2013年01月30日 (水) | Edit |
 今日は「偉人伝」を,もうひとつ。
 今日1月30日は,幕末の偉人・勝海舟の誕生日です。

 そこで勝海舟の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。

 なお,この「勝海舟」は未発表の新作です。
 最近もぽつぽつ新しい「四百文字の偉人伝」を書いてます。

勝海舟(かつ・かいしゅう)

自分の「蘭学」をみつける

 勝海舟(1823~1899)は下級武士の出身でしたが,幕末の動乱のなかで頭角をあらわし,幕府のトップリーダーとなりました。
 しかし,「日本は生まれ変わるべきだ」と考え,のちには幕府の支配を終わらせる方向で動きました。幕府を倒そうとした薩摩・長州にたいし,徹底的に戦うのを避ける決断をしたのです。そのおかげで長期の内戦がさけられ,日本はスムースに新しい時代をむかえることができました。
 勝にはそのような「先見の明」がありました。
 これは,若いころから蘭学(西洋の学問)を学んでいたことが大きいです。蘭学は,進んだ知識や新しい世界観をもたらしてくれました。
 しかし,西洋にたいし国をとざしていた江戸時代には,蘭学者たちは一般に白い目でみられていました。勝も迫害を受けたことがあります。
 それでも勝は蘭学に賭けて学び続けました。それがのちに花ひらいたのです。
 創造的に生きたいなら,自分なりの「蘭学」をみつけましょう。
 つまり,「まだ評価の定まらない,新しい世界」をみつけて取り組むのです。
 ただし,それが新しいものであるほど,「周囲にわかってもらえない」のは覚悟する必要がありますが。

(参考文献)板倉聖宣『勝海舟と明治維新』(仮説社),松浦玲『勝海舟』(中公新書)

【勝海舟】
1823年1月30日生まれ 1899年1月19日没

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テーマ:歴史上の人物
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月30日 (水) | Edit |
 今日1月30日は,アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの誕生日です。

 そこでルーズベルトの「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。


ルーズベルト
心の丈夫なリーダー

 フランクリン・ルーズベルト(1882~1945 アメリカ)が大統領に就任した1933年,アメリカ経済は大恐慌の真っ只中。最悪期の失業率は,なんと約25%。この危機への対応が,最初の大仕事でした。
 つぎは第二次世界大戦(1939~1945)です。ナチス・ドイツや日本帝国との全面戦争。
 アメリカ大統領の仕事はいつの時代もたいへんですが,このときとくらべれば,ほかはまだ「楽なもの」に思えます。
 こんな状況で,彼は4選して12年にわたり大統領を務めたのです(4期目の途中で病死)。
 その間ひたすら冷静に,さまざまな難題に判断を下し続けました。恐ろしいことですが,原爆の開発についてさえも淡々と取り組んでいます。
 そんな彼に批判すべき点がないとはいいません。しかし,あやまちがあっても,「重圧や激情で自分を見失った」というようなことではなかったのです。彼は何があっても,夜はぐっすり眠れました。
 こういう心の丈夫なリーダーを危機の時代に持てたことは,アメリカ国民にとっては幸運だった,といえるでしょう。

ガンサー著・清水俊二訳『回想のルーズベルト(上)(下)』(六興出版社,1950)による。ほかに参考として,フリードマン著・中島百合子訳『フランクリン・ルーズベルト伝』(NTT出版,1991)

【フランクリン・ルーズベルト】
 大恐慌~第二次大戦の時期のアメリカ大統領(任1933~45)。大恐慌に際し,国家が経済に積極的に介入する「ニューディール政策」を推進した。1920年代に患った病気の後遺症で,車椅子生活を送りながら活動。
1882年1月30日生まれ 1945年4月12日没

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テーマ:歴史上の人物
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月28日 (月) | Edit |
リノベ暮らし表紙
 
 2.3日前に出た本です。
 これに我が家が載っています。

 アトリエコチ 団地リノベ暮らし (アスペクト,1600円+税) 

 「団地リノベ」というのは,古い団地を全面的に改装(リフォーム)して,自分好みの部屋にすることです。
 最近は,全面的なリフォームのことを「リノベーション」といったりします。
 略して「リノベ」。
 
 本の帯にはこうあります。
 
 《団地を買う。間取りや内装を変える。
  自分にぴったりの部屋で暮らす。
  そんなライフスタイルが話題になっています。
  10世帯の生活をのぞいてきました。》
 
 ウチは,そのうちのひとつとして,とりあげられています(下の写真)。
 多摩地区の築30年ほどの古い団地を「リノベ」して暮らしているのです。
 設計は寺林省二さん(テラバヤシ・セッケイ・ジムショ)にお願いしました。

リノベ暮らし中身

 本に出てくる10世帯はまさに十人十色。
 我が家を撮影にいらしたフォトグラファーの永禮賢さんも言っていたのですが,「団地のリノベだからといって,みんな同じような感じになるかというと,そうはならない」のですね。
 
 今回はこのくらいの,「本が出た」という話だけにしておきます。私の「団地リノベ(リフォーム)暮らし」については,おいおいお話ししていきます。

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テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月27日 (日) | Edit |
 今日1月27日は,作曲家モーツァルトの誕生日です。

 そこでモーツァルトの「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。


モーツァルト

音楽では几帳面

 作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791 オーストリア)は,「天才だけど,だらしない人」というイメージが,一般にはあります。
 たしかに,かなりの収入がありながら浪費家で借金まみれだったことなど,自己管理の甘いところがありました。
 しかし,音楽のこととなると別です。彼は20代の終わりころから,数多くの自分の作品についてカタログをつくってデータを整理し,管理していました。
 当時,そんなマメなことをする作曲家はいませんでした。のちに「作曲家が自分の作品のカタログをつくる」ということが普及しますが,彼はその先駆者だったのです。
 モーツァルトは,私生活ではだらしなくても,音楽に関してははとても几帳面だったのです。
 それだけ自分の仕事に誇りと愛着を持っていたということです。

礒山雅著『モーツァルト=二つの顔』(講談社,2000)による。ほかに参考として,柴田治三郎著『モーツァルト』(岩波ジュニア新書,1983)

【ヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト】
 18世紀なかばにおこった「クラシック(古典派)音楽」を完成の域に高めた大作曲家。20代後半からはウィーンに住み,旺盛な創作を続け名声も得たが,浪費による経済的問題には悩んだ。35歳で病死。
1756年1月27日生まれ  1791年12月5日没

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2013年01月26日 (土) | Edit |
 前に(1月20日に)「フランクリン的な人たち」という視点で,アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズのことをとりあげました。
 
 イームズは,建築やデザインの世界ではたいへん有名な人です。
 しかし,多くの一般の人たちには,かならずしも知られていません。

 以下は,「建築・デザインにとくに興味がない」という人にむけて,それこそ高校生でも読んでもらえるようにイームズの最も代表的な仕事を紹介したものです。
 イームズが取りくんだデザインの世界や,その考え方は,多くの人たちが知る価値があります。
 デザイン系の人たちのあいだだけではもったいない。

 とくに,若い人には知ってもらいたいです。「デザイン」の世界に興味があるという人が,これからはもっと増えたほうがいい。それが日本のためです。
 イームズは,「デザイン入門」の格好の素材です。

 写真は,おもに『Eames design』という,イームズの仕事を集大成した本からのものです(ただし「空港の待合イス」は『カーサブルータス特別編集 Eames The Universe of Dsigin』から)。
 
イームズの仕事

イームズ夫妻


「これ,みたことある」というイスをつくった人
 チャールズ・イームズ(1907 ~1978)は,モダンデザインの名作イスをつぎつぎと生み出したデザイナーです。建築家,映像作家としても後世に残る仕事をしました。
 その仕事の多くを,「チャールズ&レイ・イームズ」の名義で,画家・デザイナーの妻レイ(1912 ~1988)と協力して行いました。
 
 どんな仕事をした人かというと,たとえば代表作のひとつにこんなイスがあります。1953年につくられた「プラスチックサイドチェア」というイスです。その名のとおり,おもにプラスチックでできています。背もたれと座面がひとつながりになっているのが特徴です。

