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2018年10月28日 (日) | Edit |
私そういちは、勉強法や読書術などの「知の技法」に関心があります。本ブログでも「自分で考えるための勉強法」というシリーズがあるのです。そして、とくに「独学」ということには、強い想いを抱いています。私自身がいろいろなことで「独学者」といえるからです。今回は勉強法、とくに独学の意味について。


勉強は成功のためのものではない

世の中には、ビジネスマンなどの大人を対象とした、「勉強法」や「知の技法」をテーマにしたさまざまな本や記事があふれている。それらの多くに、私はやや違和感を感じる。

それは勉強というものを、人生における一般的な成功と安易に結びつけているからだ。

そこで論じられている「勉強」の先にあるものは、たいていの場合、高度の資格を身につけたり、会社勤めなどの仕事で成果を上げたり、あるいは知的なエリートとして周囲に認められたり、といったことである。

でも、読書術のような「知の技法」は、じつはそのような「成功」とはあまり関係がない。

「これからのビジネスマンには、リベラルアーツ(要するに深い教養のこと)が求められる」などと最近ときどき言われる。しかし、歴史や哲学や芸術についての教養が、会社での成果や出世にプラスになるなどということは、ほとんどあり得ない。そのような教養が本当に「役立つ」としたら、よほどのエリートにかぎられるだろう。そのことは、会社勤めなどの社会経験がある大人ならわかるはずだ。

もちろん仕事をするうえで、いろいろと真剣に学ぶことは大事だ。しかし、私たちが収入を得るために行っている仕事のほとんどは、知識人(学者・研究者、作家、コンサルタントなど)が説くような「知の技法」や「教養」が役立つ性質のものではなく、もっとシンプルで現場的なものだろう。だからこそ、本など読まなくても、いい仕事をしている人はたくさんいる。

おそらく知識人は、自分たちの「芸」を普通の人たちに買ってもらうために、役に立たないものを役に立つかのように無理に言っているだけなのである。

試験勉強だって、「知の技法」をとやかく言うまえに、しっかりとテキストを読み込んで覚えれば、たいていはなんとかなる。


人生を楽しくするために勉強する

では大人の勉強は、なんのためにするのだろうか? それは「人生を楽しくするため」だ。そして、人生を楽しくするような勉強というのは、それなりに方法論やノウハウが要る。

なぜかといえば、あたりまえかもしれないが、初歩的で簡単なこと、浅いことを学んでも楽しくないからだ。

それなりに高度で深い世界に分け入らないことには、興味や感動はわいてこない。そして、高度で深い世界を扱えるようになるには、それなりの技法やノウハウが必要になってくる。

たとえば、さきほど述べた「リベラルアーツ」的な深い教養の世界は、売上や出世には役に立たないが、知ること自体が楽しい。しかし、本当に楽しくなるには、やはりそれなりの方法論や積み重ねが要る。私自身、それを実感してきた。

私そういちは、大学の法学部を出たあと会社勤めを続けながら、おもに歴史や社会科学――とくに世界史に興味を持って独学を続けてきた。そしてこの数年は、世界史に関する解説書(『一気にわかる世界史』日本実業出版社刊)を出版したりもしている。

また世界史の本のほかに古今東西の偉人について述べた著作や、このブログとも重なる勉強法・読書法についての著作もある。(『四百文字の偉人伝』『自分で考えるための勉強法』いずれもディスカヴァー・トゥエンティワン刊)この2冊は電子書籍だが、出版社が認めて商業出版してくれたものだ。

なお、会社のほうは十数年務めたあと辞めて、それから10年余りの間に、会社を立ち上げたり、カウンセラーの仕事をしたりしているのだが、その辺についてはまたあとで。

このような本の出版は、一応の成果といえるだろう。これは、ただぼんやりと、あるいはやみくもに読書したり勉強したりするのではなく、一定の方法論を意識しながら取り組んだ結果だと思っている。そのことで、世界史という膨大で複雑な対象を自分なりにとらえることができるようになった。深いレベルで「知るよろこび」を味わえるようになったのである。

そして、それがたのしくて勉強を続けることができた。指導してくれる先生がいたわけではなく、まったくの独学だった。

私にとって世界史の勉強は、当然ながら仕事にはまったく関係がなく、周囲には「そんなことをして何になる」という人もいた。しかし、楽しくてやめることができなかった。

まあ、「楽しい」といっても、ワクワクと盛り上がるという感じではない。あくまでじんわりとした楽しさであって、ついそれに時間を割いてしまう、というものだった。

そして、出版したといっても、私の本はあんまり売れていないので、ほとんどお金になっていない。もの書きとしての評価も得られてはいない。世間の反応としては、世界史の本に関連して、ビジネス雑誌の「教養特集」で取材を受けたことが少しあるくらいだ。いわゆる「成功」とは程遠い状態である。

しかしこのように、読書による独学を、商業的な出版物というかたちで世に出せたのは、やはりうれしいことだった。好きな独学を続けたことは、たしかに私の人生をより楽しいものにしてくれたのである。


独学が支える楽観的な見通し

これから先、仮に本の著者としての成功とは無縁のままだったとしても、私はこれまで続けてきた路線の独学や著述をやめないだろう。私は今50代前半だが、「60代、70代になっても、これを――読んだり書いたりを続けていたい」という気持ちだ。まあ「ぼちぼち」というペースであっても、とにかく続けているだろうと。

これは幸せなことだと思う。最近は「定年後をどうするか」といった、老後の孤独や退屈、あるいは虚しさを心配する人たちに向けた指南本が売れているが、私は「自分が老後に退屈することはないだろう。楽しむネタはいくらでもある」と思っている。

そのような楽観的な見通しを支えているのが、若い頃から続けてきた独学ということだ。

そんな私であれば、「人生を楽しくする独学術」について、初心者の人に述べてもよいのではないかと思うのだが、どうだろうか。


私のいろいろな独学

もう少し言わせてもらえば、私が独学してきたのは、著作のある世界史などの分野だけではない。

10年余り前、40歳を過ぎた頃に私は会社を辞めて、小さな会社を立ち上げ、その代表取締役になった。投資信託という金融関係の事業を行う会社である。会社員のときの仕事とはまったく異なる分野なのだが、これも独学から足を踏み入れたのである。

30代半ばから投資の世界に関心を持った私は、自分なりの勉強をしつつ、ファンドを買うなどして運用した。その結果得た何千万円かの利益をこの会社に投じた。

しかしこちらは、いろいろあって2年余りで手をひいてしまった。ただし、会社の事業であるファンドの運営は今も続いている。なお、私はこの起業で貯金を大きく減らしたが、借金は背負っていない。

その後私は、3年ほどぶらぶらと浪人生活を送った。そして現在は、非常勤で若い人の就職の相談に乗る「キャリアカウンセラー」の仕事をして、夫婦2人で細々と暮らしている。

その仕事の傍ら、書くことをしているのである。キャリアカウンセリングも、私にとっては未知の世界だったが、自分なりに勉強を重ねている。

また、住まいについても興味があって、独学をした。30代の頃、建築や住宅の本を読むのが好きだった。インテリアショップも、何も買わなくてもときどき覗いていた。

私の家は、古い団地を2006年にリノベーションしたものだ。当時はまだ「リノベーション」「団地リノベ」は現在ほど一般的ではなかった。しかし、自分なりの勉強で「比較的ローコストで、思うような住まいを手に入れる方法」として、団地リノベに注目したのである。

そして、建築家の寺林省二さんに設計を依頼して実現した。その後、団地リノベの実例として何度か雑誌や本に取り上げられ、私自身もこの家を気に入っている。

この家は、寺林さんたち専門家の仕事によるものだが、私は依頼者として全体の方向性やどんな専門家に(つまり誰に)頼むかなどを考えた。それが良い結果を生んだのは、住まいについての独学の成果だと思っている。


個として生きるためのエンジン

以上「自分語り」をしたが、どの取り組みもたいしたことないと言われれば、たしかにその通りだ。本は売れてないし、会社は経営しきれなかったし、お気に入りの自宅も所詮は古い団地にすぎない。そして、非常勤(非正規)の仕事で食いつなぐ毎日……。

しかし、自分のやりたいことを、自分のアタマで考えながらやってきたという感じはある。ひとつひとつの取り組みは、その過程ではやはり楽しかった。そしてこれからも、退屈したり絶望したりせずに、人生を過ごせるように思える。

私の場合、その推進力の核に「独学」の能力がある。

つまり、自分の目的や関心に沿ってものごとを探求し、それを楽しむ能力である。

そのような独学のセンスや経験については、私には一定のものがあると自負している。そのほかの能力――行動力や社交性や、強い意志や執念などについては人並み以下のようだ。他人の整理した知識の体系を覚える試験勉強も、大人になってからは本当に嫌だし苦手だ。だから成功とは縁がないのだろう。

そこで、ここで述べる独学の方法論を、ほかの面で私よりもすぐれている人が学んだら、きっと世間的な「成功」にも役立つはずだ。

独学ということが、会社を立ち上げることや家づくりにもかかわるなら、やはり「勉強法」や「知の技術」は、何かと使えるということだろう。最初のほうでは「役立たない」と言ったが、じつはそうでもないようだ。

独学術は、会社員などの組織人としてのときよりも、一個人として自分が本当に実現したいことをかなえるうえで役に立つ。つまり、「個として生きるためのエンジン」となるのである。

(以上)
2017年12月17日 (日) | Edit |
 新聞記事切り抜き

たまに、まとめて新聞記事の切り抜きをしています。もう20年近く続けていることです。私が購読しているのは日経新聞。

2週間~1か月ぶんくらいの新聞をまとめてざーっとながめて「これは」という記事を切り抜く。
切り抜きには、新聞紙の1枚目だけがカットてきる、専用のカッターを使う。ハサミやふつうのカッターを使って切り抜きをするのは、大変です。

切り抜いた記事は、写真のようにクリアファイルに突っ込んでおきます。

1か月で数十の記事を切り抜きますが、その数十枚は1枚のクリアファイルにおさまります。新聞紙は薄いので、コンパクトです。1か月で1枚のクリアファイルにおさまらない量の切り抜きは、やりすぎです。ふつうは使えません。

切り抜く記事は、少ないほうがいいです。1か月で数枚でも十分だし、むしろそのほうが生かせるでしょう。

そのクリアファイルは、カバンに入れて持ち歩いて、ときどき記事の1枚を取り出して読みます。

毎日のなかでも、新聞にはざっと目はとおしています。そのときには、切り抜きはしません。それをやると、多く切り抜きすぎてしまいます。時間がたってからながめたほうが、記事を厳選できます。

切り抜きのほとんどは、しばらくしたら捨ててしまいます。数か月以上の長期保存をする記事は、1か月でせいぜい2、3枚です。

今さら新聞の切り抜きかあ、と思う人もいるかもしれません。

でも、やっぱり新聞って、すごいものです。大新聞だと1000人~2000人規模の記者たちが、毎日取材して記事をつくっているのです。朝刊1冊は十数万文字、つまり単行本1冊分くらいの分量。それが毎日玄関先まで届けられる。

たしかに新聞には、いろんな限界や欠点もあるのでしょう。しかし、これだけの組織的な労力をかけてつくられている情報の集積は、貴重なものです。

少なくとも、私たちのようなふつうの人間が簡単に利用できるものでは、ほかには考えられない。利用しない手はない。きちんと使うと、常識や教養も身につくし、いろいろと考えるヒントが得られる。

「1か月に1度くらい、まとめて切り抜きをする」というのは、新聞を深く利用するうえでおすすめです。

これからはじめる人は「1週間に1度」のほうがいいかもしれません。「1か月に1度」だと、目を通すべき新聞がかなりの分量になって作業に何時間もかかってしまうので、大変です。

私は1か月分の切り抜きを、週末に3時間くらいかけて行います。そのときは、一気にいろんな話題に触れて、結構たのしいです。自分が賢くなった気になれます。ただし「いろいろあって新聞の切り抜きをさぼった」という月もあります。このように、多少いいかげんでもいいと思います。

