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2020年09月25日 (金) | Edit |
今の日本のトップにとって、最重要の中長期的課題は「これからの日本の繁栄の基盤をどうするか」だと思います。これはいわゆる「経済政策」よりも次元の高い一般論で、「この国をどうするか」という話よりは具体的な議論です。

しかし、最近の自民党総裁選では、この問題意識による議論は弱かった。新総理が打ち出している方針やメッセージでも、はっきりしていない。菅総理は規制改革のような、もっと実務的・個別的な問題の立て方が得意で、関心があるようです。

たしかに「繁栄の基盤をどうするか」というのは、非常に難しい、議論しにくい問題ではあります。だから踏み込みにくい。

でも、やはり考えなくてはいけないと思います。

この数十年の日本の繁栄の基盤は、「家電や自動車などの工業製品をつくり、輸出すること」でした。つまり「工業立国」ということです。

しかし、この基盤は近年かなり揺らいでいます。中国などの新興国が台頭して「工業立国」のお株を奪われ、IT化の進展で、日本のお家芸だった従来の工業が、産業の花形ではなくなってきたのです。

日本の「繁栄の基盤」については、これまで前提とされていたのは、従来からの「経済大国」路線を、時代にあわせて更新していくことでした。

つまり、最先端の技術や発想によるさまざまな産業を発展させて、世界との競争に勝ち抜く、というイメージです。

でも、それはもうむずかしくなってきている、とかなりの日本人は感じているのではないでしょうか。IT化でも、世界の最先端から遅れを取っているところがあるのですから。

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そこで、ほかの選択肢を考えるうえで、世界史上に参考になる事例があります。

それは、ベネチア共和国の歴史です。ベネチアは、その長い歴史のなかで、環境の変化に応じて繁栄の基盤を変えています。

ベネチア(ヴェネツィア)は、中世イタリアの有力な都市国家のひとつ。「共和国」というのは、国王ではなく、貴族によって選挙された元首が統治する国だったからです。この元首は、終身制ですが世襲ではありません。

ベネチアは最盛期には人口十数万(このほか周辺の植民地に150万人ほど)でしたが、そのうちの1000~2000人くらいの貴族(商人も兼ねている)の集団が支配する国でした。

その歴史は、西暦400年代から1700年代末までの長きにわたります。

ローマ帝国の衰退期にゲルマン人や遊牧民の攻撃から逃れた人びとがこの地に移り住んだのが、その歴史の始まりです。そして、1797年にナポレオン軍の力に屈してベネチアは独立を失い、共和国の歴史はおわりました。

最初は漁業と塩づくり以外には、何の産業もありませんでした。しかし、800~900年代から東方との貿易業で台頭していきます。東側にビザンツ帝国という、ローマ帝国の末裔の大国があり、そこで仕入れた品物を西欧の国ぐにに売ることを始めたのです。

そしてさらに、イスラムの商品や、さらに東方のインドや中国からの品物もあつかうようになり、ばく大な利益をあげました。その東方貿易のおもな商品は、香辛料と絹でした。また、西欧の毛織物や金属製品をビザンツやイスラムで売ることも、さかんに行いました。造船業、海運業も発展しました。

このような貿易業とその関連産業を繁栄の基盤として、ベネチアは1300~1400年代に絶頂をきわめました。

しかし1400年代末頃から、急激な環境変化が起こります。大航海時代がはじまって、西欧の国ぐにが直接アジアへ航海して、香辛料などのさまざまな商品を仕入れてくるようになったのです。その先鞭をつけたのはポルトガルで、1500年代後半になると、後発のオランダやイギリスが台頭してきました。

その結果、ベネチアの東方貿易のビジネスは大打撃を受け、衰退していきました。そして、ベネチアの国際社会でのプレゼンスは、明らかに低下したのです。

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そこでベネチアはどう対応したか。まず、毛織物や絹織物の製造に積極的に乗り出しました。

ベネチアは狭い都市で、大きな工場のための土地や工業用水の確保が難しかったので、もともと製造業はさかんではありませんでした。しかし、織物の製造という、当時を代表する産業に活路を見出そうとして、方針転換をはかったのです。

しかし、ベネチアの織物の製造は、あまり成功しませんでした。ベネチアの毛織物は、品質は高かったのですが高コストで、西欧の製品との競争に敗れ、生産は衰えていきました。ベネチアの製造業は、1600年代以降、絹織物、芸術性の高い工芸品、高級家具などのとくに高付価値のものに特化していきました。

また、経済が貿易主導から内需にシフトするということも起こりました。貿易業、海運、造船が衰退する一方で、食料品店、飲食業、その他のさまざまな小売業やサービス業が、1500年代後半から伸びていきました。

そして、ベネチアの港も、かつての国際商業の拠点から、周辺地域の物流を担うローカルな港に変化しました。しかし、船の出入りは活発で、かたちをかえて繁栄し続けたのです。

そして、1600年代以降の衰退期のベネチアは、「文化国家」として評価されるようになります。

多くの劇場がつくられて、オペラという新しい芸術が生まれる。みごとな趣向をこらした祝祭・イベントがさかんになる。出版や学芸もさらに活発に。ベネチアには多くの書店が軒を並べていました。新しい、凝ったデザインの建築も多くつくられた。イスラムから入ってきた飲料であるコーヒーを提供するカフェが、ヨーロッパで最初にオープンするといったこともありました。

そして、こうした文化の振興には、貴族などのリーダーの意思が働いていました。国際社会でのベネチアの地位が低下するなかで、文化的な発信を強化して、国の威信を復活させようとしたのです。ベネチアのリーダーは、かなりの場合、学問・芸術への関心も深く、そこにお金を投じることに積極的でした。

その結果、1700年代になると、ベネチアは「観光立国」化していきます。多くの人びとがさまざまな楽しみや文化を求めて、ヨーロッパ中からベネチアを訪れるようになったのです。

ほかの都市にはない独特の景観。さまざまなグルメ、演劇・音楽、イベントを楽しむことができる。みごとな工芸品やファッション。本屋や図書館も充実。さらにカジノや娼館のような「不道徳」な楽しみの場所でも、ベネチアは有名でした。

衰退期のベネチアは、高付加価値の一定の製造業、内需中心の経済、文化を基盤とするインバウンドの観光業などで成り立つようになりました。そして、国民の生活は高い水準を保ち続けたのです。

どうでしょうか。ベネチアのたどった道は、日本にとって参考になるのではないでしょうか。最近の日本は、かなりベネチア化しているように思えます。経済の内需主導、高付加価値といったことは、かなり言われています。また最近は、さまざまな日本文化や日本的サービスが海外の人びとから支持されるようになり、インバウンドの観光客が急激に増えました。

しかし、衰退期のベネチアのような文化力を、日本は保持できるのでしょうか?

残念ながらこのままでは難しいように、私は思います。

学校教育予算や研究費で、主要国に後れをとっているようでは、おぼつかないです。図書館の予算・運営はかなり厳しい状態になっています。大学にかんしては社会人文系の学部を減らして実学的な学部を拡充すべき、などという主張がかなり有力になったりしている。多くの文化人が「日本では欧米にくらべて芸術に対する公的支援が少ない」とぼやいている。

日本ではベネチアのように、文化が国の基盤になり得ること、つまり何らかのかたちで結構なお金になることが認識されていないのでしょう。

今の日本は、文化の扱いについて再編成が必要だと思います。しかし、もう手遅れかもしれません。高付加価値の産業も観光立国も、基盤は文化力なのに。

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このような視点で、より詳しくベネチアの歴史について述べた記事を、別ブログ「そういち総研」で立ち上げました。よろしければ、ぜひご一読ください。

こちら→ベネチアの歴史に学ぶ、ゆるやかで幸福な没落

(以上)
2020年02月24日 (月) | Edit |
新型コロナウイルス(新型肺炎)のことが、毎日報道されています。自分の身を守るための情報を得ようとする一方で、「世界史」についての関心からも報道に注目しています。

とくに気になるのは中国のことです。今回の新型肺炎の件での中国の動きをみていると、「やはり中国は専制国家だ」ということをひしひしと感じます。「専制」というのは「独裁」とほぼ同じ意味で、中国の皇帝支配については、とくに「専制」という言葉はよく用いられます。

中国は今も昔も専制的な権力を持つ皇帝が支配する国です。今の中国の最高指導者も、王朝時代の皇帝とよく似ています。圧倒的な権力が1人の指導者に集中しているのです。そして、組織や団体への帰属意識の薄い、いわばばらばらの個人が最高権力者によって束ねられる…そんな構図になっている。

専制国家では、現場で起こっている「悪いニュース」がトップに届きにくくなります。組織のいろいろなレベルで隠ぺい体質がある。それはどんな社会にもあることですが、専制国家ではとくに顕著になります。

今回の新型肺炎ではとくに初期段階で、中国当局はさまざまな情報隠ぺいを行ったとみられます。12月末に従来とは異なる肺炎の流行に気がついて警告を発した医師が、1月には当局に処分されるということもありました(その医師はその後新型肺炎を発症し死亡)。当局は「悪いニュース」をおさえこもうとしたのです。

しかし、1月下旬には習近平主席が「情報をきちんと開示せよ」と指示を発したとたん、当局の発表する感染者数が急増したということもあった。そして、最高指導者が一種の「非常事態」を宣言したあとは、国をあげて対策に動きだした…

昨日、そのようなテーマで長文の記事を別ブログ「そういち総研」にアップしました。

専制国家・中国の社会構造と行動の特徴←クリック

中国がトップに権力が極端に集中する「専制国家」であるのに対し、日本では、権力の集中は明確ではありません。

日本では、さまざまなレベルの団体・組織が積み重なっていて、それぞれが一定の権威・権力を持っている。そして相互に協力したりけん制したりする傾向が強い。いわば「団体構造」の社会です。そのような中国や日本の社会の特徴が、最近の新型コロナウイルスへの対応には端的にあらわれている……そんなことを記事では述べています。

最近は、平日は勤めの仕事ですが、休みの日はほとんど家にひきこもって机にむかっています。新型肺炎のことが気になってというわけではなく、読むこと書くことにそれなりに集中できているという感じです。

でも私は、休みの日に近所や沿線の駅前をぶらぶらするのが好きです。本屋に入ってうろうろして何か買って、コーヒーショップで読んだり、腹が減ったらラーメンを食べたりする。そうしていると、いろいろ考えが浮かんで、いいアイデアや前向きなプランが出てきたりしたものです。

最近は集中して頑張れるのはいいのですが、「ぶらぶら」していないので、ストレスがたまってきた感があります。今日はいい天気だし、午後に少しぶらぶらしたいと思います。

(以上)
2019年10月26日 (土) | Edit |
テレビでみて知ったが、「正倉院の世界」展が今日から奈良と東京・上野で始まったそうだ。正倉院は、奈良時代(1300年前頃、文化史では天平時代という)の天皇ゆかりの品などをおさめた倉で、奈良の東大寺の一画にある。

もともとは奈良時代の官庁や寺院の主な倉庫一般を「正倉院」というのだが、今も残っているのは東大寺の正倉院だけなので、正倉院といえばそれを指すようになった。

正倉院の宝物について、博物館の学芸員の人が「その工芸品としての見事さを味わってほしい」ということを言っていた。テレビの出演者たちも宝物の画像をみて「こんなすばらしいものが1300年前につくられていたんですね」と感心していた。

たしかに正倉院の宝物には、天平の当時ならではの美しさがあると思う。しかしそれ以上にすごいのは、1300年前の品物の数々があれだけの保存状態で残っているということだ。

1300年前の世界(西暦700年頃)というと、中国では唐王朝が繁栄していた。西ではイスラムの巨大な帝国も勃興していた。これらの世界の「中心」には、きっと正倉院以上の宝物がはるかに大量に存在していたことだろう。

正倉院の品々も当時の世界ではすぐれたものではあったはずだが、世界で本当に最高のものであったか、というと話は別だ。その頃の日本は、まだ周辺の新興国だったのだから。

しかし、当時の唐やイスラムの帝国の皇帝たちの宝物殿など、今は残っていない。1300年前の世界の文明の中心の宝物は、そのほとんどが失われ、断片的に残っているだけ。正倉院ほどの保存状態でまとまったコレクションが残っているなどということはない。

つまり、ほかの国の人たちは、日本以上の長い歴史を持つ中国の人たちでさえも、正倉院にあたるようなものを持っていないのだ。

今の私たちが正倉院展を見物できるのは、1300年の間、日本の社会が、世界の中心的な地域に比べて安定していたからだ。

たしかに戦国時代のような戦乱はあった。しかし、国の根本が崩壊し、文化や伝統が断絶することにはならなかった。異民族による侵略・征服も限られていた。ただし太平洋戦争のときは、正倉院にとっての危機だったはずだが、幸いなことに破壊を免れた。

正倉院の品々は、私たちの国の比較的安定した、幸福な歴史を象徴しているのだと思う。

テレビでは、当時の天皇が用いた衣装や家具を、奈良の博物館長の「イチオシ」として紹介していた。その家具は、やはり1300年前のものとは思えない。せいぜい江戸時代くらいの骨とう品にみえる。すごい。なんだか見に行きたくなったが、混んでそうだなあ……

(以上)

2019年08月12日 (月) | Edit |
この時期は、先の戦争(第二次世界大戦、太平洋戦争)についての追悼や振り返りがさかんだ。ではそもそも、あの戦争によって世界全体でどのくらいの人が亡くなったのだろう? 第二次世界大戦は、一般には1939年から45年にかけてあったとされる。1940年の世界人口(推定)は23億人である。なお、2018年現在の世界人口は76億人だ。

選択肢で考えてみよう。ア.100~200万人 イ.500~600万人 ウ.1000~2000万人 エ.5000~6000万人 オ.1~2億人



第二次世界大戦による世界全体の死者は、軍人2305万人、民間人3158万人、計5400万人余りにのぼった。正解はエだ。(以下、日本以外の戦死者数はウッドラフ『概説現代世界の歴史』で引用するデータによる)

では、世界で最も多くの犠牲者を出した国はどこだったか?

それはソ連(今のロシアなど)だ。ソ連の戦死者は、軍人1360万人、民間人772万人。合計で2100万人を超える。1940年のソ連の人口は2億人だった。2100万人は総人口の1割強である。ソ連はおもにドイツと戦ったのだが、その戦い(独ソ戦)は、きわめて激しいものだったのである。戦争というよりも、まさに地獄だったといっていいだろう。

そしてドイツの犠牲者は、軍人400万人、民間310万人で、合計710万人。1936年のドイツの人口は6700万人。戦死者の割合は1割強で、ソ連とほぼ同程度だ。

日本では軍人・軍属230万人、民間人80万人が亡くなり、合計で310万人(厚労省のデータ)。1940年の日本の人口は7200万人である。

中国は、軍人132万人、民間1000万人。中国はおもに日本と戦い、ソ連に次ぐぼう大な死者を出した。第二次世界大戦当時の中国の人口については、よい統計がみあたらないが、1950年の人口は5億5000万人である。

こういう戦死者の数字は、諸説ある。国によっては統計の精度が低かったり、政治的なバイアスがかかっている場合もあるだろう。しかしいずれにせよ、最近の大災害やテロなどで目にする犠牲者を大きく超える、ケタはずれの悲惨な数字であることにかわりはない。

そしてこれは70~80年前の世界で現実に起こったことなのだ。ほんとうに、想像を超えたとんでもないことがあったのだと思う。

世界大戦があったことについて、私たちは子どもの頃からいろんな機会に聞かされてきたので、あたりまえになっている。しかし、もしもこの戦争について知識を得る機会のないまま成長した人間が、世界大戦についていきなり聞いたとしたら、どう思うだろうか? 簡単には消化できないのではないだろうか。「うそだろ?」「信じられない」という反応があってもおかしくない。

現に最近は「日本とアメリカって戦争したことがあるんですか?」などという若い人がいるらしい。その現場に立ち会ったことはないが、あり得る話だ。

今後、こういう無知な人は増えていくだろう。戦争を体験した世代や、その世代からじかに話を聞いた人たちがいなくなれば、戦争に関する記憶や知識は意識的に勉強しないと得られないものになる。学校の教科書にはもちろん書かれているだろうが、そんなものはいっさい読まない、授業もろくに聞かないという人は大勢いる。そして最近はテレビをみない人も増えているのだ。今でもたとえば「日露戦争」というものがあったことを知らない日本人は、若い世代ではかなりの割合でいるはずだ。

そして、教科書や本で戦争について読んだとしても、それだけでは抽象的で手ごたえが足りない。「あなたのひいおじいさんは戦争に行って…」「おばあさんは空襲で焼け出されて…」みたいな身近な人からのインプットは、知識にリアリティを与えるうえでやはり重要なのだ。しかし、戦争を体験した世代はこれからは本当にいなくなる。

あと何十年かのうちに日本や世界のかなりの人たちが、世界大戦というものがあったことを知らない世の中になるのではないか。戦争を経験していないとか、その悲惨さをわかっていないというのではなくて、それがあったこと自体を知らないのだ。

その先には、さらにおぞましいことが起きる。「世界大戦などというものはなかった」と主張する者たちが出てきて、それなりに影響力を持つようになるのだ。「進化論はまちがっている」とか、「ワクチンのような現代医療の多くが効果のない有害なものだ」といった主張の類のひとつとして「世界大戦はなかった」論が出てくる。

「世界大戦はなかった」論者は、たぶんこんなことを言うだろう。……そんな、何千万人もの死者が出るような大戦争があったなんて信じられますか?あり得ないでしょう。そんなことが本当にあったとしたら、すでに世界は滅びてますよ。あれは〇〇(←差別・攻撃の対象)がでっちあげたフェイクです!そのようなウソを人びとに信じこませて、自分たちの都合のよい方向に動かしているんです。戦争体験者へのインタビューとか、戦争のドキュメンタリー映像というのは、みんなCGです……

上記のような全否定の極論だけでなく、その被害や悲惨さを矮小化する主張ならば、もっと出てくるだろう。たとえば「5000万人も死んだなんてウソ。本当はヒトケタ少ない」みたいな。あるいは個別の事件・事実の否定がもっとさかんになる。すでに「ホロコーストはなかった」論というのがあるが、いつか「ヒロシマ、ナガサキはなかった」などという狂ったデマが力を持つかもしれない。

私は決してふざけているのではなく、そのようなことがほんとうに未来に起こりうるのではないかと真面目に心配しています。今のフェイクニュースだらけの世の中をみていると、そう思ってしまう。言われてみると「たしかにあり得るのでは」と、あなたも思いませんか? 

世界大戦についての記憶が失われ、「そんなものはなかった」などという大ウソが蔓延したら、世界大戦がくり返される危険はおおいに高くなってしまうだろう。重大な過ちについての教訓を失えば、失敗しやすくなるのは当然だ。

だからやっぱり、大人は子どもや若い人に戦争についての話をしよう(たいした知識などなくてもいいのだ。本記事の犠牲者数のことも素材になる)。勉強させよう。大人も少し勉強しよう。今のシーズンはいい機会だ。テレビで戦争体験を語る人たちが、本当に高齢な様子をみていると、そう思う。

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世界史関連のさらに踏み込んだ内容の長文を載せる別ブログ「そういち総研」というのをやっていて、そこに第二次世界大戦の概要を私そういちがまとめた記事をのせています。ブログの記事としてはかなりの長文ですが、ヨーロッパの戦争と太平洋戦争の両方を視野に入れ、基本的事実を読みやすい文章で堅実にまとめたつもりです。1~2時間で初心者の人がかなりまとまった知識を得ることができます。夏休みの機会にぜひ。

初心者のための、一気に読める第二次世界大戦の要約←クリック

(以上)

2019年08月02日 (金) | Edit |
最近「ビザンツ帝国」についての本を何冊か読んだ。とくにビザンツ研究の大家・井上浩一さんの著作(『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会)を中心に。

ビザンツ(ビザンチン)帝国というのは、ローマ帝国が300年代末に東西に分裂したあとの東半分をさす(諸説あり)。首都はコンスタンティノープルという、今のイスタンブールにあたる都市。ビザンツの呼び名は、コンスタンティノープルの古い名称であるビザンチウムにちなんだものだ。なお、ローマ帝国の西半分というのは、今の西ヨーロッパにあたる地域である。

じつは、ビザンツ帝国の住民は自分たちを「ビザンツ人」と称したりはしていない。

では何と自称したかというと、「ローマ人」である。つまり偉大なローマ帝国の人間であるということだ。

「ビザンツ」というのは、だいぶ時代が下ってからの西ヨーロッパ人による呼び方だ。そこにはビザンツへの対抗意識や嫌悪がある。「あんなものは正当なローマ帝国ではない。ローマ文明の正当な後継者はこちら側(西ヨーロッパ)だ」という意識。そこでビザンツ人を「ギリシャ人」と呼ぶことも多かった。ビザンツ帝国の領域の中心はギリシア周辺で、人種的にもギリシャ人が中核を占めていたからだ。

しかし、ルネサンス以降、西ヨーロッパで古代ギリシアの文明が崇拝されるようになると、「ギリシャ人」というのも「ローマ人」同様に栄誉あるものになった。そこで西ヨーロッパの人びとは、ローマでもギリシャでもない「ビザンツ」という名でローマ帝国の東側を呼ぶようになった。ビザンツという名称には、そういう、ちょっとめんどくさい経緯がある。

300年代末に東西分裂したローマ帝国のうち、西側は400年代後半に体制崩壊して滅びてしまった。しかし、東側のビザンツ帝国は1000年余りの長期にわたって存続した。

ビザンツ帝国が滅びたのは1453年のことだ。この年にオスマン朝(オスマン・トルコ)の攻撃で、コンスタンティノープルが陥落した。長く続いたとはいえ、末期の頃のビザンチン帝国はすっかり衰退して、コンスタンティノープル周辺だけを支配する小国になっていた。

ビザンツ帝国について興味をひかれるのは、そこに現代の世界と似たものを感じるからだ。とくに、その初期の200~300年間の頃のあり方について、そう思う。

ビザンツ帝国は、古代ギリシアの文明を受け継いで発展させたローマ帝国の末裔である。その文明はギリシア・ローマの文明が長い過程を経てたどりついたものだ。だから、古典的なギリシア・ローマの文明にあったさまざまなものが変質・形骸化して存在している。

まず、民主主義・共和政的な政治のあり方。つまり、多くの市民が政治参加して、それが権力を拘束するということ。その伝統は民主主義で有名な古代ギリシアだけでなく、最盛期のローマ帝国にもあった。ローマ皇帝は、有力者の合議体である元老院やさまざまな法・慣習から一定の拘束を受けた。軍隊や市民の支持を絶えず意識して政治を行った。何にも縛られない専制君主というわけではなかった。

しかし、ビザンツ帝国の皇帝は、絶対的な専制君主だった。ビザンツ帝国では民主主義・共和政の伝統は過去のものになっていた。ビザンツ帝国の役人は自分たちを「皇帝の奴隷」だと意識していた。それを嫌がるのではなく、偉大な存在の「奴隷」であることにそれなりの誇りを持っていた。

しかし一方で民主主義的な伝統の「化石」といえるような儀式もあった。皇帝が就任するときの、市民たちによる歓喜の声。これは国家が動員した「市民」だった。そしてその「市民」は、国家のなかのひとつの官職になっていた。民主主義を演出するための役人という、奇妙なものがいたのである。

最盛期のローマ帝国では、コロッセオのような施設で連日さまざまな見世物が行われて、市民が熱狂した。巨大な競走場での戦車(馬車)によるレース(競馬のようなもの)もさかんだった。また、市民に対し無償で食糧配給も行われた。「パンとサーカス」といわれる一種の福祉政策だ。

「パンとサーカス」はビザンツ帝国にも引き継がれた。ビザンツではコロッセオで行われたような剣闘士の戦いは廃れ、人気を集めたのは戦車競走だった。戦車競走の名選手はスーパーヒーローとしてもてはやされた。戦車競走の運営を支えるものとして、「青組」「緑組」という集団が組織され、市民はどちらかに思い入れをもって熱心に応援した。なんだかサッカーや野球の応援みたいである。

最盛期のローマ帝国では、おもに都市を単位とする、地域ごとの自治組織が強固で活発だった。「都市参事会」という公式の機関があり、それが地方政府のようなものだった。都市参事会が中心になって、インフラ整備などさまざまな行政活動が行われた。人びとはコミュニティに対し強い帰属意識をもっていた。

しかし、ビザンツ帝国ではそのような自治組織はすっかり衰退してしまった。人びとの地域コミュニティへの帰属意識も失われ、ばらばらの個人が皇帝という最高権力者によって支配される、という構図になった。

ビザンツの人々は、きわめて個人主義的だった。しかし、それは「かけがえのない自分」のような強い自我をともなう近代的なものではない。「自分たちは皇帝の奴隷」という意識のもとでの個人主義なのである。

このように、ビザンツの文化・社会は、古典時代の古代ギリシアや最盛期のローマとはかなり異質なものだった。しかし一方で、ビザンツ人は古代ギリシア以来の伝統を大事に守っていた。ビザンツの知識人が書くものは、ギリシア・ローマの文献の引用や注釈ばかり。社会が変わっても、古くからの「ローマ法」を後生大事にして、判決などの根拠にする。つまり、古い伝統をひきずったままそれを超えるものを生み出せない停滞状態だったともいえる。

技術的にみれば、ビザンツの建造物や生産の技術は、最盛期のローマ帝国を超えることはなかった。コンスタンティノープルでも、最盛期のローマ市にあったような巨大建築は建てられたが、ようするに同じようなものが(ややスケールダウンして)再現されたという感じである。

ビザンツ帝国を支配したイデオロギーはキリスト教だった。ビザンツの人びとの圧倒的多数はキリスト教徒だった。キリスト教は、皇帝の権力を正当化する役割も担った。ローマ帝国は特別な「神の国」で、ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)は神に選ばれた支配者であると説明された。

キリスト教万能の社会では、自由な学問研究は抑圧され衰退してしまった。とくに古代ギリシア以来発達してきた、合理的に自然現象を説明しようとする学問は、神の否定につながるものとして敵視される傾向があった。

また美術では、古典期のギリシア彫刻のような、リアルで生き生きとした表現は衰退し、観念的で誇張の多い、平面的な表現が主流になっていく。それはそれで独特の味わいや深さがあり、現代美術的ともいえる。しかし、素直な子ども目線でみれば「絵がヘタになった」感じである。

どうだろうか。古典的な民主主義の衰退・化石化。地域コミュニティの衰退と個人主義の台頭。しかし自立した個人ではなく権威に隷属する個人。観念的なイデオロギーが強くなり、合理主義は後退。芸術表現にもそれがあらわれている。また科学・学問の創造性の低下……これって、現代世界と重なりませんか?

