2017年02月18日 (土) | Edit |
一連の記事の3回目ですが、ここから読んでも大丈夫です。

1900年代において、世界の「中心」であり、覇権国であったアメリカ。そのアメリカが「世界の警察官」的な面を後退させ、内向きになろうとしています。「アメリカ優先」という動き。それが進むと、世界はどうなるか。

それぞれの国ぐにには「自分で自分を守る」ことが、以前よりも求められるようになります。それは、国防や外交、そのための国民の動員、治安の維持などの、国家の役割のなかの「統治」にかかわる面の強化を伴います。

このことは、比較的あちこちで言われています。「統治」という言葉はまず使っていませんが、「それぞれの国が独自に行うべきことが増えそうだ」というイメージは、多くの人が語っています。

しかし、ここでいう「統治」以外にも、国家の重要な役割はあります。国民の生活により密着した、さまざまな規制や利害調整、サービス、福祉などにかかわる領域です。これは「行政」といいます。

国家の能力は有限です。だから、国防や治安などの「統治」についての国の仕事や予算が増えると、国民生活により密着した「行政」の面が割を食うことになります。

目につきやすい分野でいうと、社会保障や福祉、学校教育、さまざまなインフラや公共施設の維持管理といった部分で、国の仕事が劣化していく恐れがあるということです。少なくとも、ますます増大するであろう国民の期待やニーズに対応できなくなっていく。期待とのギャップが大きくなっていくのです。

つまり、年金が減ったり、公立学校がひどく荒れたり、穴のあいた道路が放置されたり、公園や図書館が閉鎖されたりするわけです。

このような、国の「統治」面での負担の増大にともなう「行政」の劣化の恐れは、それほどは論じられていません。

経済発展が急速な新興国なら、経済とともに政府の規模や予算も成長しているので、こういう問題はそれほどは生じないのかもしれません。しかし、経済成長が停滞する一方で財政の肥大化に苦しむ先進国では、「行政の劣化」の問題は、とくに深刻になるはずです。先進国では、政府の人的・予算的なリソースを大幅に増やすことはできないので、「統治」を拡充すれば「行政」を削減せざるを得ないのです。

ただし、「行政の劣化」の恐れは、「アメリカの覇権の後退→各国の統治の強化」という流れが明確になる以前に、先進国では財政の悪化(おもに高齢化にともなう社会保障費の負担増による)という面から問題が生じつつあります。

だから、アメリカの覇権の後退→各国の統治の強化(行政が割を食う)という流れは、すでに生じつつあることを後押しする、という意味があるのでしょう。

***

では、国家における「行政の劣化」が進むと、社会のなかでどういう動きが出てくるでしょうか。

政府が生活に密着したさまざまな活動やサービスを十分に供給し得ない社会では、その不足を埋める活動へのニーズが高まるでしょう。かつて国家が行っていたことを、国家以外の存在が行おうとする動きです。

そのような「国家以外の存在」としては、有力な企業、NGOやNPOなどの民間組織、もっとプライベートなサークルなどの人のつながりといったものが考えられます。

それから、国家財政が疲弊しても、地方・地域によっては経済力があって財政などが充実していることがあるので、そのような「有力な地方自治体」という存在も、国家にかわるものとして考えられるでしょう。地方自治体は、ここでいう「政府」「国家」の一部ではありますが、全体として弱った国家の機能を穴埋めする存在として期待が高まるケースが局所的にある、ということです。

つまり、首相や大統領に暮らしを守ってもらう、というだけでなく、どこかの社長・CEOや民間組織のリーダーやある種の知事や市長に守ってもらう、ということがクローズアップされてくる、ということです。

これに関する現象はあちこちで起こっています。最近の一部の大企業は、従来の「株主利益優先」を改めて、公益への貢献を意識した動きをしています。NPOへの関心は、日本ではこの10年あまりで急速に高まったといえるでしょう。「政府はもう頼れないから、仲間とのつながりがセーフティーネットになる」といったことは、最近はかなり言われています。また、有力な自治体で注目を浴びる知事があらわれてもてはやされたりする。

これは、主体的・積極的な立場で考えれば「政府にかわる存在として、新しいサービスをつくりだす貢献をすることが、これからの社会ではきわめて意義のある活動だ」ということになります。企業の公益的な活動、NGOやNPO、ある種のネットワークで重要な役割を果たすことが、これまで以上に評価される社会になるということです。

もう少し受け身の立場で考えると、「政府に代わる存在にうまくアクセスして、そのサービスを享受することが自分を守ることだ」という発想になるでしょう。「政府に代わる存在」は、政府ほど幅広く万人に開かれた存在ではないので、主体的にアクセスしないとそのサービスや保護を受けられません。

これは、国民国家という今の国の枠組みが崩壊するということではありません。国を外部の脅威から守ったり、治安やさまざまな秩序を維持したりといった政府の活動によって、社会が国としてまとまっている状態は維持されるでしょう。

そのような、国家による治安や秩序が維持されないと、企業もNPOも個人も安定した活動はできません。国家は依然として個人や組織が存在するための基礎的な枠組みなのです。しかし、政府による国民へのきめ細かいサービスは後退する恐れがあるので、それに伴っていろいろな変化があるだろう、ということです。

このへんで、アメリカというこれまでの「中心」の衰退・後退に伴って(とくに先進国で)何がおきるか、についての考察はひと段落ということにします。このように、大きくものごとをみて連想や推論を広げていくことは、ときどき行ったらいいと思います。

(以上)
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2017年01月22日 (日) | Edit |
トランプ大統領の就任演説について、テレビのニュースやワイドショーに出ている識者の評価は、だいたいネガティブでした。

「選挙演説のときと同じで中身がない」「大統領就任演説というより、トランプのファン感謝祭」「トランプ支持者以外への語りかけがない」「具体的な政策がなく抽象的」「アメリカは世界に責任があるはずなのに内向きの話ばかり」「アメリカ製品を買おう、アメリカ人を雇おうというのは、昔の製造業の時代を想定しており、時代錯誤」等々。トランプ大統領に抗議するデモの様子も、かなり報じられている。

たしかに、トランプに批判的な立場、あるいは政治や経済の専門家の立場からみると、「ダメだなあ」ということなのでしょう。インテリ的な立場からは、あれを評価するわけにはいかない。

でも、非インテリ的な、トランプに期待を寄せる立場からみたら、どうなのか。
シンプルに力強く、大切なことを伝えている、とはいえないでしょうか。

そこには、明確なわかりやすいメッセージがあります。(以下、就任演説からの引用。日経新聞による訳)

「首都ワシントンからあなた方、米国民へ権力を戻す」「エスタブリッシュメントは自らを保護したが、米国民を守らなかった」「我が国の忘れられた男女は、もう忘れられることはない」「米国はほかの国を豊かにしたが、我々の富、力、自信は地平線のかなたへ消え去った」

そして、最も主要な原則・主張。

「今日から米国第一主義だけを実施する。米国第一主義だ」「我々は2つの簡単なルールに従う。米国製品を買い、米国人を雇うというルールだ」「職を取り戻す。国境を取り戻す。富を取り戻す。そして夢を取り戻す」「国家全域に、新しい道、高速道路、橋、空港、トンネル、鉄道をつくり、福祉に頼る生活から人びとを抜け出させ、仕事に戻らせる」

シンプルで明快な行動原理と、実行する強い意志を示すトランプ。
そして、従来のワシントンの政治家たち、とくに「リベラル」な人たちに引導を渡します。

「意見をいうだけで、行動を起こさない政治家にはもう容赦しない。文句をいい続け、それが仕事になっているような政治家たちだ。中身のない対話の時代は終わりだ」

そして最後にもう一度、「忘れられた人びと」への呼びかけ。

「あなた方が無視されることは、もう二度とない。あなた方の声、希望、夢が米国の未来を形づくる」

「米国を再び強くしよう」

具体的な政策論なんてよくわからないし、大統領の就任演説で聞きたいとも思わない人たちは、きっとおおぜいいるはずです。そういう人たちがトランプを当選させたのです。

トランプの「抽象的」で「中身のない」演説を、まるでキング牧師やリンカーンの演説のように感動して聞いた人たちが、きっといたはずです(でもあまり報道されていないように思う)。そして、(キング牧師の演説がそうであるように)中学高校の英語の教科書に載ってもいいような、平易な英語表現。

こむずかしく具体的な政策論など語っていたら、そのような感動は生まれない。少なくともトランプの場合は、そうにきまっています。実務的で具体的なトランプなど、魅力的ではない。キング牧師の演説だって抽象的ですし、“アイ・ハブ・ア・ドリーム”の演説で人種差別撤廃に向けての現実的な法整備のあり方について論じていたなら、それほど感動的にはならなかったでしょう。

「アメリカ第一主義」は、抽象的で時代錯誤で、非現実的なものだと、多くの識者はいいます。私もその点は同感です。しかし、「誤っている」としても侮ってはいけない、とも思うのです。

誤っていても、ウソだらけでも、単純素朴でバカっぽくても、影響力のある考え方というのは、あります。

「アメリカ第一主義」という基本方針は、それ自体は抽象的です。しかし、政策のさまざまな分野や個々の具体的場面で、明確な行動指針となり得る考え方です。単純明快ゆえの力を持っている。

これに対し、たとえば「世界に自由と平和と発展を」といったメッセージは、たしかに「すばらしい」のですが、それを実現するための行動指針が具体的にみえてこないところがあります。「対話を大切に」というのも、「とにかく話しあいましょう」といっているだけであって、対話のテーマになっている複雑な問題について解決策を示すものではない。話しあってもどうにもならないことは、たくさんあるわけです。

昔、ヒトラーがシンプルな(しかし事実を歪めた、矛盾に満ちた)メッセージで人びとに訴えたとき、多くのインテリはバカにしていました。

ヒトラーは、ドイツを再び偉大にすることを目標に掲げましたが、そのためのビジョンは軍拡と侵略による領土拡張です。単純で幼稚で、邪悪とも思えますが、そのために何をすべきかが明確に導き出せる。そういう「強さ」があるのです。具体的な方法や技術的なことはヒトラーに共鳴する専門家がしだいに集まってきて、やってくれました。

トランプの「アメリカ第一主義」にたいしても、そういう「専門家」があらわれるかもしれません。アメリカにはいろんな人材がいますし、権力は人材を集めるのです。

トランプの演説は、テレビや新聞で解説するような人をうならせるものではもちろんない。だからといって侮ってはいけない。やっぱりこの人物には、大きな何かをやらかす可能性・危険性がある。心配したほどではなかった、という結果になればいいのですが・・・

大統領選挙の結果で、識者や有力者たちは懲りたはずなのに、相変わらずです。エスタブリッシュメントやインテリに反発する人たちの思いに対し、あまりに鈍感すぎる。その鈍感さが、トランプ大統領を生んだのに。

この鈍感さが続くかぎり、たとえトランプが敗北していなくなったとしても、問題は終わらないはずです。

(以上)
2017年01月21日 (土) | Edit |
前回の続き。「アメリカ第一主義」をかかげる大統領がついに就任するなど、アメリカが覇権国として世界にあたえる影響が大きく後退する流れが明確になってきた。

その影響について、中国やロシアはどう出るか、アラブ・中東の情勢はどうなるかなどの、比較的短期の国際情勢の話はとくにいろいろ出ています。しかしここでは、アメリカという「中心」の衰退が、おもに先進国における国家や政府のあり方に、中長期的にどう影響するのかについて考えます。これは、私たち日本人にとっても切実な問題です。

アメリカが覇権国として世界を仕切ることに消極的になると、つまり「世界の警察官」をやめると、世界の国ぐにの国家としての機能は、再編成を迫られます。

この何十年かは、世界の諸国のあいだの大小さまざまなもめごとの多くは、アメリカによる仲裁が有効でした。当事者どうしで話し合いがつかないことも、アメリカのジャッジによって一応のケリをつけていた。アメリカが前面に出なくても、アメリカが大きな影響力を持つ国際機関がジャッジしたりもした。

軍事的にも、アメリカの傘下に入ることで、ある程度の「属国」的な立場と引き換えに、相当な安全が保障された。

本来は国際社会には、国内の警察や裁判官にあたるような権力は存在しません。
「世界統一政府」がない以上、国際社会にはそれを統制する権力が存在しません。つまり、究極には「力」がものをいう世界です。その点では、かつての日本などの「戦国時代」とかわりません。

そして、20世紀前半までの国際社会は、まさに戦国時代だったわけです。

近代以降(1500年代以降)だけをみても、ヨーロッパ諸国は頻繁に戦争をしていますし、そのヨーロッパ諸国を主体として、アジア・アフリカ・アメリカ新大陸でも侵略的な戦いがくり広げられました。あげくの果てに世界大戦です。

近代以前でも、さまざまな国がおこったり滅びたり、領土を広げたりというのは、結局は戦争をしているのです。

この何千年のあいだ、世界はおおむねいつも「戦国時代」だった、といってもいい。

しかし、1900年代後半のアメリカは、国際社会の「警察」「裁判官」に準ずるような役割を果たしていました。もちろんそれは「世界統一政府」的な権力とは大きな隔たりがあります。1900年代後半にも、世界各地ではさまざまな戦争がありました。それでも、1900年代後半の世界では、アメリカの存在が国際社会の「戦国時代」的な本質を、かなりおさえこんでいたのは事実でしょう。

より正確には、以前のアメリカは「世界の警察官」というよりは、「世界の番長」というべき存在でした。半分は暴力的に、半分は仲間うちのコンセンサスで、不明確な権力を行使する存在です。その権力には、警察のような明確な正統性はありません。その割にはいろんなことに目を配っている、かなり面倒見のいい番長でした。でも、やっぱり怖いところがあるし、時にはカツアゲをしてくる。

そんな「面倒見のいい番長」はもうやめた、と最近のアメリカはいい出した。たぶん「面倒見のよくない番長」になるつもりなのでしょう。

アメリカの覇権の後退は、国際社会の本質が「戦国時代」であることを、再びあきらかにするはずです。

それは、かならずしも世界大戦のような大戦争に直接つながるということではないでしょう。しかし、「自国優先」を掲げる利害や立場を異にする国ぐにがせめぎあい、ときにはげしく対立し、一方で(利害が一致すれば)協力したり同盟したりする。そのような局所的な対立や同盟が、あちこちで起こる。その動きを仕切る有力な存在はなく、もちろん国のあいだのもめごとをジャッジする警察官や裁判官、もしくは番長はいない。

トランプ大統領は先日の就任演説でも、これまで述べてきた「アメリカ優先」という原則をあらためて強く主張していました。そして、ほかの国もアメリカにならえばよい、と。これは、「世界は戦国時代に戻る」という宣言です。

戦国時代的な国際社会では、それぞれの国は、ほかの国ぐに(油断のならない危険な存在)に対し対抗できるだけの力や体制を強化することが求められます。

その最も切実な要素が、国防・軍事にかかわることです。軍隊そのものの組織や装備を強化するだけではありません。有事の際に、社会全体が軍を支える体制を築く必要があります。いざというとき国全体が安全保障のために結集できるようにする。その体制の邪魔になる反対者を排除するしくみも、当然重要になります。

日本でも、現総理をはじめ一部の政治家は、この問題を真剣に考えていることでしょう(ある程度実行もしてきた)。一方でその動きを真剣に危惧している人たちもいる。

「外敵から自分たちの社会を守る」という機能や目的は、国家にとって最も根本的なものです。近代国家では、国民であれば否応なしにそのための国家の活動に動員されてしまう。直接軍隊にとられることがなくても、何らかの協力や関与、あるいは犠牲を求められる。

そして、そのような動員をするだけの力を、行政の発達した現代の国家は持っています。第二次世界大戦のときなどよりもはるかに、です。

「社会を外的から守る」「そのために国民を動員する」「動員の体制やしくみをつくる」というのは、法の体系では「公法」といわれる分野の活動です。政治学の言葉でいえば国家の「統治」的な活動です。

戦国時代的な本質があらわになった国際社会では、国家の「公法」あるいは「統治」的な活動は、強化されることになるでしょう。逆にそれができなかった国は、「戦国の世」のなかで不利な立場になる。

「公法」「統治」の面では、国家や政府の存在感は、今後大きくなっていくのではないか。今のように国際情勢が不透明さを増すときには、ばくぜんと「国家の解体」みたいなことをいう人がたまにいますが、基本的にはまちがいだと思います。

しかし一方で、国家の存在感が薄れたり、機能が弱体化する領域もあるかもしれません。国民生活へのきめ細かいサービスにかかわる領域です。インフラの整備・維持、学校教育、社会保障・福祉などの、いわゆる「行政」的な分野です。政府の力は有限なので、ある面が強化されれば、ほかの面が割を食うことは考えられます。

アメリカの覇権の後退によって、戦国時代的な国際社会が再びあらわれるという見方は、すでに“「Gゼロ」後の世界”といういい方で、イアン・ブレマーという人が以前から述べています。ブレマーによる2012年の著作『「Gゼロ」後の世界』(日本経済新聞出版社)は、今あらためて読むと、見事です。数年前の本ですが、今現在や近未来の状況を理解するのに、おおいに参考になる。

また、アメリカの覇権の衰退やその影響については、私が若いころから影響を受けてきた政治学者・滝村隆一さんも、ブレマーと重なる見解を述べています(『国家論大綱 第二巻』、2014年)。国際社会の基本が「戦国時代」であるという見方や、国家の「統治」的活動といった概念は、滝村さんからのものです。私は、ブレマーや滝村さんの主張を、自分なりに編集・要約して述べているつもりです。

(以上)
2017年01月09日 (月) | Edit |
私が昨年出版した『となり・となりの世界史』(日本実業出版社)では、「5000年余りの世界史において、世界の繁栄の中心(覇権国)といえる大国・強国の移り変わり」を追いかけることで、世界史を「ひと続きの物語」として述べることをめざしました。

具体的には、西アジア(メポソタミア・エジプトなど)→ギリシア→ローマ→イスラムの国ぐに→西ヨーロッパ(詳しくみるとスペイン・イタリア→オランダ→イギリス)→アメリカと、世界の繁栄の中心は移り変わってきました。
今の世界は、1900年代前半から続くアメリカの時代です。

アメリカの時代はいつまで続くのか?

アメリカが総合的にみて世界最強の大国である、という状態ならば、これからも何十年かは続くでしょう。もっと続く可能性も高いと思います。

しかし、その圧倒的な力で世界を仕切るという状態(それが「覇権」)は、これからますます明らかに後退していく。あと20年もすると、かつてのようなアメリカの覇権は過去のものになる。少なくともすっかり様子が変わっている。

あいまいでおおざっぱな予想ですが、ひとつの視点としては意味があるでしょう。私たちのほとんどが生きているうちに、大きな変化が一区切りついているのでは?という問いかけでものごとをみてはどうか。

アメリカの覇権の後退ということは、1970~80年代にはすでに言われてはいました。
たしかにその頃、アメリカの勢いは1950~60年代よりは後退していました。その一方で「アメリカの後退」という見解には、圧倒的な大国に反発する感情もあったように思います。「こんな国、衰退してしまえ」という願望が混じっている面もあった。

だから、本当に後退するまでには、まだ時間がかかりました。1990年代には、ライバルだったソヴィエト連邦の崩壊によって、唯一の超大国となったアメリカがまさに世界を制覇したような状況になりました。

しかし、そのようなアメリカの「世界制覇」は、10年ほど続いただけでした。

2000年代(ゼロ年代)初頭の、9.11テロへの対抗・報復として行ったアフガニスタン侵攻やその後のイラク戦争は、大きな転換点でした。このとき、アメリカはいろいろな誤りを犯した。その後、1990年代にひとつのピークに達したアメリカの覇権がさまざまな面で崩れていきます。

一方で、中国を筆頭とする新興国の発展がすすみ、GDPなどでみた世界経済でのアメリカのシェアが小さくなる、という流れも2000年ころから明確になりました。
今現在の世界の、アラブ・中東の混乱した状態や、中国が新たな超大国として自己主張を強めていることの直接の出発点は、2000年代初頭にあります。

そして、2000年代初頭のアメリカは、勇ましくアフガニスタンやイラクを攻めたのですが、今のアメリカはシリアなどの中東の情勢に対してかつてのような積極的な行動はとれないでいます。中東で積極的に動いているのは、ソ連崩壊後の混乱から一応は復活してきたロシアだったりする。

トランプのいう「アメリカ優先」は、「覇権国として世界を仕切るスタンスを見直す」ということです。近年は米国民のあいだで「世界でのリーダーシップよりも自国の問題に専念すべきだ」という世論が高まってはいました。トランプの当選も、そのような流れが生んだといえます。やはり、こういう大統領が出てきたことは、大きな転換点でしょう。

たしかに、昔のアメリカも自国優先の孤立主義をとっていました(「モンロー主義」という)。しかしそのような内向き志向が優勢だったのは1900年代前半までのことで、それ以前のアメリカは世界の中心=覇権国ではありませんでした。

「アメリカ優先」は、1900年代半ばの「偉大なアメリカ」の復活ではなく、「覇権国となる以前のアメリカへの回帰」を意味するのです。つまり「世界トップの経済力や軍事力を持つ大国には違いないが、世界を仕切るような“中心”ではない」ということ。それがこれからのアメリカのポジションなんだと。

現実の流れとしてそうなりつつあったことを、トランプの主張は、基本方針として確認していることになります。そのような方針は、現実の流れを後押しするはずです。つまり、世界の「中心=覇権国」としてのアメリカの役割の大幅な後退という流れです。

ほんとうは「再びアメリカを偉大な国にする」ではなく、「(100年以上前の)“ふつうの大国”のアメリカに回帰する」というべきです。でも、それではあまり輝かしい感じがしないので、選挙に勝てませんね。

(以上、つづく)
2016年10月30日 (日) | Edit |
私は最近、『一気にわかる世界史』(日本実業出版社刊、全国の書店・アマゾンなどのネット書店で発売中)という本を出しました。この本は、「世界史上の〈繁栄の中心〉といえるような強国・大国の移り変わりに注目して、世界史のおおまかな流れを一気にみわたす」という方針で書かれています。

今回の記事は、その『一気にわかる世界史』の「補論」といえるものです。応用編のひとつといってもいいでしょう。


となり・となりの法則

「繁栄の中心」は、世界史のなかで何度も交替してきました。そのような新旧の中心の交替においては、つぎのような傾向がみられます。

新しい繁栄の中心は、それまでの「中心」の外側で、しかしそんなには遠くない周辺の場所から生まれる。それは、世界全体でみれば「となり」といえるような近い場所である。

そして、本書(『一気にわかる世界史』)では、このような「繁栄の中心の移り変わり」に関する単純な法則性を「となり・となりの法則」と名付けました。

国・社会というものは、自分たちの「となり」の存在からさまざまな影響を受けています。とくに、「となり」に「繁栄の中心」といえるような高度に発展した社会がある場合、その「中心」からさまざまなことを学び、それを大きく発展させることができた国・社会から次の時代の新しい「中心」が生まれるということが、ときに起こります。

だから、世界史における繁栄の中心が移動するときは、「となり」へ、ということになる。そのような移動が世界史ではくりかえされてきたので、「となり・となり」というわけです。

本書では90ページほどで世界史5000年の通史をまとめており、それが本書のメインとなっています。そこで述べている「世界史上の繁栄の中心の移り変わり」は、ざっくりまとめると、つぎのとおりです。

1.西アジア(今のイラク・エジプト・イラン・トルコなど)
2.ギリシア・ローマ(今のギリシア・イタリア・スペインなど地中海沿岸)
3.イスラム(イラク・エジプト・イラン・トルコなどの西アジア)
4.西ヨーロッパ(イタリア・スペイン→オランダ→イギリス)
5.アメリカ(最初は東海岸のみ、のちに西海岸まで拡大)


このように、世界史における「中心」は、つい最近アメリカが繁栄するようになるまで、西アジア(イラク・エジプト・イランなど)か西ヨーロッパでした。

ただし、近代以前までは、西ヨーロッパの繁栄の中心はアルプス以南(地中海沿岸)に限定されています。

それが近代になってはじめて西ヨーロッパのアルプス以北で「中心」となる国があらわれました。オランダとイギリスです。そして、イギリスの時代を経て、その「中心」が大西洋を越えてアメリカ(とくにニューヨーク・ワシントンなどがある東海岸)に移ったのでした。

なお、本書では「世界史における地域区分」として、以下のように世界史の地域を大まかに区分しています。下の図は、「ユーラシア」という、アジアからヨーロッパにかけての範囲における区分です。

  世界史の地域区分 -ユーラシア

なぜ、西アジアと西ヨーロッパか

ここで考えてみたいのは、「なぜ、西アジアと西ヨーロッパなのだろう?これらの地域が世界史の中心であり続けたのはなぜだろう?」ということです。

これは、位置関係のほかに地形などの条件も関係していると思われます。つぎのようなことです。ひとつの仮説的な考えとして聞いてください。

さまざまな地理的条件のために、西アジアと西ヨーロッパは、ひとつの大きな「まとまり」になっていた。その中に多様な民族や国が存在している。「となり」の人々に豊富に恵まれているといっていい。こういう環境では、「となり・となり」現象が順調に展開しやすい。だから西アジア+西ヨーロッパは、世界史の中心的な舞台となった。

では、西アジア+西ヨーロッパが地理的に大きな「まとまり」であるとは、どういうことでしょうか。

西ヨーロッパ(アルプス以南)から西アジア、そしてインド、とくに西側あたりまでの範囲というのは、比較的移動がしやすいのです。つまり、険しい山脈、大きな砂漠、熱帯雨林といった自然の障害がそれほどではないのです。

西ヨーロッパと西アジアは、地中海でむすばれています。地中海は比較的おだやかな海なので、船での行き来がしやすいです。

西アジアの中はどうかというと、メソポタミアとシリア、エジプトのあいだには平たんな土地でつながった(砂漠以外の)部分があり、比較的行き来がしやすいです。

トルコやイランでは高原地帯が広がっていますが、ひどく険しい山岳地帯というわけではありません。さかんに移動できるルートが、この一帯のなかにあるのです。もちろん「険しくない」というのはあくまで比較の話で、ヒマラヤのような世界の中で特に険しい山地と比べて、ということです。
また、西アジアとインドの西側の地域のあいだは、紀元前の古い時代からインド洋や沿岸の海を船で行き来することも行われてきました。

そういうわけで、ヨーロッパからインドの西側までは、いわば「ひとつづきの世界」になっているということです。

だからこそ、アレクサンドロス大王(紀元前300年代)はギリシアから遠征に出発して、短期間のうちに西アジアのメソポタミア、エジプト、イランなどを征服し、インダス川沿岸の地帯まで進軍することができたのです。交通網の未発達な紀元前の世界でそれができたのは、もともとこれらの遠征ルートになった地帯が、地理的に行き来がしやすいものだったからです。

 (アレクサンドロスの帝国)
  アレクサンドロスの帝国の広がり

西アジア+西ヨーロッパに匹敵する広い範囲のまとまりは、ユーラシアのほかの場所にはないのです。また、アメリカ大陸などの、新大陸にもありません。

なお、東ヨーロッパや中央アジア(上図参照)も、「中心」として繁栄したということはありませんでしたが、西アジア+西ヨーロッパとは地理的・地形的に「つながっている」といってもいえます。これらの地域は西アジアや西ヨーロッパと深いかかわりをもってきました。つまり、ユーラシアの西半分は東西ヨーロッパ+西アジア+中央アジアという、きわめて大きな「ひとつづきのまとまり」をなしているのです。

そして、「ひとつづきのまとまり」であると同時に、その広大な地域は山地や川や乾燥地帯などでゆるやかに区切られてもいます。その区切られた地域ごとに、いろいろな人びとが住んでいます。ということは、「豊富な多様性をふくんだ、ひとつづきの世界」だということです。


ほかとは切り離されている中国

ユーラシアにおける、もうひとつの大きな地理的な「まとまり」に、中国があります。
その中国は、ユーラシアのほかの文明の中心地帯からはかなり切り離された条件にあります。

西側にはヒマラヤ山脈とチベット高原という世界一険しい山々や、タクラマカン砂漠といったこれも非常にきびしい環境の砂漠があります。「障壁」としてはやや影響は少ないものの南側の一部には東南アジアの熱帯雨林もあります。

北側に広がるユーラシアの草原地帯は、たしかにユーラシアのほかの地域への「交通路」にはなり得ますが、騎馬遊牧民の世界です。中国という文明の中心からみれば、自分たちの活動を展開していくうえで「障害」といえます。

中国は、インドや西アジアとは、そのような「自然の障壁」で区切られているのです。
 
中国は大きいです。巨大な人口を抱えていて、それだけでひとつの「世界」をつくっているとはいえます。しかし、広くユーラシア全体をみわたしたとき、ユーラシアのなかでは比較的狭い範囲で孤立しているともいえるのです。

そして、その「孤立」した範囲のなかの「多様性」には、やはり限界があります。たしかに中国には多くの民族が存在しますが、「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」にくらべれば、そのバリエーションがかぎられるのは当然です。

それに、「中国」というのは、その範囲全体が(分裂時代もありましたがかなりの時代にわたって)ひとつの国として統一されてきたのです。統一国家としての歴史が積みかさねられれば、それだけその地域の「多様性」は、失われていくでしょう。言語やその他の生活習慣が共通化していくわけですから。

そして、「中国」という地域が、基本的に国として統一を保てたのには、地理的な要因も大きく働いています。

中国のメインの部分は、広大な平地が広がっているのです。つまり、北方の草原地帯から、黄河流域の華北、揚子江流域の華南にいたるまでの地域は、基本的に平地です。そこに船で行き来しやすい大河が広がっています。西暦600年ころには途中で黄河と揚子江を横断する南北の大運河もつくられました。

このような地理的条件であれば、広大な地域をひとつの勢力が統一し、統治することが比較的(あくまで比較的)容易なのです。

単純化していえば、中国は広大で人口が大きいわりには、「均質なまとまり」をつくっているということです。もちろんこれは「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」とくらべれば、ということです。

こうした中国の「孤立」「均質性」については、これまでに何人もの歴史家が指摘してきたことです。たとえば近年の世界史本のベストセラーである、ジャレド・ダイアモンド『銃・鉄・病原菌』でも論じられています。


中国で「近代科学」が生まれなかったのは?

