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2013年04月20日 (土) | Edit |
4月18日に「アリストテレスはすごい,フレームワーク(整理の枠組み)と概念規定の鉄人だ」という話をしました。アリストテレス的な「論理的な整理」の力は,私たちも少しは身につけておいていいものだと思います。

今回は,アリストテレスといっしょに,ちょっと大きめの「概念」の定義を考えます。いっしゅの練習問題をやってみたいのです。テーマは,「国=国家とは何か」ということ。

「国家とは」についての有名な説に,イェリネック(1851~1911)という学者の「国家三要素説」があります。「1.領域(領土・領海),2.国民,3.内外に排他的に行使される権力の3つの要素を兼ね備えているのが国家だ」という考えかたです。100年以上前に提唱された説ですが,今も有力です。

ここで,「問題」です。1990年代にヒットしたマンガ,かわぐちかいじの『沈黙の艦隊』にちなんだもの。

『沈黙の艦隊』は,こういう話です―――自衛隊の最新型原子力潜水艦の艦長と乗組員が反乱をおこし,独立の行動をとるようになる。その潜水艦「やまと」を,アメリカ軍が攻撃したり,それを迎え撃ったりと,話は展開していきます。反乱の目的も,しだいに明らかに……

それはともかくとして,このマンガで,反乱のリーダーである「やまと」の艦長が,「われわれは,独立国〈やまと〉である」と宣言するシーンがあります。そして,自分たちが「国家」である根拠として,イェリネックの「三要素説」を持ち出すのです。潜水艦という「領土」があり,乗組員という「国民」がいて,それを束ねる,艦長や士官などの「権力」がある。だから「国家」である,と。

あなたはこれをどう思いますか?潜水艦「やまと」は国家なのでしょうか?
 
これは,政治学者の滝村隆一さんが20年ほど前に著書でとりあげていた話題です(『世紀末「時代」を読む』春秋社,1992年)。滝村さんのことは,以前にこのブログで三権分立について論じたときに,その説を紹介したことがあります。

「国家三要素説」に照らすと,たしかに潜水艦「やまと」は国家かもしれません。でも,潜水艦が国家だなんて,なんかへんです。だとしたら,「国家三要素説」がおかしい?

アリストテレスだったら,どう考えるでしょうか?

もちろん,2300年前のアリストテレスが,直接イェリネックの説について論じているということはありません。でも,彼が「国家とは何か」を論じたものは残っています。それをみるがぎり,アリストテレスはつぎのようにいうと思います。

「国家三要素説の定義は不完全だ。だから,それに照らすと〈潜水艦が国家である〉などという,おかしなことになってしまうのだ。じゃあ,海賊の船は国家なのか?概念規定が甘い!」

アリストテレスは,「国家」について,こんなことを述べています。出隆『アリストテレス哲学入門』(岩波書店)からの引用です。ただし,読みやすいように若干手を入れています。

《幾多の村落から成り立つ,究極の共同体が国家(ポリス)である。これは自足自治のいわばまったくの極限に達している共同体である。国家は,もともと人間が生きるために発生したものだったが,とくに「よく生きるため」に現に存在している》(前掲書303ページ)

「共同体」とは,「生活するための,人と人の結びつき」だと一応理解すればいいでしょう。「自足自治」とは,「物質的にも精神的にも独立して生きていける」ということです。

《すべての国家は,…ある種の共同体である。そしてすべての共同体はなんらかの〈善〉をめざして組織されている。…そして,これらのすべての共同体のうち,最も包括的な共同体こそが,あらゆる善のうちでもっとも包括的な,すぐれた善をめざしているといえるだろう。そしてそのような共同体が,すなわち国家なのである》(209ページ)

そして,こうも述べています。

《究極の善とは,自足自治であると考えられる》(305ページ)

つまり,アリストテレスにいわせれば,国家とは

「独立して存続できる(自足自治できる),最も包括的な共同体」 

ということになるのでしょう。

そして,このような「国家」の定義に照らすと,潜水艦「やまと」は,たぶん国家ではありません。
 
まず,乗組員は男性ばかりなので,子孫を残すことができません。つまり,長期的には存続できない集団なのです。燃料や食糧や武器弾薬などの物資も,生産できません。女性をさらってくるとか,物資を外から奪ったりすることも考えられますが,限界があるでしょう。つまり,「自足自治」がむずかしいのです。

