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2013年02月18日 (月) | Edit |
アメリカのデザイナー,チャールズ・イームズ(1907~1978)の伝記の2回目。

今回は,地元セントルイスでの住宅の仕事が建築家エリエル・サーリネンの目にとまり,サーリネンが校長をつとめるクランブルック美術学院に研究生として招かれたあとのイームズ。「イスづくり」に取り組みはじめて苦闘していた時代です。
 
イームズ伝2

クランブルックでの出会い

1938年,31歳のイームズは,妻子をおいて1人で五大湖周辺の町,クランブルックにやって来ました(彼には娘が1人いました)。

クランブルック美術学院には,さまざまな分野のアーティストが集まっていました。イームズは,図書室で本を読みあさり,陶芸,織物,金細工,写真などの部門にも出入りして,いろいろ吸収しました。一応は建築系部門の所属でしたが,そこにじっとしていることはありませんでした。

一般の感覚では「変な人」といえるでしょう。しかし,この時期に得たものは,彼がのちに多彩な活動を行ううえで役立ったはずです。
 
翌年,イームズはこの学校の講師にスカウトされました。そこで妻子を呼び寄せましたが,すでに夫婦の仲は冷え切っており,やがて離婚となりました。

クランブルックでイームズは,さまざまな人と出会いました。とくに,エリエル・サーリネンの息子の建築家エーロ・サーリネン(1910~61)とは親友になりました。

エーロ・サーリネンは,のちに世界的な建築家になりました。51歳の若さで亡くなってしまうのですが,「ミッドセンチュリー(1940~60年代)」を代表する建築家の1人として名を残しています。

もう1人,美術学院の学生であるレイ・カイザーと出会いました。イームズと結婚して,レイ・イームズ(1912~1988)となる女性です。
 
レイは,クランブルックに来る前は,ニューヨークで画家をめざしていました。著名な画家のもとで,抽象画(特定の何かを表さない,抽象的な線や色彩で描かれた絵)という,当時の新しい表現を学んでいました。

しかし,もっと広く美術やデザインを学ぶために,クランブルックにやってきたのでした。画家として一本立ちすることのむずかしさや,絵画という表現自体の限界などを感じていたようです。

クランブルックに来た当時のレイにはまだ,職歴も業績もありません。「美術家・デザイナーの卵」といったところです。しかし,彼女と出会ったイームズは,彼女のなかに非凡な才能を見出しました。イームズは,レイが生活と仕事の両面でパートナーになってくれることを望むようになりました。そして2人は,1941年に結婚したのでした。

イスという小さな建築

クランブルックに来てしばらく経った1939年ころからイームズは,エーロ・サーリネンと共同で,イスをつくりはじめました。また,その仕事に関心をもったレイもやがて参加するようになって,イームズと知り合ったのです。

なぜ,イスだったのでしょうか?
 
それは「自分のおかれた条件のなかで,できることに取り組んだ」ということでした。建築には予算や依頼者の意向など,さまざまな制約があります。しかし,家具というもっと小さなものなら,つくりたいものを実現しやすいのです。

なかでもイスは,人の体を支えるので,棚やテーブルなどのほかの家具以上に複雑な構造や技術で成り立っています。イームズたちは「小さな建築」のつもりでイスづくりに取り組んだのでした。

イームズは,後年のインタビューでこう語っています。

 椅子はまさに「ミニチュア建築」なんだ。建築家にとって建築物をコントロールするのは難しい。工事業者やもろもろの圧力がのしかかってくるし,何をするにも金がかかる。だが,椅子の場合はほぼ等身大で扱える。だから(フランク・ロイド・ライトをはじめ)…数え切れないほどの建築家が椅子を手がけている。その理由は,実際に自分自身の手でつくれるからさ。
(『Eames-The Universe of Design』より再引用)

オーガニックチェアという「試作品」

イスづくりにあたって,イームズとサーリネンは成型合板という,合板(ごく薄い板を何層か張りあわせてつくった板。いわゆるベニヤ板)を加工する技術に注目しました。

合板に熱を加え,型にはめて圧力をかけると,曲面をつくることができました。「成型」というのは「型にはめて,ある形をつくること」です。成型合板は,20世紀になって普及した,当時の新しい技術でした。

