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2013年02月17日 (日) | Edit |
アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記。

「イームズは何をした人か」についてまったくご存じない方は,このブログの以下の記事をご覧ください。
1月26日「イームズの仕事」:イームズの最も有名な仕事である,イスのデザインについて紹介しました。
 
まず,生い立ちから,若いころの,まだ「自分は何者か」について模索していた時代のイームズ。

イームズ伝1

生い立ち・子どものころから働く

チャールズ・イームズは,1907年にアメリカ中部のセントルイスで生まれました。父親は,民間人として事件捜査や犯人逮捕を行って報酬を得る「民間捜査官」という仕事をしていました。

幼いころのイームズは,商品のラベルや説明書を読むのが大好きという,好奇心の強い子どもでした。

7歳のとき,父親が仕事中に犯人に撃たれ,ケガで思うように働けなくなりました。小学生のチャールズは,家計を支えるためバイトをしました。父親はその後回復せず,彼が13歳のとき亡くなりました。

高校は,週末や長期休暇のときには製鋼所で働きながら通いました。このとき,製図の仕事を手伝う機会がありました。たくさん図面を描くうちに,彼は建築に興味を持つようになっていきます。

大学を退学処分に

高校を卒業すると,奨学金を得て地元の大学の建築科に進み,熱心に勉強しました。

しかし1927年,2年生のときに退学処分になってしまいます。保守的な授業に不満だった彼が「もっと現代建築について教えるべきだ」と教授たちに強く主張して,怒りを買ったことが原因です。

大学時代のイームズがとくに興味を持った「現代建築」というのは,フロンク・ロイド・ライト(1867~1959)というアメリカの建築家の仕事です。

ライトは,今の評価では「現代建築の確立に貢献した,20世紀の最も偉大な建築家の1人」とされます。「落水荘」という邸宅(1937)や,ニューヨークのグッゲンハイム美術館(1959)などがとくに有名です。日本人には「帝国ホテル」(1923年竣工の旧館)の設計者としても知られています。

落水荘(磯崎新・鈴木博之『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より。つぎも同じ)
落水荘

グッゲンハイム美術館
グッゲンハイム

なお,ライトと並ぶ「20世紀の偉大な建築家」というと,ほかにフランスのル・コルビュジエ(1887~1965),ドイツ人で,のちにアメリカに渡ったミース・ファン・デル・ローエ(1886~1669)といった人がいます。これらの人をあわせて「近代建築の三大巨匠」などということもあります。

ロンシャンの礼拝堂(ル・コルビュジエ設計,1951~1955)
(ジャン=ルイ・コーエン『ル・コルビュジエ』より)ロンシャン

シーグラム・ビル(ミース・ファン・デル・ローエ設計,1954~58)
四角い窓のガラスと鉄骨でできた,現代的な高層ビルのひとつの典型
(『GAJAPAN別冊 20世紀の現代建築を検証する』より
シーグラムビル

ライトは,「三大巨匠」のなかでも,ほかの2人より20歳ほども年上で,若いころのル・コルビュジエやミースに影響をあたえました。まさに「元祖」といえる存在です。

しかし,ライトはイームズの学生時代(1920年代)には,すでに有名ではありましたが,まだ「最も偉大な」というまでの評価は固まっていませんでした。

専門家のなかには,「ライトのような新奇な建築は,そのうちすたれるだろう」と考える人もいたのです。今の私たちからみるとライトの建築はむしろクラシックなのですが,もっと古い感覚でみると,「新奇」だったのです。
 
そして,イームズの大学では,そんな保守的な教授が主流でした。そんな中でライトのような新しい建築をもっと教えるべきだ,と主張して退学にまでなったイームズ。

まさに「新しい感覚を持つ,元気のいい若者」だったといえるでしょう。のちに「現代建築」が建築の圧倒的な主流になっていったのをみれば,先見の明もあったといえます。

地元で設計事務所を立ちあげる

フリーターになったイームズですが,1929年,22歳のときに大学の同級生だった女性と(最初の)結婚をしました。翌1930年には,仲間と2人で設計事務所を立ちあげます。地元セントルイスで個人住宅を中心に仕事をしました。

だが,当時は「大恐慌」(1920年代末におこった世界的な大不況)の影響もあって仕事は少なく,苦しかったようです。

彼にとって,建築の仕事は天職でした。しかし,自分がめざす新しい建築を実現するのはむずかしい。予算は限られており,地元のクライアントは保守的でした。

そんな中,1933年,26歳のときにイームズは,長い旅に出ました。メキシコに行って8か月(あるいは10か月)ほど各地を放浪したのでした。仕事に限界を感じ,考えたいことや,新しい何かをつかみたいということがあったのでしょう。

イームズはほとんどお金を持たず出発しました。肉体労働をしたり,絵を描いて売ったりしながら旅費を稼ぐ貧乏旅行でした。馬や徒歩で奥地の村を訪ねることもありました。あちこちでスケッチをしたり,民芸品をみてまわったりしました。

メキシコから戻った彼は,セントルイスで新しい設計事務所を立ちあげ,建築の仕事を続けました。

メキシコ旅行が,彼の仕事に直接大きな転機をもたらすことはありませんでした。しかし,メキシコの風景や民芸などに深く触れたことは,彼の美的なセンスの幅を広げてくれました。また,異文化のなかでも平気でのびのびやっていける感覚が身につきました。

それから,彼がのちに振り返ったところによると,つぎのようなことがあります。

それは,この旅行によって「少なくとも破産を恐れなくなった」ということです。これは,「無一文のきびしい条件でも,生きていける」という自信を得たということでしょう(しかし一方で,お金のことはやはり大切だと身にしみたようです)。

そして,「お金のために意に沿わない仕事をすることだけはしない。どんな仕事でも,その目的に納得できないかぎり,引き受けない」ことを決意したのだそうです。

クランブルックへ

その後,1938年,31歳のときに転機がありました。イームズの手がけた住宅が,エリエル・サーリネン(1873~1950)という著名な建築家の目にとまったのです。

そして,サーリネンが校長を勤める「クランブルック美術学院」に研究員として来ないかと誘われました(「研究員」というのは,おそらく教員でもなく一般学生でもない,お客さんのような立場ということでしょう。給与が出たのではないかと思いますが,よくわかりません)。

この学校は,五大湖周辺の町・クランブルックにあります。おもに大学卒業者を対象とした大学院にあたる学校です。まだ新しく知名度は低かったのですが,意欲的でした。そして,のちにおおいに発展して,今はデザインや美術の分野で世界的に権威のある学校になっています。

イームズの奥さんは彼がクランブルックに行くことに反対でした。地元で落ち着いて暮らしたかったのです。セントルイスを離れれば,これまで仕事で築いてきたものを捨てることにもなります。しかしイームズには,建築のこと,仕事のことを考え直す絶好の機会だと思えました。

イームズは1人でクランブルックに行くことにしました。

(つづく)

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テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術