2014年06月30日 (月) | Edit |

きのうの夕方,我が家のベランダからみた空。
ゲリラ豪雨が降ってくる直前。
まるで特殊効果の雲みたい。迫力あるなあ。
古い団地の我が家は,高台にあります。
この家を買うときの案内で,不動産屋さんは「見晴しがいいですよ」とさかんに言ってました。
そのときは,それがそんなに重要だとは思いませんでした。
でも,何年か住んでみて,価値がわかりました。
これから家を選ぶ人は,できれば「見晴し」「家からみえる風景」の重要性にもっと目を向けるといいと思います。
でも,多くの人は広さや間取りや,建物のこまかい仕様にばかり関心がいってしまう。
だから,「見晴し」は不動産価格的にはそれほど評価されない傾向があります。
それだけに,「すばらしい眺望の割安物件」というのもあり得るわけです。
家から遠くが見わたせるのは,ステキなこと。
この写真を撮ったときのように,空と雲の変化を身近に感じられるのは,すばらしい。
この日,たちこめていたのは「暗雲」でしたが,世相に暗い影を感じていたとか,身辺に不安があるとか,この写真はそういう主旨ではありません。
「こういう風景を家でみることができて,しあわせだなー」と,晴れ晴れした気分になりました。

(以上)
2014年06月28日 (土) | Edit |
サラエボ事件・100年前の今日
ちょうど100年前の今日,1914年6月28日は,第一次世界大戦(1914~1918)のきっかけとなった事件が起こった日です。
それは,「サラエボ事件」というもの。
オーストリアの皇太子が,ボスニアのサラエボという都市で,セルビア人の青年によって銃で暗殺された事件。
「ボスニア」「セルビア」は,「バルカン半島」という地域に属します。
「バルカン半島」は,南はギリシャやトルコ,東はロシア,西はオーストリアやドイツなどに囲まれた地域。さまざまな大国に囲まれた「狭間(はざま)の地域」といっていいです。
ではなぜ,暗殺がおきたのか? セルビアは当時,オーストリアの圧迫を受けていました。それに反発し,オーストリアに抵抗する一派がこれを行ったのでした。
当時のオーストリアは,今のような限定された範囲の共和国ではありません。ヨーロッパの複数の民族を支配する「帝国」でした。複数の民族とその領域を支配下におく国を「帝国」というのです。
その帝国に君臨するのが「ハプスブルグ家」という王家。
そこでこの帝国は「ハプスブルグ帝国」といわれました。
このころ(1900年代初頭)のハプスブルグ帝国は,すでにかなり衰退していました。しかし,最盛期(1500~1600年代)にはドイツ,オーストリア,スペイン,ハンガリー,チェコなどヨーロッパの広い範囲を支配する一大勢力でした。
オーストリア皇太子の暗殺は,セルビア人の一派がハプスブルグ帝国に反旗をひるがえしたということです。
オーストリアは,セルビアに軍をすすめました。戦争です。
「大戦」となった経緯
では,どういう経緯で「サラエボ事件」が,ハプスブルグ帝国内の地域紛争で終わらずに,「世界大戦」にまで広がってしまったのでしょう?
それは,ハプスブルグ帝国の周辺には,さまざまな立場の大国があり,セルビアでの戦争をめぐって,それぞれの大国が敵・味方に分かれて対立することになったからです。
まず,オーストリアとセルビアの戦争にかんしては,ロシアがセルビア側として介入してきました。
当時のロシアは,バルカン半島に勢力を伸ばそうとしていて(今もそうですが),オーストリアと対立していたのです。
そして,オーストリアには,ドイツという仲間がいました。ドイツとオーストリアは民族的・文化的に近しい関係にありました。
当時のドイツは,ヨーロッパのなかで「新興の超大国」といえる存在。イギリスやフランスよりもやや遅れて近代化がはじまったものの,急発展の結果,第1次世界大戦の前夜にはヨーロッパ最大の工業力を持つほどになっていました。
そして,ドイツには英国とフランスという「敵」がいました。
ドイツは,先に近代化をすすめ,アジア・アフリカの植民地支配などで優位に立つ英仏に対抗心を抱いていました。英仏も,ドイツをけん制していました。
そして,当時のドイツは近東(バルカン半島,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトなど)で勢力を伸ばそうとしており,すでに近東で一定の勢力を築いていた英国と対立していました。
また,ドイツとフランスのあいだには国境をめぐる深刻な対立がありました。
ドイツはオーストリアの味方をして,セルビアとロシアとの戦争をはじめました。
こんなとき,ドイツとしては「宿敵」の英国やフランスが恐ろしいものです。ロシアとの戦争をしているあいだに,「宿敵」が攻めてこないか。
そこで,ドイツの権力中枢では「攻められる前にフランスを攻めてしまえ」という方針が力を持つようになり,それが実行されました。ドイツとフランスの戦争です。
こうなると,英国もだまっていません。英国とドイツの戦争もはじまりました。
そして,ドイツと英国が勢力争いをしていた「近東」というのは,「オスマン・トルコ」というイスラムの帝国の領域でもありました。
オスマン・トルコは,当時のイスラム世界の最大の国でした。さきほど述べたように,バルカン半島の一部,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトといった広い範囲を支配していました。
しかし,1800年代以降は衰退しはじめ,欧米列強の侵略・圧迫を受けていたのです。
オスマン・トルコは,迷いはありましたが,ドイツの側につきました。当時のトルコにとって最大の脅威はロシアでした。当時のロシアはトルコに対する圧迫を強めていたのです。そして,ロシアの「敵」であるドイツは,純粋に味方とはいえないが,「敵の敵はとりあえず友」ということです。
この戦争をはじめた政治家・軍人たちの多くは,当初「この戦争は短期で決着する」と思っていました。
ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。
当時の人びとと今の私たちでは,「戦争」にたいするイメージは,かなり異なっていました。
「戦争」というと,私たちがまず思いうかべるのは「世界大戦」です。「総力戦」といって,軍人だけでなく国民全体が巻き込まれて大惨事となる,というイメージ。
しかし,当時の人びとにはそのような「戦争」のイメージがありません。「総力戦」というのは,世界大戦以降のことです。だから,今よりも「戦争」への心理的なハードルが低かったのです。
第1次世界大戦の2つの陣営
アメリカ合衆国は当初,ヨーロッパでの大戦については「不参加」の方針でしたが,後半からは英仏側で参戦しました。アメリカは,英国とは経済的にも文化的にも親密な関係にありました。
日本は,この戦争には積極的には参加しませんでしたが,英仏側に加わっています。
以上のような経緯や相関関係のもとに,2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。
2つの勢力とは,つぎのとおり。
【連合国陣営】 英国,アメリカ,フランス,ロシア,日本など
【同盟国陣営】 ドイツ,オーストリア,オスマン・トルコなど
大戦の結果・重要なのは帝国の解体・滅亡
では,第1次世界大戦はどのような結末をむかえ,その後の世界にどんな影響を残したのでしょうか。
「その後の影響」には,いろんな側面がありますが,ここでは「国家間の勢力関係」という視点でみてみましょう。
まず,この大戦は英米仏などの「連合国」側の勝利でおわりました。
しかし,敗者にも勝利者にも,大きな被害をもたらしました。
何しろこの戦争で,死傷者は軍人・民間人をあわせて1800万人にもなったのです。(『角川世界史辞典』による)
そして,この戦争の影響で,世界の勢力図は大きく変わっていきました。
現代からみて,その変化の最も大事なものは「帝国の解体・滅亡」ということです。
つまり,古代・中世以来の世界を支配してきた前近代的な「帝国」が,第1次世界大戦の結果,ほとんど滅びてしまったのです。
まず,敗戦の結果,連合国側によってオーストリアのハプスブルグ家の支配体制は解体させられました。一時は全ヨーロッパの覇者であったハプスブルグ帝国はこれで終わりました。
それから,ロシア帝国。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代以降続くロマノフ王朝の支配下にありました。しかし,大戦中に戦時下の混乱のなかで,1917年にロマノフ朝を倒す革命が起こりました。
そして,ロシア帝国の体制にかわって,ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました(この体制は1991年まで続きました)。
ロシアは,戦勝国側の一員だったわけですが,その体制は戦争を引き金に,革命によって崩壊したのです。
そして,オスマン・トルコ帝国。トルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となりました。そのなかで,オスマン帝国を倒す革命がおこります。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。
トルコ共和国の建国者は,新しいトルコの領域を,トルコ人が多数や主流を占める「アナトリア地方」に限定しました。つまり,現在のトルコ共和国の範囲です。
オスマン帝国の領域だったそれ以外の地域(イラク,シリア,エジプトなど)は,トルコ人とは異なる「アラブ人」という人びとが主流を占めていました。オスマン帝国が滅びたあとは,それぞれの地域でいくつもの国や領域ができ,紆余曲折を経て現在の「アラブ諸国」につながっていきます。
近代以前の世界では,ある有力な民族・王国が,ほかの国ぐにを武力で支配し,大きな「帝国」をつくるということが一般的に行われてきました。「ローマ帝国」や,「漢」のような「中華帝国」などはそうです。
そのような大きな「帝国」が,昔の世界の「主役」だったといっていいでしょう。
しかし,近代になって(だいたい1500年ころ以降),ヨーロッパで形成された「民族国家」「国民国家」というものが台頭してきます。
「帝国」のようにさまざまな民族を支配下におく巨大化した国ではなく,もっと民族的に限定された範囲でまとまった国。帝国よりも小粒だけれど,国としてのまとまりはしっかりしており,強靭さを備えている。そんな国のあり方が有力になってきました。
1900年ころまでには,「帝国」というものは,ほぼ「過去の遺物」になっていました。
第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝が倒されるという革命が起こって,翌年には「中華民国」が成立しています(この国は第二次世界大戦が終わって間もなく(1949年)に成立した,現在の中華人民共和国にとってかわられます)。
このような「帝国の滅亡」という流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえるでしょう。
「古代・中世の遺物の一掃」といってもいいです。
そのような「流れ」や「結末」」など,戦争の当事者たちは意識していなかったはずです。
しかし,歴史は大きく動いていった。
第1次世界大戦は「古代・中世の遺物」を一掃したのです。
けっきょくそれは「国民国家」のような近代的な国のあり方が勝利した,ということです。
戦争の直接的な「勝ち負け」以外に,そのような大きな歴史の流れにおける「勝ち負け」があったのです。
第二次世界大戦がもたらしたものは?
さて,第1次世界大戦が終わって20年余りのち,世界は再び大戦争に突入します。第2次世界大戦(1939~1945)です。
第2次世界大戦がもたらしたものは何だったのか?
ここで述べた文脈でいうと,この戦争の根底には「国民国家のあり方をめぐる基本的な対立」があったといえるでしょう。
つまり,西欧的な自由民主主義の体制と,それへの対抗馬である「ファシズム」体制の対立。
それは「国民国家」という枠組みを前提としたうえでの対立です。
そして「自由民主主義」的な陣営の勝利で終わった。戦後はドイツ(西ドイツ)も日本もその陣営に加わった。
このことはまた別の機会に。
とにかく,第1次世界大戦から,もう100年なんですね。
今年は,この大戦について考えるいい機会です。
この大戦は「現代」の出発点といえるものでした。だから,第1次世界大戦のことを少し知っておくのは,現代の世界を考えるうえで,ムダではないはずです。
関連記事:二番手はどうなった? 近代における大国の興亡
(以上)
ちょうど100年前の今日,1914年6月28日は,第一次世界大戦(1914~1918)のきっかけとなった事件が起こった日です。
それは,「サラエボ事件」というもの。
オーストリアの皇太子が,ボスニアのサラエボという都市で,セルビア人の青年によって銃で暗殺された事件。
「ボスニア」「セルビア」は,「バルカン半島」という地域に属します。
「バルカン半島」は,南はギリシャやトルコ,東はロシア,西はオーストリアやドイツなどに囲まれた地域。さまざまな大国に囲まれた「狭間(はざま)の地域」といっていいです。
ではなぜ,暗殺がおきたのか? セルビアは当時,オーストリアの圧迫を受けていました。それに反発し,オーストリアに抵抗する一派がこれを行ったのでした。
当時のオーストリアは,今のような限定された範囲の共和国ではありません。ヨーロッパの複数の民族を支配する「帝国」でした。複数の民族とその領域を支配下におく国を「帝国」というのです。
その帝国に君臨するのが「ハプスブルグ家」という王家。
そこでこの帝国は「ハプスブルグ帝国」といわれました。
このころ(1900年代初頭)のハプスブルグ帝国は,すでにかなり衰退していました。しかし,最盛期(1500~1600年代)にはドイツ,オーストリア,スペイン,ハンガリー,チェコなどヨーロッパの広い範囲を支配する一大勢力でした。
オーストリア皇太子の暗殺は,セルビア人の一派がハプスブルグ帝国に反旗をひるがえしたということです。
オーストリアは,セルビアに軍をすすめました。戦争です。
「大戦」となった経緯
では,どういう経緯で「サラエボ事件」が,ハプスブルグ帝国内の地域紛争で終わらずに,「世界大戦」にまで広がってしまったのでしょう?
