2014年09月29日 (月) | Edit |
私のウチは,古い団地をリノベしたもので,あちこちにつくりつけの本棚があります。
たとえば,リビングは部屋の両側に,このようなものが。


我が家でいちばん目立つのは,本棚です。
本棚がなかったら,モノの少ない,ガランとした家でしょう。
この本棚は,もっぱら「自分が使う」ための道具だと思ってきました。
でも最近は「みんなで楽しむこともできる本棚」にしたい,と思っています。
といっても,今の私の本棚は「みんなで楽しむ」には程遠い状態です。上記のリビングの本棚にある8割がたは世界史関連の解説書や専門書。「17世紀イギリスの・・・」「工業化の歴史的・・・」「鉄道と国民国家形成・・・」みたいなタイトルが並んでいます。
お客さんが来ると,いっしょに本棚を眺めることがありますが,「17世紀イギリスの・・・」みたいのばかりだとほとんど会話がはずみません。「本を手に取ってもいいですよ」といっても,まず誰も手に取りません。
でも,ウチにある本の全部がこうではありません。住まいや家具・雑貨の本,ライフスタイル関係,ビジネスや生き方に関わる本,エッセイなど,「対話が生まれやすい」と思える本もあるのです。
私の持っている本(文庫・雑誌も合わせて5000~6000冊)のうち,2~3割はそれです。また,歴史や社会関連でも,親しみやすい内容で「多くの人にオススメできる」本もあります。
お客さんのなかには,そんな「親しみやすい」本を棚からみつけて,手に取ってみる人もいます。でも,その手の本の多くは,お客さんの目に触れにくい棚に集まっています。玄関先の雑然とした本棚や書斎まわりなどです。
***
だったら,リビングの目立つ本棚に,より多くの人が楽しめる(かもしれない)本を集めてはどうか?
ただ,我が家の本の配列には自分なりに考えた秩序があって,それを大きく再編成するのは,すぐにはできない。
そこで,本棚のかぎられた部分だけを空けて,そこに「親しみやすい」系の本を並べてはどうか。「とくにこれはオススメ」というのをセレクトして,ほかの本棚からもってくるのです。
この「セレクトコーナー」を「そういち文庫」とでも名付けよう。
上記の写真の,下のほうの本棚の,真ん中の列の上2段で「そういち文庫」をつくってみました。

住まいや団地関連,人生の達人の名言集やエッセイ,料理や生活,児童文学・・・。宮崎駿の絵物語や藤子・F・不二雄のSF短編集などというのもあります。ウチの奥さんが子どものころ読んだ少女マンガ(陸奥A子)もある。
エッセイは,吉本隆明やエリック・ホッファーのような思想家もあれば,花森安治や森茉莉や水木しげるやのような「昭和の個性的なすごい人」や,ナンシー関(消しゴム版画の元祖)や群ようこのような「今どきのエッセイ・コラムの大先輩」といえる著者のものも。
児童文学は,私が子どもころ(高校生くらいまで)に読んで気にいっていたもの。
とりあえず,『二年間の休暇(「十五少年漂流記」の完訳)』『海底二万マイル』といったジュール・ベルヌの作品,『ゲド戦記』『大草原の小さな家』など。これらは,ずっと持っていたのではなく,最近ブック・オフなどで買ったのです。立派なハードカバーでも100円200円で売られていたりします。
「みんなで楽しめる」というのには,まだまだかもしれませんが,まずは第一歩。
いずれ,オープンハウスなどもやってみたいです。
つまり,どこかの土日で「どなたでもウチに遊びに来てください」と告知して,お待ちするというもの。
オープンハウス的なかたちで,一種の私設図書館を運営している方も,世の中にはいらっしゃるようです。
オープンハウスの開催は未定ですが,そのうち告知させていただきます。
今年中に1回はやりたいです。
***
家というのは,道具です。個人の持つ,最大の道具。
そこにしつらえた本棚も道具。
本だって道具です。
ウチに来てくださった方から「いい家になっているね」「いい本棚だね」と言っていただいたことが,何度もあります。だったらその「出来のいい道具」を,トコトン使っていきたい。
トコトン使うというのは,自分ひとりではなく「ほかの人といっしょに使って楽しむ」ということなのではないか。そんなふうに,最近とくに思うようになりました。
先日,ウチにある暮らしの道具を紹介した記事(イスや照明やホウキなどについて)を読んだある方から,好意的な感想をいただきました(鍵コメです)。
「暮らしを豊かにするというのが,わたしたちが道具をあつかう第一の動機だ」とその方は述べていて,おおいに共感しました。
そして, 「豊かさ」の最も充実したかたちは「人とたのしむ」ことではないか,とも思いました。そのためにはいろんな工夫や準備や気づかいも必要でしょうが,それもまた楽しいはずです。
(以上)
たとえば,リビングは部屋の両側に,このようなものが。


我が家でいちばん目立つのは,本棚です。
本棚がなかったら,モノの少ない,ガランとした家でしょう。
この本棚は,もっぱら「自分が使う」ための道具だと思ってきました。
でも最近は「みんなで楽しむこともできる本棚」にしたい,と思っています。
といっても,今の私の本棚は「みんなで楽しむ」には程遠い状態です。上記のリビングの本棚にある8割がたは世界史関連の解説書や専門書。「17世紀イギリスの・・・」「工業化の歴史的・・・」「鉄道と国民国家形成・・・」みたいなタイトルが並んでいます。
お客さんが来ると,いっしょに本棚を眺めることがありますが,「17世紀イギリスの・・・」みたいのばかりだとほとんど会話がはずみません。「本を手に取ってもいいですよ」といっても,まず誰も手に取りません。
でも,ウチにある本の全部がこうではありません。住まいや家具・雑貨の本,ライフスタイル関係,ビジネスや生き方に関わる本,エッセイなど,「対話が生まれやすい」と思える本もあるのです。
私の持っている本(文庫・雑誌も合わせて5000~6000冊)のうち,2~3割はそれです。また,歴史や社会関連でも,親しみやすい内容で「多くの人にオススメできる」本もあります。
お客さんのなかには,そんな「親しみやすい」本を棚からみつけて,手に取ってみる人もいます。でも,その手の本の多くは,お客さんの目に触れにくい棚に集まっています。玄関先の雑然とした本棚や書斎まわりなどです。
***
だったら,リビングの目立つ本棚に,より多くの人が楽しめる(かもしれない)本を集めてはどうか?