シェルサイドチェア

 こういうイスを,駅のホームやスタジアムなどでみかけたことがありませんか? そのほとんどは,イームズのデザインを直接・間接にマネたものです。

 こういう「これ,みたことある」というイスの「オリジナル」をいくつもつくったのが,イームズです。

イームズのイス,いくつか
 ほかにもイームズがデザインしたイスをみてみましょう。
 
 これは1951年につくられた「ワイヤーメッシュチェア」。
 針金のような細い金属(ワイヤー)でできています。

ワイヤーチェア


 これは1958年につくられた,「アルミナムグループ」というオフィスチェア。

アルミナム


 これは1962年につくられた空港の待合用のイス。

空港のイス

 どうでしょうか。このうちどれかひとつくらいは,似たようなのをみたことがあるのではないでしょうか。

「今はあたりまえ」を生み出した
 これらのイスの写真や現物を前にして,「1950~60年代のデザインだ」ということを話すと,「へえ,そんなに昔のものなんだ。もっと新しい感じがする」と感心する人がいます。

 その一方で,「こんなイス,どこにでもあるあたりまえのものじゃないの?」と思う人もいるかもしれません。

 たしかにそうです。たとえば空港用の待合イスなんて,この手のものがあちこちの空港にあります。

 でも,「この手のイス」を最初に生み出して「あたりまえ」にしたのは,イームズなのです。イームズ以前には,こういうイスはあたりまえではなかったのです。

 「プラスチック製の,背もたれと座面が一体のイス」「ワイヤーでつくったイス」などというのは,イームズ以前にはありませんでした。彼が最初につくり出したときには,非常に新しいものでした。

 「アルミナムグループ」も,発表当時は斬新なものでした。金属を強調したシンプルなデザインは,高級なオフィスチェアとしては,考えにくいことでした。当時,それなりのイスを使うような,地位のある人には,もっとクラッシックな重厚なデザインが好まれました。

 空港のイスも,イームズ以前にはこういうものはありません。これといった定番はなく,座り心地や機能性はずっと劣るものでした。
 イームズの空港のイスは,見た目や座り心地だけではありません。
 メンテナンスを考え,座面などの傷みやすいところは取り外して新しいパーツと交換できるようになっています。公共の場で使うイスとしては重要なことです。シートの足元は空間を多くとってあり,荷物を置くことができます。

 このように考え抜かれた,すぐれたものだったので,のちに類似品がたくさんつくられ,今は世界じゅうの空港にあるわけです。
 
 そもそも,空港の待合イス(たかが待合イス)をこんなにも考え抜いてデザインするという発想じたいが,新しいものでした。

 イームズは,「彼ら以前にはなかったけど,今はあたりまえ」のデザインをいくつも生み出したのです。
 これはデザイナーとしては最高級の仕事です。

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2013年01月26日 (土) | Edit |
 エジソン伝の後編です。

 世の中ではいろんな新しいことが起こっているのに,フランクリンやエジソンの話を,このブログではめんめんとやっています(苦笑)。
 でも最近はブログというのはオールドなメディアになってきているようですから,こういう「化石」のようなテーマも,ちょうどいいのかもしれません。

フランクリン的な人たち エジソン2

ファラデーの本で独学
 1868年,21歳のエジソンは,東海岸にやってきました。ウェスタン・ユニオンという電信会社のボストン支局で,電信技師として働きはじめました。

 その仕事のかたわら,マイケル・ファラデー(1791~1867)の『電気学実験研究』(1844~45)を古本で手に入れて読みました。
 ボストンは多くの大学がある町なので,学問的な本に触れる機会が多かったはずです。
 エジソンは,少年時代の地下室で行ったように,その本にある実験を片っぱしから追試していきました。

 ファラデーは,1800年代前半に電磁気学を確立したイギリスの大科学者です。その著作に徹底的に学ぶことで,電気の科学の基礎を系統だって身につけました。

 なお,このファラデーも独学で科学の基本を身につけた人です。
 若いころのファラデーは,製本の職人でした。そして,仕事であつかう本を読むのが大好きでした。とくに科学書はむさぼるように読みました。
 そのうちファラデーは,科学者にあこがれるようになりました。しかし,高等教育を受けていない彼が科学者になるのは,ふつうはムリなことでした。それでも科学の仕事にたずさわりたいと,ある著名な科学者にたのみこんで助手にしてもらいます。

 その後もいろいろありますが,ファラデーは,その助手の仕事をスタートとしてキャリアを積んで,ついには偉大な科学者になったのでした。

 そのような科学者の書いた本だからこそ,エジソンのような独学者にも響くものがいろいろあったのではないでしょうか。

 たとえば,ファラデーの本には数学がほとんど出てこないのです。高等教育を受けていないファラデーにとって,数学は弱点でした。それでも,数学を使わずに,物理の世界を生き生きとイメージできる本を書きました。そこがファラデーのすばらしさでした。

 エジソンも,学校を出ていなかったので,数学には弱いところがありました。だから,数学なしで科学の奥深い世界に入っていけるファラデーの本は,まさに「バイブル」だと思えたのでしょう。

 ファラデーという偉大な独学者は,その著作によってエジソンという偉大な独学者を育てたのです。

発明家として独立
 やがてエジソンは,組織に雇われて働くよりも,フリーの発明家で生きていくことを模索しはじめました。

 そして,「電気式投票記録機」という最初の自信作をつくりあげましたが,これは失敗でした。
 これは議会における投票を,議員たちがボタン操作的に座席にいながら行える,という装置です。各地方の議会が買ってくれると思ったのですが,どこも採用してくれませんでした。「こういう機械があると,政治家が投票のときに行う,いろんな工作(たとえば,投票をわざとゆっくり行って妨害するとか)ができなくなる」といわれました。
 「発明は,お客さんが買ってくれてお金にならないとダメだ」と痛感しました。

 そして,22歳のときには,自分の小さな会社をつくりました。電気技術の発明・改良を専門に行う会社です。

 やがて「相場表示機」という電信の装置をつくりあげ,特許をとりました。
 この発明は成功でした。かつて勤めたウェスタン・ユニオンが,5千ドルというまとまった金額で権利を買ってくれました(計算の仕方にもよりますが,今のお金に換算して1千~2千万円くらいか)。

 その後,彼はウェスタン・ユニオンで,今度は機械の技術者として働くことになりました。彼を高く評価した同社の幹部に特別待遇でスカウトされたのです。

 まもなくエジソンは,ある技術的改良で大きな業績をあげました。すると,4万ドルものボーナスが出たのでした(今のお金で1~2億円くらいか)。

 彼はこれを元手に,また会社をはじめました。1870年,23歳のときのことです。
 こうして,発明家としての本格的な歩みがはじまりました。
 1872年には,1年間で37もの特許を取得しました。ものすごい仕事ぶりです。この時期,結婚をして子どももできました。

 1876年,29歳のときには,ニューヨーク近郊のメンローパーク村に本格的な研究所をつくりました。
 その後の生涯にわたる彼の拠点です。蓄音機,電灯などの有名な発明が,この研究所で生まれたのでした。

「実働20時間」
 発明家のなかには,ある発明でまとまったお金を得ると,悠々自適のリタイア生活に入る人がいます。
 エジソンはちがいました。
 発明で得たお金を,ひたすらつぎの発明や研究体制の強化につぎ込みました。そして,実験室に泊まり込んで仕事に没頭する。そんな生活を何十年も続けました。

 エジソンは,「1日の実働は20時間。睡眠はせいぜい4時間で,ソファーや実験台の上で寝ることも多かった」と語っています。

 エジソンの有名な言葉に「天才とは1%のひらめきと99%の汗(努力)のたまものである」というのがあります。
 これについてはいろんな解釈があります。たとえば「1%の部分,つまり〈核になるひらめき〉がなければ,いくら汗をかいても何も生まれない」という意味だ,という説もあるのです。
 たしかにそれも一理あります。でも,エジソンの働きぶりをみていると,ストレートに「努力は大切」という意味だと思えてくるのですが,どうでしょうか。
 つまり,「アイデアやセンスは出発点にすぎない。そこから努力をしないと,どうしようもない」ということです。
 ここは,技術史・技術論研究家の志村幸雄さんが『人類への贈り物 発明の歴史をたどる』(NHKカルチャーラジオのテキスト)で同様のことを述べていて,共感しました。

