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2020年09月13日 (日) | Edit |
先日(9月12日)の日経新聞で、現代の都市化・都市への集中について論じた記事を読みました。(特集記事「パクスなき世界」第6回「新たな『都市像』を描けるか」)

そこでは、武漢という都市で発生した新型コロナウイルスがニューヨークなどの世界の大都市を襲ったことから「都市への集中による経済発展のモデルが揺らいでいる」「規模と効率を追求した都市の存在意義が問われている」などと論じられていました。

人類学者・長谷川真理子さんが関連のインタビューで、現代の都市化を「人類史上の異常な状態」と述べるのも引用していました。今の世界では総人口78億のうち40億が都市で暮らしているのだそうです。

このような「アンチ都市」の考え方から出てくる処方箋は、「大規模な都市を解体・分散すべき」というものです。

これを突き詰めれば、世界から大都市がなくなって、ムラや小都市などのこじんまりしたコミュニティが散在する世界というのが理想だということになる。

私は、こういう「アンチ都市」の言説をみかけると、かなり違和感をおぼえます。(ただし、日経新聞の記事じたいは、いろいろ考えさせる、参考にはなる記事です)

たしかに都市にはいろんな問題があります。人口の密集による感染症の蔓延というのは、その最たるもので、歴史上ずっと続いてきたことです。また「集中」ということでは、今の日本で東京ばかりにすべてが集中して地方都市が落ち込む傾向も、たしかに良くないと思います。

でも、だからといって「都市はそもそも異常なので、解体・分散すべきだ」みたいな方向には賛成できません。

私たちは、これまで築いてきた都市というもを、さらに大事に維持・改良していくしかないのではないか。高いレベルの経済や文化を維持しようとすれば、大規模で整備された都市というものは、社会にとって必要だと思います。都市を拠点とする専門家たちの活動が低下すれば、社会全体の生活や文化の水準は、きっと下がってしまう。

都市の維持・改良にあたって、これまでの常識を再検討することは、もちろん意義があると思います。

この記事の関連インタビューで建築家の隈研吾さん(新国立競技場の設計者)は「高層都市は時代遅れになった」と述べています。たしかに、もう巨大な超高層ビルが最先端の時代ではないのでしょう。

テレワークのようなITでできることをふまえて、働く場所を再設計することも必要。そうなると交通システムも変わってくる。

ただ、、最近よくいわれるような、「コロナ以後の動きとして、テレワーク化がすすんで都市(とくに東京)離れが起きる」という見方には私は疑問を持っています(ここでは立ち入りません)。テレワーク自体は必要だし、普及は良いことと思うのですが。

そして、環境への配慮は、さらに重要になる。地方都市の活性化も、とくに日本では重要な課題。

でも、こういう議論は「都市の存在意義を問う」ようなものではないです。都市化を「異常」とするものでもない。そうではなくて、都市を大切に考え、時代の課題にあわせて磨き上げていく取り組みです。

「都市への集中は異常だから、解体・分散すべき」というのは、現実の都市のさまざまな問題・課題を真正面から解決することをさまたげる思想なのではないかと思います。現実的な対処を放棄して「幻想」に逃げているところがあるように感じます。

このような「アンチ都市」への疑問をもとに、世界史上の都市の歴史について述べた記事を、私の別ブログ「そういち総研」でさきほどアップしました。ご一読いだだければ幸いです。

こちら→都市への集中・都市化は、はたして「異常」なのか?

(以上)
2020年08月05日 (水) | Edit |
吉村大阪府知事が、まだ検証も不十分な、イソジンなどのうがい薬の新型コロナ感染症への効果について会見で語っていた。これには驚き、がっかりした。

この人は科学が苦手なのだ。つまり、「科学とは何か」のごく基本的なところがわかっていないのではないか。

多くの専門家による確認作業のうえに成立するからこそ、科学というものは信頼できる。

ある科学者が「実験的にこういう現象や法則が明らかになった」と報告したとしても、それがすぐに「科学的な真理」として認められるわけではない。疑い深いほかの専門家が同様の実験などを積み重ねて、「ほんとうだ」ということを確認してからでないと、認められない。

このような「ほかの科学者による、確認のための実験・検証」を「追試」という。教科書に出てくるような科学上の原理や法則は、ぼう大な追試をくぐり抜けてきたものだ。だから「真理」として信頼できる。

それよりはやや信頼性が落ちるが、医療の世界で妥当とされる治療法や承認された薬も、相当な追試・検証を経ている。

これは、「科学とは何か」に関する、ごく初歩的な話である。それを知事が多少ともわかっていれば、この「イソジンの効果」を研究している医師自身が「研究の途中」と言っている件を、会見で広めるなどいうことはなかったはずだ。

仮に将来「イソジンには効果がある」ことが定説となったとしても、今の時点で吉村知事がその説を広めたことは適切ではない。

私は、吉村知事は「現場の実務」についての感覚では、小池都知事よりもよほどしっかりしているのではと感じて、その点では好感を持っていた。若い頃に弁護士として働いていただけのことはある、そこはテレビタレントから政治家になった都知事とはちがうなあと。

弁護士は、現場の事実関係に分け入り、さまざまな細かいタスクをこなさなければならない実務的な仕事だ(私は企業の法務担当として何度も弁護士と仕事をしたので、そこはイメージできる)。

しかし、そんな吉村知事でも「科学」という素養は欠けていたようだ。それも無理はないかもしれない。「科学は膨大な確認作業のうえに成り立つ」ということは、学校教育では十分に教えていない。学校で教えるのは検証を経た「結果」のほうで、そこに至るプロセスについては、あまり教えない。

しかし、こういう「科学とは何か」の基本については、理系だろうと文系だろうと本来は知っていなければならないはずだ。政治家などのリーダーであればなおさらだ。

しかし、吉村知事でさえこんな調子なのだから、私たちのリーダーの多くはきっと科学がトコトン苦手なのだろう。

小池都知事も、実務が苦手なだけではなく、おそらく科学も苦手だ(スピーチやキャッチコピーは達人だが)。

先日の会見で都知事は「家庭内感染の防止のため、歯磨き粉は別々に」という主旨のことを述べていた。なんだかあやしい話だ。そのことを知事はどこかで小耳にはさんだのだろう。しかしその話はどれだけの検証を経ているのか?

歯磨き粉という「洗剤(一般にはウイルスを壊す界面活性剤を含む)」の一種が入った容器を共用することに、どれだけのリスクがあるのだろう?プッシュ式の手洗いの石鹸容器を共用するのと、どれだけちがうのだろう?歯磨き粉のチューブにウイルスのついた手で触ることがあると危険だからか?でも、そういうことは歯磨き粉にかぎった話ではないはずだ。

そんな私のような素人でも突っ込みどころがある話を、軽々しく、知事が会見で話してはいけない。

***

そして、科学が苦手なリーダーほど、科学者を自分の召使のように考える。

政府(つまり総理・官邸)の、専門家への態度はまさにそうだ。たとえば以前の専門家会議を廃止・改組して今の「部会」があるわけだが、その廃止・改組について、尾身ドクターのような有識者の中心人物が事前にきちんと知らされていなかった。政府側が記者会見で「これまでの専門家会議は廃止」と発表するまで知らなかったのだ。たしかに「召使」には、そんなことを知らせる必要はない。

心配なのは、リーダーが科学者を召使のように扱ううちに、リーダーのもとで働く科学者たちが召使マインドになってしまうことだ。あるいは召使として適応できた人ばかりが残って、科学者としての気概を持つ人たちが去ってしまわないか。そうなったら、わが国の新型コロナへの対応から「科学」というものが決定的に欠落してしまうことになる。

専門家部会の尾身会長は、今のところ「召使としての適応」と「科学者としての矜持」のあいだで揺れ動いている。

「国のリーダーが科学が苦手」というのは、ほんとうに困ったことだ。ただし、そのようなリーダーの姿は、私たちのあり方を反映しているのだろう。うがい薬は売り切れ続出のようだ。

(以上)
2020年07月27日 (月) | Edit |
手洗い・マスクなどの努力

「ファクターX」とは、ノーベル賞の山中伸弥教授による言葉で、「新型コロナウイルスの感染拡大が、これまでのところ、日本で比較的抑えられた原因」のことだ。それがよくわからないので「X」という。

ファクターXの候補のひとつとして言われるもののひとつに、「手洗いの励行やマスク着用、外出自粛などの個々人の努力」ということがある。

たとえばマスク。今現在(2020年7月現在)、少なくとも都会では、日本人のほとんどは外出時や仕事中にマスクをしている。

しかし、報道をみると欧米ではマスクへの抵抗感は強く、「マスクを強制すべきか否か」についての議論がなかなか決着しない様子だ。

当局がマスク着用を呼びかけたり義務化したりしても、それに従わない人たちがいる。アメリカやブラジルのように、大統領がマスクに抵抗している国もある。そして、マスクに抵抗するような人たちが、どこまでこまめに手を洗っているのか、かなり不安な感じがする。


「感染は自動時得」と思うか

では、なぜ多くの日本人はマスクを着け、手洗いをまじめに行うのだろう?

これも、多くの人が薄々は感じていることだと思うが、世間体を強く気にする「同調圧力」が大きく作用しているのではないか? 

もちろん「病気が怖い」ということはあるわけだが、それに加えて「マスクをするなどして、しっかり対策しています」というスタンスでないと、周囲から冷たい目でみられてしまう、という意識があるのでは、ということだ。

このことは、「たぶんそうだろう」と思っても、立証はむすかしいところがある。しかし、そこに関係する研究を新聞記事で知った。

それは、三浦麻子・大阪大学教授らの研究グループが行ったもので、コロナなどの感染症について「感染は自業自得だと思うか」について各国の人たちに行ったアンケート調査である。

この調査は“3~4月、日本、米国、英国、イタリア、中国の5か国で各400~500人からインターネットで回答を得た”もので、“「感染は自業自得だと思うか」の質問に「全く思わない」から「非常に思う」まで6段階で尋ねた”。

その結果「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」の3つのいずれかを選んだ人の割合は、つぎの通りだった。

日本11.5% 中国4.83% イタリア2.51% イギリス1.49% アメリカ1.0%

また、“反対に(感染が自業自得だとは)「全く思わない」と答えた人は“他の4か国は60~70%だったが、日本は29.25%だった”。

この結果について三浦教授は“日本ではコロナに限らず、本来なら「被害者」のはずの人が過剰に責められる傾向が強い……こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている”。

(読売新聞オンライン2020年6月29日『「コロナ感染が自業自得」日本は11%、米英の10倍……阪大教授など調査』より)


感染したときの社会的非難への恐怖

「感染は自業自得」という人の割合は、最も高い日本でも11%であり、全体からみれば少数派ではある。しかし、米英とくらべてその割合は10倍も高い。やはり日本と米英ではこの件に関し、大きな意識の違いがあることはまちがいないだろう。

つまり、日本ではコロナ感染は、責められるべきことなのだ。非常に「世間体が悪い」のである。

日本人の多くがマスク着用や手洗いをしっかり行うのには、単なる衛生観念だけでなく、このような社会心理的なものが作用しているのではないか?

つまり、「病気への恐怖」だけでなく、「感染したときの社会的非難への恐怖」がマスク着用や手洗い励行の大きな原動力となっている。


個人主義が弱い社会

日本社会には、周囲の目や世間体を強く気にして人に合わせようとする「同調圧力」的な雰囲気が存在する、とよくいわれる。私も経験的にそれはあると思う。

日本では、コロナに感染した人は感染症の被害者ではなく、「自分のせいで世間に迷惑をかけた者」とみなされる。「世間に迷惑をかける」というのは、「同調」からの逸脱である。そんなふうに考えるのは、それだけ同調圧力が強いということなのだろう。

同調圧力が強いというのは、個々人の価値観や判断を打ち出しにくい、「個人主義」が弱い社会だということだ。

そして、この個人主義の弱さは、感染症対策にはプラスに働く。政府が強権を発動しなくても、お互いに世間体を気にしてマスクを着けてこまめに手を洗い、さらにそのほかの行動を自粛する社会は、たしかに感染症を食い止めるうえでは有利なはずだ。

あるいは、個としての意識が弱いならば、マスクをつけることや、さまざまな予防を行うことを「弱さ」として忌み嫌う「強い人間」志向が邪魔することも比較的少ない。

以上をまとめると、「感染症の拡大をおさえるファクターXの根底にその社会の“個人主義の弱さ”という要素があるのでは」ということだ。


各国の人口あたりの感染者数

では、ほんとうに「個人主義が弱い」国では「個人主義が強い」国よりも感染拡大が抑えられているのだろうか?

以下は、2020年7月22日時点の「人口10万人あたりの新型コロナウイルス(累計)感染者数」の各国比較である。(日本経済新聞のウェブサイト「チャートで見る世界の感染状況 新型コロナウイルス」より)

米国1195人 ブラジル1048人 スペイン569人 ロシア541人 イタリア405人 フランス272人 韓国27人 日本21人 中国6人

※日経新聞のこのサイトにはデータがないが、ドイツと英国について同様の計算を私そういちが行ったところ、ドイツ 240~250人程度 英国 440~450人程度

どれだけ感染が拡大・蔓延したかの国際比較は、感染の絶対数ではなく人口あたりでみるのが良い。


先進国のあいだで状況が違う

今回の新型コロナの感染拡大で印象的だったことのひとつに「アメリカや西欧の主要国のような、医療や保健衛生が発達している先進国での蔓延」ということがある。

しかし、同じく先進国あるいは準先進国といえる日本、韓国、中国(そして台湾も)では、感染は比較的抑えられている。

感染症の蔓延というのは、一般的には発展途上国でより深刻であり、経済発展の進んだ社会は感染症への抵抗力があるというのは、基本的には正しいだろう。

清潔な水や石鹸もろくに手に入らない人が多くいるような社会では、感染症が深刻になるのは当然だ。

そして、アフリカなどの発展途上国の感染者数のデータは、調査・把握ができないためにおそらく過小になっている。だから、先進国のデータと一緒に比較はできない。

一方、先進国あるいは中国のような「新興国」レベルにまで発展している国ならば、感染者数について一定以上の把握ができているので、一応は比較可能と考えていい。その比較のなかで、欧米の人口あたり感染者が多く、日本、韓国、中国の感染者が少ないのは顕著な傾向だ。つまり、先進国のあいだで状況が違うのだ。

ただし、ここでいう「先進国」は、人口数千万(4000~5000万)以上の大国であり、北欧諸国やニュージーランドなどの人口数百万規模の国は含まない。

これらの小規模な先進国は、政府の方針を徹底しやすく、国民の団結も強固な傾向がある。そこで、感染症対策において大国とはかなり条件がちがうのではないか。そこで、ここでの考察からは除外する。また、人口2000万人台の台湾やオーストラリアは「中間型」といえるが、これも一応除外である。


「個人主義の弱さ」という共通性

日本、韓国、中国――これらの東アジアの国ぐに共通していることは何か?

まず、個人主義の弱さということ。

ここでいう「個人主義」をもう少し説明すると、「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」だ。こういう価値観のもとでは他人の価値観や意思も尊重しないといけないということになる。また、自分の考えに基づいて組織や社会のために行動することと個人主義は矛盾しない。

これは、自分の利益ばかりを考える「利己主義」とは区別される。米国や英国は欧米のなかでも、とくに個人主義が強いといわれるのはご承知のとおり。

一方韓国は、日本と同様に、あるいは日本以上に世間体を気にする「個人主義の弱い」社会なのではないだろうか。特別な情報・知識がなくとも、多少ニュースなどをみているだけでも、そのことは伝わってくる。それは日本と似たところがあるからだろう。

不祥事を起こした韓国の著名人の謝罪会見などの様子は、まさにそうだ。「世間をお騒がわせして申し訳ない」という感じ、世間様に吊し上げられている感じが場合によっては日本以上に強くなっている。

それにしても、三浦教授らはほんとうはぜひ韓国についても「感染は自業自得か」の調査をしてほしかった。

中国はどうか。中国人はかなり個人主義的だともいわれる。ただしそれは「家父長や社長、国家のリーダーなどの権力者が圧倒的な力を持っていて、その権力者にバラバラの個人が服従して束ねられている」という独裁国家的な社会のあり方に根ざしたものだという見解がある(たとえば、益尾知佐子『中国の行動原理』中公新書)。

中国に「個人主義」の傾向があるとしても、それは欧米的な「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」とは異質なものだということだ。

三浦教授らの調査で「感染は自業自得」とする人の割合が中国は約5%と、1%台の米英にくらべて大幅に高く、調査対象のなかで日本と米英の中間的なレベルにあるのは、中国が欧米とは異質であることを示すひとつの材料だろう。


もう一つの共通性「一定の経済発展」

そして、このような「個人主義の弱さ」に加えて、もうひとつの要素が日本、韓国、中国にはある。

それは「経済発展」という要素である。産業・経済が発達していて、感染予防のためのさまざまなリソースを多くの人たちが利用できる条件が備わっているということだ。

これは、たとえば同調圧力のもとで「マスクをしなければ」ということになれば、それを比較的スムースに実行できるということだ。発展途上国では、たとえ同調圧力があったとしても、なかなかそうはいかない。マスクなどのいろんなものが手に入りにくい。一方欧米では、マスクが入手できるとしても、自分の考えからあえてそれをしない人たちがいるわけである。

なお、今の中国も、完全に先進国とはいえないが、先進国に準じた技術や工業力を持っている。分野よっては欧米や日本を凌ぐ力がある。先進国に及ばない面があったとしても、独裁国家ならではの力の結集や人民への強制力によってカバーができる。


「東アジア的社会」というカテゴリー

日本、韓国、中国には、もちろん違いがある。しかし、「個人主義の弱さ」「一定以上の経済発展」という2点については、この3国は共通している。その2点についても、個人主義の弱さの具体的な中身や、経済発展の度合いなどに違いはある。

しかしこれらの東アジアの3国は、欧米(とくに米英)のような個人主義の伝統が強くある国ぐにとも、経済発展が不十分なアジア・アフリカの発展途上国とも明らかに異なる、独特なカテゴリーとなっている。

