2017年06月18日 (日) | Edit |
最近はまた、出版や発表のあてのない世界史の原稿を書いています。
それが、かなり進んできました。
そのほかの私事も重なって、ブログの更新が疎かになってしまいました。

***

最近ニュースや、いろいろな言論をみていて気になるのは、
「“理想の過去”への回帰にこだわる人びと」のことです。

その「理想の過去」とは、
大きなところだと、イスラム帝国が世界の文明の中心だった時代だったり、
中華帝国がヨーロッパをはるかにしのいでいた時代だったりします。

もう少しスケールを小さくすると、
アメリカが偉大だった時代(まあ、1950~60年代のことか)だったり、戦前の日本や、高度成長期の日本や、あるいはバブル時代の日本だったり。

こういう「〇〇の頃に帰れ」という主張は、現状への強い不満や問題意識から生まれています。その問題意識じたいは、根拠や意義のあるものが多いです。イスラム諸国や中国のなかに「反欧米」の思想が強く存在するのも、たしかにそれなりの根拠があります。

「アメリカを再び偉大に」というのも、「戦前の日本」「成長期の日本」に帰れ、というのもやはり、それ相応の問題意識があります。とくに、「〇〇の頃の日本に帰れ」という思いの背景には、私たちにとって身近で実感を伴う状況がある。たとえば…

なぜ今どきの若者は、やたらと用心深くなって、将来に夢を持ったり、積極的に遊んだりしないのだろう。オレが若かった頃(バブルの頃)は、そんなんじゃなかった。

なぜ今の日本経済では、モノつくりへの想いや勤勉さや未来への希望が失われたのか。高度成長時代の精神を取り戻すべきだ。

なぜ現代の(戦後の)日本人は、本来持っていたはずのさまざまな美徳を失ったのか。親や先生などの年長者や、社会の重要な立場にある人びと、そして「国」に対する敬愛の気持ちや礼節を失って、子供じみた自己主張ばかりしている。

これらの主張には、私にも共感できる部分(あくまで“部分”ですが)はあります。

だがしかし、こういう「過去への情念」みたいなものをベースにしている主張は、用心すべきだと思っています。この情念をもとに現代の問題に具体的に取り組むと、とんでもない間違いをしそうです。

バブルを懐かしむおじさんの言うことを聞いて、楽天的すぎる生活や人生設計でいったら、たしかに危険な気がします(たとえば過大な住宅ローンを組むとか)。あの頃と今では、経済や仕事や生活の前提条件があまりにちがいます。

製造業が経済の中心だった時代の感覚で、経済政策をおしすすめたら、これもとんでもないことになるでしょう。また、個々の企業で「つくるべきモノ」の方針を、過去の成功体験に求めてしまった結果、現在の望ましくない状況があるはずです。

「戦前」的なものへの思い入れも、同様です。たとえば、あの戦争に大敗したときの思想や精神とセットで国防の強化を論じるとしたら、やはり危険です。

私も、若者には夢をもってもらいたいし、勤勉な精神・モノづくりの精神は大事だと思うし、礼節を忘れた自己主張をとくにネット上で多くみかけるのを残念に思います。国防の問題も、たしかに重要だと思う。

でも、そのあたりの「問題」をよい方向に動かすうえで大事なのは、過去への思い入れではない。

抽象的な言い方ですが、やはり前に行くしかない。

今の、成熟した低成長の、超高齢化の時代でどう生きるのか。金融やITやサービス業が先進国の主要産業になった時代で、何をつくることが有効なのか。多くの人がもっとよく考えた主張や発言をするように、何をすべきか。

要するに、「今の」現実に向き合って、いろんな工夫や研究や勉強や教育をしていくということです。私たちの先輩や祖先は、時代に合わせてそのような努力をしてきた。逸脱もありましたが、大筋でそうやってきた。私たちも、これからの時代に合わせて、「前に行く」取り組みをするしかない。

昔の言葉でいえば、「啓蒙」とか「進歩主義」的なスタンスですね。

その手の主張に、教師の説教のようなうさん臭さを感じる人もいるでしょう。「啓蒙」や「進歩主義」の主張には、反抗心を起こさせるところがあります。そこから「理想の過去」への回帰という考えに惹かれていく人もいる。でも、「そちらに行ってもダメなのでは」と私は思っています。

「理想の過去」への回帰にこだわる、そのベースにはある種の反抗心があるのかもしれない。いかにも「正統派」な理想論を説く教師(あるいは親、上司、その他の権威)への反抗心です。「教師」が言うこととはちがう価値観を求めて、「理想の過去」に行き当たった。

なんだか抽象的な話になってしまいました。
でも、今気になっているところなので、書きました。

(以上)
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2017年04月24日 (月) | Edit |
「近代社会を精いっぱい生きる」というエッセイ。前回の続きの、後編です。

(前回の要約)

・現代社会は近代社会である。近代社会とは「自由な社会」。自由とは「したいことがでること」。

・技術の発達や政治的・法的な制約が撤廃されたことで、私たちの自由は拡大している。昔なら特権的な人にしかできなかったが、今は多くのふつうの人にもできる、ということが多数ある。

・そのような「自由」を、まず自覚しよう。しかし一方で(当然だが)なんでも思いどおりにはいかない。

・世の中には供給に限りがあるさまざまな「希少」なものがあり、これらを手に入れることは「自由」にはいかない。たとえば、良質の天然素材でできた何か、一流のアーティストのライブを体験する、就職先として人気のある有名企業への入社等々。

・このような希少なものにこだわるのではなく、数に限りのないよろこびや楽しみに目を向けよう。たとえば、何かを学んだり、つくりだしたりする喜び。

・これらは、誰かがそれを手に入れたからといって自分の分が減るということはない。いわば「食べてもなくならないケーキ」のようなもの。これに関心を向けることが重要だ。

***

近代社会を精いっぱい生きる

未来のごちそう


●希少なものを変質させる

こんどは、「“希少性”をどう扱うか」について、もう少し考えます。

本来、最も創造的といえるのは、「従来は希少だった“あこがれ”を、誰もが手にできるようにする」ことです。希少性を克服する革新は、大きな業績です。

だからこそ、活字印刷の発明者のグーテンベルクや、産業革命におけるワット(蒸気機関の発明者)のような人物は偉大なのです。近年だとスティーブ・ジョブズ(アップル創業者)のような人物も同様です。大組織でしか使わない希少な存在だったコンピューターを、個人の日常に持ち込むことに貢献したのですから。

希少性を克服する革新のやり方には、共通の基本があります。それは「希少なもの」を、量産に適合するように変質させることです。「希少なもの」をそのままのかたちで、みんなにいきわたらせることは、多くの場合できません。

たとえば、すばらしい絵画のオリジナルをみんなが所有することはできないので、コピーを印刷したり、画像データで複製したりするのです。あるいは昔の貴族や富豪のように「お抱えの楽団」を所有することはできないから、オーディオ機器を使うわけです。

手書きの写本が印刷になることも、人力や家畜が動力機関に置きかわることも、このような「希少性を克服する変質」です。
パーソナル・コンピューターも、従来の本格的な業務用コンピューターとくらべ、大幅に簡素なつくりです。パソコンの初期の時代には、「こんなものはおもちゃだ」といわれることも多かったのです。

音楽ソフトは、希少性の克服が近年で最もすすんだ分野です。この10数年でたいていの楽曲の海賊版が、タダでいくらでも聴けるようになりました。音楽業界は大変です。

これは、音楽ソフトのデータ容量を、音質を落とさずに削減する技術が進歩して、ネットでの送信や複製が容易になったためです。
データの意味や価値を保ったまま容量を削減する技術を「圧縮」といいます。1990年代半ばに音声データの画期的な圧縮技術である「mp3」という規格が開発され、その後数年のうちに普及しました。

mp3によって、CDのデータを12分の1に圧縮できます。それでも、人間が感じにくい部分のデータをうまく取り除く技術によって、再生したときCDとくらべ遜色がないのです。このような技術は「希少性を克服する変質」の、近年の代表例です。*11


●未来のごちそう

これからの時代は、「希少なものを変質させて普及可能にする」ことは、さらに重要になるでしょう。発展途上国の生活水準が向上し、多くの人たちがより良いものを求めるようになります。そこで、さまざまなものがますます希少になる。

たとえば未来において、世界じゅうの100億の人たちみんなで天然のいいマグロを食べるのは、おそらくむずかしい。地球上にそれだけの天然のマグロはいません。マグロの種のなかで「王様」といえるタイヘイヨウクロマグロ(クロマグロ)は、国際自然保護連合(IUCN)という機関によって2014年に絶滅危惧種に指定されました。*12

それでも100億人でうまい寿司が食べたければ、「いい寿司、うまい寿司」の概念を変えていかざるを得ない。たとえば養殖魚を質・量ともに充実させ、積極的に評価する。これについては現時点でさまざまな取り組みがあります。*13

さらにいえば、何十年後かの世界では、アマゾン川やアフリカの湖あたりで養殖した何かの魚を「トロ」と呼んで食べているかもしれません。あるいは、カニカマのようなフェイクの食品が、重要な寿司ネタになっているかもしれない。最近でも、貴重になったウナギのかば焼きの高度なフェイクが開発されたりしているのです。なお、ヨーロッパウナギは2010年に、ニホンウナギは2014年に絶滅危惧種となっています。*14

これをさらに突き詰めれば、もはや寿司とはいえない何らかの新しい「ごちそう」が生まれるかもしれません。

養殖魚やフェイクのネタによる寿司、あるいはその先にある何かのような、希少なものを変質させた食べものは、いわば「未来のごちそう」です。


●感覚を柔軟にして適応する

そのような「未来のごちそう」をおいしく食べるには、私たちの感性や価値観を変えていく必要があります。従来の「希少なもの」を称賛する感覚から距離を置くのです。「天然」「本物」にこだわり過ぎない、ということです。

フェイクの寿司ネタであっても、それが絶妙につくられていて美味しいということもありえます。そうであれば、「これはこれでいい」と考える。

これからは、暮らしの中のさまざまな要素が「未来のごちそう化」していくでしょう。つまり「多くの人にいきわたらせるために変質させたもの」が浸透していく。

たとえば住まいについては、いい木材を使った家具やインテリアは、これからますます希少なものになるでしょう。そこで、合板(いわゆるベニヤ板)のような、もともとはフェイク的な位置づけの素材が重要になります。

合板とは、薄い木の板などを接着剤で貼り合わせたものです。上等な無垢の板がとれるくらいに十分に育った樹でなくても、つくることができます。これも「希少性を克服する技術」のひとつです。

近年は下の写真のように、合板独特の薄い板が積み重なった切り口を「味わい」として前面に出すことがあります。

 ベニヤっぽい切り口
 ベニヤっぽい切り口
 筆者・そういちの自宅のテーブル

こういうことは、日本ではこの20年くらいで一般的になりました。昔は、このような切り口は化粧板を貼って隠すことが多かった。でも近年の私たちは、「合板の美」を「未来のごちそう」としてたのしむようになったのです。

とはいえ、無垢のいい木材も、もちろん好きです。つまり、私たちの木材についての「美」の感覚は、より幅広く柔軟になったということです。

私は趣味として建築やインテリアに興味があるので、やや細かい例をあげました。みなさんも興味のある分野をみると、「未来のごちそう化」が起きているなんらかの事例に気がつくでしょう。

「美しさ」や「いいもの」についての感覚を柔軟にして「未来のごちそう」に適応する――これは、これからの世界で気持ちよく生きるうえで大事な姿勢です。

ただし最近は、合板でさえかなり希少になってきました。カフェなどの「木を使ったナチュラル風」のインテリアが、木目をプリントした合成樹脂で出来ていたりします。かなり精巧な「木目」もありますが、そこに「美」を見出すことは、私にはまだできていません。こういうプリントは、素材の本来の姿をごまかす不正直な感じがするのです。

いくら「量産に適合するように変質させる」といっても、この手の不正直なやり方は「未来のごちそう」としてはどうかと思います。

これに対し、ありのままの「合板の美」を前面に出すのは「正直」なやり方ということです。こうした「正直・不正直」をかぎ分けることも、「未来のごちそう」的なものとつき合う上では、重要なはずです。


●「未来のごちそう」をつくり出す

そして、「未来のごちそうに適応する」ことをおし進めると、自分で「未来のごちそう」をつくり出すことに行きつくはずです。つまり、希少なものをうまく変質させて多くの人に届ける。そのことで暮らしや社会を変えていく。

前にも述べたように、そのようなことは、近代社会における多くの創造的な偉業の核心です。

偉大な発明家や起業家は、グーテンベルクやワットやジョブズの場合のように、しばしば「希少性の克服」という課題に取り組んでいます。そして、その解決のために「希少なものを変質させる」ことを行ってきました。

最近の身近な・劇的な技術革新の例として、音声データの圧縮ということも、取り上げました。

mp3で圧縮されたデータはオリジナルの音源とくらべ多くのものが抜け落ちているので、貧弱なフェイクにすぎないともいえます。そこで、これを低くみる音楽関係者やマニアもいます。しかし、送受信や複製のしやすさという機能を持ち、それによって多くの人が楽しむことができます。

それはここでいう「食べてもなくならないケーキ」や「未来のごちそう」なのです。

mp3がもたらしたことについての評価は、まだ定まっていません。その恩恵を受けている人たちが世界じゅうにいる一方、海賊版に著作権ビジネスを侵害された音楽業界にとっては大問題です。音楽のつくり手が経済的に報われにくくなり、音楽文化が衰退するのではと心配する声もあります。

「未来のごちそう」は、反発されたり物議をかもしたりすることがあるのです。とくに、「本物」志向のつよい人や、既得権の側からは嫌われやすいです。

しかしそれでも、このようなインパクトの大きな「未来のごちそう」を生み出すのにかかわった人たちは、現代の創造的な人間の典型といえるでしょう。

mp3開発の中心となったカールハインツ・ブランデンブルク(1954~、ドイツ)はもちろんのこと、海賊版のデータを共有するのに使われた画期的なソフトやサービス(1999年に開発されたナップスター)をつくったショーン・ファニング(1980~、アメリカ)のような人物も、大きな業績をあげたといえます。


●いろんな分野でつくり出せる

「未来のごちそう」は、いろんな分野でつくり出すことができるはずです。mp3のような技術の世界にかぎった話ではありません。先端技術がメインの要素ではない、生活や文化のきめ細かなサービスの領域でも、できることがあるはずです。

たとえば、ほんの一例ですが、つぎのようなことです。

・住宅建築の分野では、安価な素材で美しく快適な住まいをつくる技術やセンスが、一層重要になる。これには素材や工法だけでなく、設計やデザインを革新することが重要。つまり、住まいに対する考え方を変えていく必要がある。

・安価な材料で(できれば手軽に)おいしいものをつくるノウハウの開発は、食べものに関わる多くのプロやアマチュアがすでに取り組んでいる。まさに「未来のごちそう」をつくる取り組み。これは、今後ますます盛んになり、さまざまな成果が生まれるだろう。

・教育分野でも「未来のごちそう」を生み出すことは必要。それはつまり、特別な先生に出会う、環境の整ったエリート校に行くなどの希少な機会に恵まれなくても、質の高い教育を受けられるようにすることである。そのためには、たとえば「多くのふつうの教師にも充実した実践が可能となるメソッドやプログラムの開発」といったことが課題である。*15

社会のあらゆる分野で、大小さまざまの「未来のごちそう」はつくり出せるはずです。それがうまくできれば、人びとの自由の拡大に貢献したことになります。

そして、つくり出す側でなくても、新しい「未来のごちそう」があらわれたとき、その価値を認めてユーザーやサポーターになることも、創造的といえます。評価の定まらない新しいものを早くから支持するのは、なかなかできないことです。

たとえば私も「現在よりも大幅に安価で、しかも美しく住みやすい住宅」が開発されたら、ぜひ欲しいです。しかしそのような住宅は、従来とはちがう発想や価値観でつくられるので、最初はかなりの人が「これって、どうなんだ?」というはずです。それを人よりも早く支持するのです。

でもそんな家って、どんなだろう? こじんまりとした、簡素な小屋のようで、しかし一定の設備はコンパクトに備わっていて……想像していると、たのしいですね。

やはり近代社会は、いろいろと考える余地や自由があるので悪くないです。「昔はよかった」「自由や平等のような近代の価値観を疑え」という人もいますが、それよりもあらためて「自由な社会」の可能性に目を向けたらいいのです。(おわり)


(注)
*11 mp3の開発・普及の歴史については、スティーヴン・ウィット『誰が音楽をタダにした? 巨大産業をぶっ潰した男たち』早川書房、2016年 がある。mp3は、当初は権威のある人たちにはなかなか理解されなかった。しかし無名の若者たちによる、海賊版を流通させたナップスターなどのサービスやそのコミュニティによって、急速に広まっていった。同書は、その経緯を興味深く描いている。

*12 マグロその他の水産資源の状況については、勝川俊雄『魚が食べられなくなる日』小学館新書、2016年、22~25ページ による。
  
*13 マグロの養殖では、近畿大学水産研究所が2002年に完全養殖(稚魚からでなく卵を孵化するところから飼育すること)に成功した「近大マグロ」が有名。

*14 うなぎのかば焼きのフェイクとしては、カニカマのような「すり身」の技術でつくられた「うな蒲ちゃん」(株式会社スギヨ)などがある。

*15 私がよく知る(その会員でもある)民間の教育研究団体「仮説実験授業研究会」は、1960年代からこのような観点の研究を行っている。これについては、板倉聖宣『仮説実験授業のABC 第5版―楽しい授業への招待』仮説社、2011年 など。

(以上)
2017年04月18日 (火) | Edit |
以前、30歳くらいの若い人が立ち上げるという小さな雑誌に寄稿することになった、と書きました。そこで昨年末には、いくつかの原稿を仕上げて渡していたのです。

しかし、その雑誌が出せる見通しが立たない状態となってしまいました。雑誌を立ち上げる中心の人の心身の不調や、自身が書くはずの原稿がすすまないといったことからです。ほんとに残念です。このままその原稿を長いことしまっておくのも無念なので、このブログにアップすることにしました。

おもに若い人に向けての「現代社会での生き方入門」みたいな話を、説教臭くならないようにしているつもり。新学期、新年度にもあっているかと思います。

***

近代社会を精いっぱい生きる

食べてもなくならないケーキ


●近代社会とは「自由な社会」

私たちは「近代社会」という、世界の歴史のなかの、ある特殊な社会に生きています。それは、長い時間をかけて人類が到達した、今のところ最も発達した社会のあり方です。

では、「近代社会」とは要するにどういう社会なのか?

ひとことでいうと、「多くのふつうの人でも、したいことがいろいろとできる社会」のことです。いわゆる「自由な社会」。

では「自由」とは何か?

「自由」とは「したいことができる」ということです。身もふたもない定義ですが、要するにそういうことです。

数百年以上昔の社会では、世界のどこをみても人びとの「したいことをする自由」を、法などで制限していました。
たとえば、多くの国・社会で「どんな仕事に就くか」が、生まれながらにしてほぼ決まっていました。江戸時代の日本なら、武士の子は武士に、農民の子は農民に。「身分社会」というものです。*1

この数百年の世界は、「自由な社会=近代社会」を築く方向で動いてきました。「自由」に対する法的な制約をなくしていったのです。とくにフランス革命(1789~1799)や明治維新(1868)のような「市民革命」といわれる政治の大変革は、「自由な社会」が成立するうえでの重要な節目でした。

市民革命後のさまざまな変革のなかで「職業選択の自由」が確立されたことは、「身分社会を脱した」ということです。近代社会は「子どもや若者が“将来何になる?”と考える余地や自由のある社会」です。

今の社会でも、誰もが就きたい仕事に就けるわけではありませんが、それは能力や経済力などが関係しているのであって、法的に職業の自由を制約しているわけではないのです。

このような「自由」に関し、「まだまだ」という国も多くあります。しかし、欧米や日本のような先進国では「近年はかなり自由になった」といえるでしょう。*2


●特別だったことが多くの人にもできる 

でも、こういう話はいかにも抽象的です。自由について、もう少し生き生きとイメージできる手がかりはないでしょうか。

そこで「昔は特別な恵まれた人にしかできなかったことが、今はふつうの多くの人にもできるようになった」という話をしたいと思います。そのような切り口で友人に話をしたところ、「わかってもらえた」ということがありました。

たとえばこういうことです。今の子どもたちは、生まれたときからビデオやデジカメでいっぱい撮影されて育ち、ぼう大な映像が残っています。 では、「生まれたときから、たくさんの映像(動画)が残っている、史上初めての人物は誰か?」なんて、考えたことがありますか?

「それはおそらく、今のイギリス女王のエリザベス2世(1926~)だ」という説があります。映画の発明は、1800年代の末です。エリザベス女王が生まれた1920年代には、映画撮影の機材はたいへん高価なハイテク機器でした。そんな機材と専門家チームを投入して、日常的に撮ってもらえる赤ちゃんは、当時は大英帝国のお姫様くらいだった、ということです。この説がほんとうに正しいかどうかは、立証がむずかしいところがあります。でも十分にありうる話です。*3

90年ほど前には、世界中でエリザベス2世でしかありえなかったことが、今ではだれでもできるようになっているのです。

こういうことは、ほかにも山ほどあります。クルマに乗ってでかけることは、昔はかぎられた人だけの贅沢でした。「好きなときにプロの演奏する音楽を聴く」ことは、蓄音機の発明(1870年代)以前には、自分の屋敷に「お抱えの楽団」がいるような、富豪だけの特権でした。しかし今、多くの人は携帯の音楽プレイヤーという「ポケットに入るお抱えの楽団」を所有しているのです。

すべての自由の基本になる、健康や医療に関してだと、今の私たちは昔の富豪よりも恵まれています。

たとえば1836年に59歳で亡くなった、ネイサン・ロスチャイルドというイギリスの大富豪(当時、世界一の銀行家)の死因は、敗血症という感染症の一種でした。これは、今なら医者に行けば抗生物質などによって比較的簡単に治せる病気です。でも当時の医学では、原因も治療法もわかりません。細菌学が成立するのは、1800年代後半、抗生物質の発見・発明は1900年代前半のことです。ロスチャイルドは、当時の最高レベルの名医に診てもらったのですが、ダメでした。*4


●自由があるという自覚 

たしかに私たちの「自由=できること」は増えているんだろうな、政治の変革や技術の進歩のおかげだな……

そこで、いろいろ考えるわけです。

だったら、今の社会で、私たちはどんなことができるんだろう? 少し昔の感覚で思うよりも、ずっと多くの自由や可能性があるかもしれない。

その可能性を、できるかぎり使い切って生きていけないだろうか。それが、「近代社会を精いっぱい生きる」ということです。

では、「可能性を使い切る」ために重要なことは何でしょうか? 

