2015年02月14日 (土) | Edit |
 最近,妻が部屋を借りて書道教室をオープンすることになり,その準備を手伝っています。

 *リンク: 奈昌書道教室ブログ 教室の詳細・入会などについて(2月28日付記)

 妻は,ある書道団体で師範の免状を持っていて,カルチャーセンターで子どもや大人に教えています。
 そのかたわら,自分が主宰する教室も行ってきました。
 といっても,不定期に場所を借りてイベントをしたり,限られた人数で自宅で教えたり,といったものです。

 ただ,この「自宅で教える」活動について,つい最近になってご近所で問題とされました。

 我が家は団地なので,「教室を自宅で行うのは団地の規約(住居用以外での使用禁止)に反している」ということでした。誰かわからないのですが,ご近所のある方が管理組合に「問題だ」と言ったらしい。管理組合の理事長名で,「規約に反しているので,やめるように」という主旨の文書が届いたりもしました。

 このあたり,書きたいこともあるのですが,今回はやめておきます。

 結局,自宅で教えるのはやめて,別の場所をさがすことにしました。
 そして,かなりの冒険とは思いましたが,専用の部屋を借りて,本格的に書道教室を開くことにしたのです。

 妻が不動産屋さんへ行って物件をさがしたのですが,限られた予算のなかで「教室可」の部屋というのは,ウチの近所では多くないようでした。

 23区内などの都会だと,マンションでも「オフィス・教室可」という物件はかなりあるでしょう。しかし,私たちの住む多摩地区の郊外では,それは例外的です。とくに「教室」はむずかしいようです。最初に相談した不動産屋さんは「教室」と聞くと,「それはちょっと・・・」と困惑した様子だったといいます。2件目の,契約した不動産屋さんは丁寧にいろいろ案内してくれましたが。

 どうも「郊外」というところは,「住む場所」と「仕事や営業をする場所」をはっきりと区分することを,とにかく大事にしているようです。両者が混在したり隣り合ったりすることは断固許さない,といったらいいでしょうか・・・そういう雰囲気を今回はひしひしと感じました。

 かといって,都会で部屋を借りるわけにはいきません。妻の教室にはすでに限られた人数とはいえ,生徒さん(子どもと大人)がいるのです。その人たちが通える,ウチの近所でないといけません。
 また,マンション以外の,本格的なオフィス・店舗物件だと,予算オーバーです。

 それでも,どうにか場所がみつかりました。
 我が家の最寄駅から数分のところにある,1970年代に建てられた,コンクリート造りの古い店舗兼集合住宅。その一室が「教室可」とのこと。ほかにも「教室可」の集合住宅の部屋を2つほど紹介されましたが,日当たりの良さや内装の雰囲気などから,ここに決めました。窓が2方向にある角部屋。もとは和室だった壁や天井をペンキで白く塗った,3畳のキッチン+9畳ほどのスペース。

 ここ2~3週間で,賃貸契約をして,備品や家具などをそろえたり,教室を開く準備をしてきました。
 といっても,あまりお金は使えない。時間的にも急いでいる。かなりのものは,中古品や家にあるものを持ってきたのです。それでも,ビニールのフローリング風の床がイヤでカーペットをしつらえ,新品の家具もいくらか買ったので,小さな書道教室としては贅沢をしてしまったのかもしれません。

 妻のやっていることを「手伝う」という感じではなく,まさに自分の事業のような気持ちでした。

 そうやって,だいたい出来上がったのが,つぎのような「教室」です。

  ※写真を最新の状況のものに更新しました(2月22日)
  奈昌書道教室・準備中

  奈昌書道教室・準備中2

  奈昌書道教室・本棚コーナー

  書道教室の小さな本棚コーナー
  小さな本棚。書道関係の本のほか,大人や子どもがたのしめる(かもしれない)本を数十冊,ウチから持ってきた。「そういち文庫」です。本棚好きなので,2枚の写真を。

 最初はがらんとした,かなりさびしい部屋でした。
 でも,場所というのは,家具などのモノを持ち込んでいくと,そこに命が吹き込まれます。
 今,この部屋はだいぶ「元気」になってきました。でも,まだまだ。