それは,ハプスブルグ帝国の周辺には,さまざまな立場の大国があり,セルビアでの戦争をめぐって,それぞれの大国が敵・味方に分かれて対立することになったからです。
まず,オーストリアとセルビアの戦争にかんしては,ロシアがセルビア側として介入してきました。
当時のロシアは,バルカン半島に勢力を伸ばそうとしていて(今もそうですが),オーストリアと対立していたのです。
そして,オーストリアには,ドイツという仲間がいました。ドイツとオーストリアは民族的・文化的に近しい関係にありました。
当時のドイツは,ヨーロッパのなかで「新興の超大国」といえる存在。イギリスやフランスよりもやや遅れて近代化がはじまったものの,急発展の結果,第1次世界大戦の前夜にはヨーロッパ最大の工業力を持つほどになっていました。
そして,ドイツには英国とフランスという「敵」がいました。
ドイツは,先に近代化をすすめ,アジア・アフリカの植民地支配などで優位に立つ英仏に対抗心を抱いていました。英仏も,ドイツをけん制していました。
そして,当時のドイツは近東(バルカン半島,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトなど)で勢力を伸ばそうとしており,すでに近東で一定の勢力を築いていた英国と対立していました。
また,ドイツとフランスのあいだには国境をめぐる深刻な対立がありました。
ドイツはオーストリアの味方をして,セルビアとロシアとの戦争をはじめました。
こんなとき,ドイツとしては「宿敵」の英国やフランスが恐ろしいものです。ロシアとの戦争をしているあいだに,「宿敵」が攻めてこないか。
そこで,ドイツの権力中枢では「攻められる前にフランスを攻めてしまえ」という方針が力を持つようになり,それが実行されました。ドイツとフランスの戦争です。
こうなると,英国もだまっていません。英国とドイツの戦争もはじまりました。
そして,ドイツと英国が勢力争いをしていた「近東」というのは,「オスマン・トルコ」というイスラムの帝国の領域でもありました。
オスマン・トルコは,当時のイスラム世界の最大の国でした。さきほど述べたように,バルカン半島の一部,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトといった広い範囲を支配していました。
しかし,1800年代以降は衰退しはじめ,欧米列強の侵略・圧迫を受けていたのです。
オスマン・トルコは,迷いはありましたが,ドイツの側につきました。当時のトルコにとって最大の脅威はロシアでした。当時のロシアはトルコに対する圧迫を強めていたのです。そして,ロシアの「敵」であるドイツは,純粋に味方とはいえないが,「敵の敵はとりあえず友」ということです。
この戦争をはじめた政治家・軍人たちの多くは,当初「この戦争は短期で決着する」と思っていました。
ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。
当時の人びとと今の私たちでは,「戦争」にたいするイメージは,かなり異なっていました。
「戦争」というと,私たちがまず思いうかべるのは「世界大戦」です。「総力戦」といって,軍人だけでなく国民全体が巻き込まれて大惨事となる,というイメージ。
しかし,当時の人びとにはそのような「戦争」のイメージがありません。「総力戦」というのは,世界大戦以降のことです。だから,今よりも「戦争」への心理的なハードルが低かったのです。
第1次世界大戦の2つの陣営
アメリカ合衆国は当初,ヨーロッパでの大戦については「不参加」の方針でしたが,後半からは英仏側で参戦しました。アメリカは,英国とは経済的にも文化的にも親密な関係にありました。
日本は,この戦争には積極的には参加しませんでしたが,英仏側に加わっています。
以上のような経緯や相関関係のもとに,2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。
2つの勢力とは,つぎのとおり。
【連合国陣営】 英国,アメリカ,フランス,ロシア,日本など
【同盟国陣営】 ドイツ,オーストリア,オスマン・トルコなど
大戦の結果・重要なのは帝国の解体・滅亡
では,第1次世界大戦はどのような結末をむかえ,その後の世界にどんな影響を残したのでしょうか。
「その後の影響」には,いろんな側面がありますが,ここでは「国家間の勢力関係」という視点でみてみましょう。
まず,この大戦は英米仏などの「連合国」側の勝利でおわりました。
しかし,敗者にも勝利者にも,大きな被害をもたらしました。
何しろこの戦争で,死傷者は軍人・民間人をあわせて1800万人にもなったのです。(『角川世界史辞典』による)
そして,この戦争の影響で,世界の勢力図は大きく変わっていきました。
現代からみて,その変化の最も大事なものは「帝国の解体・滅亡」ということです。
つまり,古代・中世以来の世界を支配してきた前近代的な「帝国」が,第1次世界大戦の結果,ほとんど滅びてしまったのです。
まず,敗戦の結果,連合国側によってオーストリアのハプスブルグ家の支配体制は解体させられました。一時は全ヨーロッパの覇者であったハプスブルグ帝国はこれで終わりました。
それから,ロシア帝国。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代以降続くロマノフ王朝の支配下にありました。しかし,大戦中に戦時下の混乱のなかで,1917年にロマノフ朝を倒す革命が起こりました。
そして,ロシア帝国の体制にかわって,ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました(この体制は1991年まで続きました)。
ロシアは,戦勝国側の一員だったわけですが,その体制は戦争を引き金に,革命によって崩壊したのです。
そして,オスマン・トルコ帝国。トルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となりました。そのなかで,オスマン帝国を倒す革命がおこります。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。
トルコ共和国の建国者は,新しいトルコの領域を,トルコ人が多数や主流を占める「アナトリア地方」に限定しました。つまり,現在のトルコ共和国の範囲です。
オスマン帝国の領域だったそれ以外の地域(イラク,シリア,エジプトなど)は,トルコ人とは異なる「アラブ人」という人びとが主流を占めていました。オスマン帝国が滅びたあとは,それぞれの地域でいくつもの国や領域ができ,紆余曲折を経て現在の「アラブ諸国」につながっていきます。
近代以前の世界では,ある有力な民族・王国が,ほかの国ぐにを武力で支配し,大きな「帝国」をつくるということが一般的に行われてきました。「ローマ帝国」や,「漢」のような「中華帝国」などはそうです。
そのような大きな「帝国」が,昔の世界の「主役」だったといっていいでしょう。
しかし,近代になって(だいたい1500年ころ以降),ヨーロッパで形成された「民族国家」「国民国家」というものが台頭してきます。
「帝国」のようにさまざまな民族を支配下におく巨大化した国ではなく,もっと民族的に限定された範囲でまとまった国。帝国よりも小粒だけれど,国としてのまとまりはしっかりしており,強靭さを備えている。そんな国のあり方が有力になってきました。
1900年ころまでには,「帝国」というものは,ほぼ「過去の遺物」になっていました。
第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝が倒されるという革命が起こって,翌年には「中華民国」が成立しています(この国は第二次世界大戦が終わって間もなく(1949年)に成立した,現在の中華人民共和国にとってかわられます)。
このような「帝国の滅亡」という流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえるでしょう。
「古代・中世の遺物の一掃」といってもいいです。
そのような「流れ」や「結末」」など,戦争の当事者たちは意識していなかったはずです。
しかし,歴史は大きく動いていった。
第1次世界大戦は「古代・中世の遺物」を一掃したのです。
けっきょくそれは「国民国家」のような近代的な国のあり方が勝利した,ということです。
戦争の直接的な「勝ち負け」以外に,そのような大きな歴史の流れにおける「勝ち負け」があったのです。
第二次世界大戦がもたらしたものは?
さて,第1次世界大戦が終わって20年余りのち,世界は再び大戦争に突入します。第2次世界大戦(1939~1945)です。
第2次世界大戦がもたらしたものは何だったのか?
ここで述べた文脈でいうと,この戦争の根底には「国民国家のあり方をめぐる基本的な対立」があったといえるでしょう。
つまり,西欧的な自由民主主義の体制と,それへの対抗馬である「ファシズム」体制の対立。
それは「国民国家」という枠組みを前提としたうえでの対立です。
そして「自由民主主義」的な陣営の勝利で終わった。戦後はドイツ(西ドイツ)も日本もその陣営に加わった。
このことはまた別の機会に。
とにかく,第1次世界大戦から,もう100年なんですね。
今年は,この大戦について考えるいい機会です。
この大戦は「現代」の出発点といえるものでした。だから,第1次世界大戦のことを少し知っておくのは,現代の世界を考えるうえで,ムダではないはずです。
関連記事:二番手はどうなった? 近代における大国の興亡
(以上)
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- 「世界大戦」の条件・ドイツという攪乱の中心
- 昔のテツガクと今のテツガク
- ざっくり第一次世界大戦 あれから100年
- 二番手はどうなった? 補論
- 二番手はどうなった? 近代における大国の興亡の歴史に学ぶ
2014年06月24日 (火) | Edit |
東京・多摩からターミナル駅まで,片道約50分の電車通勤。
あえて,やや空いている各駅停車に乗ります。
そこでの読書は,毎日のたのしみです。
最近読んだ本を紹介します。
このシリーズの前回では,中沢弘基『生命誕生』をややくわしく紹介しました。
さらにもう1冊紹介したいです。
●板橋拓己『アデナウアー 現代ドイツを創った政治家』中公新書,2014
73歳から87歳まで西ドイツの首相を務めた
ドイツの大政治家の生涯。
アデナウアー(1876~1967)は,1949年に西ドイツの初代首相となり,以後1963年まで首相をつとめた人物。第二次世界大戦で敗れたあとのドイツは,1990年に再統一されるまで東西に分かれていました。
首相となったとき,彼は73歳。もともとはケルン市長であり,中央政界で要職を担うのは,このときがはじめて。そして,なんと87歳まで首相の座を守り続けた。その在任期間を歴史家は「アデナウアー時代」と呼ぶ。この時代に,現代ドイツの基礎的な枠組みがつくられました。
著者の板橋さんによれば,アデナウアー時代の政治のポイントは「自由民主主義体制の定着」と「米英などの〈西側〉への結合を決めたこと」です。
アデナウアーは現代ドイツだけでなく,世界史的にも重要な政治家の1人といえるでしょう。
でも,私たちはあまり知りません。私も,上記の基本的なことくらいは知っていましたが,彼のまとまった伝記に触れるのははじめてです。彼の生涯を通じて,20世紀のドイツ史が垣間見える本。現代ドイツ史について知りたい方には,おすすめです。
アデナウアーや現代ドイツ史については,セバスチャン・ハフナー『ドイツ現代史の正しい見方』(草思社,2006)もおすすめ。同書では,アデナウアーを「奇跡の老人」と賞賛しています(この本はいずれきちんと紹介したい)。
時代の要請にこたえた「奇跡の老人」
「奇跡の老人」か・・・たしかにアデナウアーのように,「老人が新しい時代をきりひらく役割を担う」ということもあるのですね。板橋さんやハフナーも述べるように,そこには「第二次大戦後」の特殊な状況もあったでしょう。
ヒトラーという比較的若い指導者(40代で首相になっている)が,ドイツをめちゃくちゃにしたあとの時代。ナチスに深くかかわったエリートたちの多くも比較的若かった。彼らは処刑されたり「公職追放」となりました。だから戦後のドイツでは一時期,指導者層に「世代の空白」が生まれたのです。また,「若い指導者が描く新時代のビジョン」というものに,人びとが幻滅した時代でもあった。
そんななか,「奇跡の老人」の出番がまわってくるわけです。
この老人が,歴史のなかで重要な役割を担うことができたのは,新しい時代の要請にこたえる仕事をしたからでしょう。
つまり,「自由民主主義」をドイツに定着させることや,それまでの「英米などの西側に対立するドイツ」ではなく「西側の一員としてのドイツ」といった選択をおし進めた。老人だからといって,時計の針を逆にまわすようなことはしなかった。そのような「反動」勢力にたいしては戦う役割を担った。
そしてそのような彼の選択は,後世からみて「まちがっていなかった」ということです。
アデナウアーは,既得権とは離れたところで,「時代の課題」と本気で向き合うことができました。
老人の有力者で,それはめずらしいです。ふつうは,「既得権」と距離のある老人が権力を得るなどということは,まずあり得ない。しかし,時代の特殊な状況がそれをもたらした。
たいていの場合,権力を得る「老人」は,既得権にまみれています。
その既得権や,そこにかかわる古い価値から離れることができない。そして「時代の要請」を見過ごす。あるいは歪めてとらえてしまう。劣悪な場合は,時代の要請を知りつつ,それに背をむけて保身に走る。
そのような弱点を自覚しつつ頑張る「老人」もいますが,少数派です。
老人・オジさんの罪
「老人」というコトバは「オジさん」といいかえてもいいでしょう。
ここで最近読んだ,古市憲寿『だから日本はズレている』(新潮新書,2014)のことを思い出しました。
この本のテーマは著者が述べるように「現代日本におけるオジさんの罪」です。今回の文脈でいえば「時代の要請からズレまくっているオジさん」への批判。古市さんは20代おわりの若い社会学者で,売れっ子です。
古市さんによれば「オジさん」とは「既得権に無自覚に乗っかっている人」ということになるでしょう。
そういう人が,今の日本にはあふれている。
今の日本ではアデナウアー的な「奇跡のオジさん」「奇跡の老人」の登場は,ちょっと期待できないように思います。天下泰平の時代のあとだと,どうしてもそうなります。
まあ,アデナウアーのような人物は,古市さんの定義だと「オジさん」とはいえないわけですが。
ところで,私ももうすぐ50歳。年齢的にはすっかり「オジさん」なんですが,どうも「オジさん」になじめないままです・・・
(以上)
あえて,やや空いている各駅停車に乗ります。
そこでの読書は,毎日のたのしみです。
最近読んだ本を紹介します。
このシリーズの前回では,中沢弘基『生命誕生』をややくわしく紹介しました。
さらにもう1冊紹介したいです。
●板橋拓己『アデナウアー 現代ドイツを創った政治家』中公新書,2014
![]() | アデナウアー - 現代ドイツを創った政治家 (中公新書) (2014/05/23) 板橋 拓己 商品詳細を見る |
73歳から87歳まで西ドイツの首相を務めた
ドイツの大政治家の生涯。
アデナウアー(1876~1967)は,1949年に西ドイツの初代首相となり,以後1963年まで首相をつとめた人物。第二次世界大戦で敗れたあとのドイツは,1990年に再統一されるまで東西に分かれていました。
首相となったとき,彼は73歳。もともとはケルン市長であり,中央政界で要職を担うのは,このときがはじめて。そして,なんと87歳まで首相の座を守り続けた。その在任期間を歴史家は「アデナウアー時代」と呼ぶ。この時代に,現代ドイツの基礎的な枠組みがつくられました。
著者の板橋さんによれば,アデナウアー時代の政治のポイントは「自由民主主義体制の定着」と「米英などの〈西側〉への結合を決めたこと」です。
アデナウアーは現代ドイツだけでなく,世界史的にも重要な政治家の1人といえるでしょう。
でも,私たちはあまり知りません。私も,上記の基本的なことくらいは知っていましたが,彼のまとまった伝記に触れるのははじめてです。彼の生涯を通じて,20世紀のドイツ史が垣間見える本。現代ドイツ史について知りたい方には,おすすめです。
アデナウアーや現代ドイツ史については,セバスチャン・ハフナー『ドイツ現代史の正しい見方』(草思社,2006)もおすすめ。同書では,アデナウアーを「奇跡の老人」と賞賛しています(この本はいずれきちんと紹介したい)。
![]() | ドイツ現代史の正しい見方 (2006/04) セバスチャン ハフナー 商品詳細を見る |
時代の要請にこたえた「奇跡の老人」
「奇跡の老人」か・・・たしかにアデナウアーのように,「老人が新しい時代をきりひらく役割を担う」ということもあるのですね。板橋さんやハフナーも述べるように,そこには「第二次大戦後」の特殊な状況もあったでしょう。
ヒトラーという比較的若い指導者(40代で首相になっている)が,ドイツをめちゃくちゃにしたあとの時代。ナチスに深くかかわったエリートたちの多くも比較的若かった。彼らは処刑されたり「公職追放」となりました。だから戦後のドイツでは一時期,指導者層に「世代の空白」が生まれたのです。また,「若い指導者が描く新時代のビジョン」というものに,人びとが幻滅した時代でもあった。
そんななか,「奇跡の老人」の出番がまわってくるわけです。
この老人が,歴史のなかで重要な役割を担うことができたのは,新しい時代の要請にこたえる仕事をしたからでしょう。
つまり,「自由民主主義」をドイツに定着させることや,それまでの「英米などの西側に対立するドイツ」ではなく「西側の一員としてのドイツ」といった選択をおし進めた。老人だからといって,時計の針を逆にまわすようなことはしなかった。そのような「反動」勢力にたいしては戦う役割を担った。
そしてそのような彼の選択は,後世からみて「まちがっていなかった」ということです。
アデナウアーは,既得権とは離れたところで,「時代の課題」と本気で向き合うことができました。
老人の有力者で,それはめずらしいです。ふつうは,「既得権」と距離のある老人が権力を得るなどということは,まずあり得ない。しかし,時代の特殊な状況がそれをもたらした。
たいていの場合,権力を得る「老人」は,既得権にまみれています。
その既得権や,そこにかかわる古い価値から離れることができない。そして「時代の要請」を見過ごす。あるいは歪めてとらえてしまう。劣悪な場合は,時代の要請を知りつつ,それに背をむけて保身に走る。
そのような弱点を自覚しつつ頑張る「老人」もいますが,少数派です。
老人・オジさんの罪
「老人」というコトバは「オジさん」といいかえてもいいでしょう。
ここで最近読んだ,古市憲寿『だから日本はズレている』(新潮新書,2014)のことを思い出しました。
![]() | だから日本はズレている (新潮新書 566) (2014/04/17) 古市 憲寿 商品詳細を見る |
この本のテーマは著者が述べるように「現代日本におけるオジさんの罪」です。今回の文脈でいえば「時代の要請からズレまくっているオジさん」への批判。古市さんは20代おわりの若い社会学者で,売れっ子です。
古市さんによれば「オジさん」とは「既得権に無自覚に乗っかっている人」ということになるでしょう。
そういう人が,今の日本にはあふれている。
今の日本ではアデナウアー的な「奇跡のオジさん」「奇跡の老人」の登場は,ちょっと期待できないように思います。天下泰平の時代のあとだと,どうしてもそうなります。
まあ,アデナウアーのような人物は,古市さんの定義だと「オジさん」とはいえないわけですが。
ところで,私ももうすぐ50歳。年齢的にはすっかり「オジさん」なんですが,どうも「オジさん」になじめないままです・・・
(以上)
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2014年06月22日 (日) | Edit |
前回の記事で,中沢弘基『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』(講談社現代新書)という本を紹介しました。
これにかかわる補足の話を。まだ,いい足りないことがあります。
この本は,生命誕生についての新説を述べた本です。
「最初の生命は,30数億年~40億年前の太古の海で生まれた」という通説に挑んでいます。「最初の生命は地下深くで生まれ,その後海底に出て,海の中で多種多様に分化していった」というのです。その内容については,前回の記事をご覧ください。
「生命は地下で生まれた」というのは,一見いかにも突飛です。
私も,この仮説の妥当性を具体的に論評する能力がありません。
でも,突飛にみえても「トンデモ科学」とはちがいます。
そこは私にもわかる。
それは,この説が説明の根拠に用いているのが,あくまで物理・化学の一般的な自然現象だからです。
そんな自然現象の積み重ねの末に,「生命誕生」という,一種の「奇跡」が起こったと述べているのです。
この姿勢は,「生命誕生」についての,ある種のほかの「突飛」な説とはちがいます。
たとえば,「最初の地球生命は,隕石にのって宇宙からやってきた」と主張する科学者がいます。そういうのとはちがうのです。
世の中には,既存の科学で説明がむずかしい現象について,「宇宙からやってきた」と説明する人がいます。
「宇宙から」というかわりに,「霊界」や「異次元」を持ち出す人もいる。
たとえば,「最初の文明」について。
「最初の文明」といわれるものは,今から5500年ほど前に,メソポタミアのシュメール人という人たちが築きました。この時期,何万人もの人間が暮らす巨大な都市が,乾燥地帯のなかにあらわれました。
そのような都市の発展は,当時としてはきわめて急激なものでした。
だから,「都市文明が,こつぜんとあらわれた」という印象があります。
そこで,「シュメール人は宇宙からやってきたのだ」という人がいるのです。「そうでなければ説明がつかない」などという。これこそ「トンデモ科学」の世界です。
都市が急激に巨大化するというのは,「説明のつかない」話などではないはずです。
それは近代の文明の発展をみればわかります。西暦1800年ころ,世界最大の都市は,せいぜい人口100万人ほどでした(ロンドン,江戸など)。それが200年ほど経った現在,「最大の都市」というと「人口数千万人」になっている。
説明しにくい現象に出くわしたとき,私たちは安易に「宇宙人のせい」にしないで,踏みとどまらないといけないのでしょう。「生命誕生」や「文明誕生」については,まさにそうです。
***
その一方で,この本を読んでいて,「生命誕生」というのはまさに奇跡だ,とも感じました。
有機分子が大量に形成されることが,いかに困難か。
つまり,きわめて特殊な条件下でのみ起こる,ということ。
それらの有機分子が結合に結合を重ね,生命のパーツとなる複雑・巨大な分子を形成することは,さらに困難。
「母なる海」のなかで,なんとなく「自然に」形成される,などということはありえない。
しかるべきときに,しかるべき現象が,幾度も積み重なってはじめて現実化すること。
そういうイメージを,この本から受け取りました。
ということは,地球に生命が誕生して,今私たちが存在しているというのは,やはり途方もないことだと思います。
「この銀河系や宇宙全体には,無数の星があるのだから,地球外生命や地球外文明も,数多く存在するにちがいない」という考え方があります。
私たちはそんな「地球外」の存在について,まだ知らないだけだ,というわけです。
「さしあたり,火星に生命がみつかるかもしれない」という見解もあります。
でも,ほんとうにそうなのか?
