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 (2014年7月6日記す)


そういち自画像
      著者そういち自画像

ブログ「団地の書斎から」のテーマ

団地の小さな書斎(左上の写真)で,
たまには「大きなこと」について考える。

世界史の大きな流れ。時代の変化。
政治経済などの世の中のしくみ。
 
そして,時代や社会をつくった人びとの生きかた。
    
自分のアタマで考えること。
「考え」を,文章でどう表現するか。

  
古い団地をリノベして暮らしています。
「リノベと住まい」もテーマのひとつ。
暮らしの中の小さなたのしみについても。
 
    
これらを,わかりやすく・ていねいに書きたい。


●著者「そういち」について

社会のしくみ研究家。「文章教室のセンセイ」「団地リノベ研究家」も兼ねる。1965年生まれ。東京・多摩地区の団地で妻と2人暮らし。
大学卒業後,運輸関係の企業に勤務し,事業計画・官庁への申請・内部監査・法務コンプライアンス・株主総会などを担当。そのかたわら,教育研究のNPOに参加して,社会科系の著作や講演で活動。その後,十数年勤めた会社を辞め,独立系の投資信託会社の設立に参加するが撤退。浪人生活を経て,現在はキャリアカウンセラーとして就職相談の仕事を行っている。
社会や歴史に関し「多くの人が知るに値する・長持ちする知識を伝えること」がライフワーク。 


●そういちの著書
【最新刊】
中心の移り変わりから読む 一気にわかる世界史←こちらをクリック
(日本実業出版,2016年8月末より全国書店・アマゾンなどで発売中,1300円+税)

  一気にわかる世界史・表紙

 
『自分で考えるための勉強法』(ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『四百文字の偉人伝』(古今東西の偉人100人余りを紹介,ディスカバー・トゥエンティワン,電子書籍)
『健康と環境』(子ども向けの社会科の本,小峰書店,共著)
『フラッグス・る?』(世界の国ぐにをGDPでみる社会科の本,楽知ん研究所)


 
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【講師いたします】
このブログでテーマにしている世界史,社会のしくみ,勉強法,文章術などについて。グループでも個人でもどうぞ。

お問い合わせは so.akitaあっとgmail.com まで(あっとは@に変換) 


団地の書斎のそういち
撮影:永禮賢
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2017年11月21日 (火) | Edit |
権力者の汚職や不正には、家族や親しい人のため便宜を図ったものが多いです。

最近では、我が国の首相が友人の学校法人のため、隣国の大統領が姉妹同然の親友のため、不正を行った疑惑が持ち上がりました。「加計学園」のことは、つい最近のニュースでも取りざたされています。

おそらく、権力者が汚職をしないためには、家族も友もいないほうがいいのです。故郷や地元のつながりも、絶つべきです。

数百年前のオスマン帝国では、その考え方をほんとうに実行しました。

オスマン帝国は1500~1600年代に最も繁栄したイスラムの国家です。今のトルコ共和国にあたるアナトリア地方を根拠地として発展し、エジプト、シリア・パレスチナ、イラクなどのアラブ世界の広い範囲を支配した大帝国でした。

オスマン帝国では、キリスト教圏のバルカン半島などから少年を一種の奴隷として強制的に連れてきて、イスラムに改宗させたうえでエリート教育を施し、軍人や官僚として重用したのです。

これらの軍人・官僚たちは、結婚して家族を持つことは原則禁じられていました。故郷との関係も絶たれています。家族や故郷の絆がなければ、私欲を持たず公務に忠実であり続けるはずだ、というわけです。

このような、少年たちを強制的に集める制度を、「デヴシルメ(“強制徴用”の意)」といいました。デヴシルメによって集められた人材は、君主に直属する軍団の中核となりました。「イェニチェリ(“新しい兵隊”の意)」と呼ばれた軍団です。また、高級官僚や宮廷の侍従として重要な役職に就く者もいました。

イェニチェリ軍団は、目論見どおりに見事な働きをして、オスマン帝国の発展を支えました。

しかし、この制度にはやはり無理がありました。人間本来の性質に反するところがあった。

後の時代になると、デヴシルメで集められた軍人や官僚たちは、禁止だったはずの結婚をして家族を持つようになりました。子供に自分の地位を継がせることも行われました。それとともに、イェニチェリは腐敗にまみれていったのです。

今の時代は、デヴシルメのような非人道的なことは、もちろん許されません。ただし現代でも、一部のテロリストは少年たちを誘拐して兵士に仕立てあげたりしています。人間的な絆を絶たれた戦争マシーンの養成。これはきわめて非道な現代のデヴシルメです。

でも、未来には人工知能によるロボット官僚が実現するでしょう。

彼らは汚職とは無縁です。結婚しないのだから不倫もしないでしょう。忖度(そんたく)も苦手です。彼らに任せれば、きっと清潔で信頼できる政治や行政が実現するはず。

なお、ロボット官僚よりも先に、ロボット兵士の軍団は一般的なものになるでしょう。こちらはもう実用化の段階に入ろうとしている。

ロボット官僚を、幼稚なマンガ的空想と笑うことはできないはずです。世界史上におけるオスマン帝国の実例があるからです。

デヴシルメ制度によるイェニチェリ軍団は、当時の近代以前の技術でも可能なやりかたで「ロボット官僚」をつくりだしたのだといえます。人間にとって、とくに権力にとって、「ロボット官僚」は普遍性のある一種の「理想」なのです。

しかし、人間的な絆を一切持たない者に権力を委ねるのは、どうなのでしょうか? ちょっと恐ろしい感じもします。天涯孤独のヒトラーは、汚職をしなかったといいますし……

自分ただ1人のほか、守るべきものが何もないエリートが道を外れた場合、それはもう手がつけられないことになるでしょう。節度や遠慮のない堕落・暴走になってしまうはずです。「世の中の人間と自分とは、もともとなんの関係もないんだから、何をしたって構うものか」という感情が働いてしまうのです。

***

世間のことを、こんなふうに「世界史」のフィルターを通して考えてみるのは、意味があると思います。世界史は、社会のいろいろなことを考える道具になります。

以前にご案内した世界史のセミナー(「女子限定・5000年を2時間でみわたす・大人のための世界史超要約セミナー」)が、11月27日(月)の当日まで1週間を切りました。まだまだお席があります。詳細は前回の記事(すぐ下)でご覧ください。

(以上)
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2017年10月15日 (日) | Edit |
11月27日に西新宿で下記のセミナーを開催します。
よろしくお願いします。

女子限定
5000年を2時間でみわたす・大人のための
世界史「超要約」セミナー

●日時
2017年11月27日(月) 
19:00~21:10(18:45開場)

定員15名 予約制 今回は女性限定

講師:このブログの著者・そういち
プロフィールは下記に

●会場
新宿・ノマドカフェ 「BASE POINT」(ベースポイント)
3Fイベントスペース
東京都新宿区西新宿7-22-3
*地図は下に

●参加費
2000円(学生1500円) 当日支払い
フリードリンク付き

●お申込み・予約制です
メールにて so.akitaあっとgmail.com まで。(「あっと」は@に変換)
その際お名前(ハンドルネーム可)をお知らせください。
返信には数時間かかることがあります。

*セミナー・イベントなどの告知サイトこくちーずでもお知らせしています。
 そこからもお申し込みできます。

会場(ベースポイント)地図
ノマドカフェ地図
JR新宿駅西口より徒歩8分
丸の内線西新宿駅より徒歩6分
大江戸線新宿西口駅より徒歩11分

ベースポイント
BASE POINT(会場)

***

●講師プロフィール
そういち:社会のしくみ研究家。1965年生まれ。企業勤務のかたわら社会科系の著作やセミナーを行う。
著書は『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)のほか
『自分で考えるための勉強法』『四百文字の偉人伝』
(いずれもディスカヴァー・トゥエンティワン、電子書籍)など。
雑誌『プレジデントウーマン』(プレジデント社)2017年10月号の
「大人の学び直し 経済&歴史」特集では、世界史セミナーの記事を監修。

***

世界史の勉強がむずかしいのは、対象範囲が非常に広いからです。
膨大な国や民族が出てきますが、学校の教科書では、
それらをできるだけ幅広く扱おうとして詰め込みすぎています。

そこで、大人が世界史を学ぶ場合は、つぎのことが大切です。

①大まかな時代と出来事をおさえる
細かい年号や固有名詞にとらわれず、まずはざっくりと。

②それぞれの時代の中心的な大国をおさえる
世界史では時代ごとに繁栄した強国・大国があります。
古代ギリシア、ローマ帝国、中国の王朝、イスラムの帝国、大英帝国、アメリカ合衆国など……
それらを追いかけていくと、世界史の流れがつかめます。

以上の方針で、
古代から現代までの世界史5000年の流れを、
2時間で一気にお話しします。


本セミナーによって、アタマのなかの断片的な知識が
「ひとつの物語」としてつながっていくでしょう。
世界史の本を読むための基礎知識も養えます。

世界史は自然科学と同様に、
世界の成り立ちについての基本的な学問です。
また、政治・経済や美術など、さまざまな教養の基礎になっています。

どの分野の本を読んでも、世界史の知識があるのとないのとでは
理解が大きく違ってくるでしょう。

こんなふうに世界史は「役に立つ」ことも多いですが、
それ以前に知る喜びのある分野です。
世界史を学ぶ最大の効用は、単に「楽しいから」と言ってもいいのです。

なお、試みとして今回は女子限定とします。
疑問や意見を出しやすいかと。ただし講師はオジさんです。

プレジデントウーマン地図
世界史上の繁栄の中心の移り変わり
『プレジデントウーマン』2017年10月号より

***

最近、更新が滞ってしまいましたが、元気でやっております。
注文はないですが、新しい世界史本のための原稿など、せっせと書いています。そのために、本もいろいろと読んでいます。毎年発行している『そういちカレンダー』の2018年版も制作中です。