ただし、やみくもに切り抜いても無駄です。

たとえば重大な・興味深い事件について、その経過を切り抜くみたいなことは、その分野の専門家ならともかく、一般人にとってはまったく無意味です。

あるいは「金融について勉強しよう」といったばくぜんとしたスタンスで、興味をもったもの、ためになりそうなものを切り抜く、というのでもダメです。たくさん切り抜きすぎて、収拾がつかなくなるだけです。こういうことは、私も経験済み。

私がおすすめするのは、「中長期のことを考えるのに役立つ記事を切り抜く」ことです。

この2~3年から数年ぐらい、あるいはそれ以上のスパンの世の中の動きを考えるのに参考になる記事。そんな「中長期」の動きにかんするデータや考察、おおまかな経過、基礎的な常識などがまとめられている記事。

そこで大事なのは「予想」「問いかけ」です。これは「こういうことが今おこっているのでは?」「今後、中長期的にはこうなるのでは?」といった自分なりの予想のことです。そのような「予想」「問いかけ」を持って切り抜きをするのです。

先日切り抜いた記事で、「世界のカネ1京円、10年で7割増」というのがあります。

記事にはグラフもありました。1990年ころからリーマンショック(2008年)まで世界のGDP総額と通貨供給量はほぼ一致していたのに、その後乖離がはじまって、2016年には世界の通貨供給量は、世界のGDP総額よりも16%多いのだそうです。世界の「カネ余り」ということを、わかりやすく示した記事。

こういう情報は、その分野に詳しい人には珍しくないでしょう。ネット上にもあるはず。でも、毎日毎日、受け身の状態で、こういう記事を手にすることができるのは、新聞のいいところ。信頼性もネットにくらべて高いので、引用したり典拠にしたりもしやすい。

そして、こういう記事は、市場や経済の短期的な状況とは異なる「中長期」のことを述べています。これを切り抜こうと思うのは、それなりの「予想」「問いかけ」があるからです。

その「予想」「問いかけ」を強化したり、深めたりする材料になるものを切り抜いているわけです。あるいは、予想に反するもの、反対意見などを切り抜いてもいい。

やっぱり、新聞っていいな、と思います。最近は「凋落」「衰退」をいわれているけど、なくなったら困ります。

(以上)
2015年01月19日 (月) | Edit |
今回は「今の多くの人がめざすべき,よい文章とは何か」について。私自身,ささやかながら著作を出したり,文章を書きながら考えてきたことです。また,この数年は若い方の就職の相談の仕事をしていて,多くの人の自己PRや小論文などを添削する機会がありました。その経験からも,「文章のありかた」について,いろいろ考えます。

 ***

「よい文章」の4つのポイント

多くの人がめざすべき,「よい文章」とはどんなものでしょうか? それを支える技術や精神は何か? 
これには,4つのポイントがあります。

1.「よい文章」とは,シンプルでわかりやすく,正確な文章である。つまりそれは「実用的」ということ。
 
芸術的な文章というのもありますが,多くの人がまずめざすべきなのは,実用的な文章です。

学校教育では,そのような文章の教育にあまり力を入れていません。国語や作文の授業は,あいかわらず文芸中心です。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求する傾向があります。

大学の授業で書くレポートも,「シンプルにわかりやすく書くこと」のトレーニングにはなりにくいようです。学術論文をお手本にしているせいでしょう。学術論文は,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章です。


2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。

まず,自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけません。
「メッセージ」とは,主張や意見,ぜひ伝えたい知識・情報,自分の想い・感情などです。

そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,しめたもの。その「核」さえあれば,文章は書けます。なければ,いい文章にはならない。


3.その「メッセージ」を伝えるため,ふさわしい・程よい情報や表現が盛り込まれている。
 
抽象的すぎてはいけない。かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものでもない。情報が少なすぎても,情報過多でもいけない。「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識しないといけません。「抽象性・具体性」「情報量」のさじ加減を考えましょう。
  
文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情など)を追体験させるため」に書くのです。「認識」とは「イメージ・像」といってもいいです。

書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけません。「抽象性・具体性」はそれを考える上でのカギです。


4.「押しつけ」を感じさせないだけの論理性がある。

逆にいえば,文章の「論理性」とは「読者に押しつけを感じさせない」ということです。そのためには,「論理の飛躍」をできるだけ排除しないといけません。

不注意に書いた文章には「飛躍」が多いです。それは読者には「押しつけ」と映ります。そうならないためには,ある結論にもっていくとき,つねに必要な前提や情報を盛り込んでいくことです。

 ***
  
「4つのポイント」はどう位置づけられるか

以上をまとめると,

1.シンプルに,わかりやすく,正確に。
2.核となるメッセージ。
3.程よい抽象性・具体性と情報量。
4.押しつけを感じさせない論理性。


重要なのは,以上4つの大まかな視点です。具体的なコツや方法論は,上記1~4の各論になります。たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込まない」「主語と述語の関係を意識する」といったことは,「1.わかりやすく,正確に」の各論です。

世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。1~4のポイントは,そこで論じられていることをほぼカバーしているはずです。

また,「よい文章とは」というほかに,「文章の上達の方法論」という切り口もあります。たとえば,上達のためには「日記的に短い文章をたくさん書く」「よく推敲する」「誰かに読んでもらう」等々のことが大切だ,といった話です。

しかし,この4つのポイントは,そうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。

スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるためにどんな練習を積むべきか」ということです。

 
多くの文章論に不足している「体系性」と「論理性」

文章論や文章講座の中には,上記の4つのポイントのような大きな見方と,細かい具体的なノウハウを同列に論じているものもあります。また,「本体」(何があるべき姿か)と「上達論」(どう練習すべきか)がごっちゃになっていたり,どちらかが欠けていたりすることもあります。

あるいは,上記1~4のどれかに関わる,ある一面だけを強化することで文章力を上げようとするものもある。

それでは「体系性や論理性が足りない」と言わざるを得ません。しかし本来は,初心者が力をつけるためには,体系的なアプローチが必要です。さまざまな側面の事柄について整理しながら,ひとつひとつ押さえていかないといけないのです。

(以上)
2014年03月30日 (日) | Edit |
 私は「情報カード」というものを愛用しています。
 20代のころからもう20数年使っていますが,現在の使い方や保存の「システム」に落ち着いたのは,この6~7年です。中断していた時期もありました。

 メモするための,少し厚手の紙片。いくつかのメーカーからさまざまなサイズや仕様のものが出ています。
 私が使っているのは,LIFE社製の「情報カード5×3無地」というもの(100枚で300円ほど)。

 「5×3」というのは,5インチ×3インチ,つまり75ミリ×125ミリサイズということ。情報カードは罫線入りが多いですが,私は無地。真っ白なカードです。昔は,このサイズのカードは図書館の検索カードに使われていました。

 それを,こんなふうに手帳に10数枚ほどはさんで持ち歩いています。
 5×3のカードは,一般的なサイズの手帳にちょうど収まるのです。手のひらにもちょうどいい。

手帖に情報カードをはさむ

 手帳は肌身離さず持ち歩いているので,情報カードも肌身離さず持ち歩いていることになります。

 「そんな化石のようなものを今さら使っているのか」と言われてしまいそうです。
 たしかに,情報カードなんて,「昭和の遺物」みたいなものですね。
 最近では文具屋さんでも置いてないことが多い。大きな店か,ちょっと古い感じのお店にしかない。

 でも,これはなかなか使い勝手がいいです。

 思いついたことを書いて,必要ならとっておいて,要らないなら捨ててしまう。
 肌身離さず持っていれば,歩いているときでも電車のなかでも書くことができる。
 情報端末みたいに「起動」しなくてもいい。
 「紙切れ」ですから,ノートや手帳よりも軽くて薄い。シャツのポケットに入れておくこともできます。

 これは私が書いたもの。
 情報カード

 これらはみんな,このブログの記事などの「アウトプット」につながっています。

 たとえば左上のカードは,このブログのタイトル「団地の書斎から」を思いついたときのもの。

 右上は,このブログの記事にもなった「となり・となりの世界史」というシリーズの一節の素になっています。
 左下は,「団地の間取りの概念図」なのですが,これもこのブログの記事につながっています。

 右下は,去年末につくった「そういちカレンダー」というオリジナルの印刷物の構成案。電車のなかで書いたから乱雑です。小さな文字は,私の特技というか,体質です。

 書いたカードは,つぎのような専用のカードボックスに入れておきます。
 (手前の木製のものはコレクト社製5×3サイズカード用。お値段は二千数百円と安くないですが,木の感触や簡素な外見は悪くないです)
 
 情報カードをカードボックスで整理するための「インデックスカード」というのもあって,それでざっくりと項目別に仕切って入れてあります。たとえば「世界史」「偉人伝」「経済」「名言」「日々のこと」「住まい」といった項目。各項目ごとに新しいカードが手前にくるように並べる。
 
 5×3情報カードのカードボックス

 ***

 さて,このようなカードを,なんのために書いているのか。
 すべては「アウトプット」のためです。
 文章を書くなど,人に何かを伝えるためのネタ帳として,書いているのです。


 だから,カードに書いたことは,いつか「料理」して人前に出したいと思っています。つまり,「カードのメモ」から一定のまとまった文章にして人に読んでもらいたいと思っている。カードに書いたネタは,料理の「素材」みたいなもの。

 カードに書いてから,すぐに「料理」する場合もありますが,たいていは「料理」までかなり時間がかかってしまいます。そこで,カードボックスで保存しておくわけです。

 私は今,数個のカードボックスを持っていて,そこに1千数百枚の書かれたカードが入っているでしょうか。
 もっと本格的に情報やメモを蓄積している人からみれば,じつにささやかな量です。

 でも,私にとってはカードボックスは,だいじな貯蔵庫です。
 自分の考えたことの貯蔵庫。

 ときどき,このカードボックスの特定の項目のカードを全部引っ張り出して読み返しています。
 すると,自分で書いたものなのに,いろんな発見があります。
 「ああ,このことはまだまとめてなかったな」と気が付いて,文章を書きはじめることもあります。
 「あのときの自分は,ここまで考えたのか」と感心することもある。
 
 自分で考えたことというのは,案外忘れてしまうものです。

 だからこそ,メモをする意義があります。
 そして,それを保存・活用する自分なりの仕組みや道具,つまり「システム」が必要なのです。


 20代のころに私に「考えたことをメモする大切さ」を教えてくれた大先輩がいました。私より二まわり年上のビジネスマンで,ご自身の専門分野で著作を何冊も出している方でした。その人は,オリジナルの手のひらサイズの紙切れをつくり,その束を持ち歩いて,何か思いつくと紙切れに書いていました。

 その人が言っていました。

 「生きているというのは,何かを考えているということだ。考えたことをメモするのは,命の記録みたいなもんだ」

 「考えたことのメモ」というのは,生きている時間の密度を濃くしてくれます――つまり人生を豊かにしてくれるのです。それを若い私に教えてくださったことを,今も感謝しています。

 ***

 「メモやその保存のシステム」は,別にカードでなくてもいいのです。人によってはノートや手帳のほうがずっと使いやすいかもしれません。カードを使うにしても,もちろん5×3でなくてもいい。

 私の場合は,カードは使いやすいです。
 それは,いろいろなことに興味があって,さらに「何かを考えてから,それを料理して作品化するまで時間がかかる」からです(これは,関心が散漫で,発表の場もないくせに,大風呂敷なまとまりにくいことばかり考えていて,そのくせ怠けがちである,ということかもしれませんが)。

 逆に言うと,「ひとつのテーマを集中して追いかけている」あるいは「メモしてから作品化するまでのサイクルが短い」場合には,ノート・手帳のほうが使いやすいかもしれません。

 私の場合,長期間にわたって,あるときは「世界史」について,あるときは「住まい」についてメモをつくり,その都度カードボックスに放り込んでおく。1年2年経つと,ある程度カードがたまってきて,それを読み返す……そうやってまとまった文章を書けたこともあります。

