2016年10月30日 (日) | Edit |
私は最近、『一気にわかる世界史』(日本実業出版社刊、全国の書店・アマゾンなどのネット書店で発売中)という本を出しました。この本は、「世界史上の〈繁栄の中心〉といえるような強国・大国の移り変わりに注目して、世界史のおおまかな流れを一気にみわたす」という方針で書かれています。

今回の記事は、その『一気にわかる世界史』の「補論」といえるものです。応用編のひとつといってもいいでしょう。


となり・となりの法則

「繁栄の中心」は、世界史のなかで何度も交替してきました。そのような新旧の中心の交替においては、つぎのような傾向がみられます。

新しい繁栄の中心は、それまでの「中心」の外側で、しかしそんなには遠くない周辺の場所から生まれる。それは、世界全体でみれば「となり」といえるような近い場所である。

そして、本書(『一気にわかる世界史』)では、このような「繁栄の中心の移り変わり」に関する単純な法則性を「となり・となりの法則」と名付けました。

国・社会というものは、自分たちの「となり」の存在からさまざまな影響を受けています。とくに、「となり」に「繁栄の中心」といえるような高度に発展した社会がある場合、その「中心」からさまざまなことを学び、それを大きく発展させることができた国・社会から次の時代の新しい「中心」が生まれるということが、ときに起こります。

だから、世界史における繁栄の中心が移動するときは、「となり」へ、ということになる。そのような移動が世界史ではくりかえされてきたので、「となり・となり」というわけです。

本書では90ページほどで世界史5000年の通史をまとめており、それが本書のメインとなっています。そこで述べている「世界史上の繁栄の中心の移り変わり」は、ざっくりまとめると、つぎのとおりです。

1.西アジア(今のイラク・エジプト・イラン・トルコなど)
2.ギリシア・ローマ(今のギリシア・イタリア・スペインなど地中海沿岸)
3.イスラム(イラク・エジプト・イラン・トルコなどの西アジア)
4.西ヨーロッパ(イタリア・スペイン→オランダ→イギリス)
5.アメリカ(最初は東海岸のみ、のちに西海岸まで拡大)


このように、世界史における「中心」は、つい最近アメリカが繁栄するようになるまで、西アジア(イラク・エジプト・イランなど)か西ヨーロッパでした。

ただし、近代以前までは、西ヨーロッパの繁栄の中心はアルプス以南(地中海沿岸)に限定されています。

それが近代になってはじめて西ヨーロッパのアルプス以北で「中心」となる国があらわれました。オランダとイギリスです。そして、イギリスの時代を経て、その「中心」が大西洋を越えてアメリカ(とくにニューヨーク・ワシントンなどがある東海岸)に移ったのでした。

なお、本書では「世界史における地域区分」として、以下のように世界史の地域を大まかに区分しています。下の図は、「ユーラシア」という、アジアからヨーロッパにかけての範囲における区分です。

  世界史の地域区分 -ユーラシア

なぜ、西アジアと西ヨーロッパか

ここで考えてみたいのは、「なぜ、西アジアと西ヨーロッパなのだろう?これらの地域が世界史の中心であり続けたのはなぜだろう?」ということです。

これは、位置関係のほかに地形などの条件も関係していると思われます。つぎのようなことです。ひとつの仮説的な考えとして聞いてください。

さまざまな地理的条件のために、西アジアと西ヨーロッパは、ひとつの大きな「まとまり」になっていた。その中に多様な民族や国が存在している。「となり」の人々に豊富に恵まれているといっていい。こういう環境では、「となり・となり」現象が順調に展開しやすい。だから西アジア+西ヨーロッパは、世界史の中心的な舞台となった。

では、西アジア+西ヨーロッパが地理的に大きな「まとまり」であるとは、どういうことでしょうか。

西ヨーロッパ(アルプス以南)から西アジア、そしてインド、とくに西側あたりまでの範囲というのは、比較的移動がしやすいのです。つまり、険しい山脈、大きな砂漠、熱帯雨林といった自然の障害がそれほどではないのです。