現代世界の文明も、ヨーロッパで生まれ、アメリカで展開した近代文明が長い時間を経て到達したものだ。その意味で、ギリシア・ローマの文明のなれの果てといえるビザンツの文明と似た立ち位置にある。井上教授もいうように、今の世界は「ビザンツ化」しているのではないか。

現代の世界を考えるうえでビザンツ帝国のことは参考になる。これからもこのテーマは考えていきたい。


*世界史専門の別ブログ『そういち総研』で、ビザンツ帝国についてより詳しく述べた記事を書いています。興味を持ってくださった方、ぜひご一読を。

こちら→ビザンツ帝国=東ローマ帝国とはどういう国だったか

(以上)
2017年11月21日 (火) | Edit |
権力者の汚職や不正には、家族や親しい人のため便宜を図ったものが多いです。

最近では、我が国の首相が友人の学校法人のため、隣国の大統領が姉妹同然の親友のため、不正を行った疑惑が持ち上がりました。「加計学園」のことは、つい最近のニュースでも取りざたされています。

おそらく、権力者が汚職をしないためには、家族も友もいないほうがいいのです。故郷や地元のつながりも、絶つべきです。

数百年前のオスマン帝国では、その考え方をほんとうに実行しました。

オスマン帝国は1500~1600年代に最も繁栄したイスラムの国家です。今のトルコ共和国にあたるアナトリア地方を根拠地として発展し、エジプト、シリア・パレスチナ、イラクなどのアラブ世界の広い範囲を支配した大帝国でした。

オスマン帝国では、キリスト教圏のバルカン半島などから少年を一種の奴隷として強制的に連れてきて、イスラムに改宗させたうえでエリート教育を施し、軍人や官僚として重用したのです。

これらの軍人・官僚たちは、結婚して家族を持つことは原則禁じられていました。故郷との関係も絶たれています。家族や故郷の絆がなければ、私欲を持たず公務に忠実であり続けるはずだ、というわけです。

このような、少年たちを強制的に集める制度を、「デヴシルメ(“強制徴用”の意)」といいました。デヴシルメによって集められた人材は、君主に直属する軍団の中核となりました。「イェニチェリ(“新しい兵隊”の意)」と呼ばれた軍団です。また、高級官僚や宮廷の侍従として重要な役職に就く者もいました。

イェニチェリ軍団は、目論見どおりに見事な働きをして、オスマン帝国の発展を支えました。

しかし、この制度にはやはり無理がありました。人間本来の性質に反するところがあった。

後の時代になると、デヴシルメで集められた軍人や官僚たちは、禁止だったはずの結婚をして家族を持つようになりました。子供に自分の地位を継がせることも行われました。それとともに、イェニチェリは腐敗にまみれていったのです。

今の時代は、デヴシルメのような非人道的なことは、もちろん許されません。ただし現代でも、一部のテロリストは少年たちを誘拐して兵士に仕立てあげたりしています。人間的な絆を絶たれた戦争マシーンの養成。これはきわめて非道な現代のデヴシルメです。

でも、未来には人工知能によるロボット官僚が実現するでしょう。

彼らは汚職とは無縁です。結婚しないのだから不倫もしないでしょう。忖度(そんたく)も苦手です。彼らに任せれば、きっと清潔で信頼できる政治や行政が実現するはず。

なお、ロボット官僚よりも先に、ロボット兵士の軍団は一般的なものになるでしょう。こちらはもう実用化の段階に入ろうとしている。

ロボット官僚を、幼稚なマンガ的空想と笑うことはできないはずです。世界史上におけるオスマン帝国の実例があるからです。

デヴシルメ制度によるイェニチェリ軍団は、当時の近代以前の技術でも可能なやりかたで「ロボット官僚」をつくりだしたのだといえます。人間にとって、とくに権力にとって、「ロボット官僚」は普遍性のある一種の「理想」なのです。

しかし、人間的な絆を一切持たない者に権力を委ねるのは、どうなのでしょうか? ちょっと恐ろしい感じもします。天涯孤独のヒトラーは、汚職をしなかったといいますし……

自分ただ1人のほか、守るべきものが何もないエリートが道を外れた場合、それはもう手がつけられないことになるでしょう。節度や遠慮のない堕落・暴走になってしまうはずです。「世の中の人間と自分とは、もともとなんの関係もないんだから、何をしたって構うものか」という感情が働いてしまうのです。

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世間のことを、こんなふうに「世界史」のフィルターを通して考えてみるのは、意味があると思います。世界史は、社会のいろいろなことを考える道具になります。

以前にご案内した世界史のセミナー(「女子限定・5000年を2時間でみわたす・大人のための世界史超要約セミナー」)が、11月27日(月)の当日まで1週間を切りました。まだまだお席があります。詳細は前回の記事(すぐ下)でご覧ください。

(以上)
2017年07月14日 (金) | Edit |
最近、世界史と日本史のかかわりについて考える機会があったので、簡単にメモしておきます。

私は、日本史についてはあまり論じてきませんでした。でも、拙著『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)の読者からのお便りで「日本史の本も書いて」といった声も複数いただきました。当然ながら「歴史を学ぶ」というとき、日本史へのニーズというのは、つよくあるわけです。世界史以上にあります。

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どの国もそうですが、日本の社会や文化も、その歴史のなかで外国の影響を受けて形成されてきました。何もかもをその国のオリジナルでつくりあげた国や民族は存在しません。

世界と日本史のつながりをみるときは、「世界史上のどの国が、日本にどのような影響を与えたか」という視点が、まず重要です。

そうやってみてみると、世界史上の各時代において最も繁栄していた、あるいは最先端で活気があった、という国が、日本に大きな影響を与えてきたということがわかります。

まず、600~700年代の飛鳥・奈良時代。「律令国家」といわれる天皇中心の体制が形成されていく時代です。このときは、中国の唐が日本に大きな影響を与えました。唐は当時の日本にとって先生でした。

当時の唐は、東アジアにおいて圧倒的な大国だったというだけではなく、世界全体を見渡しても最大・最強の国家でした。400年代に西ローマ帝国が滅びて、イスラム帝国(600年代以降)が形成されてまだ間もないという状況のなかでは、文化的な面も含めた総合力において、600年代~700年頃の唐は「世界の中心」といえる存在だったのです。

唐が滅びたあとも、日本は中国の歴代王朝から影響を受け続けます。唐が衰退してからは遣唐使が廃止されたりするわけですが、正式の国交がなくなっても、中国との交流がなくなったわけではありません。

唐から宋(1000年頃最盛)あたりまでは、世界史における中国の絶頂期といえます。あるいは、その後の元(1300年頃最盛)、明(1400年頃最盛)の頃までを「絶頂」に含めてもいいかもしれません。つまり、中国が世界の文明の先端を歩む超大国であった時代。そのような絶頂期の中国から、飛鳥・奈良・平安・鎌倉・室町の日本は学んで、今につながる社会や文化の基礎を形成したのです。

その中で1200年代には、モンゴル帝国(元)の大軍がせめてきました(文永の役1274、弘安の役1281)。1200年代の世界は、モンゴル人が制覇していました。侵略という悪しきかたちで、当時の世界最大の勢力から強い影響を受けたわけです。

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その後戦国時代の1500年代になると、ヨーロッパ人が日本にやってきます。最初はポルトガル人とスペイン人が、のちにオランダ人やイギリス人もやってきます。ポルトガル人が種子島に漂着して鉄砲を伝えたのが1543年です。

とくに当時のスペインは、ラテンアメリカとアジアに広大な植民地を持つ、ヨーロッパ最強の国家でした。中国やイスラムの大国と比べれば、国全体のスケールやパワーで優っていたとはいえませんが、やはり最先端をいく大国でした。

当時のヨーロッパは、航海術や軍事技術では世界の最先端にありました。その技術の中心は、銃や大砲などの火器です。日本はこの火器の技術を急速に習得したわけです。戦国末期の天下統一がなされようとしていた時代の日本には、ヨーロッパの大国にも匹敵する(あるいは上回る)火縄銃があったともいわれます。

江戸時代になると、日本はいわゆる「鎖国」に入り、ヨーロッパの国ではオランダにかぎって関係を続けることになりました。当時、つまり1600年代から1700年代初頭までのオランダは、ヨーロッパで最も繁栄した先進的な国でした。その国とだけつきあっても「世界のことが相当にわかる」という国だったのです。

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そして、幕末~明治(1850年頃~1900年頃)において日本に最も影響を与えた外国といえば、イギリスとアメリカです。明治維新(1868)の頃のイギリスは「大英帝国」として世界に君臨していましたし、アメリカも新興の大国として頭角をあらわしていました。アメリカは1800年代末には、工業生産でイギリスを抜いて世界一になります。

明治初期において、日本の最大の貿易相手国はイギリスでした。また、日本人の留学先のトップは、明治初期にはアメリカだったのです。ただし、留学先は明治後期(1890年頃以降)には、ドイツがトップになっています。ドイツは1800年代後半以降急速に発展して、1900年代初頭にはヨーロッパ最大の工業国となっていました。日本人は、そのようなドイツに注目して学ぼうとしたのです。

そして、第二次世界大戦後から現在。これはもう、圧倒的に超大国・アメリカの影響を受けてきました。良しにつけ悪しきにつけ、です。その一方で冷戦時代(とくに1950~60年代)には、アメリカのライバルであったソヴィェト連邦が発信する社会主義の思想にも、日本の多くの人びと(とくに知識人)は影響を受けたのです。

さらに1990年代以降は、新興国として台頭してきた中国の影響を強く受けています。ただし、中国との関係ではまだ日本が「先進国」の立場であって、中国のほうが日本から多くを学んでいるという状態です。

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さて、このようにしてみると、日本という国は世界史において主役をはるスターであったことはないのですが、それぞれの時代の主役・スターとはかなり深くからんできたということがわかります。

つまり、世界史の本流といえる先端的な流れから落ちこぼれることなく、歩んできたということです。1000数百年にわたって世界史の先端に食らいつき、真剣に学んできた結果、今の日本があります。

幸せだったのは「先端的な流れ(当時の最強の国)」と深くかかわっても、征服されることなく(ほぼ)独立を保てたことです。それは祖先の才覚や努力のたまものといえるのでしょうが、東アジアの端にある島国というロケーションも有利に作用したことは、まちがいないでしょう。

このように、日本という国は「世界史のなかで育った」といえます。そのことが顕著な国だといえるでしょう。

ということは、日本が今後も繁栄を続けようとするならば「世界史の先端的な本流の流れ」から目を背けてはいけないわけです。

そして、今の時代の難しさは「何が世界史の本流か」が以前ほどは明確ではないということです。それはまず、日本自身が世界史の先端に立つ先進国となったことによります。同時に「近代社会」の発展ということ自体が、これまでとはちがう領域に入ってきているということもあるように思います。このことはまたあらためて。

(以上)
2017年02月26日 (日) | Edit |
トランプ大統領は「アメリカとメキシコの国境に壁をつくる(費用はメキシコに負担させる)」といっています。すでに両国の国境にはフェンスなどがかなりあるので、それをさらに強化するということでしょう。

アメリカとの国境近くにあるメキシコの町には、アメリカへの入国を希望する人たちが、大勢やってきます。夜の闇にまぎれてフェンスを越えていく人も多くいる。そしてかなりの場合、アメリカの国境警備隊につかまって強制送還されたりしている。

国境を越えようとする人の中には、貧困に苦しむだけでなく、犯罪組織の脅威から逃れてきた人も少なくありません。メキシコでは麻薬組織などのマフィアが一般市民に金銭を要求し、拒めば恐ろしい報復をする、といったことがある。アメリカをめざす人の多くは、アメリカ社会の、より安全で快適な環境を欲しているのです。しかし一部には、麻薬などの犯罪を持ち込む人間もいる。

メキシコとアメリカの国境にあるフェンスは、「安全で快適な社会」と、そうではない外部の世界を隔てる「壁」です。壁の内側の人びとが、自分たちを守ろうとして築いたものです。

このような「壁」を、有史以来人間はつくり続けてきました。

中国の万里の長城は、最も有名なものです。秦の始皇帝(紀元前200年代)は、以前の時代からあった、北方の異民族が「中華」に侵入するのを防ぐ壁を、計画的に整備しなおしました。このような「壁」の伝統は、その後の中国に受け継がれていきます。ローマ帝国(100~200年代にとくに繁栄)でも、万里の長城ほどの規模ではありませんが、一部の辺境地域で「蛮族」の侵入を防ぐ壁をつくっています。

さらにさかのぼると、4000年ほど前のメソポタミア(今のイラクなど)でも、そのような壁はつくられました。チグリス川とユーフラテス川の間に挟まれた地域のなかで、両方の川のあいだをつなぐ形でつくられた壁です。

メソポタミアは5000年余り前から、最古の文明が栄えた地域です。その周辺には、メソポタミアという「中華」からみれば「蛮族」の人たちがいて、メソポタミアに侵入する動きがあったのです。

さらに、当時のメソポタミアでは、いくつかの大きな都市を中心として国家ができていましたが、それらの都市は日干しレンガの壁で囲まれていました。

その壁の内側では、数万人の人びとが暮らし、当時の世界では最先端の安全や快適さ、豊富な食料や、美しいさまざまなモノが存在していました。そして、そのような都市へ入ろうとするよそ者は、あとを絶ちません。その中には「ならず者」もいたので、野放図に入れるわけにはいかない。壁をつくらないことには安心できない。

今、トランプがめざしていることは、4000~5000年前のメソポタミアで行われたことと本質的には同じです。こういうところでは、人間は変わっていないのです。

つまり、その時代なりに魅力的な高度の文明が栄えると、その外部から自分たちを守るための「壁」をつくる、ということが有史以来くりかえされてきた。「中華」へ侵入しようとする人々を防ぐ壁です。それは今も続いているのです。

そして、そのような「壁」は長期でみると、結局は破られてきました。中国では始皇帝の時代から数百年以上経つと、北方異民族による王朝ができるようになりました。ローマ帝国も、その西半分(西ローマ帝国)は、多くの「蛮族」が侵入して崩壊していきました。

メソポタミアでも、結局は外部の民族の侵入は防ぐことができず、支配的な民族の交代がおこりました。

アメリカとメキシコの国境にある「壁」も、同じ末路をたどるのではないでしょうか。つまり、長期的には多くの人々の侵入を防ぎきれずに終わる。近年も、メキシコとの国境からのアメリカへの不法入国者は、年間で数十万人から100万人にのぼるといいます。「壁」を頑張ってつくっても、穴だらけになってしまうものなのです。そもそも、国を超えた交通や交流の発達した現代においては、辺境の「壁」にかつてほどの意味はない。

しかし、だからといって「壁」など無意味だ、愚かなつまらないものだ、といって片づけてはいけない。文明のはじまりの時代から、人は自分たちの文明社会を守る「壁」をつくってきたのです。だとすれば、それはきわめて根本的な欲求や感情にうったえるものだといえるでしょう。

もしも、メキシコとの国境に堅牢な壁がつくられたら、「これで守られる」という安心を感じる人たちが、アメリカにはおおぜいいるはずです。その「安心」にたいした根拠などなくてもです。そして、壁をつくった権力者への信頼は高まるのです。

「壁をつくること」は、「外敵から社会を守る」ということの象徴です。それは人々が権力者に求めることのうち、最も基本的な事項なのです。トランプや彼の周辺の人たちは、そのあたりをよくわかっているのかもしれません。


世界史専門の別ブログ「そういち総研」で、この記事を大幅加筆。かなり手ごたえあり。この記事に興味を持ってくださった方、読んでいただけるとうれしいです。
こちら→壁をつくってきた歴史

(以上)
2016年04月26日 (火) | Edit |
 最近ひたすら世界史のことを読んだり書いたりしていて,以下はその中でまとめたものです。これまで書いたもの(このブログでも複数の記事としてアップしている)をもとにしています。幅広い世界史の事実や大きな論点を扱いながら,それをコンパクトにシンプルに書くということを,自分のやり方として追求しています。

 ところで,今回の記事は当ブログにとってちょうど500本目になります。今現在公開している記事は500より少ないのですが,これは何本かをアップしたあとに非公開にしたため。とにかくこれまで500本の記事はつくってきたということ。ブログの記事としてはたいした数ではないけど,それでも自分にとってはそれなりの蓄積です。これからもまずは1000本めざして積み重ねていきたいものです。


「近代化=模倣」のむずかしさ


近代化という課題

 アジア・アフリカ諸国の多くは,1900年代の前半から1960年ころまでに,欧米の植民地支配から脱して独立しました。
 また,トルコ(オスマン帝国)や中国(清)は欧米の植民地にはならなかったものの,1900年代前半の時期に従来の王朝による支配を倒す革命が起こり,現在につながる建国がなされました。

 そして,独立や建国を果たしたあとのアジア・アフリカ諸国は「近代化」を目標に歩みはじめました。欧米人の生み出したものを自分たちも手に入れて,発展していこうということです。

 この近代化の中心課題は,経済成長です。国の経済を発展させ,貧困から抜け出すこと。

 しかし,独立・建国後のアジア・アフリカ諸国の多くは,しばらくのあいだは思うような経済成長を実現できずにいました。一定の経済成長はありました。しかし,その成長の勢いは,平均してみると欧米や日本などの先進国を下回るものでした。1950~60年代はそのような状態が続きます。

 それを,統計の数字でみてみましょう。つぎのデータは,世界各国の長期的な経済成長の歩みを統計的に研究した,アンガス・マディソンの著作などによるものです。(『世界経済史概観 紀元1年―2030年』岩波書店、2015)

1人あたりGDPの成長率(%)
       1950~73年 1973~2003
西ヨーロッパ  4.1       1.9
アメリカ     2.5       1.9
日  本     8.1       2.1
アジア      2.9       3.9
アフリカ     2.0       0.3

2013年の経済成長率=GDP増加率
ユーロ圏≒西欧   -0.3
アメリカ         1.5
日  本         1.6
中  国         7.7
インド          6.9
ASEAN主要5か国 5.1
サハラ以南アフリカ  5.2
(IMFによるデータ)

 1950年~1973年における西ヨーロッパの1人あたりGDPの年平均成長率は,4.1%でした(各国の合計による)。アメリカは2.5%,高度成長期だった日本は8.1%。一方,日本を除くアジアの成長率は2.9%,アフリカは2.0%です。

 この数字は,経済成長の勢いをあらわすものです。つまり,この時期のアジア・アフリカの経済成長率は,欧米などの先進国よりも低い傾向にあったのです。

 1973年で区切るのは,この年が「先進国の成長率の変化」や「アジア諸国の台頭」などにかんする節目であったと,マディソンが位置づけているためです(1973年には「石油ショック(第1次)」という世界経済をゆるがす事件がありました)。

 しかし,これ以降はアジアの経済成長の勢いは先進国を上回るようになります。1973年~2003年における,アジア(日本除く)の1人あたりGDPの年平均成長率は、3.9%でした。西ヨーロッパは1.9%、アメリカは1.9%,日本は2.1%です。先進国の成長率が低下する一方で,アジアが伸びてきたのです。

 一方,この時期のアフリカではかなりの国で内戦などの混乱が激しく,成長率は0.3%と落ち込んでいます。
 その後も「アジアの成長が先進国を上回る」傾向は続いています。さらにはっきりしてきた,といえるでしょう。アフリカ(サハラ以南)でも2000年代になると,一定の経済成長がはじまりました。

近代化とは「模倣」である

 なぜ,近年になってアジア・アフリカの発展が順調になってきたのでしょうか?

 これは「近代化=模倣・学び」という視点で考えることができるのではないか。

 当ブログの世界史関連の記事ではこれまで「世界のなかの中心的な先進国が周辺に影響をあたえ,影響を受けた地域で発展が起こる」ということをみてきました。影響を受けるとは,「学ぶ」といってもいいでしょう。自分たちより進んだ技術などに学ぶことは,その国の発展にとって必要です。だから,経済発展が順調に進んでいるのは,そのような「学び」「模倣」がスムースに行われているということです。

 「となりの先進国のすぐれた点に学ぶ」なんて,あたり前のことだと思うかもしれません。でも,「すぐれたものにきちんと学ぶ」というのは,結構たいへんなことなのです。そこに至るには,乗りこえるべき障害がじつはいろいろとあります。とくに大きな障害は「プライド」ということです。このことを,1950~1970年代に活躍したエリック・ホッファーという思想家が,つぎのように表現しています。

《近代化とは基本的には模倣――後進国が先進国を模倣――の過程である…そして、…自分よりもすぐれた模範(モデル)を模倣しなければならないときに苦痛を感じさせ、反抗を起こさせる何かが心の中に生じはしないだろうか……後進国にとって模倣とは屈服を意味する》
(『エリック・ホッファーの人間とは何か』河出書房新社、2003)

 つまり,近代化とは「欧米先進国を模倣すること」であり,プライドを傷つける面がある。しかし,模倣にたいする嫌悪や屈辱感を乗りこえていかないかぎり,まともに学ぶことはできません。

 「模倣がプライドを傷つける」という感覚は,個人にとってはわかりやすいはずです。「お前のしていることは人のマネだ」といわれるのは,ふつうはイヤです。それが国家や社会というレベルでもあるのではないか,ということです。

 最初のうちは,先進国を模倣することに抵抗している段階がある。しかし一定の試行錯誤のあと,それを乗りこえて,外の世界に積極的に学べるようになっていく。その結果,経済成長が軌道に乗っていく……

 独立・建国以後のアジア諸国の動きをみると,たしかにそのようなことがありました。「模倣への抵抗から,積極的な模倣へ」という過程があったのです。中国やインドの事例はその代表的なものです。

中国の「大躍進」

 中華人民共和国の建国から10年ほど経った1958年,中国では毛沢東によって,「大躍進」という経済発展の方針が打ち出されました。「国家主導のビジョンに基づいて,急速な経済成長をなしとげる」というものです。

 大躍進の特徴はまず,それが徹底的に国家主導のものであったことです。社会主義とはそういうものです。そしてもうひとつは,その計画をできるかぎり自前の技術・ノウハウでやり遂げようとしたことです。先進国から技術者を招いたり企業を誘致したりはしません。欧米からはもちろんのこと,もとは友好関係にあったソヴィエト連邦からも,大躍進のころ(1950年代末)から関係が悪化し,その支援を受けることはなくなりました。

 そこでとくに重視されたのは,鉄の大幅な増産でした。鉄はすべての工業の基礎となる材料である。だから経済発展はまず鉄の増産からだ――そう考えたのです。大躍進では,「15年後には鋼鉄の生産量でイギリスを追い越す」という目標がかかげられました。

 鉄の増産のための切り札は,「土法高炉(どほうこうろ)」というものでした。これは、土やレンガなどでつくった小型の簡易な溶鉱炉のことです。これを各地に何十万も建設して製鉄をさかんにしようとしたのです。土法高炉は,「自前で」という精神を象徴するものでした。
 
 この運動の結果は,悲惨なものでした。たしかに鉄の増産はそれなりに達成できました。しかし,《土法高炉でつくられた鉄で利用可能だったのは、三分の一にも満たなかった》といいます。(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011)
このような「粗製乱造」は,大躍進のときの工業全般にみられることでした。こんなことでは、経済の「大躍進」などムリな話です。

 さらに,この時期に農村の労働力の2割(かそれ以上)が工業や建設事業などに動員されたことや,さまざまな農業政策の失敗などから食料生産が大きく落ち込み,大飢饉が起こりました。それによって,1959~1961年の3年間で,1600万人から2700万人が餓死したと推定されています(先に引用したF.ディケーターの説では4500万人にのぼるという)。

インドの「自前主義」

 中国のように,いわば「自前主義」で発展していこうという発想は,1947年に独立したあとのインドでもみられました。

 インドでは,かつての(大躍進のころなどの)中国とはちがって,民間の企業活動が一応は認められてきました。しかし,国家による経済への介入や統制は積極的に行われました。国有企業が経済に占める役割も大きく,ソ連や中国とはちがったかたちでの「社会主義」的なところがありました。

 インドの経済政策で重視されたのは,「すべてをできるかぎり国産で」ということでした。自国で生産できるものは,国産品のほうが高くて低品質であっても,輸入しないようにする。海外企業の進出は,原則として認めない。外交的にも,アメリカ・ソ連どちらの側とも距離をおく方針をとったので,米ソからの技術的な支援もごく限られていました。

 国として,非常に閉鎖的な状態だったわけです。「先進国からの輸出や企業の進出を許すと,国の経済が先進国にのっとられてしまう」と考えたのです。そのようなインドの経済成長率は,低い水準にとどまっていました。1950年~1973年における1人あたりGDPの年平均の成長率は1.4%で,同時期の中国の2.8%を下回っていました(前掲のマディソンの著書による)。

 こうした中国やインドの政策は,まさに「模倣への抵抗」です。欧米の先進国に教わることなく,自分たちは自分たちのやり方でやっていく。それでいつか追い越してみせる――そんなスタンスです。そのように「教わるのはイヤ」であっても,やはり発達した工業や軍事力などの近代的な文明の成果は手に入れたいのです。それは「自己流の手前勝手な模倣」といってもいいかもしれません。

アジアNIEs

 しかし,このような「模倣への抵抗」が失敗であったことが,しだいにはっきりしてきました。「自国の成長が思うようにいかない」というだけはありません。自分たち以外で急発展するアジアの国があらわれ,先を越されてしまったのです。1970年ころから,韓国,台湾,シンガポールといった国・地域の急速な経済成長がめざましいものになったのです。これらの国ぐには「アジアNIEs(アジアニーズ,「アジアの新興工業経済地域」という意味)」といわれました。

 アジアNIEsの国ぐには,中国やインドのような「自前主義」ではありません。貿易についても海外企業の進出についても,オープンなスタンスでした。先進国の下請けの工場も,経済のなかで重要なものでした。
 
 こうして先進国との接点が増えていくと,いろんな学習・模倣が行われるようになります。先進国の製品やサービスに触れたり,国企業で働いたりすることで,技術やノウハウを身につける人が増えていったのです。これが経済発展につながっていきます。
 こういうことは,今ではあたりまえに思えます。しかし,かつてはかならずしも常識ではありませんでした。だからこそ,中国やインドでは「自前主義」の政策が行われたのです。

 経済が行き詰った結果,1980年代の中国や1990年ころのインドでは大きな路線変更がおこりました。「輸出入をさかんにする」「海外企業の進出を受け入れる」という方針に変わったのです。中国では,それまでは原則禁じられていた,民間の企業活動を大幅に認めるようにもなりました。

 その後は中国でもインドでも,持続的な高度成長がはじまったのです。その成長は今(2010年代)も続いています。今の中国やインドでは,先進国を模倣することへの抵抗は影をひそめ,先進国の技術やノウハウを積極的に取り入れようとしています。

ガンジーの主張

 「欧米とは異なる独自の道で理想を実現しよう」という考えは,欧米よりも遅れて近代化がはじまった国では相当な力を持ちました。中国やインドではまさにそういう時期があったのです。

 インドの独立・建国の父であるガンジーは,そのような「模倣への抵抗」の教祖のような人でした。彼はたとえば,こんな意味のことを言っています――《輸出も輸入も排斥されるべきである。…外国製品のボイコットは,…経済の恒常的基礎的原理である》――ガンジーは貿易を否定していたのです。

 また彼は《機械は西洋と結びついており,悪魔的》《経済的進歩は,それ自体,好ましい目的ではない》などとも述べています。機械文明や経済成長についても批判的だったのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社、2002)

 ガンジーという人は「聖人」というイメージがあります。しかしここでは,国の指導者としてはずいぶんトンデモなことを言っていると思いませんか? ドリエージは,《ガンジーが断固として拒否する近代性》《ガンジーの反西洋主義》などと述べています。そのような一面も,ガンジーにはあったのです。

 インドは,1800年代以降イギリスの植民地でした。第二次世界大戦後(1947)に,そこからようやく独立を得たのです。「欧米のマネなどするものか」という気持ちもわかります。しかし,ガンジーの主張にはムリな面がたくさんありました。だからこそ,インドはガンジーのいう方向には結局は行きませんでした。そして,ほかの多くの国も,ガンジーの否定する「模倣=近代化」を積極的に行うほうへ進んだのでした。

昔話ではない

 ここで注目してほしいのは,これまで述べた毛沢東の「大躍進」もガンジーのトンデモな思想も,世界史の大きな流れでみれば,そんなに昔の話ではないということです。これらは1900年代半ばのことでした。

 ということは,産業革命以降の欧米が圧倒的な力で世界を制覇したあとなのです。すでに,欧米人が生み出した「近代」の威力はイヤというほど証明されています。それでも,近代化に向けた模倣に対しての、いろんな抵抗や葛藤があったわけです。

 しかし,今の多くの発展途上国では「屈辱感による模倣への抵抗」は,かなりなくなったようです。世界各地での新興国の台頭がそれを示しています。しかしそうはいっても,「模倣への抵抗」はまだまだいろんなかたちで残るのではないでしょうか。

 たとえば今の中国でも,欧米で生まれた民主主義の政治体制はまだ採用されていません。共産党に対抗する野党の存在が認められず,共産党の指導者が政治の全権を握っているのが中国の体制です。今の中国のスタンスは,「経済や技術は模倣するが、政治は模倣しない」ということです。近代社会の要素を全面的に模倣することは,まだ拒否しているのです。

徹底して模倣に抵抗する異端の人たち

 また,少数派や異端として徹底した「模倣への抵抗」を行う人たちも,世界にはいます。たとえば,欧米などの側から「イスラム原理主義」といわれる集団にはその傾向があります。

 「イスラム原理主義」とは,「自分たちなりに解釈する『コーラン』の教えを,妥協せず厳格に実践しようとする主義」だと,とりあえず理解してください。だとすれば,「近代的な価値観や生活とは相当相容れないところがありそうだ」と,想像がつきます。

 「イスラム原理主義」あるいは「イスラム過激派」の一派とされるタリバンという集団は,1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を統治していました。彼らは近代社会のさまざまな要素を否定しました。

 そのなかでも世界の多くの人たちがとくに違和感を持ったのは,女性の位置づけでしょう。タリバンは女性のさまざまな権利をはく奪しました。タリバン政権時代のアフガニスタンでは,女性は家の外で働くことも,まともな教育を受けることも許されませんでした。これが「イスラムの教え」に本当に関わっているのかどうか疑問はありますが,近代化=模倣を否定するものであることは確かです。

 そして,このような「原理主義」に共鳴する人びとが,今の世界にも一定の数存在しているのです。あるいは,2010年代現在の「イスラム国」のような,新たなイスラム過激派の勢力があらわれる,といったことがあります。

 毛沢東やガンジーのような「〈模倣=近代化〉への抵抗」は,かならずしも昔話ではないのです。

(以上)
2016年03月24日 (木) | Edit |
 このブログでは「世界史」をひとつの大きなテーマにしています。最近の海外のニュース――たとえばアメリカ大統領選のトランプ候補のことや先日のベルギーのテロといったことをみていると,世界史のなかの,衰退期に入ったローマ帝国の状況と現在を重ねあわせてしまいます。やや長くなりますが,それはつぎのようなことです。
 
西ローマ帝国の滅亡とゲルマン人

 ローマ帝国は西暦100年代に最盛期となりましたが,400年代にはその西半分(西ローマ帝国)が滅亡して,それまでの体制が大きく崩れることになりました。内乱や「ゲルマン人」といわれる人びとの帝国への侵入が,その直接の原因とされます。

 ゲルマン人とは,ローマ帝国の周辺であるヨーロッパの東や北の辺境で素朴な暮らしをしていた人びとの総称です。いくつかの系統の部族を,まとめてそう呼ぶのです。

 たしかにゲルマン人は,西ローマ帝国の滅亡に関わっています。410年には,西ゴート族というゲルマン人の一派の王である,アラリックの軍勢がローマ市を占領しました。476年には東ゴートの一部族の王で,ローマの傭兵隊長でもあったオドアケルが反乱をおこし,ローマ皇帝を廃位しています。これが「西ローマ帝国の滅亡」です。

 しかし,それ以前にもゲルマン人は,ローマ帝国に入り込んでいました。農業での労働力不足を補うため,多くのゲルマン人が農民として,公認で移住していました。また300年代には,ローマ軍の主力もゲルマン人で占められるようになっていました。

 さらに,政府高官に登用されるゲルマン人さえいました。そのような高官のゲルマン人は,立派なローマ的な教養や文化を身につけた人びとでした。彼らの能力は高く,一時期は相当な影響力をふるいました。

 ローマ史家の弓削達によれば,当時のローマでは《すぐれた高位のゲルマン人に対するあこがれも生まれ,ローマ市内でローマ人が……ゲルマン風毛皮コートを着用し,ゲルマン人風の長髪をなびかせるなどの流行さえ生まれた》といいます。(『ローマはなぜ滅んだか』講談社現代新書。以下,もっぱら弓削の著作に沿って話をすすめます)

「反ゲルマン」への転換

 しかし,その一方で「反ゲルマン」の人たちも多くいたのです。「あいつらは所詮野蛮人じゃないか」「あいつらのせいでローマの伝統の良さが失われる」「ローマにとって危険だ」というわけです。

 そこで,「ゲルマンのローマへの浸透・その活躍」は,ネガティブなことが起きると,とたんに終わりました。

 西暦400年代初頭には,当時の西ローマ帝国で最も権限をふるっていたスティリコというゲルマン人の高官に謀反の疑いがかけられ,彼は処刑されてしまいました。おそらくは政敵による陰謀です。

