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2015年01月10日 (土) | Edit |
 パリで週刊紙の本社が銃撃され,12人が死亡したテロ。
 これに関し「表現の自由への侵害は許されない」とあちこちで述べていることに違和感があります。
 こういうテロは「表現の自由」などという,高度な文明社会の価値観に関わる話ではありません。
 少なくとも,そこが肝心なのではない。

 「気に入らないからって,人を殺してはいけない」

 そういう,もっと基本的な人間社会のルールに関わることではないかと思います。

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 人は,気に入らない人間を攻撃したいという感情を持っています。
 でも,その感情を野放しにしたら,社会の秩序は保てません。
 そこで,それをコントロールする価値観や道徳を,文明社会は発展させてきました。

 今のところ,そのひとつの到達点は,近代的な「人権思想」「民主主義」などの価値観でしょう。
 「民主主義」とは,「気に入らないからって,殺したりしないで話し合おう」という考え方です。
 あるいは「気に入らないなら,殴ったり殺したりしないで,いろいろ言ってやりましょう」ということ。
 
 「宗教」も,人間の攻撃性をコントロールする機能を持ってきました。
 宗教は,一定の道徳的な価値体系を持っています。「侮辱されたら,殺してもいい」という宗教的道徳は,まず考えられません。少なくとも,社会の中でメジャーな勢力となった宗教ではありえない。
 それは,今回のテロの背景にあるとされる「イスラム」においても同じことです。

 イスラムでいう不信心者に対する「聖戦」にしても,《必ずしも戦闘によるものではない》のだといいます。《説得など,平和的手段によって本当の宗教の意味を説明することも意味して》いるのです。(宮田律『アメリカはイスラム国に勝てない』PHP新書より。宮田さんはイスラム情勢の専門家)

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 しかし,宗教には「道徳」を人びとに根付かせる構造に,大きな矛盾や問題があるように思います。
 つまり,信じる人たちの一部に不寛容や狂信を生んでしまう。どうしてもそういう傾向があるということ。

 宗教の考えかたは,こうです。
 「神」のような絶対的な存在をおき,それに全幅の信頼を寄せる。そして,「神」あるいは「神の代理人」が述べたとされることを,無条件に受け入れる。
 「無条件に受け入れる」というのは,根拠を求めたり,検証しようとしたりしない,ということ。

 無条件に受け入れたことの中には「あなたの隣人を愛しなさい」みたいな道徳も含まれます。
 そこで,信心深い人は道徳的にもなり,隣人を愛するようになるはずです。個人の小さな感情を超えた,大きな愛で人と接するようにもなるでしょう。そんな人が増えれば,社会の安定や平和も実現する・・・はずです。

 ところが,「無条件な信仰」というのは,どこかで不寛容を生みます。
 自分の信仰を否定されると,非常に攻撃的になる,ということがあるのです。
 理屈を超えて深く信じているものを侮辱されれば,理屈を超えた大きな怒りがあっても無理はないです。

 もちろん,信仰を持つ人の多くは常識やバランス感覚を持っているのですが,一部にはそうでない人もいる。
 そして究極には,「自分たちの神を侮辱する人間は,殺してもいい」というのが「神の教え」だとまじめに考える者まで出てくるのです。

 こういうのを「狂信」といいますが,「無条件な信仰」というのは,一部に(あくまで一部です)狂信を生むのです。
 そして,狂信は暴力や殺戮を生む。
 社会に平和や秩序をもたらすはずの「教え」が,そんなことになってしまう。

 ***

 ペンをかかげて今回のテロに抗議するというのは,私にはどうもしっくりきません。

 「表現の自由」などというものをかかげて,非西洋の人たちに本当に訴えるものがあるのか?
 新聞やテレビの論調に影響されすぎてはいないかと疑います。
 たしかに,マスコミの人たちにとっては,このテロはまず第一に「表現の自由」への挑戦であるはずです。マスコミ人にとって,その「自由」ほど大事なものはないでしょう。

 しかし,「表現の自由」などといわれてもピンとこない人たちが,世界には何十億人もいるのではないか。その人たちは「そんな自由は,欧米の特殊な価値観にすぎない」と思わないでしょうか? 
  
 だから,そんなことよりも「人間としての根本的な道徳」にもっと訴えるべきではないかと思います。

 「気に入らない人間がいたからって,殺していいのか? (そんなことは,あなたたちの信仰や道徳でも認められていないはずだ)」

 そういう訴えかたが,もっとあっていいのではないか。

 「表現の自由をおびやかす何か」に抗議するのではない。
 人間のなかに潜む「攻撃性」や「不合理な狂信」に抗議するということを,もっとはっきりさせないといけないように思います。

 そうでないと,こういう事件のあと,人びとのあいだで別の「狂信」が力を持ってしまうように思えてなりません。たとえば「〇〇人はとにかく邪悪で凶暴な存在であり,そのようなあいつらの本性は絶対変わらない。だからあんな奴らは我が国では・・・」みたいな方向です。

(以上) 

付記(1月12日)
 その後,いただいたコメントなどから,次のように考えました。

 「表現の自由」という観点が中心だと,「侮辱された人間の怒り」ということが抜け落ちてしまうのではないか。自分が深く信仰する教えを「風刺」されるのは,された側としては,ひどい「侮辱」と感じられるはずです。
 コメントをくださった方もいうように「人を侮辱してはいけない」というのも,人間の基本的な道徳のはずです。

 だがしかし,「どんなに激しく侮辱されたとしても,殺してはいけない」ということは外せない。

 一方,この事件は個人の感情や道徳の次元だけで論じきれるものでは,もちろんありません。
 その背景には,それなりのイデオロギーがあり,それへの「狂信」がこのようなテロを生んでいる,と言えるでしょう。犯人には背景になる組織があって,その組織の観点に立ったテロを行っています。だから,イスラムを批判する新聞が襲われ,警察官が襲われ,ユダヤ系スーパーが襲われたのです。

 やはり憎むべきは「狂信」だと,私は思います。

 そして,犯人がこうした組織に関わるまでには,「移民の子」としていろんな侮辱を受けてきたことでしょう。それへの個人としての怒りが背景にあるわけです・・・
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