今回は、以前からやってみたいと思っていたかたちで世界史のセミナーを開催することとしました。

おもにビジネスウーマンの方を対象に、勤めの帰りなどで参加していただくセミナー。
大人が気軽に「世界史入門」できるセミナーというのは、意外とありません。
「世界史の全体像」を伝えるセミナーというのが、まずないのです。
まして、「2時間で」などというのは、ふつうは考えられない。

それを、今回行うことにしました。
私だからこそできるセミナーだと思っています。

拙著『一気にわかる世界史』をベースに、ライブならではのものをお届けします。お待ちしております。

(以上)
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2017年09月08日 (金) | Edit |
プレジデントウーマン10月号

昨日7日発売の、雑誌『プレジデントウーマン』(プレジデント社)10月号に、私そういちへの取材記事が出ています。

「大人の学び直し 経済&歴史」という特集の中の「歴史は“流れ”が9割!5000年の“超要約”セミナー」というコーナー全6ページ(36ページ~)がそうです。私への取材や、私の著書『一気にわかる世界史』をもとに、ライターさんがまとめたもの。

盛沢山の内容が、コンパクトにきれいな誌面にまとまっています。
ぜひ、手にとってみてください。

なお、記事中の「歴史知識実力テスト」や「世界+日本史年表」は、新たに私が作成したもの。そのほかの地図やフローチャートは『一気にわかる世界史』から編集されたものです。

『プレジデントウーマン』は、ビジネス雑誌『プレジデント』の女性版です。30~40代を中心とするビジネスウーマンがおもな読者とのこと。

私は、今回の取材のお話をいただくまで、この雑誌を手にしたことはありませんでした。

今回、この10月号以外も2、3冊手にしましたが、働きざかりのビジネスウーマンのための多岐にわたる情報(ビジネス、仕事のスキル、キャリア、政治経済、マネー、文化、家事、ファッション、料理、旅行等々)がびっしりと、しかしコンパクトにきれいにデザインされて詰まっていると感じます。その分野の著名人や第一線の方たちがたくさん登場している。

まさに「雑誌」というか、その王道な感じです。そんな中「この人誰?」という感じで、私も出てます……

プレジデントウーマン日本史年表
私への取材ページの一部

(以上)
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2017年08月26日 (土) | Edit |
今回は、以前の記事をまとめ直したものです。現代における世界史的な動きから未来を考える、というもの。

***

「中心」衰退の時代

アメリカの覇権の後退で国家のあり方はどう変わるか



アメリカの覇権の後退

私が昨年出版した『となり・となりの世界史』(日本実業出版社)では、「5000年余りの世界史における、世界の繁栄の中心=覇権国といえる大国・強国の移り変わり」を追いかけることで、世界史を「ひと続きの物語」として述べることをめざしました。

つまり、西アジア(メポソタミア・エジプトなど)→ギリシア→ローマ→イスラムの国ぐに→西ヨーロッパ(詳しくみるとスペイン・イタリア→オランダ→イギリス)→アメリカと、世界の繁栄の中心は移り変わってきました。今の世界は、1900年代前半から続くアメリカの時代です。

では、アメリカの時代はいつまで続くのか?

アメリカが総合的にみて世界最強の大国である、という状態ならば、これからも少なくとも何十年かは続くでしょう。もっと続くのかもしれません。

しかし、その圧倒的な力で世界を仕切るという状態=覇権は、これからますます明らかに後退していく。あと20~30 年もすると、かつてのようなアメリカの覇権は過去のものになる。少なくともすっかり様子が変わっている。どこかで、一定の「復興」もあるかもしれませんが、それは限定的なかたちで終わる。

あいまいでおおざっぱな予想ですが、ひとつの視点としては意味があるでしょう。私たちの多くが生きているうちに、大きな変化が一区切りついているのでは?という問いかけでものごとをみてはどうでしょうか。


2000年頃からの変化

アメリカの覇権の後退ということは、1970~80年代にはすでに言われてはいました。

たしかにその頃、アメリカの勢いは1950~60年代よりは後退していました。その一方で「アメリカの後退」という見解には、圧倒的な大国に反発する感情もあったように思います。「こんな国、衰退してしまえ」という願望が混じっている面もあった。

そこで、本当に後退するまでには、まだ時間がかかりました。1990年代には、ライバルだったソヴィエト連邦の崩壊によって、唯一の超大国となったアメリカがまさに世界を制覇したような状況になりました。

しかし、そのようなアメリカの「世界制覇」は、10年ほど続いただけでした。

2000年代(ゼロ年代)初頭の、9.11テロへの対抗策として行ったアフガニスタン侵攻や、その後のイラク戦争は、大きな転換点でした。このとき、アメリカはいろいろな誤りを犯しました。その後、1990年代にひとつのピークに達したアメリカの覇権がさまざまな面で崩れていきます。

一方で、中国をはじめとする新興国の発展がすすみ、世界のなかで大きな存在感を示すようになる、という流れも2000年ころから明確になりました。

今現在の世界の、アラブ・中東のひどく混乱した状態や、中国が新たな超大国として自己主張を強めていることの直接の出発点は、2000年代初頭にあります。

そして、2000年代初頭のアメリカは、勇ましくアフガニスタンやイラクを攻めたのですが、近年のアメリカはシリアなどの中東の情勢に対してかつてのような積極的な行動はとれないでいます。中東で積極的に動いているのは、ソ連崩壊後の混乱から一応は復活してきたロシアだったりするのです。


「アメリカ優先」は「覇権」以前への回帰

トランプの言う「アメリカ優先」は、「覇権国として世界を仕切るスタンスを見直す」ということです。

近年は米国民のあいだで「世界でのリーダーシップよりも自国の問題に専念すべきだ」という世論が高まってはいました。トランプの当選も、そのような流れが生んだといえます。やはり、こういう大統領が出てきたことは、大きな転換点でしょう。

たしかに、昔のアメリカも自国優先の孤立主義をとっていました(「モンロー主義」という)。しかし、そのような内向き志向が優勢だったのは1900年代前半までのことで、それ以前のアメリカは世界の中心=覇権国ではありませんでした。

「アメリカ優先」は、1900年代半ばの「偉大なアメリカ」の復活ではなく、「覇権国となる以前のアメリカへの回帰」を意味するのです。

つまり「世界トップの経済力や軍事力を持つ大国にはちがいないが、世界を仕切るような“中心”ではない」ということ。それがこれからのアメリカのポジションなのだと。

現実としてそうなりつつあったことを、トランプの主張は、基本方針として確認していることになります。そのような方針は、現実の流れを後押しするはずです。つまり、世界の「中心=覇権国」としてのアメリカの役割の大幅な後退です。

ほんとうは「再びアメリカを偉大な国にする」ではなく、「100年以上前の“ふつうの大国”としてのアメリカに回帰する」というべきです。でも、それではあまり輝かしい感じがしないので、選挙に勝てませんね。


「世界の警察官」がいなくなると

このように「アメリカ第一主義」をかかげる大統領が就任するなど、アメリカが覇権国として世界にあたえる影響が大きく後退する流れが明確になってきたわけです。

その影響について、中国やロシアはどう出るか、アラブ・中東の情勢はどうなるかなどの、比較的短期の国際情勢の話はとくにいろいろ出ています。しかしここでは、アメリカという「中心」の衰退が、おもに先進国における国家や政府のあり方に、中長期的にどう影響するのかについて考えたいと思います。これは、私たち日本人にとっても切実な問題です。

アメリカが覇権国として世界を仕切ることに消極的になると、つまり「世界の警察官」をやめると、世界の国ぐにの国家としての機能は、再編成を迫られます。

この何十年かは、世界の諸国のあいだの大小さまざまなもめごとの多くは、アメリカによる仲裁が有効でした。当事者どうしで話し合いがつかないことも、アメリカのジャッジによって一応のケリがつくことがあった。アメリカが前面に出なくても、アメリカが大きな影響力を持つ国際機関がジャッジしたりもした。

軍事的にも、アメリカの傘下に入ることで、ある程度の「属国」的な立場と引き換えに、相当な安全が保障された。

本来は国際社会には、国内の警察や裁判官にあたるような権力は存在しません。

「世界統一政府」がない以上、国際社会にはそれを統制する権力が存在しません。つまり、究極的には個々の国の「力」がものをいう世界です。その点では、かつての日本などの「戦国時代」と変わりません。

そして、20世紀前半までの国際社会は、まさに「戦国時代」だったわけです。

近代以降(1500年代以降)だけをみても、ヨーロッパ諸国は頻繁に戦争をしていますし、そのヨーロッパ諸国を主体として、アジア・アフリカ・アメリカ新大陸でも侵略的な戦いが行われました。あげくの果てに世界大戦です。

近代以前でも、さまざまな国がおこったり滅びたり、領土を広げたりというのは、結局は戦争をしているのです。この何千年のあいだ、世界はおおむねいつも「戦国時代」だった、といってもいい。

しかし、1900年代後半のアメリカは、国際社会の「警察」「裁判官」に準ずるような役割を果たしていました。もちろんそれは「世界統一政府」的な権力とは大きな隔たりがあります。

1900年代後半にも、世界各地ではさまざまな戦争がありました。それでも、1900年代後半の世界では、アメリカの存在が国際社会の「戦国時代」的な本質を、かなりおさえこんでいたのは事実でしょう。

アメリカの覇権の後退は、国際社会の本質が「戦国時代」であることを、再びあきらかにするはずです。

それは、かならずしも世界大戦のような大戦争に直接つながるということではないでしょう。

しかし、「自国優先」を掲げる利害や立場を異にする国ぐにがせめぎあい、ときにはげしく対立し、一方で利害が一致すれば、協力したり同盟したりする。そのような局所的な対立や同盟が、あちこちで起こる。

その動きを仕切る有力な存在はなく、もちろん国のあいだのもめごとをさばく警察官や裁判官はいない。

トランプ大統領は2017年1月の就任演説でも、これまで述べてきた「アメリカ優先」という原則をあらためて強く主張していました。そして、ほかの国もアメリカにならえばよい、と。

