2014年02月25日 (火) | Edit |
 前々回の記事で「ユダヤ人とは何か・その歴史」について述べました。

 今回は,その補足・関連の話で「ヨーロッパとは何か」について。

 ユダヤ人の歴史の話は,「結構むずかしい」と思います。
 ひととおり話を追いかけるにも,世界史のさまざまな基礎知識が必要で,とっつきにくいところがある。

 そのような「必要な基礎知識」に,「ヨーロッパ」という概念や,その核をなすキリスト教についての知識があります。 
 「ヨーロッパ」「西ヨーロッパ,東ヨーロッパ」「カトリック」「ローマ帝国」等々の言葉が,「ユダヤ人の歴史」の話にはどんどんでてきますが,それはそもそも何なのか。

 今回の記事は,それをテーマにしています。

 以前(2013年夏)に当ブログに掲載したとなり・となりの世界史のシリーズの一節を抜き出し,編集したものです。
  
 ***
 
そもそも「ヨーロッパ」とは何なのか?

 地理学者のジョーダン夫妻によれば,ヨーロッパとは,《住民がキリスト教徒で,インド=ヨーロッパ諸語を用い,ユーロポイドの身体的特徴を示す》地域なのだといいます(『ヨーロッパ 文化地域の形成と構造』二宮書店)。
 ただし,これはアメリカなどの新大陸は除きます。

 「インド=ヨーロッパ諸語(語族)」というのは,言語学上の分類です。ヨーロッパ諸国の言語は単語や文法にいろいろ共通性があり,それはインド北部の言語とも共通するので,こういう呼び方をします。

 「ユーロポイド」というのは,いわゆる白色人種のことです(コーカソイドともいいます)。

 以上を箇条書きでまとめると,こうです。

 (ヨーロッパの三条件)
 1.住民の多数派がキリスト教徒
 2.一般にインド=ヨーロッパ語族の言葉が用いられる
 3.住民の多数派がユーロポイド


 こういう要素が重なって存在するのは,ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線よりも西側の地域です。そこが「ヨーロッパ」というわけです。

 地図で示すと,以下のようになります。
 青い斜線の部分が,上記の「ヨーロッパの三条件」のすべてを備えている範囲。
 むらさきの線は,「ロシアのウラル山脈からギリシアにかけての線」です。この線よりも西側を「ヨーロッパ」とするのが伝統的な地域区分です。

 そして,その伝統的な区分には,一定の根拠があるわけです。むらさきの線の西側と「青い斜線」は,大きく重なりあっているのですから。

 なお,青い斜線の一部が,むらさきの線を大きく超えて日本の近くまで伸びています。これはこの数百年の比較的新しい時代に,ロシアが東へ領土拡大していったことで,こうなったのです。

「ヨーロッパ」の範囲
「ヨーロッパ」の範囲
T.G.ジョーダン=ビチコフ,B.B.ジョーダン『ヨーロッパ』二宮書店 による

 また,上の地図でむらさきの線の東側の地域のなかに,青い斜線でない部分がありますが,これはフィンランドとハンガリーです。これらの国は,キリスト教とユーロポイドが主流ですが,言語がインド=ヨーロッパ語族ではないのです。フィンランド語とハンガリー語という,「ウラル語族」に分類される言葉が使われています。

 さて,「ヨーロッパの条件」としてとくに重視されるのは,キリスト教です。先ほどのジョーダン夫妻も《ヨーロッパを定義する人文的特性のうち,最も重要なものはキリスト教である》と述べています。

 「ヨーロッパ」とは,「ユーラシア(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲,「旧世界」ともいう)のなかの,キリスト教徒が多数派である地域」といってもいいのです(ほかに南北アメリカ大陸でも,キリスト教徒は多数派です)。


ヨーロッパの西と東

 そして,キリスト教には2つの大きな宗派があります。
 「カトリック系」と「東方正教系」です。

 「プロテスタントは?」と思う人がいると思いますが,プロテスタントはカトリックから枝分かれしたものなので,ごく大まかにいえば「カトリック系」なのです。

 キリスト教の宗派はほかにもありますが,この2つが圧倒的です。

 そして,ヨーロッパはこの宗派の分布にもとづいて,大きく2つに分けることができます。
 カトリック系(プロテスタント含む)が主流の西側の地域と,東方正教系が主流の東側の地域。
 「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」です。「西欧」「東欧」ともいいます。

ヨーロッパの西と東
(カトリック,プロテスタント,東方正教会の分布)

キリスト教の西と東 (2)
『ヨーロッパ』二宮書店 による

 カトリック系が主流なのは,イタリア,スペイン,フランスなどです。
 ただし,同じヨーロッパの西側でも,北部のほうのドイツ,イギリスなどでは,プロテスタントが主流です。

 東方正教系が主流なのは,ギリシア,旧ユーゴスラビア,ブルガリア,ロシアなどです。

 カトリックには,「ローマ法王」というトップがいます。各地のカトリックの教会は,最終的にはローマ法王の権威に従います。

 プロテスタントは,カトリックの中から生まれました。ローマ法王の指揮から離れて独自の道をいく人びとが,新しい宗派をつくったのです(西暦1500年代のことです)。「プロテスタント」とは,「(既存の教会に)抗議する人たち」という意味です。

 東方正教のトップには,伝統的に「コンスタンティノープル総司教」という存在があります。
 ただし,現在はローマ法王のような権限はありません。ギリシア正教の教会は,地域や国ごとの独立性が強いです。
 「地域ごと」という点は,プロテスタントも同様です。プロテスタントでは,カトリックのようにはっきりした頂点があるわけではないのです。


言語もちがう西と東

 ヨーロッパの西と東のちがいは,宗教だけではありません。言語もちがいます。

 西ヨーロッパの言語は,「ラテン語派」と,「ゲルマン語派」という系統が主流です。
 
 イタリア語,フランス語,スペイン語は「ラテン」で,英語やドイツ語は「ゲルマン」です。
 一方,東ヨーロッパは「スラブ語派」(ロシア語,ポーランド語など)です。

 これらの「〇〇語派」というのは,「ヨーロッパの定義」で出てきた,「インド=ヨーロッパ語族」のなかでの分類です。

 このように地域区分には,「宗教や言語にもとづいて分ける」というやり方があります。
 宗教も言語も,「文化」のだいじな要素です。そこに共通性があれば,文化のいろいろな面で共通性があるはずです。
 逆に,大きく異なっていれば,文化全般の異質性も大きいはずだ,と考えるのです。

 このように「地域区分」には,一定の根拠があります。
 勝手に線引きしたのではない,ということです。

 
カトリックと東方正教の成立

 2大宗派ができた経緯についても,少し述べておきます。そこには,ローマ帝国の分裂・崩壊ということが関係しています。

 キリスト教は,2000年ほど前にローマ帝国のなかで生まれた宗教です。
 その後,帝国のなかで広く普及し,西暦300年代には国をあげて信仰する「国教」になりました。そのころには,カトリックや東方正教という宗派はまだありません。

 そのもとになるグループはありましたが,完全に分裂してはいませんでした。それぞれのグループは,考え方にちがいはあっても,教義についての統一見解をまとめるために話し合ったりしていたのです。

西暦100年代(1900年前)のユーラシア大陸
オレンジの部分が,当時の中心的な大国の範囲
一番西側の大国がローマ帝国。当時が最盛期。

西暦100年代のユーラシア

 その後ローマ帝国は衰退し,西暦400年代には帝国の西側の地域で体制崩壊がおこりました。2つの(完全に分裂した)宗派は,それから数百年のうちにできていったのです。

 「帝国の西側」というのは,「西ローマ帝国」といいます。今のイタリア,フランス,スペイン,ドイツ,イギリスなどを含む地域です。

 西ローマ帝国だった地域では,体制崩壊のあともキリスト教が信仰され続けました。そのなかでカトリックという宗派は生まれたのです。

 そして,この地域に新しく生まれた国ぐにで定着していきました。それらの国のいくつかは,現在の西ヨーロッパ諸国につながっていきます。

 一方,ローマ帝国の「東側」というのもあります。ギリシア,ハンガリー,ブルガリアなどの地域です。こちらは,西ローマ帝国の崩壊以後も,帝国の体制が後の時代まで残りました。
 これを「東ローマ帝国」といいます。この国は,衰退しながらも1400年代まで存続しました。

 東方正教は,東ローマ帝国のなかで生まれた宗派です。そして,帝国とその周辺へ広がっていきました。「コンスタンティノープル大司教」のコンスタンティノープルは,東ローマ帝国の首都です。

 ローマ帝国の「西側」と「東側」は,西ローマ帝国の崩壊以後,互いの交流も減って,別々の道を歩みました。 その結果,それぞれのキリスト教を信仰する「西ヨーロッパ」と「東ヨーロッパ」ができていったのです。


現在の経済状態のちがい

 そして,ヨーロッパの西と東のちがいは,文化的なものだけでもありません。
 現在の経済の状態にも差があります。
 「地域」がちがうと,いろんなことがちがうのです。だから,区分する意味があるわけです。

 今現在,経済発展がすすんでいるのは,西ヨーロッパのほうです。イギリス,フランス,ドイツ,イタリアなど,世界の「主要先進国」といえる国は,ヨーロッパではどれも「西」にあります。

 「東」には,「先進国」と明確にいえる国は,今のところありません。

 「ロシアはどうなの?」と思うかもしれませんが,イギリスの1人あたりGDPが3万6000ドル,ドイツが4万ドルであるのに対し,ロシアは1万ドル(2010年)です。経済の発展度は,西ヨーロッパの先進国にくらべるとまだまだです。