「生命誕生」について,それが「きわめて困難なプロセスの末に実現する」というイメージを持つと,「宇宙にいるのは,私たちだけかもしれない」などとも思います。
少なくとも銀河系では,生命が存在するのはこの地球だけかもしれない。
著者の中沢さんは,こう述べています。
《・・・有機分子が出現して,高分子になり,さらに組織化して生命の発生にいたる,さまざまな化学反応が順序よく起こるためには,原料や触媒,あるいは反応の場の温度・圧力など,非常にたくさんの条件があります。しかもすべては都合の良い順番と時間でなければなりませんので,その星の歴史に大きく影響されます。歴史まで地球と同じことを条件に加えれば,そして恒星の数が天文学者の推定どおり2000億個であるなら,銀河系内の地球外天体に生命がある可能性は・・・おそらくゼロに近くなるのではないでしょうか》(84ページ)
だとしたら,寂しい。
どうなんだろうか……
たまには, 「宇宙規模」のことを考えてみました(^^;)
(以上)
これにかかわる補足の話を。まだ,いい足りないことがあります。
この本は,生命誕生についての新説を述べた本です。
「最初の生命は,30数億年~40億年前の太古の海で生まれた」という通説に挑んでいます。「最初の生命は地下深くで生まれ,その後海底に出て,海の中で多種多様に分化していった」というのです。その内容については,前回の記事をご覧ください。
「生命は地下で生まれた」というのは,一見いかにも突飛です。
私も,この仮説の妥当性を具体的に論評する能力がありません。
でも,突飛にみえても「トンデモ科学」とはちがいます。
そこは私にもわかる。
それは,この説が説明の根拠に用いているのが,あくまで物理・化学の一般的な自然現象だからです。
そんな自然現象の積み重ねの末に,「生命誕生」という,一種の「奇跡」が起こったと述べているのです。
この姿勢は,「生命誕生」についての,ある種のほかの「突飛」な説とはちがいます。
たとえば,「最初の地球生命は,隕石にのって宇宙からやってきた」と主張する科学者がいます。そういうのとはちがうのです。
世の中には,既存の科学で説明がむずかしい現象について,「宇宙からやってきた」と説明する人がいます。
「宇宙から」というかわりに,「霊界」や「異次元」を持ち出す人もいる。
たとえば,「最初の文明」について。
「最初の文明」といわれるものは,今から5500年ほど前に,メソポタミアのシュメール人という人たちが築きました。この時期,何万人もの人間が暮らす巨大な都市が,乾燥地帯のなかにあらわれました。
そのような都市の発展は,当時としてはきわめて急激なものでした。
だから,「都市文明が,こつぜんとあらわれた」という印象があります。
そこで,「シュメール人は宇宙からやってきたのだ」という人がいるのです。「そうでなければ説明がつかない」などという。これこそ「トンデモ科学」の世界です。
都市が急激に巨大化するというのは,「説明のつかない」話などではないはずです。
それは近代の文明の発展をみればわかります。西暦1800年ころ,世界最大の都市は,せいぜい人口100万人ほどでした(ロンドン,江戸など)。それが200年ほど経った現在,「最大の都市」というと「人口数千万人」になっている。
説明しにくい現象に出くわしたとき,私たちは安易に「宇宙人のせい」にしないで,踏みとどまらないといけないのでしょう。「生命誕生」や「文明誕生」については,まさにそうです。
***
その一方で,この本を読んでいて,「生命誕生」というのはまさに奇跡だ,とも感じました。
有機分子が大量に形成されることが,いかに困難か。
つまり,きわめて特殊な条件下でのみ起こる,ということ。
それらの有機分子が結合に結合を重ね,生命のパーツとなる複雑・巨大な分子を形成することは,さらに困難。
「母なる海」のなかで,なんとなく「自然に」形成される,などということはありえない。
しかるべきときに,しかるべき現象が,幾度も積み重なってはじめて現実化すること。
そういうイメージを,この本から受け取りました。
ということは,地球に生命が誕生して,今私たちが存在しているというのは,やはり途方もないことだと思います。
「この銀河系や宇宙全体には,無数の星があるのだから,地球外生命や地球外文明も,数多く存在するにちがいない」という考え方があります。
私たちはそんな「地球外」の存在について,まだ知らないだけだ,というわけです。
「さしあたり,火星に生命がみつかるかもしれない」という見解もあります。
でも,ほんとうにそうなのか?
「生命誕生」について,それが「きわめて困難なプロセスの末に実現する」というイメージを持つと,「宇宙にいるのは,私たちだけかもしれない」などとも思います。
少なくとも銀河系では,生命が存在するのはこの地球だけかもしれない。
著者の中沢さんは,こう述べています。
《・・・有機分子が出現して,高分子になり,さらに組織化して生命の発生にいたる,さまざまな化学反応が順序よく起こるためには,原料や触媒,あるいは反応の場の温度・圧力など,非常にたくさんの条件があります。しかもすべては都合の良い順番と時間でなければなりませんので,その星の歴史に大きく影響されます。歴史まで地球と同じことを条件に加えれば,そして恒星の数が天文学者の推定どおり2000億個であるなら,銀河系内の地球外天体に生命がある可能性は・・・おそらくゼロに近くなるのではないでしょうか》(84ページ)
だとしたら,寂しい。
どうなんだろうか……
たまには, 「宇宙規模」のことを考えてみました(^^;)
(以上)
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2014年06月20日 (金) | Edit |
東京・多摩からターミナル駅まで,片道約50分の電車通勤。
あえて,やや空いている各駅停車に乗ります。
そこでの読書は,毎日のたのしみです。
この3~4週間で読んだ本で,印象深かったものをご紹介します。
といっても,今回は1冊だけ,ちょっとくわしく。
●中沢弘基『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』講談社現代新書,2014
地球史や生命の歴史にかんする本は,かなり好きです。私の本棚の一画を占めています。きちんとした科学の知識がないので,読んでいて「よくわからない」と思うところもあります。しかし,「この世界の成り立ちを知りたい」という気持ちで読んでいます。
私の本棚でいちばん多くを占めるのは「世界史」関係の本なのですが,「地球史・生命史」は,世界史の一部だと思っています。「世界史(人類の文明の歴史)に至るまでの長い序章」ということです。
さて,この本は「生命誕生」にかんする新しい仮説を唱えたもの。
最初の生命は,30数億年~40億年前に,太古の海で誕生した,というのが通説です。
しかし著者が唱えるのは「最初の生命はまず地下で誕生し,その後海洋に出て,さまざまな種に分かれていった」というもの。生命誕生の時期は,やはり30数億年前。
「生物有機分子の地下深部進化仮説」です。
「何を突飛な」と思うかもしれません。しかし,読んでみると相当な説得力があると思いました。
著者の中沢さんによれば,今までの生命誕生にかんする研究では,「海水の中で,単純な有機物から,生命の源になる複雑な有機分子が生まれるプロセス」が解明できていない,といいます。
いくつかの仮説もありますが,実験室でそれを再現しようとしても,十分な成果があがらない。大量の水の中というのは,本来はさまざまな物質が「分子レベルでバラバラになりやすい」環境なのだそうです。複雑な有機分子ができるための,分子どうしの結合・融合が起きにくいのです。
そこで著者が唱えるのが,「地下」という環境での「物質の進化」です。
以下のような説明。
まず,太古の地球には大量の隕石が降り注いだ時期があった(40~38億年前。これはほぼ定説となっている)。隕石の衝突で生じた高温の蒸気流のなかで,生命の源となる有機分子が海中で生まれた。
この有機分子の中には水溶性で,「粘土」の粒子に吸着する性質のものがあった。それが海水中の粘土粒子に吸着していった(この粒子は,水を含んでいる)。
有機物質の吸着した粘土粒子は,海底に沈殿・堆積。
この堆積が重なっていくと,堆積の下のほうでは圧力によって,水分が圧力の少ない堆積の上部に逃げていく。つまり,「脱水」ということが起こる。
また,地下深くなるほど,温度は上がっていく。
地下の圧力,脱水,温度上昇――これらは有機物質が濃縮し,互いに結合していくのには好条件なのだそうです。
このような環境で最初の生命は生まれたのではないか。
では,地下で生まれた生命は,どうやって海洋へ出たのか?
地下深い堆積層にある熱水は,一定のプロセスを経て海底に噴出することがあるそうです(温泉みたいな感じでしょうか)。原始の生命は,その熱水に運ばれて,海底へ進出したというのです。
著者は「生命誕生に向け,具体的にどのような物質ができていったか」の仮説もうち出しています。
そして近年,賛同する科学者たちが,以上のような「隕石衝突時」や「高圧の地下」と共通する条件を実験室でつくりだし,この仮説を支持する実験結果を得ている。
「生命有機分子の地下での進化」という説を,中沢さんが最初に唱えたのは90年代のこと。
当初はほとんど注目されませんでした。それはそうでしょう。「地下に堆積した粘土の中で最初の生命が生まれた」などといっても,簡単には受け入れられないでしょう。
しかし近年,仮説を裏付ける実験結果が出てきたことで,注目されるようになってきたのです。
著者はこう述べています。
《代謝や遺伝機能をすでに具備した「生物」が,比熱が大きくつねに穏やかな大量の水の中で進化したことは確かです。…しかし,だからといって,生命になる前の無生物の「分子」も,穏やかな水の中で「自然に」進化したとする根拠はどこにもありません。
・・・分子進化のそれぞれの過程には,それぞれに物理的,化学的,地球史的必然性があるはずです。20世紀末以降,新しい地球観が成立するまで,生命が発生した頃のダイナミックな地球の姿はほとんどわかっていませんでしたので,専門家でも「太古の海は生命の母」が固定感念となっ(たのかもしれません)》(200~201ページ)
***
「粘土」というものに着目したのが,この説のポイントでしょう。「粘土」には,親水性(水に溶ける)有機分子をよく吸着する性質があり,有機化合物間の化学反応を進める触媒的機能もあるそうです。
じつは,中沢さんは「生物の専門家」とはいえないのです。もともとは物質・材料の性質についての研究者で,その分野では「大家」といえる実績のある人です。
そういう人が,中高年になってから,「生命誕生」について研究をはじめました。そこで,「粘土」というものに着目した。
また,中沢さんの視点には,「地球の進化と,生物進化の関連」をしっかり捉えようとしている,という特徴があります。
生物学者は,地球という「無生物の物質」に関する視点は弱い傾向があるでしょう。しかし,本来は「地球環境」についての突っ込んだ理解がないと,生命の誕生や進化の謎は解けないのではないか。それは私のような素人でもなんとなくわかります。そして,「地球」を理解するうえで,「物質・材料」の専門家の視点は,有効なのです。
***
私には,著者の説明の具体的なところを理解し検討する能力が欠けています。
だから,この本の「仮説」をきちんと論評することはできません。
でも,著者が専門の生物学者ではないとはいえ,一流の科学者であること,その仮説を支持する科学者たちがいて,実験的な解明をすすめているということは,たしかなようです。「生命は地下で生まれた説」は,「トンデモ科学」などではない,ということでしょう。「科学的議論に値する,それなりに有力な仮説」ということです。
ところで,中沢さんの研究に触れて連想するのは,「大陸移動説」を最初に唱えた,アルフレッド・ウェゲナー(1880~1930)のことです。
ウェゲナーは,じつは地質学者ではなく,気象学者でした。
視野の広い気象学者だった彼は,ふつうの地質学者が目を向けないような自然環境についての多様な情報に関心を持ちました。たとえば「海を隔てた大陸の両岸で,同種の生物が存在する」といったことにも着目していました。それは,「大陸移動説」を発想する源にもなったのです(もともとひとつの大陸に住んでいた同じ種が,大陸の分裂・移動によって,別々の大陸にすむようになった)。
つまり,大陸移動説は,「異分野出身の科学者による,専門の垣根を越えた研究」から生まれたわけです。そして,その発想が,「常識」を大きく超えるものだったので,当初はなかなか受け入れられなかった。
中沢さんも,自身とウェゲナーが重なると思うのか,本書の冒頭で大陸移動説やウェゲナーについてかなりのページを割いています。
中沢さんの仮説が,もしも十分な検証を経て「定説」となったら,すごいことです。
「生命」にかかわるほぼすべての科学者が信奉してきた「生命は太古の海で誕生した」という考えが,覆されるのですから。「大陸移動説」的な衝撃があるわけです。
そして,そのような説を日本の科学者が提唱している。
もちろん,さまざまな検証をくぐり抜けて,「科学」として信頼できる,というところまでたどりつけばの話です。
「30何億年前の地球で何が起こっていたか」なんて,「どうでもいい」といえば,たしかにそうです。
でも,こういう「途方もない話」も,たまにはいいです。科学の醍醐味といっていいでしょう。
通勤電車で,それをたのしませてもらったわけです。
(以上)
あえて,やや空いている各駅停車に乗ります。
そこでの読書は,毎日のたのしみです。
この3~4週間で読んだ本で,印象深かったものをご紹介します。
といっても,今回は1冊だけ,ちょっとくわしく。
●中沢弘基『生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像』講談社現代新書,2014
![]() | 生命誕生 地球史から読み解く新しい生命像 (講談社現代新書) (2014/05/16) 中沢 弘基 商品詳細を見る |
地球史や生命の歴史にかんする本は,かなり好きです。私の本棚の一画を占めています。きちんとした科学の知識がないので,読んでいて「よくわからない」と思うところもあります。しかし,「この世界の成り立ちを知りたい」という気持ちで読んでいます。
私の本棚でいちばん多くを占めるのは「世界史」関係の本なのですが,「地球史・生命史」は,世界史の一部だと思っています。「世界史(人類の文明の歴史)に至るまでの長い序章」ということです。
さて,この本は「生命誕生」にかんする新しい仮説を唱えたもの。
最初の生命は,30数億年~40億年前に,太古の海で誕生した,というのが通説です。
しかし著者が唱えるのは「最初の生命はまず地下で誕生し,その後海洋に出て,さまざまな種に分かれていった」というもの。生命誕生の時期は,やはり30数億年前。
「生物有機分子の地下深部進化仮説」です。
「何を突飛な」と思うかもしれません。しかし,読んでみると相当な説得力があると思いました。
著者の中沢さんによれば,今までの生命誕生にかんする研究では,「海水の中で,単純な有機物から,生命の源になる複雑な有機分子が生まれるプロセス」が解明できていない,といいます。
いくつかの仮説もありますが,実験室でそれを再現しようとしても,十分な成果があがらない。大量の水の中というのは,本来はさまざまな物質が「分子レベルでバラバラになりやすい」環境なのだそうです。複雑な有機分子ができるための,分子どうしの結合・融合が起きにくいのです。
そこで著者が唱えるのが,「地下」という環境での「物質の進化」です。
以下のような説明。
まず,太古の地球には大量の隕石が降り注いだ時期があった(40~38億年前。これはほぼ定説となっている)。隕石の衝突で生じた高温の蒸気流のなかで,生命の源となる有機分子が海中で生まれた。
この有機分子の中には水溶性で,「粘土」の粒子に吸着する性質のものがあった。それが海水中の粘土粒子に吸着していった(この粒子は,水を含んでいる)。
有機物質の吸着した粘土粒子は,海底に沈殿・堆積。
この堆積が重なっていくと,堆積の下のほうでは圧力によって,水分が圧力の少ない堆積の上部に逃げていく。つまり,「脱水」ということが起こる。
また,地下深くなるほど,温度は上がっていく。
地下の圧力,脱水,温度上昇――これらは有機物質が濃縮し,互いに結合していくのには好条件なのだそうです。
このような環境で最初の生命は生まれたのではないか。
では,地下で生まれた生命は,どうやって海洋へ出たのか?
