2013年03月30日 (土) | Edit |
 「社会の変化はゆっくりになっている」論の3回目です。
 これまでの話(2月14日3月24日)に対し,読者の方から反応をいただきました。

《時代の変化がゆっくりになっている論は,奥が深そうですね。他にもそう言える現象がないか探してしまいそうです。》

《お話大変おもしろいです。だいぶ前にそういちさんからウルトラマンや仮面ライダーのことを伺って,そうだなあとずっと思ってきました。で,その原因は何でしょうか?》

 そこで,今回は「ほかにもそう言える現象はないか」「その原因は何か」といったことについてです。

 今まで「社会の変化はゆっくりになっている」という実例として,ポピュラー音楽やイスのデザインのような,社会や文明全体からみれば,どちらかというとミクロなことをあげてきました。「親子が同じキャラクターに夢中になっている」などというのは,「ミクロ」の最たるものです。

 もっと大きな現象はないのでしょうか?
 あります。それは「技術革新」にかんすることです。
 
 たとえば,宇宙旅行。1969年のアポロ11号以来,1972年まで月への有人飛行が行われてきましたが,その後はとだえています。SFにでてくるような月面宇宙ステーションは21世紀になった今も実現していません。

 実用化された史上最速のジェット旅客機は,1969年に初飛行したコンコルドです(イギリス,フランスの共同開発)。その最高速度はマッハ2。採算性の問題があり,同機は2003年に引退しました。その後,商業飛行を行う,コンコルドのような「超音速旅客機」はあらわれていません。
 「最速の旅客機」の性能(速度にかぎってですが)は,1970年ころ以降,足踏みしたままなのです。
 それはつまり,「一般の人が乗る最速の乗り物のスピード」が,何十年も変わっていないということです。
 
 そういえば,東京~大阪間の所要時間も,この50年ほど,そんなに変わっていません。1964年に東海道新幹線が開通して,東京~大阪間は,それまでの特急の7時間半から,3時間余りになりました。それが1990年代半ばに2時間半になって,現在にいたっています。たしかに時間短縮はされましたが,新幹線ができたときとくらべれば,インパクトは小さいです。

 40年ほど前に子どもだった私は「21世紀には時速500キロのリニアモーターカーの時代になる」と聞かされていましたが,いまだ実現していません。

 もっと身近なところで,自宅のなかを見わたしてみましょう。
 電気照明,冷蔵庫,電話,テレビ,自家用車といった文明の利器は,1950年代の時点で,すでにありました。当時のアメリカでは,それらは多くの家庭に普及していました(日本では1960年代以降に普及した)。

 今の私たちの家にあるもので,1950年代当時なかったものといえば,パソコンやインターネットくらいのものです。

 * *
 
 以上のことは,1900年代前半までの技術革新にくらべ,その後の技術革新が,スローダウンしていることのあらわれではないでしょうか。

 そして,この「技術革新のスローダウン」こそが,「社会の変化がゆっくりになっている」ことの根底にあるのではないでしょうか。

 技術革新は,生産活動や日々の暮らしを変えていきます。経済成長を左右する大きな要因です。
 つまり,技術革新は社会を変えていくのです。それが急速であれば,社会は急速に変わるし,スローダウンすれば,社会の変化はゆっくりになる……言ってしまえばあたりまえの話です。

 私は,こういうことを10数年くらいまえから考えていました。
 10年ほど前には,2月14日の記事のもとになったレポートを書いて,周囲の人にみせたり話したりしています。

 大風呂敷に言えば,

 「近代社会を生み出し,発展させてきたさまざまな革新が,だんだんとネタ切れになっているのではないか。近代社会が,創業期の勢いを失いつつあるのではないか」

 ということを考えたのです。
 そして,それがマクロやミクロのさまざまな現象としてあらわれているのではないか,と。

 * *

 でも,そう考えるのは,私だけではないようです。
 「技術革新の停滞が,社会・経済の停滞を生んでいる」と主張して,近年アメリカで評判になった本があります。

 タイラー・コーエン著,池村千秋訳 大停滞  NTT出版,2011年(原著2011),1600円+税

 という本です。著者は,大学教授の経済学者。

 「アポロ計画以降の宇宙開発」や「家庭にある文明の利器で,最近新しく出てきたのはパソコンやインターネットくらい」といった「技術革新の停滞」の事例は,コーエンの本にもあります。

 この本については,「誇大妄想」といわれそうですが,「やられた」と思いました(^^;)。
 その一方で,「ほらね」と,自分の見識を(かつて話しをした友人たちに)自慢したい気持ちもあります。

 コーエンは,「1970年代以降,アメリカ経済は〈大停滞〉の時代を迎えている」といいます。
 それはゼロ成長ということではなく,以前の高成長の時代がおわり,成長が鈍化してきたということです。
 たとえば《一九七〇年代以降,アメリカ人の所得の中央値はきわめて緩やかにしか上昇していない》のだと,統計を示して述べています。
 
 そのような「大停滞」が起きたのは,なぜなのか?
 コーエンはこれを《容易に収穫できる果実は食べつくされた》と表現します。
 まとめると,こういうことです。

 かつてのアメリカ経済には,「無償の手つかずの土地」という資源が豊富にあった。さまざまな「イノベーション(技術革新)」が活発に行われ,教育によって可能性を大きく開花させることができる「未教育の賢い子どもたち」が大勢いた。
 1700年代以降,このような「容易に収穫できる果実」の存在が,アメリカ経済の成長を後押ししてきた。しかし,この数十年でそのような成長の源泉が枯渇してきたために,経済成長は鈍化するようになった……

 
 コーエンがいう「容易に収穫できる果実」(「無償の土地」「技術革新」「未教育の子ども」)のうち,最も重要で普遍的なのは,「技術革新」でしょう。コーエンもこれを議論の中心にすえています。

 そして,「大停滞」にかんする議論も,おもに「技術革新が停滞期に入っている」という見方をめぐってのことでした。「いわれてみれば,たしかにそうだ」という人はかなりいましたが,疑問をいだく人も多かったのです。

 技術革新は,ほんとうに停滞しているのか?
 これについては,また次回考えてみたいと思います。
 
(以上)
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2013年03月30日 (土) | Edit |
 今日3月30日は,画家ゴッホの誕生日。そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。


ゴッホ

狂気が生んだ絵ではない

 画家フィンセント・ファン・ゴッホ(1853~1890 オランダ)の晩年の作品は,明るく強い色彩と,大胆で激しいタッチが特徴です。
 それを「狂気の産物」という人もいます。
 たしかに,晩年の彼は精神を病んでいて,治療を受けていました。錯乱して自分の片耳を切り落としたこともあり,最後は銃で自殺しました。
 でも,研究者によれば,その作品の構図や色彩は「丹念に考え抜かれたものだ」といいます。作品の構想を練ったスケッチや,製作意図を語った手紙も数多く残っています。
 彼は,けっして感情まかせに描いていたのではないのです。
 ゴッホは心を病んでいましたが,絵を描いているときは正気でいられたのです。
 「狂気から何かが生まれる」というのは,幻想ではないでしょうか。

スウィートマン著・野中邦子訳『ゴッホ 一○○年目の真実』(文藝春秋,1990)による。

【フィンセント・ファン・ゴッホ】
 20世紀絵画に多大な影響を与えた画家。職を転々としたあと20代後半で画家を志す。生前は不遇に終わり,弟の支援で生活した。ひまわりや糸杉をモチーフにした作品や自画像などがとくによく知られている。
1853年3月30日生まれ 1890年7月29日没

                        *
 
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2013年03月29日 (金) | Edit |
 前回,株価の上昇などの金融市場の活況について,「どこかうさんくさい」というイメージを持つ人もいる,という話をしました。
 さらにそれに関連して,「好景気」そのものにたいして,懐疑的な連想をする人もいます。
 
 つまり,「景気がいい」というと,投機目的で株やマンションを買う人がわーっと増えたり,感じの悪いお金持ちが目立ってきたり(たとえば先日仮出所したホリエモンさんは,その象徴あつかいだった),やたら高価な酒を空けて喜ぶドンチャン騒ぎがくりひろげられたり,といった連想をするわけです。「タクシーが混んでいて,拾えない」といったバブル景気の体験を思い出す人もいます。

 たしかに「好景気」には,そういう面もあるでしょう。
 つまり,ちょっとガチャガチャした,品のない感じ。

 でも,「景気がいい」というのは,若い人が納得のいく就職をしやすくなったり,「非正規」といわれる人が「正社員」になるチャンスが増えたり,結婚して家庭を持つ人が増えたり,仕事や金銭で行きづまって自殺する人が減ったり,新しい事業を立ち上げる人が増えたり,税収が増えて政府の財政が改善したり,おいしいものを食べたりする「ちょっとしたぜいたく」をみんなでたのしんだり,ということでもあるわけです。

 これは要するに,「希望」が出てくるということです。

 とくに重要なのは,「若い人たちにとっての希望」だと思います。
 さらにそのなかでも,「就職」ということは,中心テーマでしょう。私自身,今この問題にかかわる仕事をしているせいもあって,とくにそう感じます。

 もちろん,「ほんとうに,多くの人に希望がいきわたるか」という問題はあります。

 たとえば,景気が回復しても,なかなか思うような職がみつからない,といったことが起こるかもしれません。英語で「ジョブレス・リカバリー(雇用なき景気回復)」という現象です。
 リーマン・ショックから景気回復してきたアメリカで,とくにいわれていること。

 「ジョブレス・リカバリー」には,たんなる景気の変動とは別次元の,社会・経済のしくみの変化がかかわっています。
 ひとことで言えば,「経済の発展が,多くの人びとの技能に適した仕事を,生み出しにくくなった」のです。今の先進国に特有の現象といっていいでしょう。

 こういう社会の変化には,ひじょうに関心があります。
 契約職員の中年男である私にとっても,切実な問題です。
 ときどき,このブログでも掘り下げていきたいです。今回は抽象的にフロシキを広げただけで,おわらせていただきます。

(以上) 

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2013年03月27日 (水) | Edit |
 株価の上昇傾向が多くの人の目にもはっきりしてきて,マスコミでも最近はよくとりあげられます。
 でも,「どこかうさんくさい」という見方もつきまとうようです。
 このあいだみたテレビのニュースでも,最近の株価の上昇や,個人投資家の動きが活発化してきた様子を報じていましたが,キャスターのコメントは「でも,こういう動きがまた,いろんな歪みをひきおこさないといいんですが……」といったトーンでした。

 このキャスターにかぎらず,「金融というのは,いかがわしい」という人は少なくありません。

                       *
 
 たしかに金融の世界には,いろんな問題や不祥事があります。数年前のサブプライム問題や80年代の日本のバブル経済のように,金融のお金の流れが社会に混乱やマイナスをもたらすこともあります。

 ただし,そういうことは実体経済(モノやサービスの生産の世界)にもあります。公害が発生したり,不良品が販売されたり,便利な機械やシステムが事故を起こしたり……。しかし,だからといってモノやサービスを生み出す産業じたいを否定する人はまずいません。「やはりそれは必要だ」と思っている。
 金融も同じことではないでしょうか。

 金融のお金の流れがなければ,実体経済は回りません。銀行や株式や国債がなければ,企業も政府も十分な活動資金が得られず,満足に動けません。新しい事業の発展もありません。「実体」と「金融」は,どちらも経済に欠かせない車の両輪です。

 しかし,なぜ金融経済が実体経済を混乱させるようなことがおこるのでしょうか? 
 本来なら金融は,社会のお金の流れを活発にして,経済に役立つはずのものです。

 じつは,この「お金の流れを活発にする」という金融の利点こそが,問題の根底にあります。
 この利点が同時に弊害にもなっている,ということです。

 金融資産は,どんどん売買して動かすことができます。これが金融のお金の流れの利点です。会社の工場や機械を売るのは簡単ではありませんが(なかなか買い手がみつからない),会社の株式を売るのは比較的すぐできます。大きなビルも,「証券化」という,サブプライム問題にもかかわった手法によって短期間に現金化できます。

 こういう,「お金の流れを活発にする」という性質から,金融の世界では「すぐに」「短期で」ということになりがちなのです。

 この傾向が,実体経済とあわないときがあります。
 実体経済では,金融で求められるテンポよりも,ずっと時間のかかることが多いです。新しく立ち上げた企業が軌道に乗るまでには,ふつうは何年もかかるでしょう。新製品の開発,新規市場の開拓といったことも同様です。

 ところが,金融のお金の動きは,たいていはもっとせっかちです。
 株式の売買だと,長くてもせいぜい数ヶ月で(ときには数日,あるいは数分,数秒で)結果を求めることが多いです。会社や事業が育つのに何年かかろうと,株式の売買は一瞬でできてしまうので,そうなってしまいがちです。
 いつでも売って現金化できる条件があると,人は「すぐに結果を出したい」と思うのです。

 そのような短期志向のお金が,バブルの発生・崩壊を生みます。
 「これがすぐに儲かりそうだ」というものがあると,たいした根拠もなくわーっとお金が集まる。
 ブームや熱狂がさめると,サーッとお金を引き上げていく。
 こういう,不合理なお金の動きが生まれるのです。

 もっと腰のすわった,長期志向の金融のお金の流れもないわけではありません。
 たとえば株式投資なら,短期で利ざやを得るのではなく,会社の成長をじっくり見守っていくというものです。そういう方針で運用をする,という資産運用の会社もあります。しかし,「短期志向」にくらべれば少数派で,目立ちません。
 
 多くの人は,短期志向の金融のお金の動きの,とくに派手な部分をみて,「金融というのはいかがわしい」と思うのでしょう。

                       *

 では,この「短期志向」による弊害は,どうやっておさえればいいのでしょう?

