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2015年10月29日 (木) | Edit |
 横浜のマンション傾斜問題のニュースをみていると,「波紋」が広がったり,いろいろ「展開」したりして,最も大事なところがぼやけてしまわないか心配になります。

 この問題は,まず第一にマンション住民に対する,販売会社(三井不動産レジデンス)の責任の問題です。
 住民にマンションを売ったのは,販売会社ですから,当然です。

 そのはずなのに,報道では施工の元請(三井住友建設)やその下請け(旭化成建材)のことがより多くとりあげられています。
 たしかに,マンション傾斜の原因になった「データねつ造」は,建設の現場で起こったことで,その「ねつ造」は旭化成建材の担当する業務でのこと。だから,人びとの関心がどうしてもそっちのほうに行ってしまう。

 これは,「問題の追及」が,いわば垂直方向に掘り下げられているということ。

 一方で,「横」の「水平方向」にも,報道や人びとの問題意識は展開しています。
 「ほかの建物は大丈夫なのか?同じようなデータねつ造はないのか?」という関心です。

 たとえば今日の朝刊は「北海道の工事でも旭化成建材がデータ流用をしていた」と報じています。
 「自分のところは大丈夫か?」という不安も,当然といえば当然です。
 マスコミの人も,関連する何らかの新事実を明らかして,手柄を立てたい。

 でも,こういう「垂直」「水平」への展開は,いちばん大事な責任問題への人びとの関心をそらす効果を持っているのではないでしょうか。

 「垂直」「水平」という見方は,だいぶ前に企業の不祥事やリスクの問題に詳しい方から教わったのです。たしかに有効な視点です。不祥事というのは,「垂直」や「水平」に展開する傾向があるのです。

 今朝のニュースでは,問題のマンションの住民の方が「三井住友建設と旭化成建材で責任のなすりつけあいの議論をしているのはけしからん」と怒っているインタビュー映像が流れていました。

 それはたしかに「けしからん」です。でも,その「なすりつけあい」がどうこうよりも,販売会社への責任追求こそが,住民の人たちにとっては重要です。ほかのことは,じつは枝葉にすぎません。

 マスコミや人びとの関心が,垂直や水平に拡散していることで,マンション販売会社(三井不動産レジデンス)はかなり助かっているでしょう。
 そのように販売会社がマスコミを操作した,とは言っていません。でも,とにかく今の展開は,被害者の救済と第一の責任者の責任問題をぼやかしているように思えてなりません。

 そして,第一の責任者の責任があいまいになってしまっては,そのほかのどんな原因追究や再発防止策もたいした意味をもたないでしょう。「建設業界の下請け構造こそが問題だ」みたいな議論は,一見「深い」ようで,じつは用心すべきだと思うのです。

(以上)
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2015年10月27日 (火) | Edit |
 今,「1時間くらいでざっと読める世界史の通史」の原稿を書いています。 以前にアップした「1万文字の世界史」という記事の改訂版です。

 近いうちにこれを小冊子にしてリリース・販売します。タイトルは仮に「1時間の世界史」というのを考えています。自分で行うインディーズ出版ですね。そういうのを最近は「リトル・プレス」と言ったりもするそうです。

 その原稿づくりにエネルギーをとられて,最近は更新が疎かになってしまいましたが,元気でやっております。

 今回の「世界史の通史」の改訂・増補の中心は,現代史です。
 1900年代以降の世界について。

 以下の記事は「1時間の世界史」の最終章にあたる,現代史の部分をもとにしています。
 20~30分で読めてしまう,世界現代史(の通史)です。文字数にしてほぼ1万文字。

 アメリカの勃興~第1次世界大戦~第2次世界大戦~大戦後の世界(アジア・アフリカの独立・冷戦)~近年の新興国の勃興~アラブ諸国の情勢といった流れで書いています。

 最低限のざっくりした流れは,この「1万文字」でつかめるはずです。
 こういうコンパクトなかたちで,一定の系統性をもって,通読できるように書かれた「短い世界現代史」はまずないのでは,と思っています。


30分で読む、短い世界現代史

アメリカの時代 

 「現代の世界で,世界の繁栄の中心といえる国はどこか?」と聞かれたら,かなりの人は「アメリカ合衆国」と答えるのではないでしょうか?
 