ただ,我が家の本の配列には自分なりに考えた秩序があって,それを大きく再編成するのは,すぐにはできない。
そこで,本棚のかぎられた部分だけを空けて,そこに「親しみやすい」系の本を並べてはどうか。「とくにこれはオススメ」というのをセレクトして,ほかの本棚からもってくるのです。
この「セレクトコーナー」を「そういち文庫」とでも名付けよう。
上記の写真の,下のほうの本棚の,真ん中の列の上2段で「そういち文庫」をつくってみました。

住まいや団地関連,人生の達人の名言集やエッセイ,料理や生活,児童文学・・・。宮崎駿の絵物語や藤子・F・不二雄のSF短編集などというのもあります。ウチの奥さんが子どものころ読んだ少女マンガ(陸奥A子)もある。
エッセイは,吉本隆明やエリック・ホッファーのような思想家もあれば,花森安治や森茉莉や水木しげるやのような「昭和の個性的なすごい人」や,ナンシー関(消しゴム版画の元祖)や群ようこのような「今どきのエッセイ・コラムの大先輩」といえる著者のものも。
児童文学は,私が子どもころ(高校生くらいまで)に読んで気にいっていたもの。
とりあえず,『二年間の休暇(「十五少年漂流記」の完訳)』『海底二万マイル』といったジュール・ベルヌの作品,『ゲド戦記』『大草原の小さな家』など。これらは,ずっと持っていたのではなく,最近ブック・オフなどで買ったのです。立派なハードカバーでも100円200円で売られていたりします。
「みんなで楽しめる」というのには,まだまだかもしれませんが,まずは第一歩。
いずれ,オープンハウスなどもやってみたいです。
つまり,どこかの土日で「どなたでもウチに遊びに来てください」と告知して,お待ちするというもの。
オープンハウス的なかたちで,一種の私設図書館を運営している方も,世の中にはいらっしゃるようです。
オープンハウスの開催は未定ですが,そのうち告知させていただきます。
今年中に1回はやりたいです。
***
家というのは,道具です。個人の持つ,最大の道具。
そこにしつらえた本棚も道具。
本だって道具です。
ウチに来てくださった方から「いい家になっているね」「いい本棚だね」と言っていただいたことが,何度もあります。だったらその「出来のいい道具」を,トコトン使っていきたい。
トコトン使うというのは,自分ひとりではなく「ほかの人といっしょに使って楽しむ」ということなのではないか。そんなふうに,最近とくに思うようになりました。
先日,ウチにある暮らしの道具を紹介した記事(イスや照明やホウキなどについて)を読んだある方から,好意的な感想をいただきました(鍵コメです)。
「暮らしを豊かにするというのが,わたしたちが道具をあつかう第一の動機だ」とその方は述べていて,おおいに共感しました。
そして, 「豊かさ」の最も充実したかたちは「人とたのしむ」ことではないか,とも思いました。そのためにはいろんな工夫や準備や気づかいも必要でしょうが,それもまた楽しいはずです。
(以上)
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2014年09月26日 (金) | Edit |
投票の結果,独立は一応見送りとなったスコットランド。
この「スコットランド問題」のニュースをみながら,「世界は前よりはだいぶ平和になったんだ」と感じました。
このような「独立」の話が出てくるのは,平和だから。少なくともスコットランドのあるヨーロッパの西側のほうは平和なのです。
どういう意味か,以下説明させてください。「平和」と「地域の独立」の関係です。
***
今の世界の国家は,「国民国家」です。これは近代の産物。
国民国家とは,近代以前の「ゆるい統合」だった国家,もしくは「分裂」の状態だったものを,できるかぎり広い範囲で「強い統合」のもとにひとつの国にしたものです。
たとえば,江戸時代の日本は,徳川幕府のもとに一応ひとつにまとまっていました。しかし,多数の独立性の高い「藩」の集まりでした。幕府は権力の頂点にありましたが,日本じゅうの人びとを直接統治してはいません。
たとえば,幕府が人びとに税金を課すことができるのは,幕府の直轄領の範囲だけです。各藩の領民にたいし,幕府が直接に徴税権などの支配力を行使することはありません。各藩の領民は,あくまでそれぞれの藩が支配する。これが「ゆるい統合」ということ。
これを再編成して,ひとつの政府が直接に全国の人びとを支配するようにしたのが,明治維新です。
明治政府は,全国の人びとから直接税金を集めることができます。
それが「国民国家」の政府というものであり,徳川幕府との大きなちがいです。
ではなぜ,そのような国家をつくったのか。
欧米列強の脅威が,前提にありました。
欧米の植民地にされないためには,対抗できる軍事力がないといけない。たくさんの大砲や軍艦が要る。
そのためのばく大な資金は,藩のレベルではまかないきれない。幕府でも無理。
「日本」のできるだけ広い範囲を統合して,その大きな財政でめいっぱいの軍事力を持つしかない。
そのような考えが基本にあって,明治維新は行われました。
そして,国民国家としての「日本」が生まれたのです。
***
世界で最初の国民国家(少なくともそのひとつ)といえるのは,イギリス(英国)です。
スコットランドとイングランドが統合された1700年代に,現在につながる国民国家としてのイギリスは生まれました。
国民国家になったことで,当時のイギリスは,ほかの国にはみられない「財政」のパワーを持つようになりました。
広い範囲からたくさんの税金を集めたり,その「徴税力」を担保に国債を大量に発行したりできる。
それで得た巨大な資金が,イギリスの軍事力を強大化しました。
1700年代に,イギリスはフランスと戦争をくりかえし,連戦連勝でした。
国民国家としての財政の力が,その勝利のベースにありました。
当時のフランスはまだ国民国家にはなっていませんでした。
フランスとの戦争におけるイギリスの勝利は,国民国家の威力によるものだった,といっていいでしょう。
のちにイギリスは,アジアやアフリカの,国民国家以前の状態にあった国や地域を支配していきました。
たとえば1700年代には「インド」という国はまだありません。
今の「インド」にあたる地域は,いくつもの王国に分かれていました。
1800年ころ以降は,ヨーロッパの多くの国ぐにが,国民国家を志向しました。
イギリスのような国民国家に負けないためには,自分たちが国民国家になるしかないのです。
日本の明治維新も,そのような世界史的な流れの一部だったのです。
***
今の世界で,スコットランドの人たちが独立を真剣に考えるようになったのは,「小国」となっても植民地にされる危険はないと心底思っているからです。
スコットランドのある西ヨーロッパは,第二次世界大戦が終わってから70年ほど,ほぼ平和が続いています。
西欧諸国は以前はたがいに戦争をしてましたが,今はしなくなった。
同じヨーロッパでも,東のほうでは「クリミア独立」の問題をめぐって戦争が起こっています。
スコットランドが独立を主張しても,イギリスの首相は戦車を送り込んだりはしません。泣きそうな感じで「独立なんかしないで!」と演説で訴えるだけ。
ロシアの大統領とはだいぶちがいます。
このような「平和」が広範に存在するのは,今の世界ではほぼ西ヨーロッパだけ,といっていいでしょう(あとは北米くらいでしょうか)。
さすが,イギリスやその周辺というのは,「近代」の発祥の地です。
世界史の最先端にある,といえるでしょう。
私たちの日本がある東アジアは,西ヨーロッパのような状態には,まだなっていません。
北海道や九州や沖縄が独立するとした場合,「となりの大国に攻められないか」という不安を抱く人は,スコットランドよりもずっと多いはずです。
スコットランド問題への私の感想は,「人類はここまで来たんだなー」ということ。
「独立の是非」よりも,このような「独立」の話が平和のうちに真剣に主張されることに,まず目をみはりました。
でもそれは「最先端」の一部の地域でのこと。
今はまだ,世界の一部にしかない「最先端の平和」が,より広い範囲に広がってほしいものです。
でも残念ながら,まだまだ時間がかかりそうです。
(以上)
この「スコットランド問題」のニュースをみながら,「世界は前よりはだいぶ平和になったんだ」と感じました。
このような「独立」の話が出てくるのは,平和だから。少なくともスコットランドのあるヨーロッパの西側のほうは平和なのです。
どういう意味か,以下説明させてください。「平和」と「地域の独立」の関係です。
***
今の世界の国家は,「国民国家」です。これは近代の産物。
国民国家とは,近代以前の「ゆるい統合」だった国家,もしくは「分裂」の状態だったものを,できるかぎり広い範囲で「強い統合」のもとにひとつの国にしたものです。
