2015年05月25日 (月) | Edit |
 2014年4月23日の記事で,「これからの時代を生きるためのスキル」というテーマで私が講師を務めた勉強会のことについて述べました。

 関連記事: 勉強会「これからの時代を生きるためのスキル」2

 そのときお話しした「8つのスキル」の中に「実用的なわかりやすい文章が書ける」という項目があります。
 ほかに「コンピュータといっしょに働くスキル」などの項目もあげましたが,「文章」に関することは,私自身ずっと関心を持って追求してきたことであり,特別な思いがあります。

 今回は,私なりの「文章論」を,ある程度まとまったかたちで書いてみました(上記の勉強会で,参考資料としてお配りしたものです)。

 ***

実用的なわかりやすい文章を書くスキル 


 今の時代は,文章によるコミュニケーションがたいへん重要になっています。メールやSNS,プレゼン資料,さまざまな報告書,就職活動での自己PR…

 「実用的なわかりやすい文章が書ける」ことは,これからの時代の重要なスキルです。仕事や人生に大きな影響をあたえる,切実な能力といってもいいでしょう。

 しかし,「書くことが得意」な人は,じつは少ないです。パソコンや英語が得意な人より少ないかもしれません。多くの人が「文章を書くこと」に苦戦しています。
 テーマを与えられても,書くことが出てこない。頭に浮かぶことをどう表現したらいいかわからない。書いても伝わらず「これはどういうこと?」と聞かれる…

 通り一遍の文ならともかく,自分の想いや思考を踏み込んで述べたり,込み入った事実を文章で過不足なく説明したりするのは,やはり難しいことです。でも,そんな「踏み込んだ文章」を書けるなら,人と深いコミュニケーションをとるのに役立ちます。

 そのスキルは世の中を渡っていく上で,大事な「道具」になるはずです。


文章力の目安となる,「1000文字」を書く力

 「文章を書くスキル」で,多くの人がまず目標にすべきなのは「千~千数百文字の,一定のメッセージといくつかの情報で構成された,わかりやすい実用的な文章を書く力」を身につけることです。「千~千数百文字」は,おおまかに「1000文字」程度といってもいいでしょう。

 その長さが不自由なく書けることは,文章力のだいじな目安です。「1000文字」を圧縮したり,いくつも積みかさねたりすることで,もっと短い文章も長い文章も書けるからです。

 「1000文字」というのは,さまざまな文章を構成する「基本単位」なのです。「基本単位」が10個集まると,まとまったレポートになります。100個集まれば,1冊の本になります。

 そして,文章が書けるようになると,話すのも上手になります。表現が豊かになり,構成力も身につくからです。

 その感覚は,他人の表現を理解するときにも役立つので,聞く力,読む力も向上します。また,書くことは考えを整理し構築していく作業です。当然ながら,書くことで考える力もつきます。


上達するには,人に読んでもらってアドバイスを受ける

 文章は書き続けないと,上達しません。ではどうしたら,書き続けることができるのでしょうか?

 一番大切なのは,「読んでくれる人をみつけること」です。人に読んでもらうあてのない文章を書くのは,むなしいです。だから,教本を買ってきて文章を独学しようとしても,たいていは続きません。日記が三日坊主で終わるのといっしょです。

 さらに,できれば書いたものに対する感想やアドバイスをもらうといいでしょう。

 私(そういち)は幸運でした。若いころに,書いたものを読んで指導してくれる先生に出会えたからです。

 月1回ほどのペースでレポートを書き,先生にお会いしてアドバイスを受けていました。また,一緒に勉強する友だちが1人いて,書いたものをみせあっていました。

 それを3~4年続けたことで,文章力の基礎を身につけたのです。それだけに,「文章を読んでもらって指導を受けること」の大切さを実感しています。


しかし,「先生」をみつけるのは難しい。そこで…
 
 とはいえ,多くの人にとって,身近にそのような「先生」をみつけるのは難しいです。文章について適切なアドバイスができる人は,そうはいません。いたとしても,指導をお願いできるとは限りません。

 そこで私自身が,誰にでもアクセスできる「文章指導の先生」になる,ということも考えています。ブログやメールを使った「通信教育」による,文章講座ができないかと。

 これは,「書く力を身につけたいけど,身近に先生がいない」という人が学ぶためのお手伝いをする,ということです。

 かつて先生が私にしてくださったことを,今度は私がするのです。きちんとした指導力さえあれば,そのような存在は世の中の役に立つはずです。


「文章のセンセイ」としての私

 私そういちの「文章のセンセイ」としての特長は,以下のとおりです。

1.商業出版の著作がある「プロの技量」を持つ書き手である

 著作には『四百文字の偉人伝』『自分で考えるための勉強法』(以上ディスカヴァー21刊,電子書籍,アマゾンキンドルなどで発売中),『健康と環境』(小峰書店刊,共著)がある。
  
2.ここ数年キャリアカウンセラーとしても活動しており,のべ数百人におよぶ相談者の方たちに文章やプレゼンの指導を行ってきた。

3.大企業,官庁から,起業,NPO,文化・研究活動まで,社会のさまざまな場面での活動経験がある。つまり,さまざまな場における「読み手」や「表現のあり方」をイメージできる。

これは,以下の経歴から言えると思っています。

 私そういちは,1965年生まれ。早稲田大学法学部を卒業後,運輸関係の会社に勤務し官庁への許認可申請,グループ会社の内部監査,法務コンプライアンス,株主総会などの業務を担当(たくさんの文書にまみれた仕事でした)。
 その傍ら,学校の先生や大学教員などが参加する教育研究のNPOに参加し,おもに社会科関連の講演や著作の活動を行ってきた。その後十数年勤めた同社を退職し,「独立系投信」という金融系の会社を起業するが,撤退。ここ数年はキャリアカウンセラーとして若い人の就職の相談に乗る仕事も行っている。


「よい文章」の4つのポイント

 それでは,私そういちの「文章講座」がめざす「よい文章」とはどんなものなのでしょうか? それを支える技術や精神は何か? これには,4つのポイントがあります。

1.「よい文章」とは,シンプルでわかりやすく,正確な文章である。
  それが「実用的」ということ。


 芸術的な文章というのもありますが,多くの人がまずめざすべきなのは,実用的な文章です。

 学校教育では,そのような文章の教育にあまり力を入れていません。国語や作文の授業は,あいかわらず文芸中心です。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求する傾向があります。

 大学の授業で書くレポートも,「シンプルにわかりやすく書くこと」のトレーニングにはならないことが多いです。学術論文をお手本にしているせいでしょう。学術論文は,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章です。

2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。

 まず,自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけません。
 そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,しめたもの。その「核」さえあれば,文章は書けます。なければ,いい文章にはならない。

3.その「メッセージ」を伝えるため,ふさわしい・程よい情報や表現を盛り込む。
  
 抽象的すぎてはいけない。かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものでもない。情報が少なすぎてはいけない。情報過多もいけない。「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識しないといけません。「抽象性・具体性」「情報量」のさじジ加減を考えましょう。
  
 文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情など)を追体験させるため」に書くのです。「認識」とは「イメージ・像」といってもいい。

 書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけません。「抽象性・具体性」はそれを考える上でのカギです。

4.「押しつけ」を感じさせないだけの論理性をもたせる。

  逆にいえば,文章の「論理性」とは「読者に押しつけを感じさせない」ということです。そのためには,「論理の飛躍」をできるだけ排除しないといけません。

 不注意に書いた文章には「飛躍」が多いです。それは読者には「押しつけ」と映ります。そうならないためには,ある結論にもっていくとき,つねに必要な前提や情報を盛り込んでいくことです。

  
「4つのポイント」はどう位置づけられるか
 
 以上をまとめると,

 1.シンプルに,わかりやすく,正確に。
 2.核となるメッセージ。
 3.程よい抽象性・具体性と情報量。
 4.押しつけを感じさせない論理性。


 重要なのは,以上4つの大まかな視点です。

 具体的なコツや方法論は,上記1~4の各論になります。たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込まない」「主語を述語の関係を意識する」といったことは,「1.わかりやすく,正確に」の各論です。

 世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。1~4のポイントは,そこで論じられていることをほぼカバーしているはずです。

 また,「よい文章とは」というほかに,「文章の上達の方法論」という切り口もあります。たとえば,上達のためには「まず日記的に短い文章を書いてみること」や「よく推敲すること」が大切だ,といった話です。これまでに述べた「誰かに読んでもらう」というのも,そうです。

 しかし,この4つのポイントは,そうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるためにどんな練習を積むべきか」ということです。


多くの文章論に不足している「体系性」と「論理性」

 文章論や文章講座の中には,上記の4つのポイントのような大きな見方と,細かい具体的なノウハウを同列に論じているものもあります。「本体」(何があるべき姿か)と「上達論」(どう練習すべきか)がごっちゃになっていたり,どちらかが欠けていたりすることもあります。あるいは,1~4のどれかに関わる,ある一面だけを強化することで文章力を上げようとするものもあります。

 それでは「体系性や論理性が足りない」と言わざるを得ません。

 しかし本来は,初心者がきちんと力をつけていくためには,体系的なアプローチが必要です。さまざまな側面の事柄について整理しながら,ひとつひとつ押さえていかないといけないのです。

 私そういちが講座を行うときは,文章論の体系や論理をしっかりとふまえながら,マンツーマンでそれぞれの方に即した指導をしていくつもりです。

 つまり,「シンプルであるか」「適切な抽象性と情報量になっているか」「メッセージが伝わるか」「飛躍や押しつけはないか」等の系統だった観点で,各人が書かれたものを詳しく検討し,問題点があれば「どう書いたらよいか」を具体的に示していく。そんな文章の添削指導を行っていきたいと思っています。それを通して,必要に応じ「ものごとをどう考えるか」「どう勉強していくか」にも触れていきます。

 以上のような指導が,文章講座・文章教育には,必要だと考えるのです。

(以上)
スポンサーサイト
2015年01月19日 (月) | Edit |
 今回は,「今の多くの人がめざすべき,よい文章とは何か」について。
 私自身,ささやかながら著作を出したり,文章を書きながら考えてきたことです。
 また,この数年は若い方の就職の相談の仕事をしていて,多くの人の自己PRや小論文などを添削する機会がありました。その経験からも,「文章のありかた」について,いろいろ考えます。

 数か月前にもこのテーマで書きましたが,今回はその増補改訂版です。

 ***

「よい文章」の4つのポイント

 多くの人がめざすべき,「よい文章」とはどんなものでしょうか? それを支える技術や精神は何か? 
 これには,4つのポイントがあります。


1.「よい文章」とは,シンプルでわかりやすく,正確な文章である。
   つまりそれは「実用的」ということ。


 
 
 芸術的な文章というのもありますが,多くの人がまずめざすべきなのは,実用的な文章です。

 学校教育では,そのような文章の教育にあまり力を入れていません。国語や作文の授業は,あいかわらず文芸中心です。ある種の凝った美文や芸術的な表現を追求する傾向があります。

 大学の授業で書くレポートも,「シンプルにわかりやすく書くこと」のトレーニングにはなりにくいようです。学術論文をお手本にしているせいでしょう。学術論文は,多くの人からみれば,たいていはガチガチした読みにくい文章です。