 EU(ヨーロッパ共同体)は,発足当初の1990年代は西ヨーロッパの国ぐにだけで構成されていました。経済発展のすすんだ先進国どうしで集まったのです。

 その後,2000年代に入ると東ヨーロッパのなかで経済発展のすすんだ国(ポーランド,チェコ,スロバキアなど)もEUに加わりました。しかし,EUが西ヨーロッパ中心であることは,今のところ変わりません。

 ***

 このようにヨーロッパは「キリスト教の2大宗派」という視点で西と東に分けることができます。しかし,カトリックが主流でも「東」に含めるのが一般的な国もあります。ドイツの東どなりにあるチェコやポーランドなどはそうです。

 これとは逆のパターンがギリシャです。東方正教が主流でも,「西」に含めることが多いです。

 それぞれ,それなりの理由があるのですが,ここでは立ち入りません。
 地域区分には,このような「微妙なケース」というのが常にあるのです。

(以上)
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2014年02月24日 (月) | Edit |
 2月24日は,アップルの創業者スティーブ・ジョブズの誕生日です。
 そこで, 彼の言葉をひとつ紹介します。

 ジョブズの文明観・歴史観に関わるものです。
 彼の言葉の中でも,これはとくに好き。
 
 ジョブズは,「さまざまな遺産の継承のうえに,今の私たちが存在している」といっています。
 そして,そのような認識にもとづいて,私たちが個人として,あるいは国民や市民としてどう生きるか,ということにも触れています。

 私は世界史に強く関心を持っていて,このブログのかなりの記事は世界史関連です。
 ジョブズの言っていることは,世界史(歴史)を通して私たちが知るべき,だいじなメッセージだとも思います。

 《なにが僕を駆り立てたのか。クリエイティブな人というのは,先人が遺してくれたものが使えることに感謝を表したいと思っているはずだ。僕が使っている言葉も数字も,僕は発明していない。自分の食べ物はごくわずかしか作っていないし,自分の服なんて作ったことさえない。
 僕がいろいろできるのは,ほかの人たちがいろいろしてくれているからであり,すべて,先人の肩に乗せてもらっているからなんだ。そして,僕らの大半は,人類全体になにかをお返ししたい,人類全体の流れになにかを加えたいと思っているんだ。それはつまり,自分にやれる方法でなにかを表現するってことなんだ……僕らは自分が持つ才能を使って心の奥底にある感情を表現しようとするんだ。僕らの先人が遺してくれたあらゆる成果に対する感謝を表現しようとするんだ。そして,その流れになにかを追加しようとするんだ。
 そう思って,僕は歩いてきた。》


(ウォルター・アイザックソン(井口耕二訳)『スティーブ・ジョブズⅡ』講談社より)

***

 私たちも,歴史の遺産になにかを加えることをしていきたいものです。
 ごくささやかなことでいいと思います。
 あるいは,そんな仕事をすすめている人たちを,少しでも応援していきましょう。

 私たちも,私たちになりに歩いていきましょう。

(以上)
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2014年02月23日 (日) | Edit |
 前回の記事(すぐ下)で,「都内の公共図書館でアンネ・フランク関係の書籍が破られるという被害が発生している」というニュースに寄せて,『アンネの日記』の一節を紹介しました。
 「アンネ・フランクとは」についても「ナチス・ドイツのユダヤ人迫害の犠牲になった少女」である等,ごく簡単に述べました。

 今回は,そもそも「ユダヤ人とは」ということを述べます。ほんの入門的な話です。でも,「こっそり常識を知る」にはいいかと。

 これを書いているとき(今日の午前中です),妻に「何しているの?」ときかれて,「ユダヤ人の歴史を書いている」といったら,「あんたは幸せな人ね」といわれました。「いいオヤジが興味のおもむくまま,好きなことをしている」というなら,たしかにそうです。

 ***

 まずユダヤ人とは,「ユダヤ教徒もしくはユダヤ教徒の親を持つ者」と考えればよいでしょう。要するに,ユダヤ人≒ユダヤ教徒。これには,ユダヤ人の生まれでなくても,改宗してユダヤ教徒になった人も含みます。
 また近年は,ユダヤ人の家に生まれ育ってもユダヤ教を信仰しない人も増えているそうですが,この定義だとそういう人も「ユダヤ人」ということになります。

 つまり,ユダヤ人とは「人種」や「血統」のグループではなく,宗教(やそれに付随する文化)における集団を指すのです。「ユダヤ人」といわれる人たちの肌や髪の色,顔だちや身体的特徴は,さまざまです。

 以上要するに,ユダヤ人とは「ユダヤ教の文化的伝統に属し,そこに自分のアイデンティティ(自分が自分であることの根拠)を自覚する人たち」と定義できるのではないかと思います。

 たとえ今現在はユダヤ教の信仰から距離をおいていたとしても,ユダヤ教徒の家の出身であれば,「ユダヤの文化への帰属」ということを,自分の中で大切に思っている人もいるでしょう。そういう人は,上の定義だと「ユダヤ人」ということになる。

 ユダヤ人は,世界各地に1000数百万人いるといわれています。
 特定の国をつくるのではなく,世界各地に分散していて,しかし全体として一定の「共同体」といえるつながりを持った集団であることが,その特徴です。

 ただし,第二次世界大戦後は,中東の一画に「イスラエル」という国を「ユダヤ人国家」として建設しました。このことについてはあとで述べます。

***

 では,ユダヤ教とは何か。

 ユダヤ教は,世界最古の(現在も続く)一神教です。今から2000数百年前に,今のシリア・パレスティナの地域で成立しました。

 一神教とは,「唯一絶対の神を信仰する宗教」のこと。その対義語は「多神教」です。仏教や日本の神道は,たくさんの神仏が存在する,多神教。

 一神教の代表は,キリスト教とイスラム教ですが,ユダヤ教は,これらの宗教の源流です。
 キリスト教(紀元1世紀成立)は,ユダヤ教から分かれて成立したといっていいですし,イスラム教(600年代成立)は,一神教としてのキリスト教やユダヤ教の考え方をベースにしています。

 今の世界で最も有力な宗教というと,キリスト教とイスラム教でしょう。それらはいずれも一神教であり,その源流をさまのぼるとユダヤ教に行きつくのです。ユダヤ教というのは,世界史のなかできわめて重要な存在なのです。

 ***

 ユダヤ人は,遠い古代(今から3000年くらい前)に遡ると,自分たちの国を持つ,典型的なひとつの「民族」といえる存在でした。古代のユダヤ人の王国は,今のパレスティナ地方にあり,一時期はおおいに繁栄しました。現在のイスラエルは,その地域に建国されているのです(それが大きな問題を生んでいることは後述)。

 ユダヤ教の原型は,その「ユダヤ人の王国」で生まれ,信仰されました。

 しかしその王国は,紀元前700年代には周辺の大国によって征服されてしまいます。その後も「古代のユダヤ人の王国」があった地域には,さまざまな大国が興亡していきますが,ユダヤ人はそれらの大国に従属する一集団として生きていくことになります。

 そして,従属・支配下に入っても,それぞれの時代の「大国」の主流に溶け込んで消滅することなく,ユダヤ教の信仰を維持したまま,「異端の集団」として存続していったのです。

 なぜ,ユダヤ人は「主流」に吸収されることなく,自分たちの独自性を守り続けたのでしょうか? 

 ひとつの視点として「ユダヤ教の教えが,古代の時代には最先端の高度な思想だった」ということがあるでしょう。一神教が「高度」というのは,現代において最も力を持っている宗教(キリスト教,イスラム教)が一神教であることからも,いえると思います。(なお,筆者は信仰を持たず,どの宗教とも無関係です)

 古代においては(のちにキリスト教があらわれるまでは),「一神教」は(ほぼ)ユダヤ教だけでした。あとの民族は,たとえばギリシア人もローマ人も多神教です。これは,宗教としては土俗的で「素朴」といえるものです。少なくともユダヤ人の目にはそう映ったはずです。

 ユダヤ人は「自分たちは,素朴な観念を乗り越え,高度の真理に到達した特別な存在である」と考えました。「選民(選ばれた民)思想」というものです。選民思想を持つ集団は,多数派に溶け込むことを拒否するものです。

 ***

 ユダヤ人が属した古代の大国の代表は,紀元1世紀ころから5世紀ころまで繁栄したローマ帝国です。ローマ帝国は,地中海全体を取り囲み,東ヨーロッパ・中東・北アフリカ・西ヨーロッパにまたがる超大国でした。

 キリスト教は,紀元1世紀に,ローマ帝国領の,ユダヤ教の中心地であるパレスティナ地方で生まれました。

 キリスト教は,ユダヤ教に反抗する一種の「宗教改革」として,ユダヤ教の「分派」のようなかたちで成立したといえます。だからユダヤ人は,キリスト教の「聖書」のなかでは,「イエス・キリストと対立し,迫害を加えた存在」とされています。これがのちにキリスト教徒によるユダヤ人差別の根拠となっていきます。

 ***

 「古代ユダヤ人の王国」が滅亡して以降,古代の大国・帝国のなかでのユダヤ人は,「非主流」「異端」ではありましたが,だいたいのところ,ひどい差別を受けることもなく,社会のなかでそれなりの地位を得ていました。

 しかし,西暦300年代末にキリスト教がローマ帝国の唯一の公認宗教になってからは,様子が大きく変わります(キリスト教は,ローマ帝国内に広がりはじめた当初は「異端の少数派」として迫害を受けましたが,その後勢力を拡大し,ローマ帝国の「国教」となったのです)。

 これ以降,ユダヤ人は,さまざまな権利をはく奪され,公職(国や地域での役職)からも追放されました。このあたりから「ユダヤ人への差別・迫害」の歴史が本格的にはじまったといえます。

