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2013年09月16日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの46回目。

 「読書論」の話を続けています。
 前回は「本にいくらお金をかけるか」という話をしました。今回はその続きです。本の買い方,本にかんするお金の使い方のこと。これも,「読書論」のだいじな要素だと思っています。


たまには,ちょっと高価な本を買ってみる。

 たまには,少し高価な本を買ってみるといいと思います。
 高価な本をていねいに読むと,「具体的なデータをもとに,自分なりに考える」ことの練習ができます。

 「高価な本」といっても,一部のマニアが集めるような,何十万円もするものではありません。4,5千円とか,せいぜい1,2万円のものです。

 これに対して「安い本」があります。文庫や新書,それと2千円くらいまでの単行本です。

 本に使えるお金が月に1万円あったら,千円の本を10冊買うようなことをしてはもったいないです。
 そういう「安い本」は3~4冊にしておいて,残りは「高価な本」を一冊買うのに使いましょう。

 「本の値打ちは値段では決まらない」ということは,よく言われます。確かに,高くてもいい本とはかぎらないし,安くてもすばらしい本があります。
 
 でも,「高価な本」でないと得られないものもあるのです。

 「高価な本」というのは,細かな具体的データや情報が入っていてかさばるから,高くなるのです。また,専門的で細かなデータを求める人の数はかぎられているので,多少値段を高くしないと採算がとれないということもあります。

 盛り込まれる細かなデータの量のちがいが,「高価な本」と「安い本」のちがいです。
 書いてある結論が高級であったり低級であったりということではありません。

 「安い本」は,結論に力点が置かれていて,データが簡略化されています。一般にはそれで十分だし,そのほうが読みやすいのです。

 でも,他人の結論や主張だけを読んでいたのでは,考える練習にはなりません。
 「考える」というのは,他人が調べたことでもいいから,いろんなデータをもとに自分なりの結論を導き出すということです。

 それには,「高価な本」を読んで,たくさんのデータにあたる必要があります。
 高いレベルをめざすなら,「高価な本」にも手を出さなくてはいけません。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月15日 (日) | Edit |
 先週読んだ,吉本隆明『僕ならこう考える』青春出版社(1997年,文庫版2000年)に,「独学者の限界」ということが述べられていました。
 「偉大な独学者」のことを,このブログでは何人も紹介しています。たとえばフランクリン,イームズ,ル・コルビュジエ…

 関連カテゴリ・記事:フランクリン  イームズ  ル・コルビュジエ略伝 

 吉本隆明(1924~2012)は,ご存じの方も多いと思いますが,戦後日本を代表する著名な評論家です。
 その吉本さんが若い人向けに書いた(語り下ろした)人生論。十数年前に読んだけど,だいぶ前に処分してしまって,最近古本屋でみかけてまた買いました。

 吉本さんはこう述べています。

《僕は学業としては,大学を出たほうがいいと思うんです。なぜかというと,ほんとは誰も遊ばせてくれない生涯の時期に遊んじゃっている経験をもったかもたないかは,ものすごくその人にはばをもたせ,心のゆとりを与えるからです。》

《独学者でも偉大な人,よくできた人はたくさんいます。知っている人で例えば三浦つとむなどそうです。…三浦さんていう人は東京府立工芸学校[注:ほぼ高校程度]…を出た人で,哲学を独学でやった人なんですね。いい仕事をしてるし,大変な人だと思います。…教わったことは多いんですが,独学者だから,遊ぶっていうことをわからないところがありました。遊ぶっていうことのもっている一種のゆとりというか,悪さなんですが,それを知らないんです。…それが三浦さんの考え方を…狭くしていたような気がします。》
 
《大学なんか遊んでもカンニングしてもいいからとにかく出たほうがいいというのが僕の考えです。…なぜかというと,いい歳をして遊べるから。…いい歳をして遊んだという時期を持っているかいないかで,ものすごく人生が違っちゃいます。
 独学で偉い人ってたくさんいるけれども,どこかに弱点があるとすればそれですね。》(以上20~22ページ)

 三浦つとむ(1911~1989)は,戦後の昭和に活躍した哲学者。家が貧しかったため,大学などへは行かずに,独学で著名な知識人になった人です。吉本さんとも親交がありました。私の尊敬する学者の1人で,このブログでもとりあげています。

 関連記事:三浦つとむとエリック・ホッファー

 三浦つとむという人に,吉本さんの言うような「きまじめさ」があったというのは,私も別の人から聞いたことがあります。やはり三浦つとむを直接知る,ある学者(今80代の方)からです。その人も,「あのきまじめさは,大学で遊んだことのある人間とはちがう」と言っていました。

 ***

 「遊びやゆとりを知らないのが,独学者の限界だ」

 吉本隆明によれば,そういうことだそうです。
 これは,私は半分賛成で,半分反対です。

 「遊びやゆとり」を知っていることは,何かの文化的な活動をするうえで重要です。学問,芸術って,もともと遊びなんですから。
 だから,それを知らないのは,たしかに「弱点」かもしれない。

 そして,生活の苦労をしながら学んだ独学者が,苦労人ゆえに「遊び」の心を知らない,むしろそれを忌み嫌う傾向がある,というのもある程度はいえるでしょう。

 しかし,それは「ある程度」なのではないか。
 とくに,最近の世の中は,三浦つとむのころとはだいぶ変わっているよう思います。

 つまり,だいぶ豊かになったということ。

 何かの事情で「独学」となった人でも,三浦つとむの若いころからみれば,相当な暮らしの余裕があります。

 フリーターの若者が,海外旅行に行くことも可能です。書物や情報の値段も安くなりました(タダのものも多い)。いろんなものに触れて「遊ぶ」というかんじを,今は多くの人が知るようになったのではないでしょうか。

 たしかに,大学などに行かず「独学」するのは,「遊び・ゆとり」を知るうえでは,やや不利かもしれません。
 でも,決定的ではない。
 「遊びを知っていたほうがいい」ということを自覚さえしていたら,相当カバーできるのではないか。

 つまり,意識して「遊ぶ」機会・時間をつくり,たのしむ。
 今の社会の経済的な豊かさなら,それが可能だと思います。いろいろ努力や工夫は要るでしょうが。

 ***

 私には,「苦労人」だけど「遊び心」も知っている,という独学者が何人か浮かんできます。

 たとえば1700年代に生きた,ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)。彼は,家の事情で小学校(レベルの学校)を途中でやめてから,学校に行っていません。それ以来ずっと働きながら独学を続けました。
 そして,商才のあった彼は実業家として成功しました。すると,40代で事業から手をひき,科学の研究に没頭するようになったのです。科学研究というのは,彼にとっては「道楽」「遊び」です。そして,その「道楽」をきわめて,世界的な科学者にまでなりました。

 アメリカ独立革命に参加したときも,重要な使命を帯びて乗った船のなかで,フランクリンはちょっとした科学実験をしたりして遊んでいます。

 20世紀後半に活躍した建築家・デザイナーのチャールズ・イームズ(1907~1978)も,「遊び心」を知る独学者です。
 彼は,中退していますが一応大学には行っています。しかし,高校は働きながら通いました。それなりの苦労人です。

 しかし彼は弟子たちには,つねに「遊び」の大切さを説いていました。
 「真剣に遊べ」と。

 たとえば,彼はスーパーボールやコマなどの「おもちゃ」で,遊ぶのが好きでした。今ではめずらしくないですが,彼の時代(数十年前)には,いい大人がそんなことをするのはヘンでした。おもちゃに限らず,彼は自分のスタジオで,いろんな遊びに没頭していたといいます。

 駆け出しのころは,妻子を置いて,1人で何か月も海外を放浪する,などということもありました。

 そんな彼が打ち出したデザインやコンセプトは,生活を彩る現代的な「遊び心」の先駆けになっているのです。

 ***
  
 大学に行かなかったから,独学だから「遊びを知らない・狭い」人間になる,なんてことはないのです。たしかに独学には不利な面はありますが,そこはやり方しだいで,なんとかなるのです。

 「遊び・ゆとりの大切さ」や「独学者の弱点」という視点をもっていれば,それはできるはずです。

 ただし,それを「知って」いないといけない。
 どんなかたちであれ,「知る」「学ぶ」ということは,やはりだいじだということも,あらためて思います。

(以上) 
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月13日 (金) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの45回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,本を読むうえでの「スタイル」について述べてきました。どこで,どんなふうに読むか,どんなふうに本をさがすか,といったこと。
 今回は,また少しちがう切り口で。「本にかけるお金」のこと。


「本代にいくらかけよう」とは言えない。でも……

 「本代にいくら使えばいいか」と聞かれても,具体的に答えるのはむずかしいです。人によって,生活の事情というものがあるからです。

 でも,「住むところや洋服やクルマにお金をかけてしまうようではちょっと……」ということは言えます。ここで「お金をかける」というのは,「その人の収入からみて,平均以上にお金を使っている」ということです。

 たとえば,二十代のふつうのサラリーマンが,背伸びして自分の年収ほどもするクルマを買ったりしたら,もう本を買うお金は残っていないでしょう。
 クルマが好き,クルマで出かけるのが好き,それでほかに関心事もない,というのならいいのです。でも,知的な世界の追求に関心があるのなら,クルマにお金をかけているようでは,たいした上達は望めないでしょう。

 本を読むのもドライブも,どちらも好きだというのなら,安いクルマはいくらでもあります。何百万円のクルマを買うかわりに,何十万円や何万円のクルマを買えばいいのです。それで楽しいドライブをしましょう。残るお金を本につぎ込んだら,相当買えます。

 もっとも今の時代は,「ぜいたく品にお金をかけて,本を買わない」という人は減っていると思います。
 それより,「とにかくお金を使わない,だから本も買わない」というほうが多いでしょう。「本を買うお金があったら,今は貯金だ」という若い人は,少なくないと思います。
 
 でも,勉強したい気持ちがあるのなら,何とかやりくりして,できる範囲で本を買ってください。若いときに本を買わないで過ごしてしまうのは,あまりにもったいないです。

 「将来,もう少し給料が増えたら,本を買おう」などと考えてはいけません。

 若いころに使った1万円の本代は,歳をとってからの5万円,10万円に匹敵する値打ちがあります。
 子どものとき,お年玉でもらった1万円は,使いでがありました。それと同じです。

 若いときほど,少ない費用で多くのものを得ることができます。
 若いときに本代をつぎ込むほうが効率がいいのです。

 「収入からみて,かなり本にお金をかけている」というのが,望ましい状態です。
 でも生活の事情で,どうしても本を買う余裕なんてない,という人もいるでしょう。
 そういう人は,図書館を使うのです。図書館は,使う気さえあればいろいろ使えます。お金がない本好きの味方になってくれます。

