く、感染が再拡大した将来に備えての体制整備もあまりしてこなかった。そのことは、最近(7月)になってはっきりしてきた。

日本の私たちは、コロナ禍をのり越えるために、これまでの「東アジア的アプローチ」を卒業して「合理的アプローチ」に移行しなければならないはずだ。しかし、できるだろうか?

私たちは(とくに指導者は)過去の成功体験にこだわる傾向が強いので不安だ。もしもその移行ができなければ、遠くない未来に欧米、韓国、中国、台湾でコロナが終息したのをみながら、自分たちはまだ苦しみ続けるという事態になってしまうかもしれない。

そのときには「日本で感染が抑えられた原因=ファクターXは何か」などという議論は、まったく消えてしまっているわけだ。そんな未来はほんとうに避けなければならない。

(以上)
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2020年06月27日 (土) | Edit |
今日6月27日発売の雑誌『プレジデントウーマン プレミア』2020年夏号(プレジデント社)に、私そういちへの取材をもとに感染症の歴史について概説した記事(世界を変えた「感染症の歴史」スピード講義)があります。4ページほどのコーナーです。

4月に取材を受けて、世界史における感染症について1時間余りお話しをして、それをライターの池田純子さんがまとめたテキストを、私のほうでも確認をして(さらに編集や校閲のチェックもあるわけです)……といったプロセスでつくられた記事です。本文とリンクした「主な感染症の歴史」の年表もあるのですが、こちらの原案も作成しました。

取材のときは、あらかじめ私のほうでは手持ちのレジメをつくって、それに沿って講義のように、来てくださった編集者やライターの方にどんどんお話をしていきました。当時、お休みしていた妻の書道教室の部屋を借りて、全員マスク着用で、3mくらい互いに席を離して、窓を全開にしてというシチュエーションでした。

取材の最後に編集者の方からは「濃密な講義を受けている感じでした」との言葉をいただきました。そのような1時間分の「講義」を、大幅に圧縮した内容になっています。

このときの取材で話した内容は、別ブログ「そういち総研」でも記事にしましたが、こちらは商業誌のきめこまかい編集によってまとまられた美しい誌面です。そういう、多くのプロの技術や労力の詰まった、紙の雑誌の良さを感じていただけると思います。

感染症の歴史については、私も世界史の一環として一定の認識はありましたが、特別に重視していたわけではありません。しかし、今回のコロナ禍をきっかけに、意識して勉強するようになりました。その矢先、今回の取材のお話があったので、積極的にお引き受けしました。貴重な機会をいただいたと思います。

記事本文は、こう始まります。

“そもそも感染症は、文明とは切り離すことのできない副作用です。つまり多くの人間が密集して暮らす“都市化”、そして遠く離れた地域と交流を持つ“グローバル化”という2つの文明の要素が、激しい感染症の被害という副作用をもたらすということです”

この視点で、文明の始まりの時代から現代までの感染症の歴史について、ざっと見わたしていきます。いろいろ網羅して詳しくというのは無理ですが、10分くらいで読める感じでかいつまんで述べています。

プレジデントウーマンさんには、以前に同誌の「歴史と経済」の特集で取り上げていただいたことがあります。私の著書『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)などをもとにした世界史を概説するページづくりに、今回と同じようなかたちで関わりました。そのご縁で今回の取材もあったのかと思います。

今本屋さんに並んでいますので、よろしければ手にとってご覧ください。


プレジデントウーマン表紙


プレジデントウーマン感染症 見開き

記事の最初の2ページ。紙の汚れのようなものは、そういうデザイン。

(以上)
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2020年05月27日 (水) | Edit |
つい先日、緊急事態宣言が全国すべてで解除になったので、これまでについての検証をしてみよう。まだまだコロナ禍の問題は続くだろうから、とりあえずの中間的な検証だ。

といっても、政府の対応についてではなく、自分が今回の各時点で事態をどうとらえたか、ということ。自分に対する検証である。

おととい(25日)の記者会見で、安倍総理は「今の時点でこれまでの政府の対応についての検証はしないのか」という質問に対し「今はしない。事態が収束してからだ」という答えだった(でもWHOに対しては、このあいだ「これまでの対応を検証すべきだ」と主張した国のひとつだし、このときの記者会見でもその話をしていた)。

こういう、検証や反省を避ける姿勢は良くないなと思ったので、自分は自分のことを検証してみようと思ったしだいです。

検証の材料としては各時点で書いたブログがある。2月以降、当ブログと別ブログの「そういち総研」で書いた記事(あわせて10数本、そんなに書いてないけど)のほとんどはコロナ関連だ。

最初にコロナのことを書いたのは、2月下旬。別ブログ「そういち総研」で、コロナウイルス対策からみた中国と日本の社会構造の比較というテーマで長文の記事をアップした(2月23日)。中国は専制(独裁)国家であり、日本は集団・組織のあいだの調整を重視する「団体構造」の社会で、そのことが今回のコロナへの対応でも端的にあらわれている、という内容だ。この記事を紹介する記事を、当ブログでも書いた(2月24日)。

