2016年04月29日 (金) | Edit |
 今度の東京オリンピックのエンブレムに決まった「市松模様」。
 オリンピックもパラリンピックも同じ数の長方形のパーツによって,ち密に考え抜かれた構造で組みたてられている。
 たしかに高いレベルのすぐれた作品だと,素人目にも感じます。
 最終選考に残ったほかの3つの案よりも,はっきりと際立っていると思いました。

東京2020エンブレム
    2020年東京五輪エンブレム(野老朝雄作)

 そして,今の日本の様子をよくあらわしているとも思います。
 詳しく分析すると「こんなところまで考えていたのか」と感心するほど,いろいろ精密な工夫や努力を重ねている。しかし,それが強力な明確な効果を生んでいるかどうかとなると微妙・・・そのような感じがするのです。

 日本の工業製品にかんし,「ガラパゴス化」ということが,少し前にずいぶん言われました。日本のメーカーは,自分たちの論理で細かい製品の改良を積み重ねているけど,市場のニーズに応えていないのではないか。とくにグローバルな市場に対応できていないのではないか。そのことを,ほかの世界とは切り離された独自の生物進化をとげたガラパゴス島の様子になぞらえた言い方でした。

 この市松模様のエンブレムは,たしかに力量のあるデザイナーの渾身の作品だと思います。しかし一方で,「ガラパゴス」なほうに行ってないだろうかと不安も感じます。

 外国の人たちは,これをみてどう思うのだろうか。私たちは「日本的」と感じるかもしれないけど,市松模様なんて,世界の多くの人たち(とくに新興国や発展途上国の人たち)にわかるのだろうか。

 また,このほぼモノトーンの幾何学模様を,会場や現場で掲示した場合に,「元気なお祭り」とは異質の無機的なクールすぎる感じにならないだろうか。このエンブレムを,たとえば「日本の伝統を紹介する博覧会」に使うのだったら,まさにしっくりくると思います。でも,これはオリンピックという「運動会」のためのものなのです・・・

 「ガラパゴス」でなければ「ひとりよがりなクール・ジャパン」になっている恐れも感じる,ということです。

 この不安がもしもあたっているとしても,これはデザイナーの責任ではありません。デザイナー自身は,自分の仕事を精いっぱい行って,それが採用されたということです。責任は,国家的なイベントの運営責任を負う,トップクラスのエリートの人たち=偉い人にあります。

 今度の東京オリンピックのエンブレムは,最初に選ばれた「サノケン」さんの案に「盗用ではないか」などのケチがついて,再度の選考の結果,今回の案が選ばれたわけです。

 あのサノケンさんの案が「類似」「盗用」といえるかどうかは,議論があるようです。とくに専門家といわれる人たちは「類似」とみることに慎重な傾向があるように,ニュースやネット上での発言をみるかぎり,私は感じます。しかし,多くの一般の人たちの(とくにネット上でつよく主張する人たちの)声に押されるような形で,「偉い人」たちはこの案をボツにして,再選考を行うことにした。このエンブレム以外のサノケンさんの仕事で,盗用を疑われるものが出てきたのも,大きなマイナスだった。

  東京2020エンブレム佐野案
 東京五輪エンブレム佐野研二郎案

 なお,私はあのサノケン案じたいは(盗用がどうかを問わないとしたら),オリンピックのエンブレムとしては,今回決まった案よりもよかったのではないかと思っていますが,ここでは立ち入りません。

 再選考では幅広い公募などの「民主的」な形式がとられました。最初の案のときのような「密室での選考」という非難をかわしたい,ということでしょう。 こういうのを「アリバイづくり」といいます。

 そのようなゴタゴタや,とりあえず「民主的」な手続きから決まったものが,もしもガラパゴスだったとしたら,このエンブレムの件は,まさに「日本の衰え」を示すできごとのように思います。

 1964年の,前の東京オリンピックのエンブレムは,亀倉雄策による「枠いっぱいの大きな日の丸」「金色の五輪」「同じく金色のTOKYO1964」の文字だけで構成されたものでした。シンプルで力強く,モダンで普遍性がありながら,日本的な要素がおそらく世界の人たちにもわかりやすいかたちで表現されている――そのような定評がある作品です。私もまさにそうだと思います。このような傑作は,民主的につくられたわけではありません。一部のエリートたちが密室で企画し,選んだものです。

   東京1964エンブレム

 1964東京五輪エンブレム(亀倉雄策作)

