2014年06月17日 (火) | Edit |
 今日6月17日は,20世紀後半に活躍したデザイナー,チャールズ・イームズの誕生日です。
 そこで,彼にかんする過去の記事を「再放送」します。
 このブログをはじめて間もなくの頃(2013年1月)の記事。 

 イームズについては,このブログで何度も取りあげてきました。
 彼の仕事や発言には,今の文化を考える大事な手がかりがたくさんあると思うからです。

 彼の伝記(「イームズ伝」)も,記事としてアップしています。ただ,全3~4回のうちの第2回で止まったままです。これは近いうちに最後まで書きたい,と思っています。

  イームズ伝1  イームズ伝2

 ***

イームズの仕事

まえおき

 チャールズ・イームズ(1907~1978)は,建築やデザインの世界ではたいへん有名な人です。
 しかし,多くの一般の人たちには,かならずしも知られていません。

 以下は,「建築・デザインにとくに興味がない」という人にむけて,それこそ高校生でも読んでもらえるようにイームズの最も代表的な仕事を紹介したものです。
 イームズが取りくんだデザインの世界や,その考え方は,多くの人たちが知る価値があります。
 デザイン系の人たちのあいだだけではもったいない。

 とくに,若い人には知ってもらいたいです。「デザイン」の世界に興味があるという人が,これからはもっと増えたほうがいい。それが日本のためです。
 イームズは,「デザイン入門」の格好の素材です。

 写真は,おもに『Eames design』という,イームズの仕事を集大成した本からのものです(ただし「空港の待合イス」は『カーサブルータス特別編集 Eames The Universe of Dsigin』から)。
 

イームズ夫妻


「これ,みたことある」というイスをつくった人

 チャールズ・イームズは,モダンデザインの名作イスをつぎつぎと生み出したデザイナーです。建築家,映像作家としても後世に残る仕事をしました。
 その仕事の多くを,「チャールズ&レイ・イームズ」の名義で,画家・デザイナーの妻レイ(1912 ~1988)と協力して行いました。
 
 どんな仕事をした人かというと,たとえば代表作のひとつにこんなイスがあります。1953年につくられた「プラスチックサイドチェア」というイスです。その名のとおり,おもにプラスチックでできています。背もたれと座面がひとつながりになっているのが特徴です。

シェルサイドチェア

 こういうイスを,駅のホームやスタジアムなどでみかけたことがありませんか? そのほとんどは,イームズのデザインを直接・間接にマネたものです。

 こういう「これ,みたことある」というイスの「オリジナル」をいくつもつくったのが,イームズです。


イームズのイス,いくつか

 ほかにもイームズがデザインしたイスをみてみましょう。
 
 これは1951年につくられた「ワイヤーメッシュチェア」。
 針金のような細い金属(ワイヤー)でできています。

ワイヤーチェア


 これは1958年につくられた,「アルミナムグループ」というオフィスチェア。

アルミナム


 これは1962年につくられた空港の待合用のイス。

空港のイス

 どうでしょうか。このうちどれかひとつくらいは,似たようなのをみたことがあるのではないでしょうか。


「今はあたりまえ」を生み出した

 これらのイスの写真や現物を前にして,「1950~60年代のデザインだ」ということを話すと,「へえ,そんなに昔のものなんだ。もっと新しい感じがする」と感心する人がいます。

 その一方で,「こんなイス,どこにでもあるあたりまえのものじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。

 たしかにそうです。たとえば空港用の待合イスなんて,この手のものがあちこちの空港にあります。

 でも,「この手のイス」を最初に生み出して「あたりまえ」にしたのは,イームズなのです。イームズ以前には,こういうイスはあたりまえではなかったのです。

 「プラスチック製の,背もたれと座面が一体のイス」「ワイヤーでつくったイス」などというのは,イームズ以前にはありませんでした。彼が最初につくり出したときには,非常に新しいものでした。

 「アルミナムグループ」も,発表当時は斬新なものでした。金属を強調したシンプルなデザインは,高級なオフィスチェアとしては,考えにくいことでした。当時,それなりのイスを使うような,地位のある人には,もっとクラッシックな重厚なデザインが好まれました。

 空港のイスも,イームズ以前にはこういうものはありません。これといった定番はなく,座り心地や機能性はずっと劣るものでした。
 イームズの空港のイスは,見た目や座り心地だけではありません。
 メンテナンスを考え,座面などの傷みやすいところは取り外して新しいパーツと交換できるようになっています。公共の場で使うイスとしては重要なことです。シートの足元は空間を多くとってあり,荷物を置くことができます。

 このように考え抜かれた,すぐれたものだったので,のちに類似品がたくさんつくられ,今は世界じゅうの空港にあるわけです。
 
 そもそも,空港の待合イス(たかが待合イス)をこんなにも考え抜いてデザインするという発想じたいが,新しいものでした。

 イームズは,「彼ら以前にはなかったけど,今はあたりまえ」のデザインをいくつも生み出したのです。
 これはデザイナーとしては最高級の仕事です。

(以上)
スポンサーサイト
2014年03月18日 (火) | Edit |
 この前の土日に,木村拓哉主演のスペシャルドラマ『宮本武蔵』(テレビ朝日系)を観ました。
 ウチの奥さんがスマップの熱心なファンで,一緒に観たのです。この10年余り,そんなふうに一緒にテレビや映画を観たり,コンサートに行ったりしているうちに,「スマップファン」が感染してしまいました。
 
 木村拓哉は,武蔵を熱演していました。
 何十人(76人)もの敵と戦い,全員を斬っていくシーンや,ライバル佐々木小次郎との対戦など,なかなか迫力がありました。ファンの目からみて,「新境地」や「挑戦」といえるところが,いくつもありました。
 でも,(妻がネットで調べたところでは)視聴率的には,かなり厳しい数字だった模様。

 木村君,たいへんですが,頑張ってください。

 今,「木村君」と言いました。

 木村拓哉やスマップのファンならば,「キムタク」とは言いません。あれは一種の「蔑称」です。たとえば彼の周囲の関係者などは,決して「キムタクさん」などとは言わない。「〇〇君」というのは,スマップにかぎらずジャニーズの世界全般において,敬愛を込めた呼び方とされています。ジャニーズの人たちは,先輩のことも「〇〇君」と呼んだりする。それが失礼にはあたらないことになっている。

 ***

 話がそれました。
 今回のテーマは,ドラマや木村君のことではなく,歴史上の人物としての宮本武蔵です。ドラマを観たので,語りたくなりました。

 そもそもですが,宮本武蔵(1584?~1645)は,実在の人物です。

 私は,若い人から「宮本武蔵って,実際にいた人なんですよね?」と聞かれたことがあります(「丹下左膳」や「座頭市」みたいなものかもしれないと思ったのでしょう)。

 宮本武蔵は,江戸時代の初期に活躍した剣豪。

 武蔵の生きた時代には,真剣(ホンモノの刀)で斬りあう勝負をして,剣術の腕を競い合う武芸者たちが,本当にいました。木刀での勝負もかなりありましたが,それでも命の危険があります。
 そのような「真剣勝負」の世界で名をあげると,大名家に「剣術指南」などの立場でスカウトされる可能性がありました。

 そういう目的があったとしても,負けたら命にかかわる「勝負」を,本当に行っていたのです。すごい時代です。

 宮本武蔵は,「60回余りの真剣勝負をして負けなかった」と自ら書き残しています。
 ただ,ある研究者によれば「具体的に史料や記録で確認できる,武蔵の生涯の対戦は十数回ほど」だともいいます(久保三千雄『宮本武蔵とは何者だったのか』)。
 
 でもとにかく,少なくとも「十数回」は「負けたら死ぬ」勝負を,行っていたのです。
 そして,そのすべてで負けなかった。
 しかも,相手は素人ではなく,全て剣術の玄人たちです。その中には佐々木小次郎のような「剣豪」もいたわけです。

 そんな勝負を,生涯で何十回もくり返した。
 恐ろしい人間がいたものです。
 
 これは,今のスポーツ選手の「真剣勝負」とは次元の異なる世界です。

 武蔵の「勝負」の世界では,たとえばこのあいだのオリンピックの(ショートプログラムでの)浅田真央選手のようなことだと,フリーで挽回する前に多分死んでいるわけです。お相撲さんなら,黒星がついた時点で,死んじゃう。ウインブルドンなら,優勝者以外はみんな……もうやめておきます。

 ***

 それにしても,宮本武蔵はなぜこれほど有名なのでしょう?

 直接の原因は,昭和の大作家の吉川英治が『宮本武蔵』というベストセラーの名作を残したから。それが何度もドラマや映画やマンガになって,ヒットしたから。今回の木村君のドラマも吉川英治原作です。最近の大ヒットマンガ『バガボンド』(井上雄彦作)も,吉川の小説が原作。

 では,なぜそのような小説の素材になるほどに名を残したのか?

 「そりゃ,武蔵が強かったからじゃないの」と思うかもしれません。
 たしかにそれはそうです。でも,それだけではないです。

 大事なのは,彼が『五輪書(ごりんのしょ)』という「史上初の本格的な武道論・武術論の本」を,晩年に書き残したことです。
 武蔵がとくに有名な剣豪として語り継がれたのは,この本の内容がすぐれていたからなのです。

 単に自分が強いだけでは,歴史に名を残すことはできません。
 自分がつかみとった価値ある何かを,後世にも利用できる遺産として残していくことが大切なのです。

 (私は以上のことを,現代の武道家・南郷継正の著作で知りました)

 では,その『五輪書』の冒頭の,さわりの部分だけでも読んでみましょう。
 原文を現代語訳したもの(鎌田茂男『五輪書』講談社学術文庫による)を,さらに私が若干要約・編集した「和文和訳」です。

 ***

 《私の兵法(剣術)の道を「二天一流」と名付け,これまで鍛錬してきたことを,はじめて書物に書きあらわすことにする。播磨(兵庫県)生まれの武士である,この宮本武蔵は,60歳になった。

 私は若いときから兵法の道を歩み,13歳のときにはじめて勝負をして勝った。その後21歳のとき京都へのぼり,天下に知られた武芸者と何度か勝負をして,すべて負けなかった。その後,諸国をめぐって60回余りの真剣勝負をしたが,一度も負けたことはない。

 以上は,13歳から20代おわりまでのことだ。
 その後,30歳を過ぎたころから,私は自分の足跡を振り返るようになった。

 私が勝ってきたのは,はたして兵法を極めたからだったのか?
 生まれつき武芸の才能があったからだろうか?
 それとも,対戦相手の武芸が不十分だったということなのか?

 その後,さらに深く兵法を極めようと,私は鍛錬を続けた。
 すると,「兵法の道」といえるものがみえてきて,それにかなうことができるようになった。私が50歳ころのことである。
 それ以後は,新たに究めつくすということはなく,月日を送っている。

 私は,兵法以外にも,いろいろなことに取り組んできた。絵を描き,書をたしなみ,仏像を彫ったりもした。そうしたすべてのことについて,私に師匠はいない。すべては兵法から学んだのだ。

 今,この『五輪書』を書くにあたっても,兵法それ自体にのみ即して,兵法の世界について述べたいと思う。
 つまり,仏法,儒教,道教などの言葉を借りたりせず,軍記などの故事を用いたりせずに,自分の兵法の真実にせまりたい。》


 ***

 どうでしょう。
 この冒頭の部分だけでも,『五輪書』の精神が,なんとなく伝わってくるように思いませんか。

 その「精神」とは,一種の「リアリズム」とか「合理主義」のようなもの。
 「科学」や「技術」の精神の芽生えも,そこにはあるように思えます。

 私は,はじめてこの本を読んだとき,思っていた以上に「近代的」な内容だと思い,新鮮に感じました。

 ほかにもたとえば,武蔵の「リアリズム」を述べた,こんなくだりがあります。
 「兵法とは,武士とは何か」ということを論じた箇所です。

 そこからの「和文和訳」で,今回はしめくくります。


 《兵法とは,武士のたしなむ道である。
 仏法では人を救うという「道」があり,医者には病をなおすという「道」があるようなもの。

 武士たるものは,たとえ才能がなくても,自分の能力に応じて兵法を修業しなくてはならない。 

 なぜか?
 世の中では,「立派に死ぬことこそが武士の道」だと思われているようだ。
 でも,そのような「死ぬ覚悟」は,武士の専売特許ではない。
 僧侶であっても,女性であっても,百姓であっても,正義や誇りのために死を覚悟するということはある。

 では,武士が武士であるとは,何によるのか?

 それは,敵と戦って勝つための兵法=剣術をたしなんでいる,ということによる。

 武士が兵法を行うのは,どんな状況でも,なんとしても,敵に勝つためだ。
 それによって,主君のため,自分自身のために名をあげ,身を立てる。これが兵法の「意味」といっていい。

 世の中には「兵法など習っても,実戦には役立たない」という人もいる。
 しかし,大事なのは実際に役に立つように兵法を学ぶことだ。そして,戦い以外のあらゆることについても役立つようなかたちで,兵法を学ぶことである。
 それこそが,真の兵法というものだ。》


(以上) 
 
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年02月01日 (土) | Edit |
 すぐ上の記事で,小保方晴子さんらのSTAP細胞の研究の話をしています。
 
 それに関連して,ここでは「元祖リケジョ」といえる,キュリー夫人に関する過去の記事を掘り起こしました。

 キュリー夫人というのは,じつは「大発見をして歴史に名を残した,史上初の女性科学者」です。
 小保方さんは,「大発見をして多くの人が知るようになった,初めての日本人女性科学者」かもしれません。優秀な・見事な業績をあげた日本人の女性科学者はこれまでにもいたことでしょう。しかし「キュリー夫人的知名度」というのは,今回の小保方さんが初めてのケースになるような気がします。

 キュリー夫人は,とにかく勤勉な努力家。
 報道で垣間見た小保方さんの姿――研究に没頭する様子や,前途を切りひらくために食い下がって挑戦してきたこと――ともダブります。

 今どきの新しいニュースに絡んでも,私はこういう「化石」みたいな話しかできないし,それが好きなんですね。

 ***

 キュリー夫人の「四百文字の偉人伝」

史上初の(本格)女性科学者

 「史上初の女性科学者」というと,誰でしょうか? 「歴史に名を残した」という条件をつければ,それは「ラジウムの発見者」マリー・キュリー(1867~1934 ポーランド→フランス)です。
 彼女があれだけ有名なのは,「大発見をした史上初の女性科学者」だったからです。
 女性科学者は,今ではめずらしくありませんが,彼女が生きた1900年ころの世界では,今でいえば「女性F1レーサー」と同じくらい驚異的でした。
 しかも彼女は,ノーベル賞を2回も受賞しています。そして,多忙な研究の合間に家事もきちんとこなし,子どもたちも立派に育てました。
 すぐれた科学者が,常にこんなに「完璧」とはかぎりません。
 ただ,彼女の場合は,女性として前人未踏の仕事をする開拓者でした。
 こういう人だからこそ,男性優位がとても強かった時代にも活躍できたのかもしれません。

安達正勝著『二十世紀を変えた女たち』(白水社,2000)に教わった。ほかに参考として,エーヴ・キュリー著,川口・河盛・杉・本田訳『キュリー夫人伝(新装版)』(白水社,1988)

【マリー・キュリー】
ラジウムの発見などで放射能研究を開拓した科学者。1903年夫ピエール(1906年死去)らと共同でノーベル物理学賞。1911年には単独でノーベル化学賞。長女夫妻も35年に2人でノーベル化学賞を受けた。
1867年11月7日生まれ 1934年7月4日没

 ***

 さらに,キュリー夫人の「〇千文字の偉人伝」を。

 これは,「四百文字の偉人伝」の参考文献にある,安達正勝『二十世紀を変えた女たち』のキュリー夫人の章(の一部)を圧縮・編集して,そこに自分の視点を若干加えた,といったものになっています。以下は,半ば安達さんの本からの「引用」といっていいでしょう。
 その点でオリジナリティは薄いですが,「コンパクトな読み物」としての意味はあると思っています。キュリー夫人のことは,やはり知る価値があります。安達さんの本もおすすめです。

二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ
(2000/07)
安達 正勝

商品詳細を見る


彼女が大学に入るまで キュリー夫人

 多くの偉人伝で,感動の中心となるモチーフといえばまず,「主人公が困難にくじけることなく,食い下がって学び続けた姿」である。
 なかでもキュリー夫人の物語は,その代表格である。

 「キュリー夫人」こと,マリー・キュリー(1867~1934,ポーランド→フランス)があれだけ有名なのは,彼女が史上初の「大発見をした女性科学者」だからである。ラジウムの発見などにより,放射能研究の世界を開拓したこと。それが,彼女の最大の業績である。

 女性科学者は,今では珍しくないが,彼女が生きた1900年ころの世界では,皆無だった。大学教育を受けた女性さえ,たいへん珍しかった時代である。

  彼女のエピソードでよく取り上げられるのは,祖国ポーランドからパリ大学に留学した彼女が,貧しさと闘いながら必死に勉強する姿である。
 
 たとえばこういう話がある。貧乏でストーブの石炭を買うお金がない。ベッドでは,布団の上にありったけの衣類を何枚も重ねるけど,寒い。そこで,布団や衣類の上にイスを置き,その「重さ」の感覚で寒さをまぎらわせて眠った……

 だがじつは,パリにやってくるまでだって,いろいろ大変だったのである。むしろ,パリで苦学した時代は,念願だった大学への入学を果たし,思う存分学問に打ち込むことができた「輝ける」時期だったとさえいえる。

 **

 のちにマリー・キュリーとなる女の子,マリア・スクワドフスカは,1867年にポーランドの首都ワルシャワで生まれた。両親は2人とも学校の先生だった。

 彼女が育った1800年代後半,ポーランドはロシアなどの隣接する強国によって分割され,国家が消滅してしまった。祖国の復興・独立は,当時のポーランド人の悲願だった。独立を勝ち取るために武器を持って立ち上がり,命を落とした人たちもいた。マリアの親戚にもそういう人がいた。

 父親は,学識のある人格者だったが,ロシアの役人が支配する教育現場では,不遇な目にあっていた。だから,家庭は裕福ではなかった。
 そんな環境で,マリアは,祖国の復興を強く願う若者に成長していった。

 彼女は17歳のとき女学校を主席で卒業した。さらに大学で勉強したかった。指導的な教育者になって,祖国のために尽くすことが,彼女の夢だった。
 
 だが,当時のポーランドの大学は女子に門戸を開いていなかった。フランスなど一部の国の大学では,1800年代後半から女子の入学が認められていた(それ以前は,昔から大学に入れるのは男子だけだった)。だから,彼女が大学に行くには,海外留学が唯一の道だった。

 しかし,家にはそんなお金はない。当時は,現代のような奨学金制度もなかったし,大学に通いながら働けるようなアルバイトの仕事もなかった。

 それでも,何とか外国に行って大学で学びたい。そこでどうしたか?