専制国家・中国の社会構造と行動の特徴←2月23日の「そういち総研」の記事

この頃の記事を読み返すと、「コロナ問題をまだまだ対岸の火事だと思っていたなあ」と感じる。

この記事の切り口は、「コロナ問題は中国をおもな舞台として今後も進行する」というイメージに基づいている。コロナウイルスが中国を超えてあれだけの猛威を振るうとは予想していなかった。1か月後にオリンピックの延期が決まるなんて、思っていなかった。

また、今回のコロナの問題が展開しだいでは、習近平の支配に大きなダメージを与える可能性についても述べた。しかし、中国政府は今のところコロナをかなり抑え込んだようなので、習政権の明らかな危機ということは起こっていない。

記事のなかではそれほど踏み込まなかったが、当時の私は、中国での混乱の拡大・深刻化や、それが政権を揺るがすという可能性は、相当にあるとイメージしていた。そういう展開が短期間のうちにはっきりするかもしれないと。習政権自身が、少なくとも2月にはその危機感を強く持っていたはずだ。

しかし、思っていた以上に中国の独裁体制はしぶとかったようだ。それどころか、中国のような相当な国力を持った独裁体制は、強力な感染症対策を推進しやすい一面があるということが、今回の件で明らかになった。少なくとも短期的にみて、政権が大きく揺らぐ様子は、今のところみられない。

ただし、中期的には経済不振や感染拡大の再燃が深刻化する可能性はあるので、中国の体制にとって強い緊張感は続くのだろう。独裁国家の権力者は、権力の座を追われたら命さえ危なくなるので、その緊張感は先進国のリーダーとは比較にならない。

ここまで「予想やイメージどおりではなかった」という面について述べた。でも、2月23日の記事で、つぎのところは今も有効な見方だと思っている。(以下、赤い文字は記事からの引用)

“一方、新型コロナウイルスの問題に対する日本社会の反応はどうか。これは「縦に連なる重層的な関係性」で成り立つ「団体構造」ならではのことになっていると思う。「縦に連なる重層的な関係性」というのを私なりに補足すると「さまざまなレベルの中間団体に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって社会全体が構成されている」ということだ。

こういう社会は、手慣れた問題だと、さまざまな組織(中間団体)の間の連携や協力がスムースに行われるが、未経験の問題に対しては、お互いの組織の立場や利害に配慮するあまり、現場が身動きしにくくなる傾向がある”


このような日本社会の特徴は、その後のコロナ対策にずっとマイナスの影響をあたえつづけた。私たちは、2月以降のさまざまな局面で、総理をはじめとするリーダーが「スピード感をもって調整していきます、再来週をめどに…」みたいなことを言うのを見聞きしてきた。これからもそれが続く可能性はおおいにあるだろう。

そして、ここでいう日本的な「団体構造」の特徴としては、「明確な方針や責任感をもったリーダーシップの不在」ということもある。このこともその後の政府中枢の様子をみていると顕著だった。しかし、この点についての認識は、2月下旬の時点ではまだ不十分だったと思う。

一方で、この2月下旬の記事では、こうも書いた。

“しかし一方で、日本人は目的やなすべきことが明確ならば、お互いに「調整」を重ねたうえでということになるが、立場を超えて協力しあうことも得意なはずだ”

これは、緊急事態宣言後にさまざまな事業者や多くの個人が「自粛」に協力した様子をみれば、当たっていたイメージだと思う。

ただし、このときの私は(記事では述べていないが)、日本社会における「立場をこえた協力」のひとつのあり方として、「日本株式会社の団結」ということもイメージしていた。

つまり、日本の主だったメーカーや総合商社などが、この問題への対応で何か大きく貢献してくれるのではという期待だ。医療機器の生産、あるいは物資の調達などで、こうした企業が目立った動きをするのではないかと。

ところが、こういう「日本株式会社の団結」は、不発だった。もちろん、社会を維持するうえでさまざまな企業が努力していたのはたしかにちがいないが、プラスアルファの大きな何かは、ほぼみられなかった。

とくに、最近のトヨタのCMで「関連会社でフェイスガードをつくっています」みたいなことを言っているのをみると、そう思う。世界のトヨタがそんなものか、と残念な気になる。トヨタは自分で医療系の何かをつくるのではなく、医療機器のメーカーにトヨタ的な生産管理を指南することにしたのだそうだ。「お茶を濁す」とは、こういうことをいうのだろう。

シャープは自社製マスクをネット販売しようとしてシステムダウンしてしまった。ユニクロはようやく夏の販売開始をめどにマスクをつくりはじめたとのこと。伊藤忠商事はアベノマスクの調達に尽力したが、いろいろうまくいかなかったようだ。うーん…

