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2014年01月30日 (木) | Edit |
 今日1月30日は,幕末の徳川幕府のリーダー,勝海舟の誕生日です。
 そこで,勝海舟の「〇千文字の偉人伝」を。
 数分で読む,勝海舟の伝記です。

 参考文献は,おもに板倉聖宣さんの下記の著作。
 
勝海舟と明治維新勝海舟と明治維新
(2006/12/24)
板倉 聖宣

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 以下の小さな伝記は,この著作を切り取り,ダイジェストにしたものといっていいです。
 ただ,豊富な内容の著作ですから,どう要約していくかは,いろんなやり方があるでしょう。私がやると,こうなったわけです。その意味で,やはり自分なりのひとつの「作品」になっているとは思います。

 この記事を読んで勝のまとまった伝記を読みたいと思ったら,ぜひ板倉さんの著作を。

 あとは,板倉さんも紹介されていますが,松浦玲さんの著作も。
 松浦さんには『勝海舟』(筑摩書房,2010年)という,「勝海舟伝の決定版」的な分厚い著作がありますが,私が読んだのは,中公新書のコンパクトな『勝海舟』(1968年)。
 
勝海舟―維新前夜の群像3 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)勝海舟―維新前夜の群像3 (中公新書 158 維新前夜の群像 3)
(1968/04)
松浦 玲

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 【勝海舟】
 1823年3月12日(文政6年1月30日)生まれ~1899年(明治32)1月21日没


勝海舟小伝  自分の「蘭学」をみつけよう


意義ある決断

 明治元年(1868)に,薩摩・長州を中心とする勢力=官軍が,旧幕府の勢力を完全に倒した戦争があった。この戦争で,西郷隆盛が指揮する官軍は,江戸城をとり囲んで総攻撃をしかけようとした。

 そのとき,旧幕府側の責任者として西郷と話しあい,江戸城を無血開城することを決めたのが,勝海舟(1823~1898)である。どちら側にも「戦うべきだ」という意見があり,それをどうにか押さえてのことだった。

 もしここで戦いを選んでいたら,江戸の町は戦火につつまれただろう。戦争が長引けば,欧米列強の介入を招き,日本は殖民地にされたかもしれない。
 このときの西郷や勝の判断は,非常に意義のあるものだったのだ。

 江戸城開城のとき,幕府側の重鎮だった勝海舟だが,幕府に仕える武士としては最下級の家の生まれである。父親は,武士なのにケンカや賭博に明け暮れた人だった。そんな父親のせいで,家は貧乏だった。

 その勝が高い地位にのぼりつめて重要な仕事をしたのは,まさに「食い下がって学びつづけた」成果だった。
 何を学んだのかというと,蘭学である。オランダ語による西洋の学問。これによって,彼は頭角をあらわした。


異端だった蘭学

 勝が少年時代に熱心に学んだのは,剣術だった。先生にも恵まれ,相当なレベルに達した。
 それがいつ・どうして蘭学を学ぶようになったのかは,よくわかっていない。しかし,十代の終わりにはオランダ語の勉強をはじめていたのはたしかだ。

 そのころの日本では,一部の先覚者のあいだで,欧米に対する関心が高まりつつあった。

 鎖国をしていた当時の日本がつきあっていた欧米の国は,オランダだけだった。しかし,1700年代から,ほかの欧米の船が日本の近海にときどき現れ,国防に関心のある人びとは警戒していた。1792年にはロシアの船が北海道にやってきて国交を求める,という事件もあった。

 さらに,勝が育った時代には,清国(中国)が欧米におびやかされていることが一部で知られるようになった。

 そんな中,欧米諸国について知る努力をして,その学問や技術が圧倒的にすぐれていることを発見した少数派の人たちがいた。蘭学者である。当時,オランダ語を習得し,書物を読むことが欧米の知識を手に入れる最大の手段だった。

 しかし,関心が高まる一方で,欧米に対する警戒心や敵対心も高まった。

 蘭学は,主流の人たちからみて,未公認の危険思想だった。「欧米の学問をすると,なんでも欧米をよしとして,日本の現状を(政治体制も含め)否定するようになる」というのだ。さらに偏見を抱く人たちは,「西洋の学問をする連中は奴らの手先で,国の敵だ」と考えた。

