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2013年06月04日 (火) | Edit |
「自分で考えるための勉強法」シリーズの21回目。

前回から学問とは,宗教とは,科学とはといった基本概念について述べています。

前回,こんな話をしました――問題解決には大きく2つのアプローチがある。ひとつは,問題を分析して解決策を考えていくやり方。これは学問の方法。もうひとつは,問題にたいする感じ方を変えていくやり方。これは宗教の方法。高いレベルの「悟り」というのは,「どんな問題も問題にしなくなった境地」。

今回は,その「悟り」ということについて。

あらかじめ述べておくと,私は「禅」的な世界や,適切な瞑想などによって精神のありかたを整え・向上させることを否定しているのではありません。それらは,価値のある文化であり,活動です。それとどうつきあうか,ということをここでは考えてみたいのです。

といっても,「悟りを得るのはたいへんですよ」という,ごくあたりまえのことを述べているだけですが。


「悟り」を追求していると,人生が終わってしまう。

それがいかにすばらしいものだとしても,禅のような,「悟り」の世界に,すべてを投げ出してのめり込むようなことはやめておきましょう。

ほんものの悟りに達するには,それこそ何十年ものきびしい修行を積まなくてはならないからです。人生がそれで終わってしまいます。

山寺で何日か合宿すると,気分がすっきりします。でも,それは日常生活レベルでの気分転換であって,悟りとは次元の異なるものです。

さらに,山寺にこもって何か月か修行すると,世間の俗事がだんだんどうでもよくなります。心を悩ましていたことが消えていきます。

これは,悟りに似ていますが,悟りの類似品にすぎません。生活上のストレスと切り離された生活を送るうち,気持ちが安定してきたのです。俗世間であくせく生きる人たちへの優越感がめばえてきて,自信がついたということも,場合によってはあるでしょう。

でもほんものの悟りに,そんなかたちの「優越感」が混じっているはずはありません。あやしげなカルト集団では,この優越感をあおって,悟りの類似品を与えることがあります。本当の悟りなら何十年もかかりますが,類似品なら数か月もあれば大丈夫です。

その手の集団の指導者は,「私の教えに従えば,君ならすぐに悟りに到達できる」と言って,出家をうながしたりするのです。そして出家者に対し,「君たちは選ばれた者なんだ,俗世の人間とはちがうんだ」と絶えず吹き込みます。

まじめな宗教者なら,「数か月の修行で悟れる」などとは絶対言いません(「数か月でメンタルを整える」というのならあるでしょうし,それも意義があります)。「悟りに到達するには何十年もかかる。いや,何十年かけても駄目かもしれない」と言うはずです。こうしたことも,おもに前述の南郷さんの本で知ったのです(『武道への道』三一書房,一九七九など)。

ほんものの悟りを手に入れるには,人生のすべてを修行に費やさなくてはならないのです。それでも,ついに悟ることはできないかもしれないのです。

(以上,つづく)
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