これは、「世界は戦国時代に戻る」という宣言です。


国家の「統治」的活動の強化

戦国時代的な国際社会では、それぞれの国は、ほかの国ぐに(油断のならない危険な存在)に対し対抗できるだけの力や体制を強化することが求められます。

その最も切実な要素が、国防・軍事にかかわることです。

軍隊そのものの組織や装備を強化するだけではありません。有事の際に、社会全体が軍を支える体制を築く必要があります。いざというとき国全体が安全保障のために結集できるようにする。その体制の邪魔になる反対者を排除するしくみも、当然重要になります。

日本でも、現総理をはじめ一部の政治家は、この問題をこれまで以上に真剣に考えていることでしょう。一方でその動きをおおいに危惧している人たちもいます。

「外敵から自分たちの社会を守る」という機能や目的は、国家にとって最も根本的なものです。近代国家では、国民であれば否応なくそのための国家の活動に動員されてしまう。直接軍隊にとられることがなくても、何らかの協力や関与、あるいは犠牲を求められる。

そして、そのような動員をするだけの力を、行政の発達した現代の国家は持っています。第二次世界大戦のときなどよりもはるかに、です。

「社会を外敵から守る」「そのために国民を動員する」「動員の体制やしくみをつくる」というのは、法の体系では「公法」といわれる分野の活動です。政治学の言葉でいえば国家の「統治」的な活動です。

「戦国時代」的な本質があらわになった国際社会では、国家の「公法」あるいは「統治」的な活動は、強化されることになるでしょう。逆にそれができなかった国は、「戦国」の世のなかで不利な立場になる。

「公法」「統治」の面では、国家や政府の存在感は、今後大きくなるのではないか。今のように国際情勢が不透明さを増すときには、ばくぜんと「国家の解体」みたいなことをいう人がたまにいますが、まちがいだと思います。


「行政」面での劣化

しかし一方で、国家の存在感が薄くなったり、機能が弱体化したりする領域もあるのではないか。

ここでいう「統治」以外にも、国家の重要な役割はあります。国民の生活により密接な、さまざまな規制や利害調整、サービス、福祉などにかかわる領域です。これは「行政」といいます。

国家の能力は有限です。だから、国防や治安などの「統治」についての国の仕事や予算が増えると、「行政」の面が割を食うことになります。

目につきやすい分野でいうと、社会保障や福祉、学校教育、さまざまなインフラや公共施設の維持管理といった部分で、国の仕事が劣化していく恐れがあるということです。少なくとも、今後ますます増大するであろう国民の期待やニーズに対応できなくなっていく。期待とのギャップが大きくなっていくのです。

つまり、年金の支給額が減ったり、公立学校がひどく荒れたり、傷んだ水道管や道路が放置されたり、公園や図書館が閉鎖されたりする恐れがあるわけです。

経済発展が急速な新興国なら、経済とともに政府の規模や予算も大きくなっていくので、こういう問題は顕在化しないのかもしれません。

しかし、経済成長が停滞する一方で財政の悪化に苦しむ先進国では、「行政の劣化」の問題は深刻になるはずです。先進国では、政府の予算や人員などを大幅に増やすことはできないので、「統治」を拡充すれば「行政」を削減せざるを得ないのです。

ただし、「行政の劣化」の恐れは、「アメリカの覇権の後退→各国の“統治”の強化」ということ以前に、先進国では財政の悪化(おもに高齢化にともなう社会保障費などの負担増による)という面から問題が生じつつあります。

だから、アメリカの覇権の後退→各国の統治の強化(“行政”が割を食う)という流れは、すでに生じつつあることを後押しするものといえるでしょう。


「国家に代わる存在」による補完

では、国家における「行政の劣化」が進むと、社会のなかでどういう動きが出てくるでしょうか。

政府が生活に密着したサービスを十分に供給し得ない社会では、その不足を埋める活動へのニーズが高まるでしょう。かつて国家が行っていたことを、国家以外の存在が行おうとする動きです。

そのような「国家に代わる存在」としては、有力な企業、NPOやNGOなどの民間組織、さらにプライベートなサークルなどの人のつながりといったものが考えられます。

それから、国家財政が疲弊しても、地方・地域によっては経済力があって財政が充実していることがあるので、そのような「有力な地方自治体」という存在も、国家に代わるものとして考えられます。

地方自治体は、ここでいう「国家」「政府」の一部ではありますが、全体として弱った国家の「行政」的な機能を補完する存在として期待が高まるケースがあり得る、ということです。

つまり、首相や大統領に暮らしを守ってもらう、というだけでなく、どこかの社長・CEOや民間組織のリーダーや一部の知事や市長に守ってもらう、ということがクローズアップされてくるのです。

これにかかわる現象はあちこちで起こっています。

最近の一部の大企業は、従来の「株主利益優先」を改めて、公益への貢献を意識した動きをしています。

NPOへの関心は、日本ではこの10数年で急速に高まりました。「政府はもう頼れないから、仲間とのつながりがセーフティーネットになる」といったことは、最近はかなり言われています。

また、有力な自治体で注目を浴びる知事があらわれ、もてはやされたりもしている。

これは、主体的・積極的な立場で考えれば「国家に代わって新しいサービスをつくりだす活動は、これからの社会ではきわめて意義がある」ということです。企業の公益的な活動、NPOやNGO、ある種のコミュニティで重要な役割を果たすことが、これまで以上に評価されるということです。

やや受け身の立場で考えると、「国家に代わる存在にうまくアクセスして、そのサービスを享受することが自分を守ることだ」という発想になるでしょう。「国家に代わる存在」は、国家ほど幅広く万人に開かれた存在ではないので、主体的にアクセスしないとそのサービスや保護を受けられません。

これは、国家の枠組みが崩壊するということではありません。

国を外部の脅威から守ったり、治安や秩序を維持したりといった政府の活動によって、社会が国としてまとまっている状態は維持されるでしょう。

そのように、国家によって治安や秩序が維持されないと、企業もNPOも個人も安定した活動はできません。国家は依然として個人や組織が存在するための基礎的な枠組みなのです。

しかし、政府による国民へのきめ細かいサービスは後退する恐れがあるので、それに伴っていろいろな変化があるだろう、ということです。

以上、アメリカというこれまでの「中心=覇権国」の衰退・後退に伴って(とくに先進国で)何がおきるか、について考えてみました。

このように、大きくものごとをみて連想や推論を広げていくことは、ときどき行ったらいいと思います。もしも「読み」が当たらなかったとしても、これから起こることをより深く認識するための視点や手がかりにはなるはずです。


(注)
*アメリカの覇権の後退によって、戦国時代的な国際社会が再びあらわれるという見方は、すでに“「Gゼロ」後の世界”といういい方で、イアン・ブレマーという人が以前から述べています。ブレマーによる2012年の著作『「Gゼロ」後の世界』(日本経済新聞出版社)は、今あらためて読むと、見事だと思います。数年前の本ですが、今現在や近未来の状況を理解するのに、おおいに参考になります。

また、アメリカの覇権の衰退やその影響については、私が若いころから影響を受けてきた政治学者・滝村隆一さんも、ブレマーと重なる見解を述べています(『国家論大綱 第二巻』勁草書房、2014年)。国際社会の基本が「戦国時代」であるという見方や、国家の「統治」的活動といった概念は、滝村さんからのものです。私は、ブレマーや滝村さんの主張を、自分なりに編集・要約して述べているつもりです。

(以上)
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2017年08月16日 (水) | Edit |
今回の記事は、もともとは若い人が編集・発行する小さな雑誌にのせるためにまとめたものですが、その雑誌が出せないことになったので、当ブログにアップすることにしました。



日本のすべての法令を分類する

みえてくる社会のしくみ


この日本には、どんな法律があるのか、それはどのくらいの分量なのか――そんなことは考えたことがない、という人が多いと思います。でもこれは、世の中のしくみを知るうえでそれなりに大事なことなのです。


日本の法令を全部集めた本は?

では、「日本で現在通用している法令(法律やそれに準じた政令など)を全部集めた紙の本」というのは、あると思いますか?

『六法全書』(発行・有斐閣)などがあるのでは?と思うかもしれません。でもあれは、主要な法令だけを集めたもので、全部を集めたのではありません。

なお、「六法」とは、憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、刑事訴訟法の6つをいいます。法律はこの6つ以外にも数多くありますが、「この6つがとくに代表的で重要」ということです。また、いろいろな法令を集めた本(法典集)のことを一般に「六法」といいます。

***

日本の今の法令を全部集めた紙の本というのは、あります。

『現行法規総覧』と『現行日本法規』という2つの本です。『現行法規総覧』は衆議院・参議院の両院の法制局で、『現行日本法規』は法務省で編集しています。どちらも「加除式」といって、法令の改正に応じてページをさしかえる方式です。両者はほぼ同内容ですので、ここでは『現行法規総覧』(発行は出版社の第一法規)に沿って話をすすめます。

「法令」とは、「法律」と「命令」の両方のことです。法律は、国会で制定された社会のルールです。命令は、法律の枠内で内閣や各省庁などの行政機関がつくったルールで、内閣による「政令」と、各省庁の大臣による「省令」などがあります。命令にも法律のように政府や国民を拘束する効力があります。

法律は基本的なルールで、細かいことを規定していないことも多いです。命令(政令や省令など)で細かいことを決めているのです。なお、「法規」という言葉は、法令とほぼ同じ意味で使われます。*1


『現行法規総覧』の分量

では、『現行法規総覧』は、どのくらいの分量になると思いますか?

これは、「全何巻くらいか」で考えてみます。『現行法規総覧』の1巻は、2000~4000ページです。1ページは2段組みになっていて、日本国憲法なら5~10カ条ほどの条文がのっています。

おおまかに「『現行法規総覧』の1巻には百科事典1冊分くらいの情報が書かれている」とイメージしていいでしょう。

それが何冊分あるのか?――10冊分、30冊分、100冊分? それとももっと多い?
 
