2013年02月28日 (木) | Edit |
 今日2月28日でもなく明日3月1日でもなく,2月29日は,「トヨタ生産方式」の技術者・大野耐一の誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)
 

大野耐一(おおの・たいいち)

うわべの数字にだまされない

 トヨタ自動車の大野耐一(1912~1990)は,「トヨタ生産方式」という高度な生産管理のシステムを築いた技術者です。
 彼が自社の工場で,いくつもの工程が並ぶ,組み立てラインをみていたときのこと。
 大野は不機嫌そうでした――「ラインの稼働率(機械が動いた時間の割合)が98%とは高すぎる。作業の人数が多すぎるからだ」
 稼働率が高いのは「作業が順調に流れている」ということで,一見それでよさそうです。たしかに,工程のどこかに非効率や無理があると,ラインの流れが滞ります。
 その問題点を,きちんと改善するのならいいのです。
 しかし,やり方を改善せず,単に人手を増やして問題をカバーすることもあります。それでは,本当の生産性の向上にはなりません。
 「もっとラインが止まるような人数にして,問題点がわかるようにしなければ」と,大野はいいました。
 彼は,うわべだけの「いい数字」にはダマされない本物のエンジニアでした。

下川浩一・藤本隆宏編著『トヨタシステムの原点』(文眞堂,2001)による。ほかに参考として,三戸節雄著『日本復活の救世主 大野耐一と「トヨタ生産方式」』(清流出版,2003),大野耐一著『トヨタ生産方式』(ダイヤモンド社,1978)。

【大野耐一】
 トヨタ自動車の技術者・役員。従来の大量生産工程で一般的だったさまざまなムダを改善する生産管理の方法を体系化した。これが「トヨタ生産方式」と呼ばれ,世界の製造業に大きな影響を与えた。
1912年(明治45)2月29日生まれ 1990年(平成2)5月28日没

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2013年02月27日 (水) | Edit |
 これからときどき,「経済入門」の話をしていきます。
 
 それも,「GDP」という視点を通しての経済入門。
 読み続けてもらえれば,まったくの初心者でも,経済についての系統だったイメージを得ることができます。「最新ニュースの解説」はしていませんが,10年経っても古くならない「基礎」を知ることができます。
 
 それには「GDP」という切り口が有効なのです。
 
 勉強家のなかには「GDPなんて古いよ」という人もいるかもしれません。「くたばれGDP」なんていうスローガンもあるくらいです。

 でも私は「がんばれGDP」といいたいです。
 GDPと,それにかかわるもろもろの考え方をしっかりおさえること。
 それなくして経済はわかりません。

 
GDPとは「国全体の総買い物額」

国内総生産・GDP
 あなたは,「GDPとは何か」と聞かれて,自信を持って「わかっている」と言えますか?
 別の言いかたをすれば,「〈GDPとは何か〉を中学生に説明できるか?」ということです。私の友人たちに聞いてみると,「だいたいのことはわかっている」という人でも,「子どもに説明するとなると,ちょっと自信がない」と言います。

 GDPというのは,英語の頭文字をとった言葉です。日本語では「国内総生産」。
 しかし,「コクナイソウセイサン」というのは長くて言いにくい。そこで英語の

gross(グロス=英語で「全体の」「総」と言う意味)
domestic(ドメスティック=国内の)
product(プロダクト=生産)

 
 の頭文字をとったGDPという方を,よく使います。

「総買い物額」のイメージ
 GDPとは,一言でいうと「国全体の,みんなの1年間の買い物の総額」のことです。
 つまり,みなさんがスーパーで食料品を買ったり,デパートで服や靴を買ったり,ローンを組んで自動車やマンションを買ったり,美容院に行ったり,旅行で電車に乗ったりホテルに泊まったり……そんなふうにして,日本じゅうで1年間に使った金額です。
 この「買い物額」の合計(総買い物額)がGDP。

 「四半期(3ヶ月)」のGDPというのもありますが,より一般的なのは「1年間」でみた数字です(ここでは「GDP」というときは,とくに断らないかぎり1年間のGDPです)。

 「何を買うか」は,モノを買う場合とサービスを買う場合があります。食料品や洋服や自動車やマンションを買うのは,モノを買うこと。髪を切ってもらう,電車に乗る,ホテルに泊まる,というのはサービスを買っています。理容のサービス,輸送のサービス,宿泊場所の提供というサービスです。)

「GDPは総買い物額である」というのは,うんと単純化した説明です。補足すべき点もあります。しかし,最初に入るときのイメージとしては,とりあえずこれでいいのです。

日本のGDPの額
 ここで,問題です。これから,ときどきこういう「問題」を出していきます。

【問題】
現在(2012年度)の日本のGDPは,どれくらいだと思いますか?

予想
ア.5兆円 イ.20兆円 ウ.100兆円 エ.500兆円

                       *

 2012年(2012年1月~2012年12月)の日本のGDPは,476兆円です。
 だいたいの数字で「日本のGDPは480兆円」と憶えておけばいいでしょう。「480兆円」というのは,「500兆円まではいかないけど,450兆円よりは多い」というニュアンスです。あるいは,もっとざっくりと「400何十兆円(なんじゅっちょうえん)」でもいいです。

知っておいて欲しい数字
 「日本のGDPは480兆円」というのは,「日本の人口は1億2800万人→1億3千万人」という数字とともに,ぜひ知っておいてほしい数字です。

日本経済を知る最重要の数字
・日本の人口 1億3千万人
・日本のGDP 480兆円


 「正確な数字」にこだわらず,このドンブリの数字でおぼえるのがコツです。細かい数字は,使いこなせません。
 しかし,この「GDP480兆円」は,必ずしも「常識」にはなっていないようです。
私は「経済の素人を自認する大人たち」が集まる勉強会で,講師役をつとめたことがあります。そういう場でこの問題を出してみると,集団によっては2~3割の人がまちがえます。

 「日本の人口は?」という問題なら,こんなことはないでしょう。ほとんどの人が,少なくとも「1億人くらい」というところまでは知っています。でも,GDPとなると,「〇百兆円」というケタさえも自信がないという人は少なくないのです。
 
政府が算出する数字
 そもそも,GDPは,どうやってわかるのでしょうか?
 GDPは,政府が算出する統計数値です。しかし,政府が「すべての人の買い物を調べて合計している」わけではありません。
 そのかわり,政府はモノやサービスの売り手である企業に対して,売上などの状況を調査しています。各社の会計帳簿にもとづいたデータです。企業の売上は,結局はお客さんであるみなさんの買い物です。だから,そこからGDPがわかるのです。
 
 このほかにも,政府は国の経済や社会の様子をつかむため,つねにいろいろな統計調査を行っています。
 GDPは,企業の売上をはじめとするさまざまな調査のデータをもとに,政府の専門家がいろいろな計算をして出した数字です。
 これには,たいへんな手間がかかります。だから,信頼できる数字を出すには,しっかりした政府や企業の組織が,社会に存在していることが必要です。

普及して数十年ほど
 GDPやそれと同類の統計数値(「GNP」「国民所得」など)が広く使われるようになったのは,この数十年ほどのことです。ほぼ第二次世界大戦後(1945年以降)といっていいでしょう。
 現代では,経済の問題について考える人は,誰もがGDPという数字をみるようになりました。
 GDPは,経済が発達し,政府の組織が整備され,経済や統計についての学問が進歩した結果,生まれた考え方なのです。

 「景気がいい・悪い」ということが,つねづね論じられます。「景気がいい」とは,みんなの買い物が活発になって,GDPが増える傾向にあることです。「景気が悪い(不況である)」とは,みんなの買い物が停滞して,GDPが減る傾向にあることです。

 「中国のGDPが,日本のGDPを追い抜いた」ことが近年話題になりました。それは,「GDPの大きさ」が,「国力」を測る最も重要なモノサシになっているからです。

 GDPは,少々とっつきにくくても,理解のしがいのある概念です。そこには,さまざまな知識の遺産や膨大な労力が詰まっています。GDPという数字を通して,経済や社会のいろんなものがみえてくるのです。

GDPとGNP
 ある程度以上の年齢の方なら,「以前はGDPではなく,GNP(国民総生産)という数字が使われていた」ことをご存じかもしれません。GNPは,gross national(ナショナル) productの略です。「ナショナル」は,「国民の」という意味です。これに対しGDPつまり gross domestic productの「ドメスティック」は,「国内の」という意味です。

 「国民の」と「国内の」は,どうちがうのか?
 日本のGNPは,日本国民の経済活動を対象にした数字です。日本国民の経済活動なら国内での分だけでなく,海外での分もGNPの対象になります。具体的には,日本人や日本企業が海外で受け取った給料や預金の利子などの所得がGDPにはふくまれます。
 一方GDPは,日本の国内(地域内)での経済活動を対象にした数字です。国民の海外での活動分はふくみません。

 GDP+海外で国民が得た所得=GNP 

ということなのです。

 なお,GNPのことを,GNI(国民総所得)と呼ぶこともあります。同じ中身なのですが,名称を変えたものです。
 昔は日本政府もマスコミもGNPを使っていましたが,90年代にGDPに切り替えました。欧米を中心に「GDPを使う」という流れになったので,それに乗ったのです。

 GDPとGNPは,だいたいは同じようなものです。数字的にそれほど大きなちがいはありません。しかし「〈国内の景気〉をみるうえでは,対象を国内の経済活動に絞ったほうがすっきりする」という考えから,GNPに換えてGDPを使うことにしました。

 この背景には,国際化の進展で「海外での国民の活動」が増えたことがあります。このためGNPとGDPのギャップが大きくなり,「それならGDPのほうを使おう」ということになったのです。
 
 でも,だからといってGNPという数字をまったく使わなくなったのではありません。GNPのほうも,経済の専門家などは今も必要に応じて使います。しかし,「国の経済規模や景気の状態をみるうえでの代表的な統計数値としては,GDPをおもに使う」ということです。そこで,テレビのニュースや新聞ではGDPのほうを使っています。

(以上)
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2013年02月26日 (火) | Edit |
 今日2月26日は,美術家・岡本太郎の誕生日です。

 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)
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岡本太郎(おかもと・たろう)

