2013年07月31日 (水) | Edit |
 7月28日の記事は,大正から昭和のはじめに活躍した実業家・大原孫三郎の「四百文字の偉人伝」でした。
 大原は,美術館・研究所・病院の創設,孤児院の支援,自らが経営する倉敷紡績での労働条件の改善など,さまざまな社会事業や福祉に取り組んだことで知られています。

 この大原との対比で,明治~大正に活躍した実業家・渋沢栄一が語られることがあります。

 日本の企業経営の歴史のなかでは,渋沢のほうが大原よりもはるかに「大物」です。
 渋沢は下記の「四百文字の偉人伝」で述べるように,500社もの企業の創設に関わり,日本の資本主義の基礎を築いた人物です。

 大原と渋沢が対比されるのは,渋沢もまた社会事業・公益事業に熱心に取り組んだからです。
 下記の「四百文字の偉人伝」では割愛しましたが,渋沢がかかわった,福祉,医療,教育,国際交流等々の公益事業の数は,600にもなるといわれます。
 さきほど述べた営利的な事業の創設数(500)よりも多いくらいです。

 今日は,そんな渋沢の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。
 

渋沢栄一(しぶさわ・えいいち)

日本史上最高の起業家

 幕末のこと。若き渋沢栄一(1840~1931)は,幕府の欧州視察の一行に加わりました(1867年)。
 彼は,もともとは欧米諸国に反発していました。しかし,ヨーロッパの進んだ文化に感動し,「欧米からトコトン学ぶべきだ」という考えに変わりました。
 明治になって,渋沢は実業家となり,「社会に必要なさまざまな会社の設立」に尽力しました。
 銀行,鉄道,保険,郵船,紡績,建設,電力,ホテル,造船,化学……彼が設立に関わった会社はおよそ500社。その多くが大企業となり,今も続いています。
 しかし,彼は「それらの会社を支配して自分の財閥をつくること」はしませんでした。
 新会社が軌道に乗ると人にまかせ,つぎの会社の立ち上げに移る――それをくり返しました。
 「財力や権力の拡大」ではなく,「立ち上げた事業が発展し,社会をつくっていく」のをみるのが楽しかったのです。
 そんなスケールの大きな起業家がいたのです。

渋沢研究会編『新時代の創造 公益の追求者・渋沢栄一』(山川出版社,1999)による。

【渋沢栄一】
日本の資本主義の基礎を築いた明治~大正の実業家。設立に関与した会社の例:第一勧銀,国鉄,東京海上火災,日本郵船,東洋紡,王子製紙,清水建設,東京電力,帝国ホテル……
1840年(天保十一)2月13日生まれ 1931年(昭和6)11月11日没

                        *

 10年くらい前,大原孫三郎に興味をもって,自分なりに本を集めたり,彼の地元の倉敷に行って「現地」をみたりした時期があります。

 大原については,当時はまだ読みやすい伝記が書かれていませんでした。
 本格的な評伝とまではいかなくても,大原のことをわかりやすく紹介した,まとまった文章を自分で書きたいものだ,と思っていました。でも,結局できませんでした。短い文章を書いて,仲間うちでみせたりはしましたが…

 当時の私が大原にひかれたのは,「彼の取り組んだことが,今の自分たちの関心と重なる部分がある」と感じたからです。

 大原が活躍した大正時代と,今の私たちの平成の時代は,歴史のなかの立ち位置として似たところがあると。

 大正時代というのは,明治時代からの「近代化」,つまり近代社会としての基礎的なインフラを整備することがある程度かたちになって,日本が「列強」のひとつになった時期です。

 政府の組織や憲法などの法典,全国的な鉄道網,銀行などの金融機関,さまざまな分野の工場,学校制度,郵便や電信のネットワーク…そういったものの基礎が,だいたい整ったわけです。

 渋沢栄一は,この動きに(とくに経済面で)貢献した最大の人物のひとりです。

 そして,大正時代は,明治に建設されたインフラ・基礎に立って,一部の恵まれた人たちが,その先を行くさまざまな社会実験を行った時代でした。

 それは,「基礎の基礎」ではなく,「もっときめ細かい社会的なサービス」といえる分野での実験です。

 より健康に文化的に人びとが生きるためのさまざまな取り組み。
 「文化的」などというのは,従来は一部の恵まれた人たちだけの特権でした。
 それをより広い範囲の人たちに。

 大原孫三郎は,そのような大正時代の「社会実験」において,最もすぐれた仕事をしたひとりです。

 美術館や,より良い病院や,社会問題を研究する研究所をつくったり,というのは「基礎の基礎とはちがう,きめ細かい社会のサービス」をつくっているわけです。美術館がなくたって,人は生きられるのですから。

 こういう感じが,私は現代に通じると思ったのです。
 高度成長を成し遂げて,経済大国になった日本。
 衣食には不自由しなくなった私たち。
 「その先の欲求」もあるはずだけど,社会におけるサービスのおもな生産者である政府や大企業は,それに十分にこたえられていない。
 10年前は,今以上にそうでした。

 そこで,NPOなどの民間による,新しい社会的サービスの創出ということが,当時(10年前)は,今以上に新鮮な話題でした。

 大原孫三郎は,そのようなNPO的な世界の,近代日本における「最高峰」だと思えました。
 渋沢栄一は偉大だけど,今の自分たちの関心により即しているのは,大原孫三郎ではないか。
 そんなふうに,思ったのです。

 今回はここまで。

                         *

「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)

四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
秋田総一郎

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(以上)
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2013年07月30日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの37回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところ,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今度は「書籍」の世界のことを。そのひとつとして,教科書や子ども向けの本について。


子ども向けの本には,大事なことが書かれている。

 人類がこれまでに築きあげてきた学問の成果を集大成した書物があります。
 学校の教科書です。学問全般の広い知識が得たければ,学校の教科書を読むことをおすすめします。
 
 それも,中学校の教科書でないといけません。高校の教科書では駄目です。

 高校の教科書は,詳しすぎるのです。つめ込まれている情報量が多すぎて,本当に大事なことは何なのかが,わからなくなってしまいます。
 また,初心者にはむずかしすぎて,ひとりで読み通すこともできません。

 「学校の教科書で勉強するのがいい」というのは,かなりの人が言っています。
 すると,ほとんどの人が高校の教科書で勉強しようとします。でも,それではいずれ投げ出してしまうでしょう。私もそうでした。

 でもあるとき,南郷継正さんという先生が,「中学の教科書がいい」と言っているのを読んで,目をひらかされました。

 中学の教科書には,学問・芸術の最も基礎的で重要な成果だけがのっています。
 一番熱心に読んだのは,歴史の教科書です。古代から現代にいたる歴史について,基本的な常識を知ることができました。

 理科の教科書には,物理学,化学,地質学,生物学などに関する初歩的な知識がつまっています。
 保健体育の教科書は,南郷さんの言うように,生理学の教科書です。美術の教科書や資料集には,誰もが知っておいていい,美術史上の名作が並んでいます。

 教科書は,一般の書店では売っていませんが,指定された書店などの「教科書販売所」で買うことができます。

 教科書だけでなく,子ども向け(小・中学生向け)の本を読むことは,ものごとの全体像や基本をつかむ上で,いい方法です。

 子ども向けの本では,大事なことがごまかされずに書かれています。
 そうでないと,子どもたちは読んでくれません。
 これは,板倉聖宣さんが言っていました。

 実際に「子ども向け」という本を手に取ってみると,子どもにはむずかしすぎる,詳しすぎる,と思えるものも多いです。いい内容であっても,です。

 でも,それがふつうの大人にはちょうどよかったりするのです。

(以上,つづく)

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2013年07月29日 (月) | Edit |
東急東横店とヒカリエ

 上の写真は,先週の金曜日(7月26日)に,渋谷で撮りました。
 手前が東急東横店南館。その背後にそびえたっているのが,渋谷ヒカリエ。

 東急東横店南館は1970年(昭和45)の建物。
 ヒカリエは去年(2012年)にできたばかり。

 こうやってながめると,昭和の建物と21世紀の今の建物のあいだの,スケールやグレードのちがいが際立つように思います。

 前回の記事(建て替えられた諏訪団地)で述べた,昭和の団地と最新の集合住宅の対比とも重なります。

 この数十年で,建物は立派になりました。

 最近の東京には,下の写真のような,すごい建物がいくつも建っています。

表参道ヒルズ
表参道ヒルズ

国立新美術館
国立新美術館

 でも,私たちはどうなのか?
 建物に似合うほど立派になったでしょうか?

 多少こぎれいにはなったかもしれない。
 でも,どんどん立派になる建物に,負けている感じはないでしょうか?

 建物のほうが偉い,という感じがあるのでは…
  
 立派な・美しい建物は大好きです。
 上の写真の建物は,どれもすばらしい。
 でも,そこに立つと,ふと自分が不似合で,いかにも小さいという感じもしてくるのです。

 まあ,あたりまえのことかもしれませんが。

 私は東京郊外の古い団地に住んでいますが,そこへ戻ってくると,ちょっと安心します。
 ここなら,建物に圧倒されることはない。しっくりくる感じです。

(以上)

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2013年07月29日 (月) | Edit |
建て替えられた諏訪団地

 私は,多摩ニュータウンの諏訪団地というところで育ちました。1971年に入居がはじまった分譲の古い団地でしたが,建て替えられることになり,2011年から取り壊しなどの工事がはじまりました。

 関連記事:団地マニアでなく,団地エリート

 そして,上の写真が今現在の旧・諏訪団地。昨日撮ったもの。
 
 このように建て替えられたわけです。
 建物本体はできあがり,今は内装などの細かい仕上げやチェックの段階だそうです。
 入居は,秋のおわりころから。
 ずっと諏訪団地に住んできた私の母も,今の仮住まいから,ここに引っ越します。

 これが,ウチからみえるのです(ウチは諏訪団地から少しあとに建てられた古い団地です)。

 今の建物って,やっぱりスケールがちがいます。
 大きくて「立派」。1970年代あたりに建てられた古い団地とはちがう。

 そして,建物の「密度」がすごい。
 びっしり建っているようにみえる。

 もちろん,その場所へいけば,それなりに建物のあいだの空間はとってあります。でも遠くからみると,建物が重なりあって,こんなふうにみえる。

 たしかに,旧・諏訪団地の「密度」は,建て替えによって大幅に上がりました。
 古い団地のときは,全体で600戸あまりだったのを,約2倍の1200戸ほどにしたのです(古い団地のときとちがって,いろんな面積・間取りの家があります。全体的に一戸あたりの面積は大幅に増えている)。

 以前は,法令の基準に対して大幅に余裕をもたせて建てていたのを,基準ギリギリまで建てたわけです。
 
 5階建てだったのを10何階建てにするなど,より高く・大きな建物をつくった。

 大幅に戸数を増やして,それを売る。
 それによって,元々の住民(分譲住宅なので,その家のオーナーです)は,もとの住居の面積(50㎡弱)の新居であれば,それまでの家と交換で住むことができる。それよりも広い新居に住みたければ,上乗せしたお金を支払う。(実際はもう少し複雑ですが,おおまかなイメージとしては,そんな感じです)

 団地に住んでいた人たちは,余裕を持って建てられた団地の土地を提供して,新しい住居を手に入れる。そのようなしくみです。

 それで,上の写真のようなものが建ちました。

 あれをみていると,古い団地が,いかにスカスカの密度で,つまり土地に余裕をもって建てられているか,というのがわかります。
 古い団地の風景は,「のどか」だと感じます。
 「ぜいたく」ですらある。
 
 でも,1970年代の,今の古い団地が「最新型」だったころは,団地は「乱開発」とか「過密」とかいうことの象徴でした。

 しかし,時代が進んでいった結果,今ではすっかり「のどかな旧式」になったわけです。

 関連記事:建て替えられた諏訪団地をみてきました(2013年9月)

(以上)
 
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2013年07月28日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの5回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 5

1.夜の地球儀の世界史

となりとなりの法則

(これまでの話)

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。
 「都市の灯り」=「文明の分布」といってもいいです。

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体


 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。
 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸。

夜の地球儀・北アメリカ

 そして,ヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港など。

夜の地球儀・東アジア

 では,2000年前の「光」=「文明の分布」は,どうだったのか?
 電灯もなかった2000年前には,今のような強い光を放つ都市はありませんでした。しかし,「超高感度」のカメラで当時の「夜の地球」を撮ったら,どのへんに「光」が集まっていたでしょうか?

 現代と2000年前では,「光」の分布はかなり異なっていました。

 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 さらに2000年さかのぼって,今から4000年前(紀元前2000年)の世界では,「光」=「文明」の分布はさらに変化しています。

 「光」のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
4000年前のユーラシア

 さらに,2000年さかのぼって6000年前になると,「光」の点は,ほとんどみえなくなります。
 しかし,5500年前になるとメソポタミア(今のイラク。チグリス川とユーフラテス川の沿岸)に小さな点がみえます。世界最古の本格的な「文明」とされる,大きな都市は,およそ5500年前にメソポタミアで誕生しました。

5500年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
5000年前の光の1点


光の変化の傾向

 ここまで,「夜の地球儀」をながめながら,現在や過去の世界をみわたしました。
 現在,2000年前,4000年前,6000年前の,夜の地球における「光」=文明が繁栄している場所をみてきたのです。
 非常にざっくりとですが,「文明のあけぼの」以来の世界史6000年を,ある側面からみわたした,といってもいいです。

 すると,そこに一定の傾向がうかびあがってこないでしょうか? 

 それは,つぎのようなことです。

(1)光の集まる場所は,時代とともに変化する。
(2)光の明るさは,だんだん強くなっている。
(3)光の分布する範囲は,だんだん広がっている。


 第1の「光が集まる場所の変化」。これは,「繁栄の中心は時代とともに移り変わる」ということです。ここはこのシリーズのの最大のテーマなので,あとでまた述べます。

 第2の「光が強くなっている」という点。
 これは,「文明の進歩」を示しています。
 
 「都市の明かりの強さ」は,その時代にどんな文明の利器があり,どれだけ普及していたかによって決まります。その時代の技術や生活を象徴しているのです。
 ほかにも象徴になるものはあるでしょう。明かりはそのひとつということです。

 これまでに述べてきたことを振り返り,整理してみます。

 1900年代以降,照明がそれまでのオイルランプから電灯になったことは,「文明の進歩」です。

 同じように,4000年前には貴重だった夜の明かりが2000年前の先進国では日常的なったのも,文明の進歩です。それだけ多くの燃料や器具が生産され,人びとにいきわたるようになりました。これは,技術の進歩のおかげです。

 世界史上の技術の進歩には,いくつかの大きな「波」があったことも,前に述べました。現代に近い順で,「産業革命」「鉄器の普及」「青銅器時代の革新(文明のあけぼの)」です。

 「照明の進歩」にかぎっていえば,産業革命は,電灯の時代をもたらしました。
 鉄器の普及は,ランプによる夜の明かりを日常的なものにしました。
 青銅器時代の革新は,その後何千年も使われる,ランプ(オイルランプ)という道具を生みました。

 オイルランプの発明…4000~5000年前。文明のあけぼの
 オイランプのさらなる普及・日常化…2000~3000年前。鉄器の普及
 ランプから電灯へ…産業革命以降
 
 こうした進歩のたびに,都市の明かりはより強いものになっていったのです。
 
 第3の「光の分布範囲が広がっている」という点。
 「光の範囲」は,その時代なりの進んだ「文明」がある場所です。先進国か,それに近い生活が行われている地域。それが,時代とともに広がっている,ということです。

 「文明」とか「進んでいる」ということの中身は,時代によってちがいます。
 4000年前の世界では,大きな建造物があり,文字や金属器が使われているのが,進んだ「文明」でした。
 そのような地域は,ごくかぎられていました。前にみたように,メポソタミアとエジプトの周辺,インダス河の流域くらいです。

 2000年前になると,文明の栄える範囲はかなり広がりました。
 ローマ,パルティア,インドの王国,中国の漢といった大国が,ユーラシア大陸の広い範囲に連なっていたのです。

 現代の世界はどうでしょうか? 