 ただ私も,手帳を多少は使っています。「モレスキン」という1冊千何百円もするちょっといい手帳に,読書のなかで「いいな,味わいたいな」と思える箇所を抜き書きしているのです。こんなふうに,です。

 モレスキンへのメモ

 いい文章や感動的な文章というのは,書き写すと,一層味わえるのです。そして,ときどき読み返してさらに味わいたい。読み返すには,カードよりも手帳がいいです。それも,できればちょっといい手帳が。でももちろん,安価なノートでもいいのです。

 しかし,このような手帳に書く「抜き書き」の分量は,カードに書く量の何十分の1です。
 私の「メモ」の中心は,やはり情報カードです。

 ***

 今回の記事は,「メモのすすめ」です。
 それも,スケジュールや日々の活動のための「業務的」なメモではなく,中長期的なアウトプットのためのメモ。
 
 そのための道具としての「情報カード」を紹介したわけですが,もちろんノートや手帳を使ってもいい。
 自分にあった道具でシステムをつくっていけばいいのです。

 ただ,そのときに,くれぐれも注意していただきたいことがあります。

 それは,「何をメモするか」ということについてです。これをまちがえないことです。

 ここでテーマにしている「メモ」に書くのは,あくまで「自分で考えたこと」です。自分の思いつきや感じたことなどを,自分の言葉で書く。本や記事からの抜き書きではありません。

 多少はそういう「抜き書き」をしてもいいと思います(私もやっています)。
 でも,それはここで言う「メモ」の中心ではありません。

 ここは,カードなりノートなりで「アウトプットのための情報整理」を志す人が,よくまちがえることです。
 かなりの人が「抜き書き」をしようとしてしまう。
 
 本の抜き書きというのは,時間の無駄です。
 抜き書きをしなくても,あとで必要なら,その本をみればいいのです。

 もしも,何かの本に書いてあることをメモしたいなら,「ざっくりとこんなことがこんな本に書いてあって,こう面白かった,こう考えた」ということを,自分の言葉で書いておけばいいのです。

 ただしこれは「読む本は,原則として買った本」という人の場合です(私はそうです)。
 「本はたいてい図書館などで借りる」という人の場合,「抜き書き」「コピーによる抜粋」の技術やシステムも必要になるでしょうが,それはまた別の話。

 「本からの抜き書き」などという,骨の折れる,しかも役に立たないことを「メモ」の中心に据えたりすると,メモすることが,つらく虚しいものになります。だから,続きません。私もそういう失敗をしたことがあります。

 くれぐれも,メモするのは「自分の考え」です。
 そのことに気がついてから,私は情報カードを使えるようになりました。

 以上,「メモのすすめ」でした。いつか,情報カードなどの「メモのシステム」についての先人の取り組みや,私個人の試行錯誤の歩みなどについても述べたいと思いますが,今回はこれで。

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(以上)
テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年02月06日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの71回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

 今回で一応最終回です。最後まで書ききったつもり。
 でも,「補論」などは,ときどき書くつもりです。

 このシリーズでは,「よい先生をみつけ,徹底的に学ぶ」ことを重視してきました。
 どんな分野でもいいから,学者,思想家,作家,アーティストなどで「これは!」という人をみつけ,その人の仕事を追いかけよう。それがすべてのはじまりだ,と述べました。それをふまえての最終回。 


いつか,先生から離れるときがくる。

 熱心に読んできた先生の本なのに,手に取ることが少なくなるときが,いつかやってきます。私の場合,十年あまりでそうなっていました。

 先生が新しい著作を発表されれば,もちろん買って読みます。でも,学び始めたころのように,一冊読むたびに新しい世界がひらけてくるようなことは,もうありません。そこにあるのは,親しんできた世界であって,何が書かれているか,ある程度は予想できるのです。

 だからといって,もちろん「先生のすべてをマスターしてしまった」などということはありません。「先生の発想の基本的な部分を,ある程度理解できた」ということにすぎません。先生の本を読むことで到達できるのは,そこまでです。

 もっと先へ進むには,どうしたらいいでしょうか?

 今までは,先生がみつけ出した問題を,先生が解くのを見ていました。そうやって,問題のみつけ方や解き方を学んでいたのです。先生の話を聞いたり本を読んだりするというのは,そういうことです。

 今度は,自分で自分の問題をみつけ,自分で解くことです。
 それを,先生から学んだやり方でやってみることです。

 先生の解いてきた問題と私の問題とは,あたり前ですが別個の問題です。先生の本をみても,私の問題の解答は出ていません。

 先生をより深く理解するには,「先生の言ったことを知る」だけでなく,どんなにささやかでもいいから,かつて先生が行ったように「自分の興味ある問題を自分で解いていく」ことを経験していくしかありません。

 今の私は,そのへんのところで試行錯誤しています。歩みが遅いせいで,学び始めてから随分と時が経ってしまいました。でも,ここからが本当に面白いところです。

 誰でも,いつか先生から離れ,「自分の問題」に向かうときがやってきます。そのときが,楽しみです。

(おわり)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年01月28日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの70回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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 この「勉強法」のシリーズも,いよいよ大詰めです。
 今回は最終回のひとつ前。次回が最終回。

 「アイデアは個人のアタマから生まれるが,それが広がるためにはグループの力(人の結びつきや協力)が必要だ」という話です。
 おおげさにいうと「研究・創造の組織論」。
 その初歩の話です。

 私は,読んだり書いたりということを,基本はひとりでやっているのですが,研究団体的な組織やNPOに積極的に参加していたこともあります。

 そういう体験をふりかえっても,今回の記事で書いていることは,まさにそうだと思います。
 組織や仲間というのは,大事だと。

 でも,深く考えたり,大事なアウトプットというのは,1人で行うものです。「みんなで・仲間で」という姿勢でうまくいくものではない。「大きな仕事」などではなく,ごくささやかな何かをするにしてもそう……そのように私は思っています。

 でも,「考えたこと」をさらに進めていったり,社会に広めていくには,仲間や読者が必要です。人とのつながりが要るのです。
 そもそも,「アウトプット」というのは,自分の考えを社会的なものにしていくため,人とつながるために行うものです。

 このあたりのことを,私はこんなキャッチコピーにしています。

 ひとりでないと考えられない。
 ひとりきりでは考えられない。


 この2つの命題は矛盾しているようにみえます。
 でも,そのように矛盾していることが,まさに真実なのではないかと思います。
 
 ***

新しいアイデアは,つぎのステップで広がる。
「個人」→「グループ」→「社会」


 新しいアイデアが社会に広がっていくには,「個人」→「支持者のグループ」→「社会の大勢」というステップをふみます。

 まず,新しいアイデアは,すべて個人の頭の中で生まれます。あたり前だと思うでしょうが,それを忘れてしまうことがあるのです。

 大企業や政府のプロジェクトの中には,「予算と組織さえあれば,何か新しいものを生み出せる」と勘ちがいして,予算の無駄づかいに終わったものがあります。しかし,特定のアイデアを持つ特定の個人の取り組みによってしか,新しいものは生まれないのです。

 たとえば,1980年代の日本で,「第五世代コンピュータ開発」という国家プロジェクトがありました。「日本独自の技術で,次世代をリードする新しいコンピュータをつくり出そう」というもので,多くの研究者が結集し,何百億円という予算がつぎ込まれました。
 
 このプロジェクトがめざしたのは,「IBMなどがリードしていきたこれまでとは異なる,コンピュータの新しい時代を切りひらくこと」でした。

 しかし,このプロジェクトは,期待したものはほとんど何も生み出せないまま終わりました。

 「コンピュータの新しい時代」をひらいたのは,日本の国家プロジェクトではなく,パソコンを初めてつくり出した,アメリカの無名の若者たちでした。アップル社を設立したスティーブ・ジョブズやスティーブ・ウォズニアックのような人たちです。お金のない彼らは,実家のキッチンやガレージで仕事を始めました。

 「第五世代コンピュータ」のことを,昔話として片づけるわけにはいきません。その後の「インターネットによる新しい世界」に関して創造的な仕事をしたのも,やはり「無名の若者たち」でした。

 ***

 いいアイデアが生まれると,次にそのアイデアを支持する限られた人たちが現れます。その支持者たちが,何らかのグループや組織をつくっていきます。
 
 企業のような組織そのものが,アイデアの支持者として現れることもあります。支持者のグループや組織によって,初めてアイデアが社会の大勢に普及していきます。

 学問研究の場合でも,まず独創的な学者が現れて新しい理論を考え出す。そして,学派の活動によって,新しい理論が学界や社会に影響を与える――そういうステップをふみます。

 パソコンの場合も,いきなり社会の広い範囲に普及したのではなく,少数の熱心なマニアによって支えられていた時期がありました。マニアの人たちや彼らの支持するパソコン雑誌が,パソコンを社会に認知させる「伝道者」の役割を果たしました。

 アイデアは「個人」の頭の中に生まれますが,それを広げていくには「グループ」の社会的活動が必要です。
 どんなにすばらしいアイデアでも,「個人」からいきなり「社会の大勢」ということは,あり得ません。

 新しいアイデアを持つ個人の中には,「なぜ自分のすばらしいアイデアが世に出ないのだろう」とイライラしている人がいます。そういう人は,「自分のアイデアを支持するグループ」がないのです。

 いいアイデアが出てきて,社会に広めたいと思ったら,ここに書いた「ステップ」のことを思い出してください。まず,限られた範囲で支持者が集まるかどうかです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年01月14日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの69回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

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 この「勉強法」のシリーズでは,「勉強したら,文章を書いて人にみせよう(発表しよう)」ということを,強調しています。今回の記事は「発表する範囲(お客さんの数)というのは,続けるうちに拡大していく」というイメージを述べています。その「拡大」にはステップがある,という話。

 前回の記事「印税生活?」で述べた,「自分の出した電子書籍がなかなか売れない」というのは,これに関わっています。私は今,お客さんの数を商業出版のレベル(数千人以上)にしたいと取り組んでいるのですが,そのむずかしさを感じているわけです。
 読んだり書いたりを続けて,もう50歳近いけど,まだまだそういうレベル。
 でも,「駆け出し」として元気にやっているつもりなので,それはそれでいいか,と思います。


最初からドームでできるミュージシャンはいない。

 デビューからいきなりドームとか武道館で演奏できるミュージシャンはいません。みんな,初めはライブハウスや小さなイベント会場でやっていました。

 いや,そういう小さな場所で演奏できるまでだって,大変でした。何年も懸命に練習を積んで,初めてできることです。メジャーになった人は,小さな会場でやっている時期にスカウトされたり売り込んだりして,チャンスをものにしたのです。

 ものを書いて発表することも同じです。いきなり何万,何十万の読者を相手にすることはできません。

 巨匠といわれる人でも,その多くは「発行部数何千部」といった媒体からスタートしました。そこで初めて,原稿料をもらって書くことができたのです。

 その前は,同人誌やサークルの機関誌など,「何百部」「何十部」の世界で書いていました。そこでは,原稿料をもらうどころか,会費を払って書いています。さらにその前は,限られた仲間だけに,書いたものを見せていました。

 「部数何百部」の世界で文章を発表するというのが,最初の目標として目安になります。
 その規模の同人誌や機関誌では,よい原稿がなかなか集まらなくて,困っていることが多いです。その媒体に合ったもので,きちんとしたものを書いて持っていけば,載せてもらえる可能性は高いです。

 その段階をふむことなく,いきなり「何千部」の世界で原稿料をもらって書ける人もいます。さらに,最初から「何万部」の世界で活躍できる人もいます。

 でも,自分がそうなれないからといって,気にすることはありません。
 書いたものがすぐに世に出なくても,まずは「何百部」の世界で発表していけばいいのです。そこで蓄積をつくりながら,上のステップをめざせばいいのです。

 それから,今はインターネットがあります。紙の同人誌や機関誌のほかに,ネット上の媒体に載ることも,大きな選択肢です。また,ブログなどのかたちで,自分で発表の場をつくることもできます。