 この事件をきっかけに,ローマにおけるゲルマン人への対応は変わっていきます。帝国内に住むローマと同盟関係にある部族の人びとを,ローマ人が虐殺したりもしました。その結果,それらの部族の兵士3万人は,ローマと緊張関係にあった西ゴート(ゲルマン人の一派)のアラリック王のもとに合流してしまいました。前に述べたように,アラリックはのちに(410年),ローマ市を占領します。

人材の喪失による,政治・外交の衰え

 また,スティリコの処刑以降,ゲルマン人が歴任してきた軍の最高司令官のポストに,ゲルマン人が就くことはなくなりました。しかし後任者たちは,ゲルマン人の司令官よりも能力が低く,軍隊はそのぶん弱体化したのです。ゲルマンのすぐれた人材を登用しなくなったことは,西ローマ帝国の政治をさらに衰退させました。

 そこで,当時西ローマ帝国の近辺に拠点を持ち,ローマにとって脅威となっていた西ゴート族への外交的な対応も,拙劣になっていきました。弓削によれば,西ゴートの王アラリックに対し《譲るべきときに拒否を重ねた》のです。そして西ローマ皇帝がアラリックに軽蔑的な暴言を吐いたために,アラリックのローマ進軍を招いたといいます。

 当時の西ローマの政権には,ゲルマン人を「まっとうな外交の対象」としてみるセンスが欠如していました。それが相手の怒りを招きました。しかし,アラリックたちの軍隊のほうが,無能な司令官しか残っておらずガタガタになったローマの軍隊よりも強かったのです。410年,アラリックはローマを占領してしまったのでした(ただし,同年にアラリックは病死)。

もっと冷静に対応すべきだった

 ローマ帝国は,やはりゲルマン人への対応を誤ったといえるでしょう。

 西ローマの政権は,もっと冷静に対応すべきでした。まず,ゲルマン人をとにかく「人間」として認める。そのうえで,自分たちに敵対しない,あるいは有益であるなら,それなりの処遇をする。説得や妥協をすべき対象として,交渉する。聖人のように寛容である必要はない。自分たちの立場や利益を優先し,自らの優位な点は利用するズルさがあっていい。

 でも,スティリコの事件のときのような,損得を度外視したヒステリックな感情に走るのは,よい結果を生まないはずです。要するに「柔軟さ」や「寛容」を失ってはいけないということです。

 さて,ここで述べたゲルマンと西ローマの関係は,今現在の世界で起きていることを考える参考になるはずです。たとえば「西ローマ」は「欧米」に,「ゲルマン」は「アラブ」「イスラム」に置きかえることができるでしょう。あるいは,ローマ人の主流を現代アメリカの白人になぞらえてもいいでしょう。その場合,ゲルマンにあたるのは黒人・アジア人などの白人以外の人びとです。

 現代のアメリカは,白人の比率が低下する傾向にあります。1960年にはアメリカの人口に白人が占める比率は85%でしたが,2010年には64%に下がりました。「2060年には白人の比率が4割程度になる」という予測もあります(以上,アメリカのシンクタンク,ピュー・リサーチセンターが2014年に発表したデータ・予測)。
 
 白人以外のアメリカへの移民が増えたことで,そのような変化が起きたのです(さらに,人種間の結婚が増えたこともある)。そして,白人以外から政府高官や先端的な大企業の経営者など,社会を動かす人たちも続々と出てきました。

 これは,かつてのローマ帝国でゲルマン人が浸透していった様子と重なります。つまり,「文明の中心」に向かって「周辺」から多くの人びとがさかんに流れ込む動きが,現代の世界でも古代のローマ周辺でもみられるのです。近年の西ヨーロッパでも,アラブからの移民や難民の増加ということがあります。

 トランプ候補のような人物の、「周辺」の民族への差別的発言に一定の強い支持があることの根底には、以上のようなアメリカ社会の変化があるのでしょう。つまり「周辺」の人びとが、「中心」のなかに大きく入り込んで、大きな勢力になってきている。その動きのなかで,それまで「中心」のなかで主流だった人たちが不遇な目にあうこともある。少なくとも「焦り」が生じる。トランプ氏は、そこからくる不満や焦りの受け皿になっている(クリントン候補は,そういう「受け皿」になる資質やセンスが欠如している)。

 じつは,ここで引用したローマ史家の弓削達も,発展途上国から欧米先進国への移民や難民の流入と,ローマへのゲルマンの侵入を重ねあわせて論じています。当時のローマ人によるゲルマン人への対応を批判することは,現代人に「ボートピープルを笑顔で受容れよ」「外国人働者を大切にせよ」などというのと同じで,《非現実的な勧告に響くかもしれない》と。
 弓削の著作は1980年代に書かれたものですが,その後の世界情勢をみれば,的確な問題意識だったといえるでしょう。
 
 「周辺」から「中心」への人びとの流入は,さまざまなあつれきを生みます。現在(2010年代)の欧米諸国でも,イスラム教徒や非白人全般に対する差別・排斥の動きは,たえずくすぶっています。それが激化する可能性は,今後も常にあるはずです。
 
 しかし,「文明の中心といえるような大国であっても,柔軟さや寛容を失えば衰退と崩壊への道を歩む」ということは,歴史の教訓として忘れてはならないはずです。現代の「文明の中心」の人びとは,古代のローマ人よりは賢いはずだと期待していますが,どうでしょうか……

 先日のベルギーのテロや,昨年のパリでのテロのようなことがあると,テロの攻撃を受けた社会の「柔軟さ」や「寛容」は,大きく崩れてしまう恐れがあります。すでにそうなりつつあるのかもしれない。それが,テロを仕掛けた側の狙っているところではないでしょうか。

 今後,欧米などの先進国において,イスラム(テロと関係ない人たち)への差別や迫害が強くなれば,欧米の社会になじんでいた,あるいは欧米寄りだったイスラムの人びとの中から,テロを仕掛けた側に同調する人が増えるのです。古代ローマでは、ゲルマン人高官スティリコが謀反の疑いで処刑されたあとゲルマン人への迫害が起きた結果,3万人のゲルマン兵が強敵のアラリック王のもとへ亡命したのですから。

(以上)
2015年05月31日 (日) | Edit |
 今年は,第二次世界大戦(1939~45)終結70年ということで,あの大戦について考えることが,あちこちで行われています。安倍政権の「戦後70年談話」なども,そのひとつ。

 最近,世界大戦にかんする本をいくつか読みました。そこで知ったこと,考えたことを書きます。「日本にとって」というより,「世界にとっての,あの大戦」という視点で考えたいと思います。

 1900年代前半は「世界大戦」の時代でした。
 第一次世界大戦(1914~1918)と,第二次世界大戦(1939~1945)。

 あのような世界を巻き込む大戦争は,どうして起きるのか?

 「世界の強国のあいだの力の均衡」という視点は,とくに大事だと思います。
 世界大戦の前提には,「世界の強国のあいだで,力の均衡が大きく変化する」ということがある。

 つまり,

・これまでの世界で「ナンバー1」「1番手」といえる強国の圧倒的優位が崩れる一方,「2番手」の強国が勢いよく台頭してくる。

 このような「ナンバー1」の国を「覇権国」ともいいます。

 しかし,これだけでは大戦にはなりません。さらに,つぎのことも必要です。

・その「2番手」が,世界のなかでの自己のポジションに,強い不満を持っている。「自分たちは,本来の力にふさわしい評価や利権を得ていない」と感じている。

 さらに,もうひとつあります。

・そのような「不満」が暴発するだけの強い社会的プレッシャーが生じたり,ある種の絶望感に2番手の国が陥ったりする。

 以上をまとめると,

1.従来の覇権国の凋落と,2番手の台頭・追い上げ。
2.2番手の不満の高まり。
3.2番手における社会的プレッシャーや絶望感。


 この3つが揃うと,「世界大戦前夜」です。
 ここに,発火点となるような紛争や事件が重なると,「世界大戦」になってしまいます。

4.発火点になるような紛争・事件。

 1.~4.が揃ったとき,1番手と2番手のあいだで戦争がはじまります。

 2番手が,覇権国の立場をめざして1番手に戦いをはじめるのです。困難な戦いであっても,「戦えばなんとかなる」と,戦争をはじめてしまう。1番手・2番手には,それぞれの同盟国があるので,世界のおもな国ぐにが2つの陣営に分かれて戦うことになります。
 
 世界大戦は,2番手の国による,それまでの覇権国(1番手)への「挑戦」というかたちをとる。
  
 ***
 
 では,第一次世界大戦,第二次世界大戦において,上記でいう「1番手」「2番手」とは,具体的にどの国だったか?
 これは,共通しています。2つの世界大戦の主要キャストは(国というレベルでみれば),同じです。

 1番手・・・イギリスとアメリカ
 2番手・・・ドイツ


【第一次世界大戦】 
イギリス・アメリカ・フランス・ロシア・日本など(協商国また連合国)
      VSドイツ・オーストリア・トルコなど(同盟国)
  →連合国の勝利

【第二次世界大戦】 
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)
      VSドイツ・日本・イタリアなど(同盟国)
  →連合国の勝利


 2つの世界大戦があった1900年代前半は,1800年代に圧倒的だったイギリスの優位が崩れ,アメリカ(アメリカ合衆国)が台頭した時代でした。

 工業生産では,アメリカは1800年代末にはイギリスを抜いて世界一になりました。しかし,軍事力や科学技術,文化の面では,今のような強い力はありません。一方で,イギリスはあいかわらず世界に植民地を持ち,今までの蓄積にもとづくパワーが残っていました。

 1900年代初頭は,覇権国が「イギリスからアメリカへ」と移っていく過渡期でした。
 だから,「一番手は,イギリスとアメリカの両方」といえる状態だったのです。

 そして,これら新旧の覇権国のあいだでは,深刻な対立はおきませんでした。両国は密接な関係にあり,多くの点で利害をともにしていました。また,それまでのアメリカは「孤立主義」的な外交で,ヨーロッパの情勢からは距離をおいていました。つまり「覇権」ということに,あまり興味を持っていなかったのです。

 「1番手」がそのような状況のなか,1800年代末以降,あらたな「2番手」として台頭したのがドイツでした。

  ドイツはイギリス,フランスよりはやや遅れて近代的な発展がはじまりました。たとえば,1870年ころに「ドイツ統一」がなされるまで,ドイツはいくつもの小王国に分かれていたのです。日本でいえば江戸時代の幕藩体制のような状態です。1870年というのは,日本の明治維新(1868年)と同じころです。

 しかし,急速に発展して,第一次世界大戦の少し前には,イギリスを抜いてヨーロッパ最大の工業国になっていました(当時の世界最大の工業国は,アメリカ)。

※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)

       1820年   1870年    1913年 
アメリカ   1.8      8.9      19.1
イギリス   5.2      9.1       8.3
ドイツ    ―       6.5       8.8
フランス   5.5      6.5        5.3
日 本    ―       2.3        2.6

(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)

 しかしドイツは(指導者も国民も),世界での自分たちの地位に不満を持っていました。
 ドイツ近現代史の専門家・木村靖二によれば,こういうことです。

《(1910年ころの)ドイツは統一後三〇年にして,軍事・工業大国へとのし上が(った。そして,)既存の列強からそれにふさわしい待遇を受けることを期待し,「陽の当たる場所」を譲られることを当然だと自負していた。既存列強の対応が期待を裏切ると,ドイツはその理由を将来性に満ちた,若々しいドイツに対する老大国の「妬み」とみた・・・(第一次世界大戦の)開戦勅書にも「敵はドイツの成果を妬んでいる」という一句がある》(木村靖二ほか『世界の歴史26 世界大戦と現代文化の開幕』中央公論社,37ページ)

 以上,第一次世界大戦の前夜には,さきほど述べた「世界大戦にいたる条件」のうちの「1.従来の覇権国の凋落と2番手の台頭」があり,「2.2番手の不満」もあったわけです。

 では,「3.2番手におけるプレッシャーや絶望感」は,どうだったのか?
 これは,ややはっきりしません。

 しかし,さきほど引用した木村靖二によれば,第一次世界大戦前夜において,列強の指導者たちが《将来における列強としての地位と順調な経済発展を維持するために,確実な保証を得なければならないという圧力を感じていた。・・・具体的な対立というより,閉塞感や未来への不安(があった)》(木村『二つの世界大戦』山川出版社,10ページ)ということです。そして,その背景となる国際情勢や,国内での労働運動の高まりなどについて述べています。

 とくに,ドイツの指導者は「閉塞感」をつよく感じていたのでしょう。
 
 そんな中,1914年にサラエボという都市(現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ)で,オーストリア皇太子がセルビア人青年によって射殺されるという「サラエボ事件」が起きます。

 セルビアは当時,オーストリアによる圧迫を受けていました。それへの反発から「サラエボ事件」は起きたのでした。
 オーストリアはセルビアに侵攻し,戦争がはじまりました。セルビアの反抗を鎮圧しようとしたのです。

 当時のオーストリアは,ドイツと同盟関係にありました。
 ドイツは,オーストリアを全面支持。
 一方,セルビアのあるバルカン半島への進出を狙うロシアは,反オーストリア・ドイツでした。
 当時のロシアはフランスと同盟を結んでおり,イギリスもその陣営に属していました。

 オーストリアのセルビア侵攻で,ヨーロッパ列強のあいだの緊張関係は一挙に高まりました。

 「サラエボ事件→セルビア侵攻」は,上記の「大戦が起きる条件」のなかの「4.発火点となる紛争・事件」ということになります。

 しかし,セルビアでの戦争は,「地域紛争」にすぎません。
 このあと,さらに大きな飛躍によって,「世界大戦」はおこりました。

 それは,ドイツがベルギーを占領し,そこを拠点にフランスへ大軍で攻め入ったことです。
 ドイツとフランスは,深刻な国境をめぐる対立をかかえるなど,互いに「仮想敵国」といえる関係にありました。

 そこで,セルビアでの戦争以降,緊張が高まる中,ドイツの側では「フランスに攻められる前に,こちらから先制攻撃をしかけて撃破してしまえ」という考えに至ったのです。
 ドイツでは,何年も前からフランス(およびロシア)との戦争の計画を練っていました。

 ドイツによるベルギーやフランスへの侵攻によって,イギリスもドイツと全面的に戦うことになりました。こうして,サラエボ事件以来の地域紛争は,「大戦」に発展したのです。

 それにしても,ドイツの選択は,今の私たちからみると,ずいぶん飛躍しているようにも思えます。
 しかし当時は,戦争に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低かったのです。国をあげて戦い,凄惨な破壊を生む「総力戦」のイメージがなかったからです。そのイメージは,世界大戦のあとに普及したものです。

 だから,当時のドイツの指導者は,戦争を「既存の秩序を破壊し,ドイツが覇権国となるチャンス」ととらえたのです。今の自分たちの強大な軍事力をもってすれば,フランス,ロシア,そしてイギリスとの戦争に勝てるはずだ。もちろん議論はありましたが,「戦争」派がドイツでは実権を握ったのです。

 しかし,ドイツの思惑どおりにはいきませんでした。戦争は泥沼化し,大戦の後半にはアメリカも連合国側で参戦。ドイツを中心とする同盟国側は敗北したのでした。

 ***

 第二次世界大戦は,どうだったのか?

 第二次世界大戦においても,戦争の中心となった「2番手」は,ドイツでした。第二次世界大戦は「第一次世界大戦のリベンジ・マッチ」といえる面があります。

 第一次世界大戦に,ドイツは敗れました。その結果,経済・社会は大混乱に陥り,国民は苦しみました。

 そのドイツにイギリスなどの戦勝国は,きびしい要求をつきつけました。「莫大な賠償金を支払え」「二度と戦争ができないよう,軍備を大幅に制限する」といったことです。

 その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。ドイツの産業は戦前の水準を取り戻し,ふたたびヨーロッパでナンバー1となりました。
 しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)が,ヨーロッパに波及すると,経済はまた大混乱となったのです。

 そんな中,人びとの支持を集め,1930年代前半に政権を獲得したのが,ヒトラーでした。彼は人びとに愛国心を訴え,「強大なドイツをつくるために立ちあがろう」と呼びかけたのでした。彼のメッセージは,当時のドイツ国民に響くものがあったのです。

 ヒトラーがめざしたのは,「イギリスにリベンジすること」「ドイツをヨーロッパ最強の覇権国にすること」でした。
  
 ヒトラーは大胆な経済政策に成功し,混乱をみごとに収拾しました。その実績もあって,彼は独裁権力を固め,1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。

 まず,チェコやオーストリアといったドイツ周辺の国に侵攻。のちにはポーランドを占領し,さらにはフランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧してしまいました。この動きのなかで,イギリス・アメリカとの戦争もはじまり,第二次世界大戦となったのです。

 このようなドイツの動きに,日本も同調しました。「遅れて発展した列強」として,日本もまたドイツと同様の不満を,国際社会に対して抱いていたのです。1941年末からは日米戦争も始まり,大戦は文字通り「世界」規模のものとなりました。

 第二次世界大戦がはじまった経緯のほうが,第一次世界大戦よりやや知られているので,非常にざっくりした説明になりました。
 とにかくここでも「大戦が始まる条件」の1.~4.はそろっています。「2番手」ドイツの復興,その不満や恨み,大恐慌以降の混乱,ヒトラーが近隣諸国に対し行った侵攻・・・

 第二次世界大戦で,ドイツ・日本などの同盟国側は敗北し,壊滅状態となりました。
 ドイツは東西に分割され,アメリカとソ連(ロシア)が対立する「冷戦時代」には,西ドイツはアメリカなどの「西側陣営」に,東ドイツはソ連などの「東側」に属しました。

 しかし,1990年代初頭にソ連が崩壊し,冷戦が終結したことにより,東西ドイツは統一され,今日に至っています。

 ***

 以上をみると,ドイツという国は「第一次世界大戦でも第二次世界大戦でも中心的な存在だった」ということです。
 近現代史において,ドイツは世界を攪乱(かくらん)する大きな要因だったのです。

 もちろんこれは「ドイツがすべて悪い」というのではありません。ほかの列強だって,当然ながら世界大戦の勃発に影響をあたえています。「イギリスやアメリカがドイツ(や日本)を,追い詰め挑発した」という面を重視する説もあります。
 
 しかし,ドイツが2つの大戦の勃発に関し,重要な役回りを演じたことは否定できません。

 とくに,第一次世界大戦における「ドイツの責任」については,かつては専門家のあいだでもはっきりしないところがあったのです。しかし研究がすすんだ結果,現在では通説になっているようです。つまり「世界大戦が起きるうえで,ドイツの判断や行動が決定的な役割を果たした」ということです。そして,ドイツの行動の背景には「覇権への野望」があったのです。(木村『第一次世界大戦』ちくま新書,27~29ページ など)

 第二次世界大戦については「ヒトラー(ナチス・ドイツ)が中心となっておこした戦争」という見方が,ずっと有力です。「ヒトラーだけが悪いのではない」という見解もありますが,ヒトラーが大戦の中心であったことじたいは,まず異論がないわけです。

 ***

 では,今の世界はどうなのでしょうか? 

 つまり,1900年代前半のドイツのように「世界を攪乱する要因」となり得る存在はあるのでしょうか? 「1番手」アメリカに以前ほどの勢いがなくなってきたことは,たしかのようです。「世界大戦の前提条件」の1.は,満たしそうです。では「台頭する2番手」がいるとしたら,どこか?

 多くの人は「中国やロシアなのでは」と思うかもしれません。

 たしかに,今の中国は台頭する「2番手」です。国の経済規模(GDP)でみても,2010年代初頭に日本を抜いて世界2位になりました。アメリカとの比較では,中国のGDPはアメリカの半分程度にまでなっています。しかし,経済の発展度や生産性を示す「1人あたりGDP」でみると,中国はアメリカの9分の1~8分の1といったところ。

 軍事力や科学技術などでも,アメリカとの差はまだまだ大きいというのが,一般的な見方でしょう(その格差が,1人あたりGDPにもあらわれている)。だから,「2番手」中国による「1番手」アメリカへの挑戦の可能性は,さしせまったものではない。もちろん,10~20年先になるとわかりませんが。

 世界大戦の当時の,ドイツの1人あたりGDPは,イギリス,アメリカと比較して「対等」な,その時代における先進国レベルになっていました。今の中国は,それとは大きく異なるのです。

 ロシアはというと,GDPはアメリカの8分の1(日本の半分以下)です。「世界の覇権国」には程遠いレベル。

 そんな中「世界を攪乱する要因」のひとつとして,あらためてドイツが浮上してきている……そんな見方をする識者がいます(たとえば,次回の記事で紹介する,フランス人エマニュエル・トッドなど)。

 1990年代初頭の東西ドイツ合併によって,ドイツは分割前の規模をほぼ回復しました。
 その人口は現在8300万人。イギリス(6300万人),フランス(6400万人)よりもかなり大きいです。

 さらにドイツのGDPは,今やイギリスやフランスの1.3~1.4倍で,ヨーロッパの中では抜きんでています。1人あたりGDPでも,イギリス,フランスを上回っています。

 これは,世界大戦の時期のドイツが,ヨーロッパで占めていた地位に似ています。

 このような国が,ある種の「覇権」を志向すれば,世界情勢に大きな影響をあたえるでしょう。
 じっさい,少なくともここ数年のドイツは「ヨーロッパでの勢力拡大」と「アメリカ離れ」の動きを強めている,という見方があるのです。

 このような「現在のドイツ」については,また別の機会に。

関連記事:ざっくり第一次世界大戦
       二番手はどうなった?
       ヒトラーについて考える
       ヒトラーについて考える(年表)
       格差と戦争

(以上)
2014年07月05日 (土) | Edit |
 前回の記事(今月の名言)で,哲学者ヘーゲルの言葉とされる「自由とは必然性の洞察」を取りあげたところ,読者の方から頂いたコメントに,つぎのようなお話がありました。

《 ヘーゲルはなんとなく僕にとって印象がよくないんです。僕自身がキルケゴールから哲学に入っていったということもあるでしょうし、なんとなく批判の対象になっているイメージが強く、今までその著作に触れることなしにきてしまいましたが、そういちさんはどのようにお考えでしょうか?
  もし、なにかおすすめの作品、ヘーゲルについてのなにかアドバイスございましたら、おねがいできないでしょうか。》


 コメントをくださったのは,ブログ孤独な放浪者の随想の著者hajimeさん。
 同ブログは,若い読書家である著者が,さまざまな古典を引用しながら思索していく,という記事がメインになっています。前回の記事で,私はヘーゲルのほかにデフォーの『ロビンソン・クルーソー』からの言葉も引用しましたが,これは同ブログの記事で知ったのでした。

 以下は,頂いたコメントに対する返信に手を加えたものです。

 ***

 キルケゴールに思い入れがあるとなると,たしかにヘーゲルは印象が悪くなりますね。
 両者の哲学は,同じ「哲学」といっても,全然別の学問だと思います。
 「昔のテツガクと今のテツガクの違い」といったらいいでしょうか。

*キルケゴール(1813~55,デンマーク)「ヘーゲル学派」的な抽象的な一般論を展開する哲学を批判し,自己の体験に基づいた主体的な思考を追求した哲学者。20世紀の哲学にも大きな影響を与えた。

*ヘーゲル(1770~1831,ドイツ)近代哲学を集大成した哲学者。その哲学は「客観的観念論」といわれ,この世界を「絶対精神の自己展開の場」としてとらえる理論を説いた・・・なんだそれは?という話ですが,「絶対精神」というのは,とりあえず非常に抽象化された「神」のようなものだとイメージすればいいでしょう。絶対精神はそのなかに「矛盾」(「矛盾≒対立」ととりあえず理解)を背負っていて,その矛盾をより高いレベルで統一・解決する方向で生成・展開していく。そのような運動・変化がこの宇宙や社会を貫いている,というのです。うーんたしかに抽象的です。


 キルケゴールの哲学は,乱暴な言い方をすれば「人生論を学問的・論理的に深く述べたもの」といえるでしょう。それが「今のテツガク」です。現代の哲学は,その扱う世界を「人生論」や「倫理学」,あるいは「論理学」などに限定しています。

 ところが,ヘーゲルの哲学は,もっと大風呂敷です。
 つまり「森羅万象の論理を究める」というのが,彼の哲学。
 これは「昔のテツガク」に属します。(「森羅万象の学」としての哲学,という見方は板倉聖宣さんの著作からのものです)。

 ヘーゲルは,いかにも「哲学」な感じの論理学などについて述べるだけではありません。彼の学位論文は「惑星軌道論」でした。『エンチュクロペディー』という著作では,電気学などの当時の「先端科学」についても論じています。そして,世界史や法学のような社会科学的な分野でも独自の理論を展開しているのです。
 
 そのような学問的な作業のうえに「世界についての一般理論」といえる彼の「論理学」の世界があります。

 **

 このような「昔のテツガク」の世界は,ヘーゲル以前から大きな流れとして長く続いてきたものでした。

 ヘーゲルより数十年前の大哲学者カントも,ヘーゲルと同様の取り組みをしたといえます。彼の学位論文は「星雲説(太陽系生成の理論)」でしたし,今でいう地理・歴史や法学や心理学などさまざまな学問分野をふまえて,彼の理論は構築されています。

  「近代哲学の元祖」といえる,フランシス・ベーコンやデカルトやジョン・ロックも,自然科学にたいする強い関心や素養がありました。
 たとえばベーコンは「科学技術を基礎とする産業国家」を構想しました。デカルトが数学や自然科学の領域を真正面から扱っていることは比較的よく知られています。ジョン・ロックは若いころは医学を学んでいます。

 そのような「森羅万象の学」の元祖は,古代ギリシアのアリストテレス(紀元前4世紀)です。
 岩波書店の「アリストレス全集」は1冊平均500ページほどで全17巻。論理学,政治学,経済学,心理学,力学,天文学,気象学,生物学,生理学等々を扱った論文集です。

 しかし,このような「森羅万象の学としての哲学」というのは,今は骨董品です。
 ヘーゲル以後(1800年代半ば以降)は,「科学」の時代になります。つまり「森羅万象の学」ではなく,「個別的・専門的な領域を究める学」の時代になるわけです。
 ヘーゲルは「昔のテツガク」の最後の巨匠といっていいでしょう。「昔のテツガクの総決算」的な存在です。

 キルケゴールの時代(1800年代半ば)になれば,ヘーゲルのような「森羅万象の学」の感覚で世界を解釈する「哲学」など時代錯誤になりつつあった,といえるでしょう。

 哲学者が個別科学的な領域で「ああだ,こうだ」といっても,科学研究がすすめばボロがいっぱい出てくるわけです。1800年代は,哲学的な学問を「過去」のものにしてしまうような,自然科学の成果がつぎつぎとあらわれはじめた時代でした。

 それなら,テツガクが生き残るにはどうすればいいか? 「人はいかに生きるべきか」的な,科学にはなりにくいテーマに,哲学の仕事を限定するしかないのです。

 キルケゴールは,そんな時代のなかで,哲学を「大風呂敷な森羅万象の学」から「学的(哲学的・理論的な)人生論」に再編した1人だと思います。「今のテツガク」をつくるうえで重要な仕事をした哲学者だったということです。

 **

 でも,ヘーゲル的な「森羅万象の学」って,私は魅力的だと思っています。やはり大風呂敷な魅力がある。
 なじめない人もいると思いますが,「これはこれでそういうものだ」と思ってみていただければいいと思うのです。

 南郷継正という思想家は,へ―ゲル哲学の感覚を「世界を手のひらに乗せる」(ようなものだ)と説明していました。キルケゴールに言わせれば,「手のひらに乗せて眺めて何になる」ということでしょう。「私たちは世界の中で生きているんだから,世界の『中』にいる人間の視点でものを考えるべきだ」というわけです。

 たしかにそれも一理あります。でも,たまには「手のひら」に乗せるような感覚で,この世界について考えてみてもいいのではないでしょうか。そこで得られるものもあるはずです。

 **

 ヘーゲル入門でオススメはつぎの2つです。もしよろしければ。
 でも,私も「入門」のままで終わっているのでしょう・・・
 
 『哲学史序論』岩波文庫  冒頭の「就任演説」だけでも。
 『歴史哲学講義 上・下』岩波文庫  長谷川宏氏による新しい感覚の翻訳で読みやすい。

  ヘーゲルについては,私は南郷継正さんの著作を通して入門したのでした。『哲学史序論』は,南郷さんが「ヘーゲル入門」として紹介していたのです。

 コメントいただいたおかげで,前から書いてみたいと思っていたことを書く機会となりました。ありがとうございます。またよろしくお願いします。

(以上) 
2014年06月28日 (土) | Edit |
サラエボ事件・100年前の今日

 ちょうど100年前の今日,1914年6月28日は,第一次世界大戦(1914~1918)のきっかけとなった事件が起こった日です。
 それは,「サラエボ事件」というもの。
 オーストリアの皇太子が,ボスニアのサラエボという都市で,セルビア人の青年によって銃で暗殺された事件。

 「ボスニア」「セルビア」は,「バルカン半島」という地域に属します。
 「バルカン半島」は,南はギリシャやトルコ,東はロシア,西はオーストリアやドイツなどに囲まれた地域。さまざまな大国に囲まれた「狭間(はざま)の地域」といっていいです。
 
 ではなぜ,暗殺がおきたのか? セルビアは当時,オーストリアの圧迫を受けていました。それに反発し,オーストリアに抵抗する一派がこれを行ったのでした。

 当時のオーストリアは,今のような限定された範囲の共和国ではありません。ヨーロッパの複数の民族を支配する「帝国」でした。複数の民族とその領域を支配下におく国を「帝国」というのです。

 その帝国に君臨するのが「ハプスブルグ家」という王家。
 そこでこの帝国は「ハプスブルグ帝国」といわれました。
 このころ(1900年代初頭)のハプスブルグ帝国は,すでにかなり衰退していました。しかし,最盛期(1500~1600年代)にはドイツ,オーストリア,スペイン,ハンガリー,チェコなどヨーロッパの広い範囲を支配する一大勢力でした。

 オーストリア皇太子の暗殺は,セルビア人の一派がハプスブルグ帝国に反旗をひるがえしたということです。
 オーストリアは,セルビアに軍をすすめました。戦争です。


「大戦」となった経緯

 では,どういう経緯で「サラエボ事件」が,ハプスブルグ帝国内の地域紛争で終わらずに,「世界大戦」にまで広がってしまったのでしょう? 

