2013年11月04日 (月) | Edit |
 前回に続き,「社会の変化はゆっくりになっている」論を。
 
 「時代の変化は急速になっている」とよく言われているけど,どうなのか?
 むしろ,変化はゆっくりになっているのではないか。文化において「新しいもの」が生まれにくくなっているのではないか。これは日本にかぎらず,世界的にみてもそうなのではないか。

 
 そんなことを論じる,社会の変化はゆっくりになっているというサブカテゴリーが,このブログにはあります。今のところ第7回まで記事を書いていて,途中で止まっています。
 
 その第2回の記事では,「新しいものが生まれにくくなっている」例として,近年の音楽やデザインのことを論じました。

 たとえば,今の若者が,1970年代の古い音楽や50年代にデザインされたイスに惹かれたりする。特別なマニアではない人が,昔のものをごく普通に自分の楽しみや暮らしの中に取り入れている。これが「変化がゆっくりになっている」ということではないか。古いものが今の時代にも「新鮮さ」を保っているとしたら,「新しいもの」が生まれなくなっているということだ……

 それに対し,またピピネラさん(ブログ:小人さんとワルツを)からコメントをいただきました。
 今度は「感想」というより,まさに「論考」といえるもの。
 
 それをご紹介します。
 そのあと,私の「返信」を。いずれもかなりの長文です。
 自分の書いた文章がきっかけとなって,このように「考える」方があらわれ,自分もそれに触発されて書くことができる……うれしいことです。

 ***

(ピピネラさんからのコメント)

 初音ミクはご存じですか?

 メロディー(音階)と歌詞を入力することで、サンプリングされた人の声を基にした歌声を合成することができるボーカロイド。その代表的な製品(キャラクター?)が初音ミク。実体を持たない「電子の歌姫」です。

 彼女のステージはニコニコ動画やユーチューブなどの動画共有サイト。名もない「プロデューサー」達が作詞、作曲、PV風のアニメまで作っています。その曲に人気が出ればCDになりカラオケになり、キャラクターグッズも含めれば今や70億円市場とか…

 メロディーや歌詞が新しいかどうかは正直よくわかりません。でも機械が歌う曲がオリコン1位って、そんな時代ありましたか?(シンセサイザーの一種という見方をすれば古いかな?)

 音楽を聞くということ=記録メディアを買ってきて再生することという時代は、終わりつつあるのだと思います。動画共有サイトは、「音楽を聴く方法」に蓄音機発明以来の変化をもたらしました。

 どんな広いショップでも置ききれないほどの古今東西の音楽が自宅に居ながらにして、しかも無料で聞けるんですから。もはや音楽は同世代が共有するものではなく、ネットを使える環境にある全ての人が共有するものです。

 子供がたどたどしく歌う童謡も、有名なオーケストラも、伝説のロックバンドも、ユーチューブの中では平等です。視聴者はその中から好みのものを選ぶ時代。20代の青年は70年代の洋楽を聞くし、50年代デザインの椅子に座る。結果選びとったモノは古くても、その現象は間違いなく変化だと思います。

 小規模なルネサンスと言ったら、言いすぎかもしれませんね。
 でも、その先に、少しは新しいモノが出来ると、私なんかは信じているんです…。

 ***

(そういちからの返信)

 まず,ただでさえお客さんの限られる私のブログの,その中でも埋もれた形になっている記事に,素敵な「論考」を寄せていただいて,うれしいです。

 「社会の変化はゆっくりになっている」論のねらいのひとつに,「社会や文化にとっての〈新しさ〉や〈変化〉とは何か?」を突っ込んで考えてみたい,ということがあります。

 「新しい」とか「変化」とかって,抽象的で,人によってイメージするところがずいぶん異なると思います。だから意味があいまいになっているけど,そこをもう少しはっきりできないか,ということです。

 社会が変化することを止めたり,「新しい」ことが何も起こらなくなるということは,あり得ません。
 しかし,現代において,その「変化」や「新しいこと」の質は,これまでとは変わってきているのでは? 

 その視点を,私としては論の基本に置いています。

 では,今の社会や文化の「変化」「新しさ」とはどんなものなのか?
 ピピネラさんが書かれたつぎのことは,重要だと思います。

《子供がたどたどしく歌う童謡も、有名なオーケストラも、伝説のロックバンドも、ユーチューブの中では平等です。視聴者はその中から好みのものを選ぶ時代。20代の青年は70年代の洋楽を聞くし、50年代デザインの椅子に座る。結果選びとったモノは古くても、その現象は間違いなく変化だと思います。》

 今の文化って,たしかにこういうイメージです。

 今の文化・文明には,「なんでも売っている巨大なネットのストア」が出現しました。デフォルメしていうと,そこには,あらゆる時代の人類の文化遺産がならんでいて,お金さえあればその「遺産」のなんでもが手軽に買えるわけです。
 音楽や映像やテキストやプログラムなどのソフトに関しては,かなりのものが「無料」で手に入ります。

 そのような「文化遺産ストア」の出現は,たしかに「新しい」です。

 でも,そこに並んでいる「商品」じたいは,これまでの時代が生んだ「遺産」であり,決して新しくない。
 「画期的な新商品」として売り出されるモノも,よくみれば過去の遺産の細かい改良バージョンや焼き直しであることが多い。

 つまり,「商品」の流通や普及の仕方などでは,新しい現象が起きているけど,「商品」そのものには「新しさ」がみられなくなっている。

 単純化すると,そういうことが今起こっているのでは,と思うのです。

 「初音ミク」(少しは知っています)にしても,たぶん「音楽作品」そのものとしての新しさよりも,その作品が生み出され流通する過程や,それに関わる社会や技術の環境にこそ「新しさ」があるはずです。
 ボーカロイドじたいは,ピピネラさんも言うように,その本質は「シンセサイザーのひとつの到達点」だと思います。

 もちろん,「流通や普及の仕方」の変化が,新しい「商品」そのものを生み出すことはあると思います。

 たぶんそれは,「新しい組み合わせの発見」という形で顕著に起きるはずです。
 重厚な(あるいはカビの生えた)古典も,今どきの「子ども」的な文化も「並列」にあつかわれる状況になれば,それまで思いつかなかったようなジャンルやアイテムどうしの組み合わせが起こりやすくなるでしょう。もういくつも事例があるのかもしれませんが……

 そして,「新しい組み合わせの発見」は,「新しい,新鮮な頭を持った人たち」が行っていくものです。
 
 それは,古典的なモノサシを身につけていない若い人たちや,従来よりもずっと「大衆」的な人たちということになるのでしょう。「タダで膨大なソフトにアクセスできる」という今のネットの状況は,それを後押ししています。

 そして,世界には「新しい,新鮮な頭を持った人たち」が,ぼう大に存在しています。
 アフリカなどの発展途上国の人たちです。
 この人たちの「頭の新鮮さ」は,今の先進国の若者を上回るでしょう。

 彼らが,今後さらに経済発展していったとき,「近代文明」はきっと新しい展開をみせるはずです(しかし,一定の経済発展が必要)。
 たとえば,音楽などは典型的に,最も早くからそのような「新しい展開」をみせると思います。

 今回の私の記事や,ピピネラさんも例に出した,現代音楽のメジャーな世界――今のジャズやロックやブラジル音楽など――これらはみな古典的な西洋音楽とアフリカとの出会いがもとになって生まれました(その「出会い」は西洋によるアフリカ制服・支配といった一種の「悲劇」によるものでしたが)。

 今後は,おもにネットを通して,アフリカの新しい世代が,現代音楽の遺産と盛んに出会うようになるでしょう(もうそうなってきてはいますが,さらにそうなる)。

 アフリカの若い世代は,そこから,私たちの想像を超える新しい音楽をつくっていくかもしれません。日本の若い世代(あるいはかつての若い世代)も,世界の中で「新しい音楽」の創造に一役買ったのだとは思いますが,それをはるかに上回ることを21~22世紀のアフリカ人は行うのでは……

 だとしたら,私たち先進国の人間は,未来のアフリカ人(イスラムの人びとでもいいですが)のために,彼らがアクセスしやすいように,膨大な文化遺産をネット上に陳列しておいてあげている,といえるのかもしれません。

 ピピネラさんのコメントが刺激になって,またいろいろ考え,書くことができました。
 ありがとうございます。
 
(以上) 
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2013年11月04日 (月) | Edit |
 このブログのカテゴリー(サブカテゴリー)に,社会の変化はゆっくりになっているというのがあります。
 
 「社会の変化は,どんどん加速している」などとよく言うけど,どうなんだろう?
 もちろん,社会の変化が止まったり,「新しい」ことが何も起こらなくなるということはあり得ない。
 でも,今の時代は,ほんとうの意味での「新しい」ものが生まれにくくなっているのではないか?あるいは,「変化」とか「新しい」ということの意味が,これまでとは変わってきているのではないか?