これは「東アジア的社会」といったらいいだろうか。このカテゴリーには、台湾もおそらく含まれるだろうし、東南アジアの一部の国も含まれるかもしれない。

以上、「個人主義が弱く、かつ経済発展の進んだ国=東アジア的社会で、コロナの感染が比較的抑えられている」というのが結論である。

この2つの要素・条件はかなり漠然としていて、「ファクターX」といえる次元のことがらではないかもしれない。しかし、ファクターXを成り立たせている(かもしれない)社会の基本条件とはいえるだろう。

これは、「当たり前じゃないか」と言われてしまいそうな結論ではある。「個人主義」も「経済発展」も、社会を論じるうえではごくありきたりの概念だ。しかし、ここで述べた「当たり前」のことも、じつはあまり明確には述べられていないのではないかと、私は思っている。


「東アジア的アプローチ」と「合理的アプローチ」

そして、気になるのはここでいう「東アジア的社会」は、これからもコロナ感染症との戦いで、欧米よりも優位であり続けるかどうか、ということだ。

私はこのような東アジア的なアプローチには、限界があると思っている。コロナとの戦いで最も強いモデルは、これではない。最強なのは「当局が明確で科学的・合理的な方針を打ち出し」かつ「国民の多くがそれに自発的に合意・納得して協力する」というかたちのはずだ。

これまでの欧米では、この2つのうちの片方もしくは両方に弱いところがあった。未知のウイルスに対して科学的・合理的な方針を打ち出すことには困難が伴ったし、そのような状態では危機意識に個人差があるのも当然だった。そこで、個人主義的な国民は必ずしも当局の方針に従わなかった(マスクの件は典型的だ)。

しかし、このウイルスとの戦いでの経験値が増すにつれて「当局の合理的方針」と「合意・納得に基づく国民の協力」の2つが機能するようになっていくのではないか。

このようなあり方は「合理的アプロ―チ」とでもいえばいいだろうか。

たとえば新型コロナの感染者が今のところ(2020年7月下旬現在)激減してきたニューヨーク市の状態は、そのような「合理的アプローチ」による事例の先駆けなのかもしれない。ニューヨークでは、一時は感染が蔓延したものの、最近は大量のPCR検査、3000人もの専門スタッフによる感染者やその周辺の行動の追跡、感染者・濃厚接触者の隔離といった対策を行う体制整備を着々とすすめていた。このことは、最近さかんに報じられている。

そして、韓国(そして台湾)には、「東アジア的アプローチ」だけでなく、「合理的アプローチ」の要素もあったのである。一時よく報道されたような、感染者の検査・隔離・追跡などについての運営の様子をみれば、それは明らかだ。


日本での「合理的アプローチ」の弱さ

日本では、残念ながら「合理的アプローチ」の要素は弱かったといえるだろう。

だから「何で日本はこんなに感染者が少ないのだ」と世界から言われるのだ。「アベノマスクみたいな政府の不合理な対応や不手際が目立つのに、なぜ?」というわけだ。「ファクターX」というのも、そういう問いかけの一種ともいえる。日本は最も純度の高い「東アジア的アプローチ」の事例なのだ。

7月下旬現在の日本の状況は、弱い個人主義や同調圧力のもとでの「東アジア的アプローチ」の限界を示しているのかもしれない。政府は相変わらず系統だった方針を打ち出せていない。「感染対策をしっかりと」と呼びかけながら「旅行に行こう(ただし東京は除く)」と言っている。

また、当局には明確な軸がないので、目の前の事象に反応するばかりという面が強く、感染が再拡大した将来に備えての体制整備もあまりしてこなかった。そのことは、最近(7月)になってはっきりしてきた。

日本の私たちは、コロナ禍をのり越えるために、これまでの「東アジア的アプローチ」を卒業して「合理的アプローチ」に移行しなければならないはずだ。しかし、できるだろうか?

私たちは(とくに指導者は)過去の成功体験にこだわる傾向が強いので不安だ。もしもその移行ができなければ、遠くない未来に欧米、韓国、中国、台湾でコロナが終息したのをみながら、自分たちはまだ苦しみ続けるという事態になってしまうかもしれない。

そのときには「日本で感染が抑えられた原因=ファクターXは何か」などという議論は、まったく消えてしまっているわけだ。そんな未来はほんとうに避けなければならない。

(以上)
2020年05月27日 (水) | Edit |
つい先日、緊急事態宣言が全国すべてで解除になったので、これまでについての検証をしてみよう。まだまだコロナ禍の問題は続くだろうから、とりあえずの中間的な検証だ。

といっても、政府の対応についてではなく、自分が今回の各時点で事態をどうとらえたか、ということ。自分に対する検証である。

おととい(25日)の記者会見で、安倍総理は「今の時点でこれまでの政府の対応についての検証はしないのか」という質問に対し「今はしない。事態が収束してからだ」という答えだった(でもWHOに対しては、このあいだ「これまでの対応を検証すべきだ」と主張した国のひとつだし、このときの記者会見でもその話をしていた)。

こういう、検証や反省を避ける姿勢は良くないなと思ったので、自分は自分のことを検証してみようと思ったしだいです。

検証の材料としては各時点で書いたブログがある。2月以降、当ブログと別ブログの「そういち総研」で書いた記事(あわせて10数本、そんなに書いてないけど)のほとんどはコロナ関連だ。

最初にコロナのことを書いたのは、2月下旬。別ブログ「そういち総研」で、コロナウイルス対策からみた中国と日本の社会構造の比較というテーマで長文の記事をアップした(2月23日)。中国は専制(独裁)国家であり、日本は集団・組織のあいだの調整を重視する「団体構造」の社会で、そのことが今回のコロナへの対応でも端的にあらわれている、という内容だ。この記事を紹介する記事を、当ブログでも書いた(2月24日)。

専制国家・中国の社会構造と行動の特徴←2月23日の「そういち総研」の記事

この頃の記事を読み返すと、「コロナ問題をまだまだ対岸の火事だと思っていたなあ」と感じる。

この記事の切り口は、「コロナ問題は中国をおもな舞台として今後も進行する」というイメージに基づいている。コロナウイルスが中国を超えてあれだけの猛威を振るうとは予想していなかった。1か月後にオリンピックの延期が決まるなんて、思っていなかった。

また、今回のコロナの問題が展開しだいでは、習近平の支配に大きなダメージを与える可能性についても述べた。しかし、中国政府は今のところコロナをかなり抑え込んだようなので、習政権の明らかな危機ということは起こっていない。

記事のなかではそれほど踏み込まなかったが、当時の私は、中国での混乱の拡大・深刻化や、それが政権を揺るがすという可能性は、相当にあるとイメージしていた。そういう展開が短期間のうちにはっきりするかもしれないと。習政権自身が、少なくとも2月にはその危機感を強く持っていたはずだ。

しかし、思っていた以上に中国の独裁体制はしぶとかったようだ。それどころか、中国のような相当な国力を持った独裁体制は、強力な感染症対策を推進しやすい一面があるということが、今回の件で明らかになった。少なくとも短期的にみて、政権が大きく揺らぐ様子は、今のところみられない。

ただし、中期的には経済不振や感染拡大の再燃が深刻化する可能性はあるので、中国の体制にとって強い緊張感は続くのだろう。独裁国家の権力者は、権力の座を追われたら命さえ危なくなるので、その緊張感は先進国のリーダーとは比較にならない。

ここまで「予想やイメージどおりではなかった」という面について述べた。でも、2月23日の記事で、つぎのところは今も有効な見方だと思っている。(以下、赤い文字は記事からの引用)

“一方、新型コロナウイルスの問題に対する日本社会の反応はどうか。これは「縦に連なる重層的な関係性」で成り立つ「団体構造」ならではのことになっていると思う。「縦に連なる重層的な関係性」というのを私なりに補足すると「さまざまなレベルの中間団体に権威や責任が分散し、それが幾層にも積み重なって社会全体が構成されている」ということだ。

こういう社会は、手慣れた問題だと、さまざまな組織(中間団体)の間の連携や協力がスムースに行われるが、未経験の問題に対しては、お互いの組織の立場や利害に配慮するあまり、現場が身動きしにくくなる傾向がある”


このような日本社会の特徴は、その後のコロナ対策にずっとマイナスの影響をあたえつづけた。私たちは、2月以降のさまざまな局面で、総理をはじめとするリーダーが「スピード感をもって調整していきます、再来週をめどに…」みたいなことを言うのを見聞きしてきた。これからもそれが続く可能性はおおいにあるだろう。

そして、ここでいう日本的な「団体構造」の特徴としては、「明確な方針や責任感をもったリーダーシップの不在」ということもある。このこともその後の政府中枢の様子をみていると顕著だった。しかし、この点についての認識は、2月下旬の時点ではまだ不十分だったと思う。

一方で、この2月下旬の記事では、こうも書いた。

“しかし一方で、日本人は目的やなすべきことが明確ならば、お互いに「調整」を重ねたうえでということになるが、立場を超えて協力しあうことも得意なはずだ”

これは、緊急事態宣言後にさまざまな事業者や多くの個人が「自粛」に協力した様子をみれば、当たっていたイメージだと思う。

ただし、このときの私は(記事では述べていないが)、日本社会における「立場をこえた協力」のひとつのあり方として、「日本株式会社の団結」ということもイメージしていた。

つまり、日本の主だったメーカーや総合商社などが、この問題への対応で何か大きく貢献してくれるのではという期待だ。医療機器の生産、あるいは物資の調達などで、こうした企業が目立った動きをするのではないかと。

ところが、こういう「日本株式会社の団結」は、不発だった。もちろん、社会を維持するうえでさまざまな企業が努力していたのはたしかにちがいないが、プラスアルファの大きな何かは、ほぼみられなかった。

とくに、最近のトヨタのCMで「関連会社でフェイスガードをつくっています」みたいなことを言っているのをみると、そう思う。世界のトヨタがそんなものか、と残念な気になる。トヨタは自分で医療系の何かをつくるのではなく、医療機器のメーカーにトヨタ的な生産管理を指南することにしたのだそうだ。「お茶を濁す」とは、こういうことをいうのだろう。

シャープは自社製マスクをネット販売しようとしてシステムダウンしてしまった。ユニクロはようやく夏の販売開始をめどにマスクをつくりはじめたとのこと。伊藤忠商事はアベノマスクの調達に尽力したが、いろいろうまくいかなかったようだ。うーん…

日本株式会社が今回のコロナ禍で、めざましい動きができなかったことについては、専門性のちがいなど困難な事情も多々あっただろう。自動車メーカーにいきなり医療系のなにかで貢献しろと言われても、ということだ。でも、ほんとうに「ムリだ」で終わっていいんだろうかと、今も思う。もしも「さすがはトヨタ」といわれるような何かができたなら、トヨタ自身も得るものは大きかったはずなのに。

日本株式会社は、やはり活力が落ちているのだ。それはわかってはいたが、思っていた以上だったのだと、今回感じた。

このことをマスコミは言わない。とくにテレビはスポンサー批判になるのでまったく言えない。日経新聞では、外国の記者がこの「日本株式会社の不発」について言及しているのをみかけたことがあるが。

検証・反省すべきことはこのあと3月、4月、5月の分と続くのだが、長くなってきたので、いったんこのへんでやめておこう。ただ、2月頃の、日本で事態の深刻化が明らかになる以前の「見立て」がどうだったかは、とくに重要だ。

こういうふうに自分について一定の検証・反省ができるのは、「ぜんぜんダメだったわけじゃない」「甘いところや間違いもあったが、正しいところもかなりあった」と今も思えるからだろう。

これが「全然ダメだった、間違いばかりだった」ということになると、検証なんてまっぴらだと思うにちがいない。検証などしたら、ボロボロになってしまう。今の安倍総理の認識は、そういうことなのだろう。

(以上)
2020年05月06日 (水) | Edit |
このゴールデンウィークは「ステイホーム」ということで、近所のスーパーに買い物に行った以外はほぼ外出せす、家にこもっている。ただ、私はもともと週末は家にこもって読んだり書いたりしていることが多いので、それとあまり変わらないのかもしれない。

でも、これほど徹底して閉じこもることはなかった。それに、緊急事態になる前の「ステイホーム」は、どこかへ出たくなれば、いつでもそれができるという自由があったけど、今はちがう。

おとといの午後、その何日か前にアマゾンで注文した本が届いた。メールで知らせがあったので、玄関のドアをあけると、本の入った封筒が置いてあった。このところ、そういう配達の仕方になっているようですね。

届いた本は、速水融『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』藤原書店(2006)。第一次世界大戦末期の1918年から終戦直後の1920年まで世界的に流行した「スペイン風邪」といわれるインフルエンザの、日本での状況についての研究書だ。

「日本におけるスペイン風邪」をテーマに1冊の本を書いたのは、今のところこれだけなのだそうだ(ほかに、同時代の政府資料を復刊した『流行性感冒』平凡社というのはある)。著者の速水さんは、歴史人口学の大家である。

スペイン風邪は、史上最悪のパンデミックのひとつである。これによって全世界で5000万人、日本では40万人ほどが亡くなった(ただし、数字は諸説ある)。

この本を、ゆうべ遅くにざっと読み終わった。たしかに、今の新型コロナの状況と重なりあうところがある。

日本の場合、海外で先に起こっていた流行について情報の不足や分析の誤りがあり、対策が後手にまわった。政府として多少とも動き出したのは感染がすっかり広がってから。国家としての対策の支出は、驚くべきことに、ほとんどなされずじまい。劇場、デパートのような街中で人の集まる場所の閉鎖措置は(例外はあるが)とられなかった。政府の動きは鈍かった。

政府は予防キャンペーンのため凝ったイラストつきのポスターを8種類もつくっているが、実効性があったとは思えない。「政府も何かやってます」というアピールがしたかったのか。政府に苛立つ与謝野晶子のような有名文化人のエッセイも残っている。

一方、治療や予防に奮闘した町のドクターがいたことも、記録に残っている。当時はウイルス学も確立しておらず、この病気の正体はわかっていないので、医師にできることはほんとうに限られていた。しかしそれでも当時なりにワクチンや治療薬を試す動きもあった(それらには結局効果はなかったが)。

また、「飛沫で感染する」「人との距離を置く」「うがい・手洗い」「マスク着用」といった、今のコロナと基本的には変わらない予防策が新聞で述べられていたりもする。病人の熱をさますための氷が不足して品薄になり、値段が高騰している。

そして、スペイン風邪には、数え方にもよるが、第2波があった。いったん沈静化したあと、再度流行があり、第1波に匹敵するかそれ以上の大きな被害をもたらしている。これは、コロナの今後を考えるうえでも重要な情報だ。

スペイン風邪のことは、おもにこの本をもとに、いずれ長文の記事にまとめてみたいと思った。

なお、この本の著者の速水さんは、2019年の12月に90歳で亡くなった。もしご存命なら、今頃マスコミから多くの取材があったことだろう。速水さんがこの本を書いたのは2005年頃。当時、新型インフルエンザの脅威が取りざたされるようになり、数十万人が亡くなったスマトラ大津波(2004年)の惨事があった。そんな中、ほとんど知られていない「日本におけるスペイン風邪」について研究する必要を感じたようだ(同書、序章)。先見の明があったのだ。

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あと最近、戸部良一ほか『失敗の本質』中公文庫(1991、原著1984)を読み返している。

本の副題にもあるが、第二次世界大戦のときの日本軍(陸軍・海軍)の失敗について組織論的に研究した本である。当時の軍隊や軍事情勢に詳しい歴史家と、経営や組織論の研究者らによる共同研究。いろんなところで言及される、あるいは話の元ネタにされる、現代の「古典」といえる本。

この本は、日本社会に何かの大きな危機があって、リーダーが迷走するたびに、再読されるのだと思う。東日本大震災のときにも、当時の政府をこの本の視点から批判する動きもあったのだそうだ(同書のビジネスマン向け解説書、鈴木博毅『「超」入門  失敗の本質』より)。

「今のコロナ対策における政府は、戦前・戦中の日本軍のようだ!」と糾弾するつもりはない。ツイッターなどで、強い言葉でそう言っている人はたくさんいるにちがいない。そういうのに加わりたいとは思わない。

しかし、当時の日本軍の失敗は、日本の大組織やトップリーダーが失敗するときの「典型」「極致」を示していると思う。つまり、失敗するときには、「日本軍的」なことを多かれ少なかれやらかしている。私たちや私たちの選んだリーダーは、深刻な危機のときに「日本軍的」な失敗をしがちなのだと、警戒すべきだ。そのための「チェックリスト」を、この本『失敗の本質』は提供してくれているのだと、私は思う。

では『失敗の本質』では、どんなことに「要注意」だと言っているのか。

目の前のことばかりの「短期志向」でグランドデザインがない。現実を無視して自分たちの思い込み、情緒、忖度、楽観的見通しに基づいて戦略を決める。情報収集と活用の軽視。対策・手段の幅が狭く「いつものやり方」をくり返す。現実が変化しているのに、過去に「正しい」とされたやり方に固執し続ける。多くの犠牲が出ても、頑としてやり方を改めない。そういう人間が要職であり続ける。

意思決定を支配するのは「空気」。明確なリーダーシップを欠いたまま、責任が不明確なまま、ものごとがすすんでいく。

「目標は何か」があいまいで、戦略目標を数値などで客観的に示すことができない。とにかく定量的な検討や判断が苦手。ロジスティックス(資材・食糧の調達)を軽視して、根性主義の精神論がまかりとおる。

誰もが扱えるシステムや技術よりも、必死の努力による「名人芸」「職人技」を偏重。ある面ではすぐれた技術を持っているのに、トータルのバランスを欠いている。

能力・職務による客観的な人材登用ではなく、閉じた人間関係によるエコひいきの横行。作戦を立てる司令部と現場の距離があまりにも遠く、司令部が現場を知らない…

レベル感も不ぞろいで、順不同なのだが、同書にあった項目として、とりあえずこんなことが思い浮かぶ。

うーん、どうだろうか。今の日本政府は、もちろんかつての日本軍のような最悪ではない。もっと正常だと思う。しかし、「失敗の本質」的な失敗の周辺を、うろうろしているところもみられるように思う。あるいは「失敗」に片足を突っ込んでいるのでは、と心配になる。このことも、いずれもう少し踏み込んでまとめてみたいが、時間がないかも。

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先日、別ブログ「そういち総研」に新しい記事をアップしました。このところ、「感染症とは人類にとって何か」という視点で複数の記事をアップしていますが、これは一応の「まとめ」といえるものです。
↓以下をクリック

感染症によって、世界はどう変わってきたか。新型コロナ以後どうなるのか

(以上)
2020年04月26日 (日) | Edit |
今回の新型コロナウイルスの問題に関して、政府や人びとに求められるのは「科学的に理にかなった、なすべきことを行う」ということだろう。あたりまえといえばあたりまえだが、やはりそれしかない。

でも、その「あたりまえ」は、じつはいろんな要素によって妨げられているのかもしれない。国の指導者にしても「科学的に問題に対処する」以外のことを大事にしている様子がみられないだろうか?

