2015年08月24日 (月) | Edit |
 8月22日に「奈昌書道教室オープンルーム+小さなライブラリー」という,ささやかなイベントを行いました。

 私の妻(奈昌さん)は,近所のビルの一室を借りて書道教室を主宰しています。そこを半日開放してどなたでも来ていただけるようにする。奈昌さんによるミニ書道体験(残暑見舞いハガキを筆で書く)と,私そういちによる「そういち文庫紹介」のトークも行いました。教室の片隅にある小さなライブラリーの紹介です。

  リンク: 奈昌書道教室 

 この日の参加は大人6人と子ども2人。
 あとは主催者2名。

 奈昌書道教室の生徒さんとそのご家族のほか,このブログを通して関心を持って来てくださった方も。
 みなさん,ありがとうございました。

 10時すぎに,ミニ書道体験教室が始まりました。

  奈昌教室オープンルーム・奈昌さんのレクチャー

  奈昌教室オープンルーム・奈昌さんお手本を書く
 
 1時間ほどかけて,残暑見舞いのハガキに取り組みました。

 そのあと,私そういちが,教室の片隅にある小さなライブラリー「そういち文庫」の紹介。
 この小さなライブラリーは,教室に来る大人や子どもがちょっと楽しめるように,と思ってつくったのです。

  オープンルームそういち文庫紹介


 つぎつぎと本を取り出して紹介していくうち,本が山積みに。トークの内容については,いずれ記事にしたいと思います。

  そういち文庫紹介・山積みの本


 トークのあと,自由に本を手にとったり,書道のつづきをしたり。

  小さなライブラリーの本を手にとって

  101_1528.jpg

  
 文庫の本も,小さな本棚ですが,この日に向けてだいぶ増強しました。本棚がほぼ一杯になりました。

  2015年8月のそういち文庫・本を増やした

 13時半ころに,お客さんがみなさん帰られて,会は終了。

 ***

 私たち夫婦,なんだかたのしいことをさせてもらっています。
 とにかく,みなさん,暑い中来てくださって,感謝です。

(以上)
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2015年08月18日 (火) | Edit |
 この記事は,ほんとうに1時間ほどで読むことのできる世界史の通史です。
 2万数千文字ほどの分量です。やや長めの短編小説や論文1本くらいの,いっきに読める長さ。そのような世界史の通史は,あまりないと思います。

 この記事は,2年前(2013年)に20回ほど記事を書いたシリーズ となりとなりの世界史 の一部で,同シリーズの核となるものです。もとのタイトルは「1万文字の世界史」でしたが,実際には「1万文字」を大きく超えてしまったので,タイトルをあらためました。そして4回分の記事を,今回は1本にまとめました。1回分の記事としては長いですが,通して読むには読みやすいと思います。
 
 最近,ある読者の方がこの「1万文字の世界史」の過去記事について,「30~40分で一挙に読んだ。ワクワクする作品。(その時間で世界史をみわたすのは)ほかでは絶対できない経験だ」という主旨のコメントをくださいました。たいへんうれしいことでした。
 今回の記事はこのコメントがきっかけです。
 
 1時間で世界史をみわたす経験。
 「夏の読書」としてお楽しみいただければ。

 ***

1時間で読む世界史

1.紀元前3500年(5500年前)
  ~紀元前1000年(3000年前)


最初の文明

 大建築,金属器(青銅器)などを備えた最初の文明は,紀元前3500年(5500年前)ころ,今のイラクにあたるメソポタミアという土地で生まれました。
 そのころに,「シュメール人」という人びとがつくった,大規模ないくつかの都市がメソポタミアにあらわれたのです。

斜線の部分がメソポタミア。点線で囲った部分は「西アジア」(後で述べる)メソポタミアと西アジア


 その代表的なもののひとつにウルクという都市がありました。紀元前3300~3100年(5300~5100年前)ころのウルクの面積は,100ヘクタール(1000メートル×1000メートル)ほど。土を乾燥してつくったレンガによる建築物が立ち並び,1万人くらいが住んでいたと考えられます。
 今の私たちからみても,堂々たる「都市」です。

 そしてそこには,それだけの人口をまとめる,専門の役人や軍人などを抱えた支配の組織,つまり「国家」といえるものもありました。

 のちに「楔(くさび)形文字」に発展する最古の文字(絵文字)も,メソポタミアで紀元前3200年ころに生まれています。
 ここでは,世界史をメソポタミアの文明から書きはじめることにします。


文明が広がっていく

 紀元前1000年(3000年前)ころまでに,その文明は,メソポタミアの周辺へ広がっていきました。
 西側では,今のシリア・パレスチナ,それからトルコにあたる地域に。
 東側では,今のイランなどに。

 エジプトでは,メソポタミアからやや遅れて,メソポタミアに匹敵する独自の文明が花ひらきました(メソポタミアと同時代とする見方もあります)。

 その後は,もともとは「周辺」的だった,後になって文明が伝わった地域で,メソポタミアなどのほかの地域を支配する強国が生まれるようにもなりました。

 たとえば,今のトルコに中心があり,紀元前1600年代(3600~3700年前)に強大化したヒッタイトという国は,紀元前1500年ころに世界でいちはやく製鉄の技術を実用化しました。そして,その技術や軍事の力で,それまでの文明の「中心」であったメソポタミアにある王国を滅ぼしたり,エジプトと戦ったりしたのです。
 

紀元前2000年ころの西アジア
濃いオレンジは,古くから文明が栄えた中心地帯。
黄色は,「中心」と交流のある,後に文明が広がった地域。
西アジアの中心とその周辺


「西アジア」という地域

 ところで,メソポタミアや,ここに出てきた周辺の地域をまとめて「西アジア」といいます。
 この時代(紀元前3500年ころ~紀元前1000年ころ)の西アジアの文明は,のちの世界にたいへん大きなものを残しました。
 