まず、「自分で自由に制約をかけない」「自己規制しない」ことです。「私たちには、多くの自由=できることがある」という自覚を失わない、といってもいいです。

かなりの人たちは、自分たちの自由を少し前の時代の感覚で考えてしまう傾向があります。「そのようなことを望むのは贅沢だ、分不相応だ」などと、いろんな場面で考えてしまう。


●古い価値観による自己規制

学歴のことは、そのような「自己規制」を考えるうえでよい例です。

2015年(平成27)の、日本における大学への進学率は52%ですが、今から60年ほど前の1955年(昭和30)には8%にすぎませんでした。今のお年寄りが子どもか若者だったころには、そんなものだったのです(進学率=その年の18歳人口に占める大学への進学者の割合)。

2015年の高校への進学率は99%。1955年当時は52%で、今の大卒とほぼ同じ割合です。60年ほど前には高卒は、それなりの「高学歴」でした。*5

このような大学などへの進学率の低さは「昔の日本は貧しかったので、家庭の経済的事情で上の学校に進めない人が多かった」と一般には理解されているはずです。たしかに経済的な問題は、最も大きなことでした。

しかし一方で、それなりの経済力がある親でも「うちは子どもを大学(や高校)にやるような家柄ではない」「そんな“贅沢”をしたら隣近所に気まずい」などと考えて進学させない、といったケースもありました。

たとえば、私がよく知るある男性のお年寄り(1930年代の生まれ)は、経済力のある家に育ち成績もよく、大学進学を希望しましたが、父親の反対で断念しました。1950年代のことです。この人の家は、戦後に商売が成功して裕福になりました。しかし、父親は「ウチはまだお前を大学に行かせるような家の“格”ではない」といったそうです。

その父親の頭には、当時よりやや前の、戦前の社会の感覚が残っていたはずです。つまり「大学は、ごくかぎられたエリート家庭の子弟が行くもの」というイメージです。

では戦前の大正~昭和(戦前)の進学状況はどうだったのか? 1915年(大正4)には、義務教育への就学率(ここでは≒進学率)は98%ほどでしたが、今の高校に相当する中等教育(旧制中学など)の就学率は20%を少し切るくらいでした。

そして、今の大学に相当する高等教育の就学率は1%ほどでした。ここで高等教育とは、当時の「旧制高校」「専門学校」「旧制大学」といった学校のことです(教育制度が今とちがう)。とにかく、高等教育への進学率はきわめて低かったのです。なお、中等教育の就学率は1930年(昭和5)には36%になっています。*6

また、戦前の典型的なエリートとされた学歴に、旧制高校→帝国大学というコースがあります。帝国大学とは、東京帝大などの少数の国立大学のことで、高等教育の最高峰です。旧制高校は、一応は高等教育ですが、大学への準備段階的な位置づけでした。旧制高校の卒業生は、ほとんどが帝国大学へ進みました。

1930年(昭和5)には、20歳(旧制高校卒業の年齢)の男子に占める旧制高校生の割合は、わずか0.9%でした。なお、当時の旧制高校は男子しか行けません。*7

こういうことから、「大学はふつうの人間にとってかけ離れた世界」とされたのです。

著名人の例もあげましょう。小倉金之助(1885~1962)という、昭和に活躍した数学者は、山形県酒田市の裕福な商家の子でしたが、義務教育より上の学校に行くことを、家族に反対されています。明治時代後半の1900年ころの話です。家族としては、早く家を継いでほしかったのです。それでも小倉はくい下がって進学し学問を積んで、学者になったわけです。*8

このように、経済以外の問題でも進学が阻まれることがありました。それで人生における自由や可能性を狭めることになった若者がいたのです。その数はともかく、ここでは「そういうケースがあった」ということが大事です。

「経済以外の問題」とは、その当時の大人たちの価値観にもとづく「自己規制」でした。その価値観は、少し前の時代のあり方につよく影響を受けています。

近代社会では、「人びとの自由=できることの拡大」が続いています。そこで「自由の拡大」という変化に、かなりの人の頭や気持ちがついていかない、ということがあるのです。

今の社会では、経済的問題は昔ほどは深刻ではなくなりました。だからこそ「人は古い価値観で自由を自己規制することがある」のを自覚して、用心したほうがいいです。

創造的・挑戦的な何かをやろうとしたとき、周囲から「それは贅沢だ・高望みだ」「お前にそんなことできるのか」といわれることがある。自分自身のなかからそんな声が聞こえることも多い。

そこで、冷静に考えてみるのです。「やはり難しいのかも」と考えるのもいいです。しかし、「ほんとうは十分に可能性があるのに、自己規制していないか」「“贅沢”というのは昔の感覚であって、これからはちがうのでは」という方向でも、よく考えることです。


●しかし、手に入るものは限られている 

ではさらに、「自由を自覚する」という「基本」の先のことを考えてみましょう。

さきほど「私たちは、昔なら“贅沢”“高望み”と思われたことも、自己規制せずに追求すればいい」と述べました。しかし、だからといって「なんでも手に入る」わけではありません。「手に入るものは限られている」という自覚も重要です。しかしこれは、かならずしもあたりまえにはなっていないようです。

近年の大学生の就職活動は、それを示しています。
大学生の就職活動では、少数の企業に応募が集中する傾向があります。とくに人気の企業では、エントリーが採用人数の数百倍(かそれ以上)に達します。

ここ10年来(2006~2015)の毎年の大学の卒業生は、55万人前後であまり変わっていません。うち就職者は年によって変動があり33~41万人。それに対し、学生の人気ランキングの上位100社(「日経人気企業ランキング」による)の新卒採用の人数は、推定で2万人ほどです(2010年)。*9

つまり、有名な人気企業からの内定は、相当に希少なものです。そのかぎられた「席」を得ようと学生が殺到しているのです。

インターネットで手軽にエントリーできるようになったことは、たしかにこれに影響しているでしょう。しかし、さらに根本的なことがあります。多くの学生が「人気企業への就職という希少な成果を、自分も手に入れる権利がある」とつよく思っている、ということです。

このあたりを、チャールズ・イームズ(1907~1978)というアメリカのデザイナーが、すでに1970年代に述べています。*10

“今私たちが生きている世界は、情報とイメージが徹底的に均質化され、多くの面で誰もが同じものを受け取っている状況にあります。……この状況はテレビによるところが大きいでしょう。ともかく、ひとつ確かに感じるのは、この20年で人々の期待が大きくなったということです。今日では、ある普遍的な期待が存在します。他人がもっているものは自分にも手に入れる権利があると誰もが感じているのです”
(イームズ・デミトリオス『イームズ入門』日本教文社、127ページ)

ここで「テレビによる」というところは、今なら「インターネット」も加えればいいでしょう。今の学生の就職活動は「多くの面で誰もが同じものを受け取っている状況」の最たるものです。学生たちは就職について知識も経験もないまま、ごく少数の大手就活サイトから大きな影響を受けているのですから。

だからこそ「他人が持っているものは自分にも」という期待が、とくに大きくなりやすい。「手に入るものは限られている」という自覚は、片隅に追いやられてしまう。それは、特定の人気企業へのエントリーの集中につながっています。そして、なにしろ競争率が「何十倍」「何百倍」ですから、ほとんどの学生の期待は裏切られるのです。


●希少性の克服

多かれ少なかれ、今の私たちには就活中の学生と同じような傾向があります。つまり、他人のもっているものを自分も手に入れたい、手に入れることができるはずだという考えが一般的になっている。

これは、これまでの近代社会の歩みの結果です。

「技術革新などによって昔は特別な人間にしかできなかったことも、多くのふつうの人にもできるようになる」ことが積み重なってきたので、私たちの期待も大きくなったのです。

こうした技術革新は、「希少だったものを大量生産する」という方面で、とくに成果をあげました。

1400年代後半のヨーロッパでは活字印刷の技術が発明され、それまで手書きの写本だった書物が安くなり、大量の書物が流通するようになりました。1700年代イギリスの産業革命は、木綿産業からはじまりました。これによって品質のよい衣類が多くの人にいきわたるようになったのです。もともとは書物や良質の衣類は希少なものでしが、それを技術革新が克服しました。

このような「希少性の克服」が最もすすんでいるのは、ソフトの分野です。文章・映像・音楽・ゲームなどの世界。デジタル化とインターネットのおかげで、このようなソフトに関しては、いろんなものがタダで手に入るようになりました。

一方、希少性の克服がそれほどはすすんでいない分野もあります。天然の良質な素材を使った何か、すぐれたプロが手間暇かけてつくりあげる製品やサービスなどです。

良質の素材で一流のシェフがつくった料理、すばらしいアーティストのコンサートなどは、その典型です。これらの供給には限りがあります。さまざまな高級ブランドの製品も、ある程度それに近いです。

有名な人気企業に入るという「席」も、希少性が克服されていません。経済発展によってその席はかなり増えましたが、大学生の増加がそれを大幅に上回っています。人気企業への就職活動は、限られた席をめぐって競争し、参加者のほとんどが残念な結果に終わらざるを得ないという意味で、まさに「椅子取りゲーム」です。

これまでの文明や技術は、さまざまなモノの希少性の克服を重要なテーマにしてきました。しかし、それがすすんでいる分野とそうでない分野がある。

多くの人がまずあこがれ、関心を持つのは後者です。一流シェフの料理や高級車のようなもの、あるいは人気有名企業に入ることなどです。それらはたしかに魅力的ですが、そればかりを追い求めても、多くの人には無理があるように思います。なにしろ数に限りがあります。


●あこがれの新しい対象(食べてもなくならないケーキ)

だとすれば、希少性に縛られない世界に関心をもつことが重要ではないでしょうか。

このことに関し、さきほどのチャールズ・イームズは「あこがれの新しい対象」ということを述べています。ややわかりにくい表現ですが、「食べてもなくならないケーキのようなたのしみ」だと、私はイメージしています。

たとえば、外国語のような「新しい何かを学ぶたのしみ」は、食べてもなくならないケーキです。このたのしみを味わう席には、かぎりがありません。何かを学ぶたのしみは、得ようと行動するなら、誰もが得ることができます。努力は要りますが、たいていはお金もそれほどはかかりません。

イームズは“大事なことは、それらがどんなに分配されても決して減らないこと”“それを手に入れるために必要な貨幣は、その習得に全力を傾けられる能力”である、と述べています。

彼はこういうたのしみを、たとえば高級車のような、多くの人がまず関心を持つ従来の「あこがれ」とは異なるものとして「あこがれの新しい対象」と呼んだのです。(『イームズ入門』127~128ページ)

今の私たちが本来持っている自由や可能性を活かし切るには、「あこがれの新しい対象」あるいは「食べてもなくならないケーキ」の世界を追求することです。そうすると、成果や満足を得やすいはずです。きびしい競争をともなう「椅子取りゲーム」からは距離を置くことを考えるのです。


●「調和」のあり方を追求する

これは、前に述べた「贅沢や高望みと思えることでも、挑戦してみよう」というのとは食いちがう、と思うかもしれません。

しかし、「贅沢」「高望み」ということと、「食べてもなくならないケーキを求める」「椅子取りゲームから距離を置く」ことは、両立することがあります。

外国語の学習でいえば、そこで高いレベルに達して外国語を使う仕事に就きたい、という望みを抱いたとします。かなり高い目標で、簡単ではありません。しかし、そのような職のポストは社会の中にいろいろあるので、少ない席を争うような椅子取りゲームとはちがいます。勉強するための手段も、さまざまな方法があり、やる気さえあれば多くの人がその手段にアクセスすることが可能です。

このような「両立」は、私にもおぼえがあります。それは「文章を書く」ことです。私は、ほかの仕事をしながら、世界史などのテーマで本を出しています(最新刊は去年8月に出した『一気にわかる世界史』日本実業出版社)。

本の出版(商業出版)は、それなりに高いハードルですが、出版社は世の中にたくさんあります。商業出版に耐えるレベルの原稿を書けば、いつかどこかで出してもらえる可能性はあります。「椅子」が、世の中のいろいろな場所にいくつもあるのです。

また、自分の書きたいことを書くのには、「食べてもなくならないケーキ」を味わうような、飽きの来ないよろこびがあります。出版しなくても、限られた範囲で読者を得るというたのしみもある。

この雑誌(今回頓挫してしまった小規模出版の雑誌)を創刊し(ようとし)た人たちも、その活動を「食べてもなくならないケーキ」としてたのしむつもりなのでしょう。(私が参加しようとした雑誌は実現していませんが、最近は欧米でも日本でも小規模出版社もしくは個人で雑誌をつくる動きはさかんになっている)

自分なりの「食べてもなくならないケーキ」をみつけましょう。大きなケーキでなくてもいい。小さなケーキをいくつも積み重ねていくというやり方もあります。

それは「自分の持つ本来の自由や可能性を、自己規制しないで使い切る」という方針を、「手に入るものは限られている」という現実に調和させることなのです。

そのような「調和」のあり方を追求することが、近代社会を生きるコツです。

そこで役立つ道具も、いろいろとできています。

この雑誌を立ち上げ(ようとし)た人たちは、創刊の資金を「クラウドファンディング」という手段によって、寄付で集めました。これは「フィンテック」(「ファイナンス」と「テクノロジー」を合わせた造語)といわれる、インターネットなどを使った新しい金融の手段のひとつです。何かのプロジェクトを立ち上げたい人が、ネットを通じ出資や寄付を募る。それを容易にする機能を持つサイトを運営する企業や組織が、最近はあります。

また、さまざまなコンピューターソフトが手軽に使えることも、雑誌づくりを支えています。たしかに、私たちの「自由=できること」は増えているのです。(つづく)


(注)
*1 江戸時代の身分別の人口割合は、武士とその家族が全体の6~7%、農民が85%程度、町人が5~6%、その他(僧侶・神主など)が3%程度。(板倉聖宣『日本歴史入門』仮説社、1981年、13ページ。近代社会における「職業の自由」の重要性も、同書に学んだ)

*2 現在の世界でも身分制度のようなものはある。たとえば、今もすべての中国人の戸籍は農村戸籍(全人口の6割)と都市戸籍(4割)に分けられている。農村戸籍の者が都市に移住することには、きびしい制限がある。医療や社会保障について、都市戸籍の人が受けられるのと同じサービスを、農村戸籍の人は原則として受けられない。農村から出稼ぎに来ている人びとは農村戸籍のまま都市で働いており(農民工という)、都市戸籍の人たちと同権利ではない。大学入試でも、たとえば北京大学の合格ラインは、農村出身者は北京出身者よりも不利だったりする。このような「身分制度」は1950年代後半に、農村からの大量の人口流入を防ぎ、都市の食料事情を安定させるなどの目的で定められた。(中島恵「中国人が逃げられない、「戸籍格差」の現実」東洋経済ONLINE、2015年5月26日)

*3 この「エリザベス女王」のことについては、出典不明。筆者が学生時代に授業で読んだ英文のエッセイにあったと記憶している。

*4 D・S・ランデス『富とパワーの世界史 「強国」論』三笠書房、2000年、20~21ページ)。ロスチャイルド家は、ユダヤ系の金融資本家で、当時の世界の金融経済で支配的なパワーをもっていた。

*5 「文部科学統計要覧」「学校基本調査」による。

*6 大正~昭和戦前期の学歴:岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』講談社現代新書、2006年、112ページ。当時の義務教育は6年制の尋常小学校で、その上の中等教育には5年制の旧制中学や高等女学校などがあった。また、義務教育以外では、男女によって学校がきびしく区別・差別されていた。

*7 竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折(日本の近代12)』中央公論新社、1999年、34ページ

*8 小倉金之助『一数学者の回想』筑摩叢書、1967年、19ページ。小倉のこのエピソードは、もともとは、板倉聖宣『かわりだねの科学者たち』仮説社、1987年 から知った。

*9 「学校基本調査」、海老原嗣生『就職に強い大学・学部』朝日新書、2012年、45~47ページ

*10 チャールズ・イームズは、ミッドセンチュリー(20世紀半ば)を代表するデザイナー・映像作家。妻レイ(1912~1988)とともに「チャールズ&レイ・イームズ」として活躍。成型合板(ベニヤ板の一種)や繊維強化プラスチックなどの新素材を用いて、イスのデザインを革新した。イームズが取り組んだのは、大量生産が可能な質の高い家具をつくることだった。住宅「イームズ自邸」や短編科学映画「パワーズ・オブ・テン」も評価が高い。

(以上)
2016年12月28日 (水) | Edit |
今年のまとめのような記事を書きました。
タイトルの「一挙解決願望」ということは、これまでにも書いたのですが、ほかの素材とも合わせてまとめなおしたものです。

***

これを何とかすれば、すっきりする?

私たちは、ときどき「問題を一挙に解決したい」という切実な思いにとらわれます。「これを何とかすれば」というポイントさえ片付ければ、すべてがすっきりする、と思い込む。いわば「一挙解決願望」です(筆者の造語)。

たとえば「会社を辞めればすっきりする」「この人と別れれば自由になれる」と考える。

でもたいていは、会社を辞めても、配偶者と別れても一挙解決とはいかないのです。むしろ、辞めたり別れたりしたことで、経済的問題などの、新たな苦しみを抱えることになったりする。

辞めたり別れたりする前に、すべきことはないでしょうか? 会社で不満があるなら、プライベートを充実する、会社での人間関係を少しでも修復するなど、劇的ではないけど現実的な対処を重ねる、というやり方もあります。

昨年(2016年)6月、イギリスでは「EU離脱」を国民投票によって決めました。

移民さえいなければ、EUのさまざまな縛りさえなければ、いろんなことがよくなるはずだ。離脱してすっきりしよう……。イギリス国民のあいだでは、一挙解決願望が大きな力を持っているのです。

昨年11月のアメリカ大統領選挙の結果も、米国民の一挙解決願望がもたらしたといえます。

近年のグローバル化や格差の拡大などに不満を持つ人たちが、トランプ候補を支持した、とされます。トランプなら、問題を一挙に解決してくれるはずだ、と。


世界大戦をもたらした「一挙解決願望」 

さらに極端に「一挙解決」を求める方向に行かないか、という心配もあります。

第一次世界大戦や第二次世界大戦は、そのような願望が暴発した、最大の事例です。このときは指導者や国民が、深刻な失業や、国際関係での緊張のような、さまざまな問題を戦争によって、世界をリセットするような感じで一挙解決しようとしたのでした。

たとえば、第一次世界大戦(1914~1918)はこうでした――この大戦は、バルカン半島(ヨーロッパ東南部)での、オーストリアとその支配下にある諸民族、近隣のロシアの間の紛争がきっかけです。しかし大戦争になったのは、その紛争に介入したドイツによる暴挙のせいです。その暴挙に「一挙解決願望」が絡んでいます。

ドイツは、オーストリアを支援してバルカン半島の問題に介入する一方で、長年対立関係にあった隣国のフランスを大軍で攻撃したのです。そして、「バルカン方面で戦う間にフランスに攻められないよう、先にフランスを攻撃しよう」と考えた。それで大きな戦争になっても構わない……。ドイツによるフランス侵攻をうけてイギリスはドイツに宣戦布告し、大戦がはじまりました。

当時のドイツ人には、つよい「一挙解決願望」がありました。

ドイツは1800年代後半に急速に発展し、その産業や軍事力はヨーロッパ最大となりました。しかし、植民地の獲得では先に発展したイギリスやフランスに遅れをとり、国際社会での地位は今ひとつ。ドイツ人はそれに苛立っていました。戦争に勝利すれば英仏中心の国際秩序を一挙にリセットできる。ドイツの指導者はそう考え、勝負に出たのです。
(木村靖二『第一次世界大戦』ちくま新書などによる)

しかし結局、英仏およびアメリカの陣営に敗れました。第一次世界大戦の結果、国際秩序はドイツに一層不利になりました。さらに大恐慌(世界的な大不況、1929~)以後は、失業や貧困が深刻化しました。

第二次世界大戦(1939~45)をひきおこした中心人物のヒトラーは、さまざまな問題を一挙に解決する新しいリーダーとして期待されたのです。


解決手段としての植民地

昭和の戦前期(第二次世界大戦前夜)の日本人も、当時の英米中心の国際秩序に反発していました。農村は貧しく、若者が都会に出ても仕事がない。

問題解決の手段として指導者が選んだのは、植民地の拡大です。植民地の資源や労働力を利用して、富や仕事を生み出す。国民の多くも、それを支持しました。

昭和戦前期の日本は、はげしい格差社会でした。人口の1%の最上位の高所得層が、全国民の所得の2割を占めていました(この「1%シェア」は、現代の日本だと1割ほど。(『週刊エコノミスト』2014年8月12日・19日号の記事による)

戦前を知る下村治という昔のエコノミストは、50年ほど前にこんな主旨のことを述べています。

「当時の社会問題の根底には、人びとに十分な富や職をいきわたらせることができない“人口過剰”の問題があった。当時の状況では、これを内部的な成長や福祉政策では解決できないと思われた。そこで資本主義を崩すことが解決だと思った人は社会主義のほうへ行き、領土を広げて植民地から富を得ることで解決しようとした人は軍国主義へ走った」
(原田泰『世相でたどる日本経済』日経ビジネス人文庫による)

そして、軍国主義が選択されたのです。地道に時間をかけて問題に取り組むのではなく、侵略戦争で一挙に解決しようとした。


「ポピュリズム」でいいのか?

最近の世界は、あちこちで一挙解決願望が大きくなっています。ひと昔以上前の世界では、この願望が力を持つのは、おもに発展途上国でした。貧しく・苦しい状況を一挙に変えてほしいという人びとの願いが、さまざまな革命やクーデターの背景となってきました。

しかし、近年はもっと発展した国ぐにで、一挙解決願望が力を持っています。昨年のイギリスとアメリカでの出来事は、それを明確にしました。

この現象は、マスコミでは「ポピュリズム(大衆迎合主義)の台頭」などといわれます。そこには「政治家が無知な国民を煽っている」というニュアンスがあります。

しかし、何かちがうというか、足りないように思います。それより、この現象は「人の心の、よくある基本的な傾向と深く結びついている」という点に、もっと注目すべきではないか。

そのような「傾向」の中心にあるのが、ここでいう「一挙解決願望」です。そういう願望が、人の行動に大きな影響をあたえることがある。

「無知な大衆が煽られている」という枠組みだけでものごとをみても、ピンときません。まさに「上から目線」になってしまって、その現場にいる人たちの感覚がわからない。

一挙解決願望を抱く人たちが、何に不満を感じているかも、「グローバリゼーションに取り残された人たちの怒り」みたいな調子で、簡単に決めつけないほうがいいでしょう。経済はたしかに関係しているのでしょうが、それだけではないかもしれません。

私たちが、辞めたい、別れたい、それですっきりしたいと思うのだって、簡単には説明できないことも多いです。説明しにくいことを、なんとか感じとろうとする姿勢が今は必要に思えます。「これは、ポピュリズムだ」などとまとめてしまうと、感じとることのさまたげになる。

ぜひとも、「一挙解決願望にご用心」ということを、忘れないようにしましょう。個人の小さなことでも、世界情勢についても。
まずは、自分自身がその願望にとらわれないように。
そして世の中でそのような「願望」がどうして力を持っているのか、決めつけることなく、あらためて自分の心のうちや現実に問いかけてみよう。来年はとくにそれが大事な年になるのでは?

(以上)
2016年11月12日 (土) | Edit |
アメリカは、私たちが思っていた以上に、深く分断されていた。
そんなことを、今回のアメリカ大統領選挙の結果を受けて、負けたクリントン候補は言っていました。

テレビや新聞をみると、多くの識者もそんなことを言っています。
そして「この分断という現実を、私たちは深刻に・真摯に受けとめなければならない」みたいに話を結ぶ。

その通りだと、私も一応は思います。
では、「国民や社会の分断」ということを問題として深刻に受けとめた先には、どんな考えがあり得るでしょうか。

今、よく目につくのは「団結」という言葉です。
アメリカ国民は深く分断されてしまっているけど、もう一度アメリカの旗のもとに団結しよう。
こういう論調は、今後さらに強くなるのではないか。

でも私は団結という言葉は、用心すべきものだと考えます。

団結ということが言われるとき、まず思い浮かぶのは「多様な立場を超えて、社会のさまざまな存在が信頼関係を結ぶ」というイメージです。これはたしかに理想です。理想的であるだけに、実現にあたってはさまざまな困難が生じます。多様な立場が共存しようとすると、さまざまなあつれきや緊張が生じるので、疲れます。

そこで、団結を掲げるときには、しだいに「団結に加わることが無理そうな、不純な存在を排除しよう」という動きが強くなることがしばしばあります。不純なものを排除する、つまり集団の均質性を高めて結束を強化する、ということです。

これは、大小さまざまな人間の集団でおこなわれてきたことです。少数の反対派を排除する、よそ者を排除するといったことは、どこでもよくある話。

世界史をみわたしても、国家的なレベルで「不純な存在の排除によって社会の結束をはかる」という方向の政策は行われてきました。

***

たとえば、1685年のフランスのルイ14世の「ナントの勅令の廃止」という、世界史の教科書などにも出てくる事例があります。ルイ14世はベルサイユ宮殿をつくった、「太陽王」といわれるフランス史上最も権勢をふるった国王です。そのルイ14世は、「プロテスタントというマイノリティ迫害」の政策を強く打ち出したのでした。

それ以前には、フランスでは1598年に国王アンリ4世によって「キリスト教徒の従来の主流であるカトリックと、新興勢力のプロテスタントの両者に、ほぼ対等の権利を認める」という「ナントの勅令(国王による命令)」が出されました。

このときまで、フランスでは、既存のキリスト教に反対して1500年代前半におこったプロテスタント(フランスではユグノーと呼ぶ)と旧来の勢力であるカトリックのあいだの激しい争いが続いていました。

ナントの勅令は、その争いをおわらせました。

そして、プロテスタント=ユグノーには、当時勢いのあった商工業者が多くいたので、ユグノーに権利や自由を認めたことは、その活動を活発にして、フランス経済の発展をもたらしました。

しかし1600年代末になって、ルイ14世はそのような「カトリックとプロテスタントの共存」を終わらせたのです。プロテスタントの教会は破壊されました。プロテスタントは海外への脱出も許されず、財産を没収されるとともにカトリックへの改宗を強要され、拷問や奴隷的な強制労働といったこともしばしばあったのでした。

ルイ14世がこのようなことを行ったのには「カトリックとプロテスタントのあいだのあつれきによる社会のさまざまな問題を一挙に解決したい」という思いがありました。ナントの勅令のもとでも、やはり両者のあいだには深い溝があります。とくに、カトリックの側には商工業で栄えるプロテスタントへの不満や嫌悪がありました。今でいえば「格差」への怒り、ということです。

フランス王家はカトリック教徒であり、国民の多数派もカトリック。ルイ14世は、異端のマイノリティーをフランスから排除することで、国の安定や結束をはかろうとしたのでした。そして、プロテスタントの徹底的な弾圧という、強引な手段を実行するだけの権力をもっていたのです。

「ローマ教皇にもできないことを実行した」と、当時の国際社会は驚き、震撼したのでした。

ルイ14世はある意味で成功したといえます。ルイ14世の治世は、フランス王国の最も華やかな時代だったとされるのですから。

しかしその一方で、プロテスタントを壊滅させたことで、フランスの商工業は大きなダメージを受け、経済の停滞や国の財政悪化の大きな一因となりました。国際的にも孤立していきます。それは最終的にはフランス革命という体制崩壊につながっていきます。

