2013年08月31日 (土) | Edit |
 最近,このブログでは世界史関連の記事を多くのせています。
 
 世界史を「繁栄の中心が,ある場所からその近隣(となり)へと移っていく,そのくりかえし」という視点でみる「となり・となりの世界史」というコンセプトを打ち出したり,世界史の通史を,本1冊の数分の1の「2万文字」くらいでざーっとみわたす(「1万文字の世界史」)といったことをしてきました。

 今回は,本筋とは離れた「コラム」的な話題です。

                        *

 世界史のことを書いていて,ちょっと思うことのひとつに,

 「紀元前〇〇年って,わかりにくいなー」ということがあります。
 「歴史の授業は落ちこぼれた」という人に世界史の話をしたときにも,言われました。

 「最初の文明は,紀元前3500年ころのメソポタミアで生まれた」と書いてあると,「それはいつのことか」を読者は計算しないといけません。

 「紀元元年は2000年くらい前だから,それより3500年さかのぼるということは,今から5500年くらい前だ」

 こういうのは,じつにめんどうで,世界史の文章を読みにくくしている原因のひとつです。

 私が書く世界史の文章では,できるだけ「紀元前3500年(5500年前)」というふうに,「何年前か」をカッコ書きでつけていますが,抜本的な解決にはなっていませんね…

 そういえば,「〇世紀」というのも気に入りません。

 1900年代が「20世紀」って,ほんとにわかりにくいです。

 なんでこうなるかといえば,「0世紀」というのを設定しなかったから。
 西暦1年から100年までが「1世紀」です。
 で,西暦101年から200年までが,「2世紀」……うーん……

 ほんとうは,西暦1年から100年までを「0世紀」にすべきでした。

 さらにいえば,「西暦0年」というのも,設定すればよかった。
 そして「西暦0年~99年」を「0世紀」,「西暦100年~199年」を「1世紀」とすればよかったのに…

 このような「世紀」のわかりにくさは,たぶん,いろんな人が言っていることでしょう。

 私が世界史のことも含め,いろいろと大きく影響を受けた板倉聖宣さんという学者も,「世紀」というのは,今述べたようなわかりにくさがあるので,使いません。板倉さんの書く文章では,「20世紀」とはいわず「1900年代」といいます。

 さらに,世界史の年号関係では,もっとひどいのがあります。

 世界史の本には,たまに「前〇千年紀」というのが出てきます。
 たとえば「前2千年紀」というのは,いつの期間をさすと思いますか?

 「前2千年紀」は,紀元前2000年~紀元前1001年をさします。
 「前1千年紀」は,紀元前1000年~紀元前1年です。

 笑っちゃうくらい,わかりにくいですねー

 「紀元前」「世紀」「前〇千年紀」……これらには,たしかにいろいろ問題がある。
 でも,「慣習」として定着してしまったので,今さら変えにくい……

 しかし,年号にかんするさまざまな表記・表現は,歴史の時間軸というモノサシに刻まれた「目盛り」のようなもの。この目盛りが読みにくいのは,困ったものです。

                       *

 私は,今使っている「西暦」「紀元(紀元前)」などというのは,リセットできないかと「妄想」することがあります。

 「西暦」というのは,「キリスト教紀元」のこと。あの宗教の教祖イエスが生まれた,とされる年を基準にしているわけです(ただし,その後の研究では,イエスの誕生は紀元元年よりも数年さかのぼるとされています)。

 そんな特定の宗教の「紀元」なんてやめましょう。
 その意味で,ほかの宗教や民族の伝統に基づく「紀元」も,「西暦」のかわりにはなりません。

 じゃあ,どうしましょうか。

 「シュメール紀元」というのは,どうでしょうか。

 メソポタミア(今のイラク)で「最古の文明」とされるシュメール人の都市国家が栄えはじめた時点を,人類共通の「紀元」とする。

 でも,その具体的な「年」を特定することはできないので,そのおよその時期を「紀元」にしてしまう。
 切りのいいところで,「紀元前4000年」を「シュメール紀元0年」とする。

 だとすると,今年2013年は,シュメール紀元6013年です(4000+2013)。

 ペルシア戦争の開始(紀元前500年)は,シュメール紀元3500年(4000-500)。
 秦の始皇帝による中国の統一(紀元前221年)は,シュメール紀元3779年。
 西ローマ帝国の滅亡(西暦476年)は,シュメール紀元4476年。
 コロンブスの「アメリカ発見(アメリカ大陸付近への到達)」(1492年)は,シュメール紀元5492年。

 西暦に4000足しただけですが…(デーモン小暮閣下が,自称「1万50何歳」とか言っているのと似てます)

 でも,「シュメール紀元」でみると,それぞれの世界史上のできごとが,「文明のはじまり」の時代からどれだけの時間的距離にあるのかが,わかりやすいです。
 そのような「時間的距離」を,紀元前・紀元後にかかわらず,同一線上に並べてみることができるのです。

 シュメール人というのは,ルーツ・系統が不明で,何千年か前に滅びてしまいました。今の世界のどの民族からみても,はるか昔の「縁」のない人たちです。つまり,世界中からみて,かなり「ニュートラル」な存在。
 しかし,世界の文明の「元祖」である。

 そういう存在なので,世界史の「紀元」をシュメール人にもとめるのは,「公平感」があると思うのです。

 でも,「エジプト文明も最古だ」という人がいるので,黙っていないだろうな。「シュメールだけ祀り上げるな」というのでしょうね…

 インド人や中国人も黙ってないかも。
 「我々だって古い。我々を基準にすべきだ」とか言いそうだ。

 そして,世界中に「我々こそが,じつは最も古い伝統を持っている」という人たちがいるのかもしれない(日本にもいそうだ)……

 やっぱり,「シュメール紀元」,無理そうです(^^;)

(以上)
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2013年08月29日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの41回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このところは,教科書や子ども向けの本のこと,新書のすすめ,「通な本」と「最先端の本」,古典とのつきあい方,といったことを述べてきました。

 今回は,ちょっと箸休め的な話です。
 

本は安くなった。
勉強したい人には,いい時代。


 「最近の本は高い」という人がいますが,どうでしょうか。

 週刊朝日編『戦後値段史年表』(朝日文庫,1995)という本をみてみます。
 1950年(昭和25年)に,岩波文庫で最も安いものは,30円でした。同じころ,1951年の大卒公務員の初任給が,5500円。
 一方,1995年(平成7年)では,岩波文庫の最低価格は210円。大卒公務員の初任給は,18万円です(1994年)。

 1990年代から現在(2013年)まで,物価全般の変動はわずかしかありませんので,ごくおおざっぱに,90年代の数字は「今現在の物価」とほぼイコールと考えていいでしょう。

 1950年と現在では,給料は33倍に上がっていますが,岩波文庫は7倍の値上げにとどまっています。もし,給料と同じように上がっていたら,30円の33倍で,約千円です。

 「30円」というのは,あくまで安いものの値段です。平均的な岩波文庫の値段は,その2~3倍になります。文庫本が一冊2,3千円もしたら,気安く買えませんね。

 このことは,文庫にかぎらず本全般の値段にあてはまるのではないかと思います。私の手もとに,同じ岩波書店から1951年に出た,当時700円のハードカバーの本があります。90年代後半にそれが復刻されて,6千円ほどで売られていました。

 でも,1950年ころの感覚では,「700円」というのは,700円の33倍で,今の2万円以上の重みがあったのです。初任給が,5~6千円の時代なのですから。

 「2万円」の本を買おうというのは,限られた人たちです。
 でも,そういう本を買わなければ,深い学問はできません。

 今のお年寄りが若いころは,知識とか学問というものは,一部の恵まれた人たちのものでした。ふつうの人たちが学問をするということは,大変な困難を伴いました。

 今は,ふつうのサラリーマンだって,その気になればかなりの本を買ったりできます。電子書籍がさらに普及すれば,本の平均的な値段はもっと下がるでしょう。
 勉強したい人にとって,いい時代です。

(以上,つづく)
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2013年08月28日 (水) | Edit |
 昨日8月27日は,建築家ル・コルビュジエの亡くなった日で,前回の記事は彼の「四百文字の偉人伝」でした。
 今回は「四百文字」よりはヒトケタ多い分量の「〇千文字」で,ル・コルビュジエについて紹介したいと思います。
 といっても,彼の建築について語るというより,「独学者」としての彼の成長過程をおもなテーマにしています。


ル・コルビュジエ略伝 若者が巨匠になるまで

 偉人だって,最初は無名の若者にすぎなかった――あたりまえのことなのだが,私たちはこのことをつい忘れてしまう。

 それは,私たちがふだん接する「偉人」のイメージのせいだろう。
 
 たとえば,アインシュタインの肖像は,いかにも「ユニークな天才」という感じだ。ドラマに登場する勝海舟や西郷隆盛は,計り知れない大物である。とにかく,「ふつう」じゃない。

 しかし,彼らは最初からあんな「完成形」ではなかった。
 あれは,時間をかけた成長の結果である。
 そこに至るまでは,いろいろあった。きちんと書かれた伝記を読むと,それを実感する。「人は成長できるんだ」と思う。

 これから紹介するのも,そんな成長の物語である。ふつうの若者が「巨匠」になるまでの物語。

                       *

 ル・コルビュジエ(1887~1965スイス→フランス)は,20世紀を代表する建築家のひとりである。
 彼は,数々の邸宅や公共建築のほか,大風呂敷な都市計画などで知られる。積極的に文章を書き,講演をして,さまざまな概念やアイデアを提唱した。世界中から弟子が集まった。カリスマ性のある巨匠らしい巨匠だった。

 ル・コルビュジエは,30代以降のペンネームである。本名は,シャルル・エドゥアール・ジャンヌレ。1887年,スイスのジュラ地方の小さな町に生まれた。この地方は時計の名産地である。父親は時計の装飾加工の職人だった。

 ジャンヌレも時計関係の仕事をめざした。義務教育を終えると,13歳で地元の美術学校の彫金・彫刻コースに入学した。彫金は,時計の装飾に用いられる。
 彼は,優秀な生徒だった。彫金の作品が博覧会で賞をとったこともあった。画家でもあったレプラトニエ先生という恩師とも出会った。先生から,文化・芸術の新しい潮流について教わり,影響を受けた。

 しだいに,時計製作の世界が狭く退屈なものに思え,別の道にすすみたくなった。だが,具体的にはどうしたらいいかわからない。

 17歳のとき,レプラトニエ先生が「建築をやったらどうか」とすすめてくれた。
 先生の紹介で,地元で家を一軒建てる仕事に,若い建築家とともに参加した。設計から深く関わって,取り組んだ。

 その仕事で,知識や経験のほかに,多少の報酬を得た。若者がしばらくのあいだ貧乏旅行できるくらいの金額。
 19歳のジャンヌレは,旅に出た。広い世界がみたかった。イタリア各地はじめ,ウィーン,パリをめぐって,故郷に戻ったのは2年後のことだった。

 この間,さまざまな建物をみてはスケッチをしてメモをとり,何人かの新進の建築家にも会いに行った。
 パリのペレ(ペレ兄弟)という建築家の事務所では,14ヶ月ほど働かせてもらった。ペレは,当時は珍しかった鉄筋コンクリート建築の先駆者である。

 長い旅から戻ったジャンヌレは,22歳のとき(1909年),故郷の町で独立の建築家として活動をはじめた。
 だがその後,また旅に出ている。23歳のときにはドイツに行き,ベルリンの大きな設計事務所で何か月か働いた。24歳のときには,数か月ほどギリシアやイタリアなどをみて歩いた。
 しかし,それ以降の数年間は,故郷で仕事を続けた。この間に,両親の家を含め数件の住宅を設計した。

 それと並行して,「規格化によって低コストで住宅を量産するシステム」など,田舎町の建築家らしくない,先端的なことがらについても研究を続けていた。

 そして30歳のとき(1917年)には,故郷を離れ,パリに移り住んだ。
 多少の実績を積み,人のつながりもできたので,そのまま故郷にいればやっていけるはずだった。しかし,もっと広い世界で活躍したかった。
 
 パリで開業したものの,田舎で家を何件か建てただけの若い建築家に,そうそう仕事は来ない。不安定な生活が続いた。

 そんな中,33歳のとき仲間と小さな雑誌をはじめた。文化や芸術についての評論誌。記事の大半を,友人のひとりとジャンヌレの2人が書く,手作り感覚の雑誌である。
 しかし,斬新な内容で,先端的な一部の人たちのあいだでは評判となった。ジャンヌレが「ル・コルビュジエ」のペンネームで書く建築論も,反響を呼んだ。

 雑誌がひとつのきっかけとなり,新しモノ好きのお金持ちから住宅の仕事がぽつぽつ入るようになった。30代半ばには,仕事が軌道に乗ってきた。

 そのころに彼は,おもにパリを想定して「古い都市を,超高層ビルが並ぶ近代都市に改造する」という計画案を発表している。実現する見込みなどない。それでも,大風呂敷を広げて社会に訴えた。30代後半には,最先端をいく建築家の1人として,知る人ぞ知る存在になっていた。

 40代前半に手がけた「サヴォワ邸」(1931年完成)は,賛否両論あったが反響を呼んだ。
 この邸宅は現在,近代建築の重要な作品としての評価が定まっている。

 また,以前は金持ちの邸宅づくりが仕事の中心だったが,だんだん公共建築の仕事も来るようになった。
 このあたりで彼は,当代一流の建築家になった,といっていいだろう。

 50代には,第二次世界大戦(1939~45)があった。戦争の時代は,建築の仕事はどうしても限られてしまう。すでに世界的な名声を得ていたが,彼には冬の時代だった。

 戦争が終わってから,仕事が再び動きはじめた。
 彼は60歳になろうとしていた。戦後の60歳前後から70代にかけての時期は,彼にとって実りの多い時期だった。建築史に残る大きな傑作をいくつも残した。
 
 とくに有名な代表作が,この時期には目白押しである。
 たとえば,集合住宅・マルセイユのユニテ・ダビタシオンの完成は1952年(彼は65歳)。
 「ロンシャンの礼拝堂」の完成が1955年(68歳)。
 ラ・トゥーレット修道院の完成が1959年(72歳)。

 この時期の仕事によってル・コルビュジエは,20世紀を代表する巨匠になったのである。
 そして1965年に77歳で急死(海水浴中に心臓麻痺)するまで,仕事を続けたのだった。

                          *

 ル・コルビジュエの成長過程をまとめてみよう。

①時計職人をめざす少年  ②恩師の導きで建築の仕事を体験  ③海外を放浪  ④建築事務所でバイト  ⑤田舎の若い建築家  ⑥大都会で開業するが仕事なし  ⑦雑誌で情報発信をして仕事が来るように  ⑧先端的な建築家として頭角をあらわす  ⑨一流の建築家として認められる  ⑩世界的な名声の確立  ⑪20世紀の偉大な巨匠

 このように,無名の若者がだんだんと成長して,巨匠になっていったのである。成功した建築家の人生は,そのプロセスを典型的に示してくれる。

 建築は,お金を出す依頼者がいて,はじめて作品をつくることができる。
 そこが小説や絵画などとはちがう。若手に大きな仕事の依頼は来ない。実績を積むにしたがって仕事のスケールが大きくなり,ピークが人生の後半以降にやってくる。それが「建物」という目にみえるモノで示される。

 一歩一歩の成長ということじたいは,ほかの分野にも共通したことだ。

 たとえば,アインシュタインは20代で偉大な業績を残したが,彼だって最初は初歩的なレベルから科学の勉強を重ねたのである。あたり前のことだ。ただ,その成長のプロセスは内面的であり,また専門的すぎて私たちにはわかりにくい。

 だから,「人は一歩一歩成長する」ということをみるには,建築家をサンプルにするといいのである。

                          *

 さて,現代の日本にもル・コルビュジエを思わせる人がいる。
 建築家・安藤忠雄さん(1941~)である。

 安藤さんは,大学も出ず,特定の先生にもつかず建築を学んだ。ル・コルビュジエと同様,独学で建築家になったのだ。また,若いころ少しだけプロボクサーをしていたという異色の経歴もある。そんな話を聞くと,人間ばなれしたカリスマ性を感じてしまう。

 しかし,安藤さんもまた一歩一歩成長していった人である。

 若いころの安藤さんが建築の勉強で活用したのは,二級建築士の通信教育という地道な方法だった。それで基礎知識を学んだあとは,いくつかの設計事務所で製図などのバイトをした。
 ル・コルビュジエに影響を受けたのか,お金を貯めてヨーロッパの建築をめぐる貧乏旅行にも行っている。

 そして,28歳で小さな事務所を立ち上げた。最初のうちは仕事もなく,苦しい日が続いた。
 
 その後,事務所設立から10年ほど経って,ある個人住宅の仕事が舞い込む。小さな土地に建てる小さな家。この仕事が大きな賞を受け,一躍有名になる(「住吉の長屋」1976年完成)。
 その後もさまざまな国内外の賞を受賞する活躍を続け,世界的な建築家になった。

 ここでも,ふつうの若者が経験や実績を積み重ねて巨匠になっていったのである。二級建築士になるための通信教育。それが,「世界のアンドウ」への第一歩だった。

参考文献:ジャン・ジャンジェ『ル・コルビュジエ 終わりなき挑戦の日々』創元社,『ブルータス・カーサ特別編集 新訂版 誰にでもわかる20世紀建築の3大巨匠+バウハウス』マガジンハウス,ノルベルト・フーゼ『ル・コルビュジエ』PARCO出版,『太陽』2000年2月号 特集「安藤忠雄の発想力」平凡社,『NHKテレビテキスト 仕事学のすすめ 自ら仕事を創造せよ 安藤忠雄』NHK出版

(以上)
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2013年08月26日 (月) | Edit |
 明日8月27日は,建築家ル・コルビュジエが亡くなった日です。今から48年前のこと。そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を,400文字程度で紹介するシリーズ。