 文字,金属器の量産,車輪を使った装置,何万人もの人が暮らす都市,そして本格的な支配のしくみをもつ「国家」というもの――そんな,文明の「基本の基本」となるものの多くが,最初にこの地域でおこり,そこから世界の広い範囲に広がったのです。


四大河文明

 その後の多くの文明や国のルーツになった,とくに古い4つの文明を「四大河文明」といいます。「メソポタミア文明」「エジプト文明」「インダス文明」「黄河文明」――どれも,大河のほとりで生まれました。

(四大河文明)
・メソポタミア文明(今のイラク,チグリス川・ユーフラテス川の流域で発生)発生時期:紀元前3500年ころ~
・エジプト文明(ナイル川)紀元前3100年ころ~
・インダス文明(インド西部,インダス川)紀元前 紀元前2300年ころ~
・黄河文明(中国,黄河)紀元前1600年ころ~(紀元前2000年ころ~という説も有力)


4大河文明

 このうち,メソポタミアとエジプトという西アジアの2つの文明が,ほかとくらべて古いです。西アジアは,世界のなかで「文明発祥の地」といえます。さらにそのなかで,メソポタミアが「最古」だということです。

 「エジプト文明やインダス文明はメソポタミア文明の影響で生まれた」という説があります。たしかに,エジプトはメソポタミアに比較的近いので,影響を受けたとしても不思議ではありません。

 インダス川流域も,メソポタミアとの距離は,エジプトとそう大きくは変わりません。そこで,インダス文明を築いた人たちは,メソポタミアの人びとと交流があったらしいのです。おもに海づたいで行き来があったようです。

 黄河文明については,ほかの文明との関係は,わかっていません。しかし,4つの文明のなかで一番新しいので,先行する文明の影響があったかもしれません。


なぜ西アジアで?  

 では,なぜ西アジアで最初の文明が生まれたのでしょうか。

 それはおそらく,「小麦という,栽培・収穫のしやすい植物が自然状態で生えていた」ことが大きいです。小麦は,西アジアが原産なのです。ほかの地域には,自然には生えていませんでした。
 小麦には,野生でも多くの実をつけ,種をまけば発芽しやすく,成長も早いといった,すぐれた栽培植物になりうる性質がありました。

 小麦の栽培は,1万年あまり前に西アジアではじまりました。世界最古といわれる農耕の遺跡は,西アジアでみつかっています。

 ほかにも,西アジア原産の重要な栽培植物はいくつかあります(エンドウマメなど)。気候に恵まれていることに加え,そのような植物を手近に利用できたからこそ,西アジアでいちはやく農耕がはじまったのです。それは,文明がいちはやく生まれるうえで有利だったはずです。


なぜメソポタミアで?

 そして,西アジアのなかのメソポタミアやナイル川流域で最も古い文明が発生したのは,「大規模な灌漑農業」に適した土地だったからでしょう。

 「灌漑農業」というのは,「雨水だけに頼らず,河川の水を,水路をつくって利用する農業」のことです。

 初期の原始的な農耕は,もっぱら雨水に頼るものでした。しかし,それでは「ほどよく雨が降る」という条件に恵まれた,ごくかぎられた土地でしか農業ができません。灌漑農業ができれば,もっと大規模に,広い範囲で農業ができます。

 そうすれば,より多くの人が集まって住んでも生きていけるだけの,大量の食糧が生産できます。つまり,大きな「都市」をつくるのに必要なだけの食糧が得られるのです。

 もちろん,それには技術が必要です。紀元前3500年前ころに「文明」やその舞台となる「都市」が発生したのは,大規模な灌漑農業が可能なくらいに技術が熟してきたからです。
 それには,農耕のはじまりから数千年の時間がかかりました。
 それだけの技術の蓄積があったのは,「最初の文明」以前の世界では西アジアだけでした。

 「文明発祥の地」であるメソポタミアの南部=チグリス・ユーフラテス川の下流は,もともとは農業にはやや適さない土地でした。雨も少なく,そこを流れる大きな河の水は,高度な技術がないと利用できなかったのです。しかし,水さえ利用できれば,大規模な農業が可能でした。

 そして,それだけの技術を持つ人びとがメソポタミア南部にやってきて,開発をはじめたことによって,「文明」や「都市」が生まれたわけです。

 メソポタミアの南部では,紀元前5000年(7000年前)ころから一定の灌漑農業がおこなわれていました。その灌漑農業の担い手が,シュメール人であったかどうかは,はっきりしません。別の人たちであった可能性もあります。シュメール人が,メソポタミア南部に,いつ・どこからやってきたのかは,わかっていないのです。


2.紀元前1000年(3000年前)~西暦500年

ギリシアの文明のはじまり

 西アジアの技術や文化は,今のトルコから海をわたって西のとなりにあるギリシア周辺にも伝わりました。そして,紀元前2000年(4000年前)ころには,青銅器や大きな宮殿を備えた「文明」が栄えるようになりました。

 このギリシアの文明は,「地中海沿岸」という地域ではじめての「文明」でした。

 ギリシアの周囲には,「地中海」という,陸地に囲まれた海がありました。地中海沿岸の人びとは,海を行き来して互いに密接に交流していました。そこで,「地中海沿岸」をひとつのまとまった地域と捉える見方があるのです。

メソポタミアとギリシャ

 その後,ギリシアでは1000年余りのあいだ,いくつもの国の興亡や,そこに住む中心的な民族の入れ替わりなどの紆余曲折がありました。

 とくに,紀元前1200年(3200年前)ころからの数百年間,ギリシアは大混乱に陥りました。
 その原因や実態はよくわかっていませんが,その数百年で,それまで使われていた文字が忘れられてしまうほど,ひどいことになっていたようです(ただしその間に,鉄器を使用するようになる,といった「進歩」もありました)。

 しかし,紀元前800年(2800年前)ころから「ポリス」という,都市を中心とする国家がギリシア各地に成立してからは,安定するようになりました。代表的なポリスとしては,「アテネ」「スパルタ」といった国があります。