 その後,ローマ帝国の繁栄は終わります。ローマ帝国の西半分(西ローマ帝国)が体制崩壊したり(西暦400年代),今の中東を中心にイスラム教の国ぐにが成立したりしました(600年代以降)。

 西ローマ帝国の跡地には,数百年かけて今のヨーロッパ諸国の原型が成立していきました。ローマ帝国の繁栄以後,つまり一般に「中世」といわれる時代のユダヤ人は,ヨーロッパ諸国とイスラムの国ぐにのなかで生きていくことになりました。

 そこでは,とくにキリスト教の世界であるヨーロッパでは,ユダヤ人は差別や迫害を受けることになります。社会で何らかの災害や不安が生じると多数派の人びとから暴力や略奪を受けることもくりかえされました。やや緩やかですが,イスラムの国ぐにのなかでも,ユダヤ人への差別や権利の制限はありました。

 すると,ユダヤ人の多くは「より迫害の少ない国や地域」を求めて動いていくことになります。
 ひとつの場所で安心して暮らしにくいので,そのような移動がくりかえされるわけです。ユダヤ人の大多数がひとつの地域にまとまって暮らすのも難しい。

 差別や迫害のなかでユダヤ人は,ヨーロッパやイスラム圏の各地へ離散していきました。

 ***

 その結果,中世末から近代初頭(1400~1500年ころ)までには,ユダヤ人がとくにまとまって住む2つの地域ができていました。

 ひとつは,東ヨーロッパのポーランドとその周辺。
 もうひとつは,スペイン・ポルトガルのあるイベリア半島です。ヨーロッパの東と西の端っこです。

 ヨーロッパやイスラムのほかの地域にも,ユダヤ人は散在していたのですが,以上の2つの地域には,とくにまとまって住むようになったのです。

 これは,これらの地域が中世においてユダヤ人の権利や立場を比較的尊重したからです。ポーランド王国は,商業の発展のためにユダヤ人を利用しようとしました(商業・金融とユダヤ人の関係は後述)。

 また,中世のイベリア半島はイスラムの王国に支配されていて,そこではほかのイスラムの国よりも,ユダヤ人への差別が少なかったのです。

 現代につながるユダヤ人の系統には,大きく2つがあるといわれます。
 そのひとつが,ポーランドなどの東ヨーロッパを中心に広がった「アシュケナージ」と呼ばれる人びと。
 もうひとつが,イベリア半島(スペイン)を中心とする「セファルディ」という人びとです。

 2つの系統は,中世における離散や移動の結果,生じたわけです。

 ただし,イベリア半島に関しては,その後状況が変わります。1500年ころまでにスペイン人とポルトガル人(いずれもカトリック)が,イスラムの勢力を追い出して,自分たちの王国による支配を揺るぎないものにしたのです。

 それ以降はユダヤ人への差別・迫害が強化され,多くのユダヤ人が別の土地へ逃れたり,カトリックに改宗させられたりしました。

 だから,「セファルディ」は,今はユダヤ人のなかでは少数派です。
 現代のユダヤ人の主流をなす多数派は,「アシュケナージ」の人びとです。

 今の私たちが一般にイメージするユダヤ人とは,アシュケナージのことだ,といっていいです。

 ***

 さらに近代以降は,アシュケナージの人びとを取り巻く状況も大きく変化します。

 1700年代末に,ポーランド王国が周辺の大国であるロシア,プロイセン(ドイツ),オーストリアによって滅ぼされ,分割占領されるということが起こったのです。

 それ以前にも,ユダヤ人はポーランドを根拠地としてロシアやドイツなどの周辺諸国にも広がっていたのですが,この「ポーランド分割」以降,ユダヤ人のロシア,ドイツなどへの拡散が進みました。

 ユダヤ人を尊重していた王国が崩壊して,ユダヤ人にとってポーランドは安住の地ではなくなり,そこにとどまる意味が薄れたからです。

 そして,1900年ころまでに,多くのアシュケナージが新興国アメリカ(あるいはカナダも含めた北米)へ移住するという動きもはじまりました。さらに,第二次世界大戦前夜(1930年代)の社会情勢(東ヨーロッパの政情不安や,ナチス・ドイツによるユダヤ人迫害など)によって,北米への移住はさらに増えていきました。

 アメリカ合衆国に移住して市民権を得たユダヤ人=ユダヤ系アメリカ人からは,実業界での成功者や高度の専門家・知識人などが多く出ています。アメリカの中で,ユダヤ人(おもにアシュケナージ)の影響力は非常に大きいのです。

 ということは,世界の中でのユダヤ人の影響力も大きいということです。

 ***

 今回はこのくらいにして,次回に続きを。
 もっと短くまとめるつもりでしたが,書きはじめると,つい長くなってしまいます。

 次回は,「ユダヤ人と近代社会」という視点で述べたいと思います。
 ユダヤ人は,アングロ・サクソンと並んで,近代社会をリードしてきた存在といえます。それはどういうことか?なぜそれが可能だったのか? そんなことを述べていきます。

(以上)
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テーマ:歴史
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年02月22日 (土) | Edit |
 昨日のNHKのニュースで知ったのですが,都内の複数の公立図書館で,『アンネの日記』などのアンネ・フランク関係の書籍,あわせて300冊ほどのページが破られるということが起きているそうです。

 新宿区,杉並区,中野区などの5つの区と,東久留米市などの2つの市で被害が出ているとのこと。

 手でちぎったようなかたちで,数十ページにわたって本が破かれている。

 誰がどんな意図で行ったのかわかりませんが,許されるものではない。
 犯人を早く捕まえてほしいものです。

 ***

 アンネ・フランク(1929~45)は,ナチスの迫害の犠牲になったドイツ系ユダヤ人の少女。

 第二次世界大戦(1939~45)のころ,ナチス政権下のドイツでは,「ユダヤ人迫害・虐殺」ということが行われた。そしてある時期からは,ユダヤ人を捕えては収容所に送り込む,ということになったのです。
(ユダヤ人とは何か,なぜそんなことになったのかは,ここでは立ち入りません)

 その迫害を逃れるため,アンネの家族は隠れ家に潜んで暮らしました。
 潜伏生活は2年に及び,アンネはそこでの暮らしや思索を日記に綴りました。
 これが『アンネの日記』。

 しかし,何らかの密告により隠れ家は発見され,アンネたちは強制収容所送りに。そして,アンネは収容所で亡くなってしまったのでした。1945年3月ころのこと(明確な日付はわからない)。15年の短い生涯でした。

 ***

 アンネの一家は,もともとはドイツに住んでいましたが,ドイツでナチスの政権が成立した1933年からその翌年にかけて,オランダのアムステルダムに移住しました。オランダは,ユダヤ人への差別や迫害が比較的少ない国で,お父さんがそこで新しい仕事を得ることができたからです。
 
 しかし,第二次世界大戦中の1940年にオランダはナチス・ドイツに占領され,オランダでもユダヤ人の迫害がはじまりました。
 
 その後,ユダヤ人への迫害がますます激しくなり,「ナチスは捕えたユダヤ人を強制収容所で虐殺している」という情報も流れてくるようになりました。

 そこで,身の危険を感じたアンネ一家は1942年からアムステルダム市内に「隠れ家」を確保して身を潜めるようになったのです。隠れ家は,アンネのお父さんの職場のあったビルのなかにありました。そこに「隠し部屋」をつくったのです。お父さんの会社の人たち(ユダヤ人ではない)などが支援してくれました。

 この隠れ家には,アンネ一家(父母とアンネと姉の4人)のほか,ユダヤ人の1家族(親子3人)と,1人暮らしの男性の計8人が暮らしました。

 アンネの日記は,ナチス当局が荒らしたあとの隠れ家で,アンネたちの支援者の1人によって発見され,大切に保管されました。そして,戦後になって一家のなかでただ一人生き残ったお父さん(オットー・フランク)に渡されました。それが出版され,世界的ベストセラーとなり,今日私たちが知るようになったのです。

 ***

 このニュースをきっかけに,本棚の『アンネの日記』(文春文庫版)を,少し再読しました。

 その中から,つぎの一節をご紹介します(深町眞理子訳)。

わたしは思うのですが,戦争の責任は,偉い人たちや政治家,資本家だけにあるのではありません。そうなんです,責任は名もない一般の人たちにもあるのです。 (アンネ・フランク)

 こういう認識に,中学生くらいの女の子が達している。
 閉ざされた空間,かぎられた情報や人間関係のなかで,考えたのです。

 大きな苦しみの圧力が,こういう思索を生んだのでしょう。
 
(以上) 
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2014年02月22日 (土) | Edit |
 昨日のテレビは,浅田真央選手のことをたくさん流していました。私はこの日休暇を取ったので,朝のワイドショーも,夜のニュースも観ました。

 私も浅田選手を親戚のオジさんのような気持ちで応援し,ショートプログラムの結果に落胆し,フリー演技に感動した1人です。

 キャスターやコメンテーターが「真央ちゃんよく頑張った」「笑顔で日本に帰って来てね」というのには,素直に共感します。
 夜のNHKの報道番組で,しんみりと話していた浅田選手のお姉さんが,やがて感極まって涙するのも「うん,うん」という気持ちでみていました。

 でも,そのあたりから「これ,まるでお通夜だな」と思うようになりました。

 みんなで集まって神妙な顔をして,浅田選手のこれまでの歩みを振り返り,「いい子だった」と涙する人もいる。
 これは,まさにお通夜でやることです。

 でも,じっさいの彼女は,3回転半ができるくらいピンピンしています。
 あと60年は生きるでしょう。
 彼女の人生は,これから。

 テレビの浅田真央特集が,なんだか奇妙な,ちょっと吹き出したくなる光景にみえてきました。 

 私は彼女のフリーの演技を生放送では観てないので,フルで観たかったのですが,なかなかそれは流してくれない(あとで観ましたが)。
 テレビで流れているのは,「お通夜」の様子ばかり。