 国に勢いがあるときは,こういうことがよくおきるものです。つまり,エリートが密室で決めたことが時代のニーズにうまく適合していて,よい結果を生み出す。そのようなすぐれた構想やアイデアを持つ専門家が,権力の中枢で起用されるチャンスがある。権力を持つ組織に,そのような柔軟性やエネルギーがある。

 東海道新幹線(1964開業)は,国鉄総裁の十河信二が,国鉄内部や政財界で多くの批判があるにもかかわらず執念でおしすすめて実現したものでした。1970年の大阪万博は,若手官僚や当時30~40代だった梅棹忠夫や小松左京などの学者や文化人の発想を核にしてつくられました。

 そうした企画には,当時の多数派の人たちには理解しにくい(しかし今となっては評価の高い)ものが多く含まれていたわけです。たとえばもしも岡本太郎の「太陽の塔」の模型が「最終選考に残った案」として示されても,当時の国民の多くが支持したとは思えません。民主的な意思決定では「太陽の塔」は無理です。

 しかし,そのような「創造的なエリートの決断がよい結果を生んだ時代」はとっくに終わったのです。今の「偉い人」たちには,たぶんはっきりした構想はないのです。知恵を出してくれるはずの専門家たちだって,じつははっきりしない。無理もないことだと思います。そして,私たちのような多くのふつうの人たちも,明確な考えがあるわけではないけど,いろんなことを偉い人たちに対して言うようになりました。

 偉い人たちも自分のかじ取りに確信が持てないので,そのような批判には弱いです。「大先生=権威のある専門家」を持ち出しても,そういうものはネット上の多数派の人たちには,通用しない。やはりボツになってしまった国立競技場の最初の案(ザハ案)の選考では,安藤忠雄さんが中心にいたのに,その威光はあまり役立ちませんでした。なお,サノケン案を採用したときのエンブレムの選考委員のリーダーは,永井一正さんという日本のグラフィックデザインの歴史に残る仕事をした大御所でした。

 国のトップクラスで,いろんなことの構想がはっきりせず,創造的なアイデアや企画を権力の中枢で採用することが減っているのではないか。

 緻密な工夫や努力は行われている。でも,それが力強い効果を生み出すことにつながらない。
 大きな効果を生みだしうるアイデアや才能を持つ人材も社会の中にはいるはずだが,権力の側でその人材を選び出すことができない。「構想」がはっきりしないのだから,選びようがない。大衆からの批判も怖いので,決断がむずかしい。創造的なものには,何かしらの批判はあるものです。

 そういう様子が,今回のエンブレム騒動からは感じられます。
 この手のことが,社会のあちこちで積み重なっていくうちに,国は衰退するわけです。
 どうしたらいいのかは,今はよくわかりません。

※2016年4月30日追記:歴代のオリンピックのエンブレムをみると,日本のエンブレム(前回の東京,札幌,長野,今回の東京)のデザインは劣っていない,というか水準が高いと私は感じます。とくに64年の東京は,それまでのオリンピックのエンブレムの水準を超えるものだったと。なんだかんだいっても,日本は相当な文化力をもった大国ではあるのです。その力をどう維持・発展させていくか,ということが問題なわけです。 

(以上)
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2016年04月26日 (火) | Edit |
 最近ひたすら世界史のことを読んだり書いたりしていて,以下はその中でまとめたものです。これまで書いたもの(このブログでも複数の記事としてアップしている)をもとにしています。幅広い世界史の事実や大きな論点を扱いながら,それをコンパクトにシンプルに書くということを,自分のやり方として追求しています。

 ところで,今回の記事は当ブログにとってちょうど500本目になります。今現在公開している記事は500より少ないのですが,これは何本かをアップしたあとに非公開にしたため。とにかくこれまで500本の記事はつくってきたということ。ブログの記事としてはたいした数ではないけど,それでも自分にとってはそれなりの蓄積です。これからもまずは1000本めざして積み重ねていきたいものです。


「近代化=模倣」のむずかしさ


近代化という課題

 アジア・アフリカ諸国の多くは,1900年代の前半から1960年ころまでに,欧米の植民地支配から脱して独立しました。
 また,トルコ(オスマン帝国)や中国(清)は欧米の植民地にはならなかったものの,1900年代前半の時期に従来の王朝による支配を倒す革命が起こり,現在につながる建国がなされました。