2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。

 まず,自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけません。
 「メッセージ」とは,主張や意見,ぜひ伝えたい知識・情報,自分の想い・感情などです。

 そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,しめたもの。その「核」さえあれば,文章は書けます。なければ,いい文章にはならない。


3.その「メッセージ」を伝えるため,
  ふさわしい・程よい情報や表現が盛り込まれている。


 
 抽象的すぎてはいけない。かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものでもない。情報が少なすぎても,情報過多でもいけない。
  「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識しないといけません。「抽象性・具体性」「情報量」のさじ加減を考えましょう。
  
 文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情など)を追体験させるため」に書くのです。「認識」とは「イメージ・像」といってもいいです。

 書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけません。「抽象性・具体性」はそれを考える上でのカギです。


4.「押しつけ」を感じさせないだけの論理性がある。

 逆にいえば,文章の「論理性」とは「読者に押しつけを感じさせない」ということです。そのためには,「論理の飛躍」をできるだけ排除しないといけません。

 不注意に書いた文章には「飛躍」が多いです。それは読者には「押しつけ」と映ります。そうならないためには,ある結論にもっていくとき,つねに必要な前提や情報を盛り込んでいくことです。

 ***

  
「4つのポイント」はどう位置づけられるか

 以上をまとめると,

 1.シンプルに,わかりやすく,正確に。
 2.核となるメッセージ。
 3.程よい抽象性・具体性と情報量。
 4.押しつけを感じさせない論理性。


 重要なのは,以上4つの大まかな視点です。
 具体的なコツや方法論は,上記1~4の各論になります。たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込まない」「主語と述語の関係を意識する」といったことは,「1.わかりやすく,正確に」の各論です。

 世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。1~4のポイントは,そこで論じられていることをほぼカバーしているはずです。

 また,「よい文章とは」というほかに,「文章の上達の方法論」という切り口もあります。
 たとえば,上達のためには「日記的に短い文章をたくさん書く」「よく推敲する」「誰かに読んでもらう」等々のことが大切だ,といった話です。

 しかし,この4つのポイントは,そうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。

 スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるためにどんな練習を積むべきか」ということです。

 ***

多くの文章論に不足している「体系性」と「論理性」

 文章論や文章講座の中には,上記の4つのポイントのような大きな見方と,細かい具体的なノウハウを同列に論じているものもあります。
 また,「本体」(何があるべき姿か)と「上達論」(どう練習すべきか)がごっちゃになっていたり,どちらかが欠けていたりすることもあります。

 あるいは,上記1~4のどれかに関わる,ある一面だけを強化することで文章力を上げようとするものもある。

 それでは「体系性や論理性が足りない」と言わざるを得ません。
 しかし本来は,初心者が力をつけるためには,体系的なアプローチが必要です。さまざまな側面の事柄について整理しながら,ひとつひとつ押さえていかないといけないのです。

 今回は,ここまで。

(以上)
2014年04月29日 (火) | Edit |
 最近,「文章にとって大切なことは何か」ということを,よく考えます。

 このブログをはじめてから,私の文章に対し,お褒めの言葉を何度かいただきました。
 「正確でわかりやすい」「読者想い」「プロの文章」……そのように言ってくださるのです。たいへんうれしいことです。励みになります。
 私は上手い書き手ではないですが,「きまじめに,わかりやすく書こう」という気持ちだけはあります。それを認めてくださったのだと感じます。

 「どうすれば文章が書けるようになるか?」と聞かれることもあります。

 また,私は若い人の就職に関わる仕事をしていて,エントリーシートなどの「就活の作文」を添削することもあります。添削の結果,若い方が「こう書けばいいんですねー」と感心したり,明るい表情をみせてくれるのは,じつにうれしいです。

 そんなことが積み重なるうちに,「よい文章を書くための技術と精神」について,しばしば考えるようになりました。
 
 そこで,今ぼんやりとみえてきた,ポイントを書きます。

1.「よい文章」とは,「シンプルで,わかりやすく,正確な文章」である。

  文芸的・芸術的文章をめざす人もいるが,多くの人がめざすべきなのは,これ。


2.「よい文章」には,核となる,伝えたいメッセージがある。

  まず自分のアタマにある「メッセージ」を明確にしないといけない。
  そのメッセージをあらわす「自分なりの表現・コトバ」がみつかったら,
  しめたもの。



3.その「メッセージ」を伝えるため,
  ふさわしい・程よい情報や表現を盛り込む。

 
  抽象的すぎてはいけない。
  かといって,具体的に細かいことを書けばいいというものではない。
  情報が少なすぎてはいけない。情報過多もいけない。

  「読者のアタマにどんなイメージ・像を浮かばせるか」を常に意識する。
  「抽象性・具体性」「情報量」のサジ加減を考えよう。


  文章は,「言語によって,読者に自分の認識(思考や感情)を追体験させる」ために書くのである。
  「認識」とは「イメージ・像」といってもいい。
  書き手は「どんなイメージ・像を読者のアタマに浮かばせたいか」を考えなくてはいけない。
  「抽象性・具体性」ということは,それを考えるうえでのカギである。

 ***
 
 以上をまとめると,

1.シンプルに,わかりやすく,正確に。

2.核となるメッセージ。

3.程よい抽象性・具体性と情報量。

 
 大事なのは,この3つの視点だと思っています。
 具体的な「コツ」や「方法論」は,上記1~3の各論になります。

 たとえば,「ひとつの文に多くのことを盛り込もうとしない」「主語と述語の関係を意識する」といったことは,1.の「わかりやすく,正確に」というテーマの各論です。
 
 世の中には多くの「文章の書き方」の本があります。
 1~3の「ポイント」は,そこで論じられていることを,だいたい網羅しているはずです。

 だいじなことはほかにもあるでしょう。
 たとえば,「論理をどう扱うか」といったこと。でも,これはやや上級の事柄になると思います。
 「入門」としては,まず上記3つのポイントではないかと。

 また,「文章上達の方法論」という切り口もあります。
 上達のためには,「日記的に短い文章を書いてみる」「よく推敲する」ことが大切だ,といった話。これはこれで,たしかに重要です。

 でも今回の「3つのポイント」は,こうした「上達論」ではなく,文章論の「本体」の話です。スポーツで例えれば,「どんなフォームが正しいか,そのフォームで大切なことは何か」についてです。これに対し「上達論」とは,「そのフォームを身につけるために,どんな練習を積むべきか」ということ。

 今回は,ここまで。
 もちろん,これだけでは説明不足。今回は,とりあえずの「メモ」のつもりです。
 今後,「文章論」のシリーズとして,上記の「ポイント」について述べていきます。
 
(以上) 
テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年02月06日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの71回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

 今回で一応最終回です。最後まで書ききったつもり。
 でも,「補論」などは,ときどき書くつもりです。

 このシリーズでは,「よい先生をみつけ,徹底的に学ぶ」ことを重視してきました。
 どんな分野でもいいから,学者,思想家,作家,アーティストなどで「これは!」という人をみつけ,その人の仕事を追いかけよう。それがすべてのはじまりだ,と述べました。それをふまえての最終回。 


いつか,先生から離れるときがくる。

 熱心に読んできた先生の本なのに,手に取ることが少なくなるときが,いつかやってきます。私の場合,十年あまりでそうなっていました。

 先生が新しい著作を発表されれば,もちろん買って読みます。でも,学び始めたころのように,一冊読むたびに新しい世界がひらけてくるようなことは,もうありません。そこにあるのは,親しんできた世界であって,何が書かれているか,ある程度は予想できるのです。

 だからといって,もちろん「先生のすべてをマスターしてしまった」などということはありません。「先生の発想の基本的な部分を,ある程度理解できた」ということにすぎません。先生の本を読むことで到達できるのは,そこまでです。

 もっと先へ進むには,どうしたらいいでしょうか?

 今までは,先生がみつけ出した問題を,先生が解くのを見ていました。そうやって,問題のみつけ方や解き方を学んでいたのです。先生の話を聞いたり本を読んだりするというのは,そういうことです。

 今度は,自分で自分の問題をみつけ,自分で解くことです。
 それを,先生から学んだやり方でやってみることです。

 先生の解いてきた問題と私の問題とは,あたり前ですが別個の問題です。先生の本をみても,私の問題の解答は出ていません。

 先生をより深く理解するには,「先生の言ったことを知る」だけでなく,どんなにささやかでもいいから,かつて先生が行ったように「自分の興味ある問題を自分で解いていく」ことを経験していくしかありません。

 今の私は,そのへんのところで試行錯誤しています。歩みが遅いせいで,学び始めてから随分と時が経ってしまいました。でも,ここからが本当に面白いところです。

 誰でも,いつか先生から離れ,「自分の問題」に向かうときがやってきます。そのときが,楽しみです。

(おわり)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年01月28日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの70回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る


 この「勉強法」のシリーズも,いよいよ大詰めです。
 今回は最終回のひとつ前。次回が最終回。

 「アイデアは個人のアタマから生まれるが,それが広がるためにはグループの力(人の結びつきや協力)が必要だ」という話です。
 おおげさにいうと「研究・創造の組織論」。
 その初歩の話です。

 私は,読んだり書いたりということを,基本はひとりでやっているのですが,研究団体的な組織やNPOに積極的に参加していたこともあります。

 そういう体験をふりかえっても,今回の記事で書いていることは,まさにそうだと思います。
 組織や仲間というのは,大事だと。

 でも,深く考えたり,大事なアウトプットというのは,1人で行うものです。「みんなで・仲間で」という姿勢でうまくいくものではない。「大きな仕事」などではなく,ごくささやかな何かをするにしてもそう……そのように私は思っています。

 でも,「考えたこと」をさらに進めていったり,社会に広めていくには,仲間や読者が必要です。人とのつながりが要るのです。
 そもそも,「アウトプット」というのは,自分の考えを社会的なものにしていくため,人とつながるために行うものです。

 このあたりのことを,私はこんなキャッチコピーにしています。

 ひとりでないと考えられない。
 ひとりきりでは考えられない。


 この2つの命題は矛盾しているようにみえます。
 でも,そのように矛盾していることが,まさに真実なのではないかと思います。
 
 ***

新しいアイデアは,つぎのステップで広がる。
「個人」→「グループ」→「社会」


 新しいアイデアが社会に広がっていくには,「個人」→「支持者のグループ」→「社会の大勢」というステップをふみます。

 まず,新しいアイデアは,すべて個人の頭の中で生まれます。あたり前だと思うでしょうが,それを忘れてしまうことがあるのです。

 大企業や政府のプロジェクトの中には,「予算と組織さえあれば,何か新しいものを生み出せる」と勘ちがいして,予算の無駄づかいに終わったものがあります。しかし,特定のアイデアを持つ特定の個人の取り組みによってしか,新しいものは生まれないのです。

 たとえば,1980年代の日本で,「第五世代コンピュータ開発」という国家プロジェクトがありました。「日本独自の技術で,次世代をリードする新しいコンピュータをつくり出そう」というもので,多くの研究者が結集し,何百億円という予算がつぎ込まれました。
 