 そして,失われた文字にかわって新たな文字もつくられました。それが,「古代ギリシア文字」です。この文字は,その後の欧米のアルファベット(ABC…)の原型になりました。


ギリシアの遺産

 その後,ギリシアのポリスは急発展し,紀元前500年代から紀元前300年代にかけて最盛期をむかえました。
 そして,後世に大きな影響をあたえる画期的な文化が花ひらきました。

 科学や哲学は,その代表的なものです。
 ギリシア人以前にも,西アジアなどの文明の発展した地域では,一定の学問的知識といえるものはありました。ギリシア人も,最初は西アジアの学問に学んだのです。
 そもそも,ギリシアの文字だって,もともとは西アジア(シリア周辺)のフェニキア人という人びとの文字をもとにしてつくったのです。

 紀元前600~500年代(2700~2500年前)の,高度な文化を築きはじめたころのギリシアの文化人のなかには,エジプトへ行って学問を学んだ人がかなりいました。

 たとえば,教科書にも出てくる,古代ギリシアの「ソロンの改革」(紀元前600年ころ)を指導した,ソロンというアテネの政治家は,エジプトに行って法律を学んだことがあるのです。

 さきほどの,西アジアとギリシアの位置関係を示した地図をみてください。ギリシアとエジプトというのは,じつは海(地中海)をはさんで「となり」どうしなのです。鉄道や自動車以前には,遠い距離の移動は,陸路より海路のほうが,たいていは便利でした。
 ギリシア人は「となり」にある,古くからの文明国に学んだわけです。

 しかし,もともとは西アジアの学問に学んだとはいえ,それよりもはるかに深い論理や体系性,豊富な情報というものがギリシアの学問にはあります。

 ギリシア人は,それまでの歴史の遺産を受け継ぎながら,それを大きく超えるものを生み出したのです。

 ギリシアの科学や哲学は,あとでみるように,ローマ→イスラム→ヨーロッパと受け継がれていきました。のちにヨーロッパで起こった近代科学は,こうしたギリシアの学問の伝統のうえに立っています。

 それから,社会の多数派の人びとが政治的な意思決定に参加するというしくみ――民主制(民主主義)にかんする考え方も,ギリシア人が残した大きな遺産です。
 
 また,紀元前500年代(2600~2500年前)のギリシアでは,世界ではじめて貨幣(コイン)が本格的に使われるようにもなりました。

 貨幣の製造じたいは,今のトルコ(ギリシアの西のとなり)にあったリディアという国で,紀元前600年代にはじまりましたが,それほどは普及しませんでした。ギリシア人は,それを取り入れてさかんに使いはじめたのです。
 貨幣以前には,金・銀の粒やかたまりの重さをその都度はかって,その価値に見合う商品と交換する,といったことが行われていましたが,コインのほうが,ずっと便利です。

 貨幣が普及するというのは,それを必要とするだけの発展した経済が,ギリシアにはあったということです。そして,貨幣の使用によって,さまざまな売買・取引がさかんになり,経済はさらに発展しました。


ペルシア戦争,アレクサンドロスの帝国

 紀元前400年代(2500~2400年前)には,アテネを中心とするポリスの連合軍が,当時の西アジアで最大(世界でも最大)の国だったペルシア帝国と戦争して勝利しています(ペルシア戦争。ペルシアは今のイランにあたる)。
 といっても,敵国を征服したのではなく,特定の合戦で勝利して敵を撃退した,というものです。これは,当時のギリシアの勢いを示しています。

青い線:ギリシアの勢力範囲  赤い斜線:ペルシア帝国(紀元前400年代)
ほかの国は省略している。
ギリシャとペルシア帝国

 さらに,紀元前300年代には,ギリシア人の一派のマケドニア王国にアレクサンドロスという強力な王があらわれ,急速に勢力を拡大しました。

 マケドニアは,アレクサンドロスの父である先代の王のとき,いくつものポリスに分かれていたギリシア全体を支配するようになりました。
 さらにアレクサンドロスの時代には,西アジアのペルシアやエジプトなどにも遠征して勝利し,これらの地域を支配下におく大帝国を築きました。「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

アレクサンドロスの帝国
要するに,ほぼ「ギリシア+ペルシア帝国」である。
アレクサンダーの帝国

 つまり,もともとは西アジアよりもずっとおくれて「文明化」したギリシアが,古くからの「文明の中心」である西アジアをのみ込んでしまったのです。
 世界の繁栄の中心は,メソポタミアやエジプトなどの西アジアからギリシアに移ったといえるでしょう。

 ただしこの帝国は,アレクサンダーの死後まもなく分裂してしまいました。しかしその後も,西アジアから地中海沿岸(今のギリシア,イタリアなど)の広い範囲で,ギリシア人(あるいはギリシア文化)の優位は続きました。


「となり・となり」という視点

 これまでみてきたように,最初の文明がおこって以来,2000~3000年ほどのあいだに,文明の分布の範囲は広がっていきました。
 そして,その時代に最も栄えた国=文明の繁栄の中心といえる場所も,最初の文明がおこった西アジアから,その西側のギリシアに移動していったのです。
 「移動」といっても,「人が移り住んだ」ということではなく,「繁栄がある国から周辺の別の国に移った」ということです。

 その繁栄の「移動」は,何百キロ,あるいは千キロ以上の移動で,日常感覚では「遠い」のかもしれません。でも,世界の広い範囲を大きくみわたして考えれば,「となり」といっていいような距離です。

 世界史をみわたすと,そういう意味での「となり」へ「繁栄の中心」が移っていくことが,くりかえされてきました。
 繁栄の中心がそれまでの場所から,その周辺=「となり」へ移り,その後何百年か経つと,さらにその「となり」へと移っていく――そんなことが起こってきたのです。

