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2019年10月27日 (日) | Edit |
別ブログ「そういち総研」の新しい記事を、さきほどアップしました、

15分で読む世界史まとめ←クリック

世界史5000年の大きな流れを、15~20分で読める分量(6000文字ほど、原稿用紙十数枚分)で書いています。各時代の最も繁栄した「中心」といえる国・地域に焦点を合わせ、その移り変わりを追いかけるという方法によるものです。

これまで、ごく短い分量で世界史をまとめるというのは、数百文字、1000~2000文字、1~2万文字といったバージョンで書いたことがありますが、5000~6000文字というのは初めてです。正確には、10年近く前にそのくらいの長さで書いたものがありますが、それは公表せず、1~2万文字のバージョンに改定していきました。

「世界史を15分で」というのは、無謀な感じもしますが、多くの人が世界史に入門するうえでおおいに意義があると思っています。短時間で全体像をつかむことができれば、「わかりにくい」とされる世界史が、かなりとっつきやすくなるはずです。

「短い分量で世界史をまとめる」というのは、私にとって大事なテーマのひとつ。この「15分バージョン」は、今現在の自分の認識をふまえて、以前のものをベースにしながらも、新しく書き下ろした感じです。これからもバージョンアップなどを重ねていきたい。

そして、5000~6000文字の分量というのは、なかなかいいなと思います。読んでいただければ幸いです。

(以上)
2016年10月30日 (日) | Edit |
私は最近、『一気にわかる世界史』(日本実業出版社刊、全国の書店・アマゾンなどのネット書店で発売中)という本を出しました。この本は、「世界史上の〈繁栄の中心〉といえるような強国・大国の移り変わりに注目して、世界史のおおまかな流れを一気にみわたす」という方針で書かれています。

今回の記事は、その『一気にわかる世界史』の「補論」といえるものです。応用編のひとつといってもいいでしょう。


となり・となりの法則

「繁栄の中心」は、世界史のなかで何度も交替してきました。そのような新旧の中心の交替においては、つぎのような傾向がみられます。

新しい繁栄の中心は、それまでの「中心」の外側で、しかしそんなには遠くない周辺の場所から生まれる。それは、世界全体でみれば「となり」といえるような近い場所である。

そして、本書(『一気にわかる世界史』)では、このような「繁栄の中心の移り変わり」に関する単純な法則性を「となり・となりの法則」と名付けました。

国・社会というものは、自分たちの「となり」の存在からさまざまな影響を受けています。とくに、「となり」に「繁栄の中心」といえるような高度に発展した社会がある場合、その「中心」からさまざまなことを学び、それを大きく発展させることができた国・社会から次の時代の新しい「中心」が生まれるということが、ときに起こります。

だから、世界史における繁栄の中心が移動するときは、「となり」へ、ということになる。そのような移動が世界史ではくりかえされてきたので、「となり・となり」というわけです。

本書では90ページほどで世界史5000年の通史をまとめており、それが本書のメインとなっています。そこで述べている「世界史上の繁栄の中心の移り変わり」は、ざっくりまとめると、つぎのとおりです。

1.西アジア(今のイラク・エジプト・イラン・トルコなど)
2.ギリシア・ローマ(今のギリシア・イタリア・スペインなど地中海沿岸)
3.イスラム(イラク・エジプト・イラン・トルコなどの西アジア)
4.西ヨーロッパ(イタリア・スペイン→オランダ→イギリス)
5.アメリカ(最初は東海岸のみ、のちに西海岸まで拡大)


このように、世界史における「中心」は、つい最近アメリカが繁栄するようになるまで、西アジア(イラク・エジプト・イランなど)か西ヨーロッパでした。

ただし、近代以前までは、西ヨーロッパの繁栄の中心はアルプス以南(地中海沿岸)に限定されています。

それが近代になってはじめて西ヨーロッパのアルプス以北で「中心」となる国があらわれました。オランダとイギリスです。そして、イギリスの時代を経て、その「中心」が大西洋を越えてアメリカ(とくにニューヨーク・ワシントンなどがある東海岸)に移ったのでした。

なお、本書では「世界史における地域区分」として、以下のように世界史の地域を大まかに区分しています。下の図は、「ユーラシア」という、アジアからヨーロッパにかけての範囲における区分です。

  世界史の地域区分 -ユーラシア

なぜ、西アジアと西ヨーロッパか

ここで考えてみたいのは、「なぜ、西アジアと西ヨーロッパなのだろう?これらの地域が世界史の中心であり続けたのはなぜだろう?」ということです。

これは、位置関係のほかに地形などの条件も関係していると思われます。つぎのようなことです。ひとつの仮説的な考えとして聞いてください。

さまざまな地理的条件のために、西アジアと西ヨーロッパは、ひとつの大きな「まとまり」になっていた。その中に多様な民族や国が存在している。「となり」の人々に豊富に恵まれているといっていい。こういう環境では、「となり・となり」現象が順調に展開しやすい。だから西アジア+西ヨーロッパは、世界史の中心的な舞台となった。

では、西アジア+西ヨーロッパが地理的に大きな「まとまり」であるとは、どういうことでしょうか。

西ヨーロッパ(アルプス以南)から西アジア、そしてインド、とくに西側あたりまでの範囲というのは、比較的移動がしやすいのです。つまり、険しい山脈、大きな砂漠、熱帯雨林といった自然の障害がそれほどではないのです。

西ヨーロッパと西アジアは、地中海でむすばれています。地中海は比較的おだやかな海なので、船での行き来がしやすいです。

西アジアの中はどうかというと、メソポタミアとシリア、エジプトのあいだには平たんな土地でつながった(砂漠以外の)部分があり、比較的行き来がしやすいです。

トルコやイランでは高原地帯が広がっていますが、ひどく険しい山岳地帯というわけではありません。さかんに移動できるルートが、この一帯のなかにあるのです。もちろん「険しくない」というのはあくまで比較の話で、ヒマラヤのような世界の中で特に険しい山地と比べて、ということです。
また、西アジアとインドの西側の地域のあいだは、紀元前の古い時代からインド洋や沿岸の海を船で行き来することも行われてきました。

そういうわけで、ヨーロッパからインドの西側までは、いわば「ひとつづきの世界」になっているということです。

だからこそ、アレクサンドロス大王(紀元前300年代)はギリシアから遠征に出発して、短期間のうちに西アジアのメソポタミア、エジプト、イランなどを征服し、インダス川沿岸の地帯まで進軍することができたのです。交通網の未発達な紀元前の世界でそれができたのは、もともとこれらの遠征ルートになった地帯が、地理的に行き来がしやすいものだったからです。

 (アレクサンドロスの帝国)
  アレクサンドロスの帝国の広がり

西アジア+西ヨーロッパに匹敵する広い範囲のまとまりは、ユーラシアのほかの場所にはないのです。また、アメリカ大陸などの、新大陸にもありません。

なお、東ヨーロッパや中央アジア(上図参照)も、「中心」として繁栄したということはありませんでしたが、西アジア+西ヨーロッパとは地理的・地形的に「つながっている」といってもいえます。これらの地域は西アジアや西ヨーロッパと深いかかわりをもってきました。つまり、ユーラシアの西半分は東西ヨーロッパ+西アジア+中央アジアという、きわめて大きな「ひとつづきのまとまり」をなしているのです。

そして、「ひとつづきのまとまり」であると同時に、その広大な地域は山地や川や乾燥地帯などでゆるやかに区切られてもいます。その区切られた地域ごとに、いろいろな人びとが住んでいます。ということは、「豊富な多様性をふくんだ、ひとつづきの世界」だということです。


ほかとは切り離されている中国

ユーラシアにおける、もうひとつの大きな地理的な「まとまり」に、中国があります。
その中国は、ユーラシアのほかの文明の中心地帯からはかなり切り離された条件にあります。

西側にはヒマラヤ山脈とチベット高原という世界一険しい山々や、タクラマカン砂漠といったこれも非常にきびしい環境の砂漠があります。「障壁」としてはやや影響は少ないものの南側の一部には東南アジアの熱帯雨林もあります。

北側に広がるユーラシアの草原地帯は、たしかにユーラシアのほかの地域への「交通路」にはなり得ますが、騎馬遊牧民の世界です。中国という文明の中心からみれば、自分たちの活動を展開していくうえで「障害」といえます。

中国は、インドや西アジアとは、そのような「自然の障壁」で区切られているのです。
 
中国は大きいです。巨大な人口を抱えていて、それだけでひとつの「世界」をつくっているとはいえます。しかし、広くユーラシア全体をみわたしたとき、ユーラシアのなかでは比較的狭い範囲で孤立しているともいえるのです。

そして、その「孤立」した範囲のなかの「多様性」には、やはり限界があります。たしかに中国には多くの民族が存在しますが、「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」にくらべれば、そのバリエーションがかぎられるのは当然です。

それに、「中国」というのは、その範囲全体が(分裂時代もありましたがかなりの時代にわたって)ひとつの国として統一されてきたのです。統一国家としての歴史が積みかさねられれば、それだけその地域の「多様性」は、失われていくでしょう。言語やその他の生活習慣が共通化していくわけですから。

そして、「中国」という地域が、基本的に国として統一を保てたのには、地理的な要因も大きく働いています。

中国のメインの部分は、広大な平地が広がっているのです。つまり、北方の草原地帯から、黄河流域の華北、揚子江流域の華南にいたるまでの地域は、基本的に平地です。そこに船で行き来しやすい大河が広がっています。西暦600年ころには途中で黄河と揚子江を横断する南北の大運河もつくられました。

このような地理的条件であれば、広大な地域をひとつの勢力が統一し、統治することが比較的(あくまで比較的)容易なのです。

単純化していえば、中国は広大で人口が大きいわりには、「均質なまとまり」をつくっているということです。もちろんこれは「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」とくらべれば、ということです。

こうした中国の「孤立」「均質性」については、これまでに何人もの歴史家が指摘してきたことです。たとえば近年の世界史本のベストセラーである、ジャレド・ダイアモンド『銃・鉄・病原菌』でも論じられています。


中国で「近代科学」が生まれなかったのは?

中国のこうした「孤立」や「(ほかと比較した場合の)均質性」は、文明を発展させるうえでは、「西アジア+ヨーロッパ(+インド西部)」とくらべれば、不利な条件です。

本書(『一気にわかる世界史』)で述べたとおり、世界史上のさまざまな民族は、「となり」の人びとからさまざまな成果や遺産を受け取ることを通じて発展してきました。それが「となり・となり」とくりかえされることで、大きな進歩もおこっています。

たとえば、古代ギリシア(2500年前ころから繁栄)が文明を開化させるにあたっては、エジプトなどの西アジアの文明の影響を大きく受けていますし、ギリシア人を征服したローマ帝国(2000年ほど前に繁栄)の文化は全面的にギリシア人を模倣しています。イスラム帝国(1000年ほど前に繁栄)の学問は、ギリシアやローマの学問を受け継ぎ、そこにインドの学問も取り入れて発展したものです。

そして、数百年前の中世から近代初期のヨーロッパは、イスラムからさまざまな影響を受けたのです。そして、ヨーロッパではギリシア・ローマの遺産もふくむイスラムからの影響をベースにして「近代科学」を生み出すなどの革新がおこったのでした。

これらの地域はみな、世界全体の広い範囲でみれば「となり」といっていいような比較的近隣の位置関係にあります。

つまり、進歩や発展のためには、「となり・となり」の展開が順調におこりやすい環境が有利です。それには、より大きな広がりのなかで、多様な人びとが存在している、というのがよいわけです。

この条件に関し、中国は「西アジア+西ヨーロッパ(+インドの西側)」よりは不利だったということです。そのために中国は、たしかに世界史のなかできわめて重要な存在ではありながら、「主役」や「中心」にはならなかったのです。

その「中心にならなかった」というのを象徴するのが、近代科学や産業革命が中国では生じなかったということです。中国では独自に「近代」が生まれることはなかった。

しかし、「中国でそれらが生まれてもおかしくないのでは?」と思えるほど、近代以前の中国では、その時代としてはじつに高度な文明が築かれていました。近代初期のヨーロッパ人は、それに驚いたのでした。

