FC2ブログ
2014年02月01日 (土) | Edit |
 従来よりも簡単な方法で,医療などへの応用の可能性がある「万能細胞」をつくることにマウスで成功した……世間をにぎわせている「STAP(スタップ)細胞」の話。
 
 医療への応用だけでなく,私たちの生命観(生命とはどういうものか)にも影響を与える研究でしょう。
 だからこのニュースは,私のような一般人の関心をひくのだと思います。

 「オレンジジュースくらいの弱酸性の液」に30分浸しただけで,これまで「あり得ない」とされていた変化が細胞に起こる。
 つまり,「哺乳類のような高等生物では,一度さまざまな臓器や組織に育った(分化)した細胞は,育つ前の未分化な状態(万能細胞)には戻らない」とされていた。「細胞の時計の針は戻せない」というわけです。でもじつは,かなり簡単な刺激で「時計の針を戻せる」ということがわかった。
 
 生命って,思っていた以上に柔軟なんだ。
 でも一方で,オレンジジュースを飲んだくらいで身体のどこかに万能細胞がどんどんできたりはしないようだから(?),安定的でもある……面白いね。

 そしてもうひとつ驚くのは,「そんなこともまだわかっていなかったのか」ということ。

 何年か前に「傷口は,じつは消毒しないで水で洗い,ラップなどで覆って乾かさないようにしたほうが治りが早い」というのが「新しい定説」だと知ったときと,似た感じがあります。もちろん,話のスケールは大きくちがいますが。

 科学では,このような「そんなこともまだ……」という話が,これからもあるでしょう。

 私はいわゆる「文系人間」ですが,こういうニュースって胸がおどります。
 科学者の伝記を読むことや,「科学と文明」「歴史のなかの科学」などといったことを考えるのが好きだからでしょう。

 この研究を主導した小保方(おぼかた)晴子さんは,理化学研究所という機関の研究者だそうです。

 この研究そのものについてのさらなる解説は,ほかの方におまかせします(私がそれをしても仕方ない)。ここではその「理化学研究所」について少し。

 ***

 理化学研究所は,ホームページをみると,3000数百人の研究者・職員がいて,年間予算は800数十億円という大きな組織です。本部は埼玉県にある。

 「理化学研究所」を略して「理研」などといわれます。

 ではこの研究所は,国立の研究所なのでしょうか? それともどこかの企業などがつくった,民間の研究所? あるいは大学の研究所?

 理化学研究所は,「民間が主導してつくり,政府の予算や指導も入っている研究所」です。
 大学の研究所ではなく,官と民の中間のような性格があります。

 今の法的な位置づけは「独立行政法人」というもの。
 これが「政府から一定の独立性を有しているが,政府も関与する」ということです。なお,今の国立大学は「独立行政法人」の一種です。

 理化学研究所では,さまざまな科学や技術の分野で,基礎研究から産業に直接役立つ応用研究まで幅広く行っています。そのような「幅広い分野で,基礎から応用まで」という科学研究所は,日本では理研だけだそうです。

 ***

 理研の創設は,大正6年(1917年)のこと。第一次世界大戦(1914~18)の時代です。

 このころ,「科学研究は産業や軍事の技術にとって非常に重要だ」ということが認識されるようになりました。
 今ではあたりまえのことなのですが,その「常識」が成立したのは,今から100年くらい前のことなのです。この時代の人びとが,科学技術や産業の力がものいう大規模な戦争を経験したことは,大きく影響しています。

 そんな「科学技術」の研究には,大きな予算や組織が必要です。しかし,理研以前の日本の科学研究は,おもに大学で行われていましたが,そこでは大きな予算を立て,組織だって研究するという発想がほとんどありませんでした。
 
 そんな中,高峰譲吉(アドレナリン発見者)や渋沢栄一などの科学界や財界の先覚者が「国民的な科学研究所」の構想を唱えました。欧米の先進的な研究所の事例が,その発想の元になっています。

 しっかりとした組織と予算を持った,科学と技術の総合的な大研究所。
 とくに産業・軍事への応用といった課題に,積極的にこたえていく。

 その構想を政府も採用して,政府の予算と財界・民間からの寄付によって,理化学研究所は「財団法人」として創設されたのです。
 このような本格的な科学研究所は,日本では理研がはじめてでした。

 理研は,戦前の一時期「科学者の楽園」といえるような,黄金時代を築きました。

 1921年(大正10)に第3代の所長に就任した大河内正敏は,その立役者でした。

 所長に就任したときの大河内は,42歳。「封建的」な年功序列で凝り固まっていた当時の日本社会の中で,理研という大組織のトップになるには異例の若さでした。その具体的な背景・事情は割愛しますが,当時の日本の一部には,そういう人事を実現する見識や活力があったということです。