 蘭学者やその賛同者は世間では異端視され,ときには迫害された。

 たとえば,勝の蘭学の先輩の一人に,高島秋帆という西洋砲術を研究した人がいた。彼は,日本のためを思って研究していた。しかし,「反乱をたくらんだ」という無実の罪で牢屋に入れられ,10年も出られなかった。

 このほかにも,幕末には何人もの蘭学者が処分を受けたり,投獄されたりした。処刑された人もいた。
 勝自身も,オランダ語を勉強中の22歳のとき,「不穏なことを学んでいる」と,周囲の者に密告され,幕府から4年間の「自宅謹慎」処分を受けている。

 それでも彼は,蘭学を続けた。このころ勝はすでに家督を継いで結婚していた。しかし,幕府の役職には就けないでいた(彼の父親もそうだった)。

 だが,武士というのは特に仕事をしていなくても,決まった俸禄(給料)は入ってくる。
 だから,薄給で苦しかったが,時間はあった。謹慎中は,日中は本を読み,夜になると,こっそり蘭学の私塾に通って勉強した。


辞書を手に入れるのも大変

 当然なのだが,勝のオランダ語学習は,ABCの文字さえ知らないところからはじまった。今の私たちは「英語ができない」といっても,少しの単語やごく初歩の文法ぐらいは知っているが,そのレベルまで達するのもかなりの道のりだった。

 そもそも,辞書ひとつ手に入れるのだって,たいへんなのである。当時,『ヅーフ・ハルマ』という代表的な蘭和辞典があった。自宅謹慎中の25歳のとき,勝はこれを手に入れようとしたが,値段を知って驚いた。当時の勝の年収の4倍の60両という値段である。とても買えない。

 そこで,その辞書を持っている人に頼みこんで,有料でその辞書を借り出し,書き写すことにした。1年余りかけて,辞書1冊をすべて写した。2部写して,1部を人に売った。それで辞書のレンタル料を差し引いても,利益が出た。

 そのころの書物は,高価だったので勝にはなかなか買えなかった。そこで,なじみの書店の好意で,よく立ち読みをさせてもらったりもした。
 
 こうして勝の蘭学は,かなりのレベルになっていった。

 彼のおもな関心は,兵学(軍事技術)だった。当時の幕府には,西洋の兵学を研究している人はいなかった。「ならば自分が」ということだ。
 いや,兵学どころか,彼がオランダ語の学習に励んでいた当時は,幕府のそれなりの武士の中で,オランダ語ができる人物など1人もいなかったのだ。


道がひらける

 26歳のとき――辞書の写本に取り組んでいたころ――渋田利佐衛門という人が勝の前にあらわれた。例の書店の主人から,勝のことを聞いて会いたくなったという。
 渋田は蝦夷地(北海道)の裕福な商人だったが,仕事で江戸に来るたび,道楽でたくさんの書物を買い込んでいた。2人は,同じ興味関心をもつ仲間として意気投合した。

 そしてある日,渋田はなんと200両というお金を支援したいと言ってきた。勝の年収の十年分以上のお金。それをポンと渡し,「これで,あなたがこれはと思う本を買って,読んだらそれを(または書き写したものを)私に送ってください」というのである。

 さらに渋田は,各地の知り合いの商人を勝に紹介してくれた。人脈が広がり,さまざまな知識や支援を得た。

 28歳になって,勝は蘭学の私塾を開いた。一人前の蘭学者となったが,依然としてなんの役職にも就けない。

 勝が31歳の1853年,ペリーの「黒船」が浦賀にやってきた。武力をちらつかせ,開国をせまってきた。幕府や各藩は大騒ぎとなった。

 このときの幕府の首脳は,「今後,国として何をなすべきか」についての論文を,広く一般から募るということをしている。たいへん異例なことだった。

 これに対し全国から数百の応募があった。勝も応募した。集まった論文は,抽象的な精神論などのピントはずれな内容のものばかりだった。

 しかし,勝のものはちがっていた。国防の強化には海軍が重要である。それはいかなるもので,その整備には何をすべきか。そういうことが的確に書かれていた。これまでの勉強・研究の成果だった。
 勝の意見は,幕府の中枢に取り上げられ,勝自身も,幕府のなかで役職を得た。