だからこそ、「ヨーロッパからの侵略で荒らされなければ、もうしばらくすれば、中国でも近代科学や産業革命が生み出されたはずだ」という意見もあります。

私は、その考えには否定的です。そのもとになっているのは、科学史家の板倉聖宣さんの説です。

板倉さんは「学問や科学にとって伝統というものは決定的に大事だ」と考えます。とくに「古代ギリシアの学問の伝統が存在したかどうかが、その国・地域で科学を生み出すことになるかどうかのカギだ」と。

なぜかというと、古代ギリシアの学問には「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうる(検証可能である)ような体系」といった要素があるから。このような検証可能な理論・体系は、科学が生まれる基礎なのです。

そのような学問をつくったのは、近代以前の世界史のなかでは古代ギリシア人だけでした。中国の学問の論理は、万物を「陰と陽」に分ける論理のように、もっとあいまいで「のらり・くらり」だと、板倉さんは言います。そのような論理は検証不可能です。

ヨーロッパの近代科学は、そのようなギリシアの学問の伝統が発展した結果生まれた、ということです。

たとえば、ガリレオは古代や中世の書物を読み込んで、そこにあった理論と向き合い・対決するなかで自分の理論を築いていった、と板倉さんは指摘します。

近代科学の父・ガリレオがそのまちがいを明確にしたアリストテレス的な運動の理論や古代の天動説は、まさに「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」で「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうるような体系」の一部をなす理論でした。

板倉さんは「日本に科学が生まれそこなった歴史」をテーマにした論考で、こう述べています。

《日本には…アリストテレスみたいな、間違いが間違いとわかるようなウソを言う人間がいませんでした。だから、それに反対して何かをやるというようなガリレオみたいな人も現れ得なかった》
(板倉『科学と教育のために』仮説社)

このことは、中国についてもいえるわけです。

近代以前の中国には、古代ギリシアの学問の伝統は、もちろん根付いていません。中国独自の伝統があるだけです。それは、中国がここでいう「孤立」の状態にあったということです。

このように、中国で科学が生まれなかった理由が、「古代ギリシアの科学の伝統がなかったから」ということだと、いくら時間が経過しても、中国では(中国内部の伝統だけでは)科学は生まれようもないということになります。

また、中国科学史の研究者・薮内清も、板倉さんと通じる見解を述べています。薮内は中国の地理的な「孤立」ということに注目しているのです。

《五千年の歴史を持つ漢民族は、ほとんど自力で以て、きわめて高い文明をつくりあげた。しかし自力には一定の限界があることは、否定できないことである。……ヨーロッパに近代科学が起こるころになると、この独特な文明が伝統としての強制力を持ち、社会の変革をさまたげた》

《一つの国、一つの民族がたえず新しい文明をつくり出すことは至難の業といってよかろう。新しい文明は、異なった文明、異なった民族とのあいだの、はげしい交渉の中から生まれる》

そして、薮内は「そのことは過去の中国の事例からも示すことができる」として、紀元前の戦国時代、西域(西側の辺境地帯)との交渉がさかんだった前漢時代(2200年前~2000年前ころ)、さらに周辺地域に勢力を拡大し、国際的な文化が栄えた唐の時代(西暦700年ころ)をあげています。そして、こう述べています。

《過去の中国は、砂漠や山脈、さらに海にさまたげられ、外国の侵略を許さない自然環境の中に安住することができた。国民の大部分を占める漢民族は、自らのすぐれた文明を保持しつづけた。恒常的な発展を示してきたとはいえ、そこにはヨーロッパ社会のような変革は起こらなかった》
(薮内『中国の科学文明』岩波新書)
 
以上のような「中国で近代科学が生まれなかった理由」の説明については、異論もあるでしょう。説の正しさを証明するのがむずかしいところもあります。でも、ひとつの見方として知っておいていいと思います。「となり・となりの法則」という見方から導きだされる、「世界史の大きな謎」にたいする(仮説的な)回答のひとつということです。

要するに「伝統的な中国は〈となり〉の影響を十分に受けなかった、受けにくい環境にあったので、社会の発展に限界があった」ということです。もちろん、今はちがうわけですが。


重力のように作用する「となり・となりの法則」

私は、世界史の最も「おいしいところ」のひとつは、こうした「大きな謎」を、自分の頭で考えながら解いていくことだと思っています。

そして、その「謎解き」を楽しむには、考える手がかりになる基本知識が必要です。本書(『一気にわかる世界史』)のコンパクトな通史にあるような知識が最低限必要なのです。

そういう、多少の基本知識があれば、たとえば「世界史の中心が西ヨーロッパ+西アジアなのはなぜか?」「中国で科学が生まれなかった理由」や、それから「日本がアジアでいちはやく近代化できた理由」といったことについて、いろいろ考えることもできます。

もし「自分で考える」というところまではいかなくても、ここで論じたような議論を理解することはできるのです。

さて、『一気にわかる世界史』では最初に「夜の地球」(下図)というものを取り上げました。「夜の地球」というのは、人工衛星から撮った世界の夜景を合成したものです。そこでは、人口が密集し、家電製品などの文明の利器が普及している、とくに繁栄している地域に「光」が多く集まっています。(以下の画像はNASAのホームページから)
 夜の地球・世界

夜の地球をみると、現代の世界にはとくに大きな3つの光のかたまり=繁栄の中心があります。西ヨーロッパ、北アメリカ、日本(とその周辺)です。

 (西ヨーロッパ)
 夜の地球・西ヨーロッパ

 (北アメリカ)
 夜の地球・北米

 (日本とその周辺)
 夜の地球・日本とその周辺

これは、見方によっては、ちょっと変則的な分布です。繁栄の「中心」というわりには、西ヨーロッパと日本は、ユーラシア大陸(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)の西と東の端っこです。北アメリカは、世界史全体からみればつい最近になって多くの人が住むようになった「新世界」です。

本書(『一気にわかる世界史』)は「このような光の分布は、どのようにしてできあがったのか」という経緯について述べた、ともいえます。

ではどのような経緯だったのか? 要するにつぎのようなことだったといえるでしょう。

5000数百年前に西アジアのメソポタミア近辺で「最初の文明」が生まれてから、「となり・となり」で繁栄の中心は動いていきました。

その移動の方向は時によって変わり、かならずしも一貫していません。西アジア→ギリシアのときのように、西へと移動したときもあれば、西ローマ帝国→東ローマ帝国→西アジア(イスラム)というふうに、東側への移動もありました。

しかし、全体的な傾向をみると、西側への移動のほうが多かったといえます。そこで5000年あまり経つと、「中心」はユーラシアの西の端にまで動いていました。つまり、西ヨーロッパの国ぐにです。

そして、この数百年ではまず西ヨーロッパの中で、北方へと繁栄の中心が移っていく傾向がありました。地中海側のスペインからアルプス以北のオランダへの移動。さらにオランダ→イギリスという移動です。

そして、1800年代後半以降は、「イギリスから大西洋を渡ってアメリカへ」という中心の移動もありました。

さらに、そのアメリカが太平洋を越えて日本に影響を与えるようになりました。たとえば、幕末にアメリカから軍艦(黒船)がやってきたことなどはそうです。(アメリカの日本に対する影響については本書の一節「「となり」の欧米、アメリカ」で述べています)

その結果として日本はアジアのなかでいちはやく近代化を成し遂げ、アジアにおける新しい繁栄の中心となりました。このような西側からのルートで、ユーラシアの東の端に「中心」ができていったわけです。

そして近年は、日本が西側の韓国、中国などの東アジア諸国に影響をあたえることが起こっています。(この点については、本書の「現代世界の「となり・となり」の節で述べています)

以上のような経緯は、数千年にわたって「となり・となりの法則」が、まるでいろいろな物理現象における重力の法則のように働き続けた結果、生じたものです。

もちろん、「となり・となり」だけですべて説明できるわけではありません。重力の働きだけで物理現象のすべてを説明できないのと同じことです。

しかし、重力が自然界のさまざまな現象に作用し続けているのと同じように、「となり・となりの法則」は、世界史の動きに作用し続けているようです。そして、ほかの要因と作用しあいながら、歴史が展開していく、というわけです。

(以上)

中心の移り変わりから読む 一気にわかる世界史(日本実業出版社刊)←最近出した本。こちらをクリック

  一気にわかる世界史・表紙
2015年10月27日 (火) | Edit |
 今,「1時間くらいでざっと読める世界史の通史」の原稿を書いています。 以前にアップした「1万文字の世界史」という記事の改訂版です。

 近いうちにこれを小冊子にしてリリース・販売します。タイトルは仮に「1時間の世界史」というのを考えています。自分で行うインディーズ出版ですね。そういうのを最近は「リトル・プレス」と言ったりもするそうです。
*その後2016年9月に、この「世界史の通史」の原稿をもとに、日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。

 その原稿づくりにエネルギーをとられて,最近は更新が疎かになってしまいましたが,元気でやっております。

 今回の「世界史の通史」の改訂・増補の中心は,現代史です。
 1900年代以降の世界について。

 以下の記事は「1時間の世界史」の最終章にあたる,現代史の部分をもとにしています。
 20~30分で読めてしまう,世界現代史(の通史)です。文字数にしてほぼ1万文字。

 アメリカの勃興~第1次世界大戦~第2次世界大戦~大戦後の世界(アジア・アフリカの独立・冷戦)~近年の新興国の勃興~アラブ諸国の情勢といった流れで書いています。

 最低限のざっくりした流れは,この「1万文字」でつかめるはずです。
 こういうコンパクトなかたちで,一定の系統性をもって,通読できるように書かれた「短い世界現代史」はまずないのでは,と思っています。


30分で読む、短い世界現代史

アメリカの時代 

 「現代の世界で,世界の繁栄の中心といえる国はどこか?」と聞かれたら,かなりの人は「アメリカ合衆国」と答えるのではないでしょうか?
 
 イギリス=大英帝国の繁栄のあと,1900年ころからの世界は「アメリカ合衆国(アメリカ)の時代だった」といっていいでしょう。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。

 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 なお,1800年代後半のドイツでは,日本でいえば明治維新(1868)にあたるような,国家をひとつにまとめる変革が行われて「ドイツ帝国」という体制が成立し,急発展していました。これは,イギリスやフランスよりもやや遅れての発展です。ドイツは,1900年ころの世界で,新興の大国としてはアメリカに次ぐ存在でした。

 ところで,アメリカとイギリスは大西洋をはさんで「となり」といえる位置関係にあります。鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。つまり,アメリカとイギリスは海という交通路でつながっているのです。それから,アメリカの東海岸は1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。

 そのように,アメリカはイギリスの影響をつよく受けた地域です。その意味で,世界史のなかで「イギリスの繁栄を受け継いだ存在である」といってもいいでしょう。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 発明王エジソン(1847~1931)は,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。エジソンはアメリカ人で,1800年代末から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電流」という現代の電気技術に貢献したテスラやウェスティングハウスといった人たちがいました。

 これらの人たちはみなアメリカで活躍しました。つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。
 アメリカのGDP(経済規模を示す)は世界第1位で,世界全体の22%を占めます(2012年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済の発展度を示す)は,5万1千ドルで,世界でも上位のほうです。

 なお,GDPで世界2位の中国は世界の11・5%,3位の日本は8・2%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが6100ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の国防予算の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。


2つの世界大戦

 ここで,1900年代の2つの世界大戦と,その後の世界についてみてみましょう。「アメリカ中心の世界」は,世界大戦が生んだ結果のひとつです。

 アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半には,その欧米諸国のなかできわめて大きな争いがありました。第1次世界大戦(1914~1918)と,第2次世界大戦(1939~1945)です。これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになりました。しかし,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の既得権に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,ナンバー1のイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第2次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。
 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


第1次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦は,ヨーロッパの南東部のバルカン半島にある,セルビアでの地域紛争からはじまりました。バルカン半島の一部を支配していた当時のオーストリア(今と異なり周辺国をも支配する帝国だった)と,バルカンで勢力を伸ばしたいロシア……最初は両国のあいだの争いがメインでした。

 そのきっかけは,当時オーストリアの影響・圧迫を受けていたセルビア人の青年が,隣国ボスニア(当時はオーストリア領)の都市サラエボで,オーストリアの皇太子を射殺したことでした(1914年)。怒ったオーストリアがセルビアに宣戦布告したところ,ロシアがセルビア側で介入してきました。すると,ドイツがオーストリア側でこの戦争に加わりました。オーストリアとドイツは民族的に近く,親しい関係にありました。