 それは,ハプスブルグ帝国の周辺には,さまざまな立場の大国があり,セルビアでの戦争をめぐって,それぞれの大国が敵・味方に分かれて対立することになったからです。
 
 まず,オーストリアとセルビアの戦争にかんしては,ロシアがセルビア側として介入してきました。
 当時のロシアは,バルカン半島に勢力を伸ばそうとしていて(今もそうですが),オーストリアと対立していたのです。

 そして,オーストリアには,ドイツという仲間がいました。ドイツとオーストリアは民族的・文化的に近しい関係にありました。

 当時のドイツは,ヨーロッパのなかで「新興の超大国」といえる存在。イギリスやフランスよりもやや遅れて近代化がはじまったものの,急発展の結果,第1次世界大戦の前夜にはヨーロッパ最大の工業力を持つほどになっていました。

 そして,ドイツには英国とフランスという「敵」がいました。
 ドイツは,先に近代化をすすめ,アジア・アフリカの植民地支配などで優位に立つ英仏に対抗心を抱いていました。英仏も,ドイツをけん制していました。

 そして,当時のドイツは近東(バルカン半島,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトなど)で勢力を伸ばそうとしており,すでに近東で一定の勢力を築いていた英国と対立していました。
 また,ドイツとフランスのあいだには国境をめぐる深刻な対立がありました。

 ドイツはオーストリアの味方をして,セルビアとロシアとの戦争をはじめました。

 こんなとき,ドイツとしては「宿敵」の英国やフランスが恐ろしいものです。ロシアとの戦争をしているあいだに,「宿敵」が攻めてこないか。

 そこで,ドイツの権力中枢では「攻められる前にフランスを攻めてしまえ」という方針が力を持つようになり,それが実行されました。ドイツとフランスの戦争です。
 こうなると,英国もだまっていません。英国とドイツの戦争もはじまりました。

 そして,ドイツと英国が勢力争いをしていた「近東」というのは,「オスマン・トルコ」というイスラムの帝国の領域でもありました。

 オスマン・トルコは,当時のイスラム世界の最大の国でした。さきほど述べたように,バルカン半島の一部,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトといった広い範囲を支配していました。
 しかし,1800年代以降は衰退しはじめ,欧米列強の侵略・圧迫を受けていたのです。

 オスマン・トルコは,迷いはありましたが,ドイツの側につきました。当時のトルコにとって最大の脅威はロシアでした。当時のロシアはトルコに対する圧迫を強めていたのです。そして,ロシアの「敵」であるドイツは,純粋に味方とはいえないが,「敵の敵はとりあえず友」ということです。

 この戦争をはじめた政治家・軍人たちの多くは,当初「この戦争は短期で決着する」と思っていました。
 ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。
 
 当時の人びとと今の私たちでは,「戦争」にたいするイメージは,かなり異なっていました。

 「戦争」というと,私たちがまず思いうかべるのは「世界大戦」です。「総力戦」といって,軍人だけでなく国民全体が巻き込まれて大惨事となる,というイメージ。

 しかし,当時の人びとにはそのような「戦争」のイメージがありません。「総力戦」というのは,世界大戦以降のことです。だから,今よりも「戦争」への心理的なハードルが低かったのです。


第1次世界大戦の2つの陣営 

 アメリカ合衆国は当初,ヨーロッパでの大戦については「不参加」の方針でしたが,後半からは英仏側で参戦しました。アメリカは,英国とは経済的にも文化的にも親密な関係にありました。

 日本は,この戦争には積極的には参加しませんでしたが,英仏側に加わっています。
 
 以上のような経緯や相関関係のもとに,2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。
 2つの勢力とは,つぎのとおり。

 【連合国陣営】  英国,アメリカ,フランス,ロシア,日本など
 【同盟国陣営】  ドイツ,オーストリア,オスマン・トルコなど


大戦の結果・重要なのは帝国の解体・滅亡

 では,第1次世界大戦はどのような結末をむかえ,その後の世界にどんな影響を残したのでしょうか。

 「その後の影響」には,いろんな側面がありますが,ここでは「国家間の勢力関係」という視点でみてみましょう。

 まず,この大戦は英米仏などの「連合国」側の勝利でおわりました。
 しかし,敗者にも勝利者にも,大きな被害をもたらしました。
 何しろこの戦争で,死傷者は軍人・民間人をあわせて1800万人にもなったのです。(『角川世界史辞典』による)

 そして,この戦争の影響で,世界の勢力図は大きく変わっていきました。
 現代からみて,その変化の最も大事なものは「帝国の解体・滅亡」ということです。

 つまり,古代・中世以来の世界を支配してきた前近代的な「帝国」が,第1次世界大戦の結果,ほとんど滅びてしまったのです。

 まず,敗戦の結果,連合国側によってオーストリアのハプスブルグ家の支配体制は解体させられました。一時は全ヨーロッパの覇者であったハプスブルグ帝国はこれで終わりました。

 それから,ロシア帝国。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代以降続くロマノフ王朝の支配下にありました。しかし,大戦中に戦時下の混乱のなかで,1917年にロマノフ朝を倒す革命が起こりました。

 そして,ロシア帝国の体制にかわって,ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました(この体制は1991年まで続きました)。

 ロシアは,戦勝国側の一員だったわけですが,その体制は戦争を引き金に,革命によって崩壊したのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。トルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となりました。そのなかで,オスマン帝国を倒す革命がおこります。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国の建国者は,新しいトルコの領域を,トルコ人が多数や主流を占める「アナトリア地方」に限定しました。つまり,現在のトルコ共和国の範囲です。

 オスマン帝国の領域だったそれ以外の地域(イラク,シリア,エジプトなど)は,トルコ人とは異なる「アラブ人」という人びとが主流を占めていました。オスマン帝国が滅びたあとは,それぞれの地域でいくつもの国や領域ができ,紆余曲折を経て現在の「アラブ諸国」につながっていきます。

 近代以前の世界では,ある有力な民族・王国が,ほかの国ぐにを武力で支配し,大きな「帝国」をつくるということが一般的に行われてきました。「ローマ帝国」や,「漢」のような「中華帝国」などはそうです。

 そのような大きな「帝国」が,昔の世界の「主役」だったといっていいでしょう。

 しかし,近代になって(だいたい1500年ころ以降),ヨーロッパで形成された「民族国家」「国民国家」というものが台頭してきます。
 
 「帝国」のようにさまざまな民族を支配下におく巨大化した国ではなく,もっと民族的に限定された範囲でまとまった国。帝国よりも小粒だけれど,国としてのまとまりはしっかりしており,強靭さを備えている。そんな国のあり方が有力になってきました。

 1900年ころまでには,「帝国」というものは,ほぼ「過去の遺物」になっていました。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝が倒されるという革命が起こって,翌年には「中華民国」が成立しています(この国は第二次世界大戦が終わって間もなく(1949年)に成立した,現在の中華人民共和国にとってかわられます)。

 このような「帝国の滅亡」という流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえるでしょう。
 「古代・中世の遺物の一掃」といってもいいです。

 そのような「流れ」や「結末」」など,戦争の当事者たちは意識していなかったはずです。
 しかし,歴史は大きく動いていった。

 第1次世界大戦は「古代・中世の遺物」を一掃したのです。
 けっきょくそれは「国民国家」のような近代的な国のあり方が勝利した,ということです。
 戦争の直接的な「勝ち負け」以外に,そのような大きな歴史の流れにおける「勝ち負け」があったのです。
 

第二次世界大戦がもたらしたものは?

 さて,第1次世界大戦が終わって20年余りのち,世界は再び大戦争に突入します。第2次世界大戦(1939~1945)です。
 第2次世界大戦がもたらしたものは何だったのか?

 ここで述べた文脈でいうと,この戦争の根底には「国民国家のあり方をめぐる基本的な対立」があったといえるでしょう。

 つまり,西欧的な自由民主主義の体制と,それへの対抗馬である「ファシズム」体制の対立。
 それは「国民国家」という枠組みを前提としたうえでの対立です。

 そして「自由民主主義」的な陣営の勝利で終わった。戦後はドイツ(西ドイツ)も日本もその陣営に加わった。
 
 このことはまた別の機会に。

 とにかく,第1次世界大戦から,もう100年なんですね。
 今年は,この大戦について考えるいい機会です。

 この大戦は「現代」の出発点といえるものでした。だから,第1次世界大戦のことを少し知っておくのは,現代の世界を考えるうえで,ムダではないはずです。

  関連記事:二番手はどうなった? 近代における大国の興亡

(以上)
2014年06月11日 (水) | Edit |
 今回は,すぐ下の前回の記事の補足です。読者の方の質問にお答えしつつ,考えたことを述べています。
 
 前回の記事は,「二番手はどうなった? 近代における大国の興亡の歴史に学ぶ」というものでした。
 およそ,つぎのような内容です。

 今の世界で最強・最大の国というと,おそらくアメリカ。では「二番手」というと?
 一昔前は経済大国としては日本だった。でも今は中国。大国となった中国は国際社会の中で自己主張を強めているが,大丈夫だろうか?
 つまり,「一番手アメリカ」中心の世界秩序に対し,「二番手」の中国がいつか無謀な挑戦をしないか,不安なところがある。

 近代の大国の興亡の歴史をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強の「一番手」に,軍事的に挑戦したケースが何度かある。その都度世界には大きな混乱や被害がもたらされた。そして,ほぼつねに「二番手」は「一番手」に敗れ去ってきた。

 たとえば,1700年代のイギリス(一番手)VSフランス(二番手)。1800年代初頭のナポレオン戦争(イギリス陣営VSフランス)。
 1900年代前半の2つの世界大戦は,当時の「二番手」であったドイツ陣営とイギリス・アメリカ陣営の戦い。
 大戦後の「冷戦」は,新たな一番手と二番手であるアメリカとソ連の対立だった。
 戦争ではないが,1980年代の日米貿易摩擦は,新たな経済大国日本が,経済でアメリカに挑戦したという面がある。

 以上のいずれのケースも,「二番手」の敗北でおわっている。中国は,このような歴史の教訓に学ぶべきだが,今の様子をみると不安を感じざるをえない。


 *** 

 このような記事に対し,ある読者の方からつぎのコメントをいただきました。 

 
《興味深く拝読しました。逆に、二番手が戦いを挑んで勝った例は、歴史上あるのでしょうか?? どこまで一般法則として通じるのかなーということが、気になりました》

 以下は,このご質問にお答えしたものです。
 前回の記事の「補論」になっています。
 質問をいただいたことによって,考えをまとめる機会となりました。
 
 ***

 コメント,ありがとうございます。ご質問の点はだいじなところで,尋ねてくださってありがたく感じております。

  まず,今回の「一番手」「二番手」に関する考察は,近代史の中でのみ通用する話だと考えています。この話は,「グローバルな国際関係の成立」や「戦争が大規模化して,国力の多くの部分を動員するようになった」といったことを前提としています。
 それはゆるやかにみれば1500年代以降のことだし,厳密にみれば1800年代からです。

  では,1500年代以降に「二番手が一番手に戦いを挑んで勝った」例はあるのでしょうか。

  1500年代後半に新興国イギリスが,スペイン帝国に戦いを挑んで勝利したケースは,それにあたるのかもしれません。イギリスとの戦争で「無敵艦隊」が破れたあたりから,急速にスペインは衰退していきます。

  ただ,この時代のイギリスは明確な「二番手」とはいえなかったかもしれません。トータルな国力ではフランスのほうが上だったかもしれない。

  それに,その後ストレートに「イギリスが一番」の時代が来たわけでもありません。1600年代はオランダの繁栄の時代でした。オランダは,もともとはスペイン領でしたが,1500年代後半にスペインに対し独立戦争を挑んで勝利したのです(そのときイギリスはオランダを支援しています)。

 スペインVSイギリス・オランダのケースは,すっきりしないところもありますが,「第二グループ的な格下の国が一番手に挑戦して勝利し,次の時代のトップに立った事例」といえます。
 その意味で,ここに「例外」が成立しているわけです。

 そして,「イギリス・オランダの台頭」は,別の意味でも「例外」的です。

 それは,スペインとの戦いに勝利したあとのイギリス・オランダにおいて「最初の本格的な近代社会」が成立したからです(たとえば,イギリスの清教徒革命や名誉革命は1600年代のこと)。
  近代社会・近代文明の基本的な枠組みは,1600~1700年代のイギリス・オランダで形成されたと,私はとらえます。

  そして,その後の近代史の展開は,「近代社会の家元」であるこれらの国を中心に展開するわけです(ただしオランダは,イギリス,フランスの数分の1の人口です。小規模なので,世界のなかでの存在感はやがて小さくなっていきました)。

 そして, アメリカというのは,「家元」の親戚筋みたいなもの。だから,アメリカは独立・建国の時期をのぞいて,イギリスに真正面から戦争を挑むということはなかった。

 よく知られているとは思いますが,アメリカの有力な階層のかなりの部分は,イギリスからの移民の子孫です。また,1800年代においてイギリス人は,多くの資本投資をアメリカ企業に対し行ったもりしているのです。アメリカとイギリスは,多くの面で価値観や利害をともにしてきたといっていいでしょう。

  「二番手による挑戦の歴史」は,「近代社会の家元とその親戚筋」に対する「あとから近代化した国」の挑戦の歴史です。

 そして,「二番手」がつねに負けてきたのは,「近代文明」というものの完全な理解や習得ができていないままに,「家元」に挑んできたからではないかと,私はとらえています。

  1700年代のフランスは,専制君主が支配する絶対王政であり,市民革命を経て当時としては最も近代的な政治体制を築いていたイギリスに負けたのです。たとえば当時のイギリスは,財政の近代化によって,フランスよりもはるかに高い戦費調達能力がありました。

  ナポレオンは,自身としては「自由のために戦った」といっていますし,たしかにその面はあります。しかし前近代的な専制君主でもあるわけです。彼が君臨する国家は,ほんとうの「近代国家」ではない。

  ヒトラーのナチスの体制や,ソ連の社会主義は,近代的な自由主義や民主主義とは真っ向から対立するものです。

  1980年代の日本については,大蔵省(当時)などの「エリート官僚」が絶大な権限を持つ「官僚支配」であるなど,「近代社会としては不完全ではないか」という見方があります。(これは現在も続いていることかもしれません)

 つまり,これまで敗れてきた「二番手」は,みな「近代社会とはいえない」か「近代社会としては不十分」「近代社会としてはいびつなところがある」ということです。

  そこで,記事のくりかえしになりますが,「一番手の勝利の歴史」というのは,けっきょくは「近代文明・近代社会の勝利の歴史」なのではないかと思うのです。

  つまり,「〈二番手が一番手に挑戦するとつねに負ける〉という法則(みたいなもの)は,どの範囲内で有効なのか?」というご質問にお答えするとすれば,つぎのとおりです。

 まず,「この話は,世界の一画に〈近代社会・近代国家〉が成立して以降の歴史において成立する」といえます。
 そして,正確いえば「二番手はつねに負ける」という法則ではなく,「近代文明を理解していないと一番手にはなれない」ということです。そして,歴史的にみて二番手の国は近代文明を十分に理解しないまま,一番手に無謀な挑戦をしてきたのです。

 中国がアメリカに勝利するときがくるとすれば,それは今のような体制のままではありえません。

 かつてのドイツや(戦争のときの)日本やロシアのような愚かなことはせず,これから100年くらいのスパンで,黙々と平和的に「近代化」をすすめていくことです。いつかは平和的に共産党の独裁体制も解体しないといけないでしょう。むずかしいことですが…

  そうすれば,もともと人口が大きな国ですから,おのずと「誰がみても世界最大・最強」になれるのです。しかし,対外戦争や内戦をおこして,それが長期化すれば,そのような可能性は当分は閉ざされてしまう。
 これは中国にとっても世界にとっても不幸なので,とにかくそうならないで欲しいものです。

(以上)
2014年06月07日 (土) | Edit |
 今の世界で,最大・最強の国というと,どこでしょう? 
 多くの人は「アメリカ(合衆国)」というはずです。

 「衰退してきた」という見方もありますが,アメリカは今も世界最大の経済大国です。
 アメリカのGDPは14~15兆ドル。世界第1位の規模で,世界全体の約2割を占めます。
 (GDP=国内総生産は,その国で1年間に生み出された付加価値の総額。その国の経済規模をあらわす。以下の人口なども含め,ざっくりと「2010年代はじめ」の数値)

 軍事力でも圧倒的な存在で,世界の軍事費の約4割は,アメリカによるものです。人口は3.2億人で,世界第3位(1位中国:14億人,2位インド:12億人)。2000年には2.8億人でしたので,近年も人口が増えているということです。

 では,アメリカに次ぐ大国・強国というと,どこでしょうか?
 「二番手」の国ということです。

 それは一昔前なら,少なくとも経済にかんしては,日本でした。2000年当時,日本のGDPは世界第2位で,世界の15%ほどを占めていました。

 しかし,その「二番手」の座は,2010年代初頭に中国にうばわれてしまいました。現在の世界でGDP第2位というと,中国。日本は3位で,世界に占めるシェアは8%ほど。中国のGDPは,今や日本の1.2~1.3倍の規模です。

 「経済大国」となった今の中国は,軍備増強もすすめています。そして,周辺諸国や国際社会への自己主張も強めています。たとえば,東南アジアの国ぐにや日本に対し,強引な「領有権」の主張をしたりしている。

 今の中国は,世界の「二番手」として自信を深めています。そして,「一番手」であるアメリカ中心の世界秩序に対し,挑戦的な姿勢を示すようになってきた,といえるでしょう。

 もしも,中国がそのような姿勢をさらに強めていったら,世界に大きな緊張感をもたらすはずです。
 悪化すれば,かつての米ソの冷戦(1950~80年代)のように,「ひとつまちがえれば世界大戦になりかねない」状況に……これは避けないといけません。

 ***

 この200~300年の近代における,世界の大国の興亡をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強・最大の「一番手」に挑戦して,大きな戦争になる,ということが何度かくりかえされてきました。

 それは世界に大きな不幸や被害をもたらしました。
 そして,挑戦者の「二番手」は,ほぼいつも負けています。
 その結果,国の体制の崩壊に至っています。

 例をあげていきます。まず,1700年代のイギリスとフランスの戦い。
 この2国は,当時のヨーロッパの2大勢力でした。当時の最先端をいく大国でした。近代的な産業の発展や植民地の獲得でイギリスがリードする「一番手」であり,フランスはそのあとを追っていました。
 
 1700年代に,両国は大きな戦争をくりかえしています。「スペイン継承戦争」「オーストリア継承戦争」「七年戦争」などです。その争いは当時英仏の植民地だった北米にも飛び火して,はげしい戦いがくり広げられました。

 一連の戦争にフランスは破れました。そして,ばく大な戦費のために,フランスの国家財政は破綻しました。

 1700年代末(1789年)にフランスでは「大革命」が起こって,ルイ王朝による支配が倒されました。その背景には,財政破たんによる政治の弱体化や混乱がありました。

 つまり,1700年代における「二番手」フランスは,「一番手」イギリスに挑戦して敗れ,体制も崩壊してしまったのです。

 ***

 しかし,「フランスの挑戦」の物語には,まだ続きがあります。

 フランスでは,革命がはじまって以来10年ほどの間,さまざまな混乱がありました。しかしその後,1800年代初頭には,ナポレオンが独裁的な権力を確立したことで,ようやく国がまとまりました。

 フランス革命は,国王や貴族の支配を倒した革命でした。当時のヨーロッパ諸国のほとんどは王国です。そこで「革命が自国に及んでは大変」と,周辺諸国はフランスに軍事的圧力をかけてきました。

 このときフランス軍を率いて戦い,外圧をはねのけたリーダーが,ナポレオンでした。

 やがて,勢いを得たナポレオンはヨーロッパの周辺諸国(イタリア,ドイツ西部,スペインなど)へ進軍し,つぎつぎと征服していったのです。

 このような「ナポレオン戦争」は,じつは「フランス対イギリスの戦い」でした。ヨーロッパの「反フランス勢力」のバックには,イギリスがいました。そして,ナポレオンの大活躍は「イギリスへの挑戦」だったわけです。

 しかし,ナポレオンはけっきょくイギリスとの戦いに敗れました。イギリス本土上陸をめざして大きな作戦を展開したりもしましたが,大敗しています。そのほか,さまざまな敗北の結果,彼の政権は1815年には完全に崩壊しました。

 そして,ナポレオン戦争を最後に,フランスが「二番手として世界秩序に挑戦する」ことはなくなりました。その後のフランスは,イギリスなどの「一番手」と基本的には手を組んで,世界の「体制側」に立つようになりました。

 ***

 「ナポレオン以後」の1800年代はどうだったのか? 
 さまざまな戦争はありました。しかし「一番手と二番手のあいだの大戦争」はなかったのです。その意味では,世界情勢は比較的安定していました。イギリスという圧倒的な「一番手」が世界に君臨していたという感じです。

 「ナポレオン以後の1800年代は,比較的安定していた」というのは,「1900年代前半の,世界大戦の時代に比べれば」いうことです。

 1900年代前半には,ナポレオン戦争をはるかにしのぐ規模で,「一番手と二番手の大戦争」が起こりました。2つの「世界大戦」です。
 
 そのときの「二番手」は,ドイツでした。

 ドイツは1700年代やナポレオンの時代には,「大国」とはいえませんでした。いくつもの国に分かれていて,今のような「統一的な,大きな国としてのドイツ」はまだなかったのです。

 しかし,1870年代に,今のドイツに匹敵する統一国家「ドイツ帝国」が成立して,「大国」としての姿をあらわします。
 この「ドイツ統一」は,日本が明治維新によって「いくつもの藩に分かれていた状態から,統一的な国家体制になった」のと似ています。

 その後のドイツは大きく発展し,フランスをしのぐ「ヨーロッパ大陸最強・最大の国家」となります。「ヨーロッパ大陸」というのは,「イギリスを除くヨーロッパ」をさします。

 経緯の説明は省きますが,第一次世界大戦(1914~1918)も,第二次世界大戦(1939~1945)も,「新興の大国である二番手ドイツが,一番手イギリス(とその陣営)に挑戦した」というのが基本的な構図です。
(そういえば,今年2014年は,第一次世界大戦勃発からちょうど100年なんですね)

 1900年代初頭のドイツ帝国は,巨大な工業力や軍事力を持っていました。しかし,世界の植民地支配などではイギリスやフランスに遅れをとっていました。
 そのような「遅れて発展した国」であるがゆえの不利な部分がいろいろあったのです。そこで「イギリス中心の世界秩序」に不満を持っていました。

 第一次大戦は,「イギリス・フランスなどVSドイツ・トルコなど」の戦いでした。

 そして,ドイツは破れ,イギリス・フランス側の勝利で終わりました。
 なお,この戦争の終盤には,イギリス側にアメリカも参加しました。(日本は少しだけ,イギリス側で参戦)

 第二次世界大戦は,以下の国ぐにの戦いでした。

 「アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)VSドイツ・日本・イタリア(枢軸国)」
 
 **

※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)

       1820年   1870年    1913年 
アメリカ   1.8      8.9      19.1
イギリス   5.2      9.1       8.3
ドイツ    ―       6.5       8.8
フランス   5.5      6.5       5.3
日 本    ―       2.3       2.6

(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)

*上記の表は,とりあえず以下の点を確認。
・1820年時点ではアメリカはまだ小さく,フランスとイギリスは競り合っていた。
・1870年時点では,イギリスが一番で,アメリカがそれに追いついた。1870年代に統一されるドイツは,フランスに匹敵する存在だった。
・第一次大戦前夜の1913年では,アメリカが世界最大となり,一方でヨーロッパではドイツが最大となって,世界の「二番手」的な存在になっている。

 **

 第二次世界大戦をひき起こした中心は,ヒトラーのナチス・ドイツでした。
 この大戦は,ドイツにとって「第一次大戦のリベンジ・マッチ」という性格がありました。

 第一次大戦で勝利したイギリス側は,敗けたドイツに重いペナルティを課しました。2度と戦争ができないように,本格的な軍備を禁止し,ばく大な賠償金を課したのです。

 第一次大戦でドイツは,ボロボロになりました。経済は荒廃・混乱して,国民の多くが苦しみました。しかし,イギリス側は苛酷な要求をしたのです。

 ドイツはその後立ち直り,1920年代には安定した時期もありました。しかし,1929年にはじまった世界大恐慌をきっかけに,ふたたび政治・経済は混乱しました。

 そんなドイツで「愛国心」を訴え,「立ち上がろう」と呼びかけたのが,ヒトラーでした。

 1933年に選挙を通して政権を得たヒトラーは,政治的手腕を発揮して,大恐慌後の経済の混乱をおさめることに成功しました。そして国民の圧倒的な支持をもとに絶対的な独裁者になったのでした。

 その後,ヒトラーは軍事増強をすすめます。「イギリスへのリベンジ」「ドイツが最強であることを示す」といったことがヒトラーの目標でした。

 1930年代後半になると,ヒトラーは「目標」の実現に向けて,周辺諸国への侵略をはじめます。そして,途中までは連戦・連勝でした。一時はフランスを含め,ヨーロッパ大陸の主要部をほぼ制圧してしまったのでした。第二次世界大戦は「ヒトラーの戦争」だったといえるでしょう。

 しかしけっきょく,イギリス・アメリカとの戦いに敗れて,ナチス・ドイツは崩壊してしまいます。
 
 戦後,ドイツは東西に分割され,1990年に再統一されるまで,その状態が続きました。分割されたドイツは小粒になって,「二番手」ではなくなりました。

 ***

 第二次世界大戦後の世界は,新しい「一番手」と「二番手」の時代になりました。
 新しい一番手は,アメリカです。
 二番手は,ソ連(ソビエト連邦)です。

 ソ連は,1917年にそれまでの帝政ロシアの政権が倒されて成立した,社会主義国家です。

 社会主義体制となったロシアは,その後今のウクライナ,カザフスタン,バルト三国等々の周辺諸国を併合して,巨大な連邦国家をつくりました。それが「ソビエト連邦」です。この国は1991年の体制崩壊まで続きました。

 アメリカは,それまでの「一番手」であったイギリスと戦わずして,「新チャンピオン」となりました。
 すでに1800年代末に,アメリカの工業力は,それまでトップだったイギリスを超えて世界一になっていました。

 ただ,当時のアメリカはまだまだ「新興国」で,軍事力や文化の力を含めたトータルな実力では,「イギリスをしのいでいる」とはいえませんでした。

 しかし,第二次世界大戦後には,アメリカは世界のなかで圧倒的な存在になっていました。
 アメリカじたいがさらに発展したことに加え,イギリスは戦争のダメージが大きく,多くの植民地も失って,すっかり勢いをなくしたからです。

 そんななか,新しい「超大国」としてソ連が頭角をあらわしたのでした。

 これまでの話では省略していましたが,じつはソ連=ロシアは,ナポレオンやヒトラーの野心をくじくうえで大きな役割を果たしています。

 ナポレオンもヒトラーも,「第一の敵」はイギリス(とその陣営)でしたが,ロシアを「もう一つの重要な敵」として位置づけ,戦争をしかけているのです。そして,両者ともロシアとの戦争をはじめたことで,「泥沼」にはまっていきました。

 さらに,ナポレオンもヒトラーも,ロシアとの戦いには敗れました。それが契機となって最終的な敗北へと転げ落ちていったのでした。

 ロシアは歴史的に「二番手の野望に立ちはだかった国」だったわけです。

 しかし,第二次世界大戦後のロシア=ソ連は,自らが「一番手に敵対する二番手」となりました。

 ソ連は,巨大な連邦国家を築くだけでなく,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国を属国化して「社会主義国の陣営」を組織し,その絶対的なリーダーとなりました。

 その結果,世界のおもな国ぐには「アメリカを中心とする〈自由主義≒資本主義〉の陣営」と「ソ連を中心とする社会主義の陣営」に分かれて対立するようになりました。

 アメリカ側は「西側」,ソ連の側は「東側」とも呼ばれました。両者の対立は1950~60年代にはとくに深刻となり,一時は「核戦争」さえおこりかねない状況でした。「東西冷戦」の時代です。

 米ソが直接戦火を交えることはありませんでした。しかし,朝鮮戦争のような「代理戦争」はありました。つまり,ある国において,米ソそれぞれがかかわる勢力が激しく戦うということがあったのです。

 そして,地球を何十回も滅ぼすことができるほどの核ミサイルを配備して,おたがいににらみあっていたのです。戦火を交えなくても,ほとんど臨戦状態。だから「冷戦」というわけです。「冷戦こそが第三次世界大戦だった」といってもいいかもしれません。

 冷戦時代のソ連には勢いがありました。1950年当時の世界で,GDPが最大だったのはアメリカで,世界のGDPの27%を占めていました。そして,第2位はソ連で,10%を占めていたのです。3位はイギリスで,7%でした。(アンガス・マディソンの前掲書による)

 また,1957年に世界ではじめて人工衛星を打ち上げたのも,1961年にはじめての有人宇宙飛行に成功したのもソ連でした。そのような力があったからこそ,アメリカに対抗できたのです。

 しかし,ソ連の勢いは続きませんでした。ソ連の社会主義体制は,あまりに非効率で理不尽で,人びとの創意やエネルギーをダメにしてしまうものでした。

 1970年代以降は,ソ連のさまざまな歪みがしだいにはっきりしていきます。
 1980年代には,政治も経済も明らかにボロボロになっていました。科学技術でも西側に大きく後れをとるようになりました。1980年代後半にはゴルバチョフという改革者があらわれて再編成を試みますが,けっきょく1991年にソ連は崩壊してしまいました。