発明という「作品」
 エジソンにとって,「発明でお金が入る」ことは,「価値のある発明で,人びとの笑顔を生んだ」という証であり,「つぎの発明の研究資金を得る」ということでした。

 そして,「人びとの笑顔」を,猛烈なエネルギーで際限なく求め続けたのです。

 これも,自分の勉強を「作品化」してお客さんを得ることを追及し続けたフランクリンと通じます。
 「発明」は,自分の勉強を作品化して人に役立ててもらうことの,最もわかりやすい形です。

 だからフランクリンも,発明には強い関心がありました。燃費のよい「新式暖炉」は,そのひとつです。
 だがそれ以外にも,フランクリンはエジソンには遠くおよびませんが,いくつもの発明をしています。
 たとえば,遠視用・近視用の2つのレンズをひとつのメガネフレームに組みこむ「遠近両用メガネ」の発明。
 それから,「避雷針」は,彼の最大の発明といっていいでしょう。鉄の細長い棒を建物のてっぺんに取り付け,地面に電気を誘導し,落雷による被害を防ぐしかけです。これは,フランクリンの電気研究の成果でした。

 じつは,エジソン以前に一般にアメリカで「発明王」と言われていたのは,フランクリンなのです。

 やはりエジソンは,「フランクリン的人間」の系譜につながる代表的な事例といっていいでしょう。よく働き,よく学んで不利な条件を克服し,人生を精一杯生きた人間の典型です。

(おわり)

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2013年01月24日 (木) | Edit |
 1月20日のフランクリン的な人たちで,アメリカにおける「フランクリン的な人間」の例として,発明王エジソンと20世紀のデザイナー・イームズをとりあげました。
 今回はそのうちのエジソンをとりあげます。エジソン伝の前編です。

フランクリン的な人たち エジソン1

子ども時代 
 アメリカの歴史上の人物で,フランクリンと多くの共通点がある人というと,その第一は発明王のトマス・エジソン(1847~1931)ではないでしょうか。

 エジソンは,1847年にアメリカ・オハイオ州の小さな町に生まれました。父親は材木と穀物を扱う商人でした。

 エジソンも,フランクリンと同じく,ほとんど学校教育を受けていません。
 8歳のとき,小学校を1年足らずでやめています。経済的事情ではなく,学校に適応できなかったのです。
 好奇心が強すぎて,いろんな質問で先生をひどく困らせたりました。成績もひどいものでした。

 彼の母親は,元教師でした。彼女は息子を自分で教育することにしました。けんめいに本を読み聞かせたりして,勉強を教えました。

 1年ほどするとエジソン少年は,さまざまな本を自分で読めるようになりました。中等学校向けの科学の本を与えると,本で図解されている科学実験を片端から自分で行うようになりました。やがて家の地下室を与えられ,実験ざんまいの日々を送るようになったのでした。

働きはじめる
 12歳のとき,エジソンは鉄道の車内販売の売り子として就職しました。
 彼の働く鉄道は,工業都市のデトロイトが終点でした。折り返しの待ち時間が数時間あり,それが自由に使えたので,機関車の整備の仕事を眺めたり,市内の工場を見物したり,図書館に通ったりしました。
 そして,持ち前の好奇心や行動力で,学校に行かなくてもさまざまな知識を吸収していったのでした。

 このあたりもフランクリン的です。
 
 そんな彼を,周囲の大人も後押ししてくれました。
 特別なはからいで,列車の一部を自由に使わせてもらい,そこに実験器具を持ち込んだりしています。

 さらに,その列車に手回しの印刷機を持ち込んで,新聞を編集発行しはじめました。
 フランクリンのように自分で記事を書き,かなりの部数を売りました(フランクリンは印刷所を経営しながら,新聞発行の事業も行っていた)。
 これが,彼がはじめて本格的に「お客さん」を得た経験でした。

しかし,この新聞は地元のある有力者にとって不愉快な記事を書いたため,圧力をかけられてまもなく廃刊になってしまいました。

 そんな中,ひとりの駅長が彼に目をかけてくれました。自分の家にしばらく滞在して電信を学び,技士の資格を取ることを勧めてくれたのです。電信には強い興味があったので,願ってもない話でした。
 エジソンは熱心に勉強し,16歳で電信技士の資格をとりました。

電信の世界で武者修行 
 その後エジソンは,臨時雇いで電信の仕事をしながら,全米各地を渡り歩きました。

 その放浪は5年ほど続きました。さまざまな経験をしましたが,各地の電信技士との交流で,電信技術に対する知識や考えを深めることができたのは,とくに有意義でした。
 各地の図書館でたくさんの本を読みあさったりもしました。

 この時期のエジソンは,武者修行的に広い世界をみたという点で,フランクリンのロンドン時代を思わせます(フランクリンは若いころ,ロンドンに渡り,2年ほど印刷工として働いたことがあります)。

 若きフランクリンは印刷業という「手に職」で世間を渡たりましたが,エジソンにとってそれは電信だったということです。

 また,当時の電信というのは,最新のテクノロジーでした。その世界での武者修行は,今でいえばシリコン・バレーのIT企業を渡り歩いて仕事をするようなものだといえるでしょう。

 そして,1700年代のフランクリンの時代の印刷業も,当時としては「ハイテク」を用いた新しい産業でした。
 近代的な活字印刷は,1500年代のヨーロッパでおこったものですが,最初のうちは活字や印刷機などを持てる人はごく限られていました。それの道具は,きわめて貴重で高価なものでした。
 
 しかしフランクリンの時代になると,印刷という新しいメディアはかなり大衆化しました。とくに,アメリカはその最先端でした。道具や機材も昔よりは安くなり,印刷によって情報発信をする人の層が厚くなりました。職人出身のフランクリンのような人が,印刷物で情報発信を行うようになったのは,その一例です。

 こういう「情報発信の大衆化」は,今の世界でパソコンやインターネットが普及して起こったことと似ています。

 このように,若いときに当時の「新しい技術・メディア」の世界に入り,そこで本格的に修行したという経歴でも,エジソンとフランクリンは共通しているのです。

(つづく)

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2013年01月20日 (日) | Edit |
 おとといの1月18日は,大正から昭和にかけて活躍した実業家・大原孫三郎の亡くなった日でした。
 そこで大原の「四百文字の偉人伝」を掲載します。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。
 以下の大原の話は,その電子書籍から。
 ほんとうは18日に,と思っていましたが,忘れていました。
 

大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)

すぐれたコレクションは志がちがう

 大正~昭和初期の実業家・大原孫三郎(1880~1943)は,地元の倉敷市(岡山県)で紡績会社などを経営しながら,孤児院,研究所,病院,美術館などさまざまな社会事業を手がけました。
 そんな大原が集めた西洋絵画は,現代でも「日本有数のコレクション」といわれます。彼の依頼でヨーロッパへ渡り,絵を買い付けたのは,大原の親友で洋画家の児島虎次郎でした。
 制約もある予算の中で児島が選んだ作品は,その選択が的確で,のちに評価が高まっていったものばかり。
 絵は,まず地元の学校を借りて公開されました。それが盛況だったので,さらに多くの絵を買い集め,のちに「大原美術館」を建てました(1930年開館)。
 日本初の「本格的な西洋美術のコレクションを有する美術館」です。
 大原は,みんなにみてもらうために絵を買ったのです。現代の企業や金持ちが,値上がり目当てで買った高い絵を,金庫にしまっておくようなのとは志がちがいます。

(参考文献)
山陽新聞社編『夢かける 大原美術館の軌跡』(山陽新聞社,1991)による。ほかに参考として,城山三郎著『わしの眼は十年先が見える』(新潮文庫,1997)