 そんな問題意識で書いているシリーズです。
 7回分を書いて,どんどん大風呂敷を広げ,その後半年くらい未完のまま中断しています。
  
 しかし最近,ある読者の方から,この「社会の変化はゆっくりになっている」論に対し,反響がありました。
 たった1人ですが,しっかりと読み込み,そこから自分の考えやイメージを展開してくださっていて,たいへんうれしいことでした。ありがとうございます。

 以下,その方(ピピネラさん,ブログ:小人さんとワルツを)からのコメントです。

 これは,「社会の変化はゆっくりになっている」論の第1回へのコメント。
 そこでは,「今の子どもたちは,ウルトラマンや仮面ライダーなど,親世代が子どものときに夢中になったキャラに夢中になっている。これは,社会の変化がゆっくりになっていることのひとつの例ではないか」というところから話をはじめました。それに対しいただいた反響です。(仮のタイトルを入れたり,ほんの少しだけ,そういちが編集しました)

 *** 

「21世紀」はどこ? (仮題) byピピネラ

 「21世紀って、もっとすごいと思ってた」――定年間近の父が言ったセリフです。

 つまり,こういうこと。

 車は空飛んで、ロボットがうろうろ、火星に移住、etc…
 子供のころ思い描いた「正しい21世紀」はどこに行ったんだろう?
 1960年代に感じた「どんどん世の中が変わっていく感じ」はなんだったんだろう?
 現実は、通信の分野だけが予想以上に発達した。あと、コンピューターが小さくなった。それだけだ。

 終戦~1970年ぐらいまでに比べれば、それ以後ってあんまり変わってないのかもしれませんね。

 それより前は日本史の授業で習った知識しかないんですが、封建制から立憲君主制になり、大正デモクラシーって言ってたかと思えば軍事クーデター、戦争、戦争……そういうことが明治維新のあとの約80年間にあったんですよね。

 そう考えると、今がどれだけ安定してるかってことがわかります。


(以上)

 ***

 私の記事に寄せられたコメントですが,それ自体が短い素敵なエッセイ(コラム)になっています。

 コメント上のやり取りのなかで,ピピネラさんは「膨らませて自分のブログに記事にしようか」とも言っておられましたが,ぜひされたらいいと思います。

 ピピネラさんのコメントに補足します。

 1970年代以降の(日本の)社会の変化がゆっくりになったのだとすれば,そこには「経済成長の鈍化」がかかわっていると思います。これは,今回コメントをいただいた私の記事にも書いたのですが,ちょっと付け加えて述べます。

 「高度成長」といわれる,1955年ころから1970年ころの経済成長率(経済規模の拡大率)は,年10%程度でした。
 これだと,7年ほどで経済の規模・水準は2倍のレベルになります。「7年で2倍」の世界の変化は,やはりすごいです。私(今ほぼ50歳)よりやや年上の人に聞くと,「年々ご飯のおかずがよくなり,ウチの家電や家具などが増えていくのが,当時子どもだった自分にもはっきりわかった」などといいます。

 その後,1970年代後半から日本の経済成長率は急速に鈍くなって,「年率3~4%」になります。
 1990年代初頭以降は,さらに成長率は低下して,おおむね「1~2%」かそれ以下の状態が続いてきました。
 経済成長率1%というのは,「70年ほどで2倍」の状態です。2%なら「30数年で2倍」。

 これでは社会の変化もゆっくりになるでしょう。

 経済成長だけが,社会の変化の要因ではないでしょうが,きわめて重要ではあるはずで,押さえておいていいと思います。

 ***

 こんなふうに,読者の方からの反響をいただき,いろいろ考えたり書いたりできるのは幸せなことです。
 これからも,よろしくお願いします。
 
(以上)
2013年04月29日 (月) | Edit |
 「社会の変化はゆっくりになっている?」シリーズの7回目。

(前回まで)
 社会の変化は,じつはゆっくりになっているのでは?世界的にみて,文化全般で新しいものが生まれなくなっている。(第1回) (第2回)
 技術革新も,ここ数十年,停滞しているという説もある。(第3回) 一方「これまでもそうだったのだから,今後も急速な技術革新は続く」とする見方も根強い。(第4回)
 だが,「急速な技術革新」は,これまでの近代に特殊なことだったのかもしれない。世界史の数千年間には,「急速な進歩」もあれば「停滞」もあったとする技術史の研究もある。しかし,材料の選択が主観的である。(第5回)

 そこで,技術進歩の速度をたどる指標として「最大の都市の規模」はどうか。「世界史数千年における「最大の都市の規模」の変遷をグラフ化すると,やはり「急速な進歩」と「停滞」がくりかえされている。(第6回)

 * *

 以下が,前回示した,私による「〈最大の都市〉の人口の変遷」のグラフ。
 その下は,リリーという研究者による「過去数千年の発明のペース」のグラフです(リリーが「重要」と判断した世界史上の発明を,時代ごとにカウント。発明のさかんな時期は数値が高くなる)。

「最大の都市」の人口の変遷
 
 私のこのグラフは,「最大(級)の都市の規模は,その時代の技術水準を反映している」という考えにもとづいています。
 だから,このグラフは「世界史における技術革新の速度の変遷」をあらわしたものだ,ということです。
 そして,「最大の都市の人口」のグラフと,「発明のペース」のグラフは,結論がほぼ同じです。勢いのある時期と,停滞している時期が,2つのグラフはほぼ重なるのです。

 ちょっと話が抽象的すぎるかもしれません。

 そこでとりあえず,このグラフが示しているのが「ヤカンに入っている水の温度の変化」だと思ってください。
 水の入ったヤカンを火にかけて,そこに温度計をさしこみ,時間ごとにはかった結果をグラフ化した,としましょう。

 その「ヤカンの水の温度の歴史」をみると,水温の上昇が急速な時期もあれば,あまり変化のない時期もあります。
 水温は,急速な温度上昇によって,それまでとはちがう「つぎの段階」へと昇っていきます。
 そして,ある時点からは,あまり温度が上がらなくなっていく。そのように段階的に変化していきます。

 「最大の都市の人口」というデータは,技術水準という「水温」をはかる温度計のような役目をはたしているのです。

 このグラフが伝える結論は,こういうことになるでしょう。

 世界史には,「進歩の急速な時期」と「停滞している時期」がある。それらの時期を交互にくりかえしながら,歴史は段階的にすすんできた。

 だとしたら,「これまでそうだったから,これからも急速な進歩は続く」というのは,たいして根拠がないのではないか。現代はこれまでの「急速な進歩」の時代から「停滞」の時代へ移ろうとしている,過渡期だと考えてもおかしくはない。