 この土日でも,テレビでは浅田選手のことをたくさんやるはずです。
 それを「また,お通夜(あるいは告別式)をやっている」という眼でご覧になると,様子がちがってみえてくると思います。

(以上)
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テーマ:思うこと
ジャンル:学問・文化・芸術
2014年02月21日 (金) | Edit |
 ライブのチラシ

 昨日の夜は,ジャズとブラジル音楽のライブを聴きに吉祥寺に行ってきました。
 会場は「Strings」というお店。

 私は,音楽はあまり聴きません。積極的にCDを買ったりダウンロードすることは,ほとんどありません。音楽に興味がないわけではないのです。でも,「そこまで手が回らない」「本を買うので精いっぱい」と思って,若いうちからその方面には手を出さないできました。

 コンサートに行ったのは,これまでの人生で20数回くらいでしょうか。あれ,結構行っていますね……でもそのうちの半分が,妻が大ファンである,SMAPのコンサートです……。

 そんな私が今回出かけたのは,友人のベーシスト・西脇慎二さんの演奏を聴くためです(上の画像は,ライブのチラシ)。

 西脇さんとは,数年前の浪人(失業)時代に知り合って,以来ときどき飲んでいる仲。

 知りあったときは,お互い失業中の身でした。そういうことでもないと,知り合えなかったかもしれません。失業者になると,ミュージシャンの友だちができたりして,世間が広がることもあるわけです。 

 ***

 会社の仕事を早々に切り上げ,ライブ開始の1時間ほど前に吉祥寺に着いたので,街を少しブラブラしました。

 吉祥寺は,この10年で数回来ただけですが,歩くたびに「たのしげな,すてきな街だ」と思います。

 多くの人が「住みたい」というのもわかります。
 私が住む,多摩ニュータウンにはない世界があるのです。

 横丁の飲み屋さんもあれば,今どきなカフェもあり,ファッションビルが複数あり,さまざまな趣味の専門店があり,私の好きな書店は大書店もあれば個人経営の素敵な店もある……住宅地のそばに,そんな街ができている。井の頭公園もある。

 それから,東急デパート吉祥寺店も,昭和の古きよきデパートの雰囲気が残っていて,「いいな」と思います。
 日曜日に行くと,おしゃれなお嬢さんとお母さんが,いっしょに素敵なバッグを選んでいたりする。一昨年にトイレを借りにこのデパートに入ったとき,そんな光景をみました。

 昔はこのような,ほどよい大きさのデパートが各都市にあって,栄えていたのですが,多くが消えてしまったはずです。でも,ここにはそれがまだ,それなりに活気ある状態で残っています。

 私は,腹ごしらえをしようと,こぎれいとはいえない中華屋さんに入って,肉もやしそばとギョーザと生ビールを注文。しめて1100円ほど。安くてうまい。こういう店も「ニュータウン」にはないなあ……

 ***

 ライブ会場のStringsは,吉祥寺駅から数分ほど。イタリア料理やお酒をたのしみながら,演奏を聴くお店です。
 中心街から少し外れたところですが,その周辺にもいろんなお店が並んでいます。
 
 20~30人でいっぱいになる小さな空間。小さなスペースにボーンとグランドピアノが置いてあったり,「狭くてたのしい」感じがあります。

 19時30分。3人のミュージシャンによる演奏がはじまりました。
 今回の演目は,ジャズとブラジル音楽の,よく知られた曲が中心なんだそうです(でも私は,どの曲も知りません)。

 ところで,「ジャズ」はともかく,「ブラジル音楽」っていわれて,みなさんイメージわきますか?
 たいていの人は「リオのカーニバルで踊っているときの曲」みたいなのを思い浮かべるのでは?
 
 ああいうのもたしかに「ブラジル音楽」なんですが,それはある一面に過ぎません。
 
 ブラジル音楽というのは,さまざまな顔をもつ,高度に発達した「音楽の大陸」です。
 たとえば「ジャズ」と比較しうるような(しかしそれとは異質の体系をもつ),大きな世界をかたちづくっているのです。
 ジャズがそうであるように,ブラジル音楽の世界にも,高度な技巧や構想力を備えた,偉大な作曲家やミュージシャンがきら星のごとくいる,ということです。

 しかし私たち日本人の多くは,そういう大きな音楽の世界があることを,ほとんど知らないわけです。私も,西脇さんから教えてもらうまでは,そうでした(今もよくわかっているわけではないですが)。

 ライブは2部構成。第1部はジャズを中心に。第2部はブラジル音楽中心。
 
 生の音は,やはり迫力があります。ズンズン響いてきます。
 ウイスキーを飲みながら,私も気持ちよくなっていきました。

 音に包まれている感じに,ほんとうになります。
 目の前に「色」や「像」も浮かんできます。ジャズのときは渋いモノクロな感じの像が,ブラジル音楽のときは,もう少しカラフルな色彩がみえてくる……
  
 音楽が好きな人は,こういう気持ちのよさを味わいに,ライブに足を運ぶんだろうな……

 お店の中で,スーツにネクタイの「サラリーマン」は,私だけ。
 ちょっと場違いなところに行ったのかもしれません。でも,世界が広がる感じがして,いい体験でした。

(以上) 
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2014年02月19日 (水) | Edit |
 もう今日も終わりなのですが,2月19日は地動説の提唱者コペルニクスの誕生日です。
 そこで,彼の「四百文字の偉人伝」を。400文字程度で古今東西の偉人を紹介するシリーズ。

コペルニクス

データだけで新発想は生まれない

 「地動説」(太陽中心説。地球は太陽のまわりを回っている)を提唱したニコラウス・コペルニクス(1473~1543 ポーランド)。彼はどうして地動説を考え出したのでしょうか? 単に「星空を観測しているうちに」というのではありません。
 当時の通説だった「天動説」(地球中心説)は,大きな問題をかかえていました。
 進歩を重ねていた天体観測のデータが豊富になるにつれ,既存の天動説では説明のつかないことがいろいろ出てきました。そのつど,新しいデータとつじつまを合わせるため,天動説にはさまざまな手直しがほどこされていたのです。
 そのような手直しを積み重ねた結果,天動説はすっかり「複雑怪奇」なものになっていました。
 コペルニクスは,「ほかの考えはないか」と過去の文献を探しました。
 そして,古代の書物で「地動説」の考えを知り,そこから自説を築いていきました。地動説で考えると,天動説よりもはるかにすっきりとした宇宙の姿が浮かび上がってきたのです。
 新しい発想は,データだけでは生まれません。問題意識を持って先人の遺産をヒントにしていくことが大切です。
 さらに言うと,「過去にとらわれない新鮮なアタマで考える」というだけでもダメです。「過去のアイデアや議論についてある程度は知っている」ことも,革新には必要なのです。でも,過去を知りすぎて,それで発想が固まってしまってはいけないということです。

板倉聖宣著『科学と方法』(季節社,1969)による

【ニコラウス・コペルニクス】
地動説の提唱者。聖職者(司教の秘書官)と医師の仕事をしながら天文学を研究。地動説は聖書に反する危険思想だったので,彼はその公表をためらい,主著『天球の回転について』の刊行は亡くなる直前だった。
1473年2月19日生まれ 1543年5月24日没

***

 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
 その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)
                     
四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
秋田総一郎

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(以上)
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2014年02月16日 (日) | Edit |
 ソチ五輪で,銀メダルに輝いたスノーボード・ハーフパイプの平野歩夢選手。
 テレビ報道で,彼をよく知る人が「基本を徹底的に繰り返し,チェックを重ねる練習をしていた」ということを言っていました。

 「基本の徹底重視」――私も,どんな分野でも大事なことだと思います。

 だから「平野選手さすが」と思うのですが,ほかの選手ならともかく,15歳の,いかにもイマドキの若者という感じの人がそうだというのが新鮮で,意味深いと思いました。

 日本のスポーツ界のなかで,「世界レベル」に達していない分野は,たいていは「まだ基本ができていない」のだと,私は勝手に思っています。

 サッカーでたとえれば,ボールの蹴り方の基本とかができていない,という感じです(日本のサッカーがそうだといっているのではありません。私にはそこはわかりません)。

 「お家芸」といっていた競技が衰退していくのも,おそらく「基本の軽視」がかかわっている。
 たとえば柔道がそうなっていかないか,心配です。

 基本は大事。
 でも問題は「何が基本か」ということ。

 「基本」は,ただの「初歩」というのともちがう気がします。

 それを身につけることで,さまざまな展開が可能になる,一種の「土台」のようなものだと,私はイメージしています。

 基本を無視するのは,論外。
 でも,的外れな「基本」をたくさん練習しても,高いレベルには上達しない。

 平野選手は,「基本」の名に値する何かについて,深く知ることができたのです。すぐれた指導者に恵まれたのでしょう。
 
(以上)
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テーマ:思うこと
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2014年02月15日 (土) | Edit |
 「耳が聴こえない」という,例の交響曲の作曲者には,じつは「ゴースト」の作曲者がいたという話。
 私も,この人の仕事にとくに関心を持っていたわけでもないので,漫然と疑いも抱かずみていました。

 何年か前に,彼がテレビで「障害でいつも頭がガンガンしているが,ときどき分厚い雲の隙間から光が差すように,かすかに音が降りてくるときがある,それをとらえて作曲している」なんて言っていたのには,「そういうこともあるんだ,感動的なこと言うなー」と,ちょっと感心しました。