中国のこうした「孤立」や「(ほかと比較した場合の)均質性」は、文明を発展させるうえでは、「西アジア+ヨーロッパ(+インド西部)」とくらべれば、不利な条件です。

本書(『一気にわかる世界史』)で述べたとおり、世界史上のさまざまな民族は、「となり」の人びとからさまざまな成果や遺産を受け取ることを通じて発展してきました。それが「となり・となり」とくりかえされることで、大きな進歩もおこっています。

たとえば、古代ギリシア(2500年前ころから繁栄)が文明を開化させるにあたっては、エジプトなどの西アジアの文明の影響を大きく受けていますし、ギリシア人を征服したローマ帝国(2000年ほど前に繁栄)の文化は全面的にギリシア人を模倣しています。イスラム帝国(1000年ほど前に繁栄)の学問は、ギリシアやローマの学問を受け継ぎ、そこにインドの学問も取り入れて発展したものです。

そして、数百年前の中世から近代初期のヨーロッパは、イスラムからさまざまな影響を受けたのです。そして、ヨーロッパではギリシア・ローマの遺産もふくむイスラムからの影響をベースにして「近代科学」を生み出すなどの革新がおこったのでした。

これらの地域はみな、世界全体の広い範囲でみれば「となり」といっていいような比較的近隣の位置関係にあります。

つまり、進歩や発展のためには、「となり・となり」の展開が順調におこりやすい環境が有利です。それには、より大きな広がりのなかで、多様な人びとが存在している、というのがよいわけです。

この条件に関し、中国は「西アジア+西ヨーロッパ(+インドの西側)」よりは不利だったということです。そのために中国は、たしかに世界史のなかできわめて重要な存在ではありながら、「主役」や「中心」にはならなかったのです。

その「中心にならなかった」というのを象徴するのが、近代科学や産業革命が中国では生じなかったということです。中国では独自に「近代」が生まれることはなかった。

しかし、「中国でそれらが生まれてもおかしくないのでは?」と思えるほど、近代以前の中国では、その時代としてはじつに高度な文明が築かれていました。近代初期のヨーロッパ人は、それに驚いたのでした。

だからこそ、「ヨーロッパからの侵略で荒らされなければ、もうしばらくすれば、中国でも近代科学や産業革命が生み出されたはずだ」という意見もあります。

私は、その考えには否定的です。そのもとになっているのは、科学史家の板倉聖宣さんの説です。

板倉さんは「学問や科学にとって伝統というものは決定的に大事だ」と考えます。とくに「古代ギリシアの学問の伝統が存在したかどうかが、その国・地域で科学を生み出すことになるかどうかのカギだ」と。

なぜかというと、古代ギリシアの学問には「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうる(検証可能である)ような体系」といった要素があるから。このような検証可能な理論・体系は、科学が生まれる基礎なのです。

そのような学問をつくったのは、近代以前の世界史のなかでは古代ギリシア人だけでした。中国の学問の論理は、万物を「陰と陽」に分ける論理のように、もっとあいまいで「のらり・くらり」だと、板倉さんは言います。そのような論理は検証不可能です。

ヨーロッパの近代科学は、そのようなギリシアの学問の伝統が発展した結果生まれた、ということです。

たとえば、ガリレオは古代や中世の書物を読み込んで、そこにあった理論と向き合い・対決するなかで自分の理論を築いていった、と板倉さんは指摘します。

近代科学の父・ガリレオがそのまちがいを明確にしたアリストテレス的な運動の理論や古代の天動説は、まさに「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」で「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうるような体系」の一部をなす理論でした。

板倉さんは「日本に科学が生まれそこなった歴史」をテーマにした論考で、こう述べています。

《日本には…アリストテレスみたいな、間違いが間違いとわかるようなウソを言う人間がいませんでした。だから、それに反対して何かをやるというようなガリレオみたいな人も現れ得なかった》
(板倉『科学と教育のために』仮説社)

このことは、中国についてもいえるわけです。

近代以前の中国には、古代ギリシアの学問の伝統は、もちろん根付いていません。中国独自の伝統があるだけです。それは、中国がここでいう「孤立」の状態にあったということです。

このように、中国で科学が生まれなかった理由が、「古代ギリシアの科学の伝統がなかったから」ということだと、いくら時間が経過しても、中国では(中国内部の伝統だけでは)科学は生まれようもないということになります。

また、中国科学史の研究者・薮内清も、板倉さんと通じる見解を述べています。薮内は中国の地理的な「孤立」ということに注目しているのです。

《五千年の歴史を持つ漢民族は、ほとんど自力で以て、きわめて高い文明をつくりあげた。しかし自力には一定の限界があることは、否定できないことである。……ヨーロッパに近代科学が起こるころになると、この独特な文明が伝統としての強制力を持ち、社会の変革をさまたげた》

《一つの国、一つの民族がたえず新しい文明をつくり出すことは至難の業といってよかろう。新しい文明は、異なった文明、異なった民族とのあいだの、はげしい交渉の中から生まれる》

そして、薮内は「そのことは過去の中国の事例からも示すことができる」として、紀元前の戦国時代、西域(西側の辺境地帯)との交渉がさかんだった前漢時代(2200年前~2000年前ころ)、さらに周辺地域に勢力を拡大し、国際的な文化が栄えた唐の時代(西暦700年ころ)をあげています。そして、こう述べています。

《過去の中国は、砂漠や山脈、さらに海にさまたげられ、外国の侵略を許さない自然環境の中に安住することができた。国民の大部分を占める漢民族は、自らのすぐれた文明を保持しつづけた。恒常的な発展を示してきたとはいえ、そこにはヨーロッパ社会のような変革は起こらなかった》
(薮内『中国の科学文明』岩波新書)
 
以上のような「中国で近代科学が生まれなかった理由」の説明については、異論もあるでしょう。説の正しさを証明するのがむずかしいところもあります。でも、ひとつの見方として知っておいていいと思います。「となり・となりの法則」という見方から導きだされる、「世界史の大きな謎」にたいする(仮説的な)回答のひとつということです。

要するに「伝統的な中国は〈となり〉の影響を十分に受けなかった、受けにくい環境にあったので、社会の発展に限界があった」ということです。もちろん、今はちがうわけですが。


重力のように作用する「となり・となりの法則」

私は、世界史の最も「おいしいところ」のひとつは、こうした「大きな謎」を、自分の頭で考えながら解いていくことだと思っています。

そして、その「謎解き」を楽しむには、考える手がかりになる基本知識が必要です。本書(『一気にわかる世界史』)のコンパクトな通史にあるような知識が最低限必要なのです。

そういう、多少の基本知識があれば、たとえば「世界史の中心が西ヨーロッパ+西アジアなのはなぜか?」「中国で科学が生まれなかった理由」や、それから「日本がアジアでいちはやく近代化できた理由」といったことについて、いろいろ考えることもできます。

もし「自分で考える」というところまではいかなくても、ここで論じたような議論を理解することはできるのです。

さて、『一気にわかる世界史』では最初に「夜の地球」(下図)というものを取り上げました。「夜の地球」というのは、人工衛星から撮った世界の夜景を合成したものです。そこでは、人口が密集し、家電製品などの文明の利器が普及している、とくに繁栄している地域に「光」が多く集まっています。(以下の画像はNASAのホームページから)
 夜の地球・世界

夜の地球をみると、現代の世界にはとくに大きな3つの光のかたまり=繁栄の中心があります。西ヨーロッパ、北アメリカ、日本(とその周辺)です。

 (西ヨーロッパ)
 夜の地球・西ヨーロッパ

 (北アメリカ)
 夜の地球・北米

 (日本とその周辺)
 夜の地球・日本とその周辺

これは、見方によっては、ちょっと変則的な分布です。繁栄の「中心」というわりには、西ヨーロッパと日本は、ユーラシア大陸(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)の西と東の端っこです。北アメリカは、世界史全体からみればつい最近になって多くの人が住むようになった「新世界」です。

本書(『一気にわかる世界史』)は「このような光の分布は、どのようにしてできあがったのか」という経緯について述べた、ともいえます。

ではどのような経緯だったのか? 要するにつぎのようなことだったといえるでしょう。

5000数百年前に西アジアのメソポタミア近辺で「最初の文明」が生まれてから、「となり・となり」で繁栄の中心は動いていきました。

その移動の方向は時によって変わり、かならずしも一貫していません。西アジア→ギリシアのときのように、西へと移動したときもあれば、西ローマ帝国→東ローマ帝国→西アジア(イスラム)というふうに、東側への移動もありました。

しかし、全体的な傾向をみると、西側への移動のほうが多かったといえます。そこで5000年あまり経つと、「中心」はユーラシアの西の端にまで動いていました。つまり、西ヨーロッパの国ぐにです。

そして、この数百年ではまず西ヨーロッパの中で、北方へと繁栄の中心が移っていく傾向がありました。地中海側のスペインからアルプス以北のオランダへの移動。さらにオランダ→イギリスという移動です。

そして、1800年代後半以降は、「イギリスから大西洋を渡ってアメリカへ」という中心の移動もありました。

さらに、そのアメリカが太平洋を越えて日本に影響を与えるようになりました。たとえば、幕末にアメリカから軍艦(黒船)がやってきたことなどはそうです。(アメリカの日本に対する影響については本書の一節「「となり」の欧米、アメリカ」で述べています)

その結果として日本はアジアのなかでいちはやく近代化を成し遂げ、アジアにおける新しい繁栄の中心となりました。このような西側からのルートで、ユーラシアの東の端に「中心」ができていったわけです。

そして近年は、日本が西側の韓国、中国などの東アジア諸国に影響をあたえることが起こっています。(この点については、本書の「現代世界の「となり・となり」の節で述べています)

以上のような経緯は、数千年にわたって「となり・となりの法則」が、まるでいろいろな物理現象における重力の法則のように働き続けた結果、生じたものです。

もちろん、「となり・となり」だけですべて説明できるわけではありません。重力の働きだけで物理現象のすべてを説明できないのと同じことです。

しかし、重力が自然界のさまざまな現象に作用し続けているのと同じように、「となり・となりの法則」は、世界史の動きに作用し続けているようです。そして、ほかの要因と作用しあいながら、歴史が展開していく、というわけです。

(以上)

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  一気にわかる世界史・表紙
2015年10月27日 (火) | Edit |
 今,「1時間くらいでざっと読める世界史の通史」の原稿を書いています。 以前にアップした「1万文字の世界史」という記事の改訂版です。

 近いうちにこれを小冊子にしてリリース・販売します。タイトルは仮に「1時間の世界史」というのを考えています。自分で行うインディーズ出版ですね。そういうのを最近は「リトル・プレス」と言ったりもするそうです。

 その原稿づくりにエネルギーをとられて,最近は更新が疎かになってしまいましたが,元気でやっております。

 今回の「世界史の通史」の改訂・増補の中心は,現代史です。
 1900年代以降の世界について。

 以下の記事は「1時間の世界史」の最終章にあたる,現代史の部分をもとにしています。
 20~30分で読めてしまう,世界現代史(の通史)です。文字数にしてほぼ1万文字。

 アメリカの勃興~第1次世界大戦~第2次世界大戦~大戦後の世界(アジア・アフリカの独立・冷戦)~近年の新興国の勃興~アラブ諸国の情勢といった流れで書いています。

 最低限のざっくりした流れは,この「1万文字」でつかめるはずです。
 こういうコンパクトなかたちで,一定の系統性をもって,通読できるように書かれた「短い世界現代史」はまずないのでは,と思っています。


30分で読む、短い世界現代史

アメリカの時代 

 「現代の世界で,世界の繁栄の中心といえる国はどこか?」と聞かれたら,かなりの人は「アメリカ合衆国」と答えるのではないでしょうか?
 
 イギリス=大英帝国の繁栄のあと,1900年ころからの世界は「アメリカ合衆国(アメリカ)の時代だった」といっていいでしょう。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。

 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 なお,1800年代後半のドイツでは,日本でいえば明治維新(1868)にあたるような,国家をひとつにまとめる変革が行われて「ドイツ帝国」という体制が成立し,急発展していました。これは,イギリスやフランスよりもやや遅れての発展です。ドイツは,1900年ころの世界で,新興の大国としてはアメリカに次ぐ存在でした。

 ところで,アメリカとイギリスは大西洋をはさんで「となり」といえる位置関係にあります。鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。つまり,アメリカとイギリスは海という交通路でつながっているのです。それから,アメリカの東海岸は1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。

 そのように,アメリカはイギリスの影響をつよく受けた地域です。その意味で,世界史のなかで「イギリスの繁栄を受け継いだ存在である」といってもいいでしょう。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 発明王エジソン(1847~1931)は,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。エジソンはアメリカ人で,1800年代末から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電流」という現代の電気技術に貢献したテスラやウェスティングハウスといった人たちがいました。

 これらの人たちはみなアメリカで活躍しました。つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。
 アメリカのGDP(経済規模を示す)は世界第1位で,世界全体の22%を占めます(2012年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済の発展度を示す)は,5万1千ドルで,世界でも上位のほうです。

 なお,GDPで世界2位の中国は世界の11・5%,3位の日本は8・2%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが6100ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の国防予算の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。


2つの世界大戦

 ここで,1900年代の2つの世界大戦と,その後の世界についてみてみましょう。「アメリカ中心の世界」は,世界大戦が生んだ結果のひとつです。

 アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半には,その欧米諸国のなかできわめて大きな争いがありました。第1次世界大戦(1914~1918)と,第2次世界大戦(1939~1945)です。これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになりました。しかし,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の既得権に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,ナンバー1のイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第2次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。
 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


第1次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦は,ヨーロッパの南東部のバルカン半島にある,セルビアでの地域紛争からはじまりました。バルカン半島の一部を支配していた当時のオーストリア(今と異なり周辺国をも支配する帝国だった)と,バルカンで勢力を伸ばしたいロシア……最初は両国のあいだの争いがメインでした。

 そのきっかけは,当時オーストリアの影響・圧迫を受けていたセルビア人の青年が,隣国ボスニア(当時はオーストリア領)の都市サラエボで,オーストリアの皇太子を射殺したことでした(1914年)。怒ったオーストリアがセルビアに宣戦布告したところ,ロシアがセルビア側で介入してきました。すると,ドイツがオーストリア側でこの戦争に加わりました。オーストリアとドイツは民族的に近く,親しい関係にありました。

 そして,その後のドイツの「暴挙」といえる行動によって,「地域紛争」は「大戦争」に発展します。ドイツがフランスを大軍で攻撃したのです。

 当時のドイツにはイギリスとフランスという「宿敵」がいました。ドイツは,アジア・アフリカの植民地支配で先行する英仏に対抗心や不満を抱いていました。とくに,ドイツとフランスの間では深刻な国境紛争もありました。

 こうした背景から,ドイツの指導者のなかで「セルビアの紛争でロシアと戦う間にフランスに攻められないよう,こちらが先にフランスを攻める」という考えが有力となり,実行されたのでした。これはイギリスも見過ごせないので,ドイツとイギリスの戦争もはじまりました。

 アメリカは当初,この戦争に不参加の方針でしたが,大戦の後半(1917)からは英仏側で参戦しました。アメリカは,独立のときはイギリスと争ったものの,その後は経済的にも文化的にもイギリスと近い関係にありました。

 日本は,この戦争には全面的には参加しませんでしたが,英仏側として中国やシベリアに出兵しています(当時の日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた)。

 また,バルカン半島には,オスマン・トルコの領域もありました。当時のトルコには,自国への圧迫や干渉を重ねていたロシアや英仏への反発があり,トルコはロシアなどの「敵」であるドイツの側で参戦しました。オスマン・トルコは,1500年代以降に台頭した,当時のイスラム圏で最大の国です。

 以上の経緯で2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。ドイツを中心とする側と,イギリス・フランスを中心とする側です。ドイツ側を「同盟国」,イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」といいます。

 この戦争をはじめた政治家・軍人の多くは,当初「戦争は短期で決着する」とみていました。ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。当時の「戦争」に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低いものでした。「国家のすべてを動員する激戦(「総力戦」という)」のイメージが薄かったのです。

 第1世界大戦は1918年に,イギリス・フランスなどの「連合国」側の勝利で終わりました。大戦の終わりのころ,ドイツ帝国の皇帝は亡命して帝国は解体され,ドイツは共和国になりました。

 そして,この戦争による死者は軍人と民間人を合わせて1600万人にのぼったのでした(大戦による死者の数は諸説あり)。


帝国の解体・滅亡

 第1次世界大戦の結果,世界の勢力図は変わりました。とくに重要なのは,それまでの世界で勢いのあった,昔ながらの帝国――有力な王朝がほかの民族を支配する体制――の多くが滅びたことです。

 大戦の結果,オーストリアはハンガリーなどの周辺諸国・地域への支配を失い,小粒な共和国になりました。

 そして,ロシア帝国の滅亡です。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代からロマノフ王朝という政権が支配していました。しかし,大戦中の混乱のなかで,1917年にこの王朝を倒す革命が起こりました。

 その結果,レーニン(1870~1924)の指揮のもとで新政権が樹立され,1922年にはベラルーシなどのロシア周辺の国を合わせて,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。世界で初めての「社会主義」を掲げる政権です。

 「社会主義」とは,政府が生産の施設・手段を独占的に所有し,政治経済のすべてをコントロールする体制です。その体制で「平等な理想社会の建設」をめざすというのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。ドイツ側で参戦したトルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となって,イギリス・フランスなどによってほぼ征服・支配されました。そのなかで,ムスタファ・ケマル(1881~1938)の指導で,イギリス・フランスの勢力を排除し,さらにはオスマン朝の支配を終わらせる革命が起こりました。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国は,その領域をアナトリア(今のトルコの範囲)に限定し,イラク,シリアなどのオスマン朝の領域の多くを放棄することになりました。そして,イスラム教の政治・経済への影響を排除する「世俗化」の基本方針で,国づくりをはじめました。

 また,オスマン・トルコに支配されていたアラブの人びとの独立ということも起こりました。オスマン・トルコは,トルコ人が各地のアラブ人などを支配する「帝国」でした。1920~30年代には今のエジプト,イラク,シリア,レバノン,ヨルダンといった国ぐににつながる,各地の独立または自治の獲得といったことがあったのです。

 「アラブ人」とは,これらの国ぐに(エジプト,イラク…等)で主流の人びとやアラビア半島のアラビア人など,あるいはそれらが混血した人たちを総称する呼び名です。

 ただし,第1次世界大戦後にアラブ人が得た独立や自治は不完全なもので,イギリスとフランスによる事実上の支配や介入が行なわれました。イギリスとフランスは,オスマン・トルコ領だったアラブ地域を分割して支配しようとしたのです。

 またアラビア半島では内陸部を中心に,今に続くサウジアラビア王国が1930年代に建国されました。西アジアのほかの地域の動きに刺激を受けた,といえるでしょう。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝を倒す革命が起き,翌年に中華民国が成立する,ということがありました。大戦以前から「帝国」は過去の遺物になりつつあったのです。その流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえます。


第2次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦に敗れたあと,ドイツでは経済・社会が大混乱に陥り,国民はおおいに苦しみました。ただし,その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。

 しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると,ドイツはまた大混乱となりました。

 この金融恐慌は2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ています。しかし,経済に与えた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻でした。大恐慌の際,その最悪期にはアメリカでの失業率は25%ほどにもなりました。リーマン・ショック以降の不況では,アメリカの失業率は最悪期でも9%程度です。

 その混乱の時代に人びとの支持を集め,1933年に政権を獲得したのが,ナチ党(ナチス)を率いるヒトラー(1889~1945)でした。彼の「愛国」の主張は,当時のドイツ人に訴えるものがありました。ヒトラーがめざしたのは「ドイツによるヨーロッパ制覇」でした。

 政権を得たヒトラーは大胆な経済政策を行って失業を一掃するなど,社会の混乱をおさめることに成功しました。そのような実績と,批判者をテロで排除することや巧みな宣伝などによって,彼は独裁権力を固めました。そして1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。

 まず,オーストリアやチェコスロバキアといったドイツ周辺の国の併合です(1936~39)。さらにはポーランドを占領し,フランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧しました(1939~1940)。

 この動きのなかで,イギリス・アメリカなどとの戦争もはじまり,第2次世界大戦となりました。一般にドイツによるポーランド侵攻・占領に対し,イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した時点(1939)で「第2次世界大戦が勃発した」とされます。

 また,ヒトラーはその政治思想のなかでロシアやソ連の社会主義に対して強い敵意を抱いていたので,大戦の途中(1941)からソ連に大軍で攻め入り,「独ソ戦」をはじめました。

 このようなドイツの動きに,イタリアと日本が同調しました。イタリアと日本も,イギリスやアメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていました。

 日本では,1930年代に「アジアを制覇する」という野望が政治をつよく動かすようになりました。日本は中国に軍事的に進出し,1937年には中国(中華民国)との戦争(日中戦争)が本格的にはじまりました。1941年末には,日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまりました。

 第2次世界大戦では,ドイツ・日本などの陣営を「枢軸(すうじく)国」,アメリカ・イギリス・ソ連などの陣営を「連合国」といいます。この大戦を指導した当時のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルト,イギリスの首相はチャーチル,ソ連の指導者はスターリンでした。

 大戦は1945年に連合国側の勝利で終わりました。敗戦国であるドイツも日本も連合国側によって占領支配され,独立を失った状態が1950年ころまで続きました(ドイツは1949年,日本は1952年に独立を回復)。ドイツは東西に分割されてしまいました。

 この大戦による死者は,軍人2300万人,民間人3200万人にのぼり,第1次世界大戦を大きく上回るものでした(この死者数も諸説あり)。


アジア・アフリカの独立

 第2次世界大戦は,第1次世界大戦以上に大きな被害を,負けた側はもちろん勝った側にももたらしました。

 そのなかで,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって独立を求め,宗主国(植民地を支配する国)であるヨーロッパ諸国はこれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,宗主国側には植民地をおさえきるエネルギーはなくなっていたからです。

 アジアの国ぐにの多くは,1945年から1950年代に独立しました。日本に支配されていた朝鮮(韓国と北朝鮮),それからインドネシア,ベトナム,フィリピン,ミャンマー,カンボジアといった東南アジアの国ぐにはそうです。インドも1947年に,ガンジー(1869~1948)の主導によりイギリスから独立しました。

 中国は清王朝が倒されて「中華民国」となっていましたが,第2次大戦後の1949年には,さらにこの政権が倒されて今の中華人民共和国が成立しました。そして,ソ連の影響を受けて社会主義の国づくりをはじめました。建国者の毛沢東(もうたくとう,1893~1976)は,第2次世界大戦中に独持の勢力を組織して台頭し,戦後に中華民国と争って勝利したのです。

 また,エジプト,イラク,シリアなどの西アジアのおもな国・地域は,第1次大戦後に一定の独立や自治を得ましたが,イギリスとフランスなどの欧米諸国による支配や介入が続きました。しかし第2次世界大戦後,1950年ころまでには以前より完全なかたちでの独立を得ていきました。

 アフリカではアジアよりもやや遅れて,1950年代後半から1960年代に多くの国が独立しました。とくに,1960年には一挙に17か国もの独立があり,「アフリカの年」といわれました。

 こうして,1970年代までには,世界のほとんどの地域が独立国となったのです。

 第1次世界大戦は,さまざまな帝国の滅亡をもたらしましたが,ヨーロッパによるアジア・アフリカの植民地支配という「帝国」は残りました。しかし第2次世界大戦は,結果としてそれを終わらせたのでした。


冷戦の時代

 ヨーロッパが後退する一方,アメリカの世界への影響力は,第2次世界大戦後にきわめて大きくなりました。アメリカは本土が戦場にならなかったので,戦争のダメージも限られました。

 1950年ころ,アメリカの工業生産は世界の約半分を占めました。GDP(経済全体の規模)では世界の3割弱で,その経済力は圧倒的でした。そして巨大な軍事力を,世界各地に展開するようになりました。

 ただし,アメリカは他国を「植民地」として支配するよりも,他国の独立一応認めながら,それらの国ぐに影響力をおよぼす,という基本方針をとりました。

 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)も,第2次大戦後に大きな影響力を持つようになりました。かつてのソ連は,今のロシアよりもはるかに大きな領域を有していました。ロシア周辺の,現在は独立国であるさまざまな国が,ソ連の一部になっていたのです。これらの大半は,1920年代にソ連に統合されました。

 また,第2次世界大戦直後には,ポーランド,チェコスロバキア(現チェコとスロバキア),ハンガリー,ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国をソ連の属国としました。また,ドイツの東側の地域=東ドイツを占領して従属させました。これらの国ぐにでは,一応の独立は保たれながら,ソ連の意向に従う社会主義政権がつくられました。この時期のソ連には,アメリカに次ぐ強大な軍事力がありました。

 1940年代末までには,アメリカを中心とする勢力と,ソ連を中心とする勢力とが対立し,世界を2分するようになりました。アメリカ側は,「自由主義(資本主義)」の「西側」陣営,ソ連側は社会主義の「東側」陣営と呼ばれます。

 両者はそれぞれの社会体制を互いに否定しあっていました。ソ連の側によれば西側の資本主義は「資本家の独裁による不平等な格差社会」であり,西側によればソ連の社会主義は「政府の独裁によって自由や人権が抑圧される社会」でした。

 この「東西」の対立は「冷戦」といいます。これはアメリカとソ連のあいだで直接の戦争(熱い戦争)こそなかったものの,「いつ戦争になってもおかしくない」緊張状態であったことをさしています。冷戦は1950年代から1960年代に最高潮となりました。

 敗戦後の日本と,分割されたドイツの西側である西ドイツは,「西側」の一員となりました。そして,両国とも比較的短期間のうちに戦争の破壊から復興し,その後は「経済大国」として繁栄したのでした。

 ただ,アメリカとソ連のあいだに直接の戦争はなかったものの,「代理戦争」はありました。つまり,米ソ以外の国や地域で「アメリカが後押しする勢力」と「ソ連が後押しする勢力」とが戦争をしたのです。

 そのような「代理戦争」の代表的なもののひとつに,1950年に起きた,社会主義の北朝鮮と資本主義の韓国とが戦った朝鮮戦争があります。このときは,中国(当時,ソ連と近い関係にあった)がとくに前面に出て北朝鮮を支援しました。アメリカも韓国を支援して派兵しています。この戦争は明確な決着がつかないまま,現在に至るまで「休戦中」になっています。

 また1960年ころ~75年の長期にわたって続いたべトナム戦争も,アメリカが後押しする南ベトナムと,社会主義の北ベトナムの戦いであり,代理戦争の側面がありました。この戦争は北ベトナムが勝利し,ベトナムは「北」の主導で統一され,現在に至っています。

 この戦争でアメリカは打撃を受けましたが,その敗北は「社会主義の勝利」というよりも「アジアの独立・自立」という流れのなかに位置づけられるでしょう。


新興国の台頭・「欧米以外」の台頭

 一方,独立後のアジア・アフリカ諸国の状況はどうでしょうか。しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年ころから,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となっていきました。これらのアジアで経済成長が本格化した国ぐには,アメリカや日本との関係が深い傾向がありました。つまり「西側」の1員でした。そして,西側の先進国への輸出を伸ばすことが,経済発展の最大の原動力だったのです。

 また,1950年ころから70年ころまでには,アメリカ,西ヨーロッパ諸国,日本といった西側の先進国も,順調に経済を成長させたのでした。

 これにくらべると,同じ時期の「東側」の経済は停滞傾向で,「東西」の格差は拡大していきました。1980年代には,ソ連はあい変わらず軍事大国でしたが,経済や人びとの生活は多くの問題をかかえ,自由も抑圧されていました。社会主義に対する,国内外の不信感も高まっていきました。

 「社会主義の行き詰まり」は,同じく社会主義である中国でも起きていました(なお,中国とソ連は,当初は友好的な関係だったが,1960年代以降対立し距離をおくようになった)。1980年代の中国では,鄧小平(とうしょうへい,1904~1997)によって「資本による経済活動の自由を大幅に認める」改革がおし進められるようになりました。その結果,中国経済の急速な発展がはじまりました。

 1980年代後半には,ソ連でもゴルバチョフ(1931~)が政治の大改革に取り組み,アメリカとの関係も改善しました。

 しかし,改革は十分な効果があがらないまま体制の動揺をまねき,1991年にソ連の体制は崩壊してしまいました。その少し前に,ソ連に従属していた東ヨーロッパの社会主義も同じ道をたどり,東西ドイツは統一されました。ロシアの周辺の「旧ソ連」の国ぐには独立していきました。「冷戦」の終結です。

 このような中,インドでも変化がありました。インドでは独立後,重要な産業の国営化などをすすめ,ソ連とは別のかたちで独自の社会主義的な路線を行こうとしました。西側先進国との経済的な交わりについても消極的でした。そうすることで「国の産業を守り育てる」方針だったのですが,結局は思うような経済発展ができませんでした。

 しかし1990年ころからは,路線を変更して先進諸国との関係を深め,「経済の自由化」を進めるようになりました。

 1990年代以降,中国やインドの経済発展は世界のなかできわだったものになりました。ソ連が崩壊したあと,西ヨーロッパとの関係を深めたチェコやポーランドなどの東ヨーロッパでも,経済発展が進みました。

 さらに2000年ころ以降は,経済発展が続く「新興国」が,ブラジルやメキシコなどのラテンアメリカ(中南米)や,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地で目立つようになっています。

 また,「新興国の台頭」の一方で,アジアの一画を占める日本が,おおいに発展して世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともあったわけです。
 つまり,世界の勢力図は1900年ころの「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。


イスラム諸国・アラブの情勢

 また,アラブを中心とするイスラム諸国の動きも,「欧米以外の台頭」という視点でとらえることができます。

 第2次世界大戦後,「独立」を得たものの,アラブ諸国の多くは,やはりは欧米から強い影響や干渉を受け続けました。欧米諸国は,それらの国にある豊富な石油資源を管理しようとしたのです。また,東西冷戦のなかで「ソ連にアラブを押さえられないように」という警戒心もあって,アメリカはアラブに影響力をおよぼすことにこだわりました。そうした欧米による干渉への抵抗は,アラブ諸国の主要な課題でした。

 第2次世界大戦が終わって間もなく(1948)から1970年代前半まで,アラブ地域では「中東戦争」という地域紛争が,4回にわたってくりかえされました。これは,アラブ諸国とイスラエルの戦争です。

 イスラエルは,ユダヤ人という,アラブ人とは系統や宗教の異なる人たちの国家です。ユダヤ人は,イギリスやアメリカの支援を受けて,アラブの一画のパレスチナにイスラエルを建国し,そこに住む多くのアラブ人を追い出しました。イスラエルは,そのもとになる自治の領域が第1次世界大戦後につくられ,第2次世界大戦の終結後まもなく,独立国となったのです。

 そのようなイスラエルとの戦いは,アラブの人びとにとって欧米への抵抗でもありました。

 ユダヤ人は,紀元前の古い時代に西アジアのパレスチナ地域でその国が栄え,世界最古といえる一神教であるユダヤ教を創始した民族です。その王国は滅びてしまいましたが,その後もユダヤ人は,自分たちの宗教と民族意識を保持し続けました。そして,のちに自分たちの国を復興させたもののローマ帝国によって滅ぼされてしまう,ということもありました。

 それでも民族・集団としては存続し,ローマ帝国,イスラムの国ぐに,ヨーロッパ各国などで経済,学問,芸術の分野で活躍しました。その一方で,マイノリティ(異端の少数派)として差別や迫害も受けました。

 イギリスやアメリカの繁栄の時代(つまり近代)になってから,その活躍はさらに盛んになりました。そしてユダヤ人は「世界の繁栄の中心」となった国のなかで,マイノリティでありながら大きな影響力を持つようになったのです。

 1800年代末以降,ユダヤ人のあいだでは「パレスチナで自分たちの国をつくる」という構想が有力となりました。そして,その影響力でイギリスやアメリカの政府を動かしたことで,イスラエルは建国されたといえます。ユダヤ人は欧米を中心に世界各地に分散していますが,その一部がイスラエルに移住していきました。

 また,ヒトラーはユダヤ人に対し異常な偏見を抱き,その政治思想のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張しました。そして,第2次世界大戦の際にはドイツ国内やその占領地域で600万人(諸説あり)ものユダヤ人を虐殺しています。

 このような歴史があるので,ユダヤ人はイスラエルという,やっと得た「祖国」を,激しく攻撃されても守り抜こうとするのです。アラブ諸国とイスラエルの対立は,今も続いています。

 中東戦争で,アラブ諸国はイスラエルを倒せませんでした。しかし1970年代後半以降は,こうした戦いや,さまざまな交渉・かけひきなどを経て,石油資源の管理については,欧米の干渉をほぼ排除することに成功しました。

 また,1979年のイランでは,アメリカと強く結びついた政権を倒す革命が起こりました。革命後の政府は,イスラム教の伝統や原則を重視する「イスラム主義」の徹底や,強固な「反米(反アメリカ)」の立場をとりました。

 このようなイスラム主義の動きは,イスラム圏に広く影響をあたえ,一部には過激で極端なかたちのイスラム主義の動きも生じました。1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を支配したタリバン政権は,そのひとつです。タリバン政権とも関係があったアルカイダという組織は,2001年にアメリカで複数の旅客機を超高層ビルなどに墜落させる大規模なテロ(事件の日にちなみ「9.11テロ」)を行いました。

 最近では,シリアなどの一部を支配し,2015年には日本人を人質にとって殺害した「イスラム国(IS)」といった勢力も,「過激な」イスラム主義に属するといえるでしょう。

 その一方,イスラム諸国のなかでトルコは建国以来,政治・経済にたいするイスラム教の影響を排除する「世俗主義」の路線を歩んできました。そして近年は着実な経済成長を重ねた結果,有力な新興国のひとつとなっています。

 国よって方向性はちがっていて,混迷もみられますが,イスラム諸国は全体として自己主張を強め,世界での存在感を増しているのです。
 
 以上のような「新興国の台頭」あるいは「欧米以外の台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確かなことはわかりません。しかしその動きが今後の世界史の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(以上)
2015年09月15日 (火) | Edit |
   小さな地球儀型マグネット

 8月の半ばに,1時間ほどで読める世界史の通史 1時間で読む短い世界史 という記事をアップしました。前回の記事では,それを補足して「なぜ,世界史において繁栄の中心が移りかわるのか」ということを論じています。

 「1時間で読む世界史」を要約すると,以下のようになります。「1000文字の世界史」ですね。

 「1時間で読む世界史」じたいが,世界史という膨大な内容を要約したようなものなので,さらに要約してしまうと,それだけを読んでもよくわからないとは思います。でも,ちらっと読んで関心を持ってくださった方は,ぜひ「本体」の「1時間で読む世界史」をお読みください。すでに読んでくださった方には,以下の「要約」は「おさらい」になるはずです。