地下深い堆積層にある熱水は,一定のプロセスを経て海底に噴出することがあるそうです(温泉みたいな感じでしょうか)。原始の生命は,その熱水に運ばれて,海底へ進出したというのです。
著者は「生命誕生に向け,具体的にどのような物質ができていったか」の仮説もうち出しています。
そして近年,賛同する科学者たちが,以上のような「隕石衝突時」や「高圧の地下」と共通する条件を実験室でつくりだし,この仮説を支持する実験結果を得ている。
「生命有機分子の地下での進化」という説を,中沢さんが最初に唱えたのは90年代のこと。
当初はほとんど注目されませんでした。それはそうでしょう。「地下に堆積した粘土の中で最初の生命が生まれた」などといっても,簡単には受け入れられないでしょう。
しかし近年,仮説を裏付ける実験結果が出てきたことで,注目されるようになってきたのです。
著者はこう述べています。
《代謝や遺伝機能をすでに具備した「生物」が,比熱が大きくつねに穏やかな大量の水の中で進化したことは確かです。…しかし,だからといって,生命になる前の無生物の「分子」も,穏やかな水の中で「自然に」進化したとする根拠はどこにもありません。
・・・分子進化のそれぞれの過程には,それぞれに物理的,化学的,地球史的必然性があるはずです。20世紀末以降,新しい地球観が成立するまで,生命が発生した頃のダイナミックな地球の姿はほとんどわかっていませんでしたので,専門家でも「太古の海は生命の母」が固定感念となっ(たのかもしれません)》(200~201ページ)
***
「粘土」というものに着目したのが,この説のポイントでしょう。「粘土」には,親水性(水に溶ける)有機分子をよく吸着する性質があり,有機化合物間の化学反応を進める触媒的機能もあるそうです。
じつは,中沢さんは「生物の専門家」とはいえないのです。もともとは物質・材料の性質についての研究者で,その分野では「大家」といえる実績のある人です。
そういう人が,中高年になってから,「生命誕生」について研究をはじめました。そこで,「粘土」というものに着目した。
また,中沢さんの視点には,「地球の進化と,生物進化の関連」をしっかり捉えようとしている,という特徴があります。
生物学者は,地球という「無生物の物質」に関する視点は弱い傾向があるでしょう。しかし,本来は「地球環境」についての突っ込んだ理解がないと,生命の誕生や進化の謎は解けないのではないか。それは私のような素人でもなんとなくわかります。そして,「地球」を理解するうえで,「物質・材料」の専門家の視点は,有効なのです。
***
私には,著者の説明の具体的なところを理解し検討する能力が欠けています。
だから,この本の「仮説」をきちんと論評することはできません。
でも,著者が専門の生物学者ではないとはいえ,一流の科学者であること,その仮説を支持する科学者たちがいて,実験的な解明をすすめているということは,たしかなようです。「生命は地下で生まれた説」は,「トンデモ科学」などではない,ということでしょう。「科学的議論に値する,それなりに有力な仮説」ということです。
ところで,中沢さんの研究に触れて連想するのは,「大陸移動説」を最初に唱えた,アルフレッド・ウェゲナー(1880~1930)のことです。
ウェゲナーは,じつは地質学者ではなく,気象学者でした。
視野の広い気象学者だった彼は,ふつうの地質学者が目を向けないような自然環境についての多様な情報に関心を持ちました。たとえば「海を隔てた大陸の両岸で,同種の生物が存在する」といったことにも着目していました。それは,「大陸移動説」を発想する源にもなったのです(もともとひとつの大陸に住んでいた同じ種が,大陸の分裂・移動によって,別々の大陸にすむようになった)。
つまり,大陸移動説は,「異分野出身の科学者による,専門の垣根を越えた研究」から生まれたわけです。そして,その発想が,「常識」を大きく超えるものだったので,当初はなかなか受け入れられなかった。
中沢さんも,自身とウェゲナーが重なると思うのか,本書の冒頭で大陸移動説やウェゲナーについてかなりのページを割いています。
中沢さんの仮説が,もしも十分な検証を経て「定説」となったら,すごいことです。
「生命」にかかわるほぼすべての科学者が信奉してきた「生命は太古の海で誕生した」という考えが,覆されるのですから。「大陸移動説」的な衝撃があるわけです。
そして,そのような説を日本の科学者が提唱している。
もちろん,さまざまな検証をくぐり抜けて,「科学」として信頼できる,というところまでたどりつけばの話です。
「30何億年前の地球で何が起こっていたか」なんて,「どうでもいい」といえば,たしかにそうです。
でも,こういう「途方もない話」も,たまにはいいです。科学の醍醐味といっていいでしょう。
通勤電車で,それをたのしませてもらったわけです。
(以上)
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- 通勤電車の立ち読み書斎3 『キャリア教育のウソ』ほか
2014年06月16日 (月) | Edit |
ワールドカップの日本の初戦はコートジボワールに敗れ,残念な結果でした。
ところで,コートジボワールの人口やGDP(国内総生産)って,ご存じですか?
GDPとは,その国で1年間に生産された富(付加価値)の総額のこと。その国の経済規模をあらわす数字です。
コートジボワールの人口は,2000万人(2012年),GDPは240億ドル(2011年)。
日本(1億2800万人)とくらべると,人口は約6分の1。
そしてGDPは,日本が5.9兆ドルですので,コートジボワールは日本の240~250分の1。
コートジボワールの1人あたりGDPは1200ドル。日本(46000ドル)の40分の1。
1人あたりGDPは,その国の経済の発展度を示す数字です。
同国の経済発展は,「まだまだ」ということです。
1人あたりGDPが日本の40分の1で,人口が6分の1。
GDP(経済規模)は,日本の240~250分の1。
「経済力」「国力」というモノサシでみたら,日本とコートジボワールは,くらべものになりません。
でも,「サッカー」という価値観のもとでは,そんなことはたいした意味はないわけです。
「サッカーの下の平等」といったらいいでしょうか。
それは,ワールドカップのすばらしさのひとつだと思います。
オリンピックは,こうはいかないのです。
オリンピックではたとえば「メダルの数」という尺度があります。その尺度では,大国や先進国が圧倒的に優位です。つまり,現実の国際社会のなかでのポジションが,かなりそのまま反映している。
開会式での選手団入場の行進をみると,大国と小国の差というものを感じます。アメリカのような大選手団がある一方で,たとえばアフリカの国などは,こじんまりした選手団です。1人2人しか選手がいない国もある。
ワールドカップだって,現実の「国力」と無関係ということではありません。ワールドカップ出場国は,世界のそれぞれの地域において,一定以上の規模の,存在感のある国ばかりです。
でも,出場国のなかに中国やインドはいません。
アメリカは,オリンピックのときのような圧倒的な存在ではない。
経済大国日本も,サッカーでは「発展途上国」にすぎません。
ワールドカップにおいては,現実の国家間の力関係とはかなり異なるヒエラルキー(階層)があるわけです。
南米勢が強豪であったり,アフリカ勢にもチャンスがあったりする。
コートジボワールが,経済規模200倍以上の日本を負かしたりもする。
ここでは「サッカー」こそが価値の尺度なのです(ほかに「お金」という尺度もあるようですが,それはおいておきましょう)。
こういう世界的なお祭りがあるのは,やはりすばらしい。開放感のある,いい息抜きになります。
ちなみに,つぎの対戦相手ギリシャの人口は1100万人。GDPは3000億ドル。1人あたりGDPは26000ドルです。
ギリシャのGDP(経済規模)は,日本の20分の1ということです。
でも,そんなことは関係ないのが,ワールドカップというものでした・・・それはわかっているのですが,私はついそういう数字を確認してしまうのです・・・
(以上)
ところで,コートジボワールの人口やGDP(国内総生産)って,ご存じですか?
GDPとは,その国で1年間に生産された富(付加価値)の総額のこと。その国の経済規模をあらわす数字です。
コートジボワールの人口は,2000万人(2012年),GDPは240億ドル(2011年)。
日本(1億2800万人)とくらべると,人口は約6分の1。
そしてGDPは,日本が5.9兆ドルですので,コートジボワールは日本の240~250分の1。
コートジボワールの1人あたりGDPは1200ドル。日本(46000ドル)の40分の1。
1人あたりGDPは,その国の経済の発展度を示す数字です。
同国の経済発展は,「まだまだ」ということです。
1人あたりGDPが日本の40分の1で,人口が6分の1。
GDP(経済規模)は,日本の240~250分の1。
「経済力」「国力」というモノサシでみたら,日本とコートジボワールは,くらべものになりません。
でも,「サッカー」という価値観のもとでは,そんなことはたいした意味はないわけです。
「サッカーの下の平等」といったらいいでしょうか。
それは,ワールドカップのすばらしさのひとつだと思います。
オリンピックは,こうはいかないのです。
オリンピックではたとえば「メダルの数」という尺度があります。その尺度では,大国や先進国が圧倒的に優位です。つまり,現実の国際社会のなかでのポジションが,かなりそのまま反映している。
開会式での選手団入場の行進をみると,大国と小国の差というものを感じます。アメリカのような大選手団がある一方で,たとえばアフリカの国などは,こじんまりした選手団です。1人2人しか選手がいない国もある。
ワールドカップだって,現実の「国力」と無関係ということではありません。ワールドカップ出場国は,世界のそれぞれの地域において,一定以上の規模の,存在感のある国ばかりです。
でも,出場国のなかに中国やインドはいません。
アメリカは,オリンピックのときのような圧倒的な存在ではない。
経済大国日本も,サッカーでは「発展途上国」にすぎません。
ワールドカップにおいては,現実の国家間の力関係とはかなり異なるヒエラルキー(階層)があるわけです。
南米勢が強豪であったり,アフリカ勢にもチャンスがあったりする。
コートジボワールが,経済規模200倍以上の日本を負かしたりもする。
ここでは「サッカー」こそが価値の尺度なのです(ほかに「お金」という尺度もあるようですが,それはおいておきましょう)。
こういう世界的なお祭りがあるのは,やはりすばらしい。開放感のある,いい息抜きになります。
ちなみに,つぎの対戦相手ギリシャの人口は1100万人。GDPは3000億ドル。1人あたりGDPは26000ドルです。
ギリシャのGDP(経済規模)は,日本の20分の1ということです。
でも,そんなことは関係ないのが,ワールドカップというものでした・・・それはわかっているのですが,私はついそういう数字を確認してしまうのです・・・
(以上)
2014年06月14日 (土) | Edit |

ヒカリエからみた渋谷

シアターオーブのロビー
先日の夜,渋谷の東急シアターオーブで,「オーシャンズ11」というミュージカルを観ました。
同名のハリウッド映画をミュージカル化したもの。主演は香取信吾。共演は山本耕史,観月ありさほか。
香取君がジョージ・クルーニー,山本君がブラッド・ピット,観月さんがジュリア・ロバーツというわけです。
私の妻は長年のSMAPファンです。コンサートだけでなく,メンバーが主演の舞台は,よく観に行ってます。私も何度もご一緒しております。
シアターオーブは,渋谷ヒカリエの11階にあります。
渋谷ヒカリエのような,新しい大きな建物に行くと,立派だなー,いかにもきれいだなーと感心します。
子どものころにイメージした「21世紀のピカピカの未来都市」が,かなり現実になっている。
それを建築として,本当に好きかどうかは別ですが・・・
劇場のロビーからは,渋谷の街やその先の新宿周辺が見渡せます。雨上がりの空が美しかった。(上の写真)
***
劇場の席に着くと,まわりは女性ばかり。
おしゃれな・きれいな女の子もたくさんいる。渋谷は華やか。
劇中では,香取君や山本君が,いかにもキザな伊達男という感じで歌って踊っていました。
「まるで宝塚の男役みたい」と思いました。あとで妻からきくと,この作品は「ハリウッド映画をもとにした宝塚の演目を,さらにリメイクしたもの」なんですね。どおりで。
ほんとうに男前の役者が「キザで伊達な感じ」をやると,たしかにサマになります。
「かっこいいー」という女性の声も聞こえてきました。
宝塚の男役の人がみたら,「やっぱりホンモノの男にはかなわない・・・」と嫉妬するかもしれません(おネエの人が,きれいな女性に嫉妬するみたいな感じでしょうか)。
観月ありささんは,私たちの3階席の遠くからみても,「美人」であることがはっきわかる。さすがです。
「敵役」のカジノのオーナーを演じた橋本さとしさんは,堂々たるセリフまわしや歌いっぷり。まさに「任せて安心」のプロ。
そんな様子を,楽しんできました。
こういうとき,私は「有名人をみる眼福」ということを思います。
どういうことかについては,以下をご覧ください。去年の記事の再録です。
***
有名人を見るという「眼福」
最近,東京のある繁華街のはずれを妻と歩いていて,安室奈美恵さんをすぐ近くでみかけました。
上はニットで下はぴったりしたジーンズ。帽子やサングラスは着けてません。髪型は,まさにテレビでみるロングヘア。
…などということをよろこんで書くのは,幼稚で品がないかなーというためらいが,以前の私にはありました。
でも,何年か前に本多信一さん(職業相談の大家)のエッセイで「有名人の美しい人やみごとな人をみるのは『眼福』である,つまり人のだいじな幸せだ」という意味の話を読んでから,変わりました。
「眼福(がんぷく)」というのは,「ほかでは見られないすぐれた物を見て,楽しい思いをすること」です(『新明解国語辞典』)。「眼福を得る」などというそうです。
本多さんは今70歳代で,幼いころからずっと東京の阿佐ヶ谷に住んでいます。近所に相撲部屋があったので,昭和の名力士が実家のタバコ屋に買いにきたり,駅前で将棋の名棋士をみかけたりして,「眼福」を得たのだそうです。
さて,間近でみた安室さんは,CMなどでみるお人形さんのようなキュートというより,シャープな,鍛えたバレリーナみたいな感じでした。やはりふつうの人ではない。「眼福」をいただきました。
私は多摩の奥地に住んでいて,都会にはめったに出ません。でも「上京」すると,有名人をみかけることが結構あります。東京ってすごいなー。
**
私がこれまでに得てきたいくつかの「眼福」を振り返りたくなりました。
20年近く前,20歳くらいの宮沢りえさんが,ドラマのロケをしているのを,近所の駅前でみたこと。
そのときの宮沢さんは,観音さまのようにキレイでした(今もキレイなんでしょうけど)。
学生時代(20数年前),ある映画の試写会に行ったとき,来賓の手塚治虫先生と藤子・F・不二雄先生が,休憩時間にロビーのベンチで,談笑しているのをみたこと。
神と神が話している!