たとえば,江戸時代の日本は,徳川幕府のもとに一応ひとつにまとまっていました。しかし,多数の独立性の高い「藩」の集まりでした。幕府は権力の頂点にありましたが,日本じゅうの人びとを直接統治してはいません。
たとえば,幕府が人びとに税金を課すことができるのは,幕府の直轄領の範囲だけです。各藩の領民にたいし,幕府が直接に徴税権などの支配力を行使することはありません。各藩の領民は,あくまでそれぞれの藩が支配する。これが「ゆるい統合」ということ。
これを再編成して,ひとつの政府が直接に全国の人びとを支配するようにしたのが,明治維新です。
明治政府は,全国の人びとから直接税金を集めることができます。
それが「国民国家」の政府というものであり,徳川幕府との大きなちがいです。
ではなぜ,そのような国家をつくったのか。
欧米列強の脅威が,前提にありました。
欧米の植民地にされないためには,対抗できる軍事力がないといけない。たくさんの大砲や軍艦が要る。
そのためのばく大な資金は,藩のレベルではまかないきれない。幕府でも無理。
「日本」のできるだけ広い範囲を統合して,その大きな財政でめいっぱいの軍事力を持つしかない。
そのような考えが基本にあって,明治維新は行われました。
そして,国民国家としての「日本」が生まれたのです。
***
世界で最初の国民国家(少なくともそのひとつ)といえるのは,イギリス(英国)です。
スコットランドとイングランドが統合された1700年代に,現在につながる国民国家としてのイギリスは生まれました。
国民国家になったことで,当時のイギリスは,ほかの国にはみられない「財政」のパワーを持つようになりました。
広い範囲からたくさんの税金を集めたり,その「徴税力」を担保に国債を大量に発行したりできる。
それで得た巨大な資金が,イギリスの軍事力を強大化しました。
1700年代に,イギリスはフランスと戦争をくりかえし,連戦連勝でした。
国民国家としての財政の力が,その勝利のベースにありました。
当時のフランスはまだ国民国家にはなっていませんでした。
フランスとの戦争におけるイギリスの勝利は,国民国家の威力によるものだった,といっていいでしょう。
のちにイギリスは,アジアやアフリカの,国民国家以前の状態にあった国や地域を支配していきました。
たとえば1700年代には「インド」という国はまだありません。
今の「インド」にあたる地域は,いくつもの王国に分かれていました。
1800年ころ以降は,ヨーロッパの多くの国ぐにが,国民国家を志向しました。
イギリスのような国民国家に負けないためには,自分たちが国民国家になるしかないのです。
日本の明治維新も,そのような世界史的な流れの一部だったのです。
***
今の世界で,スコットランドの人たちが独立を真剣に考えるようになったのは,「小国」となっても植民地にされる危険はないと心底思っているからです。
スコットランドのある西ヨーロッパは,第二次世界大戦が終わってから70年ほど,ほぼ平和が続いています。
西欧諸国は以前はたがいに戦争をしてましたが,今はしなくなった。
同じヨーロッパでも,東のほうでは「クリミア独立」の問題をめぐって戦争が起こっています。
スコットランドが独立を主張しても,イギリスの首相は戦車を送り込んだりはしません。泣きそうな感じで「独立なんかしないで!」と演説で訴えるだけ。
ロシアの大統領とはだいぶちがいます。
このような「平和」が広範に存在するのは,今の世界ではほぼ西ヨーロッパだけ,といっていいでしょう(あとは北米くらいでしょうか)。
さすが,イギリスやその周辺というのは,「近代」の発祥の地です。
世界史の最先端にある,といえるでしょう。
私たちの日本がある東アジアは,西ヨーロッパのような状態には,まだなっていません。
北海道や九州や沖縄が独立するとした場合,「となりの大国に攻められないか」という不安を抱く人は,スコットランドよりもずっと多いはずです。
スコットランド問題への私の感想は,「人類はここまで来たんだなー」ということ。
「独立の是非」よりも,このような「独立」の話が平和のうちに真剣に主張されることに,まず目をみはりました。
でもそれは「最先端」の一部の地域でのこと。
今はまだ,世界の一部にしかない「最先端の平和」が,より広い範囲に広がってほしいものです。
でも残念ながら,まだまだ時間がかかりそうです。
(以上)
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- スコットランド問題と国民国家
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2014年09月23日 (火) | Edit |
先日,くらしのどうぐ店 musubiで開催された「中津箒のしごと展」というイベントに,妻と2人で行ってきました。
musubiは,JR南武線・谷保駅(国立市)から歩いて数分の,商店の並ぶ一画にあります。店主は坂本眞紀さん。
住宅の1階がお店になっています。
このおウチは,私の自宅(古い団地をリノベした)を手がけた,テラバヤシ・セッケイ・ジムショの寺林省二さんの仕事場でもあります。寺林さんと眞紀さんはご夫婦。子どもさんと3人で,この自宅+設計事務所+お店に暮らしておられます。

お店の中。「こんじまり」の魅力にあふれた空間。
店主がセレクトした雑貨・生活用品が並んでいます。

お店の奥にある,眞紀さんの仕事机も紹介します。
キッチン・ダイニングのすぐ横にあります。
私は,この「階段下のワークスペース」が大好きです。訪れるたびに「いいなー」と感心して眺めています。

***
さて,今回のイベントのテーマの「中津箒」とは,昔ながらのホウキの一種です。家の中を掃くための繊細なホウキ。
神奈川県の中津村(現相川町中津地区)で,明治から昭和の高度成長期にかけて,とくに生産がさかんだったそうです。中津は,東日本地域におけるホウキのメジャーな産地でした。当時は,「中津箒」ではなく「東京箒」という商標で販売されていました。
電気掃除機の時代になって中津の箒づくりは,いったん衰えましたが,平成になって伝統の積極的な継承や再興がはかられているとのこと。
(以上,株式会社まちづくり山上による資料「中津箒のご紹介」による)
たとえば,こういうものです。
musubiで展示・販売されていたもの。
なお,奥のほうに家の模型が並んでいますが,テラバヤシ事務所が設計した住宅です。

昔の家には,このようなホウキがあったものです。写真のものよりも,もう少し大きいのが一般的だったかもしれませんが。
写真では伝わりにくいのですが,手にとると,しっかりとした丁寧なつくりがわかります。それでいて軽い。
そして,ホウキの先端(穂先)のやわらかさ。
ウチのメインの「掃除機」は,ホウキです。床掃除は,おもにホウキで行います。
外見的には中津箒と似た古典的なもの。
でも,穂先の感触はぜんぜんちがう。もっと固くて,何年か使っているうちにポキポキ折れてくる。
これは,穂先の材料がちがうのだそうです。
このへんの「ホウキのウンチク」は,今回のイベントで講師をされた女性の箒職人さんから伺ったことです(でも素人が聞きかじった話なので,不正確なところもあるかもしれませんが,ご容赦)。
中津箒の材料は「ホウキモロコシ」というイネ科の植物です。アフリカ原産。明治時代に日本に入ってきたもので,ホウキの素材として優れていた。
今どきのホウキの多くは,アシやイグサやシュロを使っているそうです。
これらの素材はホウキモロコシほどのやわらかさやしなやかさはない。
なお,関西ではシュロのホウキがとくに広く使われている。シュロのホウキは茶色で,中津箒的なホウキとはだいぶ外見がちがうとのこと。西日本出身者のなかには,中津箒をみて「こういうホウキ,みたことなかった」という人もいるそうです。
私は東京地区の育ちなので,昔ながらのホウキといえば「中津箒みたいなものに決まっている」と思っていたのですが,地域によってちがうのですねー
あと,中津には日本各地や世界のホウキを集めた施設があるそうです。
そこにある世界のホウキをみると,どれも日本人からみれば「外を掃く」ためのホウキのような粗い感じのものばかりなのだとか。西洋もアジアもアフリカも,そこは同じ。
なぜなのかは,よくわからないとのこと。
ここからは私の想像ですが,住居や生活様式のちがいのせいではないでしょうか。
靴を脱いで畳で暮らすという日本人の生活が,独特の繊細なホウキを生んだのではないかと。
家でも靴履きだったり,靴を脱ぐとしても畳というやわらかな「床」でなければ,「粗い」ホウキで十分です。
そんなふうに思うのですが,どうなのでしょう?