 
「1時間で読む世界史」超要約

●5500年前ころ、西アジアのメソポタミアで最初の文明が生まれた。その文明は周辺にも広まり,長い時間を経て,2500年前ころには西アジア全体を統一する大帝国(アケメネス朝ペルシア)もあらわれた。


●その一方,西アジアの文明を吸収しておこったギリシアの文明が,2500年前ころからおおいに繁栄した。2300年前ころには,ギリシア人の一派であるマケドニアが,ギリシア全体と西アジアの広い範囲を征服して大帝国を築いた。
 さらに,ギリシアの西どなりのイタリア半島でおこったローマが台頭し,ギリシアを含む周辺国を征服して大帝国を築いた。ローマは西暦100年代に絶頂期をむかえ,繁栄の中心はイタリア半島にシフトした。同時期,中国では漢帝国が繁栄した。


●しかし,ローマも衰退し,帝国の西半分(西ローマ帝国)が500年ころに体制崩壊してしまった。繁栄の中心はローマ帝国の東半分(東ローマ帝国)のギリシア周辺に移った。
 600年代には,西アジアの一画からイスラムの勢力が台頭して,700年ころには巨大なイスラム帝国を築いた。イスラム帝国では東ローマの影響を受け,ギリシア・ローマの遺産に基づく学問が盛んとなった。その後数百年は,イスラムの国ぐにが世界の繁栄の中心となる。ただし,イスラム帝国は800年代には分裂して,いくつものイスラムの国ぐにが並び立つようになった。ほぼ同じころ,中国の王朝(唐・宋など)も、おおいに繁栄した。


●1400~1500年代には,イスラムの文化を吸収して,イタリアの都市国家とスペインが台頭した。ギリシア・ローマ文化(イスラムの国ぐにで研究されていた)の復興をかかげる「ルネサンス」が花ひらく一方,スペインはアメリカ大陸などの海外に進出して多くの植民地を築いた。


●1600年代にはスペインに支配されていたオランダが独立して台頭し,商工業でおおいに栄えた。ヨーロッパの繁栄の中心は,イタリア・スペインのある地中海沿岸から,オランダなどアルプス山脈以北のヨーロッパへとシフトしていった。


●1700年代には,オランダの隣国であるイギリスが台頭した。イギリスはオランダから多くを学んでいる。イギリスで,1800年ころに産業革命がおこった。産業革命以降の技術や産業の発展によって、ヨーロッパは世界の中で圧倒的な存在になった。1900年ころには,地球上の大部分がヨーロッパ(欧米)に支配される。1800年代のイギリスは,世界中に植民地を持つ「大英帝国」として繁栄した。


●1900年ころからは,イギリスにかわってアメリカ合衆国が台頭した。そのころのアメリカでは,電気の利用などの産業革命をさらに前進させる革新がつぎつぎと行なわれた。アメリカとイギリスは,大西洋をはさんで「となりどうし」の位置関係にあり,アメリカはもとはイギリスの植民地だった。
 1900年ころ,アメリカの産業・経済は世界の中で圧倒的となり,のちに軍事力や科学・文化でも同様となった。2000年代(21世紀)になると中国などの新興国が台頭し,「衰退した」ともいわれるが,現在もアメリカは「世界の繁栄の中心」であり続けている。


●以上,世界史では,ほかの国ぐにを圧倒する繁栄をみせた,いくつもの大国・強国が興亡してきた。その「繁栄の中心の移りかわり」を大まかにたどると,つぎのとおり。

 1.西アジア
 2.ギリシア・ローマ 
 3.イスラムと中国 
 4.ヨーロッパ(イタリア・スペイン→オランダ→イギリス)
 5.アメリカ合衆国


 このような「繁栄の中心の移りかわり」に着目することで,世界史は見通しのよいものになる。

(以上)
2015年09月14日 (月) | Edit |
 8月の半ばに,1時間ほどで読める世界史の通史 1万文字の世界史 という記事をアップしました。

 この記事は「短くまとめる」というほかに,「一定の視点で,世界史がひとつながりの物語になるように」ということを大事にしています。その「視点」とは「世界史における繁栄の中心が,となり・となりで移りかわっていく」というものです。名付けて「となり・となりの法則」。今回はその「法則」について。

人は人から教わる

 「となり・となりの法則」とはつぎのようなものです。

・世界史における繁栄の中心は,時代とともに移り変わる。

・新しい繁栄の中心は,「中心」の外側にあって,しかしそんなに遠くない「周辺」の場所から生まれる。周辺の中から,それまでの中心にとって替わる国や民族があらわれる。世界史は,そのくりかえし。

・だから,繁栄の中心が新しい場所へ移るときは,遠く離れたところではなく,世界全体でみれば「となり」といえるような,比較的近いところへの移動となる。つまり,「となり・となり」で動いていく。
 

 では,そもそもなぜ,繁栄の中心は「となり・となり」で移動するのでしょうか? 

 それは「人は,人から教わる」ものだからです。

 ふたつの集団が地理的に近いところにあれば,おたがいが接する機会は多くなります。それで,いろいろ教わったり刺激を受けたりできます。書物やモノ(すぐれた製品など)を通して教わる場合も,同じことです。距離が近いほうが,頻度が高くなります。

 しかし,さらに根本的なことがあります。「先人の肩に乗らなければ,高いところには行けない」ということです。「ゼロからいきなり、多くを生み出すことはできない」といってもいいでしょう。

 自分たちの文明のなにもかもを,独自につくりあげた民族や国というのはありえません。どの民族も,先行する人びとに学んでいます。そうでないと,発展することはできません。

 そして,「世界の中心」といえる高い文明を築いた隣人に学んで,それを十分に消化し、新しいことを加えることができた国や民族の中から,つぎの新しい「中心」が生まれてきたのです。ギリシア人,ローマ人,イスラム帝国を築いたアラブ人やその後継者,イタリア人,スペイン人,オランダ人,イギリス人,アメリカ人……これらの人びとはみなそうです。それを,「1万文字の世界史」の全体で述べました。

発明のむずかしさ

 ではなぜ,すべての民族は「先人の肩に乗る」必要があるのでしょうか? なぜ,「ゼロからいきなり多くを生み出すことはできない」のでしょうか?

 身もふたもない話ですが,それは創造というものが,それだけむずかしいことだからです。さまざまな努力や,一定の環境や,偶然などが重なってはじめて可能になる,一種の奇跡だからです。大きな創造ほど,そうだといえます。

 そこで,「創造の典型」として,発明というものについて考えてみましょう。まず,「紙の発明とその伝播」のことを取りあげます。

(紙の発明) 
 紙が発明されたのは,西暦100年ころの,漢の時代の中国だとされます。ただし,もっと古い時代(紀元前100年ころ)の中国の遺跡からも紙の一種がみつかっています。100年ころは「紙の製造の大幅な改良がなされた時期」ということです。

 紙は,「樹や草の皮などからとれる植物の繊維をほぐして,一定の成分を加えた水にとかし,うすく平らにして固める」という方法でつくります。「紙の時代」以前の中国では,木や竹を薄く・細く削った板をヒモで結びつけた「木簡」「竹簡」というものに文字を書いて記録するのが一般的でした。しかしこれは紙にくらべるとはるかに重くてかさばります。

 また,紙以前に,紙と似たものもつくられていました。5000年前ころのエジプトで発明され,ギリシアやローマでも広く使われたパピルスというものです(中国では使われなかった)。パピルスは,「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに二重三重に貼りあわせてつくります。

 しかし,パピルスには,紙のように折りたたんだり,綴じたりする丈夫さがやや不足していました。さらに,パピルス草という,エジプト周辺でしかとれない特殊な原料が必要なため,生産量に大きな限界がありました。一方,紙の製造にはこうした制約はありませんでした。紙の材料に適した植物というのはいろいろあって,その土地ごとに適当なものをみつけることができました。

 このように,紙というのはすばらしい発明でした。では,紙の製造法=製紙法の発明は,一度きりのことだったのでしょうか? 「このくらいの発明は,別の時にほかでも行われた」ということはなかったのでしょうか?

 結論をいうと,紙の発明は,世界史上一度きりのものでした。今,世界じゅうで紙がつくられていますが,その起源をたどると,すべて中国での発明に行きつくのです。

 製紙法は,中国で広がったあと,周辺のアジアの国にも伝えられました。日本には飛鳥時代の600年ころに伝わっています。

 それから,中国の西のほうにも伝えられました。600年代後半にはインドの一部に、700年代にはイスラムの国ぐににも伝わりました。ヨーロッパには,イスラムの国ぐにを通じて1200年代に伝わったのが最初です。

 その後,1400年代にはヨーロッパの広い範囲に製紙法が普及していました。この時点で,製紙法は世界のおもな国ぐに全体にいきわたったといえます。中国での発明から千数百年かかかっています。

 たしかに,現代にくらべれば伝わり方はゆっくりです。しかし,価値のある発明だったので,着実に広まっていったのです。そして,製紙法が世界に普及するまでの千年数百年のあいだ,世界のどこかで,独自に製紙法が発明されることはありませんでした。

(文字の発明)
 「世界史上の重要な発明は、かぎられた場所でしかおこっていない」ことを示す例は,ほかにもあります。
 たとえば文字の発明です。

 文字をまったく独自に発明した可能性があるのは,ユーラシア大陸(アジアからヨーロッパにかけての範囲)では2カ所だけです。紀元前3000年ころの西アジア(メソポタミア)と,紀元前1300年ころの中国(黄河流域)です。

 西アジアではシュメール人によって「楔形文字」の原型になる絵文字が,中国では漢字の原型となった「甲骨文字」というものが生み出されました。

 現在のユーラシア大陸で用いられている,さまざまな文字のルーツをたどれば,すべてこの2つのいずれかに行きつきます。

 なお,エジプトでも紀元前3000年ころから「ヒエロクリフ」といわれる文字がありますが,メソポタミアの影響を受けている可能性が高く,「独自」かどうかがはっきりしません。インドのインダス文明(紀元前2300~1700年ころ)にも,固有の文字(インダス文字)がありました。しかし,インダス文明もメソポタミアとの接触があったことがわかっています。インダス文字が独自のものかどうかは,よくわからないのです。

 つまり,文字を使う民族のほとんどは,自分たちで独自に文字を生んだのではなく,先行するほかの民族から文字を学んだということです。

 ユーラシア大陸以外では,中央アメリカ(メキシコとその周辺)で独自の文字がつくられています。しかし,この文字はその周辺地域を超えて広がることはありませんでした。

(農業=主要作物の栽培)
 「農業」もまた「限られた場所での発明」です。ここで「農業」とは,コメやムギやトウモロコシのような,今の世界で広く「主食」となっている主要な作物の栽培を指すものとします。

 そのような「農業の発明」は,ユーラシア大陸ではつぎの2か所でしか起こっていません。

・13000年ほど前の西アジア(メソポタミアとその周辺。コムギなど)
・9000年ほど前の中国(黄河流域。コムギなど)

 ユーラシアの農業のルーツをたどると,すべてこの2カ所のどちらかに行きつくのです。

 あとは南北アメリカ大陸の3つの地域で,4000~5000年前に独自に農業が始まっています。メキシコ周辺のトウモロコシ栽培、アンデスやアマゾン流域でのジャガイモやキャッサバ、北アメリカ東部でのヒマワリ…といったものです。南北アメリカ大陸では,1500年ころにヨーロッパ人がやってくるまで,ムギやコメは栽培されませんでした。

 このほか,西アフリカ,エチオピア,ニューギニアなど,ユーラシア大陸以外の数カ所で「独自に農業がはじまったかもしれない」とされる場所があります。しかし,これらの農業は世界で広く普及することはありませんでした。

このような例は,ほかにいくつもあげられます。製鉄の技術も,そのルーツをたどると,おそらくは紀元前1500年ころのヒッタイト人による発明・改良に行きつくのです。あとは中国で独自に発明された可能性があるくらいです。

 ***

大企業病

 これまで述べた「繁栄の中心がとなり・となりで移動する」理由はつぎのとおりです。

 「人は人から教わる」
 「自分たちだけで何もかも創造することはできないので、先行する他者に学ばなければならない」
 「先行する繁栄の中心によく学んだ集団の中から新しい〈中心〉が生まれる」

 ただ,もうひとつ整理すべきことがあります。「なぜ繁栄の中心は,いつまでも続かないのか」ということです。

 「繁栄の中心の移動」とは,それまでの中心が停滞・衰退し,新しい「中心」に追いこされていったということです。それまでに圧倒的な優位を築き,豊富なリソース(利用できる材料・資源)を持っているのに,どうして新興勢力に負けてしまうか。

 これは「文明や国家が衰えるのはなぜか」ということです。昔から歴史家や思想家がテーマにしてきた大問題です。いろんな説や視点がうち出されていますが,議論は決着していません。

 私としてはまず,そのような答えの出にくい,大きな「なぜ」に深入りするよりも,「繁栄の中心がとなり・となりで移動してきた」という現象・事実をしっかりとおさえたいと思います。とはいえ,世界史の基本的な事実を追っていると,「繁栄の中心が停滞・衰退するとき、何が起こっているか」について,みえてくることもあります。

 それは,衰退しつつある繁栄の中心では「成功体験や伝統の積み重ねによる、社会の硬直化」が起こっている,ということです。
 
 繁栄の中心となった社会は,それまでに成功を重ねてきています。そのため,過去の体験にこだわって,新しいものを受けつけないようになる傾向があります。もともとは,先行するほかの文明や民族からさまざまなことを取り入れて発展したのに,そのような柔軟性を失って内向きになってしまう。

 これを私たちは,国や文明よりも小さなスケールでよくみかけます。成功を収めた大企業が時代の変化に取り残されて衰退していく,というのはまさにそうです。「大企業病」というものです。

 2012年に破たんしたアメリカのイーストマン・コダック社は,その典型です。コダック社は,写真フィルムの分野において世界最大の企業でした。世界で初めてカラーフィルムを商品化するなど,業界を圧倒的にリードしてきました。しかし、近年の写真のデジタル化という変化の中で衰退し,破たんしてしまったのです。

 これだけだと,「デジタルカメラの時代に、フィルムのメーカーがダメになるのは必然だろう」と思うかもしれません。

 しかし,世界の大手フィルムメーカーの中には,今も元気な企業があります(日本の富士フィルムはそうです)。そうした企業では,デジタル化に対応する事業や,フィルム関連の技術から派生した化学製品などに軸足を移していったのでした。

 コダックは,やはりどこかで対応を誤ったのです。何しろ,1970年代に世界ではじめてデジタルカメラの技術を開発したのは,じつはコダックなのですから。また、現在において有望な分野となっている、ある種の化学製品についても、コダックは高い技術を持っていました。

 しかし,コダックは1990年代に大きな「リストラ」を行い,のちに開花するそれらの技術や事業を売り払ってしまいました。内向きな姿勢で,人材やノウハウを捨ててしまったのです。そして,伝統的に高い収益をあげてきたフィルム関係の事業を「自分たちのコアの事業だ」として残したのでした。その結果,つぶれてしまいました……

 コダックはまさに「過去の成功体験にとらわれて,新しいものを受けつけなくなった大企業」でした。

 世界史の中では,例えば1800年代の中国やオスマン・トルコ(当時のイスラムの中心だった帝国)は,そんな「大企業病」に陥っていました。

 当時の中国もオスマン・トルコも,ヨーロッパの列強から圧迫や侵略を受け,劣勢でした。そこで「ヨーロッパの進んだ技術を受け入れる」という改革の動きもあったのですが,成功しませんでした。

 中国もトルコも,それなりに財力もあり,優秀な人材もいました。また,さまざまなヨーロッパ人との接点があり,多くの新しい情報に触れることもできたのです。しかし「改革」はうまくいきませんでした。抵抗勢力の力がまさったのです。

 結局,中国の王朝もオスマン・トルコ帝国も,1900年代前半に滅亡してしまいました。

 中国もイスラムの帝国も,ヨーロッパが台頭する前は「繁栄の中心」でした。新技術などの文明のさまざまな成果も,生み出してきたのです。たとえば近代ヨーロッパの発展の基礎になった「三大発明」といわれる,火薬・羅針盤・印刷術といった技術は,もともとは中国で発明されたものです。

 しかし,中国ではそれを十分に発展させることはできませんでした。これは,コダックがデジタルカメラなどの,未来に花ひらく技術を開拓しながら,それを育てることができなかった姿と重なります。

 このような「大企業病」は,国家でも組織でも,さまざまな人間の集団で広くみられるものではないでしょうか(個人でもみられます)。

 だからこそ,「繁栄の中心」は、永遠には続かないのです。繁栄が続くと,どこかで「大企業病」に陥って、停滞や衰退に陥ってしまう。そして,その「停滞」を「周辺」からの革新が打ち破る。その結果,新たな「中心」が生まれ,遅れをとった従来の「中心」は「周辺」になってしまう……そうしたことが,世界史ではくりかえされてきました。ここでは立ち入りませんが,ローマ帝国でも,イギリスでも,衰退期には「大企業病」的な硬直化がみられます。

 ただ,くりかえしますが,当面私がテーマとしたいのは「繁栄の中心の移りかわり」という現象を,事実としておさえることです。「なぜ文明は衰退するのか」については,今の時点ではこのくらいにしておきます。

(以上)
2015年08月18日 (火) | Edit |
 この記事は,ほんとうに1時間ほどで読むことのできる世界史の通史です。
 2万数千文字ほどの分量です。やや長めの短編小説や論文1本くらいの,いっきに読める長さ。そのような世界史の通史は,あまりないと思います。

 この記事は,2年前(2013年)に20回ほど記事を書いたシリーズ となりとなりの世界史 の一部で,同シリーズの核となるものです。もとのタイトルは「1万文字の世界史」でしたが,実際には「1万文字」を大きく超えてしまったので,タイトルをあらためました。そして4回分の記事を,今回は1本にまとめました。1回分の記事としては長いですが,通して読むには読みやすいと思います。
 
 最近,ある読者の方がこの「1万文字の世界史」の過去記事について,「30~40分で一挙に読んだ。ワクワクする作品。(その時間で世界史をみわたすのは)ほかでは絶対できない経験だ」という主旨のコメントをくださいました。たいへんうれしいことでした。
 今回の記事はこのコメントがきっかけです。
 
 1時間で世界史をみわたす経験。
 「夏の読書」としてお楽しみいただければ。

 ***

1時間で読む世界史

1.紀元前3500年(5500年前)
  ~紀元前1000年(3000年前)


最初の文明

 大建築,金属器(青銅器)などを備えた最初の文明は,紀元前3500年(5500年前)ころ,今のイラクにあたるメソポタミアという土地で生まれました。
 そのころに,「シュメール人」という人びとがつくった,大規模ないくつかの都市がメソポタミアにあらわれたのです。

斜線の部分がメソポタミア。点線で囲った部分は「西アジア」(後で述べる)メソポタミアと西アジア


 その代表的なもののひとつにウルクという都市がありました。紀元前3300~3100年(5300~5100年前)ころのウルクの面積は,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほど。土を乾燥してつくったレンガによる建築物が立ち並び,1万人くらいが住んでいたと考えられます。
 今の私たちからみても,堂々たる「都市」です。

 そしてそこには,それだけの人口をまとめる,専門の役人や軍人などを抱えた支配の組織,つまり「国家」といえるものもありました。

 のちに「楔(くさび)形文字」に発展する最古の文字(絵文字)も,メソポタミアで紀元前3200年ころに生まれています。
 ここでは,世界史をメソポタミアの文明から書きはじめることにします。


文明が広がっていく

 紀元前1000年(3000年前)ころまでに,その文明は,メソポタミアの周辺へ広がっていきました。
 西側では,今のシリア・パレスチナ,それからトルコにあたる地域に。
 東側では,今のイランなどに。

 エジプトでは,メソポタミアからやや遅れて,メソポタミアに匹敵する独自の文明が花ひらきました(メソポタミアと同時代とする見方もあります)。

 その後は,もともとは「周辺」的だった,後になって文明が伝わった地域で,メソポタミアなどのほかの地域を支配する強国が生まれるようにもなりました。

 たとえば,今のトルコに中心があり,紀元前1600年代(3600~3700年前)に強大化したヒッタイトという国は,紀元前1500年ころに世界でいちはやく製鉄の技術を実用化しました。そして,その技術や軍事の力で,それまでの文明の「中心」であったメソポタミアにある王国を滅ぼしたり,エジプトと戦ったりしたのです。
 

紀元前2000年ころの西アジア
濃いオレンジは,古くから文明が栄えた中心地帯。
黄色は,「中心」と交流のある,後に文明が広がった地域。
西アジアの中心とその周辺


「西アジア」という地域

 ところで,メソポタミアや,ここに出てきた周辺の地域をまとめて「西アジア」といいます。
 この時代(紀元前3500年ころ~紀元前1000年ころ)の西アジアの文明は,のちの世界にたいへん大きなものを残しました。
 
 文字,金属器の量産,車輪を使った装置,何万人もの人が暮らす都市,そして本格的な支配のしくみをもつ「国家」というもの――そんな,文明の「基本の基本」となるものの多くが,最初にこの地域でおこり,そこから世界の広い範囲に広がったのです。


四大河文明

 その後の多くの文明や国のルーツになった,とくに古い4つの文明を「四大河文明」といいます。「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」――どれも,大河のほとりで生まれました。

(四大河文明)
・メソポタミア文明(今のイラク,チグリス川・ユーフラテス川の流域で発生)発生時期:紀元前3500年ころ~
・エジプト文明(ナイル川)紀元前3100年ころ~
・インダス文明(インド西部,インダス川)紀元前 紀元前2300年ころ~
・黄河文明(中国,黄河)紀元前1600年ころ~(紀元前2000年ころ~という説も有力)


4大河文明

 このうち,メソポタミアとエジプトという西アジアの2つの文明が,ほかとくらべて古いです。西アジアは,世界のなかで「文明発祥の地」といえます。さらにそのなかで,メソポタミアが「最古」だということです。

 「エジプト文明やインダス文明はメソポタミア文明の影響で生まれた」という説があります。たしかに,エジプトはメソポタミアに比較的近いので,影響を受けたとしても不思議ではありません。

 インダス川流域も,メソポタミアとの距離は,エジプトとそう大きくは変わりません。そこで,インダス文明を築いた人たちは,メソポタミアの人びとと交流があったらしいのです。おもに海づたいで行き来があったようです。

 黄河文明については,ほかの文明との関係は,わかっていません。しかし,4つの文明のなかで一番新しいので,先行する文明の影響があったかもしれません。


なぜ西アジアで?  

 では,なぜ西アジアで最初の文明が生まれたのでしょうか。

 それはおそらく,「小麦という,栽培・収穫のしやすい植物が自然状態で生えていた」ことが大きいです。小麦は,西アジアが原産なのです。ほかの地域には,自然には生えていませんでした。
 小麦には,野生でも多くの実をつけ,種をまけば発芽しやすく,成長も早いといった,すぐれた栽培植物になりうる性質がありました。

 小麦の栽培は,1万年あまり前に西アジアではじまりました。世界最古といわれる農耕の遺跡は,西アジアでみつかっています。

 ほかにも,西アジア原産の重要な栽培植物はいくつかあります(エンドウマメなど)。気候に恵まれていることに加え,そのような植物を手近に利用できたからこそ,西アジアでいちはやく農耕がはじまったのです。それは,文明がいちはやく生まれるうえで有利だったはずです。


なぜメソポタミアで?

 そして,西アジアのなかのメソポタミアやナイル川流域で最も古い文明が発生したのは,「大規模な灌漑農業」に適した土地だったからでしょう。

 「灌漑農業」というのは,「雨水だけに頼らず,河川の水を,水路をつくって利用する農業」のことです。

 初期の原始的な農耕は,もっぱら雨水に頼るものでした。しかし,それでは「ほどよく雨が降る」という条件に恵まれた,ごくかぎられた土地でしか農業ができません。灌漑農業ができれば,もっと大規模に,広い範囲で農業ができます。

 そうすれば,より多くの人が集まって住んでも生きていけるだけの,大量の食糧が生産できます。つまり,大きな「都市」をつくるのに必要なだけの食糧が得られるのです。

 もちろん,それには技術が必要です。紀元前3500年前ころに「文明」やその舞台となる「都市」が発生したのは,大規模な灌漑農業が可能なくらいに技術が熟してきたからです。
 それには,農耕のはじまりから数千年の時間がかかりました。
 それだけの技術の蓄積があったのは,「最初の文明」以前の世界では西アジアだけでした。

 「文明発祥の地」であるメソポタミアの南部=チグリス・ユーフラテス川の下流は,もともとは農業にはやや適さない土地でした。雨も少なく,そこを流れる大きな河の水は,高度な技術がないと利用できなかったのです。しかし,水さえ利用できれば,大規模な農業が可能でした。

 そして,それだけの技術を持つ人びとがメソポタミア南部にやってきて,開発をはじめたことによって,「文明」や「都市」が生まれたわけです。

 メソポタミアの南部では,紀元前5000年(7000年前)ころから一定の灌漑農業がおこなわれていました。その灌漑農業の担い手が,シュメール人であったかどうかは,はっきりしません。別の人たちであった可能性もあります。シュメール人が,メソポタミア南部に,いつ・どこからやってきたのかは,わかっていないのです。


2.紀元前1000年(3000年前)~西暦500年

ギリシアの文明のはじまり

 西アジアの技術や文化は,今のトルコから海をわたって西のとなりにあるギリシア周辺にも伝わりました。そして,紀元前2000年(4000年前)ころには,青銅器や大きな宮殿を備えた「文明」が栄えるようになりました。

 このギリシアの文明は,「地中海沿岸」という地域ではじめての「文明」でした。

 ギリシアの周囲には,「地中海」という,陸地に囲まれた海がありました。地中海沿岸の人びとは,海を行き来して互いに密接に交流していました。そこで,「地中海沿岸」をひとつのまとまった地域と捉える見方があるのです。

メソポタミアとギリシャ

 その後,ギリシアでは1000年余りのあいだ,いくつもの国の興亡や,そこに住む中心的な民族の入れ替わりなどの紆余曲折がありました。

 とくに,紀元前1200年(3200年前)ころからの数百年間,ギリシアは大混乱に陥りました。
 その原因や実態はよくわかっていませんが,その数百年で,それまで使われていた文字が忘れられてしまうほど,ひどいことになっていたようです(ただしその間に,鉄器を使用するようになる,といった「進歩」もありました)。

 しかし,紀元前800年(2800年前)ころから「ポリス」という,都市を中心とする国家がギリシア各地に成立してからは,安定するようになりました。代表的なポリスとしては,「アテネ」「スパルタ」といった国があります。

 そして,失われた文字にかわって新たな文字もつくられました。それが,「古代ギリシア文字」です。この文字は,その後の欧米のアルファベット(ABC…)の原型になりました。


ギリシアの遺産

 その後,ギリシアのポリスは急発展し,紀元前500年代から紀元前300年代にかけて最盛期をむかえました。
 そして,後世に大きな影響をあたえる画期的な文化が花ひらきました。

 科学や哲学は,その代表的なものです。
 ギリシア人以前にも,西アジアなどの文明の発展した地域では,一定の学問的知識といえるものはありました。ギリシア人も,最初は西アジアの学問に学んだのです。
 そもそも,ギリシアの文字だって,もともとは西アジア(シリア周辺)のフェニキア人という人びとの文字をもとにしてつくったのです。

 紀元前600~500年代(2700~2500年前)の,高度な文化を築きはじめたころのギリシアの文化人のなかには,エジプトへ行って学問を学んだ人がかなりいました。

 たとえば,教科書にも出てくる,古代ギリシアの「ソロンの改革」(紀元前600年ころ)を指導した,ソロンというアテネの政治家は,エジプトに行って法律を学んだことがあるのです。

 さきほどの,西アジアとギリシアの位置関係を示した地図をみてください。ギリシアとエジプトというのは,じつは海(地中海)をはさんで「となり」どうしなのです。鉄道や自動車以前には,遠い距離の移動は,陸路より海路のほうが,たいていは便利でした。
 ギリシア人は「となり」にある,古くからの文明国に学んだわけです。

 しかし,もともとは西アジアの学問に学んだとはいえ,それよりもはるかに深い論理や体系性,豊富な情報というものがギリシアの学問にはあります。

 ギリシア人は,それまでの歴史の遺産を受け継ぎながら,それを大きく超えるものを生み出したのです。

 ギリシアの科学や哲学は,あとでみるように,ローマ→イスラム→ヨーロッパと受け継がれていきました。のちにヨーロッパで起こった近代科学は,こうしたギリシアの学問の伝統のうえに立っています。

 それから,社会の多数派の人びとが政治的な意思決定に参加するというしくみ――民主制(民主主義)にかんする考え方も,ギリシア人が残した大きな遺産です。
 
 また,紀元前500年代(2600~2500年前)のギリシアでは,世界ではじめて貨幣(コイン)が本格的に使われるようにもなりました。

 貨幣の製造じたいは,今のトルコ(ギリシアの西のとなり)にあったリディアという国で,紀元前600年代にはじまりましたが,それほどは普及しませんでした。ギリシア人は,それを取り入れてさかんに使いはじめたのです。
 貨幣以前には,金・銀の粒やかたまりの重さをその都度はかって,その価値に見合う商品と交換する,といったことが行われていましたが,コインのほうが,ずっと便利です。

 貨幣が普及するというのは,それを必要とするだけの発展した経済が,ギリシアにはあったということです。そして,貨幣の使用によって,さまざまな売買・取引がさかんになり,経済はさらに発展しました。


ペルシア戦争,アレクサンドロスの帝国

 紀元前400年代(2500~2400年前)には,アテネを中心とするポリスの連合軍が,当時の西アジアで最大(世界でも最大)の国だったペルシア帝国と戦争して勝利しています(ペルシア戦争。ペルシアは今のイランにあたる)。
 といっても,敵国を征服したのではなく,特定の合戦で勝利して敵を撃退した,というものです。これは,当時のギリシアの勢いを示しています。

青い線:ギリシアの勢力範囲  赤い斜線:ペルシア帝国(紀元前400年代)
ほかの国は省略している。
ギリシャとペルシア帝国

 さらに,紀元前300年代には,ギリシア人の一派のマケドニア王国にアレクサンドロスという強力な王があらわれ,急速に勢力を拡大しました。

 マケドニアは,アレクサンドロスの父である先代の王のとき,いくつものポリスに分かれていたギリシア全体を支配するようになりました。
 さらにアレクサンドロスの時代には,西アジアのペルシアやエジプトなどにも遠征して勝利し,これらの地域を支配下におく大帝国を築きました。「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

アレクサンドロスの帝国
要するに,ほぼ「ギリシア+ペルシア帝国」である。
アレクサンダーの帝国

 つまり,もともとは西アジアよりもずっとおくれて「文明化」したギリシアが,古くからの「文明の中心」である西アジアをのみ込んでしまったのです。
 世界の繁栄の中心は,メソポタミアやエジプトなどの西アジアからギリシアに移ったといえるでしょう。

 ただしこの帝国は,アレクサンダーの死後まもなく分裂してしまいました。しかしその後も,西アジアから地中海沿岸(今のギリシア,イタリアなど)の広い範囲で,ギリシア人(あるいはギリシア文化)の優位は続きました。


「となり・となり」という視点

 これまでみてきたように,最初の文明がおこって以来,2000~3000年ほどのあいだに,文明の分布の範囲は広がっていきました。
 そして,その時代に最も栄えた国=文明の繁栄の中心といえる場所も,最初の文明がおこった西アジアから,その西側のギリシアに移動していったのです。
 「移動」といっても,「人が移り住んだ」ということではなく,「繁栄がある国から周辺の別の国に移った」ということです。

 その繁栄の「移動」は,何百キロ,あるいは千キロ以上の移動で,日常感覚では「遠い」のかもしれません。でも,世界の広い範囲を大きくみわたして考えれば,「となり」といっていいような距離です。

 世界史をみわたすと,そういう意味での「となり」へ「繁栄の中心」が移っていくことが,くりかえされてきました。
 繁栄の中心がそれまでの場所から,その周辺=「となり」へ移り,その後何百年か経つと,さらにその「となり」へと移っていく――そんなことが起こってきたのです。

 「となり・となり」で,「中心」が移っていくわけです。
 これから先も,それをみていきます。
 
 「となり・となり」という視点で世界史をみわたすと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しやすいものになるはずです。