 「となり・となり」で,「中心」が移っていくわけです。
 これから先も,それをみていきます。
 
 「となり・となり」という視点で世界史をみわたすと,世界史は一本のつながった物語になって,見通しやすいものになるはずです。


ローマ帝国の誕生

 新しい「繁栄の中心」となったギリシア。しかし,そのギリシアもしだいに以前ほどの活気はなくなっていきました。
 その一方,ギリシアの西のとなりのローマという国が台頭してきました。

 ローマは,もともとはイタリア半島の一地域の国で,その建国・独立は紀元前500年ころのことです。西のとなりのギリシアからさまざまな技術や文化が伝わり,「文明化」した場所です。

 ローマ人は,軍事や政治の面でとくにすぐれていました。土木や建築をはじめとする技術面でも,高い能力を持っていました。
 そして,ギリシアのポリスが繁栄していた時代から,何百年もかけて多くの国ぐにを征服し,勢力の拡大を続けていたのです。

 紀元前200年代(2300~2200年前)には,イタリア半島を統一。
 その後,今のスペインなど,地中海の西側も制覇。
 紀元後まもなく(2000年前ころ)までには,ギリシア人の勢力範囲――ギリシア本土やエジプトなども,ローマによって征服されてしまいました。

 さまざまな国を征服した結果,紀元後まもなくのころには,ローマは地中海全体を囲む巨大な帝国になっていました。「ローマ帝国」の誕生です。なお,「帝国」とは,「さまざまな民族を支配する国」のことです。

 帝国の首都ローマがあるイタリア半島は,新しい繁栄の中心になりました。「繁栄の中心」が,ギリシアからその西の「となり」に移ったのです。

ローマ帝国(最盛期の西暦100年代)
最盛期のローマ帝国


ローマ帝国の文化

 ローマ人は,征服した国ぐにのさまざまな文化を,自分たちの帝国のなかに取り入れました。
 そのなかで最も重視したのが,ギリシアの文化でした。

 たとえば,ローマの学問・科学というのは,全面的にギリシアのものをもとにしています。美術や建築も,ほぼ同様です。「ローマ人は,ギリシア人を軍事的・政治的に征服したが,文化的には征服された」などともいわれます。

 ただし,ギリシア起源でない文化でも,重要なものがあります。その代表がキリスト教です。

 キリスト教は,紀元後まもない時期に,当時ローマ帝国の領域だった西アジアのパレスチナ地方で創始されました。キリスト教の母体になっているのは,当時のパレスチナ周辺で普及していたユダヤ教です。
 
 キリスト教は,その後ローマ帝国の各地に広まりました。最初は「あやしい新興宗教」として弾圧されましたが,しだいに公認され,権威になっていきました。そして,西暦300年代末には,ローマ帝国の「国教」(国をあげて信仰する宗教)にまでなったのです。


インフラの建設

 文化では「ギリシアに征服された」といわれるローマ人ですが,政治・行政やインフラ(社会生活の基盤となる施設)の建設といった実務的な分野では,ギリシア人を超える高度なものを生み出しました。

 それを象徴するのが,ローマ帝国の全土に建設された道路網です。

 西暦100年代のローマ帝国には,720万平方キロの領域のなかに,のべ8万キロあまりの公道が整備されていました。石畳などで舗装された道路です。

 この「8万キロ」というのは,1900年代後半のアメリカ合衆国全土(940万平方キロ)における高速道路網の総延長(9万キロ弱)に匹敵します。

 また,水道の整備にも,ローマ人は力を入れました。

 ローマ帝国のおもな都市では,遠くの水源(沼や湖など)から水路をつくって都市に水を供給しました。そのために,ときには水道橋をつくったり,トンネルを掘ったりもしました。これは,ギリシア人がすでに行っていたことを改良し,大規模に行ったのです。

 都市には公共浴場や数多くの水汲み場が設けられ,市民はふんだんに水を使う暮らしができました(一般の家庭ごとに水道がひかれるまでには,なっていません)。

 およそ2000年前の時代になると,それだけのインフラを整備するところまで,文明は進んだわけです。
 当時のローマ人は,そのような「進歩」の先端を担っていました。


帝国の衰退と解体

 ローマ帝国は西暦100年ころに最盛期をむかえましたが,その後だんだんと衰退していきました。

 西暦400年代には,帝国の西側の「西ローマ帝国」(イタリア半島周辺)が,内乱や外部からの異民族の侵入で体制崩壊してしまいました。
 
 これによって繁栄の中心は,それまでのイタリア半島から,体制崩壊を免れた帝国の東側の地域(ギリシア周辺)に移っていきます。またギリシアに戻った,ともいえます。

 ローマ帝国の衰退がはじまったころから,繁栄の重心は徐々に東側にシフトしていたのですが,西側の体制崩壊でそれが決定的になりました。

 このいわば「生き残った」は側のローマ帝国は「東ローマ帝国」といいます。

ローマ帝国の東西(赤い線が境界)
東西のローマ帝国
 
 西ローマ帝国の崩壊の一因となった「異民族の侵入」というのは,「ゲルマン人」と一般にいわれる人びとによるものです。

 ゲルマン人は,ローマ帝国が繁栄していた時代には,ローマの人びとからみて辺境の,ヨーロッパの北や東側の一画で素朴な暮らしをしていました。しかし,ローマと接することで一定の技術や文化を身につけ,新興の勢力となったのです。

 西ローマ帝国の崩壊後,ゲルマン人はその跡地に,それぞれのグループ(部族)ごとに自分たちの王国を築きました。
 できはじめて最初の数百年,それらの王国は不安定で,さまざまな国がおこっては滅びていきました。その間に,かつて栄えた文化はすっかりおとろえてしまったのでした。


中国とインド

 ここで少しだけ,これまで「四大河文明」のとき以外触れなかった中国とインドについて述べます。
 まず,中国です。

 紀元前1600年ころ(あるいは紀元前2000年ころ)の黄河文明の誕生以来,その文明は周辺に広がっていき,いくつもの国が生まれました。

 そして,紀元前200年(2200年前)ころには,「秦」という国がほかの国ぐにを征服して,今の中国全体に近い範囲をはじめて統一しました。秦の王は自らを「始皇帝」と名乗り,絶対の権威となりました。