 そして,その後のドイツの「暴挙」といえる行動によって,「地域紛争」は「大戦争」に発展します。ドイツがフランスを大軍で攻撃したのです。

 当時のドイツにはイギリスとフランスという「宿敵」がいました。ドイツは,アジア・アフリカの植民地支配で先行する英仏に対抗心や不満を抱いていました。とくに,ドイツとフランスの間では深刻な国境紛争もありました。

 こうした背景から,ドイツの指導者のなかで「セルビアの紛争でロシアと戦う間にフランスに攻められないよう,こちらが先にフランスを攻める」という考えが有力となり,実行されたのでした。これはイギリスも見過ごせないので,ドイツとイギリスの戦争もはじまりました。

 アメリカは当初,この戦争に不参加の方針でしたが,大戦の後半(1917)からは英仏側で参戦しました。アメリカは,独立のときはイギリスと争ったものの,その後は経済的にも文化的にもイギリスと近い関係にありました。

 日本は,この戦争には全面的には参加しませんでしたが,英仏側として中国やシベリアに出兵しています(当時の日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた)。

 また,バルカン半島には,オスマン・トルコの領域もありました。当時のトルコには,自国への圧迫や干渉を重ねていたロシアや英仏への反発があり,トルコはロシアなどの「敵」であるドイツの側で参戦しました。オスマン・トルコは,1500年代以降に台頭した,当時のイスラム圏で最大の国です。

 以上の経緯で2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。ドイツを中心とする側と,イギリス・フランスを中心とする側です。ドイツ側を「同盟国」,イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」といいます。

 この戦争をはじめた政治家・軍人の多くは,当初「戦争は短期で決着する」とみていました。ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。当時の「戦争」に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低いものでした。「国家のすべてを動員する激戦(「総力戦」という)」のイメージが薄かったのです。

 第1世界大戦は1918年に,イギリス・フランスなどの「連合国」側の勝利で終わりました。大戦の終わりのころ,ドイツ帝国の皇帝は亡命して帝国は解体され,ドイツは共和国になりました。

 そして,この戦争による死者は軍人と民間人を合わせて1600万人にのぼったのでした(大戦による死者の数は諸説あり)。


帝国の解体・滅亡

 第1次世界大戦の結果,世界の勢力図は変わりました。とくに重要なのは,それまでの世界で勢いのあった,昔ながらの帝国――有力な王朝がほかの民族を支配する体制――の多くが滅びたことです。

 大戦の結果,オーストリアはハンガリーなどの周辺諸国・地域への支配を失い,小粒な共和国になりました。

 そして,ロシア帝国の滅亡です。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代からロマノフ王朝という政権が支配していました。しかし,大戦中の混乱のなかで,1917年にこの王朝を倒す革命が起こりました。

 その結果,レーニン(1870~1924)の指揮のもとで新政権が樹立され,1922年にはベラルーシなどのロシア周辺の国を合わせて,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。世界で初めての「社会主義」を掲げる政権です。

 「社会主義」とは,政府が生産の施設・手段を独占的に所有し,政治経済のすべてをコントロールする体制です。その体制で「平等な理想社会の建設」をめざすというのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。ドイツ側で参戦したトルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となって,イギリス・フランスなどによってほぼ征服・支配されました。そのなかで,ムスタファ・ケマル(1881~1938)の指導で,イギリス・フランスの勢力を排除し,さらにはオスマン朝の支配を終わらせる革命が起こりました。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国は,その領域をアナトリア(今のトルコの範囲)に限定し,イラク,シリアなどのオスマン朝の領域の多くを放棄することになりました。そして,イスラム教の政治・経済への影響を排除する「世俗化」の基本方針で,国づくりをはじめました。

 また,オスマン・トルコに支配されていたアラブの人びとの独立ということも起こりました。オスマン・トルコは,トルコ人が各地のアラブ人などを支配する「帝国」でした。1920~30年代には今のエジプト,イラク,シリア,レバノン,ヨルダンといった国ぐににつながる,各地の独立または自治の獲得といったことがあったのです。

 「アラブ人」とは,これらの国ぐに(エジプト,イラク…等)で主流の人びとやアラビア半島のアラビア人など,あるいはそれらが混血した人たちを総称する呼び名です。

 ただし,第1次世界大戦後にアラブ人が得た独立や自治は不完全なもので,イギリスとフランスによる事実上の支配や介入が行なわれました。イギリスとフランスは,オスマン・トルコ領だったアラブ地域を分割して支配しようとしたのです。

 またアラビア半島では内陸部を中心に,今に続くサウジアラビア王国が1930年代に建国されました。西アジアのほかの地域の動きに刺激を受けた,といえるでしょう。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝を倒す革命が起き,翌年に中華民国が成立する,ということがありました。大戦以前から「帝国」は過去の遺物になりつつあったのです。その流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえます。


第2次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦に敗れたあと,ドイツでは経済・社会が大混乱に陥り,国民はおおいに苦しみました。ただし,その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。

 しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると,ドイツはまた大混乱となりました。

 この金融恐慌は2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ています。しかし,経済に与えた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻でした。大恐慌の際,その最悪期にはアメリカでの失業率は25%ほどにもなりました。リーマン・ショック以降の不況では,アメリカの失業率は最悪期でも9%程度です。

 その混乱の時代に人びとの支持を集め,1933年に政権を獲得したのが,ナチ党(ナチス)を率いるヒトラー(1889~1945)でした。彼の「愛国」の主張は,当時のドイツ人に訴えるものがありました。ヒトラーがめざしたのは「ドイツによるヨーロッパ制覇」でした。

 政権を得たヒトラーは大胆な経済政策を行って失業を一掃するなど,社会の混乱をおさめることに成功しました。そのような実績と,批判者をテロで排除することや巧みな宣伝などによって,彼は独裁権力を固めました。そして1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。

 まず,オーストリアやチェコスロバキアといったドイツ周辺の国の併合です(1936~39)。さらにはポーランドを占領し,フランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧しました(1939~1940)。

 この動きのなかで,イギリス・アメリカなどとの戦争もはじまり,第2次世界大戦となりました。一般にドイツによるポーランド侵攻・占領に対し,イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した時点(1939)で「第2次世界大戦が勃発した」とされます。

 また,ヒトラーはその政治思想のなかでロシアやソ連の社会主義に対して強い敵意を抱いていたので,大戦の途中(1941)からソ連に大軍で攻め入り,「独ソ戦」をはじめました。

 このようなドイツの動きに,イタリアと日本が同調しました。イタリアと日本も,イギリスやアメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていました。

 日本では,1930年代に「アジアを制覇する」という野望が政治をつよく動かすようになりました。日本は中国に軍事的に進出し,1937年には中国(中華民国)との戦争(日中戦争)が本格的にはじまりました。1941年末には,日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまりました。

 第2次世界大戦では,ドイツ・日本などの陣営を「枢軸(すうじく)国」,アメリカ・イギリス・ソ連などの陣営を「連合国」といいます。この大戦を指導した当時のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルト,イギリスの首相はチャーチル,ソ連の指導者はスターリンでした。

 大戦は1945年に連合国側の勝利で終わりました。敗戦国であるドイツも日本も連合国側によって占領支配され,独立を失った状態が1950年ころまで続きました(ドイツは1949年,日本は1952年に独立を回復)。ドイツは東西に分割されてしまいました。

 この大戦による死者は,軍人2300万人,民間人3200万人にのぼり,第1次世界大戦を大きく上回るものでした(この死者数も諸説あり)。


アジア・アフリカの独立

 第2次世界大戦は,第1次世界大戦以上に大きな被害を,負けた側はもちろん勝った側にももたらしました。

 そのなかで,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって独立を求め,宗主国(植民地を支配する国)であるヨーロッパ諸国はこれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,宗主国側には植民地をおさえきるエネルギーはなくなっていたからです。

 アジアの国ぐにの多くは,1945年から1950年代に独立しました。日本に支配されていた朝鮮(韓国と北朝鮮),それからインドネシア,ベトナム,フィリピン,ミャンマー,カンボジアといった東南アジアの国ぐにはそうです。インドも1947年に,ガンジー(1869~1948)の主導によりイギリスから独立しました。

 中国は清王朝が倒されて「中華民国」となっていましたが,第2次大戦後の1949年には,さらにこの政権が倒されて今の中華人民共和国が成立しました。そして,ソ連の影響を受けて社会主義の国づくりをはじめました。建国者の毛沢東(もうたくとう,1893~1976)は,第2次世界大戦中に独持の勢力を組織して台頭し,戦後に中華民国と争って勝利したのです。

 また,エジプト,イラク,シリアなどの西アジアのおもな国・地域は,第1次大戦後に一定の独立や自治を得ましたが,イギリスとフランスなどの欧米諸国による支配や介入が続きました。しかし第2次世界大戦後,1950年ころまでには以前より完全なかたちでの独立を得ていきました。

 アフリカではアジアよりもやや遅れて,1950年代後半から1960年代に多くの国が独立しました。とくに,1960年には一挙に17か国もの独立があり,「アフリカの年」といわれました。

 こうして,1970年代までには,世界のほとんどの地域が独立国となったのです。

 第1次世界大戦は,さまざまな帝国の滅亡をもたらしましたが,ヨーロッパによるアジア・アフリカの植民地支配という「帝国」は残りました。しかし第2次世界大戦は,結果としてそれを終わらせたのでした。


冷戦の時代

 ヨーロッパが後退する一方,アメリカの世界への影響力は,第2次世界大戦後にきわめて大きくなりました。アメリカは本土が戦場にならなかったので,戦争のダメージも限られました。

 1950年ころ,アメリカの工業生産は世界の約半分を占めました。GDP(経済全体の規模)では世界の3割弱で,その経済力は圧倒的でした。そして巨大な軍事力を,世界各地に展開するようになりました。

 ただし,アメリカは他国を「植民地」として支配するよりも,他国の独立一応認めながら,それらの国ぐに影響力をおよぼす,という基本方針をとりました。

 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)も,第2次大戦後に大きな影響力を持つようになりました。かつてのソ連は,今のロシアよりもはるかに大きな領域を有していました。ロシア周辺の,現在は独立国であるさまざまな国が,ソ連の一部になっていたのです。これらの大半は,1920年代にソ連に統合されました。

 また,第2次世界大戦直後には,ポーランド,チェコスロバキア(現チェコとスロバキア),ハンガリー,ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国をソ連の属国としました。また,ドイツの東側の地域=東ドイツを占領して従属させました。これらの国ぐにでは,一応の独立は保たれながら,ソ連の意向に従う社会主義政権がつくられました。この時期のソ連には,アメリカに次ぐ強大な軍事力がありました。

 1940年代末までには,アメリカを中心とする勢力と,ソ連を中心とする勢力とが対立し,世界を2分するようになりました。アメリカ側は,「自由主義(資本主義)」の「西側」陣営,ソ連側は社会主義の「東側」陣営と呼ばれます。

 両者はそれぞれの社会体制を互いに否定しあっていました。ソ連の側によれば西側の資本主義は「資本家の独裁による不平等な格差社会」であり,西側によればソ連の社会主義は「政府の独裁によって自由や人権が抑圧される社会」でした。

 この「東西」の対立は「冷戦」といいます。これはアメリカとソ連のあいだで直接の戦争(熱い戦争)こそなかったものの,「いつ戦争になってもおかしくない」緊張状態であったことをさしています。冷戦は1950年代から1960年代に最高潮となりました。

 敗戦後の日本と,分割されたドイツの西側である西ドイツは,「西側」の一員となりました。そして,両国とも比較的短期間のうちに戦争の破壊から復興し,その後は「経済大国」として繁栄したのでした。

 ただ,アメリカとソ連のあいだに直接の戦争はなかったものの,「代理戦争」はありました。つまり,米ソ以外の国や地域で「アメリカが後押しする勢力」と「ソ連が後押しする勢力」とが戦争をしたのです。

 そのような「代理戦争」の代表的なもののひとつに,1950年に起きた,社会主義の北朝鮮と資本主義の韓国とが戦った朝鮮戦争があります。このときは,中国(当時,ソ連と近い関係にあった)がとくに前面に出て北朝鮮を支援しました。アメリカも韓国を支援して派兵しています。この戦争は明確な決着がつかないまま,現在に至るまで「休戦中」になっています。