ローマ帝国の誕生

 新しい「繁栄の中心」となったギリシア。しかし,そのギリシアもしだいに以前ほどの活気はなくなっていきました。
 その一方,ギリシアの西のとなりのローマという国が台頭してきました。

 ローマは,もともとはイタリア半島の一地域の国で,その建国・独立は紀元前500年ころのことです。西のとなりのギリシアからさまざまな技術や文化が伝わり,「文明化」した場所です。

 ローマ人は,軍事や政治の面でとくにすぐれていました。土木や建築をはじめとする技術面でも,高い能力を持っていました。
 そして,ギリシアのポリスが繁栄していた時代から,何百年もかけて多くの国ぐにを征服し,勢力の拡大を続けていたのです。

 紀元前200年代(2300~2200年前)には,イタリア半島を統一。
 その後,今のスペインなど,地中海の西側も制覇。
 紀元後まもなく(2000年前ころ)までには,ギリシア人の勢力範囲――ギリシア本土やエジプトなども,ローマによって征服されてしまいました。

 さまざまな国を征服した結果,紀元後まもなくのころには,ローマは地中海全体を囲む巨大な帝国になっていました。「ローマ帝国」の誕生です。なお,「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

 帝国の首都ローマがあるイタリア半島は,新しい繁栄の中心になりました。「繁栄の中心」が,ギリシアからその西の「となり」に移ったのです。

ローマ帝国(最盛期の西暦100年代)
最盛期のローマ帝国


ローマ帝国の文化

 ローマ人は,征服した国ぐにのさまざまな文化を,自分たちの帝国のなかに取り入れました。
 そのなかで最も重視したのが,ギリシアの文化でした。

 たとえば,ローマの学問・科学というのは,全面的にギリシアのものをもとにしています。美術や建築も,ほぼ同様です。「ローマ人は,ギリシア人を軍事的・政治的に征服したが,文化的には征服された」などともいわれます。

 ただし,ギリシア起源でない文化でも,重要なものがあります。その代表がキリスト教です。

 キリスト教は,紀元後まもない時期に,当時ローマ帝国の領域だった西アジアのパレスチナ地方で創始されました。キリスト教の母体になっているのは,当時のパレスチナ周辺で普及していたユダヤ教です。
 
 キリスト教は,その後ローマ帝国の各地に広まりました。最初は「あやしい新興宗教」として弾圧されましたが,しだいに公認され,権威になっていきました。そして,西暦300年代末には,ローマ帝国の「国教」(国をあげて信仰する宗教)にまでなったのです。


インフラの建設

 文化では「ギリシアに征服された」といわれるローマ人ですが,政治・行政やインフラ(社会生活の基盤となる施設)の建設といった実務的な分野では,ギリシア人を超える高度なものを生み出しました。

 それを象徴するのが,ローマ帝国の全土に建設された道路網です。

 西暦100年代のローマ帝国には,720万平方キロの領域のなかに,のべ8万キロあまりの公道が整備されていました。石畳などで舗装された道路です。

 この「8万キロ」というのは,1900年代後半のアメリカ合衆国全土(940万平方キロ)における高速道路網の総延長(9万キロ弱)に匹敵します。

 また,水道の整備にも,ローマ人は力を入れました。

 ローマ帝国のおもな都市では,遠くの水源(沼や湖など)から水路をつくって都市に水を供給しました。そのために,ときには水道橋をつくったり,トンネルを掘ったりもしました。これは,ギリシア人がすでに行っていたことを改良し,大規模に行ったのです。

 都市には公共浴場や数多くの水汲み場が設けられ,市民はふんだんに水を使う暮らしができました(一般の家庭ごとに水道がひかれるまでには,なっていません)。

 およそ2000年前の時代になると,それだけのインフラを整備するところまで,文明は進んだわけです。
 当時のローマ人は,そのような「進歩」の先端を担っていました。


帝国の衰退と解体

 ローマ帝国は西暦100年ころに最盛期をむかえましたが,その後だんだんと衰退していきました。

 西暦400年代には,帝国の西側の「西ローマ帝国」(イタリア半島周辺)が,内乱や外部からの異民族の侵入で体制崩壊してしまいました。
 
 これによって繁栄の中心は,それまでのイタリア半島から,体制崩壊を免れた帝国の東側の地域(ギリシア周辺)に移っていきます。またギリシアに戻った,ともいえます。

 ローマ帝国の衰退がはじまったころから,繁栄の重心は徐々に東側にシフトしていたのですが,西側の体制崩壊でそれが決定的になりました。

 このいわば「生き残った」は側のローマ帝国は「東ローマ帝国」といいます。

ローマ帝国の東西(赤い線が境界)
東西のローマ帝国
 
 西ローマ帝国の崩壊の一因となった「異民族の侵入」というのは,「ゲルマン人」と一般にいわれる人びとによるものです。

 ゲルマン人は,ローマ帝国が繁栄していた時代には,ローマの人びとからみて辺境の,ヨーロッパの北や東側の一画で素朴な暮らしをしていました。しかし,ローマと接することで一定の技術や文化を身につけ,新興の勢力となったのです。

 西ローマ帝国の崩壊後,ゲルマン人はその跡地に,それぞれのグループ(部族)ごとに自分たちの王国を築きました。
 できはじめて最初の数百年,それらの王国は不安定で,さまざまな国がおこっては滅びていきました。その間に,かつて栄えた文化はすっかりおとろえてしまったのでした。


中国とインド

 ここで少しだけ,これまで「四大河文明」のとき以外触れなかった中国とインドについて述べます。
 まず,中国です。

 紀元前1600年ころ(あるいは紀元前2000年ころ)の黄河文明の誕生以来,その文明は周辺に広がっていき,いくつもの国が生まれました。

 そして,紀元前200年(2200年前)ころには,「秦」という国がほかの国ぐにを征服して,今の中国全体に近い範囲をはじめて統一しました。秦の王は自らを「始皇帝」と名乗り,絶対の権威となりました。

 この統一は,現在につながる「中国」の原点といえます。

 しかし秦の支配は十数年の短期で終わり,その後まもなく「漢」という王朝によって,再統一がなされました。「王朝」というのは,「国王や皇帝が支配者である政権」を,そのように呼ぶのです。

漢(前漢)
前漢

 漢王朝はその後(紀元後まもなくまで)200年ほど続きました。
 そして,漢が滅んで別の政権が短期間あったのち,漢王朝を復活したとされる「後漢」という政権もありました。後漢は西暦200年ころまで続いたので,これも含めると,「漢」は400年ほど続いたことになります。
 なお,最初の「漢」のことは,「前漢」ともいいます。

 今の中国人の多数派は「漢族」といいます。中国の文字は「漢字」です。これに象徴されるように,漢の時代は,のちの中国の政治や文化の基礎がつくられた時代でした。

 インドの歴史でも,中国史における秦や漢のような「原点」があります。

 それは,紀元前200年代(2200~2300年前)に,いくつもの国が並びたっていたインドのほぼ全体をはじめて統一した「マウリヤ(王)朝」です。
 しかし,このインド統一は長く続かず,マウリヤ朝は紀元前100年代には滅亡しました。

マウリヤ朝(紀元前200年代)
マウリヤ朝

 その後のインドは,最近の数百年間(1600年代以降)を除き,基本的に「分裂」が続きました。「ほぼ統一」「かなりの部分が統一」という時代もありましたが,全体からみれば,かぎられています。

 中国史でも,秦・漢以降「統一の時代」と「分裂の時代」があります。しかし,インドとちがって,「統一の時代」のほうが長いです。

 しかし「分裂」が続いたとしても,「インド」というひとつの文化的まとまりは維持されたのでした。

 そして,「分裂していて,中小の国の集まり」であったために,その後の歴史のなかで,インドには「世界の中心」といえるような超大国(世界史における「スター」的存在)はあらわれませんでした。

 
西暦100年代の世界

 この章の最後に,ローマ帝国の最盛期だった西暦100年代(1900~1800年前)のユーラシア(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)をみてみましょう。

 この時代には,ユーラシア以外に大きな国は栄えていなかったので,以下の地図は当時の「世界の主要部」を示しています。

西暦100年代のユーラシア
西暦100年代のユーラシア

 西から順にローマ帝国,パルティア(ローマ帝国も征服できなかった強国。今のイランにあたる),インド北西部のクシャナ朝,それから中国の後漢……

 当時の後漢は,ローマ帝国に匹敵する規模の大国でした。この時代以降の中国は,長いあいだ「もうひとつの世界の繁栄の中心」あるいは「中心に準ずる大国」であり続けました。

 そして,もう一度「四大河文明」を示した地図をみてください。

四大河文明
4大河文明

 「文明」のはじまりの時代には,世界のなかで「文明」が栄えていた範囲は,かぎられていたのです。

  しかし,5500年前ころに「最初の文明」がメソポタミアでおこってから3千数百年が経つと(つまり西暦100年代には),ユーラシアの西の端から東の端まで,大きな文明国が連なる状態になったわけです。

 ただし,西暦100年ころには,現代の世界では重要な地域である,日本や東南アジアやヨーロッパの一部(北部や東部)は,まだこの「文明国」の圏内には入っていません(当時の日本は弥生時代)。ユーラシア以外の,アメリカなどの新大陸も,ほぼそうです。

 これらの地域の本格的な「文明化」は,このあとの歴史になります。

 ※ここまでで全体の4割弱。
  つづきがあります。
  (イスラムの台頭,ヨーロッパの台頭と世界制覇,アメリカの時代と世界大戦)
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2013年09月08日 (日) | Edit |
(まえおき)
 このブログでは,「となり・となりの世界史」というシリーズを続けています。
 世界史を「繁栄の中心の移りかわり」という視点で見渡していく,というものです。
 
 世界史には,それぞれの時代に「世界の繁栄の中心」といえるような地域や国があります。

 文明のはじまりの時代には,メソポタミア(今のイラク)とその周辺の「西アジア」が,文明の最も進んだ「中心」でした。その後,ギリシアやローマがおおいに繁栄した時代もあります。さらに「イスラムの時代」といえる時期もありました。
 そして,200~300年前にはヨーロッパ諸国が台頭して圧倒的になり,1900年代以降は「アメリカの時代」になりました。

 そして,このような「中心の移りかわり」には,「新しい中心は,それまでの中心の周辺の,比較的近い場所で生まれる」という法則性があります。

 「比較的近い場所」すなわち「となり」です。

 世界史における「繁栄の中心の移動」は,「となり」へ移っていく,ということがくりかえされてきました。「となり・となり」と移動がくりかえされてきたのです。

 今回は,近現代の「となり・となり」について述べます。 


となり・となりの世界史15

「となり」の欧米,アメリカ


日本に最も影響をあたえた欧米の国は?

 現代の世界をみるうえでも,「となり・となり」という視点は,やはりカギになります。
 現代の世界でも,「となり・となりの法則」は成り立っているのです。つまり,従来の「中心」の周辺に,新しく繁栄する国が出てくるということが,おこっています。

 たとえば,日本の繁栄がそうです。

 日本の発展の歴史には,「〈となり〉の欧米」であるアメリカが大きく影響しています。
 また,日本の繁栄は,「となり」にある中国,韓国などの経済成長に影響をあたえています。

 日本が世界の「繁栄の中心」のひとつになったのは,1900年代なかば以降のことです。

 くわしくいうと,1950~60年代にあった「高度経済成長」という急速な発展のあとの,1970年代からです。それ以降,日本は欧米の先進国と肩を並べる「経済大国」になったといえるでしょう。
 そしてそれは,明治維新(1868年)以来,「欧米諸国に追いつこう」として近代化をすすめてきた成果です。

 ではその「欧米諸国」のなかで,日本に対しとくに影響の大きかった国をあげるとすれば,どこでしょうか?

 それは,アメリカ(アメリカ合衆国)ではないでしょうか。


 その影響の「良し・悪し」ということは,とりあえずおいといて,ほかの国と比較しての「影響の大きさ」ということで考えることにします。すると,やはりアメリカではないでしょうか。
 
 アメリカは,じつは日本にとって最も近くにある,「となり」の欧米です。
 アメリカは,日本からみて太平洋をはさんだ向こう側にあるのです。ヨーロッパよりもずっと近いです。


 そもそも,日本が近代化への第一歩をふみだすきっかけは,幕末(1853年)にアメリカの4隻の軍艦=「黒船」がやってきて,外交関係を結ぶ「開国」をせまったことでした。
 当時の日本は,200年あまりのあいだ,欧米諸国とのつきあいを絶つ「鎖国」政策を続けていました(オランダだけは例外として関係を持っていました)。
 
 その後,徳川幕府が最初に外交の条約を結んだ欧米諸国は,アメリカです。

 また、幕府は1860年に,西洋型軍艦・咸臨丸(かんりんまる)でアメリカに使節を派遣しました。これは,鎖国をやめて以後はじめての外交使節団だったのです。咸臨丸には,勝海舟や若き日の福沢諭吉といった人たちが乗っていました。


アメリカの影響

 それから,あまり知られていませんが,明治初期には,日本人の留学先のトップはアメリカでした。アメリカに熱心に学ぼうとしていたのです。

 アメリカ文化の研究者・亀井俊介さんが引用する統計によれば,《明治元年から七年まで……五五〇人中二〇九人……の留学生がアメリカに行っており,二位のイギリスを断然引き離していた。》といいます。(亀井俊介編・解説『アメリカ古典文庫23 日本人のアメリカ論』研究社)

 そして,第二次世界大戦(1938~45)では,日米の全面戦争がありました。その結果,日本が完敗して6年間にわたりアメリカに占領されました。そして,アメリカの占領軍の主導で,さまざまな政策・改革が行われました。

 占領の時代がおわったあとも,アメリカは,日本に大きな影響を与えつづけました。

 音楽・映画・ファッションは,いうまでもありません。外交などの政治もそうです。自動車や家電の産業も,アメリカの模倣からはじまりました。スーパーマーケットもコンビニも,アメリカにあったものを日本に持ってきたのです。
 
 このようにアメリカの影響が大きかったのは,ひとつには1900年代が「アメリカの時代」だった,ということがあります。アメリカは,日本だけでなく世界じゅうの国に影響をあたえてきました。

 しかし,それだけではありません。さきほど述べたように,日本からみれば,アメリカは「最も近くにある欧米」です。
 日本とアメリカ(西海岸)は,太平洋をはさんで「となり」どうしの関係にあります。
 これは,イギリスとアメリカ(東海岸)が大西洋をはさんで「となり」どうしであるのと,同じようなことです。これにたいし,日本からみてヨーロッパは,はるかに遠いところにあります。とくに飛行機以前の時代には,そうでした。

 アメリカという,「となり」の中心的な大国から影響を受けた日本。

 このように,日本の繁栄についても,「従来の中心の近くから,新しい中心が生まれる」という「となり・となりの法則」が成り立っています。文明が「アメリカ→日本」というかたちで伝わっています。


ヨーロッパの影響も大きい

 もちろん,ヨーロッパも日本に大きな影響をあたえました。とくに1800年代は,イギリスが「世界の中心」といえるほどに繁栄した時代ですので,当然その影響が大きかったです(明治維新:1868年)。
 そして,ドイツにも大きな影響を受けました。

 日本人の留学先は,明治後半からはヨーロッパにシフトしていきます。

 先ほどの亀井さんの著作からまた引用すると,《明治二〇年代から,……外国のモデルとしてはヨーロッパ,特に新興帝国であるドイツが,政治および文化のあらゆる面で重んじられるようになった。逆にアメリカは,その共和制度や自由思想のゆえに危険視され,文化的にも軽視されるようになった》のです。

 そして,明治20~30年代には,留学先のトップはドイツとなり,次がイギリスで,アメリカは4番手になりました(以上,政府が費用を出す「官費留学生」についての統計による)。

 「なぜ,ドイツだったのか」を少し補足しておきます。

 明治時代の日本は,天皇という君主を頂点とする政治体制でした。アメリカは,君主のいない「共和制」でした。選挙で選ばれた大統領が国のトップです。「自由と平等」が重んじられ,君主や貴族といった「生まれながらの特権階級」に批判的な傾向が強かったのです。

 一方,当時のドイツは「皇帝」を頂点とする君主制でした。しかもそれは比較的最近になって成立した新しい体制で,その新体制のもとで急速に国の勢いを伸ばしていました。そこで,日本にとっていろいろ参考になると考えられたのです。

 しかし,ヨーロッパの影響が強くなった後もアメリカからの影響は続きました。とくに,アメリカが新しく「繁栄の中心」になった1900年ころ以降は,その影響はまた大きくなったといえるでしょう。

 電灯,蓄音機,映画,飛行機など,現代的な文明の利器の多くは,アメリカから入ってきたものです。明治末から大正にかけての,民主主義的な考え方が有力になった「大正デモクラシー」の時代には,アメリカは第一のお手本でした。


日本とアメリカの貿易

 以上の経緯は,たとえば日本の貿易(輸出入)のデータにもあらわれています。
 貿易をみるのは,それが多く行われていれば,「国どうしのつき合いが深く,影響を受けやすい」と一般にいえるからです。

 明治以降(昭和初めまで)の日本の輸出入額を,「アジア州」「ヨーロッパ州」「北アメリカ州」といった地域別の割合でみると,つぎのようになっています。
 南アメリカ,アフリカ,オセアニアなどのほかの地域は,ごく少ないので,省略です。

 表の数字を追うのがめんどうな人は,表はとばして,そのつぎの文章のところだけお読みください。

日本の貿易相手の地域別割合

●1875~79年(明治時代前半)
   (輸出) (輸入)
アジア 25   24%     
欧 州 46   68
北 米 29   7 

●1900~04年(明治後半)
   (輸出) (輸入)
アジア 43   45%     
欧 州 24   36
北 米 31   17 

●1925~29年(大正末~昭和の初め)
   (輸出) (輸入)
アジア 43   42%     
欧 州  7   18
北 米 44   31 


データ出典:安藤良雄編『近代日本経済史要覧 第2版』(東京大学出版会 1979)23ページ。

 明治の前半には,「ヨーロッパ」との貿易の割合が最も大きいです。近隣のアジアよりも多いのです。

 しかしその後(明治中ごろ以降),アジアの割合が増えていき,「ヨーロッパ」は減っていきます。さらに後には,「北アメリカ≒アメリカ合衆国」の割合も大きく増えます。

 この貿易額の推移は,これまでに述べてきた,「日本とアメリカの関係の深さ」を,おおむね裏付けていると思いますが,どうでしょうか?
 とくに,このデータからは「昭和の初期には,アメリカは日本にとって最大の貿易相手だった」ということがうかがえます。

 日本とアメリカは,1941~45年(昭和16~20)まで,全面戦争をしました。

 戦争というのは,険悪で疎遠な相手とのあいだでおきることもありますが,「関係が深い相手と,利害がぶつかっておきる」ケースも多いのです。
 つきあいが深いと,そのぶん対立が頻繁になったり,深刻化したりすることがあります。早い話,よく戦争になるのは,遠くの国どうしよりもとなりどうしです。

 具体的な経緯にはここでは踏み込みませんが,日米の戦争は,そのような「〈となり〉にある,関係が深い者どうし」の戦争だったのです。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月24日 (土) | Edit |
まえおき

 私は世界史が大好きで,「アマチュア世界史研究家」だと自分では思っています。
 ウチの本棚にある本の半分は,世界史関連です。

 このブログでは,「となり・となりの世界史」というシリーズを続けています。
 世界史を「繁栄の中心の移りかわり」という視点で見渡していく,というものです。
 
 世界史には,それぞれの時代に「世界の繁栄の中心」といえるような地域や国があります。

 今の世界なら,やはりアメリカがそうだといえるでしょう。
 文明のはじまりの時代には,メソポタミア(今のイラク)とその周辺の「西アジア」という地域が,文明の最も進んだ「中心」でした。
 その後,ギリシアやローマといった地中海沿岸(のヨーロッパ側)がおおいに繁栄した時代もあります。
 さらに「イスラムの時代」といえる時期もありました。
 そして,200~300年前にはヨーロッパ(とくにその西側の「西ヨーロッパ」)が台頭して,圧倒的な勢いを持つようになりました。
 そして,1900年代以降は,「アメリカの時代」になります。

 このような「中心の移りかわり」には,一定の法則性があります。
 それは,「新しい中心は,それまでの中心の周辺の,比較的近い場所で生まれる」ということです。

 「比較的近い場所」すなわち「となり」です。

 世界史における「繁栄の中心の移動」は,「となり」へ移っていく,ということがくりかえされてきました。「となり・となり」と移動がくりかえされてきたのです。

 「となり・となりの世界史」という(ちょっとヘンな)タイトルは,そこからきています。

 そして,ごく最近のこのブログでは,「過去数千年の,となり・となりの繁栄の移動」を,2万文字くらいの長さでざーっと見渡すということを行いました。
 「1万文字の世界史」というシリーズです。
 「となり・となりの世界史」という大きなシリーズの一部。
 ただし,「1万文字の世界史」というタイトルで書きはじめたのですが,書いてみると2万文字になってしまった…


「近代の文明」はこれからも力を持ち続ける
                      
 今回は,「1万文字(2万文字)の世界史」をふまえた,「結論」のひとつを述べたいと思います。
 いろんな「結論」が導き出せるとは思うのですが,そのなかで「とくに大事だ」と私が思うこと。

 それは,今の私たちの文明にかんするイメージです。
 つまり,科学や技術に支えられた,近代の文明。
 「資本主義」というのも,「近代の文明」の一部でしょう。

 その「近代の文明」は,これからも力を持ち続けるのではないか。
 「1万文字(2万文字)の世界史」の内容は,そんなイメージにつながると思っています。 
 
 「近代の文明」に,いろんな問題があることはたしかです。
 だから,「反近代」の思想を述べる人は,たくさんいます。

 前にこのブログの記事でもとりあげたのですが,インド独立・建国の指導者・ガンジーもそのひとりでした。

 ガンジーは「機械は西洋と結びついており,悪魔的だ。あんなものはないほうがいい」「経済生活は,衣食住の基本さえみたせば,それ以上を求めるべきでない」「輸出も輸入も排斥されるべきだ。国の経済は自給自足が理想だ」などと主張しているのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社より)
 
 機械文明も経済発展も貿易も否定する,ガンジー。

 ガンジーのように「反近代」の主張をする人はこれからもくり返しあらわれるにちがいありません。
 そして,かなりの人をひきつけたりするかもしれません。
 しかし,ガンジー的な主張が世界の主流派として力を持つことはない,でしょう。

 それは,「1万文字の世界史」でみてきたことからも,明らかではないかと。

 「〈近代〉はこれからも力を持ち続ける」――こういう主張は,いきなり述べてもなかなか受けいれてもらえないと思います。

 しかし,「となり・となりの世界史」あるいは「1万文字の世界史」をこれまで読んでくださった方なら,(全面的に賛成ではなくても)ある程度は「受け入れる」ことができるのではないでしょうか。
 少なくとも「主旨」(いいたいこと)は理解していただけるのでは…

 なぜなら,今の世界で主流になっている「近代」の文化や技術が,どのようなプロセスで生まれたものかについて,すでに知っているからです。

 つまり,これまでの世界史において,さまざまな民族が過去の遺産を継承し,新しいものをつけ加え,つぎの世代に渡していく――「1万文字の世界史」から,そのイメージを得ているからです。

 数千年にわたるさまざまな遺産の継承の積み重ねの末に,「近代」は生まれました。

 「近代」をかたちづくる要素のひとつである「近代科学」にかぎっていえば,

 最古の文明以来の西アジアの学問を,ギリシア人が受け継いで古代の学問・科学を開化させ,
 それをローマ人やイスラムの人びとが受け継ぎ,
 イスラムに学んだ西ヨーロッパ人が独自の要素を加えて近代科学を開化させた……

 そんな過程があるわけです。

 そして,イスラムにはインドの学問も影響をあたえましたし(「0」を使うアラビア数字など),印刷術などの中国発の技術は,ヨーロッパの文化に多大な影響を与えています。

 つまり,数千年間の世界のおもな文明によるさまざまな遺産の集大成として,「近代科学」は生まれ,発展してきたのです。

 このようなイメージがしっかりとあれば,科学をはじめとする,「近代」の根幹をなす要素を,簡単に否定するようにはならないと思うのですが,どうでしょうか?

 数千年にわたり,世界中の人びとが参加して築きあげてきたものを,どうして安易に捨て去ることができるでしょうか。


ジョブズの言葉

 さまざまな遺産の継承のうえに,今の私たちが存在している――これは,「世界史」を通して私たちが知るべき,だいじなメッセージだと思います。

 このイメージについて,アップルの創業者スティーブ・ジョブズが晩年に語った言葉があります。

 ジョブズの言葉は,歴史への認識にもとづいて,私たちが個人として,あるいは国民や市民としてどう生きるか,ということにも触れています。

 《なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは,先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数字も,僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし,自分の服なんて作ったことさえない。
 僕がいろいろできるのは,ほかの人たちがいろいろしてくれているからであり,すべて,先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして,僕らの大半は,人類全体になにかをお返ししたい,人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それはつまり,自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ……僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして,その流れになにかを追加しようとするんだ。
 そう思って,僕は歩いてきた。》

(ウォルター・アイザックソン(井口耕二訳)『スティーブ・ジョブズⅡ』講談社より)

 私たちも,歴史の遺産になにかを加えることをしていきましょう。
 ごくささやかなことでいいと思います。
 あるいは,そんな仕事をすすめている人たちを,少しでも応援していきましょう。

 私たちも,私たちになりに歩いていきましょう。

(以上)
2013年08月22日 (木) | Edit |
 前回の記事で,4回にわたって書いてきた「1万文字の世界史」(2万文字になってしまった)が完結をむかえました……というとおおげさかもしれませんが,自分としては以前から書きたかったことを書ききって,人前に出したので,充実した気分です。

 この十数日ほど,職場にいる時間以外のほとんどは「1万文字の世界史」のことを考えていました。
 朝6時ころに起きたら,パソコンに向かって,出勤時間まで書く。
 通勤電車では,いつもの読書もせず,書きかけの原稿のプリントアウトを推敲する。
 家に帰って夕飯を食べたら,すぐにまたパソコンに向かう。
 
 こういう感覚はひさしぶりでした。
 
 多くの中年男性は,仕事のあとでも何かと忙しいのに,私は好きなことが思い切りできる。まあ,恵まれているのでしょう…

 今回の「1万文字の世界史」のもとになる原稿は,2年ほど前に書いたものがあります。
 「5万文字」くらいの長さのものです。
 さらに3年前に書いた,ごく初期の「原型」の「5000文字」ほどのものもあります。

 今読み返すと,5万文字というのは,ちょっと重い。
 5000文字だと,簡潔な要約になりすぎていて,読んでも何だかわからない。

 そこで,5万文字でも5000文字でもなく,1万数千文字くらいで書けないかと思い立ったのでした。「5000文字」を参照しつつ,「5万文字」を編集して,書きました。
 その結果,2万文字くらいになりました。

 「2万文字」というのは,1~2時間で読める分量です。

 その長さの世界史の通史,それもある一定の視点や論理で通している(「となり・となり」という視点を打ち出しています)というのは,自分としてはなかなか画期的だと思っています。
 
 今後は,今回書いたものを,大切に育てていきたいです。
 つまり,さらに完成させていったり,より多くの人に読んでもらえるようにしていきたい…
  
 もちろん,この「1万文字(2万文字)」では,書ききれなかったことがたくさんあります。
 それは世界史についての「個別の論点・テーマ」として,これから続きを書いていきます。

 それでも,この「1万文字(2万文字)の通史」の部分が,私の世界史の話の「核」になります。
 あとは,「付け足し」なのです。

 とにかく,「核」の部分を,ある程度かたちにすることができて,よかったと思っています。

 応援してくださった方がた,ありがとうございます(とくに,たきやん。さんは,先日のご自身のブログで,「1万文字の世界史」の最終話の記事が出たあと,たいへん好意的にこのブログを紹介してくださいました。ありがとうございます。それから,このシリーズの第1回をアップしてすぐ,最初に反応してくださった,shin36aさんに感謝。しかもそれが「はじめまして」だったのです…)。

 なんだか,ひとりでよろこんでいるみたいで,恥ずかしい気もしますが,まあいいでしょう。

(以上)
 
2013年08月21日 (水) | Edit |
 「1万文字の世界史」の後編です。「夏休み特別企画」全4回のうちの完結編。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 でも,結局2万文字を少し超えてます…
 タイトルをそのうち変更しないと。
 2万文字なら,1時間くらいで読めるので,「1時間の世界史」とか。

 前回は,西ローマ帝国の崩壊後から,ルネサンス,大航海時代まで。
 今回は,1500年代から現在まで。


1万文字の世界史・後編

4.1500年~1700年(つづき)

イスラムからヨーロッパへの過渡期

 1500年代以降,世界各地に進出する,スペイン。商工業や新しい文化が花ひらき,繁栄するイタリア。
 ただ,「最先端」で勢いがあったとはいえ,スペインとイタリアがイスラムをしのぐ勢力になったとはいません。

 1500~1600年代には,西アジアなどの「イスラム圏」では,「オスマン・トルコ」という大きな帝国が栄えていました。さらにアジアの東の地域では,中国の明王朝(1600年代後半からは清王朝)が繁栄していました。
 人口や領土の大きさなどの国のスケールでは,スペインもイタリアもオスマン・トルコや明・清にはおよびません。

オスマン・トルコ
濃い網かけ:1500年ころ,薄い網かけ(+濃い網かけ):1600年ころ
オスマン・トルコ

 当時(1500年代)のスペインは,多くの植民地を得ました。しかしそれは,自分たちにとっては遠く離れた「辺境」の各地に,軍事や通商の基地をぽつぽつとおいた,という状態です。植民地を本国のような密度で支配していたのとは,異なります。

 「本国」の規模だけをくらべると,スペインは人口も面積も,オスマン・トルコよりもはるかに小さかったのです。

アメリカ大陸におけるスペインとポルトガルの植民地(1500年代)
茶色:スペインの植民地 緑:ポルトガルの植民地
スペイン・ポルトガルの植民地

 ただし,トータルな国力はともかく,1500~1600年代のヨーロッパ(西ヨーロッパ)の科学・技術・軍事力は,すでに世界の最先端になっていました。
 たとえば,多くの鉄砲や大砲を使った戦争は,この時期のヨーロッパではじめて行なわれるようになったのです。その技術の一部は,戦国時代の日本にも伝わりました(「鉄砲伝来」など)。

 しかし,ヨーロッパの軍事力はまだ圧倒的とはいえません。

 たとえば,当時のヨーロッパの大国のひとつであったオーストリア(を中心とするハプスブルグ家の帝国)は,隣接していたオスマン・トルコと,何度か戦争しています。そして,一時はその首都ウィーンがオスマン・トルコの軍勢に包囲されるなど,かなりの劣勢だったこともありました。
 1520年代と1680年代の2回ほど,そうした「ウィーン包囲」ということがおこっています。

 また,1500年代前半には,オスマン・トルコは他国を圧倒する海軍を持っていて,地中海の交通に大きな影響をあたえることができました。

 このように,スペインやイタリアが台頭してきた時点では「西ヨーロッパが世界の繁栄の中心」とはいいきれないところがあります。

 それでも,世界の繁栄の中心は,しだいにイスラムからヨーロッパ(西ヨーロッパ)へ移っていきました。

 たとえば,1570年代には,スペインとイタリアのジェノバ(有力な都市のひとつ)などの連合艦隊が,オスマン・トルコ艦隊との大きな海戦で勝利しました(レパントの海戦)。これ以後,地中海でのオスマン・トルコの力は衰えていきました。

 スペインやイタリアが台頭した1500年ころから1700年代までは,「イスラムからヨーロッパへ」の過渡期なのです。


オランダの繁栄

 そして,この「過渡期」の時代にも,西ヨーロッパのなかでの中心の移動がありました。
 
 それは,「となり・となり」の移動といえるものでした。
 
 イタリアやスペインの進んだ文化は,周辺のヨーロッパ諸国(フランス,ドイツなど)にも伝わりました。そして,北部のベルギーの港町(アントウェルペン)が,ヨーロッパ最大級の貿易港として栄えるなど,繁栄が北へ広がり,シフトしていく動きがありました。

 そのあと,オランダの繁栄の時代がやってきました。

 オランダは,フランスやドイツと国境を接しているほか,ベルギーのすぐとなりです。また,スペインの支配を受けた地域でもありました。つまり,スペインとは「関係が深い」という意味で,「となり」の国なのです。