 この統一は,現在につながる「中国」の原点といえます。

 しかし秦の支配は十数年の短期で終わり,その後まもなく「漢」という王朝によって,再統一がなされました。「王朝」というのは,「国王や皇帝が支配者である政権」を,そのように呼ぶのです。

漢(前漢)
前漢

 漢王朝はその後(紀元後まもなくまで)200年ほど続きました。
 そして,漢が滅んで別の政権が短期間あったのち,漢王朝を復活したとされる「後漢」という政権もありました。後漢は西暦200年ころまで続いたので,これも含めると,「漢」は400年ほど続いたことになります。
 なお,最初の「漢」のことは,「前漢」ともいいます。

 今の中国人の多数派は「漢族」といいます。中国の文字は「漢字」です。これに象徴されるように,漢の時代は,のちの中国の政治や文化の基礎がつくられた時代でした。

 インドの歴史でも,中国史における秦や漢のような「原点」があります。

 それは,紀元前200年代(2200~2300年前)に,いくつもの国が並びたっていたインドのほぼ全体をはじめて統一した「マウリヤ(王)朝」です。
 しかし,このインド統一は長く続かず,マウリヤ朝は紀元前100年代には滅亡しました。

マウリヤ朝(紀元前200年代)
マウリヤ朝

 その後のインドは,最近の数百年間(1600年代以降)を除き,基本的に「分裂」が続きました。「ほぼ統一」「かなりの部分が統一」という時代もありましたが,全体からみれば,かぎられています。

 中国史でも,秦・漢以降「統一の時代」と「分裂の時代」があります。しかし,インドとちがって,「統一の時代」のほうが長いです。

 しかし「分裂」が続いたとしても,「インド」というひとつの文化的まとまりは維持されたのでした。

 そして,「分裂していて,中小の国の集まり」であったために,その後の歴史のなかで,インドには「世界の中心」といえるような超大国(世界史における「スター」的存在)はあらわれませんでした。

 
西暦100年代の世界

 この章の最後に,ローマ帝国の最盛期だった西暦100年代(1900~1800年前)のユーラシア(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)をみてみましょう。

 この時代には,ユーラシア以外に大きな国は栄えていなかったので,以下の地図は当時の「世界の主要部」を示しています。

西暦100年代のユーラシア
西暦100年代のユーラシア

 西から順にローマ帝国,パルティア(ローマ帝国も征服できなかった強国。今のイランにあたる),インド北西部のクシャナ朝,それから中国の後漢……

 当時の後漢は,ローマ帝国に匹敵する規模の大国でした。この時代以降の中国は,長いあいだ「もうひとつの世界の繁栄の中心」あるいは「中心に準ずる大国」であり続けました。

 そして,もう一度「四大河文明」を示した地図をみてください。

四大河文明
4大河文明

 「文明」のはじまりの時代には,世界のなかで「文明」が栄えていた範囲は,かぎられていたのです。

  しかし,5500年前ころに「最初の文明」がメソポタミアでおこってから3千数百年が経つと(つまり西暦100年代には),ユーラシアの西の端から東の端まで,大きな文明国が連なる状態になったわけです。

 ただし,西暦100年ころには,現代の世界では重要な地域である,日本や東南アジアやヨーロッパの一部(北部や東部)は,まだこの「文明国」の圏内には入っていません(当時の日本は弥生時代)。ユーラシア以外の,アメリカなどの新大陸も,ほぼそうです。

 これらの地域の本格的な「文明化」は,このあとの歴史になります。

 ※ここまでで全体の4割弱。
  つづきがあります。
  (イスラムの台頭,ヨーロッパの台頭と世界制覇,アメリカの時代と世界大戦)
  以下をクリックしてください。
  ↓
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関連記事
2015年08月14日 (金) | Edit |
 東芝の「利益水増し」の問題。
 この件に関して大マスコミは,おおむね「不適切会計」という言葉を使っています。
 今朝(8月14日)の日経新聞では「東芝の新しい社外取締役が決まった」というニュースが1面でしたが,11面の関連記事(「東芝,情報共有の徹底必要」)でも「不適切会計」という表現です。

 でも,この件はほんとうは「粉飾決算」といっていいでしょう。
 「不適切会計」というのは,お茶をにごした言い方です。「故意だったかもしれないし,ミスだったかもしれない」というあいまいさを含んだ表現です。
 しかし「粉飾決算」だと,「意図的な犯罪的行為」というニュアンスになります。

 何年にもわたり1500億円分の利益を水増ししていたのです。
 意図的・組織的なものであることは明らかです。そこに社長の指示があったことが伺える事実も,第三者委員会の報告などであがっています。

 でも「粉飾決算」といわないのは,それが「重罪」だからです。「重罪」だけに,その言葉を使うことに慎重になっている。

 ***

 「粉飾決算」とは「意図的に会計帳簿の数字をごまかして,決算をよくみせること」です。
 これは,資本主義において,重大な犯罪です。

 近代の経済の中心になっているのは,株式会社です。
 そして,人びとが株式会社に出資するときも,出資に対するリターンとして利益の分配を受けるときも,その会社の株式を売買するときも,その判断の基礎になるのは会計帳簿・決算書です。

 つまり,会社のお金の流れや財産の状況を記録したものをみて判断する。中には「決算など知らないけど,その会社の株を買っている」という人もいますが,それは基本から外れたあり方です。