 イギリス=大英帝国の繁栄のあと,1900年ころからの世界は「アメリカ合衆国(アメリカ)の時代だった」といっていいでしょう。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。

 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 なお,1800年代後半のドイツでは,日本でいえば明治維新(1868)にあたるような,国家をひとつにまとめる変革が行われて「ドイツ帝国」という体制が成立し,急発展していました。これは,イギリスやフランスよりもやや遅れての発展です。ドイツは,1900年ころの世界で,新興の大国としてはアメリカに次ぐ存在でした。

 ところで,アメリカとイギリスは大西洋をはさんで「となり」といえる位置関係にあります。鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。つまり,アメリカとイギリスは海という交通路でつながっているのです。それから,アメリカの東海岸は1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。

 そのように,アメリカはイギリスの影響をつよく受けた地域です。その意味で,世界史のなかで「イギリスの繁栄を受け継いだ存在である」といってもいいでしょう。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 発明王エジソン(1847~1931)は,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。エジソンはアメリカ人で,1800年代末から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電流」という現代の電気技術に貢献したテスラやウェスティングハウスといった人たちがいました。

 これらの人たちはみなアメリカで活躍しました。つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。
 アメリカのGDP(経済規模を示す)は世界第1位で,世界全体の22%を占めます(2012年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済の発展度を示す)は,5万1千ドルで,世界でも上位のほうです。

 なお,GDPで世界2位の中国は世界の11・5%,3位の日本は8・2%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが6100ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の国防予算の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。


2つの世界大戦

 ここで,1900年代の2つの世界大戦と,その後の世界についてみてみましょう。「アメリカ中心の世界」は,世界大戦が生んだ結果のひとつです。

 アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半には,その欧米諸国のなかできわめて大きな争いがありました。第1次世界大戦(1914~1918)と,第2次世界大戦(1939~1945)です。これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになりました。しかし,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の既得権に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,ナンバー1のイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第2次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。
 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


第1次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦は,ヨーロッパの南東部のバルカン半島にある,セルビアでの地域紛争からはじまりました。バルカン半島の一部を支配していた当時のオーストリア(今と異なり周辺国をも支配する帝国だった)と,バルカンで勢力を伸ばしたいロシア……最初は両国のあいだの争いがメインでした。

 そのきっかけは,当時オーストリアの影響・圧迫を受けていたセルビア人の青年が,隣国ボスニア(当時はオーストリア領)の都市サラエボで,オーストリアの皇太子を射殺したことでした(1914年)。怒ったオーストリアがセルビアに宣戦布告したところ,ロシアがセルビア側で介入してきました。すると,ドイツがオーストリア側でこの戦争に加わりました。オーストリアとドイツは民族的に近く,親しい関係にありました。

 そして,その後のドイツの「暴挙」といえる行動によって,「地域紛争」は「大戦争」に発展します。ドイツがフランスを大軍で攻撃したのです。

 当時のドイツにはイギリスとフランスという「宿敵」がいました。ドイツは,アジア・アフリカの植民地支配で先行する英仏に対抗心や不満を抱いていました。とくに,ドイツとフランスの間では深刻な国境紛争もありました。

 こうした背景から,ドイツの指導者のなかで「セルビアの紛争でロシアと戦う間にフランスに攻められないよう,こちらが先にフランスを攻める」という考えが有力となり,実行されたのでした。これはイギリスも見過ごせないので,ドイツとイギリスの戦争もはじまりました。

 アメリカは当初,この戦争に不参加の方針でしたが,大戦の後半(1917)からは英仏側で参戦しました。アメリカは,独立のときはイギリスと争ったものの,その後は経済的にも文化的にもイギリスと近い関係にありました。

 日本は,この戦争には全面的には参加しませんでしたが,英仏側として中国やシベリアに出兵しています(当時の日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた)。

 また,バルカン半島には,オスマン・トルコの領域もありました。当時のトルコには,自国への圧迫や干渉を重ねていたロシアや英仏への反発があり,トルコはロシアなどの「敵」であるドイツの側で参戦しました。オスマン・トルコは,1500年代以降に台頭した,当時のイスラム圏で最大の国です。