 ただ,ネットの世界でも,読者の数に応じていろんな階層の媒体があることは,紙の出版と変わりません。そして,最初はお客さんの少ない場所からスタートする,ということも同じです。

 小説の世界では,「同人誌でたくさん書いてからデビューした作家は,長続きする」と言われてきました。小説の同人誌は近ごろはめっきり減ってきたそうですが,「蓄積をつくる時期が,誰にも必要だ」ということは変わりません。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月18日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの68回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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(2013/11/01)
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 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。
 今回は,人が集まる「勉強会」について。今はネット上での交流も盛んですが,やはりリアルで人に会って話すというのはちがいます。大事なことではないかと。


「勉強会」をおおげさに考えない。
三人集まれば,勉強会。


 「勉強会」を持つことはいいことです。考えを交流する場を持つのは,必要なことです。孤立して「考える」ことはできません。

 そして,現実に人と会って話す「勉強会」というのは,「交流の場」としては,たいへん密度の濃いものといえるでしょう。ネット上の交流にはない充実感が,あるのです。

 でも,勉強会というものを,おおげさに考える必要はありません。どんなにささやかでもいいから,「考えを交流する場」を持つことです。

 3人集まれば,勉強会になります。3人の人間が年1回のペースで3回も集まれば,それが勉強会なのです。

 勉強会は2人でも一応成り立ちます。しかし,意見の多様性が,3人になるとぐっと広がります。2人だと自分のほかにひとりしかいませんが,3人だと自分以外の人が複数います。それが大事なのです。

 慣れていない人は,10人も集めて月1回は開かないといけないと思っています。
 でも,そういう立派な会は,もっとあとでもいいのです。「10人で月1回」などということをすると――とくに世話役などをすると,運営にエネルギーを使い過ぎて,自分の勉強ができなくなることがあります。

 初めのうちは,密度の濃い仲間が2~3人もいれば十分なのです。

 私も,そんな2人や3人の勉強会をしてきました。20代のころでした。場所は,郊外のファミレスです。ペースとしては,年数回くらい。アルコールは一切なし。コーヒーや軽食をときどき注文しながら,4~5時間粘っていました。コーヒーショップに集まることもありました。

 個室・教室のほうがよければ,公共施設に安い料金で使えるものがいろいろあります。自宅で研究会をしたこともあります。

 とにかく,2~3人なら,事務的な負担はほとんどゼロです。会場の確保も容易です。それぞれが発言したり,それぞれのテーマについて話し合ったりする時間も,十分にとれます。組織運営のノウハウがなくても,充実した会にできるでしょう。

 まず,2~3人で始めてみましょう。その中で,自分の世界を築いていきましょう。そのあと必要なら,本格的なサークルを作ればいいのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月09日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの67回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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(2013/11/01)
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 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,進化論のダーウィンという偉人を通して「人とのつながり」のことを述べています。


ひとりでやっているようにみえる人も,
じつはひとりではない。


 ひとりの時間をつくることは,知的創造にとって欠かせません。でもそれは,人とのつながりを絶って孤立することとはちがいます。
 歴史上の天才には,孤立してひとりでやっているようにみえる人がいます。進化論を唱えたチャールズ・ダーウィン(1809~1882,英)も,そうでした。

 ダーウィンは,大学などの機関に属さず,個人で研究しました。彼はお金持ちだったので,自由な時間や研究資金には苦労しませんでした。ロンドン郊外にある自分の屋敷を研究所にしていました。

 ただ,神経症的な病気をわずらっていたので(何の病気かはよくわかっていない),外出したり人に会ったりすることが,あまりできませんでした。若いときは元気だったのですが,30代以降そうなります。それで,彼は大部分の時間を,屋敷に閉じこもって暮らしました。

 そこで,彼に関心を持つ人たちの間では,「ダーウィンは,孤立した天才」というイメージがありました。
 しかし,彼のことを研究した結果,そのイメージは修正されるべきだということがわかっています(ピーター・J・ボウラー『チャールズ・ダーウィン 生涯・学説・その影響』朝日新聞社 1997)。

 ダーウィンは,あちこち出かけたり人に会ったりすることはあまりできませんでしたが,いろんな人にたくさんの手紙を書いていました。そうして,屋敷にいながら多くの科学者と交流して,進化論の研究を進めたのです。

 当時の手紙=郵便というのは,今で言えばインターネットのような,最新の通信手段でした。ダーウィンが活動するころから,イギリスでは郵便制度の改革によって,それまで高価だった郵便料金が,多くの人にも利用可能な値段になりました。

 ダーウィンは,郵便という最新の手段をフルに活用して,いろんな人と交流していたのです。

 そして,信用できる,共感してもらえると思った人にだけ,まだ公表していない自分の進化論について伝えました。そうやって,自分の考えを支持する専門家のグループを,ひっそりと組織していったのです。

 ダーウィンの進化論は当時,「神の否定」につながる危険思想でした。
 それを自覚していたダーウィンは,「何の戦略もなしに自分の理論を公表したら,つぶされてしまう」と思いました。そこで,自分を支持する専門家グループ=学派を組織し,その助けを借りて,つぶされることなく自分の考えを社会に広めていこうとしたのです。

 彼が進化論について初めて着想したのは30代前半のことですが,それを『種の起原』などの著作で公表するまで,20年近くかけて準備しています。その間,自分の学説を構築することと平行して,仲間の輪を広げていったわけです。

 その戦略は当たりでした。彼の学説は,多くの支持や反響を得ることに成功します。

 彼の進化論を社会に普及する活動を直接行ったのは,ダーウィン自身ではなく,彼を支持する科学者たちでした。講演や反対者との論争は,ダーウィンの支持者のハックスリーという科学者が中心になってやっていました。

 進化論を発表して有名になってからも,ダーウィンは屋敷にこもったままでしたが,旧来の仲間とのつきあいを大事に守っていきました。

 ダーウィンのような,半病人で家にこもりがちの学者でさえ,孤立しないようにいろいろ努力しています。ひとりでやっているようにみえる人も,じつはひとりではありません。孤立からは,何も生まれないのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月03日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの66回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,いわば「多作の構造」です。たくさんの仕事ができる人は,どうしてできるのか。


多作な人は,多作だからこそ,書くことが尽きない。

 たくさんの仕事をしている人を見ていると,「多作なのに書くことが尽きない」のではなく,「多作だからこそ,書くことが尽きないのだ」と思えます。

 どの分野にも,寡作な人と多作な人がいます。学問の世界でも,ほとんど論文を書かないまま定年を迎える大学教授がいる一方で,百も二百も論文や著作を発表している学者がいます。

 そして,多くの場合,寡作な人よりも多作な人のほうが,ひとつひとつのアウトプットの質が高いのです。
 「量」の多い人は,「質」のほうも伴っているということです。

 「やはりすごい人はちがうなあ」と言ってしまえば,それまでかもしれません。でも,「その人がすごいから」というだけでなく,そこには「多作が多作を生む」というそれなりの構造があるように思えます。

 書くことによって,人は多くの情報にめぐり合うことができます。

 書くために調べものをするときには,いろんな問いかけを持って資料にあたります。問いかけを持つことで,目的のはっきりしない読書よりも,はるかに多くのことが頭に残ります。たくさん書く人は,たくさんの知識やノウハウを蓄えることになります。

 書くことによって,人はいろんなことを考えます。

 今書いているテーマに沿ったことだけではありません。その周辺にある,いろんなことに気がつきます。「今度は,このことをやってみたい」と思えるようなテーマを,いくつも発見するのです。そこで,たくさん書く人ほど,たくさんの書きたいテーマを抱え込むことになります。

 そして,たくさん書く人は,たくさんのテーマを次々と消化するだけの知識やノウハウを持っている。だから,たくさんのテーマを次々と消化していってしまいます。

 その過程で,さらにまたたくさんの知識やノウハウを蓄え,さらにまたたくさんの書きたいテーマを発見していく……

 もちろん,私はそんな境地を体験したわけではないのですが,たぶん,そうなのです。多作な人の仕事ぶりをこの目で見たり本で読んだりすると,そう思えるのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月27日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの65回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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(2013/11/01)
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 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,誰にもある,不調なとき・つらいときをどうするか。


つらくなったら,活動レベルを下げて,
できることをすればいい。


 読むことや書くことを,職業でもないのに続けていると,「もうやめてしまおう」と思うことがあります。忙しさの中で,だんだんと意欲が衰えてくる。「自分も何かしたい」という気持ちが薄れてくる。

 でも,そこでやめてしまうことはありません。もったいないです。

 半年や一年勉強しても,たかが知れています。一日のペースを気にせずに続けることが大事です。

 何かの事情で学ぶことがつらくなっているのなら,活動レベルを下げて続けることをおすすめします。

 何かを書き上げるだけの時間やエネルギーがないと思うなら,読むだけにする。
 むずかしい本を読むことができないなら,もっと気楽な本を読む。
 書いたり読んだりするペースを落とす。年に百冊読んでいたのが,十冊になってもいい。研究や読書のプランをぼんやり考えるだけでもいい。

 もちろん,重い病気にかかったときなどは,治療に専念することになります。そのため,活動レベルがほぼゼロになるときもあるでしょう。

 でも,とにかくそこで「やめた」と思わないこと。
 こうして活動レベルを下げるのも,一時的なことだと思うこと。

 期限を決める必要はありません。元気が戻ったり,障害となっていることが過ぎ去ったりしたら,復帰すればいいのです。

 そのうち状況は変わります。
 短期間のうちに大幅に変わることはなかなかないかもしれません。
 でも,ほんの少しだけなら,変化があるはずです。そのとき,「いずれまたやるぞ」という心の準備ができてさえいれば,わずかな状況の変化でも,すぐにまた動き出すことができるのです。

 私も,1年くらいの間,活動レベルをダウンしていた時期があります。体調を崩していたのです。
 その時は書くのをやめて,疲れない本を読むだけにしていました。でも,「調子が戻ったら,またやるぞ」と思っていたので,やがて復帰できました。

 「もうやめた」と思って気持ちが切れてしまうと,再開するのがむずかしくなります。
 「もうやめた」という自分への約束を守ろうとしてしまうのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月23日 (土) | Edit |
 前回の「勉強法」の記事(すぐ下にあります)で,「テレビの観すぎ,お酒の飲みすぎに注意」という話をしました。それに対し,どですかでん次郎さん(ブログ:寄らば大樹の陰の声)から,コメント(問いかけ)をいただき,私なりに考えたことを述べました。「テレビをどう考えるか」ということの,入り口の話です。

 どですかでん次郎さんは,統計学などの理系的センスをベースに,身辺のいろんな話題を論じたブログを書かれています。

 自分の記事に対し,踏み込んだ考察を含むコメントをいただき,自分もまた考えて書く……うれしく,たのしいことです。

 ***
 
【どですかでん次郎さんからのコメントより】

テレビとお酒以外はすべて時間の無駄ではない

そういう考え方も確かにできそうですね。私も似たような考えを持っているような気がします(私もお酒が大好きですが)。

ただ、最近、別の考え方もジワジワと浮かぶようになってきたので、そのことをちょっと書かせていただきます。もしよろしければ、そういち様の御意見をお聞かせいただければと思います。

私が気になるのは

テレビを見ている時間は本当に無駄なのか?