 * *

 でも,気になる人もいると思います。
 「都市の人口のデータは,信頼できるのか?」と。

 重要なことは,「このグラフのデータにかなりの誤差があっても,このおおざっぱな対数グラフだと,主張の根本はくずれない」ということです。
 数値にプラスマイナス100%くらいの誤差があっても,大丈夫。
 それだけさっくりした長期の傾向を論じているからです。

 たとえば,西暦100年代のローマ市の人口は,今の通説的な推定だと,50~100万人です。でも,これが30万人でも,150万人でも,グラフのストーリーにはそれほど影響がありません。

 なぜなら,その千数百年後,1800年ころの最大の都市(江戸やロンドン)の人口は,100万人ほどなのですから(この数字はほぼ確かです。その時代の人口調査や戸籍的な資料に基づいています)。

 それから,西暦1000年ころのイスラムや中国の大都市は,このグラフだと「古代のローマを超えない」ことになっていますが,ローマよりも大きかったとする見解もあります。でも,「300万人」「500万人」という話ではありません。せいぜい「100~200万人」といったところ。

 だとしたら,やはり全体のストーリーにはあまり影響しません。つまり,古代ローマの時代以降「長く停滞が続いた」ということにかわりないのです。
 西暦100年ころから1000年近くかけて「2~3倍(数十万から100~200万に)」というのは,このグラフではゆるやかな変化です。少なくとも近代の急速な変化とくらべればそうです。

 また,「西暦1000年ころに100~200万人」だとしたら,その後数百年~1000年のあいだ,最大の都市の規模はそのレベルを超えなかったということです。その停滞は,1800年ころ以降の,近代の革新によってはじめてのりこえられたのです。

 このように,このグラフのストーリーが崩れるためには,「今までの数字が一桁ちがっていた」くらいの,大幅な数字の書きかえがいくつも必要になります。
 それが現実になる可能性は低いと,私は考えます。

 というのは,この30~40年で,歴史学が以前よりもずっと「人口」について研究するようになったからです。数十年以上前には,近代以前の人口についての推定は,いいかげんな数字ばかりでした。たとえば古代のローマの人口について,「200万人」とか,今からみるとずいぶん過大に見積もることもあったのです。

 しかし,近年はかなり信頼できる数字が出されるようになってきました。西暦100年代のローマの人口が「数十万~100万」に落ち着いてきたのも,そのひとつ。

 まだまだ議論の余地はありますが,このグラフを描くのに耐えるくらいの精度にはなってきた,と思います。

 また,私が数字を引用した文献はさまざまですが,どれも該当する時代や地域の専門家の著作を使っています。
 ウルクならメソポタミア史の研究者,ローマなら古代ローマ史の研究者……といった具合です。それも,おもに1990年代後半以降の比較的新しい文献です。

 * *

 まだまだ説明が足りないかもしれません。
 でも,この「大都市の人口=技術の水準」のグラフについて,「かなり信用できるはずだ」ということを述べてきました。いろんなことを考える材料にできるのではないかと。

 では,なにを考えるのに使うのか。
 そもそもの話に戻りますが,こんなグラフを描いたのは,「現代の世界の変化は,だんだんゆっくりなっているのではないか」という「仮説」について検討するためです。

 そして,得られたのは「世界史をみわたすと,急速な変化から停滞へ,ということも起こっている。だったら今,それが起こっていると考えてもおかしくはない」ということ。

 あとは,このグラフの最近の部分について,検討してみたほうがいいでしょう。
 「近年の〈最大の都市の規模〉は,どう変化しているのか?あいかわらず急速に伸びているのか,それとも停滞ぎみなのか?」ということです。これはまた次回に。

(以上)
2013年04月21日 (日) | Edit |
 「社会の変化はゆっくりになっている?」シリーズ,6回目。

(前回まで)
 社会の変化は,じつはゆっくりになっているのでは?たとえば,ウルトラマンのような古いキャラクターが,今も子どもたちに人気である。(第1回) 世界的にみても,文化全般で新しいものが生まれなくなっているのではないか。 (第2回)
 技術革新も,ここ数十年の停滞を指摘するタイラー・コーエンのような論者もいる。身の回りの文明の利器の多くも,数十年前から普及していた。(第3回)
 一方「これまでもそうだったのだから,今後も急速な技術革新は続く」とする見方も根強い。(第4回)
 しかし,「急速な技術革新」は,これまでの近代における特殊なことだったのかもしれない。技術史家のリリーは,世界史の数千年のあいだに,「急速な進歩」と「停滞」がくり返されていたことを示すグラフを描いている。しかし,材料の選択が主観的であることは否めない。(第5回)

 * *

 今回は,主観性や恣意性をできるだけ排除した「世界史における技術革新のペース」を示すグラフについて考えたいと思います。

 前回は,長期の視点で世界史上の重要なイノベーションをカウントし,それをグラフ化した仕事を紹介しました。
 まず,1400年代以降を対象とし,1900年代以降,イノベーションがスローダウンしているとするヒューブナーのグラフ。そして,過去7000年間を対象とした,リリーのグラフ。そこでは,近代以前にも急速な進歩があったことや,その後の長期の停滞といったことがみてとれます。

 しかし,両方とも「主観的」といわれても,しかたありません。自分でグラフの材料を選択したりポイントをつけたりしているのですから。

 「世界史上の重要な発明をピックアップし,カウントする」というやり方は,やはり限界があるのです。たしかに,私のように,もともとヒューブナーやリリーに近い見方をしている者からみれば,それは説得力があります。でも,異質な考えを持つ人には,そうではありません。

 だから,別の発想のグラフが描けないか,と思います。

 そのためには,「技術の進歩の度合い」を示すなんらかの指標を見出さないといけません。その変化をグラフ化するのです。

 その指標は,技術の進歩と結びついていて,こちらの恣意が入る余地が少なく,しかも数千年にわたって追跡可能である,というものでないといけません。

 たとえば「世界人口の変化」というのはどうか? 
 人口の増加と技術の進歩は,結びついているでしょう。食料などの物資を生産する技術の向上が,現在の世界人口を支えています。数字としても,客観性があります。

 しかし,「数千年にわたって追跡可能」という点で,ダメです。

 世界人口についての,あるていど信頼できる統計は,せいぜい1800年以降です。近代以前の古い時代には,戸籍や統計などの資料がほとんどないのです。国全体の人口がそれなりに正確にさかのぼれるのは,一部の先進国(ヨーロッパの一部,日本)で1600~1700年代までです。

 ときどき,数千年にわたる「世界の人口の変遷」のグラフもみかけますが,あれは推定に推定を重ねて,きわめて強引に描いたものです。描いた人の世界史に対するイメージをなぞっているようなところがあり,「主観的」です。参考にはなりますが,世界史を考えるうえでの基礎にはなりません。

 * *
 
 そこで私が考えたのは,「その時代の世界における,最大の都市の人口規模」という指標です。

 「その時代の,都市の大きさの世界記録」といってもいいです。

 それは,グラフの作成者が恣意的に選べる数字ではないはずです。
 それを数千年にわたって追いかけてみる。

 最大の都市の規模と,技術の進歩は結びついているでしょう。
 現代の「〇千万人」という規模の大都市は,現代の技術にささえられているのです。巨大な建造物も,発達した交通網や衛生設備も,大量の生活物資の流通も,みんな現代の技術のたまものです。これを否定する人は少ないはずです。

 たとえば,鉄道や自動車がなければ,都市の規模は,せいぜい徒歩で行き来できる範囲にとどまるでしょう。そして,実際に長い間,都市の規模は徒歩圏の範囲だったのです。
 上下水道のような衛生設備が整備されていなければ,伝染病が蔓延してしまうので,何百万人も密集して住むのは,まず無理でしょう。