 このプロジェクトがめざしたのは,「IBMなどがリードしていきたこれまでとは異なる,コンピュータの新しい時代を切りひらくこと」でした。

 しかし,このプロジェクトは,期待したものはほとんど何も生み出せないまま終わりました。

 「コンピュータの新しい時代」をひらいたのは,日本の国家プロジェクトではなく,パソコンを初めてつくり出した,アメリカの無名の若者たちでした。アップル社を設立したスティーブ・ジョブズやスティーブ・ウォズニアックのような人たちです。お金のない彼らは,実家のキッチンやガレージで仕事を始めました。

 「第五世代コンピュータ」のことを,昔話として片づけるわけにはいきません。その後の「インターネットによる新しい世界」に関して創造的な仕事をしたのも,やはり「無名の若者たち」でした。

 ***

 いいアイデアが生まれると,次にそのアイデアを支持する限られた人たちが現れます。その支持者たちが,何らかのグループや組織をつくっていきます。
 
 企業のような組織そのものが,アイデアの支持者として現れることもあります。支持者のグループや組織によって,初めてアイデアが社会の大勢に普及していきます。

 学問研究の場合でも,まず独創的な学者が現れて新しい理論を考え出す。そして,学派の活動によって,新しい理論が学界や社会に影響を与える――そういうステップをふみます。

 パソコンの場合も,いきなり社会の広い範囲に普及したのではなく,少数の熱心なマニアによって支えられていた時期がありました。マニアの人たちや彼らの支持するパソコン雑誌が,パソコンを社会に認知させる「伝道者」の役割を果たしました。

 アイデアは「個人」の頭の中に生まれますが,それを広げていくには「グループ」の社会的活動が必要です。
 どんなにすばらしいアイデアでも,「個人」からいきなり「社会の大勢」ということは,あり得ません。

 新しいアイデアを持つ個人の中には,「なぜ自分のすばらしいアイデアが世に出ないのだろう」とイライラしている人がいます。そういう人は,「自分のアイデアを支持するグループ」がないのです。

 いいアイデアが出てきて,社会に広めたいと思ったら,ここに書いた「ステップ」のことを思い出してください。まず,限られた範囲で支持者が集まるかどうかです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年01月14日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの69回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る


 この「勉強法」のシリーズでは,「勉強したら,文章を書いて人にみせよう(発表しよう)」ということを,強調しています。今回の記事は「発表する範囲(お客さんの数)というのは,続けるうちに拡大していく」というイメージを述べています。その「拡大」にはステップがある,という話。

 前回の記事「印税生活?」で述べた,「自分の出した電子書籍がなかなか売れない」というのは,これに関わっています。私は今,お客さんの数を商業出版のレベル(数千人以上)にしたいと取り組んでいるのですが,そのむずかしさを感じているわけです。
 読んだり書いたりを続けて,もう50歳近いけど,まだまだそういうレベル。
 でも,「駆け出し」として元気にやっているつもりなので,それはそれでいいか,と思います。


最初からドームでできるミュージシャンはいない。

 デビューからいきなりドームとか武道館で演奏できるミュージシャンはいません。みんな,初めはライブハウスや小さなイベント会場でやっていました。

 いや,そういう小さな場所で演奏できるまでだって,大変でした。何年も懸命に練習を積んで,初めてできることです。メジャーになった人は,小さな会場でやっている時期にスカウトされたり売り込んだりして,チャンスをものにしたのです。

 ものを書いて発表することも同じです。いきなり何万,何十万の読者を相手にすることはできません。

 巨匠といわれる人でも,その多くは「発行部数何千部」といった媒体からスタートしました。そこで初めて,原稿料をもらって書くことができたのです。

 その前は,同人誌やサークルの機関誌など,「何百部」「何十部」の世界で書いていました。そこでは,原稿料をもらうどころか,会費を払って書いています。さらにその前は,限られた仲間だけに,書いたものを見せていました。

 「部数何百部」の世界で文章を発表するというのが,最初の目標として目安になります。
 その規模の同人誌や機関誌では,よい原稿がなかなか集まらなくて,困っていることが多いです。その媒体に合ったもので,きちんとしたものを書いて持っていけば,載せてもらえる可能性は高いです。

 その段階をふむことなく,いきなり「何千部」の世界で原稿料をもらって書ける人もいます。さらに,最初から「何万部」の世界で活躍できる人もいます。

 でも,自分がそうなれないからといって,気にすることはありません。
 書いたものがすぐに世に出なくても,まずは「何百部」の世界で発表していけばいいのです。そこで蓄積をつくりながら,上のステップをめざせばいいのです。

 それから,今はインターネットがあります。紙の同人誌や機関誌のほかに,ネット上の媒体に載ることも,大きな選択肢です。また,ブログなどのかたちで,自分で発表の場をつくることもできます。

 ただ,ネットの世界でも,読者の数に応じていろんな階層の媒体があることは,紙の出版と変わりません。そして,最初はお客さんの少ない場所からスタートする,ということも同じです。

 小説の世界では,「同人誌でたくさん書いてからデビューした作家は,長続きする」と言われてきました。小説の同人誌は近ごろはめっきり減ってきたそうですが,「蓄積をつくる時期が,誰にも必要だ」ということは変わりません。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月18日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの68回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。
 今回は,人が集まる「勉強会」について。今はネット上での交流も盛んですが,やはりリアルで人に会って話すというのはちがいます。大事なことではないかと。


「勉強会」をおおげさに考えない。
三人集まれば,勉強会。


 「勉強会」を持つことはいいことです。考えを交流する場を持つのは,必要なことです。孤立して「考える」ことはできません。

 そして,現実に人と会って話す「勉強会」というのは,「交流の場」としては,たいへん密度の濃いものといえるでしょう。ネット上の交流にはない充実感が,あるのです。

 でも,勉強会というものを,おおげさに考える必要はありません。どんなにささやかでもいいから,「考えを交流する場」を持つことです。

 3人集まれば,勉強会になります。3人の人間が年1回のペースで3回も集まれば,それが勉強会なのです。

 勉強会は2人でも一応成り立ちます。しかし,意見の多様性が,3人になるとぐっと広がります。2人だと自分のほかにひとりしかいませんが,3人だと自分以外の人が複数います。それが大事なのです。

 慣れていない人は,10人も集めて月1回は開かないといけないと思っています。
 でも,そういう立派な会は,もっとあとでもいいのです。「10人で月1回」などということをすると――とくに世話役などをすると,運営にエネルギーを使い過ぎて,自分の勉強ができなくなることがあります。

 初めのうちは,密度の濃い仲間が2~3人もいれば十分なのです。

 私も,そんな2人や3人の勉強会をしてきました。20代のころでした。場所は,郊外のファミレスです。ペースとしては,年数回くらい。アルコールは一切なし。コーヒーや軽食をときどき注文しながら,4~5時間粘っていました。コーヒーショップに集まることもありました。

 個室・教室のほうがよければ,公共施設に安い料金で使えるものがいろいろあります。自宅で研究会をしたこともあります。

 とにかく,2~3人なら,事務的な負担はほとんどゼロです。会場の確保も容易です。それぞれが発言したり,それぞれのテーマについて話し合ったりする時間も,十分にとれます。組織運営のノウハウがなくても,充実した会にできるでしょう。

 まず,2~3人で始めてみましょう。その中で,自分の世界を築いていきましょう。そのあと必要なら,本格的なサークルを作ればいいのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月09日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの67回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,進化論のダーウィンという偉人を通して「人とのつながり」のことを述べています。


ひとりでやっているようにみえる人も,
じつはひとりではない。


 ひとりの時間をつくることは,知的創造にとって欠かせません。でもそれは,人とのつながりを絶って孤立することとはちがいます。
 歴史上の天才には,孤立してひとりでやっているようにみえる人がいます。進化論を唱えたチャールズ・ダーウィン(1809~1882,英)も,そうでした。

 ダーウィンは,大学などの機関に属さず,個人で研究しました。彼はお金持ちだったので,自由な時間や研究資金には苦労しませんでした。ロンドン郊外にある自分の屋敷を研究所にしていました。

 ただ,神経症的な病気をわずらっていたので(何の病気かはよくわかっていない),外出したり人に会ったりすることが,あまりできませんでした。若いときは元気だったのですが,30代以降そうなります。それで,彼は大部分の時間を,屋敷に閉じこもって暮らしました。

 そこで,彼に関心を持つ人たちの間では,「ダーウィンは,孤立した天才」というイメージがありました。
 しかし,彼のことを研究した結果,そのイメージは修正されるべきだということがわかっています(ピーター・J・ボウラー『チャールズ・ダーウィン 生涯・学説・その影響』朝日新聞社 1997)。

 ダーウィンは,あちこち出かけたり人に会ったりすることはあまりできませんでしたが,いろんな人にたくさんの手紙を書いていました。そうして,屋敷にいながら多くの科学者と交流して,進化論の研究を進めたのです。

 当時の手紙=郵便というのは,今で言えばインターネットのような,最新の通信手段でした。ダーウィンが活動するころから,イギリスでは郵便制度の改革によって,それまで高価だった郵便料金が,多くの人にも利用可能な値段になりました。

 ダーウィンは,郵便という最新の手段をフルに活用して,いろんな人と交流していたのです。

 そして,信用できる,共感してもらえると思った人にだけ,まだ公表していない自分の進化論について伝えました。そうやって,自分の考えを支持する専門家のグループを,ひっそりと組織していったのです。

 ダーウィンの進化論は当時,「神の否定」につながる危険思想でした。
 それを自覚していたダーウィンは,「何の戦略もなしに自分の理論を公表したら,つぶされてしまう」と思いました。そこで,自分を支持する専門家グループ=学派を組織し,その助けを借りて,つぶされることなく自分の考えを社会に広めていこうとしたのです。

 彼が進化論について初めて着想したのは30代前半のことですが,それを『種の起原』などの著作で公表するまで,20年近くかけて準備しています。その間,自分の学説を構築することと平行して,仲間の輪を広げていったわけです。

 その戦略は当たりでした。彼の学説は,多くの支持や反響を得ることに成功します。

 彼の進化論を社会に普及する活動を直接行ったのは,ダーウィン自身ではなく,彼を支持する科学者たちでした。講演や反対者との論争は,ダーウィンの支持者のハックスリーという科学者が中心になってやっていました。

 進化論を発表して有名になってからも,ダーウィンは屋敷にこもったままでしたが,旧来の仲間とのつきあいを大事に守っていきました。

 ダーウィンのような,半病人で家にこもりがちの学者でさえ,孤立しないようにいろいろ努力しています。ひとりでやっているようにみえる人も,じつはひとりではありません。孤立からは,何も生まれないのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年12月03日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの66回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,いわば「多作の構造」です。たくさんの仕事ができる人は,どうしてできるのか。


多作な人は,多作だからこそ,書くことが尽きない。

 たくさんの仕事をしている人を見ていると,「多作なのに書くことが尽きない」のではなく,「多作だからこそ,書くことが尽きないのだ」と思えます。

 どの分野にも,寡作な人と多作な人がいます。学問の世界でも,ほとんど論文を書かないまま定年を迎える大学教授がいる一方で,百も二百も論文や著作を発表している学者がいます。