その技術を利用して,人間の体にフィットした,背もたれや座面をつくる。低コストで,高品質の美しいイスができるはずだ……。

ただし,曲げた合板でイスをつくることは,イームズ以前にも行われていました。代表的なものとして,フィンランドの建築家アルヴァ・アアルト(1898~1976)による仕事(1930年代)などがあります。イームズたちは,そうした先駆者よりもさらに複雑で精密な曲面のイスをつくろうとしたのでした。
 
彼らがつくりあげた「オーガニックチェア」という名の試作品は,1940年に権威あるコンペで賞を取りました。 「オーガニック」というのは「有機的な・曲線的デザイン」ということです。

そして,あるメーカーのもとで製品化することになりました。しかし,当時はその複雑なデザインの通りに合板を加工する技術が確立していませんでした。ていねいに手づくりすれば何とかなるのですが,大量生産はできません。

そこで,オーガニックチェアはわずかしかつくられませんでした。製品としては失敗でした。

オーガニックチェア(1940)
1940年のコンペに出品したオーガニックチェア 
(『Eames-The Universe of Design』マガジンハウスより)

アアルト パイミオ
アアルトの成型合板のイス(1931年)
(島崎・野呂・織田『近代椅子学事始』ワールドフォトプレスより)
 
また,1941年の末には日米の戦争がはじまりました。翌年にはその影響で物資が不足してきたこともあり,オーガニックチェアのプロジェクトはストップしてしまいます。

そしてそのころ,エーロ・サーリネンは建築の仕事が忙しくなり,イームズとの共同作業からは離れていきました(しかしそれからもイームズとサーリネンの友情は続きました)。

カルフォルニアへ

1942年,イームズはクランブルック美術学院を辞め,レイとカルフォルニア州のロサンジェルスに移りました。クランブルックで教師を続けていればそれなりに安定していたのですが,どうしてもイスの仕事を成し遂げたかったのです。

イームズは映画の美術スタッフのバイトをして食いつなぎながら,アパートでレイとともにイスの試作をくりかえしました。個人的に自腹を切っての取り組みです。アパートでそんな作業をしてはいけなかったのですが,隠れて行いました。

オーガニックチェアの失敗(量産できなかった)をくりかえさないために,彼らがまず取り組んだのは,成型合板という素材の性質や扱い方について探究することでした。板を曲げるための,電熱線を用いた機械も,自分たちでつくりました。そうやって実験や試作をくりかえしました。その過程でデザインを練り上げていったのです。

理想的な「外見」をまず考え,「どうやってつくるか」はあとまわし,というのではないわけです。まず 「量産する」という制約条件から出発して,デザインを考える。しかし安易に流れることなく,その「制約」と格闘しながら,理想的な「答え」をさがしていく。
 
そのような作業をとおして,イームズは「デザインにおけるもっとも大事なこと」をつかんだといえるでしょう。

それは「制約の重要性」ということでした。のちに,ある対話のなかでイームズはこんなことを言っています。

イームズ「デザインが制約に負うところは大きいと思います」
質問者 「どのような制約ですか?」
イームズ「あらゆる制約です。デザインの問題を解く鍵もそこにあります。…デザイナーに必要なのは,できるだけ多くの制約を識別する能力,制約の中で働こうとする意志と情熱です。価格,サイズ,強度,バランス,外観,時間。制約は無数にあります。こうしたリストがどの問題にもあるのです。」
     
(イームズ・デミトリオス『イームズ入門』日本文教出版)

イームズの作業場
当時のイームズの作業場(左側にあるのは合板を曲げるための自作の装置)
(『Eames design』より)
 
成型合板を使った新しいイスをつくるという取り組みは,しだいに前進していきました。

しかし,このころはイームズにとって精神的にも経済的にもきびしい時代だったようです。試行錯誤の毎日でしたが,めざすものを完成できる保証はありません。仮に完成したとしても,戦争が本格化してきたので,いつ量産できるかもわかりません。

イスの試作にかかる費用も,かぎられた収入で暮らすなかでは重たい負担でした。個人的にも,世の中的にも,まさに「先のみえない」状態だったわけです。

(つづく)
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