***

私が調べた2001年11月時点では、『現行法規総覧』は本文が98巻、索引が5巻で、計103巻です。本文98巻の総ページ数(目次除く)は、27万ページになります。*2

このおよそ100巻に、日本という国家・社会をどう運営するかについてのルールが詰まっています。それは「法令というコードで書かれた日本国の設計図」といっていいでしょう。あるいは、「日本国という巨大な怪物の遺伝情報」といってもいいです。


どんな法令が大きな比重を占めるか

では、この27万ページのなかでは、どんな法令が最も大きな比重を占めているのでしょうか?

それを考えるには、そもそも「どんな法令があるのか」のイメージが必要です。そこで『六法全書』で、法令をどう分類しているかをみてみましょう。(分類の名称は『六法全書』によるが、説明は筆者・そういちによる)

(法令の分類)
①公法…国の根本的な法である憲法、政府の組織と運営に関する法令(憲法、国会法、裁判所法、行政手続法、地方自治法、警察法、教育基本法、所得税法など)

②民事法…個人の権利関係や商取引に関する法令(民法、商法、会社法、民事訴訟法など)

③刑事法…犯罪の処罰や防止に関する法令(刑法、監獄法、刑事訴訟法など)

④社会法…福祉・社会保障、保健衛生、労働、環境に関する法令(健康保険法、生活保護法、労働基準法など)

⑤産業法…経済活動や業界への規制・支援(独占禁止法、銀行法、農地法、建設業法、鉄道事業法、電波法など)

⑥条約…外国との取り決め(国連憲章、日米安保条約など)

条約も、政府の活動や国民生活を規制(≒拘束・制限)するので、広い意味での法令だといえます。

では、①公法、②民事法、③刑事法、④社会法、⑤産業法、⑥条約 のうち、『現行法規総覧』で最も多くのページを占めているのは、どれだと思いますか?

***

『現行法規総覧』(2001年11月確認)のページ数の内訳は、つぎのようになっています。

日本の法令白黒

①公法(憲法や政府の組織・運営) …8.2万㌻(全体の30%)
②民事法(個人の権利関係・商取引など) …0.8万㌻(3%)
③刑事法(犯罪の処罰・防止) …0.2万㌻(0.7%)
④社会法(福祉・社会保障や労働など) …2.5万㌻(9%)
⑤産業法(業界規制など) …10.6万㌻(39%)
⑥条約(外国との取り決め) …4.6万㌻(17%)
合計 26.9万㌻

このデータはやや古いですが、基本的な状況は今も変わらないとみていいです。

最も大きな比重を占めるのは⑤産業法で、全体の約4割。つぎは①公法で、全体の3割です。

一方、②民事法には民法・商法などの、③刑事法には刑法などの基本的で重要な法律が含まれますが、全体に占めるページ数は多くありません。

日本の法令の分類グラフ

さらに細かく分類したグラフを書くと、次のようになります。

現行の全法令

⑤産業法でページ数が多いのは、鉄道事業法、道路運送法などの「交通・運輸」(2.4万㌻)と、農地法などの「農林水産」(1.7万㌻)に関するものです。交通・運輸の規制は、昔から政府の重要な仕事だったので、それを反映しています。

また「農林水産」の法令は、農業などが今の経済に占める比重の割に、かなり多いです。小売業や機械・化学・繊維などの、製造業に関するさまざまな法令を含む「商工業」(1.0万㌻)よりも多いのです。農業に対する多くの規制や保護があることのあらわれです。

①公法で最も重要なのは、憲法とその関連法令(4000㌻)や、「国会・選挙」(2500㌻)に関する法令(国会法・公職選挙法など)ですが、それらは公法のなかのほんの一部です。

公法にはこのほか、内閣法や行政手続法などの「行政一般」(9000㌻)、地方自治法などの「地方自治」(1.1万㌻)、裁判法などの「司法・法務」(5000㌻)のほか、「警察・消防」「教育・文化」「財政」「国土計画」「国防」「外交」と、さまざまな分野があります。

つまり、今の法令でとくに大きな比重を占めるのは、「政府の組織・運営(公法)」「業界の規制(産業法)」などの行政にかかわるものです。「行政」とは、「政府(国と地方自治体)が政策のために積極的な・踏み込んだ規制やサービスを行うこと」です。*3

そのような「政府の組織・仕事」に関する法令をまとめて、「行政法」といいます。民法や刑法のような意味での「行政法」という法律があるわけではなく、広い範囲の法律を含む総称です。

福祉・社会保障や労働などにかかわる社会法も、政府による積極的な規制やサービスについて定める、行政法的なものといえます。これに対し民事法は、一般的な商取引などの国民の私的な活動に関するものです。刑事法は、政府による規制としては消極的な最低限のルールです。

つまり、今の日本の法令で分量の大部分を占めるのは、行政法といわれる分野です。


政府の変化と法令の変化

昔(明治時代~昭和の戦前期)は、産業法や社会法は、今ほど大きな比重を占めていませんでした。

つぎのグラフは、1918年(大正7、第一次世界大戦終結の年)の日本の法令をすべて集めた『現行法令輯覧(しゅうらん)(大正七年版)』(内閣記録課編・帝国地方行政学会刊)という本のページ数の内訳です。分類の仕方は、上記のグラフとだいたい同じです。

『現行法令輯覧』は、上下2巻で4800ページですが、『現行法規総覧』よりも本のサイズが大きく、文字もびっしり詰まっています。1ページあたりの情報量は、『現行法規総覧』の数倍~10倍ほどです。そこで、当時の法令の分量は、現在(2001年)の『現行法規総覧』の数万ページ分=今の10分の1~数分の1だったと考えられます。

大正の全法令

1918年当時、法令のなかで圧倒的に大きな比重を占めていたのは、政府の組織・運営を定めた①公法で、全体の56%でした。

現在は39%を占める⑤産業法は27%で、今ほど大きくありません。④社会法は現在の9%に対し、当時は3%でした。現在17%を占める⑥条約は、4%です。そのぶん②民事法、③刑事法の占める割合が大きくなっています。

昔の政府は、規制やサービスを今ほどは行いませんでした。それが戦後(1945年以後)になって、福祉を充実させたり、企業に対する規制を強めたりしました。国際的な交流も活発になりました。
 
政府の活動は、法律とそれに基づく命令に従って行われます。これは、「根拠になる法律がないと政府は動けない」ということです。だから、政府の活動範囲が広がると、それに応じて法律は増えていきます。*4

④社会法、⑤産業法、⑥条約は、政府の活動範囲が拡大・変化したことで大きくなった分野なのです。


特殊六法の世界

ところで、「六法」と名のつく本には、『六法全書』のように「いろいろな分野の主要法令を集めた本」のほかに、特定の分野や業界にかかわる法令だけを集めたものもあります。こうした本を「特殊六法」といいます。

企業や役所などにとって、自分たちの業界に関する法令を知ることは必要なので、そのニーズにこたえる本です。民間の出版社が編集・発行しています。

たとえば、鉄道関係者(鉄道会社や国土交通省などの人たち)のために『鉄道六法』という本があります。トラックやバス・タクシーの関係者には『自動車六法』があり、人事・労務の担当者のためには『人事六法』や『労働法全書』があります。

証券業界の人には『証券六法』、不動産業界の人には『不動産六法』、医療関係者には『医療六法』、自治体の職員には『自治六法』、学校関係者には『教育六法』、警察官には『警察六法』、そのほかにも『環境六法』『登記六法』『栄養・調理六法』『廃棄物・リサイクル六法』『スポーツ六法』等々……さまざまな分野の特殊六法があります。

これらの特殊六法は、行政法的な法令をおもにおさめています。

最近は、インターネットによる法令の検索という手段もありますが、企業や役所では、オフィスのどこかに、自分たちの業界や仕事に関する特殊六法が置いてあることが多いのです。

 
知っておくべきこと 

ここまでをまとめると、つぎのとおりです。

・世の中には、社会のさまざまな分野をカバーするぼう大な法令が存在する。憲法、民法、刑法などのよく耳にする法律は、法令全体のなかのほんの一部である。(ただし、分量は小さくても、影響の大きな重要な法律ではある)

・法令の大部分は、「政府の組織・運営」や「政府が積極的に行う規制やサービス」に関する行政法的なものである。

そこで、今の社会で活動的な人は、行政法と向き合わざるを得ないのです。企業や役所で責任のある仕事をしている人は、とくにそうです。

たとえば企業で新しく店を出す、工場を建てるといったとき、さまざまな許認可を得ないといけません。許認可とは、法律で規制されていることについて、行うための承認を役所から得ることです。法律によって「免許」「許可」「認可」「届出」などいろいろないい方をしますが、それらをまとめてここでは「許認可」といいましょう。

スーパーマーケットであれば、各種の食品販売(乳類・食肉・魚介類・酒類など)、飲食店営業、建築、消防、労務等々に関する許認可の手続きをしないといけない。つまり、それぞれの分野の法令の基準を満たすようにすべてを整えて、説明する書類を所管の役所に提出するのです。

個人でも、消費者ではなく何かをつくる側になろうとすれば、行政法がかかわることが多々あります。小規模であっても起業するなら、行おうとするビジネスについて、それを規制している法令はないか、許認可の手続きはどうなっているかを確認しないといけません。

許認可なしで、カフェやカットサロンや古本屋を営むことは、法令違反です(刑事罰の対象になる)。カフェは食品衛生法、カットサロンは美容師法、古本屋は古物営業法に基づく営業許可が必要です。*5


ベンチを置くには

もっと限られたことをする場合でも、行政法がかかわることがあります。

たとえば、近所の公道に、みんなが休憩するベンチを置こうとしたとします。行政に頼むのではなく、自分でベンチを用意して設置しようと考えた。

それならば、道路法に基づいて「道路占用許可」というものを「道路管理者」から得ないといけません。道路管理者とは、原則として国・都道府県・市町村のいずれかです。国道なら国土交通省の国道事務所など、県道なら県の、市道なら市の道路管理課(名称は自治体により異なる)が担当です。