 そして,独立や建国を果たしたあとのアジア・アフリカ諸国は「近代化」を目標に歩みはじめました。欧米人の生み出したものを自分たちも手に入れて,発展していこうということです。

 この近代化の中心課題は,経済成長です。国の経済を発展させ,貧困から抜け出すこと。

 しかし,独立・建国後のアジア・アフリカ諸国の多くは,しばらくのあいだは思うような経済成長を実現できずにいました。一定の経済成長はありました。しかし,その成長の勢いは,平均してみると欧米や日本などの先進国を下回るものでした。1950~60年代はそのような状態が続きます。

 それを,統計の数字でみてみましょう。つぎのデータは,世界各国の長期的な経済成長の歩みを統計的に研究した,アンガス・マディソンの著作などによるものです。(『世界経済史概観 紀元1年―2030年』岩波書店、2015)

1人あたりGDPの成長率(%)
       1950~73年 1973~2003
西ヨーロッパ  4.1       1.9
アメリカ     2.5       1.9
日  本     8.1       2.1
アジア      2.9       3.9
アフリカ     2.0       0.3

2013年の経済成長率=GDP増加率
ユーロ圏≒西欧   -0.3
アメリカ         1.5
日  本         1.6
中  国         7.7
インド          6.9
ASEAN主要5か国 5.1
サハラ以南アフリカ  5.2
(IMFによるデータ)

 1950年~1973年における西ヨーロッパの1人あたりGDPの年平均成長率は,4.1%でした(各国の合計による)。アメリカは2.5%,高度成長期だった日本は8.1%。一方,日本を除くアジアの成長率は2.9%,アフリカは2.0%です。

 この数字は,経済成長の勢いをあらわすものです。つまり,この時期のアジア・アフリカの経済成長率は,欧米などの先進国よりも低い傾向にあったのです。

 1973年で区切るのは,この年が「先進国の成長率の変化」や「アジア諸国の台頭」などにかんする節目であったと,マディソンが位置づけているためです(1973年には「石油ショック(第1次)」という世界経済をゆるがす事件がありました)。

 しかし,これ以降はアジアの経済成長の勢いは先進国を上回るようになります。1973年~2003年における,アジア(日本除く)の1人あたりGDPの年平均成長率は、3.9%でした。西ヨーロッパは1.9%、アメリカは1.9%,日本は2.1%です。先進国の成長率が低下する一方で,アジアが伸びてきたのです。

 一方,この時期のアフリカではかなりの国で内戦などの混乱が激しく,成長率は0.3%と落ち込んでいます。
 その後も「アジアの成長が先進国を上回る」傾向は続いています。さらにはっきりしてきた,といえるでしょう。アフリカ(サハラ以南)でも2000年代になると,一定の経済成長がはじまりました。

近代化とは「模倣」である

 なぜ,近年になってアジア・アフリカの発展が順調になってきたのでしょうか?

 これは「近代化=模倣・学び」という視点で考えることができるのではないか。

 当ブログの世界史関連の記事ではこれまで「世界のなかの中心的な先進国が周辺に影響をあたえ,影響を受けた地域で発展が起こる」ということをみてきました。影響を受けるとは,「学ぶ」といってもいいでしょう。自分たちより進んだ技術などに学ぶことは,その国の発展にとって必要です。だから,経済発展が順調に進んでいるのは,そのような「学び」「模倣」がスムースに行われているということです。

 「となりの先進国のすぐれた点に学ぶ」なんて,あたり前のことだと思うかもしれません。でも,「すぐれたものにきちんと学ぶ」というのは,結構たいへんなことなのです。そこに至るには,乗りこえるべき障害がじつはいろいろとあります。とくに大きな障害は「プライド」ということです。このことを,1950~1970年代に活躍したエリック・ホッファーという思想家が,つぎのように表現しています。

《近代化とは基本的には模倣――後進国が先進国を模倣――の過程である…そして、…自分よりもすぐれた模範(モデル)を模倣しなければならないときに苦痛を感じさせ、反抗を起こさせる何かが心の中に生じはしないだろうか……後進国にとって模倣とは屈服を意味する》
(『エリック・ホッファーの人間とは何か』河出書房新社、2003)

 つまり,近代化とは「欧米先進国を模倣すること」であり,プライドを傷つける面がある。しかし,模倣にたいする嫌悪や屈辱感を乗りこえていかないかぎり,まともに学ぶことはできません。