突き破る塔

 美術家・岡本太郎(1911~1996)といえば,大阪万博(1970年)の「太陽の塔」がまず思いうかびます。
 「太陽の塔」は,「万博のシンボルとして建てられた」と思われがちですが,じつはそうではありません。公式の「シンボル塔」というのは,別に建っていたのです。
 もともと万博で岡本が依頼されていたのは,塔の製作ではなく,メインゲートに接する広場での展示の企画でした。広場は建築界の巨匠・丹下健三の設計で,高さ30mの大屋根が覆うモダンな空間にする計画です。
 計画をみた岡本は,「この屋根を突き破る高さ70mの塔をつくろう!」と提案しました。それも「モダン」とは相容れない,お化けみたいなデザイン。
 丹下や関係者は当惑し,反対もありました。でも,岡本はその説得力で「塔」を実現させます。
 完成した塔は圧倒的な存在感で,「大阪万博といえばあの塔」ということになってしまいました。
 岡本は,人生や芸術を「闘いだ」「冒険だ」といっていましたが,まさにそのとおりの仕事ぶりです。

平野暁臣著『岡本太郎 「太陽の塔」と最後の闘い』(PHP新書,2009)による。

【岡本太郎】
 昭和の戦後に活躍した美術家。絵画と立体造形の両方で活動。大阪万博の「太陽の塔」や渋谷駅の巨大絵画「明日の神話」などで知られる。芸術論などの文筆活動にも積極的だった。
1911年(明治44)2月26日生まれ 1996年(平成8)1月7日没

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2013年02月24日 (日) | Edit |
 団地の魅力のひとつに,その「間取り」があります。
 「〇平方メートル」「〇LDK」ではあらわしきれない特徴が,団地の間取りにはあるのです。

 下の図は,団地の間取りのイメージです。
 斜線の部分は,玄関ホールなどの廊下的なスペース。
 赤い線は,窓。
 出入口の横にあるのは,階段。

(団地の間取り)
団地の間取り

 これに対し「今どきのマンション」のイメージは,こうです。
 団地と同じく,斜線の部分は廊下で,赤い線は窓。

(今どきのマンションの間取り)
今どきのマンションの間取り

 多くの古い団地は,となりあう2戸が対になって階段を共有しています。これだと,ひとつの棟にいくつもの階段があるのがふつうです。これを「2戸1(ニコイチ)」ということがあります。

 それに対し,今どきのマンションの多くは,エレベーターとメインの階段は1か所に集約され,外廊下を通って出入りする構造になっています。これだと通行人の目が気になるので,外廊下に面した窓は,たいていは閉めっぱなしです(だから,上の図では省略しました)。
 これを,「外廊下」方式といいましょう(一般的な呼び名ではなく,ここだけのものです)。
 
 一方,「ニコイチ」方式の団地では,両方の窓(多くは南北)をオープンにできます。これは,やはり快適です。
 まず,北側の部屋も,明るい。古い団地は,家全体に日差しが入ってきます。
 そして,風通しが断然いいです。
 私の住む団地も「ニコイチ」です。高台に建っているせいもあって,南北の窓を開けると風が非常によく通ります。おかげで夏場もほとんど冷房を使わずに暮らしています。
 
 「外廊下がない」
 「そのため,南北の窓をオープンにできる」
 これは,多くの古い団地の特徴であり,明らかなメリットです。

                         *

 もうひとつ,団地の間取りの特徴として,「全体のかたちが正方形に近い」ということがあります。その「正方形」が,襖(ふすま)などでゆるやかに仕切られています。

 これに対し,今どきのマンションは,やや細長い長方形です。
 玄関から廊下がのびていて,その両側に部屋がある。各部屋の独立性は団地よりも高いです。たいていは,廊下のつきあたりがリビング+ダイニングになっています。

 「正方形」型と「長方形」型。
 「どちらがいい」とは,はっきりはいえません(これも,ここだけの呼び方です)。
 ただ私は,ゆるやかに仕切られた「正方形」型の団地の間取りが好きです。
 なんとなく,のびのびした感じがするのですが,どうでしょうか? 家じゅうを「ぐるぐる」「うろうろ」できるので,面積のわりには,きゅうくつな感じがしません。

 もちろん「仕切りがゆるやか」というのは,各部屋のプライバシー度が低いということです。私がそれをデメリットと感じないのは,夫婦2人暮らしだからかもしれません。年頃の子どもさんがいる家庭などでは,またちがうはずです。

 あとは,やはり日当たり,風通しのことがあります。「長方形」型だと,その真ん中あたりは,どうしても外の光や空気が入りにくくなります。

*「長方形」型は,業界では一般に「田の字プラン」といいます。でも,私にはあまり「田の字」にはみえないのですが。

                        *
 
 今どきのマンションは,多くが「外廊下」方式であり,「長方形」型です。それがスタンダードになっています。
 しかし,その「スタンダード」は,かならずしも暮らしやすさを追求して生まれたものではありません。むしろ「経済性」を追求した結果生まれました。
 正確にいうと,「予算の制約のなかで,一定品質の住宅を数多く提供しよう」と工夫するなかで生まれたのです。

 もしも,今の高層マンションを「ニコイチ」でつくったら,ひとつの棟にエレベーターをいくつも設置しないといけません。それはコストがかさみます。マンションの値段がそのぶん高くなってしまいます。

 「長方形」型というのも,経済効率のうえで意味があります。具体的な説明は省きますが,「長方形」型だと,「正方形」型にくらべ,同じ建築コスト(土地代+材料費+工事の手間)でより多くの家をつくれるのです。

 「だから今どきのマンションはダメだ」などというのではありません。
 「外廊下」方式は,現実的な妥協案です。「長方形」型の間取りも,これはこれでよくできていると思います。

 でも,古い団地のような「ニコイチ」方式も「正方形」型もあるということです。
 そして,その良さはもっと知られてもいいと思うのです。

(以上)
 
(参考文献)隔月刊「コンフォルト」5月増刊『図説 日本の「間取り」』建築資料研究社,2001年。「間取り」というものを考えるうえでよい本です。豊富な図版と解説で,住宅に興味のある人なら初心者でもたのしめると思います。ただし,今は入手困難かもしれません。

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テーマ:建築デザイン
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2013年02月23日 (土) | Edit |
諏訪団地2
 
 両親は,私が6歳だった1971年に,多摩ニュータウンの諏訪団地に引っ越してきました。この団地は,多摩ニュータウンの最も古いエリアで,そこへの初入居組でした。
 その諏訪団地で,私は育ちました。
 上の写真は,2010年に撮影した諏訪団地。
 
 その後,20代のときに実家を出て,ワンルームマンションなどで一人暮らしをしましたが,30代で結婚したときに,平成に建て替えられた公団の賃貸に引っ越しました。
 そして7年前からは,実家の近所にある団地(1978年築)を買って,リノベーションして住んでいます(2月9日の記事「団地リノベーションの我が家」参照)。

 つまり,「公団」とか「団地」ばかりで暮らしてきたのです。
 諏訪団地の前も団地住まいだったので,これまでの人生48年のうち,40年くらいは団地暮らし。

                       *
 
 私が団地リノベーションの話をすると,「団地マニアなのですか?」と聞かれることがあります。
 たしかに「団地好き」なのですが,そういわれると違和感があります。

 「マニア」という言葉には,「鉄道マニア」のように,好きなものを趣味的に鑑賞するニュアンスがあります。
 でも,私にとって団地は「愛すべき,身近な実用品」です。あるいは,きわめて「現実的なもの」といったらいいでしょうか。
 団地をみて,胸が高鳴るかんじはありません。「萌え」たりなんかしません。
 でも,日常のなかで触れていると,じんわりと「いいな」とか「ほっとする」というかんじはあります。
 
 だから,「団地マニアですか?」と聞かれたら,こう答えます。

 「いえ,私は団地エリートです。」

 団地エリート。
 ちょっとひらきなおった,私の造語です。
 相手はたいてい,クスッと笑ってくれます。

 「団地エリート」などと名乗るのは,「団地をよく知る人間として,その魅力をみんなに伝えたい」という気持ちからです。
 
 私が考える「団地エリート」の要件は,つぎの3つ。

 1.子ども時代に,団地で暮らしたことがある
 2.大人になってからも,団地で暮らしたことがある
  (できれば今現在暮らしているほうが望ましいが,必須ではない)
 3.団地暮らしへの愛がある
  
 これらをすべて満たす方は,恥ずかしがらずに,ぜひ「団地エリート」を名乗ってくださいね(笑)。
  
 以上の「要件」については,「そもそも団地とは何か」という問題もあるのですが,これはまた別の機会に。

                         *
 
 諏訪団地の写真をいくつか。
 建物中心の風景だけでなく,緑いっぱいの公園のような団地内の歩道や,実家のキッチン,洗面台も(2010~2011年撮影)。
 ただし,これらの風景は,今はもうありません。諏訪団地は,2011年に建て替えのための取り壊しがはじまりました。今は新しい集合住宅が完成しつつあります。
  
諏訪団地1

諏訪団地3

諏訪団地・歩道

諏訪団地・キッチン

諏訪団地・洗面

(以上)

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2013年02月22日 (金) | Edit |
 今日2月22日は,アメリカの初代大統領ワシントンの誕生日です。

 そこでワシントンをはじめとする「アメリカ建国の父たち」の「四百文字の偉人伝」を(電子書籍『四百文字の偉人伝』には未収録のもの)。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)
 2月になってから,アマゾンKindleストアでも発売になりました。


ワシントンほか・アメリカ建国の父たち

去って行ったアメリカ建国の父たち

 アメリカ独立革命(1776年)を指導したジョージ・ワシントン(1732~1799)やトマス・ジェファーソン(1743~1826)は,それぞれ初代・第3代の合衆国大統領を務めたあとは,政界を引退し,第二の人生を過ごしました。ワシントンは,家業の大農園の経営者,ジェファーソンは自ら創設に関わった大学の総長です。
 これはじつは,異例なことです。
 革命が成功すると,普通その指導者は,ロベスピエール(フランス革命)や大久保利通(明治維新)のように革命後の闘争や対立で殺されるか,レーニン(ソビエト連邦を建国)や毛沢東(中華人民共和国を建国)のように「永久政権」をつくって死ぬまで引退しないのです。
 アメリカ独立革命は,指導者の引き際が見事だった,めずらしい革命です。
 でも本来,革命はこうあるべきです。
 革命というのは「革命家という専門チームによる,社会変革のプロジェクト」ではないでしょうか。プロジェクトなら,どこかでピリオドが打たれるべきです。プロジェクトチームを解散し,平常の体制にバトンタッチしなくてはならないはずなのです。

『科学史研究MEMO6』(楽知ん研究所,2001)所収 秋田総一郎「世界史上最も成功したプロジェクト」より

【ジョージ・ワシントン】1732年2月22日生まれ 1799年12月14日没
 
                         *

 この話は,2月16日・2月17日の記事「アメリカ合衆国の基本設計」と関連しています。
 さらに,これに関連した「四百文字の偉人伝」をもうひとつ。
 「去っていかなかった革命の功労者」の話です。