日本株式会社が今回のコロナ禍で、めざましい動きができなかったことについては、専門性のちがいなど困難な事情も多々あっただろう。自動車メーカーにいきなり医療系のなにかで貢献しろと言われても、ということだ。でも、ほんとうに「ムリだ」で終わっていいんだろうかと、今も思う。もしも「さすがはトヨタ」といわれるような何かができたなら、トヨタ自身も得るものは大きかったはずなのに。

日本株式会社は、やはり活力が落ちているのだ。それはわかってはいたが、思っていた以上だったのだと、今回感じた。

このことをマスコミは言わない。とくにテレビはスポンサー批判になるのでまったく言えない。日経新聞では、外国の記者がこの「日本株式会社の不発」について言及しているのをみかけたことがあるが。

検証・反省すべきことはこのあと3月、4月、5月の分と続くのだが、長くなってきたので、いったんこのへんでやめておこう。ただ、2月頃の、日本で事態の深刻化が明らかになる以前の「見立て」がどうだったかは、とくに重要だ。

こういうふうに自分について一定の検証・反省ができるのは、「ぜんぜんダメだったわけじゃない」「甘いところや間違いもあったが、正しいところもかなりあった」と今も思えるからだろう。

これが「全然ダメだった、間違いばかりだった」ということになると、検証なんてまっぴらだと思うにちがいない。検証などしたら、ボロボロになってしまう。今の安倍総理の認識は、そういうことなのだろう。

(以上)
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2020年05月12日 (火) | Edit |
今日5月12日は、フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910 イギリス)の誕生日だ。しかも生誕200年。コロナ禍の今、人びとの命と健康を守るために多くの仕事をした彼女のことを、ぜひ取りあげたい。(このブログでは過去にも取りあげたことがあるが、あらためて)

ナイチンゲールは何をした人だったのか? 多くの人を救った立派な看護師? 

それはまちがいではないが、不十分な答えだ。

ナイチンゲールは、看護という専門分野の確立者である。彼女以前には、看護という仕事は、専門知識や高いスキルを要するとは思われていなかった。「誰でもてきる」と誤解されていた。しかし、彼女が看護の現場でリーダーとして活躍し、さまざまな改革を行い、看護師を養成する学校を立ち上げ、当局や世論に働きかけたことによって、変わった。

ナイチンゲールが有名になったのは、クリミア戦争(イギリス・トルコなどとロシアの戦争、1853~1856)で、イギリス軍の野戦病院の看護婦長として活躍したときからである。当時の彼女は30代半ば。

彼女が派遣される前、スクタリ(戦場となったトルコの地名)の野戦病院の管理・運営はガタガタだった。不衛生な環境に多くの傷病兵が詰め込まれ、薬品その他の医療物資が不足していた。食事の質にも問題があった。このため、病院内では「本来は死なずにすんだはずの患者」が、おおぜい亡くなっていた。

彼女は病院の管理体制を立て直して、多くの兵士の命を救ったのである。彼女が率いる看護師チームは、病院内を清掃し、寝具や衣類を清潔に保ち、さまざまな医療物資を調達し、食事を改善した。この改革を、私たちが一般に「看護師の仕事」と思う患者のケアを行いながら、すすめていった。

しかし、この「立て直し」は、戦いの連続だった。イギリス陸軍という官僚機構との戦いである。

当初、陸軍当局は病院の管理に問題が生じていることを認めようとはしなかった。「物資は十分に行きわたっている」と言い張った。現場から「もっと物資を」と訴えても、積極的に動こうとはしなかった。いざ何かを調達するとなっても、陸軍の部署間のさまざまな調整や手続きが煩雑で、なかなか進まない。ナイチンゲールたちを敵視する、反改革派の妨害もあった。ナイチンゲールを誹謗中傷するウソだらけの「秘密報告書」が出回った。

しかし、新聞の現地取材や報道によって、世間は野戦病院のひどい状況を知るようになった。ナイチンゲールたちが求めるさまざまな救援物資を送るための「基金」がつくられ、多くの資金が集まった。ナイチンゲールも、いろいろ手配をして独自に物資を調達した。彼女は上流階級の出身で、政界や実業界に少数派ではあるが支援者がいたので、そういうことができたのだ。

しかし、そうやって寄せられた物資を、陸軍の官僚たち(一部の軍医も含む)は活用することを拒んだ。「物資は足りている」と言ってきた自分たちの体面を気にしたのである。せっかく届いた物資(栄養補給のためのライム果汁)が、1か月間まったく支給されないまま、ということもあった。これは、ライム果汁が「支給規則」のなかの項目に含まれていないためだった……

以上はほんの序の口である。ナイチンゲールのクリミア戦争における活躍では、切迫した現場での「腐敗し、硬直化した官僚機構との戦い」が延々と続く。

それでも、あの手この手でなんとか戦いを続けて、彼女は成果をあげていった。たんに「戦う」だけでなく、現場の医師たちとの信頼関係構築には、気を配った。現場での取り組みのほかに、政府高官の支援者と連携して、世論に訴えるさまざまなキャンペーンや権力者への根回しも行った。