とにかく,興味深いお話です。
***
また,近年はハンディタイプの小さなホウキもつくられていて,好評だそうです。
上のmusubiの店内の写真で,中央のテーブルの上に並んでいるようなもの。
あるいは,すぐ下の写真の中央の,書道の筆のようなものもある。
机の上とか,パソコンのキーボードを掃除するのに便利。
今回のイベントでは,この「筆」のような小さなホウキを,みんなでつくったのです。
材料のホウキモロコシを,タコ糸(いろんな色があります)で縛って束ねていく作業。


1時間ほどで,小さな中津箒が完成しました。
「つくる」といっても,いろんな段取りを整えてもらったうえで,要所要所は職人さんにつくっていただいたのですが。
でも,体験したことのない手仕事は,新鮮でたのしかった。
あとは,自分の手先の不器用さがあらためて身にしみました(^^;)
こうして「つくる」体験をしたり,お店に展示されている中津箒に触れているうちに,私たち夫婦とも「これいいなあ,欲しいなあ」と思うようになりました。
そこで,今使っているホウキの代わりになるものを買うことにしました。上の写真にあるのと,ほぼ同じもの。展示品は売約済。注文生産で2か月弱かかるとのこと。
1本9,000数百円。ホウキとしてはたしかに「高級」です。
でも,長く使えて,使うたび目にするたびに,気持ちがいいはずです。
元は取れると思っています。
早く出来上がらないかなー,新しい中津箒で掃除するのがたのしみ。
***
musubiでの「中津箒の仕事展」は,9月27日(土)まで。ただし,「小さな箒づくりワークショップ」のほうは,すでに終了しています。同店のホームページなどでご確認ください。
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団地マニアでなく,団地エリート
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(以上)
musubiは,JR南武線・谷保駅(国立市)から歩いて数分の,商店の並ぶ一画にあります。店主は坂本眞紀さん。
住宅の1階がお店になっています。
このおウチは,私の自宅(古い団地をリノベした)を手がけた,テラバヤシ・セッケイ・ジムショの寺林省二さんの仕事場でもあります。寺林さんと眞紀さんはご夫婦。子どもさんと3人で,この自宅+設計事務所+お店に暮らしておられます。

お店の中。「こんじまり」の魅力にあふれた空間。
店主がセレクトした雑貨・生活用品が並んでいます。

お店の奥にある,眞紀さんの仕事机も紹介します。
キッチン・ダイニングのすぐ横にあります。
私は,この「階段下のワークスペース」が大好きです。訪れるたびに「いいなー」と感心して眺めています。

***
さて,今回のイベントのテーマの「中津箒」とは,昔ながらのホウキの一種です。家の中を掃くための繊細なホウキ。
神奈川県の中津村(現相川町中津地区)で,明治から昭和の高度成長期にかけて,とくに生産がさかんだったそうです。中津は,東日本地域におけるホウキのメジャーな産地でした。当時は,「中津箒」ではなく「東京箒」という商標で販売されていました。
電気掃除機の時代になって中津の箒づくりは,いったん衰えましたが,平成になって伝統の積極的な継承や再興がはかられているとのこと。
(以上,株式会社まちづくり山上による資料「中津箒のご紹介」による)
たとえば,こういうものです。
musubiで展示・販売されていたもの。
なお,奥のほうに家の模型が並んでいますが,テラバヤシ事務所が設計した住宅です。

昔の家には,このようなホウキがあったものです。写真のものよりも,もう少し大きいのが一般的だったかもしれませんが。
写真では伝わりにくいのですが,手にとると,しっかりとした丁寧なつくりがわかります。それでいて軽い。
そして,ホウキの先端(穂先)のやわらかさ。
ウチのメインの「掃除機」は,ホウキです。床掃除は,おもにホウキで行います。
外見的には中津箒と似た古典的なもの。
でも,穂先の感触はぜんぜんちがう。もっと固くて,何年か使っているうちにポキポキ折れてくる。
これは,穂先の材料がちがうのだそうです。
このへんの「ホウキのウンチク」は,今回のイベントで講師をされた女性の箒職人さんから伺ったことです(でも素人が聞きかじった話なので,不正確なところもあるかもしれませんが,ご容赦)。
中津箒の材料は「ホウキモロコシ」というイネ科の植物です。アフリカ原産。明治時代に日本に入ってきたもので,ホウキの素材として優れていた。
今どきのホウキの多くは,アシやイグサやシュロを使っているそうです。
これらの素材はホウキモロコシほどのやわらかさやしなやかさはない。
なお,関西ではシュロのホウキがとくに広く使われている。シュロのホウキは茶色で,中津箒的なホウキとはだいぶ外見がちがうとのこと。西日本出身者のなかには,中津箒をみて「こういうホウキ,みたことなかった」という人もいるそうです。
私は東京地区の育ちなので,昔ながらのホウキといえば「中津箒みたいなものに決まっている」と思っていたのですが,地域によってちがうのですねー
あと,中津には日本各地や世界のホウキを集めた施設があるそうです。
そこにある世界のホウキをみると,どれも日本人からみれば「外を掃く」ためのホウキのような粗い感じのものばかりなのだとか。西洋もアジアもアフリカも,そこは同じ。
なぜなのかは,よくわからないとのこと。
ここからは私の想像ですが,住居や生活様式のちがいのせいではないでしょうか。
靴を脱いで畳で暮らすという日本人の生活が,独特の繊細なホウキを生んだのではないかと。
家でも靴履きだったり,靴を脱ぐとしても畳というやわらかな「床」でなければ,「粗い」ホウキで十分です。
そんなふうに思うのですが,どうなのでしょう?
とにかく,興味深いお話です。
***
また,近年はハンディタイプの小さなホウキもつくられていて,好評だそうです。
上のmusubiの店内の写真で,中央のテーブルの上に並んでいるようなもの。
あるいは,すぐ下の写真の中央の,書道の筆のようなものもある。
机の上とか,パソコンのキーボードを掃除するのに便利。
今回のイベントでは,この「筆」のような小さなホウキを,みんなでつくったのです。
材料のホウキモロコシを,タコ糸(いろんな色があります)で縛って束ねていく作業。


1時間ほどで,小さな中津箒が完成しました。
「つくる」といっても,いろんな段取りを整えてもらったうえで,要所要所は職人さんにつくっていただいたのですが。
でも,体験したことのない手仕事は,新鮮でたのしかった。
あとは,自分の手先の不器用さがあらためて身にしみました(^^;)
こうして「つくる」体験をしたり,お店に展示されている中津箒に触れているうちに,私たち夫婦とも「これいいなあ,欲しいなあ」と思うようになりました。
そこで,今使っているホウキの代わりになるものを買うことにしました。上の写真にあるのと,ほぼ同じもの。展示品は売約済。注文生産で2か月弱かかるとのこと。
1本9,000数百円。ホウキとしてはたしかに「高級」です。
でも,長く使えて,使うたび目にするたびに,気持ちがいいはずです。
元は取れると思っています。
早く出来上がらないかなー,新しい中津箒で掃除するのがたのしみ。
***
musubiでの「中津箒の仕事展」は,9月27日(土)まで。ただし,「小さな箒づくりワークショップ」のほうは,すでに終了しています。同店のホームページなどでご確認ください。
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(以上)
2014年09月21日 (日) | Edit |
最近,つぎの2つの記事で,「格差」の問題をマクロな視点で論じました。
ここでいう格差とは,所得や財産の不平等のことです。
格差と戦争
平和が格差を生む?
「格差と戦争」では,つぎのことを述べました。
格差への怒りやそれを「是正したい」とい正義感が,戦争やテロを生む動機になっている。「格差の是正」は強力な正義である。そのような正義と結びついているから,戦争は簡単にはなくならない。
「平和が格差を生む?」では,つぎのことを。
資本主義では,格差は拡大する傾向がある。それを多数の国の長期データをもとに論じた,トマ・ピケティという学者の経済書が,海外で評判になっている。
資本主義における格差とは,じつは「資産」(収益を生む,証券や不動産など)を豊富に持つ者とそうでない者の格差である。資産の価値の上昇は,経済全体の成長のスピードを上回る傾向がある。このため,経済が成長すれば,その果実はより多くが富裕層のものとなる。
平和と繁栄が長く続けば,資産からの富は順調に成長する。それによって富裕層とそれ以外の格差は一層大きくなる。
今後は「富裕層の資産に対する課税の強化」が,さかんに議論されるようなるだろう。
***
税金の分類のひとつに,「所得課税」「消費課税」「資産課税」という区分があります。
経済における「お金の流れ」に沿った分類の仕方です。
「稼いで,使って,余りは蓄える」というお金の流れ。
「所得課税」は,所得税や法人税など。
「消費課税」は,消費税のほか,酒・たばこやガソリンに課せられる税金など。
「資産課税」は,固定資産税や相続税など。
「富裕層」というと,かなりの人はまず「所得が多い」ことを連想するのではないでしょうか。たしかにお金持ちは所得が多いです。しかしそれ以上に重要なのは資産です。
資産の大きさこそが,富裕層とそうでない人を分けるポイントです。
だからこそ,所得の内容もふつうの人と富裕層ではちがいます。ふつうの人の所得のほとんどは給与によるものですが,お金持ちは資産からの所得が重要です。
今の日本で,「所得上位1%」の富裕層は,所得の2割が資産所得です。
今よりもずっと激しい「格差社会」だった昭和の戦前期には,「上位1%」の人たちの所得は,その半分くらいが資産所得でした。
単純化していうと,お金持ちとは「資産の多い人」のことです。そして,多くの資産から多くの所得を得ている人。
***
では,「所得課税」「消費課税」「資産課税」のうち,今の日本の税収で最も多くの割合を占めるのは,どれだと思いますか?