山県有朋(やまがた・ありとも)

明治日本の操縦桿(かん)を握り続けた

 明治~大正の日本に「元老」という人たちがいました。明治維新の功労者の生き残りで,政治を動かした権力者たち。山県有朋(1838~1922)は,その代表格です。
 山県は,不人気でした。慎重でねばっこい性格。欧米列強を恐れて軍備増強にこだわる。民主主義は信じない……不人気もしかたありません。
 でも好意的にみれば,現実的で実直な人だったということです。もし,もっと勇ましくて大衆にアピールする人物が国を引っぱっていたら,危険なことになっていたでしょう(ヒトラーのように)。
 だから山県も,何十年もの間,日本国の操縦桿(かん)を握って放そうとしませんでした。
 大正末期には,山県たち元老はあらかた亡くなりました。そのあと,たちまち日本は迷走し,無謀な戦争に突入。
 明治の日本という乗り物は,山県たちが名人芸でどうにか動かしていたのです。彼らはすぐれたリーダーだったのではないでしょうか? 
 大きな罪があるとしたら,彼らより未熟な後任者でも操縦できるシステム(制度や組織)を,残していかなかったことでしょう。

伊藤之雄著『山県有朋』(文春新書,2009)に教わった。ほかに参考として,岡義武著『山県有朋』(岩波新書,1958)。

【山県有朋】
 明治~大正の政治を動かした元老。長州藩(山口県)の,下層の武士の生まれ。幕末の戦争では指揮官の1人として活動。大久保利通などの有力な先輩たちの死去・失脚後,同郷の伊藤博文とともに政府を指導した。
1838年(天保九)4月22日生まれ 1922年(大正11)2月1日没

                         *

 「元老による支配」は,ルールやシステムよりも,「指導者の個人的力量」に依存した体制です。だから,その個人がいなくなれば,うまく動かなくなってしまいます。

 ルールやシステムを最も極端に否定したのが,ヒトラー(1889~1945)のナチス・ドイツです。
 ナチス・ドイツでは,さいごまで独自の「ナチス憲法」といったものは制定されませんでした。ナポレオンも,スターリン(ソビエト連邦の指導者)も,毛沢東も,憲法などの法典を整備し,「国家の基本設計」を明示したのに,ヒトラーはそういうことをしませんでした。
 
 ナチス・ドイツでは,すべての権力はヒトラーに集中していましたが,彼に「もしものこと」があった場合,権力の継承はどうするのかといったことは一切決められていませんでした。
 ヒトラーにとっては,自分の「永久政権」のあとに,国がどうなろうと知ったことではなかったのでしょう。

 アメリカ建国の父たちは,「永久政権」や「元老にによる支配体制」を築くかわりに,後任者にも操縦可能な「システム」を置いて,去っていった。
 これは,プロジェクトとしてじつに美しいしめくくりだと思いますが,どうでしょうか。
 
(以上)

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ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月20日 (水) | Edit |
 私がこのブログで書いている文は,どれも「橋渡し」のためのものです。
 つまり,おもに本で得た知識を,その本の読者層とはちがう読者層へお届けする。
 「ちがう読者層へ」というところがポイントです。
 たとえば「マニア」や「読書家」の世界のものを,初心者へお届けするのです。

 そんな「お届け」にあたっては,いろんな加工や編集が必要です。
 つまり,オリジナルのものを読みやすくつくりかえていく。
 「オリジナル」の多くが,初心者や特別な関心を持たない「ふつうの人」にとっては,消化しにくいものになっているからです。

 たとえば,2月16日の記事「アメリカ合衆国の基本設計1」で,「三権分立の意味」について私はこんなふうに述べました。

《…三権分立とは何なのか。
  国家でも企業でも個人でも,「何かを行う」というのは,大きく3つの段階から成っている。「大きく分けたらこの3つ以外考えられない」といったほうがいいかもしれない。
 1.何をするか・どうあるべきか決める(Plan=企画・計画)
 2.実行する(Do=実行)
 3.結果を当初の決定に照らしてチェックする(See=検証

 …じつは三権分立とは,この各段階を,ひとつの政府機関ではなく,3つの機関にそれぞれ分担させるシステムなのである。
 Planにあたるのが立法≒議会,Doが行政≒官僚機構,Seeが司法≒裁判所である。
 国家レベルでのPlan→Do→See(計画―実行―検証)。それが三権分立なのである。》

 
 これには,元になった「オリジナル」があります。政治学者・滝村隆一さんの説です。
 滝村さんは,「三権分立」についてこう述べています。

《…直接には三大機関の分立としてあらわれる,三権分立制の制度論的根拠は,規範としての意志の形成〔立法〕と,定立された規範にもとづく実践的遂行〔執行〕,それにこの規範としての意思の形成・支配の全過程が,定立された規範の規定にもとづいて,正しく実践されているか否かをたえず厳しく監視し,違法行為があった場合には,規範にもとづいて審査し処罰する〔司法〕。このような,〈この三つ以外にはありえない〉という意味での,<三種の論理的な区別>にもとづいているのである。
 したがってこのような,〈なにゆえ三権でなければならないのか〉という意味での,本質論的把握は,理論的には意志論としての規範論を,前提として可能となる。》

(『国家論大綱』第一巻上,勁草書房,588ページ)

 滝村さんの「三権分立」論に,私は目をひらかされました。この説は,もっと多くの人に知られていいと思います。
 しかし,《本質論的把握は,理論的には意志論としての規範論…》といった語り口は,広く普及するという点では,たぶんマイナスでしょう。
 そこで,私はPlan→Do→Seeという言葉に置きかえてみました。ビジネス書などでおなじみの表現です。とにかく,「ふつうの人」にとっつきやすい表現にしたかったのです。そのことで,理論的な正確さがいくらかは損なわれるとしてもです。

 ***

 たとえば以上のようなことが,私の行っている「橋渡し」です。
 これは「表現をやわらかく言いかえる」という加工・編集です(かなり極端な例だとは思います)。
 
 ほかにもいろんなやり方があります。
 
 たとえば,2月1日「インドカレーの歴史」では,「要約」ということをしています。
 この記事の元ネタであるコリンガム著『インドカレー伝』は何百ページもあります。そのエッセンスを(書籍なら)数ページ分でお伝えしようとしたのです。カレーの歴史を知るために分厚い本1冊を読み通す人は,世の中ではやはり少数派です。

 これとは逆に,2月13日「「紙の発明」から考える」では,「付け加える」ことをしています。
 この記事は科学史家の山田慶兒さんが述べたことを元にしています。そして,そこに「紙というのはどういう発明で,なにがすぐれていたのか」といった,前提となる初歩的な情報を加えたりしています。そのほか,話の力点や表現をいろいろと変えています。

 「四百文字の偉人伝」は,そんな「加工・編集」の最たるものです。
 多くの人には,偉人のだれかの生涯について,伝記1冊分つきあうだけの時間やエネルギーはまずありません(「カレーの歴史」と同じことです)。
 だから,「四百文字」です。
 その偉人のイメージを描く手がかりとなるようなネタを拾いあげる。または,ある側面を切り取る。それを,四百文字でコンパクトに紹介する。これなら,多くの人がつきあうことができます。
 
 「橋渡しすること」
 「そのために編集・加工すること」
 これが私の仕事の「核」です。
 私にこれといった「専門」はないですが,あえていえば「橋渡し」が専門です。

 むかしは,「自分にはそのくらいしかできないからなあ」と思っていました。
 でも,近ごろは「橋渡し」「編集」というのは,今の文化ではだいじなことだ,と思っています。
 たくさんの情報が「遺産」としてつみあがった時代だからです。
 そこから「多くの人が知るに値すること」を選び出してお伝えしていくというのは,けっこう意味のあることではないでしょうか。
 
(以上)
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2013年02月19日 (火) | Edit |
今日2月19日は,地動説の提唱者コペルニクスの誕生日です。

 そこでコペルニクスの「四百文字の偉人伝」を。
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コペルニクス

データだけで新発想は生まれない

 「地動説」(太陽中心説。地球は太陽のまわりを回っている)を提唱したニコラウス・コペルニクス(1473~1543 ポーランド)。彼はどうして地動説を考え出したのでしょうか? 
 単に「星空を観測しているうちに」というのではありません。
 当時の通説だった「天動説」(地球中心説)は,複雑怪奇なものになっていました。進歩を重ねていた天体観測のデータが豊富になるにつれ,既存の天動説では説明のつかないことがいろいろ出てきました。そのつど,新しいデータとつじつまを合わせるため,天動説にはさまざまな手直しがほどこされていたのです。
 コペルニクスは,「ほかの考えはないか」と過去の文献を探しました。
 そして,古代の書物で「地動説」の考えを知り,そこから自説を築いていったのです。
 新しい発想は,データだけでは生まれません。問題意識を持って先人の遺産をヒントにしていくことが大切です。

板倉聖宣著『科学と方法』(季節社,1969)による。

【ニコラウス・コペルニクス】
 地動説の提唱者。聖職者(司教の秘書官)と医師の仕事をしながら天文学を研究。地動説は聖書に反する危険思想だったので,彼はその公表をためらい,主著『天球の回転について』の刊行は亡くなる直前だった。
1473年2月19日生まれ 1543年5月24日没

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ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月18日 (月) | Edit |
 アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記の2回目。

 今回は,地元セントルイスでの住宅の仕事が建築家エリエル・サーリネンの目にとまり,サーリネンが校長をつとめるクランブルック美術学院に研究生として招かれたあとのイームズ。「イスづくり」に取り組みはじめて苦闘していた時代です。
 
イームズ伝2

クランブルックでの出会い
 1938年,31歳のイームズは,妻子をおいて1人で五大湖周辺の町,クランブルックにやって来ました(彼には娘が1人いました)。
 クランブルック美術学院には,さまざまな分野のアーティストが集まっていました。
 イームズは,図書室で本を読みあさり,陶芸,織物,金細工,写真などの部門にも出入りして,いろいろ吸収しました。一応は建築系部門の所属でしたが,そこにじっとしていることはありませんでした。
 一般の感覚では「変な人」といえるでしょう。しかし,この時期に得たものは,彼がのちに多彩な活動を行ううえで役立ったはずです。
 
 翌年,イームズはこの学校の講師にスカウトされました。そこで妻子を呼び寄せましたが,すでに夫婦の仲は冷え切っており,やがて離婚となりました。

 クランブルックでイームズは,さまざまな人と出会いました。
 とくに,エリエル・サーリネンの息子の建築家エーロ・サーリネン(1910~61)とは親友になりました。
 エーロ・サーリネンは,のちに世界的な建築家になりました。51歳の若さで亡くなってしまうのですが,「ミッドセンチュリー(1940~60年代)」を代表する建築家の1人として名を残しています。

 もう1人,美術学院の学生であるレイ・カイザーと出会いました。
 イームズと結婚して,レイ・イームズ(1912~1988)となる女性です。
 
 レイは,クランブルックに来る前は,ニューヨークで画家をめざしていました。著名な画家のもとで,抽象画(特定の何かを表さない,抽象的な線や色彩で描かれた絵)という,当時の新しい表現を学んでいました。
 しかし,もっと広く美術やデザインを学ぶために,クランブルックにやってきたのでした。画家として一本立ちすることのむずかしさや,絵画という表現自体の限界などを感じていたようです。

 クランブルックに来た当時のレイにはまだ,職歴も業績もありません。「美術家・デザイナーの卵」といったところです。
 しかし,彼女と出会ったイームズは,彼女のなかに非凡な才能を見出しました。
 イームズは,レイが生活と仕事の両面でパートナーになってくれることを望むようになりました。そして2人は,1941年に結婚したのでした。

イスという小さな建築
 クランブルックに来てしばらく経った1939年ころからイームズは,エーロ・サーリネンと共同で,イスをつくりはじめました。
 また,その仕事に関心をもったレイもやがて参加するようになって,イームズと知り合ったのです。

 なぜ,イスだったのでしょうか?
 