 もうすぐ,生徒さんたちが集まるようになります。
 そうなると,ほんとうに生き生きとした場所になってくるはずです。
 そのときが,たのしみです。

(以上)
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2015年02月04日 (水) | Edit |
 今日2月4日は,飛行家リンドバーグの誕生日です。
 そこで彼の「四百文字の偉人伝」を。古今東西の偉人を400文字程度で紹介するシリーズ。

 ***

リンドバーグ

余計なものをそぎ落として挑む

 チャールズ・リンドバーグ(1902~1974 アメリカ)は,1927年に,ニューヨークからパリまでを飛行機ではじめて無着陸で横断することに成功しました。
 それまで,ニューヨーク~パリ間の無着陸飛行には,何人かの飛行家が挑戦しましたが,テスト時や本番飛行中での事故があいついで失敗していました。それらはたいてい,何基ものエンジン(プロペラ)を積んだ大型機に,複数のパイロットが乗り組んだものでした。
 リンドバーグは,ちがう方法を選びました。
 「エンジンがひとつの小さな飛行機で,1人だけでいこう」というのです。
 周囲の人の多くは反対でした。しかし,「エンジンが増えても,そのぶん故障のリスクが増すだけだ」と考えたのです。そして,33時間余りを1人で操縦して,みごと成功したのでした。
 このように「余計なものをそぎ落として必要な道具だけで行い,最後は1人でやり抜く」という姿勢は,冒険に挑むときだいじなことではないでしょうか。

リンドバーグ著・佐藤亮一訳「翼よ,あれがパリの灯だ」『世界ノンフィクション全集3』(筑摩書房,1960)による。

【チャールズ・リンドバーグ】
はじめて二ューヨーク~パリ間の無着陸飛行に成功した飛行士。この無着陸飛行については,1919年ある事業家が初成功に巨額の賞金を出すと宣言。リンドバーグは奔走してスポンサーをみつけ,挑戦した。
1902年2月4日生まれ 1974年8月26日没

リンドバーグ

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2015年02月03日 (火) | Edit |
 「イスラム国」をめぐる議論で気になることのひとつに,「国家とは何か」ということがあります。
 「国家とは何か」について,混乱があるように思うのです。
 そして,その混乱は「イスラム国」という「敵」を理解するうえでの障害になっているのではないか。

 「イスラム国」なんて,あんなものは「国家」ではない。

 そんなことがよく言われます。

 なぜかというと,「国際社会で承認されていないから」とのこと。

 「国際社会での承認」というのは,「アメリカなどの大国間での合意」です。要するに「多数決」あるいは「談合」です。そんなことで決めるなんて,あまりに「理屈」がなさすぎます。理論的とはいえません。

 もう少し理論的であろうとするなら,「きちんと整理された定義・要件にあてはまるかどうか」という視点で議論すべきです。

 
 また,イスラム国が対外的なテロや支配地域内での残虐行為を行っていることから,「こんなひどいことをするなんて,国家ではない」などとも言われます。

 これも,私は理解に苦しみます。国家がテロや残虐行為を内外で行ったケースは,いくらでもあります。近代以前の昔はもちろん,近現代でもあるわけです。たとえばナチス・ドイツなどはそれにあてはまるでしょう。北朝鮮を思い浮かべる人もいるかもしれません。しかし,「ナチス・ドイツは(北朝鮮は)国家ではない」という人は少ないと思います。「まともな国家ではない」というなら,わかりますが。

 
 「ひどいことをせず・人びとのためになることをするのが国家だ」というのは,「国家のあるべき姿」と「国家とは何か」を混同しているのです。

 それは,「善人でなければ人間でない」というのと同じです。
 「定義」として考えれば,犯罪者や極悪人も,やはり「人間」です。ただし「過ちを犯した」あるいは「非道な」人間ということになります。「お前ら人間じゃない!」というのは,あくまで感情的なものです。

 ***

 では,「国家」とは何か?