 また1960年ころ~75年の長期にわたって続いたべトナム戦争も,アメリカが後押しする南ベトナムと,社会主義の北ベトナムの戦いであり,代理戦争の側面がありました。この戦争は北ベトナムが勝利し,ベトナムは「北」の主導で統一され,現在に至っています。

 この戦争でアメリカは打撃を受けましたが,その敗北は「社会主義の勝利」というよりも「アジアの独立・自立」という流れのなかに位置づけられるでしょう。


新興国の台頭・「欧米以外」の台頭

 一方,独立後のアジア・アフリカ諸国の状況はどうでしょうか。しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年ころから,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となっていきました。これらのアジアで経済成長が本格化した国ぐには,アメリカや日本との関係が深い傾向がありました。つまり「西側」の1員でした。そして,西側の先進国への輸出を伸ばすことが,経済発展の最大の原動力だったのです。

 また,1950年ころから70年ころまでには,アメリカ,西ヨーロッパ諸国,日本といった西側の先進国も,順調に経済を成長させたのでした。

 これにくらべると,同じ時期の「東側」の経済は停滞傾向で,「東西」の格差は拡大していきました。1980年代には,ソ連はあい変わらず軍事大国でしたが,経済や人びとの生活は多くの問題をかかえ,自由も抑圧されていました。社会主義に対する,国内外の不信感も高まっていきました。

 「社会主義の行き詰まり」は,同じく社会主義である中国でも起きていました(なお,中国とソ連は,当初は友好的な関係だったが,1960年代以降対立し距離をおくようになった)。1980年代の中国では,鄧小平(とうしょうへい,1904~1997)によって「資本による経済活動の自由を大幅に認める」改革がおし進められるようになりました。その結果,中国経済の急速な発展がはじまりました。

 1980年代後半には,ソ連でもゴルバチョフ(1931~)が政治の大改革に取り組み,アメリカとの関係も改善しました。

 しかし,改革は十分な効果があがらないまま体制の動揺をまねき,1991年にソ連の体制は崩壊してしまいました。その少し前に,ソ連に従属していた東ヨーロッパの社会主義も同じ道をたどり,東西ドイツは統一されました。ロシアの周辺の「旧ソ連」の国ぐには独立していきました。「冷戦」の終結です。

 このような中,インドでも変化がありました。インドでは独立後,重要な産業の国営化などをすすめ,ソ連とは別のかたちで独自の社会主義的な路線を行こうとしました。西側先進国との経済的な交わりについても消極的でした。そうすることで「国の産業を守り育てる」方針だったのですが,結局は思うような経済発展ができませんでした。

 しかし1990年ころからは,路線を変更して先進諸国との関係を深め,「経済の自由化」を進めるようになりました。

 1990年代以降,中国やインドの経済発展は世界のなかできわだったものになりました。ソ連が崩壊したあと,西ヨーロッパとの関係を深めたチェコやポーランドなどの東ヨーロッパでも,経済発展が進みました。

 さらに2000年ころ以降は,経済発展が続く「新興国」が,ブラジルやメキシコなどのラテンアメリカ(中南米)や,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地で目立つようになっています。

 また,「新興国の台頭」の一方で,アジアの一画を占める日本が,おおいに発展して世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともあったわけです。
 つまり,世界の勢力図は1900年ころの「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。


イスラム諸国・アラブの情勢

 また,アラブを中心とするイスラム諸国の動きも,「欧米以外の台頭」という視点でとらえることができます。

 第2次世界大戦後,「独立」を得たものの,アラブ諸国の多くは,やはりは欧米から強い影響や干渉を受け続けました。欧米諸国は,それらの国にある豊富な石油資源を管理しようとしたのです。また,東西冷戦のなかで「ソ連にアラブを押さえられないように」という警戒心もあって,アメリカはアラブに影響力をおよぼすことにこだわりました。そうした欧米による干渉への抵抗は,アラブ諸国の主要な課題でした。

 第2次世界大戦が終わって間もなく(1948)から1970年代前半まで,アラブ地域では「中東戦争」という地域紛争が,4回にわたってくりかえされました。これは,アラブ諸国とイスラエルの戦争です。

 イスラエルは,ユダヤ人という,アラブ人とは系統や宗教の異なる人たちの国家です。ユダヤ人は,イギリスやアメリカの支援を受けて,アラブの一画のパレスチナにイスラエルを建国し,そこに住む多くのアラブ人を追い出しました。イスラエルは,そのもとになる自治の領域が第1次世界大戦後につくられ,第2次世界大戦の終結後まもなく,独立国となったのです。

 そのようなイスラエルとの戦いは,アラブの人びとにとって欧米への抵抗でもありました。

 ユダヤ人は,紀元前の古い時代に西アジアのパレスチナ地域でその国が栄え,世界最古といえる一神教であるユダヤ教を創始した民族です。その王国は滅びてしまいましたが,その後もユダヤ人は,自分たちの宗教と民族意識を保持し続けました。そして,のちに自分たちの国を復興させたもののローマ帝国によって滅ぼされてしまう,ということもありました。

 それでも民族・集団としては存続し,ローマ帝国,イスラムの国ぐに,ヨーロッパ各国などで経済,学問,芸術の分野で活躍しました。その一方で,マイノリティ(異端の少数派)として差別や迫害も受けました。

 イギリスやアメリカの繁栄の時代(つまり近代)になってから,その活躍はさらに盛んになりました。そしてユダヤ人は「世界の繁栄の中心」となった国のなかで,マイノリティでありながら大きな影響力を持つようになったのです。

 1800年代末以降,ユダヤ人のあいだでは「パレスチナで自分たちの国をつくる」という構想が有力となりました。そして,その影響力でイギリスやアメリカの政府を動かしたことで,イスラエルは建国されたといえます。ユダヤ人は欧米を中心に世界各地に分散していますが,その一部がイスラエルに移住していきました。

 また,ヒトラーはユダヤ人に対し異常な偏見を抱き,その政治思想のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張しました。そして,第2次世界大戦の際にはドイツ国内やその占領地域で600万人(諸説あり)ものユダヤ人を虐殺しています。

 このような歴史があるので,ユダヤ人はイスラエルという,やっと得た「祖国」を,激しく攻撃されても守り抜こうとするのです。アラブ諸国とイスラエルの対立は,今も続いています。

 中東戦争で,アラブ諸国はイスラエルを倒せませんでした。しかし1970年代後半以降は,こうした戦いや,さまざまな交渉・かけひきなどを経て,石油資源の管理については,欧米の干渉をほぼ排除することに成功しました。

 また,1979年のイランでは,アメリカと強く結びついた政権を倒す革命が起こりました。革命後の政府は,イスラム教の伝統や原則を重視する「イスラム主義」の徹底や,強固な「反米(反アメリカ)」の立場をとりました。

 このようなイスラム主義の動きは,イスラム圏に広く影響をあたえ,一部には過激で極端なかたちのイスラム主義の動きも生じました。1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を支配したタリバン政権は,そのひとつです。タリバン政権とも関係があったアルカイダという組織は,2001年にアメリカで複数の旅客機を超高層ビルなどに墜落させる大規模なテロ(事件の日にちなみ「9.11テロ」)を行いました。

 最近では,シリアなどの一部を支配し,2015年には日本人を人質にとって殺害した「イスラム国(IS)」といった勢力も,「過激な」イスラム主義に属するといえるでしょう。

 その一方,イスラム諸国のなかでトルコは建国以来,政治・経済にたいするイスラム教の影響を排除する「世俗主義」の路線を歩んできました。そして近年は着実な経済成長を重ねた結果,有力な新興国のひとつとなっています。

 国よって方向性はちがっていて,混迷もみられますが,イスラム諸国は全体として自己主張を強め,世界での存在感を増しているのです。
 
 以上のような「新興国の台頭」あるいは「欧米以外の台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確かなことはわかりません。しかしその動きが今後の世界史の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(以上)
2015年09月15日 (火) | Edit |
   小さな地球儀型マグネット

 8月の半ばに,1時間ほどで読める世界史の通史 1時間で読む短い世界史 という記事をアップしました。前回の記事では,それを補足して「なぜ,世界史において繁栄の中心が移りかわるのか」ということを論じています。
*この記事は、2018年10月現在非公開としましたが、同記事をもとに2016年9月に日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。

 「1時間で読む世界史」を要約すると,以下のようになります。「1000文字の世界史」ですね。

 「1時間で読む世界史」じたいが,世界史という膨大な内容を要約したようなものなので,さらに要約してしまうと,それだけを読んでもよくわからないとは思います。でも,ちらっと読んで関心を持ってくださった方は,ぜひ「本体」の「1時間で読む世界史」をお読みください。すでに読んでくださった方には,以下の「要約」は「おさらい」になるはずです。

 
「1時間で読む世界史」超要約

●5500年前ころ、西アジアのメソポタミアで最初の文明が生まれた。その文明は周辺にも広まり,長い時間を経て,2500年前ころには西アジア全体を統一する大帝国(アケメネス朝ペルシア)もあらわれた。


●その一方,西アジアの文明を吸収しておこったギリシアの文明が,2500年前ころからおおいに繁栄した。2300年前ころには,ギリシア人の一派であるマケドニアが,ギリシア全体と西アジアの広い範囲を征服して大帝国を築いた。
 さらに,ギリシアの西どなりのイタリア半島でおこったローマが台頭し,ギリシアを含む周辺国を征服して大帝国を築いた。ローマは西暦100年代に絶頂期をむかえ,繁栄の中心はイタリア半島にシフトした。同時期,中国では漢帝国が繁栄した。


●しかし,ローマも衰退し,帝国の西半分(西ローマ帝国)が500年ころに体制崩壊してしまった。繁栄の中心はローマ帝国の東半分(東ローマ帝国)のギリシア周辺に移った。
 600年代には,西アジアの一画からイスラムの勢力が台頭して,700年ころには巨大なイスラム帝国を築いた。イスラム帝国では東ローマの影響を受け,ギリシア・ローマの遺産に基づく学問が盛んとなった。その後数百年は,イスラムの国ぐにが世界の繁栄の中心となる。ただし,イスラム帝国は800年代には分裂して,いくつものイスラムの国ぐにが並び立つようになった。ほぼ同じころ,中国の王朝(唐・宋など)も、おおいに繁栄した。


●1400~1500年代には,イスラムの文化を吸収して,イタリアの都市国家とスペインが台頭した。ギリシア・ローマ文化(イスラムの国ぐにで研究されていた)の復興をかかげる「ルネサンス」が花ひらく一方,スペインはアメリカ大陸などの海外に進出して多くの植民地を築いた。


●1600年代にはスペインに支配されていたオランダが独立して台頭し,商工業でおおいに栄えた。ヨーロッパの繁栄の中心は,イタリア・スペインのある地中海沿岸から,オランダなどアルプス山脈以北のヨーロッパへとシフトしていった。


●1700年代には,オランダの隣国であるイギリスが台頭した。イギリスはオランダから多くを学んでいる。イギリスで,1800年ころに産業革命がおこった。産業革命以降の技術や産業の発展によって、ヨーロッパは世界の中で圧倒的な存在になった。1900年ころには,地球上の大部分がヨーロッパ(欧米)に支配される。1800年代のイギリスは,世界中に植民地を持つ「大英帝国」として繁栄した。


●1900年ころからは,イギリスにかわってアメリカ合衆国が台頭した。そのころのアメリカでは,電気の利用などの産業革命をさらに前進させる革新がつぎつぎと行なわれた。アメリカとイギリスは,大西洋をはさんで「となりどうし」の位置関係にあり,アメリカはもとはイギリスの植民地だった。
 1900年ころ,アメリカの産業・経済は世界の中で圧倒的となり,のちに軍事力や科学・文化でも同様となった。2000年代(21世紀)になると中国などの新興国が台頭し,「衰退した」ともいわれるが,現在もアメリカは「世界の繁栄の中心」であり続けている。


●以上,世界史では,ほかの国ぐにを圧倒する繁栄をみせた,いくつもの大国・強国が興亡してきた。その「繁栄の中心の移りかわり」を大まかにたどると,つぎのとおり。

 1.西アジア
 2.ギリシア・ローマ 
 3.イスラムと中国 
 4.ヨーロッパ(イタリア・スペイン→オランダ→イギリス)
 5.アメリカ合衆国


 このような「繁栄の中心の移りかわり」に着目することで,世界史は見通しのよいものになる。

(以上)
2015年09月14日 (月) | Edit |
 8月の半ばに,1時間ほどで読める世界史の通史 1万文字の世界史 という記事をアップしました。
*この記事は、2018年現在非公開としましたが、同記事をもとに2016年9月に日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。

 この記事は「短くまとめる」というほかに,「一定の視点で,世界史がひとつながりの物語になるように」ということを大事にしています。その「視点」とは「世界史における繁栄の中心が,となり・となりで移りかわっていく」というものです。名付けて「となり・となりの法則」。今回はその「法則」について。

人は人から教わる

 「となり・となりの法則」とはつぎのようなものです。

・世界史における繁栄の中心は,時代とともに移り変わる。

・新しい繁栄の中心は,「中心」の外側にあって,しかしそんなに遠くない「周辺」の場所から生まれる。周辺の中から,それまでの中心にとって替わる国や民族があらわれる。世界史は,そのくりかえし。

・だから,繁栄の中心が新しい場所へ移るときは,遠く離れたところではなく,世界全体でみれば「となり」といえるような,比較的近いところへの移動となる。つまり,「となり・となり」で動いていく。
 

 では,そもそもなぜ,繁栄の中心は「となり・となり」で移動するのでしょうか? 