また、環境の変化と死亡率の相関関係など、現場で起きていることの統計的分析にも力を入れている。のちに彼女は野戦病院の状況について、数値やグラフを駆使した詳細な報告書を作成・公表している。彼女は、こうした統計研究の先駆者でもある。

ナイチンゲールは、「白衣の天使」という表現などではとてもおさまらない、ものすごい人だった。今の世界には、「ナイチンゲール」がもっと必要なのかもしれない。

ただし、それは命がけの現場で献身的に働く医療・看護のスタッフという意味での「ナイチンゲール」ではないのだろう。そのような現場を支えるために戦う指導者としてのナイチンゲール、ということだ。

だから、医療従事者に限らず、政治家や官僚やそのほかのリーダー的な人が「ナイチンゲール」にぜひなってほしいし、誰かがならないといけない。そういうリーダーがいたら、私たちはぜひ応援していこう。でも、どこにいるのだろう?きっと、社会のあちこちのどこかで戦っているはずなのだが……

(以上)

参考文献
板倉聖宣,松野修編著『社会の発明発見物語』仮説社(1998)、長島伸一著『ナイチンゲール』岩波ジュニア新書(1993)、多尾清子著『統計学者としてのナイチンゲール』医学書院(1991)
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2020年05月06日 (水) | Edit |
このゴールデンウィークは「ステイホーム」ということで、近所のスーパーに買い物に行った以外はほぼ外出せす、家にこもっている。ただ、私はもともと週末は家にこもって読んだり書いたりしていることが多いので、それとあまり変わらないのかもしれない。

でも、これほど徹底して閉じこもることはなかった。それに、緊急事態になる前の「ステイホーム」は、どこかへ出たくなれば、いつでもそれができるという自由があったけど、今はちがう。

おとといの午後、その何日か前にアマゾンで注文した本が届いた。メールで知らせがあったので、玄関のドアをあけると、本の入った封筒が置いてあった。このところ、そういう配達の仕方になっているようですね。

届いた本は、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店(2006)。第一次世界大戦末期の1918年から終戦直後の1920年まで世界的に流行した「スペイン風邪」といわれるインフルエンザの、日本での状況についての研究書だ。

「日本におけるスペイン風邪」をテーマに1冊の本を書いたのは、今のところこれだけなのだそうだ(ほかに、同時代の政府資料を復刊した『流行性感冒』平凡社というのはある)。著者の速水さんは、歴史人口学の大家である。

スペイン風邪は、史上最悪のパンデミックのひとつである。これによって全世界で5000万人、日本では40万人ほどが亡くなった(ただし、数字は諸説ある)。

この本を、ゆうべ遅くにざっと読み終わった。たしかに、今の新型コロナの状況と重なりあうところがある。

日本の場合、海外で先に起こっていた流行について情報の不足や分析の誤りがあり、対策が後手にまわった。政府として多少とも動き出したのは感染がすっかり広がってから。国家としての対策の支出は、驚くべきことに、ほとんどなされずじまい。劇場、デパートのような街中で人の集まる場所の閉鎖措置は(例外はあるが)とられなかった。政府の動きは鈍かった。

政府は予防キャンペーンのため凝ったイラストつきのポスターを8種類もつくっているが、実効性があったとは思えない。「政府も何かやってます」というアピールがしたかったのか。政府に苛立つ与謝野晶子のような有名文化人のエッセイも残っている。

一方、治療や予防に奮闘した町のドクターがいたことも、記録に残っている。当時はウイルス学も確立しておらず、この病気の正体はわかっていないので、医師にできることはほんとうに限られていた。しかしそれでも当時なりにワクチンや治療薬を試す動きもあった(それらには結局効果はなかったが)。

また、「飛沫で感染する」「人との距離を置く」「うがい・手洗い」「マスク着用」といった、今のコロナと基本的には変わらない予防策が新聞で述べられていたりもする。病人の熱をさますための氷が不足して品薄になり、値段が高騰している。

そして、スペイン風邪には、数え方にもよるが、第2波があった。いったん沈静化したあと、再度流行があり、第1波に匹敵するかそれ以上の大きな被害をもたらしている。これは、コロナの今後を考えるうえでも重要な情報だ。

スペイン風邪のことは、おもにこの本をもとに、いずれ長文の記事にまとめてみたいと思った。

なお、この本の著者の速水さんは、2019年の12月に90歳で亡くなった。もしご存命なら、今頃マスコミから多くの取材があったことだろう。速水さんがこの本を書いたのは2005年頃。当時、新型インフルエンザの脅威が取りざたされるようになり、数十万人が亡くなったスマトラ大津波(2004年)の惨事があった。そんな中、ほとんど知られていない「日本におけるスペイン風邪」について研究する必要を感じたようだ(同書、序章)。先見の明があったのだ。

***

あと最近、戸部良一ほか『失敗の本質』中公文庫(1991、原著1984)を読み返している。

本の副題にもあるが、第二次世界大戦のときの日本軍(陸軍・海軍)の失敗について組織論的に研究した本である。当時の軍隊や軍事情勢に詳しい歴史家と、経営や組織論の研究者らによる共同研究。いろんなところで言及される、あるいは話の元ネタにされる、現代の「古典」といえる本。