 つまり,「二番手ソ連」は,「一番手アメリカ」との戦いに敗れ,崩れ去ったのです。自滅していった,といえるでしょう。

 ***

 ソ連のあと,強力なアメリカへの挑戦者は,あらわれていません。

 ただし,1980年代の日本は「二番手の経済大国」として,アメリカに経済の戦いを挑んだ」といえるのかもしれません。

 高度経済成長(1950~60年代)を経た日本は,1960年代末までには西ドイツやソ連を抜いて「GDP(GNP)世界第2位」の経済大国になりました。

 1990年には,日本のGDPは世界の14%ほどを占めるようになっていました。これは,世界1位のアメリカに対し5割の規模です。

 日本がこれまでに「1位との差」を最も縮めたのは,このように「アメリカの半分」に達したときでした。
 しかし,前にも述べたように今の日本のシェアは世界の7~8%ほど で,アメリカの3割になっています。

 1980年代には,自動車などのさまざまな日本の工業製品が世界を席巻しました。
 日本からの大量の輸出品が,欧米の国内産業をおびやかしたために,両者のあいだの政治的対立,つまり「貿易摩擦」がとくにはげしくなったりもしました。
 この「貿易摩擦」は,日本にとって最大の貿易相手であったアメリカとのあいだで,最も深刻でした。

 また,1980年代後半の日本企業は,積極的にアメリカの不動産を買収したりもしました。その買収物件のなかには,アメリカ人にとっておなじみの有名な建物・施設もあったので,アメリカ人の反発も生じました。

 「日本はやがて世界一の経済大国になる!」と息巻く「識者」も,当時はいたのです。若い人には信じられないかもしれませんが。 

 しかし,ご存じのとおり,そのような日本の勢いは続きませんでした。

 1990年代初頭の「バブル崩壊」以降,日本経済は長い低迷期に入ります。世界のGDPに占める割合も低下するなど,世界のなかでの存在感もやや薄れてきています。2010年代には,「GDP世界2位」の座も中国にとって替わられました。

 1980年代から今日に至る日本は,「〈二番手〉としてささやかに・平和的にアメリカに挑戦し,敗れ去った」といえるでしょう。

 これは,第二次大戦の「敗戦」以来の,大きな「負け」です。

 大戦のときは,「二番手」などまだ遠くおよばないレベルのうちに,アメリカという巨大な「一番手」に無謀な挑戦をして,悲惨な結果となりました。1980年代には,大きく成長した「二番手」として再挑戦しましたが,やはり勝てなかったのです。

 ***

 そして,2010年代の今,中国という新しい「二番手」が姿をあらわしてきました。
 この新しい「二番手」がどのようなスタンスや行動をとるかで,世界は変わってきます。

 中国の人びとは,ここで述べたような世界史の基本的な事実は,しっかりふまえておいたほうがいいでしょう。

 つまり,「二番手が,戦争というかたちで一番手に挑戦するたび,世界は大きな混乱や不幸にまきこまれてきた」ということ。

 そして,だいじなのは「いつも二番手は,一番手に負けてきた」ということ。

 そういうと,「アメリカによる世界支配を肯定するのか」と,怒る人がいるかもしれません。

 でもこれは「アメリカの優位を良しとする」というのとは,別次元のことだと思っています。とにかく「事実」をしっかりおさえよう,ということです。

 イギリスまたはアメリカが中心の「世界秩序」への挑戦は,この300年間,つねに悲劇を生み,失敗してきました。この「挑戦」に立ちはだかる壁は,きわめて厚いのです。

 「それはなぜなのか」については,ここでは踏み込みません。
 ただ,少しだけ述べておくと,それはけっきょく「近代の文明の威力」ということだと思います。

 1800年代のイギリスと,1900年代以降のアメリカは,世界において「近代」のトップランナーでした。近代的な科学技術や政治・経済の運営において,トップを走っていたのです。

 ほかの国が部分的に何かで上回ることはありました。一時期のドイツの科学技術や,日本の工業や,ソ連の宇宙開発などは,そうです。しかし,「近代の遺産をトータルに使いこなす」という点では,かつてのイギリスや今のアメリカをしのぐ国はあらわれなかったのです。

 その意味で私は,「勝利してきたのは,イギリス,アメリカといった個々の国家というよりも,それらの国の力の源となった〈近代の文明〉ではないか」と思っています。

 そして,「近代の文明」はイギリス,アメリカの独占物ではないはずです。

 それはこれまで,世界のさまざまな国ぐにが「近代」を受け入れること,あるいはより高いレベルで受け入れることによって,発展してきたのをみればわかります。明治以降の日本は,そのいい例です。

 また,アメリカだって,もしも将来「近代の精神」を失っていくとすれば,衰退していくにちがいありません。

 「挑戦して敗れた」国のうち,フランスやドイツや日本の人びとは,多かれ少なかれ,「近代の威力」というものを思い知ったのでしょう。

 だからこそ,それらの国ぐには,「敗れた」のちはイギリス・アメリカ陣営に加わりました。それに反対する人もいた(今もいる)わけですが,かなりの人が「あっちへ加わったほうがいい」と感じたのも事実でしょう。だから,現在がある。

 不安なのは,今の中国の人たちは,まだ「思い知っていない」ということです。
 かつてのフランス人やドイツ人や日本人のような大やけどをしていない。

 だから,無邪気に「これからは中国が世界を制覇する」「中華帝国を復興しよう」などという人が,エリートにも庶民にもいるわけです。

 中国人は,歴史に学ぶことができるでしょうか?

 むずかしいかもしれません。なにしろ,社会主義や冷戦を経験し,一度は「やけど」をしたはずのロシア人でさえ,今の政権のもとで「西側」への挑戦的な姿勢を強めているのです。

 しかし,むずかしいのだとしても,「歴史に学ぶ」ことについては,私たちはくりかえし確認しなくてはいけないはずです。

(以上)
2014年04月22日 (火) | Edit |
 前回と前々回の記事で,ヒトラー論を書きました。その誕生日にちなんでのことです。
 今回は,「前から書きたいと思っていたことを書けた」という気持ちがあります。

 もちろん仕事でもないし,それほど多くの読者がいるわけでもない,ほんとうに「何にもならない」ことをしているのです。でも,ついそれをやってしまう。

 書き上げた直後に,プリントアウトしたものを妻に読んでもらいました。
 近所のコーヒーショップで,2人でのんびりでしていたとき。

 読み終わったあと,妻が「最後のほうで,結構泣けてきた」といいました。「なんか,痛々しい,悲しい感じがしてきた」とのこと。

 妻は,歴史の本などまったく読まないのですが,そういう人にも届いたものがある。
 身内の言葉なんですが,「最初の読者」による,うれしい反応。

 ***

 今回の記事を書いていて,十数年前に交流のあった,Oさんのことを思い出しました。当時勤めていた会社の,私より3つ4つ年上の先輩です。
 
 私のヒトラー論のおもな元ネタは,セバスチャン・ハフナーの『ヒトラーとは何か』だと述べましたが,この本はOさんから教えてもらったのです。90年代後半の,私が30歳ころのことでした。
 水木しげるの『劇画ヒットラー』のことも,Oさんからです。

 Oさんは,「ドイツマニア」といえる人でした。
 正確には,「ドイツのミリタリー(軍隊),とくに戦車のマニア」です。
 そこから派生して,ドイツの文化や歴史全体に興味を持っていたのです。

 やせ型の,繊細な風貌の人でした。細かいことによく気がつく中間管理職で,部下からみて「うるさい上司」なところがあったのか,「ゲシュタポ」といいうあだ名がついていました(でも,とくに嫌われていたわけではない。むしろ親しまれていたと思う)。

 部署の異なるOさんと知り合ったのは,同年代の社員を集めた海外研修旅行でのことでした。「研修」という名の物見遊山の旅です(こういう「古きよき日本企業」の世界も,今は昔だと思います)。

 その「研修旅行」のなかで,2人1組になって何日間か,ヨーロッパの好きなところを自由行動できる機会がありました。そこでOさんと私がペアになった。

 海外旅行の段取りなどまるでできない私は,すべてをOさんに委ね,彼が組んだスケジュールにしたがって,当然ながらドイツをめぐりました。ベルリン周辺と,旧東ドイツのドレスデンをめぐる旅。

 一般的な観光地も多少は行きましたが,その行き先の多くは,やはりOさんならではのものでした。

 「戦争博物館」などで,沢山の戦車や戦闘機をみました。ユダヤ人強制収容所の跡地や,東ベルリンの古い雑居ビルの一室にある,ホロコースト(ユダヤ人虐殺)関係の展示施設にも行きました。観光客が行かないような,ふつうの「町の古い教会」の塔にのぼって,街を見下ろしたりもしました。
 その道中で,Oさんによる第二次大戦の戦史や,ヒトラー論なども聞いたのでした。

 自分ではまず行かないところをみることができて,貴重な経験でした。
 今回の記事を書いていても,あのときのドイツ旅行でみたもの・触れたものが,思いだされました。

 マニアについていくと,いいことがあるのです。

 Oさん,お元気でしょうか。2人とも,もう会社を辞めてしまいましたね。あのときはありがとうございました。

(以上)
テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年04月20日 (日) | Edit |
 昨日の前回の続きです。
 本日4月20日はヒトラーの誕生日。それにちなんで,ヒトラーについて考えます。

 前回は,ヒトラーの軌跡を,年表形式でたどりました。ヒトラーについて考えるための基礎知識です。

 それをふまえて,「本題」に入りましょう。
 でも今回の記事は,前回を読んでいなくても,十分読めます。

 結局,ヒトラーとは何だったのか。なぜ,あれだけの権力を得て,世界を巻き込んで大惨事をもたらすまでになったのか?

 以下,私の考えは,セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社)がおもな元ネタです。あとは,ハフナーと重なるヒトラー像を,さらに専門的な研究を通して論じた,イアン・カーショー『ヒトラー 権力の本質』(白水社)を参考にしています。

 そして,このブログで何度も取り上げた,政治学者の滝村隆一さんや,教育学者の板倉聖宣さんの著作にも基づいています。また,在野の思想家エリック・ホッファーの影響もあります。この人たちも,ヒトラーあるいは関連する政治思想について論じているのです。

 これらの学者がヒトラーについて書いていることには,多くの共通点があります。それについての,私なりの理解ということです。まちがいがあれば,もちろん私のせいです。

 ***

 ヒトラーについての通俗的なイメージは,「超人的な,人間ばなれした悪」ということではないでしょうか。映画やマンガに出てくるのは,そんなイメージ。

 これは,マンガの世界だけのことではありません。多くの一般的な知識人も,そういう前提で,ヒトラーについて語っています。

 「大衆はヒトラーの詐欺にだまされたり,暴力や脅しに屈服させられて,彼に従ったのだ。そのよう非道を迷いなく実行できたヒトラーは,人間ばなれした悪魔なのだ」

 こういうイメージを前提にすると,「ヒトラーとは何か」についての思考は停止してしまいます。
 でも「それではいけない」と,ハフナーはこう述べています。

《ヒトラーの政治思想を批判的に分析しないかぎり,彼の理論が人びとの考える以上に――それも決してドイツ人のあいだだけでなく,また意識的なヒトラー支持者のあいだだけでもなく――生き続ける》(『ヒトラーとは何か(旧版)』91ページ)

 おそらく,私たちのなかにはヒトラー的な発想が,いつのまにか芽生える可能性があるのです。その意味で,ヒトラーの思想は,ある種の普遍性を持っているといえます。たしかに,彼の主張や行動には,その時代の人たちを納得させるものがありました。それを,これからみていきます。 

 板倉聖宣さんは,「ヒトラーとは何だったのか」ということについて,明確に答えを出しています。

《ヒトラーは,大ドイツ帝国の「理想」を追った純粋な愛国者に過ぎなかったのです》(「ヒトラー現象から何を学ぶか」『たのしい授業』2007年3月号,99ページ)

 「人間ばなれした悪魔」ではなく,「愛国者」に過ぎない。
 もちろん,板倉さんはヒトラーを肯定しているのではありません。その「理想」は「とんでもない」ものだとしています。

《自分の「大ドイツ帝国の建設」という「理想」だけを追ったヒトラーには,家族もなく汚職をする必要もありませんでした。……汚職をするような政治家には強いマスコミも,とんでもない「理想」のために献身する政治家には弱いのです》(同,99ページ)

 「愛国者に過ぎない」とはつまり,つぎのようなことだと,私は理解しています。

 ***

 芸術家になる夢が破れ,放浪の生活を送る,元ホームレスの青年・アドルフ・ヒトラー。職も家族も,家もない。
 
 そんな彼が,情熱を傾けたのは,政治問題だった。「愛国者」として「大ドイツ」の理想について考えること。

 本当に望む「夢」がなわないとき,代わりの何かを追い求める,というのはよくあること。

 そして,ハフナーも言うようにその対象が「政治」であることも,一般的だった。個人の生活やたのしみの幅が狭かった当時は,「政治」について語ることは,人びとにとって今の時代よりもはるかに大きな意味があった。

 「大ドイツの理想」は,当時(第1次大戦後)のドイツ人にとって,おおいに訴えるものでした。
 第1次大戦でドイツは,英・仏などに敗れました。その結果,過大な賠償金を課せられたり,軍備を制限されたり,国の一部が切り取られてしまうなど,残念な目にあっていたのです。

※なお,ヒトラーはオーストリアで生まれ育ったので,「オーストリア人」といえます。ただし,ドイツ語を話す,広い意味での「ドイツ人」ともいえます。青年ヒトラーが帰属意識をもったのは,オーストリアではなく,広い範囲のドイツ人を包括する「大ドイツ」でした。

 彼は,貧しい生活を送りながら,カフェなどにある新聞・雑誌や書籍を手あたりしだい読みあさり,政治や社会について知ろうとしました。孤独な独学を続けたのです。

 そんなヒトラーが,右翼の弱小政党(のちのナチ党)に出会います。その出会いの当初,ヒトラーは飛び入りで,自分の政治主張について演説をしています。言いたいことは,山ほどある。

 その演説が,その場で大喝采。彼は,自分の演説や扇動の才にめざめます。

 これまで社会のなかの「無能者」として生きてきた彼にとって,「自分の演説で人を動かせる」ことを知ったのは,震えるほどうれしかったはずです。

 そして,「政治家になりたい」と思うようになります。ホームレスだった,学歴も家柄もない青年にとっては,かなり無茶な「野望」です。しかし,全力で活動を重ね,ほんとうに政治家になったのでした。

 ヒトラーは政治活動に,心底から全力を傾けることができました。それは,彼の初期の成功の鍵だったといえます。
 仕事も友人も恋人も家族もなく,「政治」以外に何もなかったのですから。
 
 そして,「政治以外,何もない」という状態は,その後もヒトラーの生涯にわたって続きました。
 
 まず,このようなヒトラーの「出発点」をおさえることが大事だと思います。
 もともとのヒトラーは,「どこにでもいる若者だった」といえるのではないでしょうか。

 今の世の中で,ネット上で熱く政治談議をしている青年のなかに,彼と似た境遇(あくまで境遇がです)の人は,いないでしょうか。

 ***

 つぎにおさえたいのは,「なぜ,ヒトラーは独裁的な権力を手に入れたか」ということ。

 それを「デマや暴力のせいだ」というのは,まちがいです。少なくとも,それは一面的な見方ではないでしょうか。

 ヒトラーはたしかに,デマや暴力を,フルに使っています。冷静な目でみれば支離滅裂な,あやしげな扇動をくりかえしています。自分の自由になる「暴力実行」の部隊を編制し,それを使って反対勢力を潰したりもしました。

 でもそれだけが,彼の権力の源泉ではありません。

 デマや暴力は,権力を掌握する初期の段階では,たしかに重要でした。しかし,「国民の心からの支持を得る」には,それでは足りません。しかし,「大ドイツの理想」を実現するために諸外国と戦うには,そのような「国民の支持」に基づく,絶大な権力が必要でした。そして,1935~36年ころには,それを手に入れていたのです。

 これは,彼が国家の指導者として大きな「実績」をあげたからです。
 その最初のものが,「大恐慌で混乱に陥った経済の再建」です。

 ヒトラーが首相に就任した1933年,ドイツには600万人の失業者がいました。これを,ヒトラーは3年後にはほぼ一掃してしまったのです。シャハトというエコノミストを経済政策の責任者に抜擢して,公共事業などの財政出動を積極的に行った成果でした。その公共事業のひとつに,有名な「アウトバーン(高速道路)」の建設があります。

 それは基本的には,アメリカのルーズベルト大統領が同時代にとった「ニューディール政策」と共通するものでしたが,ニューディール政策よりも,明らかな成果をあげたのでした。

 こういう「成果」をあげると,世間の評価は変わってきます。

 ハフナーの表現では《あの男(ヒトラー)には欠点があるかもしれない。だが彼は我々に再び職とパンを与えてくれたんだ》(前掲書,33ページ)という声が支配的になってくるのです。

 そして,ヒトラーはより確かなものになった権力を駆使して,「大ドイツ」建設に向け動きはじめたのです。

 まず,国際社会の秩序を破って,軍備拡大を開始。

 軍備を拡大すると,軍人の多くは,ヒトラーの味方になっていきました。軍の組織が大きくなると,もともとの将兵たちは自動的に昇格したり,いろいろと立場がよくなっていくものです。軍拡を行う指導者は,軍人にとっては大歓迎です。

 そして,その軍備を用いて,最初はラインラントやチェコ(の一部)のような,「もともとドイツといえる」あるいは「いえなくもない」という地域を手にいれる。そこからだんだんと,範囲を広げていく……

 これは,第1次大戦後,国際社会のなかで屈辱を味わい,また大恐慌で苦しんだドイツ国民にとって「明るいニュース」でした。
 「ヒトラーが,我々のプライドを取り戻してくれた!」と感激する人も多かったのです。

 その頂点は,1940年にドイツ軍がフランスを征服したことでした。

 ヒトラーは,誰もが想像しなかった,とほうもない「成果」をあげたのです。
 こうなると,「神」のような権威が生まれるでしょう。

 ハフナーは,こう述べています。

《このようにほとんど全国民を自分の支持者にしたこと,それも十年足らずのあいだにやり遂げたことは,恐るべき業績だった。しかもデマゴギーによってではなく,業績によってなのだ》(前掲書,41ページ)

 このあと,ヒトラーは英仏だけでなく,米国やソ連にも宣戦布告して,まさに全世界を相手とする戦争に突入していきます。ユダヤ人の大量虐殺も加速していきます。

 ヒトラーがそのような「暴挙」を実行できたのは,1940年ころまでの「成果」があったからです。これまでの実績から「ヒトラーについていくしかないだろう。総統ならどんなことでもやってしまうのではないか」という了解が,国民のあいだにあったのです。

 こうした視点は,近年はいろいろな本で説明されており,かなり普及したといえるでしょう。でも,もっと知られていいはずです。

 ***

 もうひとつ,かなり流布しているヒトラーについての捉え方に,「ヒトラーの政治思想は,体系も何もない滅茶苦茶なものだ。その行動も場当たり的にイケイケで進んだものに過ぎない」というものがあります。

 「ヒトラーの思想は空っぽ」ということです。

 これも,誤った捉え方だと,私は考えます。
 この点は,主著の『我が闘争』などにあるヒトラーの主張や,その思想をきちんと解説したものを読めばわかることです。

 だいじなのは,「知識人をうならせるような手の込んだものでなくても,思想は思想だ」ということ。多くのインテリは,ヒトラーの思想がおよそ学問的とはいえない,いびつで貧しいものであるために,「こんなものは」と切り捨ててしまうのです。

 かなり有力な説として,「すべてに反対するのがファシズムである」という主張があります(ヒトラーの主義主張は「ファシズム」という政治思想の一種とされる)。ファシズムは「反社会主義」であり,一方で「反資本主義」でもあり,国際主義にも反対し,反ユダヤでもある。そのように積極的な主張があるわけでなく,何にでも反対するネガティブな意志にこそ,その本質がある,というのです。

 これは,まさに「ヒトラーは空っぽ」という論です。

 でも,ヒトラーの言動を偏見なくみれば,そこにそれなりの積極的な主張や考えがあることは明らかではないでしょうか。

 その核にあるのは,これまでにも述べたように,「大ドイツの理想を実現しよう」ということ。

 戦争に敗れ,落ちるところまで落ちたドイツの栄光を取り戻そう。

 では,ヒトラーにとっての「大ドイツの理想」とは何なのか。

 それは,じつに単純なことで,「領土の拡張」です。まずは,彼にとって「もともとのドイツ」といえる,オーストリアやチェコなどを取りもどす。

 さらに,そのような「ドイツ本体」を守るために,その周辺をも従属させる。たとえばポーランドは,そのような「周辺」にあたる。

 また,そのような「大ドイツ」をはばむ敵は撃破する。フランスやイギリスはそう。

 どうでしょう。こういう主張をヒトラーは著作や談話で述べています。
 そして何より,実際に行動に移しているのです。

 ただし,ヒトラーの「理想」はこれだけでは終わりません。
 おどろくべきことに,ここからさらに,理念として「世界制覇」まで突き進んでいくのが,ヒトラーの思想の特異な部分です。つまり,こんな展開です。

 こうして,「ドイツ」を中心とする,ヨーロッパ全体を支配する一大帝国が建設される。それを踏み台にして,遠い将来には,文字通りの「世界制覇」も視野に入れていく。ただし,自分の生涯では,「ヨーロッパ制覇」くらいで時間切れになるだろうが……

 「世界制覇」にどこまで近づけるかは別にして,この「理想」に向かって進むには,とにかく「戦争」です。

 「大ドイツ」ひいては「世界制覇」のための戦争に必要なことは何か。

 それは,国の持つ資源・産業・人材のすべてを戦争に動員して,総力をあげて戦い抜くことだ。
 そのためには,「国のすべてを動員できるだけの権力」が存在しないといけない。
 その権力こそが,議会や憲法などに一切拘束されない「総統」なのだ。

 ヒトラーがつくりあげた権力の根底には,以上のような発想があります。
 単純化していうと,「世界征服のための体制」です。

 「戦争」を至上目的にして,社会全体のしくみを徹底的につくりなおしていく。それが「ファシズム」の政治。

 ではなぜ,「世界征服」しないといけないのか?

 それは,「優秀な人種・民族の宿命」みたいなもの。

 ヒトラーは,自分の属する民族的な集団を「ドイツ」というほか,「ゲルマン」「アーリア」と呼んだりしています。その定義はあいまいで,意味不明な点が多いです。しかしいずれにせよ「自分の属する優秀な人種」が,この世界には存在している。その「優秀な人種」が,世界を支配しないといけないのだと。

 一方で,この世界には「ユダヤ人」という,一種の「悪魔」がいて,この世界を汚している。彼らもまた,世界を支配することを狙っている。だから我々は,彼らと戦わなければならない。彼らをドイツから追い出すだけではダメだ。世界から抹殺しないと。

 以上,単純化して述べると,あきれかえるような内容です。「ひどい」と思います。
 でも,「積極的な主張が何もない」ということはありません。ちゃんと一定の「主張」があり,「内容」があります。

 この思想・世界観から「何をすべきか」も,明らかです。

 「戦争」をするのです。そのためにどんな社会的取り組みが必要か。それは「平和と繁栄の社会」を築くために何が必要か,というよりもずっとはっきりしているのではないでしょうか。

 そして,その「単純さ」は,ヒトラーの思想の「強さ」です。
 もしもヒトラーを信頼するとしたら,「単純」なだけに,その思想は多くの人の「腑に落ちる」のですから。
 「腑に落ちた思想」は,行動を生みます。

 以上の捉え方は,多数派の学者の考えではありません。おもに滝村隆一さんの論に拠りました。

 滝村さんは,つぎのように述べています。

《「ファシズム」思想は,当該民族の極端な対外的自己主張から出発している。そのため,その思想的徹底と体系化ともない,否応なしに,当該民族による世界征服と世界帝国建設の夢想にまで突っ走る必然性を,はじめから内在させている》(『国家論大綱 第1巻下』473ページ)

《「ファシズム」国家では,戦時国家体制がほとんど極限まで徹底・強化されるとともに,その常態的固定化と永遠化が,最初から言明されることになる》(同,479ページ)


 それは《巨大な軍事力の創出というただ一点で国民社会を強力に支配・統制することから出発する》(同,480ページ)

 「なんだ,それだけか」ということなかれ。
 
《この〈ただ一点〉がじつは大変な曲者なのだ。…この〈ただ一点の強力な統制〉は,国民社会の政治的編成と経済体制を,ごく短期間のうちに大きく変形させ変質させかねない》(同,481ページ)

 なお,前に述べたように「ヒトラーの思想を検討する必要」を説くハフナーも,ヒトラーが「空っぽ」ではなく「積極的な主張を行っている」という前提に立つわけです。

 ***

 ヒトラーは,単純で粗雑な,インテリからはバカにされるような「思想体系」を,孤独な独学でつくりあげたのです。正統な教育や教養に触れることができなかった彼がつくった思想は,インテリたちのつくった「社会主義」などとは異質なものでした。権威ある知識や教養の枠組みのなかにおさまらないものだったのです。

 だからこそ,「何にでも反対するのがファシズムだ」という学者がいるのです。

 たしかに,ヒトラーの正体は「ただの愛国者」なのでしょう。

 でも,もう少しつけ加えるなら,その「愛国」は,一般の連想するところとは,だいぶちがう。

 「かなり本気で,世界制覇を夢見る愛国」――それがヒトラーの「愛国」です。
 
 彼は,そのような「理想」を本気で信じ,それに生涯をささげたのです。

 そして,その「理想」を一時であれ,かなりのところまで実現しました。さらに突き進んで,世界全体を相手にするような狂気の沙汰の戦争に足を踏み入れ,多大な犠牲を出しました。また,戦争の勝利には関係のない(むしろマイナスなはずの)ユダヤ人虐殺などということも実行した。彼の思想や世界観に従って,それらを行ったのです。

 こういう人間のことを「狂信者」といいます。
 
 思想家エリック・ホッファーに『トゥルー・ビリーバー』という著作があります(邦訳は『大衆運動』)。「根っからの信奉者・狂信者」と訳せるでしょう。右翼や左翼の過激な政治運動に身を投じる人びとについて論じた,エッセイ集です。

 こうしてヒトラーのことを考えていくと,彼を一言であらわすなら「トゥルー・ビリーバー」というのが,ぴったりくるように,私は思います。

 自分自身が孤独な独学で生み出した「ヒトラー主義」の最も強烈な信奉者。
 それが,アドルフ・ヒトラーではないかと。

 「ヒトラー主義」的な思想は,またあらわれるかもしれません。
 内容はもちろんそのままではありません。その時代なりの素材や切り口,語り口になるでしょう。

 でも,いかにも素人的で,知識人の規格や伝統からは外れているけど,多くの人に訴える「強さ」を持つ危険な思想というのは,これからもあり得るのではないか。

 そうした思想に飲みこまれないために,ヒトラーのことは知っておく必要があるのです。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年04月19日 (土) | Edit |
 あす4月20日は,独裁者アドルフ・ヒトラーが生まれた日です。
 また,4月30日は,ヒトラーの死んだ日。連合軍の攻撃によってベルリンが陥落したあと,当時の参謀本部であった地下壕で自殺したのです。

 それにちなんで,「ヒトラーとは何だったのか?」について考えてみます。
 この人物については,社会や人間を知るために,ときどきは考えてみる必要があると思うのです。

 まず,ヒトラーについての「四百文字の偉人伝」を。このブログでときどき載せている,古今東西の偉人や歴史上の人物を400文字程度で紹介する読み物です。
 
ヒトラー

元ホームレスの「ヨーロッパ征圧」

 1910年代のドイツに,1人のフリーターの青年がいました。彼,アドルフ・ヒトラー(1889~1945 ドイツ)は貧しく,ホームレスだったこともあります。もともとは芸術家になりたかったのですが,美術学校の入試に失敗し,以後ずっと定職に就くことなく過ごしていました。
 その後,第一次大戦(1914~1918)に従軍。
 戦後の1919年には,ドイツ労働者党(のちのナチ党)に入党します。
 「党」といっても,カギ屋の主人や土建業の社長や売れない物書きやら,無名の変わり者が集まって政治談議をしているだけ。きちんとした綱領(党の基本理念)も予算も何もない。
 定職もなくヒマなヒトラーは,党の活動にのめりこんで働きます。演説会のチラシをつくって配ったり,募金を集めたり。新聞広告を出した演説会に100人ほどが集まったときは,うれしかった……

 その後,1930年代後半。ヒトラー総統率いるナチス・ドイツは,全ヨーロッパの制圧をめざし,戦争をはじめます。
 元ホームレスの青年が,十数年後にはそんなことに……! ヒトラーの生涯を追っていると,想像を絶する事実を前にして,「なぜこんなことが?」と問わずにはいられなくなります。

参考:ハフナー著・赤羽龍夫訳『ヒトラーとは何か』(草思社,1979),カーショー著・石田勇治訳『ヒトラー 権力の本質』(白水社,1999)。ほかにマンガの水木しげる著『劇画ヒットラー』(ちくま文庫,1990)もよい入門であり参考にした。

【アドルフ・ヒトラー】
ファシズムという反民主主義の思想に立って独裁権力を手にし,世界を大戦争に巻き込んだ政治家。1933年選挙を通じ政権を獲得。39年ポーランドに侵攻し大戦勃発。45年終戦直前に自殺。ユダヤ人虐殺を行った。
1889年4月20日生まれ 1945年4月30日没 

 ***

 さて,それにしても,なぜ「フリーターの青年」が十数年ほどでドイツの独裁者になり,世界を相手に戦争をはじめるまでになったのでしょう?