何がその「妨げ」になるかは、国によってちがいがあり、そこにそれぞれの国の特徴があらわれている。

例えば中国では、感染拡大の初期に情報の隠蔽があった。未知の感染症が広がりつつあることに警鐘をならした医師を弾圧したりもした。

中国の独裁的な体制では、権力者にとって不都合な情報が隠蔽されるのはよくあることだ。不都合な事実を速やかに認め、それを報告・公表するのは「科学的な対処」の前提だが、それは独裁国家では簡単なことではない。

これは、上層部が意図的に情報統制をするだけではなく、組織の力学も働いている。独裁国家の中間管理職は、自分の持ち場で「あってはならない」ことが起きれば、権力者の不興を買って非常に不利な立場に追い込まれてしまう。ときには命にさえかかわる。だから、多くの問題はできれば大ごとになる前におさえこみたい。そこで上層部にも、正しく情報が上がってこないことがしばしばある。

しかし、情報操作ではウイルスをどうすることもできない。いつものやり方が通用しない相手ということだ。

今回の件で「いつものやり方は通用しない」ということが、どうしても飲み込めない権力者がいる。トランプ大統領はその代表だろう。トランプ氏は、当初はコロナウイルスの脅威を露骨に過小評価していた。その脅威は自分の経済政策の成果を台無しにしかねない。とくに、今年の選挙を控えた民主国家の政治リーダーとしては「認めたくない」ものだ。だから、うやむやにしたかった。しかし、大統領がどう発言しようと、ウイルスにとってはまったく関係のないことだ。

これはもちろんあたりまえのことなのだが、あの大統領にはなかなか飲み込めない。「このウイルスはもうすぐ終息する」的な楽観論を、いろんな場面でくりかえしてきた。さらに、昨日のテレビのニュースによれば、「消毒液の注射が有効だ」などとトンデモ発言をしたのだそうだ。これにはさすがに驚いた。トランプさんは、科学がトコトン苦手なのだ。今のアメリカの民主主義が、このような大統領を生み出した。

ただし、科学が苦手なのはトランプ大統領だけではない。新興国・発展途上国ではもっと深刻な状況だろう。インドでは、与党人民党が西ベンガル州で新型コロナ対策として、牛の尿を飲む集会を開いたのだそうだ。尿がさまざまな病気に効くという考えが、インドでは根強くある。ヒンズー(インドの伝統宗教)至上主義者のなかには、ヨガがコロナに効くという者もいるという。(日経新聞4月19日朝刊、デリー大助教ローフ・ミール氏による)。

しかしこういう「迷信」は、先進国の問題でもある。アメリカ大統領が「消毒液の注射が効く」などと言うくらいなのだから。

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日本はどうだろう。日本ではさまざまな関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、「科学的な対処」を迅速に実行できない傾向が強いようだ。

中国のような独裁国家では、政府の各部署はトップダウンで動く。だから、部署間での「調整」ということは、皆無であるか優先順位が低い。また、欧米の先進国の場合は、組織や役職の権限・職務について体系的で詳細なルールを整備し、そのルールに基づく運営を徹底しようとする伝統がある。そのような場合も日本的な「調整」は、あまり重要ではない。

日本では、もちろん中国のような独裁権力は存在しない。一応は欧米型の民主主義の体制ではある。しかし、体系的ルールに基づく運営よりも、抽象的であいまいな基本方針のもと、さまざまな「調整」「忖度」に基づいて多くのものごとが動いてきた。

そのような日本的な枠組みでは、さまざまな立場における権限や役割、そして責任が不明確になってしまうものだ。そして、こうした「あいまいさ」は、権力者やエリートには居心地のよいところがあった。責任の重圧を感じないで済むのだから。

しかし、「調整」「忖度」ばかりの政治・行政は、今回のような緊急事態に対しては、デメリットが大きすぎる。意思決定に時間がかかり、踏み込んだ施策も行われにくい。対策が「遅く」「生ぬるい」ものになりがちなのだ。今、それは現実の問題になっていて、多くの人が苛立ちを感じている。

たとえば4月上旬の政府による緊急事態宣言のあと、政府と東京都は3日ものあいだ「どの業界が営業自粛要請の対象となるか」について「調整」していた。「生活に困窮する世帯に30万円支給」なのか「各人に10万円支給」なのかについても、官邸・官僚機構・自民党議員・公明党などのあいだで「調整」がバタバタした。

そして、そもそも緊急事態宣言が「遅かった」という意見もある。「宣言」とセットで出された経済対策の取りまとめに時間がかかったことも影響している、と言われる。このような取りまとめは、まさにさまざまな「調整」を通じて行われる。

助成金や融資を申請した際に、手続きに時間がかかり過ぎてしまうのも、「調整」重視の弊害だ。時間がかかるのは、言うまでもないが、さまざまな部署・役職のチェックや承認が必要だからだ。承認の根拠となる煩雑な資料も求められる。こうした手続きは、責任を分散する「調整」の一種である。平時にはそのやり方の弊害はそれほどはあらわれないが、スピードが求められる非常時には困ったことになる。たくさんのハンコを要するシステムは、申請が殺到したら対応しきれなくなってしまう。

そして、「調整」にエネルギーをとられていると、本来なすべきことを見失ったり、十分に取り組めなくなるだろう。今、日本の政治・行政は「調整」という、いつものやり方から離れられず、「科学的な対処」を迅速に行うことができないでいるのではないか。

権力や責任のある人たちが「調整」を重視するのはなぜだろうか? たぶんそれは「保身」「責任回避」ということに関わっている。「調整」というのは、「これは関係者が話し合って決めたことなので、その責任を特定の誰かが負うことはない」と確認する手続きでもある。

今回の件に関しては「できるだけ責任は負いたくない、とても負えない」という姿勢が、日本社会のさまざまな場所でみられる。外出や営業の制限が当局による「自粛のお願い」というかたちをとっているのは、象徴的だ。「強制」ではなく「お願い」であれば当局の責任は軽減される。これは法律がそうなっているからだが、その法律のあり方はまさに日本的である。

また、首相や大臣が重要な決定について述べるとき、いつも「専門家の意見に基づいて」と強調しているのも気になる。

これは、必ずしも「専門家を重視する」ということではないのだろう。本当に重視するなら、総理は緊急事態宣言のときに「人の接触を7割~8割削減」とは言わなかったはずだ。「8割おじさん」の西浦教授は「私は7割なんて言っていない、あくまで8割削減だ」と述べているという。

「7~8割」という言い方の背後には「8割だと経済にダメージが大きすぎる、もう少し幅を持たせたほうがいい」という、「経済重視」の思惑や配慮があるのだろう。そういう政治の立場を入れながらも、「これは専門家の意見」ということをくりかえすのである。

「専門家の見解は政治にとって免罪符であり、都合のいい部分はつまみ食い的に利用する」といった考えが、責任ある人たちの本音ではないか? それはいつものやり方だ。だとしたら、「科学的に問題に対処する」ことに背を向けているのである。もちろん、そればかりではないと信じたい……

このブログでは、これまで政治批判はそれほどは書いてこなかった。しかし今の状況では「政府のトップは、この問題に危機感を持って真剣に取り組む気があるのだろうか、大丈夫なのだろうか」と心配になる。

たとえば、PCR検査の拡充がなかなか進まないことや、医療現場でマスクをはじめとする物資の不足が続いていることなどを報道でみていると、そう感じてしまう。批判も多かったアベノマスクで多くの不良品が出ているというのも、「政府は大丈夫か」と不安にさせる話だ。個々の現場では目の前のことに懸命に取り組んでいるようだ。ならば、司令部はどうなっているんだろう?

そして、リーダーたちについて「問題に対処する身振りや発言はしているけど、じつは一番の関心は〈この事態のなかで自分はどうふるまえば損をしないか、非難されないか〉ということなのでは」と疑ってしまうのである。不眠不休で公務にあたっていたとしても、「問題の解決」そのもの以外の何かに多くのエネルギーを費やしてはいないか。もしもこの疑いがあたっているなら、「今は非常時だから、いつものやり方は通用しない、相手はウイルスだ」と強く言いたい。

さらに、政府の危機感が薄いのだとしたら、その背景には総理や高官が、じつは社会の現場の状況についてよくわかっていないということがあるのかもしれない。

総理に情報を伝えるうえで中心にいる高級官僚の人たちは、たしかに秀才にちがいない。しかし、企業活動や行政、医療の現場の具体的なところに通じているわけではないだろう。たとえば助成金の申請窓口の仕事など、経験していないのだ。そのほか、企業の人たちと腹を割って話をする機会も、じつはほとんどないはずだ(ここは私の会社員時代の知見からも想像がつく)。また、若い頃から仕事漬けで、ふつうの人たちの生活や感覚にも疎いところがあるかもしれない。しかし、自分たちとしては「何でもわかっている」つもりなのだ。

乱暴な言い方をすれば、世間に疎いエリートが、もっと世間に疎い世襲の政治家(安倍さんはまさにそう)にアドバイスして大事なことを決めているのである。政治記者や評論家たちによれば、今の首相はとくに官邸付きの官僚たちを重用しているという。

以上は素人の推測だ。しかし、その推測が正しいとしたら、「アベノマスク」や「自宅でくつろぐ動画配信」みたいな、かなりの人にとっておおいに「ズレ」を感じることが、なぜ行われたのかについてひとつの説明にはなる。

つまり総理には、世の中の情報が上がってきていないのだ。もっと言ってしまうと、熱心にテレビのニュースやワイドショーをみたり、新聞を丁寧に読んでいる一般国民よりも、今起こっていることについて知らないのかもしれない。そうではないことを願っているが、やはり心配だ。現状が把握できなければ、「科学的な対処」も何もない。

ずいぶん長々と書いてしまいました。私ごときが書いてどうなるわけでもないけど、限られた人数であっても、とにかく読んでくださる方がいるのだから、いいのです。

(以上)

*別ブログ「そういち総研」で新しい記事をアップしました。感染症の歴史に関する記事です。多くの人が知っておいてよい、世界史上のいくつかの感染症の事例についてまとめています。

知っておくべき、大きな被害をもたらした感染症の歴史←クリック

2020年04月19日 (日) | Edit |
昨日、ある雑誌の編集者とライターの方々とお会いして、世界史における感染症について話をしました。特集記事の取材ということです。人類にとって感染症とは何か、世界史上の知っておくべき感染症の事例、新型コロナの問題から何がみえるか……そんなことについて1時間余りお話をしました。

場所は、我が家の近所のビルの一室を借りて。新型コロナのせいで最近は使っていない部屋です。いらしたお2人とは互いにマスクをして3~4m離れて、ということにしました。

昨日の東京地方は、取材の時刻には強い雨風のひどい天気。換気のため窓を大きく開けていたので、雨風が部屋にかなり吹き込んでくる。それでもどうにか集中してお話ができました。今日はいい天気だったので、昨日の取材も今日みたいな天気だったらよかったのに、と思いました。

「人類にとって感染症とは」ということですが、私は「感染症とは文明に必然的に伴う副作用のひとつ」だと思っています。そのことを、今回の新型コロナで再認識したといってもいいです。

この数十年ほど、「文明の発達によって感染症は撲滅できる」という楽観的な見方は有力でした。しかし、新型コロナの問題は、その見方に対して根本から修正を迫るものです。

このあたりのことを3000文字余りでまとめた記事を、別ブログ「そういち総研」にアップしましたので、ご一読いただければ幸いです。

感染症は文明の副作用←こちらをクリック

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この土日の外出は、昨日の取材のほかには、今日30分ほど近所の公園で散歩して、20分ほどスーパーで食料品を買ったというもの。これで数日はスーパーには行かない予定。あとは家にひきこもって、本を読んだり、ブログの記事を書いたり、夫婦でご飯を作って食べたり。今夜は生姜焼き定食。

テレビは報道系のものを多少みて、あとは映画の放送をちらちら観ていました。土曜日は「時をかける少女」、日曜は「ねらわれた学園」。どちらも最近亡くなった大林宣彦監督の作品ですね。高校時代にリアルタイムで観た、なつかしい映画。

土日の最後に、この記事を書いています。今日も我が家としては無事に過ごせたことに感謝。毎日毎日が大事だなあと実感しています。

なおもちろんですが、感染症が文明に必然的に伴うものだからといって、対処する術がないなどというのではありません。文明の副作用をなくすことはできなくても、文明のさまざまな道具や手段をつかって、その副作用を緩和することはできるはずです。

そこで大事なのは、「科学的に、なすべきことをきちんと行うこと」です。しかし、各国のリーダーのあいだには、ときに「科学的に問題に対処する」こと以外の何かを大事にする様子がみられないでしょうか?

中国では、感染拡大の初期に、当局による情報の隠蔽らしきことがありました。アメリカでは選挙を強く意識した大統領が、コロナウイルスの脅威について、自分の経済政策の成果に暗雲をなげかけるものとして当初は過小評価する言動をしました。そういうのをみていると「大丈夫か?」と思わざるを得ません。

そして日本では、さまざまな利害関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、あるいはリーダー自身の保身を気にしすぎて迷ってしまうのか、意思決定のペースが遅い傾向がみられます。きわめて日本的なかたちで「科学的に問題に対処する」こと以外の何かが幅を効かせているようです。非常に苛立ちを感じます。

(以上)
2020年04月10日 (金) | Edit |
7日に出た政府の緊急事態宣言は「大きな津波が迫ってきた、逃げろ、命を守る行動を!」という強い警報のはずだ。にもかかわらず、「どこへどう避難するのか」について、社会のさまざまなレベルで多くのことに縛られてきちんと動けていない。

たとえば9日までの時点で「どんな事業にどんなかたちで休業を要請するか」について、政府と東京都が「調整中」だったりする。「理髪店は要請の対象とすべきか」みたいな議論である。また、そもそも政府は「要請はとりあえず2週間様子をみてから」などという方針だ。

これは巨大な津波が迫っているのに「避難についてはもろもろの調整をしたうえで…」「まずはほどほどの高台に逃げて、様子をみて必要ならもっと高いところに避難を」みたいな話をしているようなものだ。

「“避難”によって何か不都合があった場合の責任はどうなる、誰が責任をとるのか」ということも、社会の各レベルで決定権を持つ人たちはおおいに気にしている様子である。自分自身が「避難」の号令を出すのは避けたい。別の誰かが号令を出してくれるのを待とう。誰かが出した避難指示に従うなら、責任を負わないで済む……

東京のオフィス街は、緊急事態宣言後も相変わらず大勢が出ている。しかし、出勤している人たちの多くは、本音では会社に対しテレワーク・自宅待機などの「避難」の号令を出してくれ、と思っているだろう。そして、会社で決定権を持つ人たちでさえ、「誰か」の号令を待っているのかもしれない。

「もろもろの調整」「何かあったときの責任は…」というのは、いつも日本の社会を縛っている事柄だ。日本は「もろもろの調整」の国なのだ。

コロナ関連のニュースをみていても、「調整」という言葉があふれている。「調整」のおもな目的のひとつは、当事者の責任回避ということだ。関係者どうしで調整して決めたことだから、これは特定の誰かの責任ではない、というわけである。

また、これと関わる日本社会の傾向として、上位の権力が明確で系統だった方針を示さず、「あとは現場でよろしく」ということもある。「あくまで自粛(あるいは要請)です、各自の判断でお願いします」というのはまさにそうだ。これも責任回避である。そして権力を背景に「調整」をしているのだともいえる。今回は「補償などによる財政支出の責任」をどう逃れるか、ということが政府や自治体のおもな関心事だ。

今回のような事態でさえ、こうしたおなじみの日本的な思考・行動のパータンはものすごく強力に作用している。政府の最高レベルから、会社組織のような世間の末端までそうなのだ。恐ろしくなる。

(以上)
2020年04月05日 (日) | Edit |
*4月6日8時追記を文末に加えました。

私はこの土日は仕事は休みで、歩いて10分くらいの圏内からは出ず、ほぼ家にいた。

妻はパート社員だが、このような事態でも動いているインフラ系の仕事なので、土曜日は出勤した。日曜日は、妻はいつもはダブルワークで書道教師をしているが、講師をつとめるカルチャーセンターが休講となった。このほか、雑居ビルの一室を借りて自分の教室も運営しているので、今後それをどうしていくかという問題も抱えている。

カルチャーセンターの休講で、今日は夫婦2人で休日を過ごした。朝6時半に起きて、朝ごはんを食べて、テレビの報道番組をみる。NHKの『日曜討論』では、都知事が特措法の担当大臣に(一応おだやかな口調だが)かみついていた。担当大臣は「しかるべきときが来たら、緊急事態宣言を出す」と言っていたが、都知事は「もうそのときでしょう」と。

安倍総理の緊急事態宣言についての決断をここまで引っ張らせているものは、何なのだろう。

経済を重視する側近たち、あるいは財務省の影響が強い、アベノミクスの「成果」を決定的に壊す恐れのある決断を躊躇している、といったことは考えられる。

また、緊急事態宣言は、総理にとっては一種の「敗北」なのかもしれない。これまでの対応が行き詰まったことを認めるという意味での「敗北」だ。

ただ、このような総理・官邸の考えについて、政治・経済のジャーナリストはあまり踏み込んで教えてはくれないように思う。テレビをみているかぎり、そう思う。

「なぜ総理は緊急事態宣言をためらっているのか」という質問を、キャスターがゲストの識者に投げかけても、今ここで述べたような「推測」が返ってくるだけ。それはそうだ。「識者」は取材をしていないのだから、わかるはずもない。ここは政治記者のような、現場で取材をするジャーナリストの出番なのだ。

