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2013年11月24日 (日) | Edit |
 11月19日の「食べてもなくならないケーキ」という記事で「モノやサービスの希少性」ということを,論じました。

 多くの人が「いいもの」としてあこがれるのは,たいてい供給に限りがある「希少」なもので,そのため高価である。ただしお金さえ出せば,手に入る。
 しかし,「いいもの」や「たのしみ」には,「食べてもなくならないケーキ」のように,「希少」ではないものもある。たとえば,何かを学ぶたのしみ,あるいはネット上にあるさまざまなソフトをたのしむこと……これらを手に入れるには,お金はそれほどかからないが,努力や意欲が要ることも多い……
  
 そんな記事に,読者のhajimeさん(ブログ:孤独な放浪者の随想)が,コメントをくださいました。

【hajimeさんからのコメント】

 まずhajimeさんは,私の記事のつぎの箇所を引用されました。

《(「春雨による絶品フカヒレスープ風」のような「ごちそう」が発達するのは)「文明の必然」のような気もします。また,「より多くの人たちが,ぜいたくやたのしみを味わうことができる」という意味で,明るく建設的な面もあるでしょう。「あこがれ」の対象を,どうにかしてより大量に供給すること――つまり「希少性の克服」をめざして,文明は進んできました。》

 そして,これについてhajimeさんはこう述べています。 

文明の原理について個人的に利便性、合理性ということに重点をおいていたので、この「希少性の克服」というのは新たな着眼点を与えてくれました。

天然、希少ということが一人歩きし、それだけで価値があるとしてしまうクセが私たちにはあるようですから、気をつければならないなと思いました。


 ***

 以下は,hajimeさんのコメントを刺激にして,私がさらに考えたことです。
 コメントに対する先日の返信を,編集・加筆しています。

【そういちからの返信】
 
 hajimeさん,「希少性の克服」を「新たな視点」と言っていただき,たいへんうれしいです。

 おっしゃるように,「天然」「希少」ということについて,私たちは深く考えることなく「いいもの」としていると思います。
 そして,そのような「いいもの」を,自分も手に入れたい,手に入れる権利がある,手に入れられるはずだ,という考えが非常に一般的になっています。
 
 このことは,すでにチャールズ・イームズ(20世紀のアメリカのデザイナー)が,1970年代初頭にある講演で述べています。

《今私たちが生きている世界は,情報とイメージが徹底的に均質化され,多くの面で誰もが同じものを受け取っている状況にあります。…この状況は,テレビによるところが大きいでしょう。ともかく,ひとつ確かに感じるのは,この20年で人々の期待が大きくなったということです。今日では,ある普遍的な期待が存在します。他人がもっているものは自分にも手に入れる権利があると誰もが感じているのです。》(イームズ・デミトリオス『イームズ入門』日本教文社,127ページ)

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 誰もが,他人の持っている「いいもの」を手に入れたい。
 でも,じつはそれはむずかしいのだと思います。ある程度は実現できても,限界があります。
 
 ここはイームズも問題にしたことです。そこから彼は,11月19日の記事で述べた,希少性の制約を受けない「あこがれの新しい対象(食べてもなくならないケーキ)」ということを論じました。

 そして,その「希少性による限界」を乗り越えるには,「希少ないいもの」を,かなり根本的に変質させて量産するしかないはずです。「希少ないいもの」を,そのままみんなにいきわたらせることはできない。

 たとえば,すばらしい絵画のオリジナルをみんなが所有することはできないから,コピーを印刷したり,さらにはデジタルの画像データというかたちで複製するのです。
 昔の貴族のように「お抱えの楽団」をみんなが所有することはできないから,オーディオ機器があるわけです。

 最近の「食品偽装」は,「いいものを手に入れたい」というみんなの欲求や期待が強くなるなかで,その期待の重みに耐えかねた業者たちが,ごまかしに手を染めてしまった(もちろん不正であり,アウトです)という面があると思います。