また、海外脱出を禁じられていたとはいえ、多くのプロテスタント(ユグノー)がフランスからどうにか逃げ出し、近隣諸国へ移住していきました。その後のドイツ(プロイセン)、スイスなどの経済の発展に、ユグノーは貢献しています。

つまり、フランスでのユグノーの迫害は、長期的にはフランスの停滞や混乱をもたらし、周辺諸国の利益になったのです。

おそらく、そのような結果を予測して警鐘を鳴らした人も、同時代にいたことでしょう。しかし、そうした見解は、当時は力を持ちませんでした。

当時の権力者は「不純なものを排除して、国を強固にする」という考えを採用し、国民の多数派でであるカトリックの人びとも、それを支持しました。だからこそ、ルイ14世の政策は実効力を持ちました。

そして、それなりの「結果」も出たのでした。ルイ14世時代のフランスは華やかな文化が栄え、国の勢いを誇ったのです。ルイ14世が建設したベルサイユ宮殿は、フランス王国の偉大さの象徴でした。ヨーロッパを制覇しようと対外戦争をさかんに行うだけの軍事力もありました。しかしその一方で経済の停滞、財政の悪化などの問題が深刻化していきました。

後知恵でみれば、ルイ14世時代のフランスは、1600年代のナントの勅令のもとで培った成果や遺産を食いつぶしていたのでしょう。しかし、社会を純化して結束することで、少なくとも一時的には「偉大な国家」があらわれたようにもみえる。このようなことは、ルイ14世時代のフランス以外でもみられます。

こういう「社会を純化することによる、うわべの一時的効果」は、問題をややこしくしています。

ルイ14世と同様の例は、歴史上ほかにもあります。私たちがまず思い浮かべるのは20世紀のヒトラーがユダヤ人に対して行った、さらに残虐で徹底した迫害でしょう。そしてヒトラーも一時的には「偉大なドイツ」を再建したといえるのです。世界中を相手に戦争ができるだけのパワーを持つ国に、ドイツを立て直したのですから。しかし、その先には破滅があったわけです。

***

国民の分断が自覚されたとき、まず思い浮かべないといけない言葉は「団結」ではなく、「寛容」です。
あるいは「妥協」といってもいい。

それは、不純や混乱や不安定さや緊張を受け入れる、ということです。そこにある問題を、一挙に全面的に取り除くのではなく、いろんな調整で緩和していこうとする発想です。そこには、純粋な理想や正義ばかりでなく、多くの打算などのズルいことが混じっている。でもそれが「寛容」ということだと、私は考えます。

子ども向けのような言い方をすれば「気に入らないヤツがそばにいても、仲間はずれにしないでガマンしよう。相手の取り柄や、妥協できるところ、利用できる点などをさがそう」という考え。

ちなみに「ナントの勅令」は、じつに現実的な妥協の産物です。

この勅令を出したアンリ4世は、もともとはプロテスタントの首領といえる存在でした。前王が暗殺されて即位したのですが、そのときまでに続いていたカトリックとプロテスタントの間の内戦をおさめるために、カトリックに改宗しました。多数派と徹底対立しては国王として国を治めることは困難です。しかし、もともとの仲間だったプロテスタントも納得させないといけないので、プロテスタントの権利を認めるナントの勅令を出しました。

「国王はプロテスタントからカトリックに改宗、一方でプロテスタントの権利を認める」というのは、なんだかいかにも妥協的です。でも、そういうスタンスが寛容ということの基礎になっています。ナントの勅令が生きていた1600年代のフランスは、ヨーロッパのなかで最も宗教的に寛容な社会でした。そしてその寛容は、繁栄を生んだのです。

これからのアメリカをみていくうえで私が注目したいのは「トランプが、あるいはそれに反対する人たちが、どこまで妥協的になれるか」ということです。

きまじめな人たちからみて「いいかげんだ」「不純だ」と批判するような落としどころの模索が、いろんな分野で起きるなら、まだアメリカには救いがあるでしょう。

しかし、トランプ側であれその反対派であれ、どちらかが「これですべてがすっきりする」と喜ぶような方向へ行くなら、いずれにしてもまずいと思います。

どうなるでしょうか? これまでのアメリカ人はほかの国民にくらべて、妥協や調整は得意なほうでした。寛容ともいえるし、ズルいともいえる現実的な人たちだった。今後その性質が失われていくようだと、アメリカはいよいよ劣化してきた、ということです。

以上
2016年09月22日 (木) | Edit |
先週末にテレビをみていたら「○○に10万円あげたらこんな使い方された」(TBS)という番組をやっていて、ちらちらみてました。

「10万円あげるとしたら何をしますか」と、街角でいろんな人に聞いてみる。
多くの人は、旅行に行く、貯金する、何かの足しにしたい、などという。でも、おもしろい使いみちを考えている人がいたら、10万円をあげてそれを実行してもらう。

番組のなかでは数名の10万円をゲットした人が登場しました。

とくにおもしろかったのは、ベトナム人の、電気の通っていない村に住む若いお父さん。

その人は、ソーラーパネルと扇風機を買いました。LED照明とバッテリーはもっていたけど、不調で使いものにならなくなっていた。ソーラーパネルによって、LED照明も復活。ささやかだけど、10万円で電気のあるくらしを実現した、というもの。

途上国だと、そういうニーズや発想があるんだな。それに今の技術だと、10万円でパーソナルなかたちで「電気のあるくらし」を実現できる、というのもおもしろいと思いました。

ベトナムでは、ほかに「子どもの学費の足しに」とか「牛を2頭買う」と答えた人もいました。「自分より貧しい人にあげちゃう」なんて人もいました。

日本のケースだと、北海道の羅臼(らうす)という昆布の名産地に住む30代女性のケースが印象的でした。「地元の人も滅多に口にできない、最高級の昆布をたくさん買って、それを使った料理をお世話になった町の人にふるまう」というのです。この人は数年前に札幌から羅臼に移り住んだのです。

「自宅のアパートでプロジェクションマッピングをする(そのための機材を買う)」という東大生のケースも、なかなかおもしろかったです。

10万円あると、いろいろおもしろいことができるわけです。
ベトナムだと、10万円は日本の数十万円かそれ以上の重みがあるでしょうが。

そういえば私も、数万円から10万円で、旅行やふつうの買い物ではない、ちょっと楽しいことをしたことがあります。
「こども文庫」「家庭文庫」みたいなものをつくったのです。

妻が雑居ビルの1室を借りて小さな書道教室をしています。
その部屋に小さな本棚をしつらえ、子どもや大人が楽しめる本を並べたのです。メインの本棚は知人の建築家(寺林省二さん)がDIYでつくって寄贈してくださった。これを「そういち文庫」と名付けました。

そういち文庫の蔵書は、今は100数十冊といったところ。
すでに持っていた本を並べたりもしましたが、100冊くらいは新たに買ったでしょうか。ブックオフなどで安く買ったものもありますが、新刊を買ったものも多いです。少しづつ買い足して、今までで10万まではいかないけど、何万円か費やしました。

そういち文庫の本は、書道塾の大人や子どもの生徒さん(合計で20数人)が借りていきます。

文庫を開設したのは2015年3月でしたが、ついこのあいだ貸出ノート(ふつうの学習ノート)の1冊目がいっぱいになったので、2冊目のノートをつくりました。そういち文庫はそれなりに繁盛しています。これは、本好きとってなかなか楽しい遊びです。

 2015年8月のそういち文庫・本を増やした

 そういち文庫で本を読む帽子の子

「子ども文庫」「家庭文庫」を自分でやってみたい、でも今の私の経済力では無理、いつか将来は、みたいなことを述べているのを、インターネット上でみかけたことがあります。

たしかにそれぞれの事情というのはあるでしょうが、でも、とりあえずの「文庫」をつくるのは、たぶん数万円あればできるのです。今「数万円」がなかったとしても、貯めることのできない金額ではない。問題は「お金がない」ということとは、少しちがうような気がします。

私たちは「もっとお金があったら、○万円くらい手元にあったら、こんな夢を実現したい」と、ときどき考えます。
しかしその夢は、もともとイメージしているよりも、ずっと少ない金額でどうにかなるのかもしれない。

そんな発想はやはり大事なのでしょう。

たとえばこんなこともありました。
グレーザーというアメリカの物理学者は、1950年代に、素粒子研究に使う画期的な観測装置のアイデアを思いついたのですが、研究予算がなかった(大学などの理解を得られなかった)。そこで、自宅にあった古いラジオの部品などで、それなりの装置を組み立てました。そして、それを出発とした研究は高く評価されて、1960年にはノーベル賞を受賞したのでした。

やっぱり、「今はお金がないから、何もできない」というのは、もったいない考えではないかと。
もしも今手元に1万円しかないなら、それで何かできないか。

***

などと偉そうに書きましたが、これから私は10万円くらい使って妻と2人で小旅行に行ってきます。
おいしいものを食べたり、ごくありきたりなお金の使い方をしてきます。

行ってまいります。

***

最近本を出しました。

中心の移り変わりから読む 一気にわかる世界史(日本実業出版社刊)←こちらをクリック

2016年09月10日 (土) | Edit |
この2、3回のブログにも書いたとおり、つい最近世界史の本を出版しました(『中心の移り変わりで読む 一気わかる世界史』日本実業出版社)。その作業の追い込みのこの何か月かは、世界史関係以外の本を読むことが減っていました。

しかし、このところは世界史以外の本を、以前に読んだものも含め、たて続けに読んでいます。これが楽しい。おもに、現代日本の社会・経済にかかわる本。

たとえば、吉川洋『人口と日本経済 長寿、イノベーション、経済成長』(中公新書、2016)、村上由美子『武器としての人口減社会 国際比較統計でわかる日本の強さ』(光文社新書、2016)を読みました。

どちらの本も「少子高齢化時代の日本、その中長期の未来」を考えるというもので、よく読まれているようです。

このほか、数か月前に読んで今回読み返した、橘木俊詔『日本人と経済 労働・生活の視点から』(東洋経済新報社、2015)にも、共通の問題意識があります。

吉川『人口と日本経済』の最もおもな主張は、「人口が減っても、その国の豊かさに深くかかわる1人あたりGDPが向上できればいい」「1人あたりGDPを向上させるのはイノベーション(技術革新やすぐれた新企画で画期的な製品やサービスを生みだすこと)。イノベーションこそがカギだ」ということです。

こういう主張は「あたりまえ」といえば「あたりまえ」なのですが、著者はケインズ経済学の研究などで知られる有名な学者。そういう権威がていねいにさまざまな経済統計を示し、マルサスやケインズのような古典的な大学者の言説も引用しつつ述べているので、「説得力や厚み」を読者は感じるのだと思います。「やっぱりそうだよね」と、再確認ができる。

村上『武器としての人口減少社会』も、「イノベーションこそが重要」という基本的な考え方に立っていると思います。

『人口と日本経済』との関連で本書を読むならば、イノベーションを起こし、そこから産業・経済を発展させるうえで有利なさまざまな条件を、日本人や日本社会が持っている、と述べています。そのことを、さまざまな国際比較統計などを用いて論じている。著者は大手の外資系証券会社を経て、現在はOECD(経済協力開発機構)の東京センター長を務める、とのこと。

一方、橘木『日本人と経済』は、やや関心が異なります。橘木さんは、小泉政権のころ(2000年ころ)「現代の日本で格差が広がっている」という分析が大きな話題となった、やはり有名な経済学者です(『日本の経済格差 所得と資産から考える』岩波新書、1998など)。

橘木さんのほかの本もあわせて読むと、橘木さんは「日本経済がイノベーションでさらにおおいに発展する」ことが可能だとも、またその方向の取り組みがとくに重要だとも考えていないようです。「格差」の分析を重要なテーマにしてきた学者としては、そうなるのでしょう。

「少子高齢化と日本の未来」に関し、橘木さんがとくに関心を持つのは、「日本がどんな福祉や社会保障の国となるべきか」ということ。つまり「成長」ではなく「分配」の問題。この本はおもに日本経済史について述べていますが、最後のほうの未来への展望を述べたところで、そのへんの議論が出てきます。

その選択肢は大きく3つある、と橘木さんは言います。①ヨーロッパ型の福祉国家、②アメリカ型の低福祉の自由主義国家、③家族や地域社会が福祉を担う、かつての「美しい日本」の在り方を再構築する。

今の日本は、①~③のどれにも明確に属さない、中途半端なかたちのようです。日本の福祉・社会保障の政策は場当たり的で、きちんとした構想に基づく制度の構築がなされてこなかったところがあるのです。

橘木さんがおしているのは、①福祉国家です。③「美しい日本」的な方向は、一部の「保守」が主張しているが、橘木さんによれば現実的ではない。ただし、福祉国家にも北欧型の「高負担・高福祉」もあれば、ドイツ・フランスのような「中負担・中福祉」もある。おそらく「中負担・中福祉」が現実的であろう、と。

また、北欧の経済をみるかぎり、福祉の充実がイノベーションを阻害することはないはずだ、とも橘木さんは述べています。

***

以上の3冊はあわせて読むと、「日本の中長期の未来」を考えるうえで意味のある視点や情報をいろいろと得られると思います。1冊だけでもいいのですが、「あわせて読む」のが、とくにおすすめです。

3人の著者は、それぞれ考えや関心がちがいます。しかし、どの人もペラペラの情報や言説を流すのとは異なる、「知識人」と呼ぶに値する人たちだと感じます。とくに、専門知識をしっかりと持つ知識人。どうせなら、そういう人の書いた本をちゃんと読んだうえで、社会のことを考えたいと思います。

この中の誰かの見解に全面的に賛成でなくてもいいのです。じっさい私はそうです。でも読むことで、自分も考えることができる。それが読書の最大の意義です。

では「私は何を考えたか」というと、特別にオリジナルなことを思いついたわけではありません。でも、今回ここでまとめたような「視点」を得たわけです。これは、今後の読書はもちろん、さらには自分の行動にも一定の影響をあたえるでしょう。それなりの「問いかけ」が私のアタマにできた、あるいは再確認された、ということ。

「これからの日本人に、ほんとうにイノベーションが実現できるのか?そのような活力がまだあるのだろうか?」「日本人は、①福祉国家、②アメリカ的自由主義、③美しい日本的社会のうち、どれを選択するたろうか?」「ほんとうにほかに選択肢はないのか?」「いや、選択肢を明確にもできないまま、このままズルズルいかないだろうか?」

「悪いシナリオで、イノベーションによる成長も、きちんとした福祉国家の構築もすすまなかった場合もありうる。そんな場合にそなえ、個人として何をしておけばいいのだろうか」……たとえば、そんなことを考えるわけです。

そして、アメリカ自由主義的な「自助努力」の発想で、個人として経済力を高めなくては、と考えたりする。あるいは、家族やそのほかの人間的なつながりをしっかりしていくことも大事だ、とか。やはりどちらも大事ではある。そうだとしたら、何をする……そんなふうに考えたのでした。

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(以上)
2016年06月29日 (水) | Edit |
 私たちは、ときどき「問題を一挙に解決したい」という思いにとらわれることがあるようです。
 「これを何とかすれば」というポイントがあって、それさえ片付ければすべてがすっきりする、と思い込んでしまうことがある。「一挙解決願望」とでもいいましょうか。

 たとえば「会社を辞めれば、すっきりするはずだ」「この人と別れれば自由になれる」などというのは、そんな願望の一種でしょう。 

 でも実際には、会社を辞めても、配偶者と別れても「一挙解決」とは程遠いことも多い。
 それどころか、辞めたり別れたりしたことの現実的なデメリット(たとえば経済的問題)が重くのしかかって、これまでとは違ったかたちであっても、やはり多くの苦しみを抱えたまま、ということになったり。こんなことなら、辞めるんじゃなかった、別れるんじゃなかった……

 じつは辞めたり別れたりする前に、もっとすべきことがある、というケースは多いはずです。

 会社で苦しみや不満があるなら、プライベートを充実できないか、会社の人間関係をもう少しどうにかできないかといったことです。劇的ではないけど現実的な対処を重ねて、いい方向にもっていけないものでしょうか?

 別の例だと、私は「団地の建替え」のことが浮かんできます。このブログは「団地の書斎から」というタイトルですが、団地暮らしの諸々のことも、テーマのひとつです。

 築30年、40年経った古い団地を壊して新しく建替える動きが、近年さかんです。
 その建替えには、住民の合意形成が必要です。その合意の根本にも「一挙解決願望」があるように思います。

 つまり、古い団地で暮らす人たちにとって、住居や暮らしのさまざまなことへの不満や倦怠感のようなものが蓄積されたとき、それを一挙に解決する方法として、建替えという選択肢が力を持つようになる。建替えてすべてを新しくすれば、さぞすっきりするにちがいない、自分の暮らしも生まれ変わるはずだと。
 
 しかし、私は実際に建替えた団地の事例をいくらか知っていますが、建替えによっても暮らしのいろんな問題は残ることが多いのです。
 
 たとえば「古い団地の我が家は、狭くてごちゃごちゃしていて、いやだ」と思っていた人が、建替え後の新しい住居でも「やっぱり狭くてごちゃごちゃしている」というケースは結構あります。建替えしても「一挙解決」とはいかなかったのです。それだったら、建替えで多大なエネルギーやコストを費やす前に、家の中を整理したり、ちょっとリフォームしたり、できることはあったはずなのです。

 たぶん、たいていの問題には、辞めたり別れたり建替えたりというような、取り返しのつかない劇的な手段を選ぶまえに、やってみるべき対処の仕方がいろいろあるのです。

 これは、英国での国民投票によるEU離脱のことを言っています。

 英国の人びとのあいだでは、ある種の「一挙解決願望」が大きな力を持っているのだと思います。
 移民さえいなければ、EUのさまざまな縛りさえなければ、いろんなことがよくなるはずだ。
 離脱してすっきりしよう。

 こういう思いを多くの人が抱いた結果が、今回の国民投票での選択だったのではないか。 

 でもおそらく、あとで英国民は「問題はちっとも一挙解決しない」ということに気がつくのではないでしょうか。
 そのときに、現実感覚で軌道修正できれば、まだいいでしょう。

 しかし、さらに極端に「一挙解決」を求める方向に行かないかという心配もあります。

 第一次世界大戦や第二次世界大戦は、「一挙解決願望」が暴発した、最大の事例です。

 このときは国民や指導者が、深刻な失業や不景気や、国際関係での緊張や苛立ちのような、さまざまな問題を「戦争」によって、いわば「世界をリセット」するような感じで一挙解決しようとしたのでした。このときには、たとえば「○○人さえいなければ、世の中はよくなる」的なメッセージが力を持ったのです。

 私たちは「一挙解決願望にご用心」ということを、ときどき思い出したほうがいいように思います。個人の小さなことでも、世界情勢についても。とくに、大統領選挙のときのアメリカ人には思い出してほしい。
 
(以上) 
2016年05月03日 (火) | Edit |
 今日は憲法記念日。
 憲法については,いろいろな議論があります。
 その議論も大事とは思います。しかしとにかく,今の日本では,一応は近代国家としての基準を満たした憲法が存在し,問題点はあるとしても一応は機能している。

 憲法記念日は,そのありがたみを再確認する日だと思います。

 この世界には「近代国家の基準を満たした憲法」が存在しない,あるいは機能していない国がたくさんあります。恐ろしい独裁体制となっている北朝鮮はそうですし,それと似た独裁国家は,ほかにもあるわけです。
 
 北朝鮮よりは,はるかに高度な政治を行っている中国でも,たしかに憲法はありますが,そのあり方が「近代国家の基準」を満たすかどうかは疑問です。中国では,国家権力を握っている共産党が憲法の上にある,というのが実態だからです。

 「近代国家の基準を満たした憲法」とは,「憲法が国家権力の上位にあり,国家権力を憲法が拘束する」ということです。「憲法は国家権力を拘束する」という考え方を「立憲主義」といいます。

 それをさらに広くとらえたのが「法の支配」です。これは「法によって国家のすべての構成員は拘束される。国家権力も例外ではない」ということです。そして,法のなかの最高のものであり,国家権力を規制するのが憲法である,というのが「立憲主義」です。つまり,「法の支配」という大枠において,とくに憲法と国家の関係に焦点を合わせたのが「立憲主義」ということです。

 法の支配や立憲主義は,抽象的で理屈として難しいところがあります。同じく近代国家あるいは近代的な憲法の重要な原則である「民主主義」よりも,理解しにくいです。

 民主主義とは,「国の政治に(立法などの意思決定に)国民の多数が参加できる」ということです。その参加は,選挙や国民投票などを通じて行なわれる。こういうことは,ざっくりとなら小学5年生でもイメージできるのではないでしょうか。そこで憲法に関わる議論で,民主主義を否定する主張はまずみかけません。

 だからこそ,世界の独裁国家,つまり民主主義も立憲主義(法の支配)も機能していない国でも,民主主義の体裁だけは取りつくろうことがしばしばある。形だけの選挙をして「投票率100%で99.9%が与党を支持しました!」みたいな茶番を演じたりする。

 かつてのソ連で行われた「民主集中制」というしくみも,この手の偽装です。これは,下位の会議体が選抜・選挙した上位の会議体のメンバーに権限を委譲し,それを何段階も繰り返すことで,最高位の国家指導部に独裁的な権限が付与される,というしくみです。詳しい説明は省略しますが,要するに「多数決によって国のトップに独裁権力をあたえる手続きの一種」ということ。しかし実は「誰が会議体に参加するか」「そこで誰を選ぶか」は,国家権力が決めている。これも,やや手の込んだかたちですが「99.9%が与党支持です」的な選挙と本質は変わりません。

 「民主主義は大切だ」ということは子どもでも一応はわかる。そこで,その外形を装って,国家権力に「正統性」をあたえようとする独裁国家が後を絶たないのです。

 一方,法の支配や立憲主義は,民主主義よりもはるかにややこしいです。だから,多くの議論や批判があります。大新聞によるつい最近の論説でも「憲法が国家を拘束するというのは一方的な憲法観」という主旨のことが書かれていました。

 国家権力があまりにも法や民主主義に拘束されると,本来の役目が果たせなくなる,というのは本当でしょう。

 たとえば仮に,憲法9条による国家への拘束を極端におしすすめて,ほんとうに一切の軍事力の保持または行使をしない「丸腰」の国になったとしたら,無法な外国からの攻撃があったとしても,国を守ることができません。あるいは,大災害などの緊急事態で,政府が行う措置について,具体的にひとつひとつ国会で(民主的な手続きで)話し合って承認を取っていたら,手遅れになってしまいます。だから,実際の私たちの国の政治は,もっと現実的な制度やさじ加減のもとで運営されているのです。

 政府が必要なだけの強い権限を持って効果的に活動できることはきわめて重要です。そのような政府を組織できなかったために,外国の侵略によって滅びた国は,歴史上いくつもあります。たとえば近代において欧米列強の植民地になった国や地域には,その傾向がありました。

 だからこそ,「強力な・機能する政府」と「そのような政府が暴走しないよう拘束すること」のバランスをどうするか,というのが近代国家を運営するうえでの最も重要なポイントです。政府は強力でないと役に立たない。でも,そのような強力な政府は「怪物」のようなもの。怪物がむやみに暴れないようコントロールしないといけない。今回は立ち入りませんが,「三権分立」という国家機構のシステムは,そのような「権力の集中と制約」のバランスを取るために編み出された偉大な発明です。

 充実した福祉国家を実現するとしたら,政府は国民の生活の細部まで入り込んで,膨大な個人情報を手にすることになるでしょう。公平な税負担を実現するためには,すべての個人の財布の中身を十分に把握しないといけない。そのような情報や組織力を持つ政府は頼もしい反面,まさに怪物です。そして,現代の先進国の政府は,それに近い状態になっているのです。これを拘束することはやはり必要です。

 以上のような見方,つまり立憲主義的な思想は,私たちのあいだでどこまで共有できているでしょうか? 