 以上の経緯で2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。ドイツを中心とする側と,イギリス・フランスを中心とする側です。ドイツ側を「同盟国」,イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」といいます。

 この戦争をはじめた政治家・軍人の多くは,当初「戦争は短期で決着する」とみていました。ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。当時の「戦争」に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低いものでした。「国家のすべてを動員する激戦(「総力戦」という)」のイメージが薄かったのです。

 第1世界大戦は1918年に,イギリス・フランスなどの「連合国」側の勝利で終わりました。大戦の終わりのころ,ドイツ帝国の皇帝は亡命して帝国は解体され,ドイツは共和国になりました。

 そして,この戦争による死者は軍人と民間人を合わせて1600万人にのぼったのでした(大戦による死者の数は諸説あり)。


帝国の解体・滅亡

 第1次世界大戦の結果,世界の勢力図は変わりました。とくに重要なのは,それまでの世界で勢いのあった,昔ながらの帝国――有力な王朝がほかの民族を支配する体制――の多くが滅びたことです。

 大戦の結果,オーストリアはハンガリーなどの周辺諸国・地域への支配を失い,小粒な共和国になりました。

 そして,ロシア帝国の滅亡です。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代からロマノフ王朝という政権が支配していました。しかし,大戦中の混乱のなかで,1917年にこの王朝を倒す革命が起こりました。

 その結果,レーニン(1870~1924)の指揮のもとで新政権が樹立され,1922年にはベラルーシなどのロシア周辺の国を合わせて,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。世界で初めての「社会主義」を掲げる政権です。

 「社会主義」とは,政府が生産の施設・手段を独占的に所有し,政治経済のすべてをコントロールする体制です。その体制で「平等な理想社会の建設」をめざすというのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。ドイツ側で参戦したトルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となって,イギリス・フランスなどによってほぼ征服・支配されました。そのなかで,ムスタファ・ケマル(1881~1938)の指導で,イギリス・フランスの勢力を排除し,さらにはオスマン朝の支配を終わらせる革命が起こりました。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国は,その領域をアナトリア(今のトルコの範囲)に限定し,イラク,シリアなどのオスマン朝の領域の多くを放棄することになりました。そして,イスラム教の政治・経済への影響を排除する「世俗化」の基本方針で,国づくりをはじめました。

 また,オスマン・トルコに支配されていたアラブの人びとの独立ということも起こりました。オスマン・トルコは,トルコ人が各地のアラブ人などを支配する「帝国」でした。1920~30年代には今のエジプト,イラク,シリア,レバノン,ヨルダンといった国ぐににつながる,各地の独立または自治の獲得といったことがあったのです。

 「アラブ人」とは,これらの国ぐに(エジプト,イラク…等)で主流の人びとやアラビア半島のアラビア人など,あるいはそれらが混血した人たちを総称する呼び名です。

 ただし,第1次世界大戦後にアラブ人が得た独立や自治は不完全なもので,イギリスとフランスによる事実上の支配や介入が行なわれました。イギリスとフランスは,オスマン・トルコ領だったアラブ地域を分割して支配しようとしたのです。

 またアラビア半島では内陸部を中心に,今に続くサウジアラビア王国が1930年代に建国されました。西アジアのほかの地域の動きに刺激を受けた,といえるでしょう。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝を倒す革命が起き,翌年に中華民国が成立する,ということがありました。大戦以前から「帝国」は過去の遺物になりつつあったのです。その流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえます。


第2次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦に敗れたあと,ドイツでは経済・社会が大混乱に陥り,国民はおおいに苦しみました。ただし,その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。

 しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると,ドイツはまた大混乱となりました。

 この金融恐慌は2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ています。しかし,経済に与えた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻でした。大恐慌の際,その最悪期にはアメリカでの失業率は25%ほどにもなりました。リーマン・ショック以降の不況では,アメリカの失業率は最悪期でも9%程度です。

 その混乱の時代に人びとの支持を集め,1933年に政権を獲得したのが,ナチ党(ナチス)を率いるヒトラー(1889~1945)でした。彼の「愛国」の主張は,当時のドイツ人に訴えるものがありました。ヒトラーがめざしたのは「ドイツによるヨーロッパ制覇」でした。