 それは「自分のおかれた条件のなかで,できることに取り組んだ」ということでした。
 建築には予算や依頼者の意向など,さまざまな制約があります。しかし,家具というもっと小さなものなら,つくりたいものを実現しやすいのです。
 なかでもイスは,人の体を支えるので,棚やテーブルなどのほかの家具以上に複雑な構造や技術で成り立っています。
 イームズたちは「小さな建築」のつもりでイスづくりに取り組んだのでした。

 イームズは,後年のインタビューでこう語っています。

  椅子はまさに「ミニチュア建築」なんだ。建築家にとって建築物をコントロールするのは難しい。工事業者やもろもろの圧力がのしかかってくるし,何をするにも金がかかる。だが,椅子の場合はほぼ等身大で扱える。だから(フランク・ロイド・ライトをはじめ)…数え切れないほどの建築家が椅子を手がけている。その理由は,実際に自分自身の手でつくれるからさ。
(『Eames-The Universe of Design』より再引用)

オーガニックチェアという「試作品」
 イスづくりにあたって,イームズとサーリネンは成型合板という,合板(ごく薄い板を何層か張りあわせてつくった板。いわゆるベニヤ板)を加工する技術に注目しました。
 合板に熱を加え,型にはめて圧力をかけると,曲面をつくることができました。「成型」というのは「型にはめて,ある形をつくること」です。成型合板は,20世紀になって普及した,当時の新しい技術でした。

 その技術を利用して,人間の体にフィットした,背もたれや座面をつくる。低コストで,高品質の美しいイスができるはずだ……。

 ただし,曲げた合板でイスをつくることは,イームズ以前にも行われていました。
 代表的なものとして,フィンランドの建築家アルヴァ・アアルト(1898~1976)による仕事(1930年代)などがあります。イームズたちは,そうした先駆者よりもさらに複雑で精密な曲面のイスをつくろうとしたのでした。
 
 彼らがつくりあげた「オーガニックチェア」という名の試作品は,1940年に権威あるコンペで賞を取りました。 「オーガニック」というのは「有機的な・曲線的デザイン」ということです。
 そして,あるメーカーのもとで製品化することになりました。しかし,当時はその複雑なデザインの通りに合板を加工する技術が確立していませんでした。
 ていねいに手づくりすれば何とかなるのですが,大量生産はできません。
 そこで,オーガニックチェアはわずかしかつくられませんでした。製品としては失敗でした。

オーガニックチェア(1940)
1940年のコンペに出品したオーガニックチェア 
(『Eames-The Universe of Design』マガジンハウスより)

アアルト パイミオ
アアルトの成型合板のイス(1931年)
(島崎・野呂・織田『近代椅子学事始』ワールドフォトプレスより)
 
 また,1941年の末には日米の戦争がはじまりました。翌年にはその影響で物資が不足してきたこともあり,オーガニックチェアのプロジェクトはストップしてしまいます。
 そしてそのころ,エーロ・サーリネンは建築の仕事が忙しくなり,イームズとの共同作業からは離れていきました(しかしそれからもイームズとサーリネンの友情は続きました)。

カルフォルニアへ
 1942年,イームズはクランブルック美術学院を辞め,レイとカルフォルニア州のロサンジェルスに移りました。
 クランブルックで教師を続けていればそれなりに安定していたのですが,どうしてもイスの仕事を成し遂げたかったのです。

 イームズは映画の美術スタッフのバイトをして食いつなぎながら,アパートでレイとともにイスの試作をくりかえしました。個人的に自腹を切っての取り組みです。
 アパートでそんな作業をしてはいけなかったのですが,かくれて行いました。

 オーガニックチェアの失敗(量産できなかった)をくりかえさないために,彼らがまず取り組んだのは,成型合板という素材の性質や扱い方について探究することでした。
 板を曲げるための,電熱線を用いた機械も,自分たちでつくりました。そうやって実験や試作をくりかえしました。
 その過程でデザインを練り上げていったのです。

 理想的な「外見」をまず考え,「どうやってつくるか」はあとまわし,というのではないわけです。
 まず 「量産する」という制約条件から出発して,デザインを考える。
 しかし安易に流れることなく,その「制約」と格闘しながら,理想的な「答え」をさがしていく。
 
 そのような作業をとおして,イームズは「デザインにおけるもっとも大事なこと」をつかんだといえるでしょう。
 それは「制約の重要性」ということでした。
 のちに,ある対話のなかでイームズはこんなことを言っています。

 イームズ「デザインが制約に負うところは大きいと思います」
 質問者 「どのような制約ですか?」
 イームズ「あらゆる制約です。デザインの問題を解く鍵もそこにあります。…デザイナーに必要なのは,できるだけ多くの制約を識別する能力,制約の中で働こうとする意志と情熱です。価格,サイズ,強度,バランス,外観,時間。制約は無数にあります。こうしたリストがどの問題にもあるのです。」
     
(イームズ・デミトリオス『イームズ入門』日本文教出版)

イームズの作業場
当時のイームズの作業場(左側にあるのは合板を曲げるための自作の装置)
(『Eames design』より)
 
 成型合板を使った新しいイスをつくるという取り組みは,しだいに前進していきました。

 しかし,このころはイームズにとって精神的にも経済的にもきびしい時代だったようです。
 試行錯誤の毎日でしたが,めざすものを完成できる保証はありません。仮に完成したとしても,戦争が本格化してきたので,いつ量産できるかもわかりません。
 イスの試作にかかる費用も,かぎられた収入で暮らすなかでは重たい負担でした。
 個人的にも,世の中的にも,まさに「先のみえない」状態だったわけです。

(つづく)

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2013年02月17日 (日) | Edit |
 アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記。
 以前の記事を若干編集し,あらためてアップしたものです。

 「イームズは何をした人か」についてまったくご存じない方は,このブログの以下の記事をご覧ください。
1月26日「イームズの仕事」:イームズの最も有名な仕事である,イスのデザインについて紹介しました。
1月20日「フランクリン的な人たち」:ベンジャミン・フランクリン,トマス・エジソン,イームズの共通性を論じました。この3人はみな,よく働き,よく学んで創造的に生きた人たちだと。
 
 これから何回かにわたって,イームズの生涯(とくにその前半)を追っていきたいと思います。 
 まず,生い立ちから,若いころの,まだ「自分は何者か」について模索していた時代のイームズ。

イームズ伝1

生い立ち・子どものころから働く
 チャールズ・イームズは,1907年にアメリカ中部のセントルイスで生まれました。父親は,民間人として事件捜査や犯人逮捕を行って報酬を得る「民間捜査官」という仕事をしていました。
 幼いころのイームズは,商品のラベルや説明書を読むのが大好きという,好奇心の強い子どもでした。

 7歳のとき,父親が仕事中に犯人に撃たれ,ケガで思うように働けなくなりました。小学生のチャールズは,家計を支えるためバイトをしました。父親はその後回復せず,彼が13歳のとき亡くなりました。

 高校は,週末や長期休暇のときには製鋼所で働きながら通いました。このとき,製図の仕事を手伝う機会がありました。たくさん図面を描くうちに,彼は建築に興味を持つようになっていきます。

大学を退学処分に
 高校を卒業すると,奨学金を得て地元の大学の建築科に進み,熱心に勉強しました。
 しかし1927年,2年生のときに退学処分になってしまいます。保守的な授業に不満だった彼が「もっと現代建築について教えるべきだ」と教授たちに強く主張して,怒りを買ったことが原因です。

 大学時代のイームズがとくに興味を持った「現代建築」というのは,フロンク・ロイド・ライト(1867~1959)というアメリカの建築家の仕事です。
 ライトは,今の評価では「現代建築の確立に貢献した,20世紀の最も偉大な建築家の1人」とされます。
 「落水荘」という邸宅(1937)や,ニューヨークのグッゲンハイム美術館(1959)などがとくに有名です。日本人には「帝国ホテル」(1923年竣工の旧館)の設計者としても知られています。

落水荘(磯崎新・鈴木博之『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より。つぎも同じ)
落水荘

グッゲンハイム美術館
グッゲンハイム

 なお,ライトと並ぶ「20世紀の偉大な建築家」というと,ほかにフランスのル・コルビュジエ(1887~1965),ドイツ人で,のちにアメリカに渡ったミース・ファン・デル・ローエ(1886~1669)といった人がいます。
 これらの人をあわせて「近代建築の三大巨匠」などということもあります。

ロンシャンの礼拝堂(ル・コルビュジエ設計,1951~1955)
(ジャン=ルイ・コーエン『ル・コルビュジエ』より)ロンシャン

シーグラム・ビル(ミース・ファン・デル・ローエ設計,1954~58)
四角い窓のガラスと鉄骨でできた,現代的な高層ビルのひとつの典型
(『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より
シーグラムビル

 ライトは,「三大巨匠」のなかでも,ほかの2人より20歳ほども年上で,若いころのル・コルビュジエやミースに影響をあたえました。まさに「元祖」といえる存在です。

 しかし,ライトはイームズの学生時代(1920年代)には,すでに有名ではありましたが,まだ「最も偉大な」というまでの評価は固まっていませんでした。
 専門家のなかには,「ライトのような新奇な建築は,そのうちすたれるだろう」と考える人もいたのです。今の私たちからみるとライトの建築はむしろクラシックなのですが,もっと古い感覚でみると,「新奇」だったのです。
 