 先進国の分布は,散らばってはいますが,さらに広範囲になっています。
 ユーラシア大陸だけでなく,北アメリカや日本にも繁栄の中心があるのです。

 さらに,先進国を追いかける「新興国」が,世界じゅうにあります。東南アジア諸国,中国,インド,ロシア,トルコ,南米のブラジル,南アフリカ,それから東ヨーロッパのいくつかの国ぐに……。

 新興国の工業製品は,世界で売り上げを伸ばしています。その大都市へ行くと,高層ビルがたち並び,クルマがあふれかえり,人びとはケータイやスマホを片手に歩いています。まだ先進国におよばないところがあるにせよ,それに近い暮らしがあるのです。

 現代の「夜の地球儀」には,先進国の光とは別に,ぽつぽつと明るい点がみえます。
 これは,新興国の大都市の明かりです。この明かりは,周囲から孤立しています。新興国では大都市と地方の格差が大きいので,「光」に広がりがないのです。

 こういう孤立した大都市の明かりは,あちこちにみられます。アジアにも南米にもアフリカにもあります。
 たとえば,タイのバンコク,ブラジルのサンパウロ,南アフリカのヨハネスバーグ……

 散らばったかたちではありますが,今の世界では,これまでのどの時代よりも,文明の「光」が広い範囲に存在しているのです。


繁栄の中心のうつりかわりに注目

 以上3つの点のうちとくに,「第1」の点に注目したいと思います。

 「光の集まる場所=繁栄の中心は,時代とともに移り変わる」ということです。

 ここにトコトン注目すると,世界史はすっきりしたものになります。
 ひとつのつながった物語になるのです。
 これがこのシリーズの中心テーマです。

 今の教科書の世界史は,ぜんぜん「すっきり」していません。「ひとつの物語」にもなっていません。
 
 とにかく,話があっちへ行ったりこっちへ行ったりします。

 それまでローマ史をやっていたのが,つぎの章からはインド史や中国史になる。
 そのときはたいてい,時間が逆戻りします。西暦400年代のローマ帝国のつぎが,紀元前のどこかの話だったりするのです。

 そして,ぼう大な国名や人名や年号のオンパレード。

 とにかく,いろんな地域や国について,「あれもこれも」と教えようとする。
 ほとんどの生徒は消化しきれません。たぶん先生も消化しきれないでしょう。

 しかし,「繁栄の中心は,時代とともに移り変わる」という視点で世界史を書けば,こうはなりません。
 時代とともに移り変わっていった「繁栄の中心」を順番に追いかけていくのです。
 そうすれば,あちこちへ飛ぶことなく,一本の線をたどることができます。


となり・となりの法則

 しかも,その「移り変わり」には,わかりやすい法則性があります。
 どんな法則でしょうか? 

 それは,「繁栄の中心は,となり・となりで移動していく」というものです。

 名付けて 「となり・となりの法則」。それは,こういうことです。

・世界史における繁栄の中心は,時代とともに移り変わる。

・新しい繁栄の中心は,「中心」の外側にあって,しかしそんなに遠くない「周辺」の場所から生まれる。周辺の中から,それまでの中心にとって替わる国や民族があらわれる。世界史は,そのくりかえし。

・だから,繁栄の中心が新しい場所へ移るときは,遠く離れたところではなく,世界全体でみれば「となり」といえるような,比較的近いところへの移動となる。つまり,「となり・となり」で動いていく。


 これから,この「法則」にかかわることを,このシリーズの全体をとおして掘り下げていきます。

 世界史をみわたすと,じっさいに「となり・となりの法則」のとおりになっています。
 これから,それをみてみたいと思います。
 こういう話は,理屈をあれこれいうよりも,歴史の事実をみていくほうが早いです。

 つまり,世界史における「繁栄の中心の移り変わり」をざっとたどってみるのです。それによってで世界史の大きな流れをたどろうということです。

(以上,つづく)
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2013年07月28日 (日) | Edit |
 今日7月28日は,大正から昭和にかけて活躍した実業家・大原孫三郎の誕生日です。

 そこで大原の「四百文字の偉人伝」を。四百文字程度で,古今東西のさまざまな偉人を紹介する」シリーズ。
 2013年1月18日の記事を多少編集し直しての再放送です。

 そのころは,このブログをはじめて数日後。訪れる人も1日に数人という状況でした。だから,読んでおられない方が多いと思いますので,再放送。
  

大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)

すぐれたコレクションは志がちがう

 大正~昭和初期の実業家・大原孫三郎(1880~1943)は,地元の倉敷市(岡山県)で紡績会社などを経営しながら,孤児院,研究所,病院,美術館などさまざまな社会事業を手がけました。
 そんな大原が集めた西洋絵画は,現代でも「日本有数のコレクション」といわれます。彼の依頼でヨーロッパへ渡り,絵を買い付けたのは,大原の親友で洋画家の児島虎次郎でした。
 制約もある予算の中で児島が選んだ作品は,その選択が的確で,のちに評価が高まっていったものばかり。
 絵は,まず地元の学校を借りて公開されました。それが盛況だったので,さらに多くの絵を買い集め,のちに「大原美術館」を建てました(1930年開館)。
 日本初の「本格的な西洋美術のコレクションを有する美術館」です。
 大原は,みんなにみてもらうために絵を買ったのです。現代の企業や金持ちが,値上がり目当てで買った高い絵を,金庫にしまっておくようなのとは志がちがいます。

(参考文献)
山陽新聞社編『夢かける 大原美術館の軌跡』(山陽新聞社,1991)による。ほかに参考として,城山三郎著『わしの眼は十年先が見える』(新潮文庫,1997)


                        *

 以上,大原美術館のことを書きましたが,これは大原の社会事業の一部にすぎません。大原のことを人名事典ふうにまとめると,こうです (写真は『大原孫三郎傳』より)。

大原孫三郎

【大原孫三郎】
 大正~昭和初期の実業家・社会事業家。若くして父が経営する倉敷紡績を継ぎ,おおいに発展させた。若いときに「岡山孤児院」の創設者・石井十次と出会って影響を受け,社会事業にも力を注ぐ。私財を投じ大原社会問題研究所(労働問題等を研究,1919年設立),倉敷中央病院(1923年),大原美術館(1930年)などを創設した。倉敷紡績の労働条件改善にも取り組む。いずれの仕事も当時画期的なものであった。
1880年(明治13)7月28日生まれ  1943年(昭和18)1月18日没


 このように多方面の活動をしています。
 大原は,近代日本におけるNPO活動の最高峰のような人です。
 
 「NPOによって新しい公のサービスを作り出すこと」は,社会の重要テーマになっています。
 大原孫三郎は,これからますます注目・評価されるようになるでしょう。

 2012年12月には,兼田麗子著『大原孫三郎―善意と戦略の経営者』(中公新書)という本が出ました。

 
大原孫三郎―善意と戦略の経営者 (中公新書)大原孫三郎―善意と戦略の経営者 (中公新書)
(2012/12/18)
兼田 麗子

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 じつはこれまで,大原については,「多くの人が手軽に読めるまとまった伝記」がありませんでした。
 城山三郎『わしの眼は十年先がみえる』(新潮文庫)という,大原の生涯を描いた小説があるくらい。大原に縁のあった人たちでつくった『大原孫三郎傳』(昭和58年)という基本文献もありますが,手軽に買えないし,読みやすい本とはいえません。
 
 兼田さんには『大原孫三郎の社会文化貢献』(成文堂,2009年)という著作もありますが,こうして新書というかたちで,まとまった大原伝が出たわけです。

                        *

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2013年07月27日 (土) | Edit |
麻婆豆腐の素 (2)

 昨日,夫婦で渋谷に行き,映画をみたあと,中華屋さんでお昼を食べました。
 四川料理で知られる店。その「看板」ともいえる麻婆豆腐のランチを注文。
 生ビールもつけて。
 やはり,うまい。
 我が家としては,かなりゼイタクをした,という感じです。

 この店で出すような「四川風の本格派」といえる麻婆豆腐をはじめて食べたのは,1990年代の末のことだったと思います。
 それまで食べていた麻婆豆腐というと,もっとマイルドな,「四川風」とくらべたら「甘い」ものでした。
 
 昨日食べたお店の若い女子の店員さんと,以前に話をしたとき,彼女は言ってました。

 「私も,こんな(本格派の)麻婆豆腐は,この店で働くまで食べたことなくって,麻婆豆腐といえば『リケンのマボちゃん』でしたー」

 リケンのマボちゃんに慣れ親しんだ味覚だと,本格派の麻婆豆腐は,最初はかなり違和感があります。
 でも,慣れてきて,しだいに「本格派」でないと物足りなくなってくる…
 
                        *

 そもそも,私がはじめて「麻婆豆腐」というものを食べたのは,1970年代後半の,小学生のときのことでした。母がときどきつくっていたのです。
 「マボちゃん」とかを使わず,手作りです。
 当時のNHK『きょうの料理』のレシピ本にあったメニューでした。

 ただし,その「麻婆豆腐」には,豆板醤(トウバンジャン)が用いられていません。
 そういうものは,当時は入手がちょっと困難でした。
 だから,その「麻婆豆腐」なるものは,「ひき肉と豆腐のたくさん入った,中華とろみスープを,唐辛子でピリ辛にしたもの」にすぎません。
 まあ,カレー粉なしで,「カレー」をつくっているようなもの。

 でも,子ども時代の私は,けっこう好きでした。
 日曜日の夕飯などで,家族4人で食べてた記憶があります。

 ところで,記事のトップにある写真は,この10年来ウチで使っている麻婆豆腐の素です。
 「リケンのマボちゃん」や「CookDo」じゃない,一番上にある「陳麻婆豆腐」とある箱。
 中国からの輸入品です(四川省・成都市の大王食品の製造。輸入元は株式会社ヤマムロ)。
 1袋3人前分で,4袋入って500何十円。
 やや踏み込んで品揃えしているスーパーだと,置いていることがあるようです。

 ウチの近所(となりの駅)だと,「成城石井」にあります。ああいうややお高いスーパーではめったに買い物をしませんんが,これだけを買いに成城石井に行くことがあります。この「本格麻婆豆腐の素」に,さらに豆板醤やその他の調味料を加えて,「ウチの麻婆豆腐」をつくっています。

 でも,母がつくってくれた「麻婆豆腐」も,なんだかまた食べてみたくなってきました。
 自分でつくれるかも。今度やってみよう。

 今の私たちは,昔にくらべていろんなたのしみがあります。
 「本格麻婆豆腐」を食べるたのしみも,そのひとつ。
 大上段にいえば,経済や文化の発達,グローバル化とかいうことが,その背景にある。中国・四川省製の麻婆豆腐の素が近所で買えるというのは,そういうこと。(結局「大上段」が,私は好きなもので)

 でも,望めばいつでも「マボちゃん」だって,1970年代の「豆板醤なしの麻婆豆腐」だって,食べることができます。

 そういう選択肢の豊富さが,今の社会の特徴なのでしょう。
 いろいろ工夫したり,追求したりして,たのしくやっていきたいものです。

(以上)

付記:記事の中の「陳麻婆豆腐」の価格を修正しました(「400何十円」は誤り。「500何十円」――私の買う店では570円程度――に修正)。トップの写真も,「陳麻婆豆腐」のパッケージが古いバージョンだったので,現行のものに差し替え(ウチに残っていたのをまちがえて使ってしまいました)。また,当初の記事では,「母が手作りの麻婆豆腐(のようなもの)をつくった1970年代当時は「リケンのマボちゃん」は(たぶん)なかった」という主旨のことを書きましたが,確認したところ「マボちゃん」は1972年の発売でした。その点についても記事を修正しています。ミスをいくつも重ねてしまい,申し訳ありません。(2013年7月28日)
 
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2013年07月26日 (金) | Edit |
風立ちぬ

 私は,宮崎駿監督のアニメ作品のファンです。
 三十数年前,中学生のころに『未来少年コナン』や『ルパン三世カリオストロの城』を観て以来。
 オジさんになってからは,アニメやマンガはあまりみなくなりましたが,宮崎作品は今も観ています。

 今日は,夫婦で宮崎監督の新作『風立ちぬ』を観てきました。

 渋谷の映画館で,朝いちばんの上映。席は6割がた埋まっていて,平日のこの時間では,かなりの入りなのでしょう。子どもは少ない。シニア世代の人もちらほらいるのが,いつもの宮崎作品とちがうと思いました。

 飛行機マニア,軍事オタクの宮崎監督が,アタマの中で培ってきた映像や妄想が,全面的にサクレツしています。
 宮崎アニメ的飛行物体が,宮崎アニメ的な雲や大地の広がる空間を飛んでいる。それも,これまでになく大量に。

 空間や時間の感覚も,ときどき歪んできます。

 そんな「映像」や「妄想」を,「零戦の設計者・堀越二郎の半生」という,一応は「物語」になっている流れのなかに載せているという感じ。

 大正~昭和戦前期の日本の光景や,そのなかでのこまかい生活描写も,目をひきます。
 技術者たちが設計図をかいているシーンですら,「見世物」として楽しめる。

 決して「戦争」とか「近代日本の歩み」などがテーマの作品ではない。

 とにかく,宮崎監督のアタマの中に入って,いっしょに「夢」をみさせてもらうという映画です。
 この映画の中のコトバでいえば,「夢を共有する」ということ。
 (映画の中で,主人公と偉大な飛行機の設計家カプローニという人物の「夢」がつながって共有される,「夢」の世界で2人が出会う,というシーンがある)

 宮崎作品はどれも「宮崎監督との〈夢〉の共有」なのですが,『風立ちぬ』はとくにそうだと思います。
 
 宮崎監督の,飛行機についての「妄想」を集大成した映画。
 それだけに,わくわくする冒険も,笑いも,「かわいい」も,あんまり(ほとんど)ありません。
 でも,これだけの「見世物」をつくれる人は,日本はもちろん,世界でもめったにいないでしょう。

                       *

 そして感じたのは,「やっぱり巨匠のオリジナル作品はいい」ということです。

 スタジオジブリのお弟子さんたちの作品も,たしかにいいのです。今の日本でトップクラスの技量を持つ,すごい人たちだと思います。
 でも,宮崎監督自身による作品は,やはりちがう。
 ひとつひとつのイメージや描写の「切れ」がちがう,といったらいいでしょうか。私の表現力ではうまく表せない…

 建築や工芸など,その他の表現でも,こういうことはあります。
 オリジナルの巨匠と,そのすぐれた弟子たちのあいだのちがい。
 「微妙なちがい」というのか,「圧倒的な」というのか,わかりませんが。

 とにかく「自分がほんとうに観たいのは『ジブリ作品』ではなくて,『宮崎作品』なんだ」ということを再確認しました。
 また「新作」を観れるかなあ…

 それから,もうひとつ確認したのが,こういうすごい作品をみたときの「感動」が,少年時代や若いときほどではないということ。たしかに楽しんでいるし,じわじわくるものはあるのですが,10代や20歳ころのときとは感覚がちがう。

 『カリオストロの城』をはじめて観たときのような「わくわく」感を,オレはもう(映画では)味わえないのか?