 このブログでは,前回は建築家吉村順三のことだったので,たまたまですが建築家の話が続いてますね。

 関連記事:ル・コルビュジエ略伝・若者が巨匠になるまで


ル・コルビュジエ

建築家が愛した小さな小屋

 ル・コルビュジエ(1887~1965 スイス→フランス)は,20世紀を代表する建築家の1人で,さまざまな公共建築や邸宅や都市計画などで知られています。
 しかし,彼がひときわ愛着を感じていた建築が,そのような大がかりなもののほかにもありました。
 南フランスの海辺に自分の別荘として建てた,小さな小屋です(1952年完成)。その小屋は,8畳ほどの狭いものでしたが,ソファ兼ベッド,テーブル,洗面台,収納家具などが機能的に配置され,快適でした。
 晩年の彼は,たびたびこの小屋を訪れてバカンスを過ごしました。「この休暇小屋の住み心地は最高だ」と,彼は語っています。
 小さくても,いや,小さいからこそ,やり方しだいで建築の本質が凝縮されたすばらしい空間をつくることができる――彼はそう考えたのです。それは,「モノをつくる人」が長年かけてたどりついた境地だった,といえるでしょう。

中村好文著『住宅巡礼』(新潮社,2000),カンブレト著,中村好文監修,石川・青山訳『ル・コルビュジエ カップ・マルタンの休暇』(TOTO出版,1997)による。ほかに参考として,ジャンジェ著,藤森照信監修,遠藤ゆかり訳『ル・コルビュジエ』(創元社,2006)。

【ル・コルビュジエ】
フランク・ロイド・ライト,ミース・ファン・デル・ローエと並び20世紀を代表する建築家。近代建築をひとまず完成の域に高めた1人。代表作は「サヴォア邸」,集合住宅「ユニテ・ダビタシオン」「ロンシャンの礼拝堂」など。
1887年10月6日生まれ 1965年8月27日没
ル・コルビュジエ

これがその「休暇小屋」です。南フランスのカップ・マルタンというリゾート地にあります。ル・コルビュジエは,この小屋のすぐ近くの海で海水浴中に,心臓発作で亡くなりました。
カップ・マルタンの休暇小屋
カンブレト著,中村好文監修,石川・青山訳『ル・コルビュジエ カップ・マルタンの休暇』の表紙より

 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
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(以上)
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2013年08月25日 (日) | Edit |
雨のベランダ
雨の朝,自宅の団地のベランダから

 朝起きたら,しばらくぶりに雨でした。
 夕方の「ゲリラ豪雨」は,最近何度もありましたが,朝に降るのはここのところなかった。

 テレビもついておらず,静かなので,さーっと雨の降る音が聞こえてきます。

 こういうとき,建築家・吉村順三(1908~1997)の言葉を思い出します。


 雨の日に家にいると,家に守られているようで,好きだ。


 今から8年前の2005年に開催された「吉村順三展」で,彼の仕事を紹介するビデオで触れた言葉です(細かいところは,不正確かもしれません)。

2005年の吉村順三展チラシ
吉村順三展チラシ

 この言葉を知ってから,雨の日の気分が少し変わりました。

 吉村順三は,おもに昭和の戦後に活躍した,日本の建築の世界を代表する巨匠のひとり。
 大規模な公共建築,オフィスビルから,個人向けの低予算の小住宅まで手がけ,いずれも見事な作品を残しました。建築の巨匠のなかには,「大きな公共建築は得意だけど,個人住宅は…」という人もいます。これに対し,吉村はじつに幅の広い人でした。その意味で「最強」の建築家だと,私は思います。

 雨の日は,そんな吉村先生のコトバを思い出してみては,いかがでしょうか。
 どんな家でもいいのです。家のなかで「守られているなあ」と,感じてみる……

(以上)
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2013年08月24日 (土) | Edit |
まえおき

 私は世界史が大好きで,「アマチュア世界史研究家」だと自分では思っています。
 ウチの本棚にある本の半分は,世界史関連です。

 このブログでは,「となり・となりの世界史」というシリーズを続けています。
 世界史を「繁栄の中心の移りかわり」という視点で見渡していく,というものです。
 
 世界史には,それぞれの時代に「世界の繁栄の中心」といえるような地域や国があります。

 今の世界なら,やはりアメリカがそうだといえるでしょう。
 文明のはじまりの時代には,メソポタミア(今のイラク)とその周辺の「西アジア」という地域が,文明の最も進んだ「中心」でした。
 その後,ギリシアやローマといった地中海沿岸(のヨーロッパ側)がおおいに繁栄した時代もあります。
 さらに「イスラムの時代」といえる時期もありました。
 そして,200~300年前にはヨーロッパ(とくにその西側の「西ヨーロッパ」)が台頭して,圧倒的な勢いを持つようになりました。
 そして,1900年代以降は,「アメリカの時代」になります。

 このような「中心の移りかわり」には,一定の法則性があります。
 それは,「新しい中心は,それまでの中心の周辺の,比較的近い場所で生まれる」ということです。

 「比較的近い場所」すなわち「となり」です。

 世界史における「繁栄の中心の移動」は,「となり」へ移っていく,ということがくりかえされてきました。「となり・となり」と移動がくりかえされてきたのです。

 「となり・となりの世界史」という(ちょっとヘンな)タイトルは,そこからきています。

 そして,ごく最近のこのブログでは,「過去数千年の,となり・となりの繁栄の移動」を,2万文字くらいの長さでざーっと見渡すということを行いました。
 「1万文字の世界史」というシリーズです。
 「となり・となりの世界史」という大きなシリーズの一部。
 ただし,「1万文字の世界史」というタイトルで書きはじめたのですが,書いてみると2万文字になってしまった…


「近代の文明」はこれからも力を持ち続ける
                      
 今回は,「1万文字(2万文字)の世界史」をふまえた,「結論」のひとつを述べたいと思います。
 いろんな「結論」が導き出せるとは思うのですが,そのなかで「とくに大事だ」と私が思うこと。

 それは,今の私たちの文明にかんするイメージです。
 つまり,科学や技術に支えられた,近代の文明。
 「資本主義」というのも,「近代の文明」の一部でしょう。

 その「近代の文明」は,これからも力を持ち続けるのではないか。
 「1万文字(2万文字)の世界史」の内容は,そんなイメージにつながると思っています。 
 
 「近代の文明」に,いろんな問題があることはたしかです。
 だから,「反近代」の思想を述べる人は,たくさんいます。

 前にこのブログの記事でもとりあげたのですが,インド独立・建国の指導者・ガンジーもそのひとりでした。

 ガンジーは「機械は西洋と結びついており,悪魔的だ。あんなものはないほうがいい」「経済生活は,衣食住の基本さえみたせば,それ以上を求めるべきでない」「輸出も輸入も排斥されるべきだ。国の経済は自給自足が理想だ」などと主張しているのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社より)
 
 機械文明も経済発展も貿易も否定する,ガンジー。

 ガンジーのように「反近代」の主張をする人はこれからもくり返しあらわれるにちがいありません。
 そして,かなりの人をひきつけたりするかもしれません。
 しかし,ガンジー的な主張が世界の主流派として力を持つことはない,でしょう。

 それは,「1万文字の世界史」でみてきたことからも,明らかではないかと。

 「〈近代〉はこれからも力を持ち続ける」――こういう主張は,いきなり述べてもなかなか受けいれてもらえないと思います。

 しかし,「となり・となりの世界史」あるいは「1万文字の世界史」をこれまで読んでくださった方なら,(全面的に賛成ではなくても)ある程度は「受け入れる」ことができるのではないでしょうか。
 少なくとも「主旨」(いいたいこと)は理解していただけるのでは…

 なぜなら,今の世界で主流になっている「近代」の文化や技術が,どのようなプロセスで生まれたものかについて,すでに知っているからです。

 つまり,これまでの世界史において,さまざまな民族が過去の遺産を継承し,新しいものをつけ加え,つぎの世代に渡していく――「1万文字の世界史」から,そのイメージを得ているからです。

 数千年にわたるさまざまな遺産の継承の積み重ねの末に,「近代」は生まれました。

 「近代」をかたちづくる要素のひとつである「近代科学」にかぎっていえば,

 最古の文明以来の西アジアの学問を,ギリシア人が受け継いで古代の学問・科学を開化させ,
 それをローマ人やイスラムの人びとが受け継ぎ,
 イスラムに学んだ西ヨーロッパ人が独自の要素を加えて近代科学を開化させた……

 そんな過程があるわけです。

 そして,イスラムにはインドの学問も影響をあたえましたし(「0」を使うアラビア数字など),印刷術などの中国発の技術は,ヨーロッパの文化に多大な影響を与えています。

 つまり,数千年間の世界のおもな文明によるさまざまな遺産の集大成として,「近代科学」は生まれ,発展してきたのです。

 このようなイメージがしっかりとあれば,科学をはじめとする,「近代」の根幹をなす要素を,簡単に否定するようにはならないと思うのですが,どうでしょうか?

 数千年にわたり,世界中の人びとが参加して築きあげてきたものを,どうして安易に捨て去ることができるでしょうか。


ジョブズの言葉

 さまざまな遺産の継承のうえに,今の私たちが存在している――これは,「世界史」を通して私たちが知るべき,だいじなメッセージだと思います。

 このイメージについて,アップルの創業者スティーブ・ジョブズが晩年に語った言葉があります。

 ジョブズの言葉は,歴史への認識にもとづいて,私たちが個人として,あるいは国民や市民としてどう生きるか,ということにも触れています。

 《なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは,先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数字も,僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし,自分の服なんて作ったことさえない。
 僕がいろいろできるのは,ほかの人たちがいろいろしてくれているからであり,すべて,先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして,僕らの大半は,人類全体になにかをお返ししたい,人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それはつまり,自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ……僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして,その流れになにかを追加しようとするんだ。
 そう思って,僕は歩いてきた。》

(ウォルター・アイザックソン(井口耕二訳)『スティーブ・ジョブズⅡ』講談社より)

 私たちも,歴史の遺産になにかを加えることをしていきましょう。
 ごくささやかなことでいいと思います。
 あるいは,そんな仕事をすすめている人たちを,少しでも応援していきましょう。

 私たちも,私たちになりに歩いていきましょう。

(以上)
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2013年08月22日 (木) | Edit |
 前回の記事で,4回にわたって書いてきた「1万文字の世界史」(2万文字になってしまった)が完結をむかえました……というとおおげさかもしれませんが,自分としては以前から書きたかったことを書ききって,人前に出したので,充実した気分です。

 この十数日ほど,職場にいる時間以外のほとんどは「1万文字の世界史」のことを考えていました。
 朝6時ころに起きたら,パソコンに向かって,出勤時間まで書く。
 通勤電車では,いつもの読書もせず,書きかけの原稿のプリントアウトを推敲する。
 家に帰って夕飯を食べたら,すぐにまたパソコンに向かう。
 
 こういう感覚はひさしぶりでした。
 
 多くの中年男性は,仕事のあとでも何かと忙しいのに,私は好きなことが思い切りできる。まあ,恵まれているのでしょう…

 今回の「1万文字の世界史」のもとになる原稿は,2年ほど前に書いたものがあります。
 「5万文字」くらいの長さのものです。
 さらに3年前に書いた,ごく初期の「原型」の「5000文字」ほどのものもあります。

 今読み返すと,5万文字というのは,ちょっと重い。
 5000文字だと,簡潔な要約になりすぎていて,読んでも何だかわからない。

 そこで,5万文字でも5000文字でもなく,1万数千文字くらいで書けないかと思い立ったのでした。「5000文字」を参照しつつ,「5万文字」を編集して,書きました。
 その結果,2万文字くらいになりました。

 「2万文字」というのは,1~2時間で読める分量です。

 その長さの世界史の通史,それもある一定の視点や論理で通している(「となり・となり」という視点を打ち出しています)というのは,自分としてはなかなか画期的だと思っています。
 
 今後は,今回書いたものを,大切に育てていきたいです。
 つまり,さらに完成させていったり,より多くの人に読んでもらえるようにしていきたい…
  
 もちろん,この「1万文字(2万文字)」では,書ききれなかったことがたくさんあります。
 それは世界史についての「個別の論点・テーマ」として,これから続きを書いていきます。

 それでも,この「1万文字(2万文字)の通史」の部分が,私の世界史の話の「核」になります。
 あとは,「付け足し」なのです。

 とにかく,「核」の部分を,ある程度かたちにすることができて,よかったと思っています。

 応援してくださった方がた,ありがとうございます(とくに,たきやん。さんは,先日のご自身のブログで,「1万文字の世界史」の最終話の記事が出たあと,たいへん好意的にこのブログを紹介してくださいました。ありがとうございます。それから,このシリーズの第1回をアップしてすぐ,最初に反応してくださった,shin36aさんに感謝。しかもそれが「はじめまして」だったのです…)。

 なんだか,ひとりでよろこんでいるみたいで,恥ずかしい気もしますが,まあいいでしょう。

(以上)
 
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2013年08月21日 (水) | Edit |
 「1万文字の世界史」の後編です。「夏休み特別企画」全4回のうちの完結編。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 でも,結局2万文字を少し超えてます…
 タイトルをそのうち変更しないと。
 2万文字なら,1時間くらいで読めるので,「1時間の世界史」とか。

 前回は,西ローマ帝国の崩壊後から,ルネサンス,大航海時代まで。
 今回は,1500年代から現在まで。


1万文字の世界史・後編

4.1500年~1700年(つづき)

イスラムからヨーロッパへの過渡期

 1500年代以降,世界各地に進出する,スペイン。商工業や新しい文化が花ひらき,繁栄するイタリア。
 ただ,「最先端」で勢いがあったとはいえ,スペインとイタリアがイスラムをしのぐ勢力になったとはいません。

 1500~1600年代には,西アジアなどの「イスラム圏」では,「オスマン・トルコ」という大きな帝国が栄えていました。さらにアジアの東の地域では,中国の明王朝(1600年代後半からは清王朝)が繁栄していました。
 人口や領土の大きさなどの国のスケールでは,スペインもイタリアもオスマン・トルコや明・清にはおよびません。

オスマン・トルコ
濃い網かけ:1500年ころ,薄い網かけ(+濃い網かけ):1600年ころ
オスマン・トルコ

 当時(1500年代)のスペインは,多くの植民地を得ました。しかしそれは,自分たちにとっては遠く離れた「辺境」の各地に,軍事や通商の基地をぽつぽつとおいた,という状態です。植民地を本国のような密度で支配していたのとは,異なります。

 「本国」の規模だけをくらべると,スペインは人口も面積も,オスマン・トルコよりもはるかに小さかったのです。

アメリカ大陸におけるスペインとポルトガルの植民地(1500年代)
茶色:スペインの植民地 緑:ポルトガルの植民地
スペイン・ポルトガルの植民地

 ただし,トータルな国力はともかく,1500~1600年代のヨーロッパ(西ヨーロッパ)の科学・技術・軍事力は,すでに世界の最先端になっていました。
 たとえば,多くの鉄砲や大砲を使った戦争は,この時期のヨーロッパではじめて行なわれるようになったのです。その技術の一部は,戦国時代の日本にも伝わりました(「鉄砲伝来」など)。

 しかし,ヨーロッパの軍事力はまだ圧倒的とはいえません。

 たとえば,当時のヨーロッパの大国のひとつであったオーストリア(を中心とするハプスブルグ家の帝国)は,隣接していたオスマン・トルコと,何度か戦争しています。そして,一時はその首都ウィーンがオスマン・トルコの軍勢に包囲されるなど,かなりの劣勢だったこともありました。
 1520年代と1680年代の2回ほど,そうした「ウィーン包囲」ということがおこっています。

 また,1500年代前半には,オスマン・トルコは他国を圧倒する海軍を持っていて,地中海の交通に大きな影響をあたえることができました。

 このように,スペインやイタリアが台頭してきた時点では「西ヨーロッパが世界の繁栄の中心」とはいいきれないところがあります。

 それでも,世界の繁栄の中心は,しだいにイスラムからヨーロッパ(西ヨーロッパ)へ移っていきました。

 たとえば,1570年代には,スペインとイタリアのジェノバ(有力な都市のひとつ)などの連合艦隊が,オスマン・トルコ艦隊との大きな海戦で勝利しました(レパントの海戦)。これ以後,地中海でのオスマン・トルコの力は衰えていきました。

 スペインやイタリアが台頭した1500年ころから1700年代までは,「イスラムからヨーロッパへ」の過渡期なのです。


オランダの繁栄

 そして,この「過渡期」の時代にも,西ヨーロッパのなかでの中心の移動がありました。
 
 それは,「となり・となり」の移動といえるものでした。
 
 イタリアやスペインの進んだ文化は,周辺のヨーロッパ諸国(フランス,ドイツなど)にも伝わりました。そして,北部のベルギーの港町(アントウェルペン)が,ヨーロッパ最大級の貿易港として栄えるなど,繁栄が北へ広がり,シフトしていく動きがありました。

 そのあと,オランダの繁栄の時代がやってきました。

 オランダは,フランスやドイツと国境を接しているほか,ベルギーのすぐとなりです。また,スペインの支配を受けた地域でもありました。つまり,スペインとは「関係が深い」という意味で,「となり」の国なのです。

西ヨーロッパの「中心」の北へのシフト・その1
赤:スペイン,イタリア
 スペイン・ポルトガル・イタリア

その2 赤:オランダとベルギー
オランダ・ベルギー

 1500年代末にスペインの支配を脱してから,オランダの繁栄がはじまりました。そして,1600年代に最盛期をむかえたのでした。

 オランダは,ヨーロッパのなかでは大きな国ではありません。人口は,イギリスやフランスなどのヨーロッパの大国の数分の1ほどです。

 しかし,小粒な国であっても,織物の生産,造船,海運・貿易などさまざまな商工業を発達させて繁栄したのでした。とくに海運・貿易では圧倒的な優位に立っていました。

 たとえば,1670年ころの「ヨーロッパ各国の商船隊の輸送能力」をまとめた統計があります。「持っている船のトン数の合計」と考えればいいでしょう。これによれば,オランダの輸送能力が57万トンであったのに対し,イギリス(イングランド)は9万トン,フランスは8万トンに過ぎませんでした。
 

5.1700年以降

イギリスの台頭

 オランダのつぎに繁栄の中心になったのは,イギリスです。
 イギリスは,ヨーロッパのおもな国のひとつでしたが,もともとはやや「片田舎」の存在でした。
 しかし,1700年代にはヨーロッパで最強の国となり,1800年代には,まさに世界の「中心」として繁栄したのです。