 そして,イームズの大学では,そんな保守的な教授が主流でした。
 そんな中でライトのような新しい建築をもっと教えるべきだ,と主張して退学にまでなったイームズ。
 まさに「新しい感覚を持つ,元気のいい若者」だったといえるでしょう。のちに「現代建築」が建築の圧倒的な主流になっていったのをみれば,先見の明もあったといえます。

地元で設計事務所を立ちあげる
 フリーターになったイームズですが,1929年,22歳のときに大学の同級生だった女性と(最初の)結婚をしました。
 翌1930年には,仲間と2人で設計事務所を立ちあげます。地元セントルイスで個人住宅を中心に仕事をしました。

 だが,当時は「大恐慌」(1920年代末におこった世界的な大不況)の影響もあって仕事は少なく,苦しかったようです。
 彼にとって,建築の仕事は天職でした。しかし,自分がめざす新しい建築を実現するのはむずかしい。予算は限られており,地元のクライアントは保守的でした。

 そんな中,1933年,26歳のときにイームズは,長い旅に出ました。
 メキシコに行って8か月(あるいは10か月)ほど各地を放浪したのでした。仕事に限界を感じ,考えたいことや,新しい何かをつかみたいということがあったのでしょう。

 イームズはほとんどお金を持たず出発しました。肉体労働をしたり,絵を描いて売ったりしながら旅費を稼ぐ貧乏旅行でした。馬や徒歩で奥地の村を訪ねることもありました。あちこちでスケッチをしたり,民芸品をみてまわったりしました。

 メキシコから戻った彼は,セントルイスで新しい設計事務所を立ちあげ,建築の仕事を続けました。

 メキシコ旅行が,彼の仕事に直接大きな転機をもたらすことはありませんでした。
 しかし,メキシコの風景や民芸などに深く触れたことは,彼の美的なセンスの幅を広げてくれました。また,異文化のなかでも平気でのびのびやっていける感覚が身につきました。

 それから,彼がのちに振り返ったところによると,つぎのようなことがあります。
 それは,この旅行によって「少なくとも破産を恐れなくなった」ということです。
 これは,「無一文のきびしい条件でも,生きていける」という自信を得たということでしょう(しかし一方で,お金のことはやはり大切だと身にしみたようです)。
 そして,「お金のために意に沿わない仕事をすることだけはしない。どんな仕事でも,その目的に納得できないかぎり,引き受けない」ことを決意したのだそうです。

クランブルックへ
 その後,1938年,31歳のときに転機がありました。
 イームズの手がけた住宅が,エリエル・サーリネン(1873~1950)という著名な建築家の目にとまったのです。
 そして,サーリネンが校長を勤める「クランブルック美術学院」に研究員として来ないかと誘われました(「研究員」というのは,おそらく教員でもなく一般学生でもない,お客さんのような立場ということでしょう。給与が出たのではないかと思いますが,よくわかりません)。

 この学校は,五大湖周辺の町・クランブルックにあります。おもに大学卒業者を対象とした大学院にあたる学校です。
 まだ新しく知名度は低かったのですが,意欲的でした。そして,のちにおおいに発展して,今はデザインや美術の分野で世界的に権威のある学校になっています。

 イームズの奥さんは彼がクランブルックに行くことに反対でした。地元で落ち着いて暮らしたかったのです。セントルイスを離れれば,これまで仕事で築いてきたものを捨てることにもなります。しかしイームズには,建築のこと,仕事のことを考え直す絶好の機会だと思えました。
 イームズは1人でクランブルックに行くことにしました。

(つづく)

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2013年02月17日 (日) | Edit |
 昨日の記事の続きです。
 (前回の内容)
 ・アメリカ合衆国の政治システムの基本は200年近く変わっていない。それだけよくできていた。
 ・アメリカの政治システムの柱は①三権分立②上下二院制③大統領制の3つ。
 そして,全体の構造をきめる三権分立の意味を中心に,この「3つ」について述べました。
 
 とくに三権分立については,一般にいわれる「立法,行政,司法のあいだの相互けん制」のようなイメージを超える「三権分立のほんとうの意味」について説明しています。

                        *

 ロシアの隕石落下のニュースをテレビでみていて,多くの被害が出た惨事なんですが,解説する天文学者の方々がどこか高揚した,微妙にうれしそうな表情で語っておられるのが目につきます。地震や火山の噴火や戦争のときも,たまに似たようなことがあります。
 「不謹慎」と非難するつもりはありません。専門家(オタク)というのはそういうものだし,そういう人たちが社会には必要なのです。 


アメリカ合衆国の基本設計2

柔軟な科学の精神
 アメリカ独立=建国は,「アメリカ独立革命」といわれる。新しい国家・社会を生み出した変革だからだ。
 そしてこの革命は,「革命によって成立して体制が200年以上続いている」という点で,特別である。ほかの有名な革命とはちがう。フランス革命(1789)とも明治維新(1868)ともロシアの社会主義革命(1917)ともちがっている。

 フランスでは革命のあと,1800年代には皇帝ナポレオンの時代になったり,一時期だが王政が復活したりしている。
 明治政府の体制は,第二次大戦での敗戦(1945)で崩壊した。
 ソビエト連邦も,1991年に解体してしまった。

 それらの体制は,たしかに成功例ではあった。しかし,アメリカとちがって,せいぜい数十年しかもたなかった。
 
 なぜ,アメリカ独立革命は,長持ちするシステムをうみだしたのか。
 そこには,ほかの革命とは異なる,独特の精神があったからではないか。
 柔軟な科学的精神といったらよいだろうか。

 その精神をよくあらわす,「アメリカ建国の父」の1人による演説がある。三権分立,上下二院制,大統領制を決めた憲法制定会議(1787)で,ベンジャミン・フランクリン(1706~1790)が行ったものだ。

フランクリンの名演説
 数か月にわたる憲法制定会議のしめくくりで,当時81歳のフランクリンはこう述べている。

 《私は現在のところ,この憲法草案に全面的には賛同しておりません。しかし,議長。「将来も賛同できない」とは,確信がもてないのであります。
 と申しますのは,私は長生きしてまいりました。そこで私は重要な問題にかんすることですらよりよく調べ,よりくわしく考慮してみた結果,一度は「正しい」と考えたことも,そうでないことがわかって,自分の意見を変えざるを得ない経験をたびたびしてまいったからであります。…(中略)》

 《こうした気持ちで,議長,私はこの憲法に賛成するものであります。たとえ欠点があるのにしても,そのあらゆる欠点を含めてであります。と申しますのは,私は「〔アメリカ植民地〕全体の政府が私たちにとって必要だ」と考えるからであります。そして,「上手に運営すれば,どのような形態の政府であっても,必ず人びとへの恵みとなる」と考えるからであります。》 

 (板倉聖宣『フランクリン』仮説社,247~248ページ,板倉訳)

 たいていの革命家はこういう演説はしない。ほとんどの革命政府は,権力を手にすると「自分たちのつくったシステムは,最高で絶対のものだ」と主張するようになる。
 しかしアメリカ建国の父たちは,そんなことは言わなかった。「この憲法には欠点があるかもしれない。しかし,この国には政府と憲法が必要なのだ」と述べたのである。
 この演説は高く評価され,後世に残った。

 最初から完全なもの,まちがいのないものなどありえない。ある程度議論をつくしたら,実行してみる。
 その結果を検証し,改めるべき点は改める。そうやって,よりよいもの,完全なものに近づいていく。これは,仮説と実験による,科学の精神だ。

                         *

 以上は「アメリカ万歳」ではない。現実のアメリカのふるまいには,フランクリンが語ったような柔軟さや科学精神から外れていることがたくさんある。しかし,そういうときのアメリカは,ろくな成果があがっていない。 
 
 世界には,「アメリカは嫌いだ」という人が少なからずいる。アメリカ人にもいる。
 しかし,強大な国への反発心から「その国のやり方」に対しむやみに否定的になっているとしたら,損なことだ。本来なら,「その国を栄えさせているすぐれた点」をみつけだし,そこに学べばよいはずだ。
 しかしこれは,感情的にはむずかしい。力のあるものに学んで模倣するのは,屈辱感がともなう。
 どうすれば,その感情をのりこえることができるのだろう? 今はよくわからないので,ここまでにしておく。

(以上)
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2013年02月16日 (土) | Edit |
 「5分間の世界史講座」のシリーズ。世界史のさまざまなテーマを,数分で読めるエッセイで述べたものです。
 今回は,アメリカの政治システムを論じています。5分間でおさまらないので,全2回。
 
 2001年に『初等科学史研究MEMO 6』(楽知ん研究所刊)に掲載されたアメリカ独立革命についての小論(「世界史上最も成功したプロジェクト」)の一部を書きなおしたもの。
 自分でいうのもなんですが,10年以上経ってもぜんぜん古くなってない。
 

アメリカ合衆国の基本設計1

長持ちしているシステム
 アメリカ合衆国は,非常によく設計されたひとつのシステムである。
 建国時の基本設計がすぐれていたために,それ以来大幅な更新をする必要がなかった。
 1700年代末,建国時のアメリカは,辺境の小さな共和国にすぎなかった。それが,200年以上経ち,世界最強の超大国になった今でも,政治システムの基本は変わっていない。
 これほど成功し長持ちしたシステムは,世界史上でもかぎられるだろう。
 
 アメリカの政治システムの特徴は,つぎの3点である。
 ①三権分立 ②上下二院制 ③大統領制
 これらは,合衆国憲法に盛り込まれている,そして,どれも建国当初から変わっていない。また当時は,どの国にもみられない新しい制度だった。

三権分立のほんとうの意味
 以上の「3点」のなかでも,三権分立は全体の基本構造にかかわるとくに重要なものだ。アメリカ合衆国は,明確な三権分立を採用した最初の国家だった。
 では,三権分立とは何なのか。
 
 国家でも企業でも個人でも,「何かを行う」というのは,大きく3つの段階から成っている。「大きく分けたらこの3つ以外考えられない」といったほうがいいかもしれない。

 1.何をするか・どうあるべきか決める(Plan=企画・計画)
 2.実行する(Do=実行)
 3.結果を当初の決定に照らしてチェックする(See=検証


 ビジネス書などではおなじみのPlan→Do→Seeのサイクル。

 じつは三権分立とは,この各段階を,ひとつの政府機関ではなく,3つの機関にそれぞれ分担させるシステムなのである。
 Planにあたるのが立法≒議会,Doが行政≒官僚機構,Seeが司法≒裁判所である。
 国家レベルでのPlan→Do→See(計画―実行―検証)。それが三権分立なのである。