これも学生時代,まだ「国民的」になる前の宮崎駿監督の新作(あるテレビシリーズ)の試写会で,監督の講演を聴いたこと。(あのころ,雑誌で知ったこういう試写会に結構行ってたな)
「どうして宮崎さんの描くおんなのこはかわいいんですか?」などと質問する若者がいましたが,宮崎監督は罵倒することなく,まじめに対応されていました。
10数年前,友人の結婚披露宴で,近くのテーブルに座っている人間国宝の歌舞伎役者・中村芝翫(しかん)さんをみたこと。美しい着物姿でした。
ふつうの人は,長丁場の披露宴のどこかでダラけたり,崩れたりするものです。私は人間国宝をちらちら見ていたのですが,いつも朗らかで,「今日はめでたい」という感じがまったく崩れないのです。どこからみても絵になる方でした。
数年前,草彅剛さん主演のお芝居を妻と観たあと,劇場近くの路上で,草彅さんを間近にみたこと。
「出待ち(劇場の出口で役者をまちぶせ)」ではなく,おわってから,近くの居酒屋で一杯やってフラフラ歩いてたら,みかけたのです。
草彅さんは,何人かのファンの女性に囲まれ,「プレゼント渡していいですか?」と声をかけられていました。「いいよー」と,上機嫌な様子でした。舞台のあとで疲れてそうなのに…
ウチの妻はSMAPの大ファンで,とくに草彅さんがひいきなのです。だから,大よろこび。数年たった今でも,ときどき思い出してほくそえんでいます。
これが,有名人をみる「眼福」というものなのでしょう。
私も,以上のことを思い出すと,なんとなく幸せな気分になります。
この手の体験は,多くの人にあるのではないでしょうか。
美しい人,何かを極めた人,そういう人をみるのは,やはりたのしい。
人間をみることは,人間にとって最大の娯楽です。
妻は,ときどき夢でSMAPメンバー,とくに草彅さんと会うそうです(笑)。
私も,夢で安室さんや手塚先生と会ってみたいけど,まだ会えていません。
(以上)
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- 有名人を見るという「眼福」(再)
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2014年06月11日 (水) | Edit |
今回は,すぐ下の前回の記事の補足です。読者の方の質問にお答えしつつ,考えたことを述べています。
前回の記事は,「二番手はどうなった? 近代における大国の興亡の歴史に学ぶ」というものでした。
およそ,つぎのような内容です。
今の世界で最強・最大の国というと,おそらくアメリカ。では「二番手」というと?
一昔前は経済大国としては日本だった。でも今は中国。大国となった中国は国際社会の中で自己主張を強めているが,大丈夫だろうか?
つまり,「一番手アメリカ」中心の世界秩序に対し,「二番手」の中国がいつか無謀な挑戦をしないか,不安なところがある。
近代の大国の興亡の歴史をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強の「一番手」に,軍事的に挑戦したケースが何度かある。その都度世界には大きな混乱や被害がもたらされた。そして,ほぼつねに「二番手」は「一番手」に敗れ去ってきた。
たとえば,1700年代のイギリス(一番手)VSフランス(二番手)。1800年代初頭のナポレオン戦争(イギリス陣営VSフランス)。
1900年代前半の2つの世界大戦は,当時の「二番手」であったドイツ陣営とイギリス・アメリカ陣営の戦い。
大戦後の「冷戦」は,新たな一番手と二番手であるアメリカとソ連の対立だった。
戦争ではないが,1980年代の日米貿易摩擦は,新たな経済大国日本が,経済でアメリカに挑戦したという面がある。
以上のいずれのケースも,「二番手」の敗北でおわっている。中国は,このような歴史の教訓に学ぶべきだが,今の様子をみると不安を感じざるをえない。
***
このような記事に対し,ある読者の方からつぎのコメントをいただきました。
《興味深く拝読しました。逆に、二番手が戦いを挑んで勝った例は、歴史上あるのでしょうか?? どこまで一般法則として通じるのかなーということが、気になりました》
以下は,このご質問にお答えしたものです。
前回の記事の「補論」になっています。
質問をいただいたことによって,考えをまとめる機会となりました。
***
コメント,ありがとうございます。ご質問の点はだいじなところで,尋ねてくださってありがたく感じております。
まず,今回の「一番手」「二番手」に関する考察は,近代史の中でのみ通用する話だと考えています。この話は,「グローバルな国際関係の成立」や「戦争が大規模化して,国力の多くの部分を動員するようになった」といったことを前提としています。
それはゆるやかにみれば1500年代以降のことだし,厳密にみれば1800年代からです。
では,1500年代以降に「二番手が一番手に戦いを挑んで勝った」例はあるのでしょうか。
1500年代後半に新興国イギリスが,スペイン帝国に戦いを挑んで勝利したケースは,それにあたるのかもしれません。イギリスとの戦争で「無敵艦隊」が破れたあたりから,急速にスペインは衰退していきます。
ただ,この時代のイギリスは明確な「二番手」とはいえなかったかもしれません。トータルな国力ではフランスのほうが上だったかもしれない。
それに,その後ストレートに「イギリスが一番」の時代が来たわけでもありません。1600年代はオランダの繁栄の時代でした。オランダは,もともとはスペイン領でしたが,1500年代後半にスペインに対し独立戦争を挑んで勝利したのです(そのときイギリスはオランダを支援しています)。
スペインVSイギリス・オランダのケースは,すっきりしないところもありますが,「第二グループ的な格下の国が一番手に挑戦して勝利し,次の時代のトップに立った事例」といえます。
その意味で,ここに「例外」が成立しているわけです。
そして,「イギリス・オランダの台頭」は,別の意味でも「例外」的です。
それは,スペインとの戦いに勝利したあとのイギリス・オランダにおいて「最初の本格的な近代社会」が成立したからです(たとえば,イギリスの清教徒革命や名誉革命は1600年代のこと)。
近代社会・近代文明の基本的な枠組みは,1600~1700年代のイギリス・オランダで形成されたと,私はとらえます。
そして,その後の近代史の展開は,「近代社会の家元」であるこれらの国を中心に展開するわけです(ただしオランダは,イギリス,フランスの数分の1の人口です。小規模なので,世界のなかでの存在感はやがて小さくなっていきました)。
そして, アメリカというのは,「家元」の親戚筋みたいなもの。だから,アメリカは独立・建国の時期をのぞいて,イギリスに真正面から戦争を挑むということはなかった。
よく知られているとは思いますが,アメリカの有力な階層のかなりの部分は,イギリスからの移民の子孫です。また,1800年代においてイギリス人は,多くの資本投資をアメリカ企業に対し行ったもりしているのです。アメリカとイギリスは,多くの面で価値観や利害をともにしてきたといっていいでしょう。
「二番手による挑戦の歴史」は,「近代社会の家元とその親戚筋」に対する「あとから近代化した国」の挑戦の歴史です。
そして,「二番手」がつねに負けてきたのは,「近代文明」というものの完全な理解や習得ができていないままに,「家元」に挑んできたからではないかと,私はとらえています。
1700年代のフランスは,専制君主が支配する絶対王政であり,市民革命を経て当時としては最も近代的な政治体制を築いていたイギリスに負けたのです。たとえば当時のイギリスは,財政の近代化によって,フランスよりもはるかに高い戦費調達能力がありました。
ナポレオンは,自身としては「自由のために戦った」といっていますし,たしかにその面はあります。しかし前近代的な専制君主でもあるわけです。彼が君臨する国家は,ほんとうの「近代国家」ではない。
ヒトラーのナチスの体制や,ソ連の社会主義は,近代的な自由主義や民主主義とは真っ向から対立するものです。
1980年代の日本については,大蔵省(当時)などの「エリート官僚」が絶大な権限を持つ「官僚支配」であるなど,「近代社会としては不完全ではないか」という見方があります。(これは現在も続いていることかもしれません)
つまり,これまで敗れてきた「二番手」は,みな「近代社会とはいえない」か「近代社会としては不十分」「近代社会としてはいびつなところがある」ということです。
そこで,記事のくりかえしになりますが,「一番手の勝利の歴史」というのは,けっきょくは「近代文明・近代社会の勝利の歴史」なのではないかと思うのです。
つまり,「〈二番手が一番手に挑戦するとつねに負ける〉という法則(みたいなもの)は,どの範囲内で有効なのか?」というご質問にお答えするとすれば,つぎのとおりです。
まず,「この話は,世界の一画に〈近代社会・近代国家〉が成立して以降の歴史において成立する」といえます。
そして,正確いえば「二番手はつねに負ける」という法則ではなく,「近代文明を理解していないと一番手にはなれない」ということです。そして,歴史的にみて二番手の国は近代文明を十分に理解しないまま,一番手に無謀な挑戦をしてきたのです。
中国がアメリカに勝利するときがくるとすれば,それは今のような体制のままではありえません。
かつてのドイツや(戦争のときの)日本やロシアのような愚かなことはせず,これから100年くらいのスパンで,黙々と平和的に「近代化」をすすめていくことです。いつかは平和的に共産党の独裁体制も解体しないといけないでしょう。むずかしいことですが…
そうすれば,もともと人口が大きな国ですから,おのずと「誰がみても世界最大・最強」になれるのです。しかし,対外戦争や内戦をおこして,それが長期化すれば,そのような可能性は当分は閉ざされてしまう。
これは中国にとっても世界にとっても不幸なので,とにかくそうならないで欲しいものです。
(以上)
前回の記事は,「二番手はどうなった? 近代における大国の興亡の歴史に学ぶ」というものでした。
およそ,つぎのような内容です。
今の世界で最強・最大の国というと,おそらくアメリカ。では「二番手」というと?
一昔前は経済大国としては日本だった。でも今は中国。大国となった中国は国際社会の中で自己主張を強めているが,大丈夫だろうか?
つまり,「一番手アメリカ」中心の世界秩序に対し,「二番手」の中国がいつか無謀な挑戦をしないか,不安なところがある。
近代の大国の興亡の歴史をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強の「一番手」に,軍事的に挑戦したケースが何度かある。その都度世界には大きな混乱や被害がもたらされた。そして,ほぼつねに「二番手」は「一番手」に敗れ去ってきた。
たとえば,1700年代のイギリス(一番手)VSフランス(二番手)。1800年代初頭のナポレオン戦争(イギリス陣営VSフランス)。
1900年代前半の2つの世界大戦は,当時の「二番手」であったドイツ陣営とイギリス・アメリカ陣営の戦い。
大戦後の「冷戦」は,新たな一番手と二番手であるアメリカとソ連の対立だった。
戦争ではないが,1980年代の日米貿易摩擦は,新たな経済大国日本が,経済でアメリカに挑戦したという面がある。
以上のいずれのケースも,「二番手」の敗北でおわっている。中国は,このような歴史の教訓に学ぶべきだが,今の様子をみると不安を感じざるをえない。
***
このような記事に対し,ある読者の方からつぎのコメントをいただきました。
《興味深く拝読しました。逆に、二番手が戦いを挑んで勝った例は、歴史上あるのでしょうか?? どこまで一般法則として通じるのかなーということが、気になりました》
以下は,このご質問にお答えしたものです。
前回の記事の「補論」になっています。
質問をいただいたことによって,考えをまとめる機会となりました。
***
コメント,ありがとうございます。ご質問の点はだいじなところで,尋ねてくださってありがたく感じております。
まず,今回の「一番手」「二番手」に関する考察は,近代史の中でのみ通用する話だと考えています。この話は,「グローバルな国際関係の成立」や「戦争が大規模化して,国力の多くの部分を動員するようになった」といったことを前提としています。
それはゆるやかにみれば1500年代以降のことだし,厳密にみれば1800年代からです。
では,1500年代以降に「二番手が一番手に戦いを挑んで勝った」例はあるのでしょうか。
1500年代後半に新興国イギリスが,スペイン帝国に戦いを挑んで勝利したケースは,それにあたるのかもしれません。イギリスとの戦争で「無敵艦隊」が破れたあたりから,急速にスペインは衰退していきます。
ただ,この時代のイギリスは明確な「二番手」とはいえなかったかもしれません。トータルな国力ではフランスのほうが上だったかもしれない。
それに,その後ストレートに「イギリスが一番」の時代が来たわけでもありません。1600年代はオランダの繁栄の時代でした。オランダは,もともとはスペイン領でしたが,1500年代後半にスペインに対し独立戦争を挑んで勝利したのです(そのときイギリスはオランダを支援しています)。
スペインVSイギリス・オランダのケースは,すっきりしないところもありますが,「第二グループ的な格下の国が一番手に挑戦して勝利し,次の時代のトップに立った事例」といえます。
その意味で,ここに「例外」が成立しているわけです。
そして,「イギリス・オランダの台頭」は,別の意味でも「例外」的です。
それは,スペインとの戦いに勝利したあとのイギリス・オランダにおいて「最初の本格的な近代社会」が成立したからです(たとえば,イギリスの清教徒革命や名誉革命は1600年代のこと)。
近代社会・近代文明の基本的な枠組みは,1600~1700年代のイギリス・オランダで形成されたと,私はとらえます。
そして,その後の近代史の展開は,「近代社会の家元」であるこれらの国を中心に展開するわけです(ただしオランダは,イギリス,フランスの数分の1の人口です。小規模なので,世界のなかでの存在感はやがて小さくなっていきました)。
そして, アメリカというのは,「家元」の親戚筋みたいなもの。だから,アメリカは独立・建国の時期をのぞいて,イギリスに真正面から戦争を挑むということはなかった。
よく知られているとは思いますが,アメリカの有力な階層のかなりの部分は,イギリスからの移民の子孫です。また,1800年代においてイギリス人は,多くの資本投資をアメリカ企業に対し行ったもりしているのです。アメリカとイギリスは,多くの面で価値観や利害をともにしてきたといっていいでしょう。
「二番手による挑戦の歴史」は,「近代社会の家元とその親戚筋」に対する「あとから近代化した国」の挑戦の歴史です。
そして,「二番手」がつねに負けてきたのは,「近代文明」というものの完全な理解や習得ができていないままに,「家元」に挑んできたからではないかと,私はとらえています。
1700年代のフランスは,専制君主が支配する絶対王政であり,市民革命を経て当時としては最も近代的な政治体制を築いていたイギリスに負けたのです。たとえば当時のイギリスは,財政の近代化によって,フランスよりもはるかに高い戦費調達能力がありました。
ナポレオンは,自身としては「自由のために戦った」といっていますし,たしかにその面はあります。しかし前近代的な専制君主でもあるわけです。彼が君臨する国家は,ほんとうの「近代国家」ではない。
ヒトラーのナチスの体制や,ソ連の社会主義は,近代的な自由主義や民主主義とは真っ向から対立するものです。
1980年代の日本については,大蔵省(当時)などの「エリート官僚」が絶大な権限を持つ「官僚支配」であるなど,「近代社会としては不完全ではないか」という見方があります。(これは現在も続いていることかもしれません)
つまり,これまで敗れてきた「二番手」は,みな「近代社会とはいえない」か「近代社会としては不十分」「近代社会としてはいびつなところがある」ということです。
そこで,記事のくりかえしになりますが,「一番手の勝利の歴史」というのは,けっきょくは「近代文明・近代社会の勝利の歴史」なのではないかと思うのです。
つまり,「〈二番手が一番手に挑戦するとつねに負ける〉という法則(みたいなもの)は,どの範囲内で有効なのか?」というご質問にお答えするとすれば,つぎのとおりです。
まず,「この話は,世界の一画に〈近代社会・近代国家〉が成立して以降の歴史において成立する」といえます。
そして,正確いえば「二番手はつねに負ける」という法則ではなく,「近代文明を理解していないと一番手にはなれない」ということです。そして,歴史的にみて二番手の国は近代文明を十分に理解しないまま,一番手に無謀な挑戦をしてきたのです。
中国がアメリカに勝利するときがくるとすれば,それは今のような体制のままではありえません。
かつてのドイツや(戦争のときの)日本やロシアのような愚かなことはせず,これから100年くらいのスパンで,黙々と平和的に「近代化」をすすめていくことです。いつかは平和的に共産党の独裁体制も解体しないといけないでしょう。むずかしいことですが…
そうすれば,もともと人口が大きな国ですから,おのずと「誰がみても世界最大・最強」になれるのです。しかし,対外戦争や内戦をおこして,それが長期化すれば,そのような可能性は当分は閉ざされてしまう。
これは中国にとっても世界にとっても不幸なので,とにかくそうならないで欲しいものです。
(以上)
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2014年06月07日 (土) | Edit |
今の世界で,最大・最強の国というと,どこでしょう?