                        *

 以上,大原美術館のことを書きましたが,これは大原の社会事業の一部にすぎません。大原のことを人名事典ふうにまとめると,こうです。

【大原孫三郎】
 大正~昭和初期の実業家・社会事業家。若くして父が経営する倉敷紡績を継ぎ,おおいに発展させた。若いときに「岡山孤児院」の創設者・石井十次と出会って影響を受け,社会事業にも力を注ぐ。私財を投じ大原社会問題研究所(労働問題等を研究,1919年設立),倉敷中央病院(1923年),大原美術館(1930年)などを創設した。倉敷紡績の労働条件改善にも取り組む。いずれの仕事も当時画期的なものであった。
1880年(明治13)7月28日生まれ  1943年(昭和18)1月18日没


 このように多方面の活動をしています。
 大原は,近代日本におけるNPO活動の最高峰のような人です。
 
 「NPOによって新しい公のサービスを作り出すこと」は,社会の重要テーマになっています。
 大原孫三郎は,これからますます注目・評価されるようになるでしょう。

 つい最近(先月)つぎの本が出ました。

 兼田麗子著 大原孫三郎―善意と戦略の経営者 (中公新書)

 じつはこれまで,大原については,「多くの人が手軽に読めるまとまった伝記」がありませんでした。
 城山三郎『わしの眼は十年先がみえる』(新潮文庫)という,大原の生涯を描いた小説があるくらい。大原に縁のあった人たちでつくった『大原孫三郎傳』(昭和58年)という基本文献もありますが,手軽に買えないし,読みやすい本とはいえません。
 
 兼田さんには『大原孫三郎の社会文化貢献』(成文堂,2009年)という著作もありますが,今回新書というかたちで,まとまった大原伝が出たわけです。
 この本を今日買ってきました。これから読みます。

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2013年01月20日 (日) | Edit |
フランクリン的な人たち

フランクリン的な人間を生むアメリカ
 十分な学校教育は受けられなかったけど,前向きによく働き・よく学びながら成長し,やがて大きな仕事を成し遂げる。これは,偉人伝のひとつの典型です。

 「明るい独学者 フランクリン」の記事で述べた,ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)の物語は,その元祖であり究極といっていのですが,ほかにもフランクリンを思わせる有名な人物はいます。とくにアメリカ人で目立ちます。
 それはアメリカという国が,世界の歴史のなかでいち早く身分社会を脱して,個人の努力や貢献が報いられやすい社会になったせいでしょう。

 少し説明します。フランクリンの生きた時代(1700年代)は,日本だと江戸時代の半ばです。まだ士農工商の身分社会で,職業の自由も表現の自由もありません。
 もし江戸時代の日本にフランクリンのような素質の人が(庶民として)生まれたとしても,国のリーダーとして活躍するまでになるのは,不可能です。ただし,幕末の動乱の時代は別ですが。

 好きな町に住んで,仕事を選び,自由に営業をして,出版ができたからこそ,フランクリンは成長し活躍できました。彼の時代のアメリカは,今からみれば不十分な点はあっても,そういう条件を備えていました。当時の世界の最先端をいっていたのです。

 フランクリンは,アメリカ独立後まもない時期(1782年)に,アメリカ社会についてヨーロッパの人びとに知らせるために書いた文章で,つぎのように述べています。

《ヨーロッパでは名門は価値があるが,この商品を運ぶにアメリカほど不利な市場はどこにもない。アメリカでは他人のことを「あの人はどういう身分か?」とは聞かないで,「あの人は何ができるか?」と聞くのである。その人に有用な技能があれば歓迎されるし,それをやってうまくできれば,彼を知る皆から尊敬される。だが,ただ家柄がよいというだけの人が,そのためのだけの理由で,何か官職を得ようとすれば,軽蔑され無視されるであろう。》
 (「アメリカへ移住しようとする人びとへの情報」『アメリカ古典文庫1 フランクリン』研究社,池田孝一訳)


 自由で民主的な社会でないと,フランクリン的な人物は育たないのです。

フランクリン,エジソン,イームズ
 では,「フランクリンを思わせるアメリカ人」というと,どんな人物がいるのでしょうか。
 たとえば,発明王トーマス・エジソン(1847~1931)。
 あと,チャールズ・イームズ(1907~1978)という人もそうです。

 イームズは,ご存じない方も多いと思いますが,1900年代後半に活躍したアメリカのデザイナー・建築家です。デザインの世界ではたいへん有名な人です。

 フランクリン,エジソン,イームズ。
 彼らの生い立ちや仕事ぶりには,共通したところがあります。

 まず3人とも,庶民的な出身の人たちです。
 フランクリンの父はロウソク職人でした。エジソンの父は製材所を経営。イームズの父は今でいうと私立探偵のような仕事をしていました。お金持ちとか,いわゆる「文化人」の家庭で育ったのではありません。

 そして,3人とも学校教育を十分に受けていません。
 フランクリンは,10歳までしか学校に行けませんでした。
 エジソンが小学校を1年足らずで退学させられたのは,有名な話です。
 イームズは大学の建築学科に進みましたが,2年生の途中で退学になっています。つまり,同時代のエリートの建築家とくらべると,正統的な教育のコースからは外れているのです。
 
 しかし彼らは,独学で自分の道をきりひらいていきます。旺盛な好奇心で幅広い世界について知識やセンスを身につけていきました。
 その独学は,生活のために働きながら行ったものです。彼ら3人はみな,少年時代から働いています。
 フランクリンは,10歳のときに印刷工の見習いをはじめました。
 エジソンも,12歳で働きはじめています。
 イームズも,少年時代に父親を亡くし,家計を支えるため工場で働きながら高校に通いました。

ぼう大で多彩な仕事
 そして3人はみな,ぼう大な仕事を残しました。
 「偉人」といわれる人は,1つか2つの代表的な仕事で知られることも多いのですが,そういうタイプではないということです。そして,仕事の内容も,複数の分野にまたがる多彩なものでした。
 
 たとえば,フランクリンは,政治家・社会活動家として,世界初の公共図書館などのさまざまな社会事業で活躍したり,科学者として電気学を中心にいくつもの発見を成し遂げたり,哲学や社会科学でも多くの著作を残したり,いろんな活躍をしています。
 そして,熟年になってからはアメリカ独立革命(1776年)のリーダーとして大活躍したのでした。アメリカでは『フランクリン全集』という,まるで百科事典のような分量の著作集が出版されています。

 エジソンのぼう大な仕事ぶりは,有名でしょう。蓄音機,電灯をはじめ,映画,謄写版,蓄電池関係,アルカリ電池,電話の改良など,いくつもの大発明があります。そして,生涯に1000余りの特許を取得したのでした。

 イームズの仕事量を説明するのはややむずかしいですが,家具などの分野で後世に残るデザインをいくつも生み出す一方,自主制作の短編映画を120本余り制作しました。
 科学や歴史に関する大規模な展覧会の企画・展示も手がけ,その分野でも功績があります。その仕事のなかには「フランクリンとジェファーソンの世界展」(1975)というものもあります。
 建築作品の数は少ないですが,後世の建築に大きな影響を与えています。また,写真の名手でもあり,80万枚の写真を残しました。
 
 たしかにイームズの仕事は,「世界の歴史」というスケールでみれば,フランクリンやエジソンとくらべ,その影響はかぎられます。しかし,「現代のデザイン」というジャンルでは,まさに「巨人」といっていいのです。

人をまきこむ,手を動かす
 また,彼ら3人の仕事ぶりは,ある種の作家や芸術家のように,「ひたすら1人で仕事場にこもって」というのとはちがいます。
 さまざまな現場を動きまわりながら,多くの人をまきこみ,協力を得ながら進めていくような仕事です。彼らは自分の組織やネットワークをつくり,それをフル活用しながら仕事をしたのでした。

 政治家・社会事業家としてのフランクリンの活動は,まさに「人をまきこむ」仕事の典型です。
 エジソンは,多くの技術者・科学者を集めて研究所をつくり,そこで仕事をすすめました。「発明工場」の経営者だったのです。このような「民間の技術開発の研究所」は,エジソンが先駆者でした。
 イームズも,数十人のスタッフが働くデザイン工房の経営者でした。