 そのころ,彼女のすぐ上のお姉さんも,医師になるために大学で勉強することを望んでいた。そして,マリアと同じ「壁」につきあたっていた。そこでマリアは,このように提案した。

 「私が,家庭教師をして仕送りするから,姉さんは大学へ行って。姉さんが医師になったら,そのときは私が留学するのを助けてちょうだい。」

 当時,教育のある女性の働き口として「家庭教師」というものがあった。昔のヨーロッパでは,裕福な家庭の子どもは,幼いうちは学校に行かず,そのかわりに家庭教師が付いて勉強するのがふつうだった。お屋敷に住み込みで,1日数時間ほど教える仕事。住居と食事が提供されるので,節約すれば,給料のかなりの部分を仕送りできる。

 マリアは,田舎のお屋敷で,住み込みの家庭教師をして働いた。
 彼女からの仕送りで,お姉さんはパリ大学の医学部に通った。

 3年余りが経つと,お姉さんが近い将来に医師として働ける見込みがついた。また,お父さんに,いくらか収入の多い仕事がみつかった。これで,マリアもどうにか留学できる。

 「3年」というのは,とくに若い人にとっては,長い時間である。その間にマリアは,何度も「もう留学なんて無理,どうでもいい」という気持ちになった。片田舎での寂しい単調な毎日。マイナス思考になるのも無理はない。

 だから,せっかく留学の見通しが立ったのに,マリアは,「もう私の留学のことはいい」と,お姉さんに手紙を書いたりもしている。しかし,お姉さんや周囲の人たちの説得や励ましで,気をとりなおした。

 その後,試験勉強などの準備を経て,1891年,マリアはパリ大学の理学部に入学した。すでに24歳になっていた。

 4年後,彼女は数学と物理の学位を取得して卒業。その翌年の1895年には,在学中に知り合った8歳年上のフランス人物理学者ピエール・キュリー(1859~1906)と結婚した。

 彼女は祖国で教育者になることは断念し,ピエールの共同研究者として科学者の道を歩むことにした。

 2人は協力して研究を進め,ラジウムの発見などの成果により,1902年に夫婦でノーベル物理学賞を受賞した。その間に子宝にも恵まれ,研究の合間に家事・育児もこなした。多忙な,しかし充実した日々だった。
 だがその後,1906年にピエールが馬車による交通事故で不慮の死を遂げてしまう。

 彼女はピエールの後任として,女性初のパリ大学教授に就任し,その後も研究と後進の指導で活躍した。1911年には,単独でノーベル化学賞を受賞している。

 **

 このようなキュリー夫人の物語は,子供や学生よりも,むしろ大人のほうが感動するのではないだろうか。
 人生経験を積んだ大人は,お金や生活の苦労というものを十分にイメージできる。

 そして,ほとんどの大人には,「自分はこういうふうにはできなかったなあ」という感覚がある。それが勉強であれ何であれ,自分はこれほど懸命にやりたいことをやり抜くことなく大人になった。だから,彼女をほんとうに「素晴らしい」「すごい」と感じる。

 私もそのクチだ。自分の若い時代に対し,それなりの後悔というか,「あれをもっとやればよかった」という感じがある。

 私が学生時代にこの話に触れたとしたら,「説教くさい」と思っただろう。

 しかし,会社に就職して多少の経験を積み,「人生なかなか思うようにはいかない」という感覚がよくわかるようになってからは,この手のエピソードに素直に感動できるようになった。「思うようにいかない」ところを,それでも何とか乗りこえるのは,素晴らしい。

 そして,読書のなかで出会う人物が「食い下がって学ぶ姿」に注目するようになった。そのような話に触れるたび,「自分も,自分なりに好きなことをやっていこう」と思ったものだ。(「好きなこと」とは,私の場合,読んだり書いたりすることだった。その延長線上で,今もこんなものを書いている)

 大人が,偉人の「学ぶ姿」に触れる最も大きな意義は,こういう「後押し」「励まし」を得られるということである。
 もちろん,子どもにとっても同じような意義はある。しかし,大人のほうがより深く理解できるのである。

 偉人の「食い下がって学ぶ姿」にも,いろいろある。キュリー夫人は見事なケースだが,ほんの一例である。そのさまざまなケースを知ることは,私たちに元気や知恵を与えてくれる。

(以上)
2014年01月30日 (木) | Edit |
 今日1月30日は,幕末の徳川幕府のリーダー,勝海舟の誕生日です。
 そこで,勝海舟の「〇千文字の偉人伝」を。
 数分で読む,勝海舟の伝記です。

 参考文献は,おもに板倉聖宣さんの下記の著作。
 
勝海舟と明治維新勝海舟と明治維新
(2006/12/24)
板倉 聖宣

商品詳細を見る

 以下の小さな伝記は,この著作を切り取り,ダイジェストにしたものといっていいです。
 ただ,豊富な内容の著作ですから,どう要約していくかは,いろんなやり方があるでしょう。私がやると,こうなったわけです。その意味で,やはり自分なりのひとつの「作品」になっているとは思います。

 この記事を読んで勝のまとまった伝記を読みたいと思ったら,ぜひ板倉さんの著作を。

 あとは,板倉さんも紹介されていますが,松浦玲さんの著作も。
 松浦さんには『勝海舟』(筑摩書房,2010年)という,「勝海舟伝の決定版」的な分厚い著作がありますが,私が読んだのは,中公新書のコンパクトな『勝海舟』(1968年)。
 
勝海舟―維新前夜の群像3 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)勝海舟―維新前夜の群像3 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
(1968/04)
松浦 玲

商品詳細を見る

 
 
 【勝海舟】
 1823年3月12日(文政6年1月30日)生まれ~1899年(明治32)1月21日没


勝海舟小伝  自分の「蘭学」をみつけよう


意義ある決断

 明治元年(1868)に,薩摩・長州を中心とする勢力=官軍が,旧幕府の勢力を完全に倒した戦争があった。この戦争で,西郷隆盛が指揮する官軍は,江戸城をとり囲んで総攻撃をしかけようとした。

 そのとき,旧幕府側の責任者として西郷と話しあい,江戸城を無血開城することを決めたのが,勝海舟(1823~1898)である。どちら側にも「戦うべきだ」という意見があり,それをどうにか押さえてのことだった。

 もしここで戦いを選んでいたら,江戸の町は戦火につつまれただろう。戦争が長引けば,欧米列強の介入を招き,日本は殖民地にされたかもしれない。
 このときの西郷や勝の判断は,非常に意義のあるものだったのだ。

 江戸城開城のとき,幕府側の重鎮だった勝海舟だが,幕府に仕える武士としては最下級の家の生まれである。父親は,武士なのにケンカや賭博に明け暮れた人だった。そんな父親のせいで,家は貧乏だった。

 その勝が高い地位にのぼりつめて重要な仕事をしたのは,まさに「食い下がって学びつづけた」成果だった。
 何を学んだのかというと,蘭学である。オランダ語による西洋の学問。これによって,彼は頭角をあらわした。


異端だった蘭学

 勝が少年時代に熱心に学んだのは,剣術だった。先生にも恵まれ,相当なレベルに達した。
 それがいつ・どうして蘭学を学ぶようになったのかは,よくわかっていない。しかし,十代の終わりにはオランダ語の勉強をはじめていたのはたしかだ。

 そのころの日本では,一部の先覚者のあいだで,欧米に対する関心が高まりつつあった。

 鎖国をしていた当時の日本がつきあっていた欧米の国は,オランダだけだった。しかし,1700年代から,ほかの欧米の船が日本の近海にときどき現れ,国防に関心のある人びとは警戒していた。1792年にはロシアの船が北海道にやってきて国交を求める,という事件もあった。

 さらに,勝が育った時代には,清国(中国)が欧米におびやかされていることが一部で知られるようになった。

 そんな中,欧米諸国について知る努力をして,その学問や技術が圧倒的にすぐれていることを発見した少数派の人たちがいた。蘭学者である。当時,オランダ語を習得し,書物を読むことが欧米の知識を手に入れる最大の手段だった。

 しかし,関心が高まる一方で,欧米に対する警戒心や敵対心も高まった。

 蘭学は,主流の人たちからみて,未公認の危険思想だった。「欧米の学問をすると,なんでも欧米をよしとして,日本の現状を(政治体制も含め)否定するようになる」というのだ。さらに偏見を抱く人たちは,「西洋の学問をする連中は奴らの手先で,国の敵だ」と考えた。

 蘭学者やその賛同者は世間では異端視され,ときには迫害された。

 たとえば,勝の蘭学の先輩の一人に,高島秋帆という西洋砲術を研究した人がいた。彼は,日本のためを思って研究していた。しかし,「反乱をたくらんだ」という無実の罪で牢屋に入れられ,10年も出られなかった。

 このほかにも,幕末には何人もの蘭学者が処分を受けたり,投獄されたりした。処刑された人もいた。
 勝自身も,オランダ語を勉強中の22歳のとき,「不穏なことを学んでいる」と,周囲の者に密告され,幕府から4年間の「自宅謹慎」処分を受けている。

 それでも彼は,蘭学を続けた。このころ勝はすでに家督を継いで結婚していた。しかし,幕府の役職には就けないでいた(彼の父親もそうだった)。

 だが,武士というのは特に仕事をしていなくても,決まった俸禄(給料)は入ってくる。
 だから,薄給で苦しかったが,時間はあった。謹慎中は,日中は本を読み,夜になると,こっそり蘭学の私塾に通って勉強した。


辞書を手に入れるのも大変

 当然なのだが,勝のオランダ語学習は,ABCの文字さえ知らないところからはじまった。今の私たちは「英語ができない」といっても,少しの単語やごく初歩の文法ぐらいは知っているが,そのレベルまで達するのもかなりの道のりだった。

 そもそも,辞書ひとつ手に入れるのだって,たいへんなのである。当時,『ヅーフ・ハルマ』という代表的な蘭和辞典があった。自宅謹慎中の25歳のとき,勝はこれを手に入れようとしたが,値段を知って驚いた。当時の勝の年収の4倍の60両という値段である。とても買えない。

 そこで,その辞書を持っている人に頼みこんで,有料でその辞書を借り出し,書き写すことにした。1年余りかけて,辞書1冊をすべて写した。2部写して,1部を人に売った。それで辞書のレンタル料を差し引いても,利益が出た。

 そのころの書物は,高価だったので勝にはなかなか買えなかった。そこで,なじみの書店の好意で,よく立ち読みをさせてもらったりもした。
 
 こうして勝の蘭学は,かなりのレベルになっていった。

 彼のおもな関心は,兵学(軍事技術)だった。当時の幕府には,西洋の兵学を研究している人はいなかった。「ならば自分が」ということだ。
 いや,兵学どころか,彼がオランダ語の学習に励んでいた当時は,幕府のそれなりの武士の中で,オランダ語ができる人物など1人もいなかったのだ。


道がひらける

 26歳のとき――辞書の写本に取り組んでいたころ――渋田利佐衛門という人が勝の前にあらわれた。例の書店の主人から,勝のことを聞いて会いたくなったという。
 渋田は蝦夷地(北海道)の裕福な商人だったが,仕事で江戸に来るたび,道楽でたくさんの書物を買い込んでいた。2人は,同じ興味関心をもつ仲間として意気投合した。

 そしてある日,渋田はなんと200両というお金を支援したいと言ってきた。勝の年収の十年分以上のお金。それをポンと渡し,「これで,あなたがこれはと思う本を買って,読んだらそれを(または書き写したものを)私に送ってください」というのである。

 さらに渋田は,各地の知り合いの商人を勝に紹介してくれた。人脈が広がり,さまざまな知識や支援を得た。

 28歳になって,勝は蘭学の私塾を開いた。一人前の蘭学者となったが,依然としてなんの役職にも就けない。

 勝が31歳の1853年,ペリーの「黒船」が浦賀にやってきた。武力をちらつかせ,開国をせまってきた。幕府や各藩は大騒ぎとなった。

 このときの幕府の首脳は,「今後,国として何をなすべきか」についての論文を,広く一般から募るということをしている。たいへん異例なことだった。

 これに対し全国から数百の応募があった。勝も応募した。集まった論文は,抽象的な精神論などのピントはずれな内容のものばかりだった。

 しかし,勝のものはちがっていた。国防の強化には海軍が重要である。それはいかなるもので,その整備には何をすべきか。そういうことが的確に書かれていた。これまでの勉強・研究の成果だった。
 勝の意見は,幕府の中枢に取り上げられ,勝自身も,幕府のなかで役職を得た。

 その後の勝は,行き詰まった幕府が方向転換をして欧米に学ぶようになるなかで,重要な役職を歴任していく。
 1860年(明治維新の8年前),38歳のときに,日本の軍艦がはじめて太平洋を横断した「咸臨丸」の航海を指揮したのは,その重要な1コマだった。

 そして,幕府が崩壊するときには,その最高幹部になっていた。それまでに勝は,学問だけでなく,人を動かす政治的才能も開花させていた。そして,「幕府をどう終わらせるか」という問題に取り組んだのだった。


蘭学の創造性

 創造的な人というのはみな,自分なりの「蘭学」を発見した人である。

 つまり,それを究めることで,世の中の主流の人びとを大きく超える視野がひらけるもの。

 そういう〈新しい世界〉を発見し,追いかけることで人は創造的になる。 新たな理論を開拓した科学者,新しい産業をつくった起業家,偉大なアーティスト,みんなそうである。

 「でも蘭学なんて,既存の学問を輸入したもので,たいして創造的ではない」という見方もあるだろう。

 しかし,江戸時代の日本では,欧米の学問への権威や信頼は確立していなかった。危険思想として弾圧の対象にさえなった。「これを究めた先に,何があるかわからない」というものだった。
 
 それでも蘭学を選んだことは,きわめて創造的なことなのだ。これは,明治以降の日本人が,公認の権威となった欧米の学問をするのとは,わけがちがう。

 勝は,蘭学という,評価の定まっていないものに大きな価値を発見し,それに人生を賭けた。そして,その後の歴史は,勝の選択が正しかったことを証明した。

 未公認の〈新しい世界〉の発見。それに賭けて,全力で取り組む。しかし,世間は認めてくれない。だがしかし,ついに〈新しい世界〉の正しさが実証される……
 創造的で感動的な人生というのは,こういうプロセスを経るものだ。勝の人生は,その劇的なケースである。


自分の「蘭学」をみつけよう

 創造的に生きたいなら,自分なりの「蘭学」をみつけよう。
 たいそうなものでなく,マイナーな,ささやかなものでいい。周囲から「他愛ない(幼稚だ)」と言われるようなものでもいいと思う。