 それは「人は,人から教わる」ものだからです。

 ふたつの集団が地理的に近いところにあれば,おたがいが接する機会は多くなります。それで,いろいろ教わったり刺激を受けたりできます。書物やモノ(すぐれた製品など)を通して教わる場合も,同じことです。距離が近いほうが,頻度が高くなります。

 しかし,さらに根本的なことがあります。「先人の肩に乗らなければ,高いところには行けない」ということです。「ゼロからいきなり、多くを生み出すことはできない」といってもいいでしょう。

 自分たちの文明のなにもかもを,独自につくりあげた民族や国というのはありえません。どの民族も,先行する人びとに学んでいます。そうでないと,発展することはできません。

 そして,「世界の中心」といえる高い文明を築いた隣人に学んで,それを十分に消化し、新しいことを加えることができた国や民族の中から,つぎの新しい「中心」が生まれてきたのです。ギリシア人,ローマ人,イスラム帝国を築いたアラブ人やその後継者,イタリア人,スペイン人,オランダ人,イギリス人,アメリカ人……これらの人びとはみなそうです。それを,「1万文字の世界史」の全体で述べました。

発明のむずかしさ

 ではなぜ,すべての民族は「先人の肩に乗る」必要があるのでしょうか? なぜ,「ゼロからいきなり多くを生み出すことはできない」のでしょうか?

 身もふたもない話ですが,それは創造というものが,それだけむずかしいことだからです。さまざまな努力や,一定の環境や,偶然などが重なってはじめて可能になる,一種の奇跡だからです。大きな創造ほど,そうだといえます。

 そこで,「創造の典型」として,発明というものについて考えてみましょう。まず,「紙の発明とその伝播」のことを取りあげます。

(紙の発明) 
 紙が発明されたのは,西暦100年ころの,漢の時代の中国だとされます。ただし,もっと古い時代(紀元前100年ころ)の中国の遺跡からも紙の一種がみつかっています。100年ころは「紙の製造の大幅な改良がなされた時期」ということです。

 紙は,「樹や草の皮などからとれる植物の繊維をほぐして,一定の成分を加えた水にとかし,うすく平らにして固める」という方法でつくります。「紙の時代」以前の中国では,木や竹を薄く・細く削った板をヒモで結びつけた「木簡」「竹簡」というものに文字を書いて記録するのが一般的でした。しかしこれは紙にくらべるとはるかに重くてかさばります。

 また,紙以前に,紙と似たものもつくられていました。5000年前ころのエジプトで発明され,ギリシアやローマでも広く使われたパピルスというものです(中国では使われなかった)。パピルスは,「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに二重三重に貼りあわせてつくります。

 しかし,パピルスには,紙のように折りたたんだり,綴じたりする丈夫さがやや不足していました。さらに,パピルス草という,エジプト周辺でしかとれない特殊な原料が必要なため,生産量に大きな限界がありました。一方,紙の製造にはこうした制約はありませんでした。紙の材料に適した植物というのはいろいろあって,その土地ごとに適当なものをみつけることができました。

 このように,紙というのはすばらしい発明でした。では,紙の製造法=製紙法の発明は,一度きりのことだったのでしょうか? 「このくらいの発明は,別の時にほかでも行われた」ということはなかったのでしょうか?

 結論をいうと,紙の発明は,世界史上一度きりのものでした。今,世界じゅうで紙がつくられていますが,その起源をたどると,すべて中国での発明に行きつくのです。

 製紙法は,中国で広がったあと,周辺のアジアの国にも伝えられました。日本には飛鳥時代の600年ころに伝わっています。

 それから,中国の西のほうにも伝えられました。600年代後半にはインドの一部に、700年代にはイスラムの国ぐににも伝わりました。ヨーロッパには,イスラムの国ぐにを通じて1200年代に伝わったのが最初です。

 その後,1400年代にはヨーロッパの広い範囲に製紙法が普及していました。この時点で,製紙法は世界のおもな国ぐに全体にいきわたったといえます。中国での発明から千数百年かかかっています。

 たしかに,現代にくらべれば伝わり方はゆっくりです。しかし,価値のある発明だったので,着実に広まっていったのです。そして,製紙法が世界に普及するまでの千年数百年のあいだ,世界のどこかで,独自に製紙法が発明されることはありませんでした。

(文字の発明)
 「世界史上の重要な発明は、かぎられた場所でしかおこっていない」ことを示す例は,ほかにもあります。
 たとえば文字の発明です。

 文字をまったく独自に発明した可能性があるのは,ユーラシア大陸(アジアからヨーロッパにかけての範囲)では2カ所だけです。紀元前3000年ころの西アジア(メソポタミア)と,紀元前1300年ころの中国(黄河流域)です。

 西アジアではシュメール人によって「楔形文字」の原型になる絵文字が,中国では漢字の原型となった「甲骨文字」というものが生み出されました。

 現在のユーラシア大陸で用いられている,さまざまな文字のルーツをたどれば,すべてこの2つのいずれかに行きつきます。

 なお,エジプトでも紀元前3000年ころから「ヒエロクリフ」といわれる文字がありますが,メソポタミアの影響を受けている可能性が高く,「独自」かどうかがはっきりしません。インドのインダス文明(紀元前2300~1700年ころ)にも,固有の文字(インダス文字)がありました。しかし,インダス文明もメソポタミアとの接触があったことがわかっています。インダス文字が独自のものかどうかは,よくわからないのです。

 つまり,文字を使う民族のほとんどは,自分たちで独自に文字を生んだのではなく,先行するほかの民族から文字を学んだということです。

 ユーラシア大陸以外では,中央アメリカ(メキシコとその周辺)で独自の文字がつくられています。しかし,この文字はその周辺地域を超えて広がることはありませんでした。

(農業=主要作物の栽培)
 「農業」もまた「限られた場所での発明」です。ここで「農業」とは,コメやムギやトウモロコシのような,今の世界で広く「主食」となっている主要な作物の栽培を指すものとします。

 そのような「農業の発明」は,ユーラシア大陸ではつぎの2か所でしか起こっていません。

・13000年ほど前の西アジア(メソポタミアとその周辺。コムギなど)
・9000年ほど前の中国(黄河流域。コムギなど)

 ユーラシアの農業のルーツをたどると,すべてこの2カ所のどちらかに行きつくのです。

 あとは南北アメリカ大陸の3つの地域で,4000~5000年前に独自に農業が始まっています。メキシコ周辺のトウモロコシ栽培、アンデスやアマゾン流域でのジャガイモやキャッサバ、北アメリカ東部でのヒマワリ…といったものです。南北アメリカ大陸では,1500年ころにヨーロッパ人がやってくるまで,ムギやコメは栽培されませんでした。

 このほか,西アフリカ,エチオピア,ニューギニアなど,ユーラシア大陸以外の数カ所で「独自に農業がはじまったかもしれない」とされる場所があります。しかし,これらの農業は世界で広く普及することはありませんでした。

このような例は,ほかにいくつもあげられます。製鉄の技術も,そのルーツをたどると,おそらくは紀元前1500年ころのヒッタイト人による発明・改良に行きつくのです。あとは中国で独自に発明された可能性があるくらいです。

 ***

大企業病

 これまで述べた「繁栄の中心がとなり・となりで移動する」理由はつぎのとおりです。

 「人は人から教わる」
 「自分たちだけで何もかも創造することはできないので、先行する他者に学ばなければならない」
 「先行する繁栄の中心によく学んだ集団の中から新しい〈中心〉が生まれる」

 ただ,もうひとつ整理すべきことがあります。「なぜ繁栄の中心は,いつまでも続かないのか」ということです。

 「繁栄の中心の移動」とは,それまでの中心が停滞・衰退し,新しい「中心」に追いこされていったということです。それまでに圧倒的な優位を築き,豊富なリソース(利用できる材料・資源)を持っているのに,どうして新興勢力に負けてしまうか。

 これは「文明や国家が衰えるのはなぜか」ということです。昔から歴史家や思想家がテーマにしてきた大問題です。いろんな説や視点がうち出されていますが,議論は決着していません。

 私としてはまず,そのような答えの出にくい,大きな「なぜ」に深入りするよりも,「繁栄の中心がとなり・となりで移動してきた」という現象・事実をしっかりとおさえたいと思います。とはいえ,世界史の基本的な事実を追っていると,「繁栄の中心が停滞・衰退するとき、何が起こっているか」について,みえてくることもあります。

 それは,衰退しつつある繁栄の中心では「成功体験や伝統の積み重ねによる、社会の硬直化」が起こっている,ということです。
 
 繁栄の中心となった社会は,それまでに成功を重ねてきています。そのため,過去の体験にこだわって,新しいものを受けつけないようになる傾向があります。もともとは,先行するほかの文明や民族からさまざまなことを取り入れて発展したのに,そのような柔軟性を失って内向きになってしまう。

 これを私たちは,国や文明よりも小さなスケールでよくみかけます。成功を収めた大企業が時代の変化に取り残されて衰退していく,というのはまさにそうです。「大企業病」というものです。

 2012年に破たんしたアメリカのイーストマン・コダック社は,その典型です。コダック社は,写真フィルムの分野において世界最大の企業でした。世界で初めてカラーフィルムを商品化するなど,業界を圧倒的にリードしてきました。しかし、近年の写真のデジタル化という変化の中で衰退し,破たんしてしまったのです。

 これだけだと,「デジタルカメラの時代に、フィルムのメーカーがダメになるのは必然だろう」と思うかもしれません。

 しかし,世界の大手フィルムメーカーの中には,今も元気な企業があります(日本の富士フィルムはそうです)。そうした企業では,デジタル化に対応する事業や,フィルム関連の技術から派生した化学製品などに軸足を移していったのでした。

 コダックは,やはりどこかで対応を誤ったのです。何しろ,1970年代に世界ではじめてデジタルカメラの技術を開発したのは,じつはコダックなのですから。また、現在において有望な分野となっている、ある種の化学製品についても、コダックは高い技術を持っていました。

 しかし,コダックは1990年代に大きな「リストラ」を行い,のちに開花するそれらの技術や事業を売り払ってしまいました。内向きな姿勢で,人材やノウハウを捨ててしまったのです。そして,伝統的に高い収益をあげてきたフィルム関係の事業を「自分たちのコアの事業だ」として残したのでした。その結果,つぶれてしまいました……

 コダックはまさに「過去の成功体験にとらわれて,新しいものを受けつけなくなった大企業」でした。

 世界史の中では,例えば1800年代の中国やオスマン・トルコ(当時のイスラムの中心だった帝国)は,そんな「大企業病」に陥っていました。

 当時の中国もオスマン・トルコも,ヨーロッパの列強から圧迫や侵略を受け,劣勢でした。そこで「ヨーロッパの進んだ技術を受け入れる」という改革の動きもあったのですが,成功しませんでした。