 そして,「世界人口の変遷」とちがうのは,数千年にわたって追跡可能なことです。
 その時代における「最大の都市」というのは,やはり目立つ存在なので,いろいろな資料や痕跡があるのです。ざっくりとした数字なら,「世界人口」の推定などよりも,はるかにあてになります。

 たとえば古代の都市でも,遺跡の規模で,当時の市街の面積がわかります。断片的な戸籍資料が残っていることもあります。

 そのようなことから,今から1900年前に世界最大の都市であったローマ(ローマ帝国の首都)の人口は,20~30万人から100万人程度だったと推定されています。
 ずいぶん数字に幅がありますが,これはいくつかの説があるからです。
 でも,ここでの議論では「数十万人くらいであって,数万人でも数百万人でもなかった」とわかれば十分なのです。

 5000年ほど前に世界最大級だったメソポタミア(今のイラク)の都市・ウルクも,遺跡の規模(100~200ヘクタール)から,人口1~2万と推定されています。
 
 「人口統計のない時代に,世界ナンバーワンの都市なんてわかるのか?」と気にする人もいるかもしれません。でも,厳密に「ナンバーワン」を割り出す必要はありません。ここでの議論では,「世界最大級」ならいいのです。それでおおまかな傾向はわかります。

 5000年前の最大の都市の人口が「1~2万人」。
 それが2000年前には,「数十万人~100万人」。
 そして今は,カウントの仕方にもよりますが,「2000~4000万人」になっています。東京,ニューヨーク,メキシコシティ,ムンバイ,上海,サンパウロといった世界の主要都市の都市圏(東京なら首都圏)は,そのくらいの規模です。

 * * 

 私は,世界史にかんするさまざまな本から,いろんな時代の「世界最大(級)の都市」の人口をひろって,グラフを描いてみました。
 それが以下の「〈世界最大の都市〉の人口の変遷」です。
 その下のグラフは,前回紹介したリリーのグラフ。過去7000年の主要な発明をカウントしたもの。発明のさかんな時期ほど,グラフの線は高い値を示しています。

「最大の都市」の人口の変遷

 この「〈世界最大の都市〉の人口の変遷」のグラフは,縦軸が「対数」というものになっています。「1万人」「10万人」「100万人」「1000万人」のように,「比」(ここでは10倍)が同じ場合は,同じ目盛の幅になっているのです。

 こういう目盛では,成長の勢いが同じだと,グラフの傾きが同じになります。ものごとの成長率の変化をみるのに便利です。
 そして,数字のとらえ方も非常にざっくりしたものになります。たとえば「100万か50万か」といったちがいは,この目盛のうえではそんなに大きなものではありません。
  
 「最大の都市の規模」の成長は,この数千年でつぎのような経緯をたどっています。

1.紀元前4000年~3000年ころに急成長。1000人規模から紀元前3100年ころには1~2万人に。さらに紀元前2800年ころには4~5万人に(メポソタミアのウルクなど)。

2.その後の停滞。紀元前2800年ころから?

3.ふたたび急成長。その開始時期は定かでないが,紀元前2000年~1000年ころのどこか。この急成長の結果,数十万人~100万人規模の都市があらわれた(ローマ)。

4.その後(西暦100年代以降)また停滞。ローマ帝国が衰退したあと,イスラムの帝国や中国の王朝が繁栄したが,その中心都市の規模は,数十万人~100万人ほど。西暦100年代のローマを超えるものではない。

5.1800年代以降,3度目の急成長。1800年ころの世界最大の都市は,イギリスのロンドンや江戸,北京などで,その人口は100万人ほど。それが1850年には300万人ほどに(ロンドン)。1920年代には1000万人を超える都市もあらわれた(ニューヨーク)。


 そして,このような「最大の都市の規模」の成長期と停滞期は,リリーのグラフと重なっています。私のグラフで右肩上がりな時期は,リリーのグラフの,発明がさかんだった「波」の時期とほぼ同じなのです。
(上記の2つのグラフは,年代の目盛が重なるように並べています)

 なんか,話がうますぎる? そう思う人もいるかもしれません。

 数年前に描いたグラフですが,自分としては,相当に重要なことを示していると思っています。
 「世界的だな」と思うことさえあります(^^;)。

 でも,この数年で少なくとも数十人の人に説明したり,資料を配ったりしましたが,あまり共感や理解は得られませんでした。かなりの関心を示してくれた人も,少数はいたのですが……

 このグラフのことは,また次回に,もう少し説明させてください。

(第6回おわり,つづく)
2013年04月15日 (月) | Edit |
「社会の変化はゆっくりになっている」シリーズ,5回目。

(前回まで)
 社会の変化は,じつはゆっくりになっているのではないか。たとえば,ウルトラマンや仮面ライダーのような,古いキャラクターが,今も子どもたちの人気者であったりする。(第1回) 世界的にみても,たとえばポピュラー音楽のように,文化全般において新しいものが生まれなくなっているのではないか。 (第2回)

 技術革新にしても,この数十年,どれだけの進歩があったのか。パソコンやインターネットをのぞく,身の回りのさまざまな文明の利器(冷蔵庫,テレビ,電話,自家用車など)も40~50年前には,先進国ではすでに普及していた。「近年における技術革新の停滞」を指摘する,タイラー・コーエンのような論者もいる。(第3回)

 一方,「急激な技術革新に多くの人がついていけないことが,最近の混乱や停滞の原因」とする,ブリニョルフソンらのような見解もある。「活発な技術革新はこれからも続く」とする人たちの最大の根拠は,「これまでもそうだったから」という歴史への認識である。(第4回)

 * *

 今回は,「活発な技術革新はこれからも続く。それはこれまでずっと続いてきたのだから」という見方を再検討してみます。
 それにしても,「世界史における技術革新の速度」などということが,わかるものでしょうか?
 客観的な・数量的なデータで話ができれば,すっきりするでしょう。

 「近年における技術革新の停滞」を主張するタイラー・コーエンは,その著書『大停滞』(原著2010年)のなかで,あるグラフを示して,自説のひとつの根拠にしています。

 それが,以下の(上のほうにある)「近代における重要なイノベーションの件数」です。
 ヒューブナーという研究者が,1400年代後半以降の重要な発明をピックアップし,その件数を「人口10億人あたり」に換算してグラフにしたものです(2005年)。これによれば,技術革新のペースは,1900年代以降,スローダウンしています。
 このグラフは,タイラーの本のなかでも,とくに評判が悪いようです。「〈重要なイノベーション〉なんて,どういう基準で選ぶんだ?主観的じゃないか」と。

技術革新の速度のグラフ
 じつは,ヒューブナーよりも何十年も前に,すでに同じような発想のグラフが描かれています。
 それがヒューブナーのグラフの下にある「過去7000年間の発明のペース」のグラフです。リリーという技術史の研究者が,『人類と機械の歴史』(岩波新書)という著書(原著1945年)で示したものです。
 
 リリーもまた,世界史上におけるおもな発明と,その年代を調べあげました。そのうえで,それぞれの発明の「重要度」に応じて,ポイントをつけました。ポイントの高い発明が多くなされた,技術革新の活発な時期ほど,グラフの線は高い数値を示します。
 ヒューブナーとのちがいは,まず,数千年にわたる超・長期を対象としていること。それから,グラフの線が「1900年代以降も急速な技術革新が続いている」ことを示している,という点です。

 そして,このグラフも,評判が悪かったようです。というのは,『人類と機械の歴史』は,1965年に増補改訂版が出ているのですが,そこではこのグラフは削除されているからです。「主観的だ」といわれたのでしょう。

 * *
 
 しかし,リリーのグラフは,20代のときにはじめてみて以来,私にはどうも捨てがたいのです。
 というのも,このグラフが示していることが,私がさまざまな本を通じて得てきた世界史の大まかなイメージに合致しているからです。