 あたりまえといえばあたりまえですね。さびしいことだといえば,たしかにそう。
 でも,年輩の方からは「お前くらいの年(40代後半)で何言っているんだ」と言われてしまうかも…

(以上)

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2013年07月26日 (金) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの36回目。

 「読書論」の話を続けています。
 昨日(7月25日初心者は書籍から)に続き,「知識や情報を得るための,さまざまな媒体」について。書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話です。

 以下,述べているのはごく基本的なことですが,確認しておきたいと思います。


インターネットの情報は,取り扱い注意。

 前回の記事(初心者は書籍から)で,「新聞記事の情報は,整理されていない」ということを述べましたが,それは本や雑誌とくらべてのことです。インターネット上の情報とくらべれば,新聞の情報は非常に整理されたものです。

 最近は「新聞は読まない。ネットのニュースで十分」という人も多いです。たしかに世間の常識を知るだけなら,それでいいと思います。しかし,少し突っ込んで社会のことを知ろうというのなら,新聞は読んだほうがいいでしょう。

 新聞を一度ていねいに読んでみてください。本当にいろんなことが載っています。

 政治・経済などのニュースだけではありません。その背景になる知識の解説や,より大きな流れを論じたコラムもあります。
 出版,美術,音楽などの文化を扱った記事もあれば,健康,料理,レジャーなどの生活関連の情報もあります。
 あなたの関心に触れるものが,必ずあるでしょう。

 それらの情報は,記者たちが世間のいろんな出来事や情報から,「知らせる価値がある」というものを選んで集めたのです。そして,私たちに届くまでにいろんなチェックを経ています。

 私は以前の仕事(会社を立ち上げたことがある)の関係で,新聞の取材を受けたことがあります。
 その取材のインタビューのあと,数百文字の記事をまとめるにあたって,記者はいろんな事実関係を(電話で)再確認してきました。記事にまちがいがないように,ということです。

 新聞記事は一般に,相当な取材や確認をして書いているのです。さらに,記事の原稿を上司や専門部署がチェックすることも行われます。

 このように,手間ヒマかけた情報がたくさん集まっているのが新聞です。読んで勉強にならないわけがありません。
 ただ,初心者には情報が膨大すぎて扱いにくい面がある,ということです。

 本や雑誌をつくる出版社でも,信頼できる著者が書いた原稿を,編集者や専門部署がチェックしています。実績や信頼のある出版社ならば,それを行っています。

                         *

 これに対し,インターネットの情報の多くは,新聞や出版社で行うような選別やチェックが入っていません。

 選別がなされず「いろんなものがある」というのは,インターネットの魅力です。
 しかし,きちんとしたチェックが入っていないのでは,まちがいが多くなります。

 いい加減な人がでたらめを書いても,そのまま「情報」として公開されてしまう。それがネットの世界です。

 インターネットの情報は,伝統的な出版の情報にくらべると,各段に信頼性が落ちるのです。中には信頼のおける発信者もいますが,全体でみれば少数派です。だから扱いがむずかしいです。

 もちろん,本や新聞の情報にもまちがいはあります。きちんとした出版社の本でも,「これはまちがいだ」と気がつくことはあります。
 本に書いてあることでも,簡単にうのみにしてはいけません。それでも,多くのネットの情報よりはずっと確かです。

 だから,ネットの情報とうまくつきあうには,それなりに勉強していないといけないのです。
 勉強していれば,情報の「あやしい部分」と「使える部分」を区別して利用できます。それさえできれば,インターネットはとても便利な道具です。いろんな知識への手がかりを与えてくれます。

 しかし,勉強していないと,ネットのまちがいをうのみにしてしまいます。それをくり返していると,頭の中にガセネタをいっぱい抱えることになります。

 そうならないためには,どうしたらいでしょうか? 

 大事なのは,調べものをするとき,インターネットばかり使わないで活字の情報にもあたることです。
 
 多くの専門家は,ちょっとした調べものは,まず専門の辞典にあたります。こうした辞典は,専門家が書いた原稿を,ほかの専門家が徹底的にチェックしてつくります。とくに信頼度の高い出版物なのです。

 だから私たちも,関心のある分野については,専門辞典などの参考図書を手元に置くといいでしょう。辞典には,プロ仕様の本格的なものだけでなく,ふつうの人にも扱いやすい小型のものもあるので,それでいいです。それを,機会があるごとにひいてみるのです。

 そうやって勉強を重ねていくと,ネットの情報をうのみにはしなくなります。そして,ネットの世界に活字の情報を補うものをみつけて,うまく使えるようにもなるはずです。

(以上,つづく)

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テーマ:雑学・情報
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2013年07月25日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの35回目。

 「読書論」の話を続けています。
 今回と次回は,「知識や情報を得るための,さまざまな媒体」について。書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話です。


初心者は,書籍から入る。

 知識や情報を得るのには,いろんな媒体があります。出版物では,書籍,雑誌,新聞です(インターネットについては,つぎの項で述べます)。

 ところで,「書籍=本」の定義って知っていますか? 

 教育学者の板倉聖宣さんによれば,「背表紙があるかどうか」が大事なのだそうです。綴じてある印刷物は背表紙があれば「本」,なければ「小冊子」です。

 初心者にとって一番大事なのは,書籍です。
 最も体系的で,まとまった情報が手に入るからです。初心者は,まず全体像をつかむことです。

 書籍が弱いのは,「情報の新しさ」です。
 書籍の出版には,一般には数か月以上の時間がかかるので,時事問題などの最新情報を盛り込むことができません。
 
 そこで,書籍を軽く見る人がいます。読書や勉強法を案内する著者の中にも,そういう人がいます。

 でも,それはすでに「プロ」になっている人の見方です。
 プロにとって大事なのは最新の情報なので,そんなことを言うのでしょう(そもそも,出版された情報自体,プロにとっては「古い」という場合も多いです)。
 だから,初心者は真に受けてはいけません。

 経済のことを知ろうとして,いきなり日経新聞を読み始める人がいますが,無駄の多いやり方です。
 個別の記事はなんとか理解できたとしても,記事どうしの関連や,経済全体の流れはなかなか見えてきません。新聞記事だけでそれがわかるというのは,達人です。

 新聞記事は,出版の世界では最も整理されていない,ナマに近い情報です。
 初心者は,もっと整理された情報から入ったほうがいいのです。つまり,書籍から入っていく。つぎは雑誌で,新聞はそのあとでもいい。

 多くの人は,「最新情報」が大好きです。でも,最新情報ばかり気にしていると,物事が全体としてどうなっているか,いつまでたってもわからないでしょう。

(以上,つづく)

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2013年07月24日 (水) | Edit |
 このブログで使っているアクセス解析で,「検索キーワード」というのがあります。「こんな言葉を検索して,このブログに来てくれた人がいる」というのがわかります。

 昨日の「検索キーワード」をみると,「ボン基本法とワイマール憲法」といった言葉が目立ちます。
 このブログの過去の記事に,これをテーマにしたものがあるのです。

 来訪者が1日に数十人ほどのこのブログで,昨日はそれが10件ほど。今日(朝6時台)みても,すでに同じようなことが5件。おとといはそうでもなかったので,昨日からの現象です。
 なぜでしょうか? どなたかがドイツの憲法のことを話題にされたのでしょうか?
 
 もしもそうだとしたら,その背景には今回の参院選の結果があるでしょう。
 つまり,「憲法改正」ということに,一定の現実性が出てきた。それで憲法の話が盛り上がっている…

 今回の選挙によって,憲法改正(改憲)を主張する自民と公明だけでは参議院の3分の2をおさえることができませんでしたが,みんなの党や維新といった,やはり改憲を主張する政党とあわせると,3分の2程度になりました(微妙なところですが)。
 そして,衆議院は自民と公明が3分の2以上をおさえています。
 
 私たちの憲法では,憲法改正の発議(国民投票で可否を問う)をするためには,衆参両院それぞれで総議員の3分の2以上の賛成が必要です。この「要件」をクリアできる現実的な可能性がでてきたわけです。

 ***

 そもそも,「憲法」って何のためにあるのでしょうか?

 一番の目的は,「国家権力の暴走やエラーを防ぐ」ということです。
 
 国家権力が暴走すると,大事なものが侵されます。

 それは「基本的人権」です。

 もっと抽象的に集約していうと,「幸福」あるいは「幸福を追求する権利」が侵される。

 国民の基本的人権や幸福が,国家権力によって侵されないように,国家に対しいろんな縛りをかけている。それが憲法の一番重要な部分です。

 「三権分立」ということは,そのためのシステムです。
 国の機構を立法・行政・司法に分け,立法や行政が憲法や法律に違反したら,司法がこれに「待った」をかけることができる。

 司法が判断の基準とする,最高のルールが憲法です。
 その憲法では,国民の基本的人権や幸福追求権が,「肝」になっている。

 日本国憲法には,「表現の自由」のような,いくつかの基本的人権を定めた条項があります。
 そして,それらの「人権」を抽象的に集約したといえる「幸福追求権」を定めた第13条がある(「すべての国民は個人として尊重される。また,生命,自由,幸福を追求する権利を持っている」とある)。

 この「13条」的なことがらを,いかにして守るか。
 
 そこで「憲法」というルールがあります。
 国家権力といえども,憲法を頂点とする「法」に従って行動しないといけない。
 憲法では,守るべき基本的人権を定めている。

 こういう考え方を「立憲主義」といいます。

 日本国憲法について考えるとき,この「立憲主義」の考え方や憲法13条の重要性といったことを,まずおさえないといけないと思います。
 でも,学校の授業やよくあるマスコミ的議論だと,第9条あたりから入ってしまうことが多いです。
 9条の問題はたしかに重要です(憲法にあることは,たいていみんな重要です)。

 でも,憲法の基礎や原理という観点だと,13条にくらべればやや「枝葉」なのです。

 ましてや「国の伝統を重んじる」「家族の絆を大切にする」「国歌や国旗」といったことの宣言(一部の「改憲」を主張する人たちが重視すること)というのは,もっと「枝葉」といっていいでしょう。

 もちろん,社会や文化の問題として,伝統も家族も国との向き合い方(愛国)も,きわめて重要なことです。それは当然です(ここはくれぐれも誤解のないように…)
 でも,「憲法」の主題とは,ちょっとちがうのではないか,ということです。

(以上)
  
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2013年07月23日 (火) | Edit |
諏訪団地2
 
 以下は,2013年2月23日の記事の再放送です。このブログの団地関係の記事のなかでは,今もときどき訪れる方がいて,拍手も多いほうです。ブログをはじめたごく初期のころの,代表的記事のひとつだと,自分としては思っています。

                        *
 
 両親は,私が6歳だった1971年に,多摩ニュータウンの諏訪団地に引っ越してきました。この団地は,多摩ニュータウンの最も古いエリアで,そこへの初入居組でした。
 その諏訪団地で,私は育ちました。
 上の写真は,2010年に撮影した諏訪団地。
 
 その後,20代のときに実家を出て,ワンルームマンションなどで一人暮らしをしましたが,30代で結婚したときに,平成に建て替えられた公団の賃貸に引っ越しました。
 そして7年前からは,実家の近所にある団地(1978年築)を買って,リノベーションして住んでいます(2月9日の記事「団地リノベーションの我が家」参照)。

 つまり,「公団」とか「団地」ばかりで暮らしてきたのです。
 諏訪団地の前も団地住まいだったので,これまでの人生48年のうち,40年くらいは団地暮らし。

                       *
 
 私が団地リノベーションの話をすると,「団地マニアなのですか?」と聞かれることがあります。
 たしかに「団地好き」なのですが,そういわれると違和感があります。

 「マニア」という言葉には,「鉄道マニア」のように,好きなものを趣味的に鑑賞するニュアンスがあります。
 でも,私にとって団地は「愛すべき,身近な実用品」です。あるいは,きわめて「現実的なもの」といったらいいでしょうか。
 団地をみて,胸が高鳴るかんじはありません。「萌え」たりなんかしません。
 でも,日常のなかで触れていると,じんわりと「いいな」とか「ほっとする」というかんじはあります。
 
 だから,「団地マニアですか?」と聞かれたら,こう答えます。

 「いえ,私は団地エリートです。」

 団地エリート。
 ちょっとひらきなおった,私の造語です。
 相手はたいてい,クスッと笑ってくれます。

 「団地エリート」などと名乗るのは,「団地をよく知る人間として,その魅力をみんなに伝えたい」という気持ちからです。
 
 私が考える「団地エリート」の要件は,つぎの3つ。

 1.子ども時代に,団地で暮らしたことがある
 2.大人になってからも,団地で暮らしたことがある
  (できれば今現在暮らしているほうが望ましいが,必須ではない)
 3.団地暮らしへの愛がある

  
 これらをすべて満たす方は,恥ずかしがらずに,ぜひ「団地エリート」を名乗ってくださいね(笑)。
  
 以上の「要件」については,「そもそも団地とは何か」という問題もあるのですが,これはまた別の機会に。

                         *
 
 諏訪団地の写真をいくつか。
 建物中心の風景だけでなく,緑いっぱいの公園のような団地内の歩道や,実家のキッチン,洗面台も(2010~2011年撮影)。
 ただし,これらの風景は,今はもうありません。諏訪団地は,2011年に建て替えのための取り壊しがはじまりました。今は新しい集合住宅が完成しつつあります。
 諏訪団地のことは,またいずれ。
 
諏訪団地1

諏訪団地3

諏訪団地・歩道

諏訪団地・キッチン

諏訪団地・洗面

(以上)

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テーマ:建築デザイン
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月22日 (月) | Edit |
 昨日は,参院選の投票に行ってきました。
 30数年前に自分が通っていた中学校が投票所です。自宅から数分のところにあります。

 いろいろあって,少し忙しかったので,「しんどいなー」と思いながらも,行ってきました。

 選挙の投票というのは,だいじなこととはいえ,結構めんどうなものです。
 ほかにもいろいろ予定や,しなくてはいけないことがある。
 「行くのは当然」という感じとは,ちょっとちがう。
 
 でも,「ちゃんと投票している」という(自分のなかでの)「実績」をつくりたい,という気持ちがある。「投票をさぼった」という後ろめたい気持ちはイヤだ。
 このブログで,参院選関係の記事をアップしたこともある。
 それで,がんばって行っている,というところがあるのです。

 今の,平和で安定した時代の私たちの感覚は,そんなところではないでしょうか(いい悪いは別です)。

 それでも,今回もとにかく投票してきました。
 「権利の持ち腐れ」をしなかった。すっきりした気持ち。

 ***

 今朝の新聞で,選挙結果の集計をみる。

 つい数か月前には野党だった党が圧勝し,「安定政権」の基盤を得た。
 その一方で,前に政権を担っていた党が,見る影もない状態になっている。
 小沢一郎さんのような,数年前の選挙では圧倒的な手腕を発揮した政治家の率いる政党が,議席をとれなかったりもする。

 これって,すごいことじゃないか。

 私たちは,ほんとうに選挙で政権を選べるようになったのです。

 どの政党や政治家がいい・悪いということはとりあえずおいて,そのこと――私たちがはっきりと「選ぶ」ようになったことを「前進」ととらえたらいいと思います。
 今回の選挙で,いちばん感じたことは,それでした。

(以上)
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テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月22日 (月) | Edit |
 今日7月22日は,遺伝の法則の発見者メンデルの誕生日です。
 そこで,彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を,400文字程度で紹介するシリーズ。

メンデル

埋もれていったアマチュア研究

 1800年代のなかば,オーストリア(現在はチェコ共和国内)の地方都市にある修道院でのこと。
 その庭で1人の修道士が,本来の仕事の合間に,エンドウ豆を育てては何やら観察をしていました。実験なのだ,といいます。
 それは8年ほど続けられ,何か発見があったようでした。
 1865年,修道士は論文をまとめ,さまざまな科学者に送りました。
 しかし,アマチュアである彼の研究に対し,注目する人は皆無でした。
 やがて,彼は修道院長になって忙しくなり,研究はペースダウン。論文は埋もれたまま,彼は1884年に亡くなりました。
 ところが,論文が書かれて30年以上経った1900年に,複数の科学者が彼と同じ発見をします。それがきっかけで,彼の業績は高く評価されるようになりました。
 修道士の名は,グレゴール・メンデル(1822~1884 オーストリア)。遺伝の法則の発見者です。
 彼の研究は,「遺伝子研究」という新しい科学の原点になりました。無名で終わったアマチュア研究者が成しとげた業績としては,これ以上の例はないでしょう。

中沢信午著『遺伝学の誕生』(中公新書,1985),マローン著,山田五郎監修・石原薫訳『偉大な,アマチュア科学者たち』(主婦の友社,2004)による。

【グレゴール・メンデル】
 遺伝の法則の発見者。エンドウ豆を交配し,育った豆の色やシワなどの形質について統計をとると,みごとな数量的法則性があることを発見。それが遺伝的形質を伝える因子(遺伝子)の存在を示す証拠となった。
1822年7月22日生まれ 1884年1月6日没


 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)

四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
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(以上)
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2013年07月21日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの4回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 4

1.夜の地球儀の世界史

最初の「光」の一点までさかのぼる

(これまでの話)

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。
 「都市の灯り」=「文明の分布」といってもいいです。

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体


 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。
 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸。

夜の地球儀・北アメリカ

 そして,ヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港など。

夜の地球儀・東アジア

 では,2000年前の「光」=「文明の分布」は,どうだったのか?
 電灯もなかった2000年前には,今のような強い光を放つ都市はありませんでした。しかし,「超高感度」のカメラで当時の「夜の地球」を撮ったら,どのへんに「光」が集まっていたでしょうか?