 「もっと長期志向になればいい」というのはもっともですが,だからといって,金融経済が実体経済と同じテンポで動いては意味がありません。すばやく活発にお金が動くという金融本来の利点を大きく損なわないようなかたちで,「弊害」を少なくしないといけません。

 「金融経済の短期志向をおさえる規制が必要だ」という意見があります。たとえば,金融取引(証券の売買など)にもっと課税する,金融商品の「安全性」を,当局がもっと監督・規制する……こういうことも必要なのかもしれません。しかし,規制によって金融のお金の流れを沈滞化させないよう,注意が必要です。

 このあたりのことは,議論が多いですが,とにかく,つぎのことは押さえてください。

・金融のいかがわしさの根底にはその「短期志向」の傾向がある。しかしそれは,お金の流れを活発にするという金融本来の性質に根ざしたもの。
・だがしかし,「お金の流れを活発にする」という金融の働きがなければ,現代の経済は成り立たない。

 だから,金融についてやみくもに「あんなものは……」と否定してかかるのは,やめておきましょう。
 もちろん,冷静にみるのはいいのです。でも,「金融を否定するスタンス」が「文化人やインテリのたしなみ」みたいになってはいけないと思います。
 まずは,基本のところを勉強してみましょう……

(以上)

※今回は話をテンポよくすすめるために,基本用語の説明などは省略しました。そこで,まったくの初心者の人にはわかりにくいところがあったと思います。「そもそも証券とは何か」みたいな「基礎の基礎」については,また別の機会に。

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2013年03月26日 (火) | Edit |
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 平日の私の昼食は,いつもだいたいおにぎりです。
 朝,カミさんがつくってくれます。
 おにぎり2個に,ドライフルーツ少々とチーズをひとかけ。
 それをハンカチに包み,お茶の入った水筒といっしょにカバンの中へ。

 職場で食べることもありますが,近くの公園でベンチなどに腰かけて食べることも。
 この数年で,何百回も食べてきましたが,飽きません。

 「なんか,わびしくない?」と思う人もいるかもしれません。
 
 たしかに,私が「おにぎり生活」をはじめたのには,「節約」ということもありました。
 
 でも一方で,「おにぎりの昼食って,シンプルで,結構ステキなんじゃないか」とも。
 3~4年前にある文章を読んでから,とくにそう思うようになりました。

 それは,『暮しの手帖』という雑誌の昔の記事です。
 同誌は,1948年に創刊され今も続く,「日々の暮らし」をテーマにした雑誌の元祖といえる存在です。
 その71号(1963年9月)の記事に,こんなふうにありました。私が読んだのは「300号記念特別号」(2002年12月刊)に再録されていたものです。

 タイトルは「いちばんぜいたくな昼食」

《いまの世の中で
 いちばん ぜいたくな
 お昼ご飯は なにか
 ご存じですか
 奥さんや お母さんが
 愛情こめて作った
 おべんとうです。
 
 (中略)
 
 せめて 週に一どか二ど
 愛情につつまれた
 たのしい心のぜいたくを
 持たせてあげませんか

 そのおべんとうには,おむすびなんか
 どうでしょうか
 開いたとき,たのしくて,それにべ
 んとう箱もいりません。あれは,持っ
 てかえるのが,なんだか厄介なものだ
 し,忘れる心配もあるし,中でサケの
 骨や梅干のタネが,カラカラと鳴って
 いたりするのは,わびしいですからね》

 
 このあと,記事では数ページにわたり「おむすびの4つのタイプ」とか,つくりかたのポイントとか,「おむすびを包むもの」をどうするか,といったことを述べています。

 たとえば,《全体を,大きめのきれいな柄のハンカチなどで包んであげましょう。新聞紙などで包んでは,興ざめです。》などとあります。

 これを読んで,おむすび=おにぎりっていいな,と思ったのでした。
 「おにぎり生活」という自分の行いを,美しく肯定してくれる感じもしました。

 それにしても,これって50年も前の記事なんですよね。今どきの「シンプルな暮らし」を先取りしているような内容です。

 あなたもたまにはおにぎりの昼食,どうでしょう?   

(以上)
 
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テーマ:雑記
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年03月26日 (火) | Edit |
団地の桜

 「自分で考えるための勉強法」の5回目。
 写真は,おととい撮影した,自宅の団地の前にある桜です。
 ウチの日めくりの暦にある,本日3月26日のことわざは,「花より団子」。

                       *

勉強していない人は,「何を言っているか」よりも
「誰が言っているか」を気にする。


 勉強すると,目利きの美術商が骨董の鑑定をするように,いろんな情報や意見について,自分なりに「真贋」(ホンモノとニセモノ)や「良し悪し」を判断できるようになります。
 勉強していない人は,情報や意見を言っている人の地位や肩書きで判断します。
 「何を言っているか」よりも,「誰が言っているか」を気にするのです。有力な人や好感の持てる人が言うことばかりに耳を傾けてしまう。

 「弱者の意見こそが本物だ」という人もいますが,それも同じことです。結局は「誰が言っているか」で判断しているからです。
 
 多くの人は,「何を言っているか」よりも「誰が言っているか」を重視します。
 そういう人に「誰が言っているか」ということを伏せて情報や意見を並べてみせたら,きっと,どれを選択していいかわからなくなるでしょう。
 それは食べ物でいえば,一流店の寿司とスーパーの寿司弁当を,自分の舌だけでは区別できないということです。

 それでは,本当の仲間や友だちができません。
 仲間というのは,「意見や価値観を共有している」ということでできています。そのためには,相手の意見を味わって,他の意見と区別できるだけの感覚が必要です。

 この感覚が鈍い人は,たとえばこんな会話をします。

 「日本のサッカーは,決定力不足だよな」
 「ていうか,シュートを決められる選手がいないんだよね」

 このように同じ意見である場合でさえ,「ていうか」を使うのです。

 そういう人は,「自分の意見」と「他人の意見」しか,区別がないのでしょう。
 他人が何か言ったら,その内容はどうでもよくて,とにかく「自分の意見とはちがう」ということになってしまうのでしょう。
 これも,内容より「誰が言っているか」を優先しているのです。「誰が」の区分が,「自分」と「他人」のふたつしかないのです。
 そういうところから早く抜け出して,理解しあえる仲間をつくりましょう。

(第5回おわり,つづく)

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テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年03月25日 (月) | Edit |
 今日3月25日は,作家・樋口一葉の誕生日。そこで彼女の「四百文字の偉人伝」を。「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)


樋口一葉

「コース」を外れて得た表現力

 樋口一葉(1872~1896)は,近代日本初の本格的女性作家です。
 彼女は,明治のなかばに20歳で最初の小説を発表し,その後いくつもの傑作をものにして名声を得ました。しかし,結核のため24歳の若さで亡くなりました。
 一葉は,家庭があまり裕福でなかったことに加え,「女に学問はいらない」という親の方針で,女学校に行けませんでした。
 でも,どうしても勉強がしたかったので,和歌や古文を教える私塾に通いました。
 それは当時すでに「時代おくれ」の教育だったといえます。
 しかし,その塾でみっちりと和歌の創作を学ぶことで,彼女は若くして独自の表現力を身につけることができたのです。もし女学校へ進んでいたら,そうはいかなかったでしょう。
 「コース」に乗れなくても,求めれば学ぶ場はあります。
 さらに,学び方しだいでは,普通では得られないものを得ることもできるのです。

関礼子『樋口一葉』(岩波ジュニア新書,2004)による。

【樋口一葉】
 「女性初」にとどまらず明治を代表する作家の1人。17歳で父を亡くし,彼女が戸主として一家を支えた。専業作家を志すが,なかなか生計が立たず苦労した。代表作「たけくらべ」「にごりえ」など。
1872年(明治五)3月25日生まれ 1896年(明治29)11月23日没

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テーマ:歴史雑学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年03月24日 (日) | Edit |
 2月14日の記事で「最近の社会の変化は,よくいわれるのとは逆に,じつはゆっくりになっているのではないか」ということを述べました。

 その入り口として,こんな話をしました。

 最近の子どもは,ウルトラマンや仮面ライダーのような,今の親世代と共通のキャラクターに夢中になっている。そんなことは,今の親世代とその親(60~70代以上の世代)のあいだでは存在しない。親と子が同じものに夢中になるのは,社会の変化がゆっくりになっているということの,ひとつのあらわれではないか。

 そして,「変化がゆっくりになっている」背景には,経済成長のスピードが鈍くなっていることもあるのではないか。

 さらに,「ここでは日本のことをいっているけど,海外や世界ではどうなのか?」といった宿題を残しました。

 今回は,その「海外・世界」にかかわる話です。

 * *

 昨日私は,お花見に行ってきました。
 近くの団地に住む,友人のNさん夫妻主催のお花見会。
 Nさんの家の近所にある,桜のきれいな公園に数人が集まりました。しばらく宴会をしたあとは,Nさん宅で2次会です。

 Nさんは私より数歳若いアラフォーの男性で,ミュージシャン(ベース奏者)です。私が失業時代に通っていた公的な職業講座(パソコンや簿記を習うみたいな)で知り合いました。以来,ときどきお酒を飲んでいます。
 
 レコードやCDが詰まった棚のある居間で,ちゃぶ台を囲んで飲みつつ,Nさんは言いました。

「そういちさんのブログの,社会の変化がゆっくりになっている,という話,あれは,まさに音楽のことだと思ったなあ」

「昔,ハタチくらいのころ,60~70年代のちょっと前の曲(洋楽)を聞いてると,周囲の友だちから『お前はレトロ趣味か』とか,結構からかわれたんですよ。でも,今は20代の若い連中が,『〇〇〇(←70年代の洋楽のバンド名)のギターの△△が大好きなんです』とか言ってきて,話が合ったりする。オジさんと若い連中が,何十年も昔の音楽の話題で盛り上がれる。そういうことが,今はあたりまえ。ほんとに時代が熟してきたというか,変化がゆっくりになってきてるんだなって」

「ふーん。じゃあNさんからみて,音楽の世界では,新しいものがでてこなくなってきている?」

「そうだねえ,最近もいろいろなことはあるとは思うけど,基本的なありかたは,(いつからかははっきりしないけど)そんなには変わらなくなってきた感じはある。ちょっとエラそうかな……でも,わりと新しいジャンルのヒップホップなんて,過去の遺産の編集や批評を軸に成り立っているわけだし」

 Nさんはブラジル音楽(たとえばボサノバとか)が専門ですが,ジャンルを問わず海外のいろんな音楽を聴いてきた人です。だから,以上の話は「世界的にみて」ということなのでしょう。
 酔っ払って,すっかり気が大きくなりました(^^;)

 私は音楽のことは,まるで知らないです。
 読者で音楽に詳しい方がいたら,「世界的にみて,音楽の基本的なありかたが,そんなに変わらなくなってきた」という見方についてどう思われるか,あるいは参考になる本があったら,教えていただければ幸いです。

 ここでひとつ思い出しました。
 10年あまり前にラジオで聞いた,「オアシス」というイギリスの人気ロックグループのメンバーが「俺たちはビートルズを超えた」と言ったとか言わないとかいう話です。
 当時のオアシスからみて,ビートルズは30年くらい前の人たち。
 さっきウィキペディアをみたら,彼らは「現代のビートルズ」と称されることもあるとか。
 こういう話を見聞きすると,「変化はゆっくりになっている」と感じます。

 1960年代のジョン・レノンやポール・マッカートニーは,自分たちより30年も前の誰かをつよく意識するということはなかったはずです。彼らはそれだけ新しい存在で,そんな遠い過去に,比較の対象になるようなものは存在していなかったのです。
 
 まあ,音楽のことは,自信を持った話はできません。
 でも音楽は「変化がゆっくりになっている」ということの,よい例だと思います。とくに,「世界の文化の動き」を示す素材として適しています。世界のおおぜいが「共通体験」を持つ,ポピュラーな分野だからです。

 もう少し自信のある話なら,建築・デザインのことがあります。
 愛好者として,私が興味を持ってきた分野。

 たとえば,このブログでも何度かとりあげたイームズのような,ミッドセンチュリー(1940~60年代)の建築家やデザイナーたち。
 彼らは,音楽でいえば,プレスリーやビートルズ(やそのライバルたち)のような存在です。
 最近の「今風」といわれる空間に,ステキなイスが置かれている。そのイスはたとえばイームズとかの,今から50~60年も前にデザインされたものだったりします。でも,多くの人は,そんなことは知りません。そのイスも同じように「新しい」ものだと思っているのです。
 半世紀前のイスが「レトロ」でなく「新しい」感じがするとすれば,それが「変化がゆっくりになっている」ということです。

 でも,言葉中心で説明するとなると,デザインの話は伝えにくいです。関心を持っている人の層も薄い。イームズはビートルズのようにポピュラーではありません。

 そういえば,数年前,20代の女性と話していたとき,「柳宗理のバタフライスツールって,ほんとに美しい」という話がでてきました。
 柳宗理(1915~2011)のバタフライスツールは,日本のイスの名作で,1954年のデザインです(柳は,イームズとも交流がありました)。
 その女性は,デザインに専門的な関心があったわけではありません。今どきの「ステキなもの」のひとつとして,50年前のイスが目にとまったのです。
 つまり,昔のバンドの「このギターがいい」とNさんに話す若者と同じこと。