しかし、そのジャーナリストたちも十分には踏み込めていないようだ。あるいは、大事なことを人びとに伝えようとする熱意がどうも弱いように感じる。

最近のコロナ関係の報道で不満なのは、政治・経済関係のジャーナリストの突っ込みの浅さである。当局の方針をかみくだいて伝えるだけが仕事ではないだろう、と思うことがあるのだ。権力者の密室での判断がとくに重要な今回のような事態だと、ジャーナリストがリアルタイムでできることには限界があるのかもしれない。でも、今こそ「現場で取材をする、本来の意味でのジャーナリスト」が本領を発揮するときだと思う。この人たちはコメンテーターや評論家にはできないことができる。どうか頑張ってほしい。

『日曜討論』が終わったあと、少しのあいだ机に向かって世界史関係の読み書きをした。それから、昼前には歩いて10分ほどのところに住んでいる80歳の母に夫婦で会いに行った。ただし、母の家には行かず、家のすぐ前の公園でちょっと会って話しをしただけ。互いにマスクをしたまま1メートルは距離を置いて。

母と別れたあとは、その足で近所のショッピングセンターに向かう。今日明日の食べ物をス―パーで買う。ほしい食品は普通に買えた。マスクや消毒液のたぐいは、一応売り場を覗くが、もちろんない。

買い物が済んだら、ショッピングセンター内のイタリア料理店に寄って、行きがけに注文したテイクアウトのピザを受け取って持ち帰った。この店は小さな個人店だが、安くておいしいので、夫婦でときどき行っている。でも、しばらくはテイクアウトで利用しようと思っている。買い物は15分くらいで切り上げた。何度かスーパー店内のアルコールで手を消毒した。

午後はずっと家にいた。2人でピザを食べながら、インターネットテレビを視る。月1で放映される元スマップの3人によるバラエティ番組。妻は(つられて私も)長年のスマップファン。この番組は、普段はいろんなゲストを呼んでにぎやかにやっているのだが、今回は急きょゲストの出演なしで、現在の情勢を意識した内容となった。いつもは7時間余りを生放送でやるのだが、今日は生放送は2時間で終わり、3人は家に帰るそうだ。あとは番組の過去の映像を流していた。

元スマップ3人の生放送が終わったところで、私はまた机に向かって世界史の読み書き。それにちょっと疲れて、ネットで今日の感染者数を調べる。東京はまた100人超えでこれまでで最悪の数字だ。そのあと、この記事を書き始めた。妻は田舎の義母に電話して、様子を聞いている。マスクをほとんど持っていないようなので、何枚か送ることにした。

今18時半。不安がありながらも、私たち夫婦には静かな休まる1日。窓から夕暮れの景色がみえる。

こんなふうに過ごせるのは、社会に守られているからだ。より具体的にいえば、生活に必要なさまざまな物資を生産して運んで、販売などで届けてくれる人たち、電気・ガス・水道、運輸、通信、放送関係などの、生活のインフラを維持してくれる人たち、そして医療関係者や対策にあたる行政の方たちなど、多くの人たちの働きに、私たちは守られている。ありがとうございます。

(以上)

*4月6日8時追記:今朝のテレビのワイドショーで、つぎのような見解を述べる政治記者もいた。「緊急事態宣言について、政府内では経済対策の提示とセットで行うべきという考えが強く、明日その対策が発表される予定なので、それ以降でないと宣言はないのでは」―-これも現状の分析として、あり得ることだとは思う。しかし、欧米諸国よりもかなり遅いタイミングで出てくる経済対策は、おそらく多くの人たちが期待するものとは隔たりがあるだろう。そのような「不満足な経済対策」と「多数派の感覚よりも遅い緊急事態宣言」のセットというのは、どうなのだろう?多くの失望を生むことになるのではないか。
2020年03月17日 (火) | Edit |
*3月31日現在の状況をふまえた「追記」を文末に加えました

昨日(3月16日)、NHKの新型コロナ関係の特集番組に、政府専門家会議の尾身副座長(おなじみの眼鏡のドクター)が映像で出演していた。そのなかで「なぜもっとPCR検査をしないのか」という主旨の視聴者からの質問を、アナウンサーが尾身氏に投げかけていた。

しかし、その答えはこれまで繰り返されてきたとおり。「PCR検査は、重症化が疑われる人のための検査ということです」の一点張り。あるいは、のらりくらりとはぐらかす。

番組をみていて、どうしてこんなに頑ななんだろうと気になってきた。これはやはり背景に何かがあるのでは?「何か」というのは「権力者の指図」ということではなく、専門家としてのそれなりの考え方があってのことだろうと、最近は思える。

その考え方とは、(私が推測するところでは)要するにこういうことだろう。

「積極的なPCR検査はしません。それを行うと多くの感染者が発見され、その人たちを隔離入院させれば、医療崩壊が起こる危険性があります。医療崩壊が起これば、本当に医療が必要な、重篤な新型コロナの患者さんや、その他の深刻な病気の人を助けることができなくなる。それだけは絶対に避けるべきです」

「PCR検査を限定することで、多くの感染者を発見できずに、その人たちが感染を広げてしまう恐れはあります。しかし、このウイルスの感染力や毒性には一定の限界があります。感染者の大多数は、他人に感染させることはありません。もし感染しても、重症化する可能性は低いです。それは、これまでのデータで確認されています」

「そこで、町のドクターなどの医療現場で、これは検査したほうがいいという人を見極めてもらい、その人だけを検査して、もしも陽性なら隔離入院させる」

「そのようにすれば、新型コロナによる入院は限られるので、医療現場でも十分な治療をすることができ、重篤になってもおそらくは命を救えます。日本では、諸外国とちがって、多くの人が町のドクターに気軽にアクセスできます。これは健康保険をはじめとするさまざまな制度や慣習でそうなっているのです。だから、身近な医療現場による、検査すべきかどうかの“選別”は有効に機能するはずです」

尾身副座長は「日本の医療には底力がある」とも述べていた。それは「町のドクターによる患者(感染が疑われる人)の選別」と「設備の整った病院での、重篤な患者に対する手厚い治療」の両者がしっかりと機能するのが日本の強みだ、という考えを抽象的に表現したものなのではないか。

政府の専門家が以上の方針だとして、そこに一定の合理性はあると思う。またその方針は、今のところはまずまずの結果をもたらしているのだろう。イタリアなどと比較するとそう思える。もちろん今後の展開はわからない。政府の専門家が、この病気の感染力や毒性などの性質を、大事なところで読み違えている可能性もあるかもしれない。

いずれにせよ、政府による上記のような明確な説明は、なされていないようだ。少なくともテレビのような目立つ場所では、行われていない。

それはそうだろうと思う。そんな説明をしたら、感染を不安に感じている多くの人が怒りだす。「このまま放っておけというのか!」と。

あるいは別の考えの専門家からみれば、突っ込みどころ満載である。感染力や毒性に限界があるとして、それは具体的にどの程度なのか?そのことについてのエビデンスはあるのか等々……

そして、データや証拠は十分ではないはずだ。少なくとも批判的な専門家を納得させるだけの厳密なものはない。ただし、「おそらくは」というレベルの一定の証拠ならある、といったところなのだろう。

町のドクターの立場では、「検査すべきかどうか、適宜判断して」というなら、もっと判断基準を明確にしてほしいということがあるだろう。でもこの病気はまだわからないことが多いので、それは難しい。だから「現場でうまくやってください」としか言えない。

うーん、だとしたら、いかにも日本的な問題への対処方法だと思う。明確で系統だった方針をリーダーが示すことなく、あいまいなまま。あとは現場や関係者が察して上手くやってくださいというわけだ。

また、「厳密で突っ込みどころのない材料がそろわないと、きちんと説明できない」という前提でものごとが動いているのだとしたら、それもいかにも日本的だ。

緊迫した現場では、「一定の蓋然性(確からしさ)」で意思決定していくことは、当然あっていいはずだ。しかし、日本では「お上はとにかくまちがいがあってはならない、絶対に確かなことでなければ言うべきでない」という雰囲気がある。これは、政府内だけでなく、国民のあいだにもある。

今回の新型コロナの件は、その日本的な手法によって、結果的にまずまずのところに落ち着くのかもしれない。もちろん油断はできないが。

しかしいずれにせよ、このままでは自覚的な行動に基づく「経験」というものが社会的に蓄積されない。経験というのは、「自分(たち)が何のために何をしているのか」を明確に意識して行動し、その結果を検証・反省してこそ得られる。今回の「政府の方針」のように、明確で系統だった説明が不十分なままでの取り組みでは、それは望めないだろう。

また、指導的な人たちが国民を信頼していない感じも、伝わってくる。「どうせ下々には説明してもわからないだろう」ということだ。

以上は、限られた・ありふれた情報から、私なりに推測を重ねた素人談義ですが、どうでしょうか?多くの人がある程度は感じていることをまとめたに過ぎないのかもしれません。とにかく、この「推測」が当たっているかどうかは、これからだんだんはっきりするでしょう。

(以上)

*3月31日追記 その後の報道で専門家の発言をみていると、この記事で述べた「政府筋の専門家の方針」についての理解は、ズレていなかったと感じます。

たとえば、先週時点で押谷仁教授(厚労省クラスタ―対策班の中心の1人)は、NHKのニュース番組のインタビューで「PCR検査をおさえているからこそ、医療崩壊に至っていない」という主旨(正確な再現ではないが、ほぼこれに近い踏み込んだ言い方)のことを述べていました。

また、この記事では述べていないことですが、「クラスターを個別につぶしていく」(まとまった感染があった場合、そこに接点のあった人たちをフォローして隔離や行動の規制をする)という地道で大変な作業に、当局の専門家が尽力したことも、効果があったようです。

ただし、現時点では局面は明らかに変わってきたと思えます。つまり、今までのやり方はもう限界なのではないか。今の段階では「症状の程度に合わせて患者を振り分ける」ことを徹底するという前提で「積極的な検査の実施(現状把握)」ということが求められるのではないか。

これまでのように、あいまいさを含んだ「最前線の現場に任せる」やり方ばかりではなく、上部からの明確で系統だった方針・基準に基づいた運営を確立していくということです。しかし、そのための体制や枠組みづくりは、どうなっているのだろう?

また「振り分け」をした患者を収容する病床の確保、専門の医療施設の整備(臨時の建設も含む)、その他医療関係の物資・機器の調達は必須なはずですが、当局の対応のテンポには不安を感じざるを得ません。

2020年02月28日 (金) | Edit |
昨日、マンガ雑誌『モーニング』に掲載された「手塚治虫AI」を用いて制作されたという短編マンガ「ぱいどん」(前編)を読んだ。試みとしては、なかなかの出来栄えだった。

たしかに「今の時代に手塚治虫が生きていて、マンガを描いたらこんな感じかも」と思えるような。ただわずかに手触りや雰囲気はちがうとは思うが、それでも相当近いものになっているかと。

なお、私は少年時代は手塚マンガが好きで、かなり読んだ。「手塚治虫全集」全300巻プラスアルファにある作品の、半分くらいは読んでいると思う(つまり、手塚治虫についてはそれなりには知っているつもりだと言いたい)。

ただし、今回AIが担当したのは、マンガ制作のほんの一部だ。「プロット(物語のネタ・構成要素)のキーワード生成」と「キャラクターデザインの原案の生成」に限られている。その制作過程は、マンガ本編に付属する記事でくわしく紹介されていた。

つまり、つぎのような過程である。

まず、手塚作品(おもに1970年代のもの、「ブラック・ジャック」などが描かれた頃)のストーリーやキャラクターの顔を選択・整理してデータ入力する。つぎに、それをもとにAIが「物語を構成するキーワード」や「キャラの顔のデザイン画像」をアウトプットする。AIが動くためのデータの作成には、技術者のほかに手塚治虫の子息で映画監督の手塚真さんや、手塚プロダクションの人びとがたずさわった。

そして、AIが出力したものをクリエイターたちが取捨選択して描き直したり、物語として構成していったりする。ここでも手塚真さんが重要な役割を果たしたようだ。

さらにそうやってつくった設定や物語をもとに、脚本家がシナリオを書き、マンガ家がそのシナリオに基づく「ネーム」というマンガのコマ割や構図などの素案(絵コンテみたいなもの)をつくり、その「ネーム」に沿って、手塚プロダクション関係のマンガ家などからなる作画チームが絵を描いて…という流れだ。

要するに、ほとんど人間がつくっているのである。エンジニアのほか、手塚作品をよく理解するクリエイターたち大勢によってつくりあげた作品ということだ(このマンガの作者名は、「TEZUKA2020プロジェクト」となっている。手塚治虫AIではない)。雑誌側も「まだまだ『AIが描いた漫画』と呼べるものではありません」と断っている。

結局このマンガ制作でAIが行ったのは、「クリエイターの発想やイメージのきっかけとなる素材のアウトプット」ということだ。それに限定される。

しかし、「人間が考えるための素材やきっかけの提供」というのは、AIの典型的な使い方ではないだろうか。少なくとも当面可能なAIとはそういうものではないか。

でも、そんなふうに「何かを生み出すためのネタ出し」的なことを、ある程度コンピュータが担えるなんて、たいした技術の進歩だと思う。人間の能力を拡張・強化する「道具」としてのコンピュータが、さらに進化しているということだ。

そして、人間がコンピュータと一緒に働きはじめて何十年か経つけど、「コンピュータと働くこと」がさらに進化しつつあるということなのだろう。「アイデアの素材をコンピュータに訊く」ということ、つまり「コンピュータとネタを考える」ことが、これから一般的になるかもしれない。

その先駆は、おそらくコンピュータを使ったチェス競技だ。チェスのAIとチェス棋士がチームを組むと(正確にはチェス棋士がAIの支援を受けてチェスを指すと)、まさに「最強」になるのだそうだ。その場合、AIが提示する手を参考に人間がチェスを指していくのである(経済学者タイラー・コーエンの本で知った)。

つまり、AIという進化したコンピュータとうまく仕事ができれば、人間の能力や可能性はさらに大きなものになる。

そんなことを、今回の「手塚治虫AI」を使ったマンガであらためて感じました。

それにしても、最近は「AI美空ひばり」と称するCG画像と合成の歌声(やや気味が悪かった)もあったし、「AI○○」というのはいろいろつくられて一般化していくのだろうなあ。「AIビートルズ」「AIプレスリー」「AIピカソ」みたいなのが、本家の公認・非公認問わずたくさん出てくるのだろう。

それらにはかなり良いのものもあるだろうが、大部分はつまらないものになるはずだ。玉石混交の、過去の巨匠の幽霊みたいなコンテンツが世の中にあふれるということ。それはなんだか気持ち悪い。

(以上)
2019年11月11日 (月) | Edit |
今から30年ほど前、私そういちが若者だった1980年代後半から1990年頃、活字文化はまだそれなりに元気だった。

当時の私(大学生から新入社員の頃)は読書好きの1人として、社会・人文系の古典を読むことに大きな意義を感じていた。神保町の古書店街にもときどき足を運んだ。給料をもらうようになって、学生時代から欲しかった岩波のヘーゲル全集やアリストテレス全集を何万円かで買ったりもした。こういう古典は、活字文化のなかで高い位置を占めていた。

1990年代前半の頃、インターネットはまだ一部の科学者やマニアのもので、家庭でのパソコンの普及も限られていた。私はワープロ専用機で書いた文章を印刷し、仲間との集まりで配ったりしていた。

1990年代の終わりに、私は初めてパソコンを買ってインターネットも始めた。パソコンやインターネットの急速な普及は1990年代半ばからだというから、その動きに対し、やや後ろのほうからついていく感じである。

そして、Eメールの機能を使ってグループをつくり交流する「メーリングリスト」の集まりに参加するようにもなった。私が参加したのは、科学教育、科学史・科学論に関心を持つ、数十人のアマチュアの集まりだった。なお、当時は今のようなSNSのプラットフォームはまだない。

会社勤めから帰ると夢中になって、メーリングリストにさまざまな書き込みをした。今書いているもののベースになるような歴史や社会に関する議論も、全国のメーリングリストの仲間と行った。これは本当に楽しかった。また、その仲間とはときどき「研究会」というかたちで、顔を合わせた。

2000年代(ゼロ年代)半ばには、ブログというものがあることを知って、自分も始めてみた。そのときのブログは数か月でやめてしまい、その数年後(2013年)に今のこのブログを始めた。メーリングリストのほうは、最初にブログを始めたあたりから私の中では停滞ぎみになり、やがてやめてしまった。2000年代後半は、SNSの時代の始まりである。

さて、今はどうか? 今どきヘーゲルみたいな古典を読むのはその方面の研究者か、そうでなくてもかなり特殊な人だけに限られるようだ。知的な素養としてそうした古典をぜひ読んでおこう、という価値観はすたれてしまった。そのような価値観は私が若い頃にもかなり下火にはなっていたが、今はもう本当に「終わった」という感じだ。

また、最近の私は古書店に行くことが減って、古本はおもにアマゾンで買っている。書いた文章を最初に発表するのは、たいていは自分のブログである。

2016年には私のブログをみた出版社の方から声がかかり、世界史に関する本を出す、などということもあった(拙著『一気にわかる世界史』日本実業出版社)。そんなかたちで本の著者になることなど、若い頃にはもちろん想像できなかった。遅ればせながら、最近になってツイッターも始めた。

知識・情報のやり取りに関する環境は、この30年で激変したのである。私が若い頃の「旧世界」はパソコンやインターネットの普及などで消滅し、新しい今の世界が出現した。

今50代半ばの私は、ちょうどその新旧2つの「世界」をある程度深く体験できた世代だと思う。それぞれの体験が中途半端かもしれないが、両方の世界を知ることができたのは良かったと思っている。

(以上)
2019年10月25日 (金) | Edit |
ギャラップ社の調査(2017年)によると、アメリカでは「神が人類を創造した」という創造論を信じる人の割合は38%である。進化ということを認めながらも「人類の進化には神の導きがある」とする人も38%。