ということです。

テレビを否定する意見は非常に多くみられますし、私もしばしばその弊害を感じております。ですが、最近ではプラスの面もかなり多くあるように思うのです。たとえば、

・テレビがどうやって視聴者を何時間も立ち止まらせることができているのか、その手法を学べる

・「嘘をつかないで人をだます(分かったような気にさせる)手法」を学ぶことができる

・人との雑談の際、テレビの内容を知っていることで、相手との共通の話題をもつことができる(テレビがみている人が多いということは、それだけこの効果が大きくなる。逆にテレビの内容知らないと、周囲の秩序を乱す可能性がある)

などです。ちなみに人を騙すことに関しては、自分も同じように騙すのではなく、騙そうとする人間から己を守るために役立つ資料になるのかなあ、なんて思います。


 ***

【以上に対するそういちの返信】(コメントに若干の加筆修正)

 まず,漫然とした娯楽としてのテレビは,私は好きです。これまでの人生で,わりと観ているほうだと思います。浪人(失業)中に,ドラマの再放送(『相棒』シリーズとか,90年代のトレンディーなドラマとか)なんかを朝から晩まで観たこともありました……

 「テレビにプラスの面がある」というのは,私もたしかにそうだと思います。

 この「勉強法」でテーマにしているような「自分のアタマで考える」ということにとって,テレビにも役立つ面はあると思います。
 どですかでん次郎さんの言われるように,「人を惹きつける,騙す」など,表現のさまざまな手法に触れること,それから「人との共通の話題」「常識」を知ることができる……等々。

 私にとっては,テレビというのは,この世のいろんな様子や人物や商品や作品を切り取って並べている「ショーウインドウ」のような感じもします。それはそれで,たいへん魅力的です。

 あれだけの予算や手間をかけてつくられている世界なのですから,そこからいろいろ学ぶことはできると思います。
 ただし,どですかでん次郎さんのように主体的な姿勢とか「問いかけ」が必要だとは思います。
 そのような「問いかけ」は,テレビを観ているだけでは,できていかないはずです。

 さて,おっしゃるように,テレビは「文化的」「知的」であろうとする人たちから,いろいろ否定的にいわれてきました。
 その根本には,テレビが圧倒的に多くの人に影響をあたえるメディアだった,ということがあるでしょう。メジャーで大衆的なものは,インテリにけなされる傾向があります。

 しかし,将来はそれも変わってくるかもしれません。
 テレビの影響力が衰退してきています。テレビは以前ほどは観られなくなっており,人びとが夢中にもならなくなっています。

 もしも将来,テレビが今よりもずっとマイナーなものになると,ある種の「シブい文化」として評価されるようになるかもしれません。

 たとえばラジオは,マイナーになったせいで,すっかり「シブく」なった感じがします。
 
 私は数年前(これも浪人中の話です),ラジオ(FMが中心)をよく聴いていたときがありました。要するに家でゴロゴロしてたわけです……
 
 そのとき「ラジオって結構タメになるなー」と思ったものです。自分からは手を出さないような音楽との出会いはもちろんですが,本の紹介とか,知る人ぞ知る感じの新しい文化の動きや社会的活動やビジネスのことなどが,かなり紹介されている。

 そのような「動き」の当事者が出演して,お話しされたりしているのです。
 
 また,テレビにはあまり出てこない識者が,時事問題を(テレビでは聞かないような視点で)解説してくれることがあります。テレビでもおなじみの識者が出てきたときも,テレビよりもじっくりと話せるので,より踏み込んだ話を聴けることもある。

 家に居ながらにして,「充実した文化講演会」に参加できる感じ……ちょっとホメすぎかもしれませんが。
  
 そっくり同じことにはならないでしょうが,メジャーから脱落したときに,テレビも今の「ラジオ的」な性格を持つようになる気もします。

 「テレビが好きで」などというと,ちょっと文化的な香りがする時代が,いつか来たりして(^^;)
 
 ネットでせいぜい「数分」の短い映像をたのしむことが娯楽の主流になったとしたら,テレビで「2時間」もの長大なサスペンスをじっくり観るなんて,まさに「オトナのたのしみ」ということになる……「土曜ワイド劇場」を観るというと,オペラや歌舞伎を観るような格調を(多少は)帯びるということか……それはないでしょうね,さすがに。

(以上)
2013年11月22日 (金) | Edit |
「自分で考える勉強法」シリーズの64回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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(2013/11/01)
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 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,それらについての基本的な考え方。

 今回は,テレビなどの「時間つぶし」をどうとらえるか。「テレビ」というのは,漫然とネットをみたりゲームをすることなども含めて象徴的に言ってます。


テレビと飲み過ぎ以外は,時間の無駄ではない。

 時間を無駄にしないためには,どうしたらいいのでしょうか? テレビを見過ぎないこと,お酒を飲み過ぎないこと。大事なのは,この二つです。

 私はテレビが好きなので,うっかりしていると,5時間でも6時間でも観ています。お酒も好きです。誘われたら,まず断りません。ひとりの夜でも,家で晩酌をしています。

 でも,どこかでほどほどにしておかないと,勉強の時間がなくなってしまいます。

 会社員だったころの私は,仕事から帰るとまずテレビをつけていました。
 その後すぐにパソコンを立ち上げて机に向かいます。そして,テレビを観ながら,ワープロを打ち始める。のってくると,テレビはどうでもよくなって,音を小さくします。

 家に帰るなり飲んでいたのでは,何もできなくなりますから,家で飲むのは(体にはよくないですが)深夜になってからです。でもがまんできなくて,夕食のとき,ちょっとだけビールを飲んだりしたのでした。

 テレビとお酒以外の楽しみで,時間の無駄使いというのはあり得ません。
 もし,テレビとお酒以外で時間を使ってしまって勉強できないというのであれば,あなたがやりたいことは勉強ではないのです。


 つい時間を使ってしまうその「楽しみ」が,あなたの本当にしたいことです。したいことをしているのは,有意義な時間です。

 休みの日にテレビしか楽しみがないという人は,勉強に向いています。テレビを減らすだけで,本が読めます。書くことができます。いろんな楽しみがある人は,そうはいかないのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月18日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの63回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

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(2013/11/01)
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 前回から,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,それらについての基本的な考え方。
 

起きている間に勉強すれば,いいじゃないか。

 昔,ある男が偉いお坊さんに尋ねました。
 「念仏を唱えて仏道に精進しようとするのですが,すぐに眠くなってしまいます。どうすればいいでしょうか?」
 お坊さんは答えました。

 「起きている間に,念仏を唱えなさい。」

 これは,高校のときに古文の授業で読んだ,『徒然草』にあるお話です。

 ちょうどそのころ,大学受験のことが気になっていて,「睡眠時間を削って夜遅くまで勉強しないと駄目かなあ」などと考えていたので,印象に残りました。「そうだな。起きている間に勉強すればいいんだよな」と納得しました。

 睡眠時間を削って勉強してはいけません。
 ここでテーマにしている勉強は,半年や一年の受験勉強とはちがうからです。短期間で片づくようなテーマや目標だったら,面白くないでしょう。

 5年や10年という,もっと長いスパンの勉強をするのですから,睡眠時間を極端に削っては,とても続きません。

 だからといって,人よりたくさん寝ているのも,どうかと思います。勉強したり書いたりすることが調子にのってくると,自然に睡眠時間は短くなります。つい夜更かしをして,翌朝起きるときにつらくて,後悔するのです。

 漫画家の手塚治虫(1928~1989)は,若いころ,人に「どうして(そんなに)眠るんですか?」とたずねたことがあるそうです。

 人並みに眠るということが理解できないほど,スタミナがあったということです。あるいは,それほど仕事に打ち込んでいたということです。テレビのドキュメンタリーで見た手塚は,タクシーの中でも絵を描いているほど,忙しい人でした。

 たぶん私たちは,手塚治虫のようにはいかないでしょうから,(でも本当にそんな質問したんでしょうかね?)起きている間に勉強するしかないのです。

(以上)
2013年11月16日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの62回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

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 前回から,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 そこにある考え方を,キャッチコピー的にいうと,

 ひとりでないと,考えられない。
 ひとりきりでは,考えられない。


 「ものを考える」のには,矛盾するこの両面があると思います。

 *** 

お金がなくてどこにも行けない人は,
読書ができる。文章が書ける。


 お金がなくてどこにも行けない人は,たくさんの本を読み,たくさんの文章を書くことができます。

 小遣いがたくさんある人は,時間を勉強以外のことに使います。
 私も,給料が入ったばかりの月初めは,つい飲みに行ったりして,勉強を怠ったものでした。お金が苦しくなる月末のほうが,読んだり書いたりが進みます。

 人と会ったり,楽しい場所へ出かけたりするには,お金がかかります。
 お金があると,人は行動的になれるわけです。

 でも,ものを考えたり書いたりということは,人と会っているときにはできませんし,楽しい場所では気が散ります。ものを考えたり書いたりということは,つまらない場所でひとりにならないとできません。

 昔の政治犯は,監獄で勉強したり本を書いたりしています。監獄というのは集中できる場所なのでしょう。

 どこにも行くお金がない人は,図書館に行けばいいのです。
 図書館は,お金をかけずにいくらでも時間を過ごせる場所です。

 だから図書館は,ハローワークの次に失業中の人が多くやってくる場所ではないかと思います。私も,起業した会社を辞めてからしばらくは何の仕事もなく,よく図書館に行っていました。そして,「図書館通いの失業者」から文筆業になった人は,何人もいます。

 ものを書くというのは,最低限,原稿用紙と鉛筆を買うお金があればできます。
 一日あたりのコストは,せいぜい何十円でしょう。書いていると,お金をかけずにいくらでも時間を過ごすことができます。

 ある有名な建築家が,まだ駆け出しで自分の事務所を開いたばかりのころ,全然注文が来ないのでヒマでした。当然,お金もありません。
 そこで,注文を受けたという想定で,勝手に設計図を描いて過ごしていました。それくらいしか,することがなかったのです。

 そうやって描いた図面のひとつをコンクールに応募したところ,賞を取りました。それがきっかけで仕事が来るようになりました(この話は,知人の是澤輝明さんのお話と著作で知りました)。
 
 こういうエピソードは,ほかのクリエイターでもあることでしょう。
 お金がないときは,勉強するチャンスです。何かを作り上げるチャンスです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月13日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの61回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

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 今回から新章突入です。新章のテーマは,「勉強のための生活論,組織論」といったらいいでしょうか。
 トップの記事にある電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

 ***

ひとりになったとき,そこがあなたの書斎。

 私にも,書斎と言えるものはあります。でもきちんとした個室ではなく,夫婦で暮らす集合住宅の一画を棚でラフに仕切った,3畳ほどのスペースです(「書斎コーナー」ですね)。
 
 あとは,家のあちこちに本棚を設置して,本を並べています。友人に,「古本屋さんみたいな家だ」と言われたことがあります。

 若いころは,狭いアパートのひとり暮らしでしたので,居間と寝室を兼ねた部屋に,本棚と机がわりのテーブルを持ち込んでいるだけのことでした。

 もちろん,書斎で読んだり書いたりはします。とくに,パソコンに向かうときはそうです。でもほかの場所で読み書きをすることも多くあります。その時間もまた重要です。

 電車の中やコーヒーショップでは,集中して本を読むことができます。若いころ,ファミリーレストランで何時間もノートに向かって書いていたことがありました。

 大書店でいろんな本を手に取っていくうち,半日が過ぎてしまうこともあります。
 歩いていて,思いつくことがあると立ち止まってカードにメモします。
 「どこでも書斎」というのは,本当です。

 書斎の本質は,「ひとりになるための部屋」ということです。

 人はひとりにならないと,考えたり,読書したり,ものを書いたりすることはできません。本質的に大事なのは,「ひとりになること」なのです。 
 ひとりになれる部屋を持つことは,手段のひとつにすぎません。
 ひとりになれれば,どこででもあなたは考えたり,読書したり,書いたりすることができます。

 ひとりになったとき,そこがあなたの書斎です。場所や空間の問題ではなく,「時間」の問題として「書斎」を考えましょう。

 日本の住宅事情では,勉強や研究のための個室を持つことはむずかしいです。結婚して子どもがいたりすると,とくにそうでしょう。
 個室が確保できないなら,居間や寝室の片隅に小さな机を置く。
 それも無理なら,キッチンのテーブルで読んだり書いたりすればいい。プロの物書きや研究者でも,そうしている人がいます。

 空間の問題は,何とかなるものです。書斎の問題は,場所や空間ではなくて,「時間」です。大切なのは,「ひとりの時間」をどれだけつくれるか,ということなのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月02日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの60回目。