 そして,その仕事のおもな部分が,手を動かす作業をともなっていたのも,彼らの共通項です。

 フランクリンは,もともとは印刷工から身をおこして印刷所の経営者になった人でした。そして,自分で書いたものを,自分で活字を組んで印刷機をまわし,自分で配布したり売ったりしたのです。
 技術者であるエジソンや,デザイナーであるイームズと「手仕事」の関係は,イメージしやすいと思います。

 このように彼らは,人びとと交わりながら,アタマや手先を使って仕事をする人たちでした。
 まさに「働く人」というかんじなのです。

 フランクリン,エジソン,イームズ――この3人はみんな,じつに「よく学び,よく働く」人たちでした。
 
 そんな「フランクリン的な人たち」の勉強ぶり・仕事ぶりに興味があります。
 とくにイームズはデザインの世界では有名ですが,広く一般には知られていません。これから,イームズのことはときどきとりあげるつもりです。

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2013年01月18日 (金) | Edit |
 フランクリン伝の最終回。「独学者」としての彼の人生についての解釈・まとめです。


明るい独学者 フランクリン3

学ぶことは「楽しみ」だった 
 ここまで(2回ににわたって)フランクリンの人生の,おもに前半のところをざっとみわたしました。
 
 彼の人生の初期には,いろいろな大変なことがありました。学校にはほとんどいけずじまい。働きはじめてからも,悪い人にダマされたり(イギリスへ渡った際),雇い主が亡くなって仕事を失ったりもしました(デナムさんの件)。
 
 それでも彼が明るく学び続けることができたのはなぜでしょうか。
 最も基本的なのは,彼にとって学ぶことは「楽しみ」だった,ということではないかと思います。

 彼には,学問による立身出世という考えはなかったはずです。そんなことが期待できる身分ではないと思っていたのでしょう。学校を出ていない一介の印刷工。まずしっかり仕事をして,その合間に好きな学問をしているだけ。

 つまり,「何にもならならいとしても,かまわない」という気で勉強しているのです。

 こういう,たいした望みを持たないで,好きなことに打ち込む人間というのは強いです。「なんでオレは認められないのだ」「このまま終わってしまうんじゃないか」とか悩んだりしないで,淡々と前進できるからです。

「楽しさ」の源泉
 さらに,その「楽しさ」の源泉は何なのでしょうか。
 もちろん,学問や知識じたいの楽しさはあります。だがそれだけではありません。何よりも「自分の勉強にお客さんがいる」ということが,フランクリンにとっては重要でした。
 
 つまり,自分の勉強の成果を人に楽しんでもらったり,役立ててもらったりする。それが,うれしかったのです。

 「お客さん」を得るためには,自分の勉強を頭の中にしまい込まず,文章などの「作品」にして発表しなくてはなりません。彼は人生の初期から,それを行ってきました。
 
 まず,16歳のとき新聞に投稿したエッセイで,自分の文章で読者を得られることを知りました。
 ロンドン時代に哲学の小冊子をつくったのは,この体験があってのことです。この小冊子の発行によって,いろんな出会いがありました。自分の考えを作品化することで,世界が広がるのを体験したのでした。

 もし,知識を得るだけの,お客さんのいない勉強だったら,こういう楽しみはありませんでした。それだと,勉強はどこかで挫折してしまったかもしれません。
 
 多くの独学者が,じつはそうなのです。彼らは,自分のお客さんをみつけることができないまま,意欲を失ってあきらめてしまいます。

 多くの恵まれない独学者は,自分の勉強を作品にして人にみせようとは考えません。「自分なんて……」と思ってしまいます。それは,エライ人のすることだ,と。

 しかし,それはまちがいです。
 いわゆる教育のある人は,若い未熟なうちから「自分の作品」を発表する経験をしています。授業や課外活動での発表や創作など,さまざまな表現をさせられています。恵まれた環境にある人ほど,一般にその機会が多いです。周りには文化的な活動をする大人がいて,その様子もみています。
 それで何となく「作品をつくる」「お客さんを得る」ということを知るのです。

 多くの独学者は,そういう機会に恵まれていません。本や教科書を読むことだけが勉強だと,つい思ってしまいます。しかしそれだけでは楽しみや手ごたえが足りなくて,勢いが続きません。続くとしたら,資格や学位を得るなどの切実な縛りがある場合にかぎられます。

お客さんを得るために
 「お客さんを得る」といっても,人はなかなかお客さんにはなってくれません。学校の先生やゼミの仲間なら,あなたの発表につきあってくれますが,それは学校という環境が特殊なのです(それが学校のすばらしいところです)。
 
 ふつうの世間では,無名の人間の作品につきあってくれる人はまれです。独学者はそこをなんとかして,お客さんを開拓しなくてはなりません。

 若いフランクリンは,そのための努力や工夫をしました。
 
 まず,自分の作品を鑑賞にたえるものにする努力。
 文章ひとつにしても,彼は少年時代からセンスがありましたが,意識的な努力もかさねました。
 ロンドンでつくった哲学の小冊子は,ある人物から「内容はともかく文章が読みにくい」とアドバイスされました。そこで彼は,読みやすさで定評のある著者の文章を模範にして,暗記して書くなどのトレーニングを積みました。

 そして,ジャントーという場をつくったことは大きかったです。ジャントーは彼にとって,自分の考えを気楽な内輪で発表して,テストする場所でした。
 ジャントーの仲間は,試作品のテストにつきあってくれる最初のお客さんなのです。
 フランクリンは,その反応をみて合格したもの,または反応をふまえ改善したものを,世の中に公表しました。新式暖炉のような発明も,科学の研究も,社会事業の構想も,たいていはまずジャントーで試しました。

 「試作品をテストする」という方法を活用したおかげで,フランクリンは,独学者にありがちな「ひとりよがり」とは無縁でした。彼が世の中に打ち出したものは,みな高い水準に達しており,人びとの関心に訴えるものだったのです。

明るい独学の秘訣
 以上の話のキーワード。
 
 「勉強を作品にする」
 「自分のお客さんをみつける」
 「試作品をつくってテストする」

 
 これがフランクリンの明るい独学の秘訣です。フランクリンの生涯にはいろんな要素が詰まっているので,ほかにもまだまだ「秘訣」はありますが,今回はこの3つに光をあてます。
 
 彼はこれらの秘訣を,不利な条件にもかかわらず自分の手探りでつかみとりました(そこには偶然や幸運も作用したでしょう)。

 こういうことを,恵まれた育ちの人は,与えられた環境のなかで何気なく教わります。そして,社会に出るとかなりの割合で何気なく忘れてしまう。

 フランクリンは,それよりもはるかに自覚的に深く学びとったので,この秘訣をトコトン使いこなすことができました。不利な環境を乗りこえた人間の強さです。この秘訣は,彼の全人生の活動を支えました。
 
 フランクリンのお客さんは,最初は周囲のごく限られた人にすぎません。それでも,うれしいことでした。
 そのうれしさを原動力にしてさらに勉強し,工夫してつぎの作品をつくる。それでより多くのお客さんを得る。うれしくてさらに勉強して,工夫して……

 そういう「正のフィードバック」が極限までいってしまったのが,フランクリンという人なのです。

 私たちも,フランクリンのやり方をまねてみるといいのでしょう。

 彼のやり方は,恵まれない条件を克服しようと努力するなかであみ出されました。きびしい条件下で使えるものは,大抵どこでも通用します。つまり,恵まれない人も,恵まれた人も関係なく役に立つのです。
 今の時代は,知識を得ることも,「作品」をつくることも,それを社会に発信することもフランクリンの時代よりずっと簡単になりました。いろんな道具が揃っています。

 だから,それを活用して,やれることをやってみればいいのではないかと思います。
 
 フランクリンは,アメリカでは非常に有名な偉人ですが,日本ではそうでもありません。しかし,彼のことは知る価値があるのです。

(おわり) 

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2013年01月17日 (木) | Edit |
 「何千文字」のフランクリン伝の続きです。