 関連記事:近所の図書館

(以上,つづく)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月10日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの44回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,本を読むうえでの「スタイル」について述べてきました。どこで,どんなふうに読むか,ということです。
 今回はそこから派生して,「本を探し,選ぶうえでのスタイルやツール」の話,といったらいいでしょうか。

 ところで,やや時間が経ってしまったのですが,この「勉強法」のシリーズを,先日あるブログでたいへん好意的に紹介していただきました。たきやん。さんの たきやん。のBurning Heart(2013年8月26日)で,このブログについて,こう述べられていたのです。

《一連の世界史の記事は本当に楽しみながら読ませていただいていますが,それ以上に自分が推したいカテゴリは『自分で考えるための勉強法』です。
 このカテゴリを読めば,世に出ている勉強法の本は1冊も必要ない,と私は考えています。》


 たきやん。さんのブログとは,お互いにリンクを貼らせていただいていて,いろいろ刺激を受けています。
 しかし,おつきあいはブログの場だけで,お会いしたことはありません。
 「書いたもの」だけを通じて,このように高く評価してくださったことを,ありがたくうれしく思います。「自分の書いた言葉が届いている」というよろこび。とにかく,ありがとうございます。 


専用の手帳に「読みたい本」をメモしておく。

 私は,「読みたい本」をメモするための小さな薄い手帳を持ち歩いています。

 新聞・雑誌の書評に載っていた本
 読んだ本の中で紹介されていた本
 書店や図書館でみかけて「いつか読もう」と思った本
 出版社別や分野別の出版目録で「これは」と思った本

 などをそこにメモしておきます(出版目録は,大きな書店でときどき山積みになっていて,タダでもらえます)。

 ここ数年は,インターネット書店で検索して,気になった本をメモすることも増えました。
 たとえば書評で知った本を検索すると,その関連図書も表示されます。
 それを見ていると,「こんな本もあったのか」という発見が時々あるのです。インターネット書店は,本と出会う手段のひとつとして,役立ちます。

 メモ帳には,順番につぎの項目を書きます。
 これらの事項は,「本を扱う上での基本情報」です。

・記述日(いつメモしたか),重要性のランク(A~C)
・著者名,書名,出版社,出版年,価格
・備考(必要に応じて書く。内容を示すキーワードや,書評の紙誌名と発行日付,所蔵図書館,記載の目録名など)

 書評などでみかけた本を,スケジュール帳などにメモする人がいますが,「専用の手帳に書く」というのがポイントです。
 そのことによって,蓄積ができていきます。自分にとっての本のデータベースをつくるのです。スケジュール帳では,翌年になったら使わなくなってしまいます。

 私はこの方法を,学生時代に評論家・呉智英さん(1946~)の『読書家の新技術』(情報センター出版局 1982,のちに朝日文庫 1987)という本で知りました。細かいところは,私なりにアレンジしています。

 当時,たまたま手に取ったその本をみると,著者の呉さんは大学の先生でもマスコミ出身でもない若手で,会社勤めの経験があり,独学で評論活動をするようになった,とあります。知識人としてエリートコースの人ではないようです。
 「それでも,こんなふうに自分の主張を本にできるんだ」――そこにひかれて,読み始めました。

 そして,この本に書いてあるいくつかのノウハウ――読んだ本についてポイントを記録する「読書カード」など――を実行してみたり,推薦する本を読んでみたりしました。

 でもやがて読書カードはやめてしまい,推薦図書も,自分の志向とはちがうとわかってきて,読まなくなりました。

 しかし若い私は,この本から「制約の多い中でも,工夫して勉強していこう」というメッセージを感じて,勇気づけられたと思います。読書法の具体的なこともいろいろ教わりました。中でも,「探書手帳」は今も続いているわけです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月05日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの43回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,教科書や子ども向けの本のこと,新書のすすめ,「通な本」と「最先端の本」,古典とのつきあい方,といったことを述べてきました。
 そして今回は,前回に引き続き,本を読むうえでの「スタイル」のようなこと。どこで,どんなふうに読むか,という話です。
 

机に向かっていては,本は読めない。

 「本は書斎の机に向かって読むもの」と思っていると,読めません。自分を振り返ってみても,机に向かって読んでいる時間というのは,そんなに多くありません。

 本が一番読めるのは,書店のそばのコーヒーショップに入って読むときや,帰りの電車の中で読むときです。

 そういうとき,「読みたい」という気分が最も盛り上がっています。
 そこでざっと拾い読みしたときの内容が,一番頭に残ります。本から得た知識の半分くらいは,買った直後に読んだものかもしれません。

 買ってきた本は,家に帰ると机やベッドの脇に積んでおきます。そのときすでに「読む気」は急速におとろえています。積んだまま何か月も読まないことも多いです。

 買った本は,すぐに本棚にしまい込んではいけません。そのまま読まないで終わってしまいます。目につくところに積んでおきましょう。

 つぎに本が読めるのは,ベッドの上です。

 ベッドの脇に積まれた本の中から,ふと思い出した本を取り出して読みます。仕事から帰って,風呂あがりの「やれやれ」というときに,寝ころがったままページをめくります。休日に,何時間もベッドの上で読んでいることもあります。

 ベッドの上の読書は,ストレスのない楽しい時間です。ベッドの上でなく机に向かって読んでいたら,疲れるでしょうね。

 たくさん読むコツは,「読みたいときに読む」ことと,「楽にして読む」ことなのです。それを,意識的にやっていくことです。

(以上,つづく)
2013年09月02日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの42回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,教科書や子ども向けの本のこと,新書のすすめ,「通な本」と「最先端の本」,古典とのつきあい方,といったことを述べてきました。

 今回は,本を読むうえでの「スタイル」のようなこと。どこで,どんなふうに読むか,という話です。
 でも,スタイルというのは,重要度は比較的低いと思います。「どこで,どんなふうに読むか」よりも,「何を,どんな問いかけで読むか」というほうが,ずっと大事です。

 ビジネスのハウ・ツー本の世界では,スタイルの話(カフェで積極的に仕事をしよう,みたいな)はさかんです。たしかに,スタイルの話は具体的でイメージしやすく,「自分もやってみよう」という積極的な気持ちにさせてくれるところがあります。

 つぎの話も,読書にたいし積極的になるうえで,ひとつの参考として読んでいただければ,幸いです。


カバンの中に,三冊の本を入れて持ち歩く。

 カバンの中に本を入れて持ち歩いていますか?
 読みかけの本を一冊入れている人は,かなりいるでしょう。でも,何冊も持ち歩いている人は少ないのではないでしょうか。重たいですから。

 でも,本当に本が好きでよく読む人は,常に何冊もの本を持ち歩いています。
 私も,いつも三冊くらいはカバンの中に入っています。

 カバンの中に本を入れておくのは,待ち合わせや移動の時間など,毎日の中でふいにやってくる「本を読める時間」を逃さないためです。

 忙しい合間に,カバンから本を取り出して読む人が,たくさんの本を読める人です。

 でも,せっかく「本を読める時間」に出くわしても,読めないことがあります。もちろん,カバンの中には本が入っていますが,「今読みたいのはそういう本ではない」というときです。
 科学の本が読みたいのに,文芸書しかカバンの中に入っていない。軽いものが読みたいのに,堅い本しか持っていない。そういうときは,なかなか読めません。

 「今何が読みたいか」という欲求は,体調のように変化します。
 その変化に対応できるように,今読んでいる本の中から,タイプの異なるものを何冊かカバンの中に用意しておく。
 そして,そのときの欲求にあったものを読むのです。
 そうすれば,「甘いものが食べたい」と思ったときに甘いものを食べるとおいしさがしみわたるように,本の中身がしみわたってきます。

 何冊もの本を平行して読むこと。
 それらの本を持ち歩くこと。
 それが,たくさん読むコツです。おいしく味わって読むコツでもあります。

(以上,つづく)
テーマ:雑学・情報
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月29日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの41回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,教科書や子ども向けの本のこと,新書のすすめ,「通な本」と「最先端の本」,古典とのつきあい方,といったことを述べてきました。

 今回は,ちょっと箸休め的な話です。
 

本は安くなった。
勉強したい人には,いい時代。


 「最近の本は高い」という人がいますが,どうでしょうか。

 週刊朝日編『戦後値段史年表』(朝日文庫,1995)という本をみてみます。
 1950年(昭和25年)に,岩波文庫で最も安いものは,30円でした。同じころ,1951年の大卒公務員の初任給が,5500円。
 一方,1995年(平成7年)では,岩波文庫の最低価格は210円。大卒公務員の初任給は,18万円です(1994年)。

 1990年代から現在(2013年)まで,物価全般の変動はわずかしかありませんので,ごくおおざっぱに,90年代の数字は「今現在の物価」とほぼイコールと考えていいでしょう。

 1950年と現在では,給料は33倍に上がっていますが,岩波文庫は7倍の値上げにとどまっています。もし,給料と同じように上がっていたら,30円の33倍で,約千円です。

 「30円」というのは,あくまで安いものの値段です。平均的な岩波文庫の値段は,その2~3倍になります。文庫本が一冊2,3千円もしたら,気安く買えませんね。

 このことは,文庫にかぎらず本全般の値段にあてはまるのではないかと思います。私の手もとに,同じ岩波書店から1951年に出た,当時700円のハードカバーの本があります。90年代後半にそれが復刻されて,6千円ほどで売られていました。

 でも,1950年ころの感覚では,「700円」というのは,700円の33倍で,今の2万円以上の重みがあったのです。初任給が,5~6千円の時代なのですから。

 「2万円」の本を買おうというのは,限られた人たちです。
 でも,そういう本を買わなければ,深い学問はできません。

 今のお年寄りが若いころは,知識とか学問というものは,一部の恵まれた人たちのものでした。ふつうの人たちが学問をするということは,大変な困難を伴いました。

 今は,ふつうのサラリーマンだって,その気になればかなりの本を買ったりできます。電子書籍がさらに普及すれば,本の平均的な値段はもっと下がるでしょう。
 勉強したい人にとって,いい時代です。

(以上,つづく)
2013年08月20日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの40回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 これまで,教科書や子ども向けの本のことや,「新書のすすめ」,「通な本」「最先端の本」とのつきあい方,といったことを述べてきました。
 今回は,「古典」とのつきあい方。


古典を読んでつまらなくても,気にしない。

 「古典は大事だ」とよく言われますが,実際に読んでみると,きっとつまらないはずです。
 あなたが悪いのではありません。古典は,つまらないのがふつうです。
 古典というのは,あたり前のことを,古くさい文体でくどくど書いているものだからです。

 そのことに気がつくまで,私は何年もかかりました。もっと早く気がつくべきでした。

 古典のメッセージは,現代の私たちにとって「常識」となっています。のちの思想や学問に大きな影響を与えたというのは,そういうことです。偉大な古典ほど,現代では「あたり前」のことを言っています。