この本は、日本社会に何かの大きな危機があって、リーダーが迷走するたびに、再読されるのだと思う。東日本大震災のときにも、当時の政府をこの本の視点から批判する動きもあったのだそうだ(同書のビジネスマン向け解説書、鈴木博毅『「超」入門  失敗の本質』より)。

「今のコロナ対策における政府は、戦前・戦中の日本軍のようだ!」と糾弾するつもりはない。ツイッターなどで、強い言葉でそう言っている人はたくさんいるにちがいない。そういうのに加わりたいとは思わない。

しかし、当時の日本軍の失敗は、日本の大組織やトップリーダーが失敗するときの「典型」「極致」を示していると思う。つまり、失敗するときには、「日本軍的」なことを多かれ少なかれやらかしている。私たちや私たちの選んだリーダーは、深刻な危機のときに「日本軍的」な失敗をしがちなのだと、警戒すべきだ。そのための「チェックリスト」を、この本『失敗の本質』は提供してくれているのだと、私は思う。

では『失敗の本質』では、どんなことに「要注意」だと言っているのか。

目の前のことばかりの「短期志向」でグランドデザインがない。現実を無視して自分たちの思い込み、情緒、忖度、楽観的見通しに基づいて戦略を決める。情報収集と活用の軽視。対策・手段の幅が狭く「いつものやり方」をくり返す。現実が変化しているのに、過去に「正しい」とされたやり方に固執し続ける。多くの犠牲が出ても、頑としてやり方を改めない。そういう人間が要職であり続ける。

意思決定を支配するのは「空気」。明確なリーダーシップを欠いたまま、責任が不明確なまま、ものごとがすすんでいく。

「目標は何か」があいまいで、戦略目標を数値などで客観的に示すことができない。とにかく定量的な検討や判断が苦手。ロジスティックス(資材・食糧の調達)を軽視して、根性主義の精神論がまかりとおる。

誰もが扱えるシステムや技術よりも、必死の努力による「名人芸」「職人技」を偏重。ある面ではすぐれた技術を持っているのに、トータルのバランスを欠いている。

能力・職務による客観的な人材登用ではなく、閉じた人間関係によるエコひいきの横行。作戦を立てる司令部と現場の距離があまりにも遠く、司令部が現場を知らない…

レベル感も不ぞろいで、順不同なのだが、同書にあった項目として、とりあえずこんなことが思い浮かぶ。

うーん、どうだろうか。今の日本政府は、もちろんかつての日本軍のような最悪ではない。もっと正常だと思う。しかし、「失敗の本質」的な失敗の周辺を、うろうろしているところもみられるように思う。あるいは「失敗」に片足を突っ込んでいるのでは、と心配になる。このことも、いずれもう少し踏み込んでまとめてみたいが、時間がないかも。

***

先日、別ブログ「そういち総研」に新しい記事をアップしました。このところ、「感染症とは人類にとって何か」という視点で複数の記事をアップしていますが、これは一応の「まとめ」といえるものです。
↓以下をクリック

感染症によって、世界はどう変わってきたか。新型コロナ以後どうなるのか

(以上)
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2020年04月26日 (日) | Edit |
今回の新型コロナウイルスの問題に関して、政府や人びとに求められるのは「科学的に理にかなった、なすべきことを行う」ということだろう。あたりまえといえばあたりまえだが、やはりそれしかない。

でも、その「あたりまえ」は、じつはいろんな要素によって妨げられているのかもしれない。国の指導者にしても「科学的に問題に対処する」以外のことを大事にしている様子がみられないだろうか?

何がその「妨げ」になるかは、国によってちがいがあり、そこにそれぞれの国の特徴があらわれている。

例えば中国では、感染拡大の初期に情報の隠蔽があった。未知の感染症が広がりつつあることに警鐘をならした医師を弾圧したりもした。

中国の独裁的な体制では、権力者にとって不都合な情報が隠蔽されるのはよくあることだ。不都合な事実を速やかに認め、それを報告・公表するのは「科学的な対処」の前提だが、それは独裁国家では簡単なことではない。

これは、上層部が意図的に情報統制をするだけではなく、組織の力学も働いている。独裁国家の中間管理職は、自分の持ち場で「あってはならない」ことが起きれば、権力者の不興を買って非常に不利な立場に追い込まれてしまう。ときには命にさえかかわる。だから、多くの問題はできれば大ごとになる前におさえこみたい。そこで上層部にも、正しく情報が上がってこないことがしばしばある。