 たしかに主流の考え方ではあります。でも一方で「法の拘束から,国家はもっと解放されるべきだ」という考えは,つねに社会のなかで一定の力を持っているはずです。とくに権力を行使する側の人たちに「法の拘束から自由になりたい」という思いが芽生えやすいのは,当然といえば当然です。そのほかにも,ある種の理念や正義感から「国家を法から解放しよう」という方向で主張する人たちも少なからずいるわけです。

 しかし,法の支配・立憲主義・三権分立を原則から否定した国が大失敗の末に崩壊していったのを,私たちは知っています。

 ナチス・ドイツや日本の軍国主義はそうでした。ソ連の社会主義もそうです。つまり「右」も「左」も法の支配を否定したあげくに破滅しています。中国も,毛沢東の時代のようなむき出しの独裁のままだったら体制崩壊していたでしょう。しかし,1980年ころに大きな路線変更をしたわけです。つまり,共産党の独裁(法の支配の否定)はありながらも,一方で財産権の一定の保障のような,ある程度の「法の支配」も存在する体制になった。妥協と混乱に満ちた体制ですが,そのことで今日の中国の発展があります。

 国家権力を法から解放してはいけないのです。第二次世界大戦のときの日本は,国家権力を大日本帝国憲法の制約から解き放ってしまった。大日本帝国憲法は,近代憲法としては不完全なところがありました。しかし,国家権力をコントロールする一定の機能は,果たしていたのです。昭和の戦争前夜のころから,そのような「拘束」は国の存続や発展にとって有害だとする考えが有力になっていった。

 また,ナチス・ドイツでは最後まで独自の憲法は制定されませんでした。ヒトラーは,憲法を制定すれば,それがたとえ自分の独裁を全面的に肯定するものであっても,どこかで憲法が自分を拘束することになる,とわかっていたのでしょう。

 法の支配の原則の重要性。
 それを理解することや実現することのむずかしさ。
 「国家権力における集中と制約」という課題。

 こういう根本のことを,もっと多くの人のあいだで共有したほうがいいと思います。それには一般的な法律や政治に関する議論だけでは足りません。どうしても歴史(世界史)の一定の知識も必要です。私は世界史に興味があり,このブログでもそのテーマの記事をいくつも書いてきました。私が世界史に関心があるのは,「今の社会のあり方を考えるうえで大事な情報がそこにある」と思うからです。

 以上,憲法記念日にちなんで,大風呂敷なことを述べました。たまには,こういうことを考えてみるのもいいでしょう。

*5月4日追記
 9条(戦争放棄)をはじめとする改憲の議論では,「改憲」か「護憲」かという対立軸のほかに,「立憲主義にたいする理解やスタンス」という軸もある,ということも大事です。改憲論者の中にも,立憲主義の原則を踏まえている人もいれば,「国家を法の拘束から解放すべきだ」と考え,立憲主義に否定的な人もいる。後者にとっては,憲法の9条や96条(憲法改正に関する条項)の改正は,国家を憲法の縛りから解放することの一環です。(96条の改正:憲法改正の要件を緩和して改正しやすくすること)
 護憲派では立憲主義(法による国家権力の拘束)を正面から否定する人は少ないでしょうが,立憲主義の重要性をどこまで認識しているかは,人によって差があるように思います。そして「強力な国家はやはり必要(だからそれをコントロールする必要もある)」という国家観を持つ護憲派の人がどれだけいるかは,私にはよくわかりません。護憲派のなかには「国家などないほうがいい」という,アナキズム(無政府主義)的な夢想に共感する人もある程度いるように感じます。アナキズムの発想からみると,憲法9条的な「軍事力を持たない平和国家」という方向性は,「国家を最小化する」という目標につながっているわけです。私は国家そのものを否定する発想は,立憲主義の否定と同じように「要注意」だと思います。

 以上,要するに「立憲主義否定=国家を好きすぎる人」「無政府主義=国家を嫌いすぎる人」も中にはいるので,そのような人の議論には注意すべき,と思うのです。

(以上)
2016年04月02日 (土) | Edit |
 最近、ふと手にした福澤諭吉『学問すゝめ』の,「人望」について論じた一節。
 原文はやや読みにくいので現代語訳(和文和訳)すると,こんなことが書いてありました。

(福澤諭吉『学問のすゝめ』和文和訳)
 人望というのはその人が備えている知恵や人徳によるものではあるけど、天下や古今の事実をみると,そうでもない事例をみることも多い。やぶ医者が病院の構えなどの見てくれだけを立派にして多くの患者を集めたり、薬屋が見かけ倒しの宣伝でたくさん売ったり,インチキ商売のオフィスに立派な調度があったり,学者が読みもしない原書を本棚に並べたり,日曜日の午後に礼拝堂で涙した人が月曜日には夫婦喧嘩をしたり・・・・・・

 これらはみな,実際の能力・実績・人徳などの裏付けのない「ニセの人望」のことです。世の中には「ニセの人望」も多い,ということ。

 これを読んでまず思い出したのは、人気ラジオパーソナリティーのKさんが,学歴を詐称していたり,自分の実績を過大に言っていた件です。

 この人は「人望」を求めるあまり,多くのウソをついた。そのウソに残念ながら多くの関係者がダマされた。そのウソは彼が仕事を得たり,人からよい印象や評価を得るうえで役に立った。そして多くの人望を得たけれど,それは「ニセの人望」だった。

 このような「ニセの人望」を得て,結局それが「ニセ」だったこと,少なくとも「ニセ」の面があると発覚した事例は,確かにけっこうありますね。福澤諭吉の言うとおりです。最近だとたとえば「ハンデに負けず立派に美しく生きているはずの障碍者のタレント・文化人が,じつは激しく女性との不倫交際をくりひろげていて,幻滅させられた」とか。これは,勝手な思い込みにもとづく「幻滅」なのかもしれませんが。

 少し前だと,「大発見をしたはずの女性科学者が,じつは研究をねつ造していた可能性がある。少なくとも発見はまぼろしだった」とか「人につくらせた曲を自作といつわる男が〈病を背負った天才作曲家〉を演じていた」といったケースもありました。これらはかなり極端で明確な「ニセ」です。

 ひと昔以上前のことですが,当時売れっ子だった女性エッセイストYさんのことも,私は思い出します。その人のデビュー作である「節約生活」の元祖のような本は,90年代後半に数十万部のベストセラーになりました。その本には「公務員として福祉関係の仕事をしていたときドイツに何度も行き,ドイツ式のシンプルな生活を知った」ということが書かれていたのですが,その「公務員」や「ドイツに行った」という経歴はまったくのウソだったのです。

 「35年の住宅ローンを節約によって数年で完済」ということが,彼女の本の中心の話題でしたが,その話もすっかりあやしくなってしまいました。経歴詐称が発覚してからは,その著作をみかけなくなりました。

 こういうケースをみていると「人望とか世間の評判なんて所詮はウソばかり。そんなものを求めるのはまちがっている」という気持ちが湧いてきても,おかしくないのかもしれません。
 たしかにウソやねつ造をもとにした人望なんて論外です。でも,だからといって「人望なんて,くだらない」というのは,ものごとの一面だけをとらえた,歪んだ見方だと思います。じつは,福沢諭吉もそういうことを述べています。

(『学問のすゝめ』和文和訳)
 「世間の栄誉など求めない」というスタンスは,立派なようにもみえる。しかし,栄誉や人望を求めるべきかどうかを論ずる前に,まずその本質を明らかにすべきだろう。たしかに,さきほど述べた,外見だけ立派にしたやぶ医者や薬屋のような,虚名の極端なかたちなら,そういうものを遠ざけるのは当然である。
 
 しかし,社会の人間の営みは,すべてがウソに満ちているというわけではない。人の知徳は花や樹のようなもので,栄誉や人望は樹木に咲く花のようなものである。花や樹を育てて花を咲かせることが,どうしていけないのであろうか。栄誉や人望の本質をしっかりと見極めることもなく,どれも棄ててしまうのは,花を取り除いて樹木の存在を隠すようなものである。それは樹木の価値を殺してしまうことであり,世間にとっても損失である。 

 ならば,私たちは栄誉や人望を求めるべきなのだろうか?
 もちろん求めるべきである。努力をしてそれを求めることだ。
 ただ「自分の分にあった栄誉・人望を求める」ということが,とくに重要なのである。
 (原文《しからばすなわち栄誉人望はこれを求むべきものか。いわく,然り,勉めてこれを求めざるべからず。ただこれを求むるに当たりて分に適すること緊要なるのみ》)


 そう,だいじなのは「自分にあった人望を求める」ということ。
 これですよね。自分の本来の資質や能力から外れた人望をめざしてはいけない。
 もちろん努力はするのです。努力によって資質や能力が向上すれば,それに見合った花は咲くはず。
 努力せずに,あるいは努力したこととは異なる方向で花を咲かそうとしてはいけない。

 さて,学歴詐称のKさんの英語は上手だったといいます(ネイティヴがそう評価しているのを,ネットやテレビで見聞きしたことがあります)。きっと英語の学習では大変な努力をしたのでしょう。あるいは,若くして海外での生活体験をかなり積んだのかもしれません。また,パーソナリティやコメンテーターとして,さまざまなテーマに対し一応のことは発言できたのですから,大学など出ていなくても,読書や耳学問でそれなりの教養を身につけたのでしょう。そして,話術や呑み込みやすい表現には,非常に長けていた。

 つまり,若き日のKさんには学歴はなかったけど,それなりの能力・資質の「樹」がその中に育ちつつあったのです。
 だったら,その樹をそのままに大事に育てて,そこにふさわしい花を咲かせるべきでした。

 世の中には,大学を出ていなくても,立派な学歴・学位などなくても,文化人や知識人として栄誉を得ている人はじつはそれなりにいます。有名でなくても,その筋では「知る人ぞ知る」活躍をしている人なら,もっとたくさんいます。多くの文化人が属するフリーランスの世界は,実力社会なのでそれも当然です。若いころのKさんは,そんな「学歴とは関係なく花を咲かせた人」のやり方に学ぶべきでした。あるいはそのような見方を教えてくれる人に出会うべきでした。

 ところが,ウソをついてニセの花を咲かせてしまったのです。
 それも,テレビなどを舞台にした,かなり目立つ花を。
 そして,自分の持っている「ニセ」ではなかった部分まで,台無しにしてしまった。
 ニセの花は,大きく咲かせてしまうほど,取り返しがつかなくなります。

 若いころのKさんには,自信がなかったのかもしれません。
 自分の中に育ちかけている資質の「樹」の可能性を,信頼できなかった。
 自信のない部分を,経歴詐称というウソで埋めようとした。

 若い人が自信のなさを,ストレートな努力以外の何かで埋めようとするのはよくあることです。たとえばグループやコンビを組んで世に出ようとするのも,それにあたることがあります(1人でうって出る自信がないということ)。傍からみると無茶な冒険に走るのも,そうなのかもしれない。そういう形ならまあいいのですが,彼は「ウソ」という手段に走ってしまった。
 ただし「自分を深く信頼する」ことのむずかしさは,若い人にかぎったことではないのでしょうが・・・
 
 私たちは,Kさんのようなまちがいをしないようにしたいものです。
 つまり,「自分にあう人望」というコンセプトを忘れないように。
 自分という樹にふさわしい,本物の花を咲かせるように。

(以上)
2016年01月20日 (水) | Edit |
 今年最初の記事が,こんな時期になってしまいました。
 遅ればせで恐縮ですが,今年もよろしくお願いいたします。

 新年にふさわしい,明るい展望でも述べたいところですが,最近思うのは「日本は,やはりまだ近代化の途上にある」ということです。テレビのワイドショーをみて思うのです。

 たとえば,バラエティーで活躍する女性タレントさんが,妻子あるミュージシャンの男性と「不倫(を疑われること)」をしたというので,重々しい調子で謝罪の会見をしていたこと。
 
 女性タレントさんは,なんであんなに謝っているのか? 誰に?
 不倫は,おもに不倫相手の配偶者を傷つけるものです。だから,悪いことをしたと思うなら,傷つけた相手にまず謝まるのがいいはずです。つまり,当事者間の問題です。なのに,テレビの場で「世間様」や「関係者」に謝ることが,とにかく大事なようです。

 おととい(18日)の夜は,テレビでスマップがみたこともない沈痛な様子で謝っていました(木村拓哉さんは,ややちがう立場のようでしたが)。

 これは,何について,誰に対し謝っていたのでしょうか?
 「独立騒動で,ファンのみなさんに心配かけてごめんなさい」という感じではありませんでした。自分たちの所属事務所の経営者(社長と副社長)に謝っているようにみえました。

 スマップの属する世界では,恩義あるボスと対立したことは,何よりも悪いことのようです。テレビでさらし者になって,ひたすら詫びないといけない。

 でも,今回の「独立騒動」は,スマップの属するジャニーズ事務所という一企業でのもめごとにすぎません。
 スマップを育てたという功績のある役員と,創業者一族である社長・副社長らの対立に端を発しています(その点は,多くの報道が一致している)。会社の中の派閥争い,あるいは「お家騒動」です。その争いの中で,どちらの側につこうとも,それ自体が法や倫理に触れるということはないはずです。(メンバーのうち木村さんを除く4人は,自分たちを育てた役員の側について独立しようとした,とのこと)
 
 派閥争いに負けた側が,その会社の中で恥辱を受ける,ということは本当は望ましくありませんが,現実にはあるでしょう。でも,社内の派閥争いに負けた人間に,勝った側が「テレビに出て謝罪しろ」と強要したとしたら,どうでしょう? おかしいですね。

 しかし,先日のスマップの生放送は,それと似たようなものだったと思います。あれは「会社の派閥争いで負けた側の社員が,勝った側の創業者社長に謝っている」というものだったのです。おかしな放送です。

 あの謝罪は所属事務所側によって作られたものをメンバーが読んだだけだった,とする報道もあります(例えば『東京スポ―ツ』1月21日号)。*1月20日21時付記

 でも,それをさほど異常とは感じない雰囲気が,日本の社会にはあるような気がします。
   
 たぶん,「恩」や「義理」を根拠に権威を持つ「ボス」というものが,今も日本の社会では力を持っているのです。大小さまざまなボスが社会のいろんな場所にいて,それに逆らったらひどく罰せられるということです。たとえスマップであっても例外ではない。そのような感覚が,多くの人の前提になっている。だから,テレビ局はあんなものを放送してしまう。

 タレントの独立について「せっかく育てたタレントが独立してはプロダクションが成り立たない」と言われます。でも,ほんとうはそういう問題は,契約関係を整理することで,つまり「お金」で解決できるはずです。独立するタレントは,育ててくれた会社に何らかのかたちで相応のお金を払うようにする。それが「近代社会」というものです。

 「オレが育てた以上,オレの元を離れることは一生許さん,逆らったらこの世界で生きていけないようにしてやる」なんて,職業選択の自由がなかった前近代そのものの発想です。テレビのワイドショーでは,その異常さについて,あまり言いません。前近代な「芸能界の掟」が,芸能界と関係ない人たちのあいだでも「そういうものだ」と通用してしまっているところがある。

 法や個人や人権が,「世間様」や「ボス」を前にすると,たちまちあいまいになってしまう。

 私たちは,まだまだ近代化の途上にあるのです。そこらへんを,2016年の日本は「スマップ騒動」を機に反省し,近代化をおしすすめたらいいでしょう。

(以上)
2015年10月29日 (木) | Edit |
 横浜のマンション傾斜問題のニュースをみていると,「波紋」が広がったり,いろいろ「展開」したりして,最も大事なところがぼやけてしまわないか心配になります。

 この問題は,まず第一にマンション住民に対する,販売会社(三井不動産レジデンス)の責任の問題です。
 住民にマンションを売ったのは,販売会社ですから,当然です。

 そのはずなのに,報道では施工の元請(三井住友建設)やその下請け(旭化成建材)のことがより多くとりあげられています。
 たしかに,マンション傾斜の原因になった「データねつ造」は,建設の現場で起こったことで,その「ねつ造」は旭化成建材の担当する業務でのこと。だから,人びとの関心がどうしてもそっちのほうに行ってしまう。

 これは,「問題の追及」が,いわば垂直方向に掘り下げられているということ。

 一方で,「横」の「水平方向」にも,報道や人びとの問題意識は展開しています。
 「ほかの建物は大丈夫なのか?同じようなデータねつ造はないのか?」という関心です。

 たとえば今日の朝刊は「北海道の工事でも旭化成建材がデータ流用をしていた」と報じています。
 「自分のところは大丈夫か?」という不安も,当然といえば当然です。
 マスコミの人も,関連する何らかの新事実を明らかして,手柄を立てたい。

 でも,こういう「垂直」「水平」への展開は,いちばん大事な責任問題への人びとの関心をそらす効果を持っているのではないでしょうか。

 「垂直」「水平」という見方は,だいぶ前に企業の不祥事やリスクの問題に詳しい方から教わったのです。たしかに有効な視点です。不祥事というのは,「垂直」や「水平」に展開する傾向があるのです。

 今朝のニュースでは,問題のマンションの住民の方が「三井住友建設と旭化成建材で責任のなすりつけあいの議論をしているのはけしからん」と怒っているインタビュー映像が流れていました。

 それはたしかに「けしからん」です。でも,その「なすりつけあい」がどうこうよりも,販売会社への責任追求こそが,住民の人たちにとっては重要です。ほかのことは,じつは枝葉にすぎません。

 マスコミや人びとの関心が,垂直や水平に拡散していることで,マンション販売会社(三井不動産レジデンス)はかなり助かっているでしょう。
 そのように販売会社がマスコミを操作した,とは言っていません。でも,とにかく今の展開は,被害者の救済と第一の責任者の責任問題をぼやかしているように思えてなりません。

 そして,第一の責任者の責任があいまいになってしまっては,そのほかのどんな原因追究や再発防止策もたいした意味をもたないでしょう。「建設業界の下請け構造こそが問題だ」みたいな議論は,一見「深い」ようで,じつは用心すべきだと思うのです。

(以上)
2015年09月26日 (土) | Edit |
 最近の安保法案関係のことをみていて思ったのは「日本の社会は,これまでよりは前進したのではないか」ということです。

  「平和が脅かされている」と懸念する立場からみれば,「前進」なんてとんでもない,ということかもしれません。でも,私には「一定の合理性」を持つそれぞれの見解や立場が打ち出され,議論されているようにみえました。 「これまでよりも,社会がこなれてきた」と感じました。

 今回の法案を「違憲」であり,その法案の通し方について立憲主義に反するものだとする,法学者たち。「立憲主義」とは,憲法を「国家権力を拘束し,人権を守るもの」として位置づける思想で,近代国家の法理論の根幹にある考えかたです。
 その一方,いやそんな法学の理屈などよりも「現実」への対応こそが大事だ,憲法は国民のためにある,憲法解釈を基準に政治の重要な決定をするなんて本末転倒だ,とする人たち。

 一言でいえば,「法理論」と「政治的現実」の対立です。この対立は一筋縄ではいきません。
 法は現実のためにある。でも,前の戦争では法の拘束を受けなくなった権力の暴走が,国を破滅させたではないか・・・

 「政治的現実」をどう捉えるかについても,対立があります。北朝鮮や中国や,あるいはさまざまな「テロリスト」などの具体的な「脅威」への対応が必要だとする立場。一方で今までとってきた「平和国家」的なスタンスこそが,「脅威」から我々を守ってくれるのだ,という立場。

 そんなのは「幻想」だ,今の世界では危険すぎる。
 いや,アメリカに追従していくことこそ敵をつくることになって危険だ。
 そもそもこの法案はアメリカ追従ではないか,日本の独立はどうなっているのか。
 でも,アメリカ以外に同盟すべき存在が,この世界にあるだろうか。
 いや,今の世界はもはやアメリカ中心などではない,もっと世界の現実をみろ。
 「アメリカ中心」でなくなっているとしても,新しい国際協調の枠組みのなかで日本が役割を果たすために,この法案は必要だ。
 いや,新しい世界の現実のなかで日本が果たすべきは「平和国家」としてのあり方を徹底していくことだろう。
 そんなことは「幻想」だ,空疎な理想論。
 「アメリカについていけば,大丈夫」的な発想こそ幻想で,現実をみていない。
 「アメリカ追従」も,まともな武力を持たない平和国家も,ゴメンだ。日本はもっと独自の軍事力を整備して,自分だけで自分を守れるようにならないと。それだけの技術や産業もあるのだから。
 そんなことができるわけないだろう。それこそ「幻想」。
 「現実」といえば,戦場の現実を考えてみるべきだ。海外にいく自衛隊の人たちは,今までのままでは丸腰の危険すぎる状態で気の毒だ。
 いや,丸腰だからこそ安全なんだ,武装すれば攻撃にさらされ,実際に戦うリスクが高くなる。

 なんだかんだ言っても戦争はいやだ。
 それはわかっている。今回の法案は戦争を抑止する(防ぐ)法案なんだ。
 いや,日本が戦争をする国になるための法案だ。
 
 それにしても,今回の国会周辺でのデモは,よいことだった。日本の民主主義の新しい活力を感じる。
 民主主義にとって大事なのは,デモではないだろう。大事なのは選挙だ。
 デモや選挙のような非日常ではなく,日々の活動から民主的な社会を築くことが大事だ。

 ***

 こうした議論や見解のひとつひとつが,私には「頭からナンセンス」とは思えないのです。それぞれ一定の合理性を含んでいる。そのようなさまざまな立場からの発言が,社会のあちこちで行われました。
 それらについて,ある種の評論家のように「どいつもこいつもなっていない」という調子でバサバサ「斬る」気には,私はなれません。「どれにも一理あるね」と感じるのです。

 「どれにも一理あるね」というスタンスは,言論としてはまったく役立たずです。自分で情けない感じもします。
 でも,それが正直なところです。

 それでも,みんながいろんなことを言っている,それが言える,ということは,やはり素晴らしいと感じました。
 このような「自由」「権利」にかかわることこそが,最も根本的だと。

 今回の安保法案については,さまざまな立場や意見があるにしても,この「根本」は守らないといけない(あるいは守らざるをえない)というのは,私たちのなかの共通の認識としてあるのではないでしょうか。
 あるいは共通の認識として,常々確認していくべきなのでしょう。

 政治の重要な問題は,たいていは「未知の難問」です。
 その「未知の難問」について,確かな正解など,あらかじめわかるものではない。
 でも,私たちは何らかの「答え」を選んで進まないといけない。
 その結果「まずい」ことがおきるかもしれない。

 そのときに,前の戦争のような破局にすすまないで,軌道修正できることこそが重要です。それには「どの考えにも一理ある」という視点を持っていないと。「この考えが絶対正しい」という信念に固まっていると,軌道修正ができません。

 「どの考えにも一理ある」という視点は,無力にも思えますが,じつはそんなに「役立たず」というわけでもないのでしょう。

(以上)
2015年08月14日 (金) | Edit |
 東芝の「利益水増し」の問題。
 この件に関して大マスコミは,おおむね「不適切会計」という言葉を使っています。
 今朝(8月14日)の日経新聞では「東芝の新しい社外取締役が決まった」というニュースが1面でしたが,11面の関連記事(「東芝,情報共有の徹底必要」)でも「不適切会計」という表現です。

 でも,この件はほんとうは「粉飾決算」といっていいでしょう。
 「不適切会計」というのは,お茶をにごした言い方です。「故意だったかもしれないし,ミスだったかもしれない」というあいまいさを含んだ表現です。
 しかし「粉飾決算」だと,「意図的な犯罪的行為」というニュアンスになります。

 何年にもわたり1500億円分の利益を水増ししていたのです。
 意図的・組織的なものであることは明らかです。そこに社長の指示があったことが伺える事実も,第三者委員会の報告などであがっています。

 でも「粉飾決算」といわないのは,それが「重罪」だからです。「重罪」だけに,その言葉を使うことに慎重になっている。

 ***

 「粉飾決算」とは「意図的に会計帳簿の数字をごまかして,決算をよくみせること」です。
 これは,資本主義において,重大な犯罪です。

 近代の経済の中心になっているのは,株式会社です。
 そして,人びとが株式会社に出資するときも,出資に対するリターンとして利益の分配を受けるときも,その会社の株式を売買するときも,その判断の基礎になるのは会計帳簿・決算書です。

 つまり,会社のお金の流れや財産の状況を記録したものをみて判断する。中には「決算など知らないけど,その会社の株を買っている」という人もいますが,それは基本から外れたあり方です。

 帳簿や決算が信用できなかったら,株式会社という制度は成り立ちません。
 だから,粉飾決算は資本主義に対する重大な犯罪ということになります。

 「会計の信頼性」を確保する――これは,資本主義が発展するうえでの大きな課題でした。

 近代の初期にあたる1600~1700年代のイギリスでは,一種のベンチャー・ブームがおこって株式会社の原型といえる企業がつぎつぎとつくられました。しかし,それらの企業のなかにはでたらめな会計・決算を行うものが少なくありませんでした。赤字なのにばく大な利益が出ているかのような報告をして多くの出資者を募り,そのあげくに経営破たん・・・そんなケースが続出しました。

 そこで,イギリスでは「株式会社は原則禁止(許可制)」という時代もあったのです。

 そんな状態をある程度克服したことで,現在の株式会社や証券取引市場の発展があります。
 いろいろな制度や規制を整備して,それを守るようにしていったということです。

 ***

 「会計の信頼性」を確保するために必要な制度は,おもにつぎの3つです。

 1.「何が正しい会計か」を定義する・・・会計のルールの整備
 2.「会計が正しいかどうか」をチェックするしくみ
   ・・・経営者(会社)がつくった帳簿を第三者がチェックする
 3.「不適切な会計」「粉飾決算」に対するペナルティ


 1.については省略します。
 
 2.については「監査役」「会計監査」という制度があります。
 会計・決算というのは経営者(社長)の責任で行います。

 一定規模以上の会社の多くでは「監査役」という役職が置かれています。監査役には経営陣である取締役などとは別の立場から(経営を直接行わない),会計・決算が適正であるかどうかチェックすることになっています。

 それ以上に重視されるのが,会計監査人による会計監査です。公認会計士という資格を持った専門家が会社の帳簿をチェックして,問題がなければ「問題なし」という証明を出す。上場企業(株式市場でその株式が広く取引される会社)などの大企業では,このチェックが義務付けられています。

 あと最近は「社外取締役」というのも,「チェック機能」として話題になります。その会社やグループ会社とは関わりを持ってこなかった人(その社員などではなかった人)を,取締役(会)の一員にするということ。社外取締役には「しがらみ」のない立場から,経営をチェックすることが求められます。

 ***

 このような「チェックのしくみ」があっても,粉飾決算は起こっています。

 「粉飾」を防ぐことは,原理的に非常にむずかしいのです。

 決算は,会社で絶大な権限を持つ社長(経営者)の指揮のもとで行われます。個々の担当者も,それなりの権限を持っていますが,最終的には社長の指示に従います。

 決算とは「経営者の成績表」です。
 ということは,社長は自分の成績表を,部下を指揮して自分でつくっているようなもの。
 つまり「成績をじっさいよりも良く見せたい」と思ったとき,それが可能な立場にあるのです。

 でも,監査役や公認会計士のチェックがあるのでは?と思うかもしれません。

 しかし,監査役のチェック機能にはおおいに限界があります。
 大きな会社の会計は,複雑で専門的ですので,しっかりとチェックするには高度の専門知識と,多くの人手(スタッフ)が必要です。しかしたいていの監査役には,そのような専門性や人手がありません。監査役には,ごくわずかの部下・スタッフしかないのがふつうです。

 それから, 監査役のほとんどは事実上は経営者に任命されて監査役になったのです。会社で社長の部下だった人も少なくありません(たとえば,監査役になるまえはその会社の部長だった,とか)。そこで法的には社長をチェックできる立場でも,どうしても遠慮してしまう。 

 本来,監査役は株主総会で選任されます(取締役と同じ)。でも「この人を監査役にしたい」ということを株主総会にはかる議案は,経営者側で作成します。その議案作成を社長は指揮しているので,監査役は事実上社長に選ばれた立場にあるわけです。

 そしてそれは「社長は,自分の成績表をチェックする人を,自分で任命している」ということでもあります。
  
 少し異なる面もありますが,このような「限界」は社外取締役にもおおむね当てはまります。

 では公認会計士のチェックはどうか?
 公認会計士には専門性はあるし,たいていの大企業は大手の会計事務所(監査法人)によって組織だった監査を受けます。ならば問題ないのでは?