 たとえば,フランシス・ベーコンとかデカルトといった,近代初頭(1600年代)の大哲学者は,「アリストテレス(紀元前300年代)などの古代の学説をうのみにするのではなく,自分の眼と頭で考えなくてはいけない」と言っています。そのことを一生懸命説いています。
 
 アリストテレスは,古代ギリシアの哲学者です。当時は,「古代の学説」が絶大な権威を持っていたので,こういう主張は革新的かつ刺激的なものでした。

 でも,今の私たちは「アリストテレスを疑え」と言われても,ピンときません。何とも思っていないものを「疑え」と言われても,とまどってしまいます。

 古典というのは,ベーコンほど大昔の本でなくても,多かれ少なかれ,だいたいこんな調子です。読んでつまらなくても,気にしないことです。

                          *

 とりあえず,古典そのものは読まなくてもいい。でも,「古典のまわりをうろうろする」ということは,やってみたらいいと思います。

 つまり,現代の著者が古典の世界について解説したり議論したりしている本を読むことです。

 科学史や哲学史の全体的な流れを扱った本も,ぜひ読んでみてください。偉大な古典は,科学や学問の最も大切な問題を,真正面から扱っています。さっきのベーコンやデカルトも,「古代の学問にかわる新しい学問はどうあるべきか」という「大問題」を論じています。

 ベーコンは,「科学の成果は産業に応用され,社会を変える」と言いました。デカルトは,「新しい学問では,数学が重要だ」と言っています。やっぱり,あたり前のことを言っているのです。

 古典を語ることは,科学や学問の核心に触れることになります。たとえば,この本でも書いた「科学と学問」とか「仮説・実験」といった,学問のイメージや方法について学ぶことになるのです。
 
 そして,じつは「最先端」と言われる議論には,古典で議論されてきた核心的な問題に新しい光をあてた,というものも多いのです。

 実際は,「核心」など伝わってこない本が多いです。でも,感動的にわかりやすく書いてくれる著者もいます。そういう著者に出会うことができた人は,幸運です。

 私の場合は,そのひとりが板倉聖宣さんという学者でした。

 科学史の研究者である板倉さんは,コペルニクスやガリレオなどの科学者について本を書いていました。それら近代科学の開拓者を通じて,「科学的とはどういうことか」を論じていました。
 そして,そこから「現代の科学教育をどうすべきか」という問題について,具体的な提案を行っていたのです。

 私の場合,古典のまわりをうろうろすることで,「これだ」と思う先生にめぐりあえた,ということです。

 だから,あなたにも「古典のまわりをうろうろする」ということをおすすめします。そのうち,歴史的なことや,いろんな背景がわかってきて,古典そのものも楽しめるようになります。

(以上,つづく)
2013年08月10日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの39回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 これまで,教科書や子ども向けの本のことや,「新書のすすめ」といったことを述べてきました。
 今回は,「通」な本,「最先端」の本とのつきあい方。


「通」な本や「最先端」の本で博識ぶると,
上達しない。


 若い人は背伸びをしたいものです。そこでよくやるのが,「知る人ぞ知る」という感じの,ちょっと「通」な本の知識をひけらかす,という手です。
 文学なら,誰でも名前を知っているような文豪ではなく,もっと「通」な感じのする誰かを読む。

 「最先端」というのに弱い人もいます。たとえば哲学の世界だったら,アリストテレスやカントやヘーゲルではなくて,むずかしそうな「現代思想」です。

 私の学生時代(1980年代)には,そういうのがインテリ志向の人たちの間でおおいに流行りました。「最先端」な感じがしたのです。今も「現代思想」に関心を寄せる人はいますが,かつてほどの勢いはないようです。「科学の最先端」といった本は,今も昔もよく出ています。

 「通」な本や「最先端」の本のことを知ると,博識になった気がします。「現代思想」は,聞いたこともないような用語・術語のオンパレードです。人によってはそこにひかれるのでしょう。

 でも,いきなりそういう本に飛びついてはいけません。
 ちらちらと見ておくのはいいのです。

 「月並み」ではなく,より「深いもの」「新しいもの」を求めることは,やはり大事です。
 「通」や「最先端」を求める気持ちは,それとつながっています。

 でも,「通」や「最先端」の本ばかり読んでいるのでは,上達が進みません。

 まず読むべきは,誰でも名前を知っている,いろんな場面で言及される「超有名な本」です。あるいはそれを論じた本です。それぞれの分野にそういう本があります。

 学問の歴史は,ときどき現れる「超有名な本」の示したテーゼ(理論や主張)をめぐる論争の歴史です。
 「超有名な本=古典」について知ることが,学問についての幅広い素養をつくる近道です。

 「通」な本,「最先端」の本というのは,学問にとっては「枝葉」的な存在です。今は注目されていても,時の試練に耐えられず,そのうち枯れてしまうことが多いのです。

 中には大きく成長していくものもあるでしょうが,わずかです。そんなあてにならないものに深い入りして,自分の頭を固めてしまっては,損をします。

 「最先端」というのは,「すぐ駄目になる危険が大きい」ということです。

(以上,つづく)

2013年08月05日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの38回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 前回は,教科書や子ども向けの本のこと。今回は「新書」のすすめ。


新書には,本の世界のエッセンスが凝縮されている。
おおいに利用しよう。


 あまり読書したことがなくて,「どんな本から読んだらいいんだろう」という人には,新書をおすすめします。

 新書とは,173ミリ×105ミリまたはそれに近い判型(サイズ)のシリーズ本のことです。
 岩波新書,中公新書,講談社現代新書などが,新書の代表的な老舗ですが,ほかにもいろんな新書が出ています。

 書店へ行って,新書の棚の前に立ってみましょう。
 新書のテーマは,科学・哲学から,歴史,時事問題,健康法,パソコン・インターネット,風俗……と森羅万象にわたっています。いかにも「カタい教養書」といったものもあれば,「手軽な実用書」といった感じのものもあります。
 
 新書のラインナップの中には,きっとあなたの関心に合うものがあります。
 一冊数百円ですから,気軽に買えます。持ち運びもしやすいです。

 比較的あたり外れが少ないのが,新書の特長です。

 それは,新書の著者の多くが,そのテーマに関してすでに定評のある人だからです。以前にそのテーマについて,本や論文を発表して,評価を得ている人ばかりだからです。

 面白いと思う新書に出会ったら,その著者の書いたほかの本を読んでみましょう。
 本の後ろのほう,奥付などにある著者紹介のコーナーにその人の主要著作が載っています(アマゾンなどのインターネット書店で,著者名から検索することもできます)。

 そして,その著書のうちのいくつかは,新書ではない,ハードカバーなどのやや専門的な本のはずです。とくに,著者が研究者である場合はそうです。

 同じ著者によるより専門的な本と新書を読みくらべてみると,専門的な本のほうに詳しい情報が載っていて,勉強になることがしばしばあります。しかし場合によっては,あとになってからより一般向けに書かれた新書のほうが,さらに本質的で深い議論を展開していることもあります。

 さらに,参考文献の案内がしっかりしているものもかなりあって,そのテーマのガイドブックになります。

 新書は,より深く大きな世界への窓口にもなってくれるのです。

 あるテーマについて,この新書のシリーズから一冊,この新書からも一冊……というかたちで読むこともできます。一般的なテーマであれば,可能です。
 それで三冊も読めば,そのテーマについて,かなりの勉強ができるでしょう。

 新書だけで読書の世界は成り立ちませんが,新書というのは,本の世界・知の世界のエッセンスが凝縮されている,すぐれた媒体です。おおいに利用しましょう。

(以上,つづく)
テーマ:雑学・情報
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月30日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの37回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところ,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今度は「書籍」の世界のことを。そのひとつとして,教科書や子ども向けの本について。


子ども向けの本には,大事なことが書かれている。

 人類がこれまでに築きあげてきた学問の成果を集大成した書物があります。
 学校の教科書です。学問全般の広い知識が得たければ,学校の教科書を読むことをおすすめします。
 
 それも,中学校の教科書でないといけません。高校の教科書では駄目です。

 高校の教科書は,詳しすぎるのです。つめ込まれている情報量が多すぎて,本当に大事なことは何なのかが,わからなくなってしまいます。
 また,初心者にはむずかしすぎて,ひとりで読み通すこともできません。

 「学校の教科書で勉強するのがいい」というのは,かなりの人が言っています。
 すると,ほとんどの人が高校の教科書で勉強しようとします。でも,それではいずれ投げ出してしまうでしょう。私もそうでした。

 でもあるとき,南郷継正さんという先生が,「中学の教科書がいい」と言っているのを読んで,目をひらかされました。

 中学の教科書には,学問・芸術の最も基礎的で重要な成果だけがのっています。
 一番熱心に読んだのは,歴史の教科書です。古代から現代にいたる歴史について,基本的な常識を知ることができました。

 理科の教科書には,物理学,化学,地質学,生物学などに関する初歩的な知識がつまっています。
 保健体育の教科書は,南郷さんの言うように,生理学の教科書です。美術の教科書や資料集には,誰もが知っておいていい,美術史上の名作が並んでいます。

 教科書は,一般の書店では売っていませんが,指定された書店などの「教科書販売所」で買うことができます。

 教科書だけでなく,子ども向け(小・中学生向け)の本を読むことは,ものごとの全体像や基本をつかむ上で,いい方法です。

 子ども向けの本では,大事なことがごまかされずに書かれています。
 そうでないと,子どもたちは読んでくれません。
 これは,板倉聖宣さんが言っていました。

 実際に「子ども向け」という本を手に取ってみると,子どもにはむずかしすぎる,詳しすぎる,と思えるものも多いです。いい内容であっても,です。

 でも,それがふつうの大人にはちょうどよかったりするのです。

(以上,つづく)

テーマ:雑学・情報
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月26日 (金) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの36回目。

 「読書論」の話を続けています。
 昨日(7月25日初心者は書籍から)に続き,「知識や情報を得るための,さまざまな媒体」について。書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話です。

 以下,述べているのはごく基本的なことですが,確認しておきたいと思います。


インターネットの情報は,取り扱い注意。

 前回の記事(初心者は書籍から)で,「新聞記事の情報は,整理されていない」ということを述べましたが,それは本や雑誌とくらべてのことです。インターネット上の情報とくらべれば,新聞の情報は非常に整理されたものです。

 最近は「新聞は読まない。ネットのニュースで十分」という人も多いです。たしかに世間の常識を知るだけなら,それでいいと思います。しかし,少し突っ込んで社会のことを知ろうというのなら,新聞は読んだほうがいいでしょう。