多くの人は「アメリカ(合衆国)」というはずです。
「衰退してきた」という見方もありますが,アメリカは今も世界最大の経済大国です。
アメリカのGDPは14~15兆ドル。世界第1位の規模で,世界全体の約2割を占めます。
(GDP=国内総生産は,その国で1年間に生み出された付加価値の総額。その国の経済規模をあらわす。以下の人口なども含め,ざっくりと「2010年代はじめ」の数値)
軍事力でも圧倒的な存在で,世界の軍事費の約4割は,アメリカによるものです。人口は3.2億人で,世界第3位(1位中国:14億人,2位インド:12億人)。2000年には2.8億人でしたので,近年も人口が増えているということです。
では,アメリカに次ぐ大国・強国というと,どこでしょうか?
「二番手」の国ということです。
それは一昔前なら,少なくとも経済にかんしては,日本でした。2000年当時,日本のGDPは世界第2位で,世界の15%ほどを占めていました。
しかし,その「二番手」の座は,2010年代初頭に中国にうばわれてしまいました。現在の世界でGDP第2位というと,中国。日本は3位で,世界に占めるシェアは8%ほど。中国のGDPは,今や日本の1.2~1.3倍の規模です。
「経済大国」となった今の中国は,軍備増強もすすめています。そして,周辺諸国や国際社会への自己主張も強めています。たとえば,東南アジアの国ぐにや日本に対し,強引な「領有権」の主張をしたりしている。
今の中国は,世界の「二番手」として自信を深めています。そして,「一番手」であるアメリカ中心の世界秩序に対し,挑戦的な姿勢を示すようになってきた,といえるでしょう。
もしも,中国がそのような姿勢をさらに強めていったら,世界に大きな緊張感をもたらすはずです。
悪化すれば,かつての米ソの冷戦(1950~80年代)のように,「ひとつまちがえれば世界大戦になりかねない」状況に……これは避けないといけません。
***
この200~300年の近代における,世界の大国の興亡をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強・最大の「一番手」に挑戦して,大きな戦争になる,ということが何度かくりかえされてきました。
それは世界に大きな不幸や被害をもたらしました。
そして,挑戦者の「二番手」は,ほぼいつも負けています。
その結果,国の体制の崩壊に至っています。
例をあげていきます。まず,1700年代のイギリスとフランスの戦い。
この2国は,当時のヨーロッパの2大勢力でした。当時の最先端をいく大国でした。近代的な産業の発展や植民地の獲得でイギリスがリードする「一番手」であり,フランスはそのあとを追っていました。
1700年代に,両国は大きな戦争をくりかえしています。「スペイン継承戦争」「オーストリア継承戦争」「七年戦争」などです。その争いは当時英仏の植民地だった北米にも飛び火して,はげしい戦いがくり広げられました。
一連の戦争にフランスは破れました。そして,ばく大な戦費のために,フランスの国家財政は破綻しました。
1700年代末(1789年)にフランスでは「大革命」が起こって,ルイ王朝による支配が倒されました。その背景には,財政破たんによる政治の弱体化や混乱がありました。
つまり,1700年代における「二番手」フランスは,「一番手」イギリスに挑戦して敗れ,体制も崩壊してしまったのです。
***
しかし,「フランスの挑戦」の物語には,まだ続きがあります。
フランスでは,革命がはじまって以来10年ほどの間,さまざまな混乱がありました。しかしその後,1800年代初頭には,ナポレオンが独裁的な権力を確立したことで,ようやく国がまとまりました。
フランス革命は,国王や貴族の支配を倒した革命でした。当時のヨーロッパ諸国のほとんどは王国です。そこで「革命が自国に及んでは大変」と,周辺諸国はフランスに軍事的圧力をかけてきました。
このときフランス軍を率いて戦い,外圧をはねのけたリーダーが,ナポレオンでした。
やがて,勢いを得たナポレオンはヨーロッパの周辺諸国(イタリア,ドイツ西部,スペインなど)へ進軍し,つぎつぎと征服していったのです。
このような「ナポレオン戦争」は,じつは「フランス対イギリスの戦い」でした。ヨーロッパの「反フランス勢力」のバックには,イギリスがいました。そして,ナポレオンの大活躍は「イギリスへの挑戦」だったわけです。
しかし,ナポレオンはけっきょくイギリスとの戦いに敗れました。イギリス本土上陸をめざして大きな作戦を展開したりもしましたが,大敗しています。そのほか,さまざまな敗北の結果,彼の政権は1815年には完全に崩壊しました。
そして,ナポレオン戦争を最後に,フランスが「二番手として世界秩序に挑戦する」ことはなくなりました。その後のフランスは,イギリスなどの「一番手」と基本的には手を組んで,世界の「体制側」に立つようになりました。
***
「ナポレオン以後」の1800年代はどうだったのか?
さまざまな戦争はありました。しかし「一番手と二番手のあいだの大戦争」はなかったのです。その意味では,世界情勢は比較的安定していました。イギリスという圧倒的な「一番手」が世界に君臨していたという感じです。
「ナポレオン以後の1800年代は,比較的安定していた」というのは,「1900年代前半の,世界大戦の時代に比べれば」いうことです。
1900年代前半には,ナポレオン戦争をはるかにしのぐ規模で,「一番手と二番手の大戦争」が起こりました。2つの「世界大戦」です。
そのときの「二番手」は,ドイツでした。
ドイツは1700年代やナポレオンの時代には,「大国」とはいえませんでした。いくつもの国に分かれていて,今のような「統一的な,大きな国としてのドイツ」はまだなかったのです。
しかし,1870年代に,今のドイツに匹敵する統一国家「ドイツ帝国」が成立して,「大国」としての姿をあらわします。
この「ドイツ統一」は,日本が明治維新によって「いくつもの藩に分かれていた状態から,統一的な国家体制になった」のと似ています。
その後のドイツは大きく発展し,フランスをしのぐ「ヨーロッパ大陸最強・最大の国家」となります。「ヨーロッパ大陸」というのは,「イギリスを除くヨーロッパ」をさします。
経緯の説明は省きますが,第一次世界大戦(1914~1918)も,第二次世界大戦(1939~1945)も,「新興の大国である二番手ドイツが,一番手イギリス(とその陣営)に挑戦した」というのが基本的な構図です。
(そういえば,今年2014年は,第一次世界大戦勃発からちょうど100年なんですね)
1900年代初頭のドイツ帝国は,巨大な工業力や軍事力を持っていました。しかし,世界の植民地支配などではイギリスやフランスに遅れをとっていました。
そのような「遅れて発展した国」であるがゆえの不利な部分がいろいろあったのです。そこで「イギリス中心の世界秩序」に不満を持っていました。
第一次大戦は,「イギリス・フランスなどVSドイツ・トルコなど」の戦いでした。
そして,ドイツは破れ,イギリス・フランス側の勝利で終わりました。
なお,この戦争の終盤には,イギリス側にアメリカも参加しました。(日本は少しだけ,イギリス側で参戦)
第二次世界大戦は,以下の国ぐにの戦いでした。
「アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)VSドイツ・日本・イタリア(枢軸国)」
**
※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)
1820年 1870年 1913年
アメリカ 1.8 8.9 19.1
イギリス 5.2 9.1 8.3
ドイツ ― 6.5 8.8
フランス 5.5 6.5 5.3
日 本 ― 2.3 2.6
(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)
*上記の表は,とりあえず以下の点を確認。
・1820年時点ではアメリカはまだ小さく,フランスとイギリスは競り合っていた。
・1870年時点では,イギリスが一番で,アメリカがそれに追いついた。1870年代に統一されるドイツは,フランスに匹敵する存在だった。
・第一次大戦前夜の1913年では,アメリカが世界最大となり,一方でヨーロッパではドイツが最大となって,世界の「二番手」的な存在になっている。
**
第二次世界大戦をひき起こした中心は,ヒトラーのナチス・ドイツでした。
この大戦は,ドイツにとって「第一次大戦のリベンジ・マッチ」という性格がありました。
第一次大戦で勝利したイギリス側は,敗けたドイツに重いペナルティを課しました。2度と戦争ができないように,本格的な軍備を禁止し,ばく大な賠償金を課したのです。
第一次大戦でドイツは,ボロボロになりました。経済は荒廃・混乱して,国民の多くが苦しみました。しかし,イギリス側は苛酷な要求をしたのです。
ドイツはその後立ち直り,1920年代には安定した時期もありました。しかし,1929年にはじまった世界大恐慌をきっかけに,ふたたび政治・経済は混乱しました。
そんなドイツで「愛国心」を訴え,「立ち上がろう」と呼びかけたのが,ヒトラーでした。
1933年に選挙を通して政権を得たヒトラーは,政治的手腕を発揮して,大恐慌後の経済の混乱をおさめることに成功しました。そして国民の圧倒的な支持をもとに絶対的な独裁者になったのでした。
その後,ヒトラーは軍事増強をすすめます。「イギリスへのリベンジ」「ドイツが最強であることを示す」といったことがヒトラーの目標でした。
1930年代後半になると,ヒトラーは「目標」の実現に向けて,周辺諸国への侵略をはじめます。そして,途中までは連戦・連勝でした。一時はフランスを含め,ヨーロッパ大陸の主要部をほぼ制圧してしまったのでした。第二次世界大戦は「ヒトラーの戦争」だったといえるでしょう。
しかしけっきょく,イギリス・アメリカとの戦いに敗れて,ナチス・ドイツは崩壊してしまいます。
戦後,ドイツは東西に分割され,1990年に再統一されるまで,その状態が続きました。分割されたドイツは小粒になって,「二番手」ではなくなりました。
***
第二次世界大戦後の世界は,新しい「一番手」と「二番手」の時代になりました。
新しい一番手は,アメリカです。
二番手は,ソ連(ソビエト連邦)です。
ソ連は,1917年にそれまでの帝政ロシアの政権が倒されて成立した,社会主義国家です。
社会主義体制となったロシアは,その後今のウクライナ,カザフスタン,バルト三国等々の周辺諸国を併合して,巨大な連邦国家をつくりました。それが「ソビエト連邦」です。この国は1991年の体制崩壊まで続きました。
アメリカは,それまでの「一番手」であったイギリスと戦わずして,「新チャンピオン」となりました。
すでに1800年代末に,アメリカの工業力は,それまでトップだったイギリスを超えて世界一になっていました。
ただ,当時のアメリカはまだまだ「新興国」で,軍事力や文化の力を含めたトータルな実力では,「イギリスをしのいでいる」とはいえませんでした。
しかし,第二次世界大戦後には,アメリカは世界のなかで圧倒的な存在になっていました。
アメリカじたいがさらに発展したことに加え,イギリスは戦争のダメージが大きく,多くの植民地も失って,すっかり勢いをなくしたからです。
そんななか,新しい「超大国」としてソ連が頭角をあらわしたのでした。
これまでの話では省略していましたが,じつはソ連=ロシアは,ナポレオンやヒトラーの野心をくじくうえで大きな役割を果たしています。
ナポレオンもヒトラーも,「第一の敵」はイギリス(とその陣営)でしたが,ロシアを「もう一つの重要な敵」として位置づけ,戦争をしかけているのです。そして,両者ともロシアとの戦争をはじめたことで,「泥沼」にはまっていきました。
さらに,ナポレオンもヒトラーも,ロシアとの戦いには敗れました。それが契機となって最終的な敗北へと転げ落ちていったのでした。
ロシアは歴史的に「二番手の野望に立ちはだかった国」だったわけです。
しかし,第二次世界大戦後のロシア=ソ連は,自らが「一番手に敵対する二番手」となりました。
ソ連は,巨大な連邦国家を築くだけでなく,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国を属国化して「社会主義国の陣営」を組織し,その絶対的なリーダーとなりました。
その結果,世界のおもな国ぐには「アメリカを中心とする〈自由主義≒資本主義〉の陣営」と「ソ連を中心とする社会主義の陣営」に分かれて対立するようになりました。
アメリカ側は「西側」,ソ連の側は「東側」とも呼ばれました。両者の対立は1950~60年代にはとくに深刻となり,一時は「核戦争」さえおこりかねない状況でした。「東西冷戦」の時代です。
米ソが直接戦火を交えることはありませんでした。しかし,朝鮮戦争のような「代理戦争」はありました。つまり,ある国において,米ソそれぞれがかかわる勢力が激しく戦うということがあったのです。
そして,地球を何十回も滅ぼすことができるほどの核ミサイルを配備して,おたがいににらみあっていたのです。戦火を交えなくても,ほとんど臨戦状態。だから「冷戦」というわけです。「冷戦こそが第三次世界大戦だった」といってもいいかもしれません。
冷戦時代のソ連には勢いがありました。1950年当時の世界で,GDPが最大だったのはアメリカで,世界のGDPの27%を占めていました。そして,第2位はソ連で,10%を占めていたのです。3位はイギリスで,7%でした。(アンガス・マディソンの前掲書による)
また,1957年に世界ではじめて人工衛星を打ち上げたのも,1961年にはじめての有人宇宙飛行に成功したのもソ連でした。そのような力があったからこそ,アメリカに対抗できたのです。
しかし,ソ連の勢いは続きませんでした。ソ連の社会主義体制は,あまりに非効率で理不尽で,人びとの創意やエネルギーをダメにしてしまうものでした。
1970年代以降は,ソ連のさまざまな歪みがしだいにはっきりしていきます。
1980年代には,政治も経済も明らかにボロボロになっていました。科学技術でも西側に大きく後れをとるようになりました。1980年代後半にはゴルバチョフという改革者があらわれて再編成を試みますが,けっきょく1991年にソ連は崩壊してしまいました。
つまり,「二番手ソ連」は,「一番手アメリカ」との戦いに敗れ,崩れ去ったのです。自滅していった,といえるでしょう。
***
ソ連のあと,強力なアメリカへの挑戦者は,あらわれていません。
ただし,1980年代の日本は「二番手の経済大国」として,アメリカに経済の戦いを挑んだ」といえるのかもしれません。
高度経済成長(1950~60年代)を経た日本は,1960年代末までには西ドイツやソ連を抜いて「GDP(GNP)世界第2位」の経済大国になりました。
1990年には,日本のGDPは世界の14%ほどを占めるようになっていました。これは,世界1位のアメリカに対し5割の規模です。
日本がこれまでに「1位との差」を最も縮めたのは,このように「アメリカの半分」に達したときでした。
しかし,前にも述べたように今の日本のシェアは世界の7~8%ほど で,アメリカの3割になっています。
1980年代には,自動車などのさまざまな日本の工業製品が世界を席巻しました。
日本からの大量の輸出品が,欧米の国内産業をおびやかしたために,両者のあいだの政治的対立,つまり「貿易摩擦」がとくにはげしくなったりもしました。
この「貿易摩擦」は,日本にとって最大の貿易相手であったアメリカとのあいだで,最も深刻でした。
また,1980年代後半の日本企業は,積極的にアメリカの不動産を買収したりもしました。その買収物件のなかには,アメリカ人にとっておなじみの有名な建物・施設もあったので,アメリカ人の反発も生じました。