 このところ,「文章論」を続けてきましたが,今回でひと段落。
 具体的な文章の書き方よりも,「とにかく書いてみよう」ということを,いろんな側面から述べてきました。
 より具体的な「書き方」の話も,一種の「補足」としていずれ書いていきたいです。


他人の批判から早く抜け出して,
「自分の仕事」をしよう。


 二十代前半のころの私は,他人の批判ばかり書いていました。「あの本のここが駄目だ。なぜなら……」といったものばかり書いていたのです。
 「これだ」という先生を決めて,その発想を自分のものにしようと,先生の本を熱心に読んでいたころのことです。

 少し勉強すると,その成果を何かに使ってみたくなります。
 そこで一番簡単なのが,他人の批判です。先生とはちがう立場や考え方の人の本を読めば,「これはちがう」と思えるところが結構みつかります。

 その本の著者がかなり有名だったりすると,うれしいものです。自分もいっぱしの「知識人」になったような気がしてきます。批判をノートにでも書いていると,興奮してどんどん書けてしまう。

 そういう時期があってもいいと思います。
 先生の発想を身につけるトレーニングになるでしょう。少なくとも,書く練習にはなります。すぐれた先生たちでも,若いころに「他人の批判」を書いていたケースは多いです。

 でも,「他人の批判」からは,早く抜け出したほうがいいです。

 あなたが向上し,周囲や社会に貢献するには,「他人の批判」ではなく「自分自身の積極的な主張や情報」を出していく必要があります。「自分の仕事」を早くみつけて,進めることです。そのほうが楽しいです。

 **

 二十代半ばのとき,原稿用紙で百数十枚の「大論文」を書いて,ある先生(これまでこのシリーズで何度も出てきた板倉聖宣さんや南郷継正さんとはちがう方です)のところへ送ったことがあります。
 その先生は多忙な方なのに,書いたものを送ると,すぐにハガキで感想を返してくださいました。誰に対してもそうなさっている,と聞きました。

 先生からのハガキには,私がある研究者を批判して書いた箇所を指して,「こういうケチつけから,早く抜け出すように」とありました。そして,「自分のテーマや主張があるなら,堂々とそれを進めていきなさい」ということをおっしゃっていました。

 そのころから,私はだんだんと「他人の批判」を書かなくなっていきました。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月29日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの59回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 といっても,具体的な文章のテクニックではなく,「とにかく書いてみよう」ということを強調してきました。
 今回は「力を入れて書いてみよう」という話。とくに,エネルギーあふれる若い人は,意識されるといいのではないか,と思っています。


最初は,不自然なほど力が入っていていい。
よけいな力は,あとで抜けてくる。


 理論的な勉強を少し積んだ人がものを書いてみると,やたらと肩に力が入ります。ガチガチした,読みにくい文章になる。そのわりに,中身は薄かったりする。

 私がそうでした。そして,それでよかったんだと思います。

 「論理的な,きちんとした論文を書くんだ」という気持ちで,思いきり力を入れて書いてみましょう。
 論旨に矛盾や飛躍はないか,よく注意してスキのない文章を書くのです。むずかしそうな抽象概念も,使ってみましょう。細かなデータも,並べてみましょう。

 「論文」などというと,構えてしまうかもしれませんが,とにかく自分なりに精いっぱい「きちんと筋の通ったもの」を書こうとしてみる,ということです。
 そのことで,読みやすさなどの文章としての「出来栄え」は,いまひとつになるかもしれません。でも,やってみる価値はあります。

 すぐれた学術論文は,知的な文章の最も厳密で,完成された形です(これと対をなすものとして,詩や小説などの「芸術的な文章」の世界があります)。
 論文を柔らかくしたり,簡潔につくり変えたりしていくことで,評論もエッセイも書くことができます。以前の記事(コラムを書いてみよう)で述べたコラムというものの多くは,簡潔なミニ論文なのです。

 本当にすごい人は,論文も柔らかい文章も書けます。そしてそれは,本格的な論文できたえた力と技があるからです。

 いくらか勉強したら,肩に力を入れて大論文を書いてみましょう。「自分の志向はそうではない」という人も,練習としてやればいいと思います。もっと短くて軽いものを書く一方で,取り組んでみる。

 そうやって,知的な体力を身につけるのです。
 そのうち,よけいな力も抜けてくるでしょう。軽いものばかり書くのは,それからでもいいのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月22日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの58回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 といっても,具体的な文章のテクニックではなく,「とにかく書いてみよう」ということを強調してきました。
 今回は,書くための基本的な「構え」について,といったらいいでしょうか。


机に向かっていないと,書けない。

 このシリーズの別のところ(9月5日の記事)で,「机に向かっていては,本は読めない。ベッドの上のほうが読める」と書きました。
 でも,文章を書くときは,その逆です。机に向かっていないと,文章は書けません。

 世の中には,電車やタクシーの中でも原稿を書いてしまう,すごい人がいます。でも,真似できるものではありません。書くということは,読むことの何倍も集中力のいる行為です。

 集中するには,じっと机に向かっていることです。ワープロを前に,書こうとすることについてひたすら考えます。

 じっと待っていると,センテンスや考えが浮かんできます。
 そこですかさず,キーをたたく。
 急がないと,考えはどんどん逃げていきます。調子の悪いときでも,1~2時間やっていれば,何か出てきます。

 長く考えているほど,いろんなことが浮かんでくるようになってきます。30分ずつ4回に分けて考えるより,連続して2時間考えるほうが,トータルは同じでもはるかに多くの成果が上がります。

 情報のインプットは細切れの時間でもできますが,情報のアウトプット=書くことには,まとまった時間がないといけません。
 それに,ベッドで寝ころがっていてはワープロが打てないので,机に向かうことが必要です。

 細切れの時間や移動中でも書けるのは,すでに書く力を身につけた人だけです。書く力をつけるには,長い時間机に向かうしかありません。

 とりあえず,何も書けなくてもいいから,30分ほど机に向かっていられるよう,練習してみましょう。
 ほかのことではなく,「書く」という目的で,机に向かってみましょう。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月17日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの57回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 前回,「まとまった文章を書くための考え方」として,「長編の文章も,じつは短い断片の集まりである」ということを述べました。今回は,その「断片」を「ひとつの作品」として書く,ということについて。

 ***
 
 先日(10月14日)のshin36aさんのブログ ろくろくさんじゅうろくaで,この「勉強法」シリーズの記事:とにかく完成させる を,引用・紹介していただきました。

 この記事は,「とにかく,書きかけた文章を完成させよう」という内容でしたが,ご自身もその考え方で決算や税務などに関する長文の記事(経営者としての体験に基づく迫力のある記事です)を書きあげたとのこと。
 自分の書いたものが,ある種の刺激になったのだとしたら,ほんとうにうれしいことです。
 
 また,当ブログについても「カテゴリーごとに非常に興味深い内容をわかりやすく書かれている」「面白いんで訪問してみてください 何か得るものがあると思います」と,強くオススメしてくださいました。ありがとうございます。

 shin36aさんのブログとは相互にリンクさせてもらっていますが,お互いブログ以外では見知らぬ仲。shin36aさんも書かれていましたが,ブログをしなかったら出会うことのなかった方々と接点を持ち,刺激を受けられるのは大きな楽しみだと,つくづく感じます。

 ***

 こんなふうに,細々でも何かを書きつづけていると,ときどき読者の方から声援をいただくことがあります。

 shin36aさんからの声援より少し前(9月末)には,ウォーリックさん(ブログ:阿鼻叫喚)から励ましのコメントをいただきました。ウォーリックさんも,ブログを通してのみ存じ上げる方。

 当ブログについて「理路整然と,それでいて読者を意識したスタイルで,難しいことを平易に置き換えて」いる,「読者フレンドリーなブログ」「得るところの多い記事の数々」……であると。

 独自の世界で多くの読者を得ておられるブロガーから,そのようなお褒めの言葉をいただき,感激しました。

 こういううれしさは,何年経っても憶えています。
 これまでに,励ましの言葉をくださった何人もの方々のことも,思い出されます。みなさん,ありがとうございます。

 ***

コラムを書いてみよう

 論文や一冊の本は,断片の集まりである――ということは,「1000字」程度の断片を書けることは,まとまった文章が書けるようになるための,重要なステップなのです。

 そこで,断片を書く練習をしましょう。
 「1000字」程度で完結する作品を,いくつも書いてみるのです。具体的には,500~1000字くらいのものを書くといいでしょう。「天声人語」などの新聞のコラムは,600字前後です。

 「コラム」という言葉が出ましたが,「500~1000字で書いてみよう」というのは,じつは「コラムを書いてみよう」ということなのです。

 コラムとは,ここで言う「断片」くらいの短い論説文のことです。論説とは,一定の事実・対象について,説明や意見を述べたものです。

 何でも題材にできるのが,コラムという形式です。ただ,小説のようなフィクションではなく,自分の心象(心の動き,イメージの世界)を中心に表現するのでもない,ということです。
 身の周りのこと,人生論,時事問題,科学,芸能・スポーツ……堅いことも柔らかいことも,コラムの題材になります。本や音楽などの批評にも,コラムとして書かれたものが多くあります。

 これは「エッセイ」と言ってもいいかもしれませんが,そう言うとかなりの人は身辺雑記などの,いかにも文芸的な文章を連想するようです。ここで「書いてみよう」と言っているのは,そういうものに限りません。だから,「コラム」と言うほうがいいでしょう。

 文章修業でコラムを書く効用は,評論家の福田和也さんが述べていることです(『ひと月百冊読み,三百枚書く私の方法②』PHP研究所 2004年)。大学の先生でもある福田さんは,ゼミで学生にコラムを書かせています。

 福田さんによれば,コラムを書く利点はつぎの三つです。

《①短いので,文章のすみずみまで神経を行き渡らせることができる。 ②人に読んでもらえる……③書くという前提で,事物に接する姿勢を育てることができる。》(同書47ページ)


 これは,自分のことを振り返っても,その通りだと思えます。「私が言う文章の断片とは,要するにコラムのことだ」と気がつきました。以下は,福田さんの論を下敷きにしています。

 ***

 コラムという形式には,いろんな長所があります。まず,初心者にも完成できる長さであること。それも,ちょうどいい長さ。

 文章の世界には,もっと短い形式もあります。たとえば「アフォリズム」という,短いものだと数十字以内で「深いこと」「気の利いたこと」を書く形式もあります。でもあまりに短いと,制約が多くて初心者にはかえってむずかしいです。だから,500~1000字くらいがいいのです。

 その長さなら,書くときに細かいところまで気を使えます。ていねいに書き,推敲する練習になります。
そして,その長さだと「読者を得やすい」ということがあります。一息で読めるので,多くの人がつき合ってくれるのです。

 「読者を得やすい」というのは,いろんな需要がある,ということです。
 つまり,いいものが書けたときに,雑誌(ミニコミ,ウェブ上の媒体含む)などに載せるチャンスがあります。当然ですが,大論文よりも短いコラムのほうが,掲載されやすいです。ブログの記事にも,適しています。

 二十代の私は,長い文章を書いてもなかなか人に読んでもらえませんでした。そこで三十を過ぎてからは,読んでもらえるように短い作品を書くことを,長い文章に取り組む一方で始めました。

 私の場合,それは歴史上の偉人・有名人について,400~500文字で紹介する――しかも単なる紹介ではなく,短くてもひとつのまとまった読み物にする,というものでした。これは,コラムの一種と言えるでしょう。そういうものを何十本か書いたのです(のちに100本以上書きました)。

 このコラム――『四百文字の偉人伝』(当初は『三百文字の偉人伝』)は周りの人に好評で,「読んでもらえる」手ごたえがありました。参加していたNPOによるミニコミの出版物にも載せてもらえました。そして,のちには商業出版にまでこぎつけたのです(この本と同じくディスカヴァー・トゥエンティワンから電子書籍として発売中。このブログにもシリーズとして一部を掲載)。