西ヨーロッパと西アジアは、地中海でむすばれています。地中海は比較的おだやかな海なので、船での行き来がしやすいです。

西アジアの中はどうかというと、メソポタミアとシリア、エジプトのあいだには平たんな土地でつながった(砂漠以外の)部分があり、比較的行き来がしやすいです。

トルコやイランでは高原地帯が広がっていますが、ひどく険しい山岳地帯というわけではありません。さかんに移動できるルートが、この一帯のなかにあるのです。もちろん「険しくない」というのはあくまで比較の話で、ヒマラヤのような世界の中で特に険しい山地と比べて、ということです。
また、西アジアとインドの西側の地域のあいだは、紀元前の古い時代からインド洋や沿岸の海を船で行き来することも行われてきました。

そういうわけで、ヨーロッパからインドの西側までは、いわば「ひとつづきの世界」になっているということです。

だからこそ、アレクサンドロス大王(紀元前300年代)はギリシアから遠征に出発して、短期間のうちに西アジアのメソポタミア、エジプト、イランなどを征服し、インダス川沿岸の地帯まで進軍することができたのです。交通網の未発達な紀元前の世界でそれができたのは、もともとこれらの遠征ルートになった地帯が、地理的に行き来がしやすいものだったからです。

 (アレクサンドロスの帝国)
  アレクサンドロスの帝国の広がり

西アジア+西ヨーロッパに匹敵する広い範囲のまとまりは、ユーラシアのほかの場所にはないのです。また、アメリカ大陸などの、新大陸にもありません。

なお、東ヨーロッパや中央アジア(上図参照)も、「中心」として繁栄したということはありませんでしたが、西アジア+西ヨーロッパとは地理的・地形的に「つながっている」といってもいえます。これらの地域は西アジアや西ヨーロッパと深いかかわりをもってきました。つまり、ユーラシアの西半分は東西ヨーロッパ+西アジア+中央アジアという、きわめて大きな「ひとつづきのまとまり」をなしているのです。

そして、「ひとつづきのまとまり」であると同時に、その広大な地域は山地や川や乾燥地帯などでゆるやかに区切られてもいます。その区切られた地域ごとに、いろいろな人びとが住んでいます。ということは、「豊富な多様性をふくんだ、ひとつづきの世界」だということです。


ほかとは切り離されている中国

ユーラシアにおける、もうひとつの大きな地理的な「まとまり」に、中国があります。
その中国は、ユーラシアのほかの文明の中心地帯からはかなり切り離された条件にあります。

西側にはヒマラヤ山脈とチベット高原という世界一険しい山々や、タクラマカン砂漠といったこれも非常にきびしい環境の砂漠があります。「障壁」としてはやや影響は少ないものの南側の一部には東南アジアの熱帯雨林もあります。

北側に広がるユーラシアの草原地帯は、たしかにユーラシアのほかの地域への「交通路」にはなり得ますが、騎馬遊牧民の世界です。中国という文明の中心からみれば、自分たちの活動を展開していくうえで「障害」といえます。

中国は、インドや西アジアとは、そのような「自然の障壁」で区切られているのです。
 
中国は大きいです。巨大な人口を抱えていて、それだけでひとつの「世界」をつくっているとはいえます。しかし、広くユーラシア全体をみわたしたとき、ユーラシアのなかでは比較的狭い範囲で孤立しているともいえるのです。

そして、その「孤立」した範囲のなかの「多様性」には、やはり限界があります。たしかに中国には多くの民族が存在しますが、「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」にくらべれば、そのバリエーションがかぎられるのは当然です。

それに、「中国」というのは、その範囲全体が(分裂時代もありましたがかなりの時代にわたって)ひとつの国として統一されてきたのです。統一国家としての歴史が積みかさねられれば、それだけその地域の「多様性」は、失われていくでしょう。言語やその他の生活習慣が共通化していくわけですから。