明るい独学者 フランクリン2

ジャントー
 1720年代のこと。20代前半のフランクリンはフィラデルフィアで再び印刷工の仕事に就きました。
 そしてそのころ,町の若者たち十数人を集め,勉強のサークルを始めました。

 これは,毎週金曜の夜に集まって,読書会やレポートの発表などを行うというものです。テーマは,社会問題,自然科学,芸術・文化などさまざま。この会を,彼は「ジャントー」(「秘密結社」という意味)と名づけました。

 こういうサークルは,議論が白熱するうちにいろいろ気まずいことがおこったりするものです。今のネット上でもよくあります。フランクリンはそれを防ぐためにサークル運営のルールを定めました。「議論のための議論はしない」「独断的な意見で討論を混乱させたら,罰金を払う」といったことです。
 
 こうした組織運営の工夫もあってか,ジャントーは長続きしました。その後40年にもわたって続いたのです。

 しばらくすると(1730年代はじめには),ジャントーの活動から画期的なひとつの成果が生まれました。
 それは,図書館の設立ということでした。

 
図書館の設立
 そのころ,勉強熱心なフランクリンたちは,もっと本を読みたいと思っていました。しかし,当時の本は高価で,なかなか買えません。
 買うのに手間もかかりました。当時のアメリカには,大きな町でも専門の本屋さんはありませんでした(本は,文具店や雑貨店などで片手間に取り扱っていた)。本を買おうとすると,かなりの場合イギリスから取り寄せないといけなかったのです。
 そこで,フランクリンたちはジャントーの仲間で蔵書を持ち寄って図書館をつくろうと考えました。当時はまだ公立の図書館などはありませんでした。

 しかし,この「本を持ち寄る」というやり方はうまくいきませんでした。
 各人がなくしていいようなダメな本ばかり持ち込んだからです。たまに良い本が持ち込まれても,誰かが借りたまま返さないで,なくなってしまうなどということもありました。
 こういうことが何度かくりかえされると,良い本が集まらなくなってしまいます。

 そこで,フランクリンたちは図書館を「おおぜいから小口の資金を〈会費〉として集めて基金をつくり,それで本を買う」方式に切り替えました。会費を払った人でなくても,その都度料金を支払えば図書館を利用できました。
 すると,蔵書は充実して会員も増えていき,大成功。
 
 最初の「持ち寄り方式」がうまくいくには,「自分の大事な本をみんなに差し出す」という自己犠牲が必要です。しかし会費制だと,各人に無理を強いることなく,全体の利益を実現できます。そこがポイントだったのです。
 フランクリンは,その後もさまざまな公益事業で活躍しますが,この図書館のような,みんなの利益をはかるしくみづくりがとても上手でした,

 このとき設立されたフィラデルフィア図書館は,世界初の公共的な(誰もが利用可能な)図書館でした。それまでの図書館は,王侯貴族の私的な本のコレクションであり,一般の人が利用できるものではありませんでした。
 
 フランクリンたちが「図書館をつくろう」と動き始めた当初,町の人の反応は冷たいものでした。リーダーのフランクリンはまだ20代前半の若者でしたので,なかなか信用してもらえません。図書館が実現したのは,多くの人への働きかけを粘り強く続けた結果です。

 一方,本業のほうでも進展がありました。ジャントーの友人の家族から出資を受けて,その友人との共同経営ではありますが,印刷業者として独立することができたのです。22歳のときのことでした。まもなく,結婚もしました。

若きリーダーに
 フランクリンは仕事に励み,商売を広げていきました。
 印刷所の経営を始めた翌年には,『ペンシルバニア新報』という週刊新聞の編集発行も始めました。
 出版の世界はまだ未成熟で,日刊紙も全国紙もない時代です。印刷業者が出版業も兼ねることは,珍しくありませんでした。記事の多くを自分で書きました。それが好評で,部数を伸ばしました。

 もうひとつ,大きな収益源となった出版物に,28歳のときに発行を始めた『貧しいリチャードの暦』というオリジナルの暦があります。
 当時,暦は最も広く普及していた出版物でしたが,フランクリンはさまざまな工夫こらして,実用だけはない,読んで楽しい暦をつくりました。これが評判を呼んでベストセラーとなったのです。
 
 やがて,お金をたくわえたフランクリンは,出資者から事業を買い取って,共同経営を脱しました。
 
 30歳ころには,フランクリンはフィラデルフィアの若きリーダーの1人になっていました。
 公的な活動もさかんに行いました。町の消防組合の創設を主導して実現したり,フィラデルフィア郵便局の局長に就任したりしたのでした。
 当時は,政府による公共サービスが未発達で,こういう事業を住民が手づくりで行なっていました。また,ペンシルバニア植民地議会の書記(事務局の要職)にも選ばれています。

科学の研究
 30代のフランクリンは,商売に公務に多忙な中,学問にもいそしみました。彼にとって学問は,大好きな道楽でした。とくに惹かれたのは科学の研究です。
 それは本を読むだけではありません。あるとき彼は,科学者を町に呼び,連続の科学講座を主催したりもしています。そうやって,学校で得るような系統的な知識を学びました。
 
 また,科学を実際の生活に役立てようともしました。
 彼は,36歳のとき(1741年),燃料効率のすぐれた(薪の使用が少なくて済む)新式の暖炉を発明しています。 熱などに関する科学知識を応用したものです。暖炉の燃費は,当時の切実な問題だったので,この発明は反響を呼びました。
 しかし彼は特許をとらず,その発明を誰もが利用できるようにしました。そして,暖炉のしくみを説明する小冊子を作成し,配布したりもしました。本業で稼いでいたので,今さら発明で儲けるつもりはなかったのです。
 
 さらに,当時の新しい分野だった電気学にも興味を持つようになりました。ジャントーの仲間などとともに,いろいろな実験を行なったのでした。
 そんな中,42歳のときには,のちに「先端放電現象」と名づけられる現象を発見しました。フランクリンは,新発見のレポートを,ロンドンの知り合いの科学者に送りました。
 コリンソンというその科学者の推薦で,フランクリンの報告は,権威ある学会誌に掲載されたのでした。
 科学者フランクリンの誕生です。

 ここまでの活躍は,フランクリン84年の生涯のほんの序章にすぎません。
 ここからが彼の人生の本番です。しかし,著作や出版,社会事業,政治活動,科学の研究といった,その後の展開の出発点となる要素が,この時点ですでに出そろっています。
 
 その後の彼の活躍は,それまでの各領域での活動を,さらに大きく発展させたものでした。
 多方面にわたる膨大な著作。病院や大学の創設。全国規模での郵便事業の統括。
 植民地全体の政治への関与。独立革命のリーダーの1人としての活躍。
 最晩年にはアメリカ合衆国憲法の制定に貢献しました。
 
 そして科学研究では,さらに発見を重ね,電気学の分野で世界的な権威となりました。たとえば,2種類の電気について「プラス」「マイナス」という呼び方を提唱したのは,フランクリンでした。

(つづく)

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2013年01月15日 (火) | Edit |
 1月14日の記事で,「400文字」のフランクリン伝を載せました。
 今回は,「何千文字」のフランクリン伝です。
 フランクリンについては,「400文字」だけでなく,もう少しくわしく紹介したいのです。

 ここでは「独学者」としてのフランクリンに,光をあてます。
 つまり,子ども時代から若いころのことが中心です。フランクリンは,ほとんど学校に行っていません。
 そんな彼が,どうやって学び続け,自分の世界をつくっていったのか。
 
 こういう,「独学者」の話が私は好きです。
 たぶん,仕事でも専門でもないのに,いろいろ本を読みあさる,ということを続けてきたからでしょう。私も「独学者」のはしくれなのです。

 
明るい独学者 フランクリン1

 困難にも負けず勉学を続けた偉人の物語は,多くの場合,悲壮な感じがします。
 たとえばキュリー夫人や野口英世はそうです。
 2人とも若いうちは貧乏で,いろいろ苦労をしています。それを必死の努力でのり越えて研究者となり,偉大な業績をあげました。それが感動的なので,2人は「偉人」の古典的な定番なのです。
 