 そのイメージとは,つぎのようなものです。 

「ずっと進歩が続いてきたのは,この数百年の,近代以降のこと。数千年の世界史をみわたせば,進歩や変化が何百年以上の長期にわたって停滞していた時代はあった」
 
「それも,近代以前の古い時代が全体として停滞していた,というのではない。この数千年のあいだには,(たとえば古代にも)比較的急速な進歩の時代もあれば,一方で,革新の少ない,停滞の時代もあった」
 

 私がこのようなイメージを持つようになったのは,今から20年ほど前の,20代後半のころでした。意識的に世界史の本を読むようになって,しばらくたってからのことです。

 当時の私が世界史の本を読んでいて「新鮮だ」と感じたことのひとつに,古代の文明レベルの高さがありました。

 たとえばこんなことです。

 今から2300年前の古代ギリシアで活躍した哲学者・アリストテレスの残した著作は,今の本にすると,数千~1万ページ分にもなります。それは,論理学,政治学,経済学,力学,天文学,生物学など,幅広い分野をあつかったぼう大な論文集です。そんな学者が,当時すでにいたのです。

 2000年ほど前(西暦100年代)のローマ帝国では,720万平方キロの領域のなかに,のべ8万キロあまりの公道が整備されていました。石畳などで舗装された道路です。
 この「8万キロ」というのは,1900年代後半のアメリカ全土(940万平方キロ)における高速道路網の長さ(9万キロ弱)に匹敵します。

 こういうことを知って,「このレベルを人類が明らかにのりこえたのは,近代に入ってからの,この数百年のことなのでは?」というイメージを持ったのです。

 1600年代のガリレオやニュートンは,アリステレスの学問をのりこえる,新しい科学(古典力学)を築きました。近代科学以前には,アリストテレスは,学問の世界の圧倒的な権威でした。
 ということは,アリストテレス以降千数百年のあいだ,学問はたいして進歩していなかったのです。

 学問がそうであれば,文明のさまざまな面が,停滞していたのではないか。

 古代ローマの公道は,ローマ帝国が滅亡したのち,その一部は1600~1700年代になっても使われていました。ヨーロッパ人が,ローマ帝国を大きく超えるインフラを整備するようになったのは,1800年代以降のことです。

 2000年前の水準を大きく超える文明は,近代になるまであらわれなかった。だとしたら,長い停滞の時代があったということだ……

 さらに,「古代の文明はある時期に急速に発達して,高いレベルに達した」ということも,知りました。

 たとえば,アリストテレスの時代から400~500年もさかのぼると,本格的な哲学や科学の論文は,世界のどこにも,まだあらわれていません。いろんな知識の集積はありますが,まだまだ「論理的」「学問的」ではないのです。
 それが,数百年ほどで「1万ページ」の論文を残す学者があらわれるまでになった。それだけ急速に学問が発達したということです。 

 * *

 以上のようなイメージがあったので,リリーの「発明のペース」のグラフは,腑に落ちるところがありました。

 リリーのグラフでは,「発明のペース」が高くなっている「波」が,3つあります。
 ひとつは,西暦1000年以降,とくに1500年以降の波。近代の技術革新です。
 これは多くの人が知っています。そして,「技術革新の波」というと,たいていの人はこれしか思いうかびません。

 しかし,リリーによれば,「波」はほかにもあるのです。

 そのひとつが,紀元前1000年ころから紀元1年ころまでのもの。2000~3000年前の波。
 これは,さきほど述べた古代ギリシアやローマ帝国の文明とかかわりがありそうです。

 それから,紀元前5000年ころから紀元前3000年ころにかけても,「発明のペース」が高止まりしています。そして,紀元前3000年(5000年前)ころ以降,急速に落ち込んでいる。

 紀元前4000年から3000年ころというのは,「文明のあけぼの」の時代です。
 「最古の文明」とされるメソポタミア文明やエジプト文明が開花したのは,このころです。紀元前3000年ころにおわった技術革新の波は,最古の文明を生んだのです。
 
 * *
  
 リリーのグラフは,「世界史のなかには,長い停滞の時代もあった」「その一方,近代以前の古い時代にも,急速な進歩の時代があった」というイメージを,グラフで示していると思えます。

 とはいえこのグラフは,「主観的」と批判されても,やはりしかたないでしょう。
 グラフのもとになる材料(重要な発明)を,自分で選択し,自分でポイントをつけているのですから。

 こういうグラフをのりこえる,ちがう視点からのグラフは描けないものでしょうか。もう少し「主観的」でない,「世界史における技術革新のペース」をあらわすグラフ。
 次回はその話をしたいと思います。

(第5回おわり,つづく)
2013年04月08日 (月) | Edit |
 「社会の変化はゆっくりになっている」シリーズ,4回目。
 前回までに,こんなことを述べました。

 社会の変化は,よくいわれているのとは逆に,じつはゆっくりになっているのではないか。
 そのことは,社会のあちこちにあらわれている。
 たとえば,ウルトラマンや仮面ライダーのような,今の親世代が子どものころに登場したキャラクターが,今も子どもたちの人気者でありつづけている。 (第1回)

 これはミクロな・日本での現象だが,世界的にみても,たとえばポピュラー音楽のように,文化全般において新しいものが生まれなくなっているのではないか。 (第2回)

 もっと大きな現象だと,技術革新の停滞ということはないか。
 40年以上前,月にアポロ宇宙船が着陸して以降,どれだけの進歩があったのか。史上最速の実用的な旅客機は,1970年代に就航したコンコルドである。
 パソコンやインターネットをのぞく,身の回りのさまざまな文明の利器(冷蔵庫,テレビ,電話,自家用車など)も1950年代までには,最先進国アメリカでは,すでに普及していた。(前回=第3回)

 そして,「近年における技術革新の停滞」を指摘する,経済学者タイラー・コーエン(『大停滞』)の見解について紹介しました。

 * *

 「技術革新が停滞している」という見方には,批判も多いです。
 たとえば,エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーは,その共著『機械との競争』(日経PB社)で,タイラーの説を批判しています。

 この30~40年,アメリカ経済が一種の「停滞」にある,という点はブリニョルフソンらも,タイラーに同意します。しかし,その原因はちがうと。

《彼ら(「大停滞」論者)は技術革新のペースがスローダウンしたからと主張するが,私たちは,ペースが速くなりすぎて人間が取り残されているのだと考える。》

 つまり,ITの急激な進歩によって,経済・社会は大きな再構築の時代をむかえている。
 そのなかで,多くの労働者が「テクノロジーとの競争」に負けている。
 たとえば,従来のような事務職や中間管理職が陳腐化して,ニーズが大きく減る一方,それで職を失った人たちは新たな仕事をみつけられないでいる。

 また,企業や政府も,急激なデジタル技術の進歩に対応した価値観や組織をつくることができていない。
 この傾向は,今後さらに加速するだろう。

《いま私たちが直面している問題の根本原因は,大不況でも大停滞でもない。人々が「大再構築…」の産みの苦しみに投げ込まれているということである。》

 「大停滞」のタイラーと,「大再構築(テクノロジーとの競争)」のブリニョルフソンたち。
 両者は真っ向から対立しているようにもみえますが,じつはひじょうに近い立場だと,私は思います。

 まず,「技術革新」に注目する点で,両者は「近い」です。 
 現代の経済を論じるほかの論者たちは,「この数十年における技術革新の状況」などまず問題にしません。

 それから,ブリニョルフソンらの「技術革新に多くの人がついていけていない」という「大再構築」論に近い見方が,タイラーにもあります。

 タイラーは,《(近年の技術革新は)大半の労働者の技能に適した雇用を創出できていない》と述べています。インターネットなどの今日の新しい技術については《私たちの生活に大きな恩恵をもたらしたが,多くの人に就職先を与えることはできていない。しかるべきIT関連の技能の持ち主は別だが》といっています。