 帳簿や決算が信用できなかったら,株式会社という制度は成り立ちません。
 だから,粉飾決算は資本主義に対する重大な犯罪ということになります。

 「会計の信頼性」を確保する――これは,資本主義が発展するうえでの大きな課題でした。

 近代の初期にあたる1600~1700年代のイギリスでは,一種のベンチャー・ブームがおこって株式会社の原型といえる企業がつぎつぎとつくられました。しかし,それらの企業のなかにはでたらめな会計・決算を行うものが少なくありませんでした。赤字なのにばく大な利益が出ているかのような報告をして多くの出資者を募り,そのあげくに経営破たん・・・そんなケースが続出しました。

 そこで,イギリスでは「株式会社は原則禁止(許可制)」という時代もあったのです。

 そんな状態をある程度克服したことで,現在の株式会社や証券取引市場の発展があります。
 いろいろな制度や規制を整備して,それを守るようにしていったということです。

 ***

 「会計の信頼性」を確保するために必要な制度は,おもにつぎの3つです。

 1.「何が正しい会計か」を定義する・・・会計のルールの整備
 2.「会計が正しいかどうか」をチェックするしくみ
   ・・・経営者(会社)がつくった帳簿を第三者がチェックする
 3.「不適切な会計」「粉飾決算」に対するペナルティ


 1.については省略します。
 
 2.については「監査役」「会計監査」という制度があります。
 会計・決算というのは経営者(社長)の責任で行います。

 一定規模以上の会社の多くでは「監査役」という役職が置かれています。監査役には経営陣である取締役などとは別の立場から(経営を直接行わない),会計・決算が適正であるかどうかチェックすることになっています。

 それ以上に重視されるのが,会計監査人による会計監査です。公認会計士という資格を持った専門家が会社の帳簿をチェックして,問題がなければ「問題なし」という証明を出す。上場企業(株式市場でその株式が広く取引される会社)などの大企業では,このチェックが義務付けられています。

 あと最近は「社外取締役」というのも,「チェック機能」として話題になります。その会社やグループ会社とは関わりを持ってこなかった人(その社員などではなかった人)を,取締役(会)の一員にするということ。社外取締役には「しがらみ」のない立場から,経営をチェックすることが求められます。

 ***

 このような「チェックのしくみ」があっても,粉飾決算は起こっています。

 「粉飾」を防ぐことは,原理的に非常にむずかしいのです。

 決算は,会社で絶大な権限を持つ社長(経営者)の指揮のもとで行われます。個々の担当者も,それなりの権限を持っていますが,最終的には社長の指示に従います。

 決算とは「経営者の成績表」です。
 ということは,社長は自分の成績表を,部下を指揮して自分でつくっているようなもの。
 つまり「成績をじっさいよりも良く見せたい」と思ったとき,それが可能な立場にあるのです。

 でも,監査役や公認会計士のチェックがあるのでは?と思うかもしれません。

 しかし,監査役のチェック機能にはおおいに限界があります。
 大きな会社の会計は,複雑で専門的ですので,しっかりとチェックするには高度の専門知識と,多くの人手(スタッフ)が必要です。しかしたいていの監査役には,そのような専門性や人手がありません。監査役には,ごくわずかの部下・スタッフしかないのがふつうです。

 それから, 監査役のほとんどは事実上は経営者に任命されて監査役になったのです。会社で社長の部下だった人も少なくありません(たとえば,監査役になるまえはその会社の部長だった,とか)。そこで法的には社長をチェックできる立場でも,どうしても遠慮してしまう。 

 本来,監査役は株主総会で選任されます(取締役と同じ)。でも「この人を監査役にしたい」ということを株主総会にはかる議案は,経営者側で作成します。その議案作成を社長は指揮しているので,監査役は事実上社長に選ばれた立場にあるわけです。

 そしてそれは「社長は,自分の成績表をチェックする人を,自分で任命している」ということでもあります。
  
 少し異なる面もありますが,このような「限界」は社外取締役にもおおむね当てはまります。

 では公認会計士のチェックはどうか?
 公認会計士には専門性はあるし,たいていの大企業は大手の会計事務所(監査法人)によって組織だった監査を受けます。ならば問題ないのでは?

 しかし,公認会計士というのは,監査を受ける会社自身が雇うのです。会社が雇って,報酬を会計士に支払う。どの公認会計士に依頼するかの事実上の決定権は,社長にあります。

 ということは,社長は「自分の成績表をチェックする専門家を自分で雇っている」ということです。

 以上をまとめると,会社の社長は「自分の成績表を自分の指揮で作成し,それをチェックする監査役や会計士を自分で任命したり雇ったりしている」ということです。そういう制度になっているのです。
 
 ということは,決算に関して社長はその気になれば,相当な不正ができるのではないか?
 
 学校の成績表でいえば,生徒が自分でテストを採点して,自分で通信簿を記入して,それを言うことを聞いてくれるお友達に確認してもって・・・というやり方をしている。そういう通信簿を親御さんは信用しないでしょう。でも,会社の決算も原理的には似たかたちでつくられているのです。

 とにかく,私たちが知っておいていいのは,「粉飾決算を防ぐ制度というのは,じつは非常にぜい弱だ」ということです。経営者をチェックするというのは,口でいうほど簡単ではありません。

 そして,このような「ぜい弱」性を十分に乗りこえる運営のノウハウは,まだ開発されていないのです。
 いろいろな改善策が打ち出されてはいます。たとえば「社外取締役」の役割強化や近年の会社法における「委員会設置会社」(説明は省略)などはそうです。でも,根本的にな解決には程遠い。

 ***

 それでも,現在の企業会計や株式市場がどうにか機能しているのは,多くの経営者が自重しているからです。粉飾決算の重大性を自覚しているのです。それに,たいていの人には常識や良心もある。

 そして,粉飾決算に手を染めることのリスクも,世慣れた人たちである以上,わかっています。
 粉飾決算をしたら(指揮したり,関与したりすれば),いつかは何らかのかたちでバレる。多くの場合,内部告発によって,世間にわかってしまう。

 そうなれば地位を失うだけでなく,自社の株価が下がり,株主から訴えられるかもしれない。訴訟で負ければばく大な損害賠償責任を負うかもしれない。逮捕されて刑事罰を受ける可能性もある。