 しかし,不利な条件下で苦労したはずなのに,明るい印象の偉人もいます。
 ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)は,まさにそうです。
 彼は,「不利な条件に負けず,明るく生きて人生をきりひらいた独学者」でした。その「究極のかたち」といっていいでしょう。

 フランクリンの人生については,「伝記の傑作」といえる,すぐれた自伝があります。この『フランクリン自伝』は岩波文庫などにも入っており,かなりよく読まれています。これが彼に関する第一の資料です。
 そして,アメリカでは『自伝』のほかに,彼についてのさまざまな伝記や著作が出ています。『フランクリン全集』というぼう大な著作集もあります。
 
 フランクリンは,アメリカでは非常に有名な,代表的な偉人です。
 たとえば,100ドル紙幣の顔だったりするのです。
 
 しかし,日本ではフランクリンについての著作は,そんなに多くありません。
 彼の人気や評価は,日本ではあまり高くないのです。しかし板倉聖宣著『フランクリン』(仮説社,1996年)という読みやすく,すぐれた伝記もあります。ここでは,この本と『自伝』をおもに参照しながら,彼の人生をみていきましょう。

子ども時代
 フランクリンは,1700年代後半のアメリカで活動した,政治家・社会活動家です。
 科学者としても活躍しました。「凧をあげた実験で,カミナリが電気であることを突きとめた」というのは,「科学者フランクリン」の有名なエピソードです。
  
 フランクリンが若いころのアメリカは,イギリスの植民地でした。それが,イギリスとの戦争を経て,1776年に「アメリカ合衆国」として独立しました。

 アメリカ独立では,晩年のフランクリンはリーダーの1人として大きく貢献しています。
 彼はもともとは,印刷業者として成功した人でした。若いころから政治や科学の世界を志していたのではありません。しかし,「本業」のほかにもやりたいことを追求していくうちに,社会のリーダーや科学者になっていったのです。

 フランクリンは,1706年にアメリカ東海岸の町・ボストンで生まれました。
 17人兄弟の15番目です。父親は石けんやロウソクをつくる職人でした。
 
 兄たちは職人や船乗りになったり,商人のところに奉公に出たりしていました。父親は,ベンジャミンは牧師にしたいと考えました。とても利発で,もの覚えがよかったからです。
 そこで,ベンジャミンが8歳のとき,ラテン語を教える学校に入学させました。
 古い聖書(聖書の「原典」)は,古代ローマの言葉であるラテン語で書かれていたので,キリスト教の聖職者になる人は,それを学んだのです。
 
 彼の学校での成績は優秀でした。しかし,学費の負担が重く,しかたなく1年で辞めました。
 そして,寺子屋のような読み書きの基本だけを教える学校に入りなおします。しかし,そこも学費を払いきれず1年で退学。
 彼の学校教育は,10歳で終わりました。

 
印刷工として働く
 その後,ベンジャミンは印刷業者として独立したばかりの兄の元で働くことになりました。
 やがて彼は,仕事場であつかう本や新聞などの印刷物を,仕事の合間に読みあさるようになりました。それでかなりの勉強ができました。数学や科学の初歩まで学んでいます。印刷業には,「多くの情報や知識に触れる文化的な仕事」という面がありました。

 いろんな勉強の仕方があるものです。
 こんな彼の様子をみると,ろくに学校に行けなかったことが小さく思えてきます。ほんとうは重たいことなのですが,フランクリンの前向きな努力は,それをさらりと超えてしまうところがあります。 

 16歳のときには,自分で何か書いてみたくなり,女性のペンネームで(自分の正体を隠して),地元の新聞にエッセイを投稿しました。それが好評で,十数回にわたって掲載されます。ろくに学校に行けなかった16歳の少年が,プロのライター顔負けの文章を書いたのです。
 
 17歳のときには,兄とケンカしてボストンの町を飛び出してしまいました。そして,ボストンの南にあるフィラデルフィアという大きな町に出て,印刷所に就職しました。
 
 そして19歳のときには,イギリスのロンドンに渡りました。
 きっかけは,知り合った地元の有力者が「ロンドンへ行って印刷機を買い,独立するといい」と強く勧めたことでした。その人は「力になるから」と言ってくれたのです。
 しかし,ロンドンに行ってみると,その有力者はウソつきで何もしてくれないことがわかりました。フランクリンは自力で印刷工の仕事をみつけ,働きはじめました。

 ロンドンでも彼は,読書による勉強を続けます。
 限られた給料をやりくりして,本を少しずつ買ったりしました。

お金のこと
 『フランクリン自伝』をみていると,家計のやりくりなどのお金の話がときどき出てきます。そして,かなりこまかいことまで書かれています。
 たとえば,兄の印刷所で働いていたときに,「昼食は自分で弁当をつくって持って行った」という話があります。
 昼休みになると,兄や同僚は外食をしに出ていきます。フランクリンはひとり職場に残って弁当をさっさと食べてしまうと,あとは本を読んですごしました。弁当を持っていくことで,お金が節約でき,勉強の時間もとれて一石二鳥だった,ということを彼は述べています。

 また,「ロンドン時代の下宿が,安い家賃で夕食も出してくれたので助かった」といった話も,『自伝』にあります。これもお金と時間の節約になったということです。
 ロンドンでの彼は,仕事が終わって一杯やりに行く同僚を後目に,まっすぐ下宿に帰っては好きな読書をする毎日でした。

 こんなふうに堅実に暮らしながら,彼は勉強しました。
 しかし,内気でカタブツな感じではなく,人づきあいも好む,明るい人柄でした。それは,いろんな人と結びついていった彼の人生をみればわかります。

 お金のことは,『フランクリン自伝』のひとつの大きなテーマです。
 若いころの「弁当生活による節約」について書いているくらいです。のちに自分の商売を営むようになると,お金の話は,もっと重要なことがいろいろ出てきます。

 自分のサイフの中身を,こんなにも自伝に書いたのは,フランクリンがおそらく史上はじめてです。
 今でもそうですが,「お金のことを語るのは格好悪い」というのが多くの人の感覚です。昔は,そのような考えは今以上に強かったのです。とくに本を書くような「文化人」のあいだではそうでした。

 だから,フランクリンは『自伝』で「常識破り」なことを書いたわけです。そこには「金銭的な生活設計は,重要なことだ。もっとオープンに語られるべきだ」という信念があったのです。
 しかし,それに対する批判も少なくありませんでした。『自伝』を読んで,「フランクリンは金の亡者だ」という人もいました。

 「日本では,フランクリンの人気はイマイチ」ということを前に述べましたが,その原因のひとつに,「お金のことをオープンに語る」という彼の姿勢が日本の知識人にきらわれた,ということもあるようです。
 しかし最近は,個人の「マネープラン」ということもよく言われます。「お金と人生」をテーマにした本もいろいろあります。世の中が変わってきたのです。フランクリンは,その先駆者ということです。

世界が広がっていく
 さて,勉強を続けるフランクリンですが,あるとき,仕事で活字を組んでいた哲学書の内容に根本的なまちがいがあると感じ,気になりました。そこで,自分でも関連する論文を書き,それを活字で組んで,小冊子としてわずかな部数印刷しました。
 ささやかですが,彼が最初に出版した著作といえます。
 
 その後,彼の冊子を読んだライオンズという人物が訪ねてきました。どうして冊子を手に入れたのかはわかりませんが,彼も哲学書を出版していて,興味を持ったというのです。
 その後ライオンズは,マンデヴィルという学者を紹介してくれました。
 マンデヴィルは「私欲と経済」をテーマにした『蜂の寓話』という本で歴史に名を残しています。さらにマンデヴィルからはペンパートンという,ニュートンの弟子の科学者を紹介してもらいました。小冊子の発行は,彼の世界を広げてくれたのです。

 21歳のとき,フランクリンは結局アメリカに戻りました。
 ロンドン行きの船で知り合ったフィラデルフィアのデナムという商人と仲良くなり,彼の店で働くことにしたのです。フランクリンは商店の仕事に熱心に取り組み,簿記などのビジネスのスキルも習得しました。

 しかし,しばらくするとデナムは病気で亡くなってしまい,商店も消滅。
 彼は,印刷工の仕事に戻りました。

(つづく)
 