 これは,「3つの機関の相互けん制・権力均衡」といった,三権分立についてのよくある説明とは,だいぶちがう。しかし,これがほんとうの「三権分立」の意味だ。

「司法」の独立
 近代以前の国家では,行政(官僚・警察)を握っている権力が,立法も司法も握っていた。
 たとえば,徳川幕府の支配のもとでは,立法はもちろん,その具体的な執行や違反者の処罰も,ぜんぶ幕府の権限である。幕府の任命する「お奉行さま」が警察などのほか,裁判官も兼ねていた。
 
 つまり,徳川幕府のような近代以前の政府では,政治におけるPlan→Do→Seeの区別や分担が,はっきりしていなかった。
 そんな三権が分かれていない状態から,議会という「立法」専門の機関を分化させ,裁判所を行政や立法から切り離し「司法」を独立させることで,三権分立というしくみはできている。

 そして,司法は「独立」の立場から,裁判を通じて立法や行政をチェックする。
 国の最高のルールである憲法に反する立法が行われないか。法の主旨に反する行政がなされないか。
 そのようなチェック機能は,近代以前の国家では,存在しなかった。

 「独立」ということでだいじなのは,「人事権の独立」である。総理のような行政のトップも,国会でさえも,最高裁長官のような司法のトップをクビにすることはできない。

 政府であれ企業であれ,ダメな組織というのは,計画―実行―検証のプロセスをきちんと押さえる体制になっていない。とくに,「検証」の部分が弱いために,問題への対応が遅れたり,発展の可能性がおさえられたりする。
 三権分立は,その限界を克服しようというものだ。

 司法はもちろん国民の違法行為もチェックする。しかし,三権分立における「司法」の最大の特徴は,国家権力自身のおこした過ちや問題に対するチェック機能なのである。
 
二院制と大統領制
 つぎに,「上下二院制」や「大統領制」も,みてみよう。

 建国当時のアメリカでは,国の基本的なありかたについて二つの意見が対立していた。
 ひとつは,「州の独立性を大事にした,州どうしのゆるやかな連合体にすべきだ」という意見。もうひとつは,「ひとつの国として強力な中央政府が必要だ」という意見である。
 
 上下二院制というのは,対立するこの二つの意見を調和させたものである。

 「合衆国の連邦議会をどうするか」については,まず「州ごとに人口比例で議員を選出しよう」という意見があった。だがそれは「州ごとの独立を重んじる」人びと,とくに人口の少ない州の人びとからは反発された。
 人口比例による議会では,人口の多い州の意見でものごとが決まってしまい,人口の少ない州は不利である。それでは,「州」という単位は,国の政治にとって重要ではなくなってしまう。だから,「各州の議員数は同じであるべきだ」というのである。
 一方,「民主主義なら,人口に比例して当然だ」という意見も根強くあった。
 
 当時,人口比例の方針を押し通そうとすると,人口の少ない州が合衆国から離れてしまい,国が分裂するおそれさえあった。そこで,
 ・人口比例に基づく議会=下院
 ・各州2名の代表から構成される議会=上院

の二院制とし,下院での決定を上院が否決することも可能にしたのである。
 
 つぎに,「大統領制」について。
 アメリカの各州は,それぞれが独自の憲法を持つ「共和国」である。アメリカ合衆国は,それらの共和国が連合した連邦国家である。上院は,「各州の独立性を重んじる連邦国家アメリカ」を象徴している。そして,大統領制は,「各州を結びつける強大な権力のしくみ」なのである。
 大統領の強力な権限は,「国民の直接選挙で選ばれる」ということからきている。強力な大統領をおくことで,各州の独立性を保ちながら,国としてのまとまりが保持される。分権と統合の巧みなバランスが保たれる。
 
 このようにみてみると,「アメリカの政治システムというのは,とても巧妙にできている」と思える。その基本を,200年以上前に考え出したということにも感心させられるのだが,どうだろうか?

(参考文献)三権分立の意味については,滝村隆一『国家論大綱 第1巻(上)』勁草書房 による。

(以上,つづく)
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2013年02月15日 (金) | Edit |
 今日2月15日は,「近代科学の父」ガリレオ・ガリレイの誕生日です。

 そこでガリレイの「四百文字の偉人伝」を。
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ガリレイ

ガリレオが否定しても地球は回っている

 ガリレオ・ガリレイ(1564~1642 イタリア)は,聖書の教えに反する「地動説」を主張したとして,ローマ法王庁の宗教裁判にかけられました。これは,有名な話です。
 では,法王庁の圧力には一切屈しなかったのでしょうか? 
 いいえ,彼は結局「私はまちがっていました」と裁判で宣言させられています。その際に,一般に伝わる逸話のように彼が「それでも地球は回っている」といったかどうかは,じつははっきりしていません。
 でも,少なくともガリレオはわかっていたはずです。「私や教会がなんといおうと,地球は回っている。こんな宣言に意味はない」と。
 科学的な真理は,裁判や会議のような権威が宣言することでは,決まらないのです。
 彼は,判決により自宅軟禁となりました。しかし,最後までしぶとく研究を続け,その成果を秘密で出版したりしたのでした。 

ストラザーン著・浅見昇吾訳『90分でわかるガリレオ』(青山出版社,2000)に教わった。ほかに参考として,板倉聖宣著『科学と科学教育の源流』(仮説社,2000),青木靖三著『ガリレオ・ガリレイ』(岩波新書,1965)

【ガリレオ・ガリレイ】
 落下運動の法則や地動説などで近代科学の扉を開いた科学の父。望遠鏡を使った天体観測の先駆者でもある。有名な「ピサの斜塔で落下運動の実験をした」という逸話は,のちの創作であり事実ではない。
1564年2月15日生まれ 1642年1月8日没

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テーマ:歴史上の人物
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月14日 (木) | Edit |
 ざっくりした社会・文明論的エッセイ。
 以前にアップした記事の改訂版です。大幅に圧縮しています。
 すでに「過去の記事」のまま改訂していたのですが,掘り起こすためにあらためて新しい記事としてアップしました。こういうことはこれからもときどき行うと思います。
 
 先日,ある読者からこの記事について,こんな感想をいただきました。

《なるほどと頷けますね。社会が停滞しているのは誰もが感じているはずだし,考えてみればそうなんですが。考えはじめるといろいろ考えて?しまいますね》
   
 この「社会の変化はゆっくりに…」は,自分としては強い思い入れがある文です。でも,読者に受け入れてもらうのがむずかしいのでは,とも感じていました。だから,こういう感想をいただけたのは非常にうれしいことでした。


社会の変化は,ゆっくりになっている?


親と子が同じものに夢中になる
 「社会の変化は,どんどん速くなっている」と,よく言われる。
 でも,本当だろうか? 
 私には,「社会の変化は,じつはゆっくりになっているのではないか」と思えることがしばしばある。
 
 それはたとえば,今どきの小さな子どもが「ウルトラマン」のテレビやキャラクターグッズに夢中になっているのを見ているときだ。

 子どもたちは,親たちがかつて夢中になったのと同じキャラクターで遊んでいる。

 ウルトラマンだけではない。今子どもたちがみているテレビ番組やマンガには,親の世代が子どものころみていたのと同じものがたくさんある。
 「ドラえもん」や「鬼太郎」はそうだし,「仮面ライダー」や「なんとかレンジャー」もあるし,「ガンダム」みたいなロボットものもそうだ。

 しかし,今(2013年現在)親になっている30代~40代の人たちとその親のあいだでは,「共通のキャラクターに夢中になる」という関係はないはずだ。

 私は,初代ウルトラマンのテレビ放送がはじまった1965年(昭和40年)の生まれだ。
 私が生まれる二十数年ほど前の,昭和のはじめから戦中期に子どもだった私の父は,当時の人気雑誌『少年倶楽部』に連載していた漫画「のらくろ」や「冒険ダン吉」を熱心に読んでいた。

 でも,私は子どものころ「のらくろ」を知ってはいたが,夢中になったことはない。
 私が小学生のころテレビアニメになったこともあったが,子どもたちはあまりみていなかった(そんなアニメは知らない人が多いのでは?)。
 
 私のような1960年代に生まれた世代は,「親と自分たちでは,育った時代や環境がまるでちがう」と感じている。昭和の戦前・戦中に生まれた私たちの親は,テレビもアニメもない世界で育ったのだ。

 しかし,今の子どもたちは,親と同じテレビ番組をみて育っているのである。
 もちろん,今人気のキャラクターの中には,最近になってでてきた新しいものもたくさんあるわけだが,「ウルトラマン」のような古いキャラクターも,「定番」として重要な位置を占めている。

 「子どもたちが,親の子ども時代と同じキャラクターに夢中になる」というのは,「それだけ世の中の変化がゆっくりになってきた」ということではないだろうか。

 私の父が生まれた1930年代から,私が生まれた1960年代までの30年と,60年代から現在までの30~40年を比べると,最近のほうがゆっくりと時間が流れているのではないか,ということだ。

変わらない顔ぶれ
 テレビの世界で「長いあいだ顔ぶれが変わっていない」のは,子ども番組だけではない。
 ビートたけし,タモリ,さんま,といった人たちが「お笑い」の頂点に立ってから(1980年代から)三十年ほどが経つが,彼らはずっと第一線で活躍し続けている。これらの大御所にとって代わる新世代は現れていない。

 こんな「長期政権」は,1960年代や70年代のテレビにはなかった。クレイジー・キャッツやドリフターズや欽ちゃん(萩本欽一)がテレビの世界の主役でいた期間は,もっと短かかった。

 子ども向けのキャラクターやお笑いタレントを例としてあげたのは,最も多くの人にとっておなじみで,活気や変化にあふれていると思われている分野だからだ。ほかのジャンルでも似たようなことはあるだろう。

 音楽や文学や美術やファッションや建築でも,特定の大御所が20年30年とその世界の頂点に立ち,今も第一線で活躍し続けているということがある。
 新しいスターも生まれてはいるが,古い大御所に取って代わる存在ではない……自分の関心のある分野で考えてみると,きっと例が浮かぶだろう。
 そして,50年以上前には,そんな「長期政権」は,その分野には存在しなかったはずだ。もっと短いサイクルで,主役は交代していた。
                       
なぜ「変化」が強調されるのか
 以上,いろいろ述べたけれど,どうだろうか?
 「社会の変化がゆっくりになっている」などという話は,たぶんあまり聞いたことがないと思う。
 「変化が速くなっている」という人が世の中には多すぎる。
 