赤:イギリス 黄色:オランダ・ベルギー
イギリスへ

 イギリスは,オランダとは海峡ひとつ隔てた「となり」にあり,オランダの影響をつよく受けていました。

 イギリスとオランダの間では,貿易もさかんでした。ただ,1600年代にはイギリスは「新興国」で,オランダやベルギーは「先進国」という関係でした。たとえば,当時すでにイギリスには織物生産などの一定の産業がありましたが,「先進国」の製品にくらべると,品質的にはいまひとつでした。

 しかし,深い関係を持つなかで,イギリス人はオランダやベルギーからさまざまなことを吸収し,追いつき追い越していったのです。


産業革命

 イギリスの繁栄は,世界史上のきわめて重要なできごとです。
 イギリスで,蒸気機関などのさまざまな技術革新による生産の飛躍的な増大,つまり「産業革命」が起こったからです。

 1700年代後半のイギリスでは,蒸気機関やその他の機械が発明され,それを使った大規模な産業がおこりました。
 繊維産業(糸や布の製造)がそのはじまりで,のちに機械や道具の製造,製鉄,化学など多くの分野に広がっていきました。各地に鉄道がつくられ,汽船が海を行きかうようになりました。

 そのようなことは,最初はイギリスだけにかぎられていましたが,1800年代前半のうちにはヨーロッパの広い範囲や,アメリカ合衆国にも広がりました。日本でも,明治維新(1868)以降に,欧米の技術を取り入れた産業の革新が行われました。

 1800年代は,イギリスの時代でした。
 まず,圧倒的な工業力で「世界の工場」といわれました。
 ある統計では,1870年の時点で,イギリスの工業生産は,世界の32%を占め,世界1位でした。そのような産業の力をバックに,海運や軍事力でも最大の勢力となりました。学術研究などの文化面でも,世界をリードしました。


いろいろな成果の集大成

 産業革命は,それまでの数百年間にヨーロッパで行われた試みのいろいろな成果を集大成したものです。

 イスラムの学問を受け継ぎ発展させた科学研究,人びとが自由に研究や事業ができるルールや公正な裁判,銀行や株式会社などの金融のしくみ――そういうものを,西ヨーロッパの人びとは,1700年代までにかなりのところまで築きあげてきました。イタリア人,スペイン人,ドイツ人,フランス人,オランダ人等々の人びとがそれにかかわってきました。

 イギリス人は,「それまでの遺産を受け継ぎ,新しいものをつけ加えながら,ひとつにまとめあげた」のです。

 科学や技術の研究,起業家精神,それらを後押しする自由な社会のルール,新しい事業を生む金融のお金の流れ。それらをまとめあげた結果が,産業革命です。


欧米が世界を制覇する

 産業革命以降は,はっきりと西ヨーロッパが世界の「繁栄の中心」となりました。
 その「中心」にはアメリカ合衆国も含まれているので,ここからは「欧米諸国」といういい方もしていきます。

 繁栄する欧米諸国によって,世界の勢力図は大きく変わっていきました。

 1700年代までのヨーロッパの人びとは,オスマン・トルコなどのイスラムの帝国にたいし,相当なおそれや敬意をいだいていました。「スケールや伝統がすごい」というのです。インドや中国にたいしても似たような思いがありました。

 しかし,それが1800年代以降,大きく変わりました。ヨーロッパにイスラムなどのアジアの国ぐにを上回る力のあることがはっきりしてきました。技術や経済力をもとに圧倒的な軍事力を持つようになったのです。

 その力で,1800年代の欧米諸国は,世界じゅうのさまざまな地域,つまりアジア・アフリカの国や地域を,植民地やそれに近いかたちで支配下におくようになりました。

 その「植民地」のなかには,かつて強大だったイスラムの国ぐにの一部や(エジプトなど),中国の一地域(香港など)も含まれていました。インドは,1800年代後半には国全体がイギリスの植民地になってしまいました。

 欧米以外で最強の勢力だったオスマン・トルコや中国(1800年代当時は清王朝)は,完全に植民地化されることはありませんでした。しかし,両国とも1800年代にはイギリスとの戦いに敗れるなどで,すっかり衰えてしまいました。

 1900年代初頭には,世界の大半が欧米の植民地になるか,それに準ずる状態になってしまいました。

1914年における欧米諸国の植民地
(濃い網かけ:欧米諸国,薄い網かけ:その植民地)

アジア・アフリカ諸国だけでなく,カナダ,オーストラリアも含んでいる
欧米の植民地


アメリカの時代

 イギリスの繁栄のあとにくるのは,1900年ころからのアメリカ合衆国(アメリカ)の時代です。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。
 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。
 それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 イギリス→アメリカというのは,「となり・となり」じゃない,と思うかもしれません。

 しかし,そうではありません。アメリカの政治・経済の中心の東海岸は,イギリスから大西洋を渡った先,つまり大西洋をはさんで「となり」にあるのです。

オレンジ:イギリス 赤:アメリカ東海岸 黄色:その他のアメリカ
イギリスからアメリカへ

 イギリスとアメリカは,海という交通路でつながっています。前にも述べましたが,鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。

 それから,アメリカは1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。
 そのように,イギリスの影響をつよく受けた地域なのです。
 やはりここでも,「となり・となり」です。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に,新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 たとえば発明王エジソンは,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。
 エジソンは,1800年代後半から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。

 エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電源」という現代の電気技術の基礎を築いたウェスティングハウスといった人たちがいました。この人たちはみなアメリカで活躍しました。
 つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在(2010年代)も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。

 アメリカのGDPは世界第1位の規模で,世界全体の23%を占めます(2010年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済的な発展度を示す)は,4万7千ドルで,世界でも上位のほうです。
 なお,GDPで世界2位の中国は世界の9.1%,3位の日本は8.7%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが4400ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の軍事費の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。
 しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。

                      *

 以上,世界史における「繁栄の中心の移り変わり」を,駆け足でたどりました。この「移り変わり」をまとめると,こうなります。

①メソポタミア ②メソポタミア周辺(エジプト・シリア・トルコなどの西アジア) ③ギリシア ④ローマ(西側→東側) ⑤イスラムの国ぐに(メソポタミア周辺→カイロなど西側の地域) ⑥西ヨーロッパの国ぐに(イタリア・スペイン→フランス・ドイツ・ベルギーなど→オランダ→イギリス) ⑦アメリカ(ほかに西ヨーロッパ,日本)

 もっとざっくりまとめると,こうです。

1.西アジア
2.ギリシア・ローマ
3.イスラム
4.西ヨーロッパ
5.アメリカ


 これらの国ぐにはすべて「となり・となり」の関係にあります。新しい中心は,その直前の中心の近くから出ています。数千年にわたって,全部がつながっているのです。


2つの世界大戦

 最後に,1900年代の2つの世界大戦と,アジア・アフリカ諸国の状況についてみてみましょう。

 前に述べたように,アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半は,その欧米諸国のなかできわめて大きな「内紛」がありました。第一次世界大戦(1914~1918)と,第二次世界大戦(1939~1945)です。

 これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになった「新興勢力」です。

  そして,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の「既得権」に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,チャンピオンのイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第二次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。

 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


アジア・アフリカの独立と発展

 これらの大戦は,いくつかの重大な結果をもたらしました。そのうち,「世界史の大きな流れ」という視点からとくに重要だったのは,「アジア・アフリカの独立・革命」を招いた,ということです。

 2つの大戦は,空前の大規模な激しい戦いだったので,敗けた側はもちろん,勝った側にも大きな混乱や被害をもたらしました。

 その中で,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって「独立」を求め,欧米諸国はそれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,欧米諸国には植民地をおさえきる余力はなくなっていたからです。

 たとえば,第二次大戦終結直後のインドの独立は,そのような動きの代表的なもののひとつです。

 また,植民地化されなかった国でも,戦争による混乱のなかで,それまでの国王や皇帝による支配を倒し,近代的な新しい国をつくるための「革命」が,いくつも起こりました。革命をすすめた人びとは,「欧米に対抗できる体制」をつくろうとしたのです。

 たとえば,オスマン・トルコ帝国を倒し,現在のトルコ共和国を築いた1922年の「トルコ革命」には,第一次世界大戦の影響があります。第一次世界大戦でオスマン・トルコは,ドイツの陣営に加わって戦い,破れました。その混乱のなかで革命勢力が力をつけ,勝利したのです。

 1949年に現在の「中華人民共和国」が建国されたのも,第二世界大戦の影響があります(具体的な経緯には,ここでは立ち入りませんが)。

 そして,1960年代末までには,世界の大部分の地域が独立国家となりました。

 独立後しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年代から,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。

 続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となり,1990年代以降は中国やインドの経済発展もめざましいものになりました。

 2000年代以降は,経済発展が続く「新興国」が,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地でみられるようになっています。

 また,こうした独立・発展の一方で,アジアの一画を占める日本が,第二次世界大戦後に急速に経済成長をして,世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともありました。

 つまり,世界の勢力図は1900年頃の「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。

 こうした「アジア・アフリカの台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確実なことはわかりません。
 しかしその動きが今後の「世界史」の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(「1万文字の世界史」おわり)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2013年08月20日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの40回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 これまで,教科書や子ども向けの本のことや,「新書のすすめ」,「通な本」「最先端の本」とのつきあい方,といったことを述べてきました。
 今回は,「古典」とのつきあい方。


古典を読んでつまらなくても,気にしない。

 「古典は大事だ」とよく言われますが,実際に読んでみると,きっとつまらないはずです。
 あなたが悪いのではありません。古典は,つまらないのがふつうです。
 古典というのは,あたり前のことを,古くさい文体でくどくど書いているものだからです。

 そのことに気がつくまで,私は何年もかかりました。もっと早く気がつくべきでした。

 古典のメッセージは,現代の私たちにとって「常識」となっています。のちの思想や学問に大きな影響を与えたというのは,そういうことです。偉大な古典ほど,現代では「あたり前」のことを言っています。

 たとえば,フランシス・ベーコンとかデカルトといった,近代初頭(1600年代)の大哲学者は,「アリストテレス(紀元前300年代)などの古代の学説をうのみにするのではなく,自分の眼と頭で考えなくてはいけない」と言っています。そのことを一生懸命説いています。
 
 アリストテレスは,古代ギリシアの哲学者です。当時は,「古代の学説」が絶大な権威を持っていたので,こういう主張は革新的かつ刺激的なものでした。

 でも,今の私たちは「アリストテレスを疑え」と言われても,ピンときません。何とも思っていないものを「疑え」と言われても,とまどってしまいます。

 古典というのは,ベーコンほど大昔の本でなくても,多かれ少なかれ,だいたいこんな調子です。読んでつまらなくても,気にしないことです。

                          *

 とりあえず,古典そのものは読まなくてもいい。でも,「古典のまわりをうろうろする」ということは,やってみたらいいと思います。

 つまり,現代の著者が古典の世界について解説したり議論したりしている本を読むことです。

 科学史や哲学史の全体的な流れを扱った本も,ぜひ読んでみてください。偉大な古典は,科学や学問の最も大切な問題を,真正面から扱っています。さっきのベーコンやデカルトも,「古代の学問にかわる新しい学問はどうあるべきか」という「大問題」を論じています。

 ベーコンは,「科学の成果は産業に応用され,社会を変える」と言いました。デカルトは,「新しい学問では,数学が重要だ」と言っています。やっぱり,あたり前のことを言っているのです。

 古典を語ることは,科学や学問の核心に触れることになります。たとえば,この本でも書いた「科学と学問」とか「仮説・実験」といった,学問のイメージや方法について学ぶことになるのです。
 
 そして,じつは「最先端」と言われる議論には,古典で議論されてきた核心的な問題に新しい光をあてた,というものも多いのです。

 実際は,「核心」など伝わってこない本が多いです。でも,感動的にわかりやすく書いてくれる著者もいます。そういう著者に出会うことができた人は,幸運です。

 私の場合は,そのひとりが板倉聖宣さんという学者でした。

 科学史の研究者である板倉さんは,コペルニクスやガリレオなどの科学者について本を書いていました。それら近代科学の開拓者を通じて,「科学的とはどういうことか」を論じていました。
 そして,そこから「現代の科学教育をどうすべきか」という問題について,具体的な提案を行っていたのです。

 私の場合,古典のまわりをうろうろすることで,「これだ」と思う先生にめぐりあえた,ということです。

 だから,あなたにも「古典のまわりをうろうろする」ということをおすすめします。そのうち,歴史的なことや,いろんな背景がわかってきて,古典そのものも楽しめるようになります。

(以上,つづく)
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2013年08月18日 (日) | Edit |
 「1万文字の世界史」の中編の2です。「夏休み特別企画」全4回のうちの3回目。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 前回(中編)は,ローマ帝国の時代について。
 今回は,西ローマ帝国の崩壊後から,ルネサンス,大航海時代まで。

1万文字の世界史・中編の2

3.西暦500年~1500年(つづき)

イスラムの台頭

 西暦400年代にローマ帝国の西側=西ローマ帝国が崩壊して,「繁栄の中心」は,帝国の東側=東ローマ帝国に移りました。
 「生き残った帝国」東ローマ――西暦500~600年代には,ここが当時の世界で最も繁栄した国ではあったのですが,ローマ帝国の最盛期にくらべれば,政治も文化もふるいませんでした。

 やがて,繁栄の中心は帝国の外に移っていきました。
 東どなりの,メソポタミアとその周辺の西アジアです。

 ローマ帝国が衰えてからのち,この地域では600年代にイスラム教が創始され,急速に力を持つようになりました。そして,その信者の勢力によって新しい国がつくられました。
 この国は各地を征服して急速に拡大し,700年ころには「イスラム帝国」といわれる,かつてのローマにも匹敵する大国となりました。

 ここから,世界の繁栄の中心は「イスラム」になります。

西暦800年ころのイスラム帝国(紫の斜線)
メインの「アッバース朝」のほか,北アフリカ西部,イベリア半島のいくつかの王朝を含む。黄緑は東ローマ帝国,茶色は当時の西ヨーロッパで最大勢力のフランク王国。ほかの国は省略している。
イスラム帝国ほか

(参考)最盛期(100年代)のローマ帝国
最盛期のローマ帝国


ギリシア・ローマの遺産に学ぶ
 
 イスラムの人びとは,多くのことをギリシアやローマの遺産に学びました。
 たとえば,イスラムでさかんだった学問・科学の研究は,ギリシアの学問を引き継いだものです。

 西暦800年ころから,イスラムの人びとは,ギリシアやローマの書物を自分たちの言葉であるアラビア語に翻訳しはじめました。そして,翻訳するだけでなく,やがて独自の研究へと進んでいったのです。

 ただし,科学の研究がさかんだったといっても,イスラムの国ぐにの科学が,かつてのギリシアやローマのレベルを大きく超えて,それらをすっかり過去のものにしてしまったというのではありません。

 たとえば,西暦1000年ころのイスラムの科学者たちは,彼らからみて1000年以上前のギリシアの哲学者(科学者でもある)アリストテレスの著作を,「偉大な権威」として,教科書のように扱ったのです。これは,近代科学の急速な発展ぶりとは,大きく違います。

 また,そもそもイスラム教は,ローマ帝国で生まれたキリスト教の影響を受けています。たとえば,イスラム教は唯一絶対の神・アッラーを信仰する一神教ですが,その「一神教」という考え方はキリスト教からのものです。

 イスラムの人びとがギリシアやローマの遺産を学んだのは,イスラム帝国の西側のとなりの東ローマ帝国の人びとからでした。東ローマ帝国とイスラム帝国のあいだには,争いもありましたが,貿易や文化的な交流もさかんでした。


イスラムの国ぐにの遺産

 繁栄するイスラムの国ぐにで生まれた文化や技術は,のちにヨーロッパの国ぐにに大きな影響をあたえました。さらにそこから世界にも影響をあたえたのです。

 たとえば,今の私たちは,ふだんの生活でいろいろなアラビア語を口にしています。

 アラビア語は,イスラム帝国を築いた中心勢力であるアラビア人の言葉です。いくつもの民族が暮らすイスラム帝国のなかで,共通語とされていました。

 つぎのものはすべてアラビア語に由来します。つまり,イスラムの国ぐにになんらかのルーツがあるのです……コーヒー,シュガー,ジャケット,シロップ,ソファー,オレンジ,アルカリ,ソーダ,ギプス,ガーゼ……衣食住から化学・医療にかんするものまでいろいろあります。

 それから,現在世界じゅうで使われている0,1,2,3…10の数字を「アラビア数字」といいます。この数字は,漢字の数字やローマ数字などとくらべると,計算にきわめて便利です。アラビア数字は,イスラムの国ぐにからヨーロッパに伝わり,その後世界に広まりました。

 ただし,「0」を使った十進法じたいはインドで生まれたものです。イスラムの人びとはインドの数字に学んで,それをさらに洗練させたのです。

 この時期(西暦500~1500年ころ)のイスラムの国ぐには,じつに多くのものを生み出したのです。「繁栄の中心」というのは,そういうものです。


帝国の分裂・「イスラム」の中での繁栄の移動

 その後,800年代になると,イスラム帝国はいくつかに分裂していきます。この帝国は,さまざまな国や民族を強引にひとつにまとめたところがあったので,無理もないことでした。
 分裂後は,それぞれの国が繁栄を続けました。そして,イスラムの国ぐにのなかで,「中心」が移動していったのです。

 イスラム帝国の比較的初期のころは,繁栄の中心はメソポタミア(今のイラク)周辺でした。そこにはバグダードという中心都市がありました。

 しかしその後,西暦1000年代からは,エジプトの都市・カイロのほうが栄えるようになりました。さらに後の時代には,カイロの西の北アフリカの地域や,その先のスペイン(スペインはイスラムに征服されていた)にも,大きな都市ができていきました。

 一方,東のほうに目を向けると,西暦1000年ころ以降はインド北部にもイスラムの勢力は拡大しました。さらに1400年代以降は,東南アジアにもイスラム教が本格的に広がりました。そして,これらの地域にもイスラムの国ができていきました。

 イスラム教徒が主流の地域=イスラム圏は,東西の広い範囲に拡大していったのです。


中国の繁栄

 また,イスラムの絶頂期に,それと並んでおおいに繁栄した国・地域として,中国があります。

 中国では秦・漢以降,さまざまな王朝(政権)が栄えたり滅んだりしました。そのなかで代表的なのが,唐(最盛期700年代),宋(最盛期1000年代),元(最盛期1200年代)といった王朝です。イスラムが繁栄した時代は,これらの中国の王朝の絶頂期でもありました。