 「模倣がプライドを傷つける」という感覚は,個人にとってはわかりやすいはずです。「お前のしていることは人のマネだ」といわれるのは,ふつうはイヤです。それが国家や社会というレベルでもあるのではないか,ということです。

 最初のうちは,先進国を模倣することに抵抗している段階がある。しかし一定の試行錯誤のあと,それを乗りこえて,外の世界に積極的に学べるようになっていく。その結果,経済成長が軌道に乗っていく……

 独立・建国以後のアジア諸国の動きをみると,たしかにそのようなことがありました。「模倣への抵抗から,積極的な模倣へ」という過程があったのです。中国やインドの事例はその代表的なものです。

中国の「大躍進」

 中華人民共和国の建国から10年ほど経った1958年,中国では毛沢東によって,「大躍進」という経済発展の方針が打ち出されました。「国家主導のビジョンに基づいて,急速な経済成長をなしとげる」というものです。

 大躍進の特徴はまず,それが徹底的に国家主導のものであったことです。社会主義とはそういうものです。そしてもうひとつは,その計画をできるかぎり自前の技術・ノウハウでやり遂げようとしたことです。先進国から技術者を招いたり企業を誘致したりはしません。欧米からはもちろんのこと,もとは友好関係にあったソヴィエト連邦からも,大躍進のころ(1950年代末)から関係が悪化し,その支援を受けることはなくなりました。

 そこでとくに重視されたのは,鉄の大幅な増産でした。鉄はすべての工業の基礎となる材料である。だから経済発展はまず鉄の増産からだ――そう考えたのです。大躍進では,「15年後には鋼鉄の生産量でイギリスを追い越す」という目標がかかげられました。

 鉄の増産のための切り札は,「土法高炉(どほうこうろ)」というものでした。これは、土やレンガなどでつくった小型の簡易な溶鉱炉のことです。これを各地に何十万も建設して製鉄をさかんにしようとしたのです。土法高炉は,「自前で」という精神を象徴するものでした。
 
 この運動の結果は,悲惨なものでした。たしかに鉄の増産はそれなりに達成できました。しかし,《土法高炉でつくられた鉄で利用可能だったのは、三分の一にも満たなかった》といいます。(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011)
このような「粗製乱造」は,大躍進のときの工業全般にみられることでした。こんなことでは、経済の「大躍進」などムリな話です。

 さらに,この時期に農村の労働力の2割(かそれ以上)が工業や建設事業などに動員されたことや,さまざまな農業政策の失敗などから食料生産が大きく落ち込み,大飢饉が起こりました。それによって,1959~1961年の3年間で,1600万人から2700万人が餓死したと推定されています(先に引用したF.ディケーターの説では4500万人にのぼるという)。

インドの「自前主義」

 中国のように,いわば「自前主義」で発展していこうという発想は,1947年に独立したあとのインドでもみられました。

 インドでは,かつての(大躍進のころなどの)中国とはちがって,民間の企業活動が一応は認められてきました。しかし,国家による経済への介入や統制は積極的に行われました。国有企業が経済に占める役割も大きく,ソ連や中国とはちがったかたちでの「社会主義」的なところがありました。

 インドの経済政策で重視されたのは,「すべてをできるかぎり国産で」ということでした。自国で生産できるものは,国産品のほうが高くて低品質であっても,輸入しないようにする。海外企業の進出は,原則として認めない。外交的にも,アメリカ・ソ連どちらの側とも距離をおく方針をとったので,米ソからの技術的な支援もごく限られていました。

 国として,非常に閉鎖的な状態だったわけです。「先進国からの輸出や企業の進出を許すと,国の経済が先進国にのっとられてしまう」と考えたのです。そのようなインドの経済成長率は,低い水準にとどまっていました。1950年~1973年における1人あたりGDPの年平均の成長率は1.4%で,同時期の中国の2.8%を下回っていました(前掲のマディソンの著書による)。

 こうした中国やインドの政策は,まさに「模倣への抵抗」です。欧米の先進国に教わることなく,自分たちは自分たちのやり方でやっていく。それでいつか追い越してみせる――そんなスタンスです。そのように「教わるのはイヤ」であっても,やはり発達した工業や軍事力などの近代的な文明の成果は手に入れたいのです。それは「自己流の手前勝手な模倣」といってもいいかもしれません。