もしも許可を得ないでベンチを置いたら、法令違反です。「ここにベンチを置けば、みんなが喜ぶのだからいいじゃないか」というわけにはいかないのです。

占用許可にあたっては、ベンチの材質・形状、設置の場所や方法、道路交通への影響などについて審査されます。場合によっては、道路交通を管轄する警察からも承認を得る必要があります。そして、原則として一定の占用料を、道路管理者に対し定期的に支払わないといけない。

たかがベンチひとつで、面倒ですね。

でも、道路占用許可のような規制がなかったら、公道を占拠するいろんなものがあふれて、多くの人が迷惑する恐れがあります。規制には、やはりそれなりの理由があります。


教わる機会が少ない

私たちが学校の授業でよく教わる法令といえば、おそらく憲法の「平和」や「人権」に関する部分です。テレビのドラマやバラエティで法律が出てくるときは、民法や刑法にかかわることが多いです。行政法的な話は、学校でもメディアでも触れる機会が少ないです。

しかし、これまでみてきたように、行政法のさまざまな規制は、社会のなかできわめて重要なものです。社会の中で活発に動こうとすれば、関係する分野の行政法的なルールを知って、対処することが求められます。

こういうことは、社会についての基本知識なのですが、きちんと教わる機会がなかなかありません。

私(そういち)は、大学は法学部でした。しかし若手社員のときに、会社の事業(運輸関係)の許認可手続きを担当してはじめて、「この社会には大小さまざまの、多くの規制や許認可というものがある」ことがよくわかりました。

教科書で行政法の概論を少しはかじったはずですが、「社会の現場における許認可」のイメージは、つかめませんでした。

また、会社でも許認可の担当者や管理職以外は、会社の事業に関する法令について、特別な機会がなければ、それほどは意識しない傾向がありました。

これはコンプライアンス(法令遵守)ができていない、ということではありません。

社員は社内の規則やマニュアルを守って仕事をしており、そうであれば法令遵守はできるのです。ただ、マニュアル等の根拠となる法令にまでは普段は関心を持たない、ということです。たとえば飲食店のスタッフでも、食品衛生法の条文そのものを勉強している人は、かぎられるはずです。

しかし多くの場合、何かで本格的な専門家になりたければ、その分野を規制する法令を知っておくべきなのです。

行政の許認可については、煩雑で硬直的である、社会の発展をさまたげているといった批判もあります。「規制緩和」の議論です。そのことには、ここでは踏み込みません。

それよりもまず、「行政法の世界というものがあり、それは社会の隅々にまで大きな影響を与えている」という現実をおさえることです。それはこの社会を積極的に生きるうえで、役立つ知識のはずです。

「日本のすべての法令を分類する」ことで、私たちは行政法の世界が法令全体のなかでどんな位置を占めるのかをみることができます。それは、法や社会について、多くの人が見落としがちな部分に光をあてることなのです。

(以上)

注・補足

*本稿は、2001年12月と2002年2月に、教育研究団体の楽(らく)知(ち)ん研究所が主催するワークショップ・研究会で発表したレポートに、大幅な加筆・修正を加えたものである。

*1 政令・省令は、具体的には「○○法施行(しこう)令」「○○法施行(しこう)規則」などの名称になる。どれも法律の細則(細かなルール)であるが、多くの場合、施行規則で施行令よりもさらに詳細なことや手続きなどを定めている。法律で何でも決めようとすると、国会で法案を通すのには時間がかかるので、柔軟な対応ができない。そこで(あくまで法律の枠内で)内閣や大臣の権限で細かなルールを決めることになっている。

また、詳細な事柄は、「通達」などで対応する場合も多い。通達は、役所の中での法令の解釈・運用の方針を定めたもので、上位の役所が組織内の下位の役所に出した指示である。通達は国民を直接拘束するものではなく、正式には法令とはいえない。しかし、役所の対応のあり方を決めるものなので、現実には法令に近い影響力がある。

*2 『現行法規総覧』『現行日本法規』は、都道府県立の図書館や大きな市の図書館などで、みることができるだろう。法令の調べ方については、国立国会図書館のウェブサイト「リサーチ・ナビ」の「日本の法令の調べ方」のページが参考になる。

*3 行政の定義としてはこのほかに、国の権力を「立法(国会など)」「行政」「司法(裁判所など)」の3つでとらえる三権分立の考え方に基づき、立法と司法を除く国家の役割全般をさすことも多い。この場合は、刑事法の分野も行政の一部と考え得る。ここでは、より積極的な政府の活動として行政をとらえる立場(行政法の専門家のあいだではひとつの有力な見方)で説明している。

*4 「根拠になる法律がないと政府は動けない」という考え方は、行政法学では「法律による行政の原理」という。つまり、「行政は法律に従わなければならない」という原則。とくに、国民の権利や財産を侵害する場合には、法律上の根拠が厳格に求められる。映画『シン・ゴジラ』(2016年公開)では、ゴジラとたたかう自衛隊の活動について、政府関係者が法的な根拠を検討するシーンがある。ゴジラを「敵国からの侵略」とみなし、安全保障関連の法律を根拠にするのか?――いや、ゴジラはやはり「国」ではない。では、「自然災害」ととらえて、災害対策の法律でいくのか――そんな検討をしていた。

*5 たとえば美容師法第12条には“美容所の開設者は、その美容所の構造設備について都道府県知事(筆者注:具体的には保健所)の検査を受け、その構造設備が第13条の措置を講ずるに適する旨の確認を受けた後でなければ、当該美容所を使用してはならない”とある。そして同法の第13条では“美容所の開設者は、美容所につき、次に掲げる措置を講じなくてはならない”として“1.常に清潔に保つこと”“2.消毒設備を設けること”等を定めている。さらに、それらの措置に関して、美容師法施行規則に細かい規定がある。たとえば同施行則第25条では、かみそりの消毒について“沸騰後2分以上煮沸する方法”“エタノール水溶液(エタノールが76.9パーセント以上81.4パーセント以下である水溶液をいう…)中に十分以上浸す方法”等々……のいずれかによらなくてはならない、としている。

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2017年07月14日 (金) | Edit |
最近、世界史と日本史のかかわりについて考える機会があったので、簡単にメモしておきます。

私は、日本史についてはあまり論じてきませんでした。でも、拙著『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)の読者からのお便りで「日本史の本も書いて」といった声も複数いただきました。当然ながら「歴史を学ぶ」というとき、日本史へのニーズというのは、つよくあるわけです。世界史以上にあります。

***

どの国もそうですが、日本の社会や文化も、その歴史のなかで外国の影響を受けて形成されてきました。何もかもをその国のオリジナルでつくりあげた国や民族は存在しません。

世界と日本史のつながりをみるときは、「世界史上のどの国が、日本にどのような影響を与えたか」という視点が、まず重要です。

そうやってみてみると、世界史上の各時代において最も繁栄していた、あるいは最先端で活気があった、という国が、日本に大きな影響を与えてきたということがわかります。

まず、600~700年代の飛鳥・奈良時代。「律令国家」といわれる天皇中心の体制が形成されていく時代です。このときは、中国の唐が日本に大きな影響を与えました。唐は当時の日本にとって先生でした。

当時の唐は、東アジアにおいて圧倒的な大国だったというだけではなく、世界全体を見渡しても最大・最強の国家でした。400年代に西ローマ帝国が滅びて、イスラム帝国(600年代以降)が形成されてまだ間もないという状況のなかでは、文化的な面も含めた総合力において、600年代~700年頃の唐は「世界の中心」といえる存在だったのです。

唐が滅びたあとも、日本は中国の歴代王朝から影響を受け続けます。唐が衰退してからは遣唐使が廃止されたりするわけですが、正式の国交がなくなっても、中国との交流がなくなったわけではありません。

唐から宋(1000年頃最盛)あたりまでは、世界史における中国の絶頂期といえます。あるいは、その後の元(1300年頃最盛)、明(1400年頃最盛)の頃までを「絶頂」に含めてもいいかもしれません。つまり、中国が世界の文明の先端を歩む超大国であった時代。そのような絶頂期の中国から、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町の日本は学んで、今につながる社会や文化の基礎を形成したのです。

その中で1200年代には、モンゴル帝国(元)の大軍がせめてきました(文永の役1274、弘安の役1281)。1200年代の世界は、モンゴル人が制覇していました。侵略という悪しきかたちで、当時の世界最大の勢力から強い影響を受けたわけです。

***

その後戦国時代の1500年代になると、ヨーロッパ人が日本にやってきます。最初はポルトガル人とスペイン人が、のちにオランダ人やイギリス人もやってきます。ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのが1543年です。

とくに当時のスペインは、ラテンアメリカとアジアに広大な植民地を持つ、ヨーロッパ最強の国家でした。中国やイスラムの大国と比べれば、国全体のスケールやパワーで優っていたとはいえませんが、やはり最先端をいく大国でした。

当時のヨーロッパは、航海術や軍事技術では世界の最先端にありました。その技術の中心は、銃や大砲などの火器です。日本はこの火器の技術を急速に習得したわけです。戦国末期の天下統一がなされようとしていた時代の日本には、ヨーロッパの大国にも匹敵する(あるいは上回る)火縄銃があったともいわれます。

江戸時代になると、日本はいわゆる「鎖国」に入り、ヨーロッパの国ではオランダにかぎって関係を続けることになりました。当時、つまり1600年代から1700年代初頭までのオランダは、ヨーロッパで最も繁栄した先進的な国でした。その国とだけつきあっても「世界のことが相当にわかる」という国だったのです。

***

そして、幕末~明治(1850年頃~1900年頃)において日本に最も影響を与えた外国といえば、イギリスとアメリカです。明治維新(1868)の頃のイギリスは「大英帝国」として世界に君臨していましたし、アメリカも新興の大国として頭角をあらわしていました。アメリカは1800年代末には、工業生産でイギリスを抜いて世界一になります。

明治初期において、日本の最大の貿易相手国はイギリスでした。また、日本人の留学先のトップは、明治初期にはアメリカだったのです。ただし、留学先は明治後期(1890年頃以降)には、ドイツがトップになっています。ドイツは1800年代後半以降急速に発展して、1900年代初頭にはヨーロッパ最大の工業国となっていました。日本人は、そのようなドイツに注目して学ぼうとしたのです。