 ただ,「見つけた」と思っても,たぶん,明るい道はすぐには開けない。
 周囲はなかなか理解してくれない。
 投獄はされないだろうが,親は反対し,友達には笑われる。
 みんながすぐに褒めるようでは「蘭学」ではない。
 (もちろん,理解されやすい「公認」のものであっても,好きなことだったらやればいい。先覚者にはなれないが)

 そもそも,「賭け」に勝てるかどうかもわからない。
 「これだ」と思ったものが結局ダメだった,ということがある。
 「マルクス主義の理想」などは,その大規模な例である。前例のない新事業や野心的な創作が世に受け入れられずに終わったケースは,数知れない。
 
 しかし,「蘭学」の道は,孤独でツラいことばかりでもない。
 たとえば,仲間と出会える,ということもある。

 商人の渋田が勝を支援したことのベースには,「価値観を共有する少数派」としての連帯感があっただろう。 
 彼らは,同じ関心で結ばれた〈小さなコミュニティ〉の住人だった。
 だから,地理的に離れていても出会った。単なる偶然ではない。評価の定まっていない新しいものを追いかけていると,たまにそういう出会いが起きる。そこから,さまざまな可能性がひらけてくる。
 
 それにしても,勝のような先覚者の道が大変だとしても,せめて,同時代の創造的な人たちをバカにしたり迫害したりする側にはなりたくないものだ。
 あるいは自分の関わる世界で,身近に無名の「先覚者」がいたら,ぜひ応援してあげたい。

 それには,やはり勉強するしかないでしょう。ものをみる目を養うしかない。
 お互いがんばりましょう。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月06日 (水) | Edit |
 11月7日は,物理学者キュリー夫人(マリー・キュリー)の誕生日です。
 そこで,彼女の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を紹介するシリーズ。

キュリー夫人

史上初の(本格)女性科学者

 「史上初の女性科学者」というと,誰でしょうか? 「歴史に名を残した」という条件をつければ,それは「ラジウムの発見者」マリー・キュリー(1867~1934 ポーランド→フランス)です。
 彼女があれだけ有名なのは,「大発見をした史上初の女性科学者」だったからです。
 女性科学者は,今ではめずらしくありませんが,彼女が生きた1900年ころの世界では,今でいえば「女性F1レーサー」と同じくらい驚異的でした。
 しかも彼女は,ノーベル賞を2回も受賞しています。そして,多忙な研究の合間に家事もきちんとこなし,子どもたちも立派に育てました。
 すぐれた科学者が,常にこんなに「完璧」とはかぎりません。
 ただ,彼女の場合は,女性として前人未踏の仕事をする開拓者でした。
 こういう人だからこそ,男性優位がとても強かった時代にも活躍できたのかもしれません。

安達正勝著『二十世紀を変えた女たち』(白水社,2000)に教わった。ほかに参考として,エーヴ・キュリー著,川口・河盛・杉・本田訳『キュリー夫人伝(新装版)』(白水社,1988)

【マリー・キュリー】
ラジウムの発見などで放射能研究を開拓した科学者。1903年夫ピエール(1906年死去)らと共同でノーベル物理学賞。1911年には単独でノーベル化学賞。長女夫妻も35年に2人でノーベル化学賞を受けた。
1867年11月7日生まれ 1934年7月4日没

 ***

 さらに,キュリー夫人の「〇千文字の偉人伝」を。

 これは,「四百文字の偉人伝」の参考文献にある,安達正勝『二十世紀を変えた女たち』のキュリー夫人の章(の一部)を圧縮・編集して,そこに自分の視点を若干加えた,といったものになっています。以下は,半ば安達さんの本からの「引用」といっていいでしょう。
 その点でオリジナリティは薄いですが,「コンパクトな読み物」としての意味はあると思っています。キュリー夫人のことは,やはり知る価値があります。安達さんの本もおすすめです。

二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ
(2000/07)
安達 正勝

商品詳細を見る


彼女が大学に入るまで キュリー夫人

 多くの偉人伝で,感動の中心となるモチーフといえばまず,「主人公が困難にくじけることなく,食い下がって学び続けた姿」である。
 なかでもキュリー夫人の物語は,その代表格である。

 「キュリー夫人」こと,マリー・キュリー(1867~1934,ポーランド→フランス)があれだけ有名なのは,彼女が史上初の「大発見をした女性科学者」だからである。ラジウムの発見などにより,放射能研究の世界を開拓したこと。それが,彼女の最大の業績である。

 女性科学者は,今では珍しくないが,彼女が生きた1900年ころの世界では,皆無だった。大学教育を受けた女性さえ,たいへん珍しかった時代である。

  彼女のエピソードでよく取り上げられるのは,祖国ポーランドからパリ大学に留学した彼女が,貧しさと闘いながら必死に勉強する姿である。
 
 たとえばこういう話がある。貧乏でストーブの石炭を買うお金がない。ベッドでは,布団の上にありったけの衣類を何枚も重ねるけど,寒い。そこで,布団や衣類の上にイスを置き,その「重さ」の感覚で寒さをまぎらわせて眠った……

 だがじつは,パリにやってくるまでだって,いろいろ大変だったのである。むしろ,パリで苦学した時代は,念願だった大学への入学を果たし,思う存分学問に打ち込むことができた「輝ける」時期だったとさえいえる。

 **

 のちにマリー・キュリーとなる女の子,マリア・スクワドフスカは,1867年にポーランドの首都ワルシャワで生まれた。両親は2人とも学校の先生だった。

 彼女が育った1800年代後半,ポーランドはロシアなどの隣接する強国によって分割され,国家が消滅してしまった。祖国の復興・独立は,当時のポーランド人の悲願だった。独立を勝ち取るために武器を持って立ち上がり,命を落とした人たちもいた。マリアの親戚にもそういう人がいた。

 父親は,学識のある人格者だったが,ロシアの役人が支配する教育現場では,不遇な目にあっていた。だから,家庭は裕福ではなかった。
 そんな環境で,マリアは,祖国の復興を強く願う若者に成長していった。

 彼女は17歳のとき女学校を主席で卒業した。さらに大学で勉強したかった。指導的な教育者になって,祖国のために尽くすことが,彼女の夢だった。
 
 だが,当時のポーランドの大学は女子に門戸を開いていなかった。フランスなど一部の国の大学では,1800年代後半から女子の入学が認められていた(それ以前は,昔から大学に入れるのは男子だけだった)。だから,彼女が大学に行くには,海外留学が唯一の道だった。

 しかし,家にはそんなお金はない。当時は,現代のような奨学金制度もなかったし,大学に通いながら働けるようなアルバイトの仕事もなかった。

 それでも,何とか外国に行って大学で学びたい。そこでどうしたか?

 そのころ,彼女のすぐ上のお姉さんも,医師になるために大学で勉強することを望んでいた。そして,マリアと同じ「壁」につきあたっていた。そこでマリアは,このように提案した。

 「私が,家庭教師をして仕送りするから,姉さんは大学へ行って。姉さんが医師になったら,そのときは私が留学するのを助けてちょうだい。」

 当時,教育のある女性の働き口として「家庭教師」というものがあった。昔のヨーロッパでは,裕福な家庭の子どもは,幼いうちは学校に行かず,そのかわりに家庭教師が付いて勉強するのがふつうだった。お屋敷に住み込みで,1日数時間ほど教える仕事。住居と食事が提供されるので,節約すれば,給料のかなりの部分を仕送りできる。

 マリアは,田舎のお屋敷で,住み込みの家庭教師をして働いた。
 彼女からの仕送りで,お姉さんはパリ大学の医学部に通った。

 3年余りが経つと,お姉さんが近い将来に医師として働ける見込みがついた。また,お父さんに,いくらか収入の多い仕事がみつかった。これで,マリアもどうにか留学できる。

 「3年」というのは,とくに若い人にとっては,長い時間である。その間にマリアは,何度も「もう留学なんて無理,どうでもいい」という気持ちになった。片田舎での寂しい単調な毎日。マイナス思考になるのも無理はない。

 だから,せっかく留学の見通しが立ったのに,マリアは,「もう私の留学のことはいい」と,お姉さんに手紙を書いたりもしている。しかし,お姉さんや周囲の人たちの説得や励ましで,気をとりなおした。

 その後,試験勉強などの準備を経て,1891年,マリアはパリ大学の理学部に入学した。すでに24歳になっていた。

 4年後,彼女は数学と物理の学位を取得して卒業。その翌年の1895年には,在学中に知り合った8歳年上のフランス人物理学者ピエール・キュリー(1859~1906)と結婚した。

 彼女は祖国で教育者になることは断念し,ピエールの共同研究者として科学者の道を歩むことにした。

 2人は協力して研究を進め,ラジウムの発見などの成果により,1902年に夫婦でノーベル物理学賞を受賞した。その間に子宝にも恵まれ,研究の合間に家事・育児もこなした。多忙な,しかし充実した日々だった。
 だがその後,1906年にピエールが馬車による交通事故で不慮の死を遂げてしまう。

 彼女はピエールの後任として,女性初のパリ大学教授に就任し,その後も研究と後進の指導で活躍した。1911年には,単独でノーベル化学賞を受賞している。

 **

 このようなキュリー夫人の物語は,子供や学生よりも,むしろ大人のほうが感動するのではないだろうか。
 人生経験を積んだ大人は,お金や生活の苦労というものを十分にイメージできる。

 そして,ほとんどの大人には,「自分はこういうふうにはできなかったなあ」という感覚がある。それが勉強であれ何であれ,自分はこれほど懸命にやりたいことをやり抜くことなく大人になった。だから,彼女をほんとうに「素晴らしい」「すごい」と感じる。

 私もそのクチだ。自分の若い時代に対し,それなりの後悔というか,「あれをもっとやればよかった」という感じがある。

 私が学生時代にこの話に触れたとしたら,「説教くさい」と思っただろう。

 しかし,会社に就職して多少の経験を積み,「人生なかなか思うようにはいかない」という感覚がよくわかるようになってからは,この手のエピソードに素直に感動できるようになった。「思うようにいかない」ところを,それでも何とか乗りこえるのは,素晴らしい。

 そして,読書のなかで出会う人物が「食い下がって学ぶ姿」に注目するようになった。そのような話に触れるたび,「自分も,自分なりに好きなことをやっていこう」と思ったものだ。(「好きなこと」とは,私の場合,読んだり書いたりすることだった。その延長線上で,今もこんなものを書いている)

 大人が,偉人の「学ぶ姿」に触れる最も大きな意義は,こういう「後押し」「励まし」を得られるということである。
 もちろん,子どもにとっても同じような意義はある。しかし,大人のほうがより深く理解できるのである。

 偉人の「食い下がって学ぶ姿」にも,いろいろある。キュリー夫人は見事なケースだが,ほんの一例である。そのさまざまなケースを知ることは,私たちに元気や知恵を与えてくれる。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月28日 (水) | Edit |
 昨日8月27日は,建築家ル・コルビュジエの亡くなった日で,前回の記事は彼の「四百文字の偉人伝」でした。
 今回は「四百文字」よりはヒトケタ多い分量の「〇千文字」で,ル・コルビュジエについて紹介したいと思います。
 といっても,彼の建築について語るというより,「独学者」としての彼の成長過程をおもなテーマにしています。


ル・コルビュジエ略伝 若者が巨匠になるまで

 偉人だって,最初は無名の若者にすぎなかった――あたりまえのことなのだが,私たちはこのことをつい忘れてしまう。

 それは,私たちがふだん接する「偉人」のイメージのせいだろう。
 
 たとえば,アインシュタインの肖像は,いかにも「ユニークな天才」という感じだ。ドラマに登場する勝海舟や西郷隆盛は,計り知れない大物である。とにかく,「ふつう」じゃない。

 しかし,彼らは最初からあんな「完成形」ではなかった。
 あれは,時間をかけた成長の結果である。
 そこに至るまでは,いろいろあった。きちんと書かれた伝記を読むと,それを実感する。「人は成長できるんだ」と思う。

 これから紹介するのも,そんな成長の物語である。ふつうの若者が「巨匠」になるまでの物語。

                       *

 ル・コルビュジエ(1887~1965スイス→フランス)は,20世紀を代表する建築家のひとりである。
 彼は,数々の邸宅や公共建築のほか,大風呂敷な都市計画などで知られる。積極的に文章を書き,講演をして,さまざまな概念やアイデアを提唱した。世界中から弟子が集まった。カリスマ性のある巨匠らしい巨匠だった。

 ル・コルビュジエは,30代以降のペンネームである。本名は,シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ。1887年,スイスのジュラ地方の小さな町に生まれた。この地方は時計の名産地である。父親は時計の装飾加工の職人だった。

 ジャンヌレも時計関係の仕事をめざした。義務教育を終えると,13歳で地元の美術学校の彫金・彫刻コースに入学した。彫金は,時計の装飾に用いられる。
 彼は,優秀な生徒だった。彫金の作品が博覧会で賞をとったこともあった。画家でもあったレプラトニエ先生という恩師とも出会った。先生から,文化・芸術の新しい潮流について教わり,影響を受けた。

 しだいに,時計製作の世界が狭く退屈なものに思え,別の道にすすみたくなった。だが,具体的にはどうしたらいいかわからない。

 17歳のとき,レプラトニエ先生が「建築をやったらどうか」とすすめてくれた。
 先生の紹介で,地元で家を一軒建てる仕事に,若い建築家とともに参加した。設計から深く関わって,取り組んだ。

 その仕事で,知識や経験のほかに,多少の報酬を得た。若者がしばらくのあいだ貧乏旅行できるくらいの金額。
 19歳のジャンヌレは,旅に出た。広い世界がみたかった。イタリア各地はじめ,ウィーン,パリをめぐって,故郷に戻ったのは2年後のことだった。

 この間,さまざまな建物をみてはスケッチをしてメモをとり,何人かの新進の建築家にも会いに行った。
 パリのペレ(ペレ兄弟)という建築家の事務所では,14ヶ月ほど働かせてもらった。ペレは,当時は珍しかった鉄筋コンクリート建築の先駆者である。

 長い旅から戻ったジャンヌレは,22歳のとき(1909年),故郷の町で独立の建築家として活動をはじめた。
 だがその後,また旅に出ている。23歳のときにはドイツに行き,ベルリンの大きな設計事務所で何か月か働いた。24歳のときには,数か月ほどギリシアやイタリアなどをみて歩いた。
 しかし,それ以降の数年間は,故郷で仕事を続けた。この間に,両親の家を含め数件の住宅を設計した。

 それと並行して,「規格化によって低コストで住宅を量産するシステム」など,田舎町の建築家らしくない,先端的なことがらについても研究を続けていた。

 そして30歳のとき(1917年)には,故郷を離れ,パリに移り住んだ。
 多少の実績を積み,人のつながりもできたので,そのまま故郷にいればやっていけるはずだった。しかし,もっと広い世界で活躍したかった。
 
 パリで開業したものの,田舎で家を何件か建てただけの若い建築家に,そうそう仕事は来ない。不安定な生活が続いた。

 そんな中,33歳のとき仲間と小さな雑誌をはじめた。文化や芸術についての評論誌。記事の大半を,友人のひとりとジャンヌレの2人が書く,手作り感覚の雑誌である。
 しかし,斬新な内容で,先端的な一部の人たちのあいだでは評判となった。ジャンヌレが「ル・コルビュジエ」のペンネームで書く建築論も,反響を呼んだ。

 雑誌がひとつのきっかけとなり,新しモノ好きのお金持ちから住宅の仕事がぽつぽつ入るようになった。30代半ばには,仕事が軌道に乗ってきた。

 そのころに彼は,おもにパリを想定して「古い都市を,超高層ビルが並ぶ近代都市に改造する」という計画案を発表している。実現する見込みなどない。それでも,大風呂敷を広げて社会に訴えた。30代後半には,最先端をいく建築家の1人として,知る人ぞ知る存在になっていた。

 40代前半に手がけた「サヴォワ邸」(1931年完成)は,賛否両論あったが反響を呼んだ。
 この邸宅は現在,近代建築の重要な作品としての評価が定まっている。

 また,以前は金持ちの邸宅づくりが仕事の中心だったが,だんだん公共建築の仕事も来るようになった。
 このあたりで彼は,当代一流の建築家になった,といっていいだろう。

 50代には,第二次世界大戦(1939~45)があった。戦争の時代は,建築の仕事はどうしても限られてしまう。すでに世界的な名声を得ていたが,彼には冬の時代だった。

 戦争が終わってから,仕事が再び動きはじめた。
 彼は60歳になろうとしていた。戦後の60歳前後から70代にかけての時期は,彼にとって実りの多い時期だった。建築史に残る大きな傑作をいくつも残した。
 
 とくに有名な代表作が,この時期には目白押しである。
 たとえば,集合住宅・マルセイユのユニテ・ダビタシオンの完成は1952年(彼は65歳)。
 「ロンシャンの礼拝堂」の完成が1955年(68歳)。
 ラ・トゥーレット修道院の完成が1959年(72歳)。