アジアNIEs

 しかし,このような「模倣への抵抗」が失敗であったことが,しだいにはっきりしてきました。「自国の成長が思うようにいかない」というだけはありません。自分たち以外で急発展するアジアの国があらわれ,先を越されてしまったのです。1970年ころから,韓国,台湾,シンガポールといった国・地域の急速な経済成長がめざましいものになったのです。これらの国ぐには「アジアNIEs(アジアニーズ,「アジアの新興工業経済地域」という意味)」といわれました。

 アジアNIEsの国ぐには,中国やインドのような「自前主義」ではありません。貿易についても海外企業の進出についても,オープンなスタンスでした。先進国の下請けの工場も,経済のなかで重要なものでした。
 
 こうして先進国との接点が増えていくと,いろんな学習・模倣が行われるようになります。先進国の製品やサービスに触れたり,国企業で働いたりすることで,技術やノウハウを身につける人が増えていったのです。これが経済発展につながっていきます。
 こういうことは,今ではあたりまえに思えます。しかし,かつてはかならずしも常識ではありませんでした。だからこそ,中国やインドでは「自前主義」の政策が行われたのです。

 経済が行き詰った結果,1980年代の中国や1990年ころのインドでは大きな路線変更がおこりました。「輸出入をさかんにする」「海外企業の進出を受け入れる」という方針に変わったのです。中国では,それまでは原則禁じられていた,民間の企業活動を大幅に認めるようにもなりました。

 その後は中国でもインドでも,持続的な高度成長がはじまったのです。その成長は今(2010年代)も続いています。今の中国やインドでは,先進国を模倣することへの抵抗は影をひそめ,先進国の技術やノウハウを積極的に取り入れようとしています。

ガンジーの主張

 「欧米とは異なる独自の道で理想を実現しよう」という考えは,欧米よりも遅れて近代化がはじまった国では相当な力を持ちました。中国やインドではまさにそういう時期があったのです。

 インドの独立・建国の父であるガンジーは,そのような「模倣への抵抗」の教祖のような人でした。彼はたとえば,こんな意味のことを言っています――《輸出も輸入も排斥されるべきである。…外国製品のボイコットは,…経済の恒常的基礎的原理である》――ガンジーは貿易を否定していたのです。

 また彼は《機械は西洋と結びついており,悪魔的》《経済的進歩は,それ自体,好ましい目的ではない》などとも述べています。機械文明や経済成長についても批判的だったのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社、2002)

 ガンジーという人は「聖人」というイメージがあります。しかしここでは,国の指導者としてはずいぶんトンデモなことを言っていると思いませんか? ドリエージは,《ガンジーが断固として拒否する近代性》《ガンジーの反西洋主義》などと述べています。そのような一面も,ガンジーにはあったのです。

 インドは,1800年代以降イギリスの植民地でした。第二次世界大戦後(1947)に,そこからようやく独立を得たのです。「欧米のマネなどするものか」という気持ちもわかります。しかし,ガンジーの主張にはムリな面がたくさんありました。だからこそ,インドはガンジーのいう方向には結局は行きませんでした。そして,ほかの多くの国も,ガンジーの否定する「模倣=近代化」を積極的に行うほうへ進んだのでした。

昔話ではない

 ここで注目してほしいのは,これまで述べた毛沢東の「大躍進」もガンジーのトンデモな思想も,世界史の大きな流れでみれば,そんなに昔の話ではないということです。これらは1900年代半ばのことでした。

 ということは,産業革命以降の欧米が圧倒的な力で世界を制覇したあとなのです。すでに,欧米人が生み出した「近代」の威力はイヤというほど証明されています。それでも,近代化に向けた模倣に対しての、いろんな抵抗や葛藤があったわけです。

 しかし,今の多くの発展途上国では「屈辱感による模倣への抵抗」は,かなりなくなったようです。世界各地での新興国の台頭がそれを示しています。しかしそうはいっても,「模倣への抵抗」はまだまだいろんなかたちで残るのではないでしょうか。

 たとえば今の中国でも,欧米で生まれた民主主義の政治体制はまだ採用されていません。共産党に対抗する野党の存在が認められず,共産党の指導者が政治の全権を握っているのが中国の体制です。今の中国のスタンスは,「経済や技術は模倣するが、政治は模倣しない」ということです。近代社会の要素を全面的に模倣することは,まだ拒否しているのです。