 そして,多くの場合,寡作な人よりも多作な人のほうが,ひとつひとつのアウトプットの質が高いのです。
 「量」の多い人は,「質」のほうも伴っているということです。

 「やはりすごい人はちがうなあ」と言ってしまえば,それまでかもしれません。でも,「その人がすごいから」というだけでなく,そこには「多作が多作を生む」というそれなりの構造があるように思えます。

 書くことによって,人は多くの情報にめぐり合うことができます。

 書くために調べものをするときには,いろんな問いかけを持って資料にあたります。問いかけを持つことで,目的のはっきりしない読書よりも,はるかに多くのことが頭に残ります。たくさん書く人は,たくさんの知識やノウハウを蓄えることになります。

 書くことによって,人はいろんなことを考えます。

 今書いているテーマに沿ったことだけではありません。その周辺にある,いろんなことに気がつきます。「今度は,このことをやってみたい」と思えるようなテーマを,いくつも発見するのです。そこで,たくさん書く人ほど,たくさんの書きたいテーマを抱え込むことになります。

 そして,たくさん書く人は,たくさんのテーマを次々と消化するだけの知識やノウハウを持っている。だから,たくさんのテーマを次々と消化していってしまいます。

 その過程で,さらにまたたくさんの知識やノウハウを蓄え,さらにまたたくさんの書きたいテーマを発見していく……

 もちろん,私はそんな境地を体験したわけではないのですが,たぶん,そうなのです。多作な人の仕事ぶりをこの目で見たり本で読んだりすると,そう思えるのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月27日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの65回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る


 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,誰にもある,不調なとき・つらいときをどうするか。


つらくなったら,活動レベルを下げて,
できることをすればいい。


 読むことや書くことを,職業でもないのに続けていると,「もうやめてしまおう」と思うことがあります。忙しさの中で,だんだんと意欲が衰えてくる。「自分も何かしたい」という気持ちが薄れてくる。

 でも,そこでやめてしまうことはありません。もったいないです。

 半年や一年勉強しても,たかが知れています。一日のペースを気にせずに続けることが大事です。

 何かの事情で学ぶことがつらくなっているのなら,活動レベルを下げて続けることをおすすめします。

 何かを書き上げるだけの時間やエネルギーがないと思うなら,読むだけにする。
 むずかしい本を読むことができないなら,もっと気楽な本を読む。
 書いたり読んだりするペースを落とす。年に百冊読んでいたのが,十冊になってもいい。研究や読書のプランをぼんやり考えるだけでもいい。

 もちろん,重い病気にかかったときなどは,治療に専念することになります。そのため,活動レベルがほぼゼロになるときもあるでしょう。

 でも,とにかくそこで「やめた」と思わないこと。
 こうして活動レベルを下げるのも,一時的なことだと思うこと。

 期限を決める必要はありません。元気が戻ったり,障害となっていることが過ぎ去ったりしたら,復帰すればいいのです。

 そのうち状況は変わります。
 短期間のうちに大幅に変わることはなかなかないかもしれません。
 でも,ほんの少しだけなら,変化があるはずです。そのとき,「いずれまたやるぞ」という心の準備ができてさえいれば,わずかな状況の変化でも,すぐにまた動き出すことができるのです。

 私も,1年くらいの間,活動レベルをダウンしていた時期があります。体調を崩していたのです。
 その時は書くのをやめて,疲れない本を読むだけにしていました。でも,「調子が戻ったら,またやるぞ」と思っていたので,やがて復帰できました。

 「もうやめた」と思って気持ちが切れてしまうと,再開するのがむずかしくなります。
 「もうやめた」という自分への約束を守ろうとしてしまうのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月23日 (土) | Edit |
 前回の「勉強法」の記事(すぐ下にあります)で,「テレビの観すぎ,お酒の飲みすぎに注意」という話をしました。それに対し,どですかでん次郎さん(ブログ:寄らば大樹の陰の声)から,コメント(問いかけ)をいただき,私なりに考えたことを述べました。「テレビをどう考えるか」ということの,入り口の話です。

 どですかでん次郎さんは,統計学などの理系的センスをベースに,身辺のいろんな話題を論じたブログを書かれています。

 自分の記事に対し,踏み込んだ考察を含むコメントをいただき,自分もまた考えて書く……うれしく,たのしいことです。

 ***
 
【どですかでん次郎さんからのコメントより】

テレビとお酒以外はすべて時間の無駄ではない

そういう考え方も確かにできそうですね。私も似たような考えを持っているような気がします(私もお酒が大好きですが)。

ただ、最近、別の考え方もジワジワと浮かぶようになってきたので、そのことをちょっと書かせていただきます。もしよろしければ、そういち様の御意見をお聞かせいただければと思います。

私が気になるのは

テレビを見ている時間は本当に無駄なのか?

ということです。

テレビを否定する意見は非常に多くみられますし、私もしばしばその弊害を感じております。ですが、最近ではプラスの面もかなり多くあるように思うのです。たとえば、

・テレビがどうやって視聴者を何時間も立ち止まらせることができているのか、その手法を学べる

・「嘘をつかないで人をだます(分かったような気にさせる)手法」を学ぶことができる

・人との雑談の際、テレビの内容を知っていることで、相手との共通の話題をもつことができる(テレビがみている人が多いということは、それだけこの効果が大きくなる。逆にテレビの内容知らないと、周囲の秩序を乱す可能性がある)

などです。ちなみに人を騙すことに関しては、自分も同じように騙すのではなく、騙そうとする人間から己を守るために役立つ資料になるのかなあ、なんて思います。


 ***

【以上に対するそういちの返信】(コメントに若干の加筆修正)

 まず,漫然とした娯楽としてのテレビは,私は好きです。これまでの人生で,わりと観ているほうだと思います。浪人(失業)中に,ドラマの再放送(『相棒』シリーズとか,90年代のトレンディーなドラマとか)なんかを朝から晩まで観たこともありました……

 「テレビにプラスの面がある」というのは,私もたしかにそうだと思います。

 この「勉強法」でテーマにしているような「自分のアタマで考える」ということにとって,テレビにも役立つ面はあると思います。
 どですかでん次郎さんの言われるように,「人を惹きつける,騙す」など,表現のさまざまな手法に触れること,それから「人との共通の話題」「常識」を知ることができる……等々。

 私にとっては,テレビというのは,この世のいろんな様子や人物や商品や作品を切り取って並べている「ショーウインドウ」のような感じもします。それはそれで,たいへん魅力的です。

 あれだけの予算や手間をかけてつくられている世界なのですから,そこからいろいろ学ぶことはできると思います。
 ただし,どですかでん次郎さんのように主体的な姿勢とか「問いかけ」が必要だとは思います。
 そのような「問いかけ」は,テレビを観ているだけでは,できていかないはずです。

 さて,おっしゃるように,テレビは「文化的」「知的」であろうとする人たちから,いろいろ否定的にいわれてきました。
 その根本には,テレビが圧倒的に多くの人に影響をあたえるメディアだった,ということがあるでしょう。メジャーで大衆的なものは,インテリにけなされる傾向があります。

 しかし,将来はそれも変わってくるかもしれません。
 テレビの影響力が衰退してきています。テレビは以前ほどは観られなくなっており,人びとが夢中にもならなくなっています。

 もしも将来,テレビが今よりもずっとマイナーなものになると,ある種の「シブい文化」として評価されるようになるかもしれません。

 たとえばラジオは,マイナーになったせいで,すっかり「シブく」なった感じがします。
 
 私は数年前(これも浪人中の話です),ラジオ(FMが中心)をよく聴いていたときがありました。要するに家でゴロゴロしてたわけです……
 
 そのとき「ラジオって結構タメになるなー」と思ったものです。自分からは手を出さないような音楽との出会いはもちろんですが,本の紹介とか,知る人ぞ知る感じの新しい文化の動きや社会的活動やビジネスのことなどが,かなり紹介されている。

 そのような「動き」の当事者が出演して,お話しされたりしているのです。
 
 また,テレビにはあまり出てこない識者が,時事問題を(テレビでは聞かないような視点で)解説してくれることがあります。テレビでもおなじみの識者が出てきたときも,テレビよりもじっくりと話せるので,より踏み込んだ話を聴けることもある。

 家に居ながらにして,「充実した文化講演会」に参加できる感じ……ちょっとホメすぎかもしれませんが。
  
 そっくり同じことにはならないでしょうが,メジャーから脱落したときに,テレビも今の「ラジオ的」な性格を持つようになる気もします。

 「テレビが好きで」などというと,ちょっと文化的な香りがする時代が,いつか来たりして(^^;)
 
 ネットでせいぜい「数分」の短い映像をたのしむことが娯楽の主流になったとしたら,テレビで「2時間」もの長大なサスペンスをじっくり観るなんて,まさに「オトナのたのしみ」ということになる……「土曜ワイド劇場」を観るというと,オペラや歌舞伎を観るような格調を(多少は)帯びるということか……それはないでしょうね,さすがに。

(以上)
2013年11月22日 (金) | Edit |
「自分で考える勉強法」シリーズの64回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る


 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,それらについての基本的な考え方。

 今回は,テレビなどの「時間つぶし」をどうとらえるか。「テレビ」というのは,漫然とネットをみたりゲームをすることなども含めて象徴的に言ってます。


テレビと飲み過ぎ以外は,時間の無駄ではない。

 時間を無駄にしないためには,どうしたらいいのでしょうか? テレビを見過ぎないこと,お酒を飲み過ぎないこと。大事なのは,この二つです。

 私はテレビが好きなので,うっかりしていると,5時間でも6時間でも観ています。お酒も好きです。誘われたら,まず断りません。ひとりの夜でも,家で晩酌をしています。

 でも,どこかでほどほどにしておかないと,勉強の時間がなくなってしまいます。

 会社員だったころの私は,仕事から帰るとまずテレビをつけていました。
 その後すぐにパソコンを立ち上げて机に向かいます。そして,テレビを観ながら,ワープロを打ち始める。のってくると,テレビはどうでもよくなって,音を小さくします。

 家に帰るなり飲んでいたのでは,何もできなくなりますから,家で飲むのは(体にはよくないですが)深夜になってからです。でもがまんできなくて,夕食のとき,ちょっとだけビールを飲んだりしたのでした。

 テレビとお酒以外の楽しみで,時間の無駄使いというのはあり得ません。
 もし,テレビとお酒以外で時間を使ってしまって勉強できないというのであれば,あなたがやりたいことは勉強ではないのです。


 つい時間を使ってしまうその「楽しみ」が,あなたの本当にしたいことです。したいことをしているのは,有意義な時間です。

 休みの日にテレビしか楽しみがないという人は,勉強に向いています。テレビを減らすだけで,本が読めます。書くことができます。いろんな楽しみがある人は,そうはいかないのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月18日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの63回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 前回から,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,それらについての基本的な考え方。
 