 大河内は,組織改革を行い,研究者の自由裁量を大きく認める研究制度を採用しました。これによって,活動的で能力のある若手・中堅の研究者がおおいに活躍することができ,すぐれた研究成果がつぎつぎと生まれたのです。

 とくに,「金になる研究」を生み出したのは,特徴だったといえます。
 「世界を大きく変える」とまではいきませんでしたが,社会のニーズに応える技術開発を,理研はいくつも行いました。

 タラの肝油からビタミンAを抽出する技術をもとにつくったサプリメントは,そのような研究開発の最初の事例でした。そのほか,工作機械,マグネシウムや合成ゴムなどの素材,合成酒……理研で生まれたこのような発明を製品化して売り出す企業集団もつくられ,「理研コンツェルン」と言われました。

 理研コンツェルンが稼ぎ出す利益などで,理研はうるおいました(設立当初は財政難で苦しんだのですが)。その潤沢な予算を使って,科学者たちは自由な研究ができる……

 その後,昭和の戦争の時代になって,軍国主義への協力ということが,理研のなかで重要になっていきます。
 陸軍の要請を受け,原子爆弾の研究も行いました。
 
 敗戦後は,米軍の圧力によって理研の解体が行われます。「軍国主義に加担した研究機関」とされたのです。
 戦後まもなく,財団法人理化学研究所は解散となりました。
 
 そして,一時期は「株式会社科学研究所」というかたちで(政府の予算を受けない,一民間企業として)どうにか存続する,という時代がありました。

 それが,日本が独立を回復した1956年(昭和31)に,政府の出資を再び受けるようになり,1958年(昭和33)には,「特殊法人理化学研究所」として新たに発足します。これが,現在に直接つながっているといえます。そして,関連法令の改正などをふまえ,2003年(平成15)に,現在の独立行政法人になったのです。

 ***

 以上は,板倉聖宣『科学と社会』(季節社)所収の理化学研究所に関する論文や,宮田親平『「科学者の楽園」をつくった男 大河内正敏と理化学研究所』(日経ビジネス人文庫)などを読み返したり,理研のホームページやウィキペディアをみたりして書きました。

 最近の理研がどのような研究体制なのか,科学者にとってどのような組織なのか,私は知りません。
 
 ただ,「研究者の多くが1年単位の契約で,更新にあたっては厳しい業績の査定がある」といったことが,ネット上にありました。大学とも,国立の研究機関とも,大手企業の研究所とも異なる,独特の雰囲気があるのかもしれません。それが「科学者の楽園」といえるのかどうかは,わかりませんが……

 いずれにせよ,「STAP細胞」という,批判的な科学者に「これまでの細胞生物学の歴史を愚弄するのか!」とまで言わせた独創的な業績が,この理研から生まれたわけです。

 あるいは,そのような研究を生んだ小保方さんのような人材に活躍の場を与えたのが,理研だったということです。

 この組織には,これから注目や評価が集まるでしょう。
 どのくらいかはわかりませんが,もっと注目されるはず。
 理研について踏み込んだ一般向けのレポートなども,じきにあらわれるのでは?

 1920~30年代のような「理研の黄金時代」が,これからまたやって来たりして。
 最新のニュースでは,理研はSTAP細胞がらみの特許をすでに申請しているとのこと。

 ***

 小保方さんの歩みや,その研究を前進させた(あるいは邪魔した・無視した)組織や人の話は,「今の科学にとって大事なことは何か」を考えるうえで大事な材料になるはずです。

 もちろん,今後の展開も「科学と社会の関係」「科学研究を進める組織」などについてのいろんな問題を提起することになるでしょう。

 たとえば,バッティングする先行研究であるiPS細胞とのせめぎあい。
 あるいは,この研究が今後実用化・産業化していくときに,日本の政府や経済界は,そして科学者たちはうまく対応できるのか。アメリカあたりに先をこされてしまわないか。
 そのあたりで,残念なことにならないように……

 大正時代に理研の創設に関わった,日本の政財界や科学者は,当時としては先進的で創造的な対応をしました。今の私たちも,そうでありたいものです。一市民として,そう思う。
 
 あと,やはり割ぽう着はこれから流行るかもしれませんね。
 「リケジョ」よりも,ふつうの主婦や海外の人たちのあいだで流行るかも。

(以上)

↓ すぐ下に「元祖リケジョ」キュリー夫人についての記事も。 
関連記事