イスラム帝国(紫)と唐(オレンジ)・西暦800年ころ
前出の地図に唐を描き加えた。
イスラム・唐

 「絶頂期」の中国は,高い文化や技術を持っていました。それを示すのが,いくつかの重要な発明です。

 実用的な火薬は,800年代に中国で発明されました。

 方位を示す羅針盤を航海に使うようになったのも,中国が最初でした。西暦800年代から1000年代のことです。

 最初の活字印刷(陶製の活字による)は,西暦1000年代に中国で発明されました。ドイツのグーテンベルクが金属活字による印刷をはじめたのは1458年ですから,その400年ほど前のことです(これは中国での発明とは独立のものだった可能性がある)。

 火薬,羅針盤は,その後ヨーロッパに伝わりました。ヨーロッパ人は,これらの発明に改良を加えました。火薬を用いた鉄砲などの武器や,羅針盤を使った航海術や,数多くの出版物は,1400~1500年代以降のヨーロッパを,ひいては世界を大きく変えていきました。
 しかし,それらの発明のルーツをたどると,中国での発明に行きつくのです。


その他の地域・「文明」の広がり

 前にみたように,ローマ帝国や漢(後漢)が繁栄していた西暦100年代の時点では,日本,東南アジア,ヨーロッパ北部と東部,南北アメリカといった場所は,まだ本格的には文明は栄えていませんでした。しかし,それ以降数百年のあいだには,これらの地域でも「文明化」がすすんでいきます。

(日本)
 日本は,西暦300年代(古墳時代)から600年代(飛鳥時代)にかけて,ヤマト政権による統一・建国がなされ,今の「日本」の基礎ができました。これは,おもに中国や朝鮮半島の人びとの影響を受けながら,自分たちの国や文化を築いたのです。

(朝鮮半島)
 朝鮮半島では,紀元前200年代から中国人の一派が移り住んで国家の形成がはじまりました。その後,中国人勢力が支配的な時代が続きましたが,西暦300年代にその支配を脱し,独立の国づくりがはじまります。
 そして,複数の国が並び立つ時代を経て,600年代には「新羅(しんら)」という王国によって半島が統一されました。
 その後は「高麗(こうらい)」(900年代~)→「李朝朝鮮」(1300年代~)と受け継がれていきます。

                       *

 このほかの地域(東南アジア,ヨーロッパ北部と東部,アメリカ大陸)でも,ごくおおまかに紀元前後(2000年前ころ)から西暦1000年ころにかけて,本格的な国づくりがはじまりました。

 ずいぶん時間の幅がありますが,ときにはそのように大きくざっくりと捉えることも必要です。

(東南アジア)
 今のベトナム,カンボジア,タイといった地域では,西暦100年ころから,中国やインドの影響を受け,いくつかの国ができはじめました。
 そして,西暦400年ころからはとくにインドの文化をおおいに取り入れ,独自の国や文化を形成するようになりました。

(ロシア)
 ヨーロッパ(東部)に目を向けると,たとえば今のロシアにつながる初期の王国(キエフ王国など)は,800年代に成立しました。この王国の文化は,東ローマ帝国の影響を受けています。

(アメリカ大陸)
 アメリカ大陸の古典的な文明を築いた「マヤ王国」が,今のメキシコで栄えたのは西暦200年代から1200年代にかけてです。その後「アステカ王国」がこれを継承し,1500年代にスペイン人に滅ぼされるまで続きました。

 なお,マヤ王国などのアメリカ大陸の文明と,西アジア,インド,中国などのユーラシアの文明との関係は,はっきりしません。アメリカ大陸の文明がまったく独自のものなのか,ユーラシアからの影響で生まれたのかは,わかっていないのです。

 少なくとも,1500年ころにヨーロッパ人がアメリカ大陸にはじめてやってきた時点では,2つの大陸(ユーラシアとアメリカ)の住民は,お互いのことを知りませんでした。

                         *

 以上,いろんな国がでてきましたが,要するに紀元前後から1000年ほどのあいだに,世界における「文明」の分布は一層広がり,世界はさらに多様になったということです。

 その「広がり」は,基本的には「古くからの文明国から,その周辺へ」というものでした。たとえば中国と日本の関係や,東ローマ帝国とロシアの関係は,そうです。

 その結果,「西暦1000年ころまでには,今の世界の主要国の基礎となる国の多くが,ほぼ出揃った」といえるでしょう。


4.1500年~1700年

イタリア・スペインという新勢力

 西暦700年代にイスラム帝国が成立して以降,「イスラムの時代」は,数百年は続きました。

 しかしその後,イスラムの国ぐにの周辺に,その影響を受けて新たに台頭する地域もでてきました。それは,イタリア・スペインといった西ヨーロッパの国ぐにです。

 「西ヨーロッパ」とは,ヨーロッパの西部で,イタリア,スペインのほか,フランス,ドイツ,オランダ,イギリスなどを含む地域です。ほぼ「西ローマ帝国の領域だった範囲」といえます。

 西ヨーロッパでは,400年代の西ローマ帝国の崩壊後,さまざまな王国が興亡する不安定な状態が続きました。
 しかし,西暦1000年ころまでには,今の西ヨーロッパ諸国のもとになるいくつかの王国が成立して,かなり安定してきます。その後長いあいだふるわなかった経済や文化も,活気を取り戻していきました。

 そして,1400~1500年代になると,西ヨーロッパの中から,「世界の最先端」といえる勢力もあらわれたのです。それが,イタリアとスペインでした。

 2つの国は,地理的にイスラムと近い関係にあります。つまり,イスラムの「となり」にあるのです。

 まずイタリアは,西ヨーロッパの中では,エジプトなどのイスラムの主要部に最も近いです。
 そして,イタリア半島の「長靴」の先端は,イスラムの国がある北アフリカ(現在のチュニジア,アルジェリアなど)にたいし目と鼻の先です。

 西ローマ帝国の崩壊後,イタリアではいろいろな混乱がありました。しかし,西暦1000年ころから,ベネチア,フィレンツェなどの,都市を中心とするいくつかの国ぐに(ほぼ独立といえる「自治都市」)のもとで安定してきました。

 そしてそれらの国ぐに(都市)は,織物の生産や,イスラムや東ローマ帝国との貿易などで,おおいに繁栄しはじめたのです。

 一方,スペインの国があるイベリア半島は,西暦700年代からイスラムの王朝に支配されていました。しかし,スペイン人は1400年代までにイスラムの勢力をほぼ追い出し,自分たちの王国を発展させました。

スペイン(オレンジ),ポルトガル(水色),イタリア(赤)
現在の国の範囲。モノクロの斜線は800年ころのイスラム帝国。
スペインとイタリア

イタリアのおもな都市,東ローマ帝国(黄緑),イスラム(紫)・西暦1100年ころ
コンスタンチノープルは,東ローマ帝国の中心都市。
イタリア周辺


イスラムから学ぶ

 イタリアもスペインも,このように「となり」であったイスラムの人びとと,さまざまな交流があった地域です。貿易などの平和的な交流だけでなく,戦争もありましたが,とにかくイスラムからいろいろ吸収して,発展していったのです。

 たとえば,西暦1100年ころから,イタリアやスペイン(とくにイタリア)では,イスラムやギリシア・ローマの書物を翻訳することがさかんになりました。
 イスラムの国ぐにの学問や,そのもとになっているギリシアやローマの遺産を吸収しはじめたのです。

 やがて,既存の書物を翻訳して読むだけでなく,独自の研究も行われるようになりました。
 そのような研究は,とくにイタリアで発展し,のちの1600年代にはガリレオ・ガリレイ(イタリア人)の「落下の法則」や「地動説」のような,近代科学の出発点になる仕事を生み出しました。

 このほか,イタリア人とスペイン人は,多くのものをイスラムから取り入れました。

 前に「アラビア語に由来するいろいろなもの」(アルコール,コーヒー,アルカリ等々)のことを述べましたが,これらを最初にヨーロッパで取り入れたのは,スペイン人とイタリア人でした。

 
ルネサンス,大航海時代

 イスラムからの影響を出発点にして,イタリアやスペインの文化や経済は大きく発展しました。
 それを,当時のヨーロッパ人は,「かつてのギリシア・ローマの文化を復興させたものだ」ととらえました。
 そして,この新たな繁栄を「復活・復興」を意味する「ルネサンス」という名称で呼びました。

 さらに,この「復興」は,たんなる過去の再現ではありませんでした。数々の新しいことが起こったのです。

 たとえば,1400年代末にスペインの船が,大西洋を横断してアメリカ大陸の近くに到達するということがありました。コロンブスの航海です(コロンブスはイタリア人)。
 これは,ほかの国ではできなかったことです。イスラムの国にも,かつてのローマ帝国でもできませんでした。
 つまり,世界史の先端を行く新しいことを成しとげたのです。

 コロンブスの航海以後,多くのスペイン船が,アメリカ大陸と行き来するようになりました。

 そして,1500年代前半のうちに,スペインは,アメリカ大陸の先住民の国ぐにや集落を武力で支配するようになりました。そのような海外の支配地を「植民地」といいます。

 大陸を越えて支配地を広げる国があらわれたのは,この時代がはじめてです。

 なお,同じリベリア半島のポルトガル王国も,スペインと競ってアメリカ大陸に進出しましたが,比較的小さな国だったので,その影響はスペインにくらべると限られました。

 そして1500年代には,スペインやポルトガルは,アジアにも進出しはじめました。戦国時代の日本にもやってきました。また,1600年ころからは,オランダ,イギリスも,海外進出で後から追いあげてきました。

 こうして,1400年代末から1700年代にかけて,スペイン・ポルトガルを皮切りに,西ヨーロッパの船が世界各地を航海するようになりました。そして,ヨーロッパ人にとっては未知の「新世界」を,つぎつぎと発見していったのです。

 この時代については「大航海時代」といういい方があります。
 「大航海時代」は,西ヨーロッパの台頭のはじまりです。

(つづく)
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2013年08月15日 (木) | Edit |
四百文字の偉人伝・手塚治虫(てづか・おさむ)

戦争中に描きためた三千枚

 太平洋戦争(1941~1945)のころ,明日のまったくみえない時代。マンガ家志望の学生だった手塚治虫(1928~1989)は,それでもひたすらマンガを描いていました。
 そのころに描いた原稿は,およそ三千枚。
 戦時中で発表のあてもない原稿を,それだけ描いたのです。それも,空襲が日増しに激しくなる中,教師などの周囲の大人ににらまれながらです。
 だから,描いたものは親しい友人にだけみせていました。でも,どうしても多くの人にみてもらいたくて,動員されていた軍需工場で,エラい人にみつからないよう,工員専用のトイレの個室に作品を貼ったこともありました。
 やがて,戦争が終わりました。
 手塚はほっとすると同時に,「これで思いきりマンガを描ける。マンガ家になれるぞ!」と胸をおどらせました。
 その後,描きためた原稿を基にした作品がつぎつぎと出版され,新しい時代のマンガとして大きな反響を呼んだのでした。
 戦争が終わったとき,ただほっとしたり呆然としたりするのではなく,「これで思いきり〇〇できる!」と叫んだ若者は,手塚のほかにもいろんな分野でいたはずです。そういう人たちが,戦後の日本社会を築いていったのです。

手塚治虫著『ぼくはマンガ家』(角川文庫,2000),同『ぼくのマンガ人生』(岩波新書,1997)による。

【手塚治虫】
マンガ家。現代マンガ(=ストーリーマンガ)の基礎をつくった。1947年『新宝島』で本格デビュー。『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『火の鳥』『ブラック・ジャック』など多くの作品を残した。
1928年(昭和3)11月3日生まれ 1989年(平成元)2月9日没

(以上)
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2013年08月14日 (水) | Edit |
 前回からの続きです。「1万文字の世界史」の中編。「夏休み特別企画」の全3回(か4回)。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 前回(前編)は,メソポタミアにおける文明のはじまりから,古代ギリシアまで。
 今回は,ローマ帝国の話から。


1万文字の世界史・中編

2.紀元前1000年~西暦500年(つづき)

ローマ帝国の誕生

 新しい「繁栄の中心」となったギリシア。しかし,そのギリシアもしだいに以前ほどの活気はなくなっていきました。
 その一方,ギリシアの西のとなりのローマという国が台頭してきました。

 ローマは,もともとはイタリア半島の一地域の国でした。その建国はローマ人の伝承によれば紀元前700年代で,ギリシアのポリスができはじめたころより少し後です。イタリア半島は,西のとなりのギリシアからさまざまな技術や文化が伝わり,「文明化」した場所です。

 ローマ人は,軍事や政治の面でとくにすぐれていました。土木や建築をはじめとする技術面でも,高い能力を持っていました。
 そして,ギリシアのポリスが繁栄していた時代から,何百年もかけて多くの国ぐにを征服し,勢力の拡大を続けていたのです。

 紀元前200年代(2200~2300年代)には,イタリア半島を統一。
 その後,今のスペインなど,地中海の西側も制覇。

 紀元後まもなく(2000年前ころ)までには,ギリシア人の勢力範囲――ギリシア本土やエジプトなども,ローマによって征服されてしまいました。

 さまざまな国を征服した結果,紀元後まもなくのころには,ローマは地中海全体を囲む巨大な帝国になっていました。「ローマ帝国」の誕生です。なお,「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

 帝国の首都ローマがあるイタリア半島は,新しい繁栄の中心になりました。「繁栄の中心」が,ギリシアからその西の「となり」に移ったのです。

ローマ帝国(最盛期の西暦100年代)
最盛期のローマ帝国


ローマ帝国の文化

 ローマ人は,征服した国ぐにのさまざまな文化を,自分たちの帝国のなかに取り入れました。
 そのなかで最も重視したのが,ギリシアの文化でした。

 たとえば,ローマの学問・科学というのは,全面的にギリシアのものをもとにしています。美術や建築も,ほぼ同様です。「ローマ人は,ギリシア人を軍事的・政治的に征服したが,文化的には征服された」などともいわれます。

 ただし,ギリシア起源でない文化でも,重要なものがあります。その代表がキリスト教です。

 キリスト教は,紀元後まもない時期に,当時ローマ帝国の領域だった西アジアのパレスチナ地方で創始されました。キリスト教の母体になっているのは,当時のパレスチナ周辺で普及していたユダヤ教です。
 
 キリスト教は,その後ローマ帝国の各地に広まりました。最初は「あやしい新興宗教」として弾圧されましたが,しだいに公認され,権威になっていきました。そして,西暦300年代末には,ローマ帝国の「国教」(国をあげて信仰する宗教)にまでなったのです。


インフラの建設

 文化では「ギリシアに征服された」といわれるローマ人ですが,政治・行政やインフラ(社会生活の基盤となる施設)の建設といった実務的な分野では,ギリシア人を超える高度なものを生み出しました。

 それを象徴するのが,ローマ帝国の全土に建設された道路網です。

 西暦100年代のローマ帝国には,720万平方キロの領域のなかに,のべ8万キロあまりの公道が整備されていました。石畳などで舗装された道路です。

 この「8万キロ」というのは,1900年代後半のアメリカ合衆国全土(940万平方キロ)における高速道路網の総延長(9万キロ弱)に匹敵します。

 また,水道の整備にも,ローマ人は力を入れました。

 ローマ帝国のおもな都市では,遠くの水源(沼や湖など)から水路をつくって都市に水を供給しました。そのために,ときには水道橋をつくったり,トンネルを掘ったりもしました。これは,ギリシア人がすでに行っていたことを改良し,大規模に行ったのです。

 都市には公共浴場や数多くの水汲み場が設けられ,市民はふんだんに水を使う暮らしができました(一般の家庭ごとに水道がひかれるまでには,なっていません)。

 およそ2000年前の時代になると,それだけのインフラを整備するところまで,文明は進んだわけです。
 当時のローマ人は,そのような「進歩」の先端を担っていました。


帝国の衰退と解体

 ローマ帝国は西暦100年代に最盛期をむかえましたが,その後だんだんと衰退していきました。

 西暦400年代には,帝国の西側の「西ローマ帝国」(イタリア半島周辺)が,内乱や外部からの異民族の侵入で体制崩壊してしまいました。
 
 これによって繁栄の中心は,それまでのイタリア半島から,体制崩壊を免れた帝国の東側の地域(ギリシア周辺)に移っていきます。またギリシアに戻った,ともいえます。

 ローマ帝国の衰退がはじまったころから,繁栄の重心は徐々に東側にシフトしていたのですが,西側の体制崩壊でそれが決定的になりました。

 このいわば「生き残った」は側のローマ帝国は「東ローマ帝国」といいます。

ローマ帝国の東西(赤い線が境界)
東西のローマ帝国
 
 西ローマ帝国の崩壊の一因となった「異民族の侵入」というのは,「ゲルマン人」と一般にいわれる人びとによるものです。

 ゲルマン人は,ローマ帝国が繁栄していた時代には,ローマの人びとからみて辺境の,ヨーロッパの北や東の一画で素朴な暮らしをしていました。しかし,ローマと接することで一定の技術や文化を身につけ,新興の勢力となったのです。

 西ローマ帝国の崩壊後,ゲルマン人はその跡地に,それぞれのグループ(部族)ごとに自分たちの王国を築きました。
 できはじめて最初の数百年,それらの王国は不安定で,さまざまな国がおこっては滅びていきました。その間に,かつて栄えた文化はすっかりおとろえてしまったのでした。


中国とインド

 ここで少しだけ,これまで「四大河文明」のとき以外触れなかった中国とインドについて述べます。
 まず,中国です。

 紀元前1600年ころ(あるいは紀元前2000年ころ)の黄河文明の誕生以来,その文明は周辺に広がっていき,いくつもの国が生まれました。

 そして,紀元前200年(2200年前)ころには,「秦」という国がほかの国ぐにを征服して,今の中国全体に近い範囲をはじめて統一しました。秦の王は自らを「始皇帝」と名乗り,絶対の権威となりました。

 この統一は,現在につながる「中国」の原点といえます。

 しかし秦の支配は十数年の短期で終わり,その後まもなく「漢」という王朝によって,再統一がなされました。「王朝」というのは,「国王や皇帝が支配者である政権」を,そのように呼ぶのです。