徹底して模倣に抵抗する異端の人たち

 また,少数派や異端として徹底した「模倣への抵抗」を行う人たちも,世界にはいます。たとえば,欧米などの側から「イスラム原理主義」といわれる集団にはその傾向があります。

 「イスラム原理主義」とは,「自分たちなりに解釈する『コーラン』の教えを,妥協せず厳格に実践しようとする主義」だと,とりあえず理解してください。だとすれば,「近代的な価値観や生活とは相当相容れないところがありそうだ」と,想像がつきます。

 「イスラム原理主義」あるいは「イスラム過激派」の一派とされるタリバンという集団は,1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を統治していました。彼らは近代社会のさまざまな要素を否定しました。

 そのなかでも世界の多くの人たちがとくに違和感を持ったのは,女性の位置づけでしょう。タリバンは女性のさまざまな権利をはく奪しました。タリバン政権時代のアフガニスタンでは,女性は家の外で働くことも,まともな教育を受けることも許されませんでした。これが「イスラムの教え」に本当に関わっているのかどうか疑問はありますが,近代化=模倣を否定するものであることは確かです。

 そして,このような「原理主義」に共鳴する人びとが,今の世界にも一定の数存在しているのです。あるいは,2010年代現在の「イスラム国」のような,新たなイスラム過激派の勢力があらわれる,といったことがあります。

 毛沢東やガンジーのような「〈模倣=近代化〉への抵抗」は,かならずしも昔話ではないのです。

(以上)
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2016年04月24日 (日) | Edit |
 今日は1日家にいます。この何か月かは土日はだいたい家にいて読んだり書いたり,ということが続いています。自分なりに大事な「仕事」をしていたのです。つい先日,それはひと段落しました。

 家にこもる日は,3食を家でつくって食べて,風呂に入って,寝るわけです。妻が用事や仕事ででかけていることもよくあるので,食事は自分でつくることも多い。今日は朝は妻がつくり,昼は私がつくった。さっき小腹が減ったので,ひとりでチャーハンをつくって食べ,インスタントコーヒーを飲みながら少しテレビをみていた。夜は私がつくる予定です。豚バラ肉とキャベツがあるので,それで何か。缶ビールも1本あるから,飲もう。

 そんなふうにしていると,家にこもって自分の好きなようにふつうに暮らせることがじつに心地よく,ありがたいと感じます。
 食べたくなったらすぐにチャーハンをつくって食べることができるのは,すばらしいことだ。
 震災の被害で,そのような暮らしが壊されてしまった方たちが大勢いるわけです。少しでも早く復旧が進むことを祈ります。

 ***

 今の朝の連続テレビ小説『とと姉ちゃん』の主人公は,雑誌『暮らしの手帖』を創刊した大橋鎮子(1920~2013)をモデルにしています(ただし,大幅にフィクションが入っている)。大橋は,編集者の花森安治(1911~1978)とこの雑誌をはじめたのでした。この朝ドラを,ウチではほぼ毎回みています。

 『暮らしの手帖』は,昭和23年に創刊されました。まだ戦後間もない混乱期で,食糧やさまざまな物資の不足に多くの人びとが苦しんでいました。そんな時代に,ただ生きるだけでなく,毎日の「暮らし」をいかに美しく充実させていくかをテーマにした雑誌をつくった。戦争によって,史上空前の規模で多くの暮らしが破壊されたあとすぐに,です。雑誌の作り手には,どれほど強い想いがあったことでしょう。

 2~3年前に馬場マコト『花森安治の青春』(白水社,2011)という本を読みました。読んだあと,このブログでその本を紹介したこともあります。花森安治には少し関心があり,伝記類を2~3冊読みました。

 『花森安治の青春』では,花森の少年時代から,『暮らしの手帖』を創刊し,軌道に乗せるまでを描いています。花森については,酒井寛『花森安治の仕事』や,唐澤平吉『花森安治の編集室』などもありますが,青年期に焦点をあてているのがこの本です。

 花森は太平洋戦争のころ,「大政翼賛会」という,戦争のための国家的組織の宣伝部で,メインのプロデューサーとして働きました。

 それを「戦争協力」として非難する向きもあります。
 ことさら弁護するつもりはありませんが,この本を読んでいて,「とにかくこの人は,置かれた状況で精いっぱい生きようとしたんだ」と感じました。

 花森や彼がスカウトした人材が入ってくるまで,大政翼賛会の宣伝は低レベルなものでした。また,組織全体としても,偉そうにするばかりで,ロクに仕事をしないのがあたりまえの状態。