 現代と2000年前では,「光」の分布はかなり異なっていました。

 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 さらに2000年さかのぼって,今から4000年前(紀元前2000年)の世界では,「光」=「文明」の分布はさらに変化しています。

 「光」のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
4000年前のユーラシア

 
5000~6000年前――最初の「光」の一点

 さらに,2000年さかのぼって6000年前になると,「夜の地球」は,どうなるか?

 光の点は,ほとんどみえなくなります。

 かすかに,メソポタミア(今のイラク。チグリス川とユーフラテス川の沿岸)に小さな点がみえるくらい。ほかの地域には光はみえません。

 それが,5500年前になると,メソポタミアの「光」が,かなりはっきりしてきます。
 世界最古の本格的な「文明」とされる,大きな都市は,およそ5500年前にメソポタミアで誕生しました。

5500年前の世界
オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域
5000年前の光の1点

 そのような大きな都市の代表のひとつが,シュメール人と呼ばれる民族が築いた,「ウル」や「ウルク」という町です(なお,「シュメール」というのは現代人がとりあえずつけた名前です。「シュメール人」が自分たちをどう呼んでいたのかはわかっていません。)。

 5200~5300年前のウルクは,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほどの面積で,土を乾燥してつくったレンガの城壁に囲われていました。
 そこには1万人くらいが住んでいたと考えられています。

 この人口は,発掘調査でわかる都市の面積(≒城壁の内側の部分)からの単純な推定です。「1ヘクタールあたり約100人」という人口密度を想定しています。その根拠は「メソポタミア(とその周辺)に今も残る伝統的な街並みの人口密度がそれくらい」ということです。荒っぽい計算ですが,一定の参考にはなります。

 さらに4700~4800年前には,ウルクの面積は400~600ヘクタールにまで拡大していました。
 おそらく人口数万人になっていはずです。

 4000数百年前,日本では縄文時代のころに,世界の最先端をいく地域では,そんな都市がすでにあったのです。

 下の写真は,5000年前ころのウル(ウルクではない,シュメール人のもうひとつの代表的都市)にあった,「ジッグラト(聖塔)」といわれる,神殿のような建物です。ただし,現代の復元です。煉瓦づくりで,幅数十メートル,高さ十メートルほど。

ウルのジッグラト
ウルのジッグラト(山川出版社『詳説世界史』より)

 世界で最も古い文字は,ウルクで5200年前ころに生まれました。「楔形(くさびがた)文字」というものです。有名なエジプトの「ヒエロクリフ」という象形文字の誕生は,それより100~200年ほど後のことです。

 シュメール人の文明は,それが誕生してから数百年のうちにエジプトにも伝わり,古代エジプト文明の誕生を促しました。多くの人の常識とはちがうかもしれませんが,「古代エジプト文明は,メソポタミア文明の影響で生まれた」と,学者の多くは考えています。

 5000年前の「夜の地球」では,メソポタミアと並んで,エジプトにも光の点がみえるようになります。

 シュメール人の古い都市は,「夜の地球儀」でみる世界の歴史のなかの,「最初の光の一点」といっていいでしょう。


都市を生んだ,青銅器時代の技術革新

 5000~6000年前の世界でウルクのような都市が生まれた背景には,技術の革新があります。「産業革命」に匹敵するようなことが,数千年前にもあったのです。

 7000年前ころから5000年前ころにかけてのメソポタミアとその周辺では,技術革新の大きな波が起きていました。

 それは現代の私たちからみれば,千年単位の長い時間をかけたゆっくりの変化です。しかし,当時としてはそれまでに経験したことのない早いペースで,革新がつぎつぎと行われたといえるのです。

 この時期に,人類ははじめて鉱石を溶かして金属をつくり出すこと(冶金(やきん)という)を行いました。
 鉄器による本格的な金属器の時代はまだですが,青銅器などをつくる冶金の技術が生まれたのです。

 青銅器は,素材や道具のメインにはならなかったとはいえ,当時の技術の象徴といえます。
 だからこの時期の革新は「青銅器時代の技術革新」といってもいいでしょう。

 車輪や犂(すき)が発明され,これを牛などの家畜にひかせることもはじまりました。
 帆掛け船もこの時期の発明です。

 そして,5200年前ころには,文字も発明されたのでした。

 また,測量や天文観測の技術も発達しました。
 5000年前(紀元前2900年前ころ)には,1年を365日とする暦も生まれました。

 金属器,文字の使用,車輪,犂,帆掛け船,1年365日の暦――どれも,文明にとって「基本中の基本」といえるものです。これらはすべて,メソポタミアやその周辺のエジプトなどではじまったのです。

 新しい農業のやり方も生まれました。川から水路で田畑に水をひいて行なう農業――灌漑(かんがい)農業というものが大規模に行われるようになったのです。

 灌漑農業以前の,雨に頼るだけの農業は,西アジア(イラク,エジプト,シリア,イラン,トルコなどの地域)で1万年前ころからはじまっていました(これが世界でも最も初期の農業だと考えられています)。

 その後メソポタミアでは,8000年前ころから,灌漑農業が小規模に行なわれるようになり,7000年前ころからは,これまでにない本格的な形で行われるようになりました。
 その結果,それまで未開拓だった多くの土地が畑に変わりました。
 畑は,牛に犂をひかせるなどの新しいやり方も用いて耕されました。
 そうやって食糧の生産も人口も増えていったのです。

 また,灌漑農業を大規模に行うには,組織的な運営も必要です。水路の建設やメンテナンスなど,大掛かりな作業を仕切るリーダーや組織が必要になるのです。
 こうした治水(水のコントロール)や農作業を統括するリーダーのなかから,「王」といえるような権力者が生まれた,という説もあります。

 そして,そうした権力者のもと,当時の技術を総動員して,ウルクのような都市が建設されたのだろう,ということです。

(以上,つづく)
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ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月20日 (土) | Edit |
7月の団地の風景
7月の団地の風景。7月14日の猛暑の日,修理の済んだデジカメで。

 7月6日の記事で,コダックのデジカメV570を修理に出すという話をしました。

 6~7年使った愛着のあるコダック製のデジカメが壊れた。でも去年「経営破たん」したコダック(会社は存続)で,修理の受け付けはどうなっているんだろう? コダックに電話したら,修理・メンテを引き継いでいる会社がわかって,そこへカメラを宅配便で送った。先々週のことです。

 1週間後,予定通りカメラが直り,戻ってきました。
 修理代金は,宅配便の代引きで支払う方式。レンズを動かすモーター関連の修理をして,1万4000円ほど(配送料含む)。

                        *

 あと,思い切って,2年前に壊れたまま放置しているリビングのエアコンも,修理を頼むことにしました。
 このエアコンはシャープ製。
 最近,経営危機がとりざたされたシャープ。ちょっとコダック的な要素があります。修理の体制は今どうなっているのか?

 先々週の後半,シャープに電話すると,すんなりと2日後の日曜日に来てくれました。シャープ製品の修理を請け負うグループ会社のスタッフの人です。

 でも,こちらは修理できませんでした。
 室外機のファンの動きを制御するプリント基板に故障があったのだそうですが,そのプリント基板の在庫がない。ウチのエアコンは13年前(2001年)の製品です。そのくらい古くなると,そういうことがある。

 たかだか13年前の製品で,修理用部品の在庫がない……

 メーカーにとっては,「たかだか13年前」ではないのかもしれません。「13年」は大昔なのでしょう。そんなに長く使ってもらってもねえ…というわけです。

 でも,当時20数万円で買った製品です。
 10年20年くらい使うのはあたりまえのように思います。
 少なくとも,私のように考える人は,今は増えているはず。

 そして,メーカーによっては「長く使う」ことに対応しているところもあるでしょう(日本の家電業界では,どうなのかはわかりませんが)。でも,シャープは残念ながらそうではなかったようです。

 シャープの製品は,デザインが結構好きだったのです。
 いかにも日本の家電らしいゴテゴテ感がない。かといっていかにも「美しいでしょう」と頑張っている感じでもない。つまらない「凡人」な感じ,プレーンな感じの良さが,シャープの製品にはあったように思えます。少なくとも,私が今よりもいろんなモノを買っていた90年代から2000年代前半にかけては,そうでした。

 でも,修理できないんじゃ,しょうがない。

 というわけで,今年の夏も,ウチのリビングはエアコンなしでいきます。
 この夏に,お友だちがウチに集まる機会もあります。いらっしゃる方は,申し訳ないのですが,Tシャツなどの涼しめの格好で来ていただいたほうがいいかもしれません…

(以上)

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テーマ:あれこれ
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月20日 (土) | Edit |
 まとまった文章・作品を書きたいなら,ブログなんて書いている場合ではない,という考え方があると思います。

 ブログの文章の基本は,「小さなピース(かけら・断片)」です。
 理想的には数百文字くらいで,その枠内でまとめられる何かを題材にする。

 どうしてもこじんまりした,ちょっとした話題が中心になります。

 人生や社会の大問題を論じることもありますが,そのときは,系統的にあれこれ分析することはなく,感覚的な意見,抽象的な思いを述べてまとめる。その意見や思いを,どのように語るかで勝負する。鋭く語ったり,熱く語ったり,笑えるように語ったりするわけです。

 これはこれで,面白いと思います。

 「小さなピース」の世界は,今の文化の主流になっています。
 これは,最近はよくいわれることです。
 音楽ならアルバム全体を聴くのではなく,1曲ずつダウンロードする。長編映画よりも,ネットで短い映像をみる。百数十文字のつぶやきを追いかける。ネット上だけでなく,紙の雑誌の記事も,数百文字以内の短いものが増えている。

 この傾向は,これからますます強まっていくでしょう。

 でも,文章を書くとき「小さなピース」ばかりを追いかけていると,長い時間をかけてまとまった作品をつくることができなくなります。個人の時間はかぎられています。 

 だから,長編で何かをものにしたいなら,ブログなんか書いている場合ではない,というわけです。
 私も,以前はそんなふうに思っていました。

 でもある時期から,「ブログを,長編の・まとまった何かを完成させることに使ってみよう」と思うようになりました。

 私には,「こんな本を書いてみたい」と思うテーマがいくつかあります。その原稿の一部または大部分もできています。
 それを,ブログの記事にして公開していこう。
 それを重ねながら,ブログ上で「本」にする原稿をつくっていったらどうだろうか。
 公開することで,読者からの反響があれば,書くことにも弾みがつく。反響をもとに,内容もさらに充実させることができるだろう。

 そう考えて,このブログをはじめました。

 このブログの記事には,いくつかのシリーズがあります。
 団地リノベのこと四百文字の偉人伝〇千文字の偉人伝5分間の世界史となり・となりの世界史

 これらは,みんな「本」の形にまとめたい,と思って記事を重ねています(『四百文字…』については,すでに出ている電子書籍を紹介したい,ということがありますが)。

 もちろん,出版のあてなどありません。でもとにかく,「1冊分」の完成原稿として誰かに読んでもらえるかたちにはしたい。すべてのシリーズでそれができなかったとしても,いくつかはそこまでもっていきたい。

 そういうわけで,このブログの記事は,ほんとうは「小さなピース」としては書かれていないものを,あえて細切れにして(多少手を加えて)アップしているものが多いです。
 新聞の連載小説みたいな感じです。

 そういうのは,ブログの記事としては,輝いてこないのかもしれません。お客さんを呼びにくいのかもしれない。
 そもそも,「小さなピースでなく,まとまったものを」なんて,時代の流れに逆行しているのかもしれません。
 
 でもまあしょうがないなあ,やりたいことをやるしかないなあ,ということでやっております。
 
 「本」を書きたいんだったら,ほんとうはこんな記事を書いている場合ではないのでしょう。
 でも,たまには自分のやっていることを自分で確認したくて,書きました。

(以上) 
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テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月19日 (金) | Edit |
 先日,私が住む私鉄沿線にある小さな古本屋の,特売本が並んでいるコーナーで,つぎの本をみつけて買いました。

 前嶋信次『玄奘三蔵 史実西遊記』(岩波新書,1952年)

 「2冊で100円」のうちの1冊です。1952年(昭和27)の初版当時のもの。背表紙が茶色くなった,古びた新書です。玄奘三蔵は,『西遊記』の三蔵法師のモデル。
 
 著者の前嶋信次(1903~1983)は東洋史家。とくに,『アラビアン・ナイト』の全巻を,はじめてアラビア語の原典から邦訳(全18巻+別巻,平凡社東洋文庫)した人として知られています。

 この「50円」の本を通勤電車で読みつつ,資料として使って,「四百文字の偉人伝」が1本完成しました。古今東西のさまざまな偉人を400文字程度で紹介するシリーズです。
 50円で,ずいぶん楽しませてもらいました。
 昨日のブルース・リーに続き,今日も中国のヒーローの話になりました…
 

玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)

タフなお坊さん

 唐の時代の中国に,玄奘(602~664)という僧侶がいました。小説『西遊記』(16世紀にオリジナルが完成)の三蔵法師のモデルです。
 彼は,「仏教発祥の地・インドへ行ってオリジナルの経典を究めたい」と志していました。
 しかし,国の許可がおりません。政情不安のため,国境の出入りが制限されていたのです。
 そこで彼は,密出国を行いました(629年)。
 最初は同行者がいましたが,すぐに1人に。人目を避けて夜道を行く。砂漠を何日もさまよったことも。
 町にたどりつけば,見知らぬ土地で旅を支援してくれる人をさがす。
 そうやって,中央アジアのルートを1年あまりかけてインドに到着。十数年学んだのち,多くの経典を持って帰国したのでした。
 心も体もタフな人です。本やドラマで描かれる「やさ男」とはちがいます。
 玄奘は,物語と史実のギャップがとくに大きい人物です。『西遊記』では,実際の三蔵法師=玄奘が持つ強さは,孫悟空に託されているのです。
 史実を知ると,「タフで強い三蔵法師」を,いつかドラマで観てみたいとは思いませんか?