 Nさんは,そのミュージシャンについて,ウンチクを語ったことでしょう。私も,その若い人に柳宗理についてのウンチクを聞いてもらい,たのしいひとときでした……
 
 やっぱり,社会の変化はゆっくりになってるんじゃないでしょうか。

(以上)
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2013年03月23日 (土) | Edit |
 「GDPでみる経済入門」のつづきです。

 このシリーズで使っている「GDPとは総買い物額である」という言い方は,一般的なものではありません。私独自の表現です。一般の経済用語では「総買い物額」でなく「総支出」といいます。
 それを初心者に少しでもイメージしやすいように「総買い物額」と言い換えているのです。
 何でもないことのようですが,こういうことは教育・啓蒙の文章ではだいじなところです。
 「総買い物額(総支出)」ではなく,別の説明や言い方をしている著者も多いです。まず,「総付加価値」あるいは「総所得」としてGDPを説明するのです。しかし,私はやはり「総買い物額」ということをまず述べたほうが(初心者への説明としては)いいと思っています。

 「総支出」とか「総付加価値」とか「総所得」とか,いきなり出てきて戸惑われたかもしれません。このあたりは,また別の回できちんと述べますので。

                         *

4.「総買い物額」の内訳

みんなの買い物の「みんな」とは?
 これまでに「GDP(国内総生産)とはみんなの買い物の総額である」「日本の1人あたりのGDPは370万円(400万円弱)である」ということを述べました。
 それに対しこんな疑問を抱く人もいます。
 「1人あたり370万円ということは,4人家族だと1500万円弱。ほんとにそんなに買い物するの?」

 じつは,まだ大事なことを説明していませんでした。
 それは,「みんなの買い物」というときの「みんな」というのは,私たち1人1人のような「個人」だけではない,ということです。
 経済において「買い物をする存在」は,大きく分けてつぎの3つがあります。

①個人(家計)  ②企業  ③政府(国や自治体)

 この「買い物をする存在」のことを「経済(の)主体」といいます。「経済における行動の担い手」ということです。

 企業というのは,製品やサービスをつくったり売ったりするのが仕事ですが,その仕事をするためにパソコンを買ったり,本社のビルを買ったり,工場を建てたり機械を買ったり,いろんな「買い物」をしています。

 政府も同じことです。役所にある机もパソコンも,買ってきたものです。道路をつくったり,学校や病院を建てたりといった公共事業は,政府の大きな「買い物」といえるでしょう。

 「個人」は経済学では「家計」といいますが,とっつきにくい言い方なので,この本では「個人」にします。
 また,ここで「企業」というのは,純粋な民間企業だけでなく,政府や自治体の経営する公営の企業もふくみます。

 ここまでをまとめると,こういう「公式」になります。

日本の総買い物額
GDP = 個人の買い物+企業の買い物+政府の買い物


 「その国の経済は,個人と企業と政府の買い物が合わさってできている」といってもいいです。

 「買い物額が1人平均年間370万円というのは多すぎるのでは?」と思った方は,たしかにそのとおりで,この「370万円」には,企業や政府の分もふくまれていたのです。だから,「個人の買い物の1人あたり平均」は,370万円よりは少ないです。

主体別の内訳
 では,日本の総買い物額=GDPに占める「個人」「企業」「政府」のそれぞれの割合は,どうなのでしょうか?

【問題】
現在の日本のGDP(国内総生産)で,最も多くの割合を占めているのは,つぎのうちのどれだと思いますか? 

予想
ア.個人による買い物
イ.企業による買い物
ウ.政府による買い物

                         *

 2010年度における日本のGDP=総買い物額の内訳はつぎのようになっています。

 個人による買い物 60% 286兆円
 企業による買い物 13%  64兆円
 政府による買い物 24% 116兆円
 その他(非営利団体による買い物1.4%,「純輸出」0.8%)

image002.png

 個人による買い物がGDP全体の60%を占めています。
 GDP(国内総生産)の最も多くの部分は,私たち個人の買い物が占めているのです。

 ここでいう「個人の買い物」には,「個人消費」と「住宅の購入」があります。
 住宅の購入は,統計のうえでは,日常的な買い物である「消費」と区別するのです。ただ,住宅購入の額は,個人消費よりずっと少ない(20分の1ほど)ので,個人の買い物≒個人消費と言っていいです。

 日本の1年間の個人消費(+住宅購入)の総額は,286兆円。
 1人あたりだと,286兆円÷1億2800万人≒220万円。

 これが「個人の年間の買い物額の平均」なら,多くの人の生活感覚ともそんなにズレていないのではないでしょうか。

 なお,個人,企業,政府の買い物のほかに「非営利団体」による買い物もあります。
 「非営利団体」とは,病院,学校,宗教法人などです。
 また,GDPには「純輸出」という項目もあります。年間の輸出額から輸入額を引いたものですが,これはまたあらためて説明します。

国の経済の内訳を知る
 前にも述べたように,「景気がいい・悪い」というのは,「みんなの買い物額=GDPが増える傾向にあるか,減る傾向にあるか」ということです。
 そして,GDPの最も大きな部分は,個人の買い物(「個人消費」というのと,ほぼイコール)なのです。

 だから,景気がよくなる・悪くなるということに対して,私たち個人の動きは,きわめて大きな影響をあたえるということです。

 とにかく,この「公式」は重要です。

 GDP = 個人の買い物+企業の買い物+政府の買い物

 こういう内訳を知るのが重要なのは,国の経済がどういう要素で成り立っているかを知ることだからです。
 それは,景気低迷などの問題があるときに,どこに原因があるのか,どういう対策をとるべきか,といったことを考える入り口になります。
 会社の経営でも,会社全体の数字だけでなく各部門別の売上などの数字をみて,どの部分に問題があるのかを把握しようとします。それと同じようなことです。

(以上)
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2013年03月22日 (金) | Edit |
 今回は「GDPでみる経済入門」の番外編です。

 3月16日の記事で,「若者のあいだでTPPに対する反対意見の割合が高い」というアンケート調査について紹介しました。そして,そこには「若者の,経済に対する知識の不足があるのでは」と述べました。

 もちろん,経済について知らないのは,若者だけではありません。大人世代だって,似たようなものです。
 2月27日の記事で述べましたが,「経済の素人」を自認する大人たちが集まる勉強会で,「日本のGDPの額は?」という選択肢問題を出すと,2~3割の人はまちがえたりします。
 でも,経済のことは,学校教育ではほとんど教えていません。それだけに,大人のほうが社会経験や独自の勉強で,いくらか経済のことを知っているのではないか。そんなことを3月16日の記事では述べました。

                       *

 2,3カ月前,カフェでコーヒーを飲んでいると,となりの,たぶん20代のサラリーマンが「1995年か96年」の(自分の身内の)できごとを「バブルのころ」といっているのを耳にしました。

 でも,日本の「バブル経済(バブル景気)」は,1986年にはじまって,1991年に終わったものです(1990年に終わったという説もあります)。
 おおざっぱに「1980年代後半から1990年ころ」といっていいです。

 また,こんなこともありました。ついこのあいだツタヤで手にした,スタジオジブリ作品『コクリコ坂から』(2011年公開)のDVDのパッケージに,こうあったのです。作品の時代背景を説明した文章です。

《太平洋戦争が終わって18年,日本は焼け跡から奇跡の復活を遂げた。
そして,高度成長が始まろうとしていた時代に,
復活の象徴として,日本は東京オリンピックの開催を目前に控えていた。》


 でも,「高度成長」の時代というのは,「1950年代後半から1970年代前半」のことです。開始時期・終わりの時期ともに,専門家によって若干説が異なりますが,だいたいそんなところ。
 「太平洋戦争が終わって18年」の昭和38年(1963年)というのは,「高度成長が始まろうとしていた時代」ではなく,高度成長が始まって数年~10年経ったころです。「高度成長の真っ只中」というほうがいいでしょう。

 カフェでの会話で「バブル経済」の時期をまちがえるのは,わかります。
 しかし,メジャーな映画の宣伝文書で「高度成長」の時期について,ここまで大胆にまちがっているのは,ちょっとおどろきました(ジブリ作品は,好きなのですが)。

 パッケージの文章にかかわった人たち(大人たち)は,このまちがいを誰もチェックできなかったのです。

 やっぱり私たちは,経済のことを,少しは勉強しておかないといけないのです。

(以上)

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2013年03月21日 (木) | Edit |
 今日3月21日は,作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハの誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)


バッハ
 
ドラマのない天才

 「近代音楽の父」といわれる大作曲家ヨハン・セバスチャン・バッハ(1685~1750 ドイツ)は,故郷の中部ドイツをほとんど出ることなく生涯を過ごしました。
 彼は,代々続く音楽家の家系に生まれました。
 彼の評価は,死後に大きく高まりましたが,生前から一定の名声は得ていました。
 倹約好きで,暮らしぶりは堅実。たくさんの子宝にめぐまれ家庭は円満。健康で勤勉。
 平穏な暮らしの中で,彼はひたすら仕事に打ち込んで,名曲をつくりました。
 どうですか,「偉人伝」としてはあまりおもしろくないでしょう? 
 だから,いろいろと波乱のあったモーツァルトやベートーベンを題材とした小説やドラマはたくさんあるのに,同じくらい偉大な音楽家といわれるバッハには,それがないのです。
 「ドラマのない天才」というのも,あるのです。

礒山雅著『J.S.バッハ』(講談社現代新書,1990)による。

【ヨハン・セバスチャン・バッハ】
 バロック音楽を集大成した近代音楽の父。その死後,一部の専門家だけが知る埋もれた存在となるが,19世紀前半に再評価されて以降,広く知られるようになった。現在は史上最高の音楽家の1人とされる。
1685年3月21日生まれ 1750年7月28日没

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2013年03月20日 (水) | Edit |
 今日アップした「四百文字の偉人伝・テイラー」の補足です。
 経営学の開拓者フレデリック・テイラー(1856~1915)は,主著『科学的管理法』(1911)で,こんなことを述べています。

《大企業の社長から家庭の使用人にいたるまで,よりよい,より有能な人材を探す動きはかつてなく活発になっている。……ただし,誰もが即戦力ばかりを探している。つまり,どこかで鍛えられてきた人材だ。(しかし,)すでに他社の手によって鍛えられた人材を探すよりも,計画的な協力により,期待に応えてくれる水準にまで人材を鍛えることにこそ,自分たちの義務と機会があるのではないか。》
(有賀裕子訳『新訳・科学的管理法』ダイヤモンド社,5ページ)

 これは,今の人材市場を思わせる言葉でもあります。「即戦力」「経験者」にたいする需要が強く,未経験者や若い人のチャンスが,昔にくらべると限られている状況。

 テイラーから100年ほど経って,同じようなことを言っている人がいました。
 
《即戦力なんて存在しない。だから育てるんだ。》

 これはスティーブ・ジョブズ(1955~2011)の言葉です。
 (桑原明弥『スティーブ・ジョブズ名語録』PHP文庫より)

 アップル社のほかに,ジョブズがつくりあげたもうひとつの企業,アニメーション制作のピクサー社について述べたときの言葉です。
 映画製作のたびにフリーランスのスタッフを雇うのが一般的なハリウッドで,ピクサーは監督も含め,社員のスタッフだけで作品をつくっているのだそうです。

 ジョブズはこう述べています。

《我々は,十年をかけ,クリエイティブな人材とテクニカルな人材を育ててきた。外部から気軽に調達できるもんじゃないんだ。即戦力になるような人材なんて存在しない。だから育てるんだ。》
 
(以上)
 
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2013年03月20日 (水) | Edit |
 今日3月20日は,経営学の開拓者フレデリック・テイラーの誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)

テイラー

ストップウォッチで経営を測る

 技術者のフレデリック・テイラー(1856~1915 アメリカ)は,1800年代の終わりに「工場などの仕事の現場で生産性を上げ,経営を改善する方法」の研究をはじめました。
 彼のやり方はこうです。「労働者が,ひとつひとつの作業に何分何秒かかるか」をストップウォッチで測ります。何でもタイムや仕事量を測っては,いろいろ試して「ムダのないやり方」を追及するのです。
 「そんな単純なことで,経営の問題を改善できるのか?」と思うかもしれません。
 しかし,彼のやり方でいくつもの企業が生産性を向上させたのでした。
 机の上で理論を練るよりも,彼はまず「現場で起きていること」を明らかにしようとしたのです。
 事実を知るのは,科学や学問の基本です。それだけでは限界もあるでしょう。
 でも,現場の労働をテイラーのように研究した人は,それまでいませんでした。
 彼は,ストップウォッチを片手に「経営学」という新しい学問を切りひらいたのです。

クレイナー著,岸本・黒岩訳『マネジメントの世紀1901~2000』(東洋経済新報社,2000),テイラー著・有賀裕子訳『新訳 科学的管理法』(ダイヤモンド社,2009)による。

【フレデリック・テイラー】
 20世紀の新しい学問である,経営学の開拓者。経営コンサルタントの元祖ともいえる。主著は『科学的管理法』(1911年刊)。もともとは技術者であり,数多くの発明をして富を得た。
1856年3月20日生まれ 1915年3月21日没