 そのなかで,花森たちだけが,せっせと「創造的な,いい仕事」をしていた。
 そうせずにはいらなれなかった,という感じがします。
 ただ,それは「戦争」という忌まわしい目的に奉仕するものだった。

 終戦直後の1945年の暮れに,34歳の花森は,大橋鎮子(当時25歳)と,出版社を立ち上げます。大橋は,当時花森が仕事をしていた小さな新聞社の社員でした。大橋が社長で,花森が編集長。そして,3年ほど後に『暮らしの手帖』が生まれます。

 若い2人は,焼け跡のなかで,まさに精いっぱい生きようとしたのです。そして今度は,権力におしつけられた課題でなく,自分でえらんだ「目的」や「価値」にむかっていったわけです…

 やっぱり人というのは,とんでもない悲惨や破壊のあとでも,新しく何かをつくるために動けるのだ,と思います。少なくともそういうことができる人が必ずいる。とくに若い人の中に。『暮らしの手帖』をつくったときの大橋も花森も若かった。若くなくても,少なくとも体が動くなら,暮らしを取り戻して,先を少しでも良くするために,何かをしていくのでしょう。

(以上)
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2016年04月02日 (土) | Edit |
 最近、ふと手にした福澤諭吉『学問すゝめ』の,「人望」について論じた一節。
 原文はやや読みにくいので現代語訳(和文和訳)すると,こんなことが書いてありました。

(福澤諭吉『学問のすゝめ』和文和訳)
 人望というのはその人が備えている知恵や人徳によるものではあるけど、天下や古今の事実をみると,そうでもない事例をみることも多い。やぶ医者が病院の構えなどの見てくれだけを立派にして多くの患者を集めたり、薬屋が見かけ倒しの宣伝でたくさん売ったり,インチキ商売のオフィスに立派な調度があったり,学者が読みもしない原書を本棚に並べたり,日曜日の午後に礼拝堂で涙した人が月曜日には夫婦喧嘩をしたり・・・・・・

 これらはみな,実際の能力・実績・人徳などの裏付けのない「ニセの人望」のことです。世の中には「ニセの人望」も多い,ということ。

 これを読んでまず思い出したのは、人気ラジオパーソナリティーのKさんが,学歴を詐称していたり,自分の実績を過大に言っていた件です。

 この人は「人望」を求めるあまり,多くのウソをついた。そのウソに残念ながら多くの関係者がダマされた。そのウソは彼が仕事を得たり,人からよい印象や評価を得るうえで役に立った。そして多くの人望を得たけれど,それは「ニセの人望」だった。

 このような「ニセの人望」を得て,結局それが「ニセ」だったこと,少なくとも「ニセ」の面があると発覚した事例は,確かにけっこうありますね。福澤諭吉の言うとおりです。最近だとたとえば「ハンデに負けず立派に美しく生きているはずの障碍者のタレント・文化人が,じつは激しく女性との不倫交際をくりひろげていて,幻滅させられた」とか。これは,勝手な思い込みにもとづく「幻滅」なのかもしれませんが。

 少し前だと,「大発見をしたはずの女性科学者が,じつは研究をねつ造していた可能性がある。少なくとも発見はまぼろしだった」とか「人につくらせた曲を自作といつわる男が〈病を背負った天才作曲家〉を演じていた」といったケースもありました。これらはかなり極端で明確な「ニセ」です。

 ひと昔以上前のことですが,当時売れっ子だった女性エッセイストYさんのことも,私は思い出します。その人のデビュー作である「節約生活」の元祖のような本は,90年代後半に数十万部のベストセラーになりました。その本には「公務員として福祉関係の仕事をしていたときドイツに何度も行き,ドイツ式のシンプルな生活を知った」ということが書かれていたのですが,その「公務員」や「ドイツに行った」という経歴はまったくのウソだったのです。

 「35年の住宅ローンを節約によって数年で完済」ということが,彼女の本の中心の話題でしたが,その話もすっかりあやしくなってしまいました。経歴詐称が発覚してからは,その著作をみかけなくなりました。

 こういうケースをみていると「人望とか世間の評判なんて所詮はウソばかり。そんなものを求めるのはまちがっている」という気持ちが湧いてきても,おかしくないのかもしれません。
 たしかにウソやねつ造をもとにした人望なんて論外です。でも,だからといって「人望なんて,くだらない」というのは,ものごとの一面だけをとらえた,歪んだ見方だと思います。じつは,福沢諭吉もそういうことを述べています。