 この時期の仕事によってル・コルビュジエは,20世紀を代表する巨匠になったのである。
 そして1965年に77歳で急死(海水浴中に心臓麻痺)するまで,仕事を続けたのだった。

                          *

 ル・コルビジュエの成長過程をまとめてみよう。

①時計職人をめざす少年  ②恩師の導きで建築の仕事を体験  ③海外を放浪  ④建築事務所でバイト  ⑤田舎の若い建築家  ⑥大都会で開業するが仕事なし  ⑦雑誌で情報発信をして仕事が来るように  ⑧先端的な建築家として頭角をあらわす  ⑨一流の建築家として認められる  ⑩世界的な名声の確立  ⑪20世紀の偉大な巨匠

 このように,無名の若者がだんだんと成長して,巨匠になっていったのである。成功した建築家の人生は,そのプロセスを典型的に示してくれる。

 建築は,お金を出す依頼者がいて,はじめて作品をつくることができる。
 そこが小説や絵画などとはちがう。若手に大きな仕事の依頼は来ない。実績を積むにしたがって仕事のスケールが大きくなり,ピークが人生の後半以降にやってくる。それが「建物」という目にみえるモノで示される。

 一歩一歩の成長ということじたいは,ほかの分野にも共通したことだ。

 たとえば,アインシュタインは20代で偉大な業績を残したが,彼だって最初は初歩的なレベルから科学の勉強を重ねたのである。あたり前のことだ。ただ,その成長のプロセスは内面的であり,また専門的すぎて私たちにはわかりにくい。

 だから,「人は一歩一歩成長する」ということをみるには,建築家をサンプルにするといいのである。

                          *

 さて,現代の日本にもル・コルビュジエを思わせる人がいる。
 建築家・安藤忠雄さん(1941~)である。

 安藤さんは,大学も出ず,特定の先生にもつかず建築を学んだ。ル・コルビュジエと同様,独学で建築家になったのだ。また,若いころ少しだけプロボクサーをしていたという異色の経歴もある。そんな話を聞くと,人間ばなれしたカリスマ性を感じてしまう。

 しかし,安藤さんもまた一歩一歩成長していった人である。

 若いころの安藤さんが建築の勉強で活用したのは,二級建築士の通信教育という地道な方法だった。それで基礎知識を学んだあとは,いくつかの設計事務所で製図などのバイトをした。
 ル・コルビュジエに影響を受けたのか,お金を貯めてヨーロッパの建築をめぐる貧乏旅行にも行っている。

 そして,28歳で小さな事務所を立ち上げた。最初のうちは仕事もなく,苦しい日が続いた。
 
 その後,事務所設立から10年ほど経って,ある個人住宅の仕事が舞い込む。小さな土地に建てる小さな家。この仕事が大きな賞を受け,一躍有名になる(「住吉の長屋」1976年完成)。
 その後もさまざまな国内外の賞を受賞する活躍を続け,世界的な建築家になった。

 ここでも,ふつうの若者が経験や実績を積み重ねて巨匠になっていったのである。二級建築士になるための通信教育。それが,「世界のアンドウ」への第一歩だった。

参考文献:ジャン・ジャンジェ『ル・コルビュジエ 終わりなき挑戦の日々』創元社,『ブルータス・カーサ特別編集 新訂版 誰にでもわかる20世紀建築の3大巨匠+バウハウス』マガジンハウス,ノルベルト・フーゼ『ル・コルビュジエ』PARCO出版,『太陽』2000年2月号 特集「安藤忠雄の発想力」平凡社,『NHKテレビテキスト 仕事学のすすめ 自ら仕事を創造せよ 安藤忠雄』NHK出版

(以上)
テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月29日 (土) | Edit |
ホッファー
エリック・ホッファー

 世の中には,独学で「大インテリ」になった人がいます。
 前回紹介したのは,三浦つとむという昭和の後半に活躍した哲学者。

 今日ご紹介するのは,エリック・ホッファー(1902~1983)というアメリカの思想家です。
 上の写真のおじさんです(エリック・ホッファー自伝―構想された真実 作品社より)。

 「独学」というけど,この人の場合は,学校教育というものを,小学校からまったく受けていません。
 7歳のときに失明して,ずっとニューヨークの下町にある実家にこもっていたのです。ほんとうに極端な独学者です。

 しかし,15歳のとき(1917年)に突然視力が回復。
 失明する前の幼いころ,すでに字を読めるようになっていた彼は,むさぼるように本を読みはじめます。「また目が見えなくなる前に読めるだけ読んでおこう」という気持ちがありました。

 18歳のとき,家具職人だった父親が亡くなりました。母親もすでになくしていたので,天涯孤独となりました。

 父の死にあたり,家具職人の組合から300ドルが出ました。今の日本円で200~300万円くらいか。

 そのお金をもってロサンゼルスへ。暖かいカルフォルニアなら,どんなに貧乏でも(ホームレスでも)なんとかなると思ったのです。
 ロサンゼルスでは,300ドルがなくなるまで仕事もせず,図書館の近くのアパートで,ひたすら本を読んでいました。

 その後,お金が尽きると,日雇い労働者の仕事を転々としていくことになります。
 20代後半には,定職(倉庫管理の仕事)に就いたこともありますが,2年で辞めてしまいました。

 仕事を辞めたあとは,貯金で食いつなぎながら,また読書ざんまいの日々。
 貯金が尽きると,とうとう思いつめて,毒を飲み自殺をはかります。
 でも,死ねませんでした。28歳のときのこと。

 その後は,ロサンゼルスを離れ,10年ほど放浪生活を続けます。カルフォルニア各地の農園や鉱山で,季節労働者として働きました。
 そして,仕事の合間に,行く先々の町で図書館に出入りして,読書を続けました。

 その時期に彼は,フランスの思想家モンテーニュ(1533~92)の『エセー』という古典に出会いました。

 鉱山の仕事で山にこもることになるので,「時間つぶしになる分厚い本を」と,古本屋で買ったものです。
 そして,山ごもりのあいだに,ほとんどおぼえてしまうくらい,『エセー』をくり返し読みました。

 モンテーニュの『エセー』は,「アフォリズム(警句)」の集合として書かれています。アフォリズム的表現が核になっているエッセイ集,といったらいいでしょうか。
 アフォリズムというのは,せいぜい数百文字くらいの短い言葉で,気の利いたこと・深いこと・鋭いことを述べていく,文章の形式です。

 ホッファーは『エセー』を通して,アフォリズム的世界に魅せられました。
 のちに彼が書く文章の多くは,アフォリズムです。あるいは,アフォリズムをベースに,それに肉付けしたエッセイです。

***
 
 30代の終わりに,彼はサンフランシスコにやってきます。
 そこで,港で船の荷物を運ぶ「港湾労働者」として働きはじめました。この仕事が気に入り,以後ずっとサンフランシスコで暮らしました。放浪生活は終わりです。

 その後彼は,仕事の合間に,「読む」だけでなく「書く」こともはじめました。雑誌に何度か投稿して,ある雑誌編集者と知り合ったりもしました。

 その編集者の励ましも受けながら,彼は40代の半ばの数年をかけて,1冊の本を書き上げます。
 
 本のタイトルは,The True Believer 。
 直訳すれば「根っからの信者」「熱狂的な信者」といったところでしょうか。
 
 この本が書かれたのは,第二次世界大戦が終わった直後。
 かつてのナチス・ドイツなどのファシズム(軍国主義の一種)や,戦後になって急速に台頭してきた共産主義などを支える「大衆運動」というものをテーマにした本です。この本には「大衆運動の本質について」という意味のサブタイトルもあります。

 ファシズムや共産主義といったイデオロギーに熱狂し,熱心な支持者・活動家になる人たちの心理。
 それを,独特のアフォリズムの形式で語っている本です。

 この本は,書き上げたあと3年がかりで出版にこぎつけます。1951年,ホッファーが49歳のとき。
 
 この処女作は評判を呼び,彼は思想家・文章家として認められました。
 The True Believer は,1961年に日本でも出版されました。
 邦訳のタイトルは,『大衆運動』(もともとは『大衆』だったが,改題。紀伊國屋書店刊)。

 以後,約30年のあいだに十数冊の本を出版。社会・政治批評,文明論,歴史論,人生論などにかんするアフォリズム集やエッセイ集です。『自伝』も書いています(『エリック・ホッファー自伝』作品社)。
 そして,かなりの読者や知名度を獲得しました。

 1964年から72年までは,カルフォルニア大学バークレー校で,非常勤講師をつとめたりもしています(でも講義は担当せず,週1回講師室に座って,やってきた学生と対話する,ということをしていた)。

 それでも彼は,港湾労働の仕事を辞めませんでした。

 週何日か体を動かして働いて,合間に図書館通い。
 粗末な机で文章を書く。本は借りてくるばかりで,ほとんど持たない。
 そんな暮らしが気にいっていたのです。
 1967年,65歳のときに彼は港湾労働の仕事を「定年退職」することになりますが,そのときは残念がっていたそうです。

 以上,じつに「たぐいまれな人生」だと思います。
 三浦つとむ以上に,「こんな人がいたんだー」とおどろきます。

***
 
 では,彼はどんな文章を書いたのか。
 たとえばこんなアフォリズム。処女作からではないですが,そこでのテーマである「大衆運動」につながる心理を述べたもの。

 情熱の大半には,自己からの逃避がひそんでいる。何かを情熱的に追求する者は,すべて逃亡者に似た特徴を持っている。
 情熱の根源には,たいてい,汚れた,不具の,完全でない,確かならざる自己が存在する。だから,情熱的な態度というものは,外からの刺激に対する反応であるよりも,むしろ内面的な不満の発散なのである。


***

 われわれが何かを情熱的に追求するということは,必ずしもそれを本当に欲していることや,それに対する特別の適性があることを意味しない。多くの場合,われわれが最も情熱的に追求するのは,本当に欲しているが手に入れられないものの代用品にすぎない。だから,待ちに待った熱望の実現は,多くの場合,われわれにつきまとう不安を解消しえないと予言してもさしつかえない。
 いかなる情熱的な追求においても,重要なのは追求の対象ではなく,追求という行為それ自体なのである。


(『魂の錬金術 エリックホッファー』作品社 所収「情熱的な精神状態」より,中本義彦訳)

***

 どうでしょう。シビれる人はかなりシビれるはずです.
 私もそうでした。ガツーンときた,といってもいい。
 (もちろん,ピンとこない人もいるでしょう)
 
 読書と思索を重ねつつ,社会の底辺で働きながら「世間」をみてきた人間の,深い洞察力を感じます。

 そして,このような「エリック・ホッファーの世界」に,私は「現代性」も感じています。

 まず,アフォリズムという,コンパクトな表現のスタイル。
 これは,ネット上の表現やコンテンツになじみます。
 今のネット上では,表現の単位がどんどん小さくなっています(私のこのブログはその点で時代おくれなんでしょうね……)

 彼のアフォリズムは,「エリック・ホッファーのツィート」です。
 ものすごく磨かれ・深められた「ツィート」といえるでしょう。

 そして,「底辺の労働者」という,彼の「立ち位置」。
 これは,最近の「格差社会のなかでの,不利な立場からの主張」と通じるところがあります。

 ただし,ホッファーは一筋縄ではいきません。彼は「弱者」「大衆」といったものを,突き放した目でみています。さきほど引用したアフォリズムは,まさにそうなのです。しかし一方で,「大衆」の視点から世界をみるということを貫いている。
 
 今のネットの世界には,たくさんの「エリック・ホッファー」がいます。
 「エリートの立場」とは無縁なところで,社会や人間を語り,自己表現する人たち。

 あたりまえですが,その表現の多くは,ホッファーの境地には遠く及ばない。
 (このあたり,自分のことはおいておきます)

 でも,心に迫る言葉に触れることもある。
 荒削りで「完成品」からは遠いかもしれない。ホッファーのような学識はないかもしれない。でも,迫力や心情や鋭さが伝わってくる表現に出あうことがある。
 そのなかから,「21世紀のエリック・ホッファー」が出ないともかぎらない。

(以上) 
テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月28日 (金) | Edit |
三浦つとむ
三浦つとむ(1976年)

 世の中には,「極端な独学者」といえる人がいます。
 高等教育を受けることなく,「大インテリ」になった人。

 明治生まれの哲学者・三浦つとむ(1911~1989)は,そんなひとりです。
 上の写真のおじさん。私の好きな学者です(写真は『唯物弁証法の成立と歪曲 三浦つとむ選集・補巻』勁草書房より)。

 彼は,家が貧しかったので,勉強はできたのですが,「東京府立工芸学校中退」という学歴です。今なら高校中退といったところ。

 しかし,昭和の戦後の時代に思想家として多くの著作を発表し,広く知られるようになりました。
 たとえば,去年亡くなった,有名な評論家の吉本隆明(「吉本ばなな」のお父さん)が主催する雑誌『試行』で,おもな書き手のひとりだった,といえばどうでしょう?「立派な知識人」という感じがしませんか?

 では,どんな業績があるのか。
 まず1950年代における「スターリン批判の先駆者」というのがあります。

 スターリンは,社会主義の総本山である「ソ連(今のロシア)」の指導者です。その思想や理論を批判したのです。
 それは,マスコミでよくみかけるような,権力者にちょっとケチをつけた,といったものではありません。
 堂々と,系統だった論陣を張って,批判したのです。

 「だからどうした」と思うかもしれません。
 でも,それは当時,たいへん勇気のいることでした。たとえていえば,「カトリックの神父が,ローマ法王に神学論争を挑んだ」というかんじです。

 当時の三浦は共産党員でした(のちに,除名)。そして,今では想像もつかないくらい多くの知識人が,共産党や社会主義に共鳴していました。社会主義には,たいへんな勢いがあったのです。その中で,スターリンは神のように尊敬されていました。
  
 でも,その後の社会主義の末路をみると,三浦は正しかった,ということです。

 社会主義の権威がピークだったのは,1950年ころです。そこからは世界的に,いろんな批判や,権威の低下ということがおこってきます。

 三浦のスターリン批判は,そんな「世界の潮流」の先駆けのひとつでした。あとでふりかえると,そういうことになります。
 
 そんな「世界的」なことを,日本人の,それも「高校中退」の独学者がやってのけたのです。

 三浦のほかの業績としては,言語論があります。「言語過程説」という学説に基づいて,理論書を書きました。
 言語過程説は学界ではまったくのマイナーですが,三浦理論は,日本の言語学にひとつの足跡を残したとはいえるでしょう(私は,彼の理論が基本的に正しいと思っていますが)。

 そして,三浦の「スターリン批判」は,スターリンの言語理論を批判したものでした。
 「スターリンのような政治家が言語理論?」と思うかもしれませんが,当時の社会主義の指導者は「万能の超人」を売りにしていました。つまり,政治や軍事のほか,学問も芸術もすごい人なんだと。そこで,そんな学問的理論も発信していたのです。

 また,彼の言語論の啓蒙書『日本語はどういう言語か』は,何十万部ものベストセラーになりました(今も講談社学術文庫で読めます)。

 ほかにも,「弁証法」という,論理学の一種についての解説書や,弁証法をからめた人生論など,多くの著作を残しました。
 映画や落語やことわざなどを自在に引用しながら,「下町」なかんじで哲学を語る,その独特な世界が多くのファンを得ました。

                        *

 三浦は,修業時代に,どんな独学をしたのか。

 若いころの彼を知る人は,博覧強記の読書家だったといいます。
 でも,ビンボーで本はほとんど買えません。また,当時(昭和の戦前期)は,図書館も今のようには充実していませんでした。
 だから,本屋さんで立ち読みして,短時間で必死にアタマに入れたそうです。

 それから,少し変わった仕事をしていました。
 ガリ版(コピーが普及する前に一般的だった簡易な印刷方法,その原版)作成の内職の仕事です。
 それも,東大の講義ノートのガリ版をつくっていました。

 まじめな学生が書いた講義のノートを何冊か集めて,それを集約した参考書のようなものをつくる。
 そうやって,東大の講義をふつうに受ける以上の知識を身につけたのです。

 どうでしょう? 「そんな人がいた」ということに,ちょっと驚きませんか?