そして、「神の導きなしに人類は進化した」という進化論を支持する人は20%である。

この数字は、三井誠『ルポ 人は科学が苦手』(光文社新書、2019年)で知った。アメリカでの「科学不信」の実態や背景について掘り下げた本だ。

アメリカでは、進化論者は2割しかいないのだ。「進化に神が関与」という人も含めれば5~6割。

そして4割弱の人は創造論者である。おそらくその大部分は聖書にある創造論、つまり6000年ほど前にさまざまな生物を含むこの世界が神によって創造されたという話を信じているのだ。アメリカでは授業で進化論とともに創造論を教える学校も少なくないという。

日本ではどうなのか? ネットで検索してみると、2006年の海外の研究者による調査で、進化論の支持率は8割ほどという数字があった。調査の信頼性がどの程度かはわからないし、上記のアメリカのデータとの比較がむずかしい面もある。だが、数字として「まあそんなところかな」という感じはする。

日本とアメリカの違いはどこから来るのか? アメリカではキリスト教がきわめて有力であること、個人の主義主張を大事にする精神や、権威や知識人への反発心が強いことなどが考えられる。

アメリカにおけるさまざまなカルト的な思想・運動について述べた、カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史(上・下)』(東洋経済新報社、2019)も、だいたいその立場だ。ただし同書では、もっと強く「狂気や幻想も含め何でもあり」というのがアメリカなのだと論じている。

上記の本で三井さんは、進化論のような「科学」を人が受け入れるのは、そんなに簡単ではないと述べている。人類の歴史の大部分は石器時代で、人間の脳や心は石器時代に基礎ができた。一方科学はつい最近に生まれた。だから本来石器時代的な人間の脳にとって、受け入れがたい面がある、というのだ。

「人が科学を受け入れるのは容易ではない」という点は、私もまさにそのとおりだと思う。しかし「現代人には石器時代の心が宿っている」とまでは言わなくもいいのではないか。そんなことをどうやって科学的に証明するのか。

それよりも「科学の理屈や説明には、日常的・常識的な感覚におおいに反するところがある」と言うべきだと思う。

「大地は平らではなく巨大な球体である」「太陽が地球のまわりをまわっているのではなく、地球は自転しながら太陽の周りをまわっている」「この世界や物体は真空と微細な粒子(原子)から成り立っている」「この世界の生命はすべて、単細胞の微生物が40億年ほどかけて進化・分化した結果生まれた」

たしかにこういう見解は、日常的な常識とは本来はかけ離れたものだ。大地は平らだと思うのが、普通の感覚だ。

だから「この説は科学という、権威のある真理なのですよ」と知識を押しつけたときに、それに反発する人や落ちこぼれてしまう人がいるのは当然なのだ。その困難を乗りこえるそれなりの教育的な方法というものは、やはり必要だ。「人は科学が苦手」という前提は大事なことだと思う。

しかし、科学の普及についての楽観的な見通しも、描けないわけではない。最初に述べたギャラップ社の調査をみると、1999年には「神の導きなしで人類は進化した」とする進化論者の割合は10%ほどだった。2017年にはそれが20%になった。

進化論者は、アメリカではまだ少数ではあるが、勢力を伸ばしつつあるようだ。最近は「科学不信が広まっている」ということがよく語られるが、そればかりではないように思う。

(以上)
2019年10月24日 (木) | Edit |
「リベラル」「保守」という言葉があるが、どういうものか、あなたは説明できるだろうか?

両者は政治的な立場の代表的なものだ。現代の先進国における2大勢力といっていい。

まずリベラル。リベラルは、個人の自由を重視する立場である。

たとえば中絶、同性愛に対しては寛容。「みんながしたいことをすればいい」という考えからだ。また、移民にも寛容である。人間には好きな場所で暮らす自由がある。ならば、国外の人びとが自分たちの国に移り住むことも自由である。

また、リベラルの考えでは、自由を広く実現するため政府は積極的に社会に介入すべきだとされる。その一環としてさまざまな福祉の充実も重要である。だから「大きな政府」志向。一方、軍備の増強には消極的で、話し合いによる国際協調を重視する。

アメリカの民主党は、おおむね以上の立場だ。

一方、保守はこうした「自由万歳」に批判的な立場である。中絶や同性愛は人の道に反する。伝統的な家族を大切に。移民は国の経済・文化に大きな悪影響がある。過度の福祉は国家を破たんさせる(「小さな政府」志向)。強い軍事力で国益を守ろう。

アメリカの共和党は、おおむねこちら。

ただし以上の2つに収まらない主張もある。たとえば個人の自由を何よりも重視する一方、極限まで「小さな政府」志向する「リバタリアン」(リバタリアニズム)という立場がある。これは少数派だが、今のアメリカで一定の勢力ではある。

リバタリアンの立場では、政府というのは個人の自由を妨げる存在なのだ。政府による福祉など要らない。大きな軍隊も要らない。

***

リベラルの考え方は、それまでの古い社会から近代社会が生まれ発展するなかで出てきた、この200~300年の産物である。

その根底には、古い社会の暗黒な部分を是正して理想的な社会を実現しようとする発想がある。近代以前の身分社会には、あまりにも自由がなかったので、もっと自由を。封建領主の政府は民から搾取するばかりで、何もしてくれなかった。だからもっと福祉を。長い歴史を通じて、国際社会はいつもむき出しの弱肉強食だった。だからもっと国際協調を。

保守の考え方は、そんなリベラルの理想に「待った」をかけるものだ。

人間や社会というのは、そんなに急速には変わらないし、アタマで考えた「理想」どおりにはいかないものだ。長い伝統のなかで培われてきたものをもっと大事しないと、足もとをすくわれる。

現に行きすぎた自由の追求によって、社会にはいろんな混乱が生じているではないか。また、大きな政府がますます肥大化することで、国家財政は破たんの危機にあるのではないか。安易な国際協調路線が、邪悪な敵国やテロリストをのさばらせているのではないか。

一方、「自由な社会」という理想を掲げながらも、「大きな政府」や軍拡路線を強く批判するのがリバタリアンということだ。

以上、ごくおおざっぱな見取り図です。日本人は欧米人にくらべると、こういう系統だった主義主張の世界が苦手だ。でも少しは知っておくと、政治のニュースを理解するうえで役立つのでは。

とくにこれからの政治の動きでは、たとえばリバタリアンのような、従来の主流派の枠に収まらない運動が力を持つ可能性が高いと思う。トランプ政権にしても、ここで述べた保守≒共和党の従来のあり方からは逸脱したところが多々ある。たとえば従来の保守にあったはずの手堅さよりも、自分の「理想」にあわせて都合よく現実を解釈する危うい傾向が目立つ。そういう「枠組みの崩壊」を理解するには、「従来の枠組み」についての常識が必要だ。

(以上)
2019年10月23日 (水) | Edit |
デヴィッド・グレーバーという文化人類学者がうち出した「どうでもいい仕事」という概念がある。bullshit jobsという英語の訳だが、「要らない仕事」と言ってもいいかもしれない。

彼によれば、今のホワイトカラーの仕事の多くが「どうでもいい仕事」である。たとえば管理職、人事・広報・コンプライアンス(法令順守)の部署、コンサルタント、金融関係のプロたち……これらの多くはそれにあたる。

そして、こうした仕事に就く人たちは本音では「自分は人の役に立っていない」と感じている。それを示すアンケート結果もある。にもかかわらず、高給をもらっていたりする。

現代社会では「どうでもいい仕事」は増えているのだという。グレーバーは、美術の世界はひとつの典型だという。昔はアーティストと画廊のオーナーがいただけだったが、今はキュレーターなどのやいろんな専門家が美術作品の取引に関わっている。

たしかにそうだ。昔はコンプライアンス部なんて会社にはなかった。人事や広報のスタッフはもっと少なかった。こんなにさまざまな分野のコンサルタントはいなかった。

今の社会は「どうでもいい仕事」「要らない仕事」が蔓延しているのだ。

そして、自分の仕事をむなしいと感じる高給取りが多くいる一方、社会に必要な、ニーズの高い仕事をする人たちが不遇な目にあったりしているのではないか。

グレーバーも言うように、生産現場などのブルーカラーの仕事は、この何十年かで効率化がすすんで「どうでもいい仕事」はあまり存在しなくなった。しかしその現場では多くの非正規社員が働いている。

医療や介護の現場は、いつも人手不足。本来なら「どうでもいい仕事」が存在する余地はないはずだが、いろんな記録や打ち合わせなどの業務負担が大きく、本来の業務にしわ寄せが生じることもあるという。記録も打ち合わせもたしかに必要な仕事だが、やりすぎると「どうでもいい仕事」の側面が生じてしまう。

なんだかまずい状況だ。

なお、グレーバーの「どうでもいい仕事」に関する著書は、まだ日本語版が出ていない。私は、大野和基によるインタビュー集『未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来』PHP新書(グレーバーへのインタビューが収録されている)で、この概念について知った。

(以上)
2019年10月22日 (火) | Edit |
今日の即位に関する儀式のなかで、天皇は憲法と皇室典範特例法に基づいてご自身が即位したことをまず述べられた。

平安時代の装束を着た人が「憲法」や「特例法」といった近代的な枠組みのなかで存在している。何ともいえない、不思議や驚きのようなものを感じた。

1000年ほど前の平安時代に主な部分が形成された伝統が、博物館のなかではなくて、今現在の国家の生きたイベントとして姿をあらわしているのだ。

しかし、今の世界のさまざまな国家・社会というのは、みなそうなのだとも思う。つまり、近代的な原理で日常は動いているけれども、古い層の部分を掘り起こすと、近代とは遠く隔たった古い要素が存在している。

たとえば近代に建国されたアメリカ合衆国でさえそうだ。大統領の就任式では、「神よご照覧あれ」という決まり文句が出てくる。神とはキリスト教の神だ。教義の中身はいろいろ変遷をたどったとしても、古代ローマ帝国の時代以来、2000年の歴史を持つ信仰における神。近代的な人工国家アメリカの古い層にも、古代以来の神が存在しているのだ。

長い歴史の積み重なりのうえに、私たちはいる。

とにかくこれは日本だけのことではない。今日の儀式を報道でみた世界の人たちのなかにも、自分たちの古い伝統について思った人がいたはずだ。

ただ日本の儀式は、とくに純度も完成度も高いかたちで「古い伝統」ということを示している。その意味で、世界のなかでやはり特別なものではあると思う。

(以上)
2019年10月15日 (火) | Edit |
台風19号の被害について、テレビのニュースでいろいろと報じている。ずっとみていると悲しくつらいので、チャネンルを変えることもある。

これからの日本では、台風やその他の自然災害は、さらに増えていくのだろう。そこには温暖化などの世界的な気候変動がかかわっているという。年に何度か「スーパー台風」が日本を襲うようになるとしたら、「災害の時代」がやってくるということだ。

「災害の時代」への対処として、政府は防災のためのさまざまな建設や投資を行う必要がある。しかし、これからの日本に、そのための財政的な余力があるのだろうか?

テレビでは、ある専門家が水害防止について「すべての河川に十分なハードを備えることは無理だ。だから、組織運営や人びとの行動、つまりソフトで対応するしかない」と言っていた。

たしかにそうかもしれない。しかしその「ソフト」の肝は「しかるべきときに避難する」ことだという。ということは、避難が終わって家に戻ったとき、家が泥に埋まっているのもやむを得ないということなのだろう。

うーん、それじゃあ困るなあ……命は助かるとしても自宅の浸水は防げないんじゃ、安心して暮らせないなあ……

いつ災害にあうかわからないような場所には、やはりできれば住みたくない。これからの日本では、災害に強い安全なエリアの地価や家賃は相対的に上がっていくのではないか。一方で、災害リスクの高いエリアの地価は下がっていく。なおこれは、おもに都市部でのことを言っている。

もちろん、災害への安全度が地価に影響することは従来からあるのだが、今後は一層拍車がかかっていくということだ。水害や地震の被害に関する「ハザードマップ」が地価に与える影響は、今後ますます強くなる(ということは、ハザードマップが経済的利権に深くかかわるようになるということで、ややこしい問題を生むかもしれないが、ここでは立ち入らない)。

その行きつく先は、都市のなかで安全なエリアは富裕層ばかりが住み、危険なエリアは庶民・低所得者が住む、という「分断」だ。

そして、危険なエリアに住む庶民は、それに適応したライフスタイルを選択するのかもしれない。それは「限られたモノで暮らす身軽な生活」である。

江戸時代の長屋に住む人びとは、家具や食器などの家財道具への関心が薄かったという。だからたいていの人は「ミニマリスト」のような暮らしをしていた。それは貧しかったからというだけでなく、江戸では頻繁に大きな火災があったからだともいわれる。いつ火事で燃えてしまうかわからないから、モノをためこんでも意味がないという価値観が定着したということだ。

そのような説明がほんとうに正しいかどうかは、立証が難しいところもある。だがともかく、「少ないモノで暮らす」のは、災害が頻発する状況では合理的な選択だろう。

極論だが、住んでいるところが賃貸で、スーツケースひとつに家財道具がすべておさまってしまうくらいだったら、それを持って避難すればかなり安心だ。もしも家が浸水や倒壊ということになっても、ダメージは少ない。

未来の日本では、防災上安全なエリアには金持ちが、危険なエリアには貧しい人ばかりが住むようになり、危険エリアでは、江戸の長屋暮らしのような「ミニマリスト」の生活がスタンダードになっている……

日本がそのような「分断」社会になるのはイヤだが、十分あり得ることではないだろうか。

(以上)

別ブログ「そういち総研」の新しい記事も、アップしました。
日本と世界の文化で創造の活力が低下している?

今年みたいくつかの展示・作品……工事中の新国立競技場、高畑勲展、建築家のアアルトやル・コルビュジエ、現代芸術のトム・サックス展などをみて考えたことをまとめています。当ブログの過去の記事も使い、そこにいろいろ加えたもの。
2019年09月01日 (日) | Edit |
大規模な抗議デモが続く、最近の香港。香港人の犯罪の容疑者を中国本土に引き渡すことを可能とする、条例の改正(「逃亡犯条例」改正)への反対から、このような抗議活動が起こった。

香港の人たちが「逃亡犯条例」改正に反対するのは、香港の法治がそれで失われるのを恐れるからだ。このことについて、抗議活動の中心の1人である周庭(アグネス・チョウ)さんが、今年6月の明治大学での講演で、わかりやすく説明している。(ハフポスト日本版2019年6月12日「香港が想像できない場所になる」 “民主の女神“が訴えた、逃亡犯条例の危険性)

「逃亡犯条例」改正によって香港はどうなるか。周庭さんは、こう述べる。

“自由や権利の保障、司法の独立が全部無くなります。私たちの身の安全すら保障されない場合があります。なぜ香港は外国からの観光客が多く、外国の企業も多いのでしょうか。香港には国際金融都市という地位があるからです”

“なぜその地位があるかというと、1国2制度という制度があって、私たちは法治社会であり、司法の独立や公平な裁判が行われる場所なので、外国の人も安心して商売ができる場所なんです。でも、この特別な地位は無くなるかもしれません”。

“今デモに参加している香港人は、可決されたら香港はもう香港じゃないというか、私たちが想像できない場所になるかもしれないという考えを持っています”

周庭さんは8月30日の朝、香港警察に逮捕され、夜には釈放されたそうだ。テレビのニュースをみていると、彼女は釈放後のインタビューで「今闘わないと香港は死ぬ」「逮捕は怖くない、当局に殺されることが怖い」ということを語っていた。

そこには危機感というより悲壮感が漂っている。市民運動といわれるものでは「今は深刻な危機だ、立ちあがろう!」ということが叫ばれるものだが、深刻さをおおげさに言っているんじゃないかと思えるケースもないわけではない。しかし今回の香港は、ほんとうに深刻なのだ。今までの、法治に支えられた自由が社会から失われようとしている。香港が香港でなくなろうとしている……

今の香港の状況は、ときどきひきあいに出される、1989年に中国本土でおこった天安門事件(民主化を求める若者らの運動に対し中国当局が武力を用いて、多くの死傷者が出た)のときとは大きくちがう。天安門事件のときは、自由や民主主義が成立していない発展途上国での民主化要求だった。しかし香港では、イギリス統治時代から形成され、すでに社会に根付いた法治や自由が失われようとしているのである。ただし、基本の構図がちがうといっても、香港でも天安門事件のような中国政府の武力介入は、十分起こり得るだろう。

私たちが「自由を求める抗議活動」で思い浮かべるのは、ふつうは天安門事件のときのような「発展途上国型」のものだろう。これに対し、今回の香港のように、すでに自由が根付いていた社会で、それが失われる危機に直面して抗議が起こるというパターンは、「先進国型」といってもいい。

「先進国型」の政治的な抗議活動がこんなにも深刻なかたちで行われるというのは、じつは私たちにはなじみのないことだ。

欧米や日本で一般に行われる政治的な抗議活動には、今回の香港ほどの深刻さはない。「我が国は民主主義からは程遠い独裁国家だ!」と批判する人も、じつは自由の根本が自国から失われることはないとタカをくくっているところがあると思う。しかし香港の人たちは、法治を否定した正真正銘の独裁国家である、今の中国にすべてを支配されるという恐怖に直面しているのだ。

今までの世界では、人びとが独裁的な国家から自由を勝ち取ろうとする戦いが繰り返されてきた。それはこれからも続くだろう。しかしその一方で「これまでの自由が失われることへの抵抗」が、世界のあちこちで起こるかもしれない。要するに先進地域での「自由の後退」ということだ。

もしそうだとすれば、香港はそのような世界的な「自由の後退」現象の先駆けとなるのだろう。その意味で、今の香港で起こっていることは、世界史の最先端なのではないか。

今の世界では、中国のような自由に制限のある独裁国家が、巨大な経済力で世界に影響を与えるようになった。そして、中国との経済的な関係に配慮してか、日本や欧米諸国の政府が香港の抗議活動を援護するという動きはあまりみられない。