そして、第二次世界大戦後から現在。これはもう、圧倒的に超大国・アメリカの影響を受けてきました。良しにつけ悪しきにつけ、です。その一方で冷戦時代(とくに1950~60年代)には、アメリカのライバルであったソヴィェト連邦が発信する社会主義の思想にも、日本の多くの人びと(とくに知識人)は影響を受けたのです。

さらに1990年代以降は、新興国として台頭してきた中国の影響を強く受けています。ただし、中国との関係ではまだ日本が「先進国」の立場であって、中国のほうが日本から多くを学んでいるという状態です。

***

さて、このようにしてみると、日本という国は世界史において主役をはるスターであったことはないのですが、それぞれの時代の主役・スターとはかなり深くからんできたということがわかります。

つまり、世界史の本流といえる先端的な流れから落ちこぼれることなく、歩んできたということです。1000数百年にわたって世界史の先端に食らいつき、真剣に学んできた結果、今の日本があります。

幸せだったのは「先端的な流れ(当時の最強の国)」と深くかかわっても、征服されることなく(ほぼ)独立を保てたことです。それは祖先の才覚や努力のたまものといえるのでしょうが、東アジアの端にある島国というロケーションも有利に作用したことは、まちがいないでしょう。

このように、日本という国は「世界史のなかで育った」といえます。そのことが顕著な国だといえるでしょう。

ということは、日本が今後も繁栄を続けようとするならば「世界史の先端的な本流の流れ」から目を背けてはいけないわけです。

そして、今の時代の難しさは「何が世界史の本流か」が以前ほどは明確ではないということです。それはまず、日本自身が世界史の先端に立つ先進国となったことによります。同時に「近代社会」の発展ということ自体が、これまでとはちがう領域に入ってきているということもあるように思います。このことはまたあらためて。

(以上)
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2017年07月01日 (土) | Edit |
「イスラム国」(IS)が追い込まれている。最も重要な拠点であるモスルが陥落寸前(7月1日現在)で、支配地域も2015年初頭の、勢いのあった時期にくらべ半分程度に減った。

しかし、イラク・シリア地域でのイスラム国が、壊滅状態になったとしても、その残党が世界各地に逃げて、「テロの拡散」という事態を招く恐れも大きい。

そのようなことが、この何日かのニュースでは語られています。
ここでは、報道やその解説とはちがう視点の、中長期のことを考えてみたいと思います。

「イスラム国」が、このまま衰退したとしても、テロリストが「偽りの国家」をつくることは、今後も繰り返されるのではないか。「イスラム国」は、先例をつくったわけです。イスラム国の残党が近いうちにどこかでそれを行うかもしれないし、別系統の集団が行うかもしれない。

「偽りの国家」とは、イラクの首相が、最近の声明のなかで敵の「イスラム国」をさして言った言葉。ここでは「既存の国家からみて異様と思える、国家的な力を持つ組織」という、かなり広い意味で使います。

しかし、今時点では「偽りの国家」の勢力には、世界のなかで「中心」といえる先進国(欧米・日本など)の体制を崩壊させるような影響力はありません。

もちろんテロで犠牲者も大勢出ていますが、それで政府が危機に陥る、というのではない。ただし、シリアやイラクのような「周辺」的な地域では、既存の国家を崩壊させかねない影響力を持っています。

そこで気になるのは、未来において世界の「中心」をも脅かすような「偽りの国家」があらわれるのではないか、ということです。

私は、その可能性は「ある」と思います。少なくとも「十分にあり得る」という前提を、世界の「中心」に暮らす多くの人が共有すべきだと思うのです。

ほんとうは、そんな恐ろしいことを考えたくはないのですが、仕方がない。ただし、その時期についてはよくわかりません。近未来かもしれないし、数百年のうちに可能性がある、ということかもしれません。

***

そこで私は、世界史のなかの、ある事例を思い出します。紀元前の西アジアの「海の民」という人びとのことです。「西アジア」は世界史上の地域区分で、「アラブ」「中東」と、だいたいイコールです。

「海の民」は、紀元前1200年(3200年前)頃にあらわれ、西アジアのアナトリア(今のトルコ)やシリア・パレスティナ地域(地中海東部に面した地域)を席巻した人びとです。特定の民族ではなく、いくつかの民族をまとめた総称です(1800年代の歴史学者による命名)。彼らはみな「海(地中海)」からやってきたのでした。

「席巻」したとは、武力で既存の国家を攻撃し、大打撃を与えたということです。

たとえば当時のアナトリアの大国だったヒッタイトは、海の民の一派に滅ぼされました。エジプトは、海の民の軍勢をなんとか食いとめましたが、非常な危機に陥りました。

海の民によって、当時の世界で最も繁栄する「中心」であった西アジアは、大混乱に陥り、それまで繁栄していた大国が大きな影響を受けたり滅びたりしたのでした。その影響は紀元前1000年頃まで続きました。

しかし一方で、海の民が新しい世界秩序を樹立したということもなかったのです。海の民による本格的な国家建設の試みもありましたが、ほぼ失敗に終わっています。やがて彼らは、既存の西アジアの社会のなかに埋没していきました。

海の民は、当時の既存の国家の人びとからみて「偽りの国家」的な、異様なものに映ったことでしょう。そして彼ら自身、そのような異端的な段階から脱することはできなかったのです。

彼らのルーツは不明な点が多く、「系統不明」とされます。しかし、東地中海(エーゲ海やその周辺)で、西アジアの影響を受けてすでに一定の文明を築いていた人びとが、大量に押し寄せた侵入民に追い出されて難民化したもの、という(有力な)説があります。

ではなぜ海の民は、当時の世界の「中心」を席巻する力を持ったのか?

くわしいことはわかりません。しかし、彼らが航海術はもちろん、ほかに鉄器のような、軍事的に重要な技術を使いこなしていた点は重要です。海の民は、世界史上はじめて鉄製の武器を本格的に用いた人びとなのです(異説もあります)。

「鉄器の実用化」は、紀元前1500年頃のヒッタイトが有名なのですが、ヒッタイトではまだ貴重品だった鉄器を、武器として活用するようになったのは、海の民だったということです。

文化や経済を含む、社会の全体的な実力では劣る人びとであっても、軍事的に有用性の高い技術を駆使できれば、先進地域をもおびやかすことができる。

もちろん、軍事技術だけでなく、集団としての強烈な行動力や結集力などがないと、それだけの力は生じません。

海の民はそのような事例だったのではないか。難民化して追い詰められた人びとが、安全や豊かさをもとめて文明の中心へ押し寄せた。その想いや行動力は、強烈なものだったでしょう。

そしてその人びとは、単なる後進民族ではなかった。文化や経済などでは劣っていても、「中心」をしのぐ、軍事技術のいくつかを使いこなすことができた。

ただし、そのような技術の基礎は、彼ら自身が生み出したものではない。彼らは文明の中心で生まれたものをもとに、アレンジして使いこなしたのでした。

なお、航海術も鉄器も、今の私たちからみれば「技術の王道」のように思えますが、当時の「中心」の西アジアの人びとからみれば、なじみの薄い、異端的なものです。

メソポタミア(今のイラク)やエジプトなどの、西アジアで古くから栄えた主な文明地帯は、おもに内陸に広がっています。鉄器については、メソポタミアやエジプトでは、ほかの周辺的な地域(アナトリアやシリアなど)よりも普及が遅れました。エジプトで鉄器が広く普及したのは、紀元前600年代のことで、海の民の出現の数百年後です。

***

このような「強烈な行動力と、異端の・強力な軍事技術を持つ人びと」が、世界の中心を脅かし、席巻した例はほかにもあります。騎馬遊牧民、とくに西暦1200年代のモンゴル人の活動です。

モンゴル人は、中国やイスラムの帝国のような、当時の世界の「中心」を攻め、そのかなりの部分を征服してしまいました。1200年代の世界は、彼らの活動で大混乱に陥ったのです。

騎馬と騎馬戦術という技術は、当時の世界できわめて強力なものでした。また、騎馬遊牧民以外の多くの人びとにとっては、ややなじみの薄いものでした。

騎馬のためには馬具などの道具が要りますが、それをつくる技術は、騎馬遊牧民が生み出したものではありません。騎馬遊牧民は、文明の中心で生まれたものをアレンジして用いたのです。

このように、「技術」という視点でみたとき、海の民と騎馬遊牧民には共通性があります。そして、文化や経済などの力では、騎馬遊牧民が「中心」に対して対抗できなかった点も同様です。

しかし、騎馬を核とする軍事技術という、その一点において、騎馬遊牧民は多くの文明国をはるかにしのいでいたわけです。

ただし、モンゴル人による征服国家を「偽りの国家」だと、そこまで低く評価すべきではないでしょう。彼らの国家は一定の期間存続し、一時は国際色豊かに繁栄したこともあるのです。

しかし、征服の時代から百数十年のうちにはそれらの国家は消えていきました。征服した地域の文化に対し創造的な影響を与えることも、ほとんどありませんでした。そのような、限界があったのです。

***

では、これからの世界で「海の民」があらわれて、その「偽りの国家」が世界を席巻することはあるのか?