 三浦の「文章家としてのデビュー」も,かなり「異端」なかんじです。

 三浦が若いころに通っていた映画館で,毎週発行していたミニコミ誌のようなチラシがあり,彼はそこにしばしば投書していました。
 その投書がいつもすばらしいので,映画館主が,彼に原稿を依頼した。そして毎号,映画の短評を書くようになったのが,彼の「デビュー」です。

                       *
 
 有名になってからの三浦の自宅を訪ね,その書斎をみた人から,話を聞いたことがあります。
 今は80代のその方が,若いころのこと。

 その人は,びっくりしたそうです。
 本が少ない。
 大きくはない書棚がひとつかふたつ。

 そこに,マルクスやヘーゲルや,言語学の著名な本などが並んでいる(ドイツ語の原書もあります)。
 
 それしかない。

 すでに有名な知識人になり,本を買うお金はあったはずなのに,「多くの本が並んだ立派な書斎」をつくることを,三浦はしませんでした。

 彼の読書の中心は,マルクスやヘーゲルのような基本の古典を読み込むこと。
 そして,おそるべき理解力・洞察力で,自分のものにしてしまう。
 それをベースに,「自分の考え」を構築していく。
 (前回のこのブログの記事でいう「つくる読書」)

 一方で,いろんな本を読み,知識を広げることもしています(「広げる読書」)。
 哲学書,専門書から,文学全集,推理小説,落語にいたるまで,いろいろインプットしている。

 でも,読んだ本を自分の蔵書として蓄積していくことはしないのです。

 中年になってからの三浦は,もう「立ち読み」ではなく,本は買っていたはずです。
 立ち読み感覚で,本は読んだら処分していたのでしょうか?

 この読書のスタイルは,彼の仕事に反映しています。

 三浦の仕事は,マルクスなどの古典をベースに,もっぱら「考え方」を述べていくものです。
 多くのデータや資料を駆使して,という仕事ではありません。
 膨大な文献にあたって歴史小説を書いた,司馬遼太郎あたりとはちがうわけです。

 そのような三浦の述べる「考え方」は,平明に書かれているのに,鋭くて,パワーがありました。
 ある知識人は,「三浦つとむにかかると,何でもわかってしまう」といいました。

 データや事実の積み重ねは少なく,もっぱら「理論」や「考え方」で押し通す。

 「考え方主義」とでもいったらいいでしょうか。
 それが三浦つとむの世界でした。

 それにシビれた人は,とにかく「考え方」を磨けばいい,とする傾向がありました。そして,一般的な学者が書くような「知識」中心の本をバカにするところがありました。

 そんなスタイルで,10年20年「独学」していったら,どうなるか……

 三浦つとむだって,「そんな,〈考え方〉だけじゃ,どうしようもないだろう,もっと本を読め」と言うんじゃないでしょうか……(そういう発言を読んだり聞いたりしたわけではありません。言っているかもしれませんが,思いだせません)

                        *

 さて,もうひとり,ろくに学校に行かずに「大インテリ」となった「極端な独学者」がいます。
 彼も,三浦と同じように「立派な書斎」をつくりませんでした。読書はもっぱら図書館です。
 
 アメリカの思想家のエリック・ホッファー(1902~1983)という人。
 
 ホッファーは三浦より9歳年上ですが,ほぼ同時代の人といえるでしょう。

 私は,ホッファーのことを「アメリカの三浦つとむ」だと思っています。
 でも,世界的にはホッファーのほうがたぶん有名なので,三浦つとむが「日本のエリック・ホッファー」というべきでしょうか。

 つぎは,エリック・ホッファーの話をしますね。

(以上)
 
2013年05月25日 (土) | Edit |
ふたりのイームズ
 
 この前の日曜日,「渋谷アップリンク」というミニシアターで,『ふたりのイームズ 建築家チャールズと画家レイ』(監督:ジェイソン・コーン,ビル・ジャージー,2011年)という映画を,カミさんと観てきました。

 チャールズ&レイ・イームズ(イームズ夫妻)は,20世紀のアメリカを代表するデザイナーで,映像作家でもあります。彼らについてのドキュメンタリー映画です。関係者へのインタビュー,資料映像,そしてイームズ自身の映像作品などで構成されています。イームズのことは,このブログでも何度かとりあげています。

 関連記事 イームズの仕事  イームズ伝1  イームズ伝2

 この映画は,おそらく「イームズの仕事の幅広い領域を,かなり包括的に紹介した最初の映画」です。
 彼らの仕事で最も有名な,イスのデザインや建築だけでなく,生涯で百数十本製作した映像作品や,科学や歴史にかんする展示の製作といった,日本ではあまり知られていない仕事についても,きちんと取りあげています。たくさんの素材を,うまくまとめています。
 
 だからこの映画は,「イームズ入門」の,ひとつの定番となるでしょう。
 イームズファンとしては,こういう映画ができてよかった,と思います。

 でも,これだけの映画をつくれる,イームズをわかっている監督なら,もっともっと「入門」に徹してほしかった。チャールズとレイの人間的な部分や,夫婦としての関係や,チャールズに「愛人」がいたなんて話はカットして,「イームズは何をした人か」ということを,もっと紹介して欲しかった。

 たとえば,映画のなかで,ある関係者が「チャールズは,たんなるモノのデザインを超えて,概念を表現した」といっていました。たしかにそうだと思います。
 では,その「概念」ってどんなものだったのか? そもそもデザインで「概念」を表現するって,どういうこと? こういうことは,彼のつくった映像や展示にもあてはまります。

 イームズは,何を考え,何をつくったのか。
 もしも,このあたりのことに,さらに踏み込めたら,さらによかったのですが……
 それは「ないものねだり」でしょうか? 「概念」なんて,映画じゃムリ?
 でも,イームズの映画は,それをやっていました。たとえば,イームズ映画の代表作「パワーズ・オブ・テン」は,「宇宙における,極大から極小までのイメージ,その階層性」といった大きな概念を,8分あまりで表現したものです。

 今度は,「イームズの仕事」という大きな世界や概念を,さらに伝える映画ができたらいいと思います。
 つまり,「イームズの映画みたいに,イームズのことを伝える」映画。
 たしかにむずかしそうです。やっぱり「ないものねだり」かもしれません。

(以上)
 
2013年02月18日 (月) | Edit |
 アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記の2回目。

 今回は,地元セントルイスでの住宅の仕事が建築家エリエル・サーリネンの目にとまり,サーリネンが校長をつとめるクランブルック美術学院に研究生として招かれたあとのイームズ。「イスづくり」に取り組みはじめて苦闘していた時代です。
 
イームズ伝2

クランブルックでの出会い
 1938年,31歳のイームズは,妻子をおいて1人で五大湖周辺の町,クランブルックにやって来ました(彼には娘が1人いました)。
 クランブルック美術学院には,さまざまな分野のアーティストが集まっていました。
 イームズは,図書室で本を読みあさり,陶芸,織物,金細工,写真などの部門にも出入りして,いろいろ吸収しました。一応は建築系部門の所属でしたが,そこにじっとしていることはありませんでした。
 一般の感覚では「変な人」といえるでしょう。しかし,この時期に得たものは,彼がのちに多彩な活動を行ううえで役立ったはずです。
 
 翌年,イームズはこの学校の講師にスカウトされました。そこで妻子を呼び寄せましたが,すでに夫婦の仲は冷え切っており,やがて離婚となりました。

 クランブルックでイームズは,さまざまな人と出会いました。
 とくに,エリエル・サーリネンの息子の建築家エーロ・サーリネン(1910~61)とは親友になりました。
 エーロ・サーリネンは,のちに世界的な建築家になりました。51歳の若さで亡くなってしまうのですが,「ミッドセンチュリー(1940~60年代)」を代表する建築家の1人として名を残しています。

 もう1人,美術学院の学生であるレイ・カイザーと出会いました。
 イームズと結婚して,レイ・イームズ(1912~1988)となる女性です。
 
 レイは,クランブルックに来る前は,ニューヨークで画家をめざしていました。著名な画家のもとで,抽象画(特定の何かを表さない,抽象的な線や色彩で描かれた絵)という,当時の新しい表現を学んでいました。
 しかし,もっと広く美術やデザインを学ぶために,クランブルックにやってきたのでした。画家として一本立ちすることのむずかしさや,絵画という表現自体の限界などを感じていたようです。

 クランブルックに来た当時のレイにはまだ,職歴も業績もありません。「美術家・デザイナーの卵」といったところです。
 しかし,彼女と出会ったイームズは,彼女のなかに非凡な才能を見出しました。
 イームズは,レイが生活と仕事の両面でパートナーになってくれることを望むようになりました。そして2人は,1941年に結婚したのでした。

イスという小さな建築
 クランブルックに来てしばらく経った1939年ころからイームズは,エーロ・サーリネンと共同で,イスをつくりはじめました。
 また,その仕事に関心をもったレイもやがて参加するようになって,イームズと知り合ったのです。

 なぜ,イスだったのでしょうか?
 
 それは「自分のおかれた条件のなかで,できることに取り組んだ」ということでした。
 建築には予算や依頼者の意向など,さまざまな制約があります。しかし,家具というもっと小さなものなら,つくりたいものを実現しやすいのです。
 なかでもイスは,人の体を支えるので,棚やテーブルなどのほかの家具以上に複雑な構造や技術で成り立っています。
 イームズたちは「小さな建築」のつもりでイスづくりに取り組んだのでした。

 イームズは,後年のインタビューでこう語っています。

  椅子はまさに「ミニチュア建築」なんだ。建築家にとって建築物をコントロールするのは難しい。工事業者やもろもろの圧力がのしかかってくるし,何をするにも金がかかる。だが,椅子の場合はほぼ等身大で扱える。だから(フランク・ロイド・ライトをはじめ)…数え切れないほどの建築家が椅子を手がけている。その理由は,実際に自分自身の手でつくれるからさ。
(『Eames-The Universe of Design』より再引用)

オーガニックチェアという「試作品」
 イスづくりにあたって,イームズとサーリネンは成型合板という,合板(ごく薄い板を何層か張りあわせてつくった板。いわゆるベニヤ板)を加工する技術に注目しました。
 合板に熱を加え,型にはめて圧力をかけると,曲面をつくることができました。「成型」というのは「型にはめて,ある形をつくること」です。成型合板は,20世紀になって普及した,当時の新しい技術でした。

 その技術を利用して,人間の体にフィットした,背もたれや座面をつくる。低コストで,高品質の美しいイスができるはずだ……。

 ただし,曲げた合板でイスをつくることは,イームズ以前にも行われていました。
 代表的なものとして,フィンランドの建築家アルヴァ・アアルト(1898~1976)による仕事(1930年代)などがあります。イームズたちは,そうした先駆者よりもさらに複雑で精密な曲面のイスをつくろうとしたのでした。
 
 彼らがつくりあげた「オーガニックチェア」という名の試作品は,1940年に権威あるコンペで賞を取りました。 「オーガニック」というのは「有機的な・曲線的デザイン」ということです。
 そして,あるメーカーのもとで製品化することになりました。しかし,当時はその複雑なデザインの通りに合板を加工する技術が確立していませんでした。
 ていねいに手づくりすれば何とかなるのですが,大量生産はできません。
 そこで,オーガニックチェアはわずかしかつくられませんでした。製品としては失敗でした。

オーガニックチェア(1940)
1940年のコンペに出品したオーガニックチェア 
(『Eames-The Universe of Design』マガジンハウスより)

アアルト パイミオ
アアルトの成型合板のイス(1931年)
(島崎・野呂・織田『近代椅子学事始』ワールドフォトプレスより)
 
 また,1941年の末には日米の戦争がはじまりました。翌年にはその影響で物資が不足してきたこともあり,オーガニックチェアのプロジェクトはストップしてしまいます。
 そしてそのころ,エーロ・サーリネンは建築の仕事が忙しくなり,イームズとの共同作業からは離れていきました(しかしそれからもイームズとサーリネンの友情は続きました)。

カルフォルニアへ
 1942年,イームズはクランブルック美術学院を辞め,レイとカルフォルニア州のロサンジェルスに移りました。
 クランブルックで教師を続けていればそれなりに安定していたのですが,どうしてもイスの仕事を成し遂げたかったのです。

 イームズは映画の美術スタッフのバイトをして食いつなぎながら,アパートでレイとともにイスの試作をくりかえしました。個人的に自腹を切っての取り組みです。
 アパートでそんな作業をしてはいけなかったのですが,かくれて行いました。

 オーガニックチェアの失敗(量産できなかった)をくりかえさないために,彼らがまず取り組んだのは,成型合板という素材の性質や扱い方について探究することでした。
 板を曲げるための,電熱線を用いた機械も,自分たちでつくりました。そうやって実験や試作をくりかえしました。
 その過程でデザインを練り上げていったのです。

 理想的な「外見」をまず考え,「どうやってつくるか」はあとまわし,というのではないわけです。
 まず 「量産する」という制約条件から出発して,デザインを考える。
 しかし安易に流れることなく,その「制約」と格闘しながら,理想的な「答え」をさがしていく。
 
 そのような作業をとおして,イームズは「デザインにおけるもっとも大事なこと」をつかんだといえるでしょう。
 それは「制約の重要性」ということでした。
 のちに,ある対話のなかでイームズはこんなことを言っています。

 イームズ「デザインが制約に負うところは大きいと思います」
 質問者 「どのような制約ですか?」
 イームズ「あらゆる制約です。デザインの問題を解く鍵もそこにあります。…デザイナーに必要なのは,できるだけ多くの制約を識別する能力,制約の中で働こうとする意志と情熱です。価格,サイズ,強度,バランス,外観,時間。制約は無数にあります。こうしたリストがどの問題にもあるのです。」
     
(イームズ・デミトリオス『イームズ入門』日本文教出版)

イームズの作業場
当時のイームズの作業場(左側にあるのは合板を曲げるための自作の装置)
(『Eames design』より)
 
 成型合板を使った新しいイスをつくるという取り組みは,しだいに前進していきました。

 しかし,このころはイームズにとって精神的にも経済的にもきびしい時代だったようです。
 試行錯誤の毎日でしたが,めざすものを完成できる保証はありません。仮に完成したとしても,戦争が本格化してきたので,いつ量産できるかもわかりません。
 イスの試作にかかる費用も,かぎられた収入で暮らすなかでは重たい負担でした。
 個人的にも,世の中的にも,まさに「先のみえない」状態だったわけです。

(つづく)

テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月17日 (日) | Edit |
 アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記。
 以前の記事を若干編集し,あらためてアップしたものです。

 「イームズは何をした人か」についてまったくご存じない方は,このブログの以下の記事をご覧ください。
1月26日「イームズの仕事」:イームズの最も有名な仕事である,イスのデザインについて紹介しました。
1月20日「フランクリン的な人たち」:ベンジャミン・フランクリン,トマス・エジソン,イームズの共通性を論じました。この3人はみな,よく働き,よく学んで創造的に生きた人たちだと。
 
 これから何回かにわたって,イームズの生涯(とくにその前半)を追っていきたいと思います。 
 まず,生い立ちから,若いころの,まだ「自分は何者か」について模索していた時代のイームズ。

イームズ伝1

生い立ち・子どものころから働く
 チャールズ・イームズは,1907年にアメリカ中部のセントルイスで生まれました。父親は,民間人として事件捜査や犯人逮捕を行って報酬を得る「民間捜査官」という仕事をしていました。
 幼いころのイームズは,商品のラベルや説明書を読むのが大好きという,好奇心の強い子どもでした。

 7歳のとき,父親が仕事中に犯人に撃たれ,ケガで思うように働けなくなりました。小学生のチャールズは,家計を支えるためバイトをしました。父親はその後回復せず,彼が13歳のとき亡くなりました。

 高校は,週末や長期休暇のときには製鋼所で働きながら通いました。このとき,製図の仕事を手伝う機会がありました。たくさん図面を描くうちに,彼は建築に興味を持つようになっていきます。

大学を退学処分に
 高校を卒業すると,奨学金を得て地元の大学の建築科に進み,熱心に勉強しました。
 しかし1927年,2年生のときに退学処分になってしまいます。保守的な授業に不満だった彼が「もっと現代建築について教えるべきだ」と教授たちに強く主張して,怒りを買ったことが原因です。

 大学時代のイームズがとくに興味を持った「現代建築」というのは,フロンク・ロイド・ライト(1867~1959)というアメリカの建築家の仕事です。
 ライトは,今の評価では「現代建築の確立に貢献した,20世紀の最も偉大な建築家の1人」とされます。
 「落水荘」という邸宅(1937)や,ニューヨークのグッゲンハイム美術館(1959)などがとくに有名です。日本人には「帝国ホテル」(1923年竣工の旧館)の設計者としても知られています。

落水荘(磯崎新・鈴木博之『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より。つぎも同じ)
落水荘

グッゲンハイム美術館
グッゲンハイム

 なお,ライトと並ぶ「20世紀の偉大な建築家」というと,ほかにフランスのル・コルビュジエ(1887~1965),ドイツ人で,のちにアメリカに渡ったミース・ファン・デル・ローエ(1886~1669)といった人がいます。
 これらの人をあわせて「近代建築の三大巨匠」などということもあります。

ロンシャンの礼拝堂(ル・コルビュジエ設計,1951~1955)
(ジャン=ルイ・コーエン『ル・コルビュジエ』より)ロンシャン

シーグラム・ビル(ミース・ファン・デル・ローエ設計,1954~58)
四角い窓のガラスと鉄骨でできた,現代的な高層ビルのひとつの典型
(『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より
シーグラムビル