20、30年前の世界では、大きな経済力を持つのは自由や民主主義が発達した、欧米や日本などの先進国だけだった。もしもその当時、今の香港のようなことがあったら、圧倒的なパワーを持つ先進国側が中国をけん制することも期待できただろう。しかし今ではそういう構図はかなり崩れてしまった。自由や民主主義を原則とする国家の相対的なパワーは衰えている。それが世界的な「自由の後退」のベースとなり得る。

そしてほんとうの「自由の後退」ということに、まだ私たちは慣れていない。そのせいか、香港についてのマスコミの報道も「この混乱はまだ当分続きそうです」みたいなしめくくりで、ずいぶん能天気だったりする。周庭さんたち香港市民の悲壮感をわかっていない。あの人たちは「混乱」などではなく「自分たちの世界の崩壊」に直面しているのだろう。

(以上)
2019年09月01日 (日) | Edit |
別ブログで「そういち総研」というのを、昨年開設しました。こちらの「団地の書斎から」よりも長文の論考的なものを載せています。

以前は当ブログに1万文字を超えるような記事も載せていたのですが、それは「そういち総研」のほうで、ということにしました。「そういち総研」は今のところ世界史関連ばかりですが、そのうちほかのテーマの記事も載せるかもしれません。

その「そういち総研」に、昨日新しい記事をアップしました。ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史(上・下)』(河出書房新社、2016年)という世界史関連のベストセラーについて批判的に取り上げたもの。

この本はおおいに売れました。この本の「文明によって人類は幸せになったのか?」という問いかけや「農業は詐欺だ」といった文明批判の主張に驚き、感銘を受けた人がおおぜいいたようです。

しかし、こういう文明批判は、1700年代の思想家ルソーも述べている古典的なもので、そんなに驚くようなものではありません。ルソーの『人間不平等起源論』には「人類を堕落させたのは鉄と小麦」という、文明の根本を批判した、思想史では有名なフレーズがあります。

しかし、農業という文明の根本を否定する「反常識」の主張は、文明の問題について真剣に考えたいという現代人の多くの人たちに訴えるものがあった。たぶん、そこに「学校で教わった月並みな常識を超える真理がある」と感じたのでしょう。

でも、私のような「文明の問題は、文明で解決するしかない」と考える人間からみると、「農業は詐欺だ」的な主張こそ月並みなものに思えてなりません。また、文明がもたらした成果についての過小評価や歴史上の事実についての無理な解釈も『サピエンス全史』のなかに感じます。

以上について、数千文字でやや詳しく書いています。以下の記事、お読みいただければ幸いです。

ルソー的文明批判の現代版←こちらをクリック

そういち総研トップページ

(以上)
2019年08月17日 (土) | Edit |
テレビ(民放)で外国人の受け入れの問題について、若手の識者が議論しているのをみた。だいたい20~30代の、たとえばミュージシャン、NPOのリーダー、弁護士、コンサルタントで、社会に向けてさまざまな発信をしている男女。話ぶりが魅力的な人が多く、つい聞き入ってしまった。

論者の意見は当然、外国人の受け入れ反対派と賛成派に分かれる。反対派は「日本の文化が壊れる」「少なくとも中長期的には民族間の激しいあつれきが起こる(テロだって起きる)」という。「ヨーロッパでは移民の受け入れは失敗だったというのが一般的な認識だ」とも。

賛成派の人たちは「日本の社会にはもっと多様性が必要」「これからの世代にはさまざまな文化を受け入れる素地が育っているので、対立が深刻化することは避けられる」ということを言っていた。

これに対し反対派からは、社会の現状をふまえ「そのような多様性を受け入れることがほんとうにできるか?無理なのでは」という突っ込みがあった。

発言者の表現に忠実ではないが、主旨としてはそんなところだ。

これを聞いていて私は「この人たちは本当に“文化人”だなあ」と思った。少しおどろいたところもある。文化人というのは、ここでは文化というものを、じつに大事しているということだ。「文化」が今回の議論のキーワードだった。受け入れ反対派は「文化が壊れる」といい、賛成派は「多様な文化が大事だ」といっている。

でも、外国人受け入れの問題は、文化はもちろん大事だけど、それだけのことでもないはずだ。

今年4月の法改正(改正出入国管理法)だってそうだ。あれば在留資格として「特定技能」なるものを新たにつくって、それに該当する外国人を働き手として迎え入れようというものだ。

「特定技能」の対象分野は、介護、ある種の製造業、建設業、宿泊業、飲食業、農業、漁業、ビル清掃など。これらの業界の現場で身体を使って頑張る仕事。どの分野も人手不足が深刻な状態。このままだと社会のニーズにこたえきれなくなる、従来の生活を社会全体として維持できなくなる……そこで、海外からの働き手を受け入れようと考えた。

つまり、労働や産業の問題に対応するため、外国人受け入れの枠を増やしたのである。

ではなぜ人手不足なのか。日本人で「特定技能」的な仕事に就きたい人が大きく減ったからだ。

今の日本人の多くはエアコンのきいたオフィスでのデスクワーク、さらには知的・文化的な要素のある仕事を志望するようになった。

このような「文化人」的傾向は若い世代ほどはっきりしている。私は若い人の就職・採用に関係する仕事をしているので、現場感覚としてここはよくわかるつもりだ。ただし、「特定技能」的な仕事の非正規化など、処遇の悪化ということもある。

文化人は多くの場合、「特定技能」的な仕事は好きではない。少なくともそれを本格的な職業とすることはイヤがる。そのような現場仕事は、ほかの誰かにやってもらい、自分はもっと知的・文化的な何かに関わりたい。そこまでの志向がなくても、とにかくオフィスでの事務的な仕事がいい。そのような日本人が増えた。ひと昔くらい前よりも、さらに増えたのだ。

これは、日本が豊かになり成熟した結果であり、必然的なことだ。少なくともある程度は、そうならざるを得ない。

それを、昭和的なオジさんの感覚で「けしからん」「なげかわしい」などというつもりはない。豊かになったんだから、これはあたりまえだ。オレだってそういう文化人志向の気持ちがわかるよ、といいたい(こんなブログをやっている、文化人・知識人志向のオジさんですから)。

昭和的オジさんたちだって、自分の子どもには「特定技能」的な仕事よりも、オフィスで働く仕事に就いてほしいという人が多いはずだ。そもそも、誰にも仕事を選ぶ自由がある。これは何より尊重されなくてはならない。

テレビに出ていた、もっぱら「文化」の問題として外国人受け入れのことを語る若い識者たち。この人たちは、みんなが「文化人」になった、新しい日本人の典型なんだと思う。

労働や産業の現場のこと、そして産業が支える日々の生活の問題は、どこに行っちゃったんだろう。討論が限られた時間だったとはいえ、このあたりへの言及は皆無だった。

外国人の受け入れに反対というのなら、「特定技能」的な領域での人手不足をどうするのかについても、触れるべきだろう。

くわしい処方箋はむずかしいとしても、一般的な方向性は示せるはずだ。たとえば、それらの業界での働き手の処遇改善といったことは、常識的に考えられる。

でも、いわゆる処遇改善だけでは、効果は薄いのではないか。つまりそれだけでは「文化人」の若い人たちは集まってこない。そこに「文化」を感じさせる何かを加えないといけないのだ。うーん、可能かもしれないがむずかしそうだ……

あるいは、もっと根本的に社会や生活のあり方を変えていくという選択肢もあるかもしれない。

建設業で人手が足りないなら、新しい立派な建物なんていらないじゃないか、みたいな(ただし、水道のような基本的なインフラの整備やメンテナンスの人手は何とか確保する)。外食産業だって今ほどはいらない、ビルの中もそんなにキレイでなくても大丈夫、とか。

介護はどうしよう……家庭でも施設でもない、別の何らかの人の結びつきで対処するのか……でも、それってどんなものなのだろうか? いずれにしても、簡単ではない。

「外国人が大勢来ると我が国の文化が壊れる」というのは、「あいつらはオレたちとちがうから、とにかく嫌いだ」と言っているだけにも思える。ただし「嫌いだ」という感情は根源的で手ごわいものなので、侮れない。でもそれだけでは、知識人の発言としてはもの足りないのではないか。

もの足りないといえば、「多様性は大事だから、外国人を受け入れよう」というのも、「とにかく、みんな仲良くしましょう」とだけ言っている感じだ。たしかにそれは大事だとは思うが、それだけでは知識人としてはやはりさみしい。とにかく、それだけではいけないように思う。

(以上)
2019年07月30日 (火) | Edit |
参議院選挙での各政党の主張をみていて残念に思ったのは、やはりというべきか、暮らしに関わる経済・社会についての長期的な視点からの議論の弱さだ。

たとえば、年金などの社会保障、介護、女性の活躍、子育て、非正規労働者、高齢者の就労、外国人労働者、障害者、性的マイノリティーの人たち……こうしたテーマについては、安倍総理のような自民党の「保守派」の人たちは得意ではないだろう。おそらくそもそも関心を持ってこなかった。

自民党の保守派にとって関心があって比較的得意なのは、外交、国家の安全保障、政府や役所の組織・運営、金融政策などの、政治学の用語でいう「統治」の分野だ。選挙翌日の安倍総理のスピーチでも、憲法改正のような「統治」についての話に重きが置かれていた。

なお、「統治」と対になる、暮らしに関わる経済・社会の領域については「行政」という言い方がある。野党が自分たちの持ち味を発揮できるとしたら、この「行政」分野のはずだ。

今の政権の中心にいる人たちは、明らかに昭和的な価値観を大事にしているオジさんたちだ。つまり正社員のお父さんが働いてお母さんは専業主婦で、お年寄りは少数で大事にされ、親や先生は権威があって……というのがあるべき姿で、それに当てはまらないことは「あってはならない」とする感覚。

そのような「モデル」は、もちろん今の時代では非現実的だ。オジさんたちも多少はそのことはわかっているが、どうしても感覚がついていかない。

野党はそのような政権の弱いところへうまく斬りこむべきなのに、成功していない。

暮らし・経済関連であっても、目前の消費税率アップの是非のような短期的な議論になったり、長期的な話として「2000万円」問題に絡んで年金について主張したりはしたが、不発ぎみだった。年金に関しては、勉強不足で説得力や迫力のある話ができなかった。支給を手厚くしましょう、といいながらも財源を説明できないみたいなことが目についた。

これからの政治では、暮らしに身近な「行政」分野の長期的課題について魅力的な・説得力のある構想を打ち出せる政党が、きっと多くの支持を集めるだろう。その分野は、今現在ほぼすべての政党にとってこれといった考えが出せない空白地帯になっている。野党やこれから国政に参入しようとしている人たちには、そこにチャンスがある。

しかし、既存の野党はそれだけの構想力を持ち得るだろうか? なんだか難しい気もする。むしろ、自民党の次の世代のほうが「空白地帯」に積極的に参入してくるかもしれない。

あるいは、まったくの新興勢力が「行政」分野の「空白地帯」に関するさまざまな構想をかかげて急速に台頭することもあるかもしれない。元俳優が党首の新しい政党があったが、今回の選挙でのあの党首の演説を聞いていると、その可能性を感じる。

あの党の主張の多くに私は賛同できない。しかし、「消費税を廃止しよう」「奨学金の借金をチャラにしよう」「安く住める住宅を」といった主張は、ここでいう「空白地帯」への国民のニーズを察知したうえでのものだ。

今後、暮らしに関わる「行政」分野の長期的課題についての議論は、さらにさかんになっていくだろう。ならなかったら、もうどうしようもない。

では、議論が深まっていったとして、私たちはどういう方向性を支持するだろうか? あり得るのは3つ。1.いろいろ欠陥や不満足な点はあるが現実的で建設的な方向 2.結局何も決められない 3.徹底したバラマキ政策(財政がどうなろうとも) 

こうやって選択肢を並べると、「2.何も決められない」か「3.徹底したバラマキ」になる可能性が有力な気がして、心配になる。とくに、今後急速に新しい政治的勢力が台頭するとしたら、「3.徹底したバラマキ」路線の人たちなのだと思うが、どうだろうか?

(以上)
2019年05月18日 (土) | Edit |
ゴールデンウィークは、あまり遠くへは行かず、出かけるとしても都内だった。都内を散策するなかで、工事中の新国立競技場を観に行った。巨大だが、調和のとれた周囲にもなじむ感じ。たしかに完成したら素晴らしい、立派なものになりそうだ。

しかし一方で、「ものすごい」という感じはない。センスのいいデザインで、高度の技術が用いられているのはまちがいないだろう。だが、あれだけ大きな建物なのに、おどろきがない。大きなスタジアムはすでにあちこちにあるので、それに慣れてしまっているのかもしれない。また、そもそも人をおどろかせようという建物でもないのだろう。

でもこれだったら、もとのザハ案のほうがよかったかもしれないーーそんなふうにも思った。

「ザハ案」というのは、今建設中の隈研吾によるものの前に、一度決まっていた新国立競技場のプランである。イギリスを拠点にしていたイラク出身の女性建築家ザハ・ハディド(故人)によるもので、巨大な宇宙船のような、とんがったデザインだった。技術的にも挑戦的な要素が多々あったようで、プランをもとにくわしい見積もりをしてみると、当初の想定よりも大幅に予算オーバーすることが明らかになった。デザインについても違和感を感じる人が、かなりいたようだ。結局ザハ案は白紙となり、改めてコンペが行われ、現在の案が決まった。

ザハは現代の世界を代表する建築家の1人だった。「アンビルド(建設されない・計画倒れ)の女王」などというあだ名もあった。彼女が得意だった大じかけでびっくりするような建築は、予算や技術面で実現困難なところがあり、新国立競技場のように計画倒れで終わってしまうことが何度もあった。

じつは私も、もともとはザハ案に否定的だった。あんなUFOのオバケみたいなのは…みたいに思っていた。私が好きなのは、20世紀の「古典」とされるようなモダニズム建築だ。ザハや、そのほかの何人かに代表される、今どきの「びっくり建築」には違和感を感じていた。

でも先日、建設中の新国立競技場の前に立ってみて、これほどの大きさであの「UFOのオバケ」が実現していたら、それはそれですごいインパクトがあっただろうなと感じた。未来的なデザインは、たしかに周囲からは「浮く」かもしれない。でも、東京というのはもともとデザインの調和とは無縁の都市だ。未来的なものと古い下町っぽいものが混在していたりする。それが、外国人観光客を引き寄せる今の東京の「クール」なところなのだ。

ザハ案の新国立競技場が(ザハのイメージにきちんと沿って)実現していたら、「未来的な東京」を象徴するランドマークになったのではないか。もちろん予算の問題はあるので、やはりザハ案の実現は困難だったにちがいない。

今建設中の新国立競技場は、失敗作などではなく、立派な作品だ。しかし、同時代の多くの人たちの常識やイメージを大きく超えるようなものではない。「こんなへんなデザインは…」みたいな声は、そんなには聞かない。少なくともザハ案のようなことはない。

つまり、今の私たち日本人は、冒険はやめて、無難で「調和」を感じるほうを選んだということだ。

しかし高度成長期の日本では、注目される巨大プロジェクトで、当時の大衆の常識や感覚とはかけ離れた冒険的プランが実現することがあった。

たとえばオリンピックといえば、先の東京オリンピックにおける丹下健三の代々木体育館。あの造形や構造は、当時たいへん挑戦的なものだった。今もあの建物の前に立つと「すごいなー」と圧倒される。あるいは大阪万博での岡本太郎による太陽の塔。あんな前衛芸術的なへんてこなオブジェが高さ70メートルの巨大さで、国家的イベントの会場にそびえたっていたのである。

また、東海道新幹線(1964年開業)も、当時の常識とはかけ離れた構想だったといえる。当時は「あんなものは無用の長物だ」という反対意見も強かった。しかし、十河信二という当時の国鉄総裁が執念で計画を推進して、東海道新幹線は完成したのである。

岡本太郎は「ベラボー」なものをつくりたい、ということを言っていた。ものすごい、強烈なインパクト。そこにしっかりとした構想力も伴っている―ーたぶんそれがベラボーということだろう。太陽の塔はまさにそのベラボーだ。代々木体育館も、東海道新幹線も、少なくとも当時の感覚ではベラボーなものだった。ザハ案もベラボー系といえるだろう。

今度の新国立競技場はちがう。ベラボーを意識的に拒否しているところがある。

こういうことが気になるのは、平成末から令和にかけての現在、かつての勢いを失った日本の「衰退の予感」ということを、ますます感じるからだ。

今の私たちは、高度成長期の頃のように挑戦的な選択肢を選ぶことがなくなってきている。完成度が高く、技術的にも難しい課題をこなしてはいるのだが、ベラボーではないほうを選ぶようになった。ベラボーな案を主張しても、つぶされる。

新国立競技場は、そのような日本の「今」を、よくあらわしている建築なのだ。実現したプランとは別に、没になったザハ案があるので、とくにそうなるのである。平成から令和に変わるタイミングにふさわしい建築散歩となりました。

(以上)
2019年04月02日 (火) | Edit |
「大正時代」ではなく、「大正期」という言い方がある。大正という元号が使われた時期だけでなく、明治の末期―-おおむね日露戦争が終わってしばらく経って以降―ーも含めて、そのように言うことがある。「大正」らしい社会の要素が、すでに明治末にはあらわれていたからだ。

明治末には、維新以降の近代化がそれなりに軌道に乗って、「資本主義」「市民社会」といえるものが、姿をあらわしてきた。それがのちに「大正デモクラシー」などのかたちで開花する。明治末に、時代はすでに「大正期」に入っていた。

これは、あたりまえといえばあたりまえ。始皇帝やナポレオンのようなとてつもない君主でないかぎり、あるいは革命によるものでないかぎり、国のトップや「象徴」の代替わりということが、大きな時代の転換点になるなんてありえない。

明治という元号は、維新という革命によるものなので、「元号が変わるとともに、ひとつの時代が始まった」といえる。しかし、大正、昭和、平成はそうではない。令和もそうだ。

令和という元号が使われた時代も、ずっと先の未来では、平成の後半と合わせて「令和期」などと呼ばれるかもしれない。

つまり、平成の最後の10年余りで姿をあらわした日本社会のさまざまな傾向が、令和では一層明らかになる。そしてその傾向は、「令和」的なものとして未来の人びとの記憶に残る―ー私はそんなふうに予想する。その意味で、時代はすでに「令和期」に入っている。

では、令和的なものって、何だろうか。

とくに2つの要素・側面があると思う。ひとつは国家としての衰退・停滞の傾向だ。とくに、世界のなかでの相対的な国力やシェアの低下ということ。平成の前半(1990年代)には、日本が世界のGDPに占めるシェアは15%前後で、アメリカに次いで「単独2位」だった。それが、この何年かは数パーセントのシェアに落ち込んでいる。また、経済の生産性を示す1人あたりGDPでも、90年代末には世界トップクラスだったが、今は先進国では下位になってしまった。

しかし一方で、成熟によって輝いたり、深い何かが生まれたりといった側面も、この10年余りで明らかになってきた。昭和の後期(1970年代)に先進国への仲間入りをしてから、何十年も経ってやっとそうなった。これに関しては、たとえば「クールジャパン」的なものが海外で評価されたり、外国人観光客が急激に増えたりということがあるだろう。

令和の時代において私たちは、「衰退の悩み」と「成熟による輝き」の両方に向き合っていくのではないだろうか。そして、この2つの要素は、平成後半の日本のなかにすでにある。

しっかりと、うまくやらないといけない。まずい対応をすると、輝きを台無しにして、衰退のマイナス面ばかりになってしまう。

気を付けなくてはいけないのは、「傲慢」「頑な」ということではないかと思う。

つまり、今はある程度の「輝き」があるからといって、「自分たちはすばらしい」と思い過ぎないことだ。そうなってしまって、外国のすぐれたものに学ぶことができなくなったら、非常にまずい。他者(中国や欧米など)に真剣に学び、自分たちのものにしてきたからこそ、今の日本があるはずだ。

史上初めて日本の古典を典拠にした元号、令和。その背景には、成熟による自信や誇りがあるのだろう。

自信や誇りを持つことはたしかに大切である。しかし、その感情は取扱い注意だ。まちがった方向で育つと、他者に学ぶことを妨げる。近代以降のイスラムや中国は、それで苦境に陥った。「自分たちは世界の中心だ」と思い込みすぎて、台頭する西洋文明を過小評価した。そして、近代化で後れをとってしまった。

一方、自分たちを「周辺」の存在だと思っていた日本人は、それとはちがう方向へ行った。なお、日本人の「周辺」意識は、中国の古典をずっと長いあいだ元号の典拠にしてきたことにもあらわれている。

これから私たちは、自信や誇りを大切にしながら、同時に他者に学び続けることができるんだろうか?