 新聞を一度ていねいに読んでみてください。本当にいろんなことが載っています。

 政治・経済などのニュースだけではありません。その背景になる知識の解説や,より大きな流れを論じたコラムもあります。
 出版,美術,音楽などの文化を扱った記事もあれば,健康,料理,レジャーなどの生活関連の情報もあります。
 あなたの関心に触れるものが,必ずあるでしょう。

 それらの情報は,記者たちが世間のいろんな出来事や情報から,「知らせる価値がある」というものを選んで集めたのです。そして,私たちに届くまでにいろんなチェックを経ています。

 私は以前の仕事(会社を立ち上げたことがある)の関係で,新聞の取材を受けたことがあります。
 その取材のインタビューのあと,数百文字の記事をまとめるにあたって,記者はいろんな事実関係を(電話で)再確認してきました。記事にまちがいがないように,ということです。

 新聞記事は一般に,相当な取材や確認をして書いているのです。さらに,記事の原稿を上司や専門部署がチェックすることも行われます。

 このように,手間ヒマかけた情報がたくさん集まっているのが新聞です。読んで勉強にならないわけがありません。
 ただ,初心者には情報が膨大すぎて扱いにくい面がある,ということです。

 本や雑誌をつくる出版社でも,信頼できる著者が書いた原稿を,編集者や専門部署がチェックしています。実績や信頼のある出版社ならば,それを行っています。

                         *

 これに対し,インターネットの情報の多くは,新聞や出版社で行うような選別やチェックが入っていません。

 選別がなされず「いろんなものがある」というのは,インターネットの魅力です。
 しかし,きちんとしたチェックが入っていないのでは,まちがいが多くなります。

 いい加減な人がでたらめを書いても,そのまま「情報」として公開されてしまう。それがネットの世界です。

 インターネットの情報は,伝統的な出版の情報にくらべると,各段に信頼性が落ちるのです。中には信頼のおける発信者もいますが,全体でみれば少数派です。だから扱いがむずかしいです。

 もちろん,本や新聞の情報にもまちがいはあります。きちんとした出版社の本でも,「これはまちがいだ」と気がつくことはあります。
 本に書いてあることでも,簡単にうのみにしてはいけません。それでも,多くのネットの情報よりはずっと確かです。

 だから,ネットの情報とうまくつきあうには,それなりに勉強していないといけないのです。
 勉強していれば,情報の「あやしい部分」と「使える部分」を区別して利用できます。それさえできれば,インターネットはとても便利な道具です。いろんな知識への手がかりを与えてくれます。

 しかし,勉強していないと,ネットのまちがいをうのみにしてしまいます。それをくり返していると,頭の中にガセネタをいっぱい抱えることになります。

 そうならないためには,どうしたらいでしょうか? 

 大事なのは,調べものをするとき,インターネットばかり使わないで活字の情報にもあたることです。
 
 多くの専門家は,ちょっとした調べものは,まず専門の辞典にあたります。こうした辞典は,専門家が書いた原稿を,ほかの専門家が徹底的にチェックしてつくります。とくに信頼度の高い出版物なのです。

 だから私たちも,関心のある分野については,専門辞典などの参考図書を手元に置くといいでしょう。辞典には,プロ仕様の本格的なものだけでなく,ふつうの人にも扱いやすい小型のものもあるので,それでいいです。それを,機会があるごとにひいてみるのです。

 そうやって勉強を重ねていくと,ネットの情報をうのみにはしなくなります。そして,ネットの世界に活字の情報を補うものをみつけて,うまく使えるようにもなるはずです。

(以上,つづく)

テーマ:雑学・情報
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月25日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの35回目。

 「読書論」の話を続けています。
 今回と次回は,「知識や情報を得るための,さまざまな媒体」について。書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話です。


初心者は,書籍から入る。

 知識や情報を得るのには,いろんな媒体があります。出版物では,書籍,雑誌,新聞です(インターネットについては,つぎの項で述べます)。

 ところで,「書籍=本」の定義って知っていますか? 

 教育学者の板倉聖宣さんによれば,「背表紙があるかどうか」が大事なのだそうです。綴じてある印刷物は背表紙があれば「本」,なければ「小冊子」です。

 初心者にとって一番大事なのは,書籍です。
 最も体系的で,まとまった情報が手に入るからです。初心者は,まず全体像をつかむことです。

 書籍が弱いのは,「情報の新しさ」です。
 書籍の出版には,一般には数か月以上の時間がかかるので,時事問題などの最新情報を盛り込むことができません。
 
 そこで,書籍を軽く見る人がいます。読書や勉強法を案内する著者の中にも,そういう人がいます。

 でも,それはすでに「プロ」になっている人の見方です。
 プロにとって大事なのは最新の情報なので,そんなことを言うのでしょう(そもそも,出版された情報自体,プロにとっては「古い」という場合も多いです)。
 だから,初心者は真に受けてはいけません。

 経済のことを知ろうとして,いきなり日経新聞を読み始める人がいますが,無駄の多いやり方です。
 個別の記事はなんとか理解できたとしても,記事どうしの関連や,経済全体の流れはなかなか見えてきません。新聞記事だけでそれがわかるというのは,達人です。

 新聞記事は,出版の世界では最も整理されていない,ナマに近い情報です。
 初心者は,もっと整理された情報から入ったほうがいいのです。つまり,書籍から入っていく。つぎは雑誌で,新聞はそのあとでもいい。

 多くの人は,「最新情報」が大好きです。でも,最新情報ばかり気にしていると,物事が全体としてどうなっているか,いつまでたってもわからないでしょう。

(以上,つづく)

2013年07月17日 (水) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第34回目。
 
 最近は「読書論」をやっています。
 でもじつは,「読み方」よりも,「本との出会い方」や「選び方・買い方」が,このところのテーマです。

 では本筋から外れているかというと,そんなことはありません。
 「本との出会い方」「買い方」は,じつは読書論の重要なテーマなのです。


本屋で手にした本が,「三年以上前の出版」で
「最近も増刷されている」なら買いだ。


 「本屋さんで手に取った本が,買うに値するかどうか」という見きわめは,むずかしいものです。

 ひとつの目安があります。
 「その本が,三年以上前に出たもので,かつ最近も増刷されているなら,いい本である可能性が高い」ということです。

 買おうかどうか迷っているとき,この条件にかなうなら買うといいでしょう。

 「その本が,いつ初めて出たのか。増刷されているか」については,本のうしろにある「奥付」という欄に書いてあります。奥付からは,いろんなことを読み取ることができます。

 本というのは,すぐに書店の棚から消えていきます。
 書店の棚のスペースは限られています。新しく出た本は並べてはみますが,売れなければ返品です。そして,「品切れ・絶版」となっていきます。新刊書店では手に入らなくなるのです。

 また,本というのはそんなには売れないものです。特別に有名な作家のものは別として,ふつう初版で印刷するのは「何千部」です。その「何千部」を売り切って増刷できるのは,全体からみて少数派です。

 「三年前から本屋に並んでいて,増刷もされている」というのは,本の中では成功したエリートです。

 とくに「三年以上前に出ていて…」というのは,重要な点です。

 それで最近も増刷されているとしたら,単に売れている,ということだけでなく,その本に息の長い需要があることを示しています(「最近」というのは,三年前の本ならここ一年以内くらいでしょうし,十年前の本なら,ここ二~三年でしょう)。
 ということは,それだけしっかりした内容なのではないかと予想されます。
 より古く,より多くの増刷を重ねているほど,その可能性が高いです。

 本のことを知らないと,新しい本に価値があると思いがちです。
 でも多くの場合,「生き残っている古い本」のほうが,たいていの新しい本よりも値打ちがあるのです。
 読書家なら,そのことを知っています。

 こういう「古い本の価値」ということも,最初に知ったのは,板倉聖宣さんの著作やお話からでした。
 板倉さんは,私が「この人のアタマを少しでもマネしたい」と,その著作を読んで学んできた,私にとっての「先生」です。

 このシリーズでは,以前に科学史家である板倉さんの科学論をもとに「科学とは」といったことを,述べています。 関連記事:学問と科学のちがい 
 「科学とは」のような大きなことも,今回のような「本の見極め方」のような具体的なノウハウも,「先生」から学ぶことができるのです。

(以上)
テーマ:読書メモ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月09日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法シリーズ」の33回目。
 最近は,読書論の話をしています。
 前回は「本は買おう,でも図書館も使おう」という話をしました。今回は「近所の図書館へ行ってみよう」という話。

 レポートや企画などの宿題がある人は,図書館か大きな書店に行ってみるといいです。ネタがみつかるはずなんですが,たいていはネットで検索するだけ…
 
 きのう気がついたのですが,図書館の利用カードがみあたらない。先月使ってから,いつものところに入れておいたはずなのに…
 
  
近所の図書館は,数百万冊の蔵書とつながっている。

 あなたの家や職場の近所に,公共図書館はありませんか? 私は東京の多摩地区に住んでいますが,歩いて五分ほどのところにまずまずの規模の市立図書館があり,よく利用しています。
 私にとって,「図書館が近くにある」というのは,住む場所を選ぶときのポイントのひとつといってもいいです。
 
 若いときに住んでいたアパートの近所にも,市立図書館の小さな分館がありました。ここにはたいした蔵書はなく,読みたいと思う本が本棚にみつかることは,そんなにありませんでした。

 それでも,ときどき私はその図書館に足を運んでいました。それは,この小さな図書館が,何百万冊もの巨大な蔵書にアクセスする窓口であるからです。

 著者やタイトルがわかっていれば,コンピュータの検索システムでその本をさがすことができます。館内になければ,市内のほかの図書館にないか。市内全体で何十万冊という蔵書があります。本があれば,私の住む市では二~三日で取り寄せてくれます。

 市内の図書館になければ,窓口に相談してみましょう。隣接するほかの市の図書館や,港区にある都立中央図書館(あるいは国立市にある都立多摩図書館)をさがしてくれます。都立中央図書館は,蔵書180万冊の大図書館です(2011年3月末現在の図書数)。

 日本最大の図書館である国会図書館の蔵書は990万冊ありますが(2012年3月末現在),これは飛び抜けています。都立中央図書館は,それに次ぐクラスの図書館なのです。
 そこから最寄りの図書館に本を取り寄せて,貸し出してくれます。私の住む市ではこれに一週間くらいかかります。

 国会図書館では,原則として館外貸し出しはしていません。都立中央図書館でも,個人への館外貸し出しはしないのですが,市立図書館の窓口を通してなら,自分の部屋に持ち帰って読むことができるのです。

 取り寄せに一週間かかっても,それだけの値打ちがあります。この方法で借りてきた本の中には,古書店でも見つかりにくい貴重なものもあるのです。

 また,さがしている本がまだ書店で売られている新しい本であれば,リクエストして図書館に買ってもらう,という方法もあります(本によっては,できない場合もあります)。

 そこまでしなくても,ちょっと読みたい本,気になる調べものがあれば,近所の図書館に行ってみるといいです。目当ての本や資料がすぐみつかることは,結構あります。
 そして,ネットでは出会えないような,充実した情報に出会えることも多いです。
 