 何のテーマでもいいから,コラムを書いてみましょう。
 そして,人に読んでもらいましょう。
 それを何度もくり返すと,文章がかなり書けるようになっています。書くことの初心者を卒業できています。


(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月15日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの56回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「まとまった文章を書くための考え方」です。1冊の本のような長編の文章も,じつは短い「断片」の集まりです。それをふまえることが大切だ,という話。


「まとまった文章が書けない」という人は,
「断片」を書いて並べてみよう。


 「何か書いてみたいけど,まとまった文章を書くことができなくて」という人がいます。そういう人は,この勉強法のシリーズのように書いてみましょう(この「勉強法」は1冊の本になるよう書いています)。

 このシリーズは,毎回のブログの記事という「断片」の集まりです。ひとつの断片は,やや長いものもありますが,だいたい1000~1000数百字。原稿用紙3~4枚です。
 そんな「断片」をいくつも書いて,並べてみるのです。

 私は,この本に並んでいる順番で,断片を書いたわけではありません。
 書いた時期と並んでいる順番は,別物です。
 
 「本全体をどうしていくか」「どういう順番で断片を並べていくか」ということも,最初ははっきりしませんでした。断片が蓄積されていくにつれて,しだいに全体の構成も見えてきたのです。

 無理に体系的にしようとする必要はありません。断片と断片の論理的なつながりを,気にしすぎてもいけません。なんとなく関連のありそうなものをグルーピングしたり,明らかにつながりのあるものどうしを隣に並べたりする,といった程度でいいのです。

 ある断片と他の断片で,言っていることが矛盾しているように思える場合があるかもしれません。でも,あまり気にする必要はありません。たいていは,その矛盾がかえって本の内容に奥行を与えてくれます。

 物事というのは,本来矛盾に満ちているのです。無理に論理的な一貫性を持たせようとして書くと,平べったく,つまらないものになってしまいます。

 じつは,ほとんどの本は,断片を集めてできています。

 何かの新書を開いてみてください。文章のところどころに見出しがついています。見出しによって,文章は2~3ページごとに区切られていませんか? 新書の2ページは,だいたい千数百字です。おおまかに「1000字」と言っていいでしょう。

 この「1000字」が,本を構成する断片です。
 10の断片が集まると,論文になります。100集まると,一冊の本になります。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月10日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの55回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回の「とにかく完成させる」というのは,あたりまえに思うかもしれません。でも,「文章を相当書いている」という人でも,できていない場合があります。


短くても,とにかく完成させよう。

 あるとき――20代の終わりころ――部屋の整理をしていて,反省したことがあります。自分の書いた原稿が整理箱からいろいろ出てきたのですが,どれもこれも書きかけばかりなのです。

 何年も書き続けているのに,最後まで書いて一応でも「完成」となっているのは,いくらか長いものだと,ほんの数本しかありません。「これではいけない」と思いました。

 若いころの私は,力もないのに「大論文」を書くことばかり考えていました。書き始めると,最低でも原稿用紙百枚くらいかかりそうなものばかり書こうとする。そして,20~30枚のところで力尽きてしまう。

 いかに雄大な構想で書いていたとしても,完成していないことには人に見せられません。
 人に見せられない文章を書いても,意味がありません。

 私は,書きかけでも友達に無理やり読ませて感想を言ってもらっていましたが,友だちも迷惑だったことでしょう。

 ごく親しい人は別にして,人に読んでもらうには,完成させることです。

 完成させるには,どうしたらいいでしょうか?
 だんだんわかってきたのは,書こうとしている大きなテーマを,小さなテーマに分解していくことです。

 原稿用紙300枚の構想があったら,10~20枚のレポート20本くらいに分ける。1本1本を,独立した作品として書いていく。
 そうすると,結果として3本書いただけで力尽きても,完成品が3本残ります。その3本は,どれも人に読んでもらうことができます。

 最初のうちは,原稿用紙10~20枚の構想を,1本1000字くらいの断片に分けて書くといいでしょう。この本の1項目くらいの長さです。

 いや,「100字で1本」ということでもいいのではないでしょうか。ハガキ一枚分でひとつの作品です。世の中には,ハガキのような紙に短い詩や人生訓を書いて,道端で売っている人もいます。ツイッターの1回の投稿も,その長さの世界です。

 完成品ならハガキ1枚でも売り物になりますが,未完の大論文は,何にもなりません。どんなに短くてもいいから,とにかく完成させることです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月07日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの54回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「読んでもらう範囲や完成度に応じた,アウトプットの段階」というテーマです。

 その「段階」の最終形は「世間に公表する」ということですが,「内輪で読む」など,その前段階もある,ということ。

 ではブログというのは,アウトプットとしてどのような「段階」なのか? 
 私は,「世間に公表する」段階にあたると思います。不特定多数の目に触れる可能性があるのですから。ここは,異論もあるとは思います…
  
 私は,「何千人に読まれてもいいように」と思って,このブログを書いています。実際にはそんなに多くの読者はいないわけですが,大勢の人に読んでもらうつもりでやっているのです。


アウトプットには三段階ある。
1 自分だけが読む
2 仲間に読んでもらう
3 世間に公表する


 いきなり完成品を書こうとすると,書けなくなります。本や雑誌の文章,学術論文などがアウトプットとしての「完成品」ですが,アウトプットのかたちはそれだけではありません。

 アウトプットには段階があります。(1)自分だけが読む,(2)仲間に読んでもらう,(3)世間に公表する,という三つの段階です。「アウトプットには段階がある」というのも,板倉聖宣さん(教育学者,科学史家)から学んだことです。

 「自分だけが読む」段階というのは,「おぼえ書き」や「研究ノート」といったものを指しています。
 ここでは,まともな文章になっていなくてもいいから,考えたことや調べたことを片端から書く。自分さえわかればいいのです。

 つぎに「仲間に読んでもらう」段階です。
 ここでは,人に読んでもらうため,文章として一応完成されたものを書きます。
 でも,データの収集や内容の整理は,まだ不十分でもかまいません。不確かなことや,余計なことも書いていいのです。信頼できる仲間うちでなら,それが許されます。

 そして,仲間の意見や感想を参考にして,次の段階へ進むかどうかの判断を行います。
 多くの場合,ここで「これでは駄目だ」ということになるのです。そのときは,落ち込みます。そこでかなりの人は,自分の作品を仲間の批判にさらすことをためらってしまいます。
 しかし,きちんとしたものをつくりたければ,ここを乗り越えないといけません。

 それでも,人からきびしいことを言われるのは,やはりつらいものです。傷つきやすい人は,ちょっと何かを言われただけでやる気をなくします。

 そういう人は,作品を見せる相手をよく考えることです。「この人だったら,少々のことを言われてもいい」という信頼関係のある人にだけ,見せるようにする。そうすれば,「仲間に読んでもらう」段階をスムースに行えるでしょう。

 仲間に好評だった場合は,「よし,やるぞ」という気になります。完成させるためのエネルギーを得ることになるのです。そうやって,「公表する」段階の作業に入っていきます。

 よほどの力がないかぎり,いきなり「公表する」つもりで書き始めると,完成できずに終わります。書き慣れていない人は,ここでお話しした三つの段階を,意識してやっていくといいでしょう。

 各段階なりに,自分の考えを吐き出すことが大事なのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月02日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの53回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「書こうとしても,なかなか書き出せない」「文章の構成に悩む」という人に向けた話。


書きたいことから書けば,書き出せる。

 「書きたいことから書けば,書き出せる」というのは,作家の中谷彰宏さんの本(『人は誰でも作家になれる』ダイヤモンド社 1996,のちにPHP文庫 2003)に出ていたもので,好きな言葉です。

 文章の構成についてあれこれ考えると,うまくいきません。構成は大事なのですが,それを意識しすぎると,かえってまずい構成になるのです。

 あれこれ考えないで,書きたいことから書きましょう。

 「書きたいこと」が一番面白いところのはずです。人に読んでもらうには,いいところを最初にもってくることです。多くの文章家が,同じようなことを言っています。

 慣れないうちはつい,いいところをあとにとっておこうとしてしまいます。
 私も,そういう失敗をくり返してきました。

 文章を友人に読んでもらって,「最初は何を言いたいのかわからなかったけど,最後のところまで読んでやっとわかった」と言われたことがあります。友人だから最後までつきあってくれましたが,一般の読者だったら,1ページでやめてしまうでしょう。

 書きたいことから書くと,文章が書きやすくなります。一番気になることをまず吐き出してしまうことで,気分が楽になるのです。自分が表現しようとしている世界へ,すっと入っていける感じがします。書きたいことを書いているから,気分が乗ってきます。

 逆に,書きたいことをあとにとっておこうとすると,書くのがつらくなります。あとの楽しみのために,がまんして準備作業をしているような感じになるからです。

 とにかく,書きたいところから書き始めて,ひととおり書いてしまう。
 それから,必要ならば順序を入れ替えればいいのです。


 でもたぶん,「最も書きたいこと=読者に伝えたいこと」を最初にもってくるのが,いいのではないかと思います。

 この「勉強法」のシリーズは,1冊の本にすることを意識して書いていますが,一番書きたいことを最初にもってきています。「自分の関心を大切にしよう」「先生に出会うことが大切だ」といったことです。この「勉強法」で一番伝えたいのは,そのことなのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月30日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの52回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「書いたものを読み返して推敲する」ことについて。


書いたものを何度も何度も読み返す。
わかりやすく書くには,結局それしかない。


 わかりやすく書かないと,誰も読んでくれません。
 誰かに読んでもらいたいなら,わかりやすく書くことです。

 わかりやすく書くには,どうしたらいいのでしょうか? 

 「文章の書き方」については,いろんな本が出ています。そういう本を,私も読みました。その中で一番役に立ったアドバイスは,「細かな方法論はいいから,書きながら何度も読み返して,推敲することだ」というものです。
 評論家の立花隆さんが,『知のソフトウェア』(講談社現代新書 1984)という本で,そういうことを書いています。

 それを読んだのは,大学生のころでした。「なるほど」と印象に残ったのですが,実行することになったのは,何年もあとのことです。

 自分のことを振り返って思うのですが,わかりやすく書けない人は,ほとんど推敲をしていません。自分の書いた文章を,ほんの1~2回しか読み返していないのです。

 自分の本を何冊も出しているような書き慣れた人の話を聞いても,少ない人でも5~6回は読み返して推敲すると言います。書くことに慣れてないうちは,もっともっと読み返すことが必要です。読み返すたびに,直すところをみつけて,少しでもわかりやすく,読みやすくなるようにします。

 ワープロは,書き直すのに便利な道具です。ワープロで書く場合は,推敲が百回を超えることも少なくありません。

 私だって,この「勉強法」の文章をパソコンのワープロで書いているわけですが,何十回読み返しているか,もうわかりません。それでも,直すところはまだまだあるのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月28日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの51回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は,「真似・借用」について。文章にかぎらず,何かを生み出すうえで重要なこと。それをどう考えるか。


どんどん真似しよう。どんどん借用しよう。
そして,そのことを隠さない。


 文章を書くなら,いいと思うものはどんどん真似しましょう。
 感動した言葉は,どんどん借りて使いましょう。
 どんなに真似したって,借りてきたって,あなたらしい個性は出てくるものです。良しにつけ悪しきにつけ,そうなのです。

 ただし,気をつけなくてはいけないことがあります。

 文章を書いて発表するときは,「真似や借用について隠さない」ということです。

 他人の言葉や考えを「引用」するのはいいのです。一定の制約はありますが,原則的にはかまいません。しかし,他人から借用しながら,それを隠して自分のオリジナルだと偽ったら,「盗作」です。

 創造とは,他人のつくりあげたものを受け継ぎ,それに新しい何かをつけ加えることです。
 新しいものを生み出すには,まず先人の仕事をふまえることです。

 だから,「自分の仕事が,先人のどんな仕事に負っているか」「どこまでが先人の成果で,どこからが自分のつけ加えたものなのか」をはっきりさせることは,創造的であろうとするかぎり,きわめて重要なのです。