「日本はやがて世界一の経済大国になる!」と息巻く「識者」も,当時はいたのです。若い人には信じられないかもしれませんが。
しかし,ご存じのとおり,そのような日本の勢いは続きませんでした。
1990年代初頭の「バブル崩壊」以降,日本経済は長い低迷期に入ります。世界のGDPに占める割合も低下するなど,世界のなかでの存在感もやや薄れてきています。2010年代には,「GDP世界2位」の座も中国にとって替わられました。
1980年代から今日に至る日本は,「〈二番手〉としてささやかに・平和的にアメリカに挑戦し,敗れ去った」といえるでしょう。
これは,第二次大戦の「敗戦」以来の,大きな「負け」です。
大戦のときは,「二番手」などまだ遠くおよばないレベルのうちに,アメリカという巨大な「一番手」に無謀な挑戦をして,悲惨な結果となりました。1980年代には,大きく成長した「二番手」として再挑戦しましたが,やはり勝てなかったのです。
***
そして,2010年代の今,中国という新しい「二番手」が姿をあらわしてきました。
この新しい「二番手」がどのようなスタンスや行動をとるかで,世界は変わってきます。
中国の人びとは,ここで述べたような世界史の基本的な事実は,しっかりふまえておいたほうがいいでしょう。
つまり,「二番手が,戦争というかたちで一番手に挑戦するたび,世界は大きな混乱や不幸にまきこまれてきた」ということ。
そして,だいじなのは「いつも二番手は,一番手に負けてきた」ということ。
そういうと,「アメリカによる世界支配を肯定するのか」と,怒る人がいるかもしれません。
でもこれは「アメリカの優位を良しとする」というのとは,別次元のことだと思っています。とにかく「事実」をしっかりおさえよう,ということです。
イギリスまたはアメリカが中心の「世界秩序」への挑戦は,この300年間,つねに悲劇を生み,失敗してきました。この「挑戦」に立ちはだかる壁は,きわめて厚いのです。
「それはなぜなのか」については,ここでは踏み込みません。
ただ,少しだけ述べておくと,それはけっきょく「近代の文明の威力」ということだと思います。
1800年代のイギリスと,1900年代以降のアメリカは,世界において「近代」のトップランナーでした。近代的な科学技術や政治・経済の運営において,トップを走っていたのです。
ほかの国が部分的に何かで上回ることはありました。一時期のドイツの科学技術や,日本の工業や,ソ連の宇宙開発などは,そうです。しかし,「近代の遺産をトータルに使いこなす」という点では,かつてのイギリスや今のアメリカをしのぐ国はあらわれなかったのです。
その意味で私は,「勝利してきたのは,イギリス,アメリカといった個々の国家というよりも,それらの国の力の源となった〈近代の文明〉ではないか」と思っています。
そして,「近代の文明」はイギリス,アメリカの独占物ではないはずです。
それはこれまで,世界のさまざまな国ぐにが「近代」を受け入れること,あるいはより高いレベルで受け入れることによって,発展してきたのをみればわかります。明治以降の日本は,そのいい例です。
また,アメリカだって,もしも将来「近代の精神」を失っていくとすれば,衰退していくにちがいありません。
「挑戦して敗れた」国のうち,フランスやドイツや日本の人びとは,多かれ少なかれ,「近代の威力」というものを思い知ったのでしょう。
だからこそ,それらの国ぐには,「敗れた」のちはイギリス・アメリカ陣営に加わりました。それに反対する人もいた(今もいる)わけですが,かなりの人が「あっちへ加わったほうがいい」と感じたのも事実でしょう。だから,現在がある。
不安なのは,今の中国の人たちは,まだ「思い知っていない」ということです。
かつてのフランス人やドイツ人や日本人のような大やけどをしていない。
だから,無邪気に「これからは中国が世界を制覇する」「中華帝国を復興しよう」などという人が,エリートにも庶民にもいるわけです。
中国人は,歴史に学ぶことができるでしょうか?
むずかしいかもしれません。なにしろ,社会主義や冷戦を経験し,一度は「やけど」をしたはずのロシア人でさえ,今の政権のもとで「西側」への挑戦的な姿勢を強めているのです。
しかし,むずかしいのだとしても,「歴史に学ぶ」ことについては,私たちはくりかえし確認しなくてはいけないはずです。
(以上)
多くの人は「アメリカ(合衆国)」というはずです。
「衰退してきた」という見方もありますが,アメリカは今も世界最大の経済大国です。
アメリカのGDPは14~15兆ドル。世界第1位の規模で,世界全体の約2割を占めます。
(GDP=国内総生産は,その国で1年間に生み出された付加価値の総額。その国の経済規模をあらわす。以下の人口なども含め,ざっくりと「2010年代はじめ」の数値)
軍事力でも圧倒的な存在で,世界の軍事費の約4割は,アメリカによるものです。人口は3.2億人で,世界第3位(1位中国:14億人,2位インド:12億人)。2000年には2.8億人でしたので,近年も人口が増えているということです。
では,アメリカに次ぐ大国・強国というと,どこでしょうか?
「二番手」の国ということです。
それは一昔前なら,少なくとも経済にかんしては,日本でした。2000年当時,日本のGDPは世界第2位で,世界の15%ほどを占めていました。
しかし,その「二番手」の座は,2010年代初頭に中国にうばわれてしまいました。現在の世界でGDP第2位というと,中国。日本は3位で,世界に占めるシェアは8%ほど。中国のGDPは,今や日本の1.2~1.3倍の規模です。
「経済大国」となった今の中国は,軍備増強もすすめています。そして,周辺諸国や国際社会への自己主張も強めています。たとえば,東南アジアの国ぐにや日本に対し,強引な「領有権」の主張をしたりしている。
今の中国は,世界の「二番手」として自信を深めています。そして,「一番手」であるアメリカ中心の世界秩序に対し,挑戦的な姿勢を示すようになってきた,といえるでしょう。
もしも,中国がそのような姿勢をさらに強めていったら,世界に大きな緊張感をもたらすはずです。
悪化すれば,かつての米ソの冷戦(1950~80年代)のように,「ひとつまちがえれば世界大戦になりかねない」状況に……これは避けないといけません。
***
この200~300年の近代における,世界の大国の興亡をみると,それぞれの時代の「二番手」が最強・最大の「一番手」に挑戦して,大きな戦争になる,ということが何度かくりかえされてきました。
それは世界に大きな不幸や被害をもたらしました。
そして,挑戦者の「二番手」は,ほぼいつも負けています。
その結果,国の体制の崩壊に至っています。
例をあげていきます。まず,1700年代のイギリスとフランスの戦い。
この2国は,当時のヨーロッパの2大勢力でした。当時の最先端をいく大国でした。近代的な産業の発展や植民地の獲得でイギリスがリードする「一番手」であり,フランスはそのあとを追っていました。
1700年代に,両国は大きな戦争をくりかえしています。「スペイン継承戦争」「オーストリア継承戦争」「七年戦争」などです。その争いは当時英仏の植民地だった北米にも飛び火して,はげしい戦いがくり広げられました。
一連の戦争にフランスは破れました。そして,ばく大な戦費のために,フランスの国家財政は破綻しました。
1700年代末(1789年)にフランスでは「大革命」が起こって,ルイ王朝による支配が倒されました。その背景には,財政破たんによる政治の弱体化や混乱がありました。
つまり,1700年代における「二番手」フランスは,「一番手」イギリスに挑戦して敗れ,体制も崩壊してしまったのです。
***
しかし,「フランスの挑戦」の物語には,まだ続きがあります。
フランスでは,革命がはじまって以来10年ほどの間,さまざまな混乱がありました。しかしその後,1800年代初頭には,ナポレオンが独裁的な権力を確立したことで,ようやく国がまとまりました。
フランス革命は,国王や貴族の支配を倒した革命でした。当時のヨーロッパ諸国のほとんどは王国です。そこで「革命が自国に及んでは大変」と,周辺諸国はフランスに軍事的圧力をかけてきました。
このときフランス軍を率いて戦い,外圧をはねのけたリーダーが,ナポレオンでした。
やがて,勢いを得たナポレオンはヨーロッパの周辺諸国(イタリア,ドイツ西部,スペインなど)へ進軍し,つぎつぎと征服していったのです。
このような「ナポレオン戦争」は,じつは「フランス対イギリスの戦い」でした。ヨーロッパの「反フランス勢力」のバックには,イギリスがいました。そして,ナポレオンの大活躍は「イギリスへの挑戦」だったわけです。
しかし,ナポレオンはけっきょくイギリスとの戦いに敗れました。イギリス本土上陸をめざして大きな作戦を展開したりもしましたが,大敗しています。そのほか,さまざまな敗北の結果,彼の政権は1815年には完全に崩壊しました。
そして,ナポレオン戦争を最後に,フランスが「二番手として世界秩序に挑戦する」ことはなくなりました。その後のフランスは,イギリスなどの「一番手」と基本的には手を組んで,世界の「体制側」に立つようになりました。
***
「ナポレオン以後」の1800年代はどうだったのか?
さまざまな戦争はありました。しかし「一番手と二番手のあいだの大戦争」はなかったのです。その意味では,世界情勢は比較的安定していました。イギリスという圧倒的な「一番手」が世界に君臨していたという感じです。
「ナポレオン以後の1800年代は,比較的安定していた」というのは,「1900年代前半の,世界大戦の時代に比べれば」いうことです。
1900年代前半には,ナポレオン戦争をはるかにしのぐ規模で,「一番手と二番手の大戦争」が起こりました。2つの「世界大戦」です。
そのときの「二番手」は,ドイツでした。
ドイツは1700年代やナポレオンの時代には,「大国」とはいえませんでした。いくつもの国に分かれていて,今のような「統一的な,大きな国としてのドイツ」はまだなかったのです。
しかし,1870年代に,今のドイツに匹敵する統一国家「ドイツ帝国」が成立して,「大国」としての姿をあらわします。
この「ドイツ統一」は,日本が明治維新によって「いくつもの藩に分かれていた状態から,統一的な国家体制になった」のと似ています。
その後のドイツは大きく発展し,フランスをしのぐ「ヨーロッパ大陸最強・最大の国家」となります。「ヨーロッパ大陸」というのは,「イギリスを除くヨーロッパ」をさします。
経緯の説明は省きますが,第一次世界大戦(1914~1918)も,第二次世界大戦(1939~1945)も,「新興の大国である二番手ドイツが,一番手イギリス(とその陣営)に挑戦した」というのが基本的な構図です。
(そういえば,今年2014年は,第一次世界大戦勃発からちょうど100年なんですね)
1900年代初頭のドイツ帝国は,巨大な工業力や軍事力を持っていました。しかし,世界の植民地支配などではイギリスやフランスに遅れをとっていました。
そのような「遅れて発展した国」であるがゆえの不利な部分がいろいろあったのです。そこで「イギリス中心の世界秩序」に不満を持っていました。
第一次大戦は,「イギリス・フランスなどVSドイツ・トルコなど」の戦いでした。
そして,ドイツは破れ,イギリス・フランス側の勝利で終わりました。
なお,この戦争の終盤には,イギリス側にアメリカも参加しました。(日本は少しだけ,イギリス側で参戦)
第二次世界大戦は,以下の国ぐにの戦いでした。
「アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国など(連合国)VSドイツ・日本・イタリア(枢軸国)」
**
※世界全体のGDPに占める主要国のシェア(%)
1820年 1870年 1913年
アメリカ 1.8 8.9 19.1
イギリス 5.2 9.1 8.3
ドイツ ― 6.5 8.8
フランス 5.5 6.5 5.3
日 本 ― 2.3 2.6
(アンガス・マディソン『経済統計で見る世界経済2000年史』より)
*上記の表は,とりあえず以下の点を確認。
・1820年時点ではアメリカはまだ小さく,フランスとイギリスは競り合っていた。
・1870年時点では,イギリスが一番で,アメリカがそれに追いついた。1870年代に統一されるドイツは,フランスに匹敵する存在だった。
・第一次大戦前夜の1913年では,アメリカが世界最大となり,一方でヨーロッパではドイツが最大となって,世界の「二番手」的な存在になっている。
**
第二次世界大戦をひき起こした中心は,ヒトラーのナチス・ドイツでした。
この大戦は,ドイツにとって「第一次大戦のリベンジ・マッチ」という性格がありました。
第一次大戦で勝利したイギリス側は,敗けたドイツに重いペナルティを課しました。2度と戦争ができないように,本格的な軍備を禁止し,ばく大な賠償金を課したのです。
第一次大戦でドイツは,ボロボロになりました。経済は荒廃・混乱して,国民の多くが苦しみました。しかし,イギリス側は苛酷な要求をしたのです。
ドイツはその後立ち直り,1920年代には安定した時期もありました。しかし,1929年にはじまった世界大恐慌をきっかけに,ふたたび政治・経済は混乱しました。
そんなドイツで「愛国心」を訴え,「立ち上がろう」と呼びかけたのが,ヒトラーでした。
1933年に選挙を通して政権を得たヒトラーは,政治的手腕を発揮して,大恐慌後の経済の混乱をおさめることに成功しました。そして国民の圧倒的な支持をもとに絶対的な独裁者になったのでした。
その後,ヒトラーは軍事増強をすすめます。「イギリスへのリベンジ」「ドイツが最強であることを示す」といったことがヒトラーの目標でした。
1930年代後半になると,ヒトラーは「目標」の実現に向けて,周辺諸国への侵略をはじめます。そして,途中までは連戦・連勝でした。一時はフランスを含め,ヨーロッパ大陸の主要部をほぼ制圧してしまったのでした。第二次世界大戦は「ヒトラーの戦争」だったといえるでしょう。
しかしけっきょく,イギリス・アメリカとの戦いに敗れて,ナチス・ドイツは崩壊してしまいます。
戦後,ドイツは東西に分割され,1990年に再統一されるまで,その状態が続きました。分割されたドイツは小粒になって,「二番手」ではなくなりました。
***
第二次世界大戦後の世界は,新しい「一番手」と「二番手」の時代になりました。
新しい一番手は,アメリカです。
二番手は,ソ連(ソビエト連邦)です。
ソ連は,1917年にそれまでの帝政ロシアの政権が倒されて成立した,社会主義国家です。
社会主義体制となったロシアは,その後今のウクライナ,カザフスタン,バルト三国等々の周辺諸国を併合して,巨大な連邦国家をつくりました。それが「ソビエト連邦」です。この国は1991年の体制崩壊まで続きました。
アメリカは,それまでの「一番手」であったイギリスと戦わずして,「新チャンピオン」となりました。
すでに1800年代末に,アメリカの工業力は,それまでトップだったイギリスを超えて世界一になっていました。
ただ,当時のアメリカはまだまだ「新興国」で,軍事力や文化の力を含めたトータルな実力では,「イギリスをしのいでいる」とはいえませんでした。
しかし,第二次世界大戦後には,アメリカは世界のなかで圧倒的な存在になっていました。
アメリカじたいがさらに発展したことに加え,イギリスは戦争のダメージが大きく,多くの植民地も失って,すっかり勢いをなくしたからです。
そんななか,新しい「超大国」としてソ連が頭角をあらわしたのでした。
これまでの話では省略していましたが,じつはソ連=ロシアは,ナポレオンやヒトラーの野心をくじくうえで大きな役割を果たしています。