平成25年度予算案では,それぞれの税金が税収全体に占める割合はこうなっています(国税と地方税の合計,予算81兆円)。
所得課税 53%・・・およそ5割
消費課税 31% 〃 3割
資産課税 16% 〃 10数%
今の日本の税金は,所得課税が中心です。1970年代には国税の60~70%を所得課税(所得税,法人税など)が占めていました。その後,1980年代末に消費税(最初は税率3%)が導入されて以降,消費課税の割合も増えていきました。そして今は,税収の30%ほどを占めるようになったのです。
日本の税金は,「所得課税中心」をベースに,のちに「消費課税」の割合を増やしたもの,といえます。
そのなかで,資産課税はそれほど重視されることなく,現在に至っています。
そこで,国家財政が「危機的」といわれるなか,「格差の是正」も考えるなら,「資産課税」をもっと強化してはどうか。そんな議論も出ているのです。
たとえば,日本には1000数百兆円の個人金融資産があります。このような資産の保有に対し,なんらかのかたちで「1%」の税をかけたとすると,10数兆円の税収となるはずです。これは,今の所得税や消費税の税収に匹敵します。
あるいは,相続税の税率を「100%」に近づければ,どうなのか? たとえば「〇億円以上の相続財産は,すべて国が税として没収する」ということ。多額の財産の世襲を不可能にしてしまうわけです。これは,「格差の是正」としては強烈です。
ほんとうにそんなことが可能なのか?
「可能なのか?」というのには,2つの意味があるでしょう。
まず,「政治的に実現可能性はあるのか」ということ。
それから,「そんなことをして,大丈夫なのか」。つまり,資産課税を強力に実施することで,社会に混乱は生じないのか?
このことについては,また別の機会に。
(以上)
ここでいう格差とは,所得や財産の不平等のことです。
格差と戦争
平和が格差を生む?
「格差と戦争」では,つぎのことを述べました。
格差への怒りやそれを「是正したい」とい正義感が,戦争やテロを生む動機になっている。「格差の是正」は強力な正義である。そのような正義と結びついているから,戦争は簡単にはなくならない。
「平和が格差を生む?」では,つぎのことを。
資本主義では,格差は拡大する傾向がある。それを多数の国の長期データをもとに論じた,トマ・ピケティという学者の経済書が,海外で評判になっている。
資本主義における格差とは,じつは「資産」(収益を生む,証券や不動産など)を豊富に持つ者とそうでない者の格差である。資産の価値の上昇は,経済全体の成長のスピードを上回る傾向がある。このため,経済が成長すれば,その果実はより多くが富裕層のものとなる。
平和と繁栄が長く続けば,資産からの富は順調に成長する。それによって富裕層とそれ以外の格差は一層大きくなる。
今後は「富裕層の資産に対する課税の強化」が,さかんに議論されるようなるだろう。
***
税金の分類のひとつに,「所得課税」「消費課税」「資産課税」という区分があります。
経済における「お金の流れ」に沿った分類の仕方です。
「稼いで,使って,余りは蓄える」というお金の流れ。
「所得課税」は,所得税や法人税など。
「消費課税」は,消費税のほか,酒・たばこやガソリンに課せられる税金など。
「資産課税」は,固定資産税や相続税など。
「富裕層」というと,かなりの人はまず「所得が多い」ことを連想するのではないでしょうか。たしかにお金持ちは所得が多いです。しかしそれ以上に重要なのは資産です。
資産の大きさこそが,富裕層とそうでない人を分けるポイントです。
だからこそ,所得の内容もふつうの人と富裕層ではちがいます。ふつうの人の所得のほとんどは給与によるものですが,お金持ちは資産からの所得が重要です。
今の日本で,「所得上位1%」の富裕層は,所得の2割が資産所得です。
今よりもずっと激しい「格差社会」だった昭和の戦前期には,「上位1%」の人たちの所得は,その半分くらいが資産所得でした。
単純化していうと,お金持ちとは「資産の多い人」のことです。そして,多くの資産から多くの所得を得ている人。
***
では,「所得課税」「消費課税」「資産課税」のうち,今の日本の税収で最も多くの割合を占めるのは,どれだと思いますか?
平成25年度予算案では,それぞれの税金が税収全体に占める割合はこうなっています(国税と地方税の合計,予算81兆円)。
所得課税 53%・・・およそ5割
消費課税 31% 〃 3割
資産課税 16% 〃 10数%
今の日本の税金は,所得課税が中心です。1970年代には国税の60~70%を所得課税(所得税,法人税など)が占めていました。その後,1980年代末に消費税(最初は税率3%)が導入されて以降,消費課税の割合も増えていきました。そして今は,税収の30%ほどを占めるようになったのです。
日本の税金は,「所得課税中心」をベースに,のちに「消費課税」の割合を増やしたもの,といえます。
そのなかで,資産課税はそれほど重視されることなく,現在に至っています。
そこで,国家財政が「危機的」といわれるなか,「格差の是正」も考えるなら,「資産課税」をもっと強化してはどうか。そんな議論も出ているのです。
たとえば,日本には1000数百兆円の個人金融資産があります。このような資産の保有に対し,なんらかのかたちで「1%」の税をかけたとすると,10数兆円の税収となるはずです。これは,今の所得税や消費税の税収に匹敵します。
あるいは,相続税の税率を「100%」に近づければ,どうなのか? たとえば「〇億円以上の相続財産は,すべて国が税として没収する」ということ。多額の財産の世襲を不可能にしてしまうわけです。これは,「格差の是正」としては強烈です。
ほんとうにそんなことが可能なのか?
「可能なのか?」というのには,2つの意味があるでしょう。
まず,「政治的に実現可能性はあるのか」ということ。
それから,「そんなことをして,大丈夫なのか」。つまり,資産課税を強力に実施することで,社会に混乱は生じないのか?
このことについては,また別の機会に。
(以上)
- 関連記事
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- 福祉と戦争
- スコットランド問題と国民国家
- 資産課税による格差の是正?
- 平和が格差を生む?