 こんな便利な窓口が,都市部であれば歩いて行ける範囲に,ひとつやふたつはあるのです。そうなったのはこの十数年ほどの(1990年代以降の),わりと最近になってからのことです。本を買うお金が足りなくても,勉強できる時代になったのです。 

(以上,つづく)

テーマ:読書メモ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月05日 (金) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第32回。
 最近は,読書論をやっています。
 本と出会う代表的な場所には,書店と図書館があります。それをどう使いこなすか。
 

本は買おう。でも図書館も使おう。

 図書館は,お金が足りない人の読書を支えてくれます。
 でも,本はできるかぎり買うことをおすすめします。
 あたり前のことですが,図書館の本は返さないといけません。返してしまえば,あとでふと思いついたときに,手に取ることはできなくなります。

 これは,読書の初心者が思う以上に大きなデメリットなのです。

 何かを考えたり,書いたりしているとき,「あの本にこういうことが書いてあった」というのを読み返したくなることがあります。
 具体的な知識を確認したいときもありますが,何となく思い出して「もう一度読みたい」ということも多いです。前に読んだときには重要と思えなかったような本でも,そういうことがあります。

 あるいは,自分の本棚に並んでいる一冊がふと目にとまって,手に取ることがあります。そして,ふと開いたページを読んでいると,新たな発見があったりします。
 ときには,「今自分が求めていたのは,これだ!」などということもあるのです。

 こういうことは,読書の大事な楽しみです。
 このように「ふと読み返す」ことをくり返していくうちに,読書を通じての自分の世界ができていくのです。

 でも,図書館に返してしまった本は,ふと読みかえすことができません。だから,お金が許すなら,本は買うべきです。そして,自分の蔵書として蓄積していくのです。

 蔵書の蓄積とは,「ふと読み返して,何かを発見する可能性」を蓄積することなのです。

 「本は買うべきだ」という読書論に初めて触れたのは,大学生のときでした。
 教育学者の板倉聖宣さんが述べていたほか,英語学者・評論家の渡部昇一さんが『知的生活の方法』(講談社現代新書 一九七六)という本で強調していました。

 最初は「そんなものかなあ」という感じでしたが,あとで大事なことだとわかってきました。

 ***

 しかし,多くの人にとって,本代に使えるお金には限りがあります。だから,その限界を補う手段として図書館を使おう,ということです。

 つまり,本屋さんをぶらぶらしたり,読書したりする中で「気になる」「読んでみたい」と思った本を全部買うわけにはいきません。買う本は選ぶ必要があります。
 それを見出すための,「本との出会いの場」のひとつとして図書館を使うのです。

 たとえば,気になる本があるけどかなり高価で,その中身がどうだかわからない,ということがあります。
 
 それには,タイトルや紹介だけで現物を見ていないときもあれば,本屋でちょっと立ち読みしたけど,それでは判断がつかないというときもあります。そういう本を図書館で借りれば,家に持ち帰ってじっくり検討できます。

 すると,「あまりよくない」ということもあれば,「いい本だ,欲しい」と思うこともある。
 後者であれば,フトコロ具合が許すときに買います。

 「一度読んだ本を買うの?」と思うかもしれません。しかし,「借りて読んだ本で,いいのがあったら買う」というのが大事なのです。
 
 世の中には,「図書館はあまり使わない」という読書家も少なくありません。
 前に述べた「蔵書の蓄積」の重要性ということがあるからです。私も「本は買うべきだ」ということに異論はありません。しかし場面によっては,図書館を使っていけばいいと思います。

 図書館を使うことで,本と出会う機会が増えます。

 今述べた「気になる未知の本」の中身をじっくり確かめるのに使える,ということもあります。それから,図書館をぶらぶらして,ふと目にとまった本を手にとってみる,ということも重要です。

 図書館に並んでいる本は,新刊書店とは傾向がちがいます。「最新」よりちょっと古く,いろんなものを分け隔てなく並べるランダムな感じ――それが図書館の蔵書の特徴です。

 だから図書館では,「少し前に出たいい本で,見逃していた」というものを発見することがあります。

 大書店でもあまりみかけないような専門書で,「これは」という本をみつけることもあります。
 「こんな本があったのか」というようなマニアックな本が,ベストセラーのすぐ横に並んでいたりもします。

 図書館の本はタダで貸してくれるので,ちょっと気になったら,気軽に持ち帰って読むことができます。そして,そうやってみつけた本を「欲しい」と思ったら,本屋さんに注文して買うこともできるのです。

 本は買いましょう。でも,図書館を使わないのはもったいないです。図書館を使うことで,あなたが本と出会う機会はぐっと広がるのです。

(以上,つづく)
テーマ:読書メモ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月01日 (月) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの31回目。
 このところ,「読書論」をテーマにしています。

 このシリーズの前回では,こんなことを述べました。

 読書には「自分の考えかたをつくる読書」と「知識を広げる読書」がある。
 どちらか一方だけにならないほうがいい。


 今回は「つくる読書」について。
 「何十回もくり返し読む」なんて,ちょっと極端なことを言ってます。
 かならずしも額面どおりに受けとめないで,まずは「〈これは〉という本はていねいに何度か読んでみよう」くらいに考えていただければいいのです。

 なお,文中に出てくる哲学者・三浦つとむについては,6月28日の記事で紹介しました。

 関連記事
   2人の極端な独学者 三浦つとむとエリック・ホッファー
   勉強法30 考えをつくる読書,知識を広げる読書


何十回もくり返し読む本が,一生に一冊は欲しい。

 たいていの本は拾い読みでいい。全部読む本は十冊に一冊です。
 でも,拾い読みだけで終わってはいけません。
 一生の間に,それこそ何十回もくり返して読む本に出会いましょう。

 そうでないと,あなたの頭はいくら本を読んでも,雑多な知識がつまっているだけになってしまう恐れがあります。

 すごい読書家で博識なのに,これといったアウトプットのできない人がいます。そういう人は,「くり返し読む本」に出会えなかったのです。

 私は二十代の前半に,哲学者の三浦つとむという人が書いた一冊を,くり返し読みました。『弁証法はどういう科学か』(講談社現代新書 1968)という本です。「論理的なものの見方・考え方」に関する本の一種と言えます。

 哲学の中に論理学という領域がありますが,「弁証法」というのは,その論理学のひとつの切り口です(三浦さんによれば,弁証法はそれ以上のものなのですが,一般的な説明だと以上のようなことです)。

 この本を――数字を言うのは恥ずかしいのですがあえて言うと――五十回くらいは読みました。尊敬する南道継正さんという先生が,くり返し読むことをすすめていたのです。

 南郷さんも若いころ,これをくり返し読んだのです。
 本がぼろぼろになるまで読んで,使用不能になるとまた同じ本を買ってきて,ぼろぼろにする。それを何回かくり返したそうです。

 私も真似をして,「読んでぼろぼろにする一冊目」のほかに,スペアの二冊目を買いました。でも,一冊目すら「ぼろぼろ」にはできませんでした。

 「極端なことを言っているな」と思うかもしれません。でも,受験の参考書だって,二~三回読んだだけでは頭に入りません。その人の思考のすべてをマスターしたいと思える先生の本なら,やはり相当くり返して読んだほうがいいでしょう。

「何十回も読んで,弁証法の思考は身についたのですか?」と聞かれると,「まだまだです」としか答えられません。

 でも,「考え方を学ぶ読書では,一回二回読むだけではあまり意味がない」というのは,よくわかった気がします。弁証法のような難易度の高い「大技」であれば,なおさらです。

 くり返して読むのではなく,ノートを取りながら読むという人もいますが,おすすめできません。
 ノートやメモを取るのは,忘れてしまいそうな個別的情報だけにしましょう。
 考え方を学ぶ読書の場合は,くり返して読むことです。ノートを取りながら一回読む間に,読むだけなら十回読めます。

(以上,つづく)
テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月27日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの第30回。
 最近は,「読書論」をテーマにしています。


読書には,「考えをつくる読書」と
「知識を広げる読書」がある。


 読書には,ふたつのものがあります。
 ひとつは,「自分の考え方をつくる読書」です。
 これと決めた先生の本を丹念に読むことで,自分の「核」になる考え方をつくっていくことです。
 「先生」というのは,そのすばらしい仕事に感動して,「この人の思考や創造性をマネしたい」と思えるような人。

 もうひとつは,「自分の知識を広げる読書」です。
 「考え方」を身につけるだけでは足りません。いろんなものを読んで知識をたくわえることが必要です。

 以上をひとことでいうと,「つくる読書」「広げる読書」ということです。
 
 この言葉は,若いころに看護学者の薄井担子さんの著作で読んだと思うのですが,出典が確認できない……

 読書は,この両方をしなくてはいけません。
 どちらか一方が欠けていると,自分で考える力はつかないのです。

 たくさんの知識を持ちながらアウトプットが苦手な人は,「つくる読書」をしてこなかったのです。寄せ集めの知識ばかりで,一貫した思考というものが不足している。それで考えがまとまらない。

 私は,尊敬する先生たちの本で「考え方をつくる読書」を心がけてきました。
 先生たちは,既存の学問に対する批判者でした。批判だけでなく,それにかわる自分の学問を,それぞれの専門分野で示してみせました。そんな先生たちの考え方を身につければ,自分にも何かできるのではないかと思って,くり返し著作を読みました。

 でも,ある程度勉強したところで気がつきました。
 「考え方だけでは駄目だ。先生とは異なる,既存の学問の多数派の人たちの本もいろいろ読んで知識を増やさないと,どうにもならない」
 先生たちもじつはそういうことを言っているのですが,気にとめていなかったのです。

 独学者の人で,とくに非主流派やマイナーなものにひかれる人は,気をつけてください。
 「考え方」だけになって,「知識を広げる」ことを忘れてしまってはいけません。

(以上,つづく)

テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月24日 (月) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第29回。
 前回から「読書論」の話をしています。
 といいながら,「本を読む」ことの話ではないんですね……でも,だいじなことだと思っています。


まず本屋さんへ行って,
本を手に取ってみよう。


 「本を読みたいのですが,何か面白い本はありませんか?」と聞かれることがあります。
 でも,そういう質問は答えにくいのです。「こういうことを知りたいが,いい本はないか」というのなら,答えようがあるのですが……

 ただばくぜんと「何かいい本はないか」という人には,とにかく「近所の本屋さんへ行って,本を手に取ってみること」をおすすめします。

 読書の最初のステップは,「本屋さんへ行くこと」です。

 本屋さんに行ったら,まずうろうろしてください。
 普段のぞいたことのないようなコーナーにも行ってみてください。「へえ,こんな本もあるのか」という発見があるでしょう。

 本屋さんのいいところは,洋服屋さんとちがって「いらっしゃいませ,今日は何をおさがしですか?」などと声をかけられないことです。だから,安心してうろうろできます。

 読書の第二のステップは,「本を手に取ること」です。

 うろうろしてみて,ちょっとでも興味の持てそうな本が目にとまったら,すぐに手に取ってみましょう。ここでは,「何も考えずに気軽に手に取る」ことが大事です。

 ビジネスの本をさがしていて,ふと料理の本が目にとまったとします。そのとき,「今さがしているのはこれじゃないから,あとで」などと考えてはいけません。すぐに,その本を手に取ることです。どんどん手に取って,パラパラめくってみる。つまらなかったら,棚に戻せばいい。

 私が勤めていた会社の近所には,かなり大きな本屋さんがあって,昼休みによく行きました。「うろうろする」時間は,30分くらいでしょうか。その間に,10冊くらいの本を手に取っています。

 本屋さんに全然行かない日というのはあまりないので,そうやって年間に「何千冊」という本と出会えるわけです。10冊手に取ると,1冊くらいは「買ってもいいかな」と思える本があります。

 まず,1週間に30分ほど「本屋さんをうろうろする」ということを,してみてはどうでしょうか?