漢(前漢)
前漢

 漢王朝はその後(紀元後まもなくまで)200年ほど続きました。
 そして,漢が滅んで別の政権が短期間あったのち,漢王朝を復活したとされる「後漢」という政権もありました。後漢は西暦200年ころまで続いたので,これも含めると,「漢」は400年ほど続いたことになります。
 なお,最初の「漢」のことは,「前漢」ともいいます。

 今の中国人の多数派は「漢族」といいます。中国の文字は「漢字」です。これに象徴されるように,漢の時代は,のちの中国の政治や文化の基礎がつくられた時代でした。

 インドの歴史でも,中国史における秦や漢のような「原点」があります。

 それは,紀元前200年代(2200~2300年前)に,いくつもの国が並びたっていたインドのほぼ全体をはじめて統一した「マウリヤ(王)朝」です。
 しかし,このインド統一は長く続かず,マウリヤ朝は紀元前100年代には滅亡しました。

マウリヤ朝(紀元前200年代)
マウリヤ朝

 その後のインドは,最近の数百年間(1600年代以降)を除き,基本的に「分裂」が続きました。「ほぼ統一」「かなりの部分が統一」という時代もありましたが,全体からみれば,かぎられています。

 中国史でも,秦・漢以降「統一の時代」と「分裂の時代」があります。しかし,インドとちがって,「統一の時代」のほうが長いです。

 しかし「分裂」が続いたとしても,「インド」というひとつの文化的まとまりは維持されたのでした。

 そして,「分裂していて,中小の国の集まり」であったために,その後の歴史のなかで,インドには「世界の中心」といえるような超大国(世界史における「スター」的存在)はあらわれませんでした。

 
西暦100年代の世界

 この章の最後に,ローマ帝国の最盛期だった西暦100年代(1900~1800年前)のユーラシア(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)をみてみましょう。

 この時代には,ユーラシア以外に大きな国は栄えていなかったので,以下の地図は当時の「世界の主要部」を示しています。

西暦100年代のユーラシア
西暦100年代のユーラシア

 西から順にローマ帝国,パルティア(ローマ帝国も征服できなかった強国。今のイランにあたる),インド北西部のクシャナ朝,それから中国の後漢……

 当時の後漢は,ローマ帝国に匹敵する規模の大国でした。この時代以降の中国は,長いあいだ「もうひとつの世界の繁栄の中心」あるいは「中心に準ずる大国」であり続けました。

 そして,もう一度「四大河文明」を示した地図をみてください。

四大河文明
4大河文明

 「文明」のはじまりの時代には,世界のなかで「文明」が栄えていた範囲は,かぎられていたのです。

  しかし,5500年前ころに「最初の文明」がメソポタミアでおこってから3千数百年が経つと(つまり西暦100年代には),ユーラシアの西の端から東の端まで,大きな文明国が連なる状態になったわけです。

 ただし,西暦100年ころには,現代の世界では重要な地域である,日本や東南アジアやヨーロッパの一部(北部や東部)は,まだこの「文明国」の圏内には入っていません(当時の日本は弥生時代)。ユーラシア以外の,アメリカなどの新大陸も,ほぼそうです。

 これらの地域の本格的な「文明化」は,このあとの歴史になります。

(つづく)
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2013年08月13日 (火) | Edit |
 前回に「前口上」で述べました,「1万文字の世界史」の前編です。「夏休み特別企画」の全3回(か4回)。
 世界史の大まかな流れを,1万文字(1万数千文字)でみわたす,というものです。
 短編小説や論文1本くらいの分量で,いっきに読める世界史の通史です。

 「短い」といいながら,ブログの記事としては,かなり長いです(^^;)
 でも,世界史の通史としては,やはり非常に短いのです。


1万文字の世界史(前編)

紀元前3500年(5500年前)~紀元前1000年(3000年前)

最初の文明

 大建築,金属器(青銅器)などを備えた最初の文明は,紀元前3500年(5500年前)ころ,今のイラクにあたるメソポタミアという土地で生まれました。
 そのころに,「シュメール人」という人びとがつくった,大規模ないくつかの都市がメソポタミアにあらわれたのです。

斜線の部分がメソポタミア。点線で囲った部分は「西アジア」(後で述べる)メソポタミアと西アジア


 その代表的なもののひとつにウルクという都市がありました。紀元前3300~3100年(5300~5100年前)ころのウルクの面積は,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほど。土を乾燥してつくったレンガによる建築物が立ち並び,1万人くらいが住んでいたと考えられます。
 今の私たちからみても,堂々たる「都市」です。

 そしてそこには,それだけの人口をまとめる,専門の役人や軍人などを抱えた支配の組織,つまり「国家」といえるものもありました。

 のちに「楔(くさび)形文字」に発展する最古の文字(絵文字)も,メソポタミアで紀元前3200年ころに生まれています。
 ここでは,世界史をメソポタミアの文明から書きはじめることにします。


文明が広がっていく

 紀元前1000年(3000年前)ころまでに,その文明は,メソポタミアの周辺へ広がっていきました。
 西側では,今のシリア・パレスチナ,それからトルコにあたる地域に。
 東側では,今のイランなどに。

 エジプトでは,メソポタミアからやや遅れて,メソポタミアに匹敵する独自の文明が花ひらきました(メソポタミアと同時代とする見方もあります)。

 その後は,もともとは「周辺」的だった,後になって文明が伝わった地域で,メソポタミアなどのほかの地域を支配する強国が生まれるようにもなりました。

 たとえば,今のトルコに中心があり,紀元前1600年代(3600~3700年前)に強大化したヒッタイトという国は,紀元前1500年ころに世界でいちはやく製鉄の技術を実用化しました。そして,そのような技術や軍事の力で,それまでの文明の「中心」であったメソポタミアにある王国を滅ぼしたり,エジプトと戦ったりしたのです。
 

紀元前2000年ころの西アジア
濃いオレンジは,古くから文明が栄えた中心地帯。
黄色は,「中心」と交流のある,後に文明が広がった地域。
西アジアの中心とその周辺


「西アジア」という地域

 ところで,メソポタミアや,ここに出てきた周辺の地域をまとめて「西アジア」といいます。
 この時代(紀元前3500年ころ~紀元前1000年ころ)の西アジアの文明は,のちの世界にたいへん大きなものを残しました。
 
 文字,金属器の量産,車輪を使った装置,何万人もの人が暮らす都市,そして,本格的な支配のしくみをもつ「国家」というもの――そんな,文明の「基本の基本」となるものの多くが,最初にこの地域でおこり,そこから世界の広い範囲に広がったのです。


四大河文明

 その後の多くの文明や国のルーツになった,とくに古い4つの文明を「四大河文明」といいます。「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」――どれも,大河のほとりで生まれました。

(四大河文明)
・メソポタミア文明(今のイラク,チグリス川・ユーフラテス川の流域で発生)発生時期:紀元前3500年ころ~
・エジプト文明(ナイル川)紀元前3100年ころ~
・インダス文明(インド西部,インダス川)紀元前 紀元前2300年ころ~
・黄河文明(中国,黄河)紀元前1600年ころ~(紀元前2000年ころ~という説も有力)


4大河文明

 このうち,メソポタミアとエジプトという西アジアの2つの文明が,ほかとくらべて古いです。西アジアは,世界のなかで「文明発祥の地」といえます。さらにそのなかで,メソポタミアが「最古」だということです。

 「エジプト文明やインダス文明はメソポタミア文明の影響で生まれた」という説があります。たしかに,エジプトはメソポタミアに比較的近いので,影響を受けたとしても不思議ではありません。

 インダス川流域も,メソポタミアとの距離は,エジプトとそう大きくは変わりません。そこで,インダス文明を築いた人たちは,メソポタミアの人びとと交流があったらしいのです。おもに海づたいで行き来があったようです。

 黄河文明については,ほかの文明との関係は,わかっていません。しかし,4つの文明のなかで一番新しいので,先行する文明の影響があったかもしれません。


なぜ西アジアで?  

 では,なぜ西アジアで最初の文明が生まれたのでしょうか。

 それはおそらく,「小麦という,栽培・収穫のしやすい植物が自然状態で生えていた」ことが大きいです。小麦は,西アジアが原産なのです。ほかの地域には,自然には生えていませんでした。
 小麦には,野生でも多くの実をつけ,種をまけば発芽しやすく,成長も早いといった,すぐれた栽培植物になりうる性質がありました。

 小麦の栽培は,1万年あまり前に西アジアではじまりました。世界最古といわれる農耕の遺跡は,西アジアでみつかっています。

 ほかにも,西アジア原産の重要な栽培植物はいくつかあります(エンドウマメなど)。気候に恵まれていることに加え,そのような植物を手近に利用できたからこそ,西アジアでいちはやく農耕がはじまったのです。それは,文明がいちはやく生まれるうえで有利だったはずです。


なぜメソポタミアで?

 そして,西アジアのなかのメソポタミアやナイル川流域で最も古い文明が発生したのは,「大規模な灌漑農業」に適した土地だったからでしょう。

 「灌漑農業」というのは,「雨水だけに頼らず,河川の水を,水路をつくって利用する農業」のことです。

 初期の原始的な農耕は,もっぱら雨水に頼るものでした。しかし,それでは「ほどよく雨が降る」という条件に恵まれた,ごくかぎられた土地でしか農業ができません。灌漑農業ができれば,もっと大規模に,広い範囲で農業ができます。

 そうすれば,より多くの人が集まって住んでも生きていけるだけの,大量の食糧が生産できます。つまり,大きな「都市」をつくるのに必要なだけの食糧が得られるのです。

 もちろん,それには技術が必要です。紀元前3500年前ころに「文明」やその舞台となる「都市」が発生したのは,大規模な灌漑農業が可能なくらいに技術が熟してきたからです。
 それには,農耕のはじまりから数千年の時間がかかりました。
 それだけの技術の蓄積があったのは,「最初の文明」以前の世界では西アジアだけでした。

 「文明発祥の地」であるメソポタミアの南部=チグリス・ユーフラテス川の下流は,もともとは農業にはやや適さない土地でした。雨も少なく,そこを流れる大きな河の水は,高度な技術がないと利用できなかったのです。しかし,水さえ利用できれば,大規模な農業が可能でした。

 そして,それだけの技術を持つ人びとがメソポタミア南部にやってきて,開発をはじめたことによって,「文明」や「都市」が生まれたわけです。

 メソポタミアの南部では,紀元前5000年(7000年前)ころから一定の灌漑農業がおこなわれていました。その灌漑農業の担い手が,シュメール人であったかどうかは,はっきりしません。別の人たちであった可能性もあります。シュメール人が,メソポタミア南部に,いつ・どこからやってきたのかは,わかっていないのです。



紀元前1000年(3000年前)~西暦500年

ギリシアの文明のはじまり

 西アジアの技術や文化は,今のトルコから海をわたって西のとなりにあるギリシア周辺にも伝わりました。そして,紀元前2000年(4000年前)ころには,青銅器や大きな宮殿を備えた「文明」が栄えるようになりました。

 このギリシアの文明は,「地中海沿岸」という地域ではじめての「文明」でした。

 ギリシアの周囲には,「地中海」という,陸地に囲まれた海がありました。地中海沿岸の人びとは,海を行き来して互いに密接に交流していました。そこで,「地中海沿岸」をひとつのまとまった地域と捉える見方があるのです。

メソポタミアとギリシャ

 その後,ギリシアでは1000年余りのあいだ,いくつもの国の興亡や,そこに住む中心的な民族の入れ替わりなどの紆余曲折がありました。

 とくに,紀元前1200年(3200年前)ころからの数百年間,ギリシアは大混乱に陥りました。
 その原因や実態はよくわかっていませんが,その数百年で,それまで使われていた文字が忘れられてしまうほど,ひどいことになっていたようです(ただしその間に,鉄器を使用するようになる,といった「進歩」もありました)。

 しかし,紀元前800年(2800年前)ころから「ポリス」という,都市を中心とする国家がギリシア各地に成立してからは,安定するようになりました。代表的なポリスとしては,「アテネ」「スパルタ」といった国があります。

 そして,失われた文字にかわって新たな文字もつくられました。それが,「古代ギリシア文字」です。この文字は,その後の欧米のアルファベット(ABC…)の原型になりました。


ギリシアの遺産

 その後,ギリシアのポリスは急発展し,紀元前500年代から紀元前300年代にかけて最盛期をむかえました。
 そして,後世に大きな影響をあたえる画期的な文化が花ひらきました。

 科学や哲学は,その代表的なものです。
 ギリシア人以前にも,西アジアなどの文明の発展した地域では,一定の学問的知識といえるものはありました。ギリシア人も,最初は西アジアの学問に学んだのです。
 そもそも,ギリシアの文字だって,もともとは西アジア(シリア周辺)のフェニキア人という人びとの文字をもとにしてつくったのです。

 紀元前500~600年代(2500~2700年前)の,高度な文化を築きはじめたころのギリシアの文化人のなかには,エジプトへ行って学問を学んだ人がかなりいました。

 たとえば,教科書にも出てくる,古代ギリシアの「ソロンの改革」(紀元前600年ころ)を指導した,ソロンというアテネの政治家は,エジプトに行って法律を学んだことがあるのです。そして,それを彼の政治改革に生かした,といいます。

 さきほどの,西アジアとギリシアの位置関係を示した地図をみてください。ギリシアとエジプトというのは,じつは海(地中海)をはさんで「となり」どうしなのです。鉄道や自動車以前には,遠い距離の移動は,陸路より海路のほうが,たいていは便利でした。
 ギリシア人は「となり」にある,古くからの文明国に学んだわけです。

 しかし,もともとは西アジアの学問に学んだとはいえ,それよりもはるかに深い論理や体系性,豊富な情報というものがギリシアの学問にはあります。

 ギリシア人は,それまでの歴史の遺産を受け継ぎながら,それを大きく超えるものを生み出したのです。

 ギリシアの科学や哲学は,あとでみるように,ローマ→イスラム→ヨーロッパと受け継がれていきました。のちにヨーロッパで起こった近代科学は,こうしたギリシアの学問の伝統のうえに立っています。

 それから,社会の多数派の人びとが政治的な意思決定に参加するというしくみ――民主制(民主主義)にかんする考え方も,ギリシア人が残した大きな遺産です。
 
 また,紀元前500年代(2500~2600年前)のギリシアでは,世界ではじめて貨幣(コイン)が本格的に使われるようにもなりました。

 貨幣の製造じたいは,今のトルコ(ギリシアの西のとなり)にあったリディアという国で,紀元前600年代にはじまりましたが,それほど普及しませんでした。ギリシア人は,それを取り入れてさかんに使いはじめたのです。
 貨幣以前には,金・銀の粒やかたまりの重さをその都度はかって,その価値に見合う商品と交換する,といったことが行われていましたが,コインのほうが,ずっと便利です。

 貨幣が普及するというのは,それを必要とするだけの発展した経済が,ギリシアにはあったということです。そして,貨幣の使用によって,さまざまな売買・取引がさかんになり,経済はさらに発展しました。


ペルシア戦争,アレクサンドロスの帝国

 紀元前400年代(2400~2500年前)には,アテネを中心とするポリスの連合軍が,当時の西アジアで最大(世界でも最大)の国だったペルシア帝国と戦争して勝利しています(ペルシア戦争。ペルシアは今のイランにあたる)。
 といっても,敵国を征服したのではなく,特定の合戦で勝利して敵を撃退した,というものです。これは,当時のギリシアの勢いを示しています。

青い線:ギリシアの勢力範囲  赤い斜線:ペルシア帝国(紀元前400年代)
ほかの国は省略している。
ギリシャとペルシア帝国

 さらに,紀元前300年代には,ギリシア人の一派のマケドニア王国にアレクサンドロスという強力な王があらわれ,急速に勢力を拡大しました。

 マケドニアは,アレクサンドロスの先代の王のとき,いくつものポリスに分かれていたギリシア全体を支配するようになりました。
 さらにアレクサンドロスの時代には,西アジアのペルシアやエジプトなどにも遠征して勝利し,これらの地域を支配下におく大帝国を築きました。「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

アレクサンドロスの帝国
要するに,ほぼ「ギリシア+ペルシア帝国」である。
アレクサンダーの帝国

 つまり,もともとは西アジアよりもずっとおくれて「文明化」したギリシアが,古くからの「文明の中心」である西アジアをのみ込んでしまったのです。
 世界の繁栄の中心は,メソポタミアやエジプトなどの西アジアからギリシアに移ったといえるでしょう。

 ただしこの帝国は,アレクサンダーの死後まもなく分裂してしまいました。しかしその後も,西アジアから地中海沿岸(今のギリシア,イタリアなど)の広い範囲で,ギリシア人(あるいはギリシア文化)の優位は続きました。


「となり・となり」という視点

 これまでみてきたように,最初の文明がおこって以来,2000~3000年ほどのあいだに,文明の分布の範囲は広がっていきました。
 そして,その時代に最も栄えた国=文明の繁栄の中心といえる場所も,最初の文明がおこった西アジアから,その西側のギリシアに移動していったのです。
 「移動」といっても,「人が移り住んだ」ということではなく,「繁栄がある国から周辺の別の国に移った」ということです。

 その繁栄の「移動」は,何百キロ,あるいは千キロ以上の移動で,日常感覚では「遠い」のかもしれません。でも,世界の広い範囲を大きくみわたして考えれば,「となり」といっていいような距離です。

 世界史をみわたすと,そういう意味での「となり」へ「繁栄の中心」が移っていくことが,くりかえされてきました。
 繁栄の中心がそれまでの場所から,その周辺=「となり」へ移り,その後何百年か経つと,さらにその「となり」へと移っていく――そんなことが起こってきたのです。

 「となり・となり」で,「中心」が移っていくわけです。
 これから先も,それをみていきます。
 
 「となり・となり」という視点で世界史をみわたすと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しやすいものになるはずです。

(つづく)
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2013年08月11日 (日) | Edit |
 これから,今回も含め3回くらいで,「1万文字の世界史」というのを載せたいと思います。
 世界史の大きな流れを1万文字(1万数千文字)でたどるというものです。
 短編小説や論文一本程度の長さ。

 それで世界史の全体像をみわたしたいと思います。

 本1冊というのは,最低でも5~6万字くらいでできています。多くは10万~20万文字です。1万文字はその数分の1以下です。世界史を扱うには短すぎると思うかもしれません。
 たしかに,その分量ではくわしいことは説明しきれません。