 どうしてそうなるのか。
 ひとつには,そのほうが新製品や出版物が売りやすいということがあるだろう。
 「世の中はどんどん変化していますよ」と言ったほうが,人びとは社会の変化にあわせて新製品を買おうとしたり,新しい時代のために知識を得ようと本を買ったりしてくれるはずだ。
 だから,情報発信する人たちが「変化」を強調する。それが世の中に影響をあたえているということだ。
 
 それに,私たちにものを教えてくれる専門家たちは,自分の分野について「変化がゆっくりになっている」などとはまずいわない。それでは「私たちの仕事は,最近はマンネリです」といっているようなものだ。そんなことはいいたくないだろう。
 また,それぞれの分野で,たくさんのこまかい改良や洗練が積み重ねられているのも事実だから,くわしい人ほど,そっちのこまかい進歩に気をとられてしまう。それで,大きな流れ(じつは変化がゆっくりになっていること)に気がつかない。
 
 こんなふうに,世の中には,いろんなかたちで「変化」ばかりを強調してしまう傾向があるように思う。そういうしくみになっている,といったらいいだろうか。

 だがけっきょくのところ,「社会の変化はゆっくりになっている」なんて,「ほんとうにそうだ」とみんなが納得できるように示すのはむずかしい。やはりとらえどころのない話だ。

 それに,「ゆっくりになっているとしたら,それはなぜ?」と,気になる人もいるだろう。
 1950~70年代の高度経済成長のような,急激な経済の発展がおわったから?
 それもあるかもしれない。高度成長期には,年率10%程度で経済が大きくなっていたが,この20年はせいぜい年率1~2%にすぎない。急激に経済が成長していた時期と,この20年ほどの,すっかり成長が鈍くなった時期とでは世の中の変化のスピードが変わって当然だ。
 さらに,人間の寿命が延びたことも影響しているかもしれない。旧世代がいつまでも元気だと,世の中はなかなか変わっていかない。
 あるいは,もっとちがう何かが関係しているのかもしれないが,「なぜ?」という話はこのくらいにしておこう。

 それから,「変化がゆっくりに」というのは,日本だけのことなのか?という問題もある。海外は,世界はどうなのか? 先進国と発展途上国ではちがうのか?

 これらのことは,また別の機会に。
 
 とりあえずは,ここで述べたこと――「変化がゆっくりになっている」ということに十分に納得がいかなくても,「そうかもしれない」「そういう面もあるかも」くらいに思ってもらえればいい。
 その視点を持つことによって,社会のいろんな現象を,より深くみることができるのではないかと思う。ものごとのいろんな面に気づきやすくなるのだ。
 
(未完) 
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2013年02月13日 (水) | Edit |
「紙の発明」から考える

紙というすばらしい発明
 今回は,「紙の発明と,その伝播」のことをとりあげたい。「発明」や「創造」ということを考えるうえで,よい材料なのである。

 紙が発明されたのは,今から2000年前ころの,漢王朝時代の中国である。
 紙というのは,「樹や草の皮などからとれる植物の繊維をほぐして,一定の成分を加えた水にとかし,うすく平らにして固める」という方法でつくる。
 
 紙以前にも,それに似たものはあった。5000年前ころのエジプトで発明され,ギリシアやローマでも広く使われたパピルスである。パピルスは,「パピルス草」という水草を薄く切ってタテヨコに二重三重に貼りあわせてつくる。

 しかし,パピルスには,紙のように折りたたんだり,綴じたりするための丈夫さが不足していた。そこで,ギリシアやローマでは,「本」というのはパピルスの巻物だった。さらに,パピルス草という,エジプト周辺でしかとれない特殊な原料が必要なため,生産量に大きな限界があった。
 一方,紙の製造にはこうした制約はなかった。紙の材料に適した植物というのはいろいろあって,その土地ごとに適当なものをみつけることができた。

 このように,紙というのはすばらしい発明だった。
 のちには世界じゅうで紙がつくられるようになった。

紙の発明は一度きりか?
 では,紙の製造法=製紙法の発明は,一度きりのことだったのだろうか? 「このくらいの発明は,別の時にほかでも(中国以外でも)行われた」ということはなかったのだろうか?

 選択肢をたてて,あらためて考えてみよう。

 紙の製造法=製紙法の発明は
 ア.世界史上,中国で発明されただけの,一度きりのもの
 イ.同様の発明が,ほかの場所でも行われた

 ***

 紙の発明は,歴史上一度きりのものだった。
 今,世界でつくられている紙は,その起源をたどると,すべて中国での発明に行きつくのである。答えはア.である。

 製紙法は,中国で広がったあと,周辺のアジアの国にも伝えられた。日本には飛鳥時代の600年ころまでには伝わっている。
 それから,中国の西のほうにも伝えられた。西暦700年代にはイスラムの国ぐににも伝わった。1100~1200年代にはヨーロッパにも伝わった。この時点で,製紙法は世界のおもな国ぐににほぼいきわたった,といっていい。中国での発明から1000年以上かかっている。

 たしかに,現代にくらべれば伝わり方はゆっくりである。しかし,価値のある発明だったので,着実に広まっていったのだ。
 そして,製紙法がこのように普及するまでの1000年以上のあいだ,世界のどこかで,独自に製紙法が発明されることはなかった。
 本格的な発明というのは,めったにないことなのである。
 それよりも,すでにある発明を模倣するほうが手っ取り早い。そこで,世界じゅうの人びとは,独自に生み出すよりも模倣することで,紙をつくるようになった。

安全ピンという小発明も
 こういうことは,製紙法のような大発明にかぎった話ではない。

 たとえば,「安全ピン」というものがある。
 名札などを胸につけるときに使うアレだ。
 安全ピンは,1840年代にアメリカで発明された。それ以前には,名札などをとめるとき,まっすぐな針のようなピンを使っていた。とがった先端がむきだしで,ちょっとあぶない。これを改良したのである。
 安全ピンは小発明,つまり「ちょっとした工夫」なのだが,便利である。そこで,世界中に広まった。

 しかし,安全ピンは,その「発明」以前にもあった。今から2500年ほど前の古代ローマの遺物のなかに,安全ピンと同様のものが発見されているのだ。
 このローマの安全ピンは,後世に伝えられることなく,消えていった。それが「再発明」されたのが,古代ローマの時代から2000年近く経った1840年代のことだった,というわけだ。

 安全ピンくらいものは,それまでのあいだにどこかで発明されてもよさそうなのに,そういうことはなかった。
 小さなものであっても,意義のある創造というのはなかなかできないのである。
 なぜだろうか?
 身もふたもない話だが,それは創造というものが,それだけむずかしいことだからだ。さまざまな努力や,一定の環境や,偶然などが重なってはじめて可能になる,一種の奇跡だからである。大きな創造ほど,そうだといえる。

 ***
 
 ところで,「紙」や「安全ピン」くらいの発明が「世界史上(ほぼ)一度きり」だとすれば,もっと複雑で大がかりなものなら,なおさらである。
 たとえば「産業革命」とか「近代科学」のような,複合的で巨大な創造がそうだ。
 これらが「なぜある時期のヨーロッパでだけ,生まれたのか?」などと問われることがある。
 でも,これだけの「大発明」となれば,あちこちで生まれるようなものでないことは,明らかではないか。

 このように発明・創造というものが困難である以上,どんな民族や社会にとっても,すべてをオリジナルでつくりあげるのは,無理な話だ。
 だから,発展への近道は,それまでに生み出されたものにまず学ぶことである。過去の遺産に学ぶ,あるいは自分たちよりも進んでいる人たちに学ぶ。
 つまり,「先人の肩に乗る」ことがだいじである。
 それが,「発明とその伝播の歴史」から得られる,最も重要な教訓ではないだろうか。

(参考文献)山田慶兒『技術からみた人間の歴史』(SURE) 山田氏は紙の発明と安全ピンの例を通して「発明のむずかしさ」を説いている。今回の話はそれを全面的に下敷きにしたものである。

(以上)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月12日 (火) | Edit |
 今日2月12日は,作家・司馬遼太郎の亡くなった日です。

 そこで司馬遼太郎の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。

司馬遼太郎 (しば・りょうたろう)

遺産からみえる作家の人生

 司馬遼太郎(1923~1996)は,数多くの歴史小説を残し,幅広い読者を得た大作家でした。
 司馬が亡くなった翌年,彼の遺産の評価額が公表されました。
 その総額は,26億4千万円。その大部分の20億1千万円が,銀行などへの預貯金です。あとは,著作権(3億9千万円)と,自宅の土地建物(2億4千万円)。
 これだけの財産を残す人なら,ふつうは,ほかに株などの証券や,自宅以外の不動産や美術品などがあってもよさそうですが,ありませんでした。
 これは,司馬の人生をよくあらわしています。
 ひたすら大好きな歴史を探究し,作品を生み出す日々。印税が口座に何億円振り込まれようと頓着せず,その一部を使って何万冊もの本を買い,蔵書が収まる邸宅を建てる。ほかに何もいらない。
 「仕事の充実」や「お金とのつきあい」という点からみて,じつに幸せな人生だったといえるでしょう。

遺産総額については,『朝日新聞』(1997年2月14日夕刊)の記事による。

【司馬遼太郎】
 昭和の戦後に活躍した作家。数多くの歴史小説・エッセイは広く読まれ,日本人の歴史観にも影響を与えた。代表作は『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『翔ぶが如く』などのほか,紀行エッセイ『街道をゆく』。
1923年(大正12)8月7日生まれ 1996年(平成8)2月12日没

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テーマ:作家活動
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月09日 (土) | Edit |
 私の家は,古い団地を全面リフォームしたものです。
 今風にいうと「団地リノベ」。
 
 1978年(昭和53年)に建てられた,東京・多摩市の公団住宅。
 面積は66㎡(20坪)ほど。もともと3LDKだったものを1LDKに変更。
 
 2005年にこの家を買って改装し,それ以来妻と2人で住んでいます。
 リフォームの設計・施工監理は寺林省二さん(テラバヤシ・セッケイ・ジムショ)という建築家にお願いしました。施工はみどり建設さん。
 費用は,家そのものが1800万円ほど。リフォームの総工費が400万円(消費税,設計料は別)。

 様子をざっとお見せします。

 これは,ウチの棟の前の,入口に続く歩道。

歩道1


 リビング。
 つくりつけの本棚があちこちにあります。

リビング3

 
 書斎スペース。すぐ上の写真にある本棚の向こう側。
 大きい机が私ので,小さいほうが妻の。

書斎1

書斎2

 
 ベランダからの風景。

ベランダからの風景1

                        *
 
 どうして「団地をリフォームして住もう」と思ったのか。
 「自分好みの家を,低コストで手に入れられる」と考えたからです。

 昭和の古い団地には,今どきのマンションにはない魅力や利点があります。
 日当たりや風通しのよさ。
 緑豊かで静かな環境。
 考え抜かれたムダのない室内設計。
 値段も比較的安い。
 