                      *
 
 私は,テイラーの発想は,今も有効性があると考えます。
 でも,今の経営・マネジメントの世界では「化石」扱いだろうな,とは思っていました。
 しかし,「今どき」の有名な経営書で,テイラーのことを熱心に述べている本もあります。

 エリック・リース著,井口耕一訳 リーン・スタートアップ ―ムダのない起業プロセスでイノベーションを生みだす 日経BP社,2012年,1800円+税 

 この本は,「起業のマネジメント」について論じた本です。
 新しい事業の立ち上げを,ムダなくスピード感をもって行うには,何が大切かということを論じています。「リーン」とは,英語で「贅肉のない」という意味。

 製造業の世界で「リーン生産方式」というものがあります。アメリカの学者が,日本の自動車産業,とくに「トヨタ生産方式」を研究して体系化した考え方です(「「トヨタ生産方式」は,当ブログの2月28日の記事でとりあげた,大野耐一が中心となってつくりあげた)。

 この本では,リーン生産方式の発想を,製造業にかぎらず,さまざまな事業の立ち上げに適用していこうとしています。

 では,ムダなく俊敏に事業を立ち上げていくには,何が必要なのか。
 本書で「解説」を書いた伊藤穰一さんは,こうまとめています。

  《地図を捨てコンパスを頼りに進め》

 ここを,訳者の井口耕一さんは, 《思い込みを捨て,実験による検証という科学的な進め方をする》ことだと述べています。

 たとえば,本書のキーワードのひとつとして,「実用最小限の製品(MVP,ミニマム・バイアブル・プロダクト)」というコンセプトがあります。

 よく大企業でみかけるように,内輪で「ああでもない・こうでもない」とばかりやっていてはダメ。まずはお客さんに体験してもらえる最小限のものをつくって,試してもらう。そして,結果を検証し,それによって手直しを加えていく……そんな「検証による学び」こそが重要なのだ。
 それが「実用最小限の製品」というコンセプト。

 「検証による学び」を重ねることで,何がわかってくるのか。

 それは,「我々は何をつくるべきか?」ということ。 

 現代の企業は,「どうつくるか」ばかりに熱心で,「何をつくるか」についてはおろそかにしている。その結果,巨大な生産力をつかって,的外れな製品を大量生産している。これほどムダなことはない,と著者のリースは述べています(日本の現在の家電業界は,まさにこの問題をかかえている)。

 「実用最小限の製品」というコトバは,私も気に入りました。

 私は,文章を書きたいと思っている人間ですが,そんな自分にとって「実用最小限の製品」ってなんだろう?
 たぶんそれは,「まとまった著作にするまえの表現」だと思います。
 おもしろいと思ったネタを,周囲の人に話してみる,なんていうのはまさにそう。
 このブログでの記事も,文章として「実用最小限」という面があります。

 その人の仕事ごとに,「実用最小限の製品」というのはあるはずです。
 あなたの「実用最小限の製品」は,どんなものですか?

 なお,「実用最小限の製品」のコンセプトに近いことを,この本よりもさらに簡潔に述べた本として,
 ピーター・シムズ著,滑川海彦・高橋信夫訳 小さく賭けろ!―世界を変えた人と組織の成功の秘密 日経BP社,2012年,1600円+税 
 という良書もありますが,また別の機会に取りあげます。

                       *
 
 そして,この本では,「検証による学びの精神」のパイオニアとして,テイラーを高く評価しているのです。
 著者のリースは,つぎのように述べています。
 少々長く引用しますが,要するに「テイラーは後世に多大な影響を与えた。彼の主張を,形式だけマネてもろくな成果はあがらなかったが,テイラーの基本精神は,今も有効である」ということです。

《…2011年はフレデリック・ウィンズロウ・テイラーの『科学的管理法』が世に出て100周年にあたる。いま我々が当然のように思っている繁栄を可能にしたのが科学的管理で,…いま,マネジメントのひと言で表されるものはテイラーに端を発しているものが多い。》

《ただ,彼を契機にはじまった改革は,ある意味,成功しすぎた面が多い。テイラーは科学的に考えるべきだと説いたが,彼が推奨したさまざまな手法を守ればいいと勘違いした人が大勢いる。時間動作研究や差別出来高給制度,そして何といっても腹が立つ,労働者を自動機械のように扱う考え方などを,だ。このような考え方は多くがのちにとても有害だと証明され,…》

《リーン生産方式はこの反省に立ち,工場労働者が内に秘めた知恵や独創力に着目するとともに,効率というテイラーの考えを個人レベルのタスクではなく有機的な企業全体に焦点をあててとらえ直すものだ。》


 そして,こう述べています。

《同時に(リーン生産方式は),作業は科学的な研究が可能で,実験によって改善していけるというテイラーの中核となる考え方は踏襲している。》
(以上354~355ページ)

 また,リースは,テイラーがどれほど「実験的に仕事を解明する」ことに力を注いだかについても,強調しています。

《テイラーは,1880年代の末ころから鉄鋼の切断方法を最適化する実験プログラムを推進した。25年以上にわたるこの研究で行われた実験の回数は2万回を超えている。しかも,学会の支援もなければ政府の研究開発予算も受けていない。費用はすべて,実験の成果として得られた生産性の向上から利益を得た企業が負担した。》

《これ以外にも,…科学的管理を学んだ人たちが,れんがの積み方,…シャベルの使い方にいたるまで,それぞれ何年もの時間をかけて研究したのだ。彼らは,真実を学ぼうと考え,職人の知恵や専門家の教訓めいた話では納得しなかった。》

 
 そして,こう結んでいます。

《いま,部下の仕事の進め方にここまでの興味をいだく知識労働マネージャーはいるだろうか。イノベーションをめざす仕事の多くは,科学的根拠のないキャッチフレーズで進められているのではないだろうか。》
(以上364ページ)

 そうだよなあ…
 今の時代にも,私たちはテイラーを必要としているのでしょう。それもあちこちで,大量に。

(以上) 

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2013年03月18日 (月) | Edit |
 歌人の穂村弘さん(1962~)のエッセイに,こんなくだりがありました。
 スタバでお茶をしながら考えたこと。

 《将来,何になろう。
  どこに住もう。
  誰と暮らそう。
  何をしよう。
  そこで,ふっと思い出す。
  あ,もう,今が将来なんじゃん。
  俺,四十一歳だし。
  何になろうってのは,総務課長になってるんだし…》

 (「クリスマス・ラテ」『本当はちがうんだ日記』集英社文庫)

 このエッセイには,こんなくだりもあります。
 お母さんとの会話。

 《「おまえ,将来何になるんだい?」
  いやだなあ,お母さん,もう今が将来なんですよ》


 何年か前にこれを読んだとき,げらげら笑ってしまいました。
 穂村さん独特の,シュールな味わいの冗談。
 でもそれ以上に「これ,オレのことじゃん」と。

 当時の私は,十数年務めた会社を辞め(最後の役職は,私も総務の課長だった),起業を試みたのですが撤退し,無職でした。四十半ばにして,なんの仕事もなく,ブラブラしていました。お金もありません。事業に貯金をつぎ込んだので,借金は負ってませんが,すっかり丸裸の状態。

 そんな私に母が「あんた,これから何するの?」と会うたびに言っていました。
 私も,「ほんとに,これから何をしようか」と考えていました。

 四十半ばというのは,まさに若いころに考えていた「将来」です(穂村さんの言うとおりです)。
 なのに,母親に「将来何になるんだい?」などといわれている。
 笑っちゃうよね……
 
 でも,これはそんなにシュールなことではない,と今は思います。

 40代くらいの働きざかりで,それまでのキャリアをいったんリセットし,新しい仕事をはじめる。
 もう一度,新しいキャリアを築くための勉強や修行をやりなおす。
 そういうことが,これからはかなり一般的になるのではないでしょうか。

 つまり,四十過ぎて「将来,何になろう?」と考えるのも,結構あたりまえになる。
 そんな時代がくるのではないか。
 いや,すでにそうなっている?(とくにアメリカあたりでは)

 以上のようなイメージは,無職だった私が,その後「キャリア・カウンセリング」という分野の資格勉強をはじめたときに読んだ,テキストや本に述べられていました。

 キャリア・カウンセリングというのは,要するに人の職業選択などの相談に乗る仕事のこと。
 「将来,その仕事をする人になろう」と,勉強をはじめたわけです。

 で,今はその仕事(職業相談)で,給料をもらってどうにか生きています。
 でもまだまだ,私の新しい仕事は,発展途上の状態です。もちろん,ひとりの相談者としては,一定の経験を積んで,依頼者のお役に立てるようになったとは思います。でも,この分野で確立したポジションなどがあるわけではない。そういう意味で,「まだまだ」です。

 だから,今も「将来,どうしよう」としょっちゅう考えます。

 この分野の仕事を続けていくつもりですが,しかし「将来」は今とは別の場所で,またちがったかたちで働いているのではないかと思います。
 それを具体的にどうするか。どういう方向へふみだすか。
 そのために何をしたらよいのか。

 私にはまだまだ考える「将来」があるわけです。

 でも,これは一度失業して,一から出直しとなった私だけのことではないでしょう。
 
 社会でのポジションが固まりきっていて,「将来」をあれこれ考える余地もない,などという人が,じっさいのところ世の中にどれだけいるか?
 いい年をして「将来何になる?」と考えてみることは,悪い冗談ではなく,誰にとっても意味があるのではないでしょうか。

(以上)

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2013年03月17日 (日) | Edit |
引き戸3

引き戸1

 団地リノベーションのメリットは,「比較的ローコストで自分好みの家を手にいれられれる」ことだと,これまで述べてきました。
 では,「自分好みの家」ってどういうことか。

 それはけっきょく,「家で目にするものにイヤなものがない」ということです。

 そう話すと,「そうだよねえ,私は家のなかにイヤなものがいっぱいある」という人が少なくありません。
 私もそうでした。

 たとえば,子ども時代をすごした団地では,母がダイニングのイスにスーパーで買ってきた,安っぽい花柄の座布団を敷いていました。大学生の頃くらいから,それがイヤでした。それと同程度に「イヤなもの」が,実家には何十とありました。

 1人暮らしをはじめてからのアパートでは,まず小さなユニットバスが,見た目も使い勝手もイヤでした。予算や選ぶ手間を妥協して買った家具が多く,それをみるとちょっとテンションが下がりました。

 もう少しこぎれいな賃貸マンションに住むようになってからは,家具も好きなものを選んで買えるようになりました。でも,壁紙(ビニール)やフローリングのいかにもツルツルしたかんじが気になりました。

 ここで「イヤ」というのは,強烈に「イヤ」ではなく,なんとなく,というかんじです。

 団地リノベにかぎらず,中古住宅をリノベーションする最大のメリットは,この「イヤなもの」を無しにできるということです。

 その「中古リノベーション」の世界のなかで,比較的ローコストなのが,団地リノベです。

 「イヤなものを無しにする」といっても,それまでの家具をすべて捨ててしまったり,家じゅうをぜんぶ新しくするということではありません。
 好きなモノは,ひきつづき使っていく。家のなかも,「ここは」というところだけ直していけばいい。

 それをうまく実現するため,私の場合は,信頼てきる建築家(寺林省二さん)に,リノベの設計と施工監理をお願いしました。
 でも私は,寺林さんとはこまかい打ち合わせはしていません。「この人なら」と,センスや技量をみこんで,間取りなどの基本方針以外は,丸投げ的におまかせしました。

 そして,できあがったのは,すみずみまで「目にするものにイヤなものがない」空間です。
 精神的に,気持ちのいい空間。
 でも,これまで使っていた家具のほとんどや,古い団地らしい内装も,あちこちに残っています。

 もちろん「イヤなものがない」というのは,あくまで「私にとって」ということです。人からみれば,私の家には「イヤなもの」がいっぱいあるかもしれません。本棚だらけのウチをみて,「こんな本屋みたいな家には住めない」と,親しい人にいわれたこともあります。

 上の写真にある,引き戸(リビングと寝室を仕切っている)は,そんな「イヤなものがない我が家」の象徴だと,自分では思っています。

 この引き戸の,全体的な色やかたちが,そしてとくに取っ手の部分のデザインが,私は好きです。これまで住んだ家で,戸やふすまにたいしてそんな気持ちを持ったことはありませんでした(引き戸の製作は家具工房・真吉による)。
 このようなものが,とくに打ち合わせたわけではないけど,おかませした結果,できあがっていました。

                         *

 こんな話をしていると,「あなたみたいな人の奥さんはたいへんですね」といわれることがあります。
 ほんとにそうです。
 家の趣味にかんしては(ほかもいろいろそうなのですが),私はずいぶんとわがままを通させてもらいました。

 住まいのつくりにかんして,妻にこれといった嗜好がなかったのは,幸いでした。
 もしも妻が,たとえば「カントリー風でないと」とかいった主張をつよくもっていたら,非常にきびしいことでした……

(以上) 
 
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2013年03月16日 (土) | Edit |
 日本経済新聞の本日3月16日朝刊のトップは,「TPP交渉参加 表明」。
 
 TPPとは「環太平洋経済連携協定」の英語の略。
 日経新聞の「きょうのことば」の説明を借りれば,《太平洋を取り囲む国々で,モノやサービスをやりとりする際の関税や規制などの障壁をできるだけ無くし,経済の規模をお互いに膨らませようとする枠組み》。
 この「枠組み」を,アメリカ主導でつくろうとしているわけです。そこに日本も参加する。

 では,問題です。
 去年12月のあるアンケート調査で,いろんな世代の人に「日本のTPP参加」についての意見をききました。選択肢は「反対」「何ともいえない」「わからない」「賛成」。
 このアンケート結果は,世代別に傾向が分かれました。
 では,「TPP参加に反対」の意見が多かったのは,つぎのどちらだったと思いますか?