(以上,つづく)

2013年06月22日 (土) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの28回目。
 このところ「学問とは」「科学とは」というテーマで述べてきましたが,今回から「読書」について。
 本のさがしかた,読みかたの入門です。

 私は,おもに本を読んで勉強してきました。
 だから,読書論はこの「勉強法」の最も大きな柱になっています。


全部読む本は,10冊に1冊あればいい。

 本を,最初から全部通して読む必要はありません。

 「とばし読みでは頭に残らない」「最初から追っていかなければ,著者の主張はわからない」という人がいます。
 でも,「本を読むなら全部読まなくては」と思うから,本が読めないのです。ざっと目を通して,興味の持てるところ,理解できるところだけを読めばいいのです。

 そういうことにしておくと,気が楽になって,どんどん本に手を出すことができるでしょう。

 だいたい,「最初からきちんと論理を追っていかなくては理解できない」などという本は少ないのです。多くの本は,とばし読みを許さないほど厳密には書かれていないのです(小説のように,プロセスを味わって読む本は別です)。

 その本に書かれている情報の中で,あなたが興味を持てるところ,理解できるところにこそ値打ちがあります。あなたにとっての意味があります。

 つまらないところに無理につきあっても,頭に残りません。読んだことは無駄になります。
 いつか,もっと勉強してから読んでみると,意味や面白さがわかるかもしれません。
 反対に,「やはりつまらない」ということがわかるかもしれません。

 「とばし読みでいいんだ」と思えるようになってから,私は以前よりも多くの本を読めるようになりました。
 全部読むのは,10冊に1冊もあればいいほうです。

 多くの場合,1冊通して読むよりも,その間に10冊を拾い読みするほうが,はるかに豊富な情報に接することができます。

 そして,「10冊に1冊」というのは,拾い読みをしていくうちに,「これはいい本だ」と思えて,つい全部読んでしまったものです。
 そういう本に出会うと,うれしくなります。

 とばし読み・拾い読みのコツは,本の「もくじ」「まえがき」「序章」「終章」「解説」などに書かれている情報をまずチェックすることです。本の構成や概要,著者の意図や思いなどについて,まずイメージをつかんでおくのです。

(以上,つづく)

テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月18日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの27回目。
 このところ,「科学とは」「学問とは」という話をしています。
 前回と前々回は「科学になっている学問とそうでない学問がある」と述べました。


科学者の言うことだからって,
信用できるとはかぎらない。


 「科学になっていない学問については,権威のありそうな学者の言うことでも,うのみにしてはいけない」ということを,前の項で述べました。

 さらに言えば,科学者≒自然科学の研究者の言うことでも,信用できるとはかぎりません。

 まず,自分の専門外のことについて言っている場合です。
 たとえば,物理学者がノーベル賞をもらったりすると,「社会のリーダー」ということになって,社会や歴史の問題について発言することがあります。

 しかし,その人が若いころから熱心に研究してきたのは,あくまで物理学です。社会や歴史については詳しくなかったり,偉くなってからの付け焼刃だったりするかもしれません。
 卓見が述べられることはもちろんあるでしょうが,ありがたがってばかりではいけません。

 つぎに,自然科学ではあっても,科学としての信頼度が低い分野があります。
 たとえば,健康や環境に関する分野です。地震や火山の研究もそうです。

 これらの分野は,歴史がまだ浅いのです。だから,昔「正しい」と言われていたことが,あとで「まちがいだった」「不十分だった」ということが,よくあります。

 たとえば,以前は「傷口は消毒する」というのが常識だったのに,最近は「傷口は水で洗ったら,消毒しないでラップなどで覆い,乾かさないようにすると治りが早い」などと言います。

 このように,「そんなこともわかっていなかったのか」ということが,いろいろあるのです。

 「健康や環境にいい物質・悪い物質」について,いろんな話が出てきますが,時間が経つとすっかり忘れられていることがあります。

 地震や火山の噴火があると,専門家はいろんな解説をしてくれます。でも,「これからどうなるか」ということになると,まったく歯切れが悪くなります。

 健康や環境や地震についての研究が,インチキだなどと言っているのではありません。
 これらの分野にも,信頼できる成果というのは,もちろんあるのです。

 ただ,その蓄積が比較的限られている。だから,「地震を予知して欲しい」といった世の中のニーズに応えきれていない,ということです。なのに,無理に応えようとする専門家もいて,あやしいことを言ってしまう。

 そういう,科学や学問の実態について,私たちは知っておく必要があります。

(以上,つづく)

テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月15日 (土) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第26回目。
 このところ「科学とは」という話をしています。そういう根本のところをさらっとでもおさえておくのは,「自分で考えるための勉強」のコツのひとつだと思っています。

 前回は,「学問には,科学になっているものと,そうでないものがある」という話をしました。
 ここで「科学」というのは,ぼう大な仮説・実験による検証をくぐり抜け,「真理として信頼できる」といえる知識のことです。
 そこまでいっているのは,自然科学の一部だけ。
 多くの「学問」は,「科学」を自称していても,そこまでいっていないです。
 だから,たいていの学問では,いろんな学派があって,それぞれ根本から対立したりしています。専門家のあいだで共通基盤となるような,誰もが納得しうる確実な「真理」を,まだ見出していないのです。

 これは,「学問リテラシー入門」みたいな話。そんな話のつづきです。


「科学」になっていない学問では,
権威をうのみにしてはいけない。


 「学問には,科学になっているものと,そうでないものがある」――こういうことは,とても大事なのですが,あまり教えてもらえません。

 それは,みなさんに学問の道案内をする人の多くが,大学の先生などのプロの研究者だからです。

 先生たちは「自分の専門分野は,まだ専門家どうしの共通認識の確立していない,遅れた分野です」とは言いにくいです。
 また,物理学者の大学教授が「心理学なんて遅れた学問だ」と言ったら,よその学部で心理学を教える同僚に対し失礼になります。

 前回,「科学になっていない学問は,専門家のあいだの共通基盤が確立しておらず,いくつもの学派に分かれている」という話をしました。
 そして,「いくつもの学派に分かれている例」として心理学をあげましたが,代表的な学派をいくつかあげられるのは,じつはかなり「進んでいる」のです。心理学は,精神についての学問の中では伝統があって,信頼できるいろいろな積み重ねもある,と言えます(社会科学では,経済学がこれに似た状態です)。

 教育学や経営学のように,さらに実用的な性格の強い学問では,もう整理がつきません。有力な研究者の数だけ学派がある,といった感じです。

 遅れた学問とは,結局「科学になっていない」ということです。そういう学問が世の中では大部分を占めています。

 そして,それは仕方ないことです。

 人間は,自然界や人生に関わるすべてを学問にしようとします。
 直面する疑問や問題に答えるため,知識を整理したり,知識どうしの関連を追及したりします。

 その結果,さまざまな学問が生まれましたが,今のところ自然科学の一部だけが「科学」になることに成功しました。あとは,まだそこまでいっていないのです。

 科学になっていない学問では,たとえ東大教授が言っていることでも,うのみにはできません。権威のあるような顔をしていても,本物の権威ではない場合があります。

 では,科学になっていない「社会科学」や「人文科学」は無用の長物なのかというと,そうではないのです。
 そこで述べられている知識や理論には,何らかの形で実際に役立つものがあります。
 また,部分的には科学として信頼できるもの,あるいは育てていけば科学になり得るものが含まれていたりもするのです。

 その一方で,うのみにしたら有害なものも混じっている,ということです。そのへんを見きわめる力をつけるために,勉強していきましょう。

(以上,つづく)
テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月12日 (水) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの第25回目。このところ「科学とは」という話をしています。そういう根本のところをさらっとでもおさえておくのは,「自分で考えるための勉強」のコツのひとつだと思っています。


「学問」には,科学になっているものと
そうでないものがある。


「理科の教科書に出てくるような科学上の原理や法則は,膨大な追試(検証のための実験)をくぐり抜けてきたものだ。だから真理として信頼できる」――前に,私はそう言いました。「科学は信用できる」ということです。

ところが,「科学」を自称していながら,じつは科学とは言えないものが世の中にはたくさんあるので,話がややこしくなります。「一応もっともらしい説明だが,まだ実験的な検証を十分に経ていない,単なる仮説に過ぎないものを,確かな真理であるかのように主張している」ことが,たくさんあるのです。

学問には,科学として確立している分野と,そうでない分野があります。

物理学,化学,生物学などの自然科学のおもな分野は「科学になっている」と言っていいでしょう。

でも,経済学,政治学といった「社会科学」は科学かというと,かなりあやしい部分があります。心理学,言語学などを「人文科学」と言うことがありますが,同様です。世の中にはたくさんの「〇〇学」がありますが,科学になっているのはその一部です。

科学として確立している学問と,そうでない学問を区別するポイントは,どこにあるのでしょうか。

それは,「学派」の状態をみることです。見解の異なるいくつもの学派に分かれている学問は,まだ科学になりきっていません。科学と言えるには,その分野の研究者のほとんどが支持する共通の基盤ができている必要があるのです。複数の学派に分かれているというのは,その基盤がまだできていないということです。

たとえば,人間の精神を研究する学問のひとつとして,心理学というものがあります。大学の一般教養課程で使うような心理学の概説書では,最初のほうに,いろんな学派や聞きなれない学問の名称が出てくることがあります。「行動主義」「ゲシュタルト心理学」「精神分析」「認知心理学」「ユング心理学」などなど……。