起きている間に勉強すれば,いいじゃないか。

 昔,ある男が偉いお坊さんに尋ねました。
 「念仏を唱えて仏道に精進しようとするのですが,すぐに眠くなってしまいます。どうすればいいでしょうか?」
 お坊さんは答えました。

 「起きている間に,念仏を唱えなさい。」

 これは,高校のときに古文の授業で読んだ,『徒然草』にあるお話です。

 ちょうどそのころ,大学受験のことが気になっていて,「睡眠時間を削って夜遅くまで勉強しないと駄目かなあ」などと考えていたので,印象に残りました。「そうだな。起きている間に勉強すればいいんだよな」と納得しました。

 睡眠時間を削って勉強してはいけません。
 ここでテーマにしている勉強は,半年や一年の受験勉強とはちがうからです。短期間で片づくようなテーマや目標だったら,面白くないでしょう。

 5年や10年という,もっと長いスパンの勉強をするのですから,睡眠時間を極端に削っては,とても続きません。

 だからといって,人よりたくさん寝ているのも,どうかと思います。勉強したり書いたりすることが調子にのってくると,自然に睡眠時間は短くなります。つい夜更かしをして,翌朝起きるときにつらくて,後悔するのです。

 漫画家の手塚治虫(1928~1989)は,若いころ,人に「どうして(そんなに)眠るんですか?」とたずねたことがあるそうです。

 人並みに眠るということが理解できないほど,スタミナがあったということです。あるいは,それほど仕事に打ち込んでいたということです。テレビのドキュメンタリーで見た手塚は,タクシーの中でも絵を描いているほど,忙しい人でした。

 たぶん私たちは,手塚治虫のようにはいかないでしょうから,(でも本当にそんな質問したんでしょうかね?)起きている間に勉強するしかないのです。

(以上)
2013年11月16日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの62回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 前回から,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 そこにある考え方を,キャッチコピー的にいうと,

 ひとりでないと,考えられない。
 ひとりきりでは,考えられない。


 「ものを考える」のには,矛盾するこの両面があると思います。

 *** 

お金がなくてどこにも行けない人は,
読書ができる。文章が書ける。


 お金がなくてどこにも行けない人は,たくさんの本を読み,たくさんの文章を書くことができます。

 小遣いがたくさんある人は,時間を勉強以外のことに使います。
 私も,給料が入ったばかりの月初めは,つい飲みに行ったりして,勉強を怠ったものでした。お金が苦しくなる月末のほうが,読んだり書いたりが進みます。

 人と会ったり,楽しい場所へ出かけたりするには,お金がかかります。
 お金があると,人は行動的になれるわけです。

 でも,ものを考えたり書いたりということは,人と会っているときにはできませんし,楽しい場所では気が散ります。ものを考えたり書いたりということは,つまらない場所でひとりにならないとできません。

 昔の政治犯は,監獄で勉強したり本を書いたりしています。監獄というのは集中できる場所なのでしょう。

 どこにも行くお金がない人は,図書館に行けばいいのです。
 図書館は,お金をかけずにいくらでも時間を過ごせる場所です。

 だから図書館は,ハローワークの次に失業中の人が多くやってくる場所ではないかと思います。私も,起業した会社を辞めてからしばらくは何の仕事もなく,よく図書館に行っていました。そして,「図書館通いの失業者」から文筆業になった人は,何人もいます。

 ものを書くというのは,最低限,原稿用紙と鉛筆を買うお金があればできます。
 一日あたりのコストは,せいぜい何十円でしょう。書いていると,お金をかけずにいくらでも時間を過ごすことができます。

 ある有名な建築家が,まだ駆け出しで自分の事務所を開いたばかりのころ,全然注文が来ないのでヒマでした。当然,お金もありません。
 そこで,注文を受けたという想定で,勝手に設計図を描いて過ごしていました。それくらいしか,することがなかったのです。

 そうやって描いた図面のひとつをコンクールに応募したところ,賞を取りました。それがきっかけで仕事が来るようになりました(この話は,知人の是澤輝明さんのお話と著作で知りました)。
 
 こういうエピソードは,ほかのクリエイターでもあることでしょう。
 お金がないときは,勉強するチャンスです。何かを作り上げるチャンスです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月13日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの61回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 今回から新章突入です。新章のテーマは,「勉強のための生活論,組織論」といったらいいでしょうか。
 トップの記事にある電子書籍『自分で考えるための勉強法』も,ぜひよろしくお願いします。

 ***

ひとりになったとき,そこがあなたの書斎。

 私にも,書斎と言えるものはあります。でもきちんとした個室ではなく,夫婦で暮らす集合住宅の一画を棚でラフに仕切った,3畳ほどのスペースです(「書斎コーナー」ですね)。
 
 あとは,家のあちこちに本棚を設置して,本を並べています。友人に,「古本屋さんみたいな家だ」と言われたことがあります。

 若いころは,狭いアパートのひとり暮らしでしたので,居間と寝室を兼ねた部屋に,本棚と机がわりのテーブルを持ち込んでいるだけのことでした。

 もちろん,書斎で読んだり書いたりはします。とくに,パソコンに向かうときはそうです。でもほかの場所で読み書きをすることも多くあります。その時間もまた重要です。

 電車の中やコーヒーショップでは,集中して本を読むことができます。若いころ,ファミリーレストランで何時間もノートに向かって書いていたことがありました。

 大書店でいろんな本を手に取っていくうち,半日が過ぎてしまうこともあります。
 歩いていて,思いつくことがあると立ち止まってカードにメモします。
 「どこでも書斎」というのは,本当です。

 書斎の本質は,「ひとりになるための部屋」ということです。

 人はひとりにならないと,考えたり,読書したり,ものを書いたりすることはできません。本質的に大事なのは,「ひとりになること」なのです。 
 ひとりになれる部屋を持つことは,手段のひとつにすぎません。
 ひとりになれれば,どこででもあなたは考えたり,読書したり,書いたりすることができます。

 ひとりになったとき,そこがあなたの書斎です。場所や空間の問題ではなく,「時間」の問題として「書斎」を考えましょう。

 日本の住宅事情では,勉強や研究のための個室を持つことはむずかしいです。結婚して子どもがいたりすると,とくにそうでしょう。
 個室が確保できないなら,居間や寝室の片隅に小さな机を置く。
 それも無理なら,キッチンのテーブルで読んだり書いたりすればいい。プロの物書きや研究者でも,そうしている人がいます。

 空間の問題は,何とかなるものです。書斎の問題は,場所や空間ではなくて,「時間」です。大切なのは,「ひとりの時間」をどれだけつくれるか,ということなのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年11月02日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの60回目。

 このところ,「文章論」を続けてきましたが,今回でひと段落。
 具体的な文章の書き方よりも,「とにかく書いてみよう」ということを,いろんな側面から述べてきました。
 より具体的な「書き方」の話も,一種の「補足」としていずれ書いていきたいです。


他人の批判から早く抜け出して,
「自分の仕事」をしよう。


 二十代前半のころの私は,他人の批判ばかり書いていました。「あの本のここが駄目だ。なぜなら……」といったものばかり書いていたのです。
 「これだ」という先生を決めて,その発想を自分のものにしようと,先生の本を熱心に読んでいたころのことです。

 少し勉強すると,その成果を何かに使ってみたくなります。
 そこで一番簡単なのが,他人の批判です。先生とはちがう立場や考え方の人の本を読めば,「これはちがう」と思えるところが結構みつかります。

 その本の著者がかなり有名だったりすると,うれしいものです。自分もいっぱしの「知識人」になったような気がしてきます。批判をノートにでも書いていると,興奮してどんどん書けてしまう。

 そういう時期があってもいいと思います。
 先生の発想を身につけるトレーニングになるでしょう。少なくとも,書く練習にはなります。すぐれた先生たちでも,若いころに「他人の批判」を書いていたケースは多いです。

 でも,「他人の批判」からは,早く抜け出したほうがいいです。

 あなたが向上し,周囲や社会に貢献するには,「他人の批判」ではなく「自分自身の積極的な主張や情報」を出していく必要があります。「自分の仕事」を早くみつけて,進めることです。そのほうが楽しいです。

 **

 二十代半ばのとき,原稿用紙で百数十枚の「大論文」を書いて,ある先生(これまでこのシリーズで何度も出てきた板倉聖宣さんや南郷継正さんとはちがう方です)のところへ送ったことがあります。
 その先生は多忙な方なのに,書いたものを送ると,すぐにハガキで感想を返してくださいました。誰に対してもそうなさっている,と聞きました。

 先生からのハガキには,私がある研究者を批判して書いた箇所を指して,「こういうケチつけから,早く抜け出すように」とありました。そして,「自分のテーマや主張があるなら,堂々とそれを進めていきなさい」ということをおっしゃっていました。

 そのころから,私はだんだんと「他人の批判」を書かなくなっていきました。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月29日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの59回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 といっても,具体的な文章のテクニックではなく,「とにかく書いてみよう」ということを強調してきました。
 今回は「力を入れて書いてみよう」という話。とくに,エネルギーあふれる若い人は,意識されるといいのではないか,と思っています。


最初は,不自然なほど力が入っていていい。
よけいな力は,あとで抜けてくる。


 理論的な勉強を少し積んだ人がものを書いてみると,やたらと肩に力が入ります。ガチガチした,読みにくい文章になる。そのわりに,中身は薄かったりする。

 私がそうでした。そして,それでよかったんだと思います。

 「論理的な,きちんとした論文を書くんだ」という気持ちで,思いきり力を入れて書いてみましょう。
 論旨に矛盾や飛躍はないか,よく注意してスキのない文章を書くのです。むずかしそうな抽象概念も,使ってみましょう。細かなデータも,並べてみましょう。

 「論文」などというと,構えてしまうかもしれませんが,とにかく自分なりに精いっぱい「きちんと筋の通ったもの」を書こうとしてみる,ということです。
 そのことで,読みやすさなどの文章としての「出来栄え」は,いまひとつになるかもしれません。でも,やってみる価値はあります。

 すぐれた学術論文は,知的な文章の最も厳密で,完成された形です(これと対をなすものとして,詩や小説などの「芸術的な文章」の世界があります)。
 論文を柔らかくしたり,簡潔につくり変えたりしていくことで,評論もエッセイも書くことができます。以前の記事(コラムを書いてみよう)で述べたコラムというものの多くは,簡潔なミニ論文なのです。

 本当にすごい人は,論文も柔らかい文章も書けます。そしてそれは,本格的な論文できたえた力と技があるからです。

 いくらか勉強したら,肩に力を入れて大論文を書いてみましょう。「自分の志向はそうではない」という人も,練習としてやればいいと思います。もっと短くて軽いものを書く一方で,取り組んでみる。

 そうやって,知的な体力を身につけるのです。
 そのうち,よけいな力も抜けてくるでしょう。軽いものばかり書くのは,それからでもいいのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月22日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの58回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 といっても,具体的な文章のテクニックではなく,「とにかく書いてみよう」ということを強調してきました。
 今回は,書くための基本的な「構え」について,といったらいいでしょうか。


机に向かっていないと,書けない。

 このシリーズの別のところ(9月5日の記事)で,「机に向かっていては,本は読めない。ベッドの上のほうが読める」と書きました。
 でも,文章を書くときは,その逆です。机に向かっていないと,文章は書けません。