 ア.20代以下の若年者世代  イ.30代以上の大人世代

                        *
 
 今朝の日経1面の特集記事「日本を変えるTPP」には,つぎのようにありました。

《TPPへの世代別の評価は微妙に違う。一橋大学の青木玲子教授らが昨年12月の衆院選の直前に実施したアンケートによると,30歳以上はほぼTPP賛成論が反対論を上回った。逆に12~19歳,20~24歳の若者層は反対が賛成を大きく上回り,抵抗感が強い。》

 アンケート調査の「原典」がみたいと思ってネットを検索したところ,つぎの記事をみつけました(青木玲子・上杉道徳・西條辰羲「若者と有権者の政党政策選択・ドメイン投票方式・将来省  第46回総選挙前々日の有権者と若者のアンケートから」2013年1月16日,こちらを検索)

 このアンケートはつぎの5つのグループから成る3000人余りから回答を得たものです。アンケートとしてはまずまず使用にたえると思います。

1.未成年の子供がいる有権者 回答1030件 平均年齢40.2歳
2.子供が成人している有権者  515件 61.4歳
3.子供がいない有権者  515件 37.6歳
4.16~17歳  515件 16.6歳  
5.18~19歳  515件 18.6歳

 おおむね,1.2.は中高年以上の大人世代,4.5.が若者(若年)世代,3.はその中間といえるでしょう。

 そして,TPP参加について,「反対」「何とも言えない」「わからない」のどれか?という質問に対してはこうでした(数字は%。「賛成」はレポートには結果の表示がないが,筆者そういちが計算)。

全体の合計  反対23.0 何とも41.9 わからない10.4 賛成24.7 合計100.0(以下同じ)

(以下,カッコ内は平均年齢)
1.グループ(40.2歳) 反対19.2 何とも45.4 わからない9.8  賛成25.6    
2.グループ(61.4歳) 反対13.2 何とも40.0 わからない5.0  賛成41.8
3.グループ(37.6歳) 反対24.7 何とも42.5 わからない8.7  賛成24.1
4.グループ(16.6歳) 反対29.3 何とも40.2 わからない16.1  賛成14.4 
5.グループ(18.6歳) 反対32.4 何とも37.9 わからない13.0  賛成16.7

 どうでしょうか。若者世代での「TPPに反対」の割合は,中高年以上の大人世代よりも,高くなっています。わずかな違いではなく,かなり明確な差があります。
 日経新聞の記述にたいし,年齢層の切り方がちがうのが気になるのですが,とにかく「TPPにたいする世代間のギャップ」はみられるわけです(私がみつけた以外に,もっと詳細なレポートがあるのでしょうか?)。

 このアンケートには,消費税や原発問題など,ほかのことがらにかんする質問もあり,そこにも一定の世代間のちがいがみられます。そのなかでもっとも明確な世代ギャップがみられるのが,このTPPにかんするところでした。

                       *

 この数字をどう解釈するか。
 日経新聞の同記事では《長引くデフレで好景気の記憶がない若年層は,TPPに雇用機会が奪われると不安視している。》と述べています。

 これは,アンケート結果からみた「仮説」的な解釈です。この解釈が正しいかどうかは,また別の調べが必要です。でも,私も十分ありうる話だとは思います。

 もし,「TPPで自分たちの雇用が奪われるかも」と考える若者がかなりいるのだとしたら,それはどうしてなのでしょう?
 
 彼らは,「TPP⇒ 国全体の経済活性化⇒ 雇用拡大」という図式は連想はしないわけです。
 この「図式」は,経済について一定の知識がある人のあいだでは,かなり明らかなことです。少なくとも「多数派」の意見ではある。私も,基本的には正しいと思います。

 もちろん,「全体」でよくなる,といっても部分的には不利益を受ける人たちはいます。その立場から反対するのは,わかります。

 でも,若者のほとんどは,そんな「利害」とは直接は関係ありません。それでも,「TPPに反対」の人が大人世代よりも多くいるのです。
 国全体の経済が少しでも活性化するなら,それは若い人の雇用拡大にもつながるはずなのに,そうは思っていない。

 「TPPで,大企業とか,一部の連中がもうかっても,自分たちには関係ない」ということでしょうか?

 でも,その一部の企業や人びとがもうかって,より多くの投資や買い物をするようになれば,それが社会のより広い範囲に波及していくこともある……そんなイメージはないのでしょうか?

 イメージがないとしたら,経済にたいする基本的な知識が欠けているのかもしれません。
 
 具体的な材料もないまま「若者のアタマの中」をいろいろ推測してもしかたないので,このへんでやめておきます。

 この数字についての解釈は,ほかにも考えられます。「リタイアした人が多い高齢者は自由貿易によってモノの値段が下がることを高く評価するが,若い世代はそうでもない」ということもあるかもしれません(これは青木教授らのレポートにもあります)。

                        *

 とにかく感じるのは,私たちには「経済の基礎」についての勉強が必要だ,ということです。

 学校教育では,これはほとんどわれていません。テレビや新聞は,毎日のニュースを追いかけるのに忙しく,系統だった基礎については教えてくれません。

 だから,若者だけでなく,大人だって,ふつうは経済のことなんてわかりません。
 それでも,大人のほうが,社会経験や独自の勉強によって,いくらか経済を知っています。

 大人と若者では,経済や社会にたいするイメージにかなりの格差があります。
 若者は,かなり勉強のできる人(たとえば有名大学の学生)でも,政治経済のことだと,多くの大人があたりまえに知っていることを知らないのです。たとえば「バブル経済はいつのことだったか」「田中角栄は自民党の政治家」ということを知らなかったりする。

 このあたりは,私は若い人と話す機会が多い(若い人向けの職業相談の仕事をしている)ので,実感があります。

 「TPPへの反対が若者のあいだで多い」ということについて,今日の日経新聞は「若者は好景気のころを知らないからだ」と解釈していました。しかし,そもそも「若者は大人以上に経済を知らない」ということも大きいのではないかと,私は感じています。

(以上)

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2013年03月15日 (金) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの4回目です。


勉強すると,「知らなくていいこと」が
わかってくる。


 「どうも,うまく生きていくことができない」――そう感じている人に,私は親近感をおぼえます。「仲間だな」という気がします。

 書店には,そういう人たちを対象にした本が,たくさん並んでいます。中でも多いのは,一種の「癒し」を与えてくれる本です。

 ある本には「まず,自分を好きになることが大切だ」と書いてあります。
 たしかにそのとおりです。こうした本には,すぐれた本もそうでもない本もありますが,問題へのアプローチは基本的には同じです。それは,「感じ方を変えていこう」というやり方です。まず大事なのは「感情=心」の問題だということです。

 人間の精神は,「感情(ココロ)」と「知性(アタマ)」のふたつの側面でできています。ものごとは,最後は「知性」よりも「感情」で決まっていきます。人の判断は,「筋が通っているか」よりも「好きか嫌いか」に,より大きく左右されます。
 
 でも,私はここで「知性を磨こう」と言っています。だって,少しは「アタマ」にも自信が持てないと,「自分を好きになる」ことなどできないでしょう。

 たとえば,政治・経済の問題をみんなが話し合っている場で,自分はついていけない,といったことがあります。
 わかった顔をしてあいづちを打ってはいるけれど,自分がわかっていないことに,みんな気づいているんじゃないだろうか……。
 別に政治経済じゃなくて,漢字の読み方のような,もっと身近なことでもかまいません。とにかく,「自分はわからない。駄目だなあ」と思うことがあります。

 人によっては,この「駄目だなあ」という感覚を,一日に何回も味わっています。それでは,「自分を好きになる」のは,むずかしいでしょう。

 勉強すると,知らないことがなくなって安心する,というのではありません。
 大事なのは,勉強することによって「知らなくてもいいこと」がわかってくる,ということです。

 たとえば,勉強している人なら,「読めないと恥ずかしい漢字」とそうでないものの区別がつきます。勉強していないと,「読めなければ全部恥ずかしい」と思ってしまいます。
 「知らなくてもいいこと」を理解している人は,落ち着いています。顔つきがいいのです。

(以上)

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2013年03月14日 (木) | Edit |
 今日3月14日は,物理学者アインシュタインの誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。
 「四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。

 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天kobo,ディスカヴァー社のホームページにて販売,400円)
                       

アインシュタイン

「ふつう」をもとに革命をおこす

 アルバート・アインシュタイン(1879~1955 ドイツ,スイス,アメリカなど)は,相対性理論などの研究で物理学に革命を起こしました。
 おもな論文を発表したとき,彼は26歳。その若さですごいことです。
 しかし,彼の経歴は案外ふつうです。一流大学ではなく,高等専門学校を並み以下の成績で卒業。研究とは関係ない特許局に勤務。そのかたわら町の図書館で専門書を読み,勉強を続ける。友人たちとカフェで勉強会を開いたりもしました。特にエリートではない,アマチュアの集まりです。
 若いときのアインシュタインは,「光るところもあるが,いまひとつ」という感じでした。
 その彼が,一般の本や身近な友人から得たものをもとに,役所勤めをしながら研究を続けました。そして,数年でとてつもない成果をあげたのです。
 このように平凡な環境にいて,特別なものに触れているわけではないのに,革命をおこす人もいるのです。
 「だったら,自分も何かできるかな」と思いますか?
 それとも「彼は特別だ」と思いますか?
 どちらも一理あります。しかし,何かできるとしたら,「だったら自分も」という人のほうでしょう。

参考:ホワイト,グリビン著・仙名紀訳『素顔のアインシュタイン』(新潮社,1994),フリュキガー著・金子務訳『青春のアインシュタイン』(東京図書,1978)

【アルバート・アインシュタイン】
 20世紀を代表する物理学者。相対性理論を創始したほか,量子論の先駆となるなど,多くの業績を残した。1921年「光電効果」の研究でノーベル物理学賞受賞。第二次大戦後は平和運動でも有名。
1879年3月14日生まれ 1955年4月18日没

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2013年03月12日 (火) | Edit |
 この数日は,2年前の大震災のことで,悼んだり,考えたりする人たちの姿があちこちでみられました(テレビや新聞でみたことですが)。
 多くの場合,すこし立ち止まって,日常の手をとめて,それは行われました。
 意義のある,必要なことだと思います。
 
 でも一方で,「なにがあっても,ふだんの仕事の手をとめない」という人たちもいます。
 
 昔の人ですが,明治から昭和の前半にかけて活躍した評論家・徳富蘇峰(とくとみそほう,1863~1957)は,その典型でした。
 蘇峰は,同時代の物書きでは,おそらく最もたくさんの本を書いた人でしょう。代表作『近世日本国民史』は,全100巻にもなります。
 大正7年(1918)にこれを新聞連載として書きはじめたとき,彼は55歳。
 完成したのは,昭和27年(1952)の89歳のとき。

 彼はこの本の雄大な構想を完成させるため,とにかく毎日書き続けました。ほかの仕事の原稿も書きながらです。

 旅行中はもちろん,息子が死んだ日も書きました。

 関東大震災(大正12,1923)のときは,都内の自宅がめちゃくちゃになったので,庭に机を出して書きました。

                      *

 そういえば,2年前の大震災の直後,アニメの宮崎駿監督が言っていました。

 宮崎さんは,周囲が「一時スタジオを休みにしたほうがいいのでは」というのにたいし,「こういうときこそ仕事をすべきなんじゃないか!こういうときも描きつづけたという伝説をつくろうじゃないか!」と強く主張していたのです。NHKの番組『プロフェッショナル』でみた光景です。
 当時,宮崎監督のスタジオは,新作映画の製作が追い込みをむかえていました。

 みていて,私のなかでは宮崎駿と徳富蘇峰がダブりました。

 「大災害や家族に何かあったときくらいは,仕事を休んでしかるべき」というのが,やはり常識的でしょう。私も,だいたいそういう人間です。

 でも,世の中には,自分が動けるかぎりはけっして「仕事の手をとめない」人がいる。いろんな分野や現場にいるのです。
 そういう人も必要です。その人たちの活動は,大きな不幸をのりこえて社会が前進するための力になっていくのでしょう。

(以上)

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2013年03月11日 (月) | Edit |
 ブログをはじめて2か月ほど経つのですが,操作や設定でわからないことがたくさんあります。
 コメントの受付にかんする設定も,ミスや迷いがあり,初期の記事はコメントを受けつけない状態でした。でも,設定しなおして,今はすべての記事でコメントを受けつけています。
 
 そのせいか,過去に「非公開」のかたちでコメントを投稿してくださった方もいらっしゃいました。
 でも,そのコメントをみるページを知らなくて,今日はじめてそれらのコメントに気がつきました。情けない話です。

 コメントをくださったみなさま,ありがとうございます。しかし,なんの音沙汰もなく,申し訳ありませんでした。

 ***

 以下,いただいたコメントを紹介します。

 まず,イームズ伝1イームズ伝2(2月17日,18日)にかんするもの。お名前はふせています。

《すごい力量で人物が描かれていることに感銘をうけました。イームズの成型合板は、軍事技術とかかわっている、といったことをどこかで聞いたことがありますが、本当でしょうか?》