 ナチ党(ナチス)に入ってから,死に至るまでのヒトラーの軌跡を年表でたどってみます。

 まずは,非常に簡略化して,全体像を示します。そのあと,やや詳しく。

1919年(30歳) ナチ党(ナチス)入党。2年後には党首に。

1923年(34歳) ミュンヘン一揆という「革命」をめざした武装蜂起をするが失敗。 投獄され,主著『わが闘争』を書く。以後数年は,合法的な政権獲得をめざすが,うまくいかず。

1929年(40歳) 世界大恐慌による社会・経済の混乱を期に,ナチスの勢力が拡大しはじめる。

1933年(44歳) ヒトラー,首相に(前年の総選挙でナチスは第1党になっていた)。以後翌年にかけて独裁権力を確立し,「総統」と称する。

1935~1941(46~52歳) 経済の立て直し,軍備拡張をすすめ,周辺諸国の併合など,外交・軍事面で「成功」をおさめる。1940年にはフランスを占領するなど,41年までにヨーロッパを制圧。 

1941~1945(52~56歳) ソ連との戦争を開始し,泥沼化するなど,戦況が不利になっていく。 以降,ドイツは負け戦を重ね,壊滅状態に。1945年4月,ヒトラー自殺。        

 ***         

 つぎに,やや詳しい「ヒトラーの軌跡」。
 よほど興味のある方でないと,ちょっとつらいと思いますが,初心者の方でもどうにか読めるようには書いています。

 結局,ヒトラーの政治活動は,大きく4つの時期に区分してみると,わかりやすいと思います。

第1期 1919~28 ナチ党が弱小政党にとどまっていた時代。

第2期 1929~35 世界大恐慌による経済・社会の混乱の中,ナチ党が勢力を伸ばし,選挙を通じ政権を獲得。その後独裁権力を確立するまで。

第3期 1935~41 外交や軍事でつぎつぎと成功をおさめ,ヨーロッパを制圧するまで。

第4期 1941~45 ソ連との戦争を開始して以降,敗北を重ね,破滅に至るまで。


 以上の視点で,つぎの年表を読んでみてください。            


ヒトラーの軌跡          

政治活動第1期 弱小政党の時代

1919年(30歳) ヒトラー,ミュンヘンで設立されて間もない弱小政党・ドイツ労働者党(のちの「国家社会主義ドイツ労働者党」,通称「ナチ党」または「ナチス」)に入党。ミュンヘンはドイツ南部の中心都市。

1921年(32歳) 党の拡大に貢献したことから,ナチスの党首に。しだいに右翼系の政治活動家として,地方レベルではそれなりに知られるように。

1923年(34歳) 「ミュンヘン一揆」といわれる,反政府の武装蜂起を行うが失敗し,監獄へ。獄中で『わが闘争』という,自身の政治思想・世界観を述べた著作を執筆し,1925~27年に出版。

1924年(35歳) 出獄し,政治活動再開。今度は武装蜂起ではなく,「大衆の支持によって合法的に政権を獲得する」ことをめざすが,弱小政党のまま伸び悩む。この時期の数年は,ドイツの政治・社会は安定していて,ナチスの「出る幕」はない感じだった。

 **

第2期 政権獲得と独裁の確立

1929年(40歳) 世界恐慌はじまる。アメリカでの株価暴落をきっかけに,世界的な経済混乱・不況に突入。ドイツでも,大量の失業が発生するなどの事態に。その混乱の中で,多くの大衆や,一部の資本家,軍部などの支持を得て,ナチスは急速に勢力を拡大。

1932年(43歳) ナチス,総選挙で第1党に。

1933年(44歳) 1月 ヒトラー,首相に。政権の座につく。 まず,暴力で反対派(共産党や労働組合など)を粉砕。ヒトラーは警察などの政府機関とは別に,ナチ党の中にそのような「暴力」を実行する組織をすでにつくりあげていたので,それを駆使して反対派に危害を加えたのだった。その後3月には「全権委任法」という独裁を正当化する法律を成立させ,当時の憲法(ワイマール憲法)を事実上停止。7月までにナチス以外のすべての政党を解散。

1934年(45歳) 8月 大統領(国家元首)と国防軍司令長官を兼ねる独裁権力を確立。「総統」と称するようになる。
     
反対派を弾圧し,権力集中を進めるなかで,大恐慌で混乱する経済再建にも取り組む。エコノミストのシャハトを起用し,大胆な財政出動(公共事業など)を進め,大成功。33年の首相就任時にはドイツには600万人の失業者がいたが,36年にはほぼ完全雇用に。
    
以上の,「反対派の粉砕・撲滅」と「経済政策の成功」による国民的な支持を背景に,絶対的な権力を手にしていく。

そして,『わが闘争』のころから描いていた,軍事・外交面での「プラン」の実現に向け,本格的に動きはじめる。

 **

第3期 外交と軍事における成功

1935年(46歳) 3月 ベルサイユ講和条約に反し,一般義務兵役施行。

1936年(47歳) 3月 ロカルノ条約を破棄し,ラインラント進駐。

以上の出来事の意味について。

第1次大戦(1914~17)で,ドイツは英・仏・米などと戦って敗れた。その結果重い賠償金を課せられ,軍事力や勢力範囲を限定される条約を締結させられていた(この時代まで敗戦国は戦勝国に賠償金を支払うのが一般的)。
 
ヒトラーは「第1次大戦後の国際社会の秩序に対し,反乱を起こした」のである。

さらにヒトラーは,行動をエスカレートしていく。

1938年(49歳) オーストリア併合。チェコのズデーデン地方併合。

1939年(50歳) チェコのベーメンとメーレンを併合。リトアニアのメーメル占領。

こうしたヒトラーの「反乱」に対し,英・仏・米といったほかの大国は,とくに対抗措置をとらなかった。基本的には「ドイツの周辺で,歴史的にドイツ領ともいえる地域や,ドイツ人が多く住む場所でヒトラーが暴れても,自分たちには直接影響もないし,まあ仕方ないだろう。〈民族自決〉という考え方からも,ドイツ人を大きなひとつの国にまとめようとするヒトラーの行動には,一定の正当性がある。ある程度縄張りを増やせば,ヒトラーも満足しておとなしくなるはずだから,様子をみよう」と考えたのである。「ヒトラーは危険だ,断固たる対応をすべきだ」という意見もあったが,この時点では主流にならなかった。

とにかくここまでは,ヒトラーにとっては大成功。
ヒトラーは,ドイツ国民にとって「偉大なドイツの栄光を取り戻した英雄」となった。

しかしここから先は,ほかの国ぐにからの本格的な抵抗を受けるようになる。ヒトラーが「ドイツ周辺」といえる範囲を超えて勢力を拡大しようとしはじめたのである。そこで,大規模な軍事衝突,つまり「戦争」の事態になっていった。その「戦争」においても,ヒトラーは連戦連勝を続けた。

1939年(50歳) 9月 ポーランド侵攻・征服。英仏,ドイツに宣戦布告。これをもって「第2次世界大戦勃発」とされる。

1940年(51歳) 4月 デンマーク,ノルウェー占領, 5月 オランダ,ベルギー,ルクセンブルク占領。そして,6月 フランス征服。

なんと短期間でフランス全土を制圧した。この辺がヒトラーの絶頂期。

1941年(52歳) 4月 ユーゴとギリシア占領。

これで,ヨーロッパの主要部分をすべて制圧!

ヨーロッパでヒトラーに敵対するおもな勢力というと,チャーチル首相が指揮するイギリスだけになった。
 
なお,ムッソリーニ政権のイタリアとは,1936年に同盟関係を結び,ロシア(ソ連)とは,1939年に独ソ不可侵条約(互いに戦争はしない)を締結。

※ドイツは,軍国主義下の日本とも,同盟関係を結んでいる(1940年,日独伊三国同盟締結)。

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第4期 失敗・破滅

1929年から1941年までの12年ほどのあいだ,ヒトラーは「成功」に「成功」を重ねた。しかしそれ以降は,敗北を重ね,破滅していく。

1941年(52歳) 6月 独ソ戦開始。ドイツは突如「独ソ不可侵条約」を破ってソ連に攻め入った(対ソ戦のことを「バルバロッサ作戦」と呼んだ)。41年10月にはドイツ軍は首都モスクワに迫るなど優勢だった。

しかし,43年のスターリングラードの戦いに敗れて以降は,ソ連が猛反撃。独ソ戦開始以降から,ヒトラーにとって戦況はしだいに不利になっていった。
   
3月 米国が,ヨーロッパの戦争への介入を開始。12月には,ドイツから米国に宣戦布告。米国とも本格的に戦争開始。

41年から,ヒトラーのドイツは,米ソという2つの超大国と英国などのヨーロッパ全体を同時に敵にまわして,戦争をすることになった。これは,どうみても無茶としかいいようがないが,それを実行してしまった(ソ連に対しても米国に対しても,ヒトラーから宣戦布告している)。ヒトラーがなぜそのような道を選んだのかについては,見解が分かれている。

※1941年12月には日本軍が「真珠湾攻撃」を行い,日米の戦争開始。

1942年(53歳) 1月 ナチ党幹部の会議で「全ヨーロッパのユダヤ人絶滅」についての方向性が定まる(「ヴァンゼー会議」という)。以前からナチスの支配下でユダヤ人虐殺は行われていたが,これ以降,さらに激化。
    
ヒトラーのユダヤ人虐殺は,ナチスにとって,戦争の範囲が拡大し,「雲行き」があやしくなってきた頃から,激しくなったのである。

1943年(54歳) 2月 スターリングラードの戦い,ソ連軍にドイツ軍大敗。 5月 北アフリカのドイツ軍,米英連合軍に降伏(北アフリカでも,ドイツ軍はイタリア軍とともに米英と戦った)。 9月 イタリア,米英連合軍に無条件降伏。

1944年(55歳) 3月 米国空軍によるベルリン爆撃開始。これ以降,ドイツの都市は空爆で破壊されていく。 6月 米英連合軍によるノルマンディー上陸作戦開始。フランス北西部の海岸に20万人の連合軍兵士が上陸。9月には,パリがドイツの支配から解放される。

1945年(56歳) 1月 ドイツ軍最後の大規模な反撃であるアルデンヌ作戦で,ドイツ軍壊滅。 同じく1月 ソ連軍,ポーランドの首都ワルシャワからドイツ軍を追放し,占領。 

3月 ヒトラー,ドイツ国民を死においやる命令を出す。「国内の残ったインフラや財産を破壊して,敵が利用できないようにせよ」などの命令。敗北を覚悟したヒトラーは,ドイツ国民を道連れにしようとした,といえる。

4月 米英とソ連の連合軍によって,ドイツの首都ベルリン陥落。

4月30日 ベルリンの官邸の地下壕で,ピストル自殺。 ※日本の全面降伏(1945年8月15日)の3カ月余り前

 *** 

 どうでしょうか。

 やはり,想像を絶する,とんでもない生涯です。
 こんな人間が,70~80年前の世界に実在したのです。
 
 「ヒトラーとは何か」ということを論じるのは,次回以降に。

 まずは,上記の年表にあるような基礎知識を,いくらか知っておくといい,と思います。
 
 第2次大戦やヒトラーに関する読書をするうえでも,役に立つはずです。

 多少とも歴史に興味のある人なら「聞いたことある」という言葉や事件が並んでいるはず(もちろん「聞いたことのない言葉ばかり」という人も多いと思います)。それがヒトラーの生涯や第2次世界大戦という「物語」のなかで,どう位置づけられるかが,いくらかわかるはずです。

 私自身,こういう年表をつくってみて,たいへん勉強になった,知識が整理されたと感じています。

(4月20日付記,参考文献について)
 以上は,セバスチャン・ハフナー『ヒトラーとは何か』(草思社,1979年版)の記述や,訳者の赤羽龍夫さんによる巻末の「関連年表」のほか,いくつかの事典類などにあたって書いたものです。ヒトラーの活動の「時期」の区分も,ハフナーの考えをベースにしています。「本格的に調べて書いた」とはとてもいえませんが,それでも年表というのは,つくってみる価値があるのです。

 ハフナーの本は,ヒトラー論としておすすめですが,ほかに「入門的にイメージを描く」ための本として,漫画家・水木しげるによる『劇画ヒットラー』(ちくま文庫)もいいと思います。

 「水木しげる」だからといって,おどろおどろしい「妖怪」「怪物」としてヒトラーを描いている,などと思ってはいけません。そこには「ちょっと内向的なフリーターの青年が,やがて政治に足を踏み入れ,闘争や成功を通じて巨大化していく過程」が,ときにはコミカルな描写もまじえながら,しかし冷徹に描かれています。ヒトラーという大きなテーマを,これだけ見事に料理できる水木しげるは,やはりすごい漫画家です。
 
(以上)
2014年04月06日 (日) | Edit |
 今回は「フランシス・フクヤマと滝村隆一の共通点」ということです。
 フクヤマも滝村も,政治や政治思想についての研究者・著述家。

 この両者の共通点を論じた文章など,たぶんないでしょう。

 「政治思想」をある程度知っている人からは,「バカじゃないの」といわれそうです。

 フランシス・フクヤマ(1952~)は,日系3世の米国の研究者。1990年ころ,ソ連が崩壊した「冷戦終結」の際,その世界史的意味について論じた「歴史の終わり」論で有名になりました。

 彼は「ネオ・コン(ネオ・コンサバティブ=新しい保守)」という,「アメリカのタカ派系」の理論家とされる人物。その筋では,現代の著名な知識人といっていい。「ネオ・コン」を簡単に「タカ派」といっていいかどうかはともかく,よくある理解ではそうなっている(ただ,近年のフクヤマはネオ・コンとは距離を置いている,ともいわれる)。

 滝村隆一(1944~)は,「異端のマルクス主義者」といったらいいでしょうか。いわゆる「左翼」に属する,とされる人。

 滝村については,今は関心を持つ人が少なくなっていると思います。
 でも,中高年(だいたい50歳以上)で若いころに「左翼思想」や「吉本隆明」に関心をもった人なら,聞いたことがあるはずです(なお,私そういちは今40代おわりの年齢なので,ここでいう「中高年」より少し若い)。

 滝村は,1960年代末に,若くして吉本隆明(1924~2012)が主宰する雑誌『試行』(当時,知的な志向の人たちのあいだでステイタスのある雑誌だった)でデビューし,1970~80年代に最も活発に執筆活動を行いました。その仕事は,吉本からは「世界的」とまで評価された。なお,吉本隆明は吉本ばななのお父さんで,戦後のインテリに大きな影響をあたえた評論家。基本的には「左翼系」の人。
 
 滝村は大学などの一般的なアカデミズムの組織には属さず(その仕事があまり認められなかった,といっていい),「在野の研究者」として活動しました。

***

 要するにフクヤマは「保守」で,滝村は「左翼」ということです。「右」と「左」といってもいい。だから,「2人はぜんぜん違うだろう」というのが,ふつうの見方だと思います。

 ほんとうは,「保守」「左翼(右と左)」「タカ派」といったことから説明しないと,不親切だとは思います。でも,今回の本題ではないのでそこは省略します。

※以下,「滝村さん」と呼ぶ一方,フクヤマは敬称略のままとします。私は,現存する人には敬称をつけるのですが,外国人には「さん」づけがどうもしっくりこない。

***

 では,フクヤマと滝村さんのどこが共通しているのか。
 それは,「学問的な方法論」という点です。「学問的な方法論」というのは,「学者として,どのような姿勢ややり方で,自分のテーマをきわめていくか」ということ。

 では,2人に共通する「方法論」とは何か。

 それは,一言でいうと「世界史から謎を解く」ということ。

 2人の最大のテーマは「政治とは何か」「国家とは何か」ということ。挑戦的で志を持った政治の研究者なら,誰もがそれを「大問題」として意識するでしょう。

 フクヤマ,滝村の2人は,その「大問題」について,近現代の国家や政治のありかただけでなく,世界史上のさまざまな国家や政治体制について調べることによって迫ろうとしているのです。

 フクヤマの最新刊『政治の起源 上・下』(講談社,2013)は,そういう本です。

政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで政治の起源 上 人類以前からフランス革命まで
(2013/11/06)
フランシス・フクヤマ

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政治の起源 下 人類以前からフランス革命まで政治の起源 下 人類以前からフランス革命まで
(2013/12/25)
フランシス・フクヤマ

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 この本は,原始時代からフランス革命のころまで,世界史上のさまざまな国家や政治体制を比較・分析して,政治制度発展の理論を構築しようとしたものです。フランス革命の時代でひとまず終わっていますが,その後の時代(近現代)については,続編で述べるのだそうです。

 とりあげるのは,秦・漢の中国,マウリヤ朝のインド,イスラムのマムルークの制度,そしてスペイン・フランス・イギリス・ロシア・ハンガリーなどのヨーロッパの絶対王政……

 こういう大風呂敷な話は,「しろうと談義」「与太話」になってしまいがちです。

 しかし,この本はちがう。歴史学のさまざまな成果を引用しながら,一定の学的根拠に基づいた幅広い議論を展開しています。その主張に賛成しない人もいるでしょうが,やはり「しろうと談義」を超えた「学問」になっている。

***

 フクヤマは,自分の問題意識について,著作の序盤でつぎのように述べています。

《近代的政治制度を生み出すまでの苦闘は,実に長く苦しいもので,先進国に住む人々は自分たちの社会がそもそもどのようにしてそこにいたったかの歴史については,一種の健忘症にかかっている》(上巻41ページ)

《本書の目的は,歴史の健忘症によって忘れられたものを取り戻すことにある。そのために,[近代国家の]基本的な政治制度がどのように生まれたかを説明する。そうした制度を持つ社会は,その制度を当たり前のものと思ってしまっている。テーマとする3つのカテゴリーは①国家[官僚制などの近代的組織を備えた国家]②法の支配[権力者といえども法の拘束を受けるという原則]③説明責任を持った統治機構[民主主義的な政府のこと]――である。
 近代的自由民主主義がうまく機能している場合は,これら3つの制度を均衡のとれたかたちで合体させている。この均衡を成し遂げる国があるということは,近代政治の偉業といっていい》(42~43ページ,[ ]はそういちによる注釈)


 ここにあらわれているのはまず,フクヤマが「近代的政治制度」,あるいはそれが機能している近代国家を,人類が長い歴史的苦闘のすえに到達した,偉大な成果(偉業)であると認識していることです。

 ところが,多くの人はそういう認識を持っていない。一種の「健忘症」にかかっていて,そこに達するのがどれだけ大変なことだったかを見落としている。

 別の箇所でフクヤマは《実行力を持つだけでなく,法に従い,説明責任を果たすような政治制度・統治形態をつくりだして維持していくことの難しさ》(35ページ)と表現しています。

 そして,その「難しさ」について《小学4年生でも分かるような当たり前のことかもしれないが,よく考えてみると,頭のいい大人でも多くが理解しそこねている事実である》(35ページ)と述べています。

 だからこそ,近代的な政府の重要性や価値を無視した主張がなされることがあります。アナキズムのような「政府のない社会」を夢想する思想は,左翼にも右翼にもあるのです。

 それらについて,フクヤマは《左翼や右翼の夢想家が望んでいるような最小限政府あるいは無政府の社会は,実は幻想ではない。現代の途上国に実際に存在している》といいます。そして,政府がロクに機能していない現代の途上国の一部では,ひどい状態になっているではないか……と。「無政府」なんて,ナンセンスだというわけです。

 また,冒頭でフクヤマは,こう述べています。

《本来,最も望ましい政治制度であるはずの民主主義が苦境に陥っている。問題は民主主義の「理念」ではなく,民主主義を実行する「制度」にある。鍵を握るのは3つの要素,すなわち「国家」「法の支配」「説明責任を持った統治機構」の均衡にある》(26ページ)

 「民主主義の苦境」というのは,21世紀に入ってから,世界のあちこちで「民主化の後退(独裁的政治への逆戻り)」といえる事態が起きていることや,「民主主義」の国家のなかでも,財政危機などさまざまな問題が生じていることを指しています。
 それらの問題を考える基礎として,自由民主主義を機能させる3つの制度(「国家」「法の支配」「説明責任」)について,掘り下げていこう,というのがフクヤマの主旨です。

 そして,そのために《歴史をさかのぼって考察する重要性》ということを強調し,本書全体で実行しているのです。

《3つの制度は,そもそもどこから生まれてきたのか。それらを生み出す力は何であり,どのような条件下で発展していくのか。どのような順序でできあがっていくのか。互いの関係はどうなっているのか。これらの基本的制度がどのようにできあがるのかを理解できれば,アフガニスタンやソマリアと今日のデンマークがなぜ大きく異なっているのかを,よりよく理解できるかもしれない》(44ページ)

 こういう問いかけに基づいて,本書では世界史上のさまざまな国家・政治制度の比較検討ということが行われていきます。「世界史から謎を解く」ということです。

 そして,本書の「比較検討」の特徴は,その範囲が広いことです。先にも述べたように,原始時代から,古代の中国・インド,イスラムの帝国,中世ヨーロッパ,ヨーロッパのさまざまな絶対王政……
 これは,今のアカデミズムでは,まずみられない「大風呂敷」です。この点についてフクヤマはこう述べています。

《政治制度の発展に関して今日の文献について不満に思う理由はいくつかある。一つは,比較を広範なスケールに広げていないことだ。さまざまな社会の経験を比較することによってはじめて,なぜある制度がある社会には生まれて,ほかでは生まれなかったかを説明する複雑な原因を振り分けることが可能になる[のにそれを行っていない]》(44ページ)

 そして,これまでの「近代」の誕生についての議論は,その対象が産業革命のおこったイギリス中心に偏りすぎていたと批判しています。
 
 また,最近ではイギリス中心から脱却して,世界のさまざまな国や文化を取りあげる「多文化的アプローチ」もさかんになったが,《比較という観点からはまともとはいえない》といいます。

 「非西洋文明がいかに人類の進歩に貢献したか」という話ばかり選び出したり,そうでない場合は「非西洋文明の悲惨な歴史」ばかり強調している。このため,《ある制度がある社会で発達し,別の社会では発達しなかった理由をまもともに比較する分析》になっていない,というのです。

 ***

 以上のようなフクヤマの議論には,つぎの特徴があるでしょう。

①「近代国家」「近代的政治制度」を,人類の「到達点」として高く評価。

②「近代」を生み出すプロセスとして歴史・世界史をみている。

③その「近代」という尺度から世界史上のさまざまな国家を比較分析して,「政治」「国家」の一般的な理論を導きだそうとしている。

④「世界史上のさまざまな国家」の比較の幅は,一般的な学問研究と比べてはるかに広い。時代的・地域的に多岐にわたっている。

⑤また,その「比較」においては,近代的な政治・国家を構成するいくつかの重要な「制度」や「原理」(「法の支配」のような)という観点から考察している。


 ***

 私は,フクヤマの本を読んでいて,すぐにこのような彼の議論の特徴がのみこめました。
 それは,上記の点で彼に似たところのある著者の本を,若いころから読んでいたからです。

 その「著者」というのが,滝村隆一さんです。
 滝村さんは,1970~80年代に,つまりフクヤマよりも30~40年前に,政治の理論の研究において「世界史から謎を解く」ことを行っていたのです。

 1978年刊の『アジア的国家と革命』(三一書房)という本のなかで,滝村さんはつぎのように述べています。

《私はこの十年来,国家論の歴史科学としての体系的構築には,国家的支配の形成・発展を何よりも〈世界史〉的発展過程において捉えること,とりもなおさず個別歴史的国家の世界史的再構成が不可欠であると,一貫して主張してきた》(31ページ) 

 滝村さんの文章は,読みにくいところがあります。勉強して慣れてくると,しっかりと論理的に構築されているので,むしろ読みやすい,明晰な文章なのですが……

 そこで,碩学に対し失礼を承知で,滝村さんの文を「和文和訳」します。読みやすいように,いろいろと編集や言い換えをするわけです。論理の厳密性が損なわれても,やむを得ない,ということで。

(そういちによる和文和訳)
 私は十年来,「国家」についての理論的研究(国家論)を体系的に構築するには,国家というものの形成・発展について,世界史上のさまざまな事実を通して知ることが不可欠であると,主張してきた。そして,それは単に歴史的事実を具体的に調べるというだけでは不十分であり,歴史上の個々の国家のありかたを「世界史の中でどう位置づけられるか」という視点で理論的・抽象的に把握していくことが求められる。


 以上に続く部分も,引用します。今度は「和文和訳」から先に。ずいぶん大胆に「和訳」してますが,私なりの滝村理論への理解をふまえたものです。

(そういちによる和文和訳)
 以上の方法について,もう少しくわしく述べよう。国家論を体系化するにあたっては,マルクスが提起した「アジア的国家」「古代的…」「中世的…」「近代資本制…」という,理論的に抽象化された世界史上の国家・社会の発展のあり方を理解することが必須である。その観点に立つと,私たちは,「近代」になってはじめて完成される「国家」のあり方の全体像を,明確に理解することができる。
 それはこういうことだ――近代国家は,歴史的な発展の末に現れた「国家の完成形」である。その「完成形」のレベルから「アジア的」「古代的」「中世的」な世界史上の国家の「典型」といえるものピックアップして,その理論的検討を行ってみよう。すると,それらの過去の国家では,近代国家では十分に開花しているさまざまなことが未発達であるのがわかる。それによって「完成された国家」としての近代国家の特徴も明らかになるし,一方で過去の「アジア的」などの世界史的国家が,「形成・発展しつつある未熟な国家」であることもわかってくる。
 そして,「どの点においてどう未熟だったのか」という,それぞれの「国家」の特異性を把握することも可能である。そのことによって,世界史上のさまざまな国家のあり方について,構造的に全体を見渡すこともできるであろう。
 したがって,一般には「別物」とされてきた,近代国家についての究明と,「アジア的」などの世界史的国家の理論的研究は,じつは同じものにほかならない。


 以上の,滝村さんの原文は,こうです。

《[以上述べてきた]その方法の真意は,国家的諸契機の理論的検討を含んだ国家論の原理的体系化において,アジア的・古代的・中世的な世界史的国家構成が必要とされるのは,それにより,〈近代〉に到ってはじめて発展的に完成される国家的支配の全構造を,立体的に解明することができる,逆言すれば,より発展的に完成された国家的支配のレヴェルから,アジア的・古代的・中世的な世界史国家を構成することによってはじめて,それらを形成・発展しつつある未熟な国家,すなわち特異な完結性をもった歴史的国家として,大きく全構造論的に把握することも可能だという点にある。従って,一般には機械的に分離・切断されている近代国家論の究明とそれ以前の世界史的国家の理論的検討とは,実は同一の作業に他ならない》(31~32ページ)

 ***

 以上,滝村さんは「世界史から謎を解く」ことをめざしているわけです。
 そして,「〈近代国家〉〈近代的政治制度〉を,人類の〈到達点〉として高く評価している」「〈近代〉を生み出すプロセスとして歴史・世界史をみている」「〈近代〉という尺度から世界史上のさまざまな国家を比較分析して,一般的な理論を導きだそうとしている」といったことも,はっきりうかがえるでしょう。(以上は,フクヤマの議論の特徴として先に述べたもの)

 滝村さんは,自身の仕事について「方法としての世界史」(つまり〈世界から謎を解く〉)ということを,何度も述べています。そして,その「方法」は,ヘーゲルやマルクスの「方法」でもあったと言います。
 
 そして,滝村さんは,フクヤマのように幅広い対象を視野に入れて,世界史上のさまざまな国家について研究を行いました。

 原始共同体と部族国家(ギリシア,ローマ,ゲルマン), 部族国家から中世国家へ, 秦・漢帝国にはじまる中国の諸王朝, 古典期のアテナイ・スパルタ・ローマ, マケドニアとローマの帝国, 遼・金・モンゴルなどの遊牧民族の帝国, インカ・アステカ, ヨーロッパの絶対王政, ナポレオンのフランス, 19世紀イギリス・フランス・アメリカの「ブルジョア独裁」, ナチス・ドイツなどのファシズム国家, 大日本帝国, ソビエトの社会主義「専制」国家……

 これらに関しては,滝村さんの代表的著作である『アジア的国家と革命』(1978)『唯物史観と国家理論』(1980)『国家の本質と起源』(1981)と,過去の著作を集大成したといえる『国家論大綱 第1巻,上・下』(2003)などで述べられています。
 
 これらのテーマについての論文は,おもに1970年代半ばから1980年代初頭にかけて,精力的に執筆されました。
 滝村さんが,30歳ころから30代半ばにかけての時期。熱意と体力で,ぼう大な歴史研究の著作や論文を読み込んで,書いたのです。

 なお,こういう幅広い「世界史」の研究は,「研究」といっても直接自分で一次資料にあたるのではなく,専門の歴史学者の著書・論文を「資料」にして行うのです。そうでないと,範囲が広すぎて無理です。

 また,滝村さんは,近代国家を構成する根本的な「制度」のあり方についても,探究しています。というか,それが滝村理論の「本体」です。ここは前に述べた,フクヤマの議論の特徴のひとつである「さまざまな国家を,近代国家におけるいくつかの重要な〈制度〉や〈原理〉という観点から考察している」という点に関わります。
 滝村さんのそのような議論の中心には「三権分立」というテーマがありますが,ここでは立ち入りません。

***

 滝村さんは今の感覚だと「若者」といってもいい年齢のころに,このようにスケールが大きく挑戦的な研究に取り組んだのです。そして,「大言壮語」で終わることなく,つぎつぎとアウトプットをしていきました。

 これに対し,フランシス・フクヤマの場合は,先ほど紹介した『政治の起源』に取り組んだのは,50代半ばから。高名な知識人として円熟期に入ってからの仕事です。
 たしかに,「世界史のさまざまな事象を通して一般理論を構築する」なんていうのは,いかにも「巨匠」の仕事です。

 でも滝村さんは,若いうちから巨匠の精神で,仕事をしていたわけです。世界的なレベルの仕事をしようとした。

 しかし,この人はたとえば東大などのエリート大学や,その大学院にいたわけではない。研究者としては,ほぼ独学といっていい。「留学経験があって語学が堪能」ということでもない。滝村さんの著作の参考文献は,もっぱら日本の学者のものや翻訳書です。

 そのような「若者」が,今から30年前の1980年ころに,アメリカの著名なエリート学者が行ったのに匹敵する・通じるところのある仕事を残したのです。
 ただし,私は「匹敵する」どころか,「滝村理論のほうがフクヤマ理論よりもスケールが大きく,すぐれている」と思っていますが,そのことはまたいつか。今回は,2人の学問の「方法」の一端について述べるだけで,理論の内容には立ち入りません。