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2013年01月14日 (月) | Edit |
 「四百文字の偉人伝」というのを,この10年くらい書いています。
 時代・国・分野を問わず偉人をとりあげて,ひとつのお話につき「400文字前後」で紹介したものです。
 「400文字」という制約が,ポイントになっています。
 偉人とは,「それぞれの分野で著しい業績をあげ,歴史に名を残した人」のこと。
 すばらしい仕事をした人が中心ですが,「反面教師的に名を残した人」「功績も罪悪も大きい」という人物も取り上げます。

 去年の春に,これまでに書いた「偉人伝」101話をまとめて,電子書籍として出版しました。
 『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン,400円)という本です。
 アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売しています。

 今回は『四百文字の偉人伝』に収録されている話の中から,ベンジャミン・フランクリンをとりあげます。アメリカ独立(1776年)で活躍した,政治家・科学者です。
 フランクリンの誕生日は1月17日。「もうすぐ誕生日」ということでとりあげるわけです。

自立のための金儲け

 「時は金なり」ということわざは,アメリカ独立で活躍したベンジャミン・フランクリン(1706~1790 アメリカ)の作だとされています。彼は,丁稚小僧から身をおこして,印刷業で財を成しました。
 商売上手だった彼を,「拝金主義者」という人がいます。
 しかし,フランクリンは,働かなくても食うに困らないだけの資産を築くと,40代で事業から手をひき,好きな科学の研究に没頭するようになります。とくに電気学の分野では,世界的な権威になりました。
 また,大学や病院の設立,郵便制度の改革などの社会事業でも活躍しました。そして,晩年のアメリカ独立の際には,外交の仕事などで大きな役割を果たしたのです。
 お金のことを気にしなくてよかった彼は,どの仕事も自分の信念に沿って,思いきり取り組むことができました。
 彼は,お金を「自立して自由に生きる」ための手段と考えましたが,人生の目的とは考えなかったのです。

参考:板倉聖宣著『フランクリン』(仮説社,1996),フランクリン著,松本・西川訳『フランクリン自伝』(岩波文庫,1957)。池田孝一訳・亀井俊介解説『アメリカ古典文庫1 フランクリン』(研究社,1975)

【ベンジャミン・フランクリン】
 ワシントン,ジェファーソンと並ぶアメリカ独立の功労者で,電気学などの科学研究や,さまざまな社会事業で活躍した。哲学や社会科学の分野でも業績がある。アメリカでは最もおなじみの偉人の1人。
1706年1月17日生まれ 1790年4月17日没

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2013年01月14日 (月) | Edit |
 このブログでは,いろいろなテーマを扱うつもりです。
 「世界史」「社会のしくみ」「発想法」「勉強法」,それから「団地リフォームと住まい」……雑多なのですが,私としてはこれらに共通するひとつの視点があります。

 それは,「近代社会を精いっぱい生きる」という大テーマです。

 「近代社会」ってなんのことか?
 ひとことでいうと,「多くのふつうの人でも,したいことがいろいろとできる社会」のことです。
 いわゆる「自由な社会」。
 「自由」とは「したいことができる」ということです。

 数百年以上昔の社会は,世界のどこをみても「したいことをする自由」を,法律などで制限していました。
 たとえば,「どんな仕事に就くか」が,生まれながらにしてほぼ決まっていました。江戸時代の日本なら,武士の子は武士に,農民の子は農民に。「身分社会」というものです。

 この数百年の世界は,身分社会を脱して「自由な社会=近代社会」を築く方向で動いていきました。
 「まだまだ」という国もかなりありますが,欧米や日本のような先進国では,近年は「かなり自由になった」といえるでしょう。

 でも,こういう話は,いかにも抽象的です。「自由」について,もう少し生き生きとイメージできる手がかりはないでしょうか。
 そこで,「昔は特別な恵まれた人にしかできなかったことが,今はふつうの人にもできるようになった」という話をしたいと思います。その切り口で話すと,「わかってもらえた」ということがありました。

 たとえばこういうことです。
 今の子どもたちは,生まれたときからビデオやデジカメでいっぱい撮影され,ぼう大な映像が残っています。
 では,「生まれたときから,たくさんの映像(動画)が残っている史上はじめての人物は誰か?」なんて,考えたことがありますか?

 「それはおそらく,今のイギリスの女王のエリザベス2世(1926~)だ」という説があります。
 映画の発明は,1800年代の末です。エリザベス女王が生まれた1920年代には,映画撮影の機材は高度なハイテク機器でした。そんな機材と専門家チームを投入して,日常的に撮ってもらえる赤ちゃんは,当時は大英帝国のお姫様くらいだった,ということです。
 この説がほんとうに正しいかどうかは,立証がむずかしいところもあります。でも,あり得る話です。

 90年ほど前には,世界じゅうでエリザベス2世でしかあり得なかったことが,今では誰でもできるようになっている。

 こういうことは,ほかにも山ほどあります。
 クルマに乗って出かけることは,昔はかぎられた人だけのぜいたくでした。
 「好きなときに音楽を聴く」ことは,蓄音機の発明(1870年代)以前には,自分の屋敷に「お抱えの楽団」がいるような,富豪だけの特権でした。ipodは,「ポケットに入るお抱えの楽団」です。

 たしかに私たちの「自由=できること」は増えているんだろうな。技術の進歩や経済発展のおかげだな……

 そこで,いろいろ考えるわけです。
 だったら,今の社会で,私たちはどんなことができるんだろう?
 少し昔の感覚で思うよりも,ずっと多くの自由や可能性があるかもしれない。

 その可能性を,できるかぎり使いきって生きていけないだろうか。
 それが,「近代社会を精いっぱい杯生きる」ということです。

 ***

 「団地リフォーム」も,私にとっては「近代社会を精いっぱい生きる」ことのひとつです。

 私は,数年前に築30年ほどの公団住宅(団地)を買って,全面リフォームして住んでいます。
 設計は寺林省二さんという建築家にお願いしました。いろいろと要望をして,自分好みのインテリアをつくってもらったのです。
 「建築家に家をつくってもらう」などというのは,私たちの親の時代には,相当に恵まれた人だけができることでした。それを今は,団地住まいの私でも行っているわけです。
 
 これも,今の社会があたえてくれる「自由」や「可能性」を活用した一例です。
 そんな「活用」が,人生のさまざまな場面でできるようになるには,いろんな「発想」や「勉強」も必要になるでしょう。「社会のしくみ」についての知識や,その背景となる歴史もおさえておきたい。

 どうでしょうか。一見雑多なもろもろのテーマは,「近代社会を精いっぱい生きる」という視点で,結構つながっているとは思いませんか?

(以上)
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テーマ:自由への道程
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年01月12日 (土) | Edit |
書斎の写真 - コピー

 はじめまして。「そういち」といいます。
 今年48歳になるオジさんです。

 今,上の写真にある,小さな書斎でこの記事を書いています。
 夫婦で暮らす団地の一画を,棚でラフに仕切った,3畳ほどのスペース。
 この「団地の書斎」で読んだり考えたりしたことを,書いていきたいと思います。

 テーマは,おもに「世界史」や「(政治経済などの)社会のしくみ」といったこと。
 あとは,「発想法」「勉強法」といったことも。
 ただし,専門的なこまかい話は苦手です。やりたいのは,初歩の・入門的な話をざっくりと整理していくことです。まあ,それしかできないということなんですが……
 できれば高校生でも読めるような話にしたいです。
 しかし,そういう初心者向けの話というのは,意外と「本質」に迫る深い内容だったりもするのです。

 あと,もうひとつテーマにしたいことがあります。
 「団地リフォーム」とか「住まい」のことです。
 ここ10年くらいで「古い集合住宅を自分好みにリフォームして住む」という人が増えています。私も,その1人です。築30年ほどの古い団地を,リフォームして住んでいます。このあたりのことも,書きたいです。

 いろいろなテーマを書き過ぎると,「何の店か」がわからなくなってしまって,よろしくないのかもしれません。でも,まあいいでしょう。とにかく,はじめましょう。

テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術