 しかし,1万文字なら,いっきに読むことができます。
 いっきに読めれば,全体像が伝わりやすいです。教科書や多くの解説書ぐらいのボリュームだと,こうはいきません。
 ここではとにかく「全体の流れはこうなっている」ということをお伝えしたいのです。
 その目的に,「1万文字」はかなっています。

 「1万文字」のなかには,いろんな国や地名が出てきます。
 でも,固有名詞がアタマに残らなくてもかまいません。

 このシリーズではこれまで,「〈世界史における繁栄の中心の移りかわり〉を追いかけていくと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しがきくようになる」と述べてきました。

 そこで,「世界史におけるおもな大国の,繁栄の順序と位置関係」に焦点をあわせて述べていきます。

 とにかく,「繁栄の中心は,移り変わってきた」ということと,それが「となり・となり」になっている,ということをみてもらえればいいのです。

 だから,年代についてはできるだけ書きませんし,そのほかの具体的な中身にもあまりふみ込みません。たとえば,ある国や民族がなぜ栄えるようになり,また衰退していったか?といったことの具体的な事情や経過には立ち入りません。

 読んでいるうちに,「ほんとうなのか?」「なぜなんだ?」といった疑問も出てくるかもしれません(よかったら,ぜひコメントなどで突っ込んでください)。
 とくに大きな論点については,別の機会に(このシリーズの今後の展開で)述べます。まずは,数千年前から現代までの話がひととおり終わってからです。

 それから,断っておきたいのは,話のスケール感です。
 これからの話では,「しだいに」「やがて」というのが数百年の時間の経過をあらわしていたり,「となり」というのが,千キロ離れた場所だったりします。
 数千年の世界史をかぎられたページで述べると,そうなってしまうのです。

(以上,つづく)
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2013年08月10日 (土) | Edit |
 このブログをはじめて7か月ほど経ちました。
 アップした記事の数も200を超えました。
 ここ数か月,だいたい毎日更新しています。
 
 そのなかで,アクセスとかランキングににかんするデータも,毎日みています。
 そこで感じたことを,いくつか。

 ブログのハウ・ツーについて述べた本やブログで,つぎのような話を何度か読んだことがあります。

 「ブログへのアクセス数は,アップされている記事の本数に比例する傾向がある。まずは半年くらい毎日更新して,記事が200くらいになると,蓄積効果も働いてアクセスが伸びてくる(ことがある)」
 
 でも,ウチのブログでは,とくにそういうことは起こってないような…
 「起こっているかも」と感じる時もありますが,はっきりしません。

 このブログは,いろんなことを書いてます。
 団地リノベ,世界史,偉人伝,経済,勉強法,それから身辺雑記も。
 ひとつのテーマごとにみれば,記事の本数はまだせいぜい30~40本。
 そう考えると,蓄積がまだまだなのかもしれません。
 (などと,自分を納得させてます)

 ***

 あと,「曜日によってアクセス数が変わる」ということも,ほかのブログで読んだことがあります。
 土曜あたりはみんな外出するので,アクセスが少なくなる。日曜日はやや増える。月曜日はぐっと増える。水曜あたりの週のなかばは,減ってくる。金曜日の夜も少ない…

 そういう傾向は,このブログではあまりはっきりしないような…
 土日は少ないときもあれば,多いときもある。
 週の半ばに増えるときもある。
 でも,金曜日は少ない,というのは比較的あるようです。

 これは,このブログなりの傾向があるのかもしれないし,1日数十人の訪問者ですから,一般の統計的な傾向どおりにはいかないということかもしれません。

 ***

 あと,ページビューのこと。
 ブログの「アクセス」の数字には,「訪問者数」と「ページビュー」があります。
 訪問者数というのは,その日にそのブログを訪れた「人」の数(ネット上の住所であるドメインで識別)。
 「その人」が1日のうちでくりかえしそのブログを訪れたとき,「訪問者数」は増えませんが,「ページビュー」は増える。

 この1か月,訪問者数よりもページビューのほうがはっきりと増えています。

 「アクセス解析」のデータで詳細をみると,まんべんなく増えているというより,ときどき1日に10回20回とアクセスしてくださる「ヘビーユーザー」の方がぽつぽつといて,平均値を押し上げているというかんじ。

 どなたが,ということはもちろんわかりません。
 熱心に読んでくださっているとしたら,もちろんうれしいことです。

 でも,どんな実態で,どんな気持ちでそんなにアクセスしてくださったのか…
 そこは気になりますが,よくわかりません。
 もし,興味を持ってくださったなら,コメント等いただければ幸いです。

 ***

 あと,ブログのアクセス数のランキングというのが,こブログの属するFC2にもあります。
 あのランキングというのは,どういう基準で出しているのだろう?

 自分に近いランキングの人のブログを何度かみたことがあるのですが,中にはアクセス数のカウンターが1日数人くらいで,もう長いこと更新していないようなブログが,1日のアクセスが数十人,100人のブログと同じようなランクにあったりします。

 どうしてなんでしょうか?

 そういう,わからないことがちょこちょこあります。
 検索すると,ある程度のことはわかります。少なくとも「わかった気」になります。

 たとえば,「アクセスのランキングは,基本は訪問者数に基づいているが,ページビューとか,コメントとかの数も勘案して出している(そういう計算式になっている)」みたいなことが,根拠・出典はともかく,書いてあったりします。
 でも,「訪問者数1日数人のブログの,ランキングの謎」などは,よくわかりません。
 
 そしてこんなふうに,ブログをやっていて「わからないこと,気になること」があっても,それについて教えてもらえるお仲間もいませんし…

 ここに書いた,ブログがらみの話題や疑問について,なにかご存じの方がいらしたら,ぜひ教えてください。

 人とつながりたくって,ブログなどというものをやっているわけですが,まだまだですね(「つながり」にも,いろいろあるでしょうが)。

 要するに「まだまだ」ということ。
 これからも,まずは記事を積み重ねていきます。
 ほかのことはともかく,それだけはできそうです。

(以上)
 
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2013年08月10日 (土) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの39回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 これまで,教科書や子ども向けの本のことや,「新書のすすめ」といったことを述べてきました。
 今回は,「通」な本,「最先端」の本とのつきあい方。


「通」な本や「最先端」の本で博識ぶると,
上達しない。


 若い人は背伸びをしたいものです。そこでよくやるのが,「知る人ぞ知る」という感じの,ちょっと「通」な本の知識をひけらかす,という手です。
 文学なら,誰でも名前を知っているような文豪ではなく,もっと「通」な感じのする誰かを読む。

 「最先端」というのに弱い人もいます。たとえば哲学の世界だったら,アリストテレスやカントやヘーゲルではなくて,むずかしそうな「現代思想」です。

 私の学生時代(1980年代)には,そういうのがインテリ志向の人たちの間でおおいに流行りました。「最先端」な感じがしたのです。今も「現代思想」に関心を寄せる人はいますが,かつてほどの勢いはないようです。「科学の最先端」といった本は,今も昔もよく出ています。

 「通」な本や「最先端」の本のことを知ると,博識になった気がします。「現代思想」は,聞いたこともないような用語・術語のオンパレードです。人によってはそこにひかれるのでしょう。

 でも,いきなりそういう本に飛びついてはいけません。
 ちらちらと見ておくのはいいのです。

 「月並み」ではなく,より「深いもの」「新しいもの」を求めることは,やはり大事です。
 「通」や「最先端」を求める気持ちは,それとつながっています。

 でも,「通」や「最先端」の本ばかり読んでいるのでは,上達が進みません。

 まず読むべきは,誰でも名前を知っている,いろんな場面で言及される「超有名な本」です。あるいはそれを論じた本です。それぞれの分野にそういう本があります。

 学問の歴史は,ときどき現れる「超有名な本」の示したテーゼ(理論や主張)をめぐる論争の歴史です。
 「超有名な本=古典」について知ることが,学問についての幅広い素養をつくる近道です。

 「通」な本,「最先端」の本というのは,学問にとっては「枝葉」的な存在です。今は注目されていても,時の試練に耐えられず,そのうち枯れてしまうことが多いのです。

 中には大きく成長していくものもあるでしょうが,わずかです。そんなあてにならないものに深い入りして,自分の頭を固めてしまっては,損をします。

 「最先端」というのは,「すぐ駄目になる危険が大きい」ということです。

(以上,つづく)

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2013年08月09日 (金) | Edit |
 明日8月10日は,明治維新のリーダー,大久保利通の誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。

 あらためて生没年月日をみると,大久保がほぼ48歳で死んだことに気がつきました(暗殺による)。
 今の私と同じ年じゃないか。
 だから,どうということもないのですが…

 若いころ,板倉聖宣さんという先生から,雑談としてですが「革命家は早死にするほどカッコいい」という法則があるなんて話を聞いたことがあります。
 
 たしかに,明治維新の功労者の場合,それはよくあてはまるように思います。

 高杉晋作や坂本龍馬のように20代や30過ぎの若さで死んだ人は,「めちゃくちゃカッコいい」。
 一方で,70近くまで生きた伊藤博文は,「あまりカッコよくない」。
 まして,80代まで生きた山形有朋は,「非常にカッコよくない」わけです。

 じっさい,一般のイメージとして,そういう「序列」があるように思います。

 「龍馬のように生きたい」という青年には,何度も会ったことがありますが,「山形有朋のように生きたい」という青年には,会ったことがありません。

 50歳くらいまで生きた大久保利通や西郷隆盛は,この「カッコよさの序列」のなかでは,中間的なところにいるのでしょう。
 ただし,西郷の場合は,特別に尊敬・崇拝する人もいますが,「多数派のイメージとして」ということです。

 まあ,正確な議論のできる話ではありません。「カッコよさ」というのは,その人物の業績の大小ともちょっとちがいます。軽く聞き流して(読み流して)くださいね…


大久保利通 (おおくぼ・としみち)

20年間,維新を引っぱった

 大久保利通(1830~1878)は,西郷隆盛と並ぶ明治維新のリーダーで,明治政府の基礎を築いた政治家です。
 でも,西郷が「大人物」として人気があるのにくらべ,大久保には「冷酷な策謀家」のイメージがあって,人気はイマイチ。
 たしかに彼には,「政治的判断で,恩人や盟友を切り捨てた」といわれてもしかたないできごともありました。
 しかしそれは,「彼が私欲や情に左右されず,なすべき仕事を強い意志で推し進めたからだ」という見方もできます。
 たとえば,「郷土の人間をひいきしてとりたてる」ことを彼は好みませんでした。明治政府での彼のおもな部下の多くは,出身の薩摩(鹿児島)以外からの人材でした。
 こういう人は,不人気なことが多いものです。
 大久保は,幕末から明治にかけての動乱の時代に,20年もの間トップリーダーであり続けました。それは,彼が単なる「策謀家」などではなく,自分の軸を持つ「信頼に値する人物」だったからではないでしょうか。

佐々木克著『大久保利通と明治維新』(吉川弘文館,1998)に教わった。このほか,佐々木克監修『大久保利通』(講談社学術文庫,2004年,大久保についての同時代人の証言集)による。

【大久保利通】
 徳川幕府を倒した中心人物の1人で,初期の明治政府のトップに立つ。薩摩藩の下級武士出身。版籍奉還,廃藩置県,地租改正などの重要事項を推進した。政府に不満を抱く士族により暗殺された。
1830年(天保元)8月10日生まれ 1878年(明治11)5月14日没

                        *

「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)
                     
四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
秋田総一郎

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(以上)
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2013年08月08日 (木) | Edit |
生ハムメロン

 夏休みモードで,オフィス街の飲食店とか,場所によってはお客さんが少ないようです。
 このブログの来訪者も,そのせいなのか(?)普段よりもかなり少ないです。

 とにかく記事も,夏休みモードで。

 上の写真は,このあいだウチで食べた生ハムメロンです(^^;)

 先週末,近所に住む母が,お中元のおすそ分けで,メロンを一個くれました。
 その「お中元」というのは,秋田県の,妻の実家からのものです。
 そのうちの一個が結局,私たち夫婦にもまわってきたわけです。

 秋田の実家の近くには,旧・八竜町(今は周辺の町と合併し,三種町となった)という,全国的なメロンの名産地があります。そこの,すばらしいメロン。

 そういえばこのあいだ,義理の兄貴夫婦から,これまた「お中元」でハムの詰め合わせをもらったなー
 あれに,生ハムがあったはずだ。

 生ハムメロンにしよう!

 というわけで,上等なメロンに上等な生ハムの,すばらしい生ハムメロンができました。

 みなさん,ありがとう。
 私は,何にも贈ってないのに,申し訳ありません。
 おいしかったです。

 そういえば,昔から,人に食べ物を贈ったことがほとんどありません。
 お祝いなどを贈ることはあるのですが,たいていは雑貨とかの食べられないモノです。
 私の関心の在り様が,あらわれていると思います。

 思えば,これまでいろんな方から,いろんなおいしいものをいただいてきました。
 何年か前,私が失業・浪人していた時代に,意識的においしいものを夏と冬に送り続けてくださった方もいました。
 今は辞退申し上げていますが,その節はありがとうございました。

(以上)
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2013年08月07日 (水) | Edit |
図や絵

 図や絵を描いて考えるのが,結構好きです。
 上の写真は,世界史関連でここ数年のあいだに描いた図の,ほんの一部です。

 A5サイズのコピー用紙に,水性ボールペンやサインペンや色鉛筆で描きます。
 「5×3カード」という,手帳サイズのカードに描くこともあります。

 前回の記事などで紹介した,世界史の地域区分を整理した「カンタン世界地図」も,こんな感じで何十枚と描くうちにできました。

 でも,描いた図のほとんどは,誰にもみせずにしまい込んだままです。

 「こんな手描きの図なんて,人にみせるのは恥ずかしい」という気持ちがありました。

 もうちょっと整えて,できればグラフィックソフトなどできれいにつくり込んでからでないと,いかにも貧相ではないか。
 でも,そういうソフト,使えないしなあ…

 しかし,このところ,自分の手描きの図のいくつかをスキャンしてブログにアップしてみた結果,考えが変わりました。

 ラフな手描きの図でも,伝えたいことは十分伝えられるのではないか。

 手描きは手描きで,それなりの味わいもあるじゃないか。

 それに,こういう「電子化」の世界は,カラーが自由に使えていいです。
 紙に印刷して人に配るときは,カラーはコスト的にきびしいことも多いけど,ブログにはそういう制約がありません。
 私の場合,サインペンによるカラーの世界を,存分に展開できます(^^;)

 以上のことを,実感しました。
 これまでの「変な思い込み」から,自由になったわけです。

 これからは,さまざまな「手描きの図」を,もっと載せていきたいです。

(以上)
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2013年08月06日 (火) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの7回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 今回は,「世界史のまえおき」的な話。
 前回にひきつづき,「世界史の地域区分」についてです。
 世界史の地理的なことを,ざっくりつかむための話です。


となり・となりの世界史 7

2.世界史のまえおき

●ヨーロッパとは何か

ヨーロッパの「条件」

 前回,「世界史において地域区分は重要だ」と述べました。それは,世界史をイメージするうえで大切な「地名の整理箱」だ,と。
 そして,世界史における「地域区分」の案を示しました。下の図がそうです。
 一番下の模式化した図は,「カンタン世界地図」といいます。私のオリジナルです。

世界史の地域区分1

 これを,このように模式化する。
カンタン世界地図・途中経過

 そして,モノクロにしてしまう。色はじゃま。
カンタン世界地図

 今回は,以上の地域区分の中の「ヨーロッパ」(西ヨーロッパと東ヨーロッパ)について述べます。

 ヨーロッパは,やはり重要な地域です。古くはローマ帝国が栄え,「産業革命」発祥の地で,現在も世界の「繁栄の中心」のひとつです。だから,とくにとりあげたいのです。
 また,ヨーロッパという事例をとおして,「地域区分」全般に通じる考えかたについて述べておきたい,ということもあります。

 そもそも「ヨーロッパ」とは何なのか?