 でもたぶん,フクヤマの仕事は世界的に評価され,今後も残っていくのに対し,滝村さんの仕事は,埋もれていくのではないか……これからの世代の日本の学者がきちんと評価して「滝村理論」を宣伝しないかぎり,そうなります。

 ***

 それはともかくとして,フクヤマの『政治の起源』を読み,滝村さんの著作を一部読み返してみて,あらためて確認したことがあります。

 それは,「政治学のような社会科学系の学問においては,世界史の幅広い事象にあたっていくことが不可欠である」ということ。

 背景が大きく異なる2人のすぐれた学者が,同じような方法論(世界史から謎を解く)に達したのです。そこにはきっと,大きな「真理」が存在しているのではないでしょうか。

 しかし,多数派の学者たちは,狭い専門に閉じこもりがちです。現代において「巨匠」といわれる人たちでさえ,フクヤマや滝村さんに言わせれば「扱う範囲が狭すぎる」ということなのでしょう。

 でも,かつてのヘーゲル,マルクスといった古い時代の巨匠たちは,「世界史」を自分の学問の軸に据えていました。
 フクヤマも滝村さんも自分自身で述べているように,2人の仕事はそのような巨匠たちの伝統の,現代的な再現です。

 そして,そのような学問は「専門的なアカデミズム」とは異質で,アマチュア的なところもあります。

 だから,私のような「愛好者」や,ふつうの多くの人たちにも,じつは入っていきやすいのです。フクヤマや滝村さんの著作をみていると,ほんとうにそうだと感じます。「世界史から謎を解く」仕事は,多くの人の「この世界を知りたい」という欲求にこたえるものなのです。 

(以上)

※4月7日の付記
・滝村さんは,ごく若いころに哲学者・三浦つとむの影響を受けたといいます。三浦つとむについては,このブログの以下の記事をご覧ください。
   2人の極端な独学者 三浦つとむとエリック・ホッファー

・滝村さんの学説の一端に触れた,以下の関連記事もあります。
   「橋渡し」の仕事
   アリストテレスと考える,「国家とは何か」

2014年03月01日 (土) | Edit |
 2月23日に「ユダヤ人とは何か」入門・前編という記事をお送りしました。
 今回はその続きです。

 「前編」では,古代以来のユダヤ人の歴史を,きわめておおざっぱに述べました。
 今回の「中編」と次回の「後編」は,「近代社会とユダヤ人」がテーマです。
 これも,あくまでざっくりと。

 ***

 ユダヤ人は,人類が近代の経済や文化を築きあげていくうえで,大きな役割を果たしました。

 たとえば近代社会の経済には,銀行や証券業などの「金融」というものが欠かせませんが,ユダヤ人の資本家は,そのような近代的な金融業の元祖といっていいのです。

 たとえばロスチャイルド財閥は,そのようなユダヤ人金融資本家の代表です。

 ロスチャイルド財閥は,1800年代にヨーロッパの金融の王者として大発展を遂げ,のちにアメリカ合衆国にも進出しました。

 そして,この財閥と関わりのある人びとによって,現代のアメリカを代表する金融機関がいくつも創設されています。ゴールドマン・サックス,ソロモン・ブラザーズといった投資銀行(証券会社の一種)などはそうです。

 今はもう消滅しましたが,リーマン・ブラザーズという投資銀行も,ロスチャイルドとつながりがあります。その経営破たん(2008年)は,「リーマン・ショック」といわれる大混乱の引き金となりました。
 (ソロモン・ブラザーズも,現在は他の金融機関との合併などにより,その名前・ブランドはほぼ消えてしまいました)

 アメリカの金融業界の大物には,多くのユダヤ人がいます。
 
 金融・経済の重要な公職を務めるユダヤ人も少なくありません。

 たとえば,1990年代のクリントン政権の時代に財務長官を務めたロバート・ルービンやローレンス・サマーズ。ルービンはゴールドマン・サックスの経営者出身です。

 そして,オバマ政権の現在の財務長官である,ジェイコブ・ルーも,ユダヤ人。

 それから,1987~2006年の長期にわたってアメリカ連邦準備制度理事会議長(日本でいえば日銀総裁)を務めたアラン・グリーンスパン。
 そして,グリーンスパンの後任のベン・バーナンキも,ユダヤ人。

 さらにその後任で,先月(2014年2月)に就任したジャネット・イエレン(はじめての女性議長)も,ユダヤ人です。
  
 アメリカの金融界,ということは世界の金融界でのユダヤ人の影響力は,たいへん大きいわけです。
 その影響力は,政治・経済全般に及ぶといっていいでしょう。

 ***

 世の中で何かが起きると,「これはユダヤの陰謀だ」という「うわさ話」あるいは「トンデモな話」がときどき出てきます。それにはこのように「金融・経済に大きな影響力のあるユダヤ人がおおぜいいる」ということが根本にあるわけです。

 ただ,「ユダヤの陰謀」といういい方には,「陰謀をめぐらす悪の秘密結社としてのユダヤ人」みたいなものが存在する,という前提があります。

 私は,そのような見方は疑わしいと思っています。

 しかし,「世界の金融・経済に影響を与える意思決定に関与する人物の中に,ユダヤ人が多数いる」ということは,現実として知っておいていいと思います。
 そのような存在が,この世界にはいるのだと。

 ***
 
 ではなぜ,ユダヤ人は近代の金融の「元祖」になったのでしょうか?

 その起源は,中世のヨーロッパ(ここでは西暦1000年ころから1500年ころ)にさかのぼります。
 中世のヨーロッパでは,キリスト教徒が「人に金を貸して利子を得ること」が禁止されていました。当時のカトリックの考え方です。
 しかし,現実には「お金を貸してくれる業者(高利貸しという)」は,ある程度発達した経済にとっては必要です。

 そこで,中世ヨーロッパでは(キリスト教徒からみて)「異教徒」であるユダヤ人には,「高利貸し」のビジネスを許可しました。そこでユダヤ人には「高利貸し」の仕事をする人が,かなりいたのです。

 じつは,ユダヤ教でも,「利子を得ること」は禁止なのですが,「異教徒に対しては可」ということになっていました。だから,キリスト教徒相手ならいいわけです。

 中世ヨーロッパにおいて,ユダヤ人の仕事は「高利貸し」にかぎりません。
 金融・商業(貿易など)全般が,ユダヤ人のおもな活躍の場でした(もちろん「金持ち」といえるのは,ユダヤ人であっても一部であり,大多数は中小・零細のビジネスを営む人たちでした)。

 中世ヨーロッパにおいて,商業・金融をになったユダヤ人。

 これは,ユダヤ人がヨーロッパ社会において「異端」の扱いを受けたことが関わっています。
 「異端」であるとは,市民・領民としての権利にいろいろな制約があったということです。

 その「制約」の大きなもののひとつに「土地への権利」というものがありました。
 たとえば,農地を所有することが,基本的にできない。

 だから,ユダヤ人は自営農民や地主にはなれなかったのです。
 (ただし地主に従属する小作人的な農民にはなれましたし,東ヨーロッパにはそのような貧しい農民として生きるユダヤ人が数多くいました)

 農民や地主というのは,近代以前の社会では,まさに主流の存在です。
 農業がメインの産業だったのですから。

 ユダヤ人は,その「主流」からははじき出されていました。

 そして,中世の社会では,農業にくらべると「商業」はステイタスが低かったのです。
 まして金融業は,「周辺的」といえるマイナーな存在でした。
 「賤しい」と考える人も少なくありませんでした。

 ユダヤ人は,社会の「周辺的」な存在だったために,当時は「周辺的」あるいは「賤しい」とされた商業や金融業に従事した,ということです。
 
 しかし,近代になってから(つまり産業革命以降)は,経済は農業社中心から商工業中心へと移行していきました。
 新しい時代の経済では,新しい・発展したかたちの商業や金融が不可欠でした。

 そのときに,中世からずっと商業・金融を担ってきた,ユダヤ人がおおいに活躍するチャンスがあったのです。
 1800年代のロスチャイルド家は,その代表的な存在です。

 ロスチャイルドは,ヨーロッパ各地にネットワークを持っていましたが,イギリスを最大の拠点として発展した財閥です。「大英帝国が生んだ」といっていいでしょう。

 これは,ヨーロッパ(西ヨーロッパ)のなかで,イギリスの政府が最も早くからユダヤ人の権利や活躍を認めていたからです。
 
 イギリスでは,人びとの自由や権利の承認,産業・経済の発展ということが,1700~1800年代のヨーロッパでは最も進んでいたので,「ユダヤ人の権利を認める・その力を利用する」ということは,そうした流れの一部だったといえます。

 ***

 時代が大きく変わると,かつて「周辺」だった存在が,急に「中心的」な役割を担うことになったり,「底辺」「最後尾(ビリ)」だと思っていたものが,先端に躍り出たりすることがあります。

 「近代社会の誕生」のときのユダヤ人は,まさにそうでした。

 社会の「周辺」や「底辺」的な扱いから,近代社会のトップランナー的な位置に躍り出たのです。
 そして,現在に至っています。

 ただし,1800年代には,ユダヤ人への差別や権利の制限はまだまだ残っていました。
 しかしそれでも,ユダヤ人は急速に力をつけていったのです。

 そして,1900年ころにはすでに,欧米社会のなかで経済や文化において,有力な存在となっていました。
 金融・経済だけでなく,学問・芸術などでもユダヤ人は,大きな存在です。

 今回はここまで。次回は「近代の学問・芸術におけるユダヤ人」について。

(以上,未完) 
2014年02月23日 (日) | Edit |
 前回の記事(すぐ下)で,「都内の公共図書館でアンネ・フランク関係の書籍が破られるという被害が発生している」というニュースに寄せて,『アンネの日記』の一節を紹介しました。
 「アンネ・フランクとは」についても「ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の犠牲になった少女」である等,ごく簡単に述べました。

 今回は,そもそも「ユダヤ人とは」ということを述べます。ほんの入門的な話です。でも,「こっそり常識を知る」にはいいかと。

 これを書いているとき(今日の午前中です),妻に「何しているの?」ときかれて,「ユダヤ人の歴史を書いている」といったら,「あんたは幸せな人ね」といわれました。「いいオヤジが興味のおもむくまま,好きなことをしている」というなら,たしかにそうです。

 ***

 まずユダヤ人とは,「ユダヤ教徒もしくはユダヤ教徒の親を持つ者」と考えればよいでしょう。要するに,ユダヤ人≒ユダヤ教徒。これには,ユダヤ人の生まれでなくても,改宗してユダヤ教徒になった人も含みます。
 また近年は,ユダヤ人の家に生まれ育ってもユダヤ教を信仰しない人も増えているそうですが,この定義だとそういう人も「ユダヤ人」ということになります。

 つまり,ユダヤ人とは「人種」や「血統」のグループではなく,宗教(やそれに付随する文化)における集団を指すのです。「ユダヤ人」といわれる人たちの肌や髪の色,顔だちや身体的特徴は,さまざまです。

 以上要するに,ユダヤ人とは「ユダヤ教の文化的伝統に属し,そこに自分のアイデンティティ(自分が自分であることの根拠)を自覚する人たち」と定義できるのではないかと思います。

 たとえ今現在はユダヤ教の信仰から距離をおいていたとしても,ユダヤ教徒の家の出身であれば,「ユダヤの文化への帰属」ということを,自分の中で大切に思っている人もいるでしょう。そういう人は,上の定義だと「ユダヤ人」ということになる。

 ユダヤ人は,世界各地に1000数百万人いるといわれています。
 特定の国をつくるのではなく,世界各地に分散していて,しかし全体として一定の「共同体」といえるつながりを持った集団であることが,その特徴です。

 ただし,第二次世界大戦後は,中東の一画に「イスラエル」という国を「ユダヤ人国家」として建設しました。このことについてはあとで述べます。

***

 では,ユダヤ教とは何か。

 ユダヤ教は,世界最古の(現在も続く)一神教です。今から2000数百年前に,今のシリア・パレスティナの地域で成立しました。

 一神教とは,「唯一絶対の神を信仰する宗教」のこと。その対義語は「多神教」です。仏教や日本の神道は,たくさんの神仏が存在する,多神教。

 一神教の代表は,キリスト教とイスラム教ですが,ユダヤ教は,これらの宗教の源流です。
 キリスト教(紀元1世紀成立)は,ユダヤ教から分かれて成立したといっていいですし,イスラム教(600年代成立)は,一神教としてのキリスト教やユダヤ教の考え方をベースにしています。

 今の世界で最も有力な宗教というと,キリスト教とイスラム教でしょう。それらはいずれも一神教であり,その源流をさまのぼるとユダヤ教に行きつくのです。ユダヤ教というのは,世界史のなかできわめて重要な存在なのです。

 ***

 ユダヤ人は,遠い古代(今から3000年くらい前)に遡ると,自分たちの国を持つ,典型的なひとつの「民族」といえる存在でした。古代のユダヤ人の王国は,今のパレスティナ地方にあり,一時期はおおいに繁栄しました。現在のイスラエルは,その地域に建国されているのです(それが大きな問題を生んでいることは後述)。

 ユダヤ教の原型は,その「ユダヤ人の王国」で生まれ,信仰されました。

 しかしその王国は,紀元前700年代には周辺の大国によって征服されてしまいます。その後も「古代のユダヤ人の王国」があった地域には,さまざまな大国が興亡していきますが,ユダヤ人はそれらの大国に従属する一集団として生きていくことになります。

 そして,従属・支配下に入っても,それぞれの時代の「大国」の主流に溶け込んで消滅することなく,ユダヤ教の信仰を維持したまま,「異端の集団」として存続していったのです。

 なぜ,ユダヤ人は「主流」に吸収されることなく,自分たちの独自性を守り続けたのでしょうか? 

 ひとつの視点として「ユダヤ教の教えが,古代の時代には最先端の高度な思想だった」ということがあるでしょう。一神教が「高度」というのは,現代において最も力を持っている宗教(キリスト教,イスラム教)が一神教であることからも,いえると思います。(なお,筆者は信仰を持たず,どの宗教とも無関係です)

 古代においては(のちにキリスト教があらわれるまでは),「一神教」は(ほぼ)ユダヤ教だけでした。あとの民族は,たとえばギリシア人もローマ人も多神教です。これは,宗教としては土俗的で「素朴」といえるものです。少なくともユダヤ人の目にはそう映ったはずです。

 ユダヤ人は「自分たちは,素朴な観念を乗り越え,高度の真理に到達した特別な存在である」と考えました。「選民(選ばれた民)思想」というものです。選民思想を持つ集団は,多数派に溶け込むことを拒否するものです。

 ***

 ユダヤ人が属した古代の大国の代表は,紀元1世紀ころから5世紀ころまで繁栄したローマ帝国です。ローマ帝国は,地中海全体を取り囲み,東ヨーロッパ・中東・北アフリカ・西ヨーロッパにまたがる超大国でした。

 キリスト教は,紀元1世紀に,ローマ帝国領の,ユダヤ教の中心地であるパレスティナ地方で生まれました。

 キリスト教は,ユダヤ教に反抗する一種の「宗教改革」として,ユダヤ教の「分派」のようなかたちで成立したといえます。だからユダヤ人は,キリスト教の「聖書」のなかでは,「イエス・キリストと対立し,迫害を加えた存在」とされています。これがのちにキリスト教徒によるユダヤ人差別の根拠となっていきます。

 ***

 「古代ユダヤ人の王国」が滅亡して以降,古代の大国・帝国のなかでのユダヤ人は,「非主流」「異端」ではありましたが,だいたいのところ,ひどい差別を受けることもなく,社会のなかでそれなりの地位を得ていました。

 しかし,西暦300年代末にキリスト教がローマ帝国の唯一の公認宗教になってからは,様子が大きく変わります(キリスト教は,ローマ帝国内に広がりはじめた当初は「異端の少数派」として迫害を受けましたが,その後勢力を拡大し,ローマ帝国の「国教」となったのです)。

 これ以降,ユダヤ人は,さまざまな権利をはく奪され,公職(国や地域での役職)からも追放されました。このあたりから「ユダヤ人への差別・迫害」の歴史が本格的にはじまったといえます。

 その後,ローマ帝国の繁栄は終わります。ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が体制崩壊したり(西暦400年代),今の中東を中心にイスラム教の国ぐにが成立したりしました(600年代以降)。

 西ローマ帝国の跡地には,数百年かけて今のヨーロッパ諸国の原型が成立していきました。ローマ帝国の繁栄以後,つまり一般に「中世」といわれる時代のユダヤ人は,ヨーロッパ諸国とイスラムの国ぐにのなかで生きていくことになりました。

 そこでは,とくにキリスト教の世界であるヨーロッパでは,ユダヤ人は差別や迫害を受けることになります。社会で何らかの災害や不安が生じると多数派の人びとから暴力や略奪を受けることもくりかえされました。やや緩やかですが,イスラムの国ぐにのなかでも,ユダヤ人への差別や権利の制限はありました。

 すると,ユダヤ人の多くは「より迫害の少ない国や地域」を求めて動いていくことになります。
 ひとつの場所で安心して暮らしにくいので,そのような移動がくりかえされるわけです。ユダヤ人の大多数がひとつの地域にまとまって暮らすのも難しい。

 差別や迫害のなかでユダヤ人は,ヨーロッパやイスラム圏の各地へ離散していきました。

 ***

 その結果,中世末から近代初頭(1400~1500年ころ)までには,ユダヤ人がとくにまとまって住む2つの地域ができていました。

 ひとつは,東ヨーロッパのポーランドとその周辺。
 もうひとつは,スペイン・ポルトガルのあるイベリア半島です。ヨーロッパの東と西の端っこです。

 ヨーロッパやイスラムのほかの地域にも,ユダヤ人は散在していたのですが,以上の2つの地域には,とくにまとまって住むようになったのです。

 これは,これらの地域が中世においてユダヤ人の権利や立場を比較的尊重したからです。ポーランド王国は,商業の発展のためにユダヤ人を利用しようとしました(商業・金融とユダヤ人の関係は後述)。

 また,中世のイベリア半島はイスラムの王国に支配されていて,そこではほかのイスラムの国よりも,ユダヤ人への差別が少なかったのです。

 現代につながるユダヤ人の系統には,大きく2つがあるといわれます。
 そのひとつが,ポーランドなどの東ヨーロッパを中心に広がった「アシュケナージ」と呼ばれる人びと。
 もうひとつが,イベリア半島(スペイン)を中心とする「セファルディ」という人びとです。

 2つの系統は,中世における離散や移動の結果,生じたわけです。

 ただし,イベリア半島に関しては,その後状況が変わります。1500年ころまでにスペイン人とポルトガル人(いずれもカトリック)が,イスラムの勢力を追い出して,自分たちの王国による支配を揺るぎないものにしたのです。

 それ以降はユダヤ人への差別・迫害が強化され,多くのユダヤ人が別の土地へ逃れたり,カトリックに改宗させられたりしました。

 だから,「セファルディ」は,今はユダヤ人のなかでは少数派です。
 現代のユダヤ人の主流をなす多数派は,「アシュケナージ」の人びとです。

 今の私たちが一般にイメージするユダヤ人とは,アシュケナージのことだ,といっていいです。

 ***

 さらに近代以降は,アシュケナージの人びとを取り巻く状況も大きく変化します。

 1700年代末に,ポーランド王国が周辺の大国であるロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアによって滅ぼされ,分割占領されるということが起こったのです。

 それ以前にも,ユダヤ人はポーランドを根拠地としてロシアやドイツなどの周辺諸国にも広がっていたのですが,この「ポーランド分割」以降,ユダヤ人のロシア,ドイツなどへの拡散が進みました。

 ユダヤ人を尊重していた王国が崩壊して,ユダヤ人にとってポーランドは安住の地ではなくなり,そこにとどまる意味が薄れたからです。

 そして,1900年ころまでに,多くのアシュケナージが新興国アメリカ(あるいはカナダも含めた北米)へ移住するという動きもはじまりました。さらに,第二次世界大戦前夜(1930年代)の社会情勢(東ヨーロッパの政情不安や,ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害など)によって,北米への移住はさらに増えていきました。

 アメリカ合衆国に移住して市民権を得たユダヤ人=ユダヤ系アメリカ人からは,実業界での成功者や高度の専門家・知識人などが多く出ています。アメリカの中で,ユダヤ人(おもにアシュケナージ)の影響力は非常に大きいのです。

 ということは,世界の中でのユダヤ人の影響力も大きいということです。

 ***

 今回はこのくらいにして,次回に続きを。
 もっと短くまとめるつもりでしたが,書きはじめると,つい長くなってしまいます。

 次回は,「ユダヤ人と近代社会」という視点で述べたいと思います。
 ユダヤ人は,アングロ・サクソンと並んで,近代社会をリードしてきた存在といえます。それはどういうことか?なぜそれが可能だったのか? そんなことを述べていきます。

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月31日 (土) | Edit |
 最近,このブログでは世界史関連の記事を多くのせています。
 
 世界史を「繁栄の中心が,ある場所からその近隣(となり)へと移っていく,そのくりかえし」という視点でみる「となり・となりの世界史」というコンセプトを打ち出したり,世界史の通史を,本1冊の数分の1の「2万文字」くらいでざーっとみわたす(「1万文字の世界史」)といったことをしてきました。

 今回は,本筋とは離れた「コラム」的な話題です。

                        *

 世界史のことを書いていて,ちょっと思うことのひとつに,

 「紀元前〇〇年って,わかりにくいなー」ということがあります。
 「歴史の授業は落ちこぼれた」という人に世界史の話をしたときにも,言われました。

 「最初の文明は,紀元前3500年ころのメソポタミアで生まれた」と書いてあると,「それはいつのことか」を読者は計算しないといけません。

 「紀元元年は2000年くらい前だから,それより3500年さかのぼるということは,今から5500年くらい前だ」

 こういうのは,じつにめんどうで,世界史の文章を読みにくくしている原因のひとつです。

 私が書く世界史の文章では,できるだけ「紀元前3500年(5500年前)」というふうに,「何年前か」をカッコ書きでつけていますが,抜本的な解決にはなっていませんね…

 そういえば,「〇世紀」というのも気に入りません。

 1900年代が「20世紀」って,ほんとにわかりにくいです。

 なんでこうなるかといえば,「0世紀」というのを設定しなかったから。
 西暦1年から100年までが「1世紀」です。
 で,西暦101年から200年までが,「2世紀」……うーん……

 ほんとうは,西暦1年から100年までを「0世紀」にすべきでした。

 さらにいえば,「西暦0年」というのも,設定すればよかった。
 そして「西暦0年~99年」を「0世紀」,「西暦100年~199年」を「1世紀」とすればよかったのに…

 このような「世紀」のわかりにくさは,たぶん,いろんな人が言っていることでしょう。

 私が世界史のことも含め,いろいろと大きく影響を受けた板倉聖宣さんという学者も,「世紀」というのは,今述べたようなわかりにくさがあるので,使いません。板倉さんの書く文章では,「20世紀」とはいわず「1900年代」といいます。

 さらに,世界史の年号関係では,もっとひどいのがあります。

 世界史の本には,たまに「前〇千年紀」というのが出てきます。
 たとえば「前2千年紀」というのは,いつの期間をさすと思いますか?

 「前2千年紀」は,紀元前2000年~紀元前1001年をさします。
 「前1千年紀」は,紀元前1000年~紀元前1年です。

 笑っちゃうくらい,わかりにくいですねー

 「紀元前」「世紀」「前〇千年紀」……これらには,たしかにいろいろ問題がある。
 でも,「慣習」として定着してしまったので,今さら変えにくい……

 しかし,年号にかんするさまざまな表記・表現は,歴史の時間軸というモノサシに刻まれた「目盛り」のようなもの。この目盛りが読みにくいのは,困ったものです。

                       *

 私は,今使っている「西暦」「紀元(紀元前)」などというのは,リセットできないかと「妄想」することがあります。

 「西暦」というのは,「キリスト教紀元」のこと。あの宗教の教祖イエスが生まれた,とされる年を基準にしているわけです(ただし,その後の研究では,イエスの誕生は紀元元年よりも数年さかのぼるとされています)。

 そんな特定の宗教の「紀元」なんてやめましょう。
 その意味で,ほかの宗教や民族の伝統に基づく「紀元」も,「西暦」のかわりにはなりません。

 じゃあ,どうしましょうか。

 「シュメール紀元」というのは,どうでしょうか。

 メソポタミア(今のイラク)で「最古の文明」とされるシュメール人の都市国家が栄えはじめた時点を,人類共通の「紀元」とする。

 でも,その具体的な「年」を特定することはできないので,そのおよその時期を「紀元」にしてしまう。
 切りのいいところで,「紀元前4000年」を「シュメール紀元0年」とする。

 だとすると,今年2013年は,シュメール紀元6013年です(4000+2013)。

 ペルシア戦争の開始(紀元前500年)は,シュメール紀元3500年(4000-500)。
 秦の始皇帝による中国の統一(紀元前221年)は,シュメール紀元3779年。
 西ローマ帝国の滅亡(西暦476年)は,シュメール紀元4476年。
 コロンブスの「アメリカ発見(アメリカ大陸付近への到達)」(1492年)は,シュメール紀元5492年。

 西暦に4000足しただけですが…(デーモン小暮閣下が,自称「1万50何歳」とか言っているのと似てます)

 でも,「シュメール紀元」でみると,それぞれの世界史上のできごとが,「文明のはじまり」の時代からどれだけの時間的距離にあるのかが,わかりやすいです。
 そのような「時間的距離」を,紀元前・紀元後にかかわらず,同一線上に並べてみることができるのです。

 シュメール人というのは,ルーツ・系統が不明で,何千年か前に滅びてしまいました。今の世界のどの民族からみても,はるか昔の「縁」のない人たちです。つまり,世界中からみて,かなり「ニュートラル」な存在。
 しかし,世界の文明の「元祖」である。

 そういう存在なので,世界史の「紀元」をシュメール人にもとめるのは,「公平感」があると思うのです。

 でも,「エジプト文明も最古だ」という人がいるので,黙っていないだろうな。「シュメールだけ祀り上げるな」というのでしょうね…

 インド人や中国人も黙ってないかも。
 「我々だって古い。我々を基準にすべきだ」とか言いそうだ。

 そして,世界中に「我々こそが,じつは最も古い伝統を持っている」という人たちがいるのかもしれない(日本にもいそうだ)……

 やっぱり,「シュメール紀元」,無理そうです(^^;)

(以上)
テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月06日 (木) | Edit |
「5分間の世界史講座」というのを,ときどきやっています。世界史のいろんなことがらをあつかった,1話が原稿用紙数枚ほどのエッセイ。 カテゴリー:5分間の世界史

今回はひさびさの「5分間の世界史」です。


シュメル人は宇宙人ではない

四大河文明はいつ生まれたか
「世界最古の文明は,どこで発生したか?」ときかれて,あなたはどう答えるだろうか? 文明というのは,とりあえず「金属器」「大きな建造物」「政治的支配者」「文字」といった要素をそなえている社会,ということにしておく。

多くの人は,四大(河)文明というのを思い出すのではないか。メソポタミア,エジプト,インダス、黄河の各文明。

しかし,この四つはかなり時期がちがう。メソポタミア文明(現イラク)の発祥は,紀元前3500年ころ(5500年前)。

エジプト文明は,紀元前3100年ころ(5100年前)。インダス文明(インド)は、だいぶ時代が下って紀元前2300年ころ(4300年前)。 黄河文明(中国)は,紀元前2000年ころ(4000年前)だ。メソポタミアよりも千数百年あとである。

「四大河文明」といってひとまとめにあつかうと,同時代のものだと思ってしまう。だが,四つのうちメソポタミア文明は,別格なのである。

じつは,エジプト文明というのは,メソポタミア文明の影響を受けて生まれた,ということがほぼわかっている。インダス文明もそうだったという説があるが,ややはっきりしない。黄河文明がほかの文明から影響を受けたかどうかは,ほとんど手がかりがない。

文明の歴史は,紀元前3500年ころ(紀元前3000~4000年)のメソポタミアではじまった。

これは,世界史の最重要知識のひとつかもしれない。では,この「知識」,つまり「文明は,いつ・どこで始まったのか」が明らかになったのは,いつころのことだろうか? 