 世の中には,電車やタクシーの中でも原稿を書いてしまう,すごい人がいます。でも,真似できるものではありません。書くということは,読むことの何倍も集中力のいる行為です。

 集中するには,じっと机に向かっていることです。ワープロを前に,書こうとすることについてひたすら考えます。

 じっと待っていると,センテンスや考えが浮かんできます。
 そこですかさず,キーをたたく。
 急がないと,考えはどんどん逃げていきます。調子の悪いときでも,1~2時間やっていれば,何か出てきます。

 長く考えているほど,いろんなことが浮かんでくるようになってきます。30分ずつ4回に分けて考えるより,連続して2時間考えるほうが,トータルは同じでもはるかに多くの成果が上がります。

 情報のインプットは細切れの時間でもできますが,情報のアウトプット=書くことには,まとまった時間がないといけません。
 それに,ベッドで寝ころがっていてはワープロが打てないので,机に向かうことが必要です。

 細切れの時間や移動中でも書けるのは,すでに書く力を身につけた人だけです。書く力をつけるには,長い時間机に向かうしかありません。

 とりあえず,何も書けなくてもいいから,30分ほど机に向かっていられるよう,練習してみましょう。
 ほかのことではなく,「書く」という目的で,机に向かってみましょう。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月17日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの57回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 前回,「まとまった文章を書くための考え方」として,「長編の文章も,じつは短い断片の集まりである」ということを述べました。今回は,その「断片」を「ひとつの作品」として書く,ということについて。

 ***
 
 先日(10月14日)のshin36aさんのブログ ろくろくさんじゅうろくaで,この「勉強法」シリーズの記事:とにかく完成させる を,引用・紹介していただきました。

 この記事は,「とにかく,書きかけた文章を完成させよう」という内容でしたが,ご自身もその考え方で決算や税務などに関する長文の記事(経営者としての体験に基づく迫力のある記事です)を書きあげたとのこと。
 自分の書いたものが,ある種の刺激になったのだとしたら,ほんとうにうれしいことです。
 
 また,当ブログについても「カテゴリーごとに非常に興味深い内容をわかりやすく書かれている」「面白いんで訪問してみてください 何か得るものがあると思います」と,強くオススメしてくださいました。ありがとうございます。

 shin36aさんのブログとは相互にリンクさせてもらっていますが,お互いブログ以外では見知らぬ仲。shin36aさんも書かれていましたが,ブログをしなかったら出会うことのなかった方々と接点を持ち,刺激を受けられるのは大きな楽しみだと,つくづく感じます。

 ***

 こんなふうに,細々でも何かを書きつづけていると,ときどき読者の方から声援をいただくことがあります。

 shin36aさんからの声援より少し前(9月末)には,ウォーリックさん(ブログ:阿鼻叫喚)から励ましのコメントをいただきました。ウォーリックさんも,ブログを通してのみ存じ上げる方。

 当ブログについて「理路整然と,それでいて読者を意識したスタイルで,難しいことを平易に置き換えて」いる,「読者フレンドリーなブログ」「得るところの多い記事の数々」……であると。

 独自の世界で多くの読者を得ておられるブロガーから,そのようなお褒めの言葉をいただき,感激しました。

 こういううれしさは,何年経っても憶えています。
 これまでに,励ましの言葉をくださった何人もの方々のことも,思い出されます。みなさん,ありがとうございます。

 ***

コラムを書いてみよう

 論文や一冊の本は,断片の集まりである――ということは,「1000字」程度の断片を書けることは,まとまった文章が書けるようになるための,重要なステップなのです。

 そこで,断片を書く練習をしましょう。
 「1000字」程度で完結する作品を,いくつも書いてみるのです。具体的には,500~1000字くらいのものを書くといいでしょう。「天声人語」などの新聞のコラムは,600字前後です。

 「コラム」という言葉が出ましたが,「500~1000字で書いてみよう」というのは,じつは「コラムを書いてみよう」ということなのです。

 コラムとは,ここで言う「断片」くらいの短い論説文のことです。論説とは,一定の事実・対象について,説明や意見を述べたものです。

 何でも題材にできるのが,コラムという形式です。ただ,小説のようなフィクションではなく,自分の心象(心の動き,イメージの世界)を中心に表現するのでもない,ということです。
 身の周りのこと,人生論,時事問題,科学,芸能・スポーツ……堅いことも柔らかいことも,コラムの題材になります。本や音楽などの批評にも,コラムとして書かれたものが多くあります。

 これは「エッセイ」と言ってもいいかもしれませんが,そう言うとかなりの人は身辺雑記などの,いかにも文芸的な文章を連想するようです。ここで「書いてみよう」と言っているのは,そういうものに限りません。だから,「コラム」と言うほうがいいでしょう。

 文章修業でコラムを書く効用は,評論家の福田和也さんが述べていることです(『ひと月百冊読み,三百枚書く私の方法②』PHP研究所 2004年)。大学の先生でもある福田さんは,ゼミで学生にコラムを書かせています。

 福田さんによれば,コラムを書く利点はつぎの三つです。

《①短いので,文章のすみずみまで神経を行き渡らせることができる。 ②人に読んでもらえる……③書くという前提で,事物に接する姿勢を育てることができる。》(同書47ページ)


 これは,自分のことを振り返っても,その通りだと思えます。「私が言う文章の断片とは,要するにコラムのことだ」と気がつきました。以下は,福田さんの論を下敷きにしています。

 ***

 コラムという形式には,いろんな長所があります。まず,初心者にも完成できる長さであること。それも,ちょうどいい長さ。

 文章の世界には,もっと短い形式もあります。たとえば「アフォリズム」という,短いものだと数十字以内で「深いこと」「気の利いたこと」を書く形式もあります。でもあまりに短いと,制約が多くて初心者にはかえってむずかしいです。だから,500~1000字くらいがいいのです。

 その長さなら,書くときに細かいところまで気を使えます。ていねいに書き,推敲する練習になります。
そして,その長さだと「読者を得やすい」ということがあります。一息で読めるので,多くの人がつき合ってくれるのです。

 「読者を得やすい」というのは,いろんな需要がある,ということです。
 つまり,いいものが書けたときに,雑誌(ミニコミ,ウェブ上の媒体含む)などに載せるチャンスがあります。当然ですが,大論文よりも短いコラムのほうが,掲載されやすいです。ブログの記事にも,適しています。

 二十代の私は,長い文章を書いてもなかなか人に読んでもらえませんでした。そこで三十を過ぎてからは,読んでもらえるように短い作品を書くことを,長い文章に取り組む一方で始めました。

 私の場合,それは歴史上の偉人・有名人について,400~500文字で紹介する――しかも単なる紹介ではなく,短くてもひとつのまとまった読み物にする,というものでした。これは,コラムの一種と言えるでしょう。そういうものを何十本か書いたのです(のちに100本以上書きました)。

 このコラム――『四百文字の偉人伝』(当初は『三百文字の偉人伝』)は周りの人に好評で,「読んでもらえる」手ごたえがありました。参加していたNPOによるミニコミの出版物にも載せてもらえました。そして,のちには商業出版にまでこぎつけたのです(この本と同じくディスカヴァー・トゥエンティワンから電子書籍として発売中。このブログにもシリーズとして一部を掲載)。

 何のテーマでもいいから,コラムを書いてみましょう。
 そして,人に読んでもらいましょう。
 それを何度もくり返すと,文章がかなり書けるようになっています。書くことの初心者を卒業できています。


(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月15日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの56回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「まとまった文章を書くための考え方」です。1冊の本のような長編の文章も,じつは短い「断片」の集まりです。それをふまえることが大切だ,という話。


「まとまった文章が書けない」という人は,
「断片」を書いて並べてみよう。


 「何か書いてみたいけど,まとまった文章を書くことができなくて」という人がいます。そういう人は,この勉強法のシリーズのように書いてみましょう(この「勉強法」は1冊の本になるよう書いています)。

 このシリーズは,毎回のブログの記事という「断片」の集まりです。ひとつの断片は,やや長いものもありますが,だいたい1000~1000数百字。原稿用紙3~4枚です。
 そんな「断片」をいくつも書いて,並べてみるのです。

 私は,この本に並んでいる順番で,断片を書いたわけではありません。
 書いた時期と並んでいる順番は,別物です。
 
 「本全体をどうしていくか」「どういう順番で断片を並べていくか」ということも,最初ははっきりしませんでした。断片が蓄積されていくにつれて,しだいに全体の構成も見えてきたのです。

 無理に体系的にしようとする必要はありません。断片と断片の論理的なつながりを,気にしすぎてもいけません。なんとなく関連のありそうなものをグルーピングしたり,明らかにつながりのあるものどうしを隣に並べたりする,といった程度でいいのです。

 ある断片と他の断片で,言っていることが矛盾しているように思える場合があるかもしれません。でも,あまり気にする必要はありません。たいていは,その矛盾がかえって本の内容に奥行を与えてくれます。

 物事というのは,本来矛盾に満ちているのです。無理に論理的な一貫性を持たせようとして書くと,平べったく,つまらないものになってしまいます。

 じつは,ほとんどの本は,断片を集めてできています。

 何かの新書を開いてみてください。文章のところどころに見出しがついています。見出しによって,文章は2~3ページごとに区切られていませんか? 新書の2ページは,だいたい千数百字です。おおまかに「1000字」と言っていいでしょう。

 この「1000字」が,本を構成する断片です。
 10の断片が集まると,論文になります。100集まると,一冊の本になります。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月10日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの55回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回の「とにかく完成させる」というのは,あたりまえに思うかもしれません。でも,「文章を相当書いている」という人でも,できていない場合があります。


短くても,とにかく完成させよう。

 あるとき――20代の終わりころ――部屋の整理をしていて,反省したことがあります。自分の書いた原稿が整理箱からいろいろ出てきたのですが,どれもこれも書きかけばかりなのです。

 何年も書き続けているのに,最後まで書いて一応でも「完成」となっているのは,いくらか長いものだと,ほんの数本しかありません。「これではいけない」と思いました。

 若いころの私は,力もないのに「大論文」を書くことばかり考えていました。書き始めると,最低でも原稿用紙百枚くらいかかりそうなものばかり書こうとする。そして,20~30枚のところで力尽きてしまう。

 いかに雄大な構想で書いていたとしても,完成していないことには人に見せられません。
 人に見せられない文章を書いても,意味がありません。

 私は,書きかけでも友達に無理やり読ませて感想を言ってもらっていましたが,友だちも迷惑だったことでしょう。

 ごく親しい人は別にして,人に読んでもらうには,完成させることです。

 完成させるには,どうしたらいいでしょうか?
 だんだんわかってきたのは,書こうとしている大きなテーマを,小さなテーマに分解していくことです。

 原稿用紙300枚の構想があったら,10~20枚のレポート20本くらいに分ける。1本1本を,独立した作品として書いていく。
 そうすると,結果として3本書いただけで力尽きても,完成品が3本残ります。その3本は,どれも人に読んでもらうことができます。