しかし、情報操作ではウイルスをどうすることもできない。いつものやり方が通用しない相手ということだ。

今回の件で「いつものやり方は通用しない」ということが、どうしても飲み込めない権力者がいる。トランプ大統領はその代表だろう。トランプ氏は、当初はコロナウイルスの脅威を露骨に過小評価していた。その脅威は自分の経済政策の成果を台無しにしかねない。とくに、今年の選挙を控えた民主国家の政治リーダーとしては「認めたくない」ものだ。だから、うやむやにしたかった。しかし、大統領がどう発言しようと、ウイルスにとってはまったく関係のないことだ。

これはもちろんあたりまえのことなのだが、あの大統領にはなかなか飲み込めない。「このウイルスはもうすぐ終息する」的な楽観論を、いろんな場面でくりかえしてきた。さらに、昨日のテレビのニュースによれば、「消毒液の注射が有効だ」などとトンデモ発言をしたのだそうだ。これにはさすがに驚いた。トランプさんは、科学がトコトン苦手なのだ。今のアメリカの民主主義が、このような大統領を生み出した。

ただし、科学が苦手なのはトランプ大統領だけではない。新興国・発展途上国ではもっと深刻な状況だろう。インドでは、与党人民党が西ベンガル州で新型コロナ対策として、牛の尿を飲む集会を開いたのだそうだ。尿がさまざまな病気に効くという考えが、インドでは根強くある。ヒンズー(インドの伝統宗教)至上主義者のなかには、ヨガがコロナに効くという者もいるという。(日経新聞4月19日朝刊、デリー大助教ローフ・ミール氏による)。

しかしこういう「迷信」は、先進国の問題でもある。アメリカ大統領が「消毒液の注射が効く」などと言うくらいなのだから。

***

日本はどうだろう。日本ではさまざまな関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、「科学的な対処」を迅速に実行できない傾向が強いようだ。

中国のような独裁国家では、政府の各部署はトップダウンで動く。だから、部署間での「調整」ということは、皆無であるか優先順位が低い。また、欧米の先進国の場合は、組織や役職の権限・職務について体系的で詳細なルールを整備し、そのルールに基づく運営を徹底しようとする伝統がある。そのような場合も日本的な「調整」は、あまり重要ではない。

日本では、もちろん中国のような独裁権力は存在しない。一応は欧米型の民主主義の体制ではある。しかし、体系的ルールに基づく運営よりも、抽象的であいまいな基本方針のもと、さまざまな「調整」「忖度」に基づいて多くのものごとが動いてきた。

そのような日本的な枠組みでは、さまざまな立場における権限や役割、そして責任が不明確になってしまうものだ。そして、こうした「あいまいさ」は、権力者やエリートには居心地のよいところがあった。責任の重圧を感じないで済むのだから。

しかし、「調整」「忖度」ばかりの政治・行政は、今回のような緊急事態に対しては、デメリットが大きすぎる。意思決定に時間がかかり、踏み込んだ施策も行われにくい。対策が「遅く」「生ぬるい」ものになりがちなのだ。今、それは現実の問題になっていて、多くの人が苛立ちを感じている。

たとえば4月上旬の政府による緊急事態宣言のあと、政府と東京都は3日ものあいだ「どの業界が営業自粛要請の対象となるか」について「調整」していた。「生活に困窮する世帯に30万円支給」なのか「各人に10万円支給」なのかについても、官邸・官僚機構・自民党議員・公明党などのあいだで「調整」がバタバタした。

そして、そもそも緊急事態宣言が「遅かった」という意見もある。「宣言」とセットで出された経済対策の取りまとめに時間がかかったことも影響している、と言われる。このような取りまとめは、まさにさまざまな「調整」を通じて行われる。

助成金や融資を申請した際に、手続きに時間がかかり過ぎてしまうのも、「調整」重視の弊害だ。時間がかかるのは、言うまでもないが、さまざまな部署・役職のチェックや承認が必要だからだ。承認の根拠となる煩雑な資料も求められる。こうした手続きは、責任を分散する「調整」の一種である。平時にはそのやり方の弊害はそれほどはあらわれないが、スピードが求められる非常時には困ったことになる。たくさんのハンコを要するシステムは、申請が殺到したら対応しきれなくなってしまう。

そして、「調整」にエネルギーをとられていると、本来なすべきことを見失ったり、十分に取り組めなくなるだろう。今、日本の政治・行政は「調整」という、いつものやり方から離れられず、「科学的な対処」を迅速に行うことができないでいるのではないか。

権力や責任のある人たちが「調整」を重視するのはなぜだろうか? たぶんそれは「保身」「責任回避」ということに関わっている。「調整」というのは、「これは関係者が話し合って決めたことなので、その責任を特定の誰かが負うことはない」と確認する手続きでもある。

今回の件に関しては「できるだけ責任は負いたくない、とても負えない」という姿勢が、日本社会のさまざまな場所でみられる。外出や営業の制限が当局による「自粛のお願い」というかたちをとっているのは、象徴的だ。「強制」ではなく「お願い」であれば当局の責任は軽減される。これは法律がそうなっているからだが、その法律のあり方はまさに日本的である。