 でも,本人も認めるように,「大嘘」をついていたわけです。彼を称賛してとりあげてきたNHKなどの報道関係者は,本当に情けない気持ちだと思います。

 この事件で私が思い出したのは,10年余り前の,ある「大嘘」発覚事件。

 ある著名なアマチュア考古学者が,自分がよそで掘った石器を遺跡にこっそり埋めて,自分で掘り起こしてみせようとするペテンを行ったのです。新聞社が設置した無人カメラが,その「犯行現場」をとらえました。2000年の夏に起こった事件です。

 この「考古学者」は,それまでに数々の大発見をして,「神の手」を持つといわれていました。しかし,そのインチキの発覚で,まさに全てを失いました。そして,それまでの「発見」の多くが「ねつ造」であった(もしくはその疑いがある)ことも,明らかになっていきました。

 科学や学問の歴史には,こういう奇怪な「ねつ造」というのが,この件のほかにいくつもあるのですが,ここでは立ち入りません。

 ***

 以上の「ニセ作曲家」と「ねつ造考古学者」の話の共通点に,
「あまりにヒドい大嘘は,ときどきまかり通ってしまう」ということがあると思います。

 私たちの多くは,正直な小心者です。だから「大嘘」を前にしても「そこまでのウソをつく大胆な人はいないだろう」という前提で,なんとなくうのみにしてしまうことがあります。NHKの番組製作者でさえ,そんな風になってしまう(それではいけないはずですが)。

 「大嘘」をついて人前で堂々としていられる人間の心理は,凡人には想像がつきにくい。

 これが,「嘘つき」をのさばらせるわけです。「嘘つき」も,だんだんその気になってきて,自分が本当のことを言っているような気にさえ,なってくるのです。だって,みんな信じてくれるんだもの……

 そして,「大嘘」をつく人間が,いろんな意味で魅力的だと,信じてしまう傾向がさらに強まります。

 格好いい,美人である,人が好さそうだ,可憐である,威厳がある,明るく楽しげである,実直そうだ,ハンデを負っている,苦労人である,純真そうな子どもだ,権威あるエリートだ……

 あるいは,これまでのつき合いで誠実であった,周囲からの評判がいい,自分に親切である……

 そういう要素を備えている人間がついた「大嘘」を,私たちは信じてしまいがちです。「信じたくなる」といったらいいでしょうか。

 実際,上記のような「感じのいい,魅力的な人たち」を信じることは,たいていの場合まちがっていないのです。世の中は,本来はそんなに捨てたものではない。だから,話がややこしくなる。

 今回の「ニセ作曲家」だって,かなり魅力的な容姿だと思います。「本当の作曲者」と比べたら,とくにそうです。2人の役回りがもしも逆だったら,これほど長期にわたって世間がダマされ続けたかどうかわかりません。

 ***

 そして,もしも「大嘘」が力を持って世間に流布してしまったら,あとで多くの人が傷つくことになります。

 例の「ねつ造考古学者」のときは,彼が過去に関わった何十という遺跡の発掘研究が「信用できないもの」とされてしまいました(彼以外にも多くの人が関わったのに)。とにかく,考古学界全体が大きなダメージを受けた,といっていいでしょう。

 今回の「ニセ作曲家」の件も,「傷」がいろんなところで発生するでしょう。

 たとえば「(じつは聴力があるという)彼を障害者と認定したことは正しかったのか?」「正しくなかったとしたら,誰の責任か?」といったことがすでに問題になりつつあります。

 彼の住む街の市長が,その「障害者」の認定について,「不正であれば,相応の対応を取る」といったことを会見で述べたりしているのは,そういうことです。それが重要なことかどうかは別にして,そんなことにも「飛び火」するわけです。

 多くの人に多大な迷惑やダメージを与える今回のような「大嘘」を,私たちはもっと憎んでいいのでは,と思います。そして,できれば少しだけでも「大嘘」への免疫を持ちたいものです。

(以上)
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2014年02月15日 (土) | Edit |
ベランダからみた雪景色
ベランダからみた今日の景色

 先週に引き続き,昨日今日と私の住む東京は大雪でした。交通も大混乱。

 先週末に「雪だし,やめておこう」となった遠出や買い物を,今週末もやめることにしました。今日出かけるとしても,近所のスーパーくらいでしょう。

 こんなふうに雪に閉ざされる感じで行動範囲が狭くなると,「近所だけだと,買い物などの選択肢はきわめて限られている」と実感します。

 いつものお店のいつもの品,いつもの本屋のいつもの棚,いつものコーヒーショップのいつものメニューなどを超えて,すぐに何かが欲しいと思っても,それはムリなわけです。ネット注文できるかもしれませんが,時間がかかります。

 普段なら,その気になれば電車に乗って30分ほどで都内の繁華街に出ることができます。そこへ行けばぼう大な「選択肢」があるわけです。

 でも,「すぐに都会に出られる自由」に制約がかかると,郊外で暮らす今の暮らしが,ちょっとちがってみえてくる。

 高齢や健康状態などのせいで,普段の行動範囲が限られてしまう人は,毎日の暮らしの「選択肢の少なさ」をつよく感じているのかもしれない……そんなことも思います。

 ここで,何年か前に読んだ,北海道の小さな町で民宿を営むご夫婦を紹介する新聞記事(新聞の付録のフリーペーパーの記事)を思い出しました。

 民宿の奥さん(当時38歳)の言葉が印象的だったのです。抜き書きしていたので,ご紹介します。奥さんは,もともとは大都市で暮らしていたのだそうです。

《毎日の作業は一緒。買い出しに行くスーパーも同じ。都会だとたくさん店があって,電車やバス,自転車で行こうか悩み,着ていく服も変わる。毎日数え切れない選択をしていたんだなあって。選択肢がないから迷えないし,迷わない今の単純な生活,私は嫌いじゃないです。》

北海道・比羅夫にある「駅の宿ひらふ」の奥さん・南谷敦子さんの言葉。
『THE NIKKEI MAGAZINE』2009年2月15日より
 

 たしかに,北海道の田舎のほうだと,そういうことなのでしょう。
 秋田県の田舎に住む私の義理の父母の毎日も,似たところがあります。

 この記事を読んだとき,「たしかに〈選択肢の少ない,迷わない暮らし〉も悪くないのかも」と思いました。

 でも,今回のように少しだけ「雪に閉ざされる」感じを味わうと,「選択肢が少ないのは,やっぱりつまらない」という気持ちにもなります。
 
 普段はあれこれ考えずシンプルに暮らすのはよいとしても,その気になればいつでも「ぼう大な選択肢」のあるところへ出て行ける,そういう「自由」のあることが大事なのかも……自分にとってはそうなのかなあ……

 いずれにせよ,雪が降ったせいで,今の自分の暮らしについて少し考えなおしてみたのでした。

(以上)
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2014年02月13日 (木) | Edit |
 今回は「そういちカレンダー2014」の2月の記事から。
 以前,今回の記事の2~3倍の長さでアップしていたのを,カレンダー用に短くしました。

 関連記事:5分間の世界史 インドカレーの歴史

 この記事は,私としてはかなり手ごたえがあり,読者のみなさんにも好評でした。
 それを書きなおしたのです。 

 短くすることで,損なわれるものはもちろんあるのですが,一方で内容がより鮮明に・シャープになるという面もあります。
 自分の書いたものを大幅に短く書きなおしてみるというのは,興味深い体験です。たいていのことは,うんと短く書いても表現できるのだとわかります。よい文章修業になります。


インドカレーの歴史

 インド人はいつからカレーを食べていると思いますか?
 
 【選択肢】
 ア.今から3000年ほど前 イ.1000年ほど前 ウ.500年ほど前 エ.200年ほど前

 カレーとは「唐辛子・ターメリック・クミン等々の香辛料と肉や野菜などの具を煮込んだ,濃厚なスープ」と定義しておきます。

 ***

 現在のインドカレーの基礎ができたのは,1500年代のこと(正解ウ)。
 ただし,ここでカレーとは,「唐辛子入りの辛いカレー」です。

 1500年代にポルトガル人が持ち込むまで,インドに唐辛子はありませんでした。

 唐辛子はアメリカ大陸の原産で,ヨーロッパの船が世界を行きかう「大航海時代」になって,初めてインドに伝わりました。それ以前にも,さまざまな香辛料を使ったカレーに似た料理はありましたが,唐辛子がないのでそれほど辛くありません。

 また,インドのカレーには鶏肉・羊肉がよく使われます(豚肉・牛肉は宗教上のタブーであまり使われない)。じつは肉食の一般化も,インドでは1500年代以降です。

 つまり,騎馬遊牧民(草原地帯で馬を乗りまわし,羊などの家畜を育てる人びと)の一派であるムガール人が1500年代にインドに攻め入って,インドを支配するようになってからです。
 騎馬遊牧民は家畜の肉を食べるので,ムガール人がインドに肉食を普及させたということです。

 インドは古い伝統を持つ大国です。だから,その代表的な料理のカレーは,インド人が古くから独創的につくっていたと思いがちです。
 でも,インドカレーはさまざまな国の文化を融合したもので,その原型が固まったのは数百年前。

 つまり,多くの異文化の影響を受けながら,その国の文化はつくられるのです。
 自国の文化の何もかもを,独自につくり出すというのは,ありえないのです。

 (コリンガム『インドカレーの歴史』より)

  カレーを食べるガネーシャ

(以上)
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2014年02月09日 (日) | Edit |
 豪雪の朝
 