 はい,イームズは戦争中に軍とかわかりを持って,成型合板をつかった担架,航空機のパーツ,グライダーなどを試作しています。彼が軍と関係するきっかけは,成型合板の添え木(骨折したときなどに使う。英語でレッグ・スプリントという)を開発して海軍に売り込んだことでした。
 このレッグ・スプリントは,イームズにとってはじめてのヒット作となりました。
 このあたりのことは,「イームズ伝3」の記事で述べます。イームズ伝は「2」でストップしていますが,近いうちに。


 つぎは,アメリカ合衆国の基本設計1(2月16日)の三権分立論にかんするコメント。

《久しぶりに読み返しても全く古さを感じさせませんね。PDCで三権分立を捉えるというのが,とてもおもしろかったです。》

 そう言っていただけると,うれしいです。「三権分立なんて古い」と思う人も少なくないと思います。多くの人は,学校の授業でちょっと習って,すぐに「卒業」してしまうテーマです。でも,ほんとうは奥が深いのです。簡単に卒業するのはもったいない。
 そこからいろんなものがみえてくるので,何度も取りあげたいと思っています。

 
 つぎは,インドカレーの歴史(2月1日)についてのコメントです。  

《この文章は,量といい内容といい,社会科で教材にしたい感じがしました。ミニ授業書のような,新総合読本のような感じでいいです。》

 「インドカレー」については,私自身も「量といい内容といい,よくまとまっている」と思います(^^;)  これまでアップしたもののなかで,最も多くの拍手をいただいた記事です。「5分間の世界史 」シリーズは,このレベルでうまくまとめられるようがんばっていきたいです。しかし,なかなかむずかしい……。
 なお,「ミニ授業書」「新総合読本」というのは,私が属する教育研究団体「仮説実験授業研究会」での用語で,コンパクトな学習読み物の一種です。

 ***

 これまで,不備や見落としで,読者のみなさんとの対話があまりできていませんでしたが,これからもぜひ,コメントをお願いします。

 そして,記事を「いい」と思ったときの「拍手」も,ぜひ積極的に。

 この「拍手」というのは,すばらしい機能ですね。

 ポジティブな評価というのは,ふつうはなかなかみえてこないものです。
 肯定・否定を問わず何かにたいしてコメントするのは,勇気やエネルギーがいります。「何か言いたい」気持ちは,悪口や批判のときのほうが強いのがふつうです。だから,ネガティブなコメントのほうが,表に出やすい。匿名性のつよいネット上では,とくにその傾向があります。
 
 でもこの「拍手」ボタンのおかげで,そうでもなくなってきた。クリックひとつで「いいね!」という気持ちを伝えられる。そこには,「みえにくいもの(ポジティブな評価)をみえるようにする」という機能があるわけですね。
 出典があいまいですが,ジャーナリストの津田大介さんも,そんなことを述べていたと思います。「ほんとにそうだ」と実感しています。

(以上)
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2013年03月10日 (日) | Edit |
 あの大震災から,まもなくまる2年。
 まず,あらためて亡くなられた方たちのご冥福を祈ります。
 
 いろんな場で,いろんなことが語られてきました。
 
 大きな惨事をまえにして,今もどう考えてよいかわからないことだらけ。

 でも,震災にかんして出された意見のなかで,はっきりと「それはちがうだろう」と,私なりに思うこともあります。

 それは,「この大震災は,文明の進歩や,物質的な繁栄ばかり追求してきたことを見なおす機会だ」といった意見です。

 これは,とくに福島の原発問題をさしていうことが多いです。
 あるいは,「自然の猛威のまえには,文明は無力だった。日本の経済・産業の力をもってしても,復興は十分にすすんでいない」という文脈で,いわれることもあります。
 最近のテレビでも,その手のことをいう出演者をみかけました。そんなとき,たいていはその人なりのやさしさやまじめさから出た言葉だと感じます。

 でも,原発のような,科学技術という文明の成果がひきおこした問題は,科学技術で対処するしかないはずです。現に福島の原発の現場では,それが行われています。技術者たちが,問題への対応にあたっているのです。
 
 「原発をどうするか」といったエネルギー問題は,まさに科学技術の問題です。
 原発の安全性を高めて維持していくにしても,代わりのエネルギーにシフトするにしても,より少ないエネルギーで成り立つ社会にするにしても,今よりも進歩した科学技術が必要です。

 もとの暮らしをとり戻せずにず苦しむ人がおおぜいいる,復興がすすまないという問題も,「文明や産業の力がもっと必要なのだ」とは考えられないでしょうか。
 もしも(ありえない空想ですが),私たちに今の何倍もの生産力があれば,がれきの山はとっくに取りのぞかれ,壊滅した町はすっかり新しくなっているでしょう。
 
 政治・行政の非効率が問題だとしても,それはまさに文明の問題です。その運営が改善されることは,文明の進歩のだいじな要素ではないでしょうか。

 「物質文明を反省しよう」というのは,暮らしを再建するための資材や,効果的な政治・行政といった,「文明の成果」の不足になやむ人たちを無視した話だと,私には思えるのです。
 
(以上)

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2013年03月10日 (日) | Edit |
キッチンからみたリビング
(団地リノベした我が家のリビング)

 団地リノベーション(全面リフォーム)のメリットに,「比較的安いコストで,自分好みの家を手に入れられる」ということがあるでしょう。

 古い団地は,近所にある新しいマンションよりもずっと安いです。さらにリノベーションの費用をかけても,トータルのコストは,おさえられるはず。

 私の場合は,こうでした。
 40代はじめだった,2005年の春から夏にかけて,我が家(古い団地)を買って改装しました。
 
 〇我が家……東京・多摩市の公団,1978年築,駅から5分ほど,面積66㎡
 
 〇物件の価格    1800万円(不動産の取得費用含む)
 〇リフォーム工事費 400万円+税(材料費含む)

 上記のほかに,リフォームの設計・施工監理をお願いした設計事務所(テラバヤシ・セッケイ・ジムショ)への報酬があります。これが「数十万円」というところ。
 あと,若干の新しい家具や電化製品を買ったり,引っ越し費用が数十万円。

 けっきょく,我が家を取得し,暮らしをはじめるまでのトータルのコストは「2300~2400万円」です。

                        *

 以上は,団地リノベとしては,コスト高なほうだと思います。
 物件価格が「1800万円」と,「都心から1時間ほどの郊外にある,築30年の団地」としては高いのです。

 それはウチが,古い団地では少ない「エレベーター付き」で,「66㎡」と団地としては比較的広く,さらに駅から近いため,わりと人気があるからです。

 ただし,さらに人気の団地には,2000万円台のものもあります。
 23区内の便利な場所や,郊外でも住宅地としてのイメージがよい街の団地はそうです。それだと,築40年くらい,50㎡ほど,エレベーターなしであっても,相当な値段です。

 それでも,ウチの近所の新築マンション(70~80㎡台)は,3000万円台です。
 90年代以降に建てられた同じくらいの広さの中古マンションだと,2000万円台後半から3000万円前後。これをいくらかリフォームするとしたら(100~200万円かけるとして),トータルで3000万円台になります。

 さらに,団地はさがせばもっと安い物件があります。
 ウチの近くでも,もっと駅から離れた,50~60㎡の物件(築30数年)だと,1000万円前後のものも多くあります。
 さらに都心から遠い場所で,似たような築年数や広さの物件だと,「数百万円」になるでしょう。
 しかも,その値段のものが「掘り出し物」ではなく,まとまった数存在しているのです。なにしろ団地はたくさんつくられましたので。
 
 もし,1000万円の団地を買って300~400万円でリノベーションするとしたら,1300~1400万円。
 
 自分のためにカスタマイズされた住居がその価格で手に入るとしたら,やはりローコストだといえるでしょう。
 もちろんデメリットはあります。50㎡ではやはり狭いし,耐震性はどうなんだ,とか。そのことはまたあらためて述べたいと思います。

                        *

 数年前,ウチに住みはじめたころの自分なら,「団地リノベはローコスト」ということを,もっと強調したと思います。
 そのころの私は,「大手企業」のサラリーマンでした。同僚たちは,物件価格4000~5000万円の一戸建てや新築マンションを買っていました。30年くらいのローンを組んで,です。
 それとの比較で,団地リノベの自宅を「安い」と感じていたのです。

 でも3~4年前のあるとき,その感覚を修正する必要をつよく感じました。
 ウチがリフォーム関係のムック(雑誌型書籍)にとりあげられることになり,取材を受けたときのこと。そこで私は「団地はローコスト」ということをいったのでした。
 すると,40代なかばの私よりひとまわり以上若い(であろう)フリーランスの女性編集者の方は,こういいました。

 「でも,今の若い人だと,1000何百万円なんてムリ,という人も多いんじゃないですか。フリーランスの仲間うちでも,団地もなかなか買えないね,なんて話してます」

 うーん,たしかにそうですよね。
 当時の私は,会社勤めを辞めて自営を試み,それも撤退して,経済的に不安定な,というか真っ暗な状態にありました(今は,ある組織で契約職員として仕事をしています)。
 
 今の自分だったら,「1000何百万円」の買い物なんてとてもできない……

 編集者の話では,団地リノベに関心のある若い人たちのあいだで「勝ち組」という言葉があるそうです。団地を実際に買って,リノベーションした人のことを,そう呼ぶ。

 団地リノベを「ローコスト」なんていうのは,バブリーなオジさんの感覚なのか。

 自分は,同年代のほんとうにバブリーな人よりは,そこから自由なほうだと思っていたけど,甘かったなあ。
 たしかに,専門家にたのんで何百万円もかけて,自分の家をしつらえるなんて,ぜいたくなことだものね……

 そう考え直したしだいです。

 そこで,団地リノベの「ローコスト度」についても,「比較的」ということを強調するようになりました。あくまで「新築物件や,築年数の浅い中古をリフォームした場合とくらべて」ということです。
 また,「オーダーメイドの家を手に入れる手段」としてはローコストなほうだ,という位置づけも明確にしているつもりです。

 もっとローコストを追求するなら,団地をDIY(自分でつくること)でリノベするという手もあります。田舎で二束三文の古い戸建てを買って,自分で修繕して住んでいる人もいます。
 これはこれで,興味深い世界です。でも,自分にはとてもできない。私にかぎらず,誰にもできることではない。

 「団地リノベ」は,「ローコストで住まいを追求する」世界のなかでは,まずまず現実的な路線ではないかと思っています。だから,ローコスト度も,そこそこなわけです。 

(以上)

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2013年03月09日 (土) | Edit |
騎馬遊牧民という「強者」

騎馬遊牧民が登場したのはいつか?
 今回は,騎馬遊牧民の歴史をみわたしたい。
  騎馬遊牧民とは,「草原地帯に住んで馬を乗りこなし,遊牧によって暮らす人びと」の総称である。「遊牧」とは,ヒツジなどの家畜を移動しながら育てること。
 特定の民族をさすのではなく,こうした暮らしをする人びとをまとめて「騎馬遊牧民」と呼ぶ。

 彼らの根拠地は,ユーラシア(アジアからヨーロッパにまたがる地域)に広がる草原地帯である。そこをおもな舞台に,世界史上「トルコ系」「モンゴル系」などのさまざまな騎馬遊牧民が活動した。
 「遊牧民」に対するのは,「農耕民」である。日本人も,中国人の主流派である「漢人」も,ほとんどのヨーロッパ人も,農耕民である。

 騎馬遊牧民は,世界史のなかで大きな役割を果たした。たとえば中国の王朝のなかには,外からやってきた騎馬遊牧民が築いたものがいくつもある。1200年代に繁栄した,モンゴル人の元王朝はその代表だ(このことはあとでまた述べる)。

 では,騎馬遊牧民というものが,世界史上はじめて登場したのはいつだったのか?選択肢で考えてみよう。

 ア.今から1万年ほど前
 イ.5000~6000年ほど前
 ウ.3000年ほど前
 エ.その他

 ア.は,世界の一部で,農耕がはじまった時代。
 イ.は,メソポタミア文明,エジプト文明などの最も古い文明がおこった時代。
 ウ.は,世界の一部で,鉄器の普及がはじまった時代。この数百年後,2500年前ころには古代ギリシアが繁栄をむかえた。

 ***

 騎馬遊牧民がはじめて登場したのは,紀元前1000年ころの,今のウクライナ周辺でのことだった。
 その後,スキタイ人(2700年前ころ~2300年前ころに繁栄)などの,広い範囲に影響をあたえる有力な騎馬遊牧民もあらわれるようになった。答えはウ.だ。

 「家畜を育てる」ということなら,1万年くらい前から,つまり農耕の開始とほぼ同時期からあった。草原地帯を移動しながら家畜を育てる「遊牧」ということなら,8000年前には成立していた。ただし,まだ「騎馬によらない(徒歩による)遊牧」である。
 「騎馬による遊牧」は,そのずっと後にはじまったのである。
 
 それは,騎馬というものが,かなり高度な道具や技術を必要とするからだ。
 
 きちんと馬に乗るには,「あぶみ」「くつわ」などの馬具がいる。これらの道具なしで馬の背にまたがっても,不安定で,長時間乗ることはできない。
 馬具は,かなりの精密さや耐久性がもとめられる道具で,部品の要所には金属も必要である。初期の騎馬遊牧民の馬具には,青銅器が使われた。そして数百年のうちに鉄製におきかわっていった。
 