 ライトは,「三大巨匠」のなかでも,ほかの2人より20歳ほども年上で,若いころのル・コルビュジエやミースに影響をあたえました。まさに「元祖」といえる存在です。

 しかし,ライトはイームズの学生時代(1920年代)には,すでに有名ではありましたが,まだ「最も偉大な」というまでの評価は固まっていませんでした。
 専門家のなかには,「ライトのような新奇な建築は,そのうちすたれるだろう」と考える人もいたのです。今の私たちからみるとライトの建築はむしろクラシックなのですが,もっと古い感覚でみると,「新奇」だったのです。
 
 そして,イームズの大学では,そんな保守的な教授が主流でした。
 そんな中でライトのような新しい建築をもっと教えるべきだ,と主張して退学にまでなったイームズ。
 まさに「新しい感覚を持つ,元気のいい若者」だったといえるでしょう。のちに「現代建築」が建築の圧倒的な主流になっていったのをみれば,先見の明もあったといえます。

地元で設計事務所を立ちあげる
 フリーターになったイームズですが,1929年,22歳のときに大学の同級生だった女性と(最初の)結婚をしました。
 翌1930年には,仲間と2人で設計事務所を立ちあげます。地元セントルイスで個人住宅を中心に仕事をしました。

 だが,当時は「大恐慌」(1920年代末におこった世界的な大不況)の影響もあって仕事は少なく,苦しかったようです。
 彼にとって,建築の仕事は天職でした。しかし,自分がめざす新しい建築を実現するのはむずかしい。予算は限られており,地元のクライアントは保守的でした。

 そんな中,1933年,26歳のときにイームズは,長い旅に出ました。
 メキシコに行って8か月(あるいは10か月)ほど各地を放浪したのでした。仕事に限界を感じ,考えたいことや,新しい何かをつかみたいということがあったのでしょう。

 イームズはほとんどお金を持たず出発しました。肉体労働をしたり,絵を描いて売ったりしながら旅費を稼ぐ貧乏旅行でした。馬や徒歩で奥地の村を訪ねることもありました。あちこちでスケッチをしたり,民芸品をみてまわったりしました。

 メキシコから戻った彼は,セントルイスで新しい設計事務所を立ちあげ,建築の仕事を続けました。

 メキシコ旅行が,彼の仕事に直接大きな転機をもたらすことはありませんでした。
 しかし,メキシコの風景や民芸などに深く触れたことは,彼の美的なセンスの幅を広げてくれました。また,異文化のなかでも平気でのびのびやっていける感覚が身につきました。

 それから,彼がのちに振り返ったところによると,つぎのようなことがあります。
 それは,この旅行によって「少なくとも破産を恐れなくなった」ということです。
 これは,「無一文のきびしい条件でも,生きていける」という自信を得たということでしょう(しかし一方で,お金のことはやはり大切だと身にしみたようです)。
 そして,「お金のために意に沿わない仕事をすることだけはしない。どんな仕事でも,その目的に納得できないかぎり,引き受けない」ことを決意したのだそうです。

クランブルックへ
 その後,1938年,31歳のときに転機がありました。
 イームズの手がけた住宅が,エリエル・サーリネン(1873~1950)という著名な建築家の目にとまったのです。
 そして,サーリネンが校長を勤める「クランブルック美術学院」に研究員として来ないかと誘われました(「研究員」というのは,おそらく教員でもなく一般学生でもない,お客さんのような立場ということでしょう。給与が出たのではないかと思いますが,よくわかりません)。

 この学校は,五大湖周辺の町・クランブルックにあります。おもに大学卒業者を対象とした大学院にあたる学校です。
 まだ新しく知名度は低かったのですが,意欲的でした。そして,のちにおおいに発展して,今はデザインや美術の分野で世界的に権威のある学校になっています。

 イームズの奥さんは彼がクランブルックに行くことに反対でした。地元で落ち着いて暮らしたかったのです。セントルイスを離れれば,これまで仕事で築いてきたものを捨てることにもなります。しかしイームズには,建築のこと,仕事のことを考え直す絶好の機会だと思えました。
 イームズは1人でクランブルックに行くことにしました。

(つづく)

テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月26日 (土) | Edit |
 前に(1月20日に)「フランクリン的な人たち」という視点で,アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズのことをとりあげました。
 
 イームズは,建築やデザインの世界ではたいへん有名な人です。
 しかし,多くの一般の人たちには,かならずしも知られていません。

 以下は,「建築・デザインにとくに興味がない」という人にむけて,それこそ高校生でも読んでもらえるようにイームズの最も代表的な仕事を紹介したものです。
 イームズが取りくんだデザインの世界や,その考え方は,多くの人たちが知る価値があります。
 デザイン系の人たちのあいだだけではもったいない。

 とくに,若い人には知ってもらいたいです。「デザイン」の世界に興味があるという人が,これからはもっと増えたほうがいい。それが日本のためです。
 イームズは,「デザイン入門」の格好の素材です。

 写真は,おもに『Eames design』という,イームズの仕事を集大成した本からのものです(ただし「空港の待合イス」は『カーサブルータス特別編集 Eames The Universe of Dsigin』から)。
 
イームズの仕事

イームズ夫妻


「これ,みたことある」というイスをつくった人
 チャールズ・イームズ(1907 ~1978)は,モダンデザインの名作イスをつぎつぎと生み出したデザイナーです。建築家,映像作家としても後世に残る仕事をしました。
 その仕事の多くを,「チャールズ&レイ・イームズ」の名義で,画家・デザイナーの妻レイ(1912 ~1988)と協力して行いました。
 
 どんな仕事をした人かというと,たとえば代表作のひとつにこんなイスがあります。1953年につくられた「プラスチックサイドチェア」というイスです。その名のとおり,おもにプラスチックでできています。背もたれと座面がひとつながりになっているのが特徴です。

シェルサイドチェア

 こういうイスを,駅のホームやスタジアムなどでみかけたことがありませんか? そのほとんどは,イームズのデザインを直接・間接にマネたものです。

 こういう「これ,みたことある」というイスの「オリジナル」をいくつもつくったのが,イームズです。

イームズのイス,いくつか
 ほかにもイームズがデザインしたイスをみてみましょう。
 
 これは1951年につくられた「ワイヤーメッシュチェア」。
 針金のような細い金属(ワイヤー)でできています。

ワイヤーチェア


 これは1958年につくられた,「アルミナムグループ」というオフィスチェア。

アルミナム


 これは1962年につくられた空港の待合用のイス。

空港のイス

 どうでしょうか。このうちどれかひとつくらいは,似たようなのをみたことがあるのではないでしょうか。

「今はあたりまえ」を生み出した
 これらのイスの写真や現物を前にして,「1950~60年代のデザインだ」ということを話すと,「へえ,そんなに昔のものなんだ。もっと新しい感じがする」と感心する人がいます。

 その一方で,「こんなイス,どこにでもあるあたりまえのものじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。

 たしかにそうです。たとえば空港用の待合イスなんて,この手のものがあちこちの空港にあります。

 でも,「この手のイス」を最初に生み出して「あたりまえ」にしたのは,イームズなのです。イームズ以前には,こういうイスはあたりまえではなかったのです。

 「プラスチック製の,背もたれと座面が一体のイス」「ワイヤーでつくったイス」などというのは,イームズ以前にはありませんでした。彼が最初につくり出したときには,非常に新しいものでした。

 「アルミナムグループ」も,発表当時は斬新なものでした。金属を強調したシンプルなデザインは,高級なオフィスチェアとしては,考えにくいことでした。当時,それなりのイスを使うような,地位のある人には,もっとクラッシックな重厚なデザインが好まれました。

 空港のイスも,イームズ以前にはこういうものはありません。これといった定番はなく,座り心地や機能性はずっと劣るものでした。
 イームズの空港のイスは,見た目や座り心地だけではありません。
 メンテナンスを考え,座面などの傷みやすいところは取り外して新しいパーツと交換できるようになっています。公共の場で使うイスとしては重要なことです。シートの足元は空間を多くとってあり,荷物を置くことができます。

 このように考え抜かれた,すぐれたものだったので,のちに類似品がたくさんつくられ,今は世界じゅうの空港にあるわけです。
 
 そもそも,空港の待合イス(たかが待合イス)をこんなにも考え抜いてデザインするという発想じたいが,新しいものでした。

 イームズは,「彼ら以前にはなかったけど,今はあたりまえ」のデザインをいくつも生み出したのです。
 これはデザイナーとしては最高級の仕事です。

テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月26日 (土) | Edit |
 エジソン伝の後編です。

 世の中ではいろんな新しいことが起こっているのに,フランクリンやエジソンの話を,このブログではめんめんとやっています(苦笑)。
 でも最近はブログというのはオールドなメディアになってきているようですから,こういう「化石」のようなテーマも,ちょうどいいのかもしれません。

フランクリン的な人たち エジソン2

ファラデーの本で独学
 1868年,21歳のエジソンは,東海岸にやってきました。ウェスタン・ユニオンという電信会社のボストン支局で,電信技師として働きはじめました。

 その仕事のかたわら,マイケル・ファラデー(1791~1867)の『電気学実験研究』(1844~45)を古本で手に入れて読みました。
 ボストンは多くの大学がある町なので,学問的な本に触れる機会が多かったはずです。
 エジソンは,少年時代の地下室で行ったように,その本にある実験を片っぱしから追試していきました。

 ファラデーは,1800年代前半に電磁気学を確立したイギリスの大科学者です。その著作に徹底的に学ぶことで,電気の科学の基礎を系統だって身につけました。

 なお,このファラデーも独学で科学の基本を身につけた人です。
 若いころのファラデーは,製本の職人でした。そして,仕事であつかう本を読むのが大好きでした。とくに科学書はむさぼるように読みました。
 そのうちファラデーは,科学者にあこがれるようになりました。しかし,高等教育を受けていない彼が科学者になるのは,ふつうはムリなことでした。それでも科学の仕事にたずさわりたいと,ある著名な科学者にたのみこんで助手にしてもらいます。

 その後もいろいろありますが,ファラデーは,その助手の仕事をスタートとしてキャリアを積んで,ついには偉大な科学者になったのでした。

 そのような科学者の書いた本だからこそ,エジソンのような独学者にも響くものがいろいろあったのではないでしょうか。

 たとえば,ファラデーの本には数学がほとんど出てこないのです。高等教育を受けていないファラデーにとって,数学は弱点でした。それでも,数学を使わずに,物理の世界を生き生きとイメージできる本を書きました。そこがファラデーのすばらしさでした。

 エジソンも,学校を出ていなかったので,数学には弱いところがありました。だから,数学なしで科学の奥深い世界に入っていけるファラデーの本は,まさに「バイブル」だと思えたのでしょう。

 ファラデーという偉大な独学者は,その著作によってエジソンという偉大な独学者を育てたのです。

発明家として独立
 やがてエジソンは,組織に雇われて働くよりも,フリーの発明家で生きていくことを模索しはじめました。

 そして,「電気式投票記録機」という最初の自信作をつくりあげましたが,これは失敗でした。
 これは議会における投票を,議員たちがボタン操作的に座席にいながら行える,という装置です。各地方の議会が買ってくれると思ったのですが,どこも採用してくれませんでした。「こういう機械があると,政治家が投票のときに行う,いろんな工作(たとえば,投票をわざとゆっくり行って妨害するとか)ができなくなる」といわれました。
 「発明は,お客さんが買ってくれてお金にならないとダメだ」と痛感しました。

 そして,22歳のときには,自分の小さな会社をつくりました。電気技術の発明・改良を専門に行う会社です。

 やがて「相場表示機」という電信の装置をつくりあげ,特許をとりました。
 この発明は成功でした。かつて勤めたウェスタン・ユニオンが,5千ドルというまとまった金額で権利を買ってくれました(計算の仕方にもよりますが,今のお金に換算して1千~2千万円くらいか)。

 その後,彼はウェスタン・ユニオンで,今度は機械の技術者として働くことになりました。彼を高く評価した同社の幹部に特別待遇でスカウトされたのです。

 まもなくエジソンは,ある技術的改良で大きな業績をあげました。すると,4万ドルものボーナスが出たのでした(今のお金で1~2億円くらいか)。

 彼はこれを元手に,また会社をはじめました。1870年,23歳のときのことです。
 こうして,発明家としての本格的な歩みがはじまりました。
 1872年には,1年間で37もの特許を取得しました。ものすごい仕事ぶりです。この時期,結婚をして子どももできました。

 1876年,29歳のときには,ニューヨーク近郊のメンローパーク村に本格的な研究所をつくりました。
 その後の生涯にわたる彼の拠点です。蓄音機,電灯などの有名な発明が,この研究所で生まれたのでした。

「実働20時間」
 発明家のなかには,ある発明でまとまったお金を得ると,悠々自適のリタイア生活に入る人がいます。
 エジソンはちがいました。
 発明で得たお金を,ひたすらつぎの発明や研究体制の強化につぎ込みました。そして,実験室に泊まり込んで仕事に没頭する。そんな生活を何十年も続けました。

 エジソンは,「1日の実働は20時間。睡眠はせいぜい4時間で,ソファーや実験台の上で寝ることも多かった」と語っています。

 エジソンの有名な言葉に「天才とは1%のひらめきと99%の汗(努力)のたまものである」というのがあります。
 これについてはいろんな解釈があります。たとえば「1%の部分,つまり〈核になるひらめき〉がなければ,いくら汗をかいても何も生まれない」という意味だ,という説もあるのです。
 たしかにそれも一理あります。でも,エジソンの働きぶりをみていると,ストレートに「努力は大切」という意味だと思えてくるのですが,どうでしょうか。
 つまり,「アイデアやセンスは出発点にすぎない。そこから努力をしないと,どうしようもない」ということです。
 ここは,技術史・技術論研究家の志村幸雄さんが『人類への贈り物 発明の歴史をたどる』(NHKカルチャーラジオのテキスト)で同様のことを述べていて,共感しました。

発明という「作品」
 エジソンにとって,「発明でお金が入る」ことは,「価値のある発明で,人びとの笑顔を生んだ」という証であり,「つぎの発明の研究資金を得る」ということでした。

 そして,「人びとの笑顔」を,猛烈なエネルギーで際限なく求め続けたのです。

 これも,自分の勉強を「作品化」してお客さんを得ることを追及し続けたフランクリンと通じます。
 「発明」は,自分の勉強を作品化して人に役立ててもらうことの,最もわかりやすい形です。

 だからフランクリンも,発明には強い関心がありました。燃費のよい「新式暖炉」は,そのひとつです。
 だがそれ以外にも,フランクリンはエジソンには遠くおよびませんが,いくつもの発明をしています。
 たとえば,遠視用・近視用の2つのレンズをひとつのメガネフレームに組みこむ「遠近両用メガネ」の発明。
 それから,「避雷針」は,彼の最大の発明といっていいでしょう。鉄の細長い棒を建物のてっぺんに取り付け,地面に電気を誘導し,落雷による被害を防ぐしかけです。これは,フランクリンの電気研究の成果でした。

 じつは,エジソン以前に一般にアメリカで「発明王」と言われていたのは,フランクリンなのです。

 やはりエジソンは,「フランクリン的人間」の系譜につながる代表的な事例といっていいでしょう。よく働き,よく学んで不利な条件を克服し,人生を精一杯生きた人間の典型です。

(おわり)

2013年01月24日 (木) | Edit |
 1月20日のフランクリン的な人たちで,アメリカにおける「フランクリン的な人間」の例として,発明王エジソンと20世紀のデザイナー・イームズをとりあげました。
 今回はそのうちのエジソンをとりあげます。エジソン伝の前編です。

フランクリン的な人たち エジソン1

子ども時代 
 アメリカの歴史上の人物で,フランクリンと多くの共通点がある人というと,その第一は発明王のトマス・エジソン(1847~1931)ではないでしょうか。

 エジソンは,1847年にアメリカ・オハイオ州の小さな町に生まれました。父親は材木と穀物を扱う商人でした。

 エジソンも,フランクリンと同じく,ほとんど学校教育を受けていません。
 8歳のとき,小学校を1年足らずでやめています。経済的事情ではなく,学校に適応できなかったのです。
 好奇心が強すぎて,いろんな質問で先生をひどく困らせたりました。成績もひどいものでした。

 彼の母親は,元教師でした。彼女は息子を自分で教育することにしました。けんめいに本を読み聞かせたりして,勉強を教えました。

 1年ほどするとエジソン少年は,さまざまな本を自分で読めるようになりました。中等学校向けの科学の本を与えると,本で図解されている科学実験を片端から自分で行うようになりました。やがて家の地下室を与えられ,実験ざんまいの日々を送るようになったのでした。