 昨日は,私の住む東京地方も,久々の大雪。
 みなさんいかが過ごされたでしょうか。写真はベランダからみた今朝の風景。

 最近,インターネットの回線の不具合で,接続が不安定です。
 業者に問い合わせ,対応することになっていますが,回復に1~2週間かかるかもしれません。
 接続が不安定だと,なかなかまとまった記事が書けません。
 今,たまたま回線の具合がよいようなので,急ぎ下記の記事をアップしました。

 「つながらない」状態になってみると,自分にとってネットがいかに大事なものであるかがわかります。

 私は,自宅のADSL回線だけでネットに接続しています(モバイルはやっていない)。
 それがダメになると,ブログの更新はもちろん,人との連絡も,ちょっとした調べものもできなくなる。
 最近は,ブログ上に自分のアウトプットのかなりの部分を置いているので,それを参照することもできない。

 10年近く前に,パソコンの故障で1週間くらい自宅でインターネットができなかったときがありましたが,こういう不自由な感じはありませんでした。しかし,今はちがう。

 それでも,このあいだにワープロで記事や原稿を書いたりしようとも思っています。
 オフラインだと,気が散ることなく集中できるはず。

 今日,ある資料をワープロでつくったのですが,まさにそうでした。
 90年代のころは,こんなふうに「つながっていないワープロ(オアシスとか)」で書いてたよなあ……機能はかぎられていたけど,あれはあれでシンプルでよかったなあ……

 イライラしましたが,これはこれで「じっくり書く機会」だと思うことにしましょう。 

 ***

 2月11日は,発明王エジソンの誕生日。エジソンは建国記念日の生まれなんですね。そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。400文字程度で古今東西の偉人を紹介するシリーズ。

エジソン

発明家の限りない欲望

 発明王トマス・エジソン(1847~1931 アメリカ)は,蓄音機や電灯などの数多くの発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。
 「発明は,お金にならないとダメだ」というのが,彼の信条でした。「お金になる」というのは,世の中のニーズがあるということです。
 だいじなお金を支払う価値のある発明によって「人びとの笑顔」を生み出すこと。それが,彼の求めたことなのです。
 そして,その「笑顔」を際限なく求め続けました。
 彼は,数々の発明で得た巨額の利益を,つぎの発明の研究につぎ込みました。そして,研究所に泊まりこんで仕事に没頭する――そんな生活を何十年も続けたのです。
 エジソンにとって「発明でお金が入る」ことは,「人びとの笑顔」の証であり,「つぎの発明の研究資金を得る」ということでした。
 彼ほど「発明家の限りない欲望」というものをあらわしている人はいないでしょう。

参考:浜田和幸著『快人エジソン』(日経ビジネス人文庫,2000),名和小太郎著『起業家エジソン』(朝日新聞社,2001)

【トマス・エジソン】
電気の時代を開拓した発明王。小学生のとき学校教育から落ちこぼれ,母の教育と独学で科学・技術を身につける。おもな発明は,蓄音機,電灯,映画,謄写版,蓄電池,アルカリ電池,電話(の改良)など。
1847年2月11日生まれ 1931年10月18日没

 ***

エジソン2

「ハロー」という言葉の発明

 「ハロー」という英語のあいさつは,1880年代にはじめて辞書に載るようになった,比較的新しい言葉です。この言葉をつくったのは,じつはエジソンなのです。
 エジソンは,「電話機の発明者」として有名なベルより少しだけ遅れて(1877年),別個に電話機を完成させた1人でした。
 発明されたばかりの電話で,「最初に話しかけるときに適当なあいさつの言葉があると便利だ」と彼は考え,「ハロー」という新語をつくったのです。当時はまだ,電話の呼びかけの言葉は「用意はいいか」「誰かいるか」など,ばらばらでした。
 しかし「ハロー」は,「簡単で響きもいい」ということで普及していきました。そして,電話のときだけでなく,気軽に声をかける際のあいさつとして,世界中に広まっていったのです。
 発明王は,機械だけでなく,「それを使いやすくするノウハウやソフト」を発明する能力も抜群でした。

浜田和幸著『快人エジソン』(日経ビジネス人文庫,2000)による。

 ***

 「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝
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四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
(2013/02/04)
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2014年02月07日 (金) | Edit |
【今月の名言】(そういちカレンダー2014より)
マザー・テレサ(カトリック修道女,慈善事業家,1910~97)

釣り道具も持てないほど
弱っている人を助けているのです。


 インドの大都市の,貧しい人びとが住む地域で,困窮した人たちを支援していたマザー・テレサ。

 彼女にある人が「魚を与える(施しをする)よりも,魚の取り方(自立の仕方)を教えては?」と言いました。それに対し,彼女が言ったのが,この言葉です。

 「魚の取り方=自立の仕方」を教えるのは,たしかに大切。
 でも,それがあてはまらないこともある。

 彼女は「貧しい人の中でも最も貧しく,弱っている人」のために働きました。

魚を与える

(以上)
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2014年02月06日 (木) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの71回目。
 2013年11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

 今回で一応最終回です。最後まで書ききったつもり。
 でも,「補論」などは,ときどき書くつもりです。

 このシリーズでは,「よい先生をみつけ,徹底的に学ぶ」ことを重視してきました。
 どんな分野でもいいから,学者,思想家,作家,アーティストなどで「これは!」という人をみつけ,その人の仕事を追いかけよう。それがすべてのはじまりだ,と述べました。それをふまえての最終回。 


いつか,先生から離れるときがくる。

 熱心に読んできた先生の本なのに,手に取ることが少なくなるときが,いつかやってきます。私の場合,十年あまりでそうなっていました。

 先生が新しい著作を発表されれば,もちろん買って読みます。でも,学び始めたころのように,一冊読むたびに新しい世界がひらけてくるようなことは,もうありません。そこにあるのは,親しんできた世界であって,何が書かれているか,ある程度は予想できるのです。

 だからといって,もちろん「先生のすべてをマスターしてしまった」などということはありません。「先生の発想の基本的な部分を,ある程度理解できた」ということにすぎません。先生の本を読むことで到達できるのは,そこまでです。

 もっと先へ進むには,どうしたらいいでしょうか?

 今までは,先生がみつけ出した問題を,先生が解くのを見ていました。そうやって,問題のみつけ方や解き方を学んでいたのです。先生の話を聞いたり本を読んだりするというのは,そういうことです。

 今度は,自分で自分の問題をみつけ,自分で解くことです。
 それを,先生から学んだやり方でやってみることです。

 先生の解いてきた問題と私の問題とは,あたり前ですが別個の問題です。先生の本をみても,私の問題の解答は出ていません。

 先生をより深く理解するには,「先生の言ったことを知る」だけでなく,どんなにささやかでもいいから,かつて先生が行ったように「自分の興味ある問題を自分で解いていく」ことを経験していくしかありません。

 今の私は,そのへんのところで試行錯誤しています。歩みが遅いせいで,学び始めてから随分と時が経ってしまいました。でも,ここからが本当に面白いところです。

 誰でも,いつか先生から離れ,「自分の問題」に向かうときがやってきます。そのときが,楽しみです。

(おわり)
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2014年02月03日 (月) | Edit |
 2月4日は,ニューヨーク~パリ間無着陸飛行のリンドバーグの誕生日。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。


リンドバーグ

余計なものをそぎ落として挑む

 チャールズ・リンドバーグ(1902~1974 アメリカ)は,1927年に,ニューヨークからパリまでを飛行機ではじめて無着陸で横断することに成功しました。
 それまで,ニューヨーク~パリ間の無着陸飛行には,何人かの飛行家が挑戦しましたが,テスト時や本番飛行中での事故があいついで失敗していました。それらはたいてい,何基ものエンジン(プロペラ)を積んだ大型機に,複数のパイロットが乗り組んだものでした。
 リンドバーグは,ちがう方法を選びました。
 「エンジンがひとつの小さな飛行機で,1人だけでいこう」というのです。
 周囲の人の多くは反対でした。しかし,「エンジンが増えても,そのぶん故障のリスクが増すだけだ」と考えたのです。そして,33時間余りを1人で操縦して,みごと成功したのでした。
 このように「余計なものをそぎ落として必要な道具だけで行い,最後は1人でやり抜く」という姿勢は,冒険に挑むときだいじなことではないでしょうか。

リンドバーグ著・佐藤亮一訳「翼よ,あれがパリの灯だ」『世界ノンフィクション全集3』(筑摩書房,1960)による。

【チャールズ・リンドバーグ】
 はじめて二ューヨーク~パリ間の無着陸飛行に成功した飛行士。この無着陸飛行については,1919年ある事業家が初成功に巨額の賞金を出すと宣言。リンドバーグは奔走してスポンサーをみつけ,挑戦した。
1902年2月4日生まれ 1974年8月26日没

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四百文字の偉人伝四百文字の偉人伝
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(以上)
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2014年02月01日 (土) | Edit |
 従来よりも簡単な方法で,医療などへの応用の可能性がある「万能細胞」をつくることにマウスで成功した……世間をにぎわせている「STAP(スタップ)細胞」の話。
 
 医療への応用だけでなく,私たちの生命観(生命とはどういうものか)にも影響を与える研究でしょう。
 だからこのニュースは,私のような一般人の関心をひくのだと思います。

 「オレンジジュースくらいの弱酸性の液」に30分浸しただけで,これまで「あり得ない」とされていた変化が細胞に起こる。
 つまり,「哺乳類のような高等生物では,一度さまざまな臓器や組織に育った(分化)した細胞は,育つ前の未分化な状態(万能細胞)には戻らない」とされていた。「細胞の時計の針は戻せない」というわけです。でもじつは,かなり簡単な刺激で「時計の針を戻せる」ということがわかった。
 
 生命って,思っていた以上に柔軟なんだ。
 でも一方で,オレンジジュースを飲んだくらいで身体のどこかに万能細胞がどんどんできたりはしないようだから(?),安定的でもある……面白いね。

 そしてもうひとつ驚くのは,「そんなこともまだわかっていなかったのか」ということ。

 何年か前に「傷口は,じつは消毒しないで水で洗い,ラップなどで覆って乾かさないようにしたほうが治りが早い」というのが「新しい定説」だと知ったときと,似た感じがあります。もちろん,話のスケールは大きくちがいますが。

 科学では,このような「そんなこともまだ……」という話が,これからもあるでしょう。

 私はいわゆる「文系人間」ですが,こういうニュースって胸がおどります。
 科学者の伝記を読むことや,「科学と文明」「歴史のなかの科学」などといったことを考えるのが好きだからでしょう。

 この研究を主導した小保方(おぼかた)晴子さんは,理化学研究所という機関の研究者だそうです。

 この研究そのものについてのさらなる解説は,ほかの方におまかせします(私がそれをしても仕方ない)。ここではその「理化学研究所」について少し。

 ***

 理化学研究所は,ホームページをみると,3000数百人の研究者・職員がいて,年間予算は800数十億円という大きな組織です。本部は埼玉県にある。

 「理化学研究所」を略して「理研」などといわれます。

 ではこの研究所は,国立の研究所なのでしょうか? それともどこかの企業などがつくった,民間の研究所? あるいは大学の研究所?