 最初のうちは,原稿用紙10~20枚の構想を,1本1000字くらいの断片に分けて書くといいでしょう。この本の1項目くらいの長さです。

 いや,「100字で1本」ということでもいいのではないでしょうか。ハガキ一枚分でひとつの作品です。世の中には,ハガキのような紙に短い詩や人生訓を書いて,道端で売っている人もいます。ツイッターの1回の投稿も,その長さの世界です。

 完成品ならハガキ1枚でも売り物になりますが,未完の大論文は,何にもなりません。どんなに短くてもいいから,とにかく完成させることです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月07日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの54回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「読んでもらう範囲や完成度に応じた,アウトプットの段階」というテーマです。

 その「段階」の最終形は「世間に公表する」ということですが,「内輪で読む」など,その前段階もある,ということ。

 ではブログというのは,アウトプットとしてどのような「段階」なのか? 
 私は,「世間に公表する」段階にあたると思います。不特定多数の目に触れる可能性があるのですから。ここは,異論もあるとは思います…
  
 私は,「何千人に読まれてもいいように」と思って,このブログを書いています。実際にはそんなに多くの読者はいないわけですが,大勢の人に読んでもらうつもりでやっているのです。


アウトプットには三段階ある。
1 自分だけが読む
2 仲間に読んでもらう
3 世間に公表する


 いきなり完成品を書こうとすると,書けなくなります。本や雑誌の文章,学術論文などがアウトプットとしての「完成品」ですが,アウトプットのかたちはそれだけではありません。

 アウトプットには段階があります。(1)自分だけが読む,(2)仲間に読んでもらう,(3)世間に公表する,という三つの段階です。「アウトプットには段階がある」というのも,板倉聖宣さん(教育学者,科学史家)から学んだことです。

 「自分だけが読む」段階というのは,「おぼえ書き」や「研究ノート」といったものを指しています。
 ここでは,まともな文章になっていなくてもいいから,考えたことや調べたことを片端から書く。自分さえわかればいいのです。

 つぎに「仲間に読んでもらう」段階です。
 ここでは,人に読んでもらうため,文章として一応完成されたものを書きます。
 でも,データの収集や内容の整理は,まだ不十分でもかまいません。不確かなことや,余計なことも書いていいのです。信頼できる仲間うちでなら,それが許されます。

 そして,仲間の意見や感想を参考にして,次の段階へ進むかどうかの判断を行います。
 多くの場合,ここで「これでは駄目だ」ということになるのです。そのときは,落ち込みます。そこでかなりの人は,自分の作品を仲間の批判にさらすことをためらってしまいます。
 しかし,きちんとしたものをつくりたければ,ここを乗り越えないといけません。

 それでも,人からきびしいことを言われるのは,やはりつらいものです。傷つきやすい人は,ちょっと何かを言われただけでやる気をなくします。

 そういう人は,作品を見せる相手をよく考えることです。「この人だったら,少々のことを言われてもいい」という信頼関係のある人にだけ,見せるようにする。そうすれば,「仲間に読んでもらう」段階をスムースに行えるでしょう。

 仲間に好評だった場合は,「よし,やるぞ」という気になります。完成させるためのエネルギーを得ることになるのです。そうやって,「公表する」段階の作業に入っていきます。

 よほどの力がないかぎり,いきなり「公表する」つもりで書き始めると,完成できずに終わります。書き慣れていない人は,ここでお話しした三つの段階を,意識してやっていくといいでしょう。

 各段階なりに,自分の考えを吐き出すことが大事なのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年10月02日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの53回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「書こうとしても,なかなか書き出せない」「文章の構成に悩む」という人に向けた話。


書きたいことから書けば,書き出せる。

 「書きたいことから書けば,書き出せる」というのは,作家の中谷彰宏さんの本(『人は誰でも作家になれる』ダイヤモンド社 1996,のちにPHP文庫 2003)に出ていたもので,好きな言葉です。

 文章の構成についてあれこれ考えると,うまくいきません。構成は大事なのですが,それを意識しすぎると,かえってまずい構成になるのです。

 あれこれ考えないで,書きたいことから書きましょう。

 「書きたいこと」が一番面白いところのはずです。人に読んでもらうには,いいところを最初にもってくることです。多くの文章家が,同じようなことを言っています。

 慣れないうちはつい,いいところをあとにとっておこうとしてしまいます。
 私も,そういう失敗をくり返してきました。

 文章を友人に読んでもらって,「最初は何を言いたいのかわからなかったけど,最後のところまで読んでやっとわかった」と言われたことがあります。友人だから最後までつきあってくれましたが,一般の読者だったら,1ページでやめてしまうでしょう。

 書きたいことから書くと,文章が書きやすくなります。一番気になることをまず吐き出してしまうことで,気分が楽になるのです。自分が表現しようとしている世界へ,すっと入っていける感じがします。書きたいことを書いているから,気分が乗ってきます。

 逆に,書きたいことをあとにとっておこうとすると,書くのがつらくなります。あとの楽しみのために,がまんして準備作業をしているような感じになるからです。

 とにかく,書きたいところから書き始めて,ひととおり書いてしまう。
 それから,必要ならば順序を入れ替えればいいのです。


 でもたぶん,「最も書きたいこと=読者に伝えたいこと」を最初にもってくるのが,いいのではないかと思います。

 この「勉強法」のシリーズは,1冊の本にすることを意識して書いていますが,一番書きたいことを最初にもってきています。「自分の関心を大切にしよう」「先生に出会うことが大切だ」といったことです。この「勉強法」で一番伝えたいのは,そのことなのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月30日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの52回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は「書いたものを読み返して推敲する」ことについて。


書いたものを何度も何度も読み返す。
わかりやすく書くには,結局それしかない。


 わかりやすく書かないと,誰も読んでくれません。
 誰かに読んでもらいたいなら,わかりやすく書くことです。

 わかりやすく書くには,どうしたらいいのでしょうか? 

 「文章の書き方」については,いろんな本が出ています。そういう本を,私も読みました。その中で一番役に立ったアドバイスは,「細かな方法論はいいから,書きながら何度も読み返して,推敲することだ」というものです。
 評論家の立花隆さんが,『知のソフトウェア』(講談社現代新書 1984)という本で,そういうことを書いています。

 それを読んだのは,大学生のころでした。「なるほど」と印象に残ったのですが,実行することになったのは,何年もあとのことです。

 自分のことを振り返って思うのですが,わかりやすく書けない人は,ほとんど推敲をしていません。自分の書いた文章を,ほんの1~2回しか読み返していないのです。

 自分の本を何冊も出しているような書き慣れた人の話を聞いても,少ない人でも5~6回は読み返して推敲すると言います。書くことに慣れてないうちは,もっともっと読み返すことが必要です。読み返すたびに,直すところをみつけて,少しでもわかりやすく,読みやすくなるようにします。

 ワープロは,書き直すのに便利な道具です。ワープロで書く場合は,推敲が百回を超えることも少なくありません。

 私だって,この「勉強法」の文章をパソコンのワープロで書いているわけですが,何十回読み返しているか,もうわかりません。それでも,直すところはまだまだあるのです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月28日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの51回目。

 このところ,「文章論」について述べています。
 今回は,「真似・借用」について。文章にかぎらず,何かを生み出すうえで重要なこと。それをどう考えるか。


どんどん真似しよう。どんどん借用しよう。
そして,そのことを隠さない。


 文章を書くなら,いいと思うものはどんどん真似しましょう。
 感動した言葉は,どんどん借りて使いましょう。
 どんなに真似したって,借りてきたって,あなたらしい個性は出てくるものです。良しにつけ悪しきにつけ,そうなのです。

 ただし,気をつけなくてはいけないことがあります。

 文章を書いて発表するときは,「真似や借用について隠さない」ということです。

 他人の言葉や考えを「引用」するのはいいのです。一定の制約はありますが,原則的にはかまいません。しかし,他人から借用しながら,それを隠して自分のオリジナルだと偽ったら,「盗作」です。

 創造とは,他人のつくりあげたものを受け継ぎ,それに新しい何かをつけ加えることです。
 新しいものを生み出すには,まず先人の仕事をふまえることです。

 だから,「自分の仕事が,先人のどんな仕事に負っているか」「どこまでが先人の成果で,どこからが自分のつけ加えたものなのか」をはっきりさせることは,創造的であろうとするかぎり,きわめて重要なのです。

 このシリーズは「創造のための学び方」がひとつのテーマです。
 「他人からの借用」に関して,いい加減なことはできません。

 そこで,こんな軽い文章にしてはめずらしく,出典をわりあいきちんと示すようにしています。最低限,「これは誰が言っている」ということは書きます。きちんとした論文なら,「誰の,何という著作の,どこに」というところまで示さないといけません。

 すべてにわたってそうする必要はありません。板倉聖宣さんによれば,オリジナルかどうか《読者にとってとくにまぎらわしいものについてだけ,その出所を明らかにする》のです(『増補版 模倣と創造』仮説社 1987)。

 ***

 私はこのシリーズで,板倉聖宣さんをはじめとする先生たちの考えを,多く引用したり借用したりしています。というより,このシリーズで述べている重要な部分のほとんどが,そうした先生の著作やお話をもとにしている,と言ってよいでしょう。

 しかし,ただ先生と同じことを口真似しているのとはちがいます。
 私は,先生の言ったことを,自分の経験やほかの書物で検証してみて,「やっぱりそうなんだ」と納得したことだけを書いています。

 自分自身でやってきたこと,試してきたことだけを書いているのです。
 だから,先生と同じテーマを扱っても,私なりの言葉で書けていると思っています。

 また,このシリーズは何十という小さな断片の集まりで,断片の冒頭に,目立つ文字でキャッチコピー的な表題がついていますが,これは,いろんなビジネス書でみられるスタイルです。
 私が初めて意識したのは,1990年代に読んだ中谷彰宏さん(ビジネス書のベテランで,何百という著作がある)の本からでした。読みやすいスタイルだと思います。

 真似や借用をみっともないことだと考える人がいます。
 そういう人のなかから,他人の創造を自分のオリジナルと偽る人が出てくるのです。そういう人には,先人の成果を活用して,そこから自分独自のものをつくり出すことはできないのです。

(以上)
2013年09月26日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの50回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,前々回から「文章論」について述べています。
 強調したいのは,「文章を書くことで考える力がつく。だから書こう」ということです。今回は,書き続けるために大切な「読者への感謝」ということについて。

 このブログを読んでくださっているみなさんにも,あらためて感謝です。
 いただいたコメントをはじめ,拍手やアクセス数など,いつも励みにしています。ありがとうございます。


あなたの文章を読んでくれる人は,恩人。

 文章は書き続けていかないと,上達しません。
 どうしたら,書き続けることができるのでしょうか?

