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2014年02月15日 (土) | Edit |
 「耳が聴こえない」という,例の交響曲の作曲者には,じつは「ゴースト」の作曲者がいたという話。
 私も,この人の仕事にとくに関心を持っていたわけでもないので,漫然と疑いも抱かずみていました。

 何年か前に,彼がテレビで「障害でいつも頭がガンガンしているが,ときどき分厚い雲の隙間から光が差すように,かすかに音が降りてくるときがある,それをとらえて作曲している」なんて言っていたのには,「そういうこともあるんだ,感動的なこと言うなー」と,ちょっと感心しました。

 でも,本人も認めるように,「大嘘」をついていたわけです。彼を称賛してとりあげてきたNHKなどの報道関係者は,本当に情けない気持ちだと思います。

 この事件で私が思い出したのは,10年余り前の,ある「大嘘」発覚事件。

 ある著名なアマチュア考古学者が,自分がよそで掘った石器を遺跡にこっそり埋めて,自分で掘り起こしてみせようとするペテンを行ったのです。新聞社が設置した無人カメラが,その「犯行現場」をとらえました。2000年の夏に起こった事件です。

 この「考古学者」は,それまでに数々の大発見をして,「神の手」を持つといわれていました。しかし,そのインチキの発覚で,まさに全てを失いました。そして,それまでの「発見」の多くが「ねつ造」であった(もしくはその疑いがある)ことも,明らかになっていきました。

 科学や学問の歴史には,こういう奇怪な「ねつ造」というのが,この件のほかにいくつもあるのですが,ここでは立ち入りません。

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 以上の「ニセ作曲家」と「ねつ造考古学者」の話の共通点に,
「あまりにヒドい大嘘は,ときどきまかり通ってしまう」ということがあると思います。

 私たちの多くは,正直な小心者です。だから「大嘘」を前にしても「そこまでのウソをつく大胆な人はいないだろう」という前提で,なんとなくうのみにしてしまうことがあります。NHKの番組製作者でさえ,そんな風になってしまう(それではいけないはずですが)。

 「大嘘」をついて人前で堂々としていられる人間の心理は,凡人には想像がつきにくい。

 これが,「嘘つき」をのさばらせるわけです。「嘘つき」も,だんだんその気になってきて,自分が本当のことを言っているような気にさえ,なってくるのです。だって,みんな信じてくれるんだもの……

 そして,「大嘘」をつく人間が,いろんな意味で魅力的だと,信じてしまう傾向がさらに強まります。

 格好いい,美人である,人が好さそうだ,可憐である,威厳がある,明るく楽しげである,実直そうだ,ハンデを負っている,苦労人である,純真そうな子どもだ,権威あるエリートだ……

 あるいは,これまでのつき合いで誠実であった,周囲からの評判がいい,自分に親切である……

 そういう要素を備えている人間がついた「大嘘」を,私たちは信じてしまいがちです。「信じたくなる」といったらいいでしょうか。

 実際,上記のような「感じのいい,魅力的な人たち」を信じることは,たいていの場合まちがっていないのです。世の中は,本来はそんなに捨てたものではない。だから,話がややこしくなる。

 今回の「ニセ作曲家」だって,かなり魅力的な容姿だと思います。「本当の作曲者」と比べたら,とくにそうです。2人の役回りがもしも逆だったら,これほど長期にわたって世間がダマされ続けたかどうかわかりません。

 ***

 そして,もしも「大嘘」が力を持って世間に流布してしまったら,あとで多くの人が傷つくことになります。

 例の「ねつ造考古学者」のときは,彼が過去に関わった何十という遺跡の発掘研究が「信用できないもの」とされてしまいました(彼以外にも多くの人が関わったのに)。とにかく,考古学界全体が大きなダメージを受けた,といっていいでしょう。

 今回の「ニセ作曲家」の件も,「傷」がいろんなところで発生するでしょう。

 たとえば「(じつは聴力があるという)彼を障害者と認定したことは正しかったのか?」「正しくなかったとしたら,誰の責任か?」といったことがすでに問題になりつつあります。

 彼の住む街の市長が,その「障害者」の認定について,「不正であれば,相応の対応を取る」といったことを会見で述べたりしているのは,そういうことです。それが重要なことかどうかは別にして,そんなことにも「飛び火」するわけです。

 多くの人に多大な迷惑やダメージを与える今回のような「大嘘」を,私たちはもっと憎んでいいのでは,と思います。そして,できれば少しだけでも「大嘘」への免疫を持ちたいものです。

(以上)
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2014年02月15日 (土) | Edit |
ベランダからみた雪景色
ベランダからみた今日の景色

 先週に引き続き,昨日今日と私の住む東京は大雪でした。交通も大混乱。

 先週末に「雪だし,やめておこう」となった遠出や買い物を,今週末もやめることにしました。今日出かけるとしても,近所のスーパーくらいでしょう。

 こんなふうに雪に閉ざされる感じで行動範囲が狭くなると,「近所だけだと,買い物などの選択肢はきわめて限られている」と実感します。

 いつものお店のいつもの品,いつもの本屋のいつもの棚,いつものコーヒーショップのいつものメニューなどを超えて,すぐに何かが欲しいと思っても,それはムリなわけです。ネット注文できるかもしれませんが,時間がかかります。

 普段なら,その気になれば電車に乗って30分ほどで都内の繁華街に出ることができます。そこへ行けばぼう大な「選択肢」があるわけです。

 でも,「すぐに都会に出られる自由」に制約がかかると,郊外で暮らす今の暮らしが,ちょっとちがってみえてくる。

 高齢や健康状態などのせいで,普段の行動範囲が限られてしまう人は,毎日の暮らしの「選択肢の少なさ」をつよく感じているのかもしれない……そんなことも思います。

 ここで,何年か前に読んだ,北海道の小さな町で民宿を営むご夫婦を紹介する新聞記事(新聞の付録のフリーペーパーの記事)を思い出しました。

 民宿の奥さん(当時38歳)の言葉が印象的だったのです。抜き書きしていたので,ご紹介します。奥さんは,もともとは大都市で暮らしていたのだそうです。

《毎日の作業は一緒。買い出しに行くスーパーも同じ。都会だとたくさん店があって,電車やバス,自転車で行こうか悩み,着ていく服も変わる。毎日数え切れない選択をしていたんだなあって。選択肢がないから迷えないし,迷わない今の単純な生活,私は嫌いじゃないです。》

北海道・比羅夫にある「駅の宿ひらふ」の奥さん・南谷敦子さんの言葉。
『THE NIKKEI MAGAZINE』2009年2月15日より
 

 たしかに,北海道の田舎のほうだと,そういうことなのでしょう。
 秋田県の田舎に住む私の義理の父母の毎日も,似たところがあります。

 この記事を読んだとき,「たしかに〈選択肢の少ない,迷わない暮らし〉も悪くないのかも」と思いました。

 でも,今回のように少しだけ「雪に閉ざされる」感じを味わうと,「選択肢が少ないのは,やっぱりつまらない」という気持ちにもなります。
 
 普段はあれこれ考えずシンプルに暮らすのはよいとしても,その気になればいつでも「ぼう大な選択肢」のあるところへ出て行ける,そういう「自由」のあることが大事なのかも……自分にとってはそうなのかなあ……

 いずれにせよ,雪が降ったせいで,今の自分の暮らしについて少し考えなおしてみたのでした。

(以上)
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