前島信次『玄奘三蔵 史実西遊記』(岩波新書,1952)による。

【玄奘三蔵】
 仏教の発展に貢献した僧侶。帰国後は,持ち帰った経典の翻訳に取り組み,没するまで十数年にぼう大な漢訳を行った。当時,類のない規模の翻訳事業であり,論理学や文法学にも寄与した。彼の旅行記『大唐西域記』は,史料としての価値が高い。
 602年生まれ 664年3月7日没
 

 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)

四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
秋田総一郎

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(以上)
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テーマ:歴史
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2013年07月18日 (木) | Edit |
 あさっての7月20日は,俳優ブルース・リーが亡くなった日です。
 彼が病気で急死したのは,1973年のこと。32歳の若さでした。今年は亡くなってから40年目。もしも生きていたら,70歳過ぎになっているんですね…

 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。

ブルース・リー

ドラゴンは勉強家

 映画『燃えよドラゴン』などで知られる俳優ブルース・リー(李小龍,1940~1973,香港)。1970年代に,今の私たちがイメージする「カンフーのアクション」というものを確立し,世界に広めた人です。
 彼は,32歳の若さで病死しました。その遺品には,何千冊もの蔵書や,武術や東洋思想を論じた原稿がありました。
 それらをみると,彼が「多くの本を読む勉強家で,武術の本格的な研究者だった」ということがわかります。
 これは,彼の一般的なイメージ――独特の叫び声を発しながら闘っている姿――とはかなりちがうと思いませんか?
 しかし,それだけ熱心に自分の専門を掘り下げていったからこそ,彼のアクションには,ほかの人がマネできない魅力が生じたのではないでしょうか? 
 やっぱり,どんな分野でも,道をきわめるのは「情熱をもってよく勉強する人」なのです。

参考:リンダ・リー著・柴田京子訳『ブルース・リー・ストーリー』(キネマ旬報社,1993),四方田犬彦著『ブルース・リー ――李小龍の栄光と孤独』(晶文社,2005),ブルース・リー,ジョン・リトル『ブルース・リー ノーツ』(福昌堂,1997)

【ブルース・リー(李小龍)】
 カンフーを世界に広めた俳優・武術家。香港で育ち,子役で映画に出演。大学を出たアメリカで道場を開いたが,のちに俳優となり,おもに香港映画で活躍した。代表作『燃えよドラゴン』公開の年に病のため急死。
1940年11月27日生まれ 1973年7月20日没


読書するブルース・リー
(『ブルース・リー ノーツ』福昌堂 より)

読書するブルース・リー


 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
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2013年07月17日 (水) | Edit |
 「自分で考えるための勉強法」シリーズの第34回目。
 
 最近は「読書論」をやっています。
 でもじつは,「読み方」よりも,「本との出会い方」や「選び方・買い方」が,このところのテーマです。

 では本筋から外れているかというと,そんなことはありません。
 「本との出会い方」「買い方」は,じつは読書論の重要なテーマなのです。


本屋で手にした本が,「三年以上前の出版」で
「最近も増刷されている」なら買いだ。


 「本屋さんで手に取った本が,買うに値するかどうか」という見きわめは,むずかしいものです。

 ひとつの目安があります。
 「その本が,三年以上前に出たもので,かつ最近も増刷されているなら,いい本である可能性が高い」ということです。

 買おうかどうか迷っているとき,この条件にかなうなら買うといいでしょう。

 「その本が,いつ初めて出たのか。増刷されているか」については,本のうしろにある「奥付」という欄に書いてあります。奥付からは,いろんなことを読み取ることができます。

 本というのは,すぐに書店の棚から消えていきます。
 書店の棚のスペースは限られています。新しく出た本は並べてはみますが,売れなければ返品です。そして,「品切れ・絶版」となっていきます。新刊書店では手に入らなくなるのです。

 また,本というのはそんなには売れないものです。特別に有名な作家のものは別として,ふつう初版で印刷するのは「何千部」です。その「何千部」を売り切って増刷できるのは,全体からみて少数派です。

 「三年前から本屋に並んでいて,増刷もされている」というのは,本の中では成功したエリートです。

 とくに「三年以上前に出ていて…」というのは,重要な点です。

 それで最近も増刷されているとしたら,単に売れている,ということだけでなく,その本に息の長い需要があることを示しています(「最近」というのは,三年前の本ならここ一年以内くらいでしょうし,十年前の本なら,ここ二~三年でしょう)。
 ということは,それだけしっかりした内容なのではないかと予想されます。
 より古く,より多くの増刷を重ねているほど,その可能性が高いです。

 本のことを知らないと,新しい本に価値があると思いがちです。
 でも多くの場合,「生き残っている古い本」のほうが,たいていの新しい本よりも値打ちがあるのです。
 読書家なら,そのことを知っています。

 こういう「古い本の価値」ということも,最初に知ったのは,板倉聖宣さんの著作やお話からでした。
 板倉さんは,私が「この人のアタマを少しでもマネしたい」と,その著作を読んで学んできた,私にとっての「先生」です。

 このシリーズでは,以前に科学史家である板倉さんの科学論をもとに「科学とは」といったことを,述べています。 関連記事:学問と科学のちがい 
 「科学とは」のような大きなことも,今回のような「本の見極め方」のような具体的なノウハウも,「先生」から学ぶことができるのです。

(以上)
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テーマ:読書メモ
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2013年07月16日 (火) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの3回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

となり・となりの世界史 3

1.夜の地球儀の世界史

4000年前の「光」の分布は?

 「夜の地球儀の世界史」という話を続けています。
 人工衛星からみた夜の地球で「都市の灯り」がどのように分布しているか。

 まず「現代」からはじめて,前回は2000年前の様子について。

 やはり,現代と2000年前では,分布の範囲がかなり異なっていました。
 現代世界の繁栄の「中心」である,北アメリカ,西ヨーロッパの主要部(イギリス,ドイツ,フランスなど),そして日本は,2000年前の世界では,「辺境」にすぎません。 

夜の地球儀(2000年ころの地球の夜景)
夜の地球儀・全体

西暦100年代のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
西暦100年代のユーラシア

 ではさらに,2000年さかのぼると,どうだったのでしょうか? 
 今から4000年前(紀元前2000年)の世界です。そのころの「夜の地球」を宇宙からみたら,どんな様子でしょうか?  
 光の分布は,さらに変化しています。

 光のかたまりは,かぎられた地域にしかみられません。メソポタミアとエジプトの周辺,それからインド北西部のインダス川流域。4000年前の世界で,本格的な「文明」が栄えているのは,これらの地域だけでした。

4000年前の世界(オレンジの部分が,本格的な「文明」の栄えていた地域)
4000年前のユーラシア

 ほかの地域には,ほとんど光はみえません。

 地中海沿岸のイタリアも,ギリシアも真っ暗です。中国にはいくらか光の点がみえますが,メソポタミアなどにくらべると,小さいです。だから,上の地図では省いています。中国は,「文明のはじまり」が,メソポタミアやエジプトにくらべると,かなり後になるのです。

 中国で「最古の王朝」とされる「殷」(いん)が成立するのは,3600年前ころのことです。
 その前にも「夏」という王朝があったという説が最近は有力ですが,そこまでさかのぼっても4000年前です。4000年前の時点だと,まだ「できたて」で,ごくかぎられた存在です。

 2000年前もそうでしたが,ここにも「今とちがう世界」があるわけです。
 今とまったくちがう世界。

 「文明」とは何か,というのはむずかしい問題です。とりあえず,ピラミッドやパルテノン神殿のような大建造物,金属器,文字といったものがあって,王様のような権力者がいる,そんな状態をイメージしましょう。
 そのような社会であれば,そこには「文明」があるといえるでしょう。

 たとえば,文字が使われていたのは,4000年前の世界ではメソポタミア,エジプト,インダス川流域だけでした。ほかの地域では,文字はまだありません。
 中国でも,原始的な漢字(甲骨文字)ができるのは,3200年前(紀元前1200年)ころのことです。

「何万人」といった人口が密集して住む,大きな集落=都市は,4000年前の世界にすでにありました。

 しかし,それが存在していたのは,当時はこれらのかぎられた地域(メソポタミア,エジプト,インダス川流域,あとは中国も可能性がある)だけでした。人口「百万人」とか「何十万人」という都市は,まだ世界のどこにもありません。
 
 ほかの地域では,最も大きな集落でも「数千人」の規模でした。そして,世界にある集落のほとんどは,数十人から数百人の規模の,小さなムラだったのです。


4000年前,「光」の分布はかぎられていた

 ただし,4000年前の世界の「夜の地球儀」をつくるには,2000年前の時以上に高感度なカメラが必要になります。そのころにさかのぼっても,やはり「文明」はあったわけですが,都市の明かりはさらに弱いものだったからです。

 2000年前のローマ帝国では,オリーブ油を燃料とするオイルランプが広く使われていました(下の写真)。現代の照明とくらべれば,ささやかなものです。それでも,かなりの人たちのあいだで,「夜の明かりがある暮らし」が行われていたということです。

古代ギリシアのランプ
古代ギリシア(紀元前600~200ころ)のオイルランプ
円形のボディに油をため,急須の口のような部分に灯心をつける。
これに近いものが古代ローマでも使われた。


 ほかの大国では,おそらくローマ帝国ほどではないにせよ,それに準じた「都市の明かり」というものがあったと考えられます。

 しかし,4000年前の世界はちがいます。オイルランプのような照明はすでにありました。しかし,夜の明かりは,2000年前の世界よりもずっと貴重なものだったのです。技術が未発達で,油の生産量がかぎられていたからです。

 そこで,当時の都市の明かりは,仮に同じくらいの人口が集まっていたとしても,2000年前より弱いものでした。

 油を燃やすランプというのは,一見いかにも原始的です。そこに「技術」などというものは感じられないかもしれません。しかし,ランプという道具やその燃料が豊富にいきわたり,多くの人が日常的に使うには,それなりの生産の技術が必要なのです。とくに,燃料がそうでした。

 そのような生産技術について,オリーブ油を例にみてみましょう。

 ランプの燃料というと,地中海沿岸(ローマ帝国とその周辺)ではオリーブ油です。これは,オリーブの実の中心にある種をつぶし,そこから油をしぼり取るという方法でつくります。それには一種の機械が必要です。ひきうすや,つぶしたカタマリに圧力をかける装置などです。

 もっと簡単な道具と手作業でも油を取ることはできますが,大量生産には工夫された機械が必要でした。ネジやテコの原理などの仕掛けを用いた機械です。

 当時としては高度な技術によるもので,そういうものは4000年前の世界にはありませんでした(機械の動力はおもに人力。ロバや馬を使うこともあった)。

 オリーブ油を取るこのような機械を発達させたのは, 3000年前ころから2500年前ころのギリシア人です。オリーブ油の量産ということは,ギリシアにはじまって,のちに地中海沿岸を中心とする広い範囲に普及したのです。


鉄器という発明

 そして,手の込んだ機械をつくるには,部品のなかでとくに精密さや強度が要求される箇所に,金属を使う必要がありました。木や石でつくる部分についても,こまかい加工が要るので金属の工具は欠かせません。

 つまり,オリーブ油を量産する技術のベースには,素材や道具としての金属器の普及があったのです。具体的には鉄器の普及です。これも,4000年前にはなかったことです。

 4000年前に金属器がなかったわけではありません。当時は青銅という,銅とスズの合金がおもな金属器として使われていました。銅だけだと,もろくて使い道が少ないのですが,銅にスズをまぜると,実用に足る強さをもった金属ができるのです。

 しかし,青銅は原料の鉱石――とくにスズが希少だったので生産量がかぎられていました。このため青銅器は素材や道具の中核にはなりませんでした。

 金属器が普及して,広く用いられるようになったのは,鉄器の時代になってからです。

 鉄の原料の鉄鉱石は,青銅の原料にくらべはるかに多くとれます。その点では,量産に有利です。しかし,いろいろな技術的な壁があって,長いあいだ実用に耐える鉄の量産はできませんでした。たとえば青銅の製造よりも高温が必要,といったことがあったのです。

 しかし,3400年前ころ,今のトルコにあったヒッタイト王国という国で,製鉄の技術革新が行なわれました。当初それはローカルな技術でしたが,3200年前ころから広い範囲に普及しはじめました。
 こうして人類は鉄器時代に入ったのです。

 それは「人類がはじめて本格的に金属器を使うようになった」ということでした。

 鉄器の普及によって,さまざまな仕事の生産性が上がりました。

 鉄のスキを使うと,木製の農具よりもしっかりと土を耕せます。鉄の斧があれば,木を切りたおす作業がはかどり,木材の生産のほか,農地の開拓に役立ちます。こうしたことは食糧の増産につながりました。

 鉄製のツルハシがあれば,道路建設などの土木工事の効率が上がります。ツルハシの威力のせいだけではありませんが,鉄器の時代になってから,以前よりも道路の整備が進み,交通がさかんになりました。

 それから,鉄製の部品・素材を使うことで,いろいろな道具や機械も進歩しました。オリーブ油の製造機は,その一例です。このような工夫・改良は,ほかのさまざまな分野――製粉(粉ひき)や建築工事などでも行われています。


鉄器による「産業革命」

 鉄器の普及は一種の「産業革命」をもたらした,といっていいでしょう。

 現代の世界と2000年前の世界のあいだには,西暦1700年代にはじまった「産業革命」がありました。

 これに対し2000年前の世界と4000年前の世界のあいだには,鉄器の普及をベースにしたさまざまな変革があったのです。それは,世界史上の大きなできごとでした。

 ただしこの「鉄器による変革」は,産業革命がもたらした変革とくらべればインパクトはかぎられますし,それほど急激なものでもありません。

 照明器具のことは,それを象徴しています。産業革命以後の技術革新の結果,人びとは数千年続いたランプの暮らしをやめて,電灯を使うようになりました。1800年代後半に白熱電球が発明されてから数十年ほどで,(先進国では)そうなったのです。

 一方,鉄器による革新では,ランプを使うことは変わりません。ただ,何百年もかけてそれをより普及させたということです。

 ほかにはたとえば,馬車や帆船も同じようなことがいえます。

 馬車と帆船は5000年~6000年前に西アジア(メソポタミアやエジプト)で最初に発明されたものです。

 鉄器の時代になっても,馬車や帆船は主要な乗り物であり続けました。産業革命以後,鉄道や汽船や自動車が登場し,それまでの乗り物を過去のものにしてしまったのとはちがいます。

 それでも,鉄器の普及に基づく技術革新は,馬車にも帆船にもある程度は及びました。たとえば馬車は,木でつくられた車輪の外周に鉄の輪をはめて補強することが行われるようになりました。 それによって馬車の耐久性が大幅に増したのです(乗り心地はひどいものでしたが)。

 帆船についても,船体をつくるための木材加工の効率が,鉄の工具によって大きく向上する,といったことがあったのです。

 西アジアや地中海沿岸(ローマ帝国とその周辺)だけでなく,インドや中国などのほかの地域でも同様の鉄器による変革がありました。

 ただし,鉄器の使用のはじまりは,インドでは3000~2800年前ころ,中国では2700~2600年前ころのことです。西アジアや地中海沿岸にくらべるとやや遅れます。

 そして,これらの国ぐにの製鉄技術の起源をたどると,ヒッタイト王国の製鉄法にたどりつくと考えらえられています。つまり今のトルコの地で発明されたものが,国を超えて広く伝えられていったということです(ただし,中国の製鉄については,中国で独自に開発されたという説が有力です)。

(参考文献)R.I.ムーア編『世界歴史地図』(東京書籍),リリー『人類と機械の歴史』岩波書店,フォーブス『技術の歴史』岩波書店,オイルランプの重要性については,板倉聖宣「古代ギリシアのオリーブ・本・民主主義」『たのしい授業』2006年1月号による。

(以上,つづく)
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2013年07月15日 (月) | Edit |
古本屋に出す本

 昨日の午後から夕方にかけて,本棚の整理をしていました。
 いらなくなった本を本棚から取り出し,玄関前に積み重ねる。
 全部で200数十冊。

 これを,あらかじめ依頼していた古本屋さんが引き取りにきてくれました。
 近くにある,「本のリサイクルショップ」という感じの,大きな古本屋さんです。
 
 ある程度以上まとまった冊数だと,出張して本を引き取ってくれます。

 この団地に越してきてから,こういう整理は3度目。

 7年前に引っ越してきたときは,本棚にはそれなりの余裕がありました。

 我が家は,築30年余りの古い団地をリフォームしたものです。
 そのリフォームのときに,当時持っていた本の3~4割増しくらいは本が収まるだけの本棚を設置したのです。

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 でも,2年半ほどでウチの本棚は,ほぼ一杯になりました。

 一杯になった,ギチギチに詰まった本棚は不健全です。
 新しい本が入らない。
 それはつまり,新しい知識や考え方が流れ込みにくくなるということ。
 知識のフローが目詰まりを起こし,淀んでくる。

 だから,ときどき大掃除をしないといけません。

 本の引き取り金額は,「二束三文」というところ。
 処分するのは,数年前のビジネス書や経済書が多いですから,仕方ないです。
 とにかく,本棚にもう少し「空き」をつくらないと。

 古本屋さんは,引き取り価格を伝える前に,いつも「こういう本は,なかなか売れなくて…」といいます。今回売りに出された本は,じつに価値の低いものであると。これはもう儀式のようなものです。

 整理を終えたあとは,スッキリ。
 「宿便が取れる」という感じです(^^;)
 おかげで,数日のあいだ,私は元気で活動的になります。

 引き取ってくれた古本屋さんは,私がよくいく店です。
 今度,そのお店に行ったら,たぶん私の本棚にあった本をみかけることでしょう。
 その古本屋では,自分が買うような本のあるコーナーを覗くわけですから,そこに自分が売った本(つまり,かつて所有していた本)があるのは当然です。

 近いうちに,あの店に行って,「元・オレの本」に再会してこよう。

                        *

 家の新築やリフォームを考えている,本好きの人にアドバイスしておきたいのは,

  「新しい家の本棚は,多めに設置したほうがいい」

 ということです。

 できれば,今持っている蔵書量の2倍くらいが入る本棚を設置できたらいいのですが,なかなかむずかしいかもしれません。

 このへんのことは,出典が今みつからないのですが,建築家の渡辺武信さんの本(中公新書の「住まい方…」シリーズのどれか)にありました。昔読んだ本にあったことを,今自分なりに実感しています。
 
 新しい家で本が増えるペースは,過去の延長線上ではありません。それまでをはるかに上回るペースで増えていきます。
 新居に入ったばかりのころ,「これだけの本棚の空きがあるから,当分大丈夫」と思っても,すぐに一杯になります。

 「本棚の空きは,すぐに一杯になる」という法則があるのです。

 だから,結局は一定の間隔で本を処分しないと,どうしようもなくなるわけですが…

(以上)
 
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ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月14日 (日) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの2回目。
 何十回も続けるつもりなので,まだ序章です。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 でも今回の記事は,そんな「前口上」を読んでいなくても入っていける内容です。 


となり・となりの世界史 2

1.夜の地球儀の世界史

2000年前の「夜の地球」は?