 中国もトルコも,それなりに財力もあり,優秀な人材もいました。また,さまざまなヨーロッパ人との接点があり,多くの新しい情報に触れることもできたのです。しかし「改革」はうまくいきませんでした。抵抗勢力の力がまさったのです。

 結局,中国の王朝もオスマン・トルコ帝国も,1900年代前半に滅亡してしまいました。

 中国もイスラムの帝国も,ヨーロッパが台頭する前は「繁栄の中心」でした。新技術などの文明のさまざまな成果も,生み出してきたのです。たとえば近代ヨーロッパの発展の基礎になった「三大発明」といわれる,火薬・羅針盤・印刷術といった技術は,もともとは中国で発明されたものです。

 しかし,中国ではそれを十分に発展させることはできませんでした。これは,コダックがデジタルカメラなどの,未来に花ひらく技術を開拓しながら,それを育てることができなかった姿と重なります。

 このような「大企業病」は,国家でも組織でも,さまざまな人間の集団で広くみられるものではないでしょうか(個人でもみられます)。

 だからこそ,「繁栄の中心」は、永遠には続かないのです。繁栄が続くと,どこかで「大企業病」に陥って、停滞や衰退に陥ってしまう。そして,その「停滞」を「周辺」からの革新が打ち破る。その結果,新たな「中心」が生まれ,遅れをとった従来の「中心」は「周辺」になってしまう……そうしたことが,世界史ではくりかえされてきました。ここでは立ち入りませんが,ローマ帝国でも,イギリスでも,衰退期には「大企業病」的な硬直化がみられます。

 ただ,くりかえしますが,当面私がテーマとしたいのは「繁栄の中心の移りかわり」という現象を,事実としておさえることです。「なぜ文明は衰退するのか」については,今の時点ではこのくらいにしておきます。

(以上)
2013年09月08日 (日) | Edit |
(まえおき)
 このブログでは,「となり・となりの世界史」というシリーズを続けています。
 世界史を「繁栄の中心の移りかわり」という視点で見渡していく,というものです。
*このシリーズの記事の大部分は2018年10月現在非公開としていますが、同記事をもとに2016年9月に日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。
 
 世界史には,それぞれの時代に「世界の繁栄の中心」といえるような地域や国があります。

 文明のはじまりの時代には,メソポタミア(今のイラク)とその周辺の「西アジア」が,文明の最も進んだ「中心」でした。その後,ギリシアやローマがおおいに繁栄した時代もあります。さらに「イスラムの時代」といえる時期もありました。
 そして,200~300年前にはヨーロッパ諸国が台頭して圧倒的になり,1900年代以降は「アメリカの時代」になりました。

 そして,このような「中心の移りかわり」には,「新しい中心は,それまでの中心の周辺の,比較的近い場所で生まれる」という法則性があります。

 「比較的近い場所」すなわち「となり」です。

 世界史における「繁栄の中心の移動」は,「となり」へ移っていく,ということがくりかえされてきました。「となり・となり」と移動がくりかえされてきたのです。

 今回は,近現代の「となり・となり」について述べます。 


となり・となりの世界史15

「となり」の欧米,アメリカ


日本に最も影響をあたえた欧米の国は?

 現代の世界をみるうえでも,「となり・となり」という視点は,やはりカギになります。
 現代の世界でも,「となり・となりの法則」は成り立っているのです。つまり,従来の「中心」の周辺に,新しく繁栄する国が出てくるということが,おこっています。

 たとえば,日本の繁栄がそうです。

 日本の発展の歴史には,「〈となり〉の欧米」であるアメリカが大きく影響しています。
 また,日本の繁栄は,「となり」にある中国,韓国などの経済成長に影響をあたえています。

 日本が世界の「繁栄の中心」のひとつになったのは,1900年代なかば以降のことです。

 くわしくいうと,1950~60年代にあった「高度経済成長」という急速な発展のあとの,1970年代からです。それ以降,日本は欧米の先進国と肩を並べる「経済大国」になったといえるでしょう。
 そしてそれは,明治維新(1868年)以来,「欧米諸国に追いつこう」として近代化をすすめてきた成果です。

 ではその「欧米諸国」のなかで,日本に対しとくに影響の大きかった国をあげるとすれば,どこでしょうか?

 それは,アメリカ(アメリカ合衆国)ではないでしょうか。


 その影響の「良し・悪し」ということは,とりあえずおいといて,ほかの国と比較しての「影響の大きさ」ということで考えることにします。すると,やはりアメリカではないでしょうか。
 
 アメリカは,じつは日本にとって最も近くにある,「となり」の欧米です。
 アメリカは,日本からみて太平洋をはさんだ向こう側にあるのです。ヨーロッパよりもずっと近いです。


 そもそも,日本が近代化への第一歩をふみだすきっかけは,幕末(1853年)にアメリカの4隻の軍艦=「黒船」がやってきて,外交関係を結ぶ「開国」をせまったことでした。
 当時の日本は,200年あまりのあいだ,欧米諸国とのつきあいを絶つ「鎖国」政策を続けていました(オランダだけは例外として関係を持っていました)。
 
 その後,徳川幕府が最初に外交の条約を結んだ欧米諸国は,アメリカです。

 また、幕府は1860年に,西洋型軍艦・咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに使節を派遣しました。これは,鎖国をやめて以後はじめての外交使節団だったのです。咸臨丸には,勝海舟や若き日の福沢諭吉といった人たちが乗っていました。


アメリカの影響

 それから,あまり知られていませんが,明治初期には,日本人の留学先のトップはアメリカでした。アメリカに熱心に学ぼうとしていたのです。

 アメリカ文化の研究者・亀井俊介さんが引用する統計によれば,《明治元年から七年まで……五五〇人中二〇九人……の留学生がアメリカに行っており,二位のイギリスを断然引き離していた。》といいます。(亀井俊介編・解説『アメリカ古典文庫23 日本人のアメリカ論』研究社)

 そして,第二次世界大戦(1938~45)では,日米の全面戦争がありました。その結果,日本が完敗して6年間にわたりアメリカに占領されました。そして,アメリカの占領軍の主導で,さまざまな政策・改革が行われました。

 占領の時代がおわったあとも,アメリカは,日本に大きな影響を与えつづけました。

 音楽・映画・ファッションは,いうまでもありません。外交などの政治もそうです。自動車や家電の産業も,アメリカの模倣からはじまりました。スーパーマーケットもコンビニも,アメリカにあったものを日本に持ってきたのです。
 
 このようにアメリカの影響が大きかったのは,ひとつには1900年代が「アメリカの時代」だった,ということがあります。アメリカは,日本だけでなく世界じゅうの国に影響をあたえてきました。

 しかし,それだけではありません。さきほど述べたように,日本からみれば,アメリカは「最も近くにある欧米」です。
 日本とアメリカ(西海岸)は,太平洋をはさんで「となり」どうしの関係にあります。
 これは,イギリスとアメリカ(東海岸)が大西洋をはさんで「となり」どうしであるのと,同じようなことです。これにたいし,日本からみてヨーロッパは,はるかに遠いところにあります。とくに飛行機以前の時代には,そうでした。

 アメリカという,「となり」の中心的な大国から影響を受けた日本。

 このように,日本の繁栄についても,「従来の中心の近くから,新しい中心が生まれる」という「となり・となりの法則」が成り立っています。文明が「アメリカ→日本」というかたちで伝わっています。


ヨーロッパの影響も大きい

 もちろん,ヨーロッパも日本に大きな影響をあたえました。とくに1800年代は,イギリスが「世界の中心」といえるほどに繁栄した時代ですので,当然その影響が大きかったです(明治維新:1868年)。
 そして,ドイツにも大きな影響を受けました。

 日本人の留学先は,明治後半からはヨーロッパにシフトしていきます。

 先ほどの亀井さんの著作からまた引用すると,《明治二〇年代から,……外国のモデルとしてはヨーロッパ,特に新興帝国であるドイツが,政治および文化のあらゆる面で重んじられるようになった。逆にアメリカは,その共和制度や自由思想のゆえに危険視され,文化的にも軽視されるようになった》のです。

 そして,明治20~30年代には,留学先のトップはドイツとなり,次がイギリスで,アメリカは4番手になりました(以上,政府が費用を出す「官費留学生」についての統計による)。

 「なぜ,ドイツだったのか」を少し補足しておきます。

 明治時代の日本は,天皇という君主を頂点とする政治体制でした。アメリカは,君主のいない「共和制」でした。選挙で選ばれた大統領が国のトップです。「自由と平等」が重んじられ,君主や貴族といった「生まれながらの特権階級」に批判的な傾向が強かったのです。

 一方,当時のドイツは「皇帝」を頂点とする君主制でした。しかもそれは比較的最近になって成立した新しい体制で,その新体制のもとで急速に国の勢いを伸ばしていました。そこで,日本にとっていろいろ参考になると考えられたのです。

 しかし,ヨーロッパの影響が強くなった後もアメリカからの影響は続きました。とくに,アメリカが新しく「繁栄の中心」になった1900年ころ以降は,その影響はまた大きくなったといえるでしょう。

 電灯,蓄音機,映画,飛行機など,現代的な文明の利器の多くは,アメリカから入ってきたものです。明治末から大正にかけての,民主主義的な考え方が有力になった「大正デモクラシー」の時代には,アメリカは第一のお手本でした。


日本とアメリカの貿易

 以上の経緯は,たとえば日本の貿易(輸出入)のデータにもあらわれています。
 貿易をみるのは,それが多く行われていれば,「国どうしのつき合いが深く,影響を受けやすい」と一般にいえるからです。

 明治以降(昭和初めまで)の日本の輸出入額を,「アジア州」「ヨーロッパ州」「北アメリカ州」といった地域別の割合でみると,つぎのようになっています。
 南アメリカ,アフリカ,オセアニアなどのほかの地域は,ごく少ないので,省略です。

 表の数字を追うのがめんどうな人は,表はとばして,そのつぎの文章のところだけお読みください。

日本の貿易相手の地域別割合

●1875~79年(明治時代前半)
   (輸出) (輸入)
アジア 25   24%     
欧 州 46   68
北 米 29   7 

●1900~04年(明治後半)
   (輸出) (輸入)
アジア 43   45%     
欧 州 24   36
北 米 31   17 

●1925~29年(大正末~昭和の初め)
   (輸出) (輸入)
アジア 43   42%     
欧 州  7   18
北 米 44   31 


データ出典:安藤良雄編『近代日本経済史要覧 第2版』(東京大学出版会 1979)23ページ。

 明治の前半には,「ヨーロッパ」との貿易の割合が最も大きいです。近隣のアジアよりも多いのです。

 しかしその後(明治中ごろ以降),アジアの割合が増えていき,「ヨーロッパ」は減っていきます。さらに後には,「北アメリカ≒アメリカ合衆国」の割合も大きく増えます。

 この貿易額の推移は,これまでに述べてきた,「日本とアメリカの関係の深さ」を,おおむね裏付けていると思いますが,どうでしょうか?
 とくに,このデータからは「昭和の初期には,アメリカは日本にとって最大の貿易相手だった」ということがうかがえます。

 日本とアメリカは,1941~45年(昭和16~20)まで,全面戦争をしました。

 戦争というのは,険悪で疎遠な相手とのあいだでおきることもありますが,「関係が深い相手と,利害がぶつかっておきる」ケースも多いのです。
 つきあいが深いと,そのぶん対立が頻繁になったり,深刻化したりすることがあります。早い話,よく戦争になるのは,遠くの国どうしよりもとなりどうしです。

 具体的な経緯にはここでは踏み込みませんが,日米の戦争は,そのような「〈となり〉にある,関係が深い者どうし」の戦争だったのです。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月24日 (土) | Edit |
まえおき

 私は世界史が大好きで,「アマチュア世界史研究家」だと自分では思っています。ウチの本棚にある本の半分は,世界史関連です。

 このブログでは,「となり・となりの世界史」というシリーズを続けています。世界史を「繁栄の中心の移りかわり」という視点で見渡していく,というものです。
*このシリーズの記事の大部分は2018年10月現在非公開としていますが、同記事をもとに2016年9月に日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。
 