 政権を得たヒトラーは大胆な経済政策を行って失業を一掃するなど,社会の混乱をおさめることに成功しました。そのような実績と,批判者をテロで排除することや巧みな宣伝などによって,彼は独裁権力を固めました。そして1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。

 まず,オーストリアやチェコスロバキアといったドイツ周辺の国の併合です(1936~39)。さらにはポーランドを占領し,フランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧しました(1939~1940)。

 この動きのなかで,イギリス・アメリカなどとの戦争もはじまり,第2次世界大戦となりました。一般にドイツによるポーランド侵攻・占領に対し,イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した時点(1939)で「第2次世界大戦が勃発した」とされます。

 また,ヒトラーはその政治思想のなかでロシアやソ連の社会主義に対して強い敵意を抱いていたので,大戦の途中(1941)からソ連に大軍で攻め入り,「独ソ戦」をはじめました。

 このようなドイツの動きに,イタリアと日本が同調しました。イタリアと日本も,イギリスやアメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていました。

 日本では,1930年代に「アジアを制覇する」という野望が政治をつよく動かすようになりました。日本は中国に軍事的に進出し,1937年には中国(中華民国)との戦争(日中戦争)が本格的にはじまりました。1941年末には,日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまりました。

 第2次世界大戦では,ドイツ・日本などの陣営を「枢軸(すうじく)国」,アメリカ・イギリス・ソ連などの陣営を「連合国」といいます。この大戦を指導した当時のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルト,イギリスの首相はチャーチル,ソ連の指導者はスターリンでした。

 大戦は1945年に連合国側の勝利で終わりました。敗戦国であるドイツも日本も連合国側によって占領支配され,独立を失った状態が1950年ころまで続きました(ドイツは1949年,日本は1952年に独立を回復)。ドイツは東西に分割されてしまいました。

 この大戦による死者は,軍人2300万人,民間人3200万人にのぼり,第1次世界大戦を大きく上回るものでした(この死者数も諸説あり)。


アジア・アフリカの独立

 第2次世界大戦は,第1次世界大戦以上に大きな被害を,負けた側はもちろん勝った側にももたらしました。

 そのなかで,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって独立を求め,宗主国(植民地を支配する国)であるヨーロッパ諸国はこれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,宗主国側には植民地をおさえきるエネルギーはなくなっていたからです。

 アジアの国ぐにの多くは,1945年から1950年代に独立しました。日本に支配されていた朝鮮(韓国と北朝鮮),それからインドネシア,ベトナム,フィリピン,ミャンマー,カンボジアといった東南アジアの国ぐにはそうです。インドも1947年に,ガンジー(1869~1948)の主導によりイギリスから独立しました。

 中国は清王朝が倒されて「中華民国」となっていましたが,第2次大戦後の1949年には,さらにこの政権が倒されて今の中華人民共和国が成立しました。そして,ソ連の影響を受けて社会主義の国づくりをはじめました。建国者の毛沢東(もうたくとう,1893~1976)は,第2次世界大戦中に独持の勢力を組織して台頭し,戦後に中華民国と争って勝利したのです。

 また,エジプト,イラク,シリアなどの西アジアのおもな国・地域は,第1次大戦後に一定の独立や自治を得ましたが,イギリスとフランスなどの欧米諸国による支配や介入が続きました。しかし第2次世界大戦後,1950年ころまでには以前より完全なかたちでの独立を得ていきました。

 アフリカではアジアよりもやや遅れて,1950年代後半から1960年代に多くの国が独立しました。とくに,1960年には一挙に17か国もの独立があり,「アフリカの年」といわれました。

 こうして,1970年代までには,世界のほとんどの地域が独立国となったのです。

 第1次世界大戦は,さまざまな帝国の滅亡をもたらしましたが,ヨーロッパによるアジア・アフリカの植民地支配という「帝国」は残りました。しかし第2次世界大戦は,結果としてそれを終わらせたのでした。


冷戦の時代

 ヨーロッパが後退する一方,アメリカの世界への影響力は,第2次世界大戦後にきわめて大きくなりました。アメリカは本土が戦場にならなかったので,戦争のダメージも限られました。

 1950年ころ,アメリカの工業生産は世界の約半分を占めました。GDP(経済全体の規模)では世界の3割弱で,その経済力は圧倒的でした。そして巨大な軍事力を,世界各地に展開するようになりました。