 前回は,「夜の地球儀」(写真)というものをみながら,つぎの話をしました。西暦2000年ころに人口衛星から撮った夜景を合成し,地球儀にしたもの。

夜の地球儀・全体

・今の世界には,とくに多くの光が集まっている場所が3つある。アメリカ合衆国(とくに東側),西ヨーロッパ,日本とその周辺。これらの「先進国」は,世界の繁栄の中心といっていい。

・今の先進国と,そのほかの国ぐにのあいだの格差は,どうしてできたのか? それは,1800年ころ以降,今の先進国では「産業革命」などによって生産を飛躍的に発展させたのに対し,そのほかの国は出遅れたからである。

・しかし,1900年代後半以降,スタートの遅れた国ぐにの中に,先進国を上回るスピードで発展する,中国やインドなどの「新興国」もあらわれた。


 以上のようなことを,「夜の地球儀」をみながら,私は友人たちと話したことがあります。すると,こんなことを言う人がいました。

「アメリカ,西ヨーロッパ,日本――これが今の世界の文明をリードしている国ぐにだとすると,見方によっては辺ぴな場所にあるね。」

「西ヨーロッパも日本も,ユーラシア大陸(ヨーロッパからアジアにまたがる大きな大陸)の西と東の端っこだ。北アメリカは新大陸といって,もともとは大きな国はなかったんでしょう?」
 
 たしかに,今の世界の「繁栄の中心」といえる地域は,世界史の大部分の時代において,どちらかというと「辺ぴな場所」でした。過去の「中心」は,今とはちがう場所にありました。

 そこで,あり得ない話ですが,もしも2000年ほど前の世界を宇宙から撮影して「夜の地球儀」をつくったら,どうなるでしょうか?

 地球人よりはるかに早く高度な文明に達した宇宙人(異星人)が,宇宙から地球を観測している――そんなSF的な空想をしてみましょう。

 「宇宙人の目」で世界をみてみましょう。

 2000年前の世界にも,立派に文明といえるものがありました。とくに繁栄している国では,何万,何十万という人が住む都市がすでにできていました。

 しかし,今の世界を撮影したときと,カメラの感度が同じなら,2000年前の「夜の地球」は,真っ暗なだけになるでしょう。現代のような強い光を放つ都市は,なかったからです。

 当時の都市や集落では,もちろん今のような電気の照明はなく,油を燃やしてともす明かりが使われていました。「オイルランプ」というものです。おもに陶器の皿あるいは器に油が張ってあり,火をつける芯(灯芯)がセットされています。
皿型ランプ
皿形のオイルランプ
紀元前1500~1200ころのイスラエルでつくられた


古代ギリシアのランプ
古代ギリシア(紀元前600~200ころ)のオイルランプ
円形のボディに油をため,急須の口のような部分に灯芯をつける

 
 このようなオイルランプは,おそくとも4500年ほど前にメソポタミア(今のイラク)で発明され,その後世界の広い範囲に普及しました(中国では3500年前ころに独自に発明)。2000年前当時の文明国なら,洋の東西を問わず使われていました。

 燃料の油は,地域によってちがいますが,オリーブ油やナタネ油などの植物油が中心です。このような植物油は,今はほとんどが食用ですが,2000年前には明かりの燃料にすることが最も多く使われる用途でした。

 オイルランプは,その後改良をされながら,電灯の時代になるまで最も一般的な照明器具として使われ続けました。

 ほかにろうそくも重要な明かりでしたが,製造に手間がかかり高価でした。そこで,オイルランプのほうがより日常的に使われたのです(ろうそくの発明の時期・場所は定説がない。一説には2000数百年前のイタリア,あるいはギリシア)。

西暦100年代の光のかたまり

 このようなランプの明かりもとらえる高感度カメラで,2000年前の「夜の地球」を撮影したらどうなるでしょう? どんな光の分布になるでしょうか? 

 2000年前の世界で,光が最も多く集まっていた場所は,イタリア,ギリシア,トルコ,シリア,エジプトなどです(当時は,かならずしもその名称で呼ばれていたわけではありませんが,以下原則として今の国名・地名で説明します)。これらの国ぐにが取り囲む,大きな湖のような海は「地中海」です。

 2000年前には,地中海沿岸が世界の繁栄の中心だったといっていいでしょう。

 それに次ぐ地域もありました。メソポタミア地方(今のイラク)とその東側の周辺(イラン)。インドの北西部のインダス川流域。それから,中国の黄河流域。

 これらの地域には,当時,文明の先端をいく大国が栄えていました。地図で示すと,以下のようになります。
 「西暦100年代のユーラシア大陸」です。
 「ユーラシア」というのは,東は中国などのアジアから西はヨーロッパまでの一続きの広い範囲をさしていいます。

 オレンジ色の斜線の部分は,当時のおもな大国の領域です。当時なりの都市の「あかり」が多く集まっていたのは,この範囲のなかの一部です。どんな国ぐにがあったかについては,あとで述べます。

西暦100年代のユーラシア大陸
西暦100年代のユーラシア

 当時はまだ,アメリカやアフリカといった新大陸にはユーラシア大陸の大国に匹敵するような国がありません。

 アメリカでは,今のメキシコやチリで一定の文明が成立していましたが,そのスケールはユーラシアのものにくらべるとかぎられます。アフリカやオセアニア(オーストラリアなど)では,まだ「文明」といえるものは存在しません。

 だから,この地図の範囲がほぼ「世界」といっていいのです。
 
 なお,この地図はちょうど2000年前ではなく,1900年ほど前(西暦100年代)の世界です。この時期は,世界史上の重要な国が並び立っているので,こうやってみわたすには都合がいいです。

ローマ,パルティア,インド,中国

 上の地図をもう少しみていきます。どんな大国が,当時栄えていたか。

 まず,地中海沿岸では,ローマ帝国が最盛期をむかえていました。ローマ帝国は,当時の世界で最大・最強の先進国だったといえるでしょう。

 この時代の西暦160年ころ,ローマ帝国全体の人口は,約6000万人だったといいます。
 また,同時期の首都・ローマの人口は,約100万人になっていました。 おそらく当時の世界で最大の国だったはずです。ローマも,世界最大の都市だったでしょう。

 現代のような統計が整備されていなかった時代なので,正確な人口はわかりません。しかし,戸籍が断片的に残っているほか,遺跡の発掘でわかる市街地や公共施設(劇場など)の規模)などから,およその推定はできるのです。

 ローマ帝国の人口よりもさらに正確さは落ちますが,世界人口の推定もあります。ある推定によれば西暦150年ころの世界の人口は,3億人ほどです。だとすれば世界人口の5分の1ほどがローマ帝国にいたわけです。

 「帝国」というのは,複数の民族を支配下におく国をいいます。では「民族」とは何かというと,「言語などの文化を共有する人間の集団」のことです。言葉がたがいに(どうにかでも)通じあって,生活習慣などにさまざまな共通性がみられる集団が,ひとつの「民族」ということです。

 言葉がまったく通じない人びとをも支配下に置いているなら,その国は「帝国」といえるでしょう。
 ローマは,多くの異民族を支配する,まさにそのような「帝国」でした。

 ローマの西隣のメソポタミアとその周辺には,パルティアという国がありました。この国は,ローマと戦争をくりかえし,何度かローマに打撃を与えています。それだけの力がある強国でした。

 パルティアの西側のインドの北西部には,クシャナ朝というインド史では有名な王国が栄えていました(王国のことを,「〇〇王朝」「〇〇朝」という習慣があります)。

 ユーラシア大陸の東側をみると,黄河の流域に中国の漢王朝の中心地がありました。漢は当時の世界で,面積や人口などからみてローマ帝国に匹敵する大きな国でした。

 当時は,以上の大きな国ぐにとその周辺が世界のなかの人口密集地帯でした。
 高感度カメラを通して上空からみると,そこには大小さまざまな都市や集落の明かりが集まっていたことでしょう。

今とはちがう世界

 この光の分布は,現在の世界とは大きく異なっています。

 ローマ帝国の中心地であったイタリアなど,当時も今も「明るい」といえる場所もあります。しかし,現在の世界の「繁栄の中心」である,ヨーロッパの大部分や,日本,北アメリカといった地域は,ほぼ真っ暗でした。

 これらの地域には,当時はまだ,本格的な「国」といえるものはできていません。

 当時,今のフランスのほぼ全域とイギリス南部,ドイツの一部は,ローマ帝国の領域でした。しかし,繁栄の中心から離れた「辺境」です。そこに住む人たちの多くは,ローマ帝国の中心部の人びとからは,素朴な暮らしをする「蛮族」といわれていました。

 当時の日本は,弥生時代でした。水田での稲作が全国の広い範囲に広まり,各地に小国が分立していた時代です。ヤマト政権による統一国家は,まだ300年は先になります。

 北アメリカでは,まだ本格的な農業は行われておらず,狩猟や牧畜中心の暮らしが行われていました。

 遠い過去にさかのぼると,「光」の分布,つまり「繁栄がどこにあるか」ということは,現在と大きくちがっていたわけです。

 そこには「今とはちがう世界」があったのです。

(おもな参考文献)長谷川岳男・樋脇博敏『古代ローマを知る事典』東京堂出版,ウェブサイト「古代ローマ・オイルランプ美術館」掲載の展覧会資料『地中海のともしび――フェニキア,ローマ,ビザンチンのオイルランプ 中山&オルセッティコレクション』1997年(オイルランプの写真はこの資料による),オイルランプの重要性については,板倉聖宣「古代ギリシアのオリーブ・本・民主主義」『たのしい授業』2006年1月号による。

(以上,つづく)
 
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2013年07月13日 (土) | Edit |
 「となり・となりの世界史」というシリーズをはじめます。
 100回くらい続ける予定です。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみていきます。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 でも今回の記事は,そんな「前口上」を読んでいなくても入っていける内容ですので,ぜひお読みください。 


となり・となりの世界史 1

1.夜の地球儀から

3つの「光」のかたまり
 これは,何でしょう?「夜の地球儀」というものです。
 西暦2000年ころ(1997年)に人工衛星から撮った夜景を合成し,地球儀にしたものです(渡辺教具製作所㈱という,老舗の地球儀メーカーの製品で,オブジェとしても美しいです)。

夜の地球儀
夜の地球儀・全体

 さまざまな家電製品や自動車などの「文明の利器」を使って生活する人びとが多く集まる場所は,明るい光になっています。人が少ないところや,文明の利器があまり普及していないところは,明るくありません。

 この地球儀には,とくに多くの光が集まっている場所が3か所あります。

 まずひとつは,アメリカ合衆国のある北米大陸です。とくに東海岸は明るいです。

夜の地球儀・北アメリカ

 もうひとつはヨーロッパの西側の地域,つまり西ヨーロッパです。ドイツ,イギリス,フランス,イタリアなどの国ぐに。

夜の地球儀・ヨーロッパ

 それから,日本とその周辺の東アジア――韓国,台湾,香港。ここの光は,ほかの2つにくらべると,小さいです。

夜の地球儀・東アジア


先進国とそのほかの国ぐに
 
 これらの「光のかたまり」がある国は,「先進国」といわれます。とくに産業や経済が発達した国ぐにです。
 進んだ科学や技術があり,文化的な活動も活発です。
 世界の文明をリードする,繁栄の中心といっていいでしょう。

 「先進国」の人口は,2010年現在で約11億人。
 これは,西ヨーロッパの国ぐに,アメリカ,カナダ,日本,韓国,台湾などの人口の合計です。

 ここでは「先進国」を,世界銀行という国際機関の定義する「高所得国」とイコールとします。「高所得国」とは,1人あたりのGNI(GDP=国内総生産とほぼ同様の数値)が,2010年の時点だとおよそ100万円を超える国です。

 世界の人口は,70億人。
 「11億人」は,世界人口の16%です。世界全体からみれば,少数派といえます。
 しかし,この「11億人=16%」の先進国で,世界のGNIまたはGDP(経済活動が生み出す富)の70%を占めているのです。

 GNI≒GDPは,「国全体の経済活動によって1年間に生み出される富」のことです。ここで「富」というのは,経済用語では「付加価値」といいます。

 これを人口で割った「1人あたりGDP(またはGNI)」は,国の経済発展の度合いをはかるモノサシとして,よく使われます。その値が高いほど,経済発展がすすんでいる,ということです。


産業革命と近代化

 11億人の先進国と,59億人のそのほかの国ぐに。
 両者の格差は,どうしてできたのでしょうか?

 それは,これらの先進国が,ほかの多くの国よりもいちはやく「機械などを使ってモノを大量に生産し,輸送する技術」を使い,生産を飛躍的に向上させたからです。その技術の背景には,科学の発展があります。

 同時に,人びとが経済的・文化的に活発に活動する上で重要な「社会のしくみ」も進歩させました。
 民主主義の政治,公正な裁判,株式会社の制度などです。つまり,人びとの自由,権利,財産といったものを守るしくみです。
 そういうものがないと,人が何かを創造したり,起業したりといったことは,おさえられてしまうのです。

 では,そのような,現代につながる「生産力の飛躍的な向上」は,いつ・どこではじまったのでしょうか?