 地理学者のジョーダン夫妻によれば,ヨーロッパとは,《住民がキリスト教徒で,インド=ヨーロッパ諸語を用い,ユーロポイドの身体的特徴を示す》地域なのだといいます(『ヨーロッパ 文化地域の形成と構造』二宮書店)。
 ただし,これはアメリカなどの新大陸は除きます。

 「インド=ヨーロッパ諸語(語族)」というのは,言語学上の分類です。ヨーロッパ諸国の言語は単語や文法にいろいろ共通性があり,それはインド北部の言語とも共通するので,こういう呼び方をします。

 「ユーロポイド」というのは,いわゆる白色人種のことです(コーカソイドともいいます)。

 以上を箇条書きでまとめると,こうです。

 (ヨーロッパの三条件)
 1.住民の多数派がキリスト教徒
 2.一般にインド=ヨーロッパ語族の言葉が用いられる
 3.住民の多数派がユーロポイド


 こういう要素が重なって存在するのは,ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線よりも西側の地域です。そこが「ヨーロッパ」というわけです。

 地図で示すと,以下のようになります。
 青い斜線の部分が,上記の「ヨーロッパの三条件」のすべてを備えている範囲。
 むらさきの線は,「ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線」です。この線よりも西側を,さきほど示した「地域区分」の案では,東西のヨーロッパとしました。

 なお,青い斜線の一部が,むらさきの線を大きく超えて日本の近くまで伸びています。これはこの数百年の比較的新しい時代に,ロシアが東へ領土拡大していったことで,こうなったのです。

「ヨーロッパ」の範囲
「ヨーロッパ」の範囲
T.G.ジョーダン=ビチコフ,B.B.ジョーダン『ヨーロッパ』二宮書店 による

 また,上の地図でむらさきの線の東側の地域のなかに,青い斜線でない部分がありますが,これはフィンランドとハンガリーです。これらの国は,キリスト教とユーロポイドが主流ですが,言語がインド=ヨーロッパ語族ではないのです。フィンランド語とハンガリー語という,「ウラル語族」に分類される言葉が使われています。

 さて,「ヨーロッパの条件」としてとくに重視されるのは,キリスト教です。先ほどのジョーダン夫妻も《ヨーロッパを定義する人文的特性のうち,最も重要なものはキリスト教である》と述べています。

 「ヨーロッパ」とは,「ユーラシアのなかの,キリスト教徒が多数派である地域」といってもいいのです(ほかに南北アメリカ大陸でも,キリスト教徒は多数派です)。


ヨーロッパの西と東

 そして,キリスト教には2つの大きな宗派があります。
 「カトリック系」と「東方正教系」です。

 「プロテスタントは?」と思う人がいると思いますが,プロテスタントはカトリックから枝分かれしたものなので,ごく大まかにいえば「カトリック系」なのです。

 キリスト教の宗派はほかにもありますが,この2つが圧倒的です。

 そして,ヨーロッパはこの宗派の分布にもとづいて,大きく2つに分けることができます。
 カトリック系(プロテスタント含む)が主流の西側の地域と,東方正教系が主流の東側の地域。
 「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」です。「西欧」「東欧」ともいいます。

ヨーロッパの西と東
(カトリック,プロテスタント,東方正教会の分布)

キリスト教の西と東 (2)
『ヨーロッパ』二宮書店 による

 カトリック系が主流なのは,イタリア,スペイン,フランスなどです。
 ただし,同じヨーロッパの西側でも,北部のほうのドイツ,イギリスなどでは,プロテスタントが主流です。

 東方正教系が主流なのは,ギリシア,旧ユーゴスラビア,ブルガリア,ロシアなどです。

 カトリックには,「ローマ法王」というトップがいます。各地のカトリックの教会は,最終的にはローマ法王の権威に従います。

 プロテスタントは,カトリックの中から生まれました。ローマ法王の指揮から離れて独自の道をいく人びとが,新しい宗派をつくったのです(西暦1500年代のことです)。「プロテスタント」とは,「(既存の教会に)抗議する人たち」という意味です。

 東方正教のトップには,伝統的に「コンスタンティノープル総司教」という存在があります。
 ただし,現在はローマ法王のような権限はありません。ギリシア正教の教会は,地域や国ごとの独立性が強いです。
 「地域ごと」という点は,プロテスタントも同様です。プロテスタントでは,カトリックのようにはっきりした頂点があるわけではないのです。


言語もちがう西と東

 ヨーロッパの西と東のちがいは,宗教だけではありません。言語もちがいます。

 西ヨーロッパの言語は,「ラテン語派」と,「ゲルマン語派」という系統が主流です。
 
 イタリア語,フランス語,スペイン語は「ラテン」で,英語やドイツ語は「ゲルマン」です。
 一方,東ヨーロッパは「スラブ語派」(ロシア語,ポーランド語など)です。

 これらの「〇〇語派」というのは,「ヨーロッパの定義」で出てきた,「インド=ヨーロッパ語族」のなかでの分類です。

 このように地域区分には,「宗教や言語にもとづいて分ける」というやり方があります。
 宗教も言語も,「文化」のだいじな要素です。そこに共通性があれば,文化のいろいろな面で共通性があるはずです。
 逆に,大きく異なっていれば,文化全般の異質性も大きいはずだ,と考えるのです。

 このように「地域区分」には,一定の根拠があります。
 勝手に線引きしたのではない,ということです。

 
カトリックと東方正教の成立

 2大宗派ができた経緯についても,少し述べておきます。そこには,ローマ帝国の分裂・崩壊ということが関係しています。

 キリスト教は,2000年ほど前にローマ帝国のなかで生まれた宗教です。
 その後,帝国のなかで広く普及し,西暦300年代には国をあげて信仰する「国教」になりました。そのころには,カトリックや東方正教という宗派はまだありません。

 そのもとになるグループはありましたが,完全に分裂してはいませんでした。それぞれのグループは,考え方にちがいはあっても,教義についての統一見解をまとめるために話し合ったりしていたのです。

西暦100年代(1900年前)のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
一番西側の大国がローマ帝国。当時が最盛期。

西暦100年代のユーラシア

 その後ローマ帝国は衰退し,西暦400年代には帝国の西側の地域で体制崩壊がおこりました。2つの(完全に分裂した)宗派は,それから数百年のうちにできていったのです。

 「帝国の西側」というのは,「西ローマ帝国」といいます。今のイタリア,フランス,スペイン,ドイツ,イギリスなどを含む地域です。

 西ローマ帝国だった地域では,体制崩壊のあともキリスト教が信仰され続けました。そのなかでカトリックという宗派は生まれたのです。

 そして,この地域に新しく生まれた国ぐにで定着していきました。それらの国のいくつかは,現在の西ヨーロッパ諸国につながっていきます。

 一方,ローマ帝国の「東側」というのもあります。ギリシア,ハンガリー,ブルガリアなどの地域です。こちらは,西ローマ帝国の崩壊以後も,帝国の体制が後の時代まで残りました。
 これを「東ローマ帝国」といいます。この国は,衰退しながらも1400年代まで存続しました。

 東方正教は,東ローマ帝国のなかで生まれた宗派です。そして,帝国とその周辺へ広がっていきました。「コンスタンティノープル大司教」のコンスタンティノープルは,東ローマ帝国の首都です。

 ローマ帝国の「西側」と「東側」は,西ローマ帝国の崩壊以後,互いの交流も減って,別々の道を歩みました。 その結果,それぞれのキリスト教を信仰する「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」ができていったのです。


現在の経済状態のちがい

 そして,ヨーロッパの西と東のちがいは,文化的なものだけでもありません。
 現在の経済の状態にも差があります。
 「地域」がちがうと,いろんなことがちがうのです。だから,区分する意味があるわけです。

 今現在,経済発展がすすんでいるのは,西ヨーロッパのほうです。イギリス,フランス,ドイツ,イタリアなど,世界の「主要先進国」といえる国は,ヨーロッパではどれも「西」にあります。

 「東」には,「先進国」と明確にいえる国は,今のところありません。

 「ロシアはどうなの?」と思うかもしれませんが,イギリスの1人あたりGDPが3万6000ドル,ドイツが4万ドルであるのに対し,ロシアは1万ドル(2010年)です。経済の発展度は,西ヨーロッパの先進国にくらべるとまだまだです。

 EU(ヨーロッパ共同体)は,発足当初の1990年代は西ヨーロッパの国ぐにだけで構成されていました。経済発展のすすんだ先進国どうしで集まったのです。

 その後,2000年代に入ると東ヨーロッパのなかで経済発展のすすんだ国(ポーランド,チェコ,スロバキアなど)もEUに加わりました。しかし,EUが西ヨーロッパ中心であることは,今のところ変わりません。

                        *

 このようにヨーロッパは「キリスト教の2大宗派」という視点で西と東に分けることができます。しかし,カトリックが主流でも「東」に含めるのが一般的な国もあります。ドイツの東どなりにあるチェコやポーランドなどはそうです。

 これとは逆のパターンがギリシャです。東方正教が主流でも,「西」に含めることが多いです。

 それぞれ,それなりの理由があるのですが,ここでは立ち入りません。
 地域区分には,このような「微妙なケース」というのが常にあるのです。

(以上,つづく)
 
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2013年08月05日 (月) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの38回目。

 「読書論」の話を続けています。
 このあいだまで,書籍,雑誌,新聞,インターネットなど,それぞれの媒体の特徴や扱いかたにかんする話をしてきましたが,今は「書籍」の世界について述べています。
 前回は,教科書や子ども向けの本のこと。今回は「新書」のすすめ。


新書には,本の世界のエッセンスが凝縮されている。
おおいに利用しよう。


 あまり読書したことがなくて,「どんな本から読んだらいいんだろう」という人には,新書をおすすめします。

 新書とは,173ミリ×105ミリまたはそれに近い判型(サイズ)のシリーズ本のことです。
 岩波新書,中公新書,講談社現代新書などが,新書の代表的な老舗ですが,ほかにもいろんな新書が出ています。

 書店へ行って,新書の棚の前に立ってみましょう。
 新書のテーマは,科学・哲学から,歴史,時事問題,健康法,パソコン・インターネット,風俗……と森羅万象にわたっています。いかにも「カタい教養書」といったものもあれば,「手軽な実用書」といった感じのものもあります。
 
 新書のラインナップの中には,きっとあなたの関心に合うものがあります。
 一冊数百円ですから,気軽に買えます。持ち運びもしやすいです。

 比較的あたり外れが少ないのが,新書の特長です。

 それは,新書の著者の多くが,そのテーマに関してすでに定評のある人だからです。以前にそのテーマについて,本や論文を発表して,評価を得ている人ばかりだからです。

 面白いと思う新書に出会ったら,その著者の書いたほかの本を読んでみましょう。
 本の後ろのほう,奥付などにある著者紹介のコーナーにその人の主要著作が載っています(アマゾンなどのインターネット書店で,著者名から検索することもできます)。

 そして,その著書のうちのいくつかは,新書ではない,ハードカバーなどのやや専門的な本のはずです。とくに,著者が研究者である場合はそうです。

 同じ著者によるより専門的な本と新書を読みくらべてみると,専門的な本のほうに詳しい情報が載っていて,勉強になることがしばしばあります。しかし場合によっては,あとになってからより一般向けに書かれた新書のほうが,さらに本質的で深い議論を展開していることもあります。

 さらに,参考文献の案内がしっかりしているものもかなりあって,そのテーマのガイドブックになります。

 新書は,より深く大きな世界への窓口にもなってくれるのです。

 あるテーマについて,この新書のシリーズから一冊,この新書からも一冊……というかたちで読むこともできます。一般的なテーマであれば,可能です。
 それで三冊も読めば,そのテーマについて,かなりの勉強ができるでしょう。

 新書だけで読書の世界は成り立ちませんが,新書というのは,本の世界・知の世界のエッセンスが凝縮されている,すぐれた媒体です。おおいに利用しましょう。

(以上,つづく)
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2013年08月05日 (月) | Edit |
 「となり・となりの世界史」シリーズの6回目。

 世界史を「中心的な大国の移りかわり」という視点でみわたします。
 最終的には系統的に,通史的に世界史をみていくことをめざします。
 「となり・となり」というのは,その「中心の移りかわり」が,地理的に近い「となり・となり」へと移っていく傾向が,歴史のなかでみられるからです。

 そのへんのことは,このシリーズの前口上である記事 「となり・となりの世界史」というコンセプト をお読みいただければ,と思います。

 今回は,「世界史のまえおき」的な話。
 「世界史の地域区分」についてです。
 世界史の地理的なことを,ざっくりつかむための話です。


となり・となりの世界史 6

2.世界史のまえおき

●地域区分と「カンタン世界地図」

地域区分という発想 

 世界史をみわたす話に入る前に,「まえおき」として説明しておきたいことがあります。

 それは,地理の話です。
 世界地理の感覚が全然ないと,やはり世界史はわからないし,楽しめません。

 くわしい知識は要りませんが,「ヨーロッパってどこだっけ?」「ユーラシアって何?」というのでは,やはり困ります。

 多くの世界史の本は,教科書も含め,「基本的な世界地理を読者は知っている」という前提で書かれています。しかし,じっさいには出てくる地名などにとまどう人は多いです。

 たとえば「メソポタミア」とか「西アジア」とかいわれても,あまり聞いたこともないし,どのへんかもわらない。そういうことばかりだと,世界史の話はイヤになります。それはなんとかしないといけません。

 とくにこのシリーズでは,「となり・となり」といった視点で,世界史上の国ぐにの地理的な位置関係に注目して話をすすめていくのですから,なおさらです。

 世界史をみわたすための地理としては,「世界全体をいくつかの地域に分ける」という,地域区分の考え方が重要です。

 ここで「地域」というのは,いくつもの国を含むような広い範囲です。
 世界の国ぐにを地理的にいくつかのグループにまとめたのが,「地域区分」です。

 たとえば,これまで出てきた「ヨーロッパ」とか「西アジア」というのは,そのような地域区分です。

 なぜ,そこをひとつの「地域」だと考えるのか?

 歴史的にその地域内の国ぐにや民族のあいだで,とくに深い交流があったからです。

 この「交流」というのは,平和的なものだけでなく,戦争も含みます。
 場所・時代によっては,その地域のほぼ全体が,ひとつの大きな国として統一されていたケースもあります。その結果として,「地域」のなかでは,ほかの地域と区別される共通の要素がいろいろとみられるのです。

 たとえば,長いあいだ密接な関係を続けてきた中国,日本,韓国・朝鮮は,ひとつの「地域」だといっていいでしょう。
 これらの国ぐにのあいだでは,「漢字」のような,よその地域にはない共通の文化もいろいろあります。ここは,「東アジア」と呼べばいいと思います。

 このような,複数の国を含むまとまりが世界にはいくつかあるわけです。また,大きな川や山脈や砂漠などが,地域を分ける自然の境目になっていることもあります。


世界史の地域区分

 では,世界はどのような「地域」に分けられるのか? おおざっぱな区分を,つぎに示しておきます。

 世界史の地域区分世界史の地域区分1

 まず,ヨーロッパからアジアにかけての「ユーラシア」とか「旧世界」といわれる範囲。

①西ヨーロッパ(ドイツ,イギリス,フランス,イタリア,スペイン,北欧諸国など)

②東ヨーロッパ(ロシア,ポーランド,チェコ,ハンガリー,ウクライナ,ルーマニアなど)

③西アジア(イラク,イラン,トルコ,サウジアラビア,シリアなど。エジプト,アルジェリアなど北アフリカも含む)

④中央アジア(カザフスタン,アフガニスタンなど)

⑤南アジア(インド,パキスタン,バングラデシュなど)

⑥東南アジア(ベトナム,タイ,マレーシア,インドネシアなど)

⑦東アジア(中国,日本,韓国・朝鮮など)


 ①~⑦の地域に含まない,別扱いの範囲もあります。
 まず,ユーラシア大陸の高緯度地帯を中心とする,乾燥した「草原・砂漠地帯」。
 それから,さらに北方の「寒冷(ツンドラ=凍土)地帯」。
 これらは人口密度の低い地域です。とくに寒冷地帯は,より無人に近いです。

 以上の西ヨーロッパから東アジアまで(ヨーロッパ+アジア)を含む範囲を,「ユーラシア(ユーラシア大陸)」といいます。ただし,エジプトなどがあるアフリカの北部(サハラ砂漠より北側)も,「西アジア」の一部としてユーラシアに含めて考えることにします。

 ユーラシアのことを,「旧世界」ともいいます。「古くから文明が栄え,多くの国ぐにが興亡した(おこったり滅びたりした)地域」というニュアンスを込めたいい方です。

 これに対し,「新世界」というのもあります。
 南北アメリカ大陸,サハラ砂漠より南側のアフリカ,オーストラリアなどのオセアニアをまとめて,そう呼ぶのです。
 その大部分は比較的新しい時代になって,多くの人が住むようになったり,国ができたりした地域です。アフリカは「旧世界」に含めることが一般的ですが,ここで述べる意味での「新世界」に含めたほうがよいと考えます。

 新世界の地域区分はつぎのとおりです。

⑧北アメリカ(アメリカ合衆国,カナダ)

⑨ラテンアメリカ(中南米ともいう。メキシコ,ブラジル,アルゼンチン,チリなど)

⑩アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ諸国)

⑪オセアニア(オーストラリア,ニュージーランドなど)


 また,いくつかの「海」についても知っておいてください。 「大西洋」「インド洋」「太平洋」それから,上記の地図には描ききれませんでしたが,「地中海」。地中海は,西ヨーロッパと西アジアに囲まれた海です。


地名の整理箱

 地域区分は,「どう分けるか」について,さまざまな見解があります。
 「これだ」という決定版があるわけではなく,ここで示したものも,ひとつの案にすぎません。それでも,いろいろな説をふまえてはいますので,入門としては十分役立つでしょう。

 それから,こういう区分ではこまかいことは気にしなくていいです。各地域のおおまかな位置や範囲のイメージが持てればいいのです。

 ただ,そこに含まれる代表的な国は,いくつかおさえておきましょう。
 たとえば「西ヨーロッパ」であれば,イギリス,ドイツ,フランスなどがある,といった具合です。

 また,世界のところどころには,どちらの「地域」に含めるべきか迷うような微妙な場所もあります。「地域区分」というものは,そこを承知であえて線引きをしているのです。

 地域区分は,いわば「地名の整理箱」です。
 それは,世界史をイメージしやすくする道具のひとつなのです。


 たとえば,「シリア」という地名が話にでてきだけど,よく知らなかったとします。
 でも,地域区分の知識があると,「それは西アジアだ」といわれればだいたいの位置がわかります。

 さらに知識があれば,「西アジア」全般に通じる特徴をいくつか思いつくでしょう。乾燥した気候,イスラム教が多数派であること等々……

 そういうイメージがあると,世界史の話はアタマに入りやすくなります。
 地域区分は,そのイメージづくりの手助けになるのです。


簡略化した世界地図=カンタン世界地図

 さらに,「地域区分」をマスターするコツがあります。それは,つぎのページのような図を使うことです。各地域の位置関係を模式図で示したものです。

 つまり,こうです。
 まず,これがさっき示した地域区分の地図。
世界史の地域区分1

 これを,このように模式化する。
カンタン世界地図・途中経過

 そして,モノクロにしてしまう。このように模式化してしまうと,色はかえってじゃまです。
カンタン世界地図

 この図は「カンタン世界地図」とでも名づけましょう。

 地理というのは,精密な地図をみるのもいいのですが,一方でこのような簡略化したイメージを頭に描くことも大事です。 

 この地図にあらわされているのは,かぎられた情報です。しかし,世界の地域区分や位置関係を把握するうえで重要な情報が入っています。余計な情報をそぎおとして,肝心のことだけを伝えている,ともいえます。

 これをおぼえて,何も見ずに自分で描けるようになるといいです。

 これは,自分で描くための地図なのです。
 カンタンな地図だからこそ,それができます。
 これが描けるなら,世界史の地域区分について,肝心の部分はつかんだということです。

 こういう簡略化には,いろんなサジ加減があります。もっと抽象的な図にもできれば,逆にもう少しくわしい図にすることもできます。

 しかし,ここで示したくらいの簡略化が多くの人に「ちょうどいい」と,私は考えています。

(以上,つづく)
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2013年08月04日 (日) | Edit |
コロンボのライト

コロンボのライト (2)

 以前の記事で紹介したことがあるのですが,上の写真はウチのリビングにあるフロアライトです。
 ミッド・センチュリー(ほぼ1950~60年代)のイタリアを代表するデザイナー,ジョエ・コロンボ(1930~1971)の作。

 私はこれを8年前に買いました。いかにも簡素で,古い団地をリノベして住んでいる我が家にも合う。暗い部屋で点灯すると,器具の存在感が消えて,「明かり」だけが際立つ。気に入っています。

 このライトの電球が,おととい切れました。

 下の写真がそれです。向かって右が切れたもの。左が昨日買った新品。
 「クリプトン電球」の,ややマイナーなタイプ。

クリプトン電球

 クリプトン電球の「クリプトン」とは,電球のなかに入っているガスの名前。最も一般的な白熱電球とはちがう物質が入っています。
 くわしいことはわかりませんが,一般の電球よりも大きさのわりに強く発光するタイプが多い。光線の色合いなどもやや異なっていて,独特の味わいがある。

 値段は,かなり高いです。
 昨日買ったのは,ある量販店では1100円ほどでした。

 私が昨日,この電球を買うために覗いたのは,新宿の東急ハンズでした。ほかの買い物もあったので,ついでに,という感じです。

 そこで電気・照明が専門の店員さんから聞いたのは,「この手のクリプトン球は,最近どんどん生産が減っている」ということ。

 とくに私の使っているタイプ(ソケットにねじ込む金口の口径17ミリ)というのはマイナーで,今は日本では東芝でしか作っていない。私が使っていた(今回切れてしまった)パナソニック製は,すでに生産中止である……

 店頭には今置いてないので,取り寄せになるとのこと。
 
 東急ハンズは,量販店より少し値段が高いですが,たまにこういう話を聞けるのがいいですね。
(あとで近くの家電量販店をみたら,そこにはあったので,1個買って帰りました)

 その後ネットで調べてみても,たしかに私が買ったようなクリプトン球というのは,マイナーなようです。
 独特の光の風合いが好まれることもあったけど,やはり値段が高いので敬遠される。発熱量が多く,使いづらいという面もある。だから,あまり普及していない。

 そもそも,白熱電球じたいがマイナーになってきています。
 蛍光灯やLEDへの移行を促そうと,政府が「白熱電球の生産の自粛」をメーカーに求めたりしている。省エネと新しい需要を喚起するためです。

 クリプトン電球(私の使っているタイプ)は,近い将来消えてしまう運命なのかも?