 ただし,アメリカは他国を「植民地」として支配するよりも,他国の独立一応認めながら,それらの国ぐに影響力をおよぼす,という基本方針をとりました。

 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)も,第2次大戦後に大きな影響力を持つようになりました。かつてのソ連は,今のロシアよりもはるかに大きな領域を有していました。ロシア周辺の,現在は独立国であるさまざまな国が,ソ連の一部になっていたのです。これらの大半は,1920年代にソ連に統合されました。

 また,第2次世界大戦直後には,ポーランド,チェコスロバキア(現チェコとスロバキア),ハンガリー,ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国をソ連の属国としました。また,ドイツの東側の地域=東ドイツを占領して従属させました。これらの国ぐにでは,一応の独立は保たれながら,ソ連の意向に従う社会主義政権がつくられました。この時期のソ連には,アメリカに次ぐ強大な軍事力がありました。

 1940年代末までには,アメリカを中心とする勢力と,ソ連を中心とする勢力とが対立し,世界を2分するようになりました。アメリカ側は,「自由主義(資本主義)」の「西側」陣営,ソ連側は社会主義の「東側」陣営と呼ばれます。

 両者はそれぞれの社会体制を互いに否定しあっていました。ソ連の側によれば西側の資本主義は「資本家の独裁による不平等な格差社会」であり,西側によればソ連の社会主義は「政府の独裁によって自由や人権が抑圧される社会」でした。

 この「東西」の対立は「冷戦」といいます。これはアメリカとソ連のあいだで直接の戦争(熱い戦争)こそなかったものの,「いつ戦争になってもおかしくない」緊張状態であったことをさしています。冷戦は1950年代から1960年代に最高潮となりました。

 敗戦後の日本と,分割されたドイツの西側である西ドイツは,「西側」の一員となりました。そして,両国とも比較的短期間のうちに戦争の破壊から復興し,その後は「経済大国」として繁栄したのでした。

 ただ,アメリカとソ連のあいだに直接の戦争はなかったものの,「代理戦争」はありました。つまり,米ソ以外の国や地域で「アメリカが後押しする勢力」と「ソ連が後押しする勢力」とが戦争をしたのです。

 そのような「代理戦争」の代表的なもののひとつに,1950年に起きた,社会主義の北朝鮮と資本主義の韓国とが戦った朝鮮戦争があります。このときは,中国(当時,ソ連と近い関係にあった)がとくに前面に出て北朝鮮を支援しました。アメリカも韓国を支援して派兵しています。この戦争は明確な決着がつかないまま,現在に至るまで「休戦中」になっています。

 また1960年ころ~75年の長期にわたって続いたべトナム戦争も,アメリカが後押しする南ベトナムと,社会主義の北ベトナムの戦いであり,代理戦争の側面がありました。この戦争は北ベトナムが勝利し,ベトナムは「北」の主導で統一され,現在に至っています。

 この戦争でアメリカは打撃を受けましたが,その敗北は「社会主義の勝利」というよりも「アジアの独立・自立」という流れのなかに位置づけられるでしょう。


新興国の台頭・「欧米以外」の台頭

 一方,独立後のアジア・アフリカ諸国の状況はどうでしょうか。しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年ころから,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となっていきました。これらのアジアで経済成長が本格化した国ぐには,アメリカや日本との関係が深い傾向がありました。つまり「西側」の1員でした。そして,西側の先進国への輸出を伸ばすことが,経済発展の最大の原動力だったのです。

 また,1950年ころから70年ころまでには,アメリカ,西ヨーロッパ諸国,日本といった西側の先進国も,順調に経済を成長させたのでした。

 これにくらべると,同じ時期の「東側」の経済は停滞傾向で,「東西」の格差は拡大していきました。1980年代には,ソ連はあい変わらず軍事大国でしたが,経済や人びとの生活は多くの問題をかかえ,自由も抑圧されていました。社会主義に対する,国内外の不信感も高まっていきました。