 それは,今から200数十年前の1700年代後半に,イギリスではじまりました。「産業革命」といわれるものです。
 
 その最大の突破口は,この時期に蒸気機関という動力源が実用化されたことでした。
 蒸気機関を使って,工場で大量にモノをつくる機械や,鉄道や汽船などの乗り物がつくられ,生産や輸送のあり方を大きく変えていきました。
 
 機械をフルに使った工場での大量生産は,繊維産業の分野からはじまりましたが,しだいにほかの分野にも広がりました。
 さまざまな生活用品の製造,機械をつくる産業,金属やガラスといった素材産業等々です。
 さらには化学産業や電気の利用といった,現代に直接つながる新しい分野も開拓されていきました。

 イギリスではじまった産業革命は,1830~40年代までには,フランス,ドイツなどのヨーロッパのほかの国ぐにや,アメリカに広がりました。
 それから,少し遅れて明治維新(1868年)以後の日本にも広がったのでした。

 こうした,イギリスなどのヨーロッパ諸国ではじまった「生産技術や社会のしくみの革新」の上に成り立っている社会を,「近代社会」といいます。
 現代の先進国は,発達した近代社会です。

 「近代社会とは何か」と言えば,「機械を使って大量生産する産業があり,民主的な政治が行われ,人びとのさまざまな自由や権利が認められている社会」のことだと考えればいいでしょう。

 議論の多い言葉なのですが,とりあえずこれでいいです。異論がある人がいても,この説明を全否定はしないはずです。

 このように,イギリス,フランス,ドイツ,アメリカなどのおもな欧米諸国では,近代社会を生みだす革新=近代化が,1800年代前半までにはじまりました。日本は,少し遅れて1800年代の後半――明治維新のころからです。

 ほかの地域では,近代化の本格的なスタートはさらに遅れて,1900年代以降,とくにその後半からになりました。
 「1900年代後半」というと,アジアやアフリカの国ぐにの多くが欧米の植民地支配から脱した,第二次世界大戦後(1945年以降)のことです。

 マラソンにたとえると,今の先進国は,ほかの国よりもいちはやくスタートし,ハイペースで進んでいったのです。
 いろんな事情から,ほかの多くの国ぐにはスタートを切れないでいました。
 そのあいだに,「先頭グループ」とその他の差は広がっていきました。

 しかし,1970年代以降の30~40年ほどのあいだで,スタートの遅れた国ぐにのなかに,先進国を上回るスピードで走りだす国がでてきました。
 「新興国」といわれる国ぐにです。中国やインドはその代表選手です。
 
 この地球儀は2000年ころの世界を映していますが,最新の衛星写真でこの地球儀をつくったら,光の範囲はいくらか広くなっているでしょう。
 とくに,経済発展が著しい中国の海沿い地域にある光のかたまりは,さらに目立つようになっているはずです。

(以上,つづく)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月13日 (土) | Edit |
 前々回の記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト に,コメントをいただきました。「コメント欄」にあるのですが,ご覧にならない方も多いと思いますので,私の返信(大幅加筆)も含め,記事本文で紹介します。

 たきやん。さん(ブログ:たきやん。のBurning Heart)からのコメントです。

 今の時代だからこそ必要(byたきやん。)

 そういちさん、こんにちは。
 自分も世界史には疎い人間です。

 「中心の移り変わり」で世界史を見る、というのが
 評判が悪い、というのは知りませんでした。
 自分は歴史という学問は、過去の出来事から
 学んだことを今の世に活かすものだと考えています。
 そういう観点から、「中心の移り変わり」で世界史を
 見る、というのはむしろ王道だと思っていました。

 これから、そういちさんがどういう記事を展開していくのか、
 非常に楽しみにしております。



 私・そういちからの返信(大幅に加筆しました)

 こんにちは,コメント・励ましのお言葉ありがとうございます。
 私も「中心の移りかわり」で世界史をみる,なんて当たり前の「王道」だと思っています。

 そして,ふつうはそれが「王道」だとか,ひとつの「立場」であるという自覚もないのでは?
 日本史で,「奈良時代」とか「江戸時代」とかいうのは,奈良(平城京)や江戸を「中心」とみる発想があるのでしょうが,そういうのはごくあたりまえになっています。
 
 でも,近年のインテリの傾向はちがうようです。
 ふつうの人がとくに自覚せずに「あたりまえ」と思っていることに「ちょっと待て」というわけです。

 「ここが中心」といってしまうと,ほかの国や民族を見下しているようで申し訳ない,と思うようですね。

 たとえば「今の世界の中心はアメリカだ」といったら,怒る人がいるはずです。あるいは自分の中にある「正義感」に怒られてしまう。なにか「差別」しているように思ってしまう。(こういう発想は,私たちの道徳観念が進歩した結果でしょう)
 
 でも,現実をみれば「中心」といえるような,ほかと比べて繁栄し,経済的・政治的・軍事的に優勢な国や地域があるのは,あたりまえのことだと思うんですが…。そして,それを認めることが,ほかの国や地域をおとしめることになるとも思えません。

 だって,「中心」となる国や地域は,いろいろと移りかわってきたのですから。

 「文明のあけぼの」以来,紀元前の時代の大部分は,西アジア(今のアラブ地域)が最先進地帯であり,「世界の中心」でした。
 ギリシア・ローマがそうであった時代もありましたし,イスラムが「中心」であった時代もあった。そしてイスラムが中心だったころには,中国もそれに匹敵する存在でした。そのころは,ヨーロッパはイスラムにくらべれば「片田舎」でした。

 その後ヨーロッパが台頭してきますが,ヨーロッパのなかでも「中心」といえる地域は,イタリア・スペイン→オランダ→イギリスと移りかわっていきました。
 そして1900年代以降はアメリカ合衆国の時代となります。1900年代後半以降は,日本も,西欧やアメリカと並んで「中心」の一画を占めるようになりました。その日本を今は韓国や中国などの新興国が追い上げている…

 西アジア……ギリシア……ローマ……イスラムの国ぐに(と中国)……ヨーロッパ(イタリア…スペイン…オランダ…イギリス)……アメリカ(西欧,日本)

 このように「中心」はうつり変わってきています。

 これは,多くの国や地域に発展の可能性があるということです。
 また,どれほど繁栄していた国であっても,いつかは(あるいは何かあれば)衰退していくということでもある。

 つまり,多くの国ぐにには,つねに発展と没落の可能性があるということです。いってしまうと,あたりまえのことですが。
 であれば,「中心」を特定する発想は,肌の色で「差別」するようなのとはちがうはずです。「中心」などという状況は,移ろいやすいものなのですから。

 「中心」という視点がなかったら,世界史は「あれもこれも」になって,焦点の定まらない,わけのわからないものになってしまうはずです。わけのわからない世界史からは,「今の世に活かす」なにかを汲み取ることなどできないでしょう…
 このあたりの歴史観の基本,歴史の書き方の方法論は,これからの記事のなかでまた述べていきます。
 おつきあいいただければ,うれしいです。


                       *

 ところで「ブログでは,拍手などの反響と,その記事に注いだ時間や労力はかならずしも一致しない」ということがあるそうです。私も,ブログをはじめてみて「たしかにそうだ」と実感してます。

 30分で書いた記事が,わりと多くの拍手をいただけることもあります。
 一方,おそらく「万」の単位の時間がバックにある 「となり・となりの世界史」というコンセプト は,今のところは,あまり拍手がなかったりする。
 時間や労力をかけた文章にありがちな,「入りにくさ」のようなものがあるのかもしれません。
 
 でも,コメントをいただいたことで,熱心に読んでくださる方もいるのだ,ということがわかります。
 ひとつのコメントがあれば,「ほかにも同じように思ってくださる人がいるはずだ」と感じ,勇気づけられます。

 それでも,関心を持って下さった方がいたら,ぜひ拍手なりコメントなりいただれば,ありがたいです。

(以上)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年07月12日 (金) | Edit |
 「世界史」論についての,前の記事の続き・補足です。
 近年話題になった世界史のベストセラーについても,触れておきたい。


『銃・病原菌・鉄』とマクニールの『世界史』

 ここ数年は世界史に関する本のなかに,ベストセラーも生まれています。世界史への関心が広がっているのでしょう。
 そんな「世界史本」の代表格といえば,つぎの2冊でしょうか。

 ジャレド・ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』(上・下,草思社文庫)
 
文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)文庫 銃・病原菌・鉄 (上) 1万3000年にわたる人類史の謎 (草思社文庫)
(2012/02/02)
ジャレド・ダイアモンド

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ウィリアム・マクニール『世界史』(上・下,中公文庫)


世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)世界史 上 (中公文庫 マ 10-3)
(2008/01/25)
ウィリアム・H. マクニール

商品詳細を見る

 どちらも,10万部単位で売れたといいます。2つの本はたしかに「名著」です。新しい世界史像を読者に伝えてくれます。

 しかし,これらの本によっても満たされないニーズもあります。

 まず,どちらも上下巻合わせて1000ページ前後の長編です。これを読みとおせる人がほんとうにどれだけいるのか? とくに,マクニールの本は教科書的な調子でびっしりと書かれているので,読むのにエネルギーが要ります。

 一方,ダイアモンドの本は,いろんな新しい視点を提供してくれる,たのしい「謎解き」の本です。マクニールのような読みにくさはありません。しかし,世界史全体の系統だった知識は,ダイアモンドの本からは得られないのです。それを目的とした本ではないからです。

 また,どちらの本も「社会科の授業は苦手だった」という人に対しては,基本用語の説明などで足りないところも見受けられます。ほんとうの初心者には読みにくいところがあります。

 もっとコンパクトなかたちで,世界史の系統的な全体像を,「まったくの素人」だという人たちにも伝えることはできないか。

 これが私のねらうところです。

(前回の記事で述べましたが,私は「となり・となりの世界史」というコンセプトで独自の世界史の通史を書こうとしているのです)

 しかも,その「となり・となりの世界史」で私がお伝えしたいのは,これまでの教科書的な常識から前進した,「新しい世界史像」です。

 具体的にいうと,1900年代後半以降の,比較的新しい歴史学の成果をふまえた世界史です。私たちの「常識」にある世界史像は,これよりも古い,大昔の学問をもとにしていることが多いのです。

 そう聞くと意外に思うかもしれません。しかし,最も進んだ専門家の研究が,社会的に認められ,私たちのものになっていくには,多くの時間が必要なのです。とくに教科書というのは保守的で,最後まで古い学問にしがみついているものです。

 マクニールやダイアモンドの本は,「新しい世界史像」についてのぼう大な情報を,一般向けにまとめたものといえます。「となり・となりの世界史」の基本となるコンセプトや重要な結論も,これら2冊と重なるところがありますが,これは「元ネタ」である歴史学の成果が共通だからです。

 ただし,結論に共通したところがあっても,それを私としてはめいっぱい「素人向け」に書いていいきたい。さらに,私独自の「世界史の整理のしかた」も打ち出していきます。それが,「となり・となりの世界史」というコンセプトです。

(以上)
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テーマ:読書メモ
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2013年07月12日 (金) | Edit |
 世界史の話は,このブログの柱のひとつです。

 世界史は,さまざまな,社会にかんする知識・学問の基礎になります。
 板倉聖宣さんという教育学者は,「世界史は,これからの時代では,読み書き・そろばんに並ぶようなだいじなものだ」ということをいっています。そのとおりだと思います。

 そんな世界史についての,私の考えを述べたもの。
 これから何十回か続けるシリーズの入口の話です。


「となり・となりの世界史」というコンセプト

盛りだくさんすぎる「世界史」

 それにしても,今の世界史の教科書はじつに盛りだくさんです。ぼう大な固有名詞や年代が出てきます。これを消化して世界史全体のイメージを描くのは,たいへんです。

 世界史教育は,あまりに多くの事件や地域のことを盛り込もうとしすぎています。そこにあるのは,「世界史」というひとつの物語ではありません。

 学校の教科書は,数本の異なるストーリーをつぎはぎして,無理やり一冊の本にした感じです。
 教科書以外で世界史のあらすじを述べた本の多くも,似たようことになっています。

 私は,社会科学や歴史にかんする教育・啓蒙を,自分なりのテーマとしてきました。そのなかで,世界史のわかりにくさを何とかしたいと,つねづね思ってきました。

 世界の人びととのつきあいが,ますます深くなっています。世界史はさらに重要な,みんなの知識になるでしょう。
 だからこそ,世界史がもっと「わかる」ものなればいい,と思います。

 そして,今や日本はそれなりに成熟した先進国になって,世界の先頭を行くようになりました。以前は先を行く欧米諸国の後を追いかけていればよかったのですが,最近はそうはいきません。そんな状況で,今の日本人はこれからどの方向に踏み出せばいいのか,迷っています。
 これからの日本がめざす方向を考えるうえでも,過去の人類の歩みを知ることは参考になるでしょう。

 以上が世界史の効用です。
 これはこれでいいのです。しかし,私にとって世界史は,まず何よりも「わくわくする,たのしい知識」でした。これも重要なことです。「それだけでは役に立たない」という人もいるでしょうが,「たのしさ」は立派な効用です。

 私が感じてきた世界史のたのしさを,どうにかしてお伝えしたいものです。

 
世界史を整理する視点

 「多くのふつうの人たちが世界史をみるうえで役立つ視点」というのを,これから述べていきたいと思います。
 つまり,この見方で世界史がすっきり整理される,というものです。それがほんとうにできれば,わくわくしてくることでしょう。

 「世界史を整理する視点」などというと,昔のことを知る読書家は,マルクス主義の「唯物史観」や,その他の「〇〇史観」「〇〇史学」のことを思い出すかもしれません。

 そして,「ああいう,ひとつの固まった史観や理論で歴史を解釈するのは,もう時代おくれだ」というのでしょう。
 
 しかし,私が述べたいのは,「史観」とか「理論」とかいうほどのものではありません。もっとベーシックな,素人っぽいことです。世界史の知識を整理するうえでの,コツや勘どころのようなもの。歴史にくわしい人からは,「なんだそんなことか」といわれてしまいそうな話です。

 しかし,だからこそ,一般の多くの人たちには役立つのではないかと思います。そして,その割にはきちんと論じられてこなかったことでもあります。

 多くの歴史家や理論家は,そんな初歩のことよりも,「その先」を論じたいものです。でも,それは多くの人のニーズとはちがうと思います。

 では,何を述べたいのか。それは,

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる

という視点です。

 つまり,こういうことです――世界の「繁栄の中心」といえるような大国・強国は,時代とともに移りかわってきました。そういう,時代ごとの大国・強国を主人公にして,世界史を描く。

 これはかなり古典的な世界史の書き方です。古くは1800年代の哲学者ヘーゲルなども,この線で世界史を論じています。
 でも,のちに「大国・強国中心の世界史」は,いろんな理由で(ここでは立ち入りません)下火になっていきます。
 最近の世界史は,「多様な地域の歴史を幅広く教える」というのがスタンダードです。
 そんな中,板倉聖宣さんという教育学者は,「中心の移り変わり」という視点で世界史をみわたす授業の構想を打ち出しました(「授業書〈世界史入門〉の構想」『仮説実験授業研究 第Ⅲ期4』仮説社,1994)

 各時代の「中心的な大国の移りかわり」から世界史をみる,という視点は,おもに板倉さんから得たものです。板倉さんは,私が「先生」と仰ぐ人です(本を読んで一方的に学んでいるだけですが)。

 「中心の移りかわり」で世界史をみる,というのは,今の時代は評判が悪いです。
 でも,今の世界史教育は,いろんな地域のことを「あれもこれも」教えようとしすぎて,わけがわからなくなっています。

 「中心の移りかわり」という「視点」を定めることで,もっとシンプルに世界史の大きな流れを描きだしたい。そのことで,多くの人にとって「わかる」「わくわくする」世界史にしたい。
 それが,板倉さんの意図したところだと,私は理解しています。

 私は,その視点をおしすすめて,自分なりに世界史の通史を書いてみたくなりました。
 板倉さんの仕事がありながらも,「自分ならこうしたい」というのがいろいろ出てきて,板倉さんの一読者ではいられなくなったのです。

 では,どういうふうに「おしすすめる」のか。

 それは,「中心の移りかわり」の地理的な位置関係にトコトン注目する,ということです。

 じつは,世界史における「反映の中心の移りかわり」には,こんな法則性があります。

 「新しい繁栄の中心は,それまでの古い中心の周辺から生まれる」

 それまでの中心からみて「となり」の地域から,つぎの時代の新しい勢力が生まれるのです。
 「となり・となり」で移っていく,といったらいいでしょうか。


「中心」の移りかわり

 たとえば,1600年代のヨーロッパで,繁栄の中心だったのはオランダでした。
 しかし1700年ころからは,それはイギリスに移りました。イギリスは,海峡をはさんでオランダのすぐとなりです。

 オランダの時代の前に最も繁栄していた国のひとつは,スペインでした。スペインは,オランダとは完全には隣国とはいえませんが,地理的に近い位置にあります。
 しかもオランダは,もともとはスペインに支配されていました。両国は密接な関係にあったのです。

 新しい中心が「となり」に移っていくことは,スペイン→オランダ→イギリスといったケースにかぎりません。世界史のどの時代にもみられます。

 3000年ほど前の世界で,西アジアという,今のイラク,エジプト,イラン,トルコなどの地域の進んだ文化をギリシア人が受け取り,その後新しい中心になっていったときも,そうでした。
 ギリシアは,西アジアの一画(トルコ)に隣接しています。西アジアは,世界で最も古くから文明が栄えた地域で,3000年前ころの世界では最も先進的な地域でした。

 一方,3000年前ころのギリシアはまだまだ発展途上で,「古代ギリシア」の有名な文化が花開くのは,その数百年後です。「発展途上国」だったころの古代ギリシア人は,西アジアの人びとに多くを学んで「文明開化」したのです。このことはこの数十年の歴史の研究ではっきりしてきました。

 こういう例は,世界史にいっぱいあるわけです。

 1000年余り前,ローマ帝国の遺産にイスラムの人びとが学んだときも,その後何百年かしてイスラムの人びとからイタリア人やスペイン人が学んだときも,同じようなこと――「となり」への中心の移動――がありました。