 しかし,公認会計士というのは,監査を受ける会社自身が雇うのです。会社が雇って,報酬を会計士に支払う。どの公認会計士に依頼するかの事実上の決定権は,社長にあります。

 ということは,社長は「自分の成績表をチェックする専門家を自分で雇っている」ということです。

 以上をまとめると,会社の社長は「自分の成績表を自分の指揮で作成し,それをチェックする監査役や会計士を自分で任命したり雇ったりしている」ということです。そういう制度になっているのです。
 
 ということは,決算に関して社長はその気になれば,相当な不正ができるのではないか?
 
 学校の成績表でいえば,生徒が自分でテストを採点して,自分で通信簿を記入して,それを言うことを聞いてくれるお友達に確認してもって・・・というやり方をしている。そういう通信簿を親御さんは信用しないでしょう。でも,会社の決算も原理的には似たかたちでつくられているのです。

 とにかく,私たちが知っておいていいのは,「粉飾決算を防ぐ制度というのは,じつは非常にぜい弱だ」ということです。経営者をチェックするというのは,口でいうほど簡単ではありません。

 そして,このような「ぜい弱」性を十分に乗りこえる運営のノウハウは,まだ開発されていないのです。
 いろいろな改善策が打ち出されてはいます。たとえば「社外取締役」の役割強化や近年の会社法における「委員会設置会社」(説明は省略)などはそうです。でも,根本的にな解決には程遠い。

 ***

 それでも,現在の企業会計や株式市場がどうにか機能しているのは,多くの経営者が自重しているからです。粉飾決算の重大性を自覚しているのです。それに,たいていの人には常識や良心もある。

 そして,粉飾決算に手を染めることのリスクも,世慣れた人たちである以上,わかっています。
 粉飾決算をしたら(指揮したり,関与したりすれば),いつかは何らかのかたちでバレる。多くの場合,内部告発によって,世間にわかってしまう。

 そうなれば地位を失うだけでなく,自社の株価が下がり,株主から訴えられるかもしれない。訴訟で負ければばく大な損害賠償責任を負うかもしれない。逮捕されて刑事罰を受ける可能性もある。

 実際に,そのような例もあります。上記の3.「粉飾に対するペナルティ」です。

 ライブドアの当時の経営者・ホリエモンさんは,粉飾決算による証券取引法違反で2006年に逮捕されました。その後有罪となり,刑務所に入りました(今は刑期を終えて社会復帰され,また活躍していますね)。
 
 粉飾決算ではありませんが,西武鉄道で「有価証券報告書の虚偽記載」という問題が2005年に発覚し,西武グループのトップだった堤義明氏が証券取引法違反で有罪(執行猶予つき)となる事件もありました。

 これは,「有価証券報告書」という,決算などの会社に関するさまざまな情報が書かれた書面の一部に重大な虚偽(粉飾)があったというもの。この場合は,株主の構成(どのような人たちが株主であるか)に関することでした。西武鉄道の株主構成には上場会社として問題があったのですが,それをごまかしていたのです。

 そして,西武鉄道は上場廃止となったのでした。つまり,同社の株式は市場で取引されていたのに,それができなくなった。(その後西武グループは再編成され,グループ持ち株会社である西武ホールディングスが2014年に再上場)

 このように粉飾決算やそれに類することは「重罪」とされます。

 今回の東芝の件も,粉飾決算が歴代社長の指揮のもとで行われたことが事実なら(その状況証拠はあるわけです),社長の逮捕・有罪ということも,あっていいわけです。

 しかしもしも,そのような追求もとくにないまま,「東芝はガバナンス(経営チェックのしくみ)を強化して再出発します」みたいなことで終わってしまうとしたら? 大マスコミが「不適切会計」といってお茶をにごしているくらいですから,その可能性もあります。

 もしもそうなったら,日本の経済・社会に大きな悪い影響を残すでしょう。

 「これだけの粉飾決算をしても逮捕されないんだ」

 そういうメッセージを発することになるからです。
 海外の投資家からも,「日本はそうなんだ」とみられることになる。

 そして「これだけの粉飾をしても大丈夫だ」というメッセージを「我がこと」として受けとめるのは,日本の財界の中心を占めてきた伝統や権威のある大企業の経営者たちです。東芝はそのような大企業のひとつです。

 「ホリエモン(ベンチャー企業)や西武の堤さん(伝統の比較的浅い,新興の財閥)は逮捕されるけど,自分のところは大丈夫。権力が守ってくれる」――そんなメッセージをここでいう「権威ある大企業」の経営者は受けとめるはずです。だとしたら,その経営者たちは,まじめに誠実に決算書をつくることがバカらしくならないでしょうか?

 権力者どうしの慣れあい,ご都合主義――それを優先して「法の原理原則」はないがしろにする。

 そういう精神が今の日本の社会にしっかり生きていることを,今回の東芝の件は明らかにしてしまうかもしれません。そうならないことを祈ります。

 明日は終戦記念日なので考えてしまうのですが,大切にしなければいけない「原理原則」や「現実」よりも,自分たちの属する権力者のコミュニティを優先する発想は,戦争のときの指導者たちの精神ともつながるように思えます。「国家の利益よりも,陸軍・海軍の都合や雰囲気を優先する」という精神です。

(以上)
2015年06月05日 (金) | Edit |
 日本年金機構の年金情報流出問題。
 ちょうど1年ほど前にはベネッセの個人情報流出の問題が,さかんに報じられていました。
 今回の記事は,「個人情報」という素材で,その当時書いたもの。
 堀り起こしたいと思ったので,再放送です。

 ***

 日本年金機構の,年金情報流出。
 去年の今ごろには,ベネッセの個人情報漏えいの事件もありました。
 
 「個人情報」というと,私はジブリの映画にもなった『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ル=グウィン作)というファンタジー小説の世界を,なぜか思い出します。この作品はシリーズ化されており,第1作は1960年代末に書かれたもの。
 
 『ゲド戦記』の舞台は「アースシー」という古代・中世風の架空の異世界。そこでは魔法が科学や学問のような役割をはたしている。主人公の「ゲド」は,その世界のエリートである「魔法使い」の1人。

 アースシーでは,すべての人やモノに「真(まこと)の名」というものがあり,その「真の名」がわかればその人・モノに魔法をかけることが可能です。

 そこで,人びとは「真の名」をごく限られた身内以外には明かさず,「通り名(通称)」で暮らしています。ほかに「真の名」を知っているのは,子どものときに「真の名」をつけてくれた魔法使いだけ。

 主人公も,「ゲド」が本名ですが,ふだんは「ハイタカ」という通り名で世間をわたっているのです。

 ***

 アースシーにおける「真の名」というのは,私たちの社会の個人情報やパスワードみたいなものです。

 住所や職場を明かすのは,信頼できる相手に対してだけ。悪意のある相手にその情報を渡すと,迷惑や危害をこうむる恐れがある。
 相手の得体が知れない場合は,本名を明かすこともためらわれます。じっさい,ネット上では「本名」ではなく「通り名」を使うことも多い。

 高校時代(1980年ころ)にはじめて『ゲド戦記』を読んだとき,「本名をふせて暮らすなんて,奇妙な世界だ」と思いました。「真の名と,通り名の使い分け」という感覚をのみこむのに,多少の理解力が必要でした。

 でも,作品が書かれた当時は「奇妙」だったことが,今の世界ではかなり「ふつう」になっているのです。今の子どもたちがこの小説を読むときは,「真の名」「通り名」というニュアンスは,すぐにピンとくるはずです。

 アースシーの世界は,一見「古代・中世風」ですが,じつは現代的な個人主義の社会です。
 誰もが自分の本名(個人情報の基本の部分)を,近所の人にも,ほとんどの友人や親せきにも明かさず暮らすのです。魔法という「テクノロジー」のせいです。

 「自分」以外に対し「壁」をつくって,人びとが生きている。「自分」以外に安心できる場所が,めったにない社会。

 『ゲド戦記』の第1巻は,ゲドによる「自分さがし」の物語です。個人主義の社会で,少年期から青年期にかけてのゲドが,「自分は何者なのか」について理解を深めていく過程。
 
 ネタバレになるので述べませんが,その後の多くの小説や映画などで模倣される,いろんな要素がこの作品にはあります。だからこの作品は「古典」なのです。

 ***

 「個人情報」をしっかりと守りたいなら,アースシーのやり方を徹底することです。

 社会生活のなかで,本名を使うことを原則としてやめ,「通り名」を使うことにする。
 通り名は,複数持つことができて,職場用,コミュニティ用など,場面に応じて使い分ける。職場が変わったり,引っ越したりしたら,通り名を変えることにする。

 本名は,親子や夫婦など,ごくかぎられた「信頼できる範囲」にしか明かさない。他人に本名を明かすのは,きわめて例外的な「信頼」の証となる。

 本名や住所などの基本情報を知らせる相手は,役所や金融機関や郵便局などのごくかぎられた「信頼できる専門機関」だけ。まるでアースシーにおける「魔法使い」のような立場です。この専門機関には「本名」とあわせ「通り名」も登録する。

 これらの機関は「信頼に足る」ために,きわめて厳格な情報管理の義務を負う。個人情報のデータベースは,巨額の金塊や現金がおさまった大金庫か,放射性物質が保管されている場所のように扱われる。

 人びとは,「本当の住所」のほかに私書箱のような「仮の住所」を持つ。
 ほとんどの通信はネット上で行われるが,モノのやり取りをするときは「仮の住所」で受け取る。「仮の住所」を管理する機関に依頼すれば,「本当の住所」に転送してもらうこともできる。「仮の住所」を管理するのも,厳格な義務を負う「専門機関」である。

 それでも不安な人は,たとえば「仮の住所」から直接「本当の住所」に転送するのではなく,いったん別の「仮の住所」に転送して,そこから「本当の住所」に送ることにすればいい。

 一般的なサービスの利用・買い物・就職は,「通り名」で行うことができる。「通り名」による債務不履行などの問題があったとき,業者は当局に申請して,該当する人物の「本名」を確認し,請求や訴訟を行う・・・・・・

 ***

 このくらいやれば,個人情報は守られて,安心でしょう。

 もちろん「専門機関」がどれだけ信頼できるのか,という問題はあります。だから「専門機関」を徹底的に監督する制度や,義務違反や過失あった場合のきびしい罰則も必要です。
 
 このような社会になれば,多くの企業は「個人情報を蓄積して,顧客を囲いこんで・・・」などとは考えなくなるでしょう。
 「個人情報のようなめんどうな危険物は,できれば取得したくない」と考えることでしょう。

 企業への申込みをする際の記入シートに「本名や本当の住所を書かないでください。もし書いても,責任は持てません」という注意書きがされるようになるのです。

 以上は妄想であり,悪い「冗談」といえます。
 でも,近年の「個人情報流出事件」への騒ぎかたをみていると,社会は「アースシー」的な方向を真剣に模索しかねない,などとも思います。
 つまり「めったに本名を明かさず生活すること」が一般的な社会。
 とにかく,今の私たちは「真の名」を知られるのがイヤなのです。

 これからの世の中を考えるうえで「そういうこともあるのでは?」という問いかけをもってみると,何かがわかってくるかもしれません。
 
(以上) 
2015年02月03日 (火) | Edit |
 「イスラム国」をめぐる議論で気になることのひとつに,「国家とは何か」ということがあります。
 「国家とは何か」について,混乱があるように思うのです。
 そして,その混乱は「イスラム国」という「敵」を理解するうえでの障害になっているのではないか。

 「イスラム国」なんて,あんなものは「国家」ではない。

 そんなことがよく言われます。

 なぜかというと,「国際社会で承認されていないから」とのこと。

 「国際社会での承認」というのは,「アメリカなどの大国間での合意」です。要するに「多数決」あるいは「談合」です。そんなことで決めるなんて,あまりに「理屈」がなさすぎます。理論的とはいえません。

 もう少し理論的であろうとするなら,「きちんと整理された定義・要件にあてはまるかどうか」という視点で議論すべきです。

 
 また,イスラム国が対外的なテロや支配地域内での残虐行為を行っていることから,「こんなひどいことをするなんて,国家ではない」などとも言われます。

 これも,私は理解に苦しみます。国家がテロや残虐行為を内外で行ったケースは,いくらでもあります。近代以前の昔はもちろん,近現代でもあるわけです。たとえばナチス・ドイツなどはそれにあてはまるでしょう。北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし,「ナチス・ドイツは(北朝鮮は)国家ではない」という人は少ないと思います。「まともな国家ではない」というなら,わかりますが。

 
 「ひどいことをせず・人びとのためになることをするのが国家だ」というのは,「国家のあるべき姿」と「国家とは何か」を混同しているのです。

 それは,「善人でなければ人間でない」というのと同じです。
 「定義」として考えれば,犯罪者や極悪人も,やはり「人間」です。ただし「過ちを犯した」あるいは「非道な」人間ということになります。「お前ら人間じゃない!」というのは,あくまで感情的なものです。

 ***

 では,「国家」とは何か?

 それは,「社会」がひとつの権力によって束ねられている状態をいいます。

 ここで「社会」とは,人間の集団として「そこで生きる人たちの暮らしが,長期にわたって(何十年・何百年と)持続し得るだけの基盤をもっている」ということです。衣食住などの生活に必要な物資を安定的に生産したり輸入したりできる,子孫を生み育てることが可能な人口や年齢構成になっている・・・そんな条件を備えた人間の集団が「社会」である。

 一言でいえば,社会とは 「生活の再生産を行い得る人間の集団」です。

 そのような「社会」を構成する人たちに対し,一定の「法」を強制できる存在のことを「国家権力」といいます。

 たとえば,日本列島に暮らす1億人余りの人間の集団は,生活の再生産が可能な大きなまとまりになっています。その意味でまさに「社会」です。それを束ねる「国家権力」が日本政府です。日本政府は,私たちに対しさまざまな「法」に従うことを強制できるのです。

 星新一の小説に「マイ国家」というのがありました。ある家の主が「ウチは独立国家だ」と主張する話。マイホームならぬ「マイ国家」であると。話としては面白いのですが,家一軒では「生活の再生産」ができません。長期の持続ができないので「社会」とはいえません。「社会」でないものが「国家」を名乗っても,それは「国家ごっこ」に過ぎないのです。

 また,かわぐちかいじのマンガ『沈黙の艦隊』では,反乱をおこした潜水艦が「我々は独立国家である」と宣言しています。でも,潜水艦の乗組員は男ばかりで子孫を残せそうもないし,生活物資を安定的に生産・調達するのもむずかしそうです。「独立宣言をした潜水艦」は,たぶん「国家」とはいえないでしょう。

 井上ひさしの小説『吉里吉里人』は,東北の一寒村が「独立国家」を宣言する物語です。これは「国家」といえる可能性が十分にあります。村落レベルでは難しいかもしれませんが,少なくとも都道府県くらいの規模の地域社会であれば,独自に生活物資を生産や輸入等によって安定的に調達することも可能なはずです。世界には都道府県と同じくらいの,人口数十万から数百万の国はいくつもあります。

 そして,世界のあちこちで「一地方の独立」ということは問題になっています。「スコットランドの独立問題」などは記憶に新しいです。
 

 *** 

 さて, 「イスラム国」は「国家」といえるのか?

 「再生産可能な単位としての社会が,ひとつの権力によって束ねられている状態」を「国家」とするなら,「イスラム国」はこれに該当するといっていいでしょう。いくつもの村落や地域社会を,支配しているのですから。

 「イスラム国」というテロ組織は,支配地域において,人びとに自分たちの「法」を強制しています。彼らの「法」で禁じている喫煙を行った人を逮捕したりしている。ならば,イスラム国は,「国家権力」の一種であるといえるのです。

 未熟で粗っぽく,暴虐であるとはいえ,「国家」の最低限の要件は満たしている。
 「イスラム国」について,私はそのように考えます。

 ここで述べた「国家」の定義は,政治学者・滝村隆一さんの説によります(『国家論大綱』など)。

 こういう「定義」の問題は,かなり論理的に突き詰めても,結局は「オレの考えに従えば,オレの考えが正しい」みたいな主張になってしまいます。ここでも「オレによる国家の定義に従えば,〈イスラム国〉は国家である」と言っているのです。

 しかし,「国際社会で承認されないと国家ではない」とか「悪いことをするのは国家ではない」というよりは,よほど一貫性のある・整理された議論ではないかと思っています。

 あいまいで混乱した「国家」論にもとづいて「あんなものは国家ではない」などと言っていると,「イスラム国」がどのような「敵」であるかを見誤ってしまうのではないでしょうか?

 「あれは国家の一種だ」と認めることは,「イスラム国は正しい」と認めることではありません。彼らの「理想」も,その理想を実現するためにとっている手段も,やはり間違っていると思います。

 彼らが,粗雑なものであれ「国家」の一種であるなら,単なる「テロ組織」に対するのとは異なる戦い方があるはずです。その「戦い方」がどういうものか,具体的なことは私にはわかりません。でも「国家」というのは,「組織」よりはかなりしぶといはずです。何しろ自立した・持続可能な人間の集団なのです。タフな相手だということです。

 関連記事:アリストテレスと考える・国家とは何か
*「国家とは」について,イェリネックの古典的学説(国家三要素説)やアリストテレスの見解,滝村隆一さんの説などを紹介した記事

(以上)
2015年01月20日 (火) | Edit |
 家に帰ってテレビをつけると,NHKニュースで「イスラム国」が日本人2人を人質にとった事件について,大きく報道していました。

 このようなテロは許せないし,とにかく2人の無事を祈るばかりです。
 「イスラム国」の残虐行為は,私たちの「文明社会」に対する挑戦です。
 その意味で彼らは「敵」である。
 
 しかし,「敵」を知ることは大事です。
 表面的な「時事解説」ではなく,本質的なところをつかんでおきたい。

 この2週間くらい,たまたまイスラム関係の本を読み返したり,「イスラム国」について論じた本を読んでいました。
 そこで知ったことを,簡単に書きます。
 とくに,ロレッタ・ナポリオーニ『イスラム国 テロリストが国家をつくる時』 (文藝春秋)を参考にしています。

 ***

 「イスラム国」は,シリアの一部からイラクの一部にまたがる地域を支配する,イスラム過激派のテロ組織です。
 去年(2014年)の6月に「国家」としての独立宣言(国際社会では未承認)を行ってから,急に注目されるようになりました。
 それ以前には,目立った存在ではなかった。この2,3年のあいだに台頭したのです。

 この組織のリーダー,アブ・バクル・アル・バグダディは,2009年までイラク国内の米軍の収容施設(刑務所)に入っていました。つまり,ほんの数年前に刑務所から出てきた男が,急速に大きくしたということ。

 「イスラム国」が台頭した根本には,その「戦略」があります。

 その戦略は,従来のイスラム過激派とは異なっています。

 従来のイスラム過激派の運動方針は,「革命モデル」といえるもの。
 これに対し,「イスラム国」は「征服モデル」です。

 「革命モデル」とは,テロや武力によって政権を転覆し,国家権力を奪取しようとするやり方です。
 その攻撃対象は,国家権力の中枢。
 例えていえば,国家という巨大な乗り物のコントロール室を攻撃・占拠し,その操縦桿を奪うということ。

 レーニンが指揮したロシア革命(最初の社会主義国家・ソ連を建国)は,まさにそういうものでした。

 ただし現実には,多くの過激派組織は「権力奪取」には程遠い状態です。たいていは「散発的なテロや武力行使で,政権を動揺させる」といった「準備段階」にとどまっています。自爆テロを行う組織は,そんな状態にあるわけです。

 イスラム過激派にかぎらず,「過激派」とよばれる組織は,ほとんどがこの「革命モデル」の発想で動いてきました。

 「9.11テロ」のアルカイダの場合は,「国際革命モデル」とでもいったらいいでしょうか。
 世界の支配者(コントロール室)であるアメリカを攻撃することで,世界秩序に揺さぶりをかけようというものです。

 ***

 つぎに,「イスラム国」の戦略である,「征服モデル」について。
 これは「国家権力の中枢」を攻撃するのではなく,「国家権力が行き届かない地域を征服する」という発想です。内戦などで一種の無政府状態になっている地域を狙うのです。

 そのような権力の空白地帯では,地域ごとに小規模な武力勢力が割拠していたり,勢力どうしの戦闘がくり返されたりしています。暴力や犯罪が横行し,割拠する支配者は暴虐で,インフラも荒廃しています。まさに「非道」な状態です。

 そんな支配勢力を排除し,各地を自らの支配下におくことを,「イスラム国」はシリアやイラクの一部において積み重ねてきたのです。

 そして,征服した地域では「非道」な状態を,ある程度改善してきました。最低限の治安を維持し,道路や電気などのインフラを立て直し,食糧の配給や予防接種を行う,といったことです。それによって住民からの一定の支持を得てきました。「とにかく,これまでよりはましだ」というわけです。
 その一方で,自分たちへの反対者には,徹底して攻撃を加える。残酷な手段も辞さない。

 活動の資金源は,征服した地域にある油田です。油田のある場所を,彼らはまずおさえようとしました。採れた原油は精製加工して,闇取引で売りさばく。あとは,銀行強盗や誘拐などの犯罪で資金を得る。

 多くの過激派組織は,社会の中に潜伏する文字通りの「組織」です。これに対し,「イスラム国」は地域社会を占領・支配しているのです。それは未熟なかたちであれ,やはり「国家」といっていいでしょう。しかし,国際社会の主流派によって承認されていないので,マスコミでは「国家」とはいわないのです。

 まず,辺境の無政府地帯を征服し,自分たちの小さな「国家」をつくる。
 そして,その「国家」は周辺の地域や国ぐにを征服し,拡張していく。
 最終的には,アフリカから東南アジアにいたるイスラム圏の全体を包括する。そこに自分たちの考える「イスラムの教え」に基づく,巨大なユートピアを建設する。

 そんな「プラン」「夢想」を,「イスラム国」は抱いているのです。

 近代以降の世界史では,国家は革命や独立によってつくられるものでした。
 近代以前には,国家はおもに征服によってつくられました。つまり,より強力な国家(共同体)が,周辺の共同体を支配下におくことで,国家は大きくなっていったのです。ローマ帝国もモンゴル帝国もそうです。そして,かつてのイスラムの帝国も,預言者ムハンマドが基礎をつくったムスリム(イスラム教徒)の共同体が,周辺の国ぐにをつぎつぎと征服することで生まれました。

 「イスラム国」のように,何もないところから,征服によってこれだけの規模の国家に近いものが形成されたのは,近代ではまれです。パレスチナのような事例もあり,空前のことではありませんが,レアケースです。

 ***

 以上,彼らは一種の「狂信」に基づく組織ではありますが,必ずしも支離滅裂ではありません。
 一定の戦略や合理性を持ち合わせているのです。

 「イスラム国」が最終的に勝利をおさめるのか,滅びるのかは,今は予想がつきません。
 「勝利」とは,とりあえず「国際社会で承認される国家の創設」といえるでしょう。
 「敗北」したとしても,「イスラム国」の事例は,今後のイスラム過激派に多大な影響を残すことでしょう。「征服モデル」という,新しい運動の方向を示したのですから。

 この組織の特徴については,ほかにもいろいろ言われています。
 インターネットなどのメディアの活用,外国人を広く受け入れていること等々です。

 その中で「イスラム国」の最も重要な特徴は,「征服モデル」による運動ということです。

 「国家をつくろうとしている,征服するテロリスト」。それが「イスラム国」。
 つい最近まで,思ってもみなかったようなものが,この世界にあらわれたのです。

(以上) 
2015年01月12日 (月) | Edit |
 今日は成人式。成人式といえば振袖の女子が華やかです。

 20年くらい前,成人式のシーズンに,昭和ヒトケタ生まれの私の父が,自分の若かった昭和20年代の田舎を思い出して,こんなことを言っていました。

「そのころ(昭和20年代)は,娘さんに振袖をつくってやれる家なんて,村にほんの何軒かあるだけだった。ちゃんとした着物は高かったんだ。でも今はいいよな。ほとんどみんなが成人式で振袖を着れる時代になった」

 その後の高度経済成長(1955頃から1975頃,昭和30~40年代)で,人びとの所得が増える一方,生産力の進歩で着物を安価につくれるようになった結果,「振袖で成人式」は一般的になったのでしょう。

 何十年か昔の日本では,「きちんとした着物をつくる(買う)」というのは,たいへんなことだったようです。
 このことは,たまに思い出すといいかもしれません。

 では「きちんとした着物」が昔はいくらくらいしたのか,ということを知りたいと思って,手持ちの「値段史」の本などをあたりましたが,よくわかりませんでした。モノによってかなりちがうので,統計資料的に示しにくいのかもしれません。いつかもう少し調べてみたい。

 ***

 さらに,何百年も前の昔にさかのぼると,着物を新調することは,もっとたいへんでした。
 たとえばこんな話が文書で残っているそうです。
 小泉和子『ものと人間の文化史46 箪笥』(法政大学出版局)にあった話です。

 安土桃山~江戸時代初期のこと。三十万石の大名家の娘が,父に手紙で新しい小袖(それなりの立派な着物でしょう)をつくらせてほしい,とお願いをした。一着しかない小袖が古くなったのだと。

 三十万石の大名の娘が,一着しか持ってないの? 
 着物一枚つくるのに,父である殿様に伺いをたてないといけないの?