 理化学研究所は,「民間が主導してつくり,政府の予算や指導も入っている研究所」です。
 大学の研究所ではなく,官と民の中間のような性格があります。

 今の法的な位置づけは「独立行政法人」というもの。
 これが「政府から一定の独立性を有しているが,政府も関与する」ということです。なお,今の国立大学は「独立行政法人」の一種です。

 理化学研究所では,さまざまな科学や技術の分野で,基礎研究から産業に直接役立つ応用研究まで幅広く行っています。そのような「幅広い分野で,基礎から応用まで」という科学研究所は,日本では理研だけだそうです。

 ***

 理研の創設は,大正6年(1917年)のこと。第一次世界大戦(1914~18)の時代です。

 このころ,「科学研究は産業や軍事の技術にとって非常に重要だ」ということが認識されるようになりました。
 今ではあたりまえのことなのですが,その「常識」が成立したのは,今から100年くらい前のことなのです。この時代の人びとが,科学技術や産業の力がものいう大規模な戦争を経験したことは,大きく影響しています。

 そんな「科学技術」の研究には,大きな予算や組織が必要です。しかし,理研以前の日本の科学研究は,おもに大学で行われていましたが,そこでは大きな予算を立て,組織だって研究するという発想がほとんどありませんでした。
 
 そんな中,高峰譲吉(アドレナリン発見者)や渋沢栄一などの科学界や財界の先覚者が「国民的な科学研究所」の構想を唱えました。欧米の先進的な研究所の事例が,その発想の元になっています。

 しっかりとした組織と予算を持った,科学と技術の総合的な大研究所。
 とくに産業・軍事への応用といった課題に,積極的にこたえていく。

 その構想を政府も採用して,政府の予算と財界・民間からの寄付によって,理化学研究所は「財団法人」として創設されたのです。
 このような本格的な科学研究所は,日本では理研がはじめてでした。

 理研は,戦前の一時期「科学者の楽園」といえるような,黄金時代を築きました。

 1921年(大正10)に第3代の所長に就任した大河内正敏は,その立役者でした。

 所長に就任したときの大河内は,42歳。「封建的」な年功序列で凝り固まっていた当時の日本社会の中で,理研という大組織のトップになるには異例の若さでした。その具体的な背景・事情は割愛しますが,当時の日本の一部には,そういう人事を実現する見識や活力があったということです。

 大河内は,組織改革を行い,研究者の自由裁量を大きく認める研究制度を採用しました。これによって,活動的で能力のある若手・中堅の研究者がおおいに活躍することができ,すぐれた研究成果がつぎつぎと生まれたのです。

 とくに,「金になる研究」を生み出したのは,特徴だったといえます。
 「世界を大きく変える」とまではいきませんでしたが,社会のニーズに応える技術開発を,理研はいくつも行いました。

 タラの肝油からビタミンAを抽出する技術をもとにつくったサプリメントは,そのような研究開発の最初の事例でした。そのほか,工作機械,マグネシウムや合成ゴムなどの素材,合成酒……理研で生まれたこのような発明を製品化して売り出す企業集団もつくられ,「理研コンツェルン」と言われました。

 理研コンツェルンが稼ぎ出す利益などで,理研はうるおいました(設立当初は財政難で苦しんだのですが)。その潤沢な予算を使って,科学者たちは自由な研究ができる……

 その後,昭和の戦争の時代になって,軍国主義への協力ということが,理研のなかで重要になっていきます。
 陸軍の要請を受け,原子爆弾の研究も行いました。
 
 敗戦後は,米軍の圧力によって理研の解体が行われます。「軍国主義に加担した研究機関」とされたのです。
 戦後まもなく,財団法人理化学研究所は解散となりました。
 
 そして,一時期は「株式会社科学研究所」というかたちで(政府の予算を受けない,一民間企業として)どうにか存続する,という時代がありました。

 それが,日本が独立を回復した1956年(昭和31)に,政府の出資を再び受けるようになり,1958年(昭和33)には,「特殊法人理化学研究所」として新たに発足します。これが,現在に直接つながっているといえます。そして,関連法令の改正などをふまえ,2003年(平成15)に,現在の独立行政法人になったのです。

 ***

 以上は,板倉聖宣『科学と社会』(季節社)所収の理化学研究所に関する論文や,宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所』(日経ビジネス人文庫)などを読み返したり,理研のホームページやウィキペディアをみたりして書きました。

 最近の理研がどのような研究体制なのか,科学者にとってどのような組織なのか,私は知りません。
 
 ただ,「研究者の多くが1年単位の契約で,更新にあたっては厳しい業績の査定がある」といったことが,ネット上にありました。大学とも,国立の研究機関とも,大手企業の研究所とも異なる,独特の雰囲気があるのかもしれません。それが「科学者の楽園」といえるのかどうかは,わかりませんが……

 いずれにせよ,「STAP細胞」という,批判的な科学者に「これまでの細胞生物学の歴史を愚弄するのか!」とまで言わせた独創的な業績が,この理研から生まれたわけです。

 あるいは,そのような研究を生んだ小保方さんのような人材に活躍の場を与えたのが,理研だったということです。

 この組織には,これから注目や評価が集まるでしょう。
 どのくらいかはわかりませんが,もっと注目されるはず。
 理研について踏み込んだ一般向けのレポートなども,じきにあらわれるのでは?

 1920~30年代のような「理研の黄金時代」が,これからまたやって来たりして。
 最新のニュースでは,理研はSTAP細胞がらみの特許をすでに申請しているとのこと。

 ***

 小保方さんの歩みや,その研究を前進させた(あるいは邪魔した・無視した)組織や人の話は,「今の科学にとって大事なことは何か」を考えるうえで大事な材料になるはずです。

 もちろん,今後の展開も「科学と社会の関係」「科学研究を進める組織」などについてのいろんな問題を提起することになるでしょう。

 たとえば,バッティングする先行研究であるiPS細胞とのせめぎあい。
 あるいは,この研究が今後実用化・産業化していくときに,日本の政府や経済界は,そして科学者たちはうまく対応できるのか。アメリカあたりに先をこされてしまわないか。
 そのあたりで,残念なことにならないように……

 大正時代に理研の創設に関わった,日本の政財界や科学者は,当時としては先進的で創造的な対応をしました。今の私たちも,そうでありたいものです。一市民として,そう思う。
 
 あと,やはり割ぽう着はこれから流行るかもしれませんね。
 「リケジョ」よりも,ふつうの主婦や海外の人たちのあいだで流行るかも。

(以上)

↓ すぐ下に「元祖リケジョ」キュリー夫人についての記事も。 
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2014年02月01日 (土) | Edit |
 すぐ上の記事で,小保方晴子さんらのSTAP細胞の研究の話をしています。
 
 それに関連して,ここでは「元祖リケジョ」といえる,キュリー夫人に関する過去の記事を掘り起こしました。

 キュリー夫人というのは,じつは「大発見をして歴史に名を残した,史上初の女性科学者」です。
 小保方さんは,「大発見をして多くの人が知るようになった,初めての日本人女性科学者」かもしれません。優秀な・見事な業績をあげた日本人の女性科学者はこれまでにもいたことでしょう。しかし「キュリー夫人的知名度」というのは,今回の小保方さんが初めてのケースになるような気がします。

 キュリー夫人は,とにかく勤勉な努力家。
 報道で垣間見た小保方さんの姿――研究に没頭する様子や,前途を切りひらくために食い下がって挑戦してきたこと――ともダブります。

 今どきの新しいニュースに絡んでも,私はこういう「化石」みたいな話しかできないし,それが好きなんですね。

 ***

 キュリー夫人の「四百文字の偉人伝」

史上初の(本格)女性科学者

 「史上初の女性科学者」というと,誰でしょうか? 「歴史に名を残した」という条件をつければ,それは「ラジウムの発見者」マリー・キュリー(1867~1934 ポーランド→フランス)です。
 彼女があれだけ有名なのは,「大発見をした史上初の女性科学者」だったからです。
 女性科学者は,今ではめずらしくありませんが,彼女が生きた1900年ころの世界では,今でいえば「女性F1レーサー」と同じくらい驚異的でした。
 しかも彼女は,ノーベル賞を2回も受賞しています。そして,多忙な研究の合間に家事もきちんとこなし,子どもたちも立派に育てました。
 すぐれた科学者が,常にこんなに「完璧」とはかぎりません。
 ただ,彼女の場合は,女性として前人未踏の仕事をする開拓者でした。
 こういう人だからこそ,男性優位がとても強かった時代にも活躍できたのかもしれません。