これは,学派の数だけいろんな「心理学」があるということです。これらの学派は,おたがいの考え方が基本的なレベルで異なっています。

だから,おたがいが論争してもかみ合わない。入り口の基本的なところで引っかかってしまいます。人間の精神という同じ対象を扱いながら,それぞれが別世界の住人なのです。

ただし,「それは少し前までの話で,最近の心理学では,これまでの学派の対立は解消されてきている」と述べている本もあります。それでも,少なくとも以前には心理学にはいろんな流れがあり,深いレベルで意見の対立があった,ということです。

自然科学の主要分野では,こういうことはないのです。物理学や化学の教科書に「学派」の紹介なんて載っていないでしょう。そこには,共通の方法論や基礎概念というひとつの基盤の上に立つ,「物理学」や「化学」といったひとつの科学があるだけです。

こういう分野では,研究者の間に対立があるといっても,個別的・具体的な問題についてであって,根本的なレベルのものではありません。たとえば,原子の実在や生物進化を否定する科学者はいないのです(ただし,原子の実在も生物進化も,1800年代には科学者の間で議論がありました。科学の発展の中で,そういう対立が解消されていったのです)。

いろんな学派に分かれていて,その分野としての共通の基盤ができていないということは,その学問が科学としては未発達な分野である,ということです。このことは,勉強の前提として,ぜひ押さえておきましょう。

(以上,つづく)

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ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月11日 (火) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの第24回。

前回から「科学とは」というテーマでやっています。「科学とは,仮説の真否を実験的に確かめる学問のことだ」と前回述べた,その続き。「科学は信頼できる」という見方に賛成できない人も「〈科学の立場〉についての,わりと読みやすい説明」の例として,読んでみてください。
   

多くの確認作業の上に成立するから,
科学は信頼できる。


ある科学者が,「実験的にこういう現象や法則が明らかになった」と報告したとします。でも,それがすぐに「科学的な真理」として認められるわけではありません。疑い深いほかの科学者が同様の実験をやってみて,「本当だ」ということを確認してからでないと,認められないのです。

このような「ほかの科学者による確認のための実験」を,「追試」といいます。

だいぶ前になりますが,1989年に「常温核融合」という現象が,ある科学者によって報告され,センセーションを巻き起こしました。超高温・超高圧のもとでしか起きないとされていた「核融合」(原子と原子が融合して,大きなエネルギーが発生する)という現象が,日常的な低温の中でも起こせるというのです。

世界中の科学者が追試を始めました。多くの議論と実験が積み重ねられた結果,現在では科学者のほとんどは「あの〈常温核融合〉の報告はまちがいだった」と考えています。

この手のことが,科学の歴史にはごろごろしています。

常温核融合が本当だとすると,物理学の理論やエネルギー関係の技術に,大きなインパクトを与えると予想されます。そういう大きな問題だけに,大勢の科学者が時間をかけて,追試という確認作業にあたったのです。

教科書に出てくるような科学上の原理や法則は,膨大な追試をくぐり抜けてきたものです。だから,「真理」として信頼できるのです。

もし「超能力」や「死後の世界」が本当だとすれば,今の科学の体系がひっくりかえってしまうでしょう。常温核融合の何万倍もインパクトのあることなのです。

そんな重大なことなのに,「超能力は私が見たんだから本当だ」と簡単に言う人がいます。「私が見た」「あの人も見た」というくらいでは駄目なんだ,ということがわかっていないのです。わかっていて,いい加減なことを言っているのかもしれませんが……

超能力が科学的真理として認められるには,アニメやマンガに出てくるような,すごい超能力者が現れることが必要です。スプーン曲げや空中浮遊くらいでは話になりません。マジシャンが再現できるような「奇跡」では足りないのです。

科学的真理というのは,大勢の手による慎重な確認作業の上に成立します。だからこそ,信頼できるのです。

(以上,つづく)
テーマ:自然科学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月11日 (火) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの23回目。

「勉強」というと,「試験のためにがまんしてするもの」というイメージもありますが,ここでいう「勉強」の目的は「自分のアタマで考えて生きていく」ということ。 それは,誰かに押しつけられてする勉強ではできないし,「教養を豊かにしよう」といった問題意識のゆるやかな勉強ともちがう…

このところ,学問とは,科学とは,宗教とはといった基本概念について述べてきました。とくに「宗教と学問(のちがい)」がテーマになっていました。こういう基本概念をおさえることは,「自分のアタマで考える」うえでだいじだと思っています。

今回からは,「科学とは」という話に入ります。もっとも肝心なところ。


学問は,「筋の通った説明」でおしまい。
科学は,その説明の真否を実験で確かめる。


「宗教と学問」のつぎは,「学問と科学」です。この本は一種の学問論ですから,「学問とは何か」ということを,はっきりさせておきたいのです。そして,学問や科学が追求する「真理」ということについても,述べておきたいと思います。

少し回り道でもこういうことは,初めのうちにきちんと押さえておいたほうがいいのです。

私の科学論は,科学史と教育学の研究者である板倉聖宣さんの著作から学んだものです(たとえば『科学と方法』季節社 1969,『科学的とはどういうことか』仮説社 1979など)。

板倉さんは,私にとってこの本で言っている意味での「先生」です。でも,私が一方的に著作や講演などを通して学んでいるだけです。このシリーズでは「板倉さんの著作や発言をもとにして書いた」ということがいくつも出てきますが,そこにまちがいがあれば,当然ながらすべて私の責任です。

さて,学問と科学は混同しやすいのですが,本当は区別すべきです。

「なぜだろう?」「これはどうなっているんだろう?」という問いかけは,学問も科学も同じです。問いかけに対し,「こうだから,こうなんだ」「これは,こうなっている」といった論理的な説明をあたえようとするのも同じです。

学問というのは,そういう一応筋の通った説明ができれば,それでおしまいです。ところが科学の場合,それでは終わりません。科学の場合,そういう説明は「一応筋は通っているけど,まちがっているかもしれない仮の説=仮説」だと考えます。

そして,実験や観察によって,その「仮説」の真否を確かめるところまで進むのです。

科学というのは,学問の特殊なかたちです。

科学とは,「仮説の真否を実験的に確かめる学問」のことです。科学は,とても慎重で疑い深いのです。

(以上,つづく)

テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月06日 (木) | Edit |
「自分で考える勉強法」シリーズの第22回目。

このところ,科学とは,学問とは,宗教とはのような基本概念について述べています。今回は,一連の話なので2話分を一度に。「カルト」や「トンデモ」にご用心,のようなことを書いています。私は,古臭くて退屈な啓蒙主義者です。つまり,科学とか理性とかをかなり信用しているオジさんです。


「究極の心理」なんて,信じてはいけない。

「今,ひとりの天才があらわれて,この世のすべてを説明する究極の真理を発見した」「はるか太古の昔に,深遠な・絶対の真理に到達した民族がいた。私は,彼らの残した遺産の内容を知っている」

この手の話があとをたちません。「カルト」や「トンデモ」の世界です。
 
その筋でよく行われるのが,現在の科学の限界や不十分な点を突くことです。

中でも多いのは,現在の医学では治せない病気を,「我々なら治せる」というパターンです。中でも,心の不安定が影響して体にあらわれる病気=心身症的な病気は,その得意とするところです。

近代医学は,腐った盲腸を切りとるとか,抗生物質で病原体を死滅させるといった,いわば機械的なやり方から出発しています。だから,「人間の心」や「心が体に及ぼす影響」といったテーマについては,研究が遅れているのです。

しかし,今ではかなりの医師や学者たちが,この問題に取り組んでいます。たとえば,「明るい希望や信念を持つことが,病気から治ろうとする生理的な力を高める」といったことがわかっているのです。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』という小説に,関寛斎という幕末の医師が出てきます。

彼は,「病のほとんどを治す能力を,医学も医者も持っていない」と考えていました。「医者にやっとわかるのは,死期だけだ」と,家族にもらしています。

寛斎は,当時の日本でトップクラスの医師でしたが,当時の医学は未発達だったため,治療可能な病気の数は,きわめて限られていました。そんな現実を前に,まじめな寛斎は医師として「無力だ」と感じずにはいられなかったのです。

これは小説の中の描写ですが,司馬遼太郎のことですから史料に基づく可能性はかなりあります。そうでなくても,当時の状況からすれば,こういう医師はきっといたことでしょう。

今の医学の進歩をみたら,寛斎先生はどう思うでしょうか。もう「医者は無力だ」とは思わないはずです。「今も治せない病はあるようだが,治せる病はこれからも増えていくことだろう」と希望を持つでしょう。そして,「おまじないで病を治すなどと言う人の話は,信用しないほうがいいよ」と忠告してくれることでしょう。


学校教育は,体系だった世界観を
なかなか与えてくれない。


「カルト」的な世界の魅力のひとつに,一応は体系だった世界観を与えてくれるということがあります。

まず,「教祖」の立てた根本原理があって,そこからこの世界のいろんな現象を説明していきます。森羅万象を教義と結びつけて,まとまった世界観を示そうとします。ときには,新しい科学の成果も取りあげて,説得力を持たせようとしています。

「体系だった世界観」といっても,どの程度手の込んだ,もっともらしい体系をつくれるかは,ケース・バイ・ケースです。

子どもが見たって「これはおかしい」と思えるような教義や集団もありますが,中には指導的なメンバーが人生経験豊富な大人で,哲学や科学にもかなり通じたインテリだったりすることもあります。そういう知的水準の高い,手の込んだ体系をつくれる集団は,それなりに多くの信者を獲得できるでしょう。

みなさんの中には,とくに若い人の中には,「自分は議論には結構強いほうだ」と自負している人がいるかもしれません。でも,「手の込んだ体系」を持つその手の集団のメンバー(の指導的な立場の人)と議論したら,きっと負けます。「どうして言い負かされてしまうんだ」と,くやしい思いをするでしょう。

断片的・感覚的にあなたが正しいことを言っても,体系だったウソには,なかなか歯が立たないのです。体系というのは強いのです。

だから,論理や思想というのは,真理であるかどうかにかかわらず,昔から体系を志向してきました。たとえば,今は世界的な大宗教になっている教えだって,もともとは「教祖の思いや言葉をかき集めたもの」から始まりました。そしてのちの時代に,「体系」が整えられていったのです。

***

学校教育は,体系だった世界観をなかなか与えてくれません。高校の教科書を見てください。どの教科書も,すごい分量の知識がつまっています。これがいけないのです。

これらの知識を消化して,まとまったひとつの世界をイメージすることは,ほとんど不可能です。生徒はもちろん,先生だって消化しきれないのです。たとえば,歴史の授業では出てくる事件が多すぎて,全体的な歴史の流れがわかりません。

