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2013年06月15日 (土) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第26回目。
 このところ「科学とは」という話をしています。そういう根本のところをさらっとでもおさえておくのは,「自分で考えるための勉強」のコツのひとつだと思っています。

 前回は,「学問には,科学になっているものと,そうでないものがある」という話をしました。
 ここで「科学」というのは,ぼう大な仮説・実験による検証をくぐり抜け,「真理として信頼できる」といえる知識のことです。
 そこまでいっているのは,自然科学の一部だけ。
 多くの「学問」は,「科学」を自称していても,そこまでいっていないです。
 だから,たいていの学問では,いろんな学派があって,それぞれ根本から対立したりしています。専門家のあいだで共通基盤となるような,誰もが納得しうる確実な「真理」を,まだ見出していないのです。

 これは,「学問リテラシー入門」みたいな話。そんな話のつづきです。


「科学」になっていない学問では,
権威をうのみにしてはいけない。


 「学問には,科学になっているものと,そうでないものがある」――こういうことは,とても大事なのですが,あまり教えてもらえません。

 それは,みなさんに学問の道案内をする人の多くが,大学の先生などのプロの研究者だからです。

 先生たちは「自分の専門分野は,まだ専門家どうしの共通認識の確立していない,遅れた分野です」とは言いにくいです。
 また,物理学者の大学教授が「心理学なんて遅れた学問だ」と言ったら,よその学部で心理学を教える同僚に対し失礼になります。

 前回,「科学になっていない学問は,専門家のあいだの共通基盤が確立しておらず,いくつもの学派に分かれている」という話をしました。
 そして,「いくつもの学派に分かれている例」として心理学をあげましたが,代表的な学派をいくつかあげられるのは,じつはかなり「進んでいる」のです。心理学は,精神についての学問の中では伝統があって,信頼できるいろいろな積み重ねもある,と言えます(社会科学では,経済学がこれに似た状態です)。

 教育学や経営学のように,さらに実用的な性格の強い学問では,もう整理がつきません。有力な研究者の数だけ学派がある,といった感じです。

 遅れた学問とは,結局「科学になっていない」ということです。そういう学問が世の中では大部分を占めています。

 そして,それは仕方ないことです。

 人間は,自然界や人生に関わるすべてを学問にしようとします。
 直面する疑問や問題に答えるため,知識を整理したり,知識どうしの関連を追及したりします。

 その結果,さまざまな学問が生まれましたが,今のところ自然科学の一部だけが「科学」になることに成功しました。あとは,まだそこまでいっていないのです。

 科学になっていない学問では,たとえ東大教授が言っていることでも,うのみにはできません。権威のあるような顔をしていても,本物の権威ではない場合があります。

 では,科学になっていない「社会科学」や「人文科学」は無用の長物なのかというと,そうではないのです。
 そこで述べられている知識や理論には,何らかの形で実際に役立つものがあります。
 また,部分的には科学として信頼できるもの,あるいは育てていけば科学になり得るものが含まれていたりもするのです。

 その一方で,うのみにしたら有害なものも混じっている,ということです。そのへんを見きわめる力をつけるために,勉強していきましょう。

(以上,つづく)
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テーマ:哲学/倫理学
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年06月15日 (土) | Edit |
 日経平均株価は,この5月23日に大幅に下落(1143円安)してから,大きく上がったり下がったりを何度もくりかえしながら,この週末には,4月はじめの水準にまで下がりました。最近のピークだった1万5000円台から,1万2000円台に下がった。

 それにしても,その上がったり下がったりの様子はなんだかヘンです。

 米国の経済統計がこうだったから,安倍首相の発表した「成長戦略」がイマイチ,為替市場で円が高くなる動きがちょっとがあった……毎日発生する個々のトピックに対し,反応をくりかえしているわけです。

 統計でみる米国経済の動きも,首相が打ち出す政策も,円相場も,たしかに経済にとってだいじなことです。
 でも,1日ごとにビクビク反応するのは,やはり奇妙な光景です。
 しかしそういうことを,ずっと「市場」は続けています。
 なんだかバカみたい。
 「子どもの目」になってみたら,そう映る。

 これでは,多くの人にとって,株式とか株式市場,ひいては金融というものが「うさんくさい」と映っても当然です。嫌われ,バカにされても無理はない。

 でも,「株式」「株式会社」というのは,人類の偉大な発明です。
 株式は,ほんらいは「市場」で奇妙な売ったり買ったりを繰りかえすための素材として発明されたわけではありません。

 株式や株式会社は,「社会のより多くの人たちが,新しい事業をたちあげ,社会をつっていくための道具」として生まれました。1600~1700年代の,イギリス,オランダなどの西欧でのことです。

 「株式」という証券を発行し,多くの人から出資をつのって,会社をたちあげる――そのような株式会社というしくみがなかったら,「起業」ということはとてつもなく困難です。ささやかな事業ならともかく,工場や鉄道を建設したりするようなことはむずかしいです。

 だから,「株式会社」以前には,ある程度のスケールをともなった「起業」は,貴族や富豪のような特権階級か,そこに特別のコネがある者にしかできませんでした。

 それが,株式会社という制度によって,特権階級でなくても,一定の「才覚」があれば,起業できるようになった。
 これは,社会を大きく変えていきました。
 
 このへんのイメージを,少しでも伝えるための「読み物」を私は書いているので,いずれこのブログでご紹介したいです。
 その読み物では「株式とか株式会社って,建設的で,だいじなものなんだな」というイメージを伝えたいです。

 でも,たいていの人は,そういうイメージはあまり持っていません。忘れている,といっていい。
 それよりも,まず目につくのは,いかにも強欲な,「市場」のヘンな動きです。テレビや新聞では,おもにそれが報じられている。

 インテリとか文化的と言われる人の多くは,「市場」的なものにたいしとにかく懐疑的です。
 少し株式市場が活況になると,「あんなのはいずれダメになる」という人が多いです。そして,上昇相場が終わると(上昇相場というのは,たしかにいつかは終わります),自分の見識が正しかったことを確認するのです。
 こういうことが,ずっとくりかえされています。

 その一方で「市場」に参加して,とにかく毎日忙しい,金融のプロや一般投資家のような人たちがいる。

 こういう,「対極」にある人たちばかりが目立つ気がします。
 もう少しちがう立場というのはないのか。
 私は,それを模索しています。
 さきほど述べた「株式会社の建設的なイメージを伝える読みもの」を書いたのも,その「模索」の一部です。

(以上)
 
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