 このシリーズは「創造のための学び方」がひとつのテーマです。
 「他人からの借用」に関して,いい加減なことはできません。

 そこで,こんな軽い文章にしてはめずらしく,出典をわりあいきちんと示すようにしています。最低限,「これは誰が言っている」ということは書きます。きちんとした論文なら,「誰の,何という著作の,どこに」というところまで示さないといけません。

 すべてにわたってそうする必要はありません。板倉聖宣さんによれば,オリジナルかどうか《読者にとってとくにまぎらわしいものについてだけ,その出所を明らかにする》のです(『増補版 模倣と創造』仮説社 1987)。

 ***

 私はこのシリーズで,板倉聖宣さんをはじめとする先生たちの考えを,多く引用したり借用したりしています。というより,このシリーズで述べている重要な部分のほとんどが,そうした先生の著作やお話をもとにしている,と言ってよいでしょう。

 しかし,ただ先生と同じことを口真似しているのとはちがいます。
 私は,先生の言ったことを,自分の経験やほかの書物で検証してみて,「やっぱりそうなんだ」と納得したことだけを書いています。

 自分自身でやってきたこと,試してきたことだけを書いているのです。
 だから,先生と同じテーマを扱っても,私なりの言葉で書けていると思っています。

 また,このシリーズは何十という小さな断片の集まりで,断片の冒頭に,目立つ文字でキャッチコピー的な表題がついていますが,これは,いろんなビジネス書でみられるスタイルです。
 私が初めて意識したのは,1990年代に読んだ中谷彰宏さん(ビジネス書のベテランで,何百という著作がある)の本からでした。読みやすいスタイルだと思います。

 真似や借用をみっともないことだと考える人がいます。
 そういう人のなかから,他人の創造を自分のオリジナルと偽る人が出てくるのです。そういう人には,先人の成果を活用して,そこから自分独自のものをつくり出すことはできないのです。

(以上)
2013年09月26日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの50回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,前々回から「文章論」について述べています。
 強調したいのは,「文章を書くことで考える力がつく。だから書こう」ということです。今回は,書き続けるために大切な「読者への感謝」ということについて。

 このブログを読んでくださっているみなさんにも,あらためて感謝です。
 いただいたコメントをはじめ,拍手やアクセス数など,いつも励みにしています。ありがとうございます。


あなたの文章を読んでくれる人は,恩人。

 文章は書き続けていかないと,上達しません。
 どうしたら,書き続けることができるのでしょうか?

 一番大切なのは,「たったひとりでいいから,読んでくれる人をみつけること」です。

 人に読んでもらうあてのない文章を書くのは,むなしいことです。
 だから日記は,たいてい三日坊主で終わるのです。

 私は幸運でした。文章を書き始めたとき,読んでくれる人が身近にいたからです。私に書くことすすめてくれた若い先生が読んでくださいました。
 また,一緒に勉強する友だちがひとりいて,書いたものをみせ合っていました。

 最初の数年は,この二人だけが私の読者でした。書いたものに自信がなかったので,二人がいれば満足でした。

 やがて,少し上達したと思ったので,二人以外にも読んでもらいたくなりました。

 そこで,友だちや知り合いのなかで興味を持ってくれそうな人に書いたものを渡したり,送ったりするようになりました。さらに,人の主催する勉強会(数人くらいの小さなもの)に書いたものを持ち込んで,発表するということもしました。

 渡したものが,読んでもらえないことも多いです。感想を言ってもらえることは,そんなにあるわけではありません。
 素人の書いたものを読んでコメントするのは,疲れることです。「書いたものを読んでほしい」というのは,無理なお願いをしているのです。

 だから,ちょっとでも読んでくれた人は,無理をきいてくれた恩人です。

 中には,読んで好意的なことを言ってくれる人がいます。これは本当にうれしいです。そういう人は,決して多くありません。でも,うれしさがいつまでも残ります。十年前のことでも,憶えています。

 読んでくれる人をさがしていると,たまにほめてくれる人がいます。その時のうれしさをいつまでもひっぱって,書くことを続けました。

 あなたもどうにかして,読んでくれる人をさがしましょう。もし読んでくれたら,心から感謝しましょう。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月25日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの49回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,前回から「文章論」について述べています。
 強調したいのは,「文章を書くことで考える力がつく。だから書こう」ということです。

 
学校で作文が苦手だった人でも,
続ければ本の著者になれる。


 中学・高校のころの私は,作文が苦手でした。授業で書かされる400字,800字の小論文に四苦八苦していました。やっと書き上げても,なかなかいい点数はもらえませんでした。

 それが,大学生になってから,ちょっとずつ何かを書くことを始めました。
 最初は,前回述べた,短い「日記」のようなものです。

 そこから,原稿用紙10~20枚のレポートが書けるようになるまで1年余りかかりました。あまり上達の早いほうとは言えません。

 そして,内容はともかく,50~100枚のものが書けるようになるまで,さらに2~3年。
 さらに4~5年経つと,本1冊分,つまり原稿用紙300枚が書けるようになっていました。

 今でも自分の文章がうまいとは思いませんが,人に読んでもらえる文章を,たとえばこのシリーズのように1冊分書きとおせるようにはなりました(このシリーズは,本1冊分の原稿がすでにあります)。

 これまで,ささやかですが商業出版もしましたし,最近は,若い人の作文・小論文の指導もしています。

 本を書く人は,必ずしも子どものころから文章を書くのが得意だったわけではありません。もちろん得意だった人も多いのですが,そうでない人も同じくらいいるのです。

 絵画やスポーツでは,こうはいきません。
 プロの腕前になる人は,みんな子どものころから「絵がうまい」「野球がうまい」と言われていました。これにくらべると,学問や文章の世界での上達というのは,誰にでも開かれているのです。

 でも,多くの人は「何か書けるようになりたい」「自分の考えを持ちたい」と願っても,ここで言っていること――文章を書くこと――を実行しません。

 たくさんの本を読んで勉強している人でも,なかなか書きません。
 ブログを始めても,数百文字以上のまとまった文章を書き続ける人は,多くありません。

 とるべき方法がシンプルで,その方法をわかっていても,実行に移す人は少ないのです。

 だから,「文章を書いてみよう」「書き続けよう」ということを,このシリーズでは強調しています。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月23日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの48回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,今回から「文章論」に入ります。
 一番言いたいのは,「文章を書かなければ,考える力はつかない」ということ。


少し勉強したら,文章を書いてみよう。

 たくさん本を読めば考える力がつく,というわけではありません。ぜんぜん読まないのも駄目ですが,読んでいるだけでは,力はつきません。

 力をつけるためには,文章を書く必要があります。

 読むだけでは,頭の使い方が受け身になってしまって,能動的に考える力がつきにくいのです。

 100冊読める時間があったら,その全部を読むことに費やしてはいけません。読むのは50冊くらいにして,残りの時間は書くことに使いましょう。

 書き始めたとしても,まだあまり勉強していないわけですから,思うようには書けません。読み返すのも恥ずかしいでしょう。でも,気にしないで書いてください。

 初めは,日記程度でいいと思います。日常生活での体験,読んだ本の感想,最近のニュースのことなど,何でもいいから気軽に書くことです。書き慣れない人は,100字,200字で十分です。ただし,単なるセンテンスや単語のメモでなく,文章で書くのです。そのうち,もっと長く書けるようになります。

 ひとつの目標は,どんなテーマでもいいから,400字詰め原稿用紙10~20枚くらいの論文やエッセイが書けるようになることです。
 それが,月に1~2本は書けること。
 そこまでいけば,だんだんと自分の関心領域というものが見えてくることでしょう。

 これは,文章を書くこととしては,かなり本格的なレベルです。だから,そこに至るステップというものがあります。それについては,また別の回で述べます。

 書くことで,本を読むにしても読み方が変わってきます。
 知識を自分の中に主体的に組み込んでいく感じになるのです。だから,同じ量を読んでも,残るものが多くなっていきます。

 私には,20代の前半に,学問の世界について教えてくれた若い先生がいました。その人に数年間,月1回くらいのペースで小論文のような手紙を書いて送っていました。先生も,感想を書いて送ってくださいました。
 その若い先生が,ここで書いたやり方を教えてくれました。

 たとえ読んでくれる人がいなくたって,短いレポートをたくさん書く。

 これは,「考える力」を上達させる上で,最も大切なことです。方法はこれに尽きる,と言っていいでしょう。このことは,実力のある人ならみんなわかっています。

 私のように,書いたものをみてくれる先生がいれば,幸せです。
 そんな先生がいなければ友だちでもいいです。遠くの友だちにメールやSNSで読んでもらってもいいのです。感想を言ってくれなくても,気にしないで書いたものを送ったりしましょう。

 そういう友だちがいないなら,自分で自分の読者になりましょう。

 ***

 初心者のうちにブログをするのは,良い面と悪い面があります。たしかに,ブログを通して書く習慣を身につけ,上達していく人もいます。

 ただし,上達してくると,書き始めたころの文章が恥ずかしくなって,それを誰もが読める状態にしておくのがイヤになってくるはずです……

 初心者がブログをするデメリットとしては,「不特定の人に読まれるかもしれない」という意識に縛られてしまうことがあります。ブログに書きやすいテーマや見解ばかり書いてしまう。初心者のうちからそういうことをしていると,上達しません(かと言って,不特定の人に読まれて困ることを書いてはいけません)。

 ここで「文章を書こう」というのは,自分の思考を深め,それに形を与えていく練習です。
 練習というのは,みっともないことが多いです。
 だからひとりきりでやるか,内輪でしかみせられないのが普通です。練習を公開することもありますが,それはかなり上手くなってからです。

 ブログを一種の「公開練習」の場にすることはできますが,ある程度書けるようになってから始めることをおすすめします。

 もちろんこれは「書く練習の場」としては,ということです。何かの連絡・広報など,ちがう目的があれば別です。

 「ある程度書ける」の目安のひとつは,「あなたの文章をよろこんでくれる人が,身近にひとりでもいるかどうか」です。ひとりでも読者を獲得できるかどうか,ということです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月19日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの47回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところ,「本代にいくらかけるか」「ときには高い本も買う」といった,本の買い方のことを述べています。これも,「読書論」のだいじな要素です。今回もそのつづき。


「いつか読むかも」という本は買っておく。
お金が許すのなら。


 ふつうの,教養や楽しみのための読書だったら,「これから読もう」と思う本を買います。
 でも,もっと深い勉強や,文章を発表するなどのアウトプットを志す場合は,ちがいます。
 
 買うのは,「これから読もう」という本だけではありません。
 「今は読まないけど,いつか読むかもしれない」という本も買うのです。

 私が尊敬する板倉聖宣さんという学者は,「研究テーマに関する本は全部集める」というやり方をします。

 板倉さんは,いつも複数の関心やテーマを持っていますが,そのときどきで集中できるのは,ひとつのテーマに絞られます。あるとき,「A」というテーマで研究していたとします。
 そのとき,「いつか取り組みたい」「面白そうだ」と思っている「B」や「C」に関する本をみつけたら,買っておきます。すぐに読むのではなく,ただ買っておく。

 それを積み重ねると,「A」に取り組んでいる間に「B」や「C」に関する情報も,相当集まっています。
 やがて,「B」に集中するときがきます。そのときには,「B」についての資料は大部分集まっていて,「あとはこれとこれを集めれば全部」というふうになっています。そこで,「あとの足りないもの」を短期間で集中的にさがして集めます。

 そんな達人の域には,なかなか行けません。

 でも,私たちだって,それなりの真似をしたらどうでしょうか。「今読むわけではないけど」という本も買ってみるのです。

 そんなふうに買った本を,数年後に初めて読んで,実にいい本だったことがあります。本はすぐに品切れ・絶版になってしまいます。古書を探しても,すぐにはみつからないことも結構あります。
 
 あのとき買っておいてよかった,と思います。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術