また、首相や大臣が重要な決定について述べるとき、いつも「専門家の意見に基づいて」と強調しているのも気になる。

これは、必ずしも「専門家を重視する」ということではないのだろう。本当に重視するなら、総理は緊急事態宣言のときに「人の接触を7割~8割削減」とは言わなかったはずだ。「8割おじさん」の西浦教授は「私は7割なんて言っていない、あくまで8割削減だ」と述べているという。

「7~8割」という言い方の背後には「8割だと経済にダメージが大きすぎる、もう少し幅を持たせたほうがいい」という、「経済重視」の思惑や配慮があるのだろう。そういう政治の立場を入れながらも、「これは専門家の意見」ということをくりかえすのである。

「専門家の見解は政治にとって免罪符であり、都合のいい部分はつまみ食い的に利用する」といった考えが、責任ある人たちの本音ではないか? それはいつものやり方だ。だとしたら、「科学的に問題に対処する」ことに背を向けているのである。もちろん、そればかりではないと信じたい……

このブログでは、これまで政治批判はそれほどは書いてこなかった。しかし今の状況では「政府のトップは、この問題に危機感を持って真剣に取り組む気があるのだろうか、大丈夫なのだろうか」と心配になる。

たとえば、PCR検査の拡充がなかなか進まないことや、医療現場でマスクをはじめとする物資の不足が続いていることなどを報道でみていると、そう感じてしまう。批判も多かったアベノマスクで多くの不良品が出ているというのも、「政府は大丈夫か」と不安にさせる話だ。個々の現場では目の前のことに懸命に取り組んでいるようだ。ならば、司令部はどうなっているんだろう?

そして、リーダーたちについて「問題に対処する身振りや発言はしているけど、じつは一番の関心は〈この事態のなかで自分はどうふるまえば損をしないか、非難されないか〉ということなのでは」と疑ってしまうのである。不眠不休で公務にあたっていたとしても、「問題の解決」そのもの以外の何かに多くのエネルギーを費やしてはいないか。もしもこの疑いがあたっているなら、「今は非常時だから、いつものやり方は通用しない、相手はウイルスだ」と強く言いたい。

さらに、政府の危機感が薄いのだとしたら、その背景には総理や高官が、じつは社会の現場の状況についてよくわかっていないということがあるのかもしれない。

総理に情報を伝えるうえで中心にいる高級官僚の人たちは、たしかに秀才にちがいない。しかし、企業活動や行政、医療の現場の具体的なところに通じているわけではないだろう。たとえば助成金の申請窓口の仕事など、経験していないのだ。そのほか、企業の人たちと腹を割って話をする機会も、じつはほとんどないはずだ(ここは私の会社員時代の知見からも想像がつく)。また、若い頃から仕事漬けで、ふつうの人たちの生活や感覚にも疎いところがあるかもしれない。しかし、自分たちとしては「何でもわかっている」つもりなのだ。

乱暴な言い方をすれば、世間に疎いエリートが、もっと世間に疎い世襲の政治家(安倍さんはまさにそう)にアドバイスして大事なことを決めているのである。政治記者や評論家たちによれば、今の首相はとくに官邸付きの官僚たちを重用しているという。

以上は素人の推測だ。しかし、その推測が正しいとしたら、「アベノマスク」や「自宅でくつろぐ動画配信」みたいな、かなりの人にとっておおいに「ズレ」を感じることが、なぜ行われたのかについてひとつの説明にはなる。

つまり総理には、世の中の情報が上がってきていないのだ。もっと言ってしまうと、熱心にテレビのニュースやワイドショーをみたり、新聞を丁寧に読んでいる一般国民よりも、今起こっていることについて知らないのかもしれない。そうではないことを願っているが、やはり心配だ。現状が把握できなければ、「科学的な対処」も何もない。

ずいぶん長々と書いてしまいました。私ごときが書いてどうなるわけでもないけど、限られた人数であっても、とにかく読んでくださる方がいるのだから、いいのです。

(以上)

*別ブログ「そういち総研」で新しい記事をアップしました。感染症の歴史に関する記事です。多くの人が知っておいてよい、世界史上のいくつかの感染症の事例についてまとめています。

知っておくべき、大きな被害をもたらした感染症の歴史←クリック

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2020年04月19日 (日) | Edit |
昨日、ある雑誌の編集者とライターの方々とお会いして、世界史における感染症について話をしました。特集記事の取材ということです。人類にとって感染症とは何か、世界史上の知っておくべき感染症の事例、新型コロナの問題から何がみえるか……そんなことについて1時間余りお話をしました。

場所は、我が家の近所のビルの一室を借りて。新型コロナのせいで最近は使っていない部屋です。いらしたお2人とは互いにマスクをして3~4m離れて、ということにしました。

昨日の東京地方は、取材の時刻には強い雨風のひどい天気。換気のため窓を大きく開けていたので、雨風が部屋にかなり吹き込んでくる。それでもどうにか集中してお話ができました。今日はいい天気だったので、昨日の取材も今日みたいな天気だったらよかったのに、と思いました。