ナポレオンもヒトラーも,「第一の敵」はイギリス(とその陣営)でしたが,ロシアを「もう一つの重要な敵」として位置づけ,戦争をしかけているのです。そして,両者ともロシアとの戦争をはじめたことで,「泥沼」にはまっていきました。
さらに,ナポレオンもヒトラーも,ロシアとの戦いには敗れました。それが契機となって最終的な敗北へと転げ落ちていったのでした。
ロシアは歴史的に「二番手の野望に立ちはだかった国」だったわけです。
しかし,第二次世界大戦後のロシア=ソ連は,自らが「一番手に敵対する二番手」となりました。
ソ連は,巨大な連邦国家を築くだけでなく,ポーランド,チェコスロバキア,ハンガリーなどの東ヨーロッパ諸国を属国化して「社会主義国の陣営」を組織し,その絶対的なリーダーとなりました。
その結果,世界のおもな国ぐには「アメリカを中心とする〈自由主義≒資本主義〉の陣営」と「ソ連を中心とする社会主義の陣営」に分かれて対立するようになりました。
アメリカ側は「西側」,ソ連の側は「東側」とも呼ばれました。両者の対立は1950~60年代にはとくに深刻となり,一時は「核戦争」さえおこりかねない状況でした。「東西冷戦」の時代です。
米ソが直接戦火を交えることはありませんでした。しかし,朝鮮戦争のような「代理戦争」はありました。つまり,ある国において,米ソそれぞれがかかわる勢力が激しく戦うということがあったのです。
そして,地球を何十回も滅ぼすことができるほどの核ミサイルを配備して,おたがいににらみあっていたのです。戦火を交えなくても,ほとんど臨戦状態。だから「冷戦」というわけです。「冷戦こそが第三次世界大戦だった」といってもいいかもしれません。
冷戦時代のソ連には勢いがありました。1950年当時の世界で,GDPが最大だったのはアメリカで,世界のGDPの27%を占めていました。そして,第2位はソ連で,10%を占めていたのです。3位はイギリスで,7%でした。(アンガス・マディソンの前掲書による)
また,1957年に世界ではじめて人工衛星を打ち上げたのも,1961年にはじめての有人宇宙飛行に成功したのもソ連でした。そのような力があったからこそ,アメリカに対抗できたのです。
しかし,ソ連の勢いは続きませんでした。ソ連の社会主義体制は,あまりに非効率で理不尽で,人びとの創意やエネルギーをダメにしてしまうものでした。
1970年代以降は,ソ連のさまざまな歪みがしだいにはっきりしていきます。
1980年代には,政治も経済も明らかにボロボロになっていました。科学技術でも西側に大きく後れをとるようになりました。1980年代後半にはゴルバチョフという改革者があらわれて再編成を試みますが,けっきょく1991年にソ連は崩壊してしまいました。
つまり,「二番手ソ連」は,「一番手アメリカ」との戦いに敗れ,崩れ去ったのです。自滅していった,といえるでしょう。
***
ソ連のあと,強力なアメリカへの挑戦者は,あらわれていません。
ただし,1980年代の日本は「二番手の経済大国」として,アメリカに経済の戦いを挑んだ」といえるのかもしれません。
高度経済成長(1950~60年代)を経た日本は,1960年代末までには西ドイツやソ連を抜いて「GDP(GNP)世界第2位」の経済大国になりました。
1990年には,日本のGDPは世界の14%ほどを占めるようになっていました。これは,世界1位のアメリカに対し5割の規模です。
日本がこれまでに「1位との差」を最も縮めたのは,このように「アメリカの半分」に達したときでした。
しかし,前にも述べたように今の日本のシェアは世界の7~8%ほど で,アメリカの3割になっています。
1980年代には,自動車などのさまざまな日本の工業製品が世界を席巻しました。
日本からの大量の輸出品が,欧米の国内産業をおびやかしたために,両者のあいだの政治的対立,つまり「貿易摩擦」がとくにはげしくなったりもしました。
この「貿易摩擦」は,日本にとって最大の貿易相手であったアメリカとのあいだで,最も深刻でした。
また,1980年代後半の日本企業は,積極的にアメリカの不動産を買収したりもしました。その買収物件のなかには,アメリカ人にとっておなじみの有名な建物・施設もあったので,アメリカ人の反発も生じました。
「日本はやがて世界一の経済大国になる!」と息巻く「識者」も,当時はいたのです。若い人には信じられないかもしれませんが。
しかし,ご存じのとおり,そのような日本の勢いは続きませんでした。
1990年代初頭の「バブル崩壊」以降,日本経済は長い低迷期に入ります。世界のGDPに占める割合も低下するなど,世界のなかでの存在感もやや薄れてきています。2010年代には,「GDP世界2位」の座も中国にとって替わられました。
1980年代から今日に至る日本は,「〈二番手〉としてささやかに・平和的にアメリカに挑戦し,敗れ去った」といえるでしょう。
これは,第二次大戦の「敗戦」以来の,大きな「負け」です。
大戦のときは,「二番手」などまだ遠くおよばないレベルのうちに,アメリカという巨大な「一番手」に無謀な挑戦をして,悲惨な結果となりました。1980年代には,大きく成長した「二番手」として再挑戦しましたが,やはり勝てなかったのです。
***
そして,2010年代の今,中国という新しい「二番手」が姿をあらわしてきました。
この新しい「二番手」がどのようなスタンスや行動をとるかで,世界は変わってきます。
中国の人びとは,ここで述べたような世界史の基本的な事実は,しっかりふまえておいたほうがいいでしょう。
つまり,「二番手が,戦争というかたちで一番手に挑戦するたび,世界は大きな混乱や不幸にまきこまれてきた」ということ。
そして,だいじなのは「いつも二番手は,一番手に負けてきた」ということ。
そういうと,「アメリカによる世界支配を肯定するのか」と,怒る人がいるかもしれません。
でもこれは「アメリカの優位を良しとする」というのとは,別次元のことだと思っています。とにかく「事実」をしっかりおさえよう,ということです。
イギリスまたはアメリカが中心の「世界秩序」への挑戦は,この300年間,つねに悲劇を生み,失敗してきました。この「挑戦」に立ちはだかる壁は,きわめて厚いのです。
「それはなぜなのか」については,ここでは踏み込みません。
ただ,少しだけ述べておくと,それはけっきょく「近代の文明の威力」ということだと思います。
1800年代のイギリスと,1900年代以降のアメリカは,世界において「近代」のトップランナーでした。近代的な科学技術や政治・経済の運営において,トップを走っていたのです。
ほかの国が部分的に何かで上回ることはありました。一時期のドイツの科学技術や,日本の工業や,ソ連の宇宙開発などは,そうです。しかし,「近代の遺産をトータルに使いこなす」という点では,かつてのイギリスや今のアメリカをしのぐ国はあらわれなかったのです。
その意味で私は,「勝利してきたのは,イギリス,アメリカといった個々の国家というよりも,それらの国の力の源となった〈近代の文明〉ではないか」と思っています。
そして,「近代の文明」はイギリス,アメリカの独占物ではないはずです。
それはこれまで,世界のさまざまな国ぐにが「近代」を受け入れること,あるいはより高いレベルで受け入れることによって,発展してきたのをみればわかります。明治以降の日本は,そのいい例です。
また,アメリカだって,もしも将来「近代の精神」を失っていくとすれば,衰退していくにちがいありません。
「挑戦して敗れた」国のうち,フランスやドイツや日本の人びとは,多かれ少なかれ,「近代の威力」というものを思い知ったのでしょう。
だからこそ,それらの国ぐには,「敗れた」のちはイギリス・アメリカ陣営に加わりました。それに反対する人もいた(今もいる)わけですが,かなりの人が「あっちへ加わったほうがいい」と感じたのも事実でしょう。だから,現在がある。
不安なのは,今の中国の人たちは,まだ「思い知っていない」ということです。
かつてのフランス人やドイツ人や日本人のような大やけどをしていない。
だから,無邪気に「これからは中国が世界を制覇する」「中華帝国を復興しよう」などという人が,エリートにも庶民にもいるわけです。
中国人は,歴史に学ぶことができるでしょうか?
むずかしいかもしれません。なにしろ,社会主義や冷戦を経験し,一度は「やけど」をしたはずのロシア人でさえ,今の政権のもとで「西側」への挑戦的な姿勢を強めているのです。
しかし,むずかしいのだとしても,「歴史に学ぶ」ことについては,私たちはくりかえし確認しなくてはいけないはずです。
(以上)
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- ヒトラーについて考える・あとがき
- ヒトラーについて考える・本編
2014年06月04日 (水) | Edit |
明日6月5日は『国富論』の著者アダム・スミスの誕生日。
そこで彼の四百文字の偉人伝を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。
アダム・スミス
パトロンの援助が名著を生んだ
アダム・スミス(1723~1790 イギリス)の『国富論』は,経済学史上の偉大な古典です。
では,岩波文庫版で全4巻になるこの大著を書いたときのスミスの職業は何だったのでしょうか? 大学教授? 公務員? 貴族や資産家?
どれもちがいます。彼は,大学教授だったこともありますが,『国富論』を書いているときには辞めていました。貴族やお金持ちでもありません。
では,どうやって食べていたのでしょうか?
じつは,ある公爵が「お金の面倒はみるから」ということで,十分な年金を出してくれていたのです。これは,その公爵の「家庭教師」としての報酬なのですが,実際にはその仕事に時間を取られることはありませんでした。
彼は,9年間著作に専念して『国富論』を完成させました。「研究のことだけ考えていられる環境」を用意してくれたパトロンのおかげで,不朽の名著が生まれたのです。
参考:バカン著・山岡洋一訳『真説アダム・スミス』(日経PB社,2009),浜林正夫,鈴木亮著『(人と思想)アダム=スミス』(清水書院,1989)
【アダム・スミス】
『国富論』(1776年刊)を著した政治経済学者。当時のイギリスで新しく生まれた「近代的な市場経済の社会」について論じ,後世に影響を与えた。同書にある「みえざる手」という言葉はさんざん引用された。
1723年6月5日生まれ 1790年7月17日没
***
スミスは晩年にこんな言葉を残しています。
「もっと大きな仕事をするつもりだったのだが」
『国富論』も,彼にとってはもっと大きな構想の一部にすぎませんでした。
たとえば彼は,社会全体を「万有引力」のような根本原理で説明する理論を築きたいと考えていました。その糸口として,『道徳感情論』という大著で「共感」という概念について論じました。「人が人に共感する」という普遍的な作用。その概念を政治や法の理論に適用しようとしましたが,うまくいきませんでした。
また,科学や芸術について包括的に論じる哲学体系も構想しました。しかし,いくつかの論文を残しただけで終わっています。
学問的巨匠とは,こういうものなのでしょう。
つまり,途方もなく大きな問題について考えようとする。
そして,その大きな問題について「自分なら解ける」という強い自負がある。
だからこそ,本気で生涯を賭けて,その問題に取り組むのです。
その結果,構想のすべては実現できなくても,部分的には成功する。
その「部分」というのは,ふつうの感覚でみれば「大きな・体系的な仕事」です。
おそらく人は,自分が考えた以上のことなど実現できない。
頑張っても,「考えたこと」の一部がどうにかカタチになるだけ。
それだけに「どんなスケールでものごとを考えるか」というのは,根本的で重要なことのようです。
***
「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝)
その101話をまとめた電子書籍『四百文字の偉人伝』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も発売中です(アマゾンKindleストア,楽天Kobo,ディスカヴァー社のホームページなどにて販売,400円)
(以上)
そこで彼の四百文字の偉人伝を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。
アダム・スミス
パトロンの援助が名著を生んだ
アダム・スミス(1723~1790 イギリス)の『国富論』は,経済学史上の偉大な古典です。
では,岩波文庫版で全4巻になるこの大著を書いたときのスミスの職業は何だったのでしょうか? 大学教授? 公務員? 貴族や資産家?
どれもちがいます。彼は,大学教授だったこともありますが,『国富論』を書いているときには辞めていました。貴族やお金持ちでもありません。
では,どうやって食べていたのでしょうか?
じつは,ある公爵が「お金の面倒はみるから」ということで,十分な年金を出してくれていたのです。これは,その公爵の「家庭教師」としての報酬なのですが,実際にはその仕事に時間を取られることはありませんでした。
彼は,9年間著作に専念して『国富論』を完成させました。「研究のことだけ考えていられる環境」を用意してくれたパトロンのおかげで,不朽の名著が生まれたのです。
参考:バカン著・山岡洋一訳『真説アダム・スミス』(日経PB社,2009),浜林正夫,鈴木亮著『(人と思想)アダム=スミス』(清水書院,1989)
【アダム・スミス】
『国富論』(1776年刊)を著した政治経済学者。当時のイギリスで新しく生まれた「近代的な市場経済の社会」について論じ,後世に影響を与えた。同書にある「みえざる手」という言葉はさんざん引用された。
1723年6月5日生まれ 1790年7月17日没
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スミスは晩年にこんな言葉を残しています。
「もっと大きな仕事をするつもりだったのだが」
『国富論』も,彼にとってはもっと大きな構想の一部にすぎませんでした。
たとえば彼は,社会全体を「万有引力」のような根本原理で説明する理論を築きたいと考えていました。その糸口として,『道徳感情論』という大著で「共感」という概念について論じました。「人が人に共感する」という普遍的な作用。その概念を政治や法の理論に適用しようとしましたが,うまくいきませんでした。
また,科学や芸術について包括的に論じる哲学体系も構想しました。しかし,いくつかの論文を残しただけで終わっています。
学問的巨匠とは,こういうものなのでしょう。
つまり,途方もなく大きな問題について考えようとする。
そして,その大きな問題について「自分なら解ける」という強い自負がある。
だからこそ,本気で生涯を賭けて,その問題に取り組むのです。
その結果,構想のすべては実現できなくても,部分的には成功する。
その「部分」というのは,ふつうの感覚でみれば「大きな・体系的な仕事」です。
おそらく人は,自分が考えた以上のことなど実現できない。
頑張っても,「考えたこと」の一部がどうにかカタチになるだけ。
それだけに「どんなスケールでものごとを考えるか」というのは,根本的で重要なことのようです。
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「四百文字の偉人伝」は,古今東西のさまざまな偉人を,400文字ほどで紹介するシリーズ。このブログでときどき載せています。(カテゴリー:四百文字の偉人伝)
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(以上)
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