- 格差と戦争
2014年09月15日 (月) | Edit |
「資本主義のもとでは,富や所得の格差の拡大は必然的だ」と主張する新刊書が,欧米(とくにアメリカで)たいそう評判なのだそうです。
トマ・ピケティ(1971~)というフランスの学者が書いた『21世紀の資本論』という本です。まだ日本語訳は出ていません。
私は『週刊東洋経済』(2014年7月26日号)や『週刊エコノミスト』(8月12日・19日号)の,同書を取りあげた特集で知りました。
「資本主義では格差は拡大する」という主張じたいは,よくあるものです。
ピケティの本の特徴は,そのことをぼう大なデータをもとに論じたこと。
20以上の国について,100年200年にわたる所得や資産にかんする統計をもとに,「格差の拡大が長期的かつ普遍的な現象であること」を示そうとしているのです。
たとえば,「上位1%」などの「高所得者層が国全体の所得のうちどれだけを占めているか」の長期的な推移といったことを明らかにしている。
そして,「かなりの国で1980年代から格差の拡大が急速になっている」といいます。それはとくに,アメリカとイギリスで顕著であると。
日本も,格差拡大の傾向はあるが,米英や諸外国とくらべれば大きなものではないとのこと。
***
ピケティの本の日本語訳は,年末に出るそうです。そのときじっくり読むことにします。
でも,この本を読まなくても,「資本主義のもとで格差が拡大する」ことの理屈は,だいたいはわかります。
少数の富裕層と,多数派のそれ以外の人びと。
両者の所得(稼ぎ)の成り立ちは,大きくちがいます。
多数派のふつうの人びとの所得は,たいていは給与所得。自分が働いて得たお金。
これに対し富裕層の所得は,給与もありますが,それだけではない。ほかに「資産」からの所得があります。たとえば株や債券から得られる配当や値上がりの利益など。不動産を持っていれば,家賃や地代など。
いわば「自分の資産(お金)に稼いでもらっている」ということ。それが金持ちの所得のあり方です。
そして,「資産」による富の増加は,経済全体の成長よりも急速です。
たとえば,株価の上昇率は,経済全体の成長率をうわまわる傾向があります。ただしあくまで,長期的にみればの話。株式は「資産」のなかでとくに重要なものです。
日経平均株価は1955年(昭和30)ころには,どんぶりで「100円」でした。それが60年経った今は「1万何千円」です。100数十倍になったのです。
これに対しGDP=経済全体の規模は,「10兆円弱」が60年で「500兆円余り」になりました。50~60倍の増加です(株価もGDPも,物価の上昇を計算に入れない数字です)。
これはつまり,「資産」を持っている人は「儲かる」ということ。
個々にみれば儲からない人もいますが,大きく全体の傾向をみれば,そのようにいえる。
資本主義の経済には,「資産を持つ人が得をする」という性質があるのです。
経済成長の果実は,「資産」を持つ側により多く集まっていく。
ピケティが論じる格差の拡大とは,「給与所得だけの人」と「資産からの所得がある人」のあいだの差がひらいているということです。
***
そして,1980年代以降に「資産の成長」は,きわめて順調だったということでしょう。だから,格差が拡大した。
そこには金融経済の急速な発達ということもあるでしょう。
さらに根底には,「平和が続いている」ということもあります。
「資産」の成長にとって,平和は不可欠です。
この100年のあいだで,世界的に格差が急速に・大幅に縮小したことがあります。
最もはっきりしているのは,第二次世界大戦の終戦(1945)のころです。このことは,ピケティの研究でも示されています。
格差の縮小がおこったのは,戦争が世界じゅうの「資産」を壊してしまったからです。社会の混乱やそれに続く変革で,多くの既得権が見直されたという面もあるでしょう。
第二次世界大戦後も,局地的な紛争・戦争はあります。でも世界大戦のような,世界じゅうの富を吹き飛ばしてしまうようなことは,この70年ほどは起こっていません。
世界の平和が続いて,貿易や金融の取引が順調に伸びていけば,「資産」の富はどんどん大きくなっていく。
そのことで,格差も大きくなっていく。
単純化していうと,近年の「格差の拡大」は,長期間の平和がもたらしたものです。
***
私たちは,これからの世界がもっと平和になってほしいと思います。
でも,その平和が「格差の拡大」につながるとしたら,やっかいです。
格差があまりに大きくなると,社会に緊張や不満がうずまくようになるからです。
多くの戦争や革命やテロの背景には「格差への怒りや不満」というものがあります。このことは,最近の当ブログの記事 (格差と戦争)に書きました。
長期の平和は格差の拡大をもたらし,それが平和を破壊する恐れがある。
そこで,「格差の是正」ということが,これからの世界では,いろんなかたちで問題になってくるはずです。これまで以上に深刻になっていく。
具体的には,「富める者に対し今より多くの税金をかけて,それを多数派に分配する」ことが,政治の大きなテーマになっていく。
とくに,格差の拡大をもたらす「源泉」となっている,「資産」への課税の強化が,重要な論点となるはずです。ピケティも,それは指摘しています。
今回はここまで。続きはまた今度。
(以上)
トマ・ピケティ(1971~)というフランスの学者が書いた『21世紀の資本論』という本です。まだ日本語訳は出ていません。
私は『週刊東洋経済』(2014年7月26日号)や『週刊エコノミスト』(8月12日・19日号)の,同書を取りあげた特集で知りました。
「資本主義では格差は拡大する」という主張じたいは,よくあるものです。
ピケティの本の特徴は,そのことをぼう大なデータをもとに論じたこと。
20以上の国について,100年200年にわたる所得や資産にかんする統計をもとに,「格差の拡大が長期的かつ普遍的な現象であること」を示そうとしているのです。
たとえば,「上位1%」などの「高所得者層が国全体の所得のうちどれだけを占めているか」の長期的な推移といったことを明らかにしている。
そして,「かなりの国で1980年代から格差の拡大が急速になっている」といいます。それはとくに,アメリカとイギリスで顕著であると。
日本も,格差拡大の傾向はあるが,米英や諸外国とくらべれば大きなものではないとのこと。
***
ピケティの本の日本語訳は,年末に出るそうです。そのときじっくり読むことにします。
でも,この本を読まなくても,「資本主義のもとで格差が拡大する」ことの理屈は,だいたいはわかります。
少数の富裕層と,多数派のそれ以外の人びと。
両者の所得(稼ぎ)の成り立ちは,大きくちがいます。
多数派のふつうの人びとの所得は,たいていは給与所得。自分が働いて得たお金。
これに対し富裕層の所得は,給与もありますが,それだけではない。ほかに「資産」からの所得があります。たとえば株や債券から得られる配当や値上がりの利益など。不動産を持っていれば,家賃や地代など。
いわば「自分の資産(お金)に稼いでもらっている」ということ。それが金持ちの所得のあり方です。
そして,「資産」による富の増加は,経済全体の成長よりも急速です。
たとえば,株価の上昇率は,経済全体の成長率をうわまわる傾向があります。ただしあくまで,長期的にみればの話。株式は「資産」のなかでとくに重要なものです。
日経平均株価は1955年(昭和30)ころには,どんぶりで「100円」でした。それが60年経った今は「1万何千円」です。100数十倍になったのです。
これに対しGDP=経済全体の規模は,「10兆円弱」が60年で「500兆円余り」になりました。50~60倍の増加です(株価もGDPも,物価の上昇を計算に入れない数字です)。
これはつまり,「資産」を持っている人は「儲かる」ということ。
個々にみれば儲からない人もいますが,大きく全体の傾向をみれば,そのようにいえる。
資本主義の経済には,「資産を持つ人が得をする」という性質があるのです。
経済成長の果実は,「資産」を持つ側により多く集まっていく。
ピケティが論じる格差の拡大とは,「給与所得だけの人」と「資産からの所得がある人」のあいだの差がひらいているということです。
***
そして,1980年代以降に「資産の成長」は,きわめて順調だったということでしょう。だから,格差が拡大した。
そこには金融経済の急速な発達ということもあるでしょう。
さらに根底には,「平和が続いている」ということもあります。
「資産」の成長にとって,平和は不可欠です。
この100年のあいだで,世界的に格差が急速に・大幅に縮小したことがあります。
最もはっきりしているのは,第二次世界大戦の終戦(1945)のころです。このことは,ピケティの研究でも示されています。
格差の縮小がおこったのは,戦争が世界じゅうの「資産」を壊してしまったからです。社会の混乱やそれに続く変革で,多くの既得権が見直されたという面もあるでしょう。
第二次世界大戦後も,局地的な紛争・戦争はあります。でも世界大戦のような,世界じゅうの富を吹き飛ばしてしまうようなことは,この70年ほどは起こっていません。
世界の平和が続いて,貿易や金融の取引が順調に伸びていけば,「資産」の富はどんどん大きくなっていく。
そのことで,格差も大きくなっていく。
単純化していうと,近年の「格差の拡大」は,長期間の平和がもたらしたものです。
***
私たちは,これからの世界がもっと平和になってほしいと思います。
でも,その平和が「格差の拡大」につながるとしたら,やっかいです。
格差があまりに大きくなると,社会に緊張や不満がうずまくようになるからです。
多くの戦争や革命やテロの背景には「格差への怒りや不満」というものがあります。このことは,最近の当ブログの記事 (格差と戦争)に書きました。
長期の平和は格差の拡大をもたらし,それが平和を破壊する恐れがある。
そこで,「格差の是正」ということが,これからの世界では,いろんなかたちで問題になってくるはずです。これまで以上に深刻になっていく。
具体的には,「富める者に対し今より多くの税金をかけて,それを多数派に分配する」ことが,政治の大きなテーマになっていく。
とくに,格差の拡大をもたらす「源泉」となっている,「資産」への課税の強化が,重要な論点となるはずです。ピケティも,それは指摘しています。
今回はここまで。続きはまた今度。
(以上)
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- 格差と戦争
- 内戦が起きる条件・『虐殺器官』から考える
2014年09月13日 (土) | Edit |
文章を書くとき,いつも悩むのは「情報量と読みやすさのさじ加減」です。
自分が勉強したこと,興味を持ったことは,ついいろいろ書き込みたくなる。でも,やりすぎると読みにくくなる。
とくにブログなどのネット上の文章は,簡潔に・読みやすくというのが大事。
数百文字以上の記事につきあってくれる読者は,なかなかいません。
でも,私はつい何千文字も書いてしまいます。
先日,互いにリンクをさせていただいているshin36aさんのブログ ろくろくさんじゅうろくa で,ブログの記事の読みやすさについて書かれていました。
主旨としては「専門的で興味深い内容のブログは多く,つい引き込まれて読んでいくのだが,途中で疲れてしまう。その専門性ゆえに読みにくくなってしまっているブログは多い」とのこと。
「たしかに」と思いました。そして,私にも身におぼえがある。
「自分も,もっと簡潔に書かなくてはいけないなー」と反省しました。
つい最近書いた8月31日の記事「格差と戦争」についても,「長すぎたか?」「とくに,昭和のエコノミストの証言を長めに引用したのは,読者にとってわずらわしかったか?」などど思ったのでした。
気になる記事でしたが,ものぐさで,shin36aさんのブログへコメントはしませんでした。
しかし,後日shin36aさんから,その「格差と戦争」についてコメントをいただいたのです。
「刺激的な内容でシビれた」とお褒めの言葉。そして,興味深かった箇所として,例の昭和のエコノミストのくだりが引用されていました。
「自分の記事が長すぎるのでは」と反省するきっかけとなった記事の書き手から,このようなコメントをいただくとは!