(『学問のすゝめ』和文和訳)
 「世間の栄誉など求めない」というスタンスは,立派なようにもみえる。しかし,栄誉や人望を求めるべきかどうかを論ずる前に,まずその本質を明らかにすべきだろう。たしかに,さきほど述べた,外見だけ立派にしたやぶ医者や薬屋のような,虚名の極端なかたちなら,そういうものを遠ざけるのは当然である。
 
 しかし,社会の人間の営みは,すべてがウソに満ちているというわけではない。人の知徳は花や樹のようなもので,栄誉や人望は樹木に咲く花のようなものである。花や樹を育てて花を咲かせることが,どうしていけないのであろうか。栄誉や人望の本質をしっかりと見極めることもなく,どれも棄ててしまうのは,花を取り除いて樹木の存在を隠すようなものである。それは樹木の価値を殺してしまうことであり,世間にとっても損失である。 

 ならば,私たちは栄誉や人望を求めるべきなのだろうか?
 もちろん求めるべきである。努力をしてそれを求めることだ。
 ただ「自分の分にあった栄誉・人望を求める」ということが,とくに重要なのである。
 (原文《しからばすなわち栄誉人望はこれを求むべきものか。いわく,然り,勉めてこれを求めざるべからず。ただこれを求むるに当たりて分に適すること緊要なるのみ》)


 そう,だいじなのは「自分にあった人望を求める」ということ。
 これですよね。自分の本来の資質や能力から外れた人望をめざしてはいけない。
 もちろん努力はするのです。努力によって資質や能力が向上すれば,それに見合った花は咲くはず。
 努力せずに,あるいは努力したこととは異なる方向で花を咲かそうとしてはいけない。

 さて,学歴詐称のKさんの英語は上手だったといいます(ネイティヴがそう評価しているのを,ネットやテレビで見聞きしたことがあります)。きっと英語の学習では大変な努力をしたのでしょう。あるいは,若くして海外での生活体験をかなり積んだのかもしれません。また,パーソナリティやコメンテーターとして,さまざまなテーマに対し一応のことは発言できたのですから,大学など出ていなくても,読書や耳学問でそれなりの教養を身につけたのでしょう。そして,話術や呑み込みやすい表現には,非常に長けていた。

 つまり,若き日のKさんには学歴はなかったけど,それなりの能力・資質の「樹」がその中に育ちつつあったのです。
 だったら,その樹をそのままに大事に育てて,そこにふさわしい花を咲かせるべきでした。

 世の中には,大学を出ていなくても,立派な学歴・学位などなくても,文化人や知識人として栄誉を得ている人はじつはそれなりにいます。有名でなくても,その筋では「知る人ぞ知る」活躍をしている人なら,もっとたくさんいます。多くの文化人が属するフリーランスの世界は,実力社会なのでそれも当然です。若いころのKさんは,そんな「学歴とは関係なく花を咲かせた人」のやり方に学ぶべきでした。あるいはそのような見方を教えてくれる人に出会うべきでした。

 ところが,ウソをついてニセの花を咲かせてしまったのです。
 それも,テレビなどを舞台にした,かなり目立つ花を。
 そして,自分の持っている「ニセ」ではなかった部分まで,台無しにしてしまった。
 ニセの花は,大きく咲かせてしまうほど,取り返しがつかなくなります。

 若いころのKさんには,自信がなかったのかもしれません。
 自分の中に育ちかけている資質の「樹」の可能性を,信頼できなかった。
 自信のない部分を,経歴詐称というウソで埋めようとした。

 若い人が自信のなさを,ストレートな努力以外の何かで埋めようとするのはよくあることです。たとえばグループやコンビを組んで世に出ようとするのも,それにあたることがあります(1人でうって出る自信がないということ)。傍からみると無茶な冒険に走るのも,そうなのかもしれない。そういう形ならまあいいのですが,彼は「ウソ」という手段に走ってしまった。
 ただし「自分を深く信頼する」ことのむずかしさは,若い人にかぎったことではないのでしょうが・・・
 
 私たちは,Kさんのようなまちがいをしないようにしたいものです。
 つまり,「自分にあう人望」というコンセプトを忘れないように。
 自分という樹にふさわしい,本物の花を咲かせるように。

(以上)
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