 当時は,そういう時代だったのです。
 それだけ衣類というものが貴重で高価だったということ。

 そして殿様は,娘が着物を新調することを許しませんでした。最初は手紙や家来を通してのやり取りでしたが,最後は姫様本人が父君にじかにお願いしました。しかし,「一着あれば十分」と却下され,ひどく叱られたそうです。

 「昔は貧しかった」というイメージは,私もある程度は持っているつもりでしたが,この話には少々おどろきました。
 大名でも,そうだったのか・・・と。

 また,これと同時代の人で,石田三成の重臣だった三百石取りのある武士の娘が,晩年にこう語ったそうです。

 「自分は13歳から17歳まで,たった1枚の着物で通した。しまいには寸足らずになってすねが出て困った・・・」

 「三百石」というのは,かなり上級の武士です。それでも,そんなにも質素だった。
 だとしたら,庶民の着ているものなど,どれだけひどいものだったか・・・

 当時も,美しい着物をつくる技術はありました。
 しかし,それを享受できるのは,きわめて少数の人間だけだったのです。

 ***

 ただし,こういう記録に残っているのは,「印象的なほどに質素」という,やや例外的な事例である可能性もあります。
 でも,数百年前の日本が,現代の感覚でふつうに想像する以上に貧しく質素だった,ということはいえるのではないでしょうか。

 小泉和子さんの同書などによれば,着物に関しこのような「超・質素」な状態を脱したのは,江戸時代のことだといいます。木綿や絹織物の生産・流通が発展し,美しい高級な呉服も,相当に大衆化していったのです。

 そのずっと先の延長線上に,今の成人式の風景もあるわけです。

(以上)
2015年01月10日 (土) | Edit |
 パリで週刊紙の本社が銃撃され,12人が死亡したテロ。
 これに関し「表現の自由への侵害は許されない」とあちこちで述べていることに違和感があります。
 こういうテロは「表現の自由」などという,高度な文明社会の価値観に関わる話ではありません。
 少なくとも,そこが肝心なのではない。

 「気に入らないからって,人を殺してはいけない」

 そういう,もっと基本的な人間社会のルールに関わることではないかと思います。

 ***

 人は,気に入らない人間を攻撃したいという感情を持っています。
 でも,その感情を野放しにしたら,社会の秩序は保てません。
 そこで,それをコントロールする価値観や道徳を,文明社会は発展させてきました。

 今のところ,そのひとつの到達点は,近代的な「人権思想」「民主主義」などの価値観でしょう。
 「民主主義」とは,「気に入らないからって,殺したりしないで話し合おう」という考え方です。
 あるいは「気に入らないなら,殴ったり殺したりしないで,いろいろ言ってやりましょう」ということ。
 
 「宗教」も,人間の攻撃性をコントロールする機能を持ってきました。
 宗教は,一定の道徳的な価値体系を持っています。「侮辱されたら,殺してもいい」という宗教的道徳は,まず考えられません。少なくとも,社会の中でメジャーな勢力となった宗教ではありえない。
 それは,今回のテロの背景にあるとされる「イスラム」においても同じことです。

 イスラムでいう不信心者に対する「聖戦」にしても,《必ずしも戦闘によるものではない》のだといいます。《説得など,平和的手段によって本当の宗教の意味を説明することも意味して》いるのです。(宮田律『アメリカはイスラム国に勝てない』PHP新書より。宮田さんはイスラム情勢の専門家)

 ***

 しかし,宗教には「道徳」を人びとに根付かせる構造に,大きな矛盾や問題があるように思います。
 つまり,信じる人たちの一部に不寛容や狂信を生んでしまう。どうしてもそういう傾向があるということ。

 宗教の考えかたは,こうです。
 「神」のような絶対的な存在をおき,それに全幅の信頼を寄せる。そして,「神」あるいは「神の代理人」が述べたとされることを,無条件に受け入れる。
 「無条件に受け入れる」というのは,根拠を求めたり,検証しようとしたりしない,ということ。

 無条件に受け入れたことの中には「あなたの隣人を愛しなさい」みたいな道徳も含まれます。
 そこで,信心深い人は道徳的にもなり,隣人を愛するようになるはずです。個人の小さな感情を超えた,大きな愛で人と接するようにもなるでしょう。そんな人が増えれば,社会の安定や平和も実現する・・・はずです。

 ところが,「無条件な信仰」というのは,どこかで不寛容を生みます。
 自分の信仰を否定されると,非常に攻撃的になる,ということがあるのです。
 理屈を超えて深く信じているものを侮辱されれば,理屈を超えた大きな怒りがあっても無理はないです。

 もちろん,信仰を持つ人の多くは常識やバランス感覚を持っているのですが,一部にはそうでない人もいる。
 そして究極には,「自分たちの神を侮辱する人間は,殺してもいい」というのが「神の教え」だとまじめに考える者まで出てくるのです。

 こういうのを「狂信」といいますが,「無条件な信仰」というのは,一部に(あくまで一部です)狂信を生むのです。
 そして,狂信は暴力や殺戮を生む。
 社会に平和や秩序をもたらすはずの「教え」が,そんなことになってしまう。

 ***

 ペンをかかげて今回のテロに抗議するというのは,私にはどうもしっくりきません。

 「表現の自由」などというものをかかげて,非西洋の人たちに本当に訴えるものがあるのか?
 新聞やテレビの論調に影響されすぎてはいないかと疑います。
 たしかに,マスコミの人たちにとっては,このテロはまず第一に「表現の自由」への挑戦であるはずです。マスコミ人にとって,その「自由」ほど大事なものはないでしょう。

 しかし,「表現の自由」などといわれてもピンとこない人たちが,世界には何十億人もいるのではないか。その人たちは「そんな自由は,欧米の特殊な価値観にすぎない」と思わないでしょうか? 
  
 だから,そんなことよりも「人間としての根本的な道徳」にもっと訴えるべきではないかと思います。

 「気に入らない人間がいたからって,殺していいのか? (そんなことは,あなたたちの信仰や道徳でも認められていないはずだ)」

 そういう訴えかたが,もっとあっていいのではないか。

 「表現の自由をおびやかす何か」に抗議するのではない。
 人間のなかに潜む「攻撃性」や「不合理な狂信」に抗議するということを,もっとはっきりさせないといけないように思います。

 そうでないと,こういう事件のあと,人びとのあいだで別の「狂信」が力を持ってしまうように思えてなりません。たとえば「〇〇人はとにかく邪悪で凶暴な存在であり,そのようなあいつらの本性は絶対変わらない。だからあんな奴らは我が国では・・・」みたいな方向です。

(以上) 

付記(1月12日)
 その後,いただいたコメントなどから,次のように考えました。

 「表現の自由」という観点が中心だと,「侮辱された人間の怒り」ということが抜け落ちてしまうのではないか。自分が深く信仰する教えを「風刺」されるのは,された側としては,ひどい「侮辱」と感じられるはずです。
 コメントをくださった方もいうように「人を侮辱してはいけない」というのも,人間の基本的な道徳のはずです。

 だがしかし,「どんなに激しく侮辱されたとしても,殺してはいけない」ということは外せない。

 一方,この事件は個人の感情や道徳の次元だけで論じきれるものでは,もちろんありません。
 その背景には,それなりのイデオロギーがあり,それへの「狂信」がこのようなテロを生んでいる,と言えるでしょう。犯人には背景になる組織があって,その組織の観点に立ったテロを行っています。だから,イスラムを批判する新聞が襲われ,警察官が襲われ,ユダヤ系スーパーが襲われたのです。

 やはり憎むべきは「狂信」だと,私は思います。

 そして,犯人がこうした組織に関わるまでには,「移民の子」としていろんな侮辱を受けてきたことでしょう。それへの個人としての怒りが背景にあるわけです・・・
2015年01月02日 (金) | Edit |
 あけましておめでとうございます。
 今年もよろしくお願いいたします。

 このブログをはじめてもうすぐ丸2年です。(はじめたのは2013年の1月)
 最近,ある若い友人から「書いていてたのしそうですね」と言われました。

 たしかに,たのしいです。
 こういう,書きたいことを書いて,どなたかに読んでいただける場所があるのは,いいですね。ブログというのは,ありがたい道具です。今年もこの道具を積極的に使っていきたい。もう少し上手に使えるようにもなりたいです。

 ***

 新春なので,世界や日本について風呂敷を広げて考えてみましょう。
 
 年末にみかけた,あるビジネス雑誌の表紙に「混迷を深める世界・岐路に立つ日本」みたいなキャッチコピーがありました。
 これは,決まり文句ですね。
 社長さんが社員に「年頭のあいさつ」のスピーチをするときには,よく出てきそうです。20年前30年前にも同じようなことを言っていました。

 たぶん,この何十年か世界はずーっと「混迷を深め」てきたし,日本もずーっと「岐路に立ち」続けてきたのです。

 皮肉っぽく書きましたが,世界や日本の現状についての抽象的なまとめとして,「混迷する」「岐路に立つ」というのは,決してまちがっていないと思います。

 でも,問題は話が抽象的すぎることです。それだけでなんだかわかった気になって,思考が止まってしまうとしたら困ったことです。

 社長の新年のあいさつだと,「混迷を深め」「岐路に立つ」という世界や日本の情勢についての基本認識が示されたあとは,たいてい円相場がどう,業界の様子がどう,それを踏まえわが社の事業計画は,といった個別具体的な話題にすすんでいきます。

 これだと,すごく抽象的な話と,かなり具体的な話を結ぶ「中間」が欠けているのです。
 つまり,「世界が混迷を深めている,日本が岐路に立っているとはういうことか」というのを,もう一歩踏み込んで,しかし個別具体的になりすぎずに説明した話がない。それでは「混迷を深め」「岐路に立つ」というのは,中身のない単なる「枕詞」になってしまう。

 そこで,今回はそんな「中間の話」をしましょう。

 ***

 まず「日本が岐路に立っている」とはどういうことか?

 これは「成熟した経済・社会への対応を迫られている」ということです。政府も企業も個人も。

 では「成熟した経済・社会」とは何かというと,「高度成長の結果,経済的に発展した先進国となり,それが一定の年数を経て定着した状態」のことです。
 「先進国に追いつけ・追い越せ」ではなくなった社会。
 
 日本は,高度経済成長が終わった1970年代に,経済面で一応は欧米に追いついて「先進国」となりました。
 1人あたりGDP(経済の発展度を示す指標になる)でみると,日本は1970年代にイギリスに追いつき,1980年代にはアメリカに追いついています。

 そして 「先進国であること」が定着したのは,1980年代後半から1990年ころ以降ではないかと,私は思います。今から20数年~30年前のこと。バブル経済からその崩壊にかけての時期です。
 そのころ「先進国として成熟する」という課題を,日本は背負うようになったのです。

 それまでは「先進国になる」のが課題だったのですが,課題が変わった。

 これが「日本は岐路に立っている」ということ。
 あれから30年。
 今も岐路に立ち続けている。 

 ***

 「成熟した経済・社会」に,政府や企業や私たち個人は,適応しなくてはいけない。
 もちろんある程度はできています。でも,「右肩あがり」の時代の発想は根強い。中高年はとくにそうだし,若い世代も,そんな中高年に影響を受けている。

 たとえば,高度成長期に政権を担った政党(自民党)が,今も圧倒的多数で政権を担っています。ほかの政権(民主党など)も試してみたけど,「ダメだ」と感じて元に戻った。「政治の新しい枠組みはないものか」と模索してみたけど,なかなかみえてこない。

 日本政府の抱える負債は,ご存じのようにものすごい金額になっています。
 これは「経済が順調に成長する」「国民の年齢構成が比較的若い(老人が少ない)」といった,「右肩上がり」の時代の前提に立った社会保障制度を維持してきた結果です。経済成長がペースダウンして高齢化が進んだ「成熟した経済・社会」には,全然適応していない。

 「日本株式会社」は,今までの「モノをつくって輸出する」というビジネスモデル以外の新しい何かを,なかなか見いだせないでいます。
 つくっているモノの中身も,「なんかズレている」とよく言われます。たとえば消費者が求めるのとはちがう,意味のないハイスペックだったりややこしい機能がついてたり・・・

 「円高のせいで輸出が伸びない」と言われたりもしました(説明は省きますが,円高は輸出企業には不利なのです)。しかしアベノミクス以降,円安が進みましたが,全体としては輸出は伸びていません。「モノをつくって輸出が伸びることで経済が活気づく」という従来のモデルは,通用しなくなっているようです。

 「たんなるモノじゃなくて,ソフトとか,クールなジャパンをもっと輸出しよう」という意見もあります。でも何が「クール」なのか,社会のリーダー的な人たち,つまりオジさんたちにはよくわからないので,この方面の議論は混迷をきわめています。

 そのためか「クールなジャパン」は,海外でよい評判を得ることがあっても,あまり儲かっていません。つまり,輸出産業としては今のところ経済にあまり影響していない(ただし,日本への海外からの観光客はこの10年で大きく増え,ほぼ2倍になりましたが)。 

 これからの成熟経済はモノつくりではない,金融立国に日本はなっていかないといけない,という主張もあります。
 たしかに,成熟した先進国では発展途上の国とは異なる金融があるようです。たとえば,個人の金融資産であれば,銀行の預貯金よりも,株式やファンドなどによる「投資・運用」をメインとするような。

 「貯蓄から投資へ」ということは,少なくとも10年ほど前の小泉政権でも言っていました。でも,日本人の金融資産は相変わらず預貯金中心で,この20~30年のあいだ,大きくは変わっていないのです。

 ***

 以上,いろいろな面で「成熟した経済・社会に対応しきれず,相変わらずなやり方を続けている」ということです。
 「岐路」に立っているけど,「これまでとはちがう方向」に進めず,立ちすくんでいる。

 でもこれは,政治・経済のリーダーたちだけのせいではない。

 私たちふつうの個人の多くも,だいじな場面で「相変らず」のほうを選んでいます。「選ばざるを得ないんだ」と言いたいかもしれませんが,とにかく結果として選んでいる。

 最近の選挙の結果などは,まさにそうです。

 年金などの社会保障を「成熟社会」に適応させるとしたら,今の給付水準を大きく下げることになるので,高齢者を中心に猛反対が起きるでしょう。だから,政治家も動けない。

 貯蓄よりも投資を積極的に行うことをためらっているのは,私たちひとりひとりです。

 「モノつくり」で頑張っている人たちを,私たちは今もおおいに尊敬しています(映画やドラマの制作に関わる演出家や俳優が自分たちの仕事を「モノつくり」とか言うくらいです)。その一方,金融で稼ぐ人たちは「モノつくり」の人たちほど好かれていません。

 こういう「相変わらずな価値観」は,年寄りも若い人も,そんなには違わないのではないでしょうか。

 たとえば就職活動をする大学生の「就職したい企業ランキング」をみると,それを痛感します。上位に来る企業は,30年近く前に(今40代終わりの)私が就職活動していたころと本質的には変わっていません。大手の金融機関や商社や,インフラ系企業などが,その顔ぶれの中心なのです。

 ***

 「成熟した経済・社会としての対応」とは,「成熟した先進国になる」といってもいいでしょう。
 そのような社会がどんなものであるかは,だいたいわかっているはずです。

 政治であれば,特定の政党が何十年も政権を担い続けるなんてことは,成熟した先進国らしくないです。

 先進国で少子高齢化が進むのは,常識です。社会保障制度がそれを前提にすべきなのも,常識的なことでしょう。

 従来型の工業製品で輸出競争力が落ちていくのも,成熟した先進国の「宿命」といっていいでしょう。豊かな国民=賃金の高い国民なのだから,人件費の安い新興国との競争では,おおいに不利なわけです。

 工業製品の輸出がふるわないなら,製品の方向性を見直したり,「クール」な何かを生みだしてソフトで稼いだり,金融・投資によって収益を得たりすることも,やはりだいじな選択肢です。

 「成熟した経済・社会」への対応策というのは,基本的な方向としては,じつはすでにわかっているのではないでしょうか。わかっているんだけど,積極的にそちらの方向へ行けないでいる。
 
 なぜでしょう? 

 たぶん「日本は岐路に立っている」などという決まり文句で語るような「リーダー」や「インテリ」を,私たちが放置しているからでしょう。

 枕詞のように「日本は岐路に立っています」と言うリーダーは,たぶん「分かれ道」の前でモタモタするか,「相変わらずの道」のほうへ行く人です。

 そういうリーダーを甘やかさないで,いろいろとものを言ったり,抵抗したりできないものでしょうか?

 あるいは,そんな「リーダー」の力の及ばないところで,「相変わらずでない」何かを進めることはできないでしょうか? とくに個人として自由になる領域で,それができないでしょうか?

 また,新しい何かを行っている人を,自分なりに応援できないでしょうか?

 新春にあたり,もしもどこかで政治家や社長やインテリみたいな人が「日本は岐路に立っている」と言っていたら,今回書いたことを思い出してください。「岐路に立っている」とはどういうことか。こんなことを言うリーダーは大丈夫なんだろうか・・・

 長くなったので,「混迷を深める世界」については,またの機会に。

(以上)
2014年10月21日 (火) | Edit |
 2人の大臣の辞任。ひとりは選挙民にうちわを配った。ひとりは選挙民が芝居をみる費用の一部を払った。いずれも公職選挙法が禁止する寄付にあたる可能性がある。

 公職選挙法や政治資金規正法の違反で,政治家が失脚したり起訴されたりするのは,何度もみてきました。
 そのたび,「私たちの法の支配は,まだまだ不完全だ」と思います。

 どういうことか?

 法に違反した場合,たとえ有力な政治家であっても,社会的制裁や法的処罰を受けるというのは,その点では「法の支配」や「法治」ということが実現しているといえます。

 しかし,一方で法の使い方に,恣意的な面はないでしょうか?
 それは,こういうことです。

 公職選挙法や政治資金規正法は,クリーンな政治を実現するために,それなりに厳しくこと細かに,政治のお金の流れを規制しています。なにしろ,うちわを配れば法に触れるのです。そのようなクリーンな世界をめざしているということです。

 それだけに,本気で守られることのない法律なのかもしれません。
 理想に現実が追いつかない,といってもいい。

 有力な政治家であれば,こまかく追及すれば,どこかで「政治のお金の流れ」にかんし違法な何かをしていることがみつかるのでは?
 政治家は「叩けばホコリが出るものだ」ということ。

 そう断言できる根拠があるわけではありません。
 でも,かなりの人が「それはそうかも」と思えるのではないでしょうか。

 もし仮に「政治家は,叩けばホコリが出るもの」だとしたら,日本の政治は,不安定な要素をつねにかかえることになります。
 反対勢力が特定の政治家を失脚させようと思えば,いつでもそれができる,ということですから。
 
 一定の「力」をもった勢力なら,敵対する政治家の「お金の流れ」をくわしく調べて,何らかの「違法」をみつけることができる。マスコミや世論がそれを追求する。あるいは検察が動く。
 敵対する政治勢力どうしで,かなり効果的な「足の引っ張り合い」ができてしまう。

 有力な政治家が足を引っ張られてばかりだと,まとまった政策は実現しにくくなります。とくに,大きな変革はむずかしくなるでしょう。

 もしそうだとすると,「政治資金規正法」や「公職選挙法」は,これでいいのか?
 考え直す余地はないものか。 

 もう少し,「理想」のレベルを妥協して,現実的に「守れそう」というところまで規制をゆるやかにしてもいいのかもしれない。そのかわり一線を越えた場合はきびしく罰することにするとか。
 それが正しいかどうかはともかく,議論はもっとあっていいのでは…
 
 でも,「〈政治のお金〉についての規制を緩和すべきだ」なんて,誰が言えるでしょう? 政治家や官僚としては,主張にしくいです。
 そんなことを言えば,つよい批判を受けるでしょう。選挙になれば,落ちてしまいそう。

 ***

 「政治のお金の流れ」だけではありません。

 世の中には「法のめざす理想」と「現実」に大きなギャップのある事例が,いくつもあります。
 たとえば,道路の速度制限,残業手当の支払い,未成年の喫煙・飲酒の規制のように,「違反」が日常茶飯事になっている(と思われる)ことが,けっこうあるのです。

 こういうケースは,ルールの中身や運用に,どこか「現実」にそぐわない面があるのかもしれません。
 その法がめざす「理想」は正しいのですが・・・

 昔の「生類憐みの令」や「禁酒法」ほどに,むちゃな「理想」をかかげているわけではありません。しかし,現実に対してどこか「無理」を強いているところはないか。
 少なくとも,そういう「疑い」をもって考えてみてもいいと思います。
 
 しかし,「理想をかかげて何が悪い」という考えもあるでしょう。
 「あるべき姿を示すのも,法のだいじな役割ではないか」というわけです。
 
 でも,「遵守されないのがあたりまえ」という「法」がはびこるとしたら,やはり社会にとって大きなマイナスではないでしょうか。それでは法というものが,あまりに「軽い」ものになってしまいます。

 みんなが法を守ること,法の適用や違反者の処罰が平等に行われることが,「法治国家」の条件です。
 その条件が崩れてしまう。

 違反する人間がかなりおおぜいいて,「誰を追求し・取り締まるか」が権力や利害関係者の都合による,というのでは「法治」としてのレベルが低いわけです。
 法が社会的な権威として力を持っているという意味では,一定の「法治」にはなっていますが,それだけではダメです。

 今回の「大臣の辞任」のようなケースに接すると,「日本における〈法の支配〉は,まだまだ発展途上なのだ」と,私は感じます。これを,もう少し進化させていかないといけない。「政治と金の問題がどうの」とか「説明責任が云々」というだけの話ではないと思うのです。

(以上)  
2014年10月10日 (金) | Edit |
 西暦2000年の時点で,日本のGDPは世界全体の15%を占めていました。これは,アメリカ(世界のGDPの31%)に次いで,世界2位。

 そしてこの「15%」のシェアは,3位のドイツ(6%),4位のイギリス(5%),5位のフランス(4%)の3国を合わせたのと,ちょうど同じです。経済規模でみて,ドイツ+イギリス+フランス=日本だったのです。
 
 最近(2011年)はどうか。

 1位アメリカ(世界のGDPの21%)
 2位中国(10%)
 3位日本(8%)
 4位ドイツ(5%)
 5位フランス(4%)

 日本が世界に占めるシェアは「15%」のほぼ半分になりました。
 そして,中国に抜かれ世界第3位に。

 これは,この20年ほど日本の経済成長がほかの国にくらべて停滞していたからです。

 1980年代から90年ころにかけて,日本の勢いにはめざましいものがありました。
 それが,上記の「2000年ころの日本が世界に占めるシェア」にあらわれています。90年代の日本は,世界のなかで「単独2位」で,たんなる「大国」以上の「超大国」的なポジションにあったのです。少なくとも「超大国」に近づきつつあった,といえるでしょう。 