 「社会主義の行き詰まり」は,同じく社会主義である中国でも起きていました(なお,中国とソ連は,当初は友好的な関係だったが,1960年代以降対立し距離をおくようになった)。1980年代の中国では,鄧小平(とうしょうへい,1904~1997)によって「資本による経済活動の自由を大幅に認める」改革がおし進められるようになりました。その結果,中国経済の急速な発展がはじまりました。

 1980年代後半には,ソ連でもゴルバチョフ(1931~)が政治の大改革に取り組み,アメリカとの関係も改善しました。

 しかし,改革は十分な効果があがらないまま体制の動揺をまねき,1991年にソ連の体制は崩壊してしまいました。その少し前に,ソ連に従属していた東ヨーロッパの社会主義も同じ道をたどり,東西ドイツは統一されました。ロシアの周辺の「旧ソ連」の国ぐには独立していきました。「冷戦」の終結です。

 このような中,インドでも変化がありました。インドでは独立後,重要な産業の国営化などをすすめ,ソ連とは別のかたちで独自の社会主義的な路線を行こうとしました。西側先進国との経済的な交わりについても消極的でした。そうすることで「国の産業を守り育てる」方針だったのですが,結局は思うような経済発展ができませんでした。

 しかし1990年ころからは,路線を変更して先進諸国との関係を深め,「経済の自由化」を進めるようになりました。

 1990年代以降,中国やインドの経済発展は世界のなかできわだったものになりました。ソ連が崩壊したあと,西ヨーロッパとの関係を深めたチェコやポーランドなどの東ヨーロッパでも,経済発展が進みました。

 さらに2000年ころ以降は,経済発展が続く「新興国」が,ブラジルやメキシコなどのラテンアメリカ(中南米)や,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地で目立つようになっています。

 また,「新興国の台頭」の一方で,アジアの一画を占める日本が,おおいに発展して世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともあったわけです。
 つまり,世界の勢力図は1900年ころの「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。


イスラム諸国・アラブの情勢

 また,アラブを中心とするイスラム諸国の動きも,「欧米以外の台頭」という視点でとらえることができます。

 第2次世界大戦後,「独立」を得たものの,アラブ諸国の多くは,やはりは欧米から強い影響や干渉を受け続けました。欧米諸国は,それらの国にある豊富な石油資源を管理しようとしたのです。また,東西冷戦のなかで「ソ連にアラブを押さえられないように」という警戒心もあって,アメリカはアラブに影響力をおよぼすことにこだわりました。そうした欧米による干渉への抵抗は,アラブ諸国の主要な課題でした。

 第2次世界大戦が終わって間もなく(1948)から1970年代前半まで,アラブ地域では「中東戦争」という地域紛争が,4回にわたってくりかえされました。これは,アラブ諸国とイスラエルの戦争です。

 イスラエルは,ユダヤ人という,アラブ人とは系統や宗教の異なる人たちの国家です。ユダヤ人は,イギリスやアメリカの支援を受けて,アラブの一画のパレスチナにイスラエルを建国し,そこに住む多くのアラブ人を追い出しました。イスラエルは,そのもとになる自治の領域が第1次世界大戦後につくられ,第2次世界大戦の終結後まもなく,独立国となったのです。

 そのようなイスラエルとの戦いは,アラブの人びとにとって欧米への抵抗でもありました。

 ユダヤ人は,紀元前の古い時代に西アジアのパレスチナ地域でその国が栄え,世界最古といえる一神教であるユダヤ教を創始した民族です。その王国は滅びてしまいましたが,その後もユダヤ人は,自分たちの宗教と民族意識を保持し続けました。そして,のちに自分たちの国を復興させたもののローマ帝国によって滅ぼされてしまう,ということもありました。

 それでも民族・集団としては存続し,ローマ帝国,イスラムの国ぐに,ヨーロッパ各国などで経済,学問,芸術の分野で活躍しました。その一方で,マイノリティ(異端の少数派)として差別や迫害も受けました。

 イギリスやアメリカの繁栄の時代(つまり近代)になってから,その活躍はさらに盛んになりました。そしてユダヤ人は「世界の繁栄の中心」となった国のなかで,マイノリティでありながら大きな影響力を持つようになったのです。

 1800年代末以降,ユダヤ人のあいだでは「パレスチナで自分たちの国をつくる」という構想が有力となりました。そして,その影響力でイギリスやアメリカの政府を動かしたことで,イスラエルは建国されたといえます。ユダヤ人は欧米を中心に世界各地に分散していますが,その一部がイスラエルに移住していきました。