 実際に,そのような例もあります。上記の3.「粉飾に対するペナルティ」です。

 ライブドアの当時の経営者・ホリエモンさんは,粉飾決算による証券取引法違反で2006年に逮捕されました。その後有罪となり,刑務所に入りました(今は刑期を終えて社会復帰され,また活躍していますね)。
 
 粉飾決算ではありませんが,西武鉄道で「有価証券報告書の虚偽記載」という問題が2005年に発覚し,西武グループのトップだった堤義明氏が証券取引法違反で有罪(執行猶予つき)となる事件もありました。

 これは,「有価証券報告書」という,決算などの会社に関するさまざまな情報が書かれた書面の一部に重大な虚偽(粉飾)があったというもの。この場合は,株主の構成(どのような人たちが株主であるか)に関することでした。西武鉄道の株主構成には上場会社として問題があったのですが,それをごまかしていたのです。

 そして,西武鉄道は上場廃止となったのでした。つまり,同社の株式は市場で取引されていたのに,それができなくなった。(その後西武グループは再編成され,グループ持ち株会社である西武ホールディングスが2014年に再上場)

 このように粉飾決算やそれに類することは「重罪」とされます。

 今回の東芝の件も,粉飾決算が歴代社長の指揮のもとで行われたことが事実なら(その状況証拠はあるわけです),社長の逮捕・有罪ということも,あっていいわけです。

 しかしもしも,そのような追求もとくにないまま,「東芝はガバナンス(経営チェックのしくみ)を強化して再出発します」みたいなことで終わってしまうとしたら? 大マスコミが「不適切会計」といってお茶をにごしているくらいですから,その可能性もあります。

 もしもそうなったら,日本の経済・社会に大きな悪い影響を残すでしょう。

 「これだけの粉飾決算をしても逮捕されないんだ」

 そういうメッセージを発することになるからです。
 海外の投資家からも,「日本はそうなんだ」とみられることになる。

 そして「これだけの粉飾をしても大丈夫だ」というメッセージを「我がこと」として受けとめるのは,日本の財界の中心を占めてきた伝統や権威のある大企業の経営者たちです。東芝はそのような大企業のひとつです。

 「ホリエモン(ベンチャー企業)や西武の堤さん(伝統の比較的浅い,新興の財閥)は逮捕されるけど,自分のところは大丈夫。権力が守ってくれる」――そんなメッセージをここでいう「権威ある大企業」の経営者は受けとめるはずです。だとしたら,その経営者たちは,まじめに誠実に決算書をつくることがバカらしくならないでしょうか?

 権力者どうしの慣れあい,ご都合主義――それを優先して「法の原理原則」はないがしろにする。

 そういう精神が今の日本の社会にしっかり生きていることを,今回の東芝の件は明らかにしてしまうかもしれません。そうならないことを祈ります。

 明日は終戦記念日なので考えてしまうのですが,大切にしなければいけない「原理原則」や「現実」よりも,自分たちの属する権力者のコミュニティを優先する発想は,戦争のときの指導者たちの精神ともつながるように思えます。「国家の利益よりも,陸軍・海軍の都合や雰囲気を優先する」という精神です。

(以上)
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2015年08月08日 (土) | Edit |
 前回の記事でご紹介した奈昌書道教室で,「オープンルーム+小さなライブラリー紹介」のイベントを開催します。
 8月22日土曜日の9:00~14:00。

 私の妻は,地元の多摩市で書道教室を開いています。そこを半日ほどオープンにしてどなたでも来ていただけるようにします。
 「書道ミニ体験教室」と,この書道教室に「おまけ」として設置されている,子どもも大人も楽しめる小さなライブラリー(そういち文庫)のおすすめ本の紹介などを行います。あとは,お好みで本を読んでいただいたりして,流れ解散。

 書道教室は,奈昌さん(なしょう,私の妻)が講師で,「おすすめ本紹介」は,私そういちが担当します。

 大人も子どもも参加いただけます。
 夏休み後半の「暇を楽しむ時間」を,みなさまと過ごせたら。

 ご参加お待ちしております。

 ※奈昌書道教室のブログでも同様の告知をしています。
   
    リンク: 奈昌書道教室 
 
 ***

奈昌書道教室・夏のオープンルーム+小さなライブラリー

 奈昌書道教室では,8月22日に,半日ほど教室を開放して
 小さなイベントを行います。
 大人も子どもも,どなたでもご参加いただけます。


  奈昌書道教室・夏のひととき
  最近の奈昌書道教室

〇日時 2015年8月22日(土) 10:00~14:00

〇場所 奈昌書道教室(京王線・小田急線永山駅 徒歩7分)

〇内容・時間割
 9:00  会場オープン
 
 10:00~10:40  書道ミニ体験教室(by奈昌)
               残暑お見舞いのハガキを筆で書く!
 
 10:50~11:20  書道教室の小さなライブラリー
               おすすめ本紹介(byそういち)

奈昌書道教室には,小さなライブラリーがあります。 100何十冊ほどですが,大人も子どもも楽しめる,選りすぐった本の中から,その一部をご紹介。

 11:20~       自由時間→流れ解散
               
本を読んでいただいてもよし。書道の続きをしたり, 子どもさんなら絵を描いて過ごしたり。あんまりさわがしくしなければ,おしゃべりも。「飲食オーケー」のコーナーも設けますので, 飲み物やおやつなどお持ちいただいても結構です。

 14:00 終了

〇参加申し込みなど
1. akita.nashoあっとまーくgmail.com(あっとまーくは@に変換) 秋田奈昌 まで
   
 「オープンルーム参加」「氏名」を明記してメールをお送りください。くわしい場所などのご案内をいたします。

2.できるだけ事前に申し込みをいただければと思いますが,当日のとび込み参加も大丈夫です。 (ただし書道ミニ体験教室は,参加人数に限りがあります)