そして、「中国」という地域が、基本的に国として統一を保てたのには、地理的な要因も大きく働いています。

中国のメインの部分は、広大な平地が広がっているのです。つまり、北方の草原地帯から、黄河流域の華北、揚子江流域の華南にいたるまでの地域は、基本的に平地です。そこに船で行き来しやすい大河が広がっています。西暦600年ころには途中で黄河と揚子江を横断する南北の大運河もつくられました。

このような地理的条件であれば、広大な地域をひとつの勢力が統一し、統治することが比較的(あくまで比較的)容易なのです。

単純化していえば、中国は広大で人口が大きいわりには、「均質なまとまり」をつくっているということです。もちろんこれは「西ヨーロッパ+西アジア(+インド西部)」とくらべれば、ということです。

こうした中国の「孤立」「均質性」については、これまでに何人もの歴史家が指摘してきたことです。たとえば近年の世界史本のベストセラーである、ジャレド・ダイアモンド『銃・鉄・病原菌』でも論じられています。


中国で「近代科学」が生まれなかったのは?

中国のこうした「孤立」や「(ほかと比較した場合の)均質性」は、文明を発展させるうえでは、「西アジア+ヨーロッパ(+インド西部)」とくらべれば、不利な条件です。

本書(『一気にわかる世界史』)で述べたとおり、世界史上のさまざまな民族は、「となり」の人びとからさまざまな成果や遺産を受け取ることを通じて発展してきました。それが「となり・となり」とくりかえされることで、大きな進歩もおこっています。

たとえば、古代ギリシア(2500年前ころから繁栄)が文明を開化させるにあたっては、エジプトなどの西アジアの文明の影響を大きく受けていますし、ギリシア人を征服したローマ帝国(2000年ほど前に繁栄)の文化は全面的にギリシア人を模倣しています。イスラム帝国(1000年ほど前に繁栄)の学問は、ギリシアやローマの学問を受け継ぎ、そこにインドの学問も取り入れて発展したものです。

そして、数百年前の中世から近代初期のヨーロッパは、イスラムからさまざまな影響を受けたのです。そして、ヨーロッパではギリシア・ローマの遺産もふくむイスラムからの影響をベースにして「近代科学」を生み出すなどの革新がおこったのでした。

これらの地域はみな、世界全体の広い範囲でみれば「となり」といっていいような比較的近隣の位置関係にあります。

つまり、進歩や発展のためには、「となり・となり」の展開が順調におこりやすい環境が有利です。それには、より大きな広がりのなかで、多様な人びとが存在している、というのがよいわけです。

この条件に関し、中国は「西アジア+西ヨーロッパ(+インドの西側)」よりは不利だったということです。そのために中国は、たしかに世界史のなかできわめて重要な存在ではありながら、「主役」や「中心」にはならなかったのです。

その「中心にならなかった」というのを象徴するのが、近代科学や産業革命が中国では生じなかったということです。中国では独自に「近代」が生まれることはなかった。

しかし、「中国でそれらが生まれてもおかしくないのでは?」と思えるほど、近代以前の中国では、その時代としてはじつに高度な文明が築かれていました。近代初期のヨーロッパ人は、それに驚いたのでした。

だからこそ、「ヨーロッパからの侵略で荒らされなければ、もうしばらくすれば、中国でも近代科学や産業革命が生み出されたはずだ」という意見もあります。

私は、その考えには否定的です。そのもとになっているのは、科学史家の板倉聖宣さんの説です。

板倉さんは「学問や科学にとって伝統というものは決定的に大事だ」と考えます。とくに「古代ギリシアの学問の伝統が存在したかどうかが、その国・地域で科学を生み出すことになるかどうかのカギだ」と。

なぜかというと、古代ギリシアの学問には「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうる(検証可能である)ような体系」といった要素があるから。このような検証可能な理論・体系は、科学が生まれる基礎なのです。