 また,「IT・デジタル技術こそが,現代における技術革新の中心である」という認識も共通です。

 ブリニョルフソンらとタイラーのちがいは,「これから先,ITが社会の多数派の人のための雇用を創出するといった,今以上の大きな変化をもたらすかどうか」という点です。
 この点で,ブリニョルフソンらは楽観的で,タイラーは懐疑的なのです。

 しかし,両者はひじょうに近い問題意識や,現状認識を持っていると思います。
 ただ,未来への見通しがちがう。
 「さらに,急激な進歩が続く」という未来像と,「停滞を迎えつつある」という未来像。

 このあたりになると,議論は平行線になってしまいがちです。
 未来のことなんて,やはりわかりません。

 でも,「進歩」の未来像と,「停滞」の未来像が根拠としているものを点検しておくといいと思います。
 それによって,私たちは未来についてもっと深く考えることができるのではないでしょうか。

 * *

 「進歩」派の根拠は,煎じ詰めると「これまでもそうだったから」ということ。そういう歴史への認識です。
 
 タイラーの「大停滞」論への批判で典型的なのは,「こういう技術進歩の限界を主張する悲観論は,過去にもあったが,ことごとく覆されてきた」というものです。

 たとえば,マルサスという学者は,1800年ころの著作で「人口増加に食糧生産の技術的発展は追いつけない」と述べました。1970年ころに「ローマクラブ」という学者のグループは,世界的な「成長の限界」ということを主張しました。これらの見通しは,みんな「はずれ」だったではないか,というわけです。

 「大停滞」派が,この批判にどう応じているかは,よくわかりません(最新の海外の議論までフォローできないので……)。
 しかし少なくとも,「社会の変化はゆっくりになっている」論者の私は,この批判に答えることができます。

 「これまでそうだったからといって,これからもそうとはかぎらない」というだけではありません。つぎのように,私は考えます。

「これまでずっと進歩が続いてきた,というその前提はまちがっている。そう思うのは,せいぜいここ300~400年の近代の歴史しかみていないからだ。数千年を視野に入れて世界史をみわたせば,進歩や変化が何百年以上の長期にわたって停滞していた時代はあった」
 
 というと,「昔の時代に,進歩がゆっくりだったのはあたりまえじゃないの?」と思うかもしれません。
 でも,そういうことではないのです。

「近代以前の古い時代が全体として停滞していたのではない。この数千年のあいだには(つまり古代や中世にも),比較的急速な進歩の時代もあれば,一方で,革新の少ない,停滞の時代もあった」

「だとしたら,今後の近代社会が,大きな停滞期に入ってもおかしくないのでは?過去に同じようなことがあったのだから……」


 なんだか,大風呂敷すぎて,ますますあやしくなってきましたが……

 でも,「社会の変化はゆっくりになっている」論は,そういう大風呂敷なものなのです。
 つまり,「数百年」「数千年」単位で世界史をみわたすような視点が必要です。

 その点,タイラーやブルニョルフソンらは,風呂敷の広げ方が足りません。

 「大停滞か,そうでないか」という話は,「サブプライム危機以降の世界経済」といった,世界史レベルでは「超短期」の議論とは,ほんらいは次元がちがうのです。
 たしかに2人の論者は,短期の視点にとどまらない議論をしようとしています。しかし一方で「現代の課題」にこたえようともしている。少し中途半端なのです。だから,短期的な視点しか持てない人たちから,的外れな批判も受けます。

 たとえば「1973年からアメリカ経済の成長率は低下しているが,その年を境に技術革新のスローダウンが起こったとはいえないだろう」などという人がいます。

 何いってんだ,と思います。わかってないなあ。

 もっと風呂敷を広げないと。もっとざっくり議論しないと。

 そこで次回は,「ここ数千年の世界史における,技術進歩の速度の変化」を論じます。

(以上,つづく)
2013年03月30日 (土) | Edit |
 「社会の変化はゆっくりになっている」論の3回目です。
 これまでの話(2月14日3月24日)に対し,読者の方から反応をいただきました。

《時代の変化がゆっくりになっている論は,奥が深そうですね。他にもそう言える現象がないか探してしまいそうです。》

《お話大変おもしろいです。だいぶ前にそういちさんからウルトラマンや仮面ライダーのことを伺って,そうだなあとずっと思ってきました。で,その原因は何でしょうか?》

 そこで,今回は「ほかにもそう言える現象はないか」「その原因は何か」といったことについてです。

 今まで「社会の変化はゆっくりになっている」という実例として,ポピュラー音楽やイスのデザインのような,社会や文明全体からみれば,どちらかというとミクロなことをあげてきました。「親子が同じキャラクターに夢中になっている」などというのは,「ミクロ」の最たるものです。

 もっと大きな現象はないのでしょうか?
 あります。それは「技術革新」にかんすることです。
 
 たとえば,宇宙旅行。1969年のアポロ11号以来,1972年まで月への有人飛行が行われてきましたが,その後はとだえています。SFにでてくるような月面宇宙ステーションは21世紀になった今も実現していません。

 実用化された史上最速のジェット旅客機は,1969年に初飛行したコンコルドです(イギリス,フランスの共同開発)。その最高速度はマッハ2。採算性の問題があり,同機は2003年に引退しました。その後,商業飛行を行う,コンコルドのような「超音速旅客機」はあらわれていません。
 「最速の旅客機」の性能(速度にかぎってですが)は,1970年ころ以降,足踏みしたままなのです。
 それはつまり,「一般の人が乗る最速の乗り物のスピード」が,何十年も変わっていないということです。
 
 そういえば,東京~大阪間の所要時間も,この50年ほど,そんなに変わっていません。1964年に東海道新幹線が開通して,東京~大阪間は,それまでの特急の7時間半から,3時間余りになりました。それが1990年代半ばに2時間半になって,現在にいたっています。たしかに時間短縮はされましたが,新幹線ができたときとくらべれば,インパクトは小さいです。

 40年ほど前に子どもだった私は「21世紀には時速500キロのリニアモーターカーの時代になる」と聞かされていましたが,いまだ実現していません。

 もっと身近なところで,自宅のなかを見わたしてみましょう。
 電気照明,冷蔵庫,電話,テレビ,自家用車といった文明の利器は,1950年代の時点で,すでにありました。当時のアメリカでは,それらは多くの家庭に普及していました(日本では1960年代以降に普及した)。

 今の私たちの家にあるもので,1950年代当時なかったものといえば,パソコンやインターネットくらいのものです。

 * *
 
 以上のことは,1900年代前半までの技術革新にくらべ,その後の技術革新が,スローダウンしていることのあらわれではないでしょうか。

 そして,この「技術革新のスローダウン」こそが,「社会の変化がゆっくりになっている」ことの根底にあるのではないでしょうか。

 技術革新は,生産活動や日々の暮らしを変えていきます。経済成長を左右する大きな要因です。
 つまり,技術革新は社会を変えていくのです。それが急速であれば,社会は急速に変わるし,スローダウンすれば,社会の変化はゆっくりになる……言ってしまえばあたりまえの話です。

 私は,こういうことを10数年くらいまえから考えていました。
 10年ほど前には,2月14日の記事のもとになったレポートを書いて,周囲の人にみせたり話したりしています。

 大風呂敷に言えば,

 「近代社会を生み出し,発展させてきたさまざまな革新が,だんだんとネタ切れになっているのではないか。近代社会が,創業期の勢いを失いつつあるのではないか」

 ということを考えたのです。
 そして,それがマクロやミクロのさまざまな現象としてあらわれているのではないか,と。

 * *

 でも,そう考えるのは,私だけではないようです。
 「技術革新の停滞が,社会・経済の停滞を生んでいる」と主張して,近年アメリカで評判になった本があります。

 タイラー・コーエン著,池村千秋訳 大停滞  NTT出版,2011年(原著2011),1600円+税

 という本です。著者は,大学教授の経済学者。

 「アポロ計画以降の宇宙開発」や「家庭にある文明の利器で,最近新しく出てきたのはパソコンやインターネットくらい」といった「技術革新の停滞」の事例は,コーエンの本にもあります。