つぎの条件がそろえば、あり得るわけです。

①文明の中心ではそれほど重視されていない、あるいは異端視されているテクノロジーで、使い方しだいで強力な軍事力や破壊力をもたらす何か。そのような危険な技術を、周辺的な集団が使いこなし、他の追随を許さないようになること。

②その集団が、世界の中心に全面的な戦いを挑むだけの、強烈な想いや行動力を生じさせる、何らかの切実な社会的状況。

以上のように、

①「異端の危険な技術」(それを周辺的な集団が手に入れる) 
②「切実な状況」

といった条件がある、ということです。

①「異端の危険な技術」とは、どのようなものか。もちろん具体的にはわかりません。核兵器や生物化学兵器のような、現存する大量殺りく兵器かもしれませんし、ネット関連の技術かもしれません。あるいは、私たちが想像できない何かかもしれない。

いずれにせよ、未来において「海の民」が生まれるとすれば、それが特徴的なテクノロジーに支えられているのは、まちがいないでしょう。

「イスラム国」などの現代のテロリストたちも、インターネットのような現代的なテクノロジーを活用しようとして、一定の成果をあげました。しかし、今のところかつての海の民や騎馬遊牧民のように、決定的な技術を手に入れることができていないのです。

では、②「切実な状況」とは、どういうことか。それは「生存がおびやかされる」ということです。物質的に、というのはもちろんですが、非常な屈辱といった精神的なこともあるでしょう。

この世界の特定の集団が、自然災害や戦乱や環境破壊や、その他の社会的な変動で、「切実な状況」に追い込まれることは、これまでに何度も起こっています。だから、未来においても起こり得る。

それは、特定の民族のこともあれば、さまざまな民族や国民を含む場合もあるでしょう。あるいは、複数の国にまたがる特定の階層や役割の人びと、ということもあるかもしれません。世界中のなんらかの異端的な立場にある人びとの結びつきだったりするのかもしれない。世界の「中心」である先進国のなかの、疎外された人たちであることも考えられます。とにかく、そうした周辺的・異端的な人びとが追い詰められる状況。

世界の「中心」に暮らす人びと、とくに指導的な人びとが鈍感で傲慢であればあるほど、上記①②の条件がそろうリスクは高まります。

つまり、「切実な状況」に追い込まれた、「異端の危険な技術」を使える周辺的な人たちが出現するということです。「技術」が先か「状況」が先かはともかく、2つの要素を同時に備えた存在があらわれること。それが、未来の世界における「海の民」です。

その出現を防ぐために、「異端の危険な技術」をどうコントロールしていくのか。そのような技術に十分に目を向ける柔軟性も大切です。硬直化した発想のもとでは、主流から外れた技術は見落とされ、ノーマークとなってしまう。

そして、「切実な状況」が生じる前段階の、社会の緊張や歪みにどう対処するのか。富の一極集中、先進国と途上国の格差、環境問題、差別や弾圧といったことは、そのような「緊張や歪み」です。つまり、「切実な状況」を生む温床となるのです。

こうしてみると、未来の世界で「海の民」があらわれるというのは、荒唐無稽ではないと思えます。

(以上)
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2017年06月18日 (日) | Edit |
最近はまた、出版や発表のあてのない世界史の原稿を書いています。
それが、かなり進んできました。
そのほかの私事も重なって、ブログの更新が疎かになってしまいました。

***

最近ニュースや、いろいろな言論をみていて気になるのは、
「“理想の過去”への回帰にこだわる人びと」のことです。

その「理想の過去」とは、
大きなところだと、イスラム帝国が世界の文明の中心だった時代だったり、
中華帝国がヨーロッパをはるかにしのいでいた時代だったりします。

もう少しスケールを小さくすると、
アメリカが偉大だった時代(まあ、1950~60年代のことか)だったり、戦前の日本や、高度成長期の日本や、あるいはバブル時代の日本だったり。

こういう「〇〇の頃に帰れ」という主張は、現状への強い不満や問題意識から生まれています。その問題意識じたいは、根拠や意義のあるものが多いです。イスラム諸国や中国のなかに「反欧米」の思想が強く存在するのも、たしかにそれなりの根拠があります。

「アメリカを再び偉大に」というのも、「戦前の日本」「成長期の日本」に帰れ、というのもやはり、それ相応の問題意識があります。とくに、「〇〇の頃の日本に帰れ」という思いの背景には、私たちにとって身近で実感を伴う状況がある。たとえば…

なぜ今どきの若者は、やたらと用心深くなって、将来に夢を持ったり、積極的に遊んだりしないのだろう。オレが若かった頃(バブルの頃)は、そんなんじゃなかった。

なぜ今の日本経済では、モノつくりへの想いや勤勉さや未来への希望が失われたのか。高度成長時代の精神を取り戻すべきだ。

なぜ現代の(戦後の)日本人は、本来持っていたはずのさまざまな美徳を失ったのか。親や先生などの年長者や、社会の重要な立場にある人びと、そして「国」に対する敬愛の気持ちや礼節を失って、子供じみた自己主張ばかりしている。

これらの主張には、私にも共感できる部分(あくまで“部分”ですが)はあります。

だがしかし、こういう「過去への情念」みたいなものをベースにしている主張は、用心すべきだと思っています。この情念をもとに現代の問題に具体的に取り組むと、とんでもない間違いをしそうです。

バブルを懐かしむおじさんの言うことを聞いて、楽天的すぎる生活や人生設計でいったら、たしかに危険な気がします(たとえば過大な住宅ローンを組むとか)。あの頃と今では、経済や仕事や生活の前提条件があまりにちがいます。

製造業が経済の中心だった時代の感覚で、経済政策をおしすすめたら、これもとんでもないことになるでしょう。また、個々の企業で「つくるべきモノ」の方針を、過去の成功体験に求めてしまった結果、現在の望ましくない状況があるはずです。

「戦前」的なものへの思い入れも、同様です。たとえば、あの戦争に大敗したときの思想や精神とセットで国防の強化を論じるとしたら、やはり危険です。

私も、若者には夢をもってもらいたいし、勤勉な精神・モノづくりの精神は大事だと思うし、礼節を忘れた自己主張をとくにネット上で多くみかけるのを残念に思います。国防の問題も、たしかに重要だと思う。

でも、そのあたりの「問題」をよい方向に動かすうえで大事なのは、過去への思い入れではない。

抽象的な言い方ですが、やはり前に行くしかない。

今の、成熟した低成長の、超高齢化の時代でどう生きるのか。金融やITやサービス業が先進国の主要産業になった時代で、何をつくることが有効なのか。多くの人がもっとよく考えた主張や発言をするように、何をすべきか。

要するに、「今の」現実に向き合って、いろんな工夫や研究や勉強や教育をしていくということです。私たちの先輩や祖先は、時代に合わせてそのような努力をしてきた。逸脱もありましたが、大筋でそうやってきた。私たちも、これからの時代に合わせて、「前に行く」取り組みをするしかない。

昔の言葉でいえば、「啓蒙」とか「進歩主義」的なスタンスですね。

その手の主張に、教師の説教のようなうさん臭さを感じる人もいるでしょう。「啓蒙」や「進歩主義」の主張には、反抗心を起こさせるところがあります。そこから「理想の過去」への回帰という考えに惹かれていく人もいる。でも、「そちらに行ってもダメなのでは」と私は思っています。

「理想の過去」への回帰にこだわる、そのベースにはある種の反抗心があるのかもしれない。いかにも「正統派」な理想論を説く教師(あるいは親、上司、その他の権威)への反抗心です。「教師」が言うこととはちがう価値観を求めて、「理想の過去」に行き当たった。

なんだか抽象的な話になってしまいました。
でも、今気になっているところなので、書きました。

(以上)
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2017年04月24日 (月) | Edit |
「近代社会を精いっぱい生きる」というエッセイ。前回の続きの、後編です。

(前回の要約)

・現代社会は近代社会である。近代社会とは「自由な社会」。自由とは「したいことがでること」。

・技術の発達や政治的・法的な制約が撤廃されたことで、私たちの自由は拡大している。昔なら特権的な人にしかできなかったが、今は多くのふつうの人にもできる、ということが多数ある。

・そのような「自由」を、まず自覚しよう。しかし一方で(当然だが)なんでも思いどおりにはいかない。

・世の中には供給に限りがあるさまざまな「希少」なものがあり、これらを手に入れることは「自由」にはいかない。たとえば、良質の天然素材でできた何か、一流のアーティストのライブを体験する、就職先として人気のある有名企業への入社等々。

・このような希少なものにこだわるのではなく、数に限りのないよろこびや楽しみに目を向けよう。たとえば、何かを学んだり、つくりだしたりする喜び。

・これらは、誰かがそれを手に入れたからといって自分の分が減るということはない。いわば「食べてもなくならないケーキ」のようなもの。これに関心を向けることが重要だ。

***

近代社会を精いっぱい生きる

未来のごちそう


●希少なものを変質させる

こんどは、「“希少性”をどう扱うか」について、もう少し考えます。

本来、最も創造的といえるのは、「従来は希少だった“あこがれ”を、誰もが手にできるようにする」ことです。希少性を克服する革新は、大きな業績です。

だからこそ、活字印刷の発明者のグーテンベルクや、産業革命におけるワット(蒸気機関の発明者)のような人物は偉大なのです。近年だとスティーブ・ジョブズ(アップル創業者)のような人物も同様です。大組織でしか使わない希少な存在だったコンピューターを、個人の日常に持ち込むことに貢献したのですから。

希少性を克服する革新のやり方には、共通の基本があります。それは「希少なもの」を、量産に適合するように変質させることです。「希少なもの」をそのままのかたちで、みんなにいきわたらせることは、多くの場合できません。

たとえば、すばらしい絵画のオリジナルをみんなが所有することはできないので、コピーを印刷したり、画像データで複製したりするのです。あるいは昔の貴族や富豪のように「お抱えの楽団」を所有することはできないから、オーディオ機器を使うわけです。

手書きの写本が印刷になることも、人力や家畜が動力機関に置きかわることも、このような「希少性を克服する変質」です。
パーソナル・コンピューターも、従来の本格的な業務用コンピューターとくらべ、大幅に簡素なつくりです。パソコンの初期の時代には、「こんなものはおもちゃだ」といわれることも多かったのです。

音楽ソフトは、希少性の克服が近年で最もすすんだ分野です。この10数年でたいていの楽曲の海賊版が、タダでいくらでも聴けるようになりました。音楽業界は大変です。

これは、音楽ソフトのデータ容量を、音質を落とさずに削減する技術が進歩して、ネットでの送信や複製が容易になったためです。
データの意味や価値を保ったまま容量を削減する技術を「圧縮」といいます。1990年代半ばに音声データの画期的な圧縮技術である「mp3」という規格が開発され、その後数年のうちに普及しました。

mp3によって、CDのデータを12分の1に圧縮できます。それでも、人間が感じにくい部分のデータをうまく取り除く技術によって、再生したときCDとくらべ遜色がないのです。このような技術は「希少性を克服する変質」の、近年の代表例です。*11