 ホテルや飲食業の人たちにとって,みんなの欲求は,ほかの多くの業界以上に「重い」のでは,と思います。

 この業界には,ソフト産業や多くの工業製品のような根本的な技術革新が,まだ起こっていないからです。

 提供する「食」「サービス」の質を高くするには,どうしても,良質な素材や,熟練した職人が手間暇かけるといったことが必要です。それらのリソースはどれも「希少」なので,値段は高くならざるを得ません。素材の生産者も含め,業界では努力が重ねられてはいますが,限界があります。

 しかし,私たちの感覚は,「いいレストランでのごちそう」でも,ほかの分野と同じように希少性が克服されていると,期待してしまう。つまり,リーズナブルな値段で,「〇〇牛」のようなすばらしいごちそうが食べたい,食べられるはずだ……となってしまう。ステキな洋服や,高性能のカメラやパソコンがずいぶん安くなったのだから,というわけです。

 「食」にかかわるまっとうなプロは,どうにかしてその「重い期待」にこたえてきました。頭の下がることです。 
 しかし一部に,この期待に「不正」や「ごまかし」で対応しようとした人たちがいた,というわけです。

 ***

 hejimeさんの言われることと重なりますが,私たちは「天然」とか「希少」ということの価値を,少し冷静に考えたほうがいいのかもしれません。

 「天然で希少ないいもの」というのは,たしかにそれ自体は「いい」のです。
 しかし,それが「希少」であるという状態は,けっして「いい」とはいえません。たいていは,のぞましくない,克服すべき状態です。それを欲しい人がたくさんいるからです。
 でも,十分に「克服」できないことも,あるでしょう。

 今後,「環境問題」のことを考えると,また発展途上国の人たちの生活水準の向上(欲求の向上)を考えると,いろんな面で「希少性」の制約というのは,重くなっていくはずです。

 前の記事で述べたように,未来において,世界中の何十億,100億の人たちみんなで天然のいいマグロを食べるのは,むずかしいでしょう。

 だったら,私たちの感性や価値観を少し変えていかないといけないのでは?

 このブログのテーマのひとつである,建築や住まいの分野だと,いい木材をふんだんに使った家具やインテリアは,これからますます希少なものになるでしょう(その一方で,それを求める人びとの「期待」は広がっている)。

 だとしたら,たとえばベニヤ板(合板)のような,もともとは「代替」「フェイク」的な位置づけだった素材のなかに「味わい」や「美」を積極的に見出していったらどうなのか。

 合板というのは,ごく薄い木の板を接着剤で貼りあわせたもの。上等な無垢材がとれるくらいに十分育った樹(希少なものです)よりも,ずっとありふれた樹からつくることができます。だから価格も比較的安く,それだけに「安物」のイメージもあります。

 ところで,インテリアの世界では,下の写真のように,合板独特の薄い板が積み重なった切り口を,一種の「味わい」として前面に出す,といったことがあります。

ベニヤっぽい切り口

 こういうことは何十年も前からときどき行われてきましたが,近年は(おそらくこの20年くらいで)ごく一般的になりました。
 昔は,こういう「ベニヤっぽい切り口」は「みっともない」ということで,化粧するための板を貼って隠すことのほうが「普通」だったのです。

 しかし,最近の私たちは「ベニヤ板の美」をたのしむようになったわけです。

 でも,無垢のいい木材の美も,もちろん好きです。

 ということはつまり,私たちの(木材のインテリアに関する)「美」の感覚の幅が「変わった」というよりも,「広がった」「柔軟になった」ということでしょう。

 このように,「美」とか「いい」という感覚について,より柔軟になっていくこと。
 それはおそらく,これからの世界で気持ちよく生きるうえで大事なはずです。

 
 それは,「希少なもの」にとらわれない,ということです。

 「ベニヤ板の美」のことは,その典型的な例かと。

 そして,「希少なもの」にとらわれない感覚は,生活や人生の全般にとって意味があるはずです。衣食住はもちろん,職業選択などの仕事観や,結婚や子育てなどの問題にもかかわってくると思いますが,今回はこのへんで。

(以上)
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