 もちろん,デメリットもあります。
 せいぜい50~60㎡ですから,ファミリー向けにはちょっとせまい。
 古びたところが好きでない,という人もいるでしょう。
 そして,耐震性や老朽化の問題もあります。

 しかし,デメリットをおぎなってあまりある魅力が,古い団地にはあると私には思えました。
 狭さの問題は,工夫しだいでなんとかなるだろう。
 そうやって自分好みの家をつくっていくのは,さぞたのしいだろうな。

                       *

 このブログでは「団地リフォーム(リノベ)っていいよ」という話をしていきます。
 でも,団地というのはとうてい「理想の住まい」ではない,とも思っています。

 もし私が「大金持ち」だったら,たぶん団地には住みません(笑)。

 私たちには,いろんな制約があります。
 お金のこと,家族のこと,仕事のこと……
 その制約のなかで工夫して,少しでも納得のいく暮らしがしたい。
 「団地リフォーム」は,そのための手段のひとつです。
 私のおかれた「制約」のなかで模索して,「これはいいかも」と思ってだどりついた,私なりの答え。けっして万人向けの「答え」ではない。
 
 だから,ここでお話しすることは,住まいづくりで「制約に対しどう取り組んだか」についての「ひとつの例」としてとらえていただければと思います。
 それなら,「団地リフォーム」そのものには共感できない人にも,参考になるかもしれません。「制約と向き合う」ことは誰にも必要です。
 
 最初に述べたように,リフォームの設計を,私は建築家の寺林省二さんに依頼しました。
 なぜ,建築家に頼むことにしたのか。どのようにして寺林さんと出会ったのか。
 そこから,どんなふうに家づくりの作業が進められたのか。
 そして,できあがった部屋に住んでみてどうだったのか。

 このような私の体験や,そこから考えたことを,これからおいおい述べていきます。

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2013年02月07日 (木) | Edit |
 今日2月7日は,「元素の周期律」の発見者メンデレーエフの誕生日です。
 
 そこでメンデレーエフの「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 下の画像は,出口由加子さん作の「元素の周期表ポストカード」。
 ハガキサイズで,かわいいデザインですが,きっちりといろんな情報が入ってます。
 海猫屋,仮説社のホームページ,国立科学博物館ミュージアムショップで発売中。
 科学にかんするかわいい・美しいグッズは,もっと増えてほしい。

 *出口さんホームページ:もくれん通信
 
ポストカード


メンデレーエフ

統計数値で謎を解く

 ドミトリー・メンデレーエフ(1834~1907 ロシア)は,「原子量」という数値と元素の性質の間にある法則性=周期律を発見した化学者で,数量的な推理の達人でした。
 1890年代のこと。彼はロシア政府から,「無煙火薬」の研究を頼まれました。
 無煙火薬は当時,限られた国だけの最新技術でした。火薬の原材料の配合比率がカギなのですが,それがなかなかわかりません。
 彼は,フランスの無煙火薬の工場に見学に行き,探ろうとしました。当然,機密で教えてもらえません。
 そこで,彼はフランスの鉄道輸送の統計を調べました。
 統計には,火薬工場のある駅にどんな材料がどれだけ運ばれたかが載っていました。その輸送量の割合を計算し,材料の比率を解明したのです。
 「統計数値を使った謎解き」で,優秀なスパイ顔負けのことができる。
 統計は,いろいろな謎を解くのに有効な道具なのです。

増山元三郎著『数に語らせる 第2版』(岩波書店,1980)による。

【ドミトリー・メンデレーエフ】
 教科書の表紙のウラなどにある「元素の周期律(周期表)」を発見した化学者(研究発表1869年)。周期律のような基礎的研究だけでなく,産業に直接役立つ応用化学の分野でも多くの業績がある。
1834年2月7日生まれ 1907年2月2日没

                        *

 このような101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)。

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テーマ:歴史上の人物
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年02月01日 (金) | Edit |
 「5分間の世界史講座」というのを,ときどきやりたいと思います。世界史のいろんなことがらをあつかった,1話が原稿用紙数枚ほどのエッセイ。
 でも,「5分」では読めないか……? 
 ためしに自分で音読してみたら,なんとか5分くらいで読めました。

 
インドカレーの歴史

いつからカレーを?
 インド人は,いつの時代からカレーを食べているのだろうか? 
 この問いに自信と根拠を持って答えられる人は,そうはいないだろう。「昔から食べてるんじゃないの?」としかいえないのが,ふつうだ。

 カレーを定義するとしたら,こんな感じだろうか――唐辛子や,そのほか何種類もの香辛料と,肉・魚類や野菜などの具を煮込んでつくる濃厚なスープ。これをご飯やパンにつけて食べる。
 インドには,そのような料理が数多くあり,それらをまとめて「カレー」と呼ぶ。1800年代にインドを植民地にしたイギリス人が,そういう呼び方をはじめた。

 イギリス人は,1800年代にインドカレーをもとに,欧風カレーをつくった。明治以降の日本人は,欧風カレーをもとに,日本風のカレーをつくった。
 カレー粉の材料として「カレーの実」のようなものがあるわけではない。唐辛子,コショウ,ターメリック,クミン等々,数種類から十数種類の香辛料をブレンドすることで,カレーはできている。

 最初の問いを,選択肢をたてて考えてみよう。インドで,カレーという料理が生まれた時期は,つぎのどれか?

 ア 今から3000年ほど前
 イ 1000年ほど前
 ウ 500年ほど前
 エ 200年ほど前

 アは,インドの歴史の最古の時代である。イは,そこまで古くないが,かなり古い時代。ウだと,インド史全体でみればさほど古くない。エだと,イギリス人の欧風カレーが生まれた時期とほぼ同じ。

 ***
 
 インドで,現在に伝わるカレーの基本ができあがったのは,1500年代のことだ。答えはウである。
 ここで「カレー」というのは,「唐辛子を使った辛いカレー」のことだ。

 インド料理では,カレー以外でもさまざまな料理で唐辛子を使う。しかし,1500年代ころまで,インドには唐辛子はなかった。

 唐辛子は,ポルトガル人がインドに持ち込んだものだ。唐辛子はアメリカ大陸の原産で,アジアやヨーロッパにはなかった。
 1500年代から,スペインやポルトガルなどのヨーロッパの船が,アフリカ,アメリカ大陸,アジアを訪れるようになった。「大航海時代」である。そのなかで,唐辛子がインドのほか,日本や中国などのアジア諸国に伝えられた。そして,インド人の食生活に急速に浸透していったのである。

 唐辛子が伝わる前,インドで辛い香辛料というと,コショウだった。
 コショウはアジア原産である。唐辛子が伝わる以前,少なくとも1000年前にはインドカレーにつながる料理はあった。コショウやその他の香辛料を,具といっしょに煮込んだスープ。唐辛子がないのでそれほど辛くない。
 しかし,唐辛子以外はカレーと重なる香辛料が使われているので,「その頃からカレーがあった」という主張もある。
 しかし,あんまり辛くないのだ。それでは「カレー」とはいえないではないか。ここではその立場をとる。

インドで肉食が一般化したのは?
 ところで,インドカレーの具では,鶏肉・羊肉などの肉が使われている。牛肉や豚肉は,宗教上のタブーで,あまり使われない。野菜だけのカレーもあるが,肉がカレーにとって重要な食材であることはまちがいない。インド料理には,タンドリー・チキンなど,カレー以外にも肉を使った料理がたくさんある。

 では,インド人が肉食をするようになった,つまりインド料理で肉を使うのが一般的になったのは,いつごろのことだろうか? 

 これも,さっきと同じ選択肢で考えてみよう。「3000年前」「1000年前」「500年前」「200年前」のうち,どれだろうか?

 インドで肉食が一般的になったのは。1500年代以降のことである。答えは「500年前」だ。それまでのインド人の食生活は,野菜や魚が中心で,肉はめったに食べなかった。これには,ヒンズー教などのインドの伝統的な宗教の影響があった。
 この時期は,唐辛子がヨーロッパ人によって伝わり,インドカレーが生まれた時期と重なる。しかし,インドに肉食を持ち込んだのは,ヨーロッパ人ではない。

 では,どうしてその時期なのか。
 1500年ころのインドは,いくつもの国に分かれていた。インドは,今の国土に匹敵する範囲が統一されていた時期もあるが,歴史全体をみると分裂の時代が長い。
 その分裂状態を終わらせたのは,ムガール帝国という王朝による支配だった。
 ムガール帝国は,もともとは伝統的なインドの領域にあった国ではない。インドの北西の地域(今のアフガニスタン周辺)で,1500年ころにおこった国である。
 その「ムガール国」がインドに攻め入って,インドの北半分を支配するようになったのは,1500年代のことだ。その後,1600年代には,ほぼインド全体を支配するようになった。

 ムガール国をつくった人びと――ムガール人は,騎馬遊牧民だった。もともとは草原地帯に住み,馬を乗りまわして羊などの家畜を育てて暮らしていた。
 騎馬遊牧民は,家畜が生活の支えだ。家畜の肉も食べる。

 インドの料理で肉食が重要になったのは,騎馬遊牧民であるムガール人の影響なのである。だから,ムガール人の支配がはじまった1500年代からのことなのだ。

 ポルトガル人が唐辛子を持ち込んだことや,ムガール人の支配は,その後のインドの食文化に大きな影響を与えた。
 ただし,それがすべてではない。ほかにも,西の隣にあるペルシア(今のイラン)をはじめとして,外国からのさまざまな影響によって,インドの食文化はつくられた。

 ***
 
 インドは,古い伝統を持つ大きな国だ。だから,その国を代表する料理であるカレーは,インド人が独創的に古い時代からつくりあげていた,と思いがちである。
 しかし,そうではなかった。
 インドカレーは,さまざまな国の文化を融合したもので,今日につながる原型が固まったのは,500年ほど前のことだった。インド史全体でみればそんなに古い時代のことではなかったのである。

 さまざまな外国・異民族の影響を受けながら,その国の文化はつくられていく。
 自国の文化のおもな部分の何もかもを,自分たちだけでつくり出した民族というのは,ありえない。
 インドカレーのことは,そのよい例のひとつだと思うが,どうだろうか。

(参考文献)リジー・コリンガム『インドカレー伝』河出書房新社
 あと,ここで述べたような「歴史の見方」を学んだ本として,板倉聖宣『焼肉と唐辛子』仮説社


(以上) 
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