 世界史には,それぞれの時代に「世界の繁栄の中心」といえるような地域や国があります。

 今の世界なら,やはりアメリカがそうだといえるでしょう。
 文明のはじまりの時代には,メソポタミア(今のイラク)とその周辺の「西アジア」という地域が,文明の最も進んだ「中心」でした。
 その後,ギリシアやローマといった地中海沿岸(のヨーロッパ側)がおおいに繁栄した時代もあります。
 さらに「イスラムの時代」といえる時期もありました。
 そして,200~300年前にはヨーロッパ(とくにその西側の「西ヨーロッパ」)が台頭して,圧倒的な勢いを持つようになりました。
 そして,1900年代以降は,「アメリカの時代」になります。

 このような「中心の移りかわり」には,一定の法則性があります。
 それは,「新しい中心は,それまでの中心の周辺の,比較的近い場所で生まれる」ということです。

 「比較的近い場所」すなわち「となり」です。

 世界史における「繁栄の中心の移動」は,「となり」へ移っていく,ということがくりかえされてきました。「となり・となり」と移動がくりかえされてきたのです。

 「となり・となりの世界史」という(ちょっとヘンな)タイトルは,そこからきています。

 そして,ごく最近のこのブログでは,「過去数千年の,となり・となりの繁栄の移動」を,2万文字くらいの長さでざーっと見渡すということを行いました。
 「1万文字の世界史」というシリーズです。
*この記事は2018年10月現在ブログ上では非公開にしましたが、同記事をもとに2016年9月に、日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。
 ただし,「1万文字の世界史」というタイトルで書きはじめたのですが,書いてみると2万文字になってしまった…

「近代の文明」はこれからも力を持ち続ける
                      
 今回は,「1万文字(2万文字)の世界史」をふまえた,「結論」のひとつを述べたいと思います。
 いろんな「結論」が導き出せるとは思うのですが,そのなかで「とくに大事だ」と私が思うこと。

 それは,今の私たちの文明にかんするイメージです。
 つまり,科学や技術に支えられた,近代の文明。
 「資本主義」というのも,「近代の文明」の一部でしょう。

 その「近代の文明」は,これからも力を持ち続けるのではないか。
 「1万文字(2万文字)の世界史」の内容は,そんなイメージにつながると思っています。 
 
 「近代の文明」に,いろんな問題があることはたしかです。
 だから,「反近代」の思想を述べる人は,たくさんいます。

 前にこのブログの記事でもとりあげたのですが,インド独立・建国の指導者・ガンジーもそのひとりでした。

 ガンジーは「機械は西洋と結びついており,悪魔的だ。あんなものはないほうがいい」「経済生活は,衣食住の基本さえみたせば,それ以上を求めるべきでない」「輸出も輸入も排斥されるべきだ。国の経済は自給自足が理想だ」などと主張しているのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社より)
 
 機械文明も経済発展も貿易も否定する,ガンジー。

 ガンジーのように「反近代」の主張をする人はこれからもくり返しあらわれるにちがいありません。
 そして,かなりの人をひきつけたりするかもしれません。
 しかし,ガンジー的な主張が世界の主流派として力を持つことはない,でしょう。

 それは,「1万文字の世界史」でみてきたことからも,明らかではないかと。

 「〈近代〉はこれからも力を持ち続ける」――こういう主張は,いきなり述べてもなかなか受けいれてもらえないと思います。

 しかし,「となり・となりの世界史」あるいは「1万文字の世界史」をこれまで読んでくださった方なら,(全面的に賛成ではなくても)ある程度は「受け入れる」ことができるのではないでしょうか。
 少なくとも「主旨」(いいたいこと)は理解していただけるのでは…

 なぜなら,今の世界で主流になっている「近代」の文化や技術が,どのようなプロセスで生まれたものかについて,すでに知っているからです。

 つまり,これまでの世界史において,さまざまな民族が過去の遺産を継承し,新しいものをつけ加え,つぎの世代に渡していく――「1万文字の世界史」から,そのイメージを得ているからです。

 数千年にわたるさまざまな遺産の継承の積み重ねの末に,「近代」は生まれました。

 「近代」をかたちづくる要素のひとつである「近代科学」にかぎっていえば,

 最古の文明以来の西アジアの学問を,ギリシア人が受け継いで古代の学問・科学を開化させ,
 それをローマ人やイスラムの人びとが受け継ぎ,
 イスラムに学んだ西ヨーロッパ人が独自の要素を加えて近代科学を開化させた……

 そんな過程があるわけです。

 そして,イスラムにはインドの学問も影響をあたえましたし(「0」を使うアラビア数字など),印刷術などの中国発の技術は,ヨーロッパの文化に多大な影響を与えています。

 つまり,数千年間の世界のおもな文明によるさまざまな遺産の集大成として,「近代科学」は生まれ,発展してきたのです。

 このようなイメージがしっかりとあれば,科学をはじめとする,「近代」の根幹をなす要素を,簡単に否定するようにはならないと思うのですが,どうでしょうか?

 数千年にわたり,世界中の人びとが参加して築きあげてきたものを,どうして安易に捨て去ることができるでしょうか。


ジョブズの言葉

 さまざまな遺産の継承のうえに,今の私たちが存在している――これは,「世界史」を通して私たちが知るべき,だいじなメッセージだと思います。

 このイメージについて,アップルの創業者スティーブ・ジョブズが晩年に語った言葉があります。

 ジョブズの言葉は,歴史への認識にもとづいて,私たちが個人として,あるいは国民や市民としてどう生きるか,ということにも触れています。

 《なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは,先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数字も,僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし,自分の服なんて作ったことさえない。
 僕がいろいろできるのは,ほかの人たちがいろいろしてくれているからであり,すべて,先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして,僕らの大半は,人類全体になにかをお返ししたい,人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それはつまり,自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ……僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして,その流れになにかを追加しようとするんだ。
 そう思って,僕は歩いてきた。》

(ウォルター・アイザックソン(井口耕二訳)『スティーブ・ジョブズⅡ』講談社より)

 私たちも,歴史の遺産になにかを加えることをしていきましょう。
 ごくささやかなことでいいと思います。
 あるいは,そんな仕事をすすめている人たちを,少しでも応援していきましょう。

 私たちも,私たちになりに歩いていきましょう。

(以上)
2013年07月13日 (土) | Edit |
 前々回の記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト に,コメントをいただきました。「コメント欄」にあるのですが,ご覧にならない方も多いと思いますので,私の返信(大幅加筆)も含め,記事本文で紹介します。

 たきやん。さん(ブログ:たきやん。のBurning Heart)からのコメントです。

 今の時代だからこそ必要(byたきやん。)

 そういちさん、こんにちは。
 自分も世界史には疎い人間です。

 「中心の移り変わり」で世界史を見る、というのが
 評判が悪い、というのは知りませんでした。
 自分は歴史という学問は、過去の出来事から
 学んだことを今の世に活かすものだと考えています。
 そういう観点から、「中心の移り変わり」で世界史を
 見る、というのはむしろ王道だと思っていました。

 これから、そういちさんがどういう記事を展開していくのか、
 非常に楽しみにしております。



 私・そういちからの返信(大幅に加筆しました)

 こんにちは,コメント・励ましのお言葉ありがとうございます。
 私も「中心の移りかわり」で世界史をみる,なんて当たり前の「王道」だと思っています。

 そして,ふつうはそれが「王道」だとか,ひとつの「立場」であるという自覚もないのでは?
 日本史で,「奈良時代」とか「江戸時代」とかいうのは,奈良(平城京)や江戸を「中心」とみる発想があるのでしょうが,そういうのはごくあたりまえになっています。
 
 でも,近年のインテリの傾向はちがうようです。
 ふつうの人がとくに自覚せずに「あたりまえ」と思っていることに「ちょっと待て」というわけです。

 「ここが中心」といってしまうと,ほかの国や民族を見下しているようで申し訳ない,と思うようですね。

 たとえば「今の世界の中心はアメリカだ」といったら,怒る人がいるはずです。あるいは自分の中にある「正義感」に怒られてしまう。なにか「差別」しているように思ってしまう。(こういう発想は,私たちの道徳観念が進歩した結果でしょう)
 
 でも,現実をみれば「中心」といえるような,ほかと比べて繁栄し,経済的・政治的・軍事的に優勢な国や地域があるのは,あたりまえのことだと思うんですが…。そして,それを認めることが,ほかの国や地域をおとしめることになるとも思えません。

 だって,「中心」となる国や地域は,いろいろと移りかわってきたのですから。

 「文明のあけぼの」以来,紀元前の時代の大部分は,西アジア(今のアラブ地域)が最先進地帯であり,「世界の中心」でした。
 ギリシア・ローマがそうであった時代もありましたし,イスラムが「中心」であった時代もあった。そしてイスラムが中心だったころには,中国もそれに匹敵する存在でした。そのころは,ヨーロッパはイスラムにくらべれば「片田舎」でした。

 その後ヨーロッパが台頭してきますが,ヨーロッパのなかでも「中心」といえる地域は,イタリア・スペイン→オランダ→イギリスと移りかわっていきました。
 そして1900年代以降はアメリカ合衆国の時代となります。1900年代後半以降は,日本も,西欧やアメリカと並んで「中心」の一画を占めるようになりました。その日本を今は韓国や中国などの新興国が追い上げている…

 西アジア……ギリシア……ローマ……イスラムの国ぐに(と中国)……ヨーロッパ(イタリア…スペイン…オランダ…イギリス)……アメリカ(西欧,日本)

 このように「中心」はうつり変わってきています。

 これは,多くの国や地域に発展の可能性があるということです。
 また,どれほど繁栄していた国であっても,いつかは(あるいは何かあれば)衰退していくということでもある。

 つまり,多くの国ぐにには,つねに発展と没落の可能性があるということです。いってしまうと,あたりまえのことですが。
 であれば,「中心」を特定する発想は,肌の色で「差別」するようなのとはちがうはずです。「中心」などという状況は,移ろいやすいものなのですから。

 「中心」という視点がなかったら,世界史は「あれもこれも」になって,焦点の定まらない,わけのわからないものになってしまうはずです。わけのわからない世界史からは,「今の世に活かす」なにかを汲み取ることなどできないでしょう…
 このあたりの歴史観の基本,歴史の書き方の方法論は,これからの記事のなかでまた述べていきます。
 おつきあいいただければ,うれしいです。


                       *

 ところで「ブログでは,拍手などの反響と,その記事に注いだ時間や労力はかならずしも一致しない」ということがあるそうです。私も,ブログをはじめてみて「たしかにそうだ」と実感してます。

 30分で書いた記事が,わりと多くの拍手をいただけることもあります。
 一方,おそらく「万」の単位の時間がバックにある 「となり・となりの世界史」というコンセプト は,今のところは,あまり拍手がなかったりする。
 時間や労力をかけた文章にありがちな,「入りにくさ」のようなものがあるのかもしれません。
 
 でも,コメントをいただいたことで,熱心に読んでくださる方もいるのだ,ということがわかります。
 ひとつのコメントがあれば,「ほかにも同じように思ってくださる人がいるはずだ」と感じ,勇気づけられます。

 それでも,関心を持って下さった方がいたら,ぜひ拍手なりコメントなりいただれば,ありがたいです。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月12日 (金) | Edit |
 「世界史」論についての,前の記事の続き・補足です。
 近年話題になった世界史のベストセラーについても,触れておきたい。


『銃・病原菌・鉄』とマクニールの『世界史』

 ここ数年は世界史に関する本のなかに,ベストセラーも生まれています。世界史への関心が広がっているのでしょう。
 そんな「世界史本」の代表格といえば,つぎの2冊でしょうか。

 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(上・下,草思社文庫)
 
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
(2012/02/02)
ジャレド・ダイアモンド

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ウィリアム・マクニール『世界史』(上・下,中公文庫)


世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)
(2008/01/25)
ウィリアム・H. マクニール

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 どちらも,10万部単位で売れたといいます。2つの本はたしかに「名著」です。新しい世界史像を読者に伝えてくれます。

 しかし,これらの本によっても満たされないニーズもあります。

 まず,どちらも上下巻合わせて1000ページ前後の長編です。これを読みとおせる人がほんとうにどれだけいるのか? とくに,マクニールの本は教科書的な調子でびっしりと書かれているので,読むのにエネルギーが要ります。

