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2013年11月08日 (金) | Edit |
 このブログには 社会の変化はゆっくりになっているというシリーズがあります。
 
 よく「社会の変化はますます急速になっている」というけど,じつは変化はゆっくりになっているのではないか。さまざまな文化や技術革新の世界でも,新しいものが生まれにくくなっているのでは?

 という視点でいろいろ述べています。

 これに,ある読者の方――ピピネラさん(ブログ:小人さんとワルツを)が反応してくださいました。

 ピピネラさんによれば「インターネットによってさまざまな情報・ソフトに多くの人が手軽にアクセスできる状況から新しい何かが生まれるのではないか」と。

 私もこれを受けて「たしかに,古今東西の文化遺産がアクセスしやすい形で陳列されれば,〈新しい組み合わせの発見〉ということが起こりやすくなるので,そこから何か生まれる可能性はある」と述べました。

 関連記事:文化の「新しさ」と「変化」

 さらに,つい先日もピピネラさんはコメントで「〈新しい組み合せの発見〉という言葉は,まさに自分の言いたいところを述べてくれている」と言ってくださいました。

 うれしいことですが,このように評価していただくと,「これは補足しておかないと」と思うことが出てきました。それは,「新しい組み合せの発見」という言葉には,先行するものがある,ということです。

 以下,ピピネラさんへの私の返信コメントを編集したものです。

 ***

 コメントありがとうございます。

 なお,「新しい組み合わせの発見」という言葉じたいは,オリジナリティのあるものではありません。
 ジェームズ・ヤングという昔の広告マンが書いた『アイデアのつくり方』(TBSブリタニカ)という,有名な本があって,その中に

《アイデアとは既存の要素の新しい組み合わせ以外の何ものでもない》(28ページ)

 という一節があります。
 そして,アイデアのつくり方の核心として,

《アイデアは一つの新しい組み合わせであるという原理と,新しい組み合わせを作り出す才能は事物の関連性をみつけだす才能によって高められるという原理》(32ページ)

 といったことが述べられています。

アイデアのつくり方アイデアのつくり方
(1988/04/08)
ジェームス W.ヤング

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 それから,インターネットなどの現在の技術や社会の状況が,そのような「新しい組み合わせの発見」を促進する,という見解も,そう目新しいものではないでしょう。
 たとえば,「社会の変化はゆっくりになっている」シリーズ(2013年4月8日の記事)でも引用した,ブリニョルフソン『機械との競争』(日経BP)には,こんなことが述べられています。
 同書は,「これから技術革新はさらに加速する」という立場から,テクノロジーが経済・社会に与える影響を論じた本。

《…アクセス可能なアイデアや個人が広くプールされるほど,イノベーションが生まれるチャンスは増える。
 組み合わせるパーツが枯渇する恐れはまずない。仮にテクノロジーの進歩が今この瞬間に止まったとしても,さまざまなアプリケーション,マシン,タスク,流通チャネルを組み合わせるこによって,とても使い尽くせないような新たなプロセスや製品を作り出すことができるだろう。》
(119ページ)

機械との競争機械との競争
(2013/02/07)
エリク・ブリニョルフソン、アンドリュー・マカフィー 他

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 今回のピピネラさんのコメントを読んで,以上の「私の言ったことに関し先行する著作」については述べておこうと思いました。

 そして,そう思っている矢先,たまに私のブログを訪れてくださる,「しうへ」さんのブログ「TEDで覗く世界」をみると,先日11月6日の記事 優れたアイデアの作り方 で,ヤングの「アイデア」論やブリニョルフソンの主張のことが述べられていました。偶然なのか,私の記事と何か関連があるのか,まだご本人に確認していないのですが……いずれにしても,なんだかワクワクした楽しい気持ちになりました。

 まあ,このように,私の述べていることは,決して独創的ではありません。
 また,「独創的」である必要もない,と思っています。

 そして,述べていることの元になった論や著作については,できるかぎり触れたいとは思いますが,展開のテンポや成り行きで,そこを飛ばしてしまうこともあるでしょう。

 「有名な本(知っている人は知っている)」にあることは,いちいち出典に触れなくてもいい場合があります。出典を示さなくても,「有名な本」のプライオリティ(「そのことを最初に述べた」という名誉)を損なうことがまずないからです。
 極端な例えですが「ニュートンによれば,万有引力というのがあって…」とは言わないです。
 
 本来は「出典を示す」というのには,「誰のオリジナルなのか,読者にとって紛らわしくならないように示す」という目的があります。さらにそこには「オリジナルを生み出した著者を尊重する」ということがあるわけです。(このあたりのことは,私は板倉聖宣『模倣と創造』仮説社で最初に知りました)

模倣と創造―科学・教育における研究の作法模倣と創造―科学・教育における研究の作法
(1987/11/25)
板倉 聖宣

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 でも世の中では,「有名な本からは引用して,無名の著者からは剽窃する(自分のオリジナルと偽って借用する)」ということが多いのかもしれません。(このことも,私は何かの本で読んだのです)
 そこには,「引用は,自分の言っていることにハクをつけるためにする」という発想があるのかもしれません。
 
 話しが,ちょっとそれました。
 とにかく,何か文章を書くと,その「素材」となる主張のそれぞれには,たいていは,先行するものがあるのです。

 でも,文章の中で,それらの素材のあいだの「新しい組みあわせ」ができれば,そこに一定のオリジナリティが生まれるはずです。今回私の書いたものにも,そういう面があればよいのですが。

 それから,自分が「発見した」「気づいた」と思うことを,すでに過去の著者が述べていないか,という視点も,読書では大事なことだと思います。

 そして,「自分と同じことを考えていた過去の著者」がみつかったら,がっかりしないでよろこびましょう。その本は,きっと刺激をもたらしてくれます。そこから自分の思考が広がったり深まったりするチャンスです(とはいえ,ちょっとがっかりすることもあります)。

 それにしても,今の技術や社会は,ほんとうに「新しい組み合せの発見」を促すのでしょうか?
 楽観論には,たしかに根拠があるとは思います。でも,ほんとうにそうなのか?という疑問も私にはあります。
 このことは,またいずれ。

(以上)
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