西ヨーロッパの「中心」の北へのシフト・その1
赤:スペイン,イタリア
 スペイン・ポルトガル・イタリア

その2 赤:オランダとベルギー
オランダ・ベルギー

 1500年代末にスペインの支配を脱してから,オランダの繁栄がはじまりました。そして,1600年代に最盛期をむかえたのでした。

 オランダは,ヨーロッパのなかでは大きな国ではありません。人口は,イギリスやフランスなどのヨーロッパの大国の数分の1ほどです。

 しかし,小粒な国であっても,織物の生産,造船,海運・貿易などさまざまな商工業を発達させて繁栄したのでした。とくに海運・貿易では圧倒的な優位に立っていました。

 たとえば,1670年ころの「ヨーロッパ各国の商船隊の輸送能力」をまとめた統計があります。「持っている船のトン数の合計」と考えればいいでしょう。これによれば,オランダの輸送能力が57万トンであったのに対し,イギリス(イングランド)は9万トン,フランスは8万トンに過ぎませんでした。
 

5.1700年以降

イギリスの台頭

 オランダのつぎに繁栄の中心になったのは,イギリスです。
 イギリスは,ヨーロッパのおもな国のひとつでしたが,もともとはやや「片田舎」の存在でした。
 しかし,1700年代にはヨーロッパで最強の国となり,1800年代には,まさに世界の「中心」として繁栄したのです。

赤:イギリス 黄色:オランダ・ベルギー
イギリスへ

 イギリスは,オランダとは海峡ひとつ隔てた「となり」にあり,オランダの影響をつよく受けていました。

 イギリスとオランダの間では,貿易もさかんでした。ただ,1600年代にはイギリスは「新興国」で,オランダやベルギーは「先進国」という関係でした。たとえば,当時すでにイギリスには織物生産などの一定の産業がありましたが,「先進国」の製品にくらべると,品質的にはいまひとつでした。

 しかし,深い関係を持つなかで,イギリス人はオランダやベルギーからさまざまなことを吸収し,追いつき追い越していったのです。


産業革命

 イギリスの繁栄は,世界史上のきわめて重要なできごとです。
 イギリスで,蒸気機関などのさまざまな技術革新による生産の飛躍的な増大,つまり「産業革命」が起こったからです。

 1700年代後半のイギリスでは,蒸気機関やその他の機械が発明され,それを使った大規模な産業がおこりました。
 繊維産業(糸や布の製造)がそのはじまりで,のちに機械や道具の製造,製鉄,化学など多くの分野に広がっていきました。各地に鉄道がつくられ,汽船が海を行きかうようになりました。

 そのようなことは,最初はイギリスだけにかぎられていましたが,1800年代前半のうちにはヨーロッパの広い範囲や,アメリカ合衆国にも広がりました。日本でも,明治維新(1868)以降に,欧米の技術を取り入れた産業の革新が行われました。

 1800年代は,イギリスの時代でした。
 まず,圧倒的な工業力で「世界の工場」といわれました。
 ある統計では,1870年の時点で,イギリスの工業生産は,世界の32%を占め,世界1位でした。そのような産業の力をバックに,海運や軍事力でも最大の勢力となりました。学術研究などの文化面でも,世界をリードしました。


いろいろな成果の集大成

 産業革命は,それまでの数百年間にヨーロッパで行われた試みのいろいろな成果を集大成したものです。

 イスラムの学問を受け継ぎ発展させた科学研究,人びとが自由に研究や事業ができるルールや公正な裁判,銀行や株式会社などの金融のしくみ――そういうものを,西ヨーロッパの人びとは,1700年代までにかなりのところまで築きあげてきました。イタリア人,スペイン人,ドイツ人,フランス人,オランダ人等々の人びとがそれにかかわってきました。

 イギリス人は,「それまでの遺産を受け継ぎ,新しいものをつけ加えながら,ひとつにまとめあげた」のです。

 科学や技術の研究,起業家精神,それらを後押しする自由な社会のルール,新しい事業を生む金融のお金の流れ。それらをまとめあげた結果が,産業革命です。


欧米が世界を制覇する

 産業革命以降は,はっきりと西ヨーロッパが世界の「繁栄の中心」となりました。
 その「中心」にはアメリカ合衆国も含まれているので,ここからは「欧米諸国」といういい方もしていきます。

 繁栄する欧米諸国によって,世界の勢力図は大きく変わっていきました。

 1700年代までのヨーロッパの人びとは,オスマン・トルコなどのイスラムの帝国にたいし,相当なおそれや敬意をいだいていました。「スケールや伝統がすごい」というのです。インドや中国にたいしても似たような思いがありました。

 しかし,それが1800年代以降,大きく変わりました。ヨーロッパにイスラムなどのアジアの国ぐにを上回る力のあることがはっきりしてきました。技術や経済力をもとに圧倒的な軍事力を持つようになったのです。

 その力で,1800年代の欧米諸国は,世界じゅうのさまざまな地域,つまりアジア・アフリカの国や地域を,植民地やそれに近いかたちで支配下におくようになりました。

 その「植民地」のなかには,かつて強大だったイスラムの国ぐにの一部や(エジプトなど),中国の一地域(香港など)も含まれていました。インドは,1800年代後半には国全体がイギリスの植民地になってしまいました。

 欧米以外で最強の勢力だったオスマン・トルコや中国(1800年代当時は清王朝)は,完全に植民地化されることはありませんでした。しかし,両国とも1800年代にはイギリスとの戦いに敗れるなどで,すっかり衰えてしまいました。

 1900年代初頭には,世界の大半が欧米の植民地になるか,それに準ずる状態になってしまいました。

1914年における欧米諸国の植民地
(濃い網かけ:欧米諸国,薄い網かけ:その植民地)

アジア・アフリカ諸国だけでなく,カナダ,オーストラリアも含んでいる
欧米の植民地


アメリカの時代

 イギリスの繁栄のあとにくるのは,1900年ころからのアメリカ合衆国(アメリカ)の時代です。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。
 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。
 それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 イギリス→アメリカというのは,「となり・となり」じゃない,と思うかもしれません。

 しかし,そうではありません。アメリカの政治・経済の中心の東海岸は,イギリスから大西洋を渡った先,つまり大西洋をはさんで「となり」にあるのです。

オレンジ:イギリス 赤:アメリカ東海岸 黄色:その他のアメリカ
イギリスからアメリカへ

 イギリスとアメリカは,海という交通路でつながっています。前にも述べましたが,鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。

 それから,アメリカは1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。
 そのように,イギリスの影響をつよく受けた地域なのです。
 やはりここでも,「となり・となり」です。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に,新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 たとえば発明王エジソンは,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。
 エジソンは,1800年代後半から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。

 エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電源」という現代の電気技術の基礎を築いたウェスティングハウスといった人たちがいました。この人たちはみなアメリカで活躍しました。
 つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在(2010年代)も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。

 アメリカのGDPは世界第1位の規模で,世界全体の23%を占めます(2010年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済的な発展度を示す)は,4万7千ドルで,世界でも上位のほうです。
 なお,GDPで世界2位の中国は世界の9.1%,3位の日本は8.7%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが4400ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の軍事費の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。
 しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。

                      *

 以上,世界史における「繁栄の中心の移り変わり」を,駆け足でたどりました。この「移り変わり」をまとめると,こうなります。

①メソポタミア ②メソポタミア周辺(エジプト・シリア・トルコなどの西アジア) ③ギリシア ④ローマ(西側→東側) ⑤イスラムの国ぐに(メソポタミア周辺→カイロなど西側の地域) ⑥西ヨーロッパの国ぐに(イタリア・スペイン→フランス・ドイツ・ベルギーなど→オランダ→イギリス) ⑦アメリカ(ほかに西ヨーロッパ,日本)

 もっとざっくりまとめると,こうです。

1.西アジア
2.ギリシア・ローマ
3.イスラム
4.西ヨーロッパ
5.アメリカ


 これらの国ぐにはすべて「となり・となり」の関係にあります。新しい中心は,その直前の中心の近くから出ています。数千年にわたって,全部がつながっているのです。


2つの世界大戦

 最後に,1900年代の2つの世界大戦と,アジア・アフリカ諸国の状況についてみてみましょう。

 前に述べたように,アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半は,その欧米諸国のなかできわめて大きな「内紛」がありました。第一次世界大戦(1914~1918)と,第二次世界大戦(1939~1945)です。

 これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになった「新興勢力」です。

  そして,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の「既得権」に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,チャンピオンのイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第二次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。

 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


アジア・アフリカの独立と発展

 これらの大戦は,いくつかの重大な結果をもたらしました。そのうち,「世界史の大きな流れ」という視点からとくに重要だったのは,「アジア・アフリカの独立・革命」を招いた,ということです。

 2つの大戦は,空前の大規模な激しい戦いだったので,敗けた側はもちろん,勝った側にも大きな混乱や被害をもたらしました。

 その中で,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって「独立」を求め,欧米諸国はそれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,欧米諸国には植民地をおさえきる余力はなくなっていたからです。

 たとえば,第二次大戦終結直後のインドの独立は,そのような動きの代表的なもののひとつです。

 また,植民地化されなかった国でも,戦争による混乱のなかで,それまでの国王や皇帝による支配を倒し,近代的な新しい国をつくるための「革命」が,いくつも起こりました。革命をすすめた人びとは,「欧米に対抗できる体制」をつくろうとしたのです。

 たとえば,オスマン・トルコ帝国を倒し,現在のトルコ共和国を築いた1922年の「トルコ革命」には,第一次世界大戦の影響があります。第一次世界大戦でオスマン・トルコは,ドイツの陣営に加わって戦い,破れました。その混乱のなかで革命勢力が力をつけ,勝利したのです。

 1949年に現在の「中華人民共和国」が建国されたのも,第二世界大戦の影響があります(具体的な経緯には,ここでは立ち入りませんが)。

 そして,1960年代末までには,世界の大部分の地域が独立国家となりました。

 独立後しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年代から,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。

 続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となり,1990年代以降は中国やインドの経済発展もめざましいものになりました。

 2000年代以降は,経済発展が続く「新興国」が,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地でみられるようになっています。

 また,こうした独立・発展の一方で,アジアの一画を占める日本が,第二次世界大戦後に急速に経済成長をして,世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともありました。

 つまり,世界の勢力図は1900年頃の「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。

 こうした「アジア・アフリカの台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確実なことはわかりません。
 しかしその動きが今後の「世界史」の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(「1万文字の世界史」おわり)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月18日 (日) | Edit |
 「1万文字の世界史」の中編の2です。「夏休み特別企画」全4回のうちの3回目。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 前回(中編)は,ローマ帝国の時代について。
 今回は,西ローマ帝国の崩壊後から,ルネサンス,大航海時代まで。

1万文字の世界史・中編の2

3.西暦500年~1500年(つづき)

イスラムの台頭

 西暦400年代にローマ帝国の西側=西ローマ帝国が崩壊して,「繁栄の中心」は,帝国の東側=東ローマ帝国に移りました。
 「生き残った帝国」東ローマ――西暦500~600年代には,ここが当時の世界で最も繁栄した国ではあったのですが,ローマ帝国の最盛期にくらべれば,政治も文化もふるいませんでした。

 やがて,繁栄の中心は帝国の外に移っていきました。
 東どなりの,メソポタミアとその周辺の西アジアです。

 ローマ帝国が衰えてからのち,この地域では600年代にイスラム教が創始され,急速に力を持つようになりました。そして,その信者の勢力によって新しい国がつくられました。
 この国は各地を征服して急速に拡大し,700年ころには「イスラム帝国」といわれる,かつてのローマにも匹敵する大国となりました。

 ここから,世界の繁栄の中心は「イスラム」になります。

西暦800年ころのイスラム帝国(紫の斜線)
メインの「アッバース朝」のほか,北アフリカ西部,イベリア半島のいくつかの王朝を含む。黄緑は東ローマ帝国,茶色は当時の西ヨーロッパで最大勢力のフランク王国。ほかの国は省略している。
イスラム帝国ほか

(参考)最盛期(100年代)のローマ帝国
最盛期のローマ帝国


ギリシア・ローマの遺産に学ぶ
 
 イスラムの人びとは,多くのことをギリシアやローマの遺産に学びました。
 たとえば,イスラムでさかんだった学問・科学の研究は,ギリシアの学問を引き継いだものです。

 西暦800年ころから,イスラムの人びとは,ギリシアやローマの書物を自分たちの言葉であるアラビア語に翻訳しはじめました。そして,翻訳するだけでなく,やがて独自の研究へと進んでいったのです。

 ただし,科学の研究がさかんだったといっても,イスラムの国ぐにの科学が,かつてのギリシアやローマのレベルを大きく超えて,それらをすっかり過去のものにしてしまったというのではありません。

 たとえば,西暦1000年ころのイスラムの科学者たちは,彼らからみて1000年以上前のギリシアの哲学者(科学者でもある)アリストテレスの著作を,「偉大な権威」として,教科書のように扱ったのです。これは,近代科学の急速な発展ぶりとは,大きく違います。

 また,そもそもイスラム教は,ローマ帝国で生まれたキリスト教の影響を受けています。たとえば,イスラム教は唯一絶対の神・アッラーを信仰する一神教ですが,その「一神教」という考え方はキリスト教からのものです。

 イスラムの人びとがギリシアやローマの遺産を学んだのは,イスラム帝国の西側のとなりの東ローマ帝国の人びとからでした。東ローマ帝国とイスラム帝国のあいだには,争いもありましたが,貿易や文化的な交流もさかんでした。


イスラムの国ぐにの遺産

 繁栄するイスラムの国ぐにで生まれた文化や技術は,のちにヨーロッパの国ぐにに大きな影響をあたえました。さらにそこから世界にも影響をあたえたのです。

 たとえば,今の私たちは,ふだんの生活でいろいろなアラビア語を口にしています。

 アラビア語は,イスラム帝国を築いた中心勢力であるアラビア人の言葉です。いくつもの民族が暮らすイスラム帝国のなかで,共通語とされていました。

 つぎのものはすべてアラビア語に由来します。つまり,イスラムの国ぐにになんらかのルーツがあるのです……コーヒー,シュガー,ジャケット,シロップ,ソファー,オレンジ,アルカリ,ソーダ,ギプス,ガーゼ……衣食住から化学・医療にかんするものまでいろいろあります。

 それから,現在世界じゅうで使われている0,1,2,3…10の数字を「アラビア数字」といいます。この数字は,漢字の数字やローマ数字などとくらべると,計算にきわめて便利です。アラビア数字は,イスラムの国ぐにからヨーロッパに伝わり,その後世界に広まりました。

 ただし,「0」を使った十進法じたいはインドで生まれたものです。イスラムの人びとはインドの数字に学んで,それをさらに洗練させたのです。

 この時期(西暦500~1500年ころ)のイスラムの国ぐには,じつに多くのものを生み出したのです。「繁栄の中心」というのは,そういうものです。


帝国の分裂・「イスラム」の中での繁栄の移動

 その後,800年代になると,イスラム帝国はいくつかに分裂していきます。この帝国は,さまざまな国や民族を強引にひとつにまとめたところがあったので,無理もないことでした。
 分裂後は,それぞれの国が繁栄を続けました。そして,イスラムの国ぐにのなかで,「中心」が移動していったのです。

 イスラム帝国の比較的初期のころは,繁栄の中心はメソポタミア(今のイラク)周辺でした。そこにはバグダードという中心都市がありました。

 しかしその後,西暦1000年代からは,エジプトの都市・カイロのほうが栄えるようになりました。さらに後の時代には,カイロの西の北アフリカの地域や,その先のスペイン(スペインはイスラムに征服されていた)にも,大きな都市ができていきました。

 一方,東のほうに目を向けると,西暦1000年ころ以降はインド北部にもイスラムの勢力は拡大しました。さらに1400年代以降は,東南アジアにもイスラム教が本格的に広がりました。そして,これらの地域にもイスラムの国ができていきました。

 イスラム教徒が主流の地域=イスラム圏は,東西の広い範囲に拡大していったのです。


中国の繁栄

 また,イスラムの絶頂期に,それと並んでおおいに繁栄した国・地域として,中国があります。

 中国では秦・漢以降,さまざまな王朝(政権)が栄えたり滅んだりしました。そのなかで代表的なのが,唐(最盛期700年代),宋(最盛期1000年代),元(最盛期1200年代)といった王朝です。イスラムが繁栄した時代は,これらの中国の王朝の絶頂期でもありました。

イスラム帝国(紫)と唐(オレンジ)・西暦800年ころ
前出の地図に唐を描き加えた。
イスラム・唐

 「絶頂期」の中国は,高い文化や技術を持っていました。それを示すのが,いくつかの重要な発明です。

 実用的な火薬は,800年代に中国で発明されました。

 方位を示す羅針盤を航海に使うようになったのも,中国が最初でした。西暦800年代から1000年代のことです。

 最初の活字印刷(陶製の活字による)は,西暦1000年代に中国で発明されました。ドイツのグーテンベルクが金属活字による印刷をはじめたのは1458年ですから,その400年ほど前のことです(これは中国での発明とは独立のものだった可能性がある)。

 火薬,羅針盤は,その後ヨーロッパに伝わりました。ヨーロッパ人は,これらの発明に改良を加えました。火薬を用いた鉄砲などの武器や,羅針盤を使った航海術や,数多くの出版物は,1400~1500年代以降のヨーロッパを,ひいては世界を大きく変えていきました。
 しかし,それらの発明のルーツをたどると,中国での発明に行きつくのです。


その他の地域・「文明」の広がり

 前にみたように,ローマ帝国や漢(後漢)が繁栄していた西暦100年代の時点では,日本,東南アジア,ヨーロッパ北部と東部,南北アメリカといった場所は,まだ本格的には文明は栄えていませんでした。しかし,それ以降数百年のあいだには,これらの地域でも「文明化」がすすんでいきます。

(日本)
 日本は,西暦300年代(古墳時代)から600年代(飛鳥時代)にかけて,ヤマト政権による統一・建国がなされ,今の「日本」の基礎ができました。これは,おもに中国や朝鮮半島の人びとの影響を受けながら,自分たちの国や文化を築いたのです。

(朝鮮半島)
 朝鮮半島では,紀元前200年代から中国人の一派が移り住んで国家の形成がはじまりました。その後,中国人勢力が支配的な時代が続きましたが,西暦300年代にその支配を脱し,独立の国づくりがはじまります。
 そして,複数の国が並び立つ時代を経て,600年代には「新羅(しんら)」という王国によって半島が統一されました。
 その後は「高麗(こうらい)」(900年代~)→「李朝朝鮮」(1300年代~)と受け継がれていきます。

                       *

 このほかの地域(東南アジア,ヨーロッパ北部と東部,アメリカ大陸)でも,ごくおおまかに紀元前後(2000年前ころ)から西暦1000年ころにかけて,本格的な国づくりがはじまりました。

 ずいぶん時間の幅がありますが,ときにはそのように大きくざっくりと捉えることも必要です。

(東南アジア)
 今のベトナム,カンボジア,タイといった地域では,西暦100年ころから,中国やインドの影響を受け,いくつかの国ができはじめました。
 そして,西暦400年ころからはとくにインドの文化をおおいに取り入れ,独自の国や文化を形成するようになりました。

(ロシア)
 ヨーロッパ(東部)に目を向けると,たとえば今のロシアにつながる初期の王国(キエフ王国など)は,800年代に成立しました。この王国の文化は,東ローマ帝国の影響を受けています。

(アメリカ大陸)
 アメリカ大陸の古典的な文明を築いた「マヤ王国」が,今のメキシコで栄えたのは西暦200年代から1200年代にかけてです。その後「アステカ王国」がこれを継承し,1500年代にスペイン人に滅ぼされるまで続きました。

 なお,マヤ王国などのアメリカ大陸の文明と,西アジア,インド,中国などのユーラシアの文明との関係は,はっきりしません。アメリカ大陸の文明がまったく独自のものなのか,ユーラシアからの影響で生まれたのかは,わかっていないのです。

 少なくとも,1500年ころにヨーロッパ人がアメリカ大陸にはじめてやってきた時点では,2つの大陸(ユーラシアとアメリカ)の住民は,お互いのことを知りませんでした。

                         *

 以上,いろんな国がでてきましたが,要するに紀元前後から1000年ほどのあいだに,世界における「文明」の分布は一層広がり,世界はさらに多様になったということです。

 その「広がり」は,基本的には「古くからの文明国から,その周辺へ」というものでした。たとえば中国と日本の関係や,東ローマ帝国とロシアの関係は,そうです。

 その結果,「西暦1000年ころまでには,今の世界の主要国の基礎となる国の多くが,ほぼ出揃った」といえるでしょう。


4.1500年~1700年

イタリア・スペインという新勢力

 西暦700年代にイスラム帝国が成立して以降,「イスラムの時代」は,数百年は続きました。

 しかしその後,イスラムの国ぐにの周辺に,その影響を受けて新たに台頭する地域もでてきました。それは,イタリア・スペインといった西ヨーロッパの国ぐにです。

 「西ヨーロッパ」とは,ヨーロッパの西部で,イタリア,スペインのほか,フランス,ドイツ,オランダ,イギリスなどを含む地域です。ほぼ「西ローマ帝国の領域だった範囲」といえます。

 西ヨーロッパでは,400年代の西ローマ帝国の崩壊後,さまざまな王国が興亡する不安定な状態が続きました。
 しかし,西暦1000年ころまでには,今の西ヨーロッパ諸国のもとになるいくつかの王国が成立して,かなり安定してきます。その後長いあいだふるわなかった経済や文化も,活気を取り戻していきました。

 そして,1400~1500年代になると,西ヨーロッパの中から,「世界の最先端」といえる勢力もあらわれたのです。それが,イタリアとスペインでした。

 2つの国は,地理的にイスラムと近い関係にあります。つまり,イスラムの「となり」にあるのです。

 まずイタリアは,西ヨーロッパの中では,エジプトなどのイスラムの主要部に最も近いです。
 そして,イタリア半島の「長靴」の先端は,イスラムの国がある北アフリカ(現在のチュニジア,アルジェリアなど)にたいし目と鼻の先です。

 西ローマ帝国の崩壊後,イタリアではいろいろな混乱がありました。しかし,西暦1000年ころから,ベネチア,フィレンツェなどの,都市を中心とするいくつかの国ぐに(ほぼ独立といえる「自治都市」)のもとで安定してきました。

 そしてそれらの国ぐに(都市)は,織物の生産や,イスラムや東ローマ帝国との貿易などで,おおいに繁栄しはじめたのです。

 一方,スペインの国があるイベリア半島は,西暦700年代からイスラムの王朝に支配されていました。しかし,スペイン人は1400年代までにイスラムの勢力をほぼ追い出し,自分たちの王国を発展させました。

スペイン(オレンジ),ポルトガル(水色),イタリア(赤)
現在の国の範囲。モノクロの斜線は800年ころのイスラム帝国。
スペインとイタリア

イタリアのおもな都市,東ローマ帝国(黄緑),イスラム(紫)・西暦1100年ころ
コンスタンチノープルは,東ローマ帝国の中心都市。
イタリア周辺


イスラムから学ぶ

 イタリアもスペインも,このように「となり」であったイスラムの人びとと,さまざまな交流があった地域です。貿易などの平和的な交流だけでなく,戦争もありましたが,とにかくイスラムからいろいろ吸収して,発展していったのです。

 たとえば,西暦1100年ころから,イタリアやスペイン(とくにイタリア)では,イスラムやギリシア・ローマの書物を翻訳することがさかんになりました。
 イスラムの国ぐにの学問や,そのもとになっているギリシアやローマの遺産を吸収しはじめたのです。

 やがて,既存の書物を翻訳して読むだけでなく,独自の研究も行われるようになりました。
 そのような研究は,とくにイタリアで発展し,のちの1600年代にはガリレオ・ガリレイ(イタリア人)の「落下の法則」や「地動説」のような,近代科学の出発点になる仕事を生み出しました。

 このほか,イタリア人とスペイン人は,多くのものをイスラムから取り入れました。

 前に「アラビア語に由来するいろいろなもの」(アルコール,コーヒー,アルカリ等々)のことを述べましたが,これらを最初にヨーロッパで取り入れたのは,スペイン人とイタリア人でした。

 
ルネサンス,大航海時代

 イスラムからの影響を出発点にして,イタリアやスペインの文化や経済は大きく発展しました。
 それを,当時のヨーロッパ人は,「かつてのギリシア・ローマの文化を復興させたものだ」ととらえました。
 そして,この新たな繁栄を「復活・復興」を意味する「ルネサンス」という名称で呼びました。

 さらに,この「復興」は,たんなる過去の再現ではありませんでした。数々の新しいことが起こったのです。

 たとえば,1400年代末にスペインの船が,大西洋を横断してアメリカ大陸の近くに到達するということがありました。コロンブスの航海です(コロンブスはイタリア人)。
 これは,ほかの国ではできなかったことです。イスラムの国にも,かつてのローマ帝国でもできませんでした。
 つまり,世界史の先端を行く新しいことを成しとげたのです。

 コロンブスの航海以後,多くのスペイン船が,アメリカ大陸と行き来するようになりました。

 そして,1500年代前半のうちに,スペインは,アメリカ大陸の先住民の国ぐにや集落を武力で支配するようになりました。そのような海外の支配地を「植民地」といいます。

 大陸を越えて支配地を広げる国があらわれたのは,この時代がはじめてです。

 なお,同じリベリア半島のポルトガル王国も,スペインと競ってアメリカ大陸に進出しましたが,比較的小さな国だったので,その影響はスペインにくらべると限られました。

 そして1500年代には,スペインやポルトガルは,アジアにも進出しはじめました。戦国時代の日本にもやってきました。また,1600年ころからは,オランダ,イギリスも,海外進出で後から追いあげてきました。

 こうして,1400年代末から1700年代にかけて,スペイン・ポルトガルを皮切りに,西ヨーロッパの船が世界各地を航海するようになりました。そして,ヨーロッパ人にとっては未知の「新世界」を,つぎつぎと発見していったのです。

 この時代については「大航海時代」といういい方があります。
 「大航海時代」は,西ヨーロッパの台頭のはじまりです。

(つづく)
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2013年08月14日 (水) | Edit |
 前回からの続きです。「1万文字の世界史」の中編。「夏休み特別企画」の全3回(か4回)。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 前回(前編)は,メソポタミアにおける文明のはじまりから,古代ギリシアまで。
 今回は,ローマ帝国の話から。


1万文字の世界史・中編

2.紀元前1000年~西暦500年(つづき)

ローマ帝国の誕生

 新しい「繁栄の中心」となったギリシア。しかし,そのギリシアもしだいに以前ほどの活気はなくなっていきました。
 その一方,ギリシアの西のとなりのローマという国が台頭してきました。

 ローマは,もともとはイタリア半島の一地域の国でした。その建国はローマ人の伝承によれば紀元前700年代で,ギリシアのポリスができはじめたころより少し後です。イタリア半島は,西のとなりのギリシアからさまざまな技術や文化が伝わり,「文明化」した場所です。

 ローマ人は,軍事や政治の面でとくにすぐれていました。土木や建築をはじめとする技術面でも,高い能力を持っていました。
 そして,ギリシアのポリスが繁栄していた時代から,何百年もかけて多くの国ぐにを征服し,勢力の拡大を続けていたのです。

 紀元前200年代(2200~2300年代)には,イタリア半島を統一。
 その後,今のスペインなど,地中海の西側も制覇。

 紀元後まもなく(2000年前ころ)までには,ギリシア人の勢力範囲――ギリシア本土やエジプトなども,ローマによって征服されてしまいました。

 さまざまな国を征服した結果,紀元後まもなくのころには,ローマは地中海全体を囲む巨大な帝国になっていました。「ローマ帝国」の誕生です。なお,「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

 帝国の首都ローマがあるイタリア半島は,新しい繁栄の中心になりました。「繁栄の中心」が,ギリシアからその西の「となり」に移ったのです。

ローマ帝国(最盛期の西暦100年代)
最盛期のローマ帝国


ローマ帝国の文化

 ローマ人は,征服した国ぐにのさまざまな文化を,自分たちの帝国のなかに取り入れました。
 そのなかで最も重視したのが,ギリシアの文化でした。

 たとえば,ローマの学問・科学というのは,全面的にギリシアのものをもとにしています。美術や建築も,ほぼ同様です。「ローマ人は,ギリシア人を軍事的・政治的に征服したが,文化的には征服された」などともいわれます。

 ただし,ギリシア起源でない文化でも,重要なものがあります。その代表がキリスト教です。

 キリスト教は,紀元後まもない時期に,当時ローマ帝国の領域だった西アジアのパレスチナ地方で創始されました。キリスト教の母体になっているのは,当時のパレスチナ周辺で普及していたユダヤ教です。
 
 キリスト教は,その後ローマ帝国の各地に広まりました。最初は「あやしい新興宗教」として弾圧されましたが,しだいに公認され,権威になっていきました。そして,西暦300年代末には,ローマ帝国の「国教」(国をあげて信仰する宗教)にまでなったのです。


インフラの建設

 文化では「ギリシアに征服された」といわれるローマ人ですが,政治・行政やインフラ(社会生活の基盤となる施設)の建設といった実務的な分野では,ギリシア人を超える高度なものを生み出しました。

 それを象徴するのが,ローマ帝国の全土に建設された道路網です。

 西暦100年代のローマ帝国には,720万平方キロの領域のなかに,のべ8万キロあまりの公道が整備されていました。石畳などで舗装された道路です。

 この「8万キロ」というのは,1900年代後半のアメリカ合衆国全土(940万平方キロ)における高速道路網の総延長(9万キロ弱)に匹敵します。

 また,水道の整備にも,ローマ人は力を入れました。

 ローマ帝国のおもな都市では,遠くの水源(沼や湖など)から水路をつくって都市に水を供給しました。そのために,ときには水道橋をつくったり,トンネルを掘ったりもしました。これは,ギリシア人がすでに行っていたことを改良し,大規模に行ったのです。

 都市には公共浴場や数多くの水汲み場が設けられ,市民はふんだんに水を使う暮らしができました(一般の家庭ごとに水道がひかれるまでには,なっていません)。

 およそ2000年前の時代になると,それだけのインフラを整備するところまで,文明は進んだわけです。
 当時のローマ人は,そのような「進歩」の先端を担っていました。


帝国の衰退と解体

 ローマ帝国は西暦100年代に最盛期をむかえましたが,その後だんだんと衰退していきました。

 西暦400年代には,帝国の西側の「西ローマ帝国」(イタリア半島周辺)が,内乱や外部からの異民族の侵入で体制崩壊してしまいました。
 
 これによって繁栄の中心は,それまでのイタリア半島から,体制崩壊を免れた帝国の東側の地域(ギリシア周辺)に移っていきます。またギリシアに戻った,ともいえます。

 ローマ帝国の衰退がはじまったころから,繁栄の重心は徐々に東側にシフトしていたのですが,西側の体制崩壊でそれが決定的になりました。

 このいわば「生き残った」は側のローマ帝国は「東ローマ帝国」といいます。

ローマ帝国の東西(赤い線が境界)
東西のローマ帝国
 
 西ローマ帝国の崩壊の一因となった「異民族の侵入」というのは,「ゲルマン人」と一般にいわれる人びとによるものです。

 ゲルマン人は,ローマ帝国が繁栄していた時代には,ローマの人びとからみて辺境の,ヨーロッパの北や東の一画で素朴な暮らしをしていました。しかし,ローマと接することで一定の技術や文化を身につけ,新興の勢力となったのです。

 西ローマ帝国の崩壊後,ゲルマン人はその跡地に,それぞれのグループ(部族)ごとに自分たちの王国を築きました。
 できはじめて最初の数百年,それらの王国は不安定で,さまざまな国がおこっては滅びていきました。その間に,かつて栄えた文化はすっかりおとろえてしまったのでした。


中国とインド

 ここで少しだけ,これまで「四大河文明」のとき以外触れなかった中国とインドについて述べます。
 まず,中国です。

 紀元前1600年ころ(あるいは紀元前2000年ころ)の黄河文明の誕生以来,その文明は周辺に広がっていき,いくつもの国が生まれました。

 そして,紀元前200年(2200年前)ころには,「秦」という国がほかの国ぐにを征服して,今の中国全体に近い範囲をはじめて統一しました。秦の王は自らを「始皇帝」と名乗り,絶対の権威となりました。