安達正勝著『二十世紀を変えた女たち』(白水社,2000)に教わった。ほかに参考として,エーヴ・キュリー著,川口・河盛・杉・本田訳『キュリー夫人伝(新装版)』(白水社,1988)

【マリー・キュリー】
ラジウムの発見などで放射能研究を開拓した科学者。1903年夫ピエール(1906年死去)らと共同でノーベル物理学賞。1911年には単独でノーベル化学賞。長女夫妻も35年に2人でノーベル化学賞を受けた。
1867年11月7日生まれ 1934年7月4日没

 ***

 さらに,キュリー夫人の「〇千文字の偉人伝」を。

 これは,「四百文字の偉人伝」の参考文献にある,安達正勝『二十世紀を変えた女たち』のキュリー夫人の章(の一部)を圧縮・編集して,そこに自分の視点を若干加えた,といったものになっています。以下は,半ば安達さんの本からの「引用」といっていいでしょう。
 その点でオリジナリティは薄いですが,「コンパクトな読み物」としての意味はあると思っています。キュリー夫人のことは,やはり知る価値があります。安達さんの本もおすすめです。

二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ二十世紀を変えた女たち―キュリー夫人、シャネル、ボーヴォワール、シモーヌ・ヴェイユ
(2000/07)
安達 正勝

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彼女が大学に入るまで キュリー夫人

 多くの偉人伝で,感動の中心となるモチーフといえばまず,「主人公が困難にくじけることなく,食い下がって学び続けた姿」である。
 なかでもキュリー夫人の物語は,その代表格である。

 「キュリー夫人」こと,マリー・キュリー(1867~1934,ポーランド→フランス)があれだけ有名なのは,彼女が史上初の「大発見をした女性科学者」だからである。ラジウムの発見などにより,放射能研究の世界を開拓したこと。それが,彼女の最大の業績である。

 女性科学者は,今では珍しくないが,彼女が生きた1900年ころの世界では,皆無だった。大学教育を受けた女性さえ,たいへん珍しかった時代である。

  彼女のエピソードでよく取り上げられるのは,祖国ポーランドからパリ大学に留学した彼女が,貧しさと闘いながら必死に勉強する姿である。
 
 たとえばこういう話がある。貧乏でストーブの石炭を買うお金がない。ベッドでは,布団の上にありったけの衣類を何枚も重ねるけど,寒い。そこで,布団や衣類の上にイスを置き,その「重さ」の感覚で寒さをまぎらわせて眠った……

 だがじつは,パリにやってくるまでだって,いろいろ大変だったのである。むしろ,パリで苦学した時代は,念願だった大学への入学を果たし,思う存分学問に打ち込むことができた「輝ける」時期だったとさえいえる。

 **

 のちにマリー・キュリーとなる女の子,マリア・スクワドフスカは,1867年にポーランドの首都ワルシャワで生まれた。両親は2人とも学校の先生だった。

 彼女が育った1800年代後半,ポーランドはロシアなどの隣接する強国によって分割され,国家が消滅してしまった。祖国の復興・独立は,当時のポーランド人の悲願だった。独立を勝ち取るために武器を持って立ち上がり,命を落とした人たちもいた。マリアの親戚にもそういう人がいた。

 父親は,学識のある人格者だったが,ロシアの役人が支配する教育現場では,不遇な目にあっていた。だから,家庭は裕福ではなかった。
 そんな環境で,マリアは,祖国の復興を強く願う若者に成長していった。

 彼女は17歳のとき女学校を主席で卒業した。さらに大学で勉強したかった。指導的な教育者になって,祖国のために尽くすことが,彼女の夢だった。
 
 だが,当時のポーランドの大学は女子に門戸を開いていなかった。フランスなど一部の国の大学では,1800年代後半から女子の入学が認められていた(それ以前は,昔から大学に入れるのは男子だけだった)。だから,彼女が大学に行くには,海外留学が唯一の道だった。

 しかし,家にはそんなお金はない。当時は,現代のような奨学金制度もなかったし,大学に通いながら働けるようなアルバイトの仕事もなかった。

 それでも,何とか外国に行って大学で学びたい。そこでどうしたか?

 そのころ,彼女のすぐ上のお姉さんも,医師になるために大学で勉強することを望んでいた。そして,マリアと同じ「壁」につきあたっていた。そこでマリアは,このように提案した。

 「私が,家庭教師をして仕送りするから,姉さんは大学へ行って。姉さんが医師になったら,そのときは私が留学するのを助けてちょうだい。」

 当時,教育のある女性の働き口として「家庭教師」というものがあった。昔のヨーロッパでは,裕福な家庭の子どもは,幼いうちは学校に行かず,そのかわりに家庭教師が付いて勉強するのがふつうだった。お屋敷に住み込みで,1日数時間ほど教える仕事。住居と食事が提供されるので,節約すれば,給料のかなりの部分を仕送りできる。

 マリアは,田舎のお屋敷で,住み込みの家庭教師をして働いた。
 彼女からの仕送りで,お姉さんはパリ大学の医学部に通った。

 3年余りが経つと,お姉さんが近い将来に医師として働ける見込みがついた。また,お父さんに,いくらか収入の多い仕事がみつかった。これで,マリアもどうにか留学できる。

 「3年」というのは,とくに若い人にとっては,長い時間である。その間にマリアは,何度も「もう留学なんて無理,どうでもいい」という気持ちになった。片田舎での寂しい単調な毎日。マイナス思考になるのも無理はない。

 だから,せっかく留学の見通しが立ったのに,マリアは,「もう私の留学のことはいい」と,お姉さんに手紙を書いたりもしている。しかし,お姉さんや周囲の人たちの説得や励ましで,気をとりなおした。

 その後,試験勉強などの準備を経て,1891年,マリアはパリ大学の理学部に入学した。すでに24歳になっていた。

 4年後,彼女は数学と物理の学位を取得して卒業。その翌年の1895年には,在学中に知り合った8歳年上のフランス人物理学者ピエール・キュリー(1859~1906)と結婚した。

 彼女は祖国で教育者になることは断念し,ピエールの共同研究者として科学者の道を歩むことにした。

 2人は協力して研究を進め,ラジウムの発見などの成果により,1902年に夫婦でノーベル物理学賞を受賞した。その間に子宝にも恵まれ,研究の合間に家事・育児もこなした。多忙な,しかし充実した日々だった。
 だがその後,1906年にピエールが馬車による交通事故で不慮の死を遂げてしまう。

 彼女はピエールの後任として,女性初のパリ大学教授に就任し,その後も研究と後進の指導で活躍した。1911年には,単独でノーベル化学賞を受賞している。

 **

 このようなキュリー夫人の物語は,子供や学生よりも,むしろ大人のほうが感動するのではないだろうか。
 人生経験を積んだ大人は,お金や生活の苦労というものを十分にイメージできる。

 そして,ほとんどの大人には,「自分はこういうふうにはできなかったなあ」という感覚がある。それが勉強であれ何であれ,自分はこれほど懸命にやりたいことをやり抜くことなく大人になった。だから,彼女をほんとうに「素晴らしい」「すごい」と感じる。

 私もそのクチだ。自分の若い時代に対し,それなりの後悔というか,「あれをもっとやればよかった」という感じがある。

 私が学生時代にこの話に触れたとしたら,「説教くさい」と思っただろう。

 しかし,会社に就職して多少の経験を積み,「人生なかなか思うようにはいかない」という感覚がよくわかるようになってからは,この手のエピソードに素直に感動できるようになった。「思うようにいかない」ところを,それでも何とか乗りこえるのは,素晴らしい。

 そして,読書のなかで出会う人物が「食い下がって学ぶ姿」に注目するようになった。そのような話に触れるたび,「自分も,自分なりに好きなことをやっていこう」と思ったものだ。(「好きなこと」とは,私の場合,読んだり書いたりすることだった。その延長線上で,今もこんなものを書いている)

 大人が,偉人の「学ぶ姿」に触れる最も大きな意義は,こういう「後押し」「励まし」を得られるということである。
 もちろん,子どもにとっても同じような意義はある。しかし,大人のほうがより深く理解できるのである。

 偉人の「食い下がって学ぶ姿」にも,いろいろある。キュリー夫人は見事なケースだが,ほんの一例である。そのさまざまなケースを知ることは,私たちに元気や知恵を与えてくれる。

(以上)
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2014年02月01日 (土) | Edit |
 昨年末に「そういちカレンダー2014」というものをつくりました。
 その2月のページの画像を,この記事の下のほうに貼っています。

 このブログの記事をおもな材料にして,さまざまなコンテンツを詰め込んだ雑誌感覚のカレンダーです。
 文・イラスト・レイアウトとも私・そういちによるものです。
 
カレンダー使用例 (2)

 もう時期は過ぎていますが,販売もしています。ご注文後,数日でお届けします。
 (でも,昨日1冊注文をいただきました)

・1冊1000円(送料込み,10冊以上ご注文の場合1冊800円)
(仕様)A4判14ページ,ダブルループ製本

・ご注文は,so.akitaあっとまーくgmail.com まで下記事項を記したメールをお送りください。
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 代金は後払い。商品発送とともに振込先(郵便振替か楽天銀行)をご案内します。
 

 カレンダーは,以下の画像のようなもの。画像は2月のページ。記事は,月ごとにちがいます。

そういちカレンダー2014年2月
そういちカレンダー2014年2月
 
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