 また,ヒトラーはユダヤ人に対し異常な偏見を抱き,その政治思想のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張しました。そして,第2次世界大戦の際にはドイツ国内やその占領地域で600万人(諸説あり)ものユダヤ人を虐殺しています。

 このような歴史があるので,ユダヤ人はイスラエルという,やっと得た「祖国」を,激しく攻撃されても守り抜こうとするのです。アラブ諸国とイスラエルの対立は,今も続いています。

 中東戦争で,アラブ諸国はイスラエルを倒せませんでした。しかし1970年代後半以降は,こうした戦いや,さまざまな交渉・かけひきなどを経て,石油資源の管理については,欧米の干渉をほぼ排除することに成功しました。

 また,1979年のイランでは,アメリカと強く結びついた政権を倒す革命が起こりました。革命後の政府は,イスラム教の伝統や原則を重視する「イスラム主義」の徹底や,強固な「反米(反アメリカ)」の立場をとりました。

 このようなイスラム主義の動きは,イスラム圏に広く影響をあたえ,一部には過激で極端なかたちのイスラム主義の動きも生じました。1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を支配したタリバン政権は,そのひとつです。タリバン政権とも関係があったアルカイダという組織は,2001年にアメリカで複数の旅客機を超高層ビルなどに墜落させる大規模なテロ(事件の日にちなみ「9.11テロ」)を行いました。

 最近では,シリアなどの一部を支配し,2015年には日本人を人質にとって殺害した「イスラム国(IS)」といった勢力も,「過激な」イスラム主義に属するといえるでしょう。

 その一方,イスラム諸国のなかでトルコは建国以来,政治・経済にたいするイスラム教の影響を排除する「世俗主義」の路線を歩んできました。そして近年は着実な経済成長を重ねた結果,有力な新興国のひとつとなっています。

 国よって方向性はちがっていて,混迷もみられますが,イスラム諸国は全体として自己主張を強め,世界での存在感を増しているのです。
 
 以上のような「新興国の台頭」あるいは「欧米以外の台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確かなことはわかりません。しかしその動きが今後の世界史の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(以上)
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2015年10月02日 (金) | Edit |
 「GDPからみた経済入門」シリーズの3回目。
 1回目GDPとは何か,2回目GDPの内訳は,すぐ下にあります。

 ***

「ダブり」を取り除く

 「GDPは総買い物額である」というと,「ほかの本で読んだ説明とちがう」とか,「総買い物額がなんで〈総生産〉なの?」といわれることがあります。ここで,そんな疑問に答えます。

 「総買い物額」というけど,じつはそこにはふくまれない,特殊な「買い物」があります。それは,「そのモノを誰かに売ることを前提にモノを買う場合」です。日常的な言葉なら,「仕入れ」と言えばいいでしょう。「仕入れ」は,個人が日常生活でする「買い物」ではなく,企業がビジネスのためにするものです。

 「仕入れ」としての買い物は,GDPにはカウントしません。「仕入れ」には,①仕入れたモノをそのままの形で売る場合と,②原材料として仕入れる場合とがあります。

 たとえば,「スーパーがパン工場からパンを仕入れる」のは①のパターンで,「パン工場が原材料の小麦粉を仕入れる」のは②のパターンです。

 なぜ,そんなやり方なのか。「そうしないと,生産されたモノの価値をダブって計算してしまうことになるから」です。

 経済の入門書でよくあるのは,つぎのような説明です。

・スーパーで食パンが100円で売られている。私たちがそれを手にするまでには,いろんな過程を経ている。

(イメージ)
 農家がコムギを育てる→コムギを原料に製粉業者が小麦粉をつくる→小麦粉を原料にメーカーが工場でパンをつくる→パンを小売店が仕入れて消費者に売る。

・コムギは,ひとつの段階を経るごとに手を加えられ,そこでの仕事(労働)の分の値段を上乗せされていく。

(イメージ)
 100円の食パンの材料に使うコムギが10円。
 それが,小麦粉になると20円。
 その小麦粉でつくったパンを,メーカーは80円でスーパーに売る。
 さらに,スーパーはそのパンを100円で私たちに売る。

