2017年01月22日 (日) | Edit |
トランプ大統領の就任演説について、テレビのニュースやワイドショーに出ている識者の評価は、だいたいネガティブでした。

「選挙演説のときと同じで中身がない」「大統領就任演説というより、トランプのファン感謝祭」「トランプ支持者以外への語りかけがない」「具体的な政策がなく抽象的」「アメリカは世界に責任があるはずなのに内向きの話ばかり」「アメリカ製品を買おう、アメリカ人を雇おうというのは、昔の製造業の時代を想定しており、時代錯誤」等々。トランプ大統領に抗議するデモの様子も、かなり報じられている。

たしかに、トランプに批判的な立場、あるいは政治や経済の専門家の立場からみると、「ダメだなあ」ということなのでしょう。インテリ的な立場からは、あれを評価するわけにはいかない。

でも、非インテリ的な、トランプに期待を寄せる立場からみたら、どうなのか。
シンプルに力強く、大切なことを伝えている、とはいえないでしょうか。

そこには、明確なわかりやすいメッセージがあります。(以下、就任演説からの引用。日経新聞による訳)

「首都ワシントンからあなた方、米国民へ権力を戻す」「エスタブリッシュメントは自らを保護したが、米国民を守らなかった」「我が国の忘れられた男女は、もう忘れられることはない」「米国はほかの国を豊かにしたが、我々の富、力、自信は地平線のかなたへ消え去った」

そして、最も主要な原則・主張。

「今日から米国第一主義だけを実施する。米国第一主義だ」「我々は2つの簡単なルールに従う。米国製品を買い、米国人を雇うというルールだ」「職を取り戻す。国境を取り戻す。富を取り戻す。そして夢を取り戻す」「国家全域に、新しい道、高速道路、橋、空港、トンネル、鉄道をつくり、福祉に頼る生活から人びとを抜け出させ、仕事に戻らせる」

シンプルで明快な行動原理と、実行する強い意志を示すトランプ。
そして、従来のワシントンの政治家たち、とくに「リベラル」な人たちに引導を渡します。

「意見をいうだけで、行動を起こさない政治家にはもう容赦しない。文句をいい続け、それが仕事になっているような政治家たちだ。中身のない対話の時代は終わりだ」

そして最後にもう一度、「忘れられた人びと」への呼びかけ。

「あなた方が無視されることは、もう二度とない。あなた方の声、希望、夢が米国の未来を形づくる」

「米国を再び強くしよう」

具体的な政策論なんてよくわからないし、大統領の就任演説で聞きたいとも思わない人たちは、きっとおおぜいいるはずです。そういう人たちがトランプを当選させたのです。

トランプの「抽象的」で「中身のない」演説を、まるでキング牧師やリンカーンの演説のように感動して聞いた人たちが、きっといたはずです(でもあまり報道されていないように思う)。そして、(キング牧師の演説がそうであるように)中学高校の英語の教科書に載ってもいいような、平易な英語表現。

こむずかしく具体的な政策論など語っていたら、そのような感動は生まれない。少なくともトランプの場合は、そうにきまっています。実務的で具体的なトランプなど、魅力的ではない。キング牧師の演説だって抽象的ですし、“アイ・ハブ・ア・ドリーム”の演説で人種差別撤廃に向けての現実的な法整備のあり方について論じていたなら、それほど感動的にはならなかったでしょう。

「アメリカ第一主義」は、抽象的で時代錯誤で、非現実的なものだと、多くの識者はいいます。私もその点は同感です。しかし、「誤っている」としても侮ってはいけない、とも思うのです。

誤っていても、ウソだらけでも、単純素朴でバカっぽくても、影響力のある考え方というのは、あります。

「アメリカ第一主義」という基本方