 一方,ダイアモンドの本は,いろんな新しい視点を提供してくれる,たのしい「謎解き」の本です。マクニールのような読みにくさはありません。しかし,世界史全体の系統だった知識は,ダイアモンドの本からは得られないのです。それを目的とした本ではないからです。

 また,どちらの本も「社会科の授業は苦手だった」という人に対しては,基本用語の説明などで足りないところも見受けられます。ほんとうの初心者には読みにくいところがあります。

 もっとコンパクトなかたちで,世界史の系統的な全体像を,「まったくの素人」だという人たちにも伝えることはできないか。

 これが私のねらうところです。

(前回の記事で述べましたが,私は「となり・となりの世界史」というコンセプトで独自の世界史の通史を書こうとしているのです)

 しかも,その「となり・となりの世界史」で私がお伝えしたいのは,これまでの教科書的な常識から前進した,「新しい世界史像」です。

 具体的にいうと,1900年代後半以降の,比較的新しい歴史学の成果をふまえた世界史です。私たちの「常識」にある世界史像は,これよりも古い,大昔の学問をもとにしていることが多いのです。

 そう聞くと意外に思うかもしれません。しかし,最も進んだ専門家の研究が,社会的に認められ,私たちのものになっていくには,多くの時間が必要なのです。とくに教科書というのは保守的で,最後まで古い学問にしがみついているものです。

 マクニールやダイアモンドの本は,「新しい世界史像」についてのぼう大な情報を,一般向けにまとめたものといえます。「となり・となりの世界史」の基本となるコンセプトや重要な結論も,これら2冊と重なるところがありますが,これは「元ネタ」である歴史学の成果が共通だからです。

 ただし,結論に共通したところがあっても,それを私としてはめいっぱい「素人向け」に書いていいきたい。さらに,私独自の「世界史の整理のしかた」も打ち出していきます。それが,「となり・となりの世界史」というコンセプトです。

(以上)
テーマ:読書メモ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月12日 (金) | Edit |
 世界史の話は,このブログの柱のひとつです。

 世界史は,さまざまな,社会にかんする知識・学問の基礎になります。
 板倉聖宣さんという教育学者は,「世界史は,これからの時代では,読み書き・そろばんに並ぶようなだいじなものだ」ということをいっています。そのとおりだと思います。

 そんな世界史についての,私の考えを述べたもの。これから何十回か続けるシリーズの入口の話です。
*このシリーズの記事の大部分は2018年10月現在非公開としていますが、同記事をもとに2016年9月に日本実業出版社から『一気にわかる世界史』を出版しました。


「となり・となりの世界史」というコンセプト

盛りだくさんすぎる「世界史」

 それにしても,今の世界史の教科書はじつに盛りだくさんです。ぼう大な固有名詞や年代が出てきます。これを消化して世界史全体のイメージを描くのは,たいへんです。

 世界史教育は,あまりに多くの事件や地域のことを盛り込もうとしすぎています。そこにあるのは,「世界史」というひとつの物語ではありません。

 学校の教科書は,数本の異なるストーリーをつぎはぎして,無理やり一冊の本にした感じです。
 教科書以外で世界史のあらすじを述べた本の多くも,似たようことになっています。

 私は,社会科学や歴史にかんする教育・啓蒙を,自分なりのテーマとしてきました。そのなかで,世界史のわかりにくさを何とかしたいと,つねづね思ってきました。

 世界の人びととのつきあいが,ますます深くなっています。世界史はさらに重要な,みんなの知識になるでしょう。
 だからこそ,世界史がもっと「わかる」ものなればいい,と思います。

 そして,今や日本はそれなりに成熟した先進国になって,世界の先頭を行くようになりました。以前は先を行く欧米諸国の後を追いかけていればよかったのですが,最近はそうはいきません。そんな状況で,今の日本人はこれからどの方向に踏み出せばいいのか,迷っています。
 これからの日本がめざす方向を考えるうえでも,過去の人類の歩みを知ることは参考になるでしょう。

 以上が世界史の効用です。
 これはこれでいいのです。しかし,私にとって世界史は,まず何よりも「わくわくする,たのしい知識」でした。これも重要なことです。「それだけでは役に立たない」という人もいるでしょうが,「たのしさ」は立派な効用です。

 私が感じてきた世界史のたのしさを,どうにかしてお伝えしたいものです。

 
世界史を整理する視点

 「多くのふつうの人たちが世界史をみるうえで役立つ視点」というのを,これから述べていきたいと思います。
 つまり,この見方で世界史がすっきり整理される,というものです。それがほんとうにできれば,わくわくしてくることでしょう。

 「世界史を整理する視点」などというと,昔のことを知る読書家は,マルクス主義の「唯物史観」や,その他の「〇〇史観」「〇〇史学」のことを思い出すかもしれません。

 そして,「ああいう,ひとつの固まった史観や理論で歴史を解釈するのは,もう時代おくれだ」というのでしょう。
 
 しかし,私が述べたいのは,「史観」とか「理論」とかいうほどのものではありません。もっとベーシックな,素人っぽいことです。世界史の知識を整理するうえでの,コツや勘どころのようなもの。歴史にくわしい人からは,「なんだそんなことか」といわれてしまいそうな話です。

 しかし,だからこそ,一般の多くの人たちには役立つのではないかと思います。そして,その割にはきちんと論じられてこなかったことでもあります。

 多くの歴史家や理論家は,そんな初歩のことよりも,「その先」を論じたいものです。でも,それは多くの人のニーズとはちがうと思います。

 では,何を述べたいのか。それは,

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる

という視点です。

 つまり,こういうことです――世界の「繁栄の中心」といえるような大国・強国は,時代とともに移りかわってきました。そういう,時代ごとの大国・強国を主人公にして,世界史を描く。

 これはかなり古典的な世界史の書き方です。古くは1800年代の哲学者ヘーゲルなども,この線で世界史を論じています。
 でも,のちに「大国・強国中心の世界史」は,いろんな理由で(ここでは立ち入りません)下火になっていきます。
 最近の世界史は,「多様な地域の歴史を幅広く教える」というのがスタンダードです。
 そんな中,板倉聖宣さんという教育学者は,「中心の移り変わり」という視点で世界史をみわたす授業の構想を打ち出しました(「授業書〈世界史入門〉の構想」『仮説実験授業研究 第Ⅲ期4』仮説社,1994)

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる,という視点は,おもに板倉さんから得たものです。板倉さんは,私が「先生」と仰ぐ人です(本を読んで一方的に学んでいるだけですが)。

 「中心の移りかわり」で世界史をみる,というのは,今の時代は評判が悪いです。
 でも,今の世界史教育は,いろんな地域のことを「あれもこれも」教えようとしすぎて,わけがわからなくなっています。

 「中心の移りかわり」という「視点」を定めることで,もっとシンプルに世界史の大きな流れを描きだしたい。そのことで,多くの人にとって「わかる」「わくわくする」世界史にしたい。
 それが,板倉さんの意図したところだと,私は理解しています。

 私は,その視点をおしすすめて,自分なりに世界史の通史を書いてみたくなりました。
 板倉さんの仕事がありながらも,「自分ならこうしたい」というのがいろいろ出てきて,板倉さんの一読者ではいられなくなったのです。

 では,どういうふうに「おしすすめる」のか。

 それは,「中心の移りかわり」の地理的な位置関係にトコトン注目する,ということです。

 じつは,世界史における「反映の中心の移りかわり」には,こんな法則性があります。

 「新しい繁栄の中心は,それまでの古い中心の周辺から生まれる」

 それまでの中心からみて「となり」の地域から,つぎの時代の新しい勢力が生まれるのです。
 「となり・となり」で移っていく,といったらいいでしょうか。


「中心」の移りかわり

 たとえば,1600年代のヨーロッパで,繁栄の中心だったのはオランダでした。
 しかし1700年ころからは,それはイギリスに移りました。イギリスは,海峡をはさんでオランダのすぐとなりです。

 オランダの時代の前に最も繁栄していた国のひとつは,スペインでした。スペインは,オランダとは完全には隣国とはいえませんが,地理的に近い位置にあります。
 しかもオランダは,もともとはスペインに支配されていました。両国は密接な関係にあったのです。

 新しい中心が「となり」に移っていくことは,スペイン→オランダ→イギリスといったケースにかぎりません。世界史のどの時代にもみられます。

 3000年ほど前の世界で,西アジアという,今のイラク,エジプト,イラン,トルコなどの地域の進んだ文化をギリシア人が受け取り,その後新しい中心になっていったときも,そうでした。
 ギリシアは,西アジアの一画(トルコ)に隣接しています。西アジアは,世界で最も古くから文明が栄えた地域で,3000年前ころの世界では最も先進的な地域でした。

 一方,3000年前ころのギリシアはまだまだ発展途上で,「古代ギリシア」の有名な文化が花開くのは,その数百年後です。「発展途上国」だったころの古代ギリシア人は,西アジアの人びとに多くを学んで「文明開化」したのです。このことはこの数十年の歴史の研究ではっきりしてきました。

 こういう例は,世界史にいっぱいあるわけです。

 1000年余り前,ローマ帝国の遺産にイスラムの人びとが学んだときも,その後何百年かしてイスラムの人びとからイタリア人やスペイン人が学んだときも,同じようなこと――「となり」への中心の移動――がありました。

 当時のイスラムの帝国は,ローマ帝国(東ローマ帝国)に接していましたし,イタリアやスペインは,ヨーロッパの中ではイスラムの国ぐにと距離が近く,貿易などで接点が多かったのです。とくにスペインは,イスラムの国に支配されていた時期がありました。
 近代社会を築く前のヨーロッパは,かならずしも世界の最先端ではありません。過去にはイスラムの国ぐにのほうが「進んでいる」といえる時期があったのです。

 いきなりいろんな国や民族が出てきましたが,このへんのことはおいおいきちんと説明していきます。

 「となり・となりで繁栄の中心が移っていく」という現象は,今の世界でもみられます。
 たとえば,日本という「繁栄の中心」の周辺である韓国や中国の沿岸部,東南アジアに,経済的繁栄が広がっていること。これらの新興国の台頭には,やはり日本の影響があるわけです。

 これはまだ「中心が移る」とまではいっていませんが,「繁栄が,その中心から周辺へと広がっていく」ということが起きています。

 似たようなことは,ほかの地域でもみられます。
 ドイツなどの西ヨーロッパに隣接する,チェコやポーランドなどの東ヨーロッパ諸国,そしてトルコの経済発展。
 アメリカ合衆国の南に隣接するメキシコが,近年経済的に台頭してきたこと。

 「となり・となり」という視点は,過去の世界だけでなく,これからの世界をみるうえでも有効なはずです。
 

「となり・となり」でたどっていく

 私がこれからお伝えしていきたいのは,ようするにつぎのようなことです。

 世界史というのは,さまざまな国や民族が,
 過去からの遺産をリレーのように受け渡ししながら前進してきた。

 過去の遺産を受けとった人びとが,新しいものをそこにつけ加えて,別の人びとに手渡す。

 それが世界史ではくりかえされてきた。

 その「手渡し」は,接点の多い近隣の国や民族に対して最も濃い密度で行われるのがふつうである。
 だから,「となり・となり」で繁栄の中心が移っていく。

 こういう見方で,時代ごとの「繁栄の中心」を「となり・となり」でたどっていく。
 すると,世界史は一本のつながった物語になる。
 いわば,「となり・となりの世界史」。


 この「となり・となりの世界史」というのは,私の造語で,たいへん気にいっています。
 「となり・となり」という言葉は,板倉聖宣さんが「作文の一般的な技法」として,「となり・となり方式」で話題をつなげて展開していく(あれこれ構成なんか考えない)ということを述べていて,そこからとったものです。

 この言葉を,「世界史」に私はくっつけてみた。

 となり・となりの世界史

 このコンセプトで,新しい世界史が書けると思っています。
 この視点によって,世界史が一本につながる。
 「となり・となり」でつながっていくのです。
 「一本の・ひとつの物語」になれば,世界史はより多くの人のものになる!
 
 もちろんこれだけでは,説明不足ですね…なんだかよくわからない,という人もいると思います。
 また,「繁栄の中心」という見方そのものへの異論もあるでしょう。

 だから,これからきちんと述べていきます。「世界史は素人で,初心者だ」「学生時代に落ちこぼれた」「でも,知りたい」という人にぜひおつきあいいただければと思います。

(以上)