たいへんうれしいことでした。ありがとうございます。
踏み込んだ情報を盛り込んで,しっかりと展開していくことはやはり意味があるのだと,手ごたえを感じました。
「自分は大きくはまちがってはいない」のだと。
しかし,「このままでいい」とは思いません。
情報や思考のレベルをできるだけ損なわず,簡潔に読みやすくということを,もっと追究しないと。「情報量と読みやすさのさじ加減」を,とことん突き詰めていく。多くの人に読んでもらうには,それが必要です。
その技術を上げていきたいと思います。
(以上)
自分が勉強したこと,興味を持ったことは,ついいろいろ書き込みたくなる。でも,やりすぎると読みにくくなる。
とくにブログなどのネット上の文章は,簡潔に・読みやすくというのが大事。
数百文字以上の記事につきあってくれる読者は,なかなかいません。
でも,私はつい何千文字も書いてしまいます。
先日,互いにリンクをさせていただいているshin36aさんのブログ ろくろくさんじゅうろくa で,ブログの記事の読みやすさについて書かれていました。
主旨としては「専門的で興味深い内容のブログは多く,つい引き込まれて読んでいくのだが,途中で疲れてしまう。その専門性ゆえに読みにくくなってしまっているブログは多い」とのこと。
「たしかに」と思いました。そして,私にも身におぼえがある。
「自分も,もっと簡潔に書かなくてはいけないなー」と反省しました。
つい最近書いた8月31日の記事「格差と戦争」についても,「長すぎたか?」「とくに,昭和のエコノミストの証言を長めに引用したのは,読者にとってわずらわしかったか?」などど思ったのでした。
気になる記事でしたが,ものぐさで,shin36aさんのブログへコメントはしませんでした。
しかし,後日shin36aさんから,その「格差と戦争」についてコメントをいただいたのです。
「刺激的な内容でシビれた」とお褒めの言葉。そして,興味深かった箇所として,例の昭和のエコノミストのくだりが引用されていました。
「自分の記事が長すぎるのでは」と反省するきっかけとなった記事の書き手から,このようなコメントをいただくとは!
たいへんうれしいことでした。ありがとうございます。
踏み込んだ情報を盛り込んで,しっかりと展開していくことはやはり意味があるのだと,手ごたえを感じました。
「自分は大きくはまちがってはいない」のだと。
しかし,「このままでいい」とは思いません。
情報や思考のレベルをできるだけ損なわず,簡潔に読みやすくということを,もっと追究しないと。「情報量と読みやすさのさじ加減」を,とことん突き詰めていく。多くの人に読んでもらうには,それが必要です。
その技術を上げていきたいと思います。
(以上)
- 関連記事
2014年09月06日 (土) | Edit |
このブログはいつも長めの記事が多いので,たまには短い・とりとめのない話を。
それをここでは「雑談」と呼んでいます。
***
カレーライスを,ルーのハコに書いてあるとおりにつくってみました。
「基本に忠実に」ということの象徴的な例として,松浦弥太郎さんのエッセイにあったのです。ハコに書いてあるとおりにつくってみると,たいへんおいしいのだと。
ほんとうかな?と思って試してみたのです。
たしかにふだんは大幅にアレンジして「俺のカレー」をつくっています。それで満足していました。
しかし先日,「ハウスジャワカレー辛口」のハコの裏にある,野菜や肉や水の分量,過熱時間などにできるだけ忠実につくってみたのです。
たしかに「なるほど」と思える結果でした。
多くの人が受け入れてくれるであろう,バランスの良いおいしさ。
これが「ジャワカレー」のほんらいの味なんだ,なかなかだなーと実感しました。
「基本」どおりやってみる,というのはたしかに大事なのでしょう。
その「基本」というのは,高い技術をもつ人たちが時間をかけてつくったもの。人それぞれの片寄りやクセを,できるかぎり排除しています。それで「よい結果」を出せるようになっている。そういうものこそが「基本」に値する。
***
6年くらい履いて,靴底がひどく傷んでしまったビジネスシューズを,修理に出しました。
数か月前に,メーカーの修理に出そうと,買ったお店に持っていきましたが,「こんなに傷んでしまっては,もう無理」と言われました。修理には積極的なメーカーと聞いていたのですが。
その後思い立って,近所のショッピングセンターにあるクツの修理屋さんに持っていったら,8000円で修理できるとのこと。
このクツは2万何千円で買ったもの。安物ではないと思いますが,とくに上等というわけでもない。それを8000円かけて直すというのはどうなのか。「買ったほうがいい」という考えもあるでしょう。
でも,足をつつむ「アッパー」の部分はやわらかくなじんでいて,まだまだ使えるのです。捨てるのはもったいない。
修理に出して3週間ほどで,先週そのクツがかえってきました。靴底をすべて取り換えました。
オリジナルの履き心地とはやや異なりますが,十分使用に耐えます。見た目も違和感はありません。
その後,2~3日に一度はこのクツを履いています。よくなじんでいるので,このクツが一番疲れない。
そして,「自分にあっているものを,大切に使っている」というよろこびがあります。
***
安倍内閣の改造。
最近の大臣には「地方創生」「女性活躍」みたいな,政策課題がその名称となっている,聞きなれない名前の大臣もいます。また,ある「特命大臣」は「再チャレンジ」「クールジャパン戦略」担当だったり。
従来からの大臣に,その時々の政策課題が「兼務・担当」としてくっついていたりもします。たとえば,文部科学大臣は「東京五輪・パラリンピック」担当です。
政治の解説者たちによれば,今回の内閣改造は,自民党のなかでの利害調整という面が大きかったとのこと。つまり,国会議員たちが欲しがる大臣のポストを党内のさまざまな派閥や立場の人たちに分配して,納得してもらう。それで安倍さんへの党内の支持をより確かなものにする。
「国や国民のため」ということは,ここではそれほど重要ではない。
そんなに大臣のポストを分けあうのが大事なら,「政策課題で大臣のポストをつくること」をもっと徹底すればいい。
「クールジャパン戦略」みたいなレベルのものなら,何十とつくれるでしょう。
あるいはテーマをさらに分けてもいい。たとえば「クールジャパン」を細分化して「世界に和食を広める大臣」とか「マンガとジャパニメーション振興大臣」とかつくればいいのです。
100くらい大臣のポストをつくって,何度めかの当選議員はみんな,自動的に何かの大臣になれることにすればいい。
でも100人の大臣のためにそれぞれの執務室やスタッフを用意するのはたいへん。だから,ほとんどの大臣は,学校の職員室のような大部屋の「大臣室」で仕事をしてもらう。この部屋の人たちは「大部屋大臣」といわれることでしょう。
***
広島での豪雨による惨事など,大きな自然災害の問題をとりあげたテレビのワイドショーで,ある評論家が言っていました。
「最悪の事態を想定し,それに備えるのが危機管理です」
「最悪の事態」についてイメージして,それを勘定に入れておくのは,たしかに必要なことです。
でも「それに備えるのが危機管理」というのは,「?」と思います。
最悪の状態に備えることができれば,たしかにそれにこしたことはない。
でも,それではたいへんなコストがかかったり,平常時の活動に大きな支障が生じたりすることが多い。
だから,どのくらいの・どのような危機に,どういう備えをしておくのが現実的かつ効果的なのかということで,実務家はアタマを悩ます。
さじ加減や妥協点をさぐる,といったらいいでしょうか。
過剰な備えはできない。でも備えておかないといけない。まじめな実務家や組織ほど,その狭間で悩みます。真剣に悩まなければいけない。
私も会社員時代に,法務・コンプライアンスを担当していたとき,やはり悩みました。