 それは,「社会」がひとつの権力によって束ねられている状態をいいます。

 ここで「社会」とは,人間の集団として「そこで生きる人たちの暮らしが,長期にわたって(何十年・何百年と)持続し得るだけの基盤をもっている」ということです。衣食住などの生活に必要な物資を安定的に生産したり輸入したりできる,子孫を生み育てることが可能な人口や年齢構成になっている・・・そんな条件を備えた人間の集団が「社会」である。

 一言でいえば,社会とは 「生活の再生産を行い得る人間の集団」です。

 そのような「社会」を構成する人たちに対し,一定の「法」を強制できる存在のことを「国家権力」といいます。

 たとえば,日本列島に暮らす1億人余りの人間の集団は,生活の再生産が可能な大きなまとまりになっています。その意味でまさに「社会」です。それを束ねる「国家権力」が日本政府です。日本政府は,私たちに対しさまざまな「法」に従うことを強制できるのです。

 星新一の小説に「マイ国家」というのがありました。ある家の主が「ウチは独立国家だ」と主張する話。マイホームならぬ「マイ国家」であると。話としては面白いのですが,家一軒では「生活の再生産」ができません。長期の持続ができないので「社会」とはいえません。「社会」でないものが「国家」を名乗っても,それは「国家ごっこ」に過ぎないのです。

 また,かわぐちかいじのマンガ『沈黙の艦隊』では,反乱をおこした潜水艦が「我々は独立国家である」と宣言しています。でも,潜水艦の乗組員は男ばかりで子孫を残せそうもないし,生活物資を安定的に生産・調達するのもむずかしそうです。「独立宣言をした潜水艦」は,たぶん「国家」とはいえないでしょう。

 井上ひさしの小説『吉里吉里人』は,東北の一寒村が「独立国家」を宣言する物語です。これは「国家」といえる可能性が十分にあります。村落レベルでは難しいかもしれませんが,少なくとも都道府県くらいの規模の地域社会であれば,独自に生活物資を生産や輸入等によって安定的に調達することも可能なはずです。世界には都道府県と同じくらいの,人口数十万から数百万の国はいくつもあります。

 そして,世界のあちこちで「一地方の独立」ということは問題になっています。「スコットランドの独立問題」などは記憶に新しいです。
 

 *** 

 さて, 「イスラム国」は「国家」といえるのか?

 「再生産可能な単位としての社会が,ひとつの権力によって束ねられている状態」を「国家」とするなら,「イスラム国」はこれに該当するといっていいでしょう。いくつもの村落や地域社会を,支配しているのですから。

 「イスラム国」というテロ組織は,支配地域において,人びとに自分たちの「法」を強制しています。彼らの「法」で禁じている喫煙を行った人を逮捕したりしている。ならば,イスラム国は,「国家権力」の一種であるといえるのです。

 未熟で粗っぽく,暴虐であるとはいえ,「国家」の最低限の要件は満たしている。
 「イスラム国」について,私はそのように考えます。

 ここで述べた「国家」の定義は,政治学者・滝村隆一さんの説によります(『国家論大綱』など)。

 こういう「定義」の問題は,かなり論理的に突き詰めても,結局は「オレの考えに従えば,オレの考えが正しい」みたいな主張になってしまいます。ここでも「オレによる国家の定義に従えば,〈イスラム国〉は国家である」と言っているのです。

 しかし,「国際社会で承認されないと国家ではない」とか「悪いことをするのは国家ではない」というよりは,よほど一貫性のある・整理された議論ではないかと思っています。

 あいまいで混乱した「国家」論にもとづいて「あんなものは国家ではない」などと言っていると,「イスラム国」がどのような「敵」であるかを見誤ってしまうのではないでしょうか?

 「あれは国家の一種だ」と認めることは,「イスラム国は正しい」と認めることではありません。彼らの「理想」も,その理想を実現するためにとっている手段も,やはり間違っていると思います。

 彼らが,粗雑なものであれ「国家」の一種であるなら,単なる「テロ組織」に対するのとは異なる戦い方があるはずです。その「戦い方」がどういうものか,具体的なことは私にはわかりません。でも「国家」というのは,「組織」よりはかなりしぶといはずです。何しろ自立した・持続可能な人間の集団なのです。タフな相手だということです。

 関連記事:アリストテレスと考える・国家とは何か
*「国家とは」について,イェリネックの古典的学説(国家三要素説)やアリストテレスの見解,滝村隆一さんの説などを紹介した記事

(以上)
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