そのような学問をつくったのは、近代以前の世界史のなかでは古代ギリシア人だけでした。中国の学問の論理は、万物を「陰と陽」に分ける論理のように、もっとあいまいで「のらり・くらり」だと、板倉さんは言います。そのような論理は検証不可能です。

ヨーロッパの近代科学は、そのようなギリシアの学問の伝統が発展した結果生まれた、ということです。

たとえば、ガリレオは古代や中世の書物を読み込んで、そこにあった理論と向き合い・対決するなかで自分の理論を築いていった、と板倉さんは指摘します。

近代科学の父・ガリレオがそのまちがいを明確にしたアリストテレス的な運動の理論や古代の天動説は、まさに「ウソであるかもしれないが、具体的な内容である体系」で「間違いであるかどうかを客観的・一義的に判定しうるような体系」の一部をなす理論でした。

板倉さんは「日本に科学が生まれそこなった歴史」をテーマにした論考で、こう述べています。

《日本には…アリストテレスみたいな、間違いが間違いとわかるようなウソを言う人間がいませんでした。だから、それに反対して何かをやるというようなガリレオみたいな人も現れ得なかった》
(板倉『科学と教育のために』仮説社)

このことは、中国についてもいえるわけです。

近代以前の中国には、古代ギリシアの学問の伝統は、もちろん根付いていません。中国独自の伝統があるだけです。それは、中国がここでいう「孤立」の状態にあったということです。

このように、中国で科学が生まれなかった理由が、「古代ギリシアの科学の伝統がなかったから」ということだと、いくら時間が経過しても、中国では(中国内部の伝統だけでは)科学は生まれようもないということになります。

また、中国科学史の研究者・薮内清も、板倉さんと通じる見解を述べています。薮内は中国の地理的な「孤立」ということに注目しているのです。

《五千年の歴史を持つ漢民族は、ほとんど自力で以て、きわめて高い文明をつくりあげた。しかし自力には一定の限界があることは、否定できないことである。……ヨーロッパに近代科学が起こるころになると、この独特な文明が伝統としての強制力を持ち、社会の変革をさまたげた》

《一つの国、一つの民族がたえず新しい文明をつくり出すことは至難の業といってよかろう。新しい文明は、異なった文明、異なった民族とのあいだの、はげしい交渉の中から生まれる》

そして、薮内は「そのことは過去の中国の事例からも示すことができる」として、紀元前の戦国時代、西域(西側の辺境地帯)との交渉がさかんだった前漢時代(2200年前~2000年前ころ)、さらに周辺地域に勢力を拡大し、国際的な文化が栄えた唐の時代(西暦700年ころ)をあげています。そして、こう述べています。

《過去の中国は、砂漠や山脈、さらに海にさまたげられ、外国の侵略を許さない自然環境の中に安住することができた。国民の大部分を占める漢民族は、自らのすぐれた文明を保持しつづけた。恒常的な発展を示してきたとはいえ、そこにはヨーロッパ社会のような変革は起こらなかった》
(薮内『中国の科学文明』岩波新書)
 
以上のような「中国で近代科学が生まれなかった理由」の説明については、異論もあるでしょう。説の正しさを証明するのがむずかしいところもあります。でも、ひとつの見方として知っておいていいと思います。「となり・となりの法則」という見方から導きだされる、「世界史の大きな謎」にたいする(仮説的な)回答のひとつということです。

要するに「伝統的な中国は〈となり〉の影響を十分に受けなかった、受けにくい環境にあったので、社会の発展に限界があった」ということです。もちろん、今はちがうわけですが。


重力のように作用する「となり・となりの法則」

私は、世界史の最も「おいしいところ」のひとつは、こうした「大きな謎」を、自分の頭で考えながら解いていくことだと思っています。

そして、その「謎解き」を楽しむには、考える手がかりになる基本知識が必要です。本書(『一気にわかる世界史』)のコンパクトな通史にあるような知識が最低限必要なのです。