・GDPの計算では,以上のすべての段階の金額(買い物額)を合計するということは行わない。最終的に生産されたパン100円の価値だけをカウントする。

 なぜこのように考えるのでしょうか。

 この過程で生産されたのは,あくまで100円の価値のパンです。小麦粉などの原材料費や,スーパーが工場から仕入れるときの値段は,スーパーでの販売価格100円の中にふくまれています。そこをダブってカウントしないようにしているのです。最終的に生産された100円の価値だけをカウントします。

 このように,「ダブリ」を除いて,国全体の買い物額をカウントしていったのが,GDPです。このダブリの部分のことを経済学では「中間投入」といいます。

 「中間投入を除く」という一定の操作を加えた「総買い物額」。
 そうやって「生産された価値」を把握した数字。

 それがGDPの,よりくわしい定義です。「生産された価値」のことは,「付加価値」といいます。

 つまり,GDPは「国全体で,さまざまな労働によって生産されたモノやサービスの付加価値の合計」なのです。国内で生産された価値の合計。だから,「国内総生産」といいます。


誰かの支出は誰かの所得

 じつは,「国内総支出」という言葉もあります。さしているものは「国内総生産」と同じです。

 ただ「総支出」というのは,生産された価値あるモノやサービスを誰かがお金を「支出」して買っている,という面からものごとをみています。「買い物」としてGDPをとらえた言葉です。

 最初に出てきた「GDPは総買い物額」というのは,「総支出」としてGDPをみたものなのです。「総生産」と「総支出」は,コインの表と裏のような関係です。同じものを,どちら側からみるか,というちがいです。

 さらに,「総所得」という言葉もあります。これも,「総生産」「総支出」と同じものを,別の側面からみたものです。

 つまり,誰かがお金を支出してモノやサービスを買ったとき,それは売った者(企業やその従業員)の所得になります。つまり,「それだけのお金が入ってくる」ということです。
 誰かの支出は誰かの所得。だから両者もイコールだ,というわけです。

 「誰か」というのは,要するに私たちのことです。「誰かの支出は誰かの所得」というのは,

 私たちが買い物をすれば,それは誰かの所得となる

 ということです。

 言ってしまえばなんでもないことですが,これはじつは経済をみるうえで非常に重要なことです。

 また,「生産された付加価値は,誰かの所得」ということもいえます。付加価値というのは,売上から原材料費などの中間投入を除いた分のことでした。これは,かみくだいていえば商売の「儲け」の一種だといっていいでしょう。

 この「儲け」は,どうなるのかというと,会社の従業員と会社,そして会社に出資した株主などで分けることになるのです。

 つまり,従業員の給与,役員への報酬,株主への配当,会社の蓄え(内部留保という)などになります。「儲け」が山分けされてみんなの「所得」になるのです。そして,「儲け」とは言い換えれば「付加価値」のことなのです。


GDPの三面等価

 誰かの支出であり,同時に誰かの所得である金額は,そのモノやサービスを生む労働によって生産された「価値」である。
 つまり,

 総生産=総支出=総所得

 これを,経済学で「GDPの三面等価」といいます。

 これは,たとえばこんなイメージです。
 底面が三角の立方体(三角柱)があって,これが「GDP」だとする。この三角柱はみる角度によって,ちがう面(「生産」か「支出」か「所得」か)がみえている。でも,どの面からみても,同じひとつの存在(三角柱)をみている……
     GDP三角柱

 多くの経済の入門書や教科書では,「総生産」という面から,GDPをまず説明します。真正面からの説明です。
 しかし,「中間投入を除いた価値の総生産額」という説明は,入門としてはじつはハードルが高いのです。最初にこの説明をもってくると,初心者からはかなりの率で拒絶反応がおきます。(私は,初心者向けの経済の勉強会などで,何度か話し手をしたことがあって,そこで経験したことです)
 
 それより,「買い物」としてまずGDPをとらえるほうが,初心者にはイメージしやすい。そして,まずはばくぜんと「国全体の総買い物額」とイメージする。そのあとで一歩進めて,「ダブリ=中間投入」を除いたものとして,理解すればいい。ここでは,そういう説明の順序をとりました。

(以上)
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