(以上)
2018年06月10日 (日) | Edit |
今年2018年は生誕200年ということで、カール・マルクス(1818~1883)のことが取り上げられる機会が増えているようです。

『週刊東洋経済』(2018年6月2日号)に掲載されたカール・ビルトさん(元スウェーデン首相)のコラムによると、マルクスの生誕地であるドイツのトーリアでマルクス像が設置されたり、中国の祝賀式典で習近平主席がマルクスについて「抑圧や搾取のない理想社会への道筋を示した」と礼賛しているとか。

また、ドイツの祝賀行事では、欧州委員会のユンケル委員長がマルクスを擁護して「自身が意図しなかったことに対して責任を負わされている」と発言したのだそうです。

そして、コラムの筆者・ビルトさんは、そのようなマルクス礼賛や擁護の発言をつよく批判しています。それを要約すると、こんな感じです。

・共産主義国家による残虐行為はマルクス思想が歪曲されたせいだ、などど擁護したところで、マルクスの描いた未来構想の影響はやはり無視できない。

・資本主義を否定した国がたどった末路と、資本主義を受け入れた国の発展をみれば、マルクス主義の失敗は明らか。そして、私有財産制を否定し、国家が経済をコントロールする社会からは、経済の活力だけでなく自由そのものが奪われてしまった。

こうした見解は、現代では一般的なものでしょう。私も基本的にはその通りだと思います。

では、なぜマルクス主義をかかげる国はみな、抑圧的な全体主義国家となってしまったのか?

「全体主義国家」とは、個人の自由を否定した、国家権力が無制限の独裁的な力を持つ国のことです。かつてのソ連やそれに従属する東ヨーロッパ諸国は、まさにそうでした。

ビルトさんは、あるポーランドの哲学者(レシェフ・コワコフスキ)の主張を引用して、マルクスは生身の人間にまるで興味がなかった、マルクスの無機質な教義が全体主義へとつながっていった、という主旨のことを述べています。

“(コワコフスキいわく)「人間には生死がある。男もいれば女もいる。老いも若きもいれば、健康な者もそうでない者もいる。マルクス主義者はこうした事実をほぼ無視している」 マルクスの無機質な教義に基づく政府が例外なく全体主義に向かったのはなぜか。その理由を、コワコフスキ氏の洞察は教えてくれている”(『週刊東洋経済』2018年6月2日号、72ページ)

これはちょっと……と私は思いました。

これは要するに「マルクスの思想は人間味がなく、だからその理論に基づく国は非人間的なものになった」という話です。いくらなんでも、幼稚で単純すぎる感じがしませんか?

マルクスを礼賛する習近平の主張は、自分たちの共産党独裁を正当化するためのものです。これは、世界の多数派の人には受け入れられないでしょう。

「マルクス主義の失敗はマルクス自身のせいではない」という擁護論については、マルクス礼賛よりは支持者がいるかもしれませんが、その数はかぎられるでしょう。

やはり、マルクスの考えには根本的なまちがいが含まれていたのでしょう。

それは、マルクス主義をかかげた国家がどうなったかをみれば、明らかです。マルクスの考えに大きなまちがいがないのに、それを受け継いだマルクス主義者があれだけの失敗をおかすなんて、ふつうは考えられません。でも、なぜかマルクス主義にかんしては「悪いのはマルクス主義者で、マルクス本人はまちがっていない」みたいなことが、たまにいわれます。

でも、マルクスの何がどうまちがっていたのか正確につかんでおかないと、私たちはまた同じようなまちがいをくり返すのではないでしょうか。社会主義国だけでなく、西側の先進国にも、マルクス主義の信奉者はおおぜいいたのです。

つまりこれから先、マルクス主義をかかげる国の失敗の記憶が薄れてしまえば、どうなるのか? 

そこに現代的な何か―ーたとえばエコ、共生、格差解消、インターネットのもたらす「解放」等々の新しい装いの「人間味」や「理想」の要素を取り入れた、21世紀バージョンの「マルクス主義」的な何かがあらわれたら? 

「マルクス主義の国家は失敗したから」「マルクスの理論は人間味がないから」みたいな認識しかなかったら、また大きな失敗をするかもしれません。

おととし(2016年に)亡くなった政治学者の滝村隆一さんは、マルクス主義者として出発した人でしたが、ソ連などの社会主義国家のひどい状況が広く認識されるようになった1970年代以降、「マルクスの何がまちがっていたのか」を解明しようとしました。

滝村さんは、マルクスの残した政治理論・国家理論について再検討しました。一方で、世界史におけるさまざまな国家についても研究を重ねています。

そして、滝村さんが達したひとつの結論は、「マルクスには、三権分立という考え方がまったく欠けている」ということでした。

立法府や行政府の行うことを、司法が憲法などに基づいてチェックするという国家の基本構造。それを絶対的に守るべきものと考える国民のコンセンサス。それが近代国家の根幹をなしているという認識がマルクスには欠けていて、マルクス主義者たちもその誤りをそっくり引き継いでいるのだと、滝村さんはいいます(滝村『国家論大綱』など)。

三権分立は、立憲主義(国家権力が憲法によってコントロールされること)を具体的に実現するしくみです。近代国家の基本設計といってもいいです。その観念がないまま、政治・経済のすべてをにぎる政府をつくったら、それはもうどうしようもない強力な全体主義国家になるしかありません。*

マルクス主義の根本的なまちがいは、私有財産の否定だけではないということです。

社会主義国家は、少なくとも当初は一定以上の民衆の支持を得ていたし、民主主義をかかげてもいました。外見的には西側諸国と似た体裁の「憲法」も制定されています。しかし、現実には民主主義も立憲主義も全否定する国家が生まれてしまった。

その根本には三権分立の否定ということがあった。そして、その誤りはマルクス自身のものだった。マルクスほどの学識・教養のある人物でも、そのような基本的なところでまちがえてしまった。

こうやって滝村さんの主張を述べると、じつにあたりまえな感じもします。
でも、世界の常識にはなっていないようです。

なにしろ、ビルト元首相のような欧米のインテリでさえ、「マルクスの理論には人間味がない」みたいなことしかいっていない。

そんな議論よりも、滝村さんのほうがはるかに深く・具体的に問題をとらえていると、私は思います。

ここで述べた滝村さんの主張(「三権分立の欠如」論)がのみこめない、あるいは全面的には賛成できないという方もいるでしょう。それでも、滝村さん的な探究の仕方のほうが、はるかに真剣で意味がありそうだとは思いませんか?

(以上)
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2018年05月24日 (木) | Edit |
この社会には、職場や学校やご近所やサークル等々の無数のコミュニティがあり、そのなかには大小さまざまな形での権力者と、それに従う立場の人たちがいる。

そして、コミュニティの権力者がひどい暴君になって、従う人たちを不幸にすることがあります。そういうことは、この社会では無数に起きている。

今回の日大アメフト部の一件も、そのひとつです。

では、そんな暴君による不幸を防ぐには、どうすればいいのでしょうか。
むずかしい問題です。

一定の割合で、小さなコミュニティの暴君というのは、かならずあらわれるものです。

だから、人びとを不当に苦しめる暴君がいたら、それに注意や処罰を与える上位の権力が必要です。苦しんでいる人にとっての訴える先が要るわけです。それが人権を守るうえでは重要です。

「訴える先」といえば、警察や裁判所、あるいはその分野の所管官庁、つまり国家があると思うかもしれません。

たしかに国家に求められる役割に、支配する側とされる側を超えた第三者的な立場で、公正なジャッジをするということがあります。「第三者的な権力」ということが、近代国家の本来の立ち位置です。

そして、そのことは先進国ではある程度実現しています。現代の先進国では、国家はかならずしも社会の有力者の味方とはかぎらない。

しかし、国家というのは、ふつうの人間にとってはきわめて遠いものです。権威がありすぎて、おいそれとアクセスできないところがある。身近なコミュニティ内のトラブルで警察にかけこんだり、裁判を起こすというのは、大きな抵抗があります。たとえば学校の部活で、不当に「干された(試合に出してもらえない)」からといって、裁判はなかなか起こせないでしょう。日本ではとくにそうです。

また、国家による権力行使というのは重たいことですから、対応は慎重です。国家がなかなか動いてくれないということもある。

つまり、遠い存在の「第三者権力」では、十分に機能しない恐れがあるのです。きめ細かく人権を守ることができないかもしれない。

だから、個人と国家のあいだに立つ「中間団体」が必要なのです。特定の地域や分野などにおいていくつもの小さなコミュニティを束ねて、そのうえに立つ「第三者権力」です。

それは個人にも、身近でアクセスしやすい存在です。そのような中間団体に対し、個人が比較的容易にを相談や訴えをすることができて、公正なジャッジが期待できるなら、人権を守る力となります。

たとえば、大学の部活で指導者がひどいことをして、大学に相談したけどとりあってもらえないとき、あとは警察や裁判沙汰しかないというのでは、人権というのは守られにくいのです。

しかしそんなときに、各大学や運動部に対し、強力な指導・処罰の権限をもった、大学の連合会やスポーツの協会のような組織があれば、救われる人がいるはずです。そういう「連合会」「協会」は、ここでいう「中間団体」です。

日本にも、無数の連合会や協会はあります。しかしそのほとんどは、個人と国家のあいだに立って人権を守る機能を果たせていないように思います。その意味で、日本では中間団体が十分に育っていないのではないか。

そのような組織運営は、欧米のほうが上手なのかもしれない(ただ、具体的な実情について、私は知りません)。

じっさい、最近のスポーツ界の不祥事(人権侵害)において、相撲でもレスリングでも、その世界の「協会」というのは、ほとんど「第三者権力」として機能しませんでした。その基本的なスタンスは、世論が騒ぎ出すまでは、小さなコミュニティの権力者(たとえばパワハラの疑いのあるコーチ)を守るということばかりでした。

やはり、十分に発達した中間団体は、私たちにとって必要です。そして、これからの課題のようです。

そのような中間団体には、コミュニティの自治や自由を侵害する恐れもあります。あるいは中間団体に訴える権利を個人が乱用して、別の人権侵害が起こる危険もあります。たとえば学校の部活で、モンスターペアレント的な訴えで無実のコーチが苦しむようなことがあるかもしれません。

しかし、そのような副作用があるとしても、今の日本では中間団体をもっと強化する必要があるように思うのです。多くの人にとって、副作用を上回る利益があるのではないか。

また、コミュニティの「自治」が強く自覚されている世界では、暴君がはびこることがとくに多いようです。スポーツ界や大学、あるいは宗教法人などは、そういう自治の世界の典型なので、注意や自覚が必要です。

あとはあまり言われませんが、町内会などの地域の自治組織も、似たところがあるかもしれません。

地域の自治組織を規制する団体というのは、国家以外には存在しません。たとえば、権威のある「全国町内会連合会」なんてものはないわけです。町内会のなかで人権侵害やひどい不正があって、内輪の話し合いで解決しないとき、あとは裁判沙汰しかありません。でも裁判沙汰というのは、非常に抵抗がある。ということは、「暴君」にとっては、やりやすいわけです。

このように社会において一般的な、大きな構造的問題と関わっているからこそ、今回のアメフト部の問題がこれだけの騒ぎになるのでしょう。

そして、ここまで書いて最後に思うのは、ではそういう強力な中間団体を育てるとして、私たちはそれを健全に運営できるだろうか?ということです。個人の権利を守るのではなく、けっきょくはコミュニティの権力の後ろ盾、利権の温床、国家の代理人といった方向で育ってしまうのではないか。その疑念も抱かずにはいられません。

(以上)
2018年05月22日 (火) | Edit |
日本の映画作品が、カンヌ映画祭で一番の賞をとったニュース。たしかに素晴らしいことで、映画にさほど関心があるわけではない私も、うれしいです。

でも、ふと思いました。

ニュースでは、「世界3大映画祭のひとつ」とか言っているけど、日本にはそんな映画祭はないのだなあ、と。それは、さびしい。

もうそろそろ、外国の賞をもらって「何年ぶりの受賞です!」みたいに喜んでばかりはいられないのではないか。

もちろん、その立派な賞を受けた個人や関係者は、ほんとうに喜ばしいことだと思います。そのことは別にして、日本の国や社会としては、ちょっと冷静に考えてもいい。

日本は、先進国レベルにまで経済が発展して、もう50年は経ちます。もうそろそろ、賞をもらって喜ぶ側ではなく、賞をあげるほうの国になることを、本気で考えたらどうだろうか。

世界のなかでほんとうに優位な国は、ほかの国の人が欲しがる賞を、たくさん主宰している国です。

「賞をあげる国」というのは、文化において、「何が価値があるか」を管理している側です。それができるだけの系統だった考えや、表現力、組織運営の能力などを持っている。その点で、私たちは欧米人にまったく歯が立ちません。

たぶん、これから10年くらいのうちが、「賞をあげる側の国」になれるラストチャンスです。そういう国になるための、一歩を踏み出すのです。

外国からの観光客が増えて、喜んでもらえているようなのですから、まだ可能性はあります。外国人が評価してくれる、日本人の得意な世界で、「何が価値か」を打ち出していけるようになれないものだろうか。

たとえばマンガやアニメーションで、圧倒的に権威のある賞とか、できてもよさそうです。

でも宮崎監督や故高畑監督でさえ、外国の映画賞への参加を、おおいに喜んだりしていました。あの2人の監督は、ほんとうは外国人から賞をもらう側じゃなくて、アニメの分野では、世界のすぐれた誰かに賞をあげて励ます側でしょう。

そういう状態では、ぼんやりしているうちに、ラストチャンスを逃してしまう。

なにしろ、こういう大きな受賞があったとき、「賞をあげる国になろう」という人が、あまりいないのですから。

(以上)
2018年02月25日 (日) | Edit |
ピョンチャンオリンピックが、閉会しました。

北朝鮮の参加、韓国との合同チームの結成では、「オリンピックの政治利用」をめぐっての話もありました。多くの場合「オリンピックの政治利用はいけないに決まっている」という前提で語られるわけです。

しかし、オリンピックというのは、本来の目的からして巨大な政治的装置ではないでしょうか。たんなるスポーツの祭典などではない。

もちろんスポーツ大会ではあるのですが、それを素材として、国際的な「平和」を演出することが、オリンピックの最も重要な特徴です。そこが多くの国際スポーツ大会とのちがいです。サッカーワールドカップでさえ、オリンピックとくらべれば、たんなるスポーツ大会です。

だからこそ、開会式や閉会式などの儀式的な面に、異様なまでに力を入れる。儀式を通じての理念の確認やメッセージの発信が、オリンピックでは大事なのです。

古代オリンピックは、その開催時期の3か月のあいだ、ポリス(ギリシアの都市国家)の間でなんらかの戦争が行われていても、停戦となっていました。

そのルールは、ポリス間の戦争が絶えなかったギリシア世界を、戦争の泥沼に陥らないようにする、歯止めの意味を持っていたはずです。

そのコンセプトを、近代世界において再現したのが、今に続く近代オリンピックです。それはひとつの社会的な発明でした。

オリンピックというのは、そもそも非常に政治的なものなのです。

戦争が絶えない国際社会のなかで、破滅的な戦争の歯止めに少しでもなれば、というのがオリンピックというイベントの果たすべき機能です。

それを実現するには、むき出しの国威発揚やナショナリズムはたしかにマイナスです。しかし、国家を代表する選手の対抗戦である。だから、話がややこしい。

オリンピックじたいは、本来政治的なもの。しかしそれは「国際協調」とか「世界平和」という政治目的であって、そのためには、個々の国家の国益を押し出すような政治利用は排除されるべきだ、ということ。

その点で、今回の北朝鮮や韓国の動きは、それぞれの国益や政治的意図があまりにも前面に出ていたので、問題視されて当然でしょう。

そのような各国の政治的利害を、ほんの一時であれ棚上げにして忘れさせてくれる(そんな気分にさせてくれる)ことこそが、オリンピックの目指す政治的機能であり、平和への貢献なのです。