 つまり,青銅器や鉄器などの金属器が辺境の草原地帯にも普及するくらいに技術が発達していないと,騎馬遊牧民というものは成立しないのである。

騎馬の威力
 騎馬以前に「馬を使った移動」というと,馬車だった。馬車は4000数百年前に西アジア(イラクやエジプトおよびその周辺)で発明された。3000~4000年前の世界では,馬2頭で引く「戦車」が最強の兵器だった。この「戦車」は2人乗りで,1人が馬を操縦して1人が弓矢を射る。
 西アジアでの発明から数百年のうちに,馬車はユーラシア西部の草原地帯にも伝わり,馬車で移動する遊牧も行われるようになった。
 
 「馬車のほうが,騎馬よりも先?」と意外に思うかもしれない。
 しかし,騎馬のほうが馬車よりもスピードが出て,デコボコのあるような悪条件の道も行きやすい。騎馬は,その点でより進歩した技術なのである。
 
 騎馬の技術は,農耕民のあいだにも広まった。しかし,農耕民のあいだでは馬はかなりの貴重品で,乗馬ができる人もかぎられた。
 一方,騎馬遊牧民は馬を豊富に持っていて,それを誰もが乗りこなした。乗馬のまま弓矢を放つのも朝めし前。これは,戦争では大変な威力だった。

 ややおおげさにいえば,騎馬遊牧民と馬のセットは,現代でいえば「戦闘機とそのパイロット」のようなものなのである。
 近代技術以前の時代において,「最強の機動力」を実現する手段。それが騎馬だった。

 騎馬民族が強力なリーダーのもとに結束すると,恐ろしい軍事力になった。その軍事力は,農耕民の国をしばしばおびやかした。とくに西暦500年ころ~1500年ころには優勢となり,騎馬遊牧民が,中国の王朝やイスラムの有力な国を征服してしまうことも何度かあった。

 そのような騎馬遊牧民の活躍のピークが,西暦1200年代にモンゴル人が築いた帝国だった。
 1200年代前半のモンゴル人は,チンギス・ハンやその後継者に率いられ,ユーラシアの各地を征服した。中国,チベット,中央アジア,西アジアのイスラム王朝,ロシア……そして,1200年代後半には空前の大帝国を築いた。
 しかし,1300年ころまでにこの帝国は大きく5つに(中国の「元」などに)分裂し,1400年代にはモンゴル人の王朝の多くは,滅びてしまった。

騎馬遊牧民の限界
 大帝国を築いたにもかかわらず,モンゴル人は征服した国ぐにの経済や文化に,あまり影響をあたえなかった。
 農耕民を支配することによって,強い影響を受けたのはモンゴル人のほうだった。
 支配者として暮らすうちに,生活習慣も価値観も,自分たちが支配する農耕民に近づいていった。中国を支配したモンゴル人は中国風になり,イスラムの国を支配したモンゴル人はイスラム教徒となった。

 こういうことは,モンゴル人にかぎらず,多くの騎馬遊牧民に共通している。

 騎馬遊牧民には,牧畜以外の産業はほとんどない。道具や武器もすべては自給できない。いろいろなものを農耕民から買うか奪うかしないと,やっていけないのだ。
 また,移動する生活なので,持ち物が少ない。たくさんの道具や資料は所有できないため,学問や芸術も発達しにくい。

 これでは,高度な文化を持つ農耕民と接すると,文化的には影響をあたえるよりも,影響を受けてしまう。騎馬遊牧民の側では「影響」への警戒や抵抗もあるのだが,けっきょくは農耕民の文化に染まっていく。

 騎馬遊牧民が世界の文化に貢献しなかったというのではない。軍事技術や政治のやり方では,農耕民にも影響をあたえたし,文化や技術の伝達者としても大きな役割を果たした。
 たとえば,火薬やそれを使った武器の伝搬に騎馬遊牧民は貢献した。この技術は,中国で発明されたものである。それが,1200年代のモンゴル人の活動を通じてユーラシアの各地に伝わったと考えられている。

 しかし,騎馬遊牧民がそのような発明を生み出したということではない。
 そういう人びとなので,騎馬遊牧民は,世界史のなかの「重要な脇役」であっても「主役」「中心」とはいえないだろう。

 それでも,騎馬遊牧民の勢いは長く続いた。
 たとえば満州族(あるいは女眞族)という「騎馬」の民族(ただしおもに狩猟で馬をのりこなした)は,1600年代に明王朝を滅ぼして,中国全土を支配する王朝を築いている。中国史の「最後の王朝」である清王朝だ。
 しかし,騎馬による戦力が軍事的に強大であった時代は,ここまで。それ以後は近代的な兵器を生み出したヨーロッパ人が,「最強」になっていった。

 ***

 騎馬遊牧民というと,私たちは「自然とともに生きる素朴な人びと」といったイメージを抱きがちだ。
 あるいは,「野蛮で,暴力的」という(不当な)イメージも,かつてはあった。

 しかし,もともとの騎馬遊牧民は,「騎馬」という高度の技術を駆使する「強者」だったのである。農耕民とは異質だけれども,合理的な・高度の文明を持つ人びと。 
 そのような人びとが,世界のなかで強い存在感をはなっていた時代があった。
 過去には「今とはちがう世界」があったのだ。
 「騎馬遊牧民の活躍」の歴史は,それを教えてくれる素材のひとつだ。
 
(以上)

(参考文献)遊牧や騎馬の起源については,林俊雄『遊牧国家の誕生』(山川出版社,「世界史リブレット」のシリーズ)による。騎馬遊牧民の「威力」については,杉山正明『遊牧民から見た世界史』(日本経済新聞社)による。
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2013年03月08日 (金) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの3回目。
 じつは,このシリーズの初稿は,今から十数年前の,私が30代なかばのときに書いたものです。
 読み返すと「今の自分なら書かないだろうな」というところがあります。書いたことの内容・主旨は,今もとくに修正すべき点はないと思っています。でも,全体的なトーンが,やはり「若いなあ」と……今回の話は,とくにそうです。

 それでもこれは,当時の自分が「今,みえてきたものを書きとめておきたい」と思って書いたもの。そのときだから書けたのです。これはこれでいい,と思っています。

 
勉強しないでいると,あなたの頭と体は,
他人の目的に仕える道具になってしまう。


 あなたが勉強もせず,自分の頭で考えるということをしないでいると,いろんな人があなたに,自分の欲望や目標を押しつけてくるでしょう。

 社会のいろんな場所で,そういう「押しつけ」の得意な人がいます。
 この人たちは,わかっているのです。
 世の中の大多数の人たちは,「よけいなことを考えると損するよ」「あなたはまちがっている」などと揺さぶれば,自分の頭で考えることをやめてしまう。そしてだまって言うことを聞くようになる,ということを。

 そういう「悪意の人」だけでなく,善意で「押しつけ」をする人もいるから困ってしまいます。たとえば,親がそうです。

 親の言うことを信用するな,と言っているのではありません。ただ親というのは,子どもに対して「こうするべきだ」ということを,あれこれ言ってきます。それが正しいこともあるし,まちがっていることもある。それを判断するのは自分ですが,やはり,親の影響力というのは大きいです。
 「私はこうだったから,お前にはこうなってほしい」といった親の願望を押しつけられてしまうというのは,よくあることです。

 放っておくと,あなたの頭と体は,他人の目的に仕える道具になってしまうのです。
 
 そういう「他人による押しつけ」から自分を守るには,どうしたらいいのでしょうか? 
 
 大切なのは,「何が正しいか」「なぜ正しいか」ということについて,自分の考えをはっきりと持つことでしょう。

 私は,「他人の押しつけ」をはねのけるのは,得意なほうではありません。社会に出て何年かは,そのために後悔したりイライラしたりすることが多くありました。
 でも,「自分の考え」がはっきりしてさえいれば,他人が何か言ってきても,わりと落ち着いていられる――体験でそれがわかってきてからは,少しは楽になりました。

 もちろん,社会では不本意であっても,従わなくてはならないこともあるでしょう。でも,自分の頭で考えることのできる人は,そんな時でもしぶとく「自分」を失わずに,耐えることができるのです。

(第3回おわり,つづく)
 
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2013年03月07日 (木) | Edit |
 「1人あたりGDP」というものを知るうえで,つぎの本は,おすすめです。「経済発展による暮らしの変化を視覚的に体験できる本」なのです。

 マテリアルワールド・プロジェクト著『地球家族 世界30か国のふつうの暮らし』(TOTO出版,1994年,1893円+税)

地球家族表紙

 この本は,世界の国ぐにの暮らしを撮った写真集です。ただし,特別な趣向をこらしています。最貧国から先進国までさまざまな経済発展レベルの30か国を訪ね,その国の「中流家庭」の家財道具を,可能なかぎり家の前に並べ,家族とともに記念撮影――そんなことをしているのです。

 この本は,それぞれの国の1人あたりGDPを参照しながらみると,いっそう興味深いです。

 撮影が行われたのは1993~1994年。そこでGDPなどの数字は,近い時期で切りのいい1995年のデータを使います。(1995年のドル換算の1人あたりGDP×同年の対ドルレート102.9円で円に換算)


 30か国の中で最も貧しい,アフリカのエチオピア(1人あたりGDP1万円)の家財道具はつつましい。ヤギ,牛の毛皮,ラジオ,うすときねとかご……。家は寄せ集めの材木でできた「小屋」という感じ。あとでもくりかえしますが,これはあくまで1993~94年時点のものです。

エチオピア


 インド(1人あたりGDP4万円)になると,家は土壁に瓦屋根と,だいぶ立派になります。金属製の食器・容器。自転車もある。でも,ほかに目立ったものはない……。

インド


 タイ(29万円)だと,家電製品がかなりあります。テレビ,冷蔵庫,ラジカセ,扇風機。それから,スクーター。

タイ


 アメリカ(290万円)をみると,その住居や家財のボリュームに圧倒されます。4人家族でクルマは3台。たくさんの家具や家電製品のほかに,写真に写っていない大型冷蔵庫,各種の電動工具やレジャー用品等々……

アメリカ
 
 日本(390万円)の写真もあります。
 「日本の1人あたりGDPが(アメリカとくらべて)ずいぶん高い」と思われるかもしれませんが,1990年代後半から2000年ころの日本の1人あたりGDPは,世界のトップクラスだったのです(このことはまたあらためて)。

日本

 東京郊外の一戸建てに住む4人家族。2階建て130平米に詰まっていた,ぼう大な家財道具。30か国のなかで,一番ごちゃごちゃしている。
 うーん,たしかにこんな感じだなあ……。「経済の勉強会」で講師役をしたとき,この本をみせたことがありますが,日本の写真には,苦笑いやため息がおきます。

 単に情景を撮るのでなく,「家財道具を家の前に並べる」という縛りを設けたのが,この本のポイントです。そのことで,各国の比較が可能になりました。

 この本をながめていると,それぞれの「お国がら」など,いろいろ発見があるでしょう。
 でも一方で,「1人あたりGDPに応じた共通性」ということにも注目してみてください。たとえば家電製品。1人あたりGDPが同じくらいだと,似たようなものがそろっています。

 このようにすばらしい本なのですが,残念なのは,1993年の撮影時点からもう20年も経った,ということです。
 この20年で世界は変わりました。

 そこに写っているのは,今の人びとの暮らしではありません。変わらない部分もありますが,ちがう点がたくさんあります。
 たとえば,貧しい国の人びとの服装は,今はかなり「近代化」しました。かつてのいかにも質素な,というのではなく,カラフルなTシャツだったりします(とくに子ども)。
 家電製品も,普及が進むとともに,グレードアップしました。発展途上国でも,ケータイ,スマホが相当普及しました。家や街も立派になった……そういう変化は,先進国よりも発展途上国のほうがずっと大きいです。

 子どもにこの本をみせると「アフリカの子どもは,こういう服装なんだ」といった,誤解をする恐れが大きいです。だから,教材としては使いにくいです。

 今となってはこの本は,「今日の世界がどうなっているか」ではなく,「1人あたりGDPの変化が何をもたらすか」という,理論的な視点で読む本なのです。だから,多少古くなっても読む価値があります。

 でも,それでは楽しみが半分以下です。子どもや初心者には,入りにくい。ぜひ,この本のアップデート版(2010年代バージョン)をつくって欲しいものです。ただ,相当な予算や労力が必要なので,むずかしいとは思いますが。

(以上)
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2013年03月06日 (水) | Edit |
 1月19日,ブログをはじめて2回目の記事を,そのままもう一度アップします。「再放送」です。
 このブログのテーマについて述べたもの。大事だと思う記事は,ときどきこういう「掘りおこし」をします。

                        *

 このブログでは,いろいろなテーマを扱うつもりです。
 「世界史」「社会のしくみ」「発想法」「勉強法」,それから「団地リフォームと住まい」……雑多なのですが,私としてはこれらに共通するひとつの視点があります。

 それは,「近代社会を精いっぱい生きる」という大テーマです。

 「近代社会」ってなんのことか?
 ひとことでいうと,「多くのふつうの人でも,したいことがいろいろとできる社会」のことです。
 いわゆる「自由な社会」。
 「自由」とは「したいことができる」ということです。

 数百年以上昔の社会は,世界のどこをみても「したいことをする自由」を,法律などで制限していました。
 たとえば,「どんな仕事に就くか」が,生まれながらにしてほぼ決まっていました。江戸時代の日本なら,武士の子は武士に,農民の子は農民に。「身分社会」というものです。
 この数百年の世界は,身分社会を脱して「自由な社会=近代社会」を築く方向で動いていきました。
 「まだまだ」という国もかなりありますが,欧米や日本のような先進国では,近年は「かなり自由になった」といえるでしょう。

 でも,こういう話は,いかにも抽象的です。「自由」について,もう少し生き生きとイメージできる手がかりはないでしょうか。
 そこで,「昔は特別な恵まれた人にしかできなかったことが,今はふつうの人にもできるようになった」という話をしたいと思います。その切り口で話すと,「わかってもらえた」ということがありました。

 たとえばこういうことです。
 今の子どもたちは,生まれたときからビデオやデジカメでいっぱい撮影され,ぼう大な映像が残っています。
 では,「生まれたときから,たくさんの映像(動画)が残っている史上はじめての人物は誰か?」なんて,考えたことがありますか?