 一番大切なのは,「たったひとりでいいから,読んでくれる人をみつけること」です。

 人に読んでもらうあてのない文章を書くのは,むなしいことです。
 だから日記は,たいてい三日坊主で終わるのです。

 私は幸運でした。文章を書き始めたとき,読んでくれる人が身近にいたからです。私に書くことすすめてくれた若い先生が読んでくださいました。
 また,一緒に勉強する友だちがひとりいて,書いたものをみせ合っていました。

 最初の数年は,この二人だけが私の読者でした。書いたものに自信がなかったので,二人がいれば満足でした。

 やがて,少し上達したと思ったので,二人以外にも読んでもらいたくなりました。

 そこで,友だちや知り合いのなかで興味を持ってくれそうな人に書いたものを渡したり,送ったりするようになりました。さらに,人の主催する勉強会(数人くらいの小さなもの)に書いたものを持ち込んで,発表するということもしました。

 渡したものが,読んでもらえないことも多いです。感想を言ってもらえることは,そんなにあるわけではありません。
 素人の書いたものを読んでコメントするのは,疲れることです。「書いたものを読んでほしい」というのは,無理なお願いをしているのです。

 だから,ちょっとでも読んでくれた人は,無理をきいてくれた恩人です。

 中には,読んで好意的なことを言ってくれる人がいます。これは本当にうれしいです。そういう人は,決して多くありません。でも,うれしさがいつまでも残ります。十年前のことでも,憶えています。

 読んでくれる人をさがしていると,たまにほめてくれる人がいます。その時のうれしさをいつまでもひっぱって,書くことを続けました。

 あなたもどうにかして,読んでくれる人をさがしましょう。もし読んでくれたら,心から感謝しましょう。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月25日 (水) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの49回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,前回から「文章論」について述べています。
 強調したいのは,「文章を書くことで考える力がつく。だから書こう」ということです。

 
学校で作文が苦手だった人でも,
続ければ本の著者になれる。


 中学・高校のころの私は,作文が苦手でした。授業で書かされる400字,800字の小論文に四苦八苦していました。やっと書き上げても,なかなかいい点数はもらえませんでした。

 それが,大学生になってから,ちょっとずつ何かを書くことを始めました。
 最初は,前回述べた,短い「日記」のようなものです。

 そこから,原稿用紙10~20枚のレポートが書けるようになるまで1年余りかかりました。あまり上達の早いほうとは言えません。

 そして,内容はともかく,50~100枚のものが書けるようになるまで,さらに2~3年。
 さらに4~5年経つと,本1冊分,つまり原稿用紙300枚が書けるようになっていました。

 今でも自分の文章がうまいとは思いませんが,人に読んでもらえる文章を,たとえばこのシリーズのように1冊分書きとおせるようにはなりました(このシリーズは,本1冊分の原稿がすでにあります)。

 これまで,ささやかですが商業出版もしましたし,最近は,若い人の作文・小論文の指導もしています。

 本を書く人は,必ずしも子どものころから文章を書くのが得意だったわけではありません。もちろん得意だった人も多いのですが,そうでない人も同じくらいいるのです。

 絵画やスポーツでは,こうはいきません。
 プロの腕前になる人は,みんな子どものころから「絵がうまい」「野球がうまい」と言われていました。これにくらべると,学問や文章の世界での上達というのは,誰にでも開かれているのです。

 でも,多くの人は「何か書けるようになりたい」「自分の考えを持ちたい」と願っても,ここで言っていること――文章を書くこと――を実行しません。

 たくさんの本を読んで勉強している人でも,なかなか書きません。
 ブログを始めても,数百文字以上のまとまった文章を書き続ける人は,多くありません。

 とるべき方法がシンプルで,その方法をわかっていても,実行に移す人は少ないのです。

 だから,「文章を書いてみよう」「書き続けよう」ということを,このシリーズでは強調しています。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月23日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの48回目。

 ここしばらく「読書論」を続けていましたが,今回から「文章論」に入ります。
 一番言いたいのは,「文章を書かなければ,考える力はつかない」ということ。


少し勉強したら,文章を書いてみよう。

 たくさん本を読めば考える力がつく,というわけではありません。ぜんぜん読まないのも駄目ですが,読んでいるだけでは,力はつきません。

 力をつけるためには,文章を書く必要があります。

 読むだけでは,頭の使い方が受け身になってしまって,能動的に考える力がつきにくいのです。

 100冊読める時間があったら,その全部を読むことに費やしてはいけません。読むのは50冊くらいにして,残りの時間は書くことに使いましょう。

 書き始めたとしても,まだあまり勉強していないわけですから,思うようには書けません。読み返すのも恥ずかしいでしょう。でも,気にしないで書いてください。

 初めは,日記程度でいいと思います。日常生活での体験,読んだ本の感想,最近のニュースのことなど,何でもいいから気軽に書くことです。書き慣れない人は,100字,200字で十分です。ただし,単なるセンテンスや単語のメモでなく,文章で書くのです。そのうち,もっと長く書けるようになります。

 ひとつの目標は,どんなテーマでもいいから,400字詰め原稿用紙10~20枚くらいの論文やエッセイが書けるようになることです。
 それが,月に1~2本は書けること。
 そこまでいけば,だんだんと自分の関心領域というものが見えてくることでしょう。

 これは,文章を書くこととしては,かなり本格的なレベルです。だから,そこに至るステップというものがあります。それについては,また別の回で述べます。

 書くことで,本を読むにしても読み方が変わってきます。
 知識を自分の中に主体的に組み込んでいく感じになるのです。だから,同じ量を読んでも,残るものが多くなっていきます。

 私には,20代の前半に,学問の世界について教えてくれた若い先生がいました。その人に数年間,月1回くらいのペースで小論文のような手紙を書いて送っていました。先生も,感想を書いて送ってくださいました。
 その若い先生が,ここで書いたやり方を教えてくれました。

 たとえ読んでくれる人がいなくたって,短いレポートをたくさん書く。

 これは,「考える力」を上達させる上で,最も大切なことです。方法はこれに尽きる,と言っていいでしょう。このことは,実力のある人ならみんなわかっています。

 私のように,書いたものをみてくれる先生がいれば,幸せです。
 そんな先生がいなければ友だちでもいいです。遠くの友だちにメールやSNSで読んでもらってもいいのです。感想を言ってくれなくても,気にしないで書いたものを送ったりしましょう。

 そういう友だちがいないなら,自分で自分の読者になりましょう。

 ***

 初心者のうちにブログをするのは,良い面と悪い面があります。たしかに,ブログを通して書く習慣を身につけ,上達していく人もいます。

 ただし,上達してくると,書き始めたころの文章が恥ずかしくなって,それを誰もが読める状態にしておくのがイヤになってくるはずです……

 初心者がブログをするデメリットとしては,「不特定の人に読まれるかもしれない」という意識に縛られてしまうことがあります。ブログに書きやすいテーマや見解ばかり書いてしまう。初心者のうちからそういうことをしていると,上達しません(かと言って,不特定の人に読まれて困ることを書いてはいけません)。

 ここで「文章を書こう」というのは,自分の思考を深め,それに形を与えていく練習です。
 練習というのは,みっともないことが多いです。
 だからひとりきりでやるか,内輪でしかみせられないのが普通です。練習を公開することもありますが,それはかなり上手くなってからです。

 ブログを一種の「公開練習」の場にすることはできますが,ある程度書けるようになってから始めることをおすすめします。

 もちろんこれは「書く練習の場」としては,ということです。何かの連絡・広報など,ちがう目的があれば別です。

 「ある程度書ける」の目安のひとつは,「あなたの文章をよろこんでくれる人が,身近にひとりでもいるかどうか」です。ひとりでも読者を獲得できるかどうか,ということです。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月19日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの47回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところ,「本代にいくらかけるか」「ときには高い本も買う」といった,本の買い方のことを述べています。これも,「読書論」のだいじな要素です。今回もそのつづき。


「いつか読むかも」という本は買っておく。
お金が許すのなら。


 ふつうの,教養や楽しみのための読書だったら,「これから読もう」と思う本を買います。
 でも,もっと深い勉強や,文章を発表するなどのアウトプットを志す場合は,ちがいます。
 
 買うのは,「これから読もう」という本だけではありません。
 「今は読まないけど,いつか読むかもしれない」という本も買うのです。

 私が尊敬する板倉聖宣さんという学者は,「研究テーマに関する本は全部集める」というやり方をします。

 板倉さんは,いつも複数の関心やテーマを持っていますが,そのときどきで集中できるのは,ひとつのテーマに絞られます。あるとき,「A」というテーマで研究していたとします。
 そのとき,「いつか取り組みたい」「面白そうだ」と思っている「B」や「C」に関する本をみつけたら,買っておきます。すぐに読むのではなく,ただ買っておく。

 それを積み重ねると,「A」に取り組んでいる間に「B」や「C」に関する情報も,相当集まっています。
 やがて,「B」に集中するときがきます。そのときには,「B」についての資料は大部分集まっていて,「あとはこれとこれを集めれば全部」というふうになっています。そこで,「あとの足りないもの」を短期間で集中的にさがして集めます。

 そんな達人の域には,なかなか行けません。

 でも,私たちだって,それなりの真似をしたらどうでしょうか。「今読むわけではないけど」という本も買ってみるのです。

 そんなふうに買った本を,数年後に初めて読んで,実にいい本だったことがあります。本はすぐに品切れ・絶版になってしまいます。古書を探しても,すぐにはみつからないことも結構あります。
 
 あのとき買っておいてよかった,と思います。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年09月16日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの46回目。

 「読書論」の話を続けています。
 前回は「本にいくらお金をかけるか」という話をしました。今回はその続きです。本の買い方,本にかんするお金の使い方のこと。これも,「読書論」のだいじな要素だと思っています。


たまには,ちょっと高価な本を買ってみる。

 たまには,少し高価な本を買ってみるといいと思います。
 高価な本をていねいに読むと,「具体的なデータをもとに,自分なりに考える」ことの練習ができます。

 「高価な本」といっても,一部のマニアが集めるような,何十万円もするものではありません。4,5千円とか,せいぜい1,2万円のものです。

 これに対して「安い本」があります。文庫や新書,それと2千円くらいまでの単行本です。

 本に使えるお金が月に1万円あったら,千円の本を10冊買うようなことをしてはもったいないです。
 そういう「安い本」は3~4冊にしておいて,残りは「高価な本」を一冊買うのに使いましょう。

 「本の値打ちは値段では決まらない」ということは,よく言われます。確かに,高くてもいい本とはかぎらないし,安くてもすばらしい本があります。
 
 でも,「高価な本」でないと得られないものもあるのです。

 「高価な本」というのは,細かな具体的データや情報が入っていてかさばるから,高くなるのです。また,専門的で細かなデータを求める人の数はかぎられているので,多少値段を高くしないと採算がとれないということもあります。

 盛り込まれる細かなデータの量のちがいが,「高価な本」と「安い本」のちがいです。
 書いてある結論が高級であったり低級であったりということではありません。

 「安い本」は,結論に力点が置かれていて,データが簡略化されています。一般にはそれで十分だし,そのほうが読みやすいのです。

 でも,他人の結論や主張だけを読んでいたのでは,考える練習にはなりません。
 「考える」というのは,他人が調べたことでもいいから,いろんなデータをもとに自分なりの結論を導き出すということです。

 それには,「高価な本」を読んで,たくさんのデータにあたる必要があります。
 高いレベルをめざすなら,「高価な本」にも手を出さなくてはいけません。

(以上)
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術