 店員さんの話を聞いて,「こういう電球もいつ買えなくなるかわからないから,ストックを持っておこう」と思い,数個を注文しました。
 1個で3年くらい持つので,10数年分か。
 このフロアライトは使えるかぎり,使いたいと思っています。

 白熱電球の一種をかたくなに使い続けるなんて,今の「省エネ」の流れに逆行しているのかもしれません。
 でも,好きなデザインの照明を使い続けたい。
 好きな光の色合いをたのしみたい。

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                        *

 LEDの光は,すべてがそうではないですが,違和感があります。
 将来は改良されていくのでしょうが,今のところはそう感じています。

 私にとって,電灯の理想的な光は,白熱電球の暖かい光です。オフィスではともかく,家でくつろぐときは,あれがいい。

 その点で,白熱電球タイプの蛍光灯は,相当良くなりました。白熱灯にかなり近い光になっています。私も使っています。

 去年のことですが,毎日通る道の街灯が,白熱灯からLEDに変わりました。前の明かりは,みるたびになごんだのですが,今は青白いギラギラした光になってしまいました。

 省エネのためなら,仕方ないのかなあ…

 でも,「古い照明器具を20年30年使う」みたいなことも,モノを大切に使うという意味での「省エネ(省資源)」です。

 あと,ウチの場合,自家用車も持ってないし,エアコンも,ほぼ使っていません(2台あるうちのメインの1台が故障して直してないのです)。現代人としては,かなり省エネな暮らしをしているはずです。

 だから,それに免じて,クリプトン球を使ったフロアライトを使い続けたしても,バチはあたらないのでは…と勝手に思っています。

(以上)
 
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2013年08月04日 (日) | Edit |
 その人の誕生日や命日にちなんだわけではありませんが,新作の「四百文字の偉人伝」を。
 手塚治虫,藤子・F・不二雄,石ノ森章太郎,赤塚不二夫といった,マンガの巨匠について。

 あえていえば,おとといの8月2日は,赤塚の命日でした。

 先日「ゴロウデラックス」(TBS系)という深夜番組をみました。SMAPの稲垣吾郎さんがメイン司会で,作家や文化人をゲストに呼び,その著書を紹介する番組です。その日は直木賞を戦後最年少で受賞した作家・朝井リョウさんが出ていました。

 そのなかで,朝井さんが 「SMAPは,1989年生まれの自分からみれば,電気・水道・ガスみたいなインフラのようなものだ」ということを言っていました。
 「物心ついたときから,テレビに出ているのをたくさんみてきたので,あたりまえのような存在だ」ということでしょう(SMAPは1988年結成。ウチのカミさんは大ファンです)。
 タレント・文化人を「インフラ」というのは,おもしろい表現だと思いました。

 それを聞いて, 「自分にとってそのような意味でのインフラって,何(誰)だろう?」と考えました。

 思い浮かんだのは,手塚治虫のような,昭和のマンガの巨匠たち。

 私が子どもだった1970年代に,すでに彼らはマンガ界の重鎮で,しかもバリバリの最前線で活躍していました。リアルタイムで,つぎつぎと生まれてくる新作が読めたのです。
 それはマンガ好きの少年にとって,あたりまえの「インフラ」みたいなものでした。

 しかし,時は流れました。巨匠たちも,多くは亡くなった。ちばてつや先生や,藤子不二雄A先生や,水木しげる先生など,かぎられた人が今もおられるくらい。ただし,第一線からはすでに退いている。

 でも,巨匠たちが残した作品が「インフラ」として残っている,といえるのでしょう。

                       *

手塚治虫ほか,マンガの巨匠

命を縮めるほど,精一杯だった

 画家や作家には,長寿の人のたくさんいます。でも,マンガの基礎をつくった巨匠には,長生きしなかった人が目立ちます。
 亡くなった歳は,手塚治虫,60歳。藤子・F・不二雄,62歳。石ノ森章太郎,60歳。赤塚不二夫,66歳で病に倒れ,6年間の入院の末,死去。
 彼らは,20歳ころから,締切りに追われながら睡眠や食事の時間を切り詰め,ひたすらアイデアを練って描くという生活を何十年も続けました。
 たとえば,NHKのドキュメンタリー(1986年放送)の中で,50歳代の手塚は,店屋物のチャーハンを夜食に,徹夜で机に向かっていました。タクシーのなかでも原稿を描いていました。
 こういう生活が命を縮めたのです。
 また,赤塚のように,中年期からはストレスで酒におぼれてしまったケースもあります。
 彼らほどハードな仕事を長年続けたクリエイターは,ほかの分野ではまずみあたりません。それだけマンガの発展期のエネルギーはすごかった,ということです。

参考:石ノ森章太郎『トキワ荘の青春』(講談社文庫,1986),藤子不二雄(藤子不二雄A)著『二人で少年漫画ばかり描いてきた』(文春文庫,1980)

【手塚治虫】
1928年11月3日生まれ~1989年2月9日没
【藤子・F・不二雄】
1933年12月1日生まれ~1996年1月23日没
【石ノ森章太郎】
1938年1月25日生まれ~1998年1月28日没
【赤塚不二夫】
1935年9月14日生まれ~2008年8月2日没

 現代マンガ(=ストーリーマンガ)開拓者である手塚治虫と,その影響を受け,マンガの発展に大きく貢献した作家たち。藤子,石ノ森,赤塚は新人時代の1950年代に「トキワ荘」というアパートに集まって住み,刺激を受けあっている。

                         *

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2013年08月03日 (土) | Edit |
 先日(7月29日)麻生副総理が都内のシンポジウムで発言したことが,問題になっています。
 憲法改正についてナチス政権を引き合いにして,「手口を学んだらどうか」と述べたのです。

 発言の「問題」の部分は,具体的にはこうです(「朝日新聞デジタル」より。テレビのニュースで私も観ました)。

《憲法は,ある日気づいたら,ワイマール憲法が変わって,ナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気づかないで変わった。あの手口学んだらどうかね。》

 ひどい発言だと思います。全体の文脈がどうこう,というのはともかく,この箇所だけで非難されて当然です。選挙で圧勝して,気が緩んでいるのでしょうか。

 ところで,「本筋」からはややそれますが,この麻生発言で私がとくに気になったのは「…ナチス憲法に変わった」という箇所。

 え,ナチス憲法?

 「ナチス憲法」というのは,存在しません。

 第一世界大戦(1914~1918)でドイツは,敗戦しています。それに伴ってドイツでは,それまでの「ドイツ帝国」の体制が崩壊。新たに「ワイマール憲法」という民主的な憲法にもとづく「ワイマール共和国」の体制が成立しました。

 関連記事:ワイマール憲法とボン基本法

 そのワイマール憲法のもとで,ヒトラー(1889~1945)のナチス政権が誕生します。もともとナチスが政権の座についたのは,憲法に基づく選挙で勝利したからです。

 その後ヒトラーは,単なる「政権」ではなく,「独裁」の体制をつくっていきます。
 1933年にヒトラー内閣が誕生してしばらくすると,政治的決定のすべてをヒトラーに委ねることになる「全権委任法」という法律を国会で成立させました。
 これによって,ワイマール憲法は,事実上「死んだ」のでした。

 しかし,ナチス・ドイツでは,最後まで独自の憲法は制定されませんでした。

 つまり,「ナチス体制」というのはあっても,「ナチス憲法」というのはないのです。

 これは近代以降の有名な独裁国家のなかでは,「イレギュラー」といえるでしょう。

 ナポレオン(1769~1821)も,ソ連の指導者スターリン(1879~1953)も,中国の毛沢東(1893~1976)も,憲法を制定しています。
 
 しかし,ヒトラーはそれをしなかった。
 なぜでしょうか?
 
 ヒトラーの時代は,戦争の時代でした(ヒトラーは,それをはじめた張本人ですが)。
 なので,非常時のあわただしさのなかで,憲法制定までは手が回らなかった,ということもあるでしょう。

 でもそれ以上に,ヒトラーは「憲法をつくると,憲法によって権力者が拘束される」ということを嫌ったのではないかと思います。

 非民主的な国,独裁政治の国でも,しばしば憲法は制定されています。
 そんな国の憲法ではたいてい,基本的人権には大幅な制約がかけられ,独裁権力の正統性がうたわれています。
 ソ連の憲法などの,かつての社会主義国の憲法は,その類でした。

 そのような「独裁を正当化する憲法」であっても,きゅうくつだ。
 結局はいろんな手続きに縛られる。
 それよりも,「戦争という緊急事態のなかで,憲法が停止され,指導者に全権が委ねられている」という状態のほうが,ずっとやりやすい。
 「緊急事態」なら,めんどうな手続きとか,いろんなことから自由だ。

 おそらく,そんなふうにヒトラーは考えていたのでしょう。

 「憲法は(非民主的なものであっても),政府や権力者を拘束する」という,憲法の本質的なところを,ヒトラーは彼なりに理解していたのではないでしょうか?
 
 関連記事:憲法は何のためにあるのか

 このように,「ナチス憲法はなかった」ということは,じつは憲法の本質にかかわる話なのです。

 歴史上の独裁者のなかで,「憲法」の精神をもっとも強烈に否定した,ヒトラー。
 そんな人物の「やり口」を「憲法改正」の議論で,「学んだらどうか」などというのは,やはりトンデモ発言ですね……
 
 ところで,麻生さんは「ナチス憲法というのはなかった」ということを,ほんとうに知らなかったのでしょうか?ひょっとすると「ナチス体制」というべきところを言いまちがえたのかもしれませんが,まあ,どっちでもいいでしょう。

 なお,「ナチス・ドイツに独自の憲法がなかった」ということと,その意味について私がはじめて(明確に)知ったのは,20代の時に読んだ,セバスチャン・ハフナー著・赤羽龍夫訳『ヒトラーとは何か』(草思社,1979)という本からでした。ヒトラーについて考えるうえで欠かせない本のひとつです。
 さっき,アマゾンをみたら,今年1月に新訳が出てました(私が読んだのは,旧訳)。

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2013年08月02日 (金) | Edit |
 2013年2月24日の記事の再放送です。
 だいぶ前の記事ですが,「団地 間取り」などのキーワードによる検索でみつけて,訪問してくださる方が毎日のようにいます。

 私は築30数年の古い団地をリノベーションして住んでいます。団地の魅力をみなさんにお伝えすることは,このブログのテーマのひとつです。

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 団地の魅力のひとつに,その「間取り」があります。
 「〇平方メートル」「〇LDK」ではあらわしきれない特徴が,団地の間取りにはあるのです。

 下の図は,団地の間取りのイメージです。
 斜線の部分は,玄関ホールなどの廊下的なスペース。
 赤い線は,窓。
 出入口の横にあるのは,階段。

(団地の間取り)
団地の間取り

 これに対し「今どきのマンション」のイメージは,こうです。
 団地と同じく,斜線の部分は廊下で,赤い線は窓。

(今どきのマンションの間取り)
今どきのマンションの間取り
 多くの古い団地は,となりあう2戸が対になって階段を共有しています。これだと,ひとつの棟にいくつもの階段があるのがふつうです。これを「2戸1(ニコイチ)」ということがあります。

 それに対し,今どきのマンションの多くは,エレベーターとメインの階段は1か所に集約され,外廊下を通って出入りする構造になっています。これだと通行人の目が気になるので,外廊下に面した窓は,たいていは閉めっぱなしです(だから,上の図では省略しました)。
 これを,「外廊下」方式といいましょう(一般的な呼び名ではなく,ここだけのものです)。
 
 一方,「ニコイチ」方式の団地では,両方の窓(多くは南北)をオープンにできます。これは,やはり快適です。
 まず,北側の部屋も,明るい。古い団地は,家全体に日差しが入ってきます。
 そして,風通しが断然いいです。
 私の住む団地も「ニコイチ」です。高台に建っているせいもあって,南北の窓を開けると風が非常によく通ります。おかげで夏場もほとんど冷房を使わずに暮らしています。
 
 「外廊下がない」
 「そのため,南北の窓をオープンにできる」
 これは,多くの古い団地の特徴であり,明らかなメリットです。

                         *

 もうひとつ,団地の間取りの特徴として,「全体のかたちが正方形に近い」ということがあります。その「正方形」が,襖(ふすま)などでゆるやかに仕切られています。

 これに対し,今どきのマンションは,やや細長い長方形です。
 玄関から廊下がのびていて,その両側に部屋がある。各部屋の独立性は団地よりも高いです。たいていは,廊下のつきあたりがリビング+ダイニングになっています。

 「正方形」型と「長方形」型。
 「どちらがいい」とは,はっきりはいえません(これも,ここだけの呼び方です)。
 ただ私は,ゆるやかに仕切られた「正方形」型の団地の間取りが好きです。
 なんとなく,のびのびした感じがするのですが,どうでしょうか? 家じゅうを「ぐるぐる」「うろうろ」できるので,面積のわりには,きゅうくつな感じがしません。

 もちろん「仕切りがゆるやか」というのは,各部屋のプライバシー度が低いということです。私がそれをデメリットと感じないのは,夫婦2人暮らしだからかもしれません。年頃の子どもさんがいる家庭などでは,またちがうはずです。

 あとは,やはり日当たり,風通しのことがあります。「長方形」型だと,その真ん中あたりは,どうしても外の光や空気が入りにくくなります。

*「長方形」型は,業界では一般に「田の字プラン」といいます。でも,私にはあまり「田の字」にはみえないのですが。

                        *
 
 今どきのマンションは,多くが「外廊下」方式であり,「長方形」型です。それがスタンダードになっています。
 しかし,その「スタンダード」は,かならずしも暮らしやすさを追求して生まれたものではありません。むしろ「経済性」を追求した結果生まれました。
 正確にいうと,「予算の制約のなかで,一定品質の住宅を数多く提供しよう」と工夫するなかで生まれたのです。

 もしも,今の高層マンションを「ニコイチ」でつくったら,ひとつの棟にエレベーターをいくつも設置しないといけません。それはコストがかさみます。マンションの値段がそのぶん高くなってしまいます。

 「長方形」型というのも,経済効率のうえで意味があります。具体的な説明は省きますが,「長方形」型だと,「正方形」型にくらべ,同じ建築コスト(土地代+材料費+工事の手間)でより多くの家をつくれるのです。

 「だから今どきのマンションはダメだ」などというのではありません。
 「外廊下」方式は,現実的な妥協案です。「長方形」型の間取りも,これはこれでよくできていると思います。

 でも,古い団地のような「ニコイチ」方式も「正方形」型もあるということです。
 そして,その良さはもっと知られてもいいと思うのです。

(以上)
 
(参考文献)隔月刊「コンフォルト」5月増刊『図説 日本の「間取り」』建築資料研究社,2001年。「間取り」というものを考えるうえでよい本です。豊富な図版と解説で,住宅に興味のある人なら初心者でもたのしめると思います。ただし,今は入手困難かもしれません。

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2013年08月01日 (木) | Edit |
 ウチで使っている小さなグラスです。
 「つよいこグラス(S)」といいます。石塚硝子というメーカーの製品。

つよいこグラス S

 小ぶりなのは,子ども用にデザインされたものだからです。
 真ん中がくぼんでいるのが,子どもにも持ちやすい。
 2~3歳の子が持つとちょうどいいかんじ。

 たとえば,こんなふうに。
   
かわいい手につよいこグラス

 この間ウチに来てくれたお友だちの子どもさんです。
 かわいい手にかかえられているのをみて,このグラスの魅力を再確認。

 お母さんは,「割ったりしないかしら」と,ちょっと気がかりだったそうです。
 
 ステキなグラスだから,お値段もするのかもしれないし…という心配もあるかもしれません。
  
 でも,その点は大丈夫。

 このグラスは,1個263円(税込)なのです。

 現物を前に,このグラスの値段をいうと,たいていの人は「安いねー」と感心します。
 
 もっと高くして売ってもいいんじゃないか,と思える。
 デザインもすばらしいけど,メーカーの量産技術も,すばらしい。

 私は日本酒やワインや,水やお茶をちょっとだけ飲むときなどに使っています。
  
 私がこれを買ったのは,musubiという,国立(谷保駅近く)にある「くらしのどうぐ」のお店。6月30日の記事でもご紹介したところです。
 2年ほど使ってますが,じつにいい買い物でした。

(以上)
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