 この統一は,現在につながる「中国」の原点といえます。

 しかし秦の支配は十数年の短期で終わり,その後まもなく「漢」という王朝によって,再統一がなされました。「王朝」というのは,「国王や皇帝が支配者である政権」を,そのように呼ぶのです。

漢(前漢)
前漢

 漢王朝はその後(紀元後まもなくまで)200年ほど続きました。
 そして,漢が滅んで別の政権が短期間あったのち,漢王朝を復活したとされる「後漢」という政権もありました。後漢は西暦200年ころまで続いたので,これも含めると,「漢」は400年ほど続いたことになります。
 なお,最初の「漢」のことは,「前漢」ともいいます。

 今の中国人の多数派は「漢族」といいます。中国の文字は「漢字」です。これに象徴されるように,漢の時代は,のちの中国の政治や文化の基礎がつくられた時代でした。

 インドの歴史でも,中国史における秦や漢のような「原点」があります。

 それは,紀元前200年代(2200~2300年前)に,いくつもの国が並びたっていたインドのほぼ全体をはじめて統一した「マウリヤ(王)朝」です。
 しかし,このインド統一は長く続かず,マウリヤ朝は紀元前100年代には滅亡しました。

マウリヤ朝(紀元前200年代)
マウリヤ朝

 その後のインドは,最近の数百年間(1600年代以降)を除き,基本的に「分裂」が続きました。「ほぼ統一」「かなりの部分が統一」という時代もありましたが,全体からみれば,かぎられています。

 中国史でも,秦・漢以降「統一の時代」と「分裂の時代」があります。しかし,インドとちがって,「統一の時代」のほうが長いです。

 しかし「分裂」が続いたとしても,「インド」というひとつの文化的まとまりは維持されたのでした。

 そして,「分裂していて,中小の国の集まり」であったために,その後の歴史のなかで,インドには「世界の中心」といえるような超大国(世界史における「スター」的存在)はあらわれませんでした。

 
西暦100年代の世界

 この章の最後に,ローマ帝国の最盛期だった西暦100年代(1900~1800年前)のユーラシア(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)をみてみましょう。

 この時代には,ユーラシア以外に大きな国は栄えていなかったので,以下の地図は当時の「世界の主要部」を示しています。

西暦100年代のユーラシア
西暦100年代のユーラシア

 西から順にローマ帝国,パルティア(ローマ帝国も征服できなかった強国。今のイランにあたる),インド北西部のクシャナ朝,それから中国の後漢……

 当時の後漢は,ローマ帝国に匹敵する規模の大国でした。この時代以降の中国は,長いあいだ「もうひとつの世界の繁栄の中心」あるいは「中心に準ずる大国」であり続けました。

 そして,もう一度「四大河文明」を示した地図をみてください。

四大河文明
4大河文明

 「文明」のはじまりの時代には,世界のなかで「文明」が栄えていた範囲は,かぎられていたのです。

  しかし,5500年前ころに「最初の文明」がメソポタミアでおこってから3千数百年が経つと(つまり西暦100年代には),ユーラシアの西の端から東の端まで,大きな文明国が連なる状態になったわけです。

 ただし,西暦100年ころには,現代の世界では重要な地域である,日本や東南アジアやヨーロッパの一部(北部や東部)は,まだこの「文明国」の圏内には入っていません(当時の日本は弥生時代)。ユーラシア以外の,アメリカなどの新大陸も,ほぼそうです。

 これらの地域の本格的な「文明化」は,このあとの歴史になります。

(つづく)
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2013年08月13日 (火) | Edit |
 前回に「前口上」で述べました,「1万文字の世界史」の前編です。「夏休み特別企画」の全3回(か4回)。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 「短い」といいながら,ブログの記事としては,かなり長いです(^^;)
 でも,世界史の通史としては,やはり非常に短いのです。


1万文字の世界史(前編)

紀元前3500年(5500年前)~紀元前1000年(3000年前)

最初の文明

 大建築,金属器(青銅器)などを備えた最初の文明は,紀元前3500年(5500年前)ころ,今のイラクにあたるメソポタミアという土地で生まれました。
 そのころに,「シュメール人」という人びとがつくった,大規模ないくつかの都市がメソポタミアにあらわれたのです。

斜線の部分がメソポタミア。点線で囲った部分は「西アジア」(後で述べる)メソポタミアと西アジア


 その代表的なもののひとつにウルクという都市がありました。紀元前3300~3100年(5300~5100年前)ころのウルクの面積は,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほど。土を乾燥してつくったレンガによる建築物が立ち並び,1万人くらいが住んでいたと考えられます。
 今の私たちからみても,堂々たる「都市」です。

 そしてそこには,それだけの人口をまとめる,専門の役人や軍人などを抱えた支配の組織,つまり「国家」といえるものもありました。

 のちに「楔(くさび)形文字」に発展する最古の文字(絵文字)も,メソポタミアで紀元前3200年ころに生まれています。
 ここでは,世界史をメソポタミアの文明から書きはじめることにします。


文明が広がっていく

 紀元前1000年(3000年前)ころまでに,その文明は,メソポタミアの周辺へ広がっていきました。
 西側では,今のシリア・パレスチナ,それからトルコにあたる地域に。
 東側では,今のイランなどに。

 エジプトでは,メソポタミアからやや遅れて,メソポタミアに匹敵する独自の文明が花ひらきました(メソポタミアと同時代とする見方もあります)。

 その後は,もともとは「周辺」的だった,後になって文明が伝わった地域で,メソポタミアなどのほかの地域を支配する強国が生まれるようにもなりました。

 たとえば,今のトルコに中心があり,紀元前1600年代(3600~3700年前)に強大化したヒッタイトという国は,紀元前1500年ころに世界でいちはやく製鉄の技術を実用化しました。そして,そのような技術や軍事の力で,それまでの文明の「中心」であったメソポタミアにある王国を滅ぼしたり,エジプトと戦ったりしたのです。
 

紀元前2000年ころの西アジア
濃いオレンジは,古くから文明が栄えた中心地帯。
黄色は,「中心」と交流のある,後に文明が広がった地域。
西アジアの中心とその周辺


「西アジア」という地域

 ところで,メソポタミアや,ここに出てきた周辺の地域をまとめて「西アジア」といいます。
 この時代(紀元前3500年ころ~紀元前1000年ころ)の西アジアの文明は,のちの世界にたいへん大きなものを残しました。
 
 文字,金属器の量産,車輪を使った装置,何万人もの人が暮らす都市,そして,本格的な支配のしくみをもつ「国家」というもの――そんな,文明の「基本の基本」となるものの多くが,最初にこの地域でおこり,そこから世界の広い範囲に広がったのです。


四大河文明

 その後の多くの文明や国のルーツになった,とくに古い4つの文明を「四大河文明」といいます。「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」――どれも,大河のほとりで生まれました。

(四大河文明)
・メソポタミア文明(今のイラク,チグリス川・ユーフラテス川の流域で発生)発生時期:紀元前3500年ころ~
・エジプト文明(ナイル川)紀元前3100年ころ~
・インダス文明(インド西部,インダス川)紀元前 紀元前2300年ころ~
・黄河文明(中国,黄河)紀元前1600年ころ~(紀元前2000年ころ~という説も有力)


4大河文明

 このうち,メソポタミアとエジプトという西アジアの2つの文明が,ほかとくらべて古いです。西アジアは,世界のなかで「文明発祥の地」といえます。さらにそのなかで,メソポタミアが「最古」だということです。

 「エジプト文明やインダス文明はメソポタミア文明の影響で生まれた」という説があります。たしかに,エジプトはメソポタミアに比較的近いので,影響を受けたとしても不思議ではありません。

 インダス川流域も,メソポタミアとの距離は,エジプトとそう大きくは変わりません。そこで,インダス文明を築いた人たちは,メソポタミアの人びとと交流があったらしいのです。おもに海づたいで行き来があったようです。

 黄河文明については,ほかの文明との関係は,わかっていません。しかし,4つの文明のなかで一番新しいので,先行する文明の影響があったかもしれません。


なぜ西アジアで?  

 では,なぜ西アジアで最初の文明が生まれたのでしょうか。

 それはおそらく,「小麦という,栽培・収穫のしやすい植物が自然状態で生えていた」ことが大きいです。小麦は,西アジアが原産なのです。ほかの地域には,自然には生えていませんでした。
 小麦には,野生でも多くの実をつけ,種をまけば発芽しやすく,成長も早いといった,すぐれた栽培植物になりうる性質がありました。

 小麦の栽培は,1万年あまり前に西アジアではじまりました。世界最古といわれる農耕の遺跡は,西アジアでみつかっています。

 ほかにも,西アジア原産の重要な栽培植物はいくつかあります(エンドウマメなど)。気候に恵まれていることに加え,そのような植物を手近に利用できたからこそ,西アジアでいちはやく農耕がはじまったのです。それは,文明がいちはやく生まれるうえで有利だったはずです。


なぜメソポタミアで?

 そして,西アジアのなかのメソポタミアやナイル川流域で最も古い文明が発生したのは,「大規模な灌漑農業」に適した土地だったからでしょう。

 「灌漑農業」というのは,「雨水だけに頼らず,河川の水を,水路をつくって利用する農業」のことです。

 初期の原始的な農耕は,もっぱら雨水に頼るものでした。しかし,それでは「ほどよく雨が降る」という条件に恵まれた,ごくかぎられた土地でしか農業ができません。灌漑農業ができれば,もっと大規模に,広い範囲で農業ができます。

 そうすれば,より多くの人が集まって住んでも生きていけるだけの,大量の食糧が生産できます。つまり,大きな「都市」をつくるのに必要なだけの食糧が得られるのです。

 もちろん,それには技術が必要です。紀元前3500年前ころに「文明」やその舞台となる「都市」が発生したのは,大規模な灌漑農業が可能なくらいに技術が熟してきたからです。
 それには,農耕のはじまりから数千年の時間がかかりました。
 それだけの技術の蓄積があったのは,「最初の文明」以前の世界では西アジアだけでした。

 「文明発祥の地」であるメソポタミアの南部=チグリス・ユーフラテス川の下流は,もともとは農業にはやや適さない土地でした。雨も少なく,そこを流れる大きな河の水は,高度な技術がないと利用できなかったのです。しかし,水さえ利用できれば,大規模な農業が可能でした。

 そして,それだけの技術を持つ人びとがメソポタミア南部にやってきて,開発をはじめたことによって,「文明」や「都市」が生まれたわけです。

 メソポタミアの南部では,紀元前5000年(7000年前)ころから一定の灌漑農業がおこなわれていました。その灌漑農業の担い手が,シュメール人であったかどうかは,はっきりしません。別の人たちであった可能性もあります。シュメール人が,メソポタミア南部に,いつ・どこからやってきたのかは,わかっていないのです。



紀元前1000年(3000年前)~西暦500年

ギリシアの文明のはじまり

 西アジアの技術や文化は,今のトルコから海をわたって西のとなりにあるギリシア周辺にも伝わりました。そして,紀元前2000年(4000年前)ころには,青銅器や大きな宮殿を備えた「文明」が栄えるようになりました。

 このギリシアの文明は,「地中海沿岸」という地域ではじめての「文明」でした。

 ギリシアの周囲には,「地中海」という,陸地に囲まれた海がありました。地中海沿岸の人びとは,海を行き来して互いに密接に交流していました。そこで,「地中海沿岸」をひとつのまとまった地域と捉える見方があるのです。

メソポタミアとギリシャ

 その後,ギリシアでは1000年余りのあいだ,いくつもの国の興亡や,そこに住む中心的な民族の入れ替わりなどの紆余曲折がありました。

 とくに,紀元前1200年(3200年前)ころからの数百年間,ギリシアは大混乱に陥りました。
 その原因や実態はよくわかっていませんが,その数百年で,それまで使われていた文字が忘れられてしまうほど,ひどいことになっていたようです(ただしその間に,鉄器を使用するようになる,といった「進歩」もありました)。

 しかし,紀元前800年(2800年前)ころから「ポリス」という,都市を中心とする国家がギリシア各地に成立してからは,安定するようになりました。代表的なポリスとしては,「アテネ」「スパルタ」といった国があります。

 そして,失われた文字にかわって新たな文字もつくられました。それが,「古代ギリシア文字」です。この文字は,その後の欧米のアルファベット(ABC…)の原型になりました。


ギリシアの遺産

 その後,ギリシアのポリスは急発展し,紀元前500年代から紀元前300年代にかけて最盛期をむかえました。
 そして,後世に大きな影響をあたえる画期的な文化が花ひらきました。

 科学や哲学は,その代表的なものです。
 ギリシア人以前にも,西アジアなどの文明の発展した地域では,一定の学問的知識といえるものはありました。ギリシア人も,最初は西アジアの学問に学んだのです。
 そもそも,ギリシアの文字だって,もともとは西アジア(シリア周辺)のフェニキア人という人びとの文字をもとにしてつくったのです。

 紀元前500~600年代(2500~2700年前)の,高度な文化を築きはじめたころのギリシアの文化人のなかには,エジプトへ行って学問を学んだ人がかなりいました。

 たとえば,教科書にも出てくる,古代ギリシアの「ソロンの改革」(紀元前600年ころ)を指導した,ソロンというアテネの政治家は,エジプトに行って法律を学んだことがあるのです。そして,それを彼の政治改革に生かした,といいます。

 さきほどの,西アジアとギリシアの位置関係を示した地図をみてください。ギリシアとエジプトというのは,じつは海(地中海)をはさんで「となり」どうしなのです。鉄道や自動車以前には,遠い距離の移動は,陸路より海路のほうが,たいていは便利でした。
 ギリシア人は「となり」にある,古くからの文明国に学んだわけです。

 しかし,もともとは西アジアの学問に学んだとはいえ,それよりもはるかに深い論理や体系性,豊富な情報というものがギリシアの学問にはあります。

 ギリシア人は,それまでの歴史の遺産を受け継ぎながら,それを大きく超えるものを生み出したのです。

 ギリシアの科学や哲学は,あとでみるように,ローマ→イスラム→ヨーロッパと受け継がれていきました。のちにヨーロッパで起こった近代科学は,こうしたギリシアの学問の伝統のうえに立っています。

 それから,社会の多数派の人びとが政治的な意思決定に参加するというしくみ――民主制(民主主義)にかんする考え方も,ギリシア人が残した大きな遺産です。
 
 また,紀元前500年代(2500~2600年前)のギリシアでは,世界ではじめて貨幣(コイン)が本格的に使われるようにもなりました。

 貨幣の製造じたいは,今のトルコ(ギリシアの西のとなり)にあったリディアという国で,紀元前600年代にはじまりましたが,それほど普及しませんでした。ギリシア人は,それを取り入れてさかんに使いはじめたのです。
 貨幣以前には,金・銀の粒やかたまりの重さをその都度はかって,その価値に見合う商品と交換する,といったことが行われていましたが,コインのほうが,ずっと便利です。

 貨幣が普及するというのは,それを必要とするだけの発展した経済が,ギリシアにはあったということです。そして,貨幣の使用によって,さまざまな売買・取引がさかんになり,経済はさらに発展しました。


ペルシア戦争,アレクサンドロスの帝国

 紀元前400年代(2400~2500年前)には,アテネを中心とするポリスの連合軍が,当時の西アジアで最大(世界でも最大)の国だったペルシア帝国と戦争して勝利しています(ペルシア戦争。ペルシアは今のイランにあたる)。
 といっても,敵国を征服したのではなく,特定の合戦で勝利して敵を撃退した,というものです。これは,当時のギリシアの勢いを示しています。

青い線:ギリシアの勢力範囲  赤い斜線:ペルシア帝国(紀元前400年代)
ほかの国は省略している。
ギリシャとペルシア帝国

 さらに,紀元前300年代には,ギリシア人の一派のマケドニア王国にアレクサンドロスという強力な王があらわれ,急速に勢力を拡大しました。

 マケドニアは,アレクサンドロスの先代の王のとき,いくつものポリスに分かれていたギリシア全体を支配するようになりました。
 さらにアレクサンドロスの時代には,西アジアのペルシアやエジプトなどにも遠征して勝利し,これらの地域を支配下におく大帝国を築きました。「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

アレクサンドロスの帝国
要するに,ほぼ「ギリシア+ペルシア帝国」である。
アレクサンダーの帝国

 つまり,もともとは西アジアよりもずっとおくれて「文明化」したギリシアが,古くからの「文明の中心」である西アジアをのみ込んでしまったのです。
 世界の繁栄の中心は,メソポタミアやエジプトなどの西アジアからギリシアに移ったといえるでしょう。

 ただしこの帝国は,アレクサンダーの死後まもなく分裂してしまいました。しかしその後も,西アジアから地中海沿岸(今のギリシア,イタリアなど)の広い範囲で,ギリシア人(あるいはギリシア文化)の優位は続きました。


「となり・となり」という視点

 これまでみてきたように,最初の文明がおこって以来,2000~3000年ほどのあいだに,文明の分布の範囲は広がっていきました。
 そして,その時代に最も栄えた国=文明の繁栄の中心といえる場所も,最初の文明がおこった西アジアから,その西側のギリシアに移動していったのです。
 「移動」といっても,「人が移り住んだ」ということではなく,「繁栄がある国から周辺の別の国に移った」ということです。

 その繁栄の「移動」は,何百キロ,あるいは千キロ以上の移動で,日常感覚では「遠い」のかもしれません。でも,世界の広い範囲を大きくみわたして考えれば,「となり」といっていいような距離です。

 世界史をみわたすと,そういう意味での「となり」へ「繁栄の中心」が移っていくことが,くりかえされてきました。
 繁栄の中心がそれまでの場所から,その周辺=「となり」へ移り,その後何百年か経つと,さらにその「となり」へと移っていく――そんなことが起こってきたのです。

 「となり・となり」で,「中心」が移っていくわけです。
 これから先も,それをみていきます。
 
 「となり・となり」という視点で世界史をみわたすと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しやすいものになるはずです。

(つづく)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月11日 (日) | Edit |
 これから,今回も含め3回くらいで,「1万文字の世界史」というのを載せたいと思います。
 世界史の大きな流れを1万文字(1万数千文字)でたどるというものです。
 短編小説や論文一本程度の長さ。

 それで世界史の全体像をみわたしたいと思います。

 本1冊というのは,最低でも5~6万字くらいでできています。多くは10万~20万文字です。1万文字はその数分の1以下です。世界史を扱うには短すぎると思うかもしれません。
 たしかに,その分量ではくわしいことは説明しきれません。

 しかし,1万文字なら,いっきに読むことができます。
 いっきに読めれば,全体像が伝わりやすいです。教科書や多くの解説書ぐらいのボリュームだと,こうはいきません。
 ここではとにかく「全体の流れはこうなっている」ということをお伝えしたいのです。
 その目的に,「1万文字」はかなっています。

 「1万文字」のなかには,いろんな国や地名が出てきます。
 でも,固有名詞がアタマに残らなくてもかまいません。

 このシリーズではこれまで,「〈世界史における繁栄の中心の移りかわり〉を追いかけていくと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しがきくようになる」と述べてきました。

 そこで,「世界史におけるおもな大国の,繁栄の順序と位置関係」に焦点をあわせて述べていきます。

 とにかく,「繁栄の中心は,移り変わってきた」ということと,それが「となり・となり」になっている,ということをみてもらえればいいのです。

 だから,年代についてはできるだけ書きませんし,そのほかの具体的な中身にもあまりふみ込みません。たとえば,ある国や民族がなぜ栄えるようになり,また衰退していったか?といったことの具体的な事情や経過には立ち入りません。

 読んでいるうちに,「ほんとうなのか?」「なぜなんだ?」といった疑問も出てくるかもしれません(よかったら,ぜひコメントなどで突っ込んでください)。
 とくに大きな論点については,別の機会に(このシリーズの今後の展開で)述べます。まずは,数千年前から現代までの話がひととおり終わってからです。

 それから,断っておきたいのは,話のスケール感です。
 これからの話では,「しだいに」「やがて」というのが数百年の時間の経過をあらわしていたり,「となり」というのが,千キロ離れた場所だったりします。
 数千年の世界史をかぎられたページで述べると,そうなってしまうのです。

(以上,つづく)
2013年08月07日 (水) | Edit |
図や絵

 図や絵を描いて考えるのが,結構好きです。
 上の写真は,世界史関連でここ数年のあいだに描いた図の,ほんの一部です。

 A5サイズのコピー用紙に,水性ボールペンやサインペンや色鉛筆で描きます。
 「5×3カード」という,手帳サイズのカードに描くこともあります。

 前回の記事などで紹介した,世界史の地域区分を整理した「カンタン世界地図」も,こんな感じで何十枚と描くうちにできました。

 でも,描いた図のほとんどは,誰にもみせずにしまい込んだままです。

 「こんな手描きの図なんて,人にみせるのは恥ずかしい」という気持ちがありました。

 もうちょっと整えて,できればグラフィックソフトなどできれいにつくり込んでからでないと,いかにも貧相ではないか。
 でも,そういうソフト,使えないしなあ…

 しかし,このところ,自分の手描きの図のいくつかをスキャンしてブログにアップしてみた結果,考えが変わりました。

 ラフな手描きの図でも,伝えたいことは十分伝えられるのではないか。

 手描きは手描きで,それなりの味わいもあるじゃないか。

 それに,こういう「電子化」の世界は,カラーが自由に使えていいです。
 紙に印刷して人に配るときは,カラーはコスト的にきびしいことも多いけど,ブログにはそういう制約がありません。
 私の場合,サインペンによるカラーの世界を,存分に展開できます(^^;)

 以上のことを,実感しました。
 これまでの「変な思い込み」から,自由になったわけです。

 これからは,さまざまな「手描きの図」を,もっと載せていきたいです。

(以上)
テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月06日 (火) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの7回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 今回は,「世界史のまえおき」的な話。
 前回にひきつづき,「世界史の地域区分」についてです。
 世界史の地理的なことを,ざっくりつかむための話です。


となり・となりの世界史 7

2.世界史のまえおき

●ヨーロッパとは何か

ヨーロッパの「条件」

 前回,「世界史において地域区分は重要だ」と述べました。それは,世界史をイメージするうえで大切な「地名の整理箱」だ,と。
 そして,世界史における「地域区分」の案を示しました。下の図がそうです。
 一番下の模式化した図は,「カンタン世界地図」といいます。私のオリジナルです。

世界史の地域区分1

 これを,このように模式化する。
カンタン世界地図・途中経過

 そして,モノクロにしてしまう。色はじゃま。
カンタン世界地図

 今回は,以上の地域区分の中の「ヨーロッパ」(西ヨーロッパと東ヨーロッパ)について述べます。

 ヨーロッパは,やはり重要な地域です。古くはローマ帝国が栄え,「産業革命」発祥の地で,現在も世界の「繁栄の中心」のひとつです。だから,とくにとりあげたいのです。
 また,ヨーロッパという事例をとおして,「地域区分」全般に通じる考えかたについて述べておきたい,ということもあります。

 そもそも「ヨーロッパ」とは何なのか?

 地理学者のジョーダン夫妻によれば,ヨーロッパとは,《住民がキリスト教徒で,インド=ヨーロッパ諸語を用い,ユーロポイドの身体的特徴を示す》地域なのだといいます(『ヨーロッパ 文化地域の形成と構造』二宮書店)。
 ただし,これはアメリカなどの新大陸は除きます。

 「インド=ヨーロッパ諸語(語族)」というのは,言語学上の分類です。ヨーロッパ諸国の言語は単語や文法にいろいろ共通性があり,それはインド北部の言語とも共通するので,こういう呼び方をします。

 「ユーロポイド」というのは,いわゆる白色人種のことです(コーカソイドともいいます)。

 以上を箇条書きでまとめると,こうです。

 (ヨーロッパの三条件)
 1.住民の多数派がキリスト教徒
 2.一般にインド=ヨーロッパ語族の言葉が用いられる
 3.住民の多数派がユーロポイド


 こういう要素が重なって存在するのは,ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線よりも西側の地域です。そこが「ヨーロッパ」というわけです。

 地図で示すと,以下のようになります。
 青い斜線の部分が,上記の「ヨーロッパの三条件」のすべてを備えている範囲。
 むらさきの線は,「ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線」です。この線よりも西側を,さきほど示した「地域区分」の案では,東西のヨーロッパとしました。

 なお,青い斜線の一部が,むらさきの線を大きく超えて日本の近くまで伸びています。これはこの数百年の比較的新しい時代に,ロシアが東へ領土拡大していったことで,こうなったのです。

「ヨーロッパ」の範囲
「ヨーロッパ」の範囲
T.G.ジョーダン=ビチコフ,B.B.ジョーダン『ヨーロッパ』二宮書店 による

 また,上の地図でむらさきの線の東側の地域のなかに,青い斜線でない部分がありますが,これはフィンランドとハンガリーです。これらの国は,キリスト教とユーロポイドが主流ですが,言語がインド=ヨーロッパ語族ではないのです。フィンランド語とハンガリー語という,「ウラル語族」に分類される言葉が使われています。

 さて,「ヨーロッパの条件」としてとくに重視されるのは,キリスト教です。先ほどのジョーダン夫妻も《ヨーロッパを定義する人文的特性のうち,最も重要なものはキリスト教である》と述べています。

 「ヨーロッパ」とは,「ユーラシアのなかの,キリスト教徒が多数派である地域」といってもいいのです(ほかに南北アメリカ大陸でも,キリスト教徒は多数派です)。


ヨーロッパの西と東

 そして,キリスト教には2つの大きな宗派があります。
 「カトリック系」と「東方正教系」です。

 「プロテスタントは?」と思う人がいると思いますが,プロテスタントはカトリックから枝分かれしたものなので,ごく大まかにいえば「カトリック系」なのです。

 キリスト教の宗派はほかにもありますが,この2つが圧倒的です。

 そして,ヨーロッパはこの宗派の分布にもとづいて,大きく2つに分けることができます。
 カトリック系(プロテスタント含む)が主流の西側の地域と,東方正教系が主流の東側の地域。
 「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」です。「西欧」「東欧」ともいいます。

ヨーロッパの西と東
(カトリック,プロテスタント,東方正教会の分布)

キリスト教の西と東 (2)
『ヨーロッパ』二宮書店 による

 カトリック系が主流なのは,イタリア,スペイン,フランスなどです。
 ただし,同じヨーロッパの西側でも,北部のほうのドイツ,イギリスなどでは,プロテスタントが主流です。

 東方正教系が主流なのは,ギリシア,旧ユーゴスラビア,ブルガリア,ロシアなどです。

 カトリックには,「ローマ法王」というトップがいます。各地のカトリックの教会は,最終的にはローマ法王の権威に従います。

 プロテスタントは,カトリックの中から生まれました。ローマ法王の指揮から離れて独自の道をいく人びとが,新しい宗派をつくったのです(西暦1500年代のことです)。「プロテスタント」とは,「(既存の教会に)抗議する人たち」という意味です。

 東方正教のトップには,伝統的に「コンスタンティノープル総司教」という存在があります。
 ただし,現在はローマ法王のような権限はありません。ギリシア正教の教会は,地域や国ごとの独立性が強いです。
 「地域ごと」という点は,プロテスタントも同様です。プロテスタントでは,カトリックのようにはっきりした頂点があるわけではないのです。


言語もちがう西と東

 ヨーロッパの西と東のちがいは,宗教だけではありません。言語もちがいます。

 西ヨーロッパの言語は,「ラテン語派」と,「ゲルマン語派」という系統が主流です。
 
 イタリア語,フランス語,スペイン語は「ラテン」で,英語やドイツ語は「ゲルマン」です。
 一方,東ヨーロッパは「スラブ語派」(ロシア語,ポーランド語など)です。

 これらの「〇〇語派」というのは,「ヨーロッパの定義」で出てきた,「インド=ヨーロッパ語族」のなかでの分類です。

 このように地域区分には,「宗教や言語にもとづいて分ける」というやり方があります。
 宗教も言語も,「文化」のだいじな要素です。そこに共通性があれば,文化のいろいろな面で共通性があるはずです。
 逆に,大きく異なっていれば,文化全般の異質性も大きいはずだ,と考えるのです。

 このように「地域区分」には,一定の根拠があります。
 勝手に線引きしたのではない,ということです。

 
カトリックと東方正教の成立

 2大宗派ができた経緯についても,少し述べておきます。そこには,ローマ帝国の分裂・崩壊ということが関係しています。

 キリスト教は,2000年ほど前にローマ帝国のなかで生まれた宗教です。
 その後,帝国のなかで広く普及し,西暦300年代には国をあげて信仰する「国教」になりました。そのころには,カトリックや東方正教という宗派はまだありません。

 そのもとになるグループはありましたが,完全に分裂してはいませんでした。それぞれのグループは,考え方にちがいはあっても,教義についての統一見解をまとめるために話し合ったりしていたのです。

西暦100年代(1900年前)のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
一番西側の大国がローマ帝国。当時が最盛期。

西暦100年代のユーラシア

 その後ローマ帝国は衰退し,西暦400年代には帝国の西側の地域で体制崩壊がおこりました。2つの(完全に分裂した)宗派は,それから数百年のうちにできていったのです。

 「帝国の西側」というのは,「西ローマ帝国」といいます。今のイタリア,フランス,スペイン,ドイツ,イギリスなどを含む地域です。

 西ローマ帝国だった地域では,体制崩壊のあともキリスト教が信仰され続けました。そのなかでカトリックという宗派は生まれたのです。

 そして,この地域に新しく生まれた国ぐにで定着していきました。それらの国のいくつかは,現在の西ヨーロッパ諸国につながっていきます。

 一方,ローマ帝国の「東側」というのもあります。ギリシア,ハンガリー,ブルガリアなどの地域です。こちらは,西ローマ帝国の崩壊以後も,帝国の体制が後の時代まで残りました。
 これを「東ローマ帝国」といいます。この国は,衰退しながらも1400年代まで存続しました。

 東方正教は,東ローマ帝国のなかで生まれた宗派です。そして,帝国とその周辺へ広がっていきました。「コンスタンティノープル大司教」のコンスタンティノープルは,東ローマ帝国の首都です。

 ローマ帝国の「西側」と「東側」は,西ローマ帝国の崩壊以後,互いの交流も減って,別々の道を歩みました。 その結果,それぞれのキリスト教を信仰する「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」ができていったのです。


現在の経済状態のちがい

 そして,ヨーロッパの西と東のちがいは,文化的なものだけでもありません。
 現在の経済の状態にも差があります。
 「地域」がちがうと,いろんなことがちがうのです。だから,区分する意味があるわけです。

 今現在,経済発展がすすんでいるのは,西ヨーロッパのほうです。イギリス,フランス,ドイツ,イタリアなど,世界の「主要先進国」といえる国は,ヨーロッパではどれも「西」にあります。

 「東」には,「先進国」と明確にいえる国は,今のところありません。

 「ロシアはどうなの?」と思うかもしれませんが,イギリスの1人あたりGDPが3万6000ドル,ドイツが4万ドルであるのに対し,ロシアは1万ドル(2010年)です。経済の発展度は,西ヨーロッパの先進国にくらべるとまだまだです。

 EU(ヨーロッパ共同体)は,発足当初の1990年代は西ヨーロッパの国ぐにだけで構成されていました。経済発展のすすんだ先進国どうしで集まったのです。

 その後,2000年代に入ると東ヨーロッパのなかで経済発展のすすんだ国(ポーランド,チェコ,スロバキアなど)もEUに加わりました。しかし,EUが西ヨーロッパ中心であることは,今のところ変わりません。

                        *

 このようにヨーロッパは「キリスト教の2大宗派」という視点で西と東に分けることができます。しかし,カトリックが主流でも「東」に含めるのが一般的な国もあります。ドイツの東どなりにあるチェコやポーランドなどはそうです。

 これとは逆のパターンがギリシャです。東方正教が主流でも,「西」に含めることが多いです。

 それぞれ,それなりの理由があるのですが,ここでは立ち入りません。
 地域区分には,このような「微妙なケース」というのが常にあるのです。

(以上,つづく)
 
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月05日 (月) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの6回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 今回は,「世界史のまえおき」的な話。
 「世界史の地域区分」についてです。
 世界史の地理的なことを,ざっくりつかむための話です。


となり・となりの世界史 6

2.世界史のまえおき

●地域区分と「カンタン世界地図」

地域区分という発想 

 世界史をみわたす話に入る前に,「まえおき」として説明しておきたいことがあります。

 それは,地理の話です。
 世界地理の感覚が全然ないと,やはり世界史はわからないし,楽しめません。

 くわしい知識は要りませんが,「ヨーロッパってどこだっけ?」「ユーラシアって何?」というのでは,やはり困ります。

 多くの世界史の本は,教科書も含め,「基本的な世界地理を読者は知っている」という前提で書かれています。しかし,じっさいには出てくる地名などにとまどう人は多いです。

 たとえば「メソポタミア」とか「西アジア」とかいわれても,あまり聞いたこともないし,どのへんかもわらない。そういうことばかりだと,世界史の話はイヤになります。それはなんとかしないといけません。

 とくにこのシリーズでは,「となり・となり」といった視点で,世界史上の国ぐにの地理的な位置関係に注目して話をすすめていくのですから,なおさらです。

 世界史をみわたすための地理としては,「世界全体をいくつかの地域に分ける」という,地域区分の考え方が重要です。

 ここで「地域」というのは,いくつもの国を含むような広い範囲です。
 世界の国ぐにを地理的にいくつかのグループにまとめたのが,「地域区分」です。

 たとえば,これまで出てきた「ヨーロッパ」とか「西アジア」というのは,そのような地域区分です。

 なぜ,そこをひとつの「地域」だと考えるのか?