働きはじめる
 12歳のとき,エジソンは鉄道の車内販売の売り子として就職しました。
 彼の働く鉄道は,工業都市のデトロイトが終点でした。折り返しの待ち時間が数時間あり,それが自由に使えたので,機関車の整備の仕事を眺めたり,市内の工場を見物したり,図書館に通ったりしました。
 そして,持ち前の好奇心や行動力で,学校に行かなくてもさまざまな知識を吸収していったのでした。

 このあたりもフランクリン的です。
 
 そんな彼を,周囲の大人も後押ししてくれました。
 特別なはからいで,列車の一部を自由に使わせてもらい,そこに実験器具を持ち込んだりしています。

 さらに,その列車に手回しの印刷機を持ち込んで,新聞を編集発行しはじめました。
 フランクリンのように自分で記事を書き,かなりの部数を売りました(フランクリンは印刷所を経営しながら,新聞発行の事業も行っていた)。
 これが,彼がはじめて本格的に「お客さん」を得た経験でした。

しかし,この新聞は地元のある有力者にとって不愉快な記事を書いたため,圧力をかけられてまもなく廃刊になってしまいました。

 そんな中,ひとりの駅長が彼に目をかけてくれました。自分の家にしばらく滞在して電信を学び,技士の資格を取ることを勧めてくれたのです。電信には強い興味があったので,願ってもない話でした。
 エジソンは熱心に勉強し,16歳で電信技士の資格をとりました。

電信の世界で武者修行 
 その後エジソンは,臨時雇いで電信の仕事をしながら,全米各地を渡り歩きました。

 その放浪は5年ほど続きました。さまざまな経験をしましたが,各地の電信技士との交流で,電信技術に対する知識や考えを深めることができたのは,とくに有意義でした。
 各地の図書館でたくさんの本を読みあさったりもしました。

 この時期のエジソンは,武者修行的に広い世界をみたという点で,フランクリンのロンドン時代を思わせます(フランクリンは若いころ,ロンドンに渡り,2年ほど印刷工として働いたことがあります)。

 若きフランクリンは印刷業という「手に職」で世間を渡たりましたが,エジソンにとってそれは電信だったということです。

 また,当時の電信というのは,最新のテクノロジーでした。その世界での武者修行は,今でいえばシリコン・バレーのIT企業を渡り歩いて仕事をするようなものだといえるでしょう。

 そして,1700年代のフランクリンの時代の印刷業も,当時としては「ハイテク」を用いた新しい産業でした。
 近代的な活字印刷は,1500年代のヨーロッパでおこったものですが,最初のうちは活字や印刷機などを持てる人はごく限られていました。それの道具は,きわめて貴重で高価なものでした。
 
 しかしフランクリンの時代になると,印刷という新しいメディアはかなり大衆化しました。とくに,アメリカはその最先端でした。道具や機材も昔よりは安くなり,印刷によって情報発信をする人の層が厚くなりました。職人出身のフランクリンのような人が,印刷物で情報発信を行うようになったのは,その一例です。

 こういう「情報発信の大衆化」は,今の世界でパソコンやインターネットが普及して起こったことと似ています。

 このように,若いときに当時の「新しい技術・メディア」の世界に入り,そこで本格的に修行したという経歴でも,エジソンとフランクリンは共通しているのです。

(つづく)

2013年01月20日 (日) | Edit |
フランクリン的な人たち

フランクリン的な人間を生むアメリカ
 十分な学校教育は受けられなかったけど,前向きによく働き・よく学びながら成長し,やがて大きな仕事を成し遂げる。これは,偉人伝のひとつの典型です。

 「明るい独学者 フランクリン」の記事で述べた,ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)の物語は,その元祖であり究極といっていのですが,ほかにもフランクリンを思わせる有名な人物はいます。とくにアメリカ人で目立ちます。
 それはアメリカという国が,世界の歴史のなかでいち早く身分社会を脱して,個人の努力や貢献が報いられやすい社会になったせいでしょう。

 少し説明します。フランクリンの生きた時代(1700年代)は,日本だと江戸時代の半ばです。まだ士農工商の身分社会で,職業の自由も表現の自由もありません。
 もし江戸時代の日本にフランクリンのような素質の人が(庶民として)生まれたとしても,国のリーダーとして活躍するまでになるのは,不可能です。ただし,幕末の動乱の時代は別ですが。

 好きな町に住んで,仕事を選び,自由に営業をして,出版ができたからこそ,フランクリンは成長し活躍できました。彼の時代のアメリカは,今からみれば不十分な点はあっても,そういう条件を備えていました。当時の世界の最先端をいっていたのです。

 フランクリンは,アメリカ独立後まもない時期(1782年)に,アメリカ社会についてヨーロッパの人びとに知らせるために書いた文章で,つぎのように述べています。

《ヨーロッパでは名門は価値があるが,この商品を運ぶにアメリカほど不利な市場はどこにもない。アメリカでは他人のことを「あの人はどういう身分か?」とは聞かないで,「あの人は何ができるか?」と聞くのである。その人に有用な技能があれば歓迎されるし,それをやってうまくできれば,彼を知る皆から尊敬される。だが,ただ家柄がよいというだけの人が,そのためのだけの理由で,何か官職を得ようとすれば,軽蔑され無視されるであろう。》
 (「アメリカへ移住しようとする人びとへの情報」『アメリカ古典文庫1 フランクリン』研究社,池田孝一訳)


 自由で民主的な社会でないと,フランクリン的な人物は育たないのです。

フランクリン,エジソン,イームズ
 では,「フランクリンを思わせるアメリカ人」というと,どんな人物がいるのでしょうか。
 たとえば,発明王トーマス・エジソン(1847~1931)。
 あと,チャールズ・イームズ(1907~1978)という人もそうです。

 イームズは,ご存じない方も多いと思いますが,1900年代後半に活躍したアメリカのデザイナー・建築家です。デザインの世界ではたいへん有名な人です。

 フランクリン,エジソン,イームズ。
 彼らの生い立ちや仕事ぶりには,共通したところがあります。

 まず3人とも,庶民的な出身の人たちです。
 フランクリンの父はロウソク職人でした。エジソンの父は製材所を経営。イームズの父は今でいうと私立探偵のような仕事をしていました。お金持ちとか,いわゆる「文化人」の家庭で育ったのではありません。

 そして,3人とも学校教育を十分に受けていません。
 フランクリンは,10歳までしか学校に行けませんでした。
 エジソンが小学校を1年足らずで退学させられたのは,有名な話です。
 イームズは大学の建築学科に進みましたが,2年生の途中で退学になっています。つまり,同時代のエリートの建築家とくらべると,正統的な教育のコースからは外れているのです。
 
 しかし彼らは,独学で自分の道をきりひらいていきます。旺盛な好奇心で幅広い世界について知識やセンスを身につけていきました。
 その独学は,生活のために働きながら行ったものです。彼ら3人はみな,少年時代から働いています。
 フランクリンは,10歳のときに印刷工の見習いをはじめました。
 エジソンも,12歳で働きはじめています。
 イームズも,少年時代に父親を亡くし,家計を支えるため工場で働きながら高校に通いました。

ぼう大で多彩な仕事
 そして3人はみな,ぼう大な仕事を残しました。
 「偉人」といわれる人は,1つか2つの代表的な仕事で知られることも多いのですが,そういうタイプではないということです。そして,仕事の内容も,複数の分野にまたがる多彩なものでした。
 
 たとえば,フランクリンは,政治家・社会活動家として,世界初の公共図書館などのさまざまな社会事業で活躍したり,科学者として電気学を中心にいくつもの発見を成し遂げたり,哲学や社会科学でも多くの著作を残したり,いろんな活躍をしています。
 そして,熟年になってからはアメリカ独立革命(1776年)のリーダーとして大活躍したのでした。アメリカでは『フランクリン全集』という,まるで百科事典のような分量の著作集が出版されています。

 エジソンのぼう大な仕事ぶりは,有名でしょう。蓄音機,電灯をはじめ,映画,謄写版,蓄電池関係,アルカリ電池,電話の改良など,いくつもの大発明があります。そして,生涯に1000余りの特許を取得したのでした。

 イームズの仕事量を説明するのはややむずかしいですが,家具などの分野で後世に残るデザインをいくつも生み出す一方,自主制作の短編映画を120本余り制作しました。
 科学や歴史に関する大規模な展覧会の企画・展示も手がけ,その分野でも功績があります。その仕事のなかには「フランクリンとジェファーソンの世界展」(1975)というものもあります。
 建築作品の数は少ないですが,後世の建築に大きな影響を与えています。また,写真の名手でもあり,80万枚の写真を残しました。
 
 たしかにイームズの仕事は,「世界の歴史」というスケールでみれば,フランクリンやエジソンとくらべ,その影響はかぎられます。しかし,「現代のデザイン」というジャンルでは,まさに「巨人」といっていいのです。

人をまきこむ,手を動かす
 また,彼ら3人の仕事ぶりは,ある種の作家や芸術家のように,「ひたすら1人で仕事場にこもって」というのとはちがいます。
 さまざまな現場を動きまわりながら,多くの人をまきこみ,協力を得ながら進めていくような仕事です。彼らは自分の組織やネットワークをつくり,それをフル活用しながら仕事をしたのでした。

 政治家・社会事業家としてのフランクリンの活動は,まさに「人をまきこむ」仕事の典型です。
 エジソンは,多くの技術者・科学者を集めて研究所をつくり,そこで仕事をすすめました。「発明工場」の経営者だったのです。このような「民間の技術開発の研究所」は,エジソンが先駆者でした。
 イームズも,数十人のスタッフが働くデザイン工房の経営者でした。

 そして,その仕事のおもな部分が,手を動かす作業をともなっていたのも,彼らの共通項です。

 フランクリンは,もともとは印刷工から身をおこして印刷所の経営者になった人でした。そして,自分で書いたものを,自分で活字を組んで印刷機をまわし,自分で配布したり売ったりしたのです。
 技術者であるエジソンや,デザイナーであるイームズと「手仕事」の関係は,イメージしやすいと思います。

 このように彼らは,人びとと交わりながら,アタマや手先を使って仕事をする人たちでした。
 まさに「働く人」というかんじなのです。

 フランクリン,エジソン,イームズ――この3人はみんな,じつに「よく学び,よく働く」人たちでした。
 
 そんな「フランクリン的な人たち」の勉強ぶり・仕事ぶりに興味があります。
 とくにイームズはデザインの世界では有名ですが,広く一般には知られていません。これから,イームズのことはときどきとりあげるつもりです。

テーマ:歴史上の人物
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月18日 (金) | Edit |
 フランクリン伝の最終回。「独学者」としての彼の人生についての解釈・まとめです。


明るい独学者 フランクリン3

学ぶことは「楽しみ」だった 
 ここまで(2回ににわたって)フランクリンの人生の,おもに前半のところをざっとみわたしました。
 
 彼の人生の初期には,いろいろな大変なことがありました。学校にはほとんどいけずじまい。働きはじめてからも,悪い人にダマされたり(イギリスへ渡った際),雇い主が亡くなって仕事を失ったりもしました(デナムさんの件)。
 
 それでも彼が明るく学び続けることができたのはなぜでしょうか。
 最も基本的なのは,彼にとって学ぶことは「楽しみ」だった,ということではないかと思います。

 彼には,学問による立身出世という考えはなかったはずです。そんなことが期待できる身分ではないと思っていたのでしょう。学校を出ていない一介の印刷工。まずしっかり仕事をして,その合間に好きな学問をしているだけ。

 つまり,「何にもならならいとしても,かまわない」という気で勉強しているのです。

 こういう,たいした望みを持たないで,好きなことに打ち込む人間というのは強いです。「なんでオレは認められないのだ」「このまま終わってしまうんじゃないか」とか悩んだりしないで,淡々と前進できるからです。

「楽しさ」の源泉
 さらに,その「楽しさ」の源泉は何なのでしょうか。
 もちろん,学問や知識じたいの楽しさはあります。だがそれだけではありません。何よりも「自分の勉強にお客さんがいる」ということが,フランクリンにとっては重要でした。
 
 つまり,自分の勉強の成果を人に楽しんでもらったり,役立ててもらったりする。それが,うれしかったのです。

 「お客さん」を得るためには,自分の勉強を頭の中にしまい込まず,文章などの「作品」にして発表しなくてはなりません。彼は人生の初期から,それを行ってきました。
 
 まず,16歳のとき新聞に投稿したエッセイで,自分の文章で読者を得られることを知りました。
 ロンドン時代に哲学の小冊子をつくったのは,この体験があってのことです。この小冊子の発行によって,いろんな出会いがありました。自分の考えを作品化することで,世界が広がるのを体験したのでした。

 もし,知識を得るだけの,お客さんのいない勉強だったら,こういう楽しみはありませんでした。それだと,勉強はどこかで挫折してしまったかもしれません。
 
 多くの独学者が,じつはそうなのです。彼らは,自分のお客さんをみつけることができないまま,意欲を失ってあきらめてしまいます。

 多くの恵まれない独学者は,自分の勉強を作品にして人にみせようとは考えません。「自分なんて……」と思ってしまいます。それは,エライ人のすることだ,と。

 しかし,それはまちがいです。
 いわゆる教育のある人は,若い未熟なうちから「自分の作品」を発表する経験をしています。授業や課外活動での発表や創作など,さまざまな表現をさせられています。恵まれた環境にある人ほど,一般にその機会が多いです。周りには文化的な活動をする大人がいて,その様子もみています。
 それで何となく「作品をつくる」「お客さんを得る」ということを知るのです。

 多くの独学者は,そういう機会に恵まれていません。本や教科書を読むことだけが勉強だと,つい思ってしまいます。しかしそれだけでは楽しみや手ごたえが足りなくて,勢いが続きません。続くとしたら,資格や学位を得るなどの切実な縛りがある場合にかぎられます。

お客さんを得るために
 「お客さんを得る」といっても,人はなかなかお客さんにはなってくれません。学校の先生やゼミの仲間なら,あなたの発表につきあってくれますが,それは学校という環境が特殊なのです(それが学校のすばらしいところです)。
 
 ふつうの世間では,無名の人間の作品につきあってくれる人はまれです。独学者はそこをなんとかして,お客さんを開拓しなくてはなりません。

 若いフランクリンは,そのための努力や工夫をしました。
 
 まず,自分の作品を鑑賞にたえるものにする努力。
 文章ひとつにしても,彼は少年時代からセンスがありましたが,意識的な努力もかさねました。
 ロンドンでつくった哲学の小冊子は,ある人物から「内容はともかく文章が読みにくい」とアドバイスされました。そこで彼は,読みやすさで定評のある著者の文章を模範にして,暗記して書くなどのトレーニングを積みました。

 そして,ジャントーという場をつくったことは大きかったです。ジャントーは彼にとって,自分の考えを気楽な内輪で発表して,テストする場所でした。
 ジャントーの仲間は,試作品のテストにつきあってくれる最初のお客さんなのです。
 フランクリンは,その反応をみて合格したもの,または反応をふまえ改善したものを,世の中に公表しました。新式暖炉のような発明も,科学の研究も,社会事業の構想も,たいていはまずジャントーで試しました。

 「試作品をテストする」という方法を活用したおかげで,フランクリンは,独学者にありがちな「ひとりよがり」とは無縁でした。彼が世の中に打ち出したものは,みな高い水準に達しており,人びとの関心に訴えるものだったのです。

明るい独学の秘訣
 以上の話のキーワード。
 
 「勉強を作品にする」
 「自分のお客さんをみつける」
 「試作品をつくってテストする」

 
 これがフランクリンの明るい独学の秘訣です。フランクリンの生涯にはいろんな要素が詰まっているので,ほかにもまだまだ「秘訣」はありますが,今回はこの3つに光をあてます。
 
 彼はこれらの秘訣を,不利な条件にもかかわらず自分の手探りでつかみとりました(そこには偶然や幸運も作用したでしょう)。

 こういうことを,恵まれた育ちの人は,与えられた環境のなかで何気なく教わります。そして,社会に出るとかなりの割合で何気なく忘れてしまう。

 フランクリンは,それよりもはるかに自覚的に深く学びとったので,この秘訣をトコトン使いこなすことができました。不利な環境を乗りこえた人間の強さです。この秘訣は,彼の全人生の活動を支えました。
 
 フランクリンのお客さんは,最初は周囲のごく限られた人にすぎません。それでも,うれしいことでした。
 そのうれしさを原動力にしてさらに勉強し,工夫してつぎの作品をつくる。それでより多くのお客さんを得る。うれしくてさらに勉強して,工夫して……