 ここで「超大国」というのは,経済はもちろん大事ですが,文化や科学の力なども含めた,総合的なパワーで世界に大きな影響をあたえる存在ということです。20世紀以降のアメリカは,まさにそういう国です。

 しかし残念ながら,日本はそのような「超大国」にはなれませんでした。
 1990年前後の時代の,超大国になる,おそらく唯一のチャンスを逃した,といっていいでしょう。

 もちろん,「超大国」ではありませんが,今の日本も「大国」であることには変わりありません。
 
 たとえば,ついこのあいだ,3人の日本人科学者のノーベル賞受賞のニュースがありました。日経新聞をみると,これまでの日本人のノーベル賞受賞歴をふりかえって「日本人,2000年から受賞ラッシュ」などともあります。これは,文化・科学も含めた,現在の「大国・日本」の力を示しているといえるでしょう。
 
 しかし,ノーベル賞というのは,かなり過去に行われた研究に対し授与されることがほとんどです。今回の物理学賞の対象となった研究も,80年代から90年ころの成果です。つまり,日本が「超大国」になりかけていたころのもの。
 今後もこの10年ほどのような「受賞ラッシュ」が続くかどうか。そこは,要注意なのかもしれません。

 つまり,西暦2000年代以降の,やや勢いをなくした日本において,科学・技術の研究がどんな状態になっていたのか,ということです。それについては,私はよくわかりません。これから10年,20年のうちにたとえばノーベル賞の受賞の状況などで,伺い知ることもできるでしょう。

 私たちの国は,とにかく「大国」にはなった。
 でも,「その先」へは行けなかった。20~30年前の千載一遇のチャンスを逃した。

 何がいけなかったのか,足りなかったのかということは,ここでは立ち入りません。
 そのへんはまだ,私たちのあいだではよくわかっていないのだと思います。わかっていたら「超大国」になっていたことでしょう。

 ***

 さて,世界には「その先」へ行けないで,足踏みしている国がほかにもあります。
 たとえば中国です。

 中国は,まちがいなく「大国」となり,アメリカと並ぶ「超大国」を伺うようになりました。
 しかし,どうも偏狭な自己主張や,文化的・政治的な「許容範囲の狭さ」などが抜けないようです。周辺諸国への領土にかんする主張や,国内の「民主化」への対応に,それはあらわれています。

 これではほんとうの「超大国」への道のりは遠い。
 正しくやれば「世界の新興国のリーダー」になるチャンスが,この10年ほどの中国にはあったはずなのに。

 それから韓国。この国も今「大国」への道を歩みつつあります。でも,最近のニュースのように,「大統領の名誉を棄損した」外国人記者を法的に処罰しようとしたりする。これは「小国」の政権の発想です。この発想なら,アメリカの大統領など,ジャーナリストを何万人起訴しても足りないでしょう。

 中国も韓国も,今「その先」へ行けないで,迷っている。
 それはかつての日本とも重なるところがある。「超大国になりそこねた日本」です。
 最近のニュースをみて,そんなことを思いました。

(以上)
2014年10月05日 (日) | Edit |
 最近このブログの近代社会のしくみというカテゴリーでは,「富裕層への課税強化による格差の是正」ということを何度か論じています。

 こんな論旨です。

 資本主義は,「資産」(収益を生む,証券や不動産などの財産)を持つ者が,より多くの利益を得るしくみである。つまり今の世の中は,多くの「資産」を持ち,そこから多くの収入を得ている富裕層にとって,有利にできている。

 とくに,第二次世界大戦後は,一定の平和が長く続いたために,富裕層の資産は順調に成長している。その成長の勢いは,多数派の人びとの収入増や経済全体の成長を上回る。

 そのために,富裕層とその他の人びとの格差は,近年ますます大きくなっている。
 このことは,社会にあつれきや不安定をもたらすおそれがある。

 今後は,この格差を是正する手段として,「富裕層の資産に対する課税強化」ということが,多くの関心を集めるのではないか。

 この数十年の増税は,日本でも多くの先進国でも,消費税の拡充のような「広く・薄く」というものが中心だった。
 しかし,これからは社会の少数派である富裕層を対象にした増税が,重要になっていくのではないか。

 その背景には「格差の拡大」だけでなく,先進国の国家財政の極端な悪化ということもある。
 今の先進国の政府は,とにかく財源が足りない。
 税金をもっと集めないと,破綻してしまう。
 日本はその最たる例である。
 
 ***

 以上がまえおきで,ここからは,今回の話になります。

 では「富裕層への課税強化」などということが,実際にできるのか?

 「できるのか?」というのには,2つの意味があるでしょう。
 ひとつは,「政治的に実現可能なのか」ということ。
 もうひとつは,「そのようなことをして大丈夫か,社会的混乱や問題は起きないか」ということ。

 まず,「政治的な実現可能性」です。
 「資産課税の強化」など,お金持ちは反対で,政治的に抵抗するでしょう。

 そして,その抵抗の力は大きなものであるはずです。富裕層は社会のなかで,大きな影響力を持っています。お金だけでなく,知恵やノウハウや権力者とのつながりがあります。

 それだけに,今の税制は,富裕層に有利につくられているところがある。
 アメリカで2番目の大富豪のウォーレン・バフェットは「私が払う税率より,私の秘書の税率のほうが高い」と言ったことがあるそうです。

 でも,社会の少数派であるお金持ちは,多数派の人たちに,最後は負けるのではないか。
 少なくとも中長期的には。
 そういう視点は持ったほうがいいと思います。

 「資本主義における格差の拡大」を論じた著作が話題になった,経済学者のトマ・ピケティもそのことを述べています。富裕層への課税強化は,政治的に可能だと。
 
《課税は寄付とは違う。民主主義に基づいて多数決で決まり,全員に影響する。富裕層が賛成する,しないは関係ない。民主主義の力によって,富裕層に法の規則を与えることは可能だ》(『週刊東洋経済』2014年7月6日号)

 ***

 世の中をみていると,政治家や官僚が富裕層の代理人のようにみえることがしばしばあります。

 たとえば,この20~30年,米英を中心に「新自由主義」的な政策が進められたことなどはそうでした。その政策のもとでは,富裕層に有利な方向に社会は動いたといえるでしょう。

 しかし,「富裕層と政治権力者(政治家・官僚)が仲がいいのは,平常時のことであって,いつもそうとはかぎらない」と私は思います。「平常時」というのは,社会・経済が比較的安定している状態。
 
 それに対し,深刻な「危機」や「苦しみ」の時代には,政治家や官僚は必ずしも金持ちの味方ではないのです。

 第二次世界大戦のときは,まさにそんな「非常時」でした。

 この戦争のときには,企業の活動は徹底的な統制をうけました。法人の利益や経営層の報酬にも強力な制限がかかりました。戦争に勝つため,企業や資本家は国に奉仕しないといけませんでした。儲けるなど,とんでもない!

 たとえばヒトラーは「前線で兵士が血を流しているのに,銃後で戦争成金が続出するようなことは極力ないようにしないといけない。今度の戦争で儲けようなどとたくらむ者は,死を得るのみだ」ということを言っています(『ナチス経済統制読本』,滝村隆一『国家論大綱』より孫引き)。

 このようなヒトラーを,民衆は熱狂的に支持したのでした。
 国民の支持を得た独裁権力には,資本家も屈服せざると得ませんでした。
 
 「戦争は,悪い政治家と悪い資本家がいっしょになってひきおこす」という話を,かなりの人は聞かされたことがあると思います。しかし,20世紀以降の「総力戦」においては,戦争というのは資本家にとって非常に厳しいものなのです。

 ***

 これからの先進国でも,「平常時」から「非常時」となるおそれはあります。
 可能性が高いのは戦争ではなく,「財政の危機」がもたらす,政治・経済の非常事態です。

 その「財政の危機」をもたらすのは,何か?
 社会保障費などの福祉の負担です。

 今の日本の財政では,そのことが典型的に起こっているわけです。

 2013年度において,社会保障給付費(出ていくお金)は110兆円ほど。それに対し保険料収入は60兆円ほど。
 つまり,50兆円もの財政的な「不均衡」がある。
 この「不均衡」は,このままだと高齢化の進展によってますます拡大していく。
 
 これに対し,消費税を5%から10%に引き上げた場合の増収の見込みは「十数兆円」というところ(今のところは8%に上げただけですが)。
 この増収分は,上記の「不均衡」を穴埋めする原資になり得ます。
 しかし,額としてはあまりに不十分です。
 社会保障の財源不足という大問題にとっては,最近の消費増税は「焼け石に水」ということです。

 だからといって消費税を30%,40%に上げていくことができるのか?
 あるいは,社会保障給付をすぐに大幅にカットできるのか?

 どちらも,むずかしい。そんなことをしたら政権が持たない。国民の支持を得ることができません。
 少なくとも,並の政治家にできることはありません。

 だとしたら,新たな「財源」をどこかに求めないといけません。
 その有力な候補が,富裕層です。

 たとえば,相続財産。今の日本では年間に数十~100兆円程度の相続財産(金融資産と不動産)が発生しているそうです。(鈴木亘『社会保障亡国論』などによる)

 しかし,相続税の税収額は1兆円強にしかすぎません。これは「非課税」の枠がそれだけ大きく設定されているからです。「非課税」の範囲をもっと制限して課税を強化すれば,かなりの税収が見込めます。

 たとえば,すべての相続財産にたいし一律に10%の税を課せば,10兆円くらいになる。あるいは,相続財産の多くの部分は,富裕層が占めているはずです。そこに集中的に課税することも考えられます。

 相続税の拡充は,富裕層への課税強化となるでしょう。
 そして,日本でも来年から相続財産への課税は強化されることになっています。「非課税枠」の縮小などの変更があるのです。

 福祉(社会保障)と戦争は,似たところがあります。
 どちらも,ばく大な国家予算を使います。
 そして,一度深入りすると,その予算が際限なく膨らんでいくところも。
 途中で引き返すのが非常に難しいのです。
 その戦争や福祉の政策を維持することは,「強力な正義」となって,否定することが困難になってしまう。

 人権や人命を踏みにじる行為である戦争と,福祉を同列に置くなんてとんでもない!
 そう思う方もいると思います。
 たしかに「人権や人命の尊重」という点では,戦争と福祉は対極にあります。
 
 しかし,財政への作用という点では,似た面もあるということです。

 財政の危機によって,社会保障が破たんしそうになったとき,多くの人の生活が立ち行かなくなりそうなとき,富裕層への目はきびしいものになるでしょう。
 「この非常時に,自分の財産のことばかり考えるなど,とんでもない!」ということです。「この戦争のときに利益追求など,とんでもない」というのと同じです。

 以上 「民主主義のもとでは,富裕層は安泰ではない」ということです。
 これからの社会をみるうえで,意味のある視点だと思います。

 そして,「富裕層の資産への課税強化」については,もうひとつの視点があります。
 「そんな課税強化をして,社会に混乱や問題が生じないか」ということ。
 民主主義の力で実現したことだからといって,いつもよい結果を生むとはかぎりません。
 そこは冷静に考えてみる必要があります。
 これは,また別の機会に。

(以上)
2014年09月26日 (金) | Edit |
 投票の結果,独立は一応見送りとなったスコットランド。
 この「スコットランド問題」のニュースをみながら,「世界は前よりはだいぶ平和になったんだ」と感じました。

 このような「独立」の話が出てくるのは,平和だから。少なくともスコットランドのあるヨーロッパの西側のほうは平和なのです。
 どういう意味か,以下説明させてください。「平和」と「地域の独立」の関係です。

 ***

 今の世界の国家は,「国民国家」です。これは近代の産物。
 国民国家とは,近代以前の「ゆるい統合」だった国家,もしくは「分裂」の状態だったものを,できるかぎり広い範囲で「強い統合」のもとにひとつの国にしたものです。

 たとえば,江戸時代の日本は,徳川幕府のもとに一応ひとつにまとまっていました。しかし,多数の独立性の高い「藩」の集まりでした。幕府は権力の頂点にありましたが,日本じゅうの人びとを直接統治してはいません。

 たとえば,幕府が人びとに税金を課すことができるのは,幕府の直轄領の範囲だけです。各藩の領民にたいし,幕府が直接に徴税権などの支配力を行使することはありません。各藩の領民は,あくまでそれぞれの藩が支配する。これが「ゆるい統合」ということ。

 これを再編成して,ひとつの政府が直接に全国の人びとを支配するようにしたのが,明治維新です。
 明治政府は,全国の人びとから直接税金を集めることができます。

 それが「国民国家」の政府というものであり,徳川幕府との大きなちがいです。

 ではなぜ,そのような国家をつくったのか。
 欧米列強の脅威が,前提にありました。

 欧米の植民地にされないためには,対抗できる軍事力がないといけない。たくさんの大砲や軍艦が要る。
 そのためのばく大な資金は,藩のレベルではまかないきれない。幕府でも無理。
 「日本」のできるだけ広い範囲を統合して,その大きな財政でめいっぱいの軍事力を持つしかない。

 そのような考えが基本にあって,明治維新は行われました。
 そして,国民国家としての「日本」が生まれたのです。

 ***

 世界で最初の国民国家(少なくともそのひとつ)といえるのは,イギリス(英国)です。

 スコットランドとイングランドが統合された1700年代に,現在につながる国民国家としてのイギリスは生まれました。

 国民国家になったことで,当時のイギリスは,ほかの国にはみられない「財政」のパワーを持つようになりました。
 広い範囲からたくさんの税金を集めたり,その「徴税力」を担保に国債を大量に発行したりできる。
 それで得た巨大な資金が,イギリスの軍事力を強大化しました。

 1700年代に,イギリスはフランスと戦争をくりかえし,連戦連勝でした。
 国民国家としての財政の力が,その勝利のベースにありました。

 当時のフランスはまだ国民国家にはなっていませんでした。
 フランスとの戦争におけるイギリスの勝利は,国民国家の威力によるものだった,といっていいでしょう。

 のちにイギリスは,アジアやアフリカの,国民国家以前の状態にあった国や地域を支配していきました。
 たとえば1700年代には「インド」という国はまだありません。
 今の「インド」にあたる地域は,いくつもの王国に分かれていました。

 1800年ころ以降は,ヨーロッパの多くの国ぐにが,国民国家を志向しました。
 イギリスのような国民国家に負けないためには,自分たちが国民国家になるしかないのです。
 日本の明治維新も,そのような世界史的な流れの一部だったのです。

 ***

 今の世界で,スコットランドの人たちが独立を真剣に考えるようになったのは,「小国」となっても植民地にされる危険はないと心底思っているからです。

 スコットランドのある西ヨーロッパは,第二次世界大戦が終わってから70年ほど,ほぼ平和が続いています。
 西欧諸国は以前はたがいに戦争をしてましたが,今はしなくなった。

 同じヨーロッパでも,東のほうでは「クリミア独立」の問題をめぐって戦争が起こっています。
 スコットランドが独立を主張しても,イギリスの首相は戦車を送り込んだりはしません。泣きそうな感じで「独立なんかしないで!」と演説で訴えるだけ。
 ロシアの大統領とはだいぶちがいます。 

 このような「平和」が広範に存在するのは,今の世界ではほぼ西ヨーロッパだけ,といっていいでしょう(あとは北米くらいでしょうか)。
 さすが,イギリスやその周辺というのは,「近代」の発祥の地です。
 世界史の最先端にある,といえるでしょう。

 私たちの日本がある東アジアは,西ヨーロッパのような状態には,まだなっていません。
 北海道や九州や沖縄が独立するとした場合,「となりの大国に攻められないか」という不安を抱く人は,スコットランドよりもずっと多いはずです。

 スコットランド問題への私の感想は,「人類はここまで来たんだなー」ということ。
 「独立の是非」よりも,このような「独立」の話が平和のうちに真剣に主張されることに,まず目をみはりました。

 でもそれは「最先端」の一部の地域でのこと。
 今はまだ,世界の一部にしかない「最先端の平和」が,より広い範囲に広がってほしいものです。
 でも残念ながら,まだまだ時間がかかりそうです。

(以上)
2014年09月21日 (日) | Edit |
 最近,つぎの2つの記事で,「格差」の問題をマクロな視点で論じました。
 ここでいう格差とは,所得や財産の不平等のことです。
 
  格差と戦争
  平和が格差を生む?

 「格差と戦争」では,つぎのことを述べました。

 格差への怒りやそれを「是正したい」とい正義感が,戦争やテロを生む動機になっている。「格差の是正」は強力な正義である。そのような正義と結びついているから,戦争は簡単にはなくならない。

 「平和が格差を生む?」では,つぎのことを。

 資本主義では,格差は拡大する傾向がある。それを多数の国の長期データをもとに論じた,トマ・ピケティという学者の経済書が,海外で評判になっている。

 資本主義における格差とは,じつは「資産」(収益を生む,証券や不動産など)を豊富に持つ者とそうでない者の格差である。資産の価値の上昇は,経済全体の成長のスピードを上回る傾向がある。このため,経済が成長すれば,その果実はより多くが富裕層のものとなる。

 平和と繁栄が長く続けば,資産からの富は順調に成長する。それによって富裕層とそれ以外の格差は一層大きくなる。


 今後は「富裕層の資産に対する課税の強化」が,さかんに議論されるようなるだろう。

 ***

 税金の分類のひとつに,「所得課税」「消費課税」「資産課税」という区分があります。
 経済における「お金の流れ」に沿った分類の仕方です。
 「稼いで,使って,余りは蓄える」というお金の流れ。

 「所得課税」は,所得税や法人税など。
 「消費課税」は,消費税のほか,酒・たばこやガソリンに課せられる税金など。
 「資産課税」は,固定資産税や相続税など。

 「富裕層」というと,かなりの人はまず「所得が多い」ことを連想するのではないでしょうか。たしかにお金持ちは所得が多いです。しかしそれ以上に重要なのは資産です。

 資産の大きさこそが,富裕層とそうでない人を分けるポイントです。

 だからこそ,所得の内容もふつうの人と富裕層ではちがいます。ふつうの人の所得のほとんどは給与によるものですが,お金持ちは資産からの所得が重要です。

 今の日本で,「所得上位1%」の富裕層は,所得の2割が資産所得です。
 今よりもずっと激しい「格差社会」だった昭和の戦前期には,「上位1%」の人たちの所得は,その半分くらいが資産所得でした。

 単純化していうと,お金持ちとは「資産の多い人」のことです。そして,多くの資産から多くの所得を得ている人。

***

 では,「所得課税」「消費課税」「資産課税」のうち,今の日本の税収で最も多くの割合を占めるのは,どれだと思いますか?

 平成25年度予算案では,それぞれの税金が税収全体に占める割合はこうなっています(国税と地方税の合計,予算81兆円)。

 所得課税 53%・・・およそ5割
 消費課税 31%   〃 3割
 資産課税 16%   〃 10数%


 今の日本の税金は,所得課税が中心です。1970年代には国税の60~70%を所得課税(所得税,法人税など)が占めていました。その後,1980年代末に消費税(最初は税率3%)が導入されて以降,消費課税の割合も増えていきました。そして今は,税収の30%ほどを占めるようになったのです。

 日本の税金は,「所得課税中心」をベースに,のちに「消費課税」の割合を増やしたもの,といえます。

 そのなかで,資産課税はそれほど重視されることなく,現在に至っています。

 そこで,国家財政が「危機的」といわれるなか,「格差の是正」も考えるなら,「資産課税」をもっと強化してはどうか。そんな議論も出ているのです。

 たとえば,日本には1000数百兆円の個人金融資産があります。このような資産の保有に対し,なんらかのかたちで「1%」の税をかけたとすると,10数兆円の税収となるはずです。これは,今の所得税や消費税の税収に匹敵します。

 あるいは,相続税の税率を「100%」に近づければ,どうなのか? たとえば「〇億円以上の相続財産は,すべて国が税として没収する」ということ。多額の財産の世襲を不可能にしてしまうわけです。これは,「格差の是正」としては強烈です。

 ほんとうにそんなことが可能なのか?
 「可能なのか?」というのには,2つの意味があるでしょう。
 まず,「政治的に実現可能性はあるのか」ということ。
 それから,「そんなことをして,大丈夫なのか」。つまり,資産課税を強力に実施することで,社会に混乱は生じないのか?

 このことについては,次回に。

(以上)
2014年09月15日 (月) | Edit |
 「資本主義のもとでは,富や所得の格差の拡大は必然的だ」と主張する新刊書が,欧米(とくにアメリカで)たいそう評判なのだそうです。

 トマ・ピケティ(1971~)というフランスの学者が書いた『21世紀の資本論』という本です。まだ日本語訳は出ていません。
 私は『週刊東洋経済』(2014年7月26日号)や『週刊エコノミスト』(8月12日・19日号)の,同書を取りあげた特集で知りました。

 「資本主義では格差は拡大する」という主張じたいは,よくあるものです。
 ピケティの本の特徴は,そのことをぼう大なデータをもとに論じたこと。

 20以上の国について,100年200年にわたる所得や資産にかんする統計をもとに,「格差の拡大が長期的かつ普遍的な現象であること」を示そうとしているのです。

 たとえば,「上位1%」などの「高所得者層が国全体の所得のうちどれだけを占めているか」の長期的な推移といったことを明らかにしている。
 そして,「かなりの国で1980年代から格差の拡大が急速になっている」といいます。それはとくに,アメリカとイギリスで顕著であると。

 日本も,格差拡大の傾向はあるが,米英や諸外国とくらべれば大きなものではないとのこと。

 ***

 ピケティの本の日本語訳は,年末に出るそうです。そのときじっくり読むことにします。
 でも,この本を読まなくても,「資本主義のもとで格差が拡大する」ことの理屈は,だいたいはわかります。
 
 少数の富裕層と,多数派のそれ以外の人びと。
 両者の所得(稼ぎ)の成り立ちは,大きくちがいます。

 多数派のふつうの人びとの所得は,たいていは給与所得。自分が働いて得たお金。

 これに対し富裕層の所得は,給与もありますが,それだけではない。ほかに「資産」からの所得があります。たとえば株や債券から得られる配当や値上がりの利益など。不動産を持っていれば,家賃や地代など。
 いわば「自分の資産(お金)に稼いでもらっている」ということ。それが金持ちの所得のあり方です。
 
 そして,「資産」による富の増加は,経済全体の成長よりも急速です。

 たとえば,株価の上昇率は,経済全体の成長率をうわまわる傾向があります。ただしあくまで,長期的にみればの話。株式は「資産」のなかでとくに重要なものです。

 日経平均株価は1955年(昭和30)ころには,どんぶりで「100円」でした。それが60年経った今は「1万何千円」です。100数十倍になったのです。
 これに対しGDP=経済全体の規模は,「10兆円弱」が60年で「500兆円余り」になりました。50~60倍の増加です(株価もGDPも,物価の上昇を計算に入れない数字です)。

 これはつまり,「資産」を持っている人は「儲かる」ということ。
 個々にみれば儲からない人もいますが,大きく全体の傾向をみれば,そのようにいえる。
 資本主義の経済には,「資産を持つ人が得をする」という性質があるのです。
 経済成長の果実は,「資産」を持つ側により多く集まっていく。

 ピケティが論じる格差の拡大とは,「給与所得だけの人」と「資産からの所得がある人」のあいだの差がひらいているということです。
 
 ***

 そして,1980年代以降に「資産の成長」は,きわめて順調だったということでしょう。だから,格差が拡大した。

 そこには金融経済の急速な発達ということもあるでしょう。
 さらに根底には,「平和が続いている」ということもあります。

 「資産」の成長にとって,平和は不可欠です。
 
 この100年のあいだで,世界的に格差が急速に・大幅に縮小したことがあります。
 最もはっきりしているのは,第二次世界大戦の終戦(1945)のころです。このことは,ピケティの研究でも示されています。

 格差の縮小がおこったのは,戦争が世界じゅうの「資産」を壊してしまったからです。社会の混乱やそれに続く変革で,多くの既得権が見直されたという面もあるでしょう。
 
 第二次世界大戦後も,局地的な紛争・戦争はあります。でも世界大戦のような,世界じゅうの富を吹き飛ばしてしまうようなことは,この70年ほどは起こっていません。

 世界の平和が続いて,貿易や金融の取引が順調に伸びていけば,「資産」の富はどんどん大きくなっていく。
 そのことで,格差も大きくなっていく。

 単純化していうと,近年の「格差の拡大」は,長期間の平和がもたらしたものです。

 ***

 私たちは,これからの世界がもっと平和になってほしいと思います。
 でも,その平和が「格差の拡大」につながるとしたら,やっかいです。

 格差があまりに大きくなると,社会に緊張や不満がうずまくようになるからです。
 多くの戦争や革命やテロの背景には「格差への怒りや不満」というものがあります。このことは,最近の当ブログの記事 (格差と戦争)に書きました。

 長期の平和は格差の拡大をもたらし,それが平和を破壊する恐れがある。

 そこで,「格差の是正」ということが,これからの世界では,いろんなかたちで問題になってくるはずです。これまで以上に深刻になっていく。

 具体的には,「富める者に対し今より多くの税金をかけて,それを多数派に分配する」ことが,政治の大きなテーマになっていく。
 とくに,格差の拡大をもたらす「源泉」となっている,「資産」への課税の強化が,重要な論点となるはずです。ピケティも,それは指摘しています。