 当時のイスラムの帝国は,ローマ帝国(東ローマ帝国)に接していましたし,イタリアやスペインは,ヨーロッパの中ではイスラムの国ぐにと距離が近く,貿易などで接点が多かったのです。とくにスペインは,イスラムの国に支配されていた時期がありました。
 近代社会を築く前のヨーロッパは,かならずしも世界の最先端ではありません。過去にはイスラムの国ぐにのほうが「進んでいる」といえる時期があったのです。

 いきなりいろんな国や民族が出てきましたが,このへんのことはおいおいきちんと説明していきます。

 「となり・となりで繁栄の中心が移っていく」という現象は,今の世界でもみられます。
 たとえば,日本という「繁栄の中心」の周辺である韓国や中国の沿岸部,東南アジアに,経済的繁栄が広がっていること。これらの新興国の台頭には,やはり日本の影響があるわけです。

 これはまだ「中心が移る」とまではいっていませんが,「繁栄が,その中心から周辺へと広がっていく」ということが起きています。

 似たようなことは,ほかの地域でもみられます。
 ドイツなどの西ヨーロッパに隣接する,チェコやポーランドなどの東ヨーロッパ諸国,そしてトルコの経済発展。
 アメリカ合衆国の南に隣接するメキシコが,近年経済的に台頭してきたこと。

 「となり・となり」という視点は,過去の世界だけでなく,これからの世界をみるうえでも有効なはずです。
 

「となり・となり」でたどっていく

 私がこれからお伝えしていきたいのは,ようするにつぎのようなことです。

 世界史というのは,さまざまな国や民族が,
 過去からの遺産をリレーのように受け渡ししながら前進してきた。

 過去の遺産を受けとった人びとが,新しいものをそこにつけ加えて,別の人びとに手渡す。

 それが世界史ではくりかえされてきた。

 その「手渡し」は,接点の多い近隣の国や民族に対して最も濃い密度で行われるのがふつうである。
 だから,「となり・となり」で繁栄の中心が移っていく。

 こういう見方で,時代ごとの「繁栄の中心」を「となり・となり」でたどっていく。
 すると,世界史は一本のつながった物語になる。
 いわば,「となり・となりの世界史」。


 この「となり・となりの世界史」というのは,私の造語で,たいへん気にいっています。
 「となり・となり」という言葉は,板倉聖宣さんが「作文の一般的な技法」として,「となり・となり方式」で話題をつなげて展開していく(あれこれ構成なんか考えない)ということを述べていて,そこからとったものです。

 この言葉を,「世界史」に私はくっつけてみた。

 となり・となりの世界史

 このコンセプトで,新しい世界史が書けると思っています。
 この視点によって,世界史が一本につながる。
 「となり・となり」でつながっていくのです。
 「一本の・ひとつの物語」になれば,世界史はより多くの人のものになる!
 
 もちろんこれだけでは,説明不足ですね…なんだかよくわからない,という人もいると思います。
 また,「繁栄の中心」という見方そのものへの異論もあるでしょう。

 だから,これからきちんと述べていきます。「世界史は素人で,初心者だ」「学生時代に落ちこぼれた」「でも,知りたい」という人にぜひおつきあいいただければと思います。

(以上)
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2013年07月11日 (木) | Edit |
 前回の 「ねじれ国会」って? の続き的な記事。

 今回の参院選では,「憲法改正」の問題も論点のひとつです。
 安倍総理は,つぎのようなことを言っています。

「憲法の改正について定めた憲法第96条では,憲法改正を発議するには衆参両院でそれぞれの総議員の3分の2以上の多数が必要だとしている。これを衆参両院それぞれの過半数で発議できる,ということに変えよう。つまり,憲法第96条を改正しよう」
 
 憲法改正は,国会が「発議」するだけでは決まりません。
 この発議にもとづき,国民投票にかけられます。そしてこの投票で過半数を得ることが,憲法改正には必要です。

 それにしても,今の憲法では「憲法改正」は,ものすごくハードルが高いです。

 改正を国民投票にかけるための「発議」のところで,衆参両院の(総議員の)3分の2が必要。
 戦後,与党(首相を出している党派,政権党)が衆参両院の3分の2以上をおさえたことはありません。
 衆議院だけなら,今も含め2度ほどありますが。

 そして,もし「発議」できても,国民投票での過半数というのも大変です。
 
 憲法改正という大問題で,私たちは「改正」のほうに過半数を投じるでしょうか?
 その「改正」の中身がなんであれ,です。
 なかなか難しそうですね…
 「何かを大きく変える決断」というのが,どうも私たちは苦手だと思います…

 だから,もしも憲法第96条が改正されたとしても,政府・与党が好き勝手に憲法改正できるわけではないでしょう。
                        *

 では,憲法第96条を改正したとして,安倍さんはどうしたいのでしょうか?

 それは,おそらく憲法第9条の改正ですね。

 この議論は,多くの人がイメージできると思いますので,立ち入りません。
 でも,9条の改正を国民投票にかけたとしても,過半数を得るのはたいへんでしょう。とくに議論や反対の多いことなのですから。

 しかし,「憲法改正」の議論の対象は,9条だけではありません。

 法律案の決議について衆議院と参議院の関係を定めた,憲法第59条というのがあります。
 これは,つぎのことを定めています。

 ①法律案は,原則として衆参両院で可決することによって成立する。

 ②ただし,衆議院で可決された法律案を参議院で否決した場合,この法案を成立させるには衆議院の3分の2以上で再可決することが必要。


 こういうルールにすると,与党(政権党)が衆参両院で過半数を押さえている場合はいいのですが,参議院で過半数を押さえていない「ねじれ国会」のときには,ややこしいことになります。
 法律案を成立させるのが,非常に大変になる。
 つまり,国の政治の大事な決定がむずかしくなる,ということです。

 このことは,前回の記事(「ねじれ国会」って?)で述べました。

 この憲法第59条(2項)は,日本国憲法のなかで,かなり重大な「問題」といえるでしょう。
 「設計ミス」に近い,といってもいいかもしれません。
 
 いや,そうではない,それだけ慎重に国の方針が議論されることになる。政府の暴走が防げる。だからこれでいいんだ,という意見もあるかもしれません。
 でも私は,「今のままだと,〈政府がものを決められない〉という弊害のほうが大きい」という見解に賛成です。

 「憲法改正」というとき,じつはまず議論されるべきなのは,第9条のことではなく,第59条のほうではないかと思います。そして,そういうことをいう識者・専門家は,最近はけっこういます。

 そして,第59条改正のほうであれば,9条の問題よりは,国民のコンセンサスを得やすいかもしれません。
 でも,「内容・主旨を理解してもらう」ための説明は,かなりたいへんそうです。
 制度の内容とか,ちょっとややこしいところがあります(それほどでもないかもしれませんが)。

 でも,憲法第59条の改正の議論は,今度の選挙で下火になる可能性も高いです。

 59条の「欠陥」は,「ねじれ国会」のときにあらわれますが,今度の選挙では,おそらく自民・公明が勝利して「ねじれ」が解消されるからです。「欠陥」が覆いかくされてしまうのです。
                        *

 それから,「憲法改正」ということ自体,今度の選挙で現実味が薄くなるはずです。

 「改憲」派である日本維新の会やみんなの党が躍進して,参議院で勢力をのばせば,「改憲」勢力が,自民・公明とあわせて参議院でも3分の2を制することになるかもしれない。でも,維新の会の勢いがなくなってきたので,その可能性は低くなっています。

 でも,そうやって議論が先送りになるのは,どうかとも思います。

 長年にわたり,まったく改正されてこなかった日本国憲法。
 部分的に,今の現実にあわせてリフォームしていくべきところがあるのでは,と考えてもいいでしょう。
 ほかの先進国では,憲法は相当に改正されているのですから(このことは,最近はかなり知られるようになりました)。
 すくなくとも,一定の議論はなされていいはず。
 学者や評論家の議論ではなく,政治家・政党による具体的な検討として,です。

 今度の参院選のあとは,たぶん国政選挙は3年間ないでしょう。
 その間に,憲法の問題もじっくり議論されていいのでは?
 まあ,まずは経済の問題が大事ですが,「憲法という,国の基本設計図をどうするか」といった問題も,放ってはおけないはずです。(経済が悪化して「それどころではない」なんてことにならないよう,祈ってます)

 以上,よくある内容の解説だとは思います。意見としても,特別なものではないです。日経新聞(7月1日)の,政治学者・北岡伸一さんによる論説などをもとに,少しやわらかく書きなおした,といったところ。

 これも「こっそり知ろう,常識は」ということで。

(以上)
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2013年07月10日 (水) | Edit |
 参院選が近くなってきました。
 ウチの近所にも選挙ポスターの掲示板がありますが,今回は,立ち止まってみている人が心なしか多いような…

 今回の選挙では,おそらく自民・公明両党が勝って,「ねじれ国会」は解消するでしょう。

 でも,そもそも「ねじれ国会」ってなんのこと?

 これは,つぎの条件に該当する場合をさします。

 1.与党(首相を出している党派,政権党)が参議院で過半数を制していない

 2.かつ与党(政権党)が衆議院で3分の2以上を制してしていない

 これが,いろいろ不都合だ,といわれています。
 「国会でものごとを決められなくなる」からです。

 それは,法律案は原則として衆参両院の議決を必要とするからです。
 「法律」というのは,国の政策・方針の基本です(こういう概念だって,ほんとうは初心者にはわかりにくいはずなんですが,説明は省略)。

 もしも,過半数を制している党派が衆議院と参議院で異なっていたら,ある法案に対し,衆議院と参議院で異なる議決をすることが起こりえます。衆議院で賛成多数。でも参議院では反対多数。
 じっさい,それがこれまでの国会ではおこってきました。

 そんなときのために,憲法では法律案の議決について,「衆議院の優越」を定めています。

 つまり,衆議院で可決して,参議院で否決された法案は,衆議院に戻される。そして,衆議院で3分の2以上の賛成で再度可決されたら,法案として成立する。

 でも,この「3分の2以上」というのが,たいへんなわけです。
 たいへんな圧倒的多数。今は自民・公明で3分の2を上回っていますが,こういうことは,なかなかありません。

 では,上記の衆議院の再議決で3分の2の賛成が得られなかったら?
 法案は流れてしまう。つまり,決められないのです。

 だから,過半数をとっている党派が,衆議院と参議院で異なると,「なかなか法案が成立しない」という問題がおこります。
 ある学者によれば,法案の半分くらいは,「議論するまでもなく,どの政党もだいたい賛成」という,ルーティンなものだそうです。
 でも,残り半分くらいは,議論の余地があって,与野党の対立があり得る。
 そういう法案が通らなくなる(きわめて通りにくくなる)ということです。

 じつは,与党が衆議院で3分の2を制していたとしても,衆議院で再議決するというのは,手続き的に重たいことです。国会の運営日程は,いろいろとタイトなので,再議決はたいへんなのです。

 だから,「与党が参議院で過半数を制していない」というだけでも,「ねじれ」とはいえます。
 しかし,「与党が衆議院で3分の2を制している」かどうかも,決定的な「分かれ道」になる点ですので,ここでは「ねじれ国会」を定義する条件に含めました。

                         *
 
 でも,なにかで習ったところでは,日本の憲法は「衆議院の優越」を定めているのでは?

 そうです。憲法は以下の事項について「衆議院の,参議院にたいする優越」を定めています。

 ①法律案
 ②予算案
 ③内閣総理大臣の指名
 ④条約の承認


 でも,ほんとうの意味で衆議院の優越があるのは,②③④にかぎられます。
 これらについては,参議院で否決されても,衆議院によって決められる制度になっています。

 問題は①の法律案です。「衆議院での3分の2以上の再議決」がないと,ダメなわけです。

 これが,どういう意味で「国会でものが決められない」ということになるのか。

 たとえば,政府の予算案のことがあります。
 これはさきに述べたように,衆議院の優越がはっきりしています。

 でも,予算を実現するのに必要な「財源」の話は,上記①の「法律案」なのです。
 たとえば,予算が多くいるから増税しよう(消費税率アップとか),赤字国債を発行しよう,といったことは,法律できめないといけないことになっています。
 毎年発行している赤字国債だって,毎年国会で法案を通して発行しているのです。

 赤字国債のことは典型的ですが,こういう「なんでも法律に基づく」という国政のありかたは,世界の先進国のなかではマイナーなのだそうですが,このことは今回はおいておきます。

 どうでしょうか。
 たしかに「ねじれ国会」という状況がおきると,政治が前に進みにくくなる,というのはわかる気がしませんか?

 「ねじれ国会」というのは,かつて自民党の勢力が圧倒的で,衆議院も参議院もしっかり過半数を押さえていたときは,問題になりませんでした。
 でも,今は「ねじれ国会」がかなりの可能性でおきるようになった。

 上記の衆議院と参議院の関係は,憲法で定められていること(憲法第59条)。

 だから,「ねじれ国会」のことは,「憲法改正」論議のなかのテーマのひとつです。

 以上「こっそり知ろう,常識は」(板倉聖宣という人の創作ことわざより)ということで。
 
(以上)
 
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2013年07月09日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法シリーズ」の33回目。
 最近は,読書論の話をしています。
 前回は「本は買おう,でも図書館も使おう」という話をしました。今回は「近所の図書館へ行ってみよう」という話。

 レポートや企画などの宿題がある人は,図書館か大きな書店に行ってみるといいです。ネタがみつかるはずなんですが,たいていはネットで検索するだけ…
 
 きのう気がついたのですが,図書館の利用カードがみあたらない。先月使ってから,いつものところに入れておいたはずなのに…
 
  
近所の図書館は,数百万冊の蔵書とつながっている。

 あなたの家や職場の近所に,公共図書館はありませんか? 私は東京の多摩地区に住んでいますが,歩いて五分ほどのところにまずまずの規模の市立図書館があり,よく利用しています。
 私にとって,「図書館が近くにある」というのは,住む場所を選ぶときのポイントのひとつといってもいいです。
 
 若いときに住んでいたアパートの近所にも,市立図書館の小さな分館がありました。ここにはたいした蔵書はなく,読みたいと思う本が本棚にみつかることは,そんなにありませんでした。

 それでも,ときどき私はその図書館に足を運んでいました。それは,この小さな図書館が,何百万冊もの巨大な蔵書にアクセスする窓口であるからです。

 著者やタイトルがわかっていれば,コンピュータの検索システムでその本をさがすことができます。館内になければ,市内のほかの図書館にないか。市内全体で何十万冊という蔵書があります。本があれば,私の住む市では二~三日で取り寄せてくれます。

 市内の図書館になければ,窓口に相談してみましょう。隣接するほかの市の図書館や,港区にある都立中央図書館(あるいは国立市にある都立多摩図書館)をさがしてくれます。都立中央図書館は,蔵書180万冊の大図書館です(2011年3月末現在の図書数)。

 日本最大の図書館である国会図書館の蔵書は990万冊ありますが(2012年3月末現在),これは飛び抜けています。都立中央図書館は,それに次ぐクラスの図書館なのです。
 そこから最寄りの図書館に本を取り寄せて,貸し出してくれます。私の住む市ではこれに一週間くらいかかります。

 国会図書館では,原則として館外貸し出しはしていません。都立中央図書館でも,個人への館外貸し出しはしないのですが,市立図書館の窓口を通してなら,自分の部屋に持ち帰って読むことができるのです。

 取り寄せに一週間かかっても,それだけの値打ちがあります。この方法で借りてきた本の中には,古書店でも見つかりにくい貴重なものもあるのです。

 また,さがしている本がまだ書店で売られている新しい本であれば,リクエストして図書館に買ってもらう,という方法もあります(本によっては,できない場合もあります)。

 そこまでしなくても,ちょっと読みたい本,気になる調べものがあれば,近所の図書館に行ってみるといいです。目当ての本や資料がすぐみつかることは,結構あります。
 そして,ネットでは出会えないような,充実した情報に出会えることも多いです。
 
 こんな便利な窓口が,都市部であれば歩いて行ける範囲に,ひとつやふたつはあるのです。そうなったのはこの十数年ほどの(1990年代以降の),わりと最近になってからのことです。本を買うお金が足りなくても,勉強できる時代になったのです。 

(以上,つづく)

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