大学に行けばどうなのでしょうか? 大学でも,たぶん駄目です。大学の一般教養の講義は,「担当教官の専門に関する狭い範囲のことだけ」というのが多いです。

たとえば,あまり聞いたことのないひとりの思想家について一年間延々と講義したり,「西洋史」の授業といいながら,狭い地域の限られた時期について,こと細かに教えていたりします。世界を広く見わたす感じは,ありません。大学に入ったころ,私はそれでがっかりしました。

「世界は全体としてどうなっているんだろう?」「人間とは何だろう?」――それを知りたいという欲求に,学校の授業はなかなか答えてくれません。

それが,単に学校への不信にとどまらず,授業内容の源泉である科学や学問そのものに対する失望につながることがあります。とくに,まじめで思いつめやすい人の場合,そうなります。失望して,「世界観を与えてくれる教義」にひかれる人もいるはずです。科学や学問の代用品に走るのです。

少し勉強すればわかるのですが,そんな「代用品」よりも,本物の科学や学問が描き出す自然や人間や歴史のほうが,ずっと奥が深くて魅力的です。そのことを初心者にもわからせてくれる授業や本の少ないことが,困ったことなのです。

私のことを言えば,自分のテーマは「ほんものの科学や学問が描き出す世界」を,入門的な読みやすいかたちで書いていくことだと思っています。この文章も,そのテーマの一部なのです。

(以上,つづく)
2013年06月04日 (火) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの21回目。

前回から学問とは,宗教とは,科学とはといった基本概念について述べています。

前回,こんな話をしました――問題解決には大きく2つのアプローチがある。ひとつは,問題を分析して解決策を考えていくやり方。これは学問の方法。もうひとつは,問題にたいする感じ方を変えていくやり方。これは宗教の方法。高いレベルの「悟り」というのは,「どんな問題も問題にしなくなった境地」。

今回は,その「悟り」ということについて。

あらかじめ述べておくと,私は「禅」的な世界や,適切な瞑想などによって精神のありかたを整え・向上させることを否定しているのではありません。それらは,価値のある文化であり,活動です。それとどうつきあうか,ということをここでは考えてみたいのです。

といっても,「悟りを得るのはたいへんですよ」という,ごくあたりまえのことを述べているだけですが。


「悟り」を追求していると,人生が終わってしまう。

それがいかにすばらしいものだとしても,禅のような,「悟り」の世界に,すべてを投げ出してのめり込むようなことはやめておきましょう。

ほんものの悟りに達するには,それこそ何十年ものきびしい修行を積まなくてはならないからです。人生がそれで終わってしまいます。

山寺で何日か合宿すると,気分がすっきりします。でも,それは日常生活レベルでの気分転換であって,悟りとは次元の異なるものです。

さらに,山寺にこもって何か月か修行すると,世間の俗事がだんだんどうでもよくなります。心を悩ましていたことが消えていきます。

これは,悟りに似ていますが,悟りの類似品にすぎません。生活上のストレスと切り離された生活を送るうち,気持ちが安定してきたのです。俗世間であくせく生きる人たちへの優越感がめばえてきて,自信がついたということも,場合によってはあるでしょう。

でもほんものの悟りに,そんなかたちの「優越感」が混じっているはずはありません。あやしげなカルト集団では,この優越感をあおって,悟りの類似品を与えることがあります。本当の悟りなら何十年もかかりますが,類似品なら数か月もあれば大丈夫です。

その手の集団の指導者は,「私の教えに従えば,君ならすぐに悟りに到達できる」と言って,出家をうながしたりするのです。そして出家者に対し,「君たちは選ばれた者なんだ,俗世の人間とはちがうんだ」と絶えず吹き込みます。

まじめな宗教者なら,「数か月の修行で悟れる」などとは絶対言いません(「数か月でメンタルを整える」というのならあるでしょうし,それも意義があります)。「悟りに到達するには何十年もかかる。いや,何十年かけても駄目かもしれない」と言うはずです。こうしたことも,おもに前述の南郷さんの本で知ったのです(『武道への道』三一書房,一九七九など)。

ほんものの悟りを手に入れるには,人生のすべてを修行に費やさなくてはならないのです。それでも,ついに悟ることはできないかもしれないのです。

(以上,つづく)
テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月01日 (土) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの20回目。今回から新章突入。これから何回かにわたって「そもそも学問とは,科学とは」といった話をしていきます。こういう根本的なことをおさえておくのは,じつは「上達」のだいじなコツなのです。

それを,高校生にもわかるように。でも,そこいらのむずかしげな本よりも深く。
 
お伝えしたい世界を,キャッチコピー的にいうなら,こんな感じ。

問題について
「どういうこと?」と問うのが学問。
「くよくよするな」というのが宗教。

                        
では,はじめます。


問題につきあたったとき,二つのアプローチがある。

私たちは,生活の中でさまざまな問題につきあたります。仕事のトラブル,人間関係,病気,お金がない……。そんなとき,二通りのアプローチがあるはずです。

ひとつは,「これはどういうことなんだ? なぜこうなったんだ?」と状況を分析して対策を考えよう,というものです。これは,学問のやり方です。学問のやり方を発展させた結果,近代科学が生まれました。

もうひとつのやり方では,そういう分析はやりません。自分の外で起こっている問題のあり方よりも,問題を受けとめる自分の心のあり方を問題にします。

「くよくよ考えてもしかたない。受けとめ方を変えよう」というのです。

世界についての受けとめ方を変えることによって,問題を問題にしなくなる。これは宗教のやり方です。

神のような,絶対的・超越的な存在をおき,そこに全幅の信頼を寄せることによって「安心」する。それによって,世界の見方も変わってくるということです。そのことで,大きな視野や広い心を得る人も少なくありません。

また,宗教でも「いいこと・悪いことは前世の報い」のように,一応は「なぜ」を説明したりもします。でも結局は神や仏を原因にしてしまうので,あまり説明になっていません。

人は,「なぜ」ということがどうしても気になります。だから,宗教でも学問の方法を少しは取り入れて,みんなが納得しやすくしているのです。

「悟り」とは,「問題を問題としなくなった境地」と言えるでしょう。どの程度の問題まで問題としなくなったかによって,悟りのレベルにちがいが出てきます。

こういう説明を,私は学生時代に武道家の南郷継正という人の著作で知りました(『武道と認識の理論Ⅰ』三一書房 1990など)。あれから少しは本を読みましたが,学問や宗教の本質について,これほど簡潔・明快な説明にはお目にかかっていません。

(以上,つづく)
2013年05月29日 (水) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの19回目。
 
このところ,「自分の先生をみつけよう」という話をしています。「この人の仕事はすばらしい,その仕事のすべてを知りたい」と思えるような著者・アーティストなどをみつけて追いかけよう,ということです。それが,広い世界・深い世界への出発点となります。

今回は,よい先生に出会うための,心のあり方について。


従僕の目に英雄なし。

「従僕の目に英雄なし」――この言葉は,哲学者ヘーゲル(1770~1831,ドイツ)の『歴史哲学講義』(上・下,岩波文庫,長谷川宏訳)で知りました。ヘーゲルの創作ではなく,「そういう言葉がある」という形で紹介されています。

《それは英雄が英雄でないからでなく,従僕が従僕だからだ》(長谷川訳)と,ヘーゲルは言います。

どんなすごい英雄でも,そばについてお世話している召使い(従僕)の目から見ると,偉大な人物には見えてこない。「英雄」が,私生活ではだらしのない酒飲みだったり,好色だったり,といった様子を見ているからです。「英雄と言ったって,一皮むけばつまらない俗物だ」というわけです。

さらに,ヘーゲルは続けます。

《歴史的人物も,従僕根性の心理家の手にかかるとすくわれない。どんな人物も平均的な人物にされてしまい,ことこまかな人間通たる従僕と同列か,それ以下の道徳しかもたない人間になってしまう。》(『歴史哲学講義(上)』六二ページ,長谷川訳)

私たちは,そんな「従僕」の目で書かれた話が大好きです。偉人や英雄のゴシップを書いた本は,たくさんあります。

でも,「従僕の目」しか持てない人は,偉業とか創造といったことを,正しく評価することができません。すごい仕事をした人に対しても,「でも,あの人は酒ばかり飲んでいるから」などと言って,その仕事を見ることはないのです。

「従僕の目」しか持てない人は,「すごい」と思える「先生」に出会うこともないでしょう。

(以上,つづく)

2013年05月27日 (月) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの18回目。

これまで,「この人の仕事はすばらしい,その仕事のすべてを知りたい」と思えるような著者・アーティストなどをみつけて追いかけよう,と述べてきました。

誰かのすばらしい仕事への感動が,広い世界・深い世界への出発点となります。その「誰か」を「先生」とここでは呼んでいます。 

今回は,「先生とはどういう人か」について。これまでとはちがった側面からの話です。


あなたをほめてくれる人が,
あなたの「先生」とはかぎらない。


「どんな先生を選んだらいいか」ということは,一概には言えません。

私にも自分の「先生」だと思っている人がいるわけですが,その人があなたにとってよい先生かどうかはわかりません。あなた自身で,あなたが感動してついていきたくなる先生をさがしてください。

でも,先生選びについて,「こういう人は気をつけて」というアドバイスならできます。

まず,「私についてきなさい」という人には気をつけましょう。にせものの可能性があります。拒んでも人が集まってくるくらいが本物です。あるいは,本物は自分の仕事に必死で,弟子など集めるヒマがないのです。

もちろん,権威ある大学教授が「自分の研究室にいらっしゃい」と言ってくれるような場合は別です。でも,そういう声がかかる秀才は例外です。ふつうの若い人は,誰にも声をかけてもらえません。私も,そうでした。

「にせもの」があなたをひきよせる手段として,そういうあなたのさびしさを突いてくることがあります。「にせもの」があなたをほめるのです。「君は才能があるね。みどころがある」と言うのです。

ほめるだけだったら,その人はあなたを勇気づけてくれたありがたい人です。素直に感激して励みにしましょう。そういうときに感激できる,というのは大事なことです。

しかし,「にせもの」の場合,ほめ言葉であなたをとり込もうとするのです。

「感動」が出発になる,と私は言いました。でもその感動というのは,「先生のすばらしい仕事」への感動です。これと,「自分をほめてもらった感激」とを混同してはいけません。

そのうち「にせもの」は,高い「お布施」を取ったり,「出家」をせまったりするようになるでしょう。それが「にせもの」ということです。

先生に値する人は,あなたに学校や会社を「やめろ」とは言いません。たとえば科学者をめざしている人が,大学をやめてどうやって研究を続けるのでしょう。

先生に値する人ならば,他人の生活や人生を左右してしまうことの重さを,十分にわかっているはずです。

(以上,つづく)

テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術