●未来のごちそう

これからの時代は、「希少なものを変質させて普及可能にする」ことは、さらに重要になるでしょう。発展途上国の生活水準が向上し、多くの人たちがより良いものを求めるようになります。そこで、さまざまなものがますます希少になる。

たとえば未来において、世界じゅうの100億の人たちみんなで天然のいいマグロを食べるのは、おそらくむずかしい。地球上にそれだけの天然のマグロはいません。マグロの種のなかで「王様」といえるタイヘイヨウクロマグロ(クロマグロ)は、国際自然保護連合(IUCN)という機関によって2014年に絶滅危惧種に指定されました。*12

それでも100億人でうまい寿司が食べたければ、「いい寿司、うまい寿司」の概念を変えていかざるを得ない。たとえば養殖魚を質・量ともに充実させ、積極的に評価する。これについては現時点でさまざまな取り組みがあります。*13

さらにいえば、何十年後かの世界では、アマゾン川やアフリカの湖あたりで養殖した何かの魚を「トロ」と呼んで食べているかもしれません。あるいは、カニカマのようなフェイクの食品が、重要な寿司ネタになっているかもしれない。最近でも、貴重になったウナギのかば焼きの高度なフェイクが開発されたりしているのです。なお、ヨーロッパウナギは2010年に、ニホンウナギは2014年に絶滅危惧種となっています。*14

これをさらに突き詰めれば、もはや寿司とはいえない何らかの新しい「ごちそう」が生まれるかもしれません。

養殖魚やフェイクのネタによる寿司、あるいはその先にある何かのような、希少なものを変質させた食べものは、いわば「未来のごちそう」です。


●感覚を柔軟にして適応する

そのような「未来のごちそう」をおいしく食べるには、私たちの感性や価値観を変えていく必要があります。従来の「希少なもの」を称賛する感覚から距離を置くのです。「天然」「本物」にこだわり過ぎない、ということです。

フェイクの寿司ネタであっても、それが絶妙につくられていて美味しいということもありえます。そうであれば、「これはこれでいい」と考える。

これからは、暮らしの中のさまざまな要素が「未来のごちそう化」していくでしょう。つまり「多くの人にいきわたらせるために変質させたもの」が浸透していく。

たとえば住まいについては、いい木材を使った家具やインテリアは、これからますます希少なものになるでしょう。そこで、合板(いわゆるベニヤ板)のような、もともとはフェイク的な位置づけの素材が重要になります。

合板とは、薄い木の板などを接着剤で貼り合わせたものです。上等な無垢の板がとれるくらいに十分に育った樹でなくても、つくることができます。これも「希少性を克服する技術」のひとつです。

近年は下の写真のように、合板独特の薄い板が積み重なった切り口を「味わい」として前面に出すことがあります。

 ベニヤっぽい切り口
 ベニヤっぽい切り口
 筆者・そういちの自宅のテーブル

こういうことは、日本ではこの20年くらいで一般的になりました。昔は、このような切り口は化粧板を貼って隠すことが多かった。でも近年の私たちは、「合板の美」を「未来のごちそう」としてたのしむようになったのです。

とはいえ、無垢のいい木材も、もちろん好きです。つまり、私たちの木材についての「美」の感覚は、より幅広く柔軟になったということです。

私は趣味として建築やインテリアに興味があるので、やや細かい例をあげました。みなさんも興味のある分野をみると、「未来のごちそう化」が起きているなんらかの事例に気がつくでしょう。

「美しさ」や「いいもの」についての感覚を柔軟にして「未来のごちそう」に適応する――これは、これからの世界で気持ちよく生きるうえで大事な姿勢です。

ただし最近は、合板でさえかなり希少になってきました。カフェなどの「木を使ったナチュラル風」のインテリアが、木目をプリントした合成樹脂で出来ていたりします。かなり精巧な「木目」もありますが、そこに「美」を見出すことは、私にはまだできていません。こういうプリントは、素材の本来の姿をごまかす不正直な感じがするのです。

いくら「量産に適合するように変質させる」といっても、この手の不正直なやり方は「未来のごちそう」としてはどうかと思います。

これに対し、ありのままの「合板の美」を前面に出すのは「正直」なやり方ということです。こうした「正直・不正直」をかぎ分けることも、「未来のごちそう」的なものとつき合う上では、重要なはずです。


●「未来のごちそう」をつくり出す

そして、「未来のごちそうに適応する」ことをおし進めると、自分で「未来のごちそう」をつくり出すことに行きつくはずです。つまり、希少なものをうまく変質させて多くの人に届ける。そのことで暮らしや社会を変えていく。

前にも述べたように、そのようなことは、近代社会における多くの創造的な偉業の核心です。

偉大な発明家や起業家は、グーテンベルクやワットやジョブズの場合のように、しばしば「希少性の克服」という課題に取り組んでいます。そして、その解決のために「希少なものを変質させる」ことを行ってきました。

最近の身近な・劇的な技術革新の例として、音声データの圧縮ということも、取り上げました。

mp3で圧縮されたデータはオリジナルの音源とくらべ多くのものが抜け落ちているので、貧弱なフェイクにすぎないともいえます。そこで、これを低くみる音楽関係者やマニアもいます。しかし、送受信や複製のしやすさという機能を持ち、それによって多くの人が楽しむことができます。

それはここでいう「食べてもなくならないケーキ」や「未来のごちそう」なのです。

mp3がもたらしたことについての評価は、まだ定まっていません。その恩恵を受けている人たちが世界じゅうにいる一方、海賊版に著作権ビジネスを侵害された音楽業界にとっては大問題です。音楽のつくり手が経済的に報われにくくなり、音楽文化が衰退するのではと心配する声もあります。

「未来のごちそう」は、反発されたり物議をかもしたりすることがあるのです。とくに、「本物」志向のつよい人や、既得権の側からは嫌われやすいです。

しかしそれでも、このようなインパクトの大きな「未来のごちそう」を生み出すのにかかわった人たちは、現代の創造的な人間の典型といえるでしょう。

mp3開発の中心となったカールハインツ・ブランデンブルク(1954~、ドイツ)はもちろんのこと、海賊版のデータを共有するのに使われた画期的なソフトやサービス(1999年に開発されたナップスター)をつくったショーン・ファニング(1980~、アメリカ)のような人物も、大きな業績をあげたといえます。


●いろんな分野でつくり出せる

「未来のごちそう」は、いろんな分野でつくり出すことができるはずです。mp3のような技術の世界にかぎった話ではありません。先端技術がメインの要素ではない、生活や文化のきめ細かなサービスの領域でも、できることがあるはずです。

たとえば、ほんの一例ですが、つぎのようなことです。

・住宅建築の分野では、安価な素材で美しく快適な住まいをつくる技術やセンスが、一層重要になる。これには素材や工法だけでなく、設計やデザインを革新することが重要。つまり、住まいに対する考え方を変えていく必要がある。

・安価な材料で(できれば手軽に)おいしいものをつくるノウハウの開発は、食べものに関わる多くのプロやアマチュアがすでに取り組んでいる。まさに「未来のごちそう」をつくる取り組み。これは、今後ますます盛んになり、さまざまな成果が生まれるだろう。

・教育分野でも「未来のごちそう」を生み出すことは必要。それはつまり、特別な先生に出会う、環境の整ったエリート校に行くなどの希少な機会に恵まれなくても、質の高い教育を受けられるようにすることである。そのためには、たとえば「多くのふつうの教師にも充実した実践が可能となるメソッドやプログラムの開発」といったことが課題である。*15

社会のあらゆる分野で、大小さまざまの「未来のごちそう」はつくり出せるはずです。それがうまくできれば、人びとの自由の拡大に貢献したことになります。

そして、つくり出す側でなくても、新しい「未来のごちそう」があらわれたとき、その価値を認めてユーザーやサポーターになることも、創造的といえます。評価の定まらない新しいものを早くから支持するのは、なかなかできないことです。

たとえば私も「現在よりも大幅に安価で、しかも美しく住みやすい住宅」が開発されたら、ぜひ欲しいです。しかしそのような住宅は、従来とはちがう発想や価値観でつくられるので、最初はかなりの人が「これって、どうなんだ?」というはずです。それを人よりも早く支持するのです。

でもそんな家って、どんなだろう? こじんまりとした、簡素な小屋のようで、しかし一定の設備はコンパクトに備わっていて……想像していると、たのしいですね。

やはり近代社会は、いろいろと考える余地や自由があるので悪くないです。「昔はよかった」「自由や平等のような近代の価値観を疑え」という人もいますが、それよりもあらためて「自由な社会」の可能性に目を向けたらいいのです。(おわり)


(注)
*11 mp3の開発・普及の歴史については、スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』早川書房、2016年 がある。mp3は、当初は権威のある人たちにはなかなか理解されなかった。しかし無名の若者たちによる、海賊版を流通させたナップスターなどのサービスやそのコミュニティによって、急速に広まっていった。同書は、その経緯を興味深く描いている。

*12 マグロその他の水産資源の状況については、勝川俊雄『魚が食べられなくなる日』小学館新書、2016年、22~25ページ による。
  
*13 マグロの養殖では、近畿大学水産研究所が2002年に完全養殖(稚魚からでなく卵を孵化するところから飼育すること)に成功した「近大マグロ」が有名。

*14 うなぎのかば焼きのフェイクとしては、カニカマのような「すり身」の技術でつくられた「うな蒲ちゃん」(株式会社スギヨ)などがある。

*15 私がよく知る(その会員でもある)民間の教育研究団体「仮説実験授業研究会」は、1960年代からこのような観点の研究を行っている。これについては、板倉聖宣『仮説実験授業のABC 第5版―楽しい授業への招待』仮説社、2011年 など。

(以上)
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