そういう、多少の基本知識があれば、たとえば「世界史の中心が西ヨーロッパ+西アジアなのはなぜか?」「中国で科学が生まれなかった理由」や、それから「日本がアジアでいちはやく近代化できた理由」といったことについて、いろいろ考えることもできます。

もし「自分で考える」というところまではいかなくても、ここで論じたような議論を理解することはできるのです。

さて、『一気にわかる世界史』では最初に「夜の地球」(下図)というものを取り上げました。「夜の地球」というのは、人工衛星から撮った世界の夜景を合成したものです。そこでは、人口が密集し、家電製品などの文明の利器が普及している、とくに繁栄している地域に「光」が多く集まっています。(以下の画像はNASAのホームページから)
 夜の地球・世界

夜の地球をみると、現代の世界にはとくに大きな3つの光のかたまり=繁栄の中心があります。西ヨーロッパ、北アメリカ、日本(とその周辺)です。

 (西ヨーロッパ)
 夜の地球・西ヨーロッパ

 (北アメリカ)
 夜の地球・北米

 (日本とその周辺)
 夜の地球・日本とその周辺

これは、見方によっては、ちょっと変則的な分布です。繁栄の「中心」というわりには、西ヨーロッパと日本は、ユーラシア大陸(アジアからヨーロッパにかけての広い範囲)の西と東の端っこです。北アメリカは、世界史全体からみればつい最近になって多くの人が住むようになった「新世界」です。

本書(『一気にわかる世界史』)は「このような光の分布は、どのようにしてできあがったのか」という経緯について述べた、ともいえます。

ではどのような経緯だったのか? 要するにつぎのようなことだったといえるでしょう。

5000数百年前に西アジアのメソポタミア近辺で「最初の文明」が生まれてから、「となり・となり」で繁栄の中心は動いていきました。

その移動の方向は時によって変わり、かならずしも一貫していません。西アジア→ギリシアのときのように、西へと移動したときもあれば、西ローマ帝国→東ローマ帝国→西アジア(イスラム)というふうに、東側への移動もありました。

しかし、全体的な傾向をみると、西側への移動のほうが多かったといえます。そこで5000年あまり経つと、「中心」はユーラシアの西の端にまで動いていました。つまり、西ヨーロッパの国ぐにです。

そして、この数百年ではまず西ヨーロッパの中で、北方へと繁栄の中心が移っていく傾向がありました。地中海側のスペインからアルプス以北のオランダへの移動。さらにオランダ→イギリスという移動です。

そして、1800年代後半以降は、「イギリスから大西洋を渡ってアメリカへ」という中心の移動もありました。

さらに、そのアメリカが太平洋を越えて日本に影響を与えるようになりました。たとえば、幕末にアメリカから軍艦(黒船)がやってきたことなどはそうです。(アメリカの日本に対する影響については本書の一節「「となり」の欧米、アメリカ」で述べています)

その結果として日本はアジアのなかでいちはやく近代化を成し遂げ、アジアにおける新しい繁栄の中心となりました。このような西側からのルートで、ユーラシアの東の端に「中心」ができていったわけです。

そして近年は、日本が西側の韓国、中国などの東アジア諸国に影響をあたえることが起こっています。(この点については、本書の「現代世界の「となり・となり」の節で述べています)

以上のような経緯は、数千年にわたって「となり・となりの法則」が、まるでいろいろな物理現象における重力の法則のように働き続けた結果、生じたものです。

もちろん、「となり・となり」だけですべて説明できるわけではありません。重力の働きだけで物理現象のすべてを説明できないのと同じことです。

しかし、重力が自然界のさまざまな現象に作用し続けているのと同じように、「となり・となりの法則」は、世界史の動きに作用し続けているようです。そして、ほかの要因と作用しあいながら、歴史が展開していく、というわけです。

(以上)

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