「人類にとって感染症とは」ということですが、私は「感染症とは文明に必然的に伴う副作用のひとつ」だと思っています。そのことを、今回の新型コロナで再認識したといってもいいです。

この数十年ほど、「文明の発達によって感染症は撲滅できる」という楽観的な見方は有力でした。しかし、新型コロナの問題は、その見方に対して根本から修正を迫るものです。

このあたりのことを3000文字余りでまとめた記事を、別ブログ「そういち総研」にアップしましたので、ご一読いただければ幸いです。

感染症は文明の副作用←こちらをクリック

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この土日の外出は、昨日の取材のほかには、今日30分ほど近所の公園で散歩して、20分ほどスーパーで食料品を買ったというもの。これで数日はスーパーには行かない予定。あとは家にひきこもって、本を読んだり、ブログの記事を書いたり、夫婦でご飯を作って食べたり。今夜は生姜焼き定食。

テレビは報道系のものを多少みて、あとは映画の放送をちらちら観ていました。土曜日は「時をかける少女」、日曜は「ねらわれた学園」。どちらも最近亡くなった大林宣彦監督の作品ですね。高校時代にリアルタイムで観た、なつかしい映画。

土日の最後に、この記事を書いています。今日も我が家としては無事に過ごせたことに感謝。毎日毎日が大事だなあと実感しています。

なおもちろんですが、感染症が文明に必然的に伴うものだからといって、対処する術がないなどというのではありません。文明の副作用をなくすことはできなくても、文明のさまざまな道具や手段をつかって、その副作用を緩和することはできるはずです。

そこで大事なのは、「科学的に、なすべきことをきちんと行うこと」です。しかし、各国のリーダーのあいだには、ときに「科学的に問題に対処する」こと以外の何かを大事にする様子がみられないでしょうか?

中国では、感染拡大の初期に、当局による情報の隠蔽らしきことがありました。アメリカでは選挙を強く意識した大統領が、コロナウイルスの脅威について、自分の経済政策の成果に暗雲をなげかけるものとして当初は過小評価する言動をしました。そういうのをみていると「大丈夫か?」と思わざるを得ません。

そして日本では、さまざまな利害関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、あるいはリーダー自身の保身を気にしすぎて迷ってしまうのか、意思決定のペースが遅い傾向がみられます。きわめて日本的なかたちで「科学的に問題に対処する」こと以外の何かが幅を効かせているようです。非常に苛立ちを感じます。

(以上)
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2020年04月10日 (金) | Edit |
7日に出た政府の緊急事態宣言は「大きな津波が迫ってきた、逃げろ、命を守る行動を!」という強い警報のはずだ。にもかかわらず、「どこへどう避難するのか」について、社会のさまざまなレベルで多くのことに縛られてきちんと動けていない。

たとえば9日までの時点で「どんな事業にどんなかたちで休業を要請するか」について、政府と東京都が「調整中」だったりする。「理髪店は要請の対象とすべきか」みたいな議論である。また、そもそも政府は「要請はとりあえず2週間様子をみてから」などという方針だ。

これは巨大な津波が迫っているのに「避難についてはもろもろの調整をしたうえで…」「まずはほどほどの高台に逃げて、様子をみて必要ならもっと高いところに避難を」みたいな話をしているようなものだ。

「“避難”によって何か不都合があった場合の責任はどうなる、誰が責任をとるのか」ということも、社会の各レベルで決定権を持つ人たちはおおいに気にしている様子である。自分自身が「避難」の号令を出すのは避けたい。別の誰かが号令を出してくれるのを待とう。誰かが出した避難指示に従うなら、責任を負わないで済む……

東京のオフィス街は、緊急事態宣言後も相変わらず大勢が出ている。しかし、出勤している人たちの多くは、本音では会社に対しテレワーク・自宅待機などの「避難」の号令を出してくれ、と思っているだろう。そして、会社で決定権を持つ人たちでさえ、「誰か」の号令を待っているのかもしれない。

「もろもろの調整」「何かあったときの責任は…」というのは、いつも日本の社会を縛っている事柄だ。日本は「もろもろの調整」の国なのだ。

コロナ関連のニュースをみていても、「調整」という言葉があふれている。「調整」のおもな目的のひとつは、当事者の責任回避ということだ。関係者どうしで調整して決めたことだから、これは特定の誰かの責任ではない、というわけである。

また、これと関わる日本社会の傾向として、上位の権力が明確で系統だった方針を示さず、「あとは現場でよろしく」ということもある。「あくまで自粛(あるいは要請)です、各自の判断でお願いします」というのはまさにそうだ。これも責任回避である。そして権力を背景に「調整」をしているのだともいえる。今回は「補償などによる財政支出の責任」をどう逃れるか、ということが政府や自治体のおもな関心事だ。

今回のような事態でさえ、こうしたおなじみの日本的な思考・行動のパータンはものすごく強力に作用している。政府の最高レベルから、会社組織のような世間の末端までそうなのだ。恐ろしくなる。

(以上)
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