 この本については,「誇大妄想」といわれそうですが,「やられた」と思いました(^^;)。
 その一方で,「ほらね」と,自分の見識を(かつて話しをした友人たちに)自慢したい気持ちもあります。

 コーエンは,「1970年代以降,アメリカ経済は〈大停滞〉の時代を迎えている」といいます。
 それはゼロ成長ということではなく,以前の高成長の時代がおわり,成長が鈍化してきたということです。
 たとえば《一九七〇年代以降,アメリカ人の所得の中央値はきわめて緩やかにしか上昇していない》のだと,統計を示して述べています。
 
 そのような「大停滞」が起きたのは,なぜなのか?
 コーエンはこれを《容易に収穫できる果実は食べつくされた》と表現します。
 まとめると,こういうことです。

 かつてのアメリカ経済には,「無償の手つかずの土地」という資源が豊富にあった。さまざまな「イノベーション(技術革新)」が活発に行われ,教育によって可能性を大きく開花させることができる「未教育の賢い子どもたち」が大勢いた。
 1700年代以降,このような「容易に収穫できる果実」の存在が,アメリカ経済の成長を後押ししてきた。しかし,この数十年でそのような成長の源泉が枯渇してきたために,経済成長は鈍化するようになった……

 
 コーエンがいう「容易に収穫できる果実」(「無償の土地」「技術革新」「未教育の子ども」)のうち,最も重要で普遍的なのは,「技術革新」でしょう。コーエンもこれを議論の中心にすえています。

 そして,「大停滞」にかんする議論も,おもに「技術革新が停滞期に入っている」という見方をめぐってのことでした。「いわれてみれば,たしかにそうだ」という人はかなりいましたが,疑問をいだく人も多かったのです。

 技術革新は,ほんとうに停滞しているのか?
 これについては,また次回考えてみたいと思います。
 
(以上)
2013年03月24日 (日) | Edit |
 2月14日の記事で「最近の社会の変化は,よくいわれるのとは逆に,じつはゆっくりになっているのではないか」ということを述べました。

 その入り口として,こんな話をしました。

 最近の子どもは,ウルトラマンや仮面ライダーのような,今の親世代と共通のキャラクターに夢中になっている。そんなことは,今の親世代とその親(60~70代以上の世代)のあいだでは存在しない。親と子が同じものに夢中になるのは,社会の変化がゆっくりになっているということの,ひとつのあらわれではないか。

 そして,「変化がゆっくりになっている」背景には,経済成長のスピードが鈍くなっていることもあるのではないか。

 さらに,「ここでは日本のことをいっているけど,海外や世界ではどうなのか?」といった宿題を残しました。

 今回は,その「海外・世界」にかかわる話です。

 * *

 昨日私は,お花見に行ってきました。
 近くの団地に住む,友人のNさん夫妻主催のお花見会。
 Nさんの家の近所にある,桜のきれいな公園に数人が集まりました。しばらく宴会をしたあとは,Nさん宅で2次会です。

 Nさんは私より数歳若いアラフォーの男性で,ミュージシャン(ベース奏者)です。私が失業時代に通っていた公的な職業講座(パソコンや簿記を習うみたいな)で知り合いました。以来,ときどきお酒を飲んでいます。
 
 レコードやCDが詰まった棚のある居間で,ちゃぶ台を囲んで飲みつつ,Nさんは言いました。

「そういちさんのブログの,社会の変化がゆっくりになっている,という話,あれは,まさに音楽のことだと思ったなあ」

「昔,ハタチくらいのころ,60~70年代のちょっと前の曲(洋楽)を聞いてると,周囲の友だちから『お前はレトロ趣味か』とか,結構からかわれたんですよ。でも,今は20代の若い連中が,『〇〇〇(←70年代の洋楽のバンド名)のギターの△△が大好きなんです』とか言ってきて,話が合ったりする。オジさんと若い連中が,何十年も昔の音楽の話題で盛り上がれる。そういうことが,今はあたりまえ。ほんとに時代が熟してきたというか,変化がゆっくりになってきてるんだなって」

「ふーん。じゃあNさんからみて,音楽の世界では,新しいものがでてこなくなってきている?」

「そうだねえ,最近もいろいろなことはあるとは思うけど,基本的なありかたは,(いつからかははっきりしないけど)そんなには変わらなくなってきた感じはある。ちょっとエラそうかな……でも,わりと新しいジャンルのヒップホップなんて,過去の遺産の編集や批評を軸に成り立っているわけだし」

 Nさんはブラジル音楽(たとえばボサノバとか)が専門ですが,ジャンルを問わず海外のいろんな音楽を聴いてきた人です。だから,以上の話は「世界的にみて」ということなのでしょう。
 酔っ払って,すっかり気が大きくなりました(^^;)

 私は音楽のことは,まるで知らないです。
 読者で音楽に詳しい方がいたら,「世界的にみて,音楽の基本的なありかたが,そんなに変わらなくなってきた」という見方についてどう思われるか,あるいは参考になる本があったら,教えていただければ幸いです。

 ここでひとつ思い出しました。
 10年あまり前にラジオで聞いた,「オアシス」というイギリスの人気ロックグループのメンバーが「俺たちはビートルズを超えた」と言ったとか言わないとかいう話です。
 当時のオアシスからみて,ビートルズは30年くらい前の人たち。
 さっきウィキペディアをみたら,彼らは「現代のビートルズ」と称されることもあるとか。
 こういう話を見聞きすると,「変化はゆっくりになっている」と感じます。

 1960年代のジョン・レノンやポール・マッカートニーは,自分たちより30年も前の誰かをつよく意識するということはなかったはずです。彼らはそれだけ新しい存在で,そんな遠い過去に,比較の対象になるようなものは存在していなかったのです。
 
 まあ,音楽のことは,自信を持った話はできません。
 でも音楽は「変化がゆっくりになっている」ということの,よい例だと思います。とくに,「世界の文化の動き」を示す素材として適しています。世界のおおぜいが「共通体験」を持つ,ポピュラーな分野だからです。

 もう少し自信のある話なら,建築・デザインのことがあります。
 愛好者として,私が興味を持ってきた分野。

 たとえば,このブログでも何度かとりあげたイームズのような,ミッドセンチュリー(1940~60年代)の建築家やデザイナーたち。
 彼らは,音楽でいえば,プレスリーやビートルズ(やそのライバルたち)のような存在です。
 最近の「今風」といわれる空間に,ステキなイスが置かれている。そのイスはたとえばイームズとかの,今から50~60年も前にデザインされたものだったりします。でも,多くの人は,そんなことは知りません。そのイスも同じように「新しい」ものだと思っているのです。
 半世紀前のイスが「レトロ」でなく「新しい」感じがするとすれば,それが「変化がゆっくりになっている」ということです。

 でも,言葉中心で説明するとなると,デザインの話は伝えにくいです。関心を持っている人の層も薄い。イームズはビートルズのようにポピュラーではありません。

 そういえば,数年前,20代の女性と話していたとき,「柳宗理のバタフライスツールって,ほんとに美しい」という話がでてきました。
 柳宗理(1915~2011)のバタフライスツールは,日本のイスの名作で,1954年のデザインです(柳は,イームズとも交流がありました)。
 その女性は,デザインに専門的な関心があったわけではありません。今どきの「ステキなもの」のひとつとして,50年前のイスが目にとまったのです。
 つまり,昔のバンドの「このギターがいい」とNさんに話す若者と同じこと。