 「それはおそらく,今のイギリスの女王のエリザベス2世(1926~)だ」という説があります。
 映画の発明は,1800年代の末です。エリザベス女王が生まれた1920年代には,映画撮影の機材は高度なハイテク機器でした。そんな機材と専門家チームを投入して,日常的に撮ってもらえる赤ちゃんは,当時は大英帝国のお姫様くらいだった,ということです。
 この説がほんとうに正しいかどうかは,立証がむずかしいところもあります。でも,あり得る話です。

 90年ほど前には,世界じゅうでエリザベス2世でしかあり得なかったことが,今では誰でもできるようになっている。

 こういうことは,ほかにも山ほどあります。
 クルマに乗って出かけることは,昔はかぎられた人だけのぜいたくでした。
 「好きなときに音楽を聴く」ことは,蓄音機の発明(1870年代)以前には,自分の屋敷に「お抱えの楽団」がいるような,富豪だけの特権でした。ipodは,「ポケットに入るお抱えの楽団」です。

 たしかに私たちの「自由=できること」は増えているんだろうな。技術の進歩や経済発展のおかげだな……

 そこで,いろいろ考えるわけです。
 だったら,今の社会で,私たちはどんなことができるんだろう?
 少し昔の感覚で思うよりも,ずっと多くの自由や可能性があるかもしれない。
 その可能性を,できるかぎり使いきって生きていけないだろうか。
 それが,「近代社会を精いっぱい杯生きる」ということです。

                        *

 「団地リフォーム」も,私にとっては「近代社会を精いっぱい生きる」ことのひとつです。

 私は,数年前に築30年ほどの公団住宅(団地)を買って,全面リフォームして住んでいます。
 設計は寺林省二さんという建築家にお願いしました。いろいろと要望をして,自分好みのインテリアをつくってもらったのです。
 「建築家に家をつくってもらう」などというのは,私たちの親の時代には,相当に恵まれた人だけができることでした。それを今は,団地住まいの私でも行っているわけです。
 
 これも,今の社会があたえてくれる「自由」や「可能性」を活用した一例です。
 そんな「活用」が,人生のさまざまな場面でできるようになるには,いろんな「発想」や「勉強」も必要になるでしょう。「社会のしくみ」についての知識や,その背景となる歴史もおさえておきたい。

 どうでしょうか。一見雑多なもろもろのテーマは,「近代社会を精いっぱい生きる」という視点で,結構つながっているとは思いませんか?

(以上)

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2013年03月05日 (火) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの2回目です。

「役立つこと」ではなく,
「面白いこと」を選ぼう。


 私は,意志の強いほうではありません。お酒を減らそうと思うのですが,駄目です。日記は続いて十日くらいです。
 そんな私でも,歴史や社会科学などの好きな学問について,本で勉強し文章を書くということだけは続いています。会社勤めの時代も,自営やフリーの時代も,余暇の多くをそれに費やしてきました。

 そのことを私のまわりの人たちは「ほめられたこと」とはみてくれませんでした。「せっかくなら,もう少し役に立つことを勉強したら?」と言う友人もいました。
 それでも,勉強を始めてから二十数年,ずっと読んだり書いたりを続けてきました。
 自分にとって,面白いからです。

 「少しはすぐに役立ちそうなことを勉強しようか」と思って,英会話や資格試験の勉強をしてみたこともあります。そのときは,家族や友だちも少しはほめてくれたように思います。でも,続きませんでした。

 結局,「少しは役立つことを」とか「周囲に認められよう」といった動機だけでは,続かないのです。
 自分にとって本当に「面白い」なら,続きます。続ければ,ものになる可能性があります。

 親や配偶者が歓迎してくれなくても,やめられない,ついやってしまうというのなら,あなたは本当にそのことが好きで,面白いと感じているのです。

 「こんなことをして何になるのだろう」――そういう言葉が頭をよぎることもあります。でも,好きなことを楽しんでいるのだから,それが「何にもならない」としてもかまわないはずです。

 たいして興味を持てないことを,試験のために何年も勉強して合格できなかったら,「徒労に終わった」と思うかもしれません。

 しかし,好きな勉強なら,「徒労」ということはあり得ないのです。

(第2回おわり)

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2013年03月04日 (月) | Edit |
ガスストーブ

 我が家のガスストーブです。ウチのメインの暖房。
 7年前,ここに引っ越してきてはじめての冬に買いました。6万数千円ほどしました(値段の話も,あえてしていきたいと思います)。
 東京ガスのショップで売っていたものです(リンナイ製)。
 
 この手のタイプは,売り手の位置づけでは「家庭用」よりも,「業務用」です。最大で20畳くらいを温めることができ,集会所や教室などでの使用を想定しています。「家庭用製品」のカタログでは,後ろのほうに小さく載っているだけ。
 東京ガスに買いにいったときも,まずファンヒータータイプをすすめられました。

 でも,姿かたちが好きで,こっちを買いました。ずんぐりしたところが,なんとなくかわいい。
  
 古い団地の特徴のひとつに,ガスコンセントが多い,ということがあります。
 我が家(1978年竣工の公団)にも,床に設置されたガスコンセントが,ほぼ各部屋にひとつづつ,合計3つあります。

 エアコンが広く普及する前の時代の設計なので,「暖房のメインはガスストーブ」という考えがあったのでしょう。

 夜,我が家のリビングは灯りをおさえめにしています。
 ほの暗い部屋でガスの炎をみていると,なごみます。

 写真では,やかんでお湯をわかしていますが,網をおいて,お餅や魚を焼くこともあります。キッチンのガスコンロよりも,きれいに焼けます。強い炎で遠くから焼くからでしょう。
 
 ガスストーブは,「団地の暖炉」ですね。

 もうあと1か月くらいは,このストーブに活躍してもらうことでしょう。


 こういう,「こまごましたモノ」の話も,ときどきしていきたいと思います。

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2013年03月04日 (月) | Edit |
 数か月前のこと。何年かお会いしていない知人の男性から電話がありました。
 電話してくださったのは,今日アップした記事の掲載元である書籍『自分でトコトン考えるための勉強法』(楽知ん研究所刊,2008年)のこと。

 「お久しぶり。じつはウチの娘(20歳前後の学生さん)が,あなたの『勉強法』の本を読んで,気にいったみたいで。それで,私に『書いてくれた人にお礼を言っておいて』というもんだから」

 用件はほんとにそれだけ。ほんの短い電話でした。

 じつにうれしいことでした。ただ,多少面食らって動揺したせいか,「彼女は,この本のどんなところが気に入ったのか」といった,感想を聞くのを忘れてしまいました。聞いておけばよかった……

 細々とでも何かを書いていると,ときどきこういう思いがけない反響をいただくことがあります。

 これもやはり何か月か前のことですが,ネットで検索をしていて,『三百文字の偉人伝』(『四百文字の偉人伝』の原型で,楽知ん研究所刊,2006年)が,ある中学校で「推薦図書」のリストにはいっているのを発見しました。今から3~4年前の記事です。

 その学校の先生がたが,「夏休みにおすすめの本」を1人1冊あげているのですが,文豪や有名著者の本にまじって,ある先生が推薦してくださっているのです。

 私は「仮説実験授業研究会」という教育研究団体の会員です。そこで,「その関係の方かな」と思って,団体の会員名簿などをみましたが,お名前はありませんでした。

 また,私は数年前に『みんなでフランクリンになろう!』(楽知ん研究所刊,2008年。宮地祐司さん,小出雅之さんと共著)という,フランクリン研究の小さな本に,執筆者のひとりとして参加しました。
 「フランクリンの社会事業は〈私益と公益〉の調和をはかっているところが特徴だ」という内容の小論を書いています。「私益と公益」というタイトルです。

 そして,2~3か月前のことですが,この「私益と公益」が,あるブログでとりあげられているのをみつけました。「上田仮説実験授業研究サロン」の,2012年9月27日の記事に,こうありました。

《楽知ん研究所…というNPO法人から『みんなでフランクリンになろう』という本が出ています。2008年に出ている本ですから,もうかなり前に出た本です。…前から買ってあったのですが,なかなか読めないでいました。最近読んでみて,とてもいい本で驚いています。秋田総一郎さんの「私益と公益」がなかなかいい。私がこれまでの人生で追及してきたのはこれでした。私益のために生きる利己主義的な生き方はまっぴら。しかし,公益のために自分を犠牲にするのは,やろうとしてもやり続けられない。フランクリンは私益と公益が両立する方法を考えだしたというのです。…》

 記事を書いてくださったのは,同じ団体の仲間ではありますが,私にとっては遠く離れた町に住む,ふだんは交流がない方です。

 どこかで誰かが読んでくださっているのですね。

 しかも,どの反響も,それぞれの著作を出して数年経ってからのものです。「自分の書いたものは,古くなっていないんだ」という手ごたえも感じます。

 遠く離れた町で,見知らぬ誰かが,自分の書いたものを読んでいる。
 そういう様子を思い浮かべながら,今日も書いています。

(以上)

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2013年03月04日 (月) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」というシリーズも,はじめます。
 2008年に出版した『自分でトコトン考えるための勉強法』(楽知ん研究所刊,1050円)の内容を,増補・改訂しながらアップしていきます。
 まとめて読みたい方は,楽知ん研究所のホームページ(楽知ん商店街)などで,この本をお買い求めいただければ幸いです。

                         *

自分で考えるための勉強法(第1回)
はじめに

 このシリーズは,「自分で考える」ための勉強法をテーマにしています。
 「勉強」というと,「試験などのためにがまんしてするもの」というイメージを持っている方も多いでしょう。
 しかし,この本でいう「勉強」の目的は,「自分の頭で考えて生きていく」ということです。
 それは,誰かに押しつけられてする勉強ではできません。また,「教養を豊かにしよう」といった問題意識のゆるやかな勉強とも異なります。

 勉強のポイントは4つあります。

(1)興味のあることを勉強する
(2)よい先生をみつけ,徹底的に学ぶ
(3)科学とは何か」といった本質を押さえる
(4)勉強の成果を文章で表現する

 これから,この4つのポイントについて,掘り下げていきます。

                         *

頭をよくする特効薬などない。
頭を悪くする確実な方法なら,ある。


 頭をよくする特効薬などありません。でも,悪くする確実な方法ならあります。それは,興味が持てないことをがまんして勉強することです。

 これは,効きます。脳細胞を傷つけます。

 がまんして勉強することで,学ぶことがきらいになります。
 「何かに興味を持つ」という感覚が失われていきます。
 最後は,他人に押しつけられた問題意識でしか,ものを考えなくなります。
 
 これから私がお話しする「勉強」とは,ひとりの人間として「自分の頭でトコトン考え,判断する」ためのものです。だからこそ,まず自分の頭にある問題意識を大切にしましょう。

 生きていく以上,自分の関心だけで押し通すことはできません。しかし,自分の自由になる範囲で何かを学び考えるのなら,自分の興味を大切にすればいいのです。興味の持てること,楽しいことをまずやりましょう。

                        *

「好きでやっている勉強」とそうでないものを,
混同してはいけない。


 「興味のあることを勉強しよう」――こんなあたり前のことを言うのは,大人になって,生きていくのに最低限必要なことは学び終えたあと,自ら進んで勉強をするときでさえ,他人や世間の興味にしばられたまま勉強している人がいるからです。大変もったいないです。

 余暇を利用して何かの学校やカルチャースクールに通う人がいます。よいことだと思います。
 でも,そういう人の中には,授業が休講になったり夏休みになったりするとホッとする,という人がいます。「やれやれ,今日は学校に行かなくてすむ」というわけです。それでも授業料を自分で払っているのです。

 こういう状態が「他人の興味に縛られている」ということです。

 こういう人は,好きなことがあって勉強しているというより,「勉強している自分」をまず人に認めてもらいたいのではないでしょうか。
 「認めてもらいたい」という気持ちをすべて否定するわけではありませんが,そればかりというのは,さびしいことです。

 あまり興味がなくても勉強しなくてはならないことは,やはりあるでしょう。でも,そういう「仕方なくやる勉強」と「自分が好きでやる勉強」を混同しないことです。勉強家の中には,それを混同してしまう人が多いのです。
 そういう人は「好きな勉強をしよう」と思っても,自分の興味よりも「他人がほめてくれるか,尊敬してくれるかどうか」を基準にテーマを選んでしまいます。それなのに本人は,「好きなことをやっている」つもりになっているのです。
 それは,時間とエネルギーの無駄ではないでしょうか。

(第1回おわり)

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