 歴史的にその地域内の国ぐにや民族のあいだで,とくに深い交流があったからです。

 この「交流」というのは,平和的なものだけでなく,戦争も含みます。
 場所・時代によっては,その地域のほぼ全体が,ひとつの大きな国として統一されていたケースもあります。その結果として,「地域」のなかでは,ほかの地域と区別される共通の要素がいろいろとみられるのです。

 たとえば,長いあいだ密接な関係を続けてきた中国,日本,韓国・朝鮮は,ひとつの「地域」だといっていいでしょう。
 これらの国ぐにのあいだでは,「漢字」のような,よその地域にはない共通の文化もいろいろあります。ここは,「東アジア」と呼べばいいと思います。

 このような,複数の国を含むまとまりが世界にはいくつかあるわけです。また,大きな川や山脈や砂漠などが,地域を分ける自然の境目になっていることもあります。


世界史の地域区分

 では,世界はどのような「地域」に分けられるのか? おおざっぱな区分を,つぎに示しておきます。

 世界史の地域区分世界史の地域区分1

 まず,ヨーロッパからアジアにかけての「ユーラシア」とか「旧世界」といわれる範囲。

①西ヨーロッパ(ドイツ,イギリス,フランス,イタリア,スペイン,北欧諸国など)

②東ヨーロッパ(ロシア,ポーランド,チェコ,ハンガリー,ウクライナ,ルーマニアなど)

③西アジア(イラク,イラン,トルコ,サウジアラビア,シリアなど。エジプト,アルジェリアなど北アフリカも含む)

④中央アジア(カザフスタン,アフガニスタンなど)

⑤南アジア(インド,パキスタン,バングラデシュなど)

⑥東南アジア(ベトナム,タイ,マレーシア,インドネシアなど)

⑦東アジア(中国,日本,韓国・朝鮮など)


 ①~⑦の地域に含まない,別扱いの範囲もあります。
 まず,ユーラシア大陸の高緯度地帯を中心とする,乾燥した「草原・砂漠地帯」。
 それから,さらに北方の「寒冷(ツンドラ=凍土)地帯」。
 これらは人口密度の低い地域です。とくに寒冷地帯は,より無人に近いです。

 以上の西ヨーロッパから東アジアまで(ヨーロッパ+アジア)を含む範囲を,「ユーラシア(ユーラシア大陸)」といいます。ただし,エジプトなどがあるアフリカの北部(サハラ砂漠より北側)も,「西アジア」の一部としてユーラシアに含めて考えることにします。

 ユーラシアのことを,「旧世界」ともいいます。「古くから文明が栄え,多くの国ぐにが興亡した(おこったり滅びたりした)地域」というニュアンスを込めたいい方です。

 これに対し,「新世界」というのもあります。
 南北アメリカ大陸,サハラ砂漠より南側のアフリカ,オーストラリアなどのオセアニアをまとめて,そう呼ぶのです。
 その大部分は比較的新しい時代になって,多くの人が住むようになったり,国ができたりした地域です。アフリカは「旧世界」に含めることが一般的ですが,ここで述べる意味での「新世界」に含めたほうがよいと考えます。

 新世界の地域区分はつぎのとおりです。

⑧北アメリカ(アメリカ合衆国,カナダ)

⑨ラテンアメリカ(中南米ともいう。メキシコ,ブラジル,アルゼンチン,チリなど)

⑩アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ諸国)

⑪オセアニア(オーストラリア,ニュージーランドなど)


 また,いくつかの「海」についても知っておいてください。 「大西洋」「インド洋」「太平洋」それから,上記の地図には描ききれませんでしたが,「地中海」。地中海は,西ヨーロッパと西アジアに囲まれた海です。


地名の整理箱

 地域区分は,「どう分けるか」について,さまざまな見解があります。
 「これだ」という決定版があるわけではなく,ここで示したものも,ひとつの案にすぎません。それでも,いろいろな説をふまえてはいますので,入門としては十分役立つでしょう。

 それから,こういう区分ではこまかいことは気にしなくていいです。各地域のおおまかな位置や範囲のイメージが持てればいいのです。

 ただ,そこに含まれる代表的な国は,いくつかおさえておきましょう。
 たとえば「西ヨーロッパ」であれば,イギリス,ドイツ,フランスなどがある,といった具合です。

 また,世界のところどころには,どちらの「地域」に含めるべきか迷うような微妙な場所もあります。「地域区分」というものは,そこを承知であえて線引きをしているのです。

 地域区分は,いわば「地名の整理箱」です。
 それは,世界史をイメージしやすくする道具のひとつなのです。


 たとえば,「シリア」という地名が話にでてきだけど,よく知らなかったとします。
 でも,地域区分の知識があると,「それは西アジアだ」といわれればだいたいの位置がわかります。

 さらに知識があれば,「西アジア」全般に通じる特徴をいくつか思いつくでしょう。乾燥した気候,イスラム教が多数派であること等々……

 そういうイメージがあると,世界史の話はアタマに入りやすくなります。
 地域区分は,そのイメージづくりの手助けになるのです。


簡略化した世界地図=カンタン世界地図

 さらに,「地域区分」をマスターするコツがあります。それは,つぎのページのような図を使うことです。各地域の位置関係を模式図で示したものです。

 つまり,こうです。
 まず,これがさっき示した地域区分の地図。
世界史の地域区分1

 これを,このように模式化する。
カンタン世界地図・途中経過

 そして,モノクロにしてしまう。このように模式化してしまうと,色はかえってじゃまです。
カンタン世界地図

 この図は「カンタン世界地図」とでも名づけましょう。

 地理というのは,精密な地図をみるのもいいのですが,一方でこのような簡略化したイメージを頭に描くことも大事です。 

 この地図にあらわされているのは,かぎられた情報です。しかし,世界の地域区分や位置関係を把握するうえで重要な情報が入っています。余計な情報をそぎおとして,肝心のことだけを伝えている,ともいえます。

 これをおぼえて,何も見ずに自分で描けるようになるといいです。

 これは,自分で描くための地図なのです。
 カンタンな地図だからこそ,それができます。
 これが描けるなら,世界史の地域区分について,肝心の部分はつかんだということです。

 こういう簡略化には,いろんなサジ加減があります。もっと抽象的な図にもできれば,逆にもう少しくわしい図にすることもできます。

 しかし,ここで示したくらいの簡略化が多くの人に「ちょうどいい」と,私は考えています。

(以上,つづく)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月28日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの5回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 5

1.夜の地球儀の世界史

となりとなりの法則

(これまでの話)

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。
 「都市の灯り」=「文明の分布」といってもいいです。

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体


 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。
 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸。

夜の地球儀・北アメリカ

 そして,ヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港など。

夜の地球儀・東アジア

 では,2000年前の「光」=「文明の分布」は,どうだったのか?
 電灯もなかった2000年前には,今のような強い光を放つ都市はありませんでした。しかし,「超高感度」のカメラで当時の「夜の地球」を撮ったら,どのへんに「光」が集まっていたでしょうか?

 現代と2000年前では,「光」の分布はかなり異なっていました。

 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 さらに2000年さかのぼって,今から4000年前(紀元前2000年)の世界では,「光」=「文明」の分布はさらに変化しています。

 「光」のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
4000年前のユーラシア

 さらに,2000年さかのぼって6000年前になると,「光」の点は,ほとんどみえなくなります。
 しかし,5500年前になるとメソポタミア(今のイラク。チグリス川とユーフラテス川の沿岸)に小さな点がみえます。世界最古の本格的な「文明」とされる,大きな都市は,およそ5500年前にメソポタミアで誕生しました。

5500年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
5000年前の光の1点


光の変化の傾向

 ここまで,「夜の地球儀」をながめながら,現在や過去の世界をみわたしました。
 現在,2000年前,4000年前,6000年前の,夜の地球における「光」=文明が繁栄している場所をみてきたのです。
 非常にざっくりとですが,「文明のあけぼの」以来の世界史6000年を,ある側面からみわたした,といってもいいです。

 すると,そこに一定の傾向がうかびあがってこないでしょうか? 

 それは,つぎのようなことです。

(1)光の集まる場所は,時代とともに変化する。
(2)光の明るさは,だんだん強くなっている。
(3)光の分布する範囲は,だんだん広がっている。


 第1の「光が集まる場所の変化」。これは,「繁栄の中心は時代とともに移り変わる」ということです。ここはこのシリーズのの最大のテーマなので,あとでまた述べます。

 第2の「光が強くなっている」という点。
 これは,「文明の進歩」を示しています。
 
 「都市の明かりの強さ」は,その時代にどんな文明の利器があり,どれだけ普及していたかによって決まります。その時代の技術や生活を象徴しているのです。
 ほかにも象徴になるものはあるでしょう。明かりはそのひとつということです。

 これまでに述べてきたことを振り返り,整理してみます。

 1900年代以降,照明がそれまでのオイルランプから電灯になったことは,「文明の進歩」です。

 同じように,4000年前には貴重だった夜の明かりが2000年前の先進国では日常的なったのも,文明の進歩です。それだけ多くの燃料や器具が生産され,人びとにいきわたるようになりました。これは,技術の進歩のおかげです。

 世界史上の技術の進歩には,いくつかの大きな「波」があったことも,前に述べました。現代に近い順で,「産業革命」「鉄器の普及」「青銅器時代の革新(文明のあけぼの)」です。

 「照明の進歩」にかぎっていえば,産業革命は,電灯の時代をもたらしました。
 鉄器の普及は,ランプによる夜の明かりを日常的なものにしました。
 青銅器時代の革新は,その後何千年も使われる,ランプ(オイルランプ)という道具を生みました。

 オイルランプの発明…4000~5000年前。文明のあけぼの
 オイランプのさらなる普及・日常化…2000~3000年前。鉄器の普及
 ランプから電灯へ…産業革命以降
 
 こうした進歩のたびに,都市の明かりはより強いものになっていったのです。
 
 第3の「光の分布範囲が広がっている」という点。
 「光の範囲」は,その時代なりの進んだ「文明」がある場所です。先進国か,それに近い生活が行われている地域。それが,時代とともに広がっている,ということです。

 「文明」とか「進んでいる」ということの中身は,時代によってちがいます。
 4000年前の世界では,大きな建造物があり,文字や金属器が使われているのが,進んだ「文明」でした。
 そのような地域は,ごくかぎられていました。前にみたように,メポソタミアとエジプトの周辺,インダス河の流域くらいです。

 2000年前になると,文明の栄える範囲はかなり広がりました。
 ローマ,パルティア,インドの王国,中国の漢といった大国が,ユーラシア大陸の広い範囲に連なっていたのです。

 現代の世界はどうでしょうか? 

 先進国の分布は,散らばってはいますが,さらに広範囲になっています。
 ユーラシア大陸だけでなく,北アメリカや日本にも繁栄の中心があるのです。

 さらに,先進国を追いかける「新興国」が,世界じゅうにあります。東南アジア諸国,中国,インド,ロシア,トルコ,南米のブラジル,南アフリカ,それから東ヨーロッパのいくつかの国ぐに……。

 新興国の工業製品は,世界で売り上げを伸ばしています。その大都市へ行くと,高層ビルがたち並び,クルマがあふれかえり,人びとはケータイやスマホを片手に歩いています。まだ先進国におよばないところがあるにせよ,それに近い暮らしがあるのです。

 現代の「夜の地球儀」には,先進国の光とは別に,ぽつぽつと明るい点がみえます。
 これは,新興国の大都市の明かりです。この明かりは,周囲から孤立しています。新興国では大都市と地方の格差が大きいので,「光」に広がりがないのです。

 こういう孤立した大都市の明かりは,あちこちにみられます。アジアにも南米にもアフリカにもあります。
 たとえば,タイのバンコク,ブラジルのサンパウロ,南アフリカのヨハネスバーグ……

 散らばったかたちではありますが,今の世界では,これまでのどの時代よりも,文明の「光」が広い範囲に存在しているのです。


繁栄の中心のうつりかわりに注目

 以上3つの点のうちとくに,「第1」の点に注目したいと思います。

 「光の集まる場所=繁栄の中心は,時代とともに移り変わる」ということです。

 ここにトコトン注目すると,世界史はすっきりしたものになります。
 ひとつのつながった物語になるのです。
 これがこのシリーズの中心テーマです。

 今の教科書の世界史は,ぜんぜん「すっきり」していません。「ひとつの物語」にもなっていません。
 
 とにかく,話があっちへ行ったりこっちへ行ったりします。

 それまでローマ史をやっていたのが,つぎの章からはインド史や中国史になる。
 そのときはたいてい,時間が逆戻りします。西暦400年代のローマ帝国のつぎが,紀元前のどこかの話だったりするのです。

 そして,ぼう大な国名や人名や年号のオンパレード。

 とにかく,いろんな地域や国について,「あれもこれも」と教えようとする。
 ほとんどの生徒は消化しきれません。たぶん先生も消化しきれないでしょう。

 しかし,「繁栄の中心は,時代とともに移り変わる」という視点で世界史を書けば,こうはなりません。
 時代とともに移り変わっていった「繁栄の中心」を順番に追いかけていくのです。
 そうすれば,あちこちへ飛ぶことなく,一本の線をたどることができます。


となり・となりの法則

 しかも,その「移り変わり」には,わかりやすい法則性があります。
 どんな法則でしょうか? 

 それは,「繁栄の中心は,となり・となりで移動していく」というものです。

 名付けて 「となり・となりの法則」。それは,こういうことです。

・世界史における繁栄の中心は,時代とともに移り変わる。

・新しい繁栄の中心は,「中心」の外側にあって,しかしそんなに遠くない「周辺」の場所から生まれる。周辺の中から,それまでの中心にとって替わる国や民族があらわれる。世界史は,そのくりかえし。

・だから,繁栄の中心が新しい場所へ移るときは,遠く離れたところではなく,世界全体でみれば「となり」といえるような,比較的近いところへの移動となる。つまり,「となり・となり」で動いていく。


 これから,この「法則」にかかわることを,このシリーズの全体をとおして掘り下げていきます。

 世界史をみわたすと,じっさいに「となり・となりの法則」のとおりになっています。
 これから,それをみてみたいと思います。
 こういう話は,理屈をあれこれいうよりも,歴史の事実をみていくほうが早いです。

 つまり,世界史における「繁栄の中心の移り変わり」をざっとたどってみるのです。それによってで世界史の大きな流れをたどろうということです。

(以上,つづく)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月21日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの4回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 4

1.夜の地球儀の世界史

最初の「光」の一点までさかのぼる

(これまでの話)

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。
 「都市の灯り」=「文明の分布」といってもいいです。

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体


 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。
 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸。

夜の地球儀・北アメリカ

 そして,ヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港など。

夜の地球儀・東アジア

 では,2000年前の「光」=「文明の分布」は,どうだったのか?
 電灯もなかった2000年前には,今のような強い光を放つ都市はありませんでした。しかし,「超高感度」のカメラで当時の「夜の地球」を撮ったら,どのへんに「光」が集まっていたでしょうか?

 現代と2000年前では,「光」の分布はかなり異なっていました。

 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 さらに2000年さかのぼって,今から4000年前(紀元前2000年)の世界では,「光」=「文明」の分布はさらに変化しています。

 「光」のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
4000年前のユーラシア

 
5000~6000年前――最初の「光」の一点

 さらに,2000年さかのぼって6000年前になると,「夜の地球」は,どうなるか?

 光の点は,ほとんどみえなくなります。

 かすかに,メソポタミア(今のイラク。チグリス川とユーフラテス川の沿岸)に小さな点がみえるくらい。ほかの地域には光はみえません。

 それが,5500年前になると,メソポタミアの「光」が,かなりはっきりしてきます。
 世界最古の本格的な「文明」とされる,大きな都市は,およそ5500年前にメソポタミアで誕生しました。

5500年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
5000年前の光の1点

 そのような大きな都市の代表のひとつが,シュメール人と呼ばれる民族が築いた,「ウル」や「ウルク」という町です(なお,「シュメール」というのは現代人がとりあえずつけた名前です。「シュメール人」が自分たちをどう呼んでいたのかはわかっていません。)。

 5200~5300年前のウルクは,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほどの面積で,土を乾燥してつくったレンガの城壁に囲われていました。
 そこには1万人くらいが住んでいたと考えられています。

 この人口は,発掘調査でわかる都市の面積(≒城壁の内側の部分)からの単純な推定です。「1ヘクタールあたり約100人」という人口密度を想定しています。その根拠は「メソポタミア(とその周辺)に今も残る伝統的な街並みの人口密度がそれくらい」ということです。荒っぽい計算ですが,一定の参考にはなります。

 さらに4700~4800年前には,ウルクの面積は400~600ヘクタールにまで拡大していました。
 おそらく人口数万人になっていはずです。

 4000数百年前,日本では縄文時代のころに,世界の最先端をいく地域では,そんな都市がすでにあったのです。

 下の写真は,5000年前ころのウル(ウルクではない,シュメール人のもうひとつの代表的都市)にあった,「ジッグラト(聖塔)」といわれる,神殿のような建物です。ただし,現代の復元です。煉瓦づくりで,幅数十メートル,高さ十メートルほど。

ウルのジッグラト
ウルのジッグラト(山川出版社『詳説世界史』より)

 世界で最も古い文字は,ウルクで5200年前ころに生まれました。「楔形(くさびがた)文字」というものです。有名なエジプトの「ヒエロクリフ」という象形文字の誕生は,それより100~200年ほど後のことです。

 シュメール人の文明は,それが誕生してから数百年のうちにエジプトにも伝わり,古代エジプト文明の誕生を促しました。多くの人の常識とはちがうかもしれませんが,「古代エジプト文明は,メソポタミア文明の影響で生まれた」と,学者の多くは考えています。

 5000年前の「夜の地球」では,メソポタミアと並んで,エジプトにも光の点がみえるようになります。

 シュメール人の古い都市は,「夜の地球儀」でみる世界の歴史のなかの,「最初の光の一点」といっていいでしょう。


都市を生んだ,青銅器時代の技術革新

 5000~6000年前の世界でウルクのような都市が生まれた背景には,技術の革新があります。「産業革命」に匹敵するようなことが,数千年前にもあったのです。

 7000年前ころから5000年前ころにかけてのメソポタミアとその周辺では,技術革新の大きな波が起きていました。

 それは現代の私たちからみれば,千年単位の長い時間をかけたゆっくりの変化です。しかし,当時としてはそれまでに経験したことのない早いペースで,革新がつぎつぎと行われたといえるのです。

 この時期に,人類ははじめて鉱石を溶かして金属をつくり出すこと(冶金(やきん)という)を行いました。
 鉄器による本格的な金属器の時代はまだですが,青銅器などをつくる冶金の技術が生まれたのです。

 青銅器は,素材や道具のメインにはならなかったとはいえ,当時の技術の象徴といえます。
 だからこの時期の革新は「青銅器時代の技術革新」といってもいいでしょう。

 車輪や犂(すき)が発明され,これを牛などの家畜にひかせることもはじまりました。
 帆掛け船もこの時期の発明です。

 そして,5200年前ころには,文字も発明されたのでした。

 また,測量や天文観測の技術も発達しました。
 5000年前(紀元前2900年前ころ)には,1年を365日とする暦も生まれました。

 金属器,文字の使用,車輪,犂,帆掛け船,1年365日の暦――どれも,文明にとって「基本中の基本」といえるものです。これらはすべて,メソポタミアやその周辺のエジプトなどではじまったのです。

 新しい農業のやり方も生まれました。川から水路で田畑に水をひいて行なう農業――灌漑(かんがい)農業というものが大規模に行われるようになったのです。

 灌漑農業以前の,雨に頼るだけの農業は,西アジア(イラク,エジプト,シリア,イラン,トルコなどの地域)で1万年前ころからはじまっていました(これが世界でも最も初期の農業だと考えられています)。

 その後メソポタミアでは,8000年前ころから,灌漑農業が小規模に行なわれるようになり,7000年前ころからは,これまでにない本格的な形で行われるようになりました。
 その結果,それまで未開拓だった多くの土地が畑に変わりました。
 畑は,牛に犂をひかせるなどの新しいやり方も用いて耕されました。
 そうやって食糧の生産も人口も増えていったのです。

 また,灌漑農業を大規模に行うには,組織的な運営も必要です。水路の建設やメンテナンスなど,大掛かりな作業を仕切るリーダーや組織が必要になるのです。
 こうした治水(水のコントロール)や農作業を統括するリーダーのなかから,「王」といえるような権力者が生まれた,という説もあります。

 そして,そうした権力者のもと,当時の技術を総動員して,ウルクのような都市が建設されたのだろう,ということです。

(以上,つづく)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月16日 (火) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの3回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 3

1.夜の地球儀の世界史

4000年前の「光」の分布は?

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。

 まず「現代」からはじめて,前回は2000年前の様子について。

 やはり,現代と2000年前では,分布の範囲がかなり異なっていました。
 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 ではさらに,2000年さかのぼると,どうだったのでしょうか? 
 今から4000年前(紀元前2000年)の世界です。そのころの「夜の地球」を宇宙からみたら,どんな様子でしょうか?  
 光の分布は,さらに変化しています。

 光のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界(オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域)
4000年前のユーラシア

 ほかの地域には,ほとんど光はみえません。

 地中海沿岸のイタリアも,ギリシアも真っ暗です。中国にはいくらか光の点がみえますが,メソポタミアなどにくらべると,小さいです。だから,上の地図では省いています。中国は,「文明のはじまり」が,メソポタミアやエジプトにくらべると,かなり後になるのです。

 中国で「最古の王朝」とされる「殷」(いん)が成立するのは,3600年前ころのことです。
 その前にも「夏」という王朝があったという説が最近は有力ですが,そこまでさかのぼっても4000年前です。4000年前の時点だと,まだ「できたて」で,ごくかぎられた存在です。

 2000年前もそうでしたが,ここにも「今とちがう世界」があるわけです。
 今とまったくちがう世界。

 「文明」とは何か,というのはむずかしい問題です。とりあえず,ピラミッドやパルテノン神殿のような大建造物,金属器,文字といったものがあって,王様のような権力者がいる,そんな状態をイメージしましょう。
 そのような社会であれば,そこには「文明」があるといえるでしょう。

 たとえば,文字が使われていたのは,4000年前の世界ではメソポタミア,エジプト,インダス川流域だけでした。ほかの地域では,文字はまだありません。
 中国でも,原始的な漢字(甲骨文字)ができるのは,3200年前(紀元前1200年)ころのことです。

「何万人」といった人口が密集して住む,大きな集落=都市は,4000年前の世界にすでにありました。

 しかし,それが存在していたのは,当時はこれらのかぎられた地域(メソポタミア,エジプト,インダス川流域,あとは中国も可能性がある)だけでした。人口「百万人」とか「何十万人」という都市は,まだ世界のどこにもありません。
 
 ほかの地域では,最も大きな集落でも「数千人」の規模でした。そして,世界にある集落のほとんどは,数十人から数百人の規模の,小さなムラだったのです。


4000年前,「光」の分布はかぎられていた

 ただし,4000年前の世界の「夜の地球儀」をつくるには,2000年前の時以上に高感度なカメラが必要になります。そのころにさかのぼっても,やはり「文明」はあったわけですが,都市の明かりはさらに弱いものだったからです。

 2000年前のローマ帝国では,オリーブ油を燃料とするオイルランプが広く使われていました(下の写真)。現代の照明とくらべれば,ささやかなものです。それでも,かなりの人たちのあいだで,「夜の明かりがある暮らし」が行われていたということです。

古代ギリシアのランプ
古代ギリシア(紀元前600~200ころ)のオイルランプ
円形のボディに油をため,急須の口のような部分に灯心をつける。
これに近いものが古代ローマでも使われた。


 ほかの大国では,おそらくローマ帝国ほどではないにせよ,それに準じた「都市の明かり」というものがあったと考えられます。

 しかし,4000年前の世界はちがいます。オイルランプのような照明はすでにありました。しかし,夜の明かりは,2000年前の世界よりもずっと貴重なものだったのです。技術が未発達で,油の生産量がかぎられていたからです。

 そこで,当時の都市の明かりは,仮に同じくらいの人口が集まっていたとしても,2000年前より弱いものでした。

 油を燃やすランプというのは,一見いかにも原始的です。そこに「技術」などというものは感じられないかもしれません。しかし,ランプという道具やその燃料が豊富にいきわたり,多くの人が日常的に使うには,それなりの生産の技術が必要なのです。とくに,燃料がそうでした。

 そのような生産技術について,オリーブ油を例にみてみましょう。

 ランプの燃料というと,地中海沿岸(ローマ帝国とその周辺)ではオリーブ油です。これは,オリーブの実の中心にある種をつぶし,そこから油をしぼり取るという方法でつくります。それには一種の機械が必要です。ひきうすや,つぶしたカタマリに圧力をかける装置などです。

 もっと簡単な道具と手作業でも油を取ることはできますが,大量生産には工夫された機械が必要でした。ネジやテコの原理などの仕掛けを用いた機械です。

 当時としては高度な技術によるもので,そういうものは4000年前の世界にはありませんでした(機械の動力はおもに人力。ロバや馬を使うこともあった)。

 オリーブ油を取るこのような機械を発達させたのは, 3000年前ころから2500年前ころのギリシア人です。オリーブ油の量産ということは,ギリシアにはじまって,のちに地中海沿岸を中心とする広い範囲に普及したのです。


鉄器という発明

 そして,手の込んだ機械をつくるには,部品のなかでとくに精密さや強度が要求される箇所に,金属を使う必要がありました。木や石でつくる部分についても,こまかい加工が要るので金属の工具は欠かせません。

 つまり,オリーブ油を量産する技術のベースには,素材や道具としての金属器の普及があったのです。具体的には鉄器の普及です。これも,4000年前にはなかったことです。

 4000年前に金属器がなかったわけではありません。当時は青銅という,銅とスズの合金がおもな金属器として使われていました。銅だけだと,もろくて使い道が少ないのですが,銅にスズをまぜると,実用に足る強さをもった金属ができるのです。

 しかし,青銅は原料の鉱石――とくにスズが希少だったので生産量がかぎられていました。このため青銅器は素材や道具の中核にはなりませんでした。

 金属器が普及して,広く用いられるようになったのは,鉄器の時代になってからです。

 鉄の原料の鉄鉱石は,青銅の原料にくらべはるかに多くとれます。その点では,量産に有利です。しかし,いろいろな技術的な壁があって,長いあいだ実用に耐える鉄の量産はできませんでした。たとえば青銅の製造よりも高温が必要,といったことがあったのです。

 しかし,3400年前ころ,今のトルコにあったヒッタイト王国という国で,製鉄の技術革新が行なわれました。当初それはローカルな技術でしたが,3200年前ころから広い範囲に普及しはじめました。
 こうして人類は鉄器時代に入ったのです。

 それは「人類がはじめて本格的に金属器を使うようになった」ということでした。

 鉄器の普及によって,さまざまな仕事の生産性が上がりました。

 鉄のスキを使うと,木製の農具よりもしっかりと土を耕せます。鉄の斧があれば,木を切りたおす作業がはかどり,木材の生産のほか,農地の開拓に役立ちます。こうしたことは食糧の増産につながりました。

 鉄製のツルハシがあれば,道路建設などの土木工事の効率が上がります。ツルハシの威力のせいだけではありませんが,鉄器の時代になってから,以前よりも道路の整備が進み,交通がさかんになりました。

 それから,鉄製の部品・素材を使うことで,いろいろな道具や機械も進歩しました。オリーブ油の製造機は,その一例です。このような工夫・改良は,ほかのさまざまな分野――製粉(粉ひき)や建築工事などでも行われています。


鉄器による「産業革命」

 鉄器の普及は一種の「産業革命」をもたらした,といっていいでしょう。

 現代の世界と2000年前の世界のあいだには,西暦1700年代にはじまった「産業革命」がありました。

 これに対し2000年前の世界と4000年前の世界のあいだには,鉄器の普及をベースにしたさまざまな変革があったのです。それは,世界史上の大きなできごとでした。

 ただしこの「鉄器による変革」は,産業革命がもたらした変革とくらべればインパクトはかぎられますし,それほど急激なものでもありません。

 照明器具のことは,それを象徴しています。産業革命以後の技術革新の結果,人びとは数千年続いたランプの暮らしをやめて,電灯を使うようになりました。1800年代後半に白熱電球が発明されてから数十年ほどで,(先進国では)そうなったのです。

 一方,鉄器による革新では,ランプを使うことは変わりません。ただ,何百年もかけてそれをより普及させたということです。

 ほかにはたとえば,馬車や帆船も同じようなことがいえます。

 馬車と帆船は5000年~6000年前に西アジア(メソポタミアやエジプト)で最初に発明されたものです。

 鉄器の時代になっても,馬車や帆船は主要な乗り物であり続けました。産業革命以後,鉄道や汽船や自動車が登場し,それまでの乗り物を過去のものにしてしまったのとはちがいます。

 それでも,鉄器の普及に基づく技術革新は,馬車にも帆船にもある程度は及びました。たとえば馬車は,木でつくられた車輪の外周に鉄の輪をはめて補強することが行われるようになりました。 それによって馬車の耐久性が大幅に増したのです(乗り心地はひどいものでしたが)。

 帆船についても,船体をつくるための木材加工の効率が,鉄の工具によって大きく向上する,といったことがあったのです。

 西アジアや地中海沿岸(ローマ帝国とその周辺)だけでなく,インドや中国などのほかの地域でも同様の鉄器による変革がありました。

 ただし,鉄器の使用のはじまりは,インドでは3000~2800年前ころ,中国では2700~2600年前ころのことです。西アジアや地中海沿岸にくらべるとやや遅れます。

 そして,これらの国ぐにの製鉄技術の起源をたどると,ヒッタイト王国の製鉄法にたどりつくと考えらえられています。つまり今のトルコの地で発明されたものが,国を超えて広く伝えられていったということです(ただし,中国の製鉄については,中国で独自に開発されたという説が有力です)。

(参考文献)R.I.ムーア編『世界歴史地図』(東京書籍),リリー『人類と機械の歴史』岩波書店,フォーブス『技術の歴史』岩波書店,オイルランプの重要性については,板倉聖宣「古代ギリシアのオリーブ・本・民主主義」『たのしい授業』2006年1月号による。

(以上,つづく)
2013年07月14日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの2回目。
 何十回も続けるつもりなので,まだ序章です。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 でも今回の記事は,そんな「前口上」を読んでいなくても入っていける内容です。 


となり・となりの世界史 2

1.夜の地球儀の世界史

2000年前の「夜の地球」は?

 前回は,「夜の地球儀」(写真)というものをみながら,つぎの話をしました。西暦2000年ころに人口衛星から撮った夜景を合成し,地球儀にしたもの。

夜の地球儀・全体

・今の世界には,とくに多くの光が集まっている場所が3つある。アメリカ合衆国(とくに東側),西ヨーロッパ,日本とその周辺。これらの「先進国」は,世界の繁栄の中心といっていい。

・今の先進国と,そのほかの国ぐにのあいだの格差は,どうしてできたのか? それは,1800年ころ以降,今の先進国では「産業革命」などによって生産を飛躍的に発展させたのに対し,そのほかの国は出遅れたからである。

・しかし,1900年代後半以降,スタートの遅れた国ぐにの中に,先進国を上回るスピードで発展する,中国やインドなどの「新興国」もあらわれた。


 以上のようなことを,「夜の地球儀」をみながら,私は友人たちと話したことがあります。すると,こんなことを言う人がいました。

「アメリカ,西ヨーロッパ,日本――これが今の世界の文明をリードしている国ぐにだとすると,見方によっては辺ぴな場所にあるね。」

「西ヨーロッパも日本も,ユーラシア大陸(ヨーロッパからアジアにまたがる大きな大陸)の西と東の端っこだ。北アメリカは新大陸といって,もともとは大きな国はなかったんでしょう?」
 
 たしかに,今の世界の「繁栄の中心」といえる地域は,世界史の大部分の時代において,どちらかというと「辺ぴな場所」でした。過去の「中心」は,今とはちがう場所にありました。

 そこで,あり得ない話ですが,もしも2000年ほど前の世界を宇宙から撮影して「夜の地球儀」をつくったら,どうなるでしょうか?