個人的なリスクに備えるときも同じです。
たとえば,高い保険に入ればいい,というものではない。
こういう評論家はダメだな,ラクチンなこと言うなよ,と思いました。
***
近所の書店に,こんな本が平積みになっていました。
昭和末期に活躍した女優,夏目雅子(1957~85)が表紙のムックです。
彼女は20代後半の若さで,病のため亡くなりました(若い人はご存じないかもしれないので)。
お母さんと小学校3~4年生くらいの男の子がそれをみていました。
「きれいな人よねー」と,お母さん。
「この人はね,もういないのよ。あんたが生まれるより前に亡くなったの」
「えー,じゃあボクが生まれる前の写真なの?ふーん」
親子は本の前を立ち去りました。
お母さんは書店の別のコーナーで雑誌の立ち読みをはじめました。
すると,ひとりになった男の子は,夏目雅子のところへ戻ってきました。
そして,もう一度表紙をまじまじと数秒くらいみて,離れていきました。
あのくらいの年の男の子でも「ほんものの美人」というのは,わかるんだね。
(私もそうだったかもしれない)
すごいなー,昭和の大女優。
(以上)
それをここでは「雑談」と呼んでいます。
***
カレーライスを,ルーのハコに書いてあるとおりにつくってみました。
「基本に忠実に」ということの象徴的な例として,松浦弥太郎さんのエッセイにあったのです。ハコに書いてあるとおりにつくってみると,たいへんおいしいのだと。
ほんとうかな?と思って試してみたのです。
たしかにふだんは大幅にアレンジして「俺のカレー」をつくっています。それで満足していました。
しかし先日,「ハウスジャワカレー辛口」のハコの裏にある,野菜や肉や水の分量,過熱時間などにできるだけ忠実につくってみたのです。
たしかに「なるほど」と思える結果でした。
多くの人が受け入れてくれるであろう,バランスの良いおいしさ。
これが「ジャワカレー」のほんらいの味なんだ,なかなかだなーと実感しました。
「基本」どおりやってみる,というのはたしかに大事なのでしょう。
その「基本」というのは,高い技術をもつ人たちが時間をかけてつくったもの。人それぞれの片寄りやクセを,できるかぎり排除しています。それで「よい結果」を出せるようになっている。そういうものこそが「基本」に値する。
***
6年くらい履いて,靴底がひどく傷んでしまったビジネスシューズを,修理に出しました。
数か月前に,メーカーの修理に出そうと,買ったお店に持っていきましたが,「こんなに傷んでしまっては,もう無理」と言われました。修理には積極的なメーカーと聞いていたのですが。
その後思い立って,近所のショッピングセンターにあるクツの修理屋さんに持っていったら,8000円で修理できるとのこと。
このクツは2万何千円で買ったもの。安物ではないと思いますが,とくに上等というわけでもない。それを8000円かけて直すというのはどうなのか。「買ったほうがいい」という考えもあるでしょう。
でも,足をつつむ「アッパー」の部分はやわらかくなじんでいて,まだまだ使えるのです。捨てるのはもったいない。
修理に出して3週間ほどで,先週そのクツがかえってきました。靴底をすべて取り換えました。
オリジナルの履き心地とはやや異なりますが,十分使用に耐えます。見た目も違和感はありません。
その後,2~3日に一度はこのクツを履いています。よくなじんでいるので,このクツが一番疲れない。
そして,「自分にあっているものを,大切に使っている」というよろこびがあります。
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安倍内閣の改造。
最近の大臣には「地方創生」「女性活躍」みたいな,政策課題がその名称となっている,聞きなれない名前の大臣もいます。また,ある「特命大臣」は「再チャレンジ」「クールジャパン戦略」担当だったり。
従来からの大臣に,その時々の政策課題が「兼務・担当」としてくっついていたりもします。たとえば,文部科学大臣は「東京五輪・パラリンピック」担当です。
政治の解説者たちによれば,今回の内閣改造は,自民党のなかでの利害調整という面が大きかったとのこと。つまり,国会議員たちが欲しがる大臣のポストを党内のさまざまな派閥や立場の人たちに分配して,納得してもらう。それで安倍さんへの党内の支持をより確かなものにする。
「国や国民のため」ということは,ここではそれほど重要ではない。
そんなに大臣のポストを分けあうのが大事なら,「政策課題で大臣のポストをつくること」をもっと徹底すればいい。
「クールジャパン戦略」みたいなレベルのものなら,何十とつくれるでしょう。
あるいはテーマをさらに分けてもいい。たとえば「クールジャパン」を細分化して「世界に和食を広める大臣」とか「マンガとジャパニメーション振興大臣」とかつくればいいのです。
100くらい大臣のポストをつくって,何度めかの当選議員はみんな,自動的に何かの大臣になれることにすればいい。
でも100人の大臣のためにそれぞれの執務室やスタッフを用意するのはたいへん。だから,ほとんどの大臣は,学校の職員室のような大部屋の「大臣室」で仕事をしてもらう。この部屋の人たちは「大部屋大臣」といわれることでしょう。
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広島での豪雨による惨事など,大きな自然災害の問題をとりあげたテレビのワイドショーで,ある評論家が言っていました。
「最悪の事態を想定し,それに備えるのが危機管理です」
「最悪の事態」についてイメージして,それを勘定に入れておくのは,たしかに必要なことです。
でも「それに備えるのが危機管理」というのは,「?」と思います。
最悪の状態に備えることができれば,たしかにそれにこしたことはない。
でも,それではたいへんなコストがかかったり,平常時の活動に大きな支障が生じたりすることが多い。
だから,どのくらいの・どのような危機に,どういう備えをしておくのが現実的かつ効果的なのかということで,実務家はアタマを悩ます。
さじ加減や妥協点をさぐる,といったらいいでしょうか。
過剰な備えはできない。でも備えておかないといけない。まじめな実務家や組織ほど,その狭間で悩みます。真剣に悩まなければいけない。
私も会社員時代に,法務・コンプライアンスを担当していたとき,やはり悩みました。
個人的なリスクに備えるときも同じです。
たとえば,高い保険に入ればいい,というものではない。
こういう評論家はダメだな,ラクチンなこと言うなよ,と思いました。
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近所の書店に,こんな本が平積みになっていました。
昭和末期に活躍した女優,夏目雅子(1957~85)が表紙のムックです。
彼女は20代後半の若さで,病のため亡くなりました(若い人はご存じないかもしれないので)。
![]() | 文藝春秋増刊 日本の美しい女 2014年 07月号 [雑誌] (2014/06/09) 株式会社 文藝春秋 商品詳細を見る |
お母さんと小学校3~4年生くらいの男の子がそれをみていました。
「きれいな人よねー」と,お母さん。
「この人はね,もういないのよ。あんたが生まれるより前に亡くなったの」
「えー,じゃあボクが生まれる前の写真なの?ふーん」
親子は本の前を立ち去りました。
お母さんは書店の別のコーナーで雑誌の立ち読みをはじめました。
すると,ひとりになった男の子は,夏目雅子のところへ戻ってきました。
そして,もう一度表紙をまじまじと数秒くらいみて,離れていきました。
あのくらいの年の男の子でも「ほんものの美人」というのは,わかるんだね。
(私もそうだったかもしれない)
すごいなー,昭和の大女優。
(以上)
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