 その後の勝は,行き詰まった幕府が方向転換をして欧米に学ぶようになるなかで,重要な役職を歴任していく。
 1860年(明治維新の8年前),38歳のときに,日本の軍艦がはじめて太平洋を横断した「咸臨丸」の航海を指揮したのは,その重要な1コマだった。

 そして,幕府が崩壊するときには,その最高幹部になっていた。それまでに勝は,学問だけでなく,人を動かす政治的才能も開花させていた。そして,「幕府をどう終わらせるか」という問題に取り組んだのだった。


蘭学の創造性

 創造的な人というのはみな,自分なりの「蘭学」を発見した人である。

 つまり,それを究めることで,世の中の主流の人びとを大きく超える視野がひらけるもの。

 そういう〈新しい世界〉を発見し,追いかけることで人は創造的になる。 新たな理論を開拓した科学者,新しい産業をつくった起業家,偉大なアーティスト,みんなそうである。

 「でも蘭学なんて,既存の学問を輸入したもので,たいして創造的ではない」という見方もあるだろう。

 しかし,江戸時代の日本では,欧米の学問への権威や信頼は確立していなかった。危険思想として弾圧の対象にさえなった。「これを究めた先に,何があるかわからない」というものだった。
 
 それでも蘭学を選んだことは,きわめて創造的なことなのだ。これは,明治以降の日本人が,公認の権威となった欧米の学問をするのとは,わけがちがう。

 勝は,蘭学という,評価の定まっていないものに大きな価値を発見し,それに人生を賭けた。そして,その後の歴史は,勝の選択が正しかったことを証明した。

 未公認の〈新しい世界〉の発見。それに賭けて,全力で取り組む。しかし,世間は認めてくれない。だがしかし,ついに〈新しい世界〉の正しさが実証される……
 創造的で感動的な人生というのは,こういうプロセスを経るものだ。勝の人生は,その劇的なケースである。


自分の「蘭学」をみつけよう

 創造的に生きたいなら,自分なりの「蘭学」をみつけよう。
 たいそうなものでなく,マイナーな,ささやかなものでいい。周囲から「他愛ない(幼稚だ)」と言われるようなものでもいいと思う。

 ただ,「見つけた」と思っても,たぶん,明るい道はすぐには開けない。
 周囲はなかなか理解してくれない。
 投獄はされないだろうが,親は反対し,友達には笑われる。
 みんながすぐに褒めるようでは「蘭学」ではない。
 (もちろん,理解されやすい「公認」のものであっても,好きなことだったらやればいい。先覚者にはなれないが)

 そもそも,「賭け」に勝てるかどうかもわからない。
 「これだ」と思ったものが結局ダメだった,ということがある。
 「マルクス主義の理想」などは,その大規模な例である。前例のない新事業や野心的な創作が世に受け入れられずに終わったケースは,数知れない。
 
 しかし,「蘭学」の道は,孤独でツラいことばかりでもない。
 たとえば,仲間と出会える,ということもある。

 商人の渋田が勝を支援したことのベースには,「価値観を共有する少数派」としての連帯感があっただろう。 
 彼らは,同じ関心で結ばれた〈小さなコミュニティ〉の住人だった。
 だから,地理的に離れていても出会った。単なる偶然ではない。評価の定まっていない新しいものを追いかけていると,たまにそういう出会いが起きる。そこから,さまざまな可能性がひらけてくる。
 
 それにしても,勝のような先覚者の道が大変だとしても,せめて,同時代の創造的な人たちをバカにしたり迫害したりする側にはなりたくないものだ。
 あるいは自分の関わる世界で,身近に無名の「先覚者」がいたら,ぜひ応援してあげたい。

 それには,やはり勉強するしかないでしょう。ものをみる目を養うしかない。
 お互いがんばりましょう。

(以上)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術