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2013年04月08日 (月) | Edit |
「社会の変化はゆっくりになっている」シリーズ,4回目。
前回までに,こんなことを述べました。

社会の変化は,よくいわれているのとは逆に,じつはゆっくりになっているのではないか。そのことは,社会のあちこちにあらわれている。

たとえば,ウルトラマンや仮面ライダーのような,今の親世代が子どものころに登場したキャラクターが,今も子どもたちの人気者でありつづけている。 (第1回)

これはミクロな・日本での現象だが,世界的にみても,たとえばポピュラー音楽のように,文化全般において新しいものが生まれなくなっているのではないか。 (第2回)

もっと大きな現象だと,技術革新の停滞ということはないか。40年以上前,月にアポロ宇宙船が着陸して以降,どれだけの進歩があったのか。史上最速の実用的な旅客機は,1970年代に就航したコンコルドである。

パソコンやインターネットをのぞく,身の回りのさまざまな文明の利器(冷蔵庫,テレビ,電話,自家用車など)も1950年代までには,最先進国アメリカでは,すでに普及していた。(前回=第3回)

そして,「近年における技術革新の停滞」を指摘する,経済学者タイラー・コーエン(『大停滞』)の見解について紹介しました。

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「技術革新が停滞している」という見方には,批判も多いです。たとえば,エリック・ブリニョルフソンとアンドリュー・マカフィーは,その共著『機械との競争』(日経PB社)で,タイラーの説を批判しています。

この30~40年,アメリカ経済が一種の「停滞」にある,という点はブリニョルフソンらも,タイラーに同意します。しかし,その原因はちがうと。

《彼ら(「大停滞」論者)は技術革新のペースがスローダウンしたからと主張するが,私たちは,ペースが速くなりすぎて人間が取り残されているのだと考える。》

つまり,ITの急激な進歩によって,経済・社会は大きな再構築の時代をむかえている。そのなかで,多くの労働者が「テクノロジーとの競争」に負けている。

たとえば,従来のような事務職や中間管理職が陳腐化して,ニーズが大きく減る一方,それで職を失った人たちは新たな仕事をみつけられないでいる。

また,企業や政府も,急激なデジタル技術の進歩に対応した価値観や組織をつくることができていない。この傾向は,今後さらに加速するだろう。

《いま私たちが直面している問題の根本原因は,大不況でも大停滞でもない。人々が「大再構築…」の産みの苦しみに投げ込まれているということである。》

「大停滞」のタイラーと,「大再構築(テクノロジーとの競争)」のブリニョルフソンたち。両者は真っ向から対立しているようにもみえますが,じつはひじょうに近い立場だと,私は思います。

まず,「技術革新」に注目する点で,両者は「近い」です。現代の経済を論じるほかの論者たちは,「この数十年における技術革新の状況」などまず問題にしません。

それから,ブリニョルフソンらの「技術革新に多くの人がついていけていない」という「大再構築」論に近い見方が,タイラーにもあります。

タイラーは,《(近年の技術革新は)大半の労働者の技能に適した雇用を創出できていない》と述べています。インターネットなどの今日の新しい技術については《私たちの生活に大きな恩恵をもたらしたが,多くの人に就職先を与えることはできていない。しかるべきIT関連の技能の持ち主は別だが》といっています。

また,「IT・デジタル技術こそが,現代における技術革新の中心である」という認識も共通です。

ブリニョルフソンらとタイラーのちがいは,「これから先,ITが社会の多数派の人のための雇用を創出するといった,今以上の大きな変化をもたらすかどうか」という点です。この点で,ブリニョルフソンらは楽観的で,タイラーは懐疑的なのです。

しかし,両者はひじょうに近い問題意識や,現状認識を持っていると思います。ただ,未来への見通しがちがう。

「さらに,急激な進歩が続く」という未来像と,「停滞を迎えつつある」という未来像。

このあたりになると,議論は平行線になってしまいがちです。未来のことなんて,やはりわかりません。

でも,「進歩」の未来像と,「停滞」の未来像が根拠としているものを点検しておくといいと思います。それによって,私たちは未来についてもっと深く考えることができるのではないでしょうか。

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「進歩」派の根拠は,煎じ詰めると「これまでもそうだったから」ということ。そういう歴史への認識です。
 
タイラーの「大停滞」論への批判で典型的なのは,「こういう技術進歩の限界を主張する悲観論は,過去にもあったが,ことごとく覆されてきた」というものです。

たとえば,マルサスという学者は,1800年ころの著作で「人口増加に食糧生産の技術的発展は追いつけない」と述べました。1970年ころに「ローマクラブ」という学者のグループは,世界的な「成長の限界」ということを主張しました。これらの見通しは,みんな「はずれ」だったではないか,というわけです。

「大停滞」派が,この批判にどう応じているかは,よくわかりません(最新の海外の議論までフォローできないので……)。しかし少なくとも,「社会の変化はゆっくりになっている」論者の私は,この批判に答えることができます。

「これまでそうだったからといって,これからもそうとはかぎらない」というだけではありません。つぎのように,私は考えます。

「これまでずっと進歩が続いてきた,というその前提はまちがっている。そう思うのは,せいぜいここ300~400年の近代の歴史しかみていないからだ。数千年を視野に入れて世界史をみわたせば,進歩や変化が何百年以上の長期にわたって停滞していた時代はあった」
 
というと,「昔の時代に,進歩がゆっくりだったのはあたりまえじゃないの?」と思うかもしれません。でも,そういうことではないのです。

「近代以前の古い時代が全体として停滞していたのではない。この数千年のあいだには(つまり古代や中世にも),比較的急速な進歩の時代もあれば,一方で,革新の少ない,停滞の時代もあった」

「だとしたら,今後の近代社会が,大きな停滞期に入ってもおかしくないのでは?過去に同じようなことがあったのだから……」


なんだか,大風呂敷すぎて,ますますあやしくなってきましたが……

でも,「社会の変化はゆっくりになっている」論は,そういう大風呂敷なものなのです。つまり,「数百年」「数千年」単位で世界史をみわたすような視点が必要です。

その点,タイラーやブルニョルフソンらは,風呂敷の広げ方が足りません。

「大停滞か,そうでないか」という話は,「サブプライム危機以降の世界経済」といった,世界史レベルでは「超短期」の議論とは,ほんらいは次元がちがうのです。

たしかに2人の論者は,短期の視点にとどまらない議論をしようとしています。しかし一方で「現代の課題」にこたえようともしている。少し中途半端なのです。だから,短期的な視点しか持てない人たちから,的外れな批判も受けます。

たとえば「1973年からアメリカ経済の成長率は低下しているが,その年を境に技術革新のスローダウンが起こったとはいえないだろう」などという人がいます。

何いってんだ,と思います。わかってないなあ。

もっと風呂敷を広げないと。もっとざっくり議論しないと。

そこで次回は,「ここ数千年の世界史における,技術進歩の速度の変化」を論じます。

(以上,つづく)
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