 そういう「正のフィードバック」が極限までいってしまったのが,フランクリンという人なのです。

 私たちも,フランクリンのやり方をまねてみるといいのでしょう。

 彼のやり方は,恵まれない条件を克服しようと努力するなかであみ出されました。きびしい条件下で使えるものは,大抵どこでも通用します。つまり,恵まれない人も,恵まれた人も関係なく役に立つのです。
 今の時代は,知識を得ることも,「作品」をつくることも,それを社会に発信することもフランクリンの時代よりずっと簡単になりました。いろんな道具が揃っています。

 だから,それを活用して,やれることをやってみればいいのではないかと思います。
 
 フランクリンは,アメリカでは非常に有名な偉人ですが,日本ではそうでもありません。しかし,彼のことは知る価値があるのです。

(おわり) 

テーマ:自由への道程
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月17日 (木) | Edit |
 「何千文字」のフランクリン伝の続きです。

明るい独学者 フランクリン2

ジャントー
 1720年代のこと。20代前半のフランクリンはフィラデルフィアで再び印刷工の仕事に就きました。
 そしてそのころ,町の若者たち十数人を集め,勉強のサークルを始めました。

 これは,毎週金曜の夜に集まって,読書会やレポートの発表などを行うというものです。テーマは,社会問題,自然科学,芸術・文化などさまざま。この会を,彼は「ジャントー」(「秘密結社」という意味)と名づけました。

 こういうサークルは,議論が白熱するうちにいろいろ気まずいことがおこったりするものです。今のネット上でもよくあります。フランクリンはそれを防ぐためにサークル運営のルールを定めました。「議論のための議論はしない」「独断的な意見で討論を混乱させたら,罰金を払う」といったことです。
 
 こうした組織運営の工夫もあってか,ジャントーは長続きしました。その後40年にもわたって続いたのです。

 しばらくすると(1730年代はじめには),ジャントーの活動から画期的なひとつの成果が生まれました。
 それは,図書館の設立ということでした。

 
図書館の設立
 そのころ,勉強熱心なフランクリンたちは,もっと本を読みたいと思っていました。しかし,当時の本は高価で,なかなか買えません。
 買うのに手間もかかりました。当時のアメリカには,大きな町でも専門の本屋さんはありませんでした(本は,文具店や雑貨店などで片手間に取り扱っていた)。本を買おうとすると,かなりの場合イギリスから取り寄せないといけなかったのです。
 そこで,フランクリンたちはジャントーの仲間で蔵書を持ち寄って図書館をつくろうと考えました。当時はまだ公立の図書館などはありませんでした。

 しかし,この「本を持ち寄る」というやり方はうまくいきませんでした。
 各人がなくしていいようなダメな本ばかり持ち込んだからです。たまに良い本が持ち込まれても,誰かが借りたまま返さないで,なくなってしまうなどということもありました。
 こういうことが何度かくりかえされると,良い本が集まらなくなってしまいます。

 そこで,フランクリンたちは図書館を「おおぜいから小口の資金を〈会費〉として集めて基金をつくり,それで本を買う」方式に切り替えました。会費を払った人でなくても,その都度料金を支払えば図書館を利用できました。
 すると,蔵書は充実して会員も増えていき,大成功。
 
 最初の「持ち寄り方式」がうまくいくには,「自分の大事な本をみんなに差し出す」という自己犠牲が必要です。しかし会費制だと,各人に無理を強いることなく,全体の利益を実現できます。そこがポイントだったのです。
 フランクリンは,その後もさまざまな公益事業で活躍しますが,この図書館のような,みんなの利益をはかるしくみづくりがとても上手でした,

 このとき設立されたフィラデルフィア図書館は,世界初の公共的な(誰もが利用可能な)図書館でした。それまでの図書館は,王侯貴族の私的な本のコレクションであり,一般の人が利用できるものではありませんでした。
 
 フランクリンたちが「図書館をつくろう」と動き始めた当初,町の人の反応は冷たいものでした。リーダーのフランクリンはまだ20代前半の若者でしたので,なかなか信用してもらえません。図書館が実現したのは,多くの人への働きかけを粘り強く続けた結果です。

 一方,本業のほうでも進展がありました。ジャントーの友人の家族から出資を受けて,その友人との共同経営ではありますが,印刷業者として独立することができたのです。22歳のときのことでした。まもなく,結婚もしました。

若きリーダーに
 フランクリンは仕事に励み,商売を広げていきました。
 印刷所の経営を始めた翌年には,『ペンシルバニア新報』という週刊新聞の編集発行も始めました。
 出版の世界はまだ未成熟で,日刊紙も全国紙もない時代です。印刷業者が出版業も兼ねることは,珍しくありませんでした。記事の多くを自分で書きました。それが好評で,部数を伸ばしました。

 もうひとつ,大きな収益源となった出版物に,28歳のときに発行を始めた『貧しいリチャードの暦』というオリジナルの暦があります。
 当時,暦は最も広く普及していた出版物でしたが,フランクリンはさまざまな工夫こらして,実用だけはない,読んで楽しい暦をつくりました。これが評判を呼んでベストセラーとなったのです。
 
 やがて,お金をたくわえたフランクリンは,出資者から事業を買い取って,共同経営を脱しました。
 
 30歳ころには,フランクリンはフィラデルフィアの若きリーダーの1人になっていました。
 公的な活動もさかんに行いました。町の消防組合の創設を主導して実現したり,フィラデルフィア郵便局の局長に就任したりしたのでした。
 当時は,政府による公共サービスが未発達で,こういう事業を住民が手づくりで行なっていました。また,ペンシルバニア植民地議会の書記(事務局の要職)にも選ばれています。

科学の研究
 30代のフランクリンは,商売に公務に多忙な中,学問にもいそしみました。彼にとって学問は,大好きな道楽でした。とくに惹かれたのは科学の研究です。
 それは本を読むだけではありません。あるとき彼は,科学者を町に呼び,連続の科学講座を主催したりもしています。そうやって,学校で得るような系統的な知識を学びました。
 
 また,科学を実際の生活に役立てようともしました。
 彼は,36歳のとき(1741年),燃料効率のすぐれた(薪の使用が少なくて済む)新式の暖炉を発明しています。 熱などに関する科学知識を応用したものです。暖炉の燃費は,当時の切実な問題だったので,この発明は反響を呼びました。
 しかし彼は特許をとらず,その発明を誰もが利用できるようにしました。そして,暖炉のしくみを説明する小冊子を作成し,配布したりもしました。本業で稼いでいたので,今さら発明で儲けるつもりはなかったのです。
 
 さらに,当時の新しい分野だった電気学にも興味を持つようになりました。ジャントーの仲間などとともに,いろいろな実験を行なったのでした。
 そんな中,42歳のときには,のちに「先端放電現象」と名づけられる現象を発見しました。フランクリンは,新発見のレポートを,ロンドンの知り合いの科学者に送りました。
 コリンソンというその科学者の推薦で,フランクリンの報告は,権威ある学会誌に掲載されたのでした。
 科学者フランクリンの誕生です。

 ここまでの活躍は,フランクリン84年の生涯のほんの序章にすぎません。
 ここからが彼の人生の本番です。しかし,著作や出版,社会事業,政治活動,科学の研究といった,その後の展開の出発点となる要素が,この時点ですでに出そろっています。
 
 その後の彼の活躍は,それまでの各領域での活動を,さらに大きく発展させたものでした。
 多方面にわたる膨大な著作。病院や大学の創設。全国規模での郵便事業の統括。
 植民地全体の政治への関与。独立革命のリーダーの1人としての活躍。
 最晩年にはアメリカ合衆国憲法の制定に貢献しました。
 
 そして科学研究では,さらに発見を重ね,電気学の分野で世界的な権威となりました。たとえば,2種類の電気について「プラス」「マイナス」という呼び方を提唱したのは,フランクリンでした。

(つづく)

テーマ:自由への道程
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月15日 (火) | Edit |
 1月14日の記事で,「400文字」のフランクリン伝を載せました。
 今回は,「何千文字」のフランクリン伝です。
 フランクリンについては,「400文字」だけでなく,もう少しくわしく紹介したいのです。

 ここでは「独学者」としてのフランクリンに,光をあてます。
 つまり,子ども時代から若いころのことが中心です。フランクリンは,ほとんど学校に行っていません。
 そんな彼が,どうやって学び続け,自分の世界をつくっていったのか。
 
 こういう,「独学者」の話が私は好きです。
 たぶん,仕事でも専門でもないのに,いろいろ本を読みあさる,ということを続けてきたからでしょう。私も「独学者」のはしくれなのです。

 
明るい独学者 フランクリン1

 困難にも負けず勉学を続けた偉人の物語は,多くの場合,悲壮な感じがします。
 たとえばキュリー夫人や野口英世はそうです。
 2人とも若いうちは貧乏で,いろいろ苦労をしています。それを必死の努力でのり越えて研究者となり,偉大な業績をあげました。それが感動的なので,2人は「偉人」の古典的な定番なのです。
 
 しかし,不利な条件下で苦労したはずなのに,明るい印象の偉人もいます。
 ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)は,まさにそうです。
 彼は,「不利な条件に負けず,明るく生きて人生をきりひらいた独学者」でした。その「究極のかたち」といっていいでしょう。

 フランクリンの人生については,「伝記の傑作」といえる,すぐれた自伝があります。この『フランクリン自伝』は岩波文庫などにも入っており,かなりよく読まれています。これが彼に関する第一の資料です。
 そして,アメリカでは『自伝』のほかに,彼についてのさまざまな伝記や著作が出ています。『フランクリン全集』というぼう大な著作集もあります。
 
 フランクリンは,アメリカでは非常に有名な,代表的な偉人です。
 たとえば,100ドル紙幣の顔だったりするのです。
 
 しかし,日本ではフランクリンについての著作は,そんなに多くありません。
 彼の人気や評価は,日本ではあまり高くないのです。しかし板倉聖宣著『フランクリン』(仮説社,1996年)という読みやすく,すぐれた伝記もあります。ここでは,この本と『自伝』をおもに参照しながら,彼の人生をみていきましょう。

子ども時代
 フランクリンは,1700年代後半のアメリカで活動した,政治家・社会活動家です。
 科学者としても活躍しました。「凧をあげた実験で,カミナリが電気であることを突きとめた」というのは,「科学者フランクリン」の有名なエピソードです。
  
 フランクリンが若いころのアメリカは,イギリスの植民地でした。それが,イギリスとの戦争を経て,1776年に「アメリカ合衆国」として独立しました。

 アメリカ独立では,晩年のフランクリンはリーダーの1人として大きく貢献しています。
 彼はもともとは,印刷業者として成功した人でした。若いころから政治や科学の世界を志していたのではありません。しかし,「本業」のほかにもやりたいことを追求していくうちに,社会のリーダーや科学者になっていったのです。

 フランクリンは,1706年にアメリカ東海岸の町・ボストンで生まれました。
 17人兄弟の15番目です。父親は石けんやロウソクをつくる職人でした。
 
 兄たちは職人や船乗りになったり,商人のところに奉公に出たりしていました。父親は,ベンジャミンは牧師にしたいと考えました。とても利発で,もの覚えがよかったからです。
 そこで,ベンジャミンが8歳のとき,ラテン語を教える学校に入学させました。
 古い聖書(聖書の「原典」)は,古代ローマの言葉であるラテン語で書かれていたので,キリスト教の聖職者になる人は,それを学んだのです。
 
 彼の学校での成績は優秀でした。しかし,学費の負担が重く,しかたなく1年で辞めました。
 そして,寺子屋のような読み書きの基本だけを教える学校に入りなおします。しかし,そこも学費を払いきれず1年で退学。
 彼の学校教育は,10歳で終わりました。

 
印刷工として働く
 その後,ベンジャミンは印刷業者として独立したばかりの兄の元で働くことになりました。
 やがて彼は,仕事場であつかう本や新聞などの印刷物を,仕事の合間に読みあさるようになりました。それでかなりの勉強ができました。数学や科学の初歩まで学んでいます。印刷業には,「多くの情報や知識に触れる文化的な仕事」という面がありました。

 いろんな勉強の仕方があるものです。
 こんな彼の様子をみると,ろくに学校に行けなかったことが小さく思えてきます。ほんとうは重たいことなのですが,フランクリンの前向きな努力は,それをさらりと超えてしまうところがあります。 

 16歳のときには,自分で何か書いてみたくなり,女性のペンネームで(自分の正体を隠して),地元の新聞にエッセイを投稿しました。それが好評で,十数回にわたって掲載されます。ろくに学校に行けなかった16歳の少年が,プロのライター顔負けの文章を書いたのです。
 
 17歳のときには,兄とケンカしてボストンの町を飛び出してしまいました。そして,ボストンの南にあるフィラデルフィアという大きな町に出て,印刷所に就職しました。
 
 そして19歳のときには,イギリスのロンドンに渡りました。
 きっかけは,知り合った地元の有力者が「ロンドンへ行って印刷機を買い,独立するといい」と強く勧めたことでした。その人は「力になるから」と言ってくれたのです。
 しかし,ロンドンに行ってみると,その有力者はウソつきで何もしてくれないことがわかりました。フランクリンは自力で印刷工の仕事をみつけ,働きはじめました。

 ロンドンでも彼は,読書による勉強を続けます。
 限られた給料をやりくりして,本を少しずつ買ったりしました。

お金のこと
 『フランクリン自伝』をみていると,家計のやりくりなどのお金の話がときどき出てきます。そして,かなりこまかいことまで書かれています。
 たとえば,兄の印刷所で働いていたときに,「昼食は自分で弁当をつくって持って行った」という話があります。
 昼休みになると,兄や同僚は外食をしに出ていきます。フランクリンはひとり職場に残って弁当をさっさと食べてしまうと,あとは本を読んですごしました。弁当を持っていくことで,お金が節約でき,勉強の時間もとれて一石二鳥だった,ということを彼は述べています。

 また,「ロンドン時代の下宿が,安い家賃で夕食も出してくれたので助かった」といった話も,『自伝』にあります。これもお金と時間の節約になったということです。
 ロンドンでの彼は,仕事が終わって一杯やりに行く同僚を後目に,まっすぐ下宿に帰っては好きな読書をする毎日でした。

 こんなふうに堅実に暮らしながら,彼は勉強しました。
 しかし,内気でカタブツな感じではなく,人づきあいも好む,明るい人柄でした。それは,いろんな人と結びついていった彼の人生をみればわかります。

 お金のことは,『フランクリン自伝』のひとつの大きなテーマです。
 若いころの「弁当生活による節約」について書いているくらいです。のちに自分の商売を営むようになると,お金の話は,もっと重要なことがいろいろ出てきます。

 自分のサイフの中身を,こんなにも自伝に書いたのは,フランクリンがおそらく史上はじめてです。
 今でもそうですが,「お金のことを語るのは格好悪い」というのが多くの人の感覚です。昔は,そのような考えは今以上に強かったのです。とくに本を書くような「文化人」のあいだではそうでした。

 だから,フランクリンは『自伝』で「常識破り」なことを書いたわけです。そこには「金銭的な生活設計は,重要なことだ。もっとオープンに語られるべきだ」という信念があったのです。
 しかし,それに対する批判も少なくありませんでした。『自伝』を読んで,「フランクリンは金の亡者だ」という人もいました。

 「日本では,フランクリンの人気はイマイチ」ということを前に述べましたが,その原因のひとつに,「お金のことをオープンに語る」という彼の姿勢が日本の知識人にきらわれた,ということもあるようです。
 しかし最近は,個人の「マネープラン」ということもよく言われます。「お金と人生」をテーマにした本もいろいろあります。世の中が変わってきたのです。フランクリンは,その先駆者ということです。

世界が広がっていく
 さて,勉強を続けるフランクリンですが,あるとき,仕事で活字を組んでいた哲学書の内容に根本的なまちがいがあると感じ,気になりました。そこで,自分でも関連する論文を書き,それを活字で組んで,小冊子としてわずかな部数印刷しました。
 ささやかですが,彼が最初に出版した著作といえます。
 
 その後,彼の冊子を読んだライオンズという人物が訪ねてきました。どうして冊子を手に入れたのかはわかりませんが,彼も哲学書を出版していて,興味を持ったというのです。
 その後ライオンズは,マンデヴィルという学者を紹介してくれました。
 マンデヴィルは「私欲と経済」をテーマにした『蜂の寓話』という本で歴史に名を残しています。さらにマンデヴィルからはペンパートンという,ニュートンの弟子の科学者を紹介してもらいました。小冊子の発行は,彼の世界を広げてくれたのです。

 21歳のとき,フランクリンは結局アメリカに戻りました。
 ロンドン行きの船で知り合ったフィラデルフィアのデナムという商人と仲良くなり,彼の店で働くことにしたのです。フランクリンは商店の仕事に熱心に取り組み,簿記などのビジネスのスキルも習得しました。

 しかし,しばらくするとデナムは病気で亡くなってしまい,商店も消滅。
 彼は,印刷工の仕事に戻りました。

(つづく)
 
テーマ:自由への道程
ジャンル:学問・文化・芸術