 地球人よりはるかに早く高度な文明に達した宇宙人(異星人)が,宇宙から地球を観測している――そんなSF的な空想をしてみましょう。

 「宇宙人の目」で世界をみてみましょう。

 2000年前の世界にも,立派に文明といえるものがありました。とくに繁栄している国では,何万,何十万という人が住む都市がすでにできていました。

 しかし,今の世界を撮影したときと,カメラの感度が同じなら,2000年前の「夜の地球」は,真っ暗なだけになるでしょう。現代のような強い光を放つ都市は,なかったからです。

 当時の都市や集落では,もちろん今のような電気の照明はなく,油を燃やしてともす明かりが使われていました。「オイルランプ」というものです。おもに陶器の皿あるいは器に油が張ってあり,火をつける芯(灯芯)がセットされています。
皿型ランプ
皿形のオイルランプ
紀元前1500~1200ころのイスラエルでつくられた


古代ギリシアのランプ
古代ギリシア(紀元前600~200ころ)のオイルランプ
円形のボディに油をため,急須の口のような部分に灯芯をつける

 
 このようなオイルランプは,おそくとも4500年ほど前にメソポタミア(今のイラク)で発明され,その後世界の広い範囲に普及しました(中国では3500年前ころに独自に発明)。2000年前当時の文明国なら,洋の東西を問わず使われていました。

 燃料の油は,地域によってちがいますが,オリーブ油やナタネ油などの植物油が中心です。このような植物油は,今はほとんどが食用ですが,2000年前には明かりの燃料にすることが最も多く使われる用途でした。

 オイルランプは,その後改良をされながら,電灯の時代になるまで最も一般的な照明器具として使われ続けました。

 ほかにろうそくも重要な明かりでしたが,製造に手間がかかり高価でした。そこで,オイルランプのほうがより日常的に使われたのです(ろうそくの発明の時期・場所は定説がない。一説には2000数百年前のイタリア,あるいはギリシア)。

西暦100年代の光のかたまり

 このようなランプの明かりもとらえる高感度カメラで,2000年前の「夜の地球」を撮影したらどうなるでしょう? どんな光の分布になるでしょうか? 

 2000年前の世界で,光が最も多く集まっていた場所は,イタリア,ギリシア,トルコ,シリア,エジプトなどです(当時は,かならずしもその名称で呼ばれていたわけではありませんが,以下原則として今の国名・地名で説明します)。これらの国ぐにが取り囲む,大きな湖のような海は「地中海」です。

 2000年前には,地中海沿岸が世界の繁栄の中心だったといっていいでしょう。

 それに次ぐ地域もありました。メソポタミア地方(今のイラク)とその東側の周辺(イラン)。インドの北西部のインダス川流域。それから,中国の黄河流域。

 これらの地域には,当時,文明の先端をいく大国が栄えていました。地図で示すと,以下のようになります。
 「西暦100年代のユーラシア大陸」です。
 「ユーラシア」というのは,東は中国などのアジアから西はヨーロッパまでの一続きの広い範囲をさしていいます。

 オレンジ色の斜線の部分は,当時のおもな大国の領域です。当時なりの都市の「あかり」が多く集まっていたのは,この範囲のなかの一部です。どんな国ぐにがあったかについては,あとで述べます。

西暦100年代のユーラシア大陸
西暦100年代のユーラシア

 当時はまだ,アメリカやアフリカといった新大陸にはユーラシア大陸の大国に匹敵するような国がありません。

 アメリカでは,今のメキシコやチリで一定の文明が成立していましたが,そのスケールはユーラシアのものにくらべるとかぎられます。アフリカやオセアニア(オーストラリアなど)では,まだ「文明」といえるものは存在しません。

 だから,この地図の範囲がほぼ「世界」といっていいのです。
 
 なお,この地図はちょうど2000年前ではなく,1900年ほど前(西暦100年代)の世界です。この時期は,世界史上の重要な国が並び立っているので,こうやってみわたすには都合がいいです。

ローマ,パルティア,インド,中国

 上の地図をもう少しみていきます。どんな大国が,当時栄えていたか。

 まず,地中海沿岸では,ローマ帝国が最盛期をむかえていました。ローマ帝国は,当時の世界で最大・最強の先進国だったといえるでしょう。

 この時代の西暦160年ころ,ローマ帝国全体の人口は,約6000万人だったといいます。
 また,同時期の首都・ローマの人口は,約100万人になっていました。 おそらく当時の世界で最大の国だったはずです。ローマも,世界最大の都市だったでしょう。

 現代のような統計が整備されていなかった時代なので,正確な人口はわかりません。しかし,戸籍が断片的に残っているほか,遺跡の発掘でわかる市街地や公共施設(劇場など)の規模)などから,およその推定はできるのです。

 ローマ帝国の人口よりもさらに正確さは落ちますが,世界人口の推定もあります。ある推定によれば西暦150年ころの世界の人口は,3億人ほどです。だとすれば世界人口の5分の1ほどがローマ帝国にいたわけです。

 「帝国」というのは,複数の民族を支配下におく国をいいます。では「民族」とは何かというと,「言語などの文化を共有する人間の集団」のことです。言葉がたがいに(どうにかでも)通じあって,生活習慣などにさまざまな共通性がみられる集団が,ひとつの「民族」ということです。

 言葉がまったく通じない人びとをも支配下に置いているなら,その国は「帝国」といえるでしょう。
 ローマは,多くの異民族を支配する,まさにそのような「帝国」でした。

 ローマの西隣のメソポタミアとその周辺には,パルティアという国がありました。この国は,ローマと戦争をくりかえし,何度かローマに打撃を与えています。それだけの力がある強国でした。

 パルティアの西側のインドの北西部には,クシャナ朝というインド史では有名な王国が栄えていました(王国のことを,「〇〇王朝」「〇〇朝」という習慣があります)。

 ユーラシア大陸の東側をみると,黄河の流域に中国の漢王朝の中心地がありました。漢は当時の世界で,面積や人口などからみてローマ帝国に匹敵する大きな国でした。

 当時は,以上の大きな国ぐにとその周辺が世界のなかの人口密集地帯でした。
 高感度カメラを通して上空からみると,そこには大小さまざまな都市や集落の明かりが集まっていたことでしょう。

今とはちがう世界

 この光の分布は,現在の世界とは大きく異なっています。

 ローマ帝国の中心地であったイタリアなど,当時も今も「明るい」といえる場所もあります。しかし,現在の世界の「繁栄の中心」である,ヨーロッパの大部分や,日本,北アメリカといった地域は,ほぼ真っ暗でした。

 これらの地域には,当時はまだ,本格的な「国」といえるものはできていません。

 当時,今のフランスのほぼ全域とイギリス南部,ドイツの一部は,ローマ帝国の領域でした。しかし,繁栄の中心から離れた「辺境」です。そこに住む人たちの多くは,ローマ帝国の中心部の人びとからは,素朴な暮らしをする「蛮族」といわれていました。

 当時の日本は,弥生時代でした。水田での稲作が全国の広い範囲に広まり,各地に小国が分立していた時代です。ヤマト政権による統一国家は,まだ300年は先になります。

 北アメリカでは,まだ本格的な農業は行われておらず,狩猟や牧畜中心の暮らしが行われていました。

 遠い過去にさかのぼると,「光」の分布,つまり「繁栄がどこにあるか」ということは,現在と大きくちがっていたわけです。

 そこには「今とはちがう世界」があったのです。

(おもな参考文献)長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版,ウェブサイト「古代ローマ・オイルランプ美術館」掲載の展覧会資料『地中海のともしび――フェニキア,ローマ,ビザンチンのオイルランプ 中山&オルセッティコレクション』1997年(オイルランプの写真はこの資料による),オイルランプの重要性については,板倉聖宣「古代ギリシアのオリーブ・本・民主主義」『たのしい授業』2006年1月号による。

(以上,つづく)
 
2013年07月13日 (土) | Edit |
 「となり・となりの世界史」というシリーズをはじめます。
 100回くらい続ける予定です。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみていきます。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 でも今回の記事は,そんな「前口上」を読んでいなくても入っていける内容ですので,ぜひお読みください。 


となり・となりの世界史 1

1.夜の地球儀から

3つの「光」のかたまり
 これは,何でしょう?「夜の地球儀」というものです。
 西暦2000年ころ(1997年)に人工衛星から撮った夜景を合成し,地球儀にしたものです(渡辺教具製作所㈱という,老舗の地球儀メーカーの製品で,オブジェとしても美しいです)。

夜の地球儀
夜の地球儀・全体

 さまざまな家電製品や自動車などの「文明の利器」を使って生活する人びとが多く集まる場所は,明るい光になっています。人が少ないところや,文明の利器があまり普及していないところは,明るくありません。

 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。

 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸です。とくに東海岸は明るいです。

夜の地球儀・北アメリカ

 もうひとつはヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港。ここの光は,ほかの2つにくらべると,小さいです。

夜の地球儀・東アジア


先進国とそのほかの国ぐに
 
 これらの「光のかたまり」がある国は,「先進国」といわれます。とくに産業や経済が発達した国ぐにです。
 進んだ科学や技術があり,文化的な活動も活発です。
 世界の文明をリードする,繁栄の中心といっていいでしょう。

 「先進国」の人口は,2010年現在で約11億人。
 これは,西ヨーロッパの国ぐに,アメリカ,カナダ,日本,韓国,台湾などの人口の合計です。

 ここでは「先進国」を,世界銀行という国際機関の定義する「高所得国」とイコールとします。「高所得国」とは,1人あたりのGNI(GDP=国内総生産とほぼ同様の数値)が,2010年の時点だとおよそ100万円を超える国です。

 世界の人口は,70億人。
 「11億人」は,世界人口の16%です。世界全体からみれば,少数派といえます。
 しかし,この「11億人=16%」の先進国で,世界のGNIまたはGDP(経済活動が生み出す富)の70%を占めているのです。

 GNI≒GDPは,「国全体の経済活動によって1年間に生み出される富」のことです。ここで「富」というのは,経済用語では「付加価値」といいます。

 これを人口で割った「1人あたりGDP(またはGNI)」は,国の経済発展の度合いをはかるモノサシとして,よく使われます。その値が高いほど,経済発展がすすんでいる,ということです。


産業革命と近代化

 11億人の先進国と,59億人のそのほかの国ぐに。
 両者の格差は,どうしてできたのでしょうか?

 それは,これらの先進国が,ほかの多くの国よりもいちはやく「機械などを使ってモノを大量に生産し,輸送する技術」を使い,生産を飛躍的に向上させたからです。その技術の背景には,科学の発展があります。

 同時に,人びとが経済的・文化的に活発に活動する上で重要な「社会のしくみ」も進歩させました。
 民主主義の政治,公正な裁判,株式会社の制度などです。つまり,人びとの自由,権利,財産といったものを守るしくみです。
 そういうものがないと,人が何かを創造したり,起業したりといったことは,おさえられてしまうのです。

 では,そのような,現代につながる「生産力の飛躍的な向上」は,いつ・どこではじまったのでしょうか?

 それは,今から200数十年前の1700年代後半に,イギリスではじまりました。「産業革命」といわれるものです。
 
 その最大の突破口は,この時期に蒸気機関という動力源が実用化されたことでした。
 蒸気機関を使って,工場で大量にモノをつくる機械や,鉄道や汽船などの乗り物がつくられ,生産や輸送のあり方を大きく変えていきました。
 
 機械をフルに使った工場での大量生産は,繊維産業の分野からはじまりましたが,しだいにほかの分野にも広がりました。
 さまざまな生活用品の製造,機械をつくる産業,金属やガラスといった素材産業等々です。
 さらには化学産業や電気の利用といった,現代に直接つながる新しい分野も開拓されていきました。

 イギリスではじまった産業革命は,1830~40年代までには,フランス,ドイツなどのヨーロッパのほかの国ぐにや,アメリカに広がりました。
 それから,少し遅れて明治維新(1868年)以後の日本にも広がったのでした。

 こうした,イギリスなどのヨーロッパ諸国ではじまった「生産技術や社会のしくみの革新」の上に成り立っている社会を,「近代社会」といいます。
 現代の先進国は,発達した近代社会です。

 「近代社会とは何か」と言えば,「機械を使って大量生産する産業があり,民主的な政治が行われ,人びとのさまざまな自由や権利が認められている社会」のことだと考えればいいでしょう。

 議論の多い言葉なのですが,とりあえずこれでいいです。異論がある人がいても,この説明を全否定はしないはずです。

 このように,イギリス,フランス,ドイツ,アメリカなどのおもな欧米諸国では,近代社会を生みだす革新=近代化が,1800年代前半までにはじまりました。日本は,少し遅れて1800年代の後半――明治維新のころからです。

 ほかの地域では,近代化の本格的なスタートはさらに遅れて,1900年代以降,とくにその後半からになりました。
 「1900年代後半」というと,アジアやアフリカの国ぐにの多くが欧米の植民地支配から脱した,第二次世界大戦後(1945年以降)のことです。

 マラソンにたとえると,今の先進国は,ほかの国よりもいちはやくスタートし,ハイペースで進んでいったのです。
 いろんな事情から,ほかの多くの国ぐにはスタートを切れないでいました。
 そのあいだに,「先頭グループ」とその他の差は広がっていきました。

 しかし,1970年代以降の30~40年ほどのあいだで,スタートの遅れた国ぐにのなかに,先進国を上回るスピードで走りだす国がでてきました。
 「新興国」といわれる国ぐにです。中国やインドはその代表選手です。
 
 この地球儀は2000年ころの世界を映していますが,最新の衛星写真でこの地球儀をつくったら,光の範囲はいくらか広くなっているでしょう。
 とくに,経済発展が著しい中国の海沿い地域にある光のかたまりは,さらに目立つようになっているはずです。

(以上,つづく)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月13日 (土) | Edit |
 前々回の記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト に,コメントをいただきました。「コメント欄」にあるのですが,ご覧にならない方も多いと思いますので,私の返信(大幅加筆)も含め,記事本文で紹介します。

 たきやん。さん(ブログ:たきやん。のBurning Heart)からのコメントです。

 今の時代だからこそ必要(byたきやん。)

 そういちさん、こんにちは。
 自分も世界史には疎い人間です。

 「中心の移り変わり」で世界史を見る、というのが
 評判が悪い、というのは知りませんでした。
 自分は歴史という学問は、過去の出来事から
 学んだことを今の世に活かすものだと考えています。
 そういう観点から、「中心の移り変わり」で世界史を
 見る、というのはむしろ王道だと思っていました。

 これから、そういちさんがどういう記事を展開していくのか、
 非常に楽しみにしております。



 私・そういちからの返信(大幅に加筆しました)

 こんにちは,コメント・励ましのお言葉ありがとうございます。
 私も「中心の移りかわり」で世界史をみる,なんて当たり前の「王道」だと思っています。

 そして,ふつうはそれが「王道」だとか,ひとつの「立場」であるという自覚もないのでは?
 日本史で,「奈良時代」とか「江戸時代」とかいうのは,奈良(平城京)や江戸を「中心」とみる発想があるのでしょうが,そういうのはごくあたりまえになっています。
 
 でも,近年のインテリの傾向はちがうようです。
 ふつうの人がとくに自覚せずに「あたりまえ」と思っていることに「ちょっと待て」というわけです。

 「ここが中心」といってしまうと,ほかの国や民族を見下しているようで申し訳ない,と思うようですね。

 たとえば「今の世界の中心はアメリカだ」といったら,怒る人がいるはずです。あるいは自分の中にある「正義感」に怒られてしまう。なにか「差別」しているように思ってしまう。(こういう発想は,私たちの道徳観念が進歩した結果でしょう)
 
 でも,現実をみれば「中心」といえるような,ほかと比べて繁栄し,経済的・政治的・軍事的に優勢な国や地域があるのは,あたりまえのことだと思うんですが…。そして,それを認めることが,ほかの国や地域をおとしめることになるとも思えません。

 だって,「中心」となる国や地域は,いろいろと移りかわってきたのですから。

 「文明のあけぼの」以来,紀元前の時代の大部分は,西アジア(今のアラブ地域)が最先進地帯であり,「世界の中心」でした。
 ギリシア・ローマがそうであった時代もありましたし,イスラムが「中心」であった時代もあった。そしてイスラムが中心だったころには,中国もそれに匹敵する存在でした。そのころは,ヨーロッパはイスラムにくらべれば「片田舎」でした。

 その後ヨーロッパが台頭してきますが,ヨーロッパのなかでも「中心」といえる地域は,イタリア・スペイン→オランダ→イギリスと移りかわっていきました。
 そして1900年代以降はアメリカ合衆国の時代となります。1900年代後半以降は,日本も,西欧やアメリカと並んで「中心」の一画を占めるようになりました。その日本を今は韓国や中国などの新興国が追い上げている…

 西アジア……ギリシア……ローマ……イスラムの国ぐに(と中国)……ヨーロッパ(イタリア…スペイン…オランダ…イギリス)……アメリカ(西欧,日本)

 このように「中心」はうつり変わってきています。

 これは,多くの国や地域に発展の可能性があるということです。
 また,どれほど繁栄していた国であっても,いつかは(あるいは何かあれば)衰退していくということでもある。

 つまり,多くの国ぐにには,つねに発展と没落の可能性があるということです。いってしまうと,あたりまえのことですが。
 であれば,「中心」を特定する発想は,肌の色で「差別」するようなのとはちがうはずです。「中心」などという状況は,移ろいやすいものなのですから。

 「中心」という視点がなかったら,世界史は「あれもこれも」になって,焦点の定まらない,わけのわからないものになってしまうはずです。わけのわからない世界史からは,「今の世に活かす」なにかを汲み取ることなどできないでしょう…
 このあたりの歴史観の基本,歴史の書き方の方法論は,これからの記事のなかでまた述べていきます。
 おつきあいいただければ,うれしいです。


                       *

 ところで「ブログでは,拍手などの反響と,その記事に注いだ時間や労力はかならずしも一致しない」ということがあるそうです。私も,ブログをはじめてみて「たしかにそうだ」と実感してます。

 30分で書いた記事が,わりと多くの拍手をいただけることもあります。
 一方,おそらく「万」の単位の時間がバックにある 「となり・となりの世界史」というコンセプト は,今のところは,あまり拍手がなかったりする。
 時間や労力をかけた文章にありがちな,「入りにくさ」のようなものがあるのかもしれません。
 
 でも,コメントをいただいたことで,熱心に読んでくださる方もいるのだ,ということがわかります。
 ひとつのコメントがあれば,「ほかにも同じように思ってくださる人がいるはずだ」と感じ,勇気づけられます。

 それでも,関心を持って下さった方がいたら,ぜひ拍手なりコメントなりいただれば,ありがたいです。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月12日 (金) | Edit |
 「世界史」論についての,前の記事の続き・補足です。
 近年話題になった世界史のベストセラーについても,触れておきたい。


『銃・病原菌・鉄』とマクニールの『世界史』

 ここ数年は世界史に関する本のなかに,ベストセラーも生まれています。世界史への関心が広がっているのでしょう。
 そんな「世界史本」の代表格といえば,つぎの2冊でしょうか。

 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(上・下,草思社文庫)
 
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
(2012/02/02)
ジャレド・ダイアモンド

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ウィリアム・マクニール『世界史』(上・下,中公文庫)


世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)
(2008/01/25)
ウィリアム・H. マクニール

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 どちらも,10万部単位で売れたといいます。2つの本はたしかに「名著」です。新しい世界史像を読者に伝えてくれます。

 しかし,これらの本によっても満たされないニーズもあります。

 まず,どちらも上下巻合わせて1000ページ前後の長編です。これを読みとおせる人がほんとうにどれだけいるのか? とくに,マクニールの本は教科書的な調子でびっしりと書かれているので,読むのにエネルギーが要ります。

 一方,ダイアモンドの本は,いろんな新しい視点を提供してくれる,たのしい「謎解き」の本です。マクニールのような読みにくさはありません。しかし,世界史全体の系統だった知識は,ダイアモンドの本からは得られないのです。それを目的とした本ではないからです。

 また,どちらの本も「社会科の授業は苦手だった」という人に対しては,基本用語の説明などで足りないところも見受けられます。ほんとうの初心者には読みにくいところがあります。

 もっとコンパクトなかたちで,世界史の系統的な全体像を,「まったくの素人」だという人たちにも伝えることはできないか。

 これが私のねらうところです。

(前回の記事で述べましたが,私は「となり・となりの世界史」というコンセプトで独自の世界史の通史を書こうとしているのです)

 しかも,その「となり・となりの世界史」で私がお伝えしたいのは,これまでの教科書的な常識から前進した,「新しい世界史像」です。

 具体的にいうと,1900年代後半以降の,比較的新しい歴史学の成果をふまえた世界史です。私たちの「常識」にある世界史像は,これよりも古い,大昔の学問をもとにしていることが多いのです。

 そう聞くと意外に思うかもしれません。しかし,最も進んだ専門家の研究が,社会的に認められ,私たちのものになっていくには,多くの時間が必要なのです。とくに教科書というのは保守的で,最後まで古い学問にしがみついているものです。

 マクニールやダイアモンドの本は,「新しい世界史像」についてのぼう大な情報を,一般向けにまとめたものといえます。「となり・となりの世界史」の基本となるコンセプトや重要な結論も,これら2冊と重なるところがありますが,これは「元ネタ」である歴史学の成果が共通だからです。

 ただし,結論に共通したところがあっても,それを私としてはめいっぱい「素人向け」に書いていいきたい。さらに,私独自の「世界史の整理のしかた」も打ち出していきます。それが,「となり・となりの世界史」というコンセプトです。

(以上)
テーマ:読書メモ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月12日 (金) | Edit |
 世界史の話は,このブログの柱のひとつです。

 世界史は,さまざまな,社会にかんする知識・学問の基礎になります。
 板倉聖宣さんという教育学者は,「世界史は,これからの時代では,読み書き・そろばんに並ぶようなだいじなものだ」ということをいっています。そのとおりだと思います。

 そんな世界史についての,私の考えを述べたもの。
 これから何十回か続けるシリーズの入口の話です。


「となり・となりの世界史」というコンセプト

盛りだくさんすぎる「世界史」

 それにしても,今の世界史の教科書はじつに盛りだくさんです。ぼう大な固有名詞や年代が出てきます。これを消化して世界史全体のイメージを描くのは,たいへんです。

 世界史教育は,あまりに多くの事件や地域のことを盛り込もうとしすぎています。そこにあるのは,「世界史」というひとつの物語ではありません。

 学校の教科書は,数本の異なるストーリーをつぎはぎして,無理やり一冊の本にした感じです。
 教科書以外で世界史のあらすじを述べた本の多くも,似たようことになっています。

 私は,社会科学や歴史にかんする教育・啓蒙を,自分なりのテーマとしてきました。そのなかで,世界史のわかりにくさを何とかしたいと,つねづね思ってきました。

 世界の人びととのつきあいが,ますます深くなっています。世界史はさらに重要な,みんなの知識になるでしょう。
 だからこそ,世界史がもっと「わかる」ものなればいい,と思います。

 そして,今や日本はそれなりに成熟した先進国になって,世界の先頭を行くようになりました。以前は先を行く欧米諸国の後を追いかけていればよかったのですが,最近はそうはいきません。そんな状況で,今の日本人はこれからどの方向に踏み出せばいいのか,迷っています。
 これからの日本がめざす方向を考えるうえでも,過去の人類の歩みを知ることは参考になるでしょう。

 以上が世界史の効用です。
 これはこれでいいのです。しかし,私にとって世界史は,まず何よりも「わくわくする,たのしい知識」でした。これも重要なことです。「それだけでは役に立たない」という人もいるでしょうが,「たのしさ」は立派な効用です。

 私が感じてきた世界史のたのしさを,どうにかしてお伝えしたいものです。

 
世界史を整理する視点

 「多くのふつうの人たちが世界史をみるうえで役立つ視点」というのを,これから述べていきたいと思います。
 つまり,この見方で世界史がすっきり整理される,というものです。それがほんとうにできれば,わくわくしてくることでしょう。

 「世界史を整理する視点」などというと,昔のことを知る読書家は,マルクス主義の「唯物史観」や,その他の「〇〇史観」「〇〇史学」のことを思い出すかもしれません。

 そして,「ああいう,ひとつの固まった史観や理論で歴史を解釈するのは,もう時代おくれだ」というのでしょう。
 
 しかし,私が述べたいのは,「史観」とか「理論」とかいうほどのものではありません。もっとベーシックな,素人っぽいことです。世界史の知識を整理するうえでの,コツや勘どころのようなもの。歴史にくわしい人からは,「なんだそんなことか」といわれてしまいそうな話です。

 しかし,だからこそ,一般の多くの人たちには役立つのではないかと思います。そして,その割にはきちんと論じられてこなかったことでもあります。

 多くの歴史家や理論家は,そんな初歩のことよりも,「その先」を論じたいものです。でも,それは多くの人のニーズとはちがうと思います。

 では,何を述べたいのか。それは,

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる

という視点です。

 つまり,こういうことです――世界の「繁栄の中心」といえるような大国・強国は,時代とともに移りかわってきました。そういう,時代ごとの大国・強国を主人公にして,世界史を描く。

 これはかなり古典的な世界史の書き方です。古くは1800年代の哲学者ヘーゲルなども,この線で世界史を論じています。
 でも,のちに「大国・強国中心の世界史」は,いろんな理由で(ここでは立ち入りません)下火になっていきます。
 最近の世界史は,「多様な地域の歴史を幅広く教える」というのがスタンダードです。
 そんな中,板倉聖宣さんという教育学者は,「中心の移り変わり」という視点で世界史をみわたす授業の構想を打ち出しました(「授業書〈世界史入門〉の構想」『仮説実験授業研究 第Ⅲ期4』仮説社,1994)

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる,という視点は,おもに板倉さんから得たものです。板倉さんは,私が「先生」と仰ぐ人です(本を読んで一方的に学んでいるだけですが)。

 「中心の移りかわり」で世界史をみる,というのは,今の時代は評判が悪いです。
 でも,今の世界史教育は,いろんな地域のことを「あれもこれも」教えようとしすぎて,わけがわからなくなっています。

 「中心の移りかわり」という「視点」を定めることで,もっとシンプルに世界史の大きな流れを描きだしたい。そのことで,多くの人にとって「わかる」「わくわくする」世界史にしたい。
 それが,板倉さんの意図したところだと,私は理解しています。

 私は,その視点をおしすすめて,自分なりに世界史の通史を書いてみたくなりました。
 板倉さんの仕事がありながらも,「自分ならこうしたい」というのがいろいろ出てきて,板倉さんの一読者ではいられなくなったのです。

 では,どういうふうに「おしすすめる」のか。

 それは,「中心の移りかわり」の地理的な位置関係にトコトン注目する,ということです。

 じつは,世界史における「反映の中心の移りかわり」には,こんな法則性があります。

 「新しい繁栄の中心は,それまでの古い中心の周辺から生まれる」

 それまでの中心からみて「となり」の地域から,つぎの時代の新しい勢力が生まれるのです。
 「となり・となり」で移っていく,といったらいいでしょうか。


「中心」の移りかわり

 たとえば,1600年代のヨーロッパで,繁栄の中心だったのはオランダでした。
 しかし1700年ころからは,それはイギリスに移りました。イギリスは,海峡をはさんでオランダのすぐとなりです。

 オランダの時代の前に最も繁栄していた国のひとつは,スペインでした。スペインは,オランダとは完全には隣国とはいえませんが,地理的に近い位置にあります。
 しかもオランダは,もともとはスペインに支配されていました。両国は密接な関係にあったのです。

 新しい中心が「となり」に移っていくことは,スペイン→オランダ→イギリスといったケースにかぎりません。世界史のどの時代にもみられます。

 3000年ほど前の世界で,西アジアという,今のイラク,エジプト,イラン,トルコなどの地域の進んだ文化をギリシア人が受け取り,その後新しい中心になっていったときも,そうでした。
 ギリシアは,西アジアの一画(トルコ)に隣接しています。西アジアは,世界で最も古くから文明が栄えた地域で,3000年前ころの世界では最も先進的な地域でした。

 一方,3000年前ころのギリシアはまだまだ発展途上で,「古代ギリシア」の有名な文化が花開くのは,その数百年後です。「発展途上国」だったころの古代ギリシア人は,西アジアの人びとに多くを学んで「文明開化」したのです。このことはこの数十年の歴史の研究ではっきりしてきました。

 こういう例は,世界史にいっぱいあるわけです。

 1000年余り前,ローマ帝国の遺産にイスラムの人びとが学んだときも,その後何百年かしてイスラムの人びとからイタリア人やスペイン人が学んだときも,同じようなこと――「となり」への中心の移動――がありました。

 当時のイスラムの帝国は,ローマ帝国(東ローマ帝国)に接していましたし,イタリアやスペインは,ヨーロッパの中ではイスラムの国ぐにと距離が近く,貿易などで接点が多かったのです。とくにスペインは,イスラムの国に支配されていた時期がありました。
 近代社会を築く前のヨーロッパは,かならずしも世界の最先端ではありません。過去にはイスラムの国ぐにのほうが「進んでいる」といえる時期があったのです。

 いきなりいろんな国や民族が出てきましたが,このへんのことはおいおいきちんと説明していきます。

 「となり・となりで繁栄の中心が移っていく」という現象は,今の世界でもみられます。
 たとえば,日本という「繁栄の中心」の周辺である韓国や中国の沿岸部,東南アジアに,経済的繁栄が広がっていること。これらの新興国の台頭には,やはり日本の影響があるわけです。

 これはまだ「中心が移る」とまではいっていませんが,「繁栄が,その中心から周辺へと広がっていく」ということが起きています。

 似たようなことは,ほかの地域でもみられます。
 ドイツなどの西ヨーロッパに隣接する,チェコやポーランドなどの東ヨーロッパ諸国,そしてトルコの経済発展。
 アメリカ合衆国の南に隣接するメキシコが,近年経済的に台頭してきたこと。

 「となり・となり」という視点は,過去の世界だけでなく,これからの世界をみるうえでも有効なはずです。
 

「となり・となり」でたどっていく

 私がこれからお伝えしていきたいのは,ようするにつぎのようなことです。

 世界史というのは,さまざまな国や民族が,
 過去からの遺産をリレーのように受け渡ししながら前進してきた。

 過去の遺産を受けとった人びとが,新しいものをそこにつけ加えて,別の人びとに手渡す。

 それが世界史ではくりかえされてきた。

 その「手渡し」は,接点の多い近隣の国や民族に対して最も濃い密度で行われるのがふつうである。
 だから,「となり・となり」で繁栄の中心が移っていく。

 こういう見方で,時代ごとの「繁栄の中心」を「となり・となり」でたどっていく。
 すると,世界史は一本のつながった物語になる。
 いわば,「となり・となりの世界史」。


 この「となり・となりの世界史」というのは,私の造語で,たいへん気にいっています。
 「となり・となり」という言葉は,板倉聖宣さんが「作文の一般的な技法」として,「となり・となり方式」で話題をつなげて展開していく(あれこれ構成なんか考えない)ということを述べていて,そこからとったものです。

 この言葉を,「世界史」に私はくっつけてみた。

 となり・となりの世界史

 このコンセプトで,新しい世界史が書けると思っています。
 この視点によって,世界史が一本につながる。
 「となり・となり」でつながっていくのです。
 「一本の・ひとつの物語」になれば,世界史はより多くの人のものになる!
 
 もちろんこれだけでは,説明不足ですね…なんだかよくわからない,という人もいると思います。
 また,「繁栄の中心」という見方そのものへの異論もあるでしょう。

 だから,これからきちんと述べていきます。「世界史は素人で,初心者だ」「学生時代に落ちこぼれた」「でも,知りたい」という人にぜひおつきあいいただければと思います。

(以上)