3.参加費 100円(「書道ミニ体験教室」参加の場合のみ)

  奈昌書道教室・夏のひととき (2)
 
  書道教室の小さなライブラリーで本を読む帽子の子
  書道教室の小さなライブラリー

(以上)
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2015年08月03日 (月) | Edit |
 このところ更新が途絶えていましたが,再開です。
 元気でやっていますが,ブログのほうへ時間や気持ちを向けられない状態が続きました。

 最近「おもしろいなー」と思って取り組んでいることのひとつに,「そういち文庫」というものがあります。
 妻がウチの近所で書道教室を運営していて,そこに小さな「家庭文庫」「学級文庫」のようなものを用意したのです。文庫の主催者である私の名をとって「そういち文庫」。
 
 妻は「オフィス・教室可」の集合住宅の一室を借り,子どもや大人に書道を教えています。
 その教室の一画に本棚を置いて,書道教室に習いに来てくださるみなさんが自由に手にとって気晴らしができるような本を並べました。貸出しもしています。1回に1冊2週間まで。

 リンク: 奈昌書道教室

 教室や,本棚の様子。メインの本棚(下の写真のうち2つめ)は,テラバヤシ・セッケイ・ジムショの寺林省二さんがDIYで製作してくださったもの。

  奈昌書道教室2015年7月

  そういち文庫本棚2015年7月

  そういち文庫本棚ズーム2015年7月

  そういち文庫本棚ズーム2・2015年7月

 教室には大人も子どもも通ってくださっています。
 だから「大人も子どももたのしめる本」を並べようと思いました。

 書道教室ですから,まず書道関連の本。
 「建築・住まい」「暮らし・料理」関係は,おもに大人向け。

 その中に,『地球家族』のような世界の国ぐにの暮らしを写真で紹介した本や,土門拳や木村伊兵衛の写真集やフェルメールを解説した本のような美術系のものも少し。伊藤計劃の『ハーモニー』や,最近読んで面白かったアンディ・ウィアー『火星の人』といった「普段SFを読まない人も楽しめるSF」も。「昔を懐かしむ」類の本として,小泉和子『昭和のくらし博物館』や加藤嶺夫の写真集『東京 消えた街角』なども。

 子ども向けは、『ぐりとぐら』『ちいさいおうち』『ちびくろさんぼ』『きかんしゃやえもん』のような,みんなが知っているものがおもに並んでいます。少し上の子には『エルマーのぼうけん』とか,さらに上の子には『魔女の宅急便』や岩波少年文庫の何冊か。
 おもに私が子どものときに読んで,今みても「これはいい」と思うもの。だから,大人もたのしみやすいはず。
 私は子どもの本に詳しいわけではないので,「自分の体験をベースにしたセレクト」でいこうと思いました。

 子どもの本は,物語系が多いですが,加古里子(かこさとし)の『宇宙』やバージニア・リー・バートン『せいめいのれきし』のような「宇宙や世界を知る」本も。子ども向けの偉人伝も何冊か揃えました。

 マンガも少し置いてます。手塚治虫『火の鳥 未来編』とか『鉄腕アトム』の朝日ソノラマ版の第3巻(地上最大のロボット,浦沢直樹の『PLUTO』の原作)とか,水木しげる『悪魔くん』とか。
 あとは書道マンガの川合克敏『とめはねっ!』(全14巻)の最初の何巻か。

 これらの本は私の家から持ってきたものものありますが,ブックオフやアマゾンの中古や新刊書店であらためて買ったものが大半です。つまり,文庫のためにあえてそろえた本が中心なのです。
 
 こういう「文庫」をつくるにあたって,「文庫を本の捨て場所にしない」ということは大事です。公共施設や職場などにある小さな「文庫」のなかには「要らなくなった本をみんなで持ち寄って」というかたちでつくられたものがあります。でもそれだと,充実した本棚にはなりにくい。

 今,そういち文庫には120~130冊ほどあります。
 じつにささやかな蔵書です。今後も多少は増やしていきますが,スペース的にも200冊くらいがひとつの限度かと思います。

 でも,それなりにセレクトしたものであれば,わずかの蔵書でもたのしい文庫がつくれるのではないかと。
 書道教室の気晴らしコーナーとしては,それでいいのではないか。

 そういち文庫の本を読む子どもたち。
 書道のお稽古の前と後に10分~15分のあいだ,ちょっと読むくらいです。稽古が終わって,親御さんが迎えにくるまでの間とかです。わずかの時間ですが,それでも「ちょっと何かに触れる」というのはいいのだと思います。15分の読書は,子どもにとってはそれなりの内容のある時間です。

  奈昌書道教室・床に座って読書

  奈昌書道教室・読書する男の子

  そういち文庫で本を読む帽子の子

  二月堂で読書する女の子

 一番下の,女の子が向かっている座机は,家具職人の真吉(しんきち)さんの作です。書道でよく使う伝統的な座机に「二月堂」というのがあるのですが,それをベニア板製のモダンなかたちにしたオーダーメイド。塗装は墨汁を塗っています。
 本来は書道をする机ですが,「読書用」としてもこれがお気に入り,という子がいます。写真は,硬筆(鉛筆書き)の書道のお稽古の様子ですが。

 文庫をはじめたのは,今年の3月から。
 貸出しもしていると述べましたが,この4か月余りで30冊弱の貸し出し実績があります。利用は子どもが中心ですが,大人の方も借りておられます。

 書道教室の「おまけ」の,100何十冊の小さな文庫としては,まずまずの繁盛ぶり。

 自分が選んだ本をお客さんに手にとってもらうと,ある種のコミュニケーションや交換をした気持ちになります。

 本の貸し出しの実績や、妻から聞いた,みなさんが手にとって読んでいる様子などから,いろいろな発見もありました。こういう「文庫」は,私のような本好きにはじつにたのしい遊び・活動です。これを通じての「発見」など,またご報告したいと思います。

(以上)
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