 今回はここまで。続きはまた今度。
 
(以上)
2014年08月31日 (日) | Edit |
 8月も今日で終わり。
 8月は終戦の日にちなんで,戦争と平和のことを考える報道などに触れる機会が多い。そのなかで考えたことです。ほんとうはもっと早くアップすべきでしたが。

 ***
 
 誰もが「平和は大切」というけど,戦争はなかなかなくなりません。
 それは,「平和」を求めるのと同じくらい強力な「正義」が,しばしば戦争と結びついているからです。
 何かというと,「世の中の不平等・格差を是正したい」という思いです。

 たとえば革命はしばしば内戦をともないます。そして革命とは,現存する「格差社会」をひっくりかえそうとする政治変革のことです。格差のピラミッドの頂点にいる人びとをひきずりおろす。そしてたいていは大義名分として「不当な格差を是正すること」をかかげます。

 あるいは,国際的なテロにかかわる勢力の多くは,欧米などの先進諸国と自分たちとのあいだの「格差」に怒っているのです。

 戦争(第二次世界大戦,太平洋戦争)の前夜である,1930年ころ(昭和戦前期)の日本は,今の日本よりもはるかに「格差社会」でした。

 当時の日本では,「成人人口の上位1%」にあたる高額所得者,つまりごくかぎられた富裕層が,全国民の所得の2割ほどを占めていました。この「上位1%シェア」は,今の日本(2010年ころ)だと,1割ほどです。

 しかも,その富裕層の所得の半分ほどは,金融資産からの利子・配当や,不動産からの地代・家賃などの,いわゆる「不労所得」でした。
 これに対し,今の日本の「上位1%」の所得では,不労所得は全体の1割ほどにしかすぎません。今の「上位1%」の所得の8割は給与所得です。つまり,不労所得ではなく,自ら働いて給与として得たものが,今の富裕層の所得のメインなのです。

 以上は『週刊エコノミスト』2014年8月12日・19日合併号の森口千晶(一橋大学経済研究所教授)のレポートによるものです。

 つまり,戦前の富裕層は,今よりも多くの富を独占し,しかもその富のおもな源泉は「不労所得」だったということです。
 
 そして,少数者がより多くの富を独占していたということは,貧しさにあえぐ多くの人たちがいたということ。
 たとえば,借金のカタに売られてしまう農家の少女がいる。
 農家の次男・三男にはうけ継ぐ田畑はなく,かといって都会に出ても職がなかなかみつからない。
 都会には,低い待遇でギリギリの生活をする給与生活者たちがいる。

 戦前の日本経済は未発達で,工場やオフィスで働く仕事はかぎられていました。「都会へ出れば何かの職がみつかる(それがあたりまえ)」というのは,戦後の高度成長以降のことです。

 戦前の日本は,一部の既得権を持つ人たちを除いて,生きるのが今よりもずっと大変だったのです。
 もちろん「今とくらべて」ということで,「さらに昔とくらべてどうか」ということはおいておきます。

 単純化していうと,少数の「持てる者」のほか,親からの田畑を引き継いだ者以外には,つねに「貧困」との闘いや「貧困」に落ち込むリスクが待っていたということ。
 その一方で,ばく大な「不労所得」で贅沢三昧をしている人びともいる。

 ***

 このへんの,1930年(昭和5)ころの貧困・格差の問題と戦争の関係について,戦前を知るエコノミスト・下村治(1910~89)は,当時をふりかえって1960年代につぎのように述べています。

《当時の困難な社会,経済,政治の問題すべての根底のあったのは人口過剰という問題でした。(そういち注:ここでいう「人口過剰」とは,人びとに十分な職や富をいきわたらせることができないという「格差・貧困の問題」として理解するといいでしょう)》

《農村の生活水準の低さ,都市における失業問題,その失業者の帰農による生活困難の加重が,国民多数の心を圧迫した社会的,政治的な問題であり,そういう問題に押されて,歴史全体が思わざる方向に押し流されるという結果になったのです》

《つまり,当時の状況のもとでは,右と左を通じて,人口過剰の状態を,経済のメカニズムの中で内部的に解決することはできないと思ったわけです。資本主義体制を崩すことがその解決であると考えた人は左(社会主義的な方向)に行き,領土の狭いことが悪いのだと思った人は右(軍国主義的な方向)に走ったわけです。そして,この後者の考えがその後の日本の運命を決定的に左右することになったのです》


 下村は大蔵官僚出身で,池田勇人首相のブレーンとして活躍した人物です。この発言を私は原田泰『世相でたどる日本経済』(日経ビジネス文庫)で知ったのですが,戦前の社会の状況をじつに端的に述べていると思います。

 このような混迷の状態であれば,軍部が権力を握り,社会・経済を軍国主義的に統制していくという,一種の「革命」には,「正義」や「正当性」が生じてくるのでしょう。「不平等な格差社会を正す」という正義です。

 「こんな不平等な世の中,まちがっている!」という怒り,といってもいいでしょう。
 世の中を大きく変えることになる「戦争」を,歓迎する人もいたことでしょう。
 「日本の領土が大きくなったら,自分たちにも,何かいいことがあるのではないか」というわけです。

 そもそも,こうした「軍部による支配」をリードしたエリート軍人だって,戦前の「格差社会」のなかであえいでいました。
 つまり,昭和戦前期の若手・中堅の将校たちについて,「安月給の貧乏サラリーマンだった」という見方があります。

 この見方を,私は岩瀬彰『「月給百円」サラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』(講談社現代新書)で知りました。
 岩瀬さんは,軍人の俸給一覧表や陸軍中尉の妻の手記などから,当時の将校たちの暮らしの厳しさについて述べています(あくまで「エリートの割には」という厳しさですが)。ある事例によれば,当時の将校は,同年代のエリート官僚とくらべて半分くらいの年収だったといいます。

 そして,岩瀬さんは「貧乏サラリーマンとしての軍人」という視点を,評論家の山本七平(1921~91)から得たのだそうです。山本の見方を岩瀬さんは,こう要約しています。

 《戦前の社会が軍人に対する見かけの尊敬を保ち,軍人にも高いプライドを維持させる一方で,待遇面では「明白な貧困が彼ら自身にあり,また彼らの目前にあった」という低レベルに放置していたことが,ニ・ニ六事件(日本が戦争への道を歩むひとつのきっかけになったクーデター事件)の青年将校始め軍人を心理的におかしくしていった要因のひとつ》

 なお,岩瀬さんの同書によれば,戦争に突入すると,軍人の給与・待遇は大幅に改善されたそうです。

 ***

 「格差社会」への怒りが戦争を生んだ……少なくとも戦争へと国を導いたひとつの要素だとしたら,その結果はどうだったのか? 「格差の解消」という面でどうだったのか。

 最初のほうで引用した,森口教授のレポートを,またみてみましょう。
 
 終戦(1945年)を境に,「上位1%が社会の所得の2割を占める」という状態は崩壊します。
  「上位1%」が占めるシェアは,今よりも少ない8%程度になります。いっきょにそうなりました。

 富裕層の所得の大半を占めていた,利子・配当所得や,地代を中心とする不動産所得は,吹き飛んでしまいました。それらの所得のベースになっている,社会資本や土地への権利などが消えてしまったからです。戦災で失われたり,戦後の政治変革によって既得権が奪われたりした。

 敗戦の結果,戦争前夜に多くの人たちが苦しんだ「格差社会」は消滅したのです。

 ただし,その過程で何百万人もの日本人が亡くなったのでした。戦場となったアジア諸国にも多大な苦痛を与えました。

 「格差」への不満や怒りというのは,恐ろしいものなのだと思います。
 方向性をまちがうと,とんでもない負のエネルギーとなって社会に禍(わざわい)をもたらす面があるのではないか。戦前から戦争の時代にかけての日本の経験は,それをよく示しているように思います。

 それだけに「格差」の問題は,おろそかにはできない。
 この問題を,平和のうちに,民主的にうまく取り扱うことが必要です。
 これは,「民主的な意思決定による,課税と分配」によって行われることになるはずです。 (それ以外に何があるというのでしょう)

 でも,ほんとうにうまく扱えるのか?
 これについては,またいずれ。

(以上)
2014年08月07日 (木) | Edit |
 今回は「民主主義とは何か」についての基本の話。
 毎年今頃の時期は,終戦やヒロシマ・ナガサキにちなんで,平和や民主主義のことを考えるいい機会です。

 以下はそういちカレンダー2014(8月のページ)からの抜粋です。これは,昨年末につくって販売した,雑誌感覚の読むカレンダー。その中に【大コラム】という,いちばん長文のコーナーがあって,そこからの記事。


民主主義の定義

 そもそも,「民主主義」って何でしょう? 
 定義すると「政治的な意思決定に対し,それに従う人々(国民・民衆)が参加できること」ではないでしょうか。これは「民主制(政)」ともいいます。

 意思決定に従う人びとが,その決定に直接参加できるなら「直接民主主義」です。
 しかし,規模の大きな現代の国家では,それはむずかしい。

 そこで「意思決定を行う議員などの代表者を,国民が選挙する」という間接的なかたちで,意思決定への参加が行われます。これが「間接民主主義」です。

 では,「民主主義」の対義語は何か? つまり,「国民が政治的な意思決定に参加できず,少数の権力者がすべてを決める政治のしくみ」です。これは「独裁」とか「専制」といいます。

 以上,民主主義の一番大事な点は「政治的な意思決定への参加」ということです。

 でも,世の中の民主主義にかんする議論では,ここがあいまいなために混乱することが少なくありません。

 たとえば,「人々を幸せにする,よい政治が民主主義」という主張もあります。
 でもそれは,独裁を正当化するときに,よく使われる論法です。多くの独裁体制では,「この体制は,すぐれた指導者が人民のための政治をしている。だから最高の民主主義だ」といった主張がなされます。 

 それにしても,「国民が政治的な意思決定に参加できることが民主主義」なんて,なんだか当たり前すぎて,つまらない感じもしますよね……でも,「一見身もふたもない感じの定義のなかに,きわめて重要なことが含まれている」と思うのですが?

*民主主義の定義は,滝村隆一『国家論大綱』による

民主主義のしくみ

(以上)
2014年07月27日 (日) | Edit |
 今月17日に,ウクライナ東部でマレーシア航空の旅客機が撃墜され,300人ほどの乗員乗客が亡くなりました。ウクラナイナの戦乱に巻き込まれたのです。

 テレビのニュースで,飛行機の残骸のなかに立つ,銃をもった兵士の映像がありました。それで,ある小説のことを思い出しました。
 伊藤計劃(いとう・けいかく)の『虐殺器官』(2007年)というSFです。

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伊藤 計劃

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 私は,小説をほとんど読みません。しかし,この作品はSFファンの枠を超えて高い評価を得ていました。そこで,2010年にこの作品が文庫化されたときに,手に取ったのです。

 たしかに,現代の世界について考えるための情報や視点が,「SF」というかたちでみごとに料理されている。評判になるのもわかります。なお,作者の伊藤さんは残念なことに2009年に若くして病気で亡くなってしまいました・・・

 近未来。開発途上国では内戦や大量虐殺などが急激に増加している。
 主人公は米軍大尉クラヴィス・シェパード。
 海外紛争に介入する特殊部隊に所属する彼は,世界各地の内線や虐殺の影にいるとされる謎の男・ジョン・ポールを追ってチェコへ向かう。

 この小説の重要な舞台のひとつは,チェコです。
 それから,近未来において「サラエボ(旧ユーゴスラビア)で核爆弾が用いられた」といった話も出てきます。そのことが背景として重要な意味を持っています。

 東ヨーロッパが,未来の「紛争地域」として登場し,そこでの「核攻撃」という究極の「虐殺」が描かれているのです。もちろん,ユーゴの内戦などの現実の歴史をふまえてのことです。

 今回のマレーシア航空機撃墜という「虐殺」は,サラエボではなくウクライナでのことですが,おおざっぱにみれば同じ東ヨーロッパで起きたことです。

 「東ヨーロッパ」「虐殺」・・・そんなところから,私は『虐殺器官』を思い出したのでしょう。「残骸のなかの兵士」の映像も,主人公を連想させました。

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 以下,配慮はしていますが,ネタバレになるところがあります。

 じつは,この小説の世界で内戦や虐殺が激増したのは,ジョン・ポールがしくんだことなのです。(なぜ,そんなことををしたのかは,立ち入りません)

 彼は,「社会において内戦・虐殺を引き起こす」ことを可能にする,ある「発明」をしました。

 「虐殺言語」なる,不思議なしかけです。
 もちろん,その中身についてはここでは述べません。
 とりあえず,一種の「ひみつ道具」だと思ってもらえばいいです。

 もちろん「絵空事」の世界です。現実的に考えれば「無理」な話です。
 でもSF的には一定のリアリティをもって,その恐ろしい「発明」は説明されています。

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 しかし,そのような「SF的発明」など用いなくても,世界ではこれまでにさまざまな紛争が起こってきました。

 それは「一定の条件のもとで,内戦や虐殺は起こる」ということです。「ひみつ道具」ではなく,現実的な社会のあり方が原因だということ。

 では,どんな条件下で内戦や虐殺は起こるのか?
 
 たとえば,社会に対し,こんな「操作」を加えてはどうか。
 ここで,SF的な空想をしてみましょう。
 『虐殺器官』のような一流のSFには程遠いですが。

 あるとき,きわめて高度な文明を持つ宇宙人が地球にやってきました。
 彼らは少人数でしたが,あっという間に全地球を支配下におきました。

 宇宙人は,世界の人びとを2つに分けました。「支配する側」と「される側」です。
 「支配する側」に選ばれたのは,日本人・中国人などの「平たい顔」のモンゴロイド。
 宇宙人も「平たい顔」で,モンゴロイドに似ていたからです。

 モンゴロイド以外の白人(コーカソイド)・黒人(ネグロイド)などは,「支配される側」とされました。

 モンゴロイドは,宇宙人を後ろ盾にして君臨し,栄華をきわめました。ほかの人びとは虐げられたり弾圧されることになりました。

 しかしその後,宇宙人は自分の星へひきあげてしまいます。
 さあ,どうなるか。

 後ろ盾を失ったモンゴロイドの優位は崩れました。
 これまでの「恨み」をはらそうと,白人や黒人たちが立ちあがります。
 モンゴロイドも徹底抗戦。

 せっかく侵略者の宇宙人がいなくなったのに,地球人どうしの大戦争がはじまりました・・・・

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 ずいぶんひどいことをする宇宙人です。
 でも,これに似たことが現実の歴史でもありました。

 最も似ているのは,アフリカのルワンダのケースです。

 現ルワンダの土地には,ツチ族・フツ族などが住んでいました。
 ここを植民地としたベルギー人は,少数派のツチ族を「支配する側」に選び,彼らを「支配の道具」として利用しました。1900年代前半のことです。

 欧米人が植民地を支配するとき,現地の少数派を後押しして支配の道具にするのは,よくあることです。多数派は,外国人の後ろだてがなくても国を支配できます。だから外国の勢力にとっては,やや扱いにくいのです。手なずけやすいのは,自分たちだけでは国を支配しきれない少数派です。

 また,ツチ族の鼻の高さや肌の色などがやや白人に近かった,ということも作用したかもしれません。

 そもそも「顔立ちや肌の色による民族の線引き」をおしすすめたのは,ベルギー人でした。その施策によって「ツチ」「フツ」の区別は,以前よりもつよく意識され,固定化されたのです。

 しかし,その後「ツチによる支配」に対しフツ族が反乱を起こし,優勢になります。
 ベルギーは,今度はフツ族に肩入れします。勝手なものです。1962年,ルワンダはフツ族を中心とする勢力によってベルギーから独立しました。

 フツ族中心で国家建設が進むなかで,ツチ族の多くが隣国へのがれたり難民化したりしました。

 その後の経緯は省略しますが,1990年代初頭に,ルワンダではフツ系の政府軍と,反政府のツチ系勢力の間で激しい内戦が起こっています。それにかかわる大量虐殺もくりかえされました。

 ベルギー人がやったことは,さきほど述べた「SF的空想」の宇宙人がやったことと同類です。

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 「宇宙人」やベルギー人の行った,社会への「操作」を整理します。
 「内戦・虐殺」をひき起こす操作です。
 
①社会の中に,複数の異質な「民族・コミュニティ」をつくる。
 その場合,集団のあいだである程度勢力が均衡するようにする。

 なお,それぞれの「民族」はほんとうは「異質」でなくてもいい。
 人為的に無理やり線引きしてもかまわない。

②「民族」のあいだに「格差」をつくる。
 特定の集団にさまざまな特権をあたえることで格差はつくりだせる。
 
 なお,その国が資源に恵まれていると,格差は一層生まれやすくなります。資源からの利益は少数の有力者で独占しやすく,「特権」の財源になるからです。 

 内戦が起こる地域は,基本的に以上の「条件」を備えています。
 単純なことであり,「そんなことはわかっている」という人もいるかもしれませんが,より明確にしておくといいと思います。

 このような「条件」は歴史的に形成されてきたものです。
 もともとの民族や宗教の分布などに加え,利害関係のある大国の侵略や介入を通じて「内戦の前提」ができていった。

 具体的な経緯は異なりますが,パレスチナにおける英国は,ここでいう「宇宙人」の役割を果たしました。
 ウクライナでは,ロシアがそれにあたります。

 英国もロシアも,それぞれの土地で「異なる民族の集団」が成立するのを後押ししました。

 アラブ世界に「ユダヤ人の国」をつくることを後押しする。一方でアラブ人の建国にも手を貸す。さらに,ほかの列強と談合してアラブ地域を支配する画策もする。それが,英国の行ったことです。

 ロシアはというと,ソ連の時代にはウクライナを支配・占領し,とくに東部には多くのロシア人が移住した。そのことで,ウクライナ東部は国内においてとくに「異質」な地域となった。

 そして,民族・コミュニティ間の「格差」の存在。

 ユダヤ人国家・イスラエルの繁栄と,アラブ人との格差。とくに難民化した人びとは苦しい生活を強いられている。
 ウクライナ東部は資源に恵まれ,全般に西部(首都がある)よりも豊か。だから東部としては独立したい。資源の生む利益を西部と分け合うのではなく,自分たちだけで使いたい。西部としては,そんなことは許せない。

 *** 

 このような歴史にかかわった当事者たちには,『虐殺器官』のジョン・ポールのような意図はなかったはずです。もちろん,「虐殺言語」のような「ひみつ道具」も持っていません。

 しかし,後知恵でうがった見方をすると,まるで「内戦や虐殺を起こすツボ」をおさえて意図的に行ったかのようです。それだけのひどい「結果」が出ています。

 つまり,意図しないで「虐殺を起こすひみつ道具」をふりまわすようなことを,人類は行ってきたのです。それは今も続いています。 
 その意味で,『虐殺器官』の世界は,やはり「絵空事」ではない。 

 ではどうしたらいいのか? 
 ここではとても論じきれません。

 とにかく,「格差をどう扱うか」ということはカギでしょう。

 でも,「格差をなくせ!」と叫べばいいわけではないはずです。
 かといって放置するわけでもない。
 
 格差のうまい扱い方をあみ出さないといけない。
 20世紀の社会主義の実験は「私有財産」を否定する方向でこの課題に挑みましたが,悲惨な結果におわりました。宿題は21世紀に残されたということです。
 
(以上)
2014年07月13日 (日) | Edit |
 ベネッセの「個人情報漏えい」の事件。
 「個人情報」というと,私はジブリの映画にもなった『ゲド戦記』(アーシュラ・K・ル=グウィン作)というファンタジー小説の世界を,なぜか思い出します。この作品はシリーズ化されており,第1作は1960年代末に書かれたもの。
 
 『ゲド戦記』の舞台は「アースシー」という古代・中世風の架空の異世界。そこでは魔法が科学や学問のような役割をはたしている。主人公の「ゲド」は,その世界のエリートである「魔法使い」の1人。

 アースシーでは,すべての人やモノに「真(まこと)の名」というものがあり,その「真の名」がわかればその人・モノに魔法をかけることが可能です。

 そこで,人びとは「真の名」をごく限られた身内以外には明かさず,「通り名(通称)」で暮らしています。ほかに「真の名」を知っているのは,子どものときに「真の名」をつけてくれた魔法使いだけ。

 主人公も,「ゲド」が本名ですが,ふだんは「ハイタカ」という通り名で世間をわたっているのです。

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 アースシーにおける「真の名」というのは,私たちの社会の個人情報やパスワードみたいなものです。

 住所や職場を明かすのは,信頼できる相手に対してだけ。悪意のある相手にその情報を渡すと,迷惑や危害をこうむる恐れがある。
 相手の得体が知れない場合は,本名を明かすこともためらわれます。じっさい,ネット上では「本名」ではなく「通り名」を使うことも多い。

 高校時代(1980年ころ)にはじめて『ゲド戦記』を読んだとき,「本名をふせて暮らすなんて,奇妙な世界だ」と思いました。「真の名と,通り名の使い分け」という感覚をのみこむのに,多少の理解力が必要でした。

 でも,作品が書かれた当時は「奇妙」だったことが,今の世界ではかなり「ふつう」になっているのです。今の子どもたちがこの小説を読むときは,「真の名」「通り名」というニュアンスは,すぐにピンとくるはずです。

 アースシーの世界は,一見「古代・中世風」ですが,じつは現代的な個人主義の社会です。
 誰もが自分の本名(個人情報の基本の部分)を,近所の人にも,ほとんどの友人や親せきにも明かさず暮らすのです。魔法という「テクノロジー」のせいです。

 「自分」以外に対し「壁」をつくって,人びとが生きている。「自分」以外に安心できる場所が,めったにない社会。

 『ゲド戦記』の第1巻は,ゲドによる「自分さがし」の物語です。個人主義の社会で,少年期から青年期にかけてのゲドが,「自分は何者なのか」について理解を深めていく過程。
 
 ネタバレになるので述べませんが,その後の多くの小説や映画などで模倣される,いろんな要素がこの作品にはあります。だからこの作品は「古典」なのです。

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 「個人情報」をしっかりと守りたいなら,アースシーのやり方を徹底することです。

 社会生活のなかで,本名を使うことを原則としてやめ,「通り名」を使うことにする。
 通り名は,複数持つことができて,職場用,コミュニティ用など,場面に応じて使い分ける。職場が変わったり,引っ越したりしたら,通り名を変えることにする。

 本名は,親子や夫婦など,ごくかぎられた「信頼できる範囲」にしか明かさない。他人に本名を明かすのは,きわめて例外的な「信頼」の証となる。

 本名や住所などの基本情報を知らせる相手は,役所や金融機関や郵便局などのごくかぎられた「信頼できる専門機関」だけ。まるでアースシーにおける「魔法使い」のような立場です。この専門機関には「本名」とあわせ「通り名」も登録する。

 これらの機関は「信頼に足る」ために,きわめて厳格な情報管理の義務を負う。個人情報のデータベースは,巨額の金塊や現金がおさまった大金庫か,放射性物質が保管されている場所のように扱われる。

 人びとは,「本当の住所」のほかに私書箱のような「仮の住所」を持つ。
 ほとんどの通信はネット上で行われるが,モノのやり取りをするときは「仮の住所」で受け取る。「仮の住所」を管理する機関に依頼すれば,「本当の住所」に転送してもらうこともできる。「仮の住所」を管理するのも,厳格な義務を負う「専門機関」である。

 それでも不安な人は,たとえば「仮の住所」から直接「本当の住所」に転送するのではなく,いったん別の「仮の住所」に転送して,そこから「本当の住所」に送ることにすればいい。

 一般的なサービスの利用・買い物・就職は,「通り名」で行うことができる。「通り名」による債務不履行などの問題があったとき,業者は当局に申請して,該当する人物の「本名」を確認し,請求や訴訟を行う・・・・・・

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 このくらいやれば,個人情報は守られて,安心でしょう。

 もちろん「専門機関」がどれだけ信頼できるのか,という問題はあります。だから「専門機関」を徹底的に監督する制度や,義務違反や過失あった場合のきびしい罰則も必要です。
 
 このような社会になれば,多くの企業は「個人情報を蓄積して,顧客を囲いこんで・・・」などとは考えなくなるでしょう。
 「個人情報のようなめんどうな危険物は,できれば取得したくない」と考えることでしょう。

 企業への申込みをする際の記入シートに「本名や本当の住所を書かないでください。もし書いても,責任は持てません」という注意書きがされるようになるのです。

 以上は妄想であり,悪い「冗談」といえます。
 でも,今回の「ベネッセ事件」への騒ぎかたをみていると,社会は「アースシー」的な方向を真剣に模索しかねない,などとも思います。
 つまり「めったに本名を明かさず生活すること」が一般的な社会。
 とにかく,今の私たちは「真の名」を知られるのがイヤなのです。

 これからの世の中を考えるうえで「そういうこともあるのでは?」という問いかけをもってみると,何かがわかってくるかもしれません。
 
(以上)