 Nさんは,そのミュージシャンについて,ウンチクを語ったことでしょう。私も,その若い人に柳宗理についてのウンチクを聞いてもらい,たのしいひとときでした……
 
 やっぱり,社会の変化はゆっくりになってるんじゃないでしょうか。

(以上)
2013年02月14日 (木) | Edit |
 ざっくりした社会・文明論的エッセイ。
 以前にアップした記事の改訂版です。大幅に圧縮しています。
 すでに「過去の記事」のまま改訂していたのですが,掘り起こすためにあらためて新しい記事としてアップしました。こういうことはこれからもときどき行うと思います。
 
 先日,ある読者からこの記事について,こんな感想をいただきました。

《なるほどと頷けますね。社会が停滞しているのは誰もが感じているはずだし,考えてみればそうなんですが。考えはじめるといろいろ考えて?しまいますね》
   
 この「社会の変化はゆっくりに…」は,自分としては強い思い入れがある文です。でも,読者に受け入れてもらうのがむずかしいのでは,とも感じていました。だから,こういう感想をいただけたのは非常にうれしいことでした。


社会の変化は,ゆっくりになっている?


親と子が同じものに夢中になる
 「社会の変化は,どんどん速くなっている」と,よく言われる。
 でも,本当だろうか? 
 私には,「社会の変化は,じつはゆっくりになっているのではないか」と思えることがしばしばある。
 
 それはたとえば,今どきの小さな子どもが「ウルトラマン」のテレビやキャラクターグッズに夢中になっているのを見ているときだ。

 子どもたちは,親たちがかつて夢中になったのと同じキャラクターで遊んでいる。

 ウルトラマンだけではない。今子どもたちがみているテレビ番組やマンガには,親の世代が子どものころみていたのと同じものがたくさんある。
 「ドラえもん」や「鬼太郎」はそうだし,「仮面ライダー」や「なんとかレンジャー」もあるし,「ガンダム」みたいなロボットものもそうだ。

 しかし,今(2013年現在)親になっている30代~40代の人たちとその親のあいだでは,「共通のキャラクターに夢中になる」という関係はないはずだ。

 私は,初代ウルトラマンのテレビ放送がはじまった1965年(昭和40年)の生まれだ。
 私が生まれる二十数年ほど前の,昭和のはじめから戦中期に子どもだった私の父は,当時の人気雑誌『少年倶楽部』に連載していた漫画「のらくろ」や「冒険ダン吉」を熱心に読んでいた。

 でも,私は子どものころ「のらくろ」を知ってはいたが,夢中になったことはない。
 私が小学生のころテレビアニメになったこともあったが,子どもたちはあまりみていなかった(そんなアニメは知らない人が多いのでは?)。
 
 私のような1960年代に生まれた世代は,「親と自分たちでは,育った時代や環境がまるでちがう」と感じている。昭和の戦前・戦中に生まれた私たちの親は,テレビもアニメもない世界で育ったのだ。

 しかし,今の子どもたちは,親と同じテレビ番組をみて育っているのである。
 もちろん,今人気のキャラクターの中には,最近になってでてきた新しいものもたくさんあるわけだが,「ウルトラマン」のような古いキャラクターも,「定番」として重要な位置を占めている。

 「子どもたちが,親の子ども時代と同じキャラクターに夢中になる」というのは,「それだけ世の中の変化がゆっくりになってきた」ということではないだろうか。

 私の父が生まれた1930年代から,私が生まれた1960年代までの30年と,60年代から現在までの30~40年を比べると,最近のほうがゆっくりと時間が流れているのではないか,ということだ。

変わらない顔ぶれ
 テレビの世界で「長いあいだ顔ぶれが変わっていない」のは,子ども番組だけではない。
 ビートたけし,タモリ,さんま,といった人たちが「お笑い」の頂点に立ってから(1980年代から)三十年ほどが経つが,彼らはずっと第一線で活躍し続けている。これらの大御所にとって代わる新世代は現れていない。

 こんな「長期政権」は,1960年代や70年代のテレビにはなかった。クレイジー・キャッツやドリフターズや欽ちゃん(萩本欽一)がテレビの世界の主役でいた期間は,もっと短かかった。

 子ども向けのキャラクターやお笑いタレントを例としてあげたのは,最も多くの人にとっておなじみで,活気や変化にあふれていると思われている分野だからだ。ほかのジャンルでも似たようなことはあるだろう。

 音楽や文学や美術やファッションや建築でも,特定の大御所が20年30年とその世界の頂点に立ち,今も第一線で活躍し続けているということがある。
 新しいスターも生まれてはいるが,古い大御所に取って代わる存在ではない……自分の関心のある分野で考えてみると,きっと例が浮かぶだろう。
 そして,50年以上前には,そんな「長期政権」は,その分野には存在しなかったはずだ。もっと短いサイクルで,主役は交代していた。
                       
なぜ「変化」が強調されるのか
 以上,いろいろ述べたけれど,どうだろうか?
 「社会の変化がゆっくりになっている」などという話は,たぶんあまり聞いたことがないと思う。
 「変化が速くなっている」という人が世の中には多すぎる。
 
 どうしてそうなるのか。
 ひとつには,そのほうが新製品や出版物が売りやすいということがあるだろう。
 「世の中はどんどん変化していますよ」と言ったほうが,人びとは社会の変化にあわせて新製品を買おうとしたり,新しい時代のために知識を得ようと本を買ったりしてくれるはずだ。
 だから,情報発信する人たちが「変化」を強調する。それが世の中に影響をあたえているということだ。
 
 それに,私たちにものを教えてくれる専門家たちは,自分の分野について「変化がゆっくりになっている」などとはまずいわない。それでは「私たちの仕事は,最近はマンネリです」といっているようなものだ。そんなことはいいたくないだろう。
 また,それぞれの分野で,たくさんのこまかい改良や洗練が積み重ねられているのも事実だから,くわしい人ほど,そっちのこまかい進歩に気をとられてしまう。それで,大きな流れ(じつは変化がゆっくりになっていること)に気がつかない。
 
 こんなふうに,世の中には,いろんなかたちで「変化」ばかりを強調してしまう傾向があるように思う。そういうしくみになっている,といったらいいだろうか。

 だがけっきょくのところ,「社会の変化はゆっくりになっている」なんて,「ほんとうにそうだ」とみんなが納得できるように示すのはむずかしい。やはりとらえどころのない話だ。

 それに,「ゆっくりになっているとしたら,それはなぜ?」と,気になる人もいるだろう。
 1950~70年代の高度経済成長のような,急激な経済の発展がおわったから?
 それもあるかもしれない。高度成長期には,年率10%程度で経済が大きくなっていたが,この20年はせいぜい年率1~2%にすぎない。急激に経済が成長していた時期と,この20年ほどの,すっかり成長が鈍くなった時期とでは世の中の変化のスピードが変わって当然だ。
 さらに,人間の寿命が延びたことも影響しているかもしれない。旧世代がいつまでも元気だと,世の中はなかなか変わっていかない。
 あるいは,もっとちがう何かが関係しているのかもしれないが,「なぜ?」という話はこのくらいにしておこう。

 それから,「変化がゆっくりに」というのは,日本だけのことなのか?という問題もある。海外は,世界はどうなのか? 先進国と発展途上国ではちがうのか?

 これらのことは,また別の機会に。
 
 とりあえずは,ここで述べたこと――「変化がゆっくりになっている」ということに十分に納得がいかなくても,「そうかもしれない」「そういう面もあるかも」くらいに思ってもらえればいい。
 その視点を持つことによって,社会のいろんな現象を,より深くみることができるのではないかと思う。ものごとのいろんな面に気づきやすくなるのだ。
 
(未完)