(予想)
ア.1900年ころ(日本では明治時代)
イ.1800年ころ(フランス革命,産業革命の時代)
ウ.1500年ころ(ルネサンスの時代)
エ.もっと昔からわかっていた

***

メソポタミアの古代文明(の遺跡)が発見されたのは,1800年代末のことだった。その最古の都市のひとつ,ウルクの発掘がはじまったのは,1920年代のこと。そして,調べるうちにメソポタミア文明がエジプト文明よりも古いこともわかった。こうした研究の基礎は,1900年代前半に築かれた。答えはアである。

メソポタミア文明は,シュメル人とよばれる民族がつくったものだ。この名前は,近代の学者が,遺跡のあるメソポタミア南部をさす「シュメル」の地名にちなんでつけた。彼らが自分たちをどう呼んでいたのかは,わかっていない。

シュメル人は,史上最初の文字である「楔形(くさびがた)文字」をつくった。ほかにも,シュメル人は車輪や青銅器にかかわる革新や普及など,さまざまな創造で後世に大きな影響をあたえた。

世界最古の文明をつくったのは,シュメル人。

そんな基本的なことも,わかってからまだ100年も経たたないのである。

巨大都市がこつぜんとあらわれた?
史上最初の文字は,紀元前3100年のウルク(シュメル人の都市)で発明された。そのころのウルクの面積は,250ヘクタール(およそ1500m×1500m)。平均的な日本の高校の敷地200個分。当時の世界で最大の都市だった。

今の西アジア(メソポタミア周辺の地域)で,近代的ビルのない伝統的な町並みだと,人口密度は1ヘクタールあたり100人ほど。もしウルクもその密度だとしたら,100人×250へクタールで,2~3万人の人口だったことになる。

しかし,当時の人口を知る手がかりはほとんどなく,はっきりしたことはわからない。だがとにかく,5100年前前にそれだけの面積・広がりをもつ都市があったのである。

しかもその都市は,歴史のなかでこつぜんとあらわれたという感じがある。

文字が発明された時代から1000年ほどさかのぼった紀元前4000年ころ(6000年前)には,ウルクはまだなかった。そのころの最大級の都市(集落というべきか)の面積は,10数ヘクタールほど。つまり,ウルクとくらべてひとケタ小さい。

それから数百年のうちに,ウルクの基礎がつくられた。そして、紀元前3500年ころには、ウルクの規模は70ヘクタールに達していた。

それが,紀元前3100年ころには250ヘクタール。さらに,それから数百年後には600ヘクタール(400ヘクタール説もあり)にもなった。

これが「こつぜんとあらわれた」という感じを私たちにあたえる。さらにシュメル人は,どこから来たのか,どういう系統の民族なのかがよくわかっていない。メソポタミアに古くから住んでいたのか、それともかなり後になってやってきたのか,わからないのである。

そこで、トンデモ本の世界では「シュメル人は宇宙からきた」という説がある。「そうでないと,いきなりこんな都市ができたことの説明がつかない」というのだ。

しかし,それは近代の事例を忘れてないか。西暦1800年ころの世界で,最大の都市はロンドンや江戸などだった。その人口は100万人くらい。それが200年後の現代では,最大級の都市というと郊外も含めた人口が2000万~3000万ほどである(ニューヨーク、東京など)。200年ほどで都市の規模は20~30倍になった。技術革新の結果である。

だから,シュメルによって都市(集落)が数百年で急速に巨大化したとしても,人智を超えたできごとではない。宇宙人の手を借りなくても,歴史にはそういう飛躍のときがある。それが、5000~6000年前のメソポタミアでも起こったのだ。

ゼロからいきなりではない
そもそもシュメル人は,ゼロからいきなり巨大都市をつくったのではない。メソポタミアでは都市の「前段階」といえる小都市や集落が数多く発掘されている。

その集落には、「石器時代の最終進化形」といえるような文化があった。代表的な遺跡の名にちなんで「ウバイド文化」といわれるものだ。おもな道具は石器だったが,灌漑農業(水路などで人工的に水をひく農業)が行われ、大量の精巧な土器がつくられていた。

この文化の主役は,シュメル人だった可能性もあるが,別の民族だったという説が有力である。

しかしいずれにせよ,シュメル人の都市は、ウバイド文化を受け継いで生まれたのである。長い伝統の蓄積があってのことなのだ。

さらに,ウバイド文化にも先輩がいる。ウバイド文化の近隣で紀元前6000年ころに発生した「ハラフ文化」といわれる農耕文化である。ウバイド文化は,ハラフ文化の影響を受けているのである。

どんな民族も,先行する文化遺産から学んでいる。ゼロからいきなり多くを生みだすことはできない。これに例外はない。「世界最古の文明」を生んだ民族にも,それはあてはまるのだ。

(参考文献)大津忠彦ほか『西アジアの考古学』同成社,中田一郎『メソポタミア文明入門』岩波ジュニア新書,ジャン・ボッテロほか『メソポタミア文明』創元社

(以上)
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2013年03月09日 (土) | Edit |
騎馬遊牧民という「強者」

騎馬遊牧民が登場したのはいつか?

今回は,騎馬遊牧民の歴史をみわたしたい。 騎馬遊牧民とは,「草原地帯に住んで馬を乗りこなし,遊牧によって暮らす人びと」の総称である。「遊牧」とは,ヒツジなどの家畜を移動しながら育てること。特定の民族をさすのではなく,こうした暮らしをする人びとをまとめて「騎馬遊牧民」と呼ぶ。

彼らの根拠地は,ユーラシア(アジアからヨーロッパにまたがる地域)に広がる草原地帯である。そこをおもな舞台に,世界史上「トルコ系」「モンゴル系」などのさまざまな騎馬遊牧民が活動した。

「遊牧民」に対するのは,「農耕民」である。日本人も,中国人の主流派である「漢人」も,ほとんどのヨーロッパ人も,農耕民である。

騎馬遊牧民は,世界史のなかで大きな役割を果たした。たとえば中国の王朝のなかには,外からやってきた騎馬遊牧民が築いたものがいくつもある。1200年代に繁栄した,モンゴル人の元王朝はその代表だ(このことはあとでまた述べる)。

では,騎馬遊牧民というものが,世界史上はじめて登場したのはいつだったのか?選択肢で考えてみよう。

ア.今から1万年ほど前
イ.5000~6000年ほど前
ウ.3000年ほど前
エ.その他

ア.は,世界の一部で,農耕がはじまった時代。イ.は,メソポタミア文明,エジプト文明などの最も古い文明がおこった時代。ウ.は,世界の一部で,鉄器の普及がはじまった時代。この数百年後,2500年前ころには古代ギリシアが繁栄をむかえた。

***

騎馬遊牧民がはじめて登場したのは,紀元前1000年ころの,今のウクライナ周辺でのことだった。その後,スキタイ人(2700年前ころ~2300年前ころに繁栄)などの,広い範囲に影響をあたえる有力な騎馬遊牧民もあらわれるようになった。答えはウ.だ。

「家畜を育てる」ということなら,1万年くらい前から,つまり農耕の開始とほぼ同時期からあった。草原地帯を移動しながら家畜を育てる「遊牧」ということなら,8000年前には成立していた。ただし,まだ「騎馬によらない(徒歩による)遊牧」である。「騎馬による遊牧」は,そのずっと後にはじまったのである。
 
それは,騎馬というものが,かなり高度な道具や技術を必要とするからだ。
 
きちんと馬に乗るには,「あぶみ」「くつわ」などの馬具がいる。これらの道具なしで馬の背にまたがっても,不安定で,長時間乗ることはできない。

馬具は,かなりの精密さや耐久性がもとめられる道具で,部品の要所には金属も必要である。初期の騎馬遊牧民の馬具には,青銅器が使われた。そして数百年のうちに鉄製におきかわっていった。
 
つまり,青銅器や鉄器などの金属器が辺境の草原地帯にも普及するくらいに技術が発達していないと,騎馬遊牧民というものは成立しないのである。

騎馬の威力

騎馬以前に「馬を使った移動」というと,馬車だった。馬車は4000数百年前に西アジア(イラクやエジプトおよびその周辺)で発明された。3000~4000年前の世界では,馬2頭で引く「戦車」が最強の兵器だった。この「戦車」は2人乗りで,1人が馬を操縦して1人が弓矢を射る。

西アジアでの発明から数百年のうちに,馬車はユーラシア西部の草原地帯にも伝わり,馬車で移動する遊牧も行われるようになった。
 
「馬車のほうが,騎馬よりも先?」と意外に思うかもしれない。しかし,騎馬のほうが馬車よりもスピードが出て,デコボコのあるような悪条件の道も行きやすい。騎馬は,その点でより進歩した技術なのである。
 
騎馬の技術は,農耕民のあいだにも広まった。しかし,農耕民のあいだでは馬はかなりの貴重品で,乗馬ができる人もかぎられた。一方,騎馬遊牧民は馬を豊富に持っていて,それを誰もが乗りこなした。乗馬のまま弓矢を放つのも朝めし前。これは,戦争では大変な威力だった。

ややおおげさにいえば,騎馬遊牧民と馬のセットは,現代でいえば「戦闘機とそのパイロット」のようなものなのである。近代技術以前の時代において,「最強の機動力」を実現する手段。それが騎馬だった。

騎馬民族が強力なリーダーのもとに結束すると,恐ろしい軍事力になった。その軍事力は,農耕民の国をしばしばおびやかした。とくに西暦500年ころ~1500年ころには優勢となり,騎馬遊牧民が,中国の王朝やイスラムの有力な国を征服してしまうことも何度かあった。

そのような騎馬遊牧民の活躍のピークが,西暦1200年代にモンゴル人が築いた帝国だった。1200年代前半のモンゴル人は,チンギス・ハンやその後継者に率いられ,ユーラシアの各地を征服した。中国,チベット,中央アジア,西アジアのイスラム王朝,ロシア……そして,1200年代後半には空前の大帝国を築いた。

しかし,1300年ころまでにこの帝国は大きく5つに(中国の「元」などに)分裂し,1400年代にはモンゴル人の王朝の多くは,滅びてしまった。

騎馬遊牧民の限界

大帝国を築いたにもかかわらず,モンゴル人は征服した国ぐにの経済や文化に,あまり影響をあたえなかった。農耕民を支配することによって,強い影響を受けたのはモンゴル人のほうだった。

支配者として暮らすうちに,生活習慣も価値観も,自分たちが支配する農耕民に近づいていった。中国を支配したモンゴル人は中国風になり,イスラムの国を支配したモンゴル人はイスラム教徒となった。

こういうことは,モンゴル人にかぎらず,多くの騎馬遊牧民に共通している。

騎馬遊牧民には,牧畜以外の産業はほとんどない。道具や武器もすべては自給できない。いろいろなものを農耕民から買うか奪うかしないと,やっていけないのだ。また,移動する生活なので,持ち物が少ない。たくさんの道具や資料は所有できないため,学問や芸術も発達しにくい。

これでは,高度な文化を持つ農耕民と接すると,文化的には影響をあたえるよりも,影響を受けてしまう。騎馬遊牧民の側では「影響」への警戒や抵抗もあるのだが,けっきょくは農耕民の文化に染まっていく。

騎馬遊牧民が世界の文化に貢献しなかったというのではない。軍事技術や政治のやり方では,農耕民にも影響をあたえたし,文化や技術の伝達者としても大きな役割を果たした。

たとえば,火薬やそれを使った武器の伝搬に騎馬遊牧民は貢献した。この技術は,中国で発明されたものである。それが,1200年代のモンゴル人の活動を通じてユーラシアの各地に伝わったと考えられている。

しかし,騎馬遊牧民がそのような発明を生み出したということではない。そういう人びとなので,騎馬遊牧民は,世界史のなかの「重要な脇役」であっても「主役」「中心」とはいえないだろう。

それでも,騎馬遊牧民の勢いは長く続いた。たとえば満州族(あるいは女眞族)という「騎馬」の民族(ただしおもに狩猟で馬をのりこなした)は,1600年代に明王朝を滅ぼして,中国全土を支配する王朝を築いている。中国史の「最後の王朝」である清王朝だ。

しかし,騎馬による戦力が軍事的に強大であった時代は,ここまで。それ以後は近代的な兵器を生み出したヨーロッパ人が,「最強」になっていった。

***

騎馬遊牧民というと,私たちは「自然とともに生きる素朴な人びと」といったイメージを抱きがちだ。

あるいは,「野蛮で,暴力的」という(不当な)イメージも,かつてはあった。

しかし,もともとの騎馬遊牧民は,「騎馬」という高度の技術を駆使する「強者」だったのである。農耕民とは異質だけれども,合理的な・高度の文明を持つ人びと。 

そのような人びとが,世界のなかで強い存在感をはなっていた時代があった。過去には「今とはちがう世界」があったのだ。「騎馬遊牧民の活躍」の歴史は,それを教えてくれる素材のひとつだ。
 
(以上)

(参考文献)遊牧や騎馬の起源については,林俊雄『遊牧国家の誕生』(山川出版社,「世界史リブレット」のシリーズ)による。騎馬遊牧民の「威力」については,杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社)による。
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2013年03月03日 (日) | Edit |
昨日3月2日の記事「近代化とは〈模倣〉である」の補足です。
このテーマは,やはり「5分」ではおさまりきらないですね……。


トンデモなガンジー

ガンジーの主張

「欧米とは異なる独自の道で理想を実現しよう」という主張は,独立・建国後のアジア諸国で力を持った。中国やインドの「独自路線による経済発展」をめざした政策は,まさにそうだった(3月2日「近代化とは〈模倣〉である」)。

じつは,ソ連などの社会主義も,そのような「独自路線」のひとつなのだが,これはまた別の機会に。

インドの独立・建国の父であるガンジー(1869~1948)は,その手の主張――つまり「欧米を模倣することの否定」の教祖のような人だった。

彼はたとえば,こんな意味のことを言っている。ガンジーの思想を紹介した,ロベール・ドリエージュ『ガンジーの実像』(白水社)からの要約である。

「輸出も輸入も排斥されるべきだ。国の経済は自給自足が理想だ」
「機械は西洋と結びついており,悪魔的であり,大きな罪だ。機械などこの世にないほうがいい」
「経済生活は,衣食住の基本を満たせば,それ以上を求めるべきではない」
「議会からは,何ひとつとしていい行動は生まれていない」
「子どもたちに教育すべき唯一の技術は,糸を紡ぐことと機織りだけだ。それ以外の教科は不要だ」


ガンジーは,貿易も,機械文明も,経済発展(生活水準の向上)も,議会政治も,学校教育も否定しているのである。

ガンジーという人は,「聖人」のイメージがあり,「深い思想を語った」ことになっている。たしかにそういう面もある。しかしここでは,国の指導者としてはずいぶん「トンデモ」なことをいっているのではないだろうか?
 
ドリエージュ(引用したガンジー論の著者)は《ガンジーが断固として拒否する近代性》《ガンジーの反西洋主義》などと述べている。「反近代」「反西洋主義」が,ガンジーの思想の核だということである。

「欧米の模倣をして近代化するのは,まちがいだ」と主張する,ガンジー。

その気持ちも,わからないではない。インドは,1800年代から1947年の独立まで,イギリスの支配下におかれていた。これは,屈辱の歴史だった。

1800年代後半のイギリスの首相ディズレイリ(1804~81)は,「インドを統治して文明化することは,神からあたえられたイギリス人の使命だ」という意味のことを言っている(吉岡昭彦『インドとイギリス』岩波新書)。

そんなごう慢な連中の支配から,インドはやっと独立したのである。「奴ら(欧米人)のマネなんかするものか」というのは,無理もない。

しかし,ガンジーの主張には,「ムリ」としかいえないことがたくさんあった。だからこそ,インドはガンジーのいう方向には結局は行かなかったのだ。

インドだけではない。世界全体が,ガンジーの否定する「模倣=近代化」を積極的に行うほうへ進んだ。社会主義の崩壊やさまざまな「新興国」の台頭といった,1900年代末から最近までの世界の動きは,まさにそれだったのである。
 
そんなに昔の話ではない

ここで注目してほしいのは,毛沢東の「大躍進」(3月2日の記事参照)もガンジーのトンデモな思想も,世界史の大きな流れでみれば,そんなに大昔の話ではないということだ。これらは1900年代後半のことだった。その時代を知る人たちが,今も生きている。
 
そして,1900年代後半ということは,産業革命(1800年代前半)以降のヨーロッパが圧倒的な力で世界を制覇したあとだ,ということである。

すでに,欧米人の生み出した「近代」の威力はイヤというほど証明されている。それでも,近代化に向けた「模倣」に対しての,いろんな抵抗や葛藤があった。

そこには,自分たちの国を植民地にした侵略者である欧米への反発ということもあるだろう。侵略者をマネするなんて,屈辱そのものだ。だからこそ発展途上国にとって,近代化=模倣は,簡単なことではない。

しかし,世界全体の近年の傾向としては,多くの発展途上国では「模倣への抵抗」は,かなりのりこえられたようだ。中国やインドをはじめとする世界中での新興国の台頭がそれを示している。

しかし,そうはいっても,「模倣への抵抗」はまだまだいろんなかたちでくすぶるのではないだろうか。

たとえば今の中国でも,欧米で生まれた「民主主義」の政治体制はまだ採用されていない。共産党だけが唯一の合法的な政党であり,共産党の指導者が政治の全権を握っている。

今の中国のスタンスは,「経済や技術は模倣するが,政治は模倣しない」ということである。近代社会の要素を全面的に模倣することには,まだ抵抗があるということだ。

かつての社会主義(ソ連など)の体制は,「技術は模倣するが,欧米先進国の経済(資本主義)や政治は模倣しない」というものだったが,それと通じるものがある。

結局は欧米の生み出したもを全面的に模倣することをイヤがっているということだ。

ただし,現代の中国では,昔の社会主義にくらべて「模倣しない」といっている範囲が狭まってきた,とはいえるだろう。

(以上)
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2013年03月02日 (土) | Edit |
「5分間の世界史」シリーズの3回目。今回はアジアの近代化がテーマ。「5分」というには,ちょっと長くなりました。


近代化とは「模倣」である

近年のアジアの発展 

最近の20~30年,東南アジアの国ぐに,中国,インドなどのアジアは急速に経済発展してきた。

アジア全体(日本除く,以下同じ)の,1973年~2001年の年平均の経済成長率(GDPの増加率)は,約5%だった。一方,イギリス,ドイツ,フランスなどの西ヨーロッパ諸国は約2%,アメリカと日本は約3%である。
 
この傾向は2000年代以降,ますますはっきりした。

2012年の経済成長率は,イギリス,ドイツ,フランスで1%以下,日本,アメリカは約2%であるのに対し,アジア全体では約8%になっている。

近年のアジアの成長の勢いは,先進国を大きく上回っているのである。

※長期的な経済成長率については,アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』柏書房 による。なお,「1973年」で区切るのは,「石油ショック」などの世界経済の大事件があり,あとからふりかえると「時代の転換点だった」とマディソンが位置づけているからである。

1950~60年代はどうだった?

1900年代の前半まで,アジア諸国は,欧米諸国と日本の支配・圧迫を受けていた。そこから独立・建国したのは,多くの場合,第二次世界大戦がおわった1945年から1950年ころにかけてだった。

では,1950年(独立直後)から1973年までの,アジア(日本除く)の経済成長率は,欧米や日本とくらべてどうだったか? 
 
ア.アジアの成長率のほうが高かった
イ.欧米や日本の成長率のほうが高かった
ウ.どちらも同じくらい
 
***

1950~1973年の各地域の年平均の経済成長率は,つぎのとおり。
 
アジア(日本除く)約5%
西ヨーロッパ 約5%
アメリカ 約4%  
日本 約9%
 
「高度成長」の時代の日本は別にして,アジアと欧米の先進国の成長率は,だいたい同じくらい。いちおうウ.が正解である。

こうしてみると,「独立してからのアジア諸国は,しばらくのあいだ思うような経済成長ができなかった」といえるのではないだろうか。

もちろん一定の経済成長はあった。しかし,その勢いは欧米諸国と同じようなもの。それではいつまでたっても先進国に追いつけない。

独立したアジア諸国の大きな目標は,「近代化」ということだった。つまり,欧米の先進国に追いつくこと。その中心課題が「経済成長」である。国の経済を発展させ,貧困から抜け出すことだ。

独立以後のアジアは,紆余曲折があった。成長が軌道に乗るまで何十年もかかった。これはどういうことなのか?

ホッファーの言葉

今のアジア諸国は,日本や欧米などの先進国から技術や資本を取り込んで,発展してきた。先進国に学んできたのだ。「学ぶ」とは,「模倣」といってもいい。

経済発展が順調なのは,そのような「模倣」がスムースに行われているということだ。

「先進国に学ぶ」なんて,あたり前だと思うかもしれない。「すぐれたものがあれば,それをマネようとするのは自然なことでは?」と。しかし,私はつぎのように考える。
 
「すぐれたものにきちんと学ぶ」のは,じつは結構たいへんである。そこには,のりこえるべき障害がいろいろとある。とくに大きいのは,「プライド」ということ。「プライドのうらがえしの屈辱感」といってもいい。

このことを,1950~70年代に活躍したエリック・ホッファーという思想家が,うまく表現している。ホッファーによれば,

近代化とは,後に続く国が先進国を模倣(もほう)(マネ)すること 

である。そしてそれは,模倣する側に一種の屈辱感をあたえるのだ,という。ホッファーは,こう述べている。

《近代化とは基本的には模倣――後進国が先進国を模倣――の過程である……そして,自分よりもすぐれた模範(モデル)を模倣しなければならないときに苦痛を感じさせ,反抗を起こさせる何かが心の中に生じはしないだろうか……後進国にとって模倣とは屈服を意味する。》(『人間とは何か』河出書房新社)

「模倣がプライドを傷つける」という感覚は,個人にはわかりやすい。「お前のしていることは,誰それのマネだ」といわれるのは,ふつうはイヤだ。誰かのことをマネしていると,カッコ悪い感じがする。

それが国家や社会というレベルでもあるのではないか。

最初のうちは,プライドが邪魔をして先進国を模倣することを拒否している段階がある。それでは近代化はうまくいかない。しかし,いろいろ経験したのち,屈辱感をのりこえて外の世界に積極的に学べるようになっていく。その結果,近代化=経済成長が軌道に乗っていくのである。

独立・建国以後のアジア諸国の動きをみると,そのようなことが実際にあった。模倣の否定から,積極的な模倣へ。中国とインドはまさにそうだった。

中国の「大躍進」

社会主義国家「中華人民共和国」の建国から10年後の1958年のこと。中国では指導者・毛沢東によって,「大躍進」という経済発展のプランが打ち出された。「国家主導の計画にもとづいて,急速な経済成長をなしとげる」というものだ。「15年でイギリスを追い越す」という目標がかかげられた。
 
「大躍進」の特徴は,その計画を自前のノウハウだけでやり遂げようとしたことだった。

欧米の先進国から技術者や企業を招いたりはしない。材料や製品の輸入も,原則として行わない。とにかく,自分たちの手持ちの技術や資源でできることから出発する。

誰にも教わらず,独自の路線を行こうとしたのである。
 
とくに重視されたのは,鉄の大幅な増産だった。製鉄は「すべての工業の基礎」と考えられた。鉄の増産のための切り札は,「小型土法(どほう)炉(ろ)」というものだった。これは,土(陶器)やレンガでつくった小型の簡易な溶鉱炉のことである。これを各地にたくさん建設して製鉄をさかんにしようとした。土法炉は,「自前で」「独自に」という精神の象徴だった。

この運動の結果は,悲惨なものだった。たしかに鉄を増産することはできた。しかし,増産された分の多くを占める「土法炉でつくられた鉄」のかなりの部分は,品質が悪くて使いものにならなかった。貴重な資源や労力を投じて,大量のゴミを生産したようなものだ。

こんなことでは,経済の「大躍進」などムリな話である。

インドの「自前主義」

このような「自前主義」の発想は,1947年に独立したあとのインドでもみられた。インドは,中国のような社会主義ではない。民間の企業活動が認められている「自由主義」の体制だ。一応はそうなのだが,国家による経済への介入は積極的に行われた。

インドでも,「すべてを自前で」ということが重視された。自国で生産できるものは,国産品のほうが高くて低品質であっても,輸入しない。海外企業の進出は,原則として認めない。

国として,非常に閉鎖的だったのである。「先進国による輸出や企業の進出を許すと,国の経済が先進国にのっとられてしまう」と考えたのだ。

そのようなインドの経済成長率は,低い水準にとどまっていた。1950年~1973年の年平均の成長率は約3.5%。アジア全体の約5%を下回っていた。

路線変更

こうした中国やインドの閉鎖的な政策は,「模倣の否定」である。欧米の先進国に教わることなく,自分たちは自分たちのやり方でやっていく。それで追い越してみせる――そんなスタンスだ。

しかし,「模倣の否定」が失敗であったことが,しだいにはっきりしてきた。

「自国の成長が思うようにいかない」というだでけはない。自分たち以外で急発展するアジアの国があらわれ,先を越されてしまったのである。1970年代における,韓国,台湾,シンガポール,マレーシアといった「アジアNIEs(ニーズ)」の台頭である。
 「NIEs」とは,「新興工業地域」を意味する英語の頭文字だ。

アジアNIEsの国ぐには,中国やインドのような「自前主義」ではなかった。輸入についても,海外企業の進出についても,オープンなスタンスだった。先進国の下請けの工場も,たくさん建設された。

こうして先進国との接点が増えていくと,いろんな学習・模倣が行われるようになる。先進国の製品やサービスに触れたり,外国企業で働いたりすることで,技術やノウハウを身につける人が増えた。それが経済発展につながっていった。

「自前主義」が行きづまった結果,中国やインドでは大きな路線変更がおこった。「輸出入をさかんにする」「海外企業の進出を受け入れる」という方針に変わったのである。中国では1980年代,インドでは90年代のことだ。

そして中国では,それまではほとんど禁じらていた,民間の企業活動を大幅に認めるようにもなった。それは,社会主義じたいを見直すことだった。

中国でもインドでも,持続的な高度成長がはじまった。その成長は今(2010年代前半)も続いている。

今の中国やインドでは,先進国を模倣することへの抵抗は影をひそめた。目先の利益をもとめて,先進国の製品のモノマネやニセモノをつくることさえ,平気で行っている。

***
 
以上,中国・インドの発展の歩みを,「近代化とは模倣である」「模倣には屈辱感が伴う」という視点から述べてみた。

屈辱感をのりこえ,すぐれたものを積極的に模倣する――それができるようになって,アジアの急速な発展ははじまった。
 
この視点ですべてが説明できるとは,もちろん思わない。納得のいかない人もおおぜいいるだろう。でも,私は世界史を読み解くうえで,だいじな視点ではないかと思っている。「近代化=模倣」という見方は,これから何度も使っていくつもりだ。

(以上)
2013年02月13日 (水) | Edit |
「紙の発明」から考える

紙というすばらしい発明
今回は,「紙の発明と,その伝播」のことをとりあげたい。「発明」や「創造」ということを考えるうえで,よい材料なのである。

紙が発明されたのは,今から2000年前ころの,漢王朝時代の中国である。紙というのは,「樹や草の皮などからとれる植物の繊維をほぐして,一定の成分を加えた水にとかし,うすく平らにして固める」という方法でつくる。
 
紙以前にも,それに似たものはあった。5000年前ころのエジプトで発明され,ギリシアやローマでも広く使われたパピルスである。パピルスは,「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに二重三重に貼りあわせてつくる。

しかし,パピルスには,紙のように折りたたんだり,綴じたりするための丈夫さが不足していた。そこで,ギリシアやローマでは,「本」というのはパピルスの巻物だった。さらに,パピルス草という,エジプト周辺でしかとれない特殊な原料が必要なため,生産量に大きな限界があった。

一方,紙の製造にはこうした制約はなかった。紙の材料に適した植物というのはいろいろあって,その土地ごとに適当なものをみつけることができた。

このように,紙というのはすばらしい発明だった。のちには世界じゅうで紙がつくられるようになった。

紙の発明は一度きりか?
では,紙の製造法=製紙法の発明は,一度きりのことだったのだろうか? 「このくらいの発明は,別の時にほかでも(中国以外でも)行われた」ということはなかったのだろうか?

選択肢をたてて,あらためて考えてみよう。

紙の製造法=製紙法の発明は

ア.世界史上,中国で発明されただけの,一度きりのもの
イ.同様の発明が,ほかの場所でも行われた

***

紙の発明は,歴史上一度きりのものだった。今,世界でつくられている紙は,その起源をたどると,すべて中国での発明に行きつくのである。答えはア.である。

製紙法は,中国で広がったあと,周辺のアジアの国にも伝えられた。日本には飛鳥時代の600年ころまでには伝わっている。

それから,中国の西のほうにも伝えられた。西暦700年代にはイスラムの国ぐににも伝わった。1100~1200年代にはヨーロッパにも伝わった。この時点で,製紙法は世界のおもな国ぐににほぼいきわたった,といっていい。中国での発明から1000年以上かかっている。

たしかに,現代にくらべれば伝わり方はゆっくりである。しかし,価値のある発明だったので,着実に広まっていったのだ。

そして,製紙法がこのように普及するまでの1000年以上のあいだ,世界のどこかで,独自に製紙法が発明されることはなかった。本格的な発明というのは,めったにないことなのである。それよりも,すでにある発明を模倣するほうが手っ取り早い。そこで,世界じゅうの人びとは,独自に生み出すよりも模倣することで,紙をつくるようになった。

安全ピンという小発明も
こういうことは,製紙法のような大発明にかぎった話ではない。たとえば,「安全ピン」というものがある。名札などを胸につけるときに使うアレだ。

安全ピンは,1840年代にアメリカで発明された。それ以前には,名札などをとめるとき,まっすぐな針のようなピンを使っていた。とがった先端がむきだしで,ちょっとあぶない。これを改良したのである。

安全ピンは小発明,つまり「ちょっとした工夫」なのだが,便利である。そこで,世界中に広まった。

しかし,安全ピンは,その「発明」以前にもあった。今から2500年ほど前の古代ローマの遺物のなかに,安全ピンと同様のものが発見されているのだ。

このローマの安全ピンは,後世に伝えられることなく,消えていった。それが「再発明」されたのが,古代ローマの時代から2000年近く経った1840年代のことだった,というわけだ。

安全ピンくらいものは,それまでのあいだにどこかで発明されてもよさそうなのに,そういうことはなかった。小さなものであっても,意義のある創造というのはなかなかできないのである。なぜだろうか?

身もふたもない話だが,それは創造というものが,それだけむずかしいことだからだ。さまざまな努力や,一定の環境や,偶然などが重なってはじめて可能になる,一種の奇跡だからである。大きな創造ほど,そうだといえる。

***
 
ところで,「紙」や「安全ピン」くらいの発明が「世界史上(ほぼ)一度きり」だとすれば,もっと複雑で大がかりなものなら,なおさらである。

たとえば「産業革命」とか「近代科学」のような,複合的で巨大な創造がそうだ。これらが「なぜある時期のヨーロッパでだけ,生まれたのか?」などと問われることがある。でも,これだけの「大発明」となれば,あちこちで生まれるようなものでないことは,明らかではないか。

このように発明・創造というものが困難である以上,どんな民族や社会にとっても,すべてをオリジナルでつくりあげるのは,無理な話だ。

だから,発展への近道は,それまでに生み出されたものにまず学ぶことである。過去の遺産に学ぶ,あるいは自分たちよりも進んでいる人たちに学ぶ。

つまり,「先人の肩に乗る」ことがだいじである。

それが,「発明とその伝播の歴史」から得られる,最も重要な教訓ではないだろうか。

(参考文献)山田慶兒『技術からみた人間の歴史』(SURE) 山田氏は紙の発明と安全ピンの例を通して「発明のむずかしさ」を説いている。今回の話はそれを全面的に下敷きにしたものである。

(以上)
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