スポーツそのものは、おそらく平和にはほとんど貢献しない。

しかし、スポーツを素材としたオリンピックという国際イベントは、世界の平和に対し、それなりの影響力を持つ政治的装置です。だからこそ、私たちの多くは、このイベントに妙にひきつけられるのです。

(以上)
2018年02月03日 (土) | Edit |
ビットコインのような今の仮想通貨は、自分では持っていませんが、重要なものだと思っています。

今は投機の手段としてのブームであり、それは一過性のものでしょう。最近のコインチェック騒動みたいなさまざまな不祥事が、これからもあるでしょう。技術的にもいろいろな変化があるはずです。

でもそういう短期的なことは別にして、数十年以上のスパンの長期でみれば、仮想通貨は、お金の歴史における世界史的な革新では、と思います。キワモノではないということです。

紀元前500年代にギリシアや中国でコインが本格的に流通しはじめたことや、西暦1000年頃の宋代の中国や1600年代以降の近代ヨーロッパで紙幣が使われるようになったことにも匹敵する革新なのではないかと。

この仮想通貨の技術で、決済(お金のやり取り)は、すごく簡便でローコストになります。巨大な組織による集中管理も不要です。

こういうことは一般に言われているわけですが、やはりその意義は大きく、いろんな使いみちがあるはずです。海外とのやり取りやスモールビジネスの決済に便利なのは明らかです。でも、それだけにはとどまらないでしょう。

今後は「投機対象」としてではない、「新しい決済手段」の技術革新としての仮想通貨の本来の価値のほうが、クローズアップされていくでしょう。そして、その価値を生かすための法制度などの社会的な枠組みをどうするのか、という議論が一層さかんになってくる。

そして、やがては仮想通貨の「価値」は「あたりまえ」になるはずです。

つまり、今の仮想通貨(もしくは仮想通貨的な技術)は、お金のデジタル化ということが、いよいよ本格的に実現する、そのスタートだと。

そもそも、コインにせよ紙幣にせよ、お金の技術革新によって登場する新しいお金は、みな「仮想通貨」だった、ともいえます。

コインは、それまでの青銅器文明で用いられた貨幣である金銀の粒やインゴット(かたまり)という「本来のお金」にかわる「仮想通貨」でした。しかし、コインという仮想通貨は社会に定着し、ふつうの、本来のお金になっていきます。

コインとは、額面などが刻まれ、権力や権威によって発行される金属の貨幣のこと。これは、それまでの金属の粒やインゴットにくらべ、決済の道具として簡便でした。粒やインゴットは、取引のたびに重さを天秤などで確認することが求められましたが、コインはそれが不要です。権力や約束によって、そのコインの価値(金額)が決まっているからです。

お札(紙幣)も、コインという「本来のお金」対する仮想通貨でした。デジタル技術ならぬ、当時の最新テクノロジーの「印刷」を用いた仮想通貨です。高額の取引のとき、コインを多く持ち運ぶのは重くて大変ですが、紙幣は軽くて便利です。紙幣もまた決済の簡便化をもたらしたのです。

昔は「兌換紙幣」(だかんしへい、金貨・銀貨という本来のお金との交換が保証されている紙幣)というしくみがありました。お札という仮想通貨をみんなに信用してもらうには、必要な制度でした。

しかし、今のお札は基本的に「不換紙幣」となりました。これはつまりお札が「本来のお金」に昇格したということ。

コインだって、もともとはその額面に相当する量の金銀などの「本来のお金」を含んでいる、という前提でした。しかし、のちには金銀の含有量は少なくなっていきます。つまりコインもまた不換紙幣的になっていきました。

でも、少ししか貴金属を含まないコインであっても、その価値を人びとは認め「本来のお金」として扱うようになっていったのです。

それならば仮想通貨も、いずれ事実上「本来の・本物のお金」になることが考えられます。

ただしそのときには、今のように比較的緩やかな規制でのもとで発行できるものではなく、国家権力の強い統制下におかれるのではないかと思います。

通貨発行は、公共性がきわめて高く、発行者に大きな利益をもたらし得る「ビジネス」です。国家は放っておかないです。ITによる電子的な通貨発行、つまり今の仮想通貨は、紙幣の印刷よりもコストの少ない、究極のビジネスになる可能性があります。

コインや紙幣にも、過去には比較的自由にいろんな主体が発行していた時代がありました。しかしその後、統制が強くなり、国家による独占の方向に進んでいったという歴史があります。

しかし一方で、ネット上の仮想通貨というのは、国家が統制しにくい面もあるかもしれない……それでも国家が本気になれば、わかりません。

このように、仮想通貨を「(あぶないかもしれない)儲け話」というのとは違う視点でみることも大事ではないでしょうか。ただし、今時点の仮想通貨はまだまだ発展途上であり、「本来のお金」とは相当な距離があることは、忘れてはいけないはずです。

(以上)
2018年01月05日 (金) | Edit |
元旦に、NHKのドラマ「風雲児たち~蘭学革命篇~」をみました。みなもと太郎の歴史マンガの原作を、三谷幸喜による脚本でドラマ化したもの。

1700年代後半の江戸時代に、オランダ語の医学書「ターヘル・アナトミア」の日本語訳である『解体新書』を出版した杉田玄白(1733~1817)、前野良沢(1723~1803)らのお話。

『解体新書』は、日本初の西洋の学術的書物の翻訳でした。「ターヘル・アナトミア」に感動した玄白と良沢(江戸に住む、それぞれ異なる藩の藩医)が中心となって、3年半かけて苦労の末に翻訳書を出版した。1774年、明治維新(1886)の110年余り前のことです。

同書の翻訳を志したとき、玄白は「ABC」もおぼつかない初心者。それなりにオランダ語を学んでいた良沢も、数百語の単語がわかる程度。蘭和辞典などまだ存在しない。

書物の翻訳なんて、ほんらいは無謀なことでした。それでも彼らは成し遂げた。翻訳の経緯や苦労を、杉田玄白は晩年に『蘭学事始』という手記にまとめています。

『解体新書』によってヨーロッパの科学や学問が圧倒的にすぐれていることが日本で知られるようになり、一部の知識人によって本格的にヨーロッパの学問を吸収しようとする動きが活発化しました。「蘭学」の成立です。

「鎖国」をしていた当時の日本では、西洋ではオランダとだけ国交があったので、ヨーロッパの知識はオランダをとおして入ってきました。だから、西洋の学問≒オランダ(阿蘭陀)の学問、つまり「蘭学」ということでした。

NHKのドラマは、史実と脚色をおりまぜながら、『解体新書』が生まれる物語を、感動的に面白く伝えていました。元旦にふさわしい良いドラマでした。

現実的でプロデューサーとしてすぐれていた玄白と、翻訳作業の中心で一途な学者肌の良沢。異なる個性を持つふたりのコンビネーションや、異なるがゆえの対立や葛藤などもうまく描かれていました。

***

それにしても、なぜ『解体新書』『蘭学事始』の物語は、感動的なものとして広く知られているのでしょう?

見方によっては、たんに「西洋の本を翻訳しただけ」といえなくもない。なにか大きな新発見をしたわけではない。

翻訳者が歴史上の「偉人」「英雄」として語られ、これだけ多くの人に知られている、というのはじつに日本的なことなのではないでしょうか。

その日本的な発想とは、「自分たちの外側に世界の“中心”があり、その“中心”に学ぶことがきわめて重要である」という意識です。

そのような意識が、みんなの前提となっている。だからこそ、みんながすんなりと『蘭学事始』の物語に感動できる。

日本人にとって「中心に学ぶ」ことは、少なくとも飛鳥時代くらいからの、国ができて以来、最高に意義のある課題や仕事であり続けました。この考えは現代にいたるまで多くの日本人のなかに深くしみついているといえるでしょう。

玄白や良沢は「学ぶべき、新しい中心を発見した」ということになります。

それまでの中国にかわる「西洋」という新しい中心の発見。中国にかわる中心の発見は、日本の歴史上かつてない画期的なことでした。

玄白たちは医学のなかの解剖学的知識という、比較的白黒をつけやすい分野で、中国の医学書よりも西洋の医学書のほうが圧倒的にすぐれていることを発見したのですが、それはたんに医学だけにとどまらず、科学技術や文明全般において西洋が優越することを示すものでした。

玄白は『解体新書』の序文ともいえる「凡例」のところでこう述べています(酒井シヅによる現代語訳。講談社学術文庫『解体新書 全現代語訳』より)。

“思うにオランダの国の技術はひじょうにすぐれている。知識や技術の分野において、人力の及ぶかぎりきわめつくしていないものはない”

西洋の科学技術は圧倒的にすぐれている――のちの時代には常識であっても、玄白たちの時代には、まだ常識ではない、新しく過激な見解でした。

そして「異端」「危険思想」として弾圧される恐れもありました。だからこそ弾圧を受けないよう、玄白たちは手をまわしています。

たとえば、ドラマでも描かれていますが、将軍の奥医師を務める蘭方医の名家・桂川家の四代目であった桂川甫周(ほしゅう)に、『解体新書』の翻訳でそれだけの貢献はしていないにもかかわらず、「閲者」(監修者)という高い肩書きを与えたりしているのです。

“このようなかたちで彼(桂川)の名をあげておけば、いかにも『解体新書』は官許をうけて出版されたかのような印象を与えたから”ということです(赤木昭夫『蘭学の時代』中公新書)。

「西洋はすぐれている、学ぶべき新しい中心だ」――それが弾圧のリスクを背負いながら玄白たちが伝えた最大のメッセージでした。このメッセージは、その後の日本に重大な影響を与えたわけです。

やはり玄白たちの仕事は、たんなる「翻訳」を超えた、挑戦的・創造的なものでした。学ぶべきものを新たに発見し、それを選びとることは、見識や勇気の要る、難しいことです。

***

でもそのうち、日本人は『蘭学事始』の物語には、感動しなくなるかもしれません。

「外部である“中心”に学ぶことの重要性」という意識が薄れてきているように思います。

自分たちが中心になってきた、外部に学ぶべきことは少なくなった、むしろ自分たちが世界に発信する“中心”となるべきだ――そんな意識が最近の日本では強くなっています。日本の技術や文化を礼賛する言論やテレビ番組があふれ、外国へ出て本格的に学ぶ留学生が減少傾向だったりする。

一方で、主流派の知識人は欧米で権威を認められた学説や言論を輸入することには相変わらず熱心です。

欧米の権威を翻訳・輸入することは、たしかに重要で意義のあることです。でも、今の時代では弾圧される危険もない、ごく安全な行為です。江戸時代でいえば、国家公認の儒学をやっているようなもの。玄白のときのような挑戦的・創造的な感じとはちがう。

本気の、それこそ命がけの情熱をもって“中心”に学ぶというのが、今の日本では薄れているのかもしれません。

それは無理のないことだと思います。蘭学の時代のような創業期ではないのだから。そして、日本はたしかに先進国にはなったのだから。

でも、ほんとうに今の日本にはもう「蘭学」にあたるような、学ぶべき外部の技術や文化はないのでしょうか。

そんなはずはないでしょう。

たとえばインターネット関連や金融の分野。この分野では、自動車産業のような成功を、日本の企業は達成していないわけです。つまり、自動車産業に代表される近代工業の場合ほど、うまく“中心”であるアメリカに学ぶことができませんでした。

今のアメリカの経済や世界でのリーダーシップを支えているこれらの産業(ITや新しいタイプの金融)がアメリカで勃興したのは1980年頃からのことでしたが、その重要性を日本の主流の人びとが認識するには、ずいぶん時間がかかりました。日本人でも早くから認識していた人もいましたが、天下を取ることはできませんでした。

今でもインターネット関連の新しい産業や、従来型ではない金融の新しい動きに対して「あんなものは」というオジさんはたくさんいるし、その人たちの影響力は小さくない。

私には具体的には見当もつきませんが、今現在にも自分なりの「蘭学」をアメリカなどのどこかの外国に発見して、夢中で取り組み、日本に広めようとしている人がいるはずです。

そういう人たちが逮捕・処刑されることは今の時代ではないでしょうが、たいていの場合、社会の主流からは冷たくされたりバカにされたりされるはずです。

私も創造の最先端を担うなどということはできないとしても、せめて「蘭学」に挑んでいる人の足を引っ張るようなことはしたくないものです。その程度には創造的でありたい。

今回のドラマでも幕府の医術の主流だった漢方医が、『解体新書』を非難して邪魔をする場面がありましたが、ああいう側にはなりたくない。でも、よほどしっかりしていないと、今の日本だと私たちは創造的な挑戦をしている人たちの足を引っ張ってしまう恐れがあると思います。

停滞や衰退の兆しのある国というのは、そういうものです。だから、自覚が必要なのです。

たとえば、「民泊」のような欧米で始まった新しいサービスに対して、日本ではいくつかの自治体が積極的な規制をかけておさえようとしています。自治体は多くの住民の意向を汲んで、そうしているのです。

「住民」というのは、私たちのことです。ドラマ「風雲児たち」に感動した人でも、「民泊なんていうものが近所にできて、自分の生活に悪い影響がないか心配だ」と思う人がいるはずです。

民泊というのは、じつはそんなに重要ではないかもしれませんし、ほんの一例です。ただ、欧米などの海外で生まれ広まったいろいろなものが日本では広まるのに時間がかかりそうだという例は、ほかにもあるはずです。「タクシーにおける民泊」といえるウーバーのようなサービス(民間の一般車両の配車・旅客輸送)も、日本では規制によって本格的にはまだ始まっていません。

たぶん、そういうことが積み重なって、国は衰退していくのです。

『蘭学事始』の物語は、これからも日本人に重要なことを教えてくれるはずです。大事にしたほうがいいでしょう。その意味で、今回の正月のドラマは良かったと思います。

(以上)
2017年12月07日 (木) | Edit |
11月19日(日)の日経新聞で、こんな記事がありました。
見出しはこうです。

“歴史の教科書 龍馬が去る?”
“ガリレオも…高校の用語半減案”
“暗記→流れ学ぶ教育重視”


記事の冒頭には、こうあります。

“高校の日本史、世界史で学ぶ用語を現在の半分弱の1600程度に減らすべきだとする提言案を高校、大学の教員団体がまとめた。暗記項目を絞り、社会の成り立ちを流れで学ぶ歴史教育を重視する……教科書会社の対応が注目される”

記事によれば、今のおもな日本史・世界史の教科書には3400~3800の用語がのっているのだそうです。これは10年前とくらべ1割増で、1950年代の3倍弱。これを思い切って整理しよう、というわけです。用語が多すぎて、先生も生徒もうんざりしているのです。

“この提言案をまとめたのは高校、大学で歴史教育に携わる教員らでつくる高大連携歴史教育研究会(高大連)”という組織だそうです。私(そういち)は存じあげないのですが、この新聞記事や団体のホームページをみると、私も見聞きしたことのある学者のお名前などがあります。一定の影響力があるのでしょう。

その「削減案」の中身については、記事はこうまとめています。

“高大連は、「教科書本文に必ず載せ、入試でも知識として問える用語」を目安に、約1年かけて用語を精選。特に人名や文化に関する用語は、知名度が高くても歴史上の役割を考慮して大幅に減らした。「上杉謙信」「坂本龍馬」「ガリレオ・ガリレイ」「マリー・アントワネット」などは(教科書に載せるべき用語から)外れた”

このような検討、私も意味があると思います。

しかし、ほんとうは「半減」「○割減」以上のことを考えるべきです。既存の体系を一度置いて、ゼロから「限られた時間でぜひとも教えるべきことは何か」について考えるのです。

それによって用語の数は、ヒトケタ少なくなったり、何十分の一になったりする可能性があります。

学問や教育が進歩すると、知識の蓄積は膨らんでいきます。こんなに増えていって、どうなるんだろうと不安になるかもしれません。

しかし、その進歩が一定の高いレベルまで達すると、知識は整理されていくはずです。

膨大な知識が高いレベルの視点からまとめられ、かつて大事だと思われていた多くのことが、枝葉として位置づけられ、大きな幹が浮かびあがる。その結果、教育の場で教えるべきことがらも大幅に整理される。「幹」をまず教えよう、となるわけです。学問や教育の体系が洗練される、ということ。

手前味噌ですが、拙著『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)は、徹底的に「ゼロベースから、多くの人が知るに値する情報だけを伝えよう」という姿勢で書きました。この本に出てくる用語(事件名や人物名など)は、教科書の数十分の一です。

ところで、この歴史教育にかんする新聞記事のヨコには“生物は4分の1に削減 日本学術会議指針”という記事がありました。“高校の生物では、重要用語を現在の2千から4分の1に減らすべきだとする指針を日本学術会議の生物科学分科会がまとめた”とのこと。

日本学術会議は、高大連よりも有力な権威です。
おそらく、自然科学の世界の認識のほうが、歴史研究・教育よりも一歩先をいっているのでしょう。

「4分の1」に削減、というならヒトケタ減らすのも可能でしょう。この数十年の生物学の急速な進歩や洗練を反映した動きだといえる。

「学問・科学の進歩による知識の洗練」という観点は、重要です。

生物学でおこっていることは、その良い例です。歴史学者や先生は、自然科学やその歴史にもっと目を向けたらいいはずです。でも、そこらへんはやや弱いのでは。ガリレオを教科書から外すなどという見解をみると、そう思います。

この話題はテレビのワイドショーでもとりあげれられていて、解説の歴史研究家の方が「私の推測だが、ガリレオについてはこれといった発見をしていないから、と考えたのでは」と述べていました。

いずれにせよ、ガリレオはそれほど重要ではない、ということでしょう。実験を通じて力学や地動説を確立した、つまり近代科学の扉をひらいた人物をそんなふうに評価するのは、やはりどう考えても無知か、歪んだ見識です。

科学の歴史についてそんな理解では、「学問・科学の進歩による知識の洗練」ということも、とうていわからないのでは、と心配になります。科学はいうまでもなく、現代の社会に根底から影響をあたえています。科学の歴史を少しは知らなければ、世界史がわかるはずもありません。

(以上)