これは,滝村隆一さんの考えとも一致します。滝村さんは「やまとは国家か?」について,こう述べています。(『世紀末「時代」を読む』より)

《〈国家〉とは何かというと,生理的再生産(子孫を残す)という意味あいだけでなく,生活の再生産,食料とか燃料とか生活手段を生産するか,あるいは…略奪でも交換でもいいけど,とにかく生活資料(物資)を安定的に供給できるかどうかが大問題なんです。もう少しわかりやすくいうと,〈国家〉とは実体的には社会そのものなんです》

《そして,「社会」とは何かといったら,そういう生活手段の再生産です。…海の中だろうが,地の底だろうが,…宇宙にいようが,生活の資料さえ確実に獲得できればいいんです。(だから)土地とか海とかが(絶対必要なものとして)はじめから直接関係してくるわけではないんです。その意味において人間の規模が問題なんです(規模がないと,さまざまな必要なものを確保できない)》


「やまと」は,「社会」ではなく,軍事組織にすぎない。だから,国家ではない。

そして,滝村さんによる国家の定義は,こうです。

《〈国家〉というのは,(生活の再生産の単位である)社会の構成員が特定の法律に全部服従している状態をいうんです。むずかしくいうと,〈国家〉とは法的に総括された(束ねられた)社会です。…特定の法律に人々を服従させる特殊な独立的な組織が国家権力(政府)です》

滝村さんは,別の場で《いわば社会というアンコを包んだ饅頭の皮が国家》とも述べています(『朝日新聞』2003年9月7日)。
 
私も,アリストテレスや滝村さんの考えに賛成です。アリストテレス≒滝村的な「国家」の定義のほうが,現実の国家のあり方をうまく説明できると思います。

とはいえ,こういう定義の話は,実験的に「どちらが正しいか」を決めるのがむずかしいです。異なる考えどうしで議論すると,水掛け論になりがちです。「オレのように考えるならば,オレのほうが正しい」みたいな主張になってしまう。(この表現は,板倉聖宣さんが述べていたと思います) 

だから,今回の「国家とは何か」も,「こっちが正しい」などと押しつけるつもりはありません。議論の内容も,わかりにくいところがあったかもしれません。

ただとにかく,「〇〇とは何か」というのは結構奥が深い,と感じてもらえればいいのです。「通説」「権威」といわれる考えだって,結構ツッコミどころがあるわけです。別の考え方を探求していく余地がある。自分なりの「定義」をあみだして,それをもとに自分の考えを展開することだってできる。

そういうことを感じていただければ,と思います。

(以上)
 
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2013年04月20日 (土) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの9回目。

「基礎」から始めるのではなく,
「面白いところ」から始める。


勉強は,「基礎」から始めてはいけません。「基礎」ではなく,あなたにとって「面白いところ」から手をつけます。

「基礎」と一般に言われているところは,たいていつまらないところです。せっかくやる気になっているのに,そういうつまらないところに無理につきあっていると,意欲がなくなってしまいます。

たとえ,「それは初心者向きでない」と言われても,自分の興味のあるところから始めましょう。

興味があるということは,完全ではないにしても,あなたにはそれを消化する能力があります。まったく理解不可能なものに,興味をおぼえることはないからです。「面白い」と思う部分まず手がけ,そこからだんだん興味を広げていくのです。

さて,そういう「興味のおもむくまま」という勉強は,大切な基礎が抜けているために,壁に突きあたるかもしれません。そのときこそ,「基礎」をやればいいのです。ある程度勉強したのだから,自分に何が欠けているのかということも,もうわかるはずです。あなたが基礎だと考えることは,一般に「基礎」と言われているものとはちがうかもしれません。でも,自分の感覚を信じることです。

基礎の習得には,地道な努力が要求されます。でも,「自分の興味を深めていくのに,これが必要なんだ」と自覚していれば,がまんできます。結構楽しかったりします。何もわからないうちに,「これが大切な基礎なんだよ」と言われて,なんとなく取り組むのとはちがいます。

基礎をやる前に,「楽しさ」を知るほうが先です。それを知ることが,本当の基礎なのです。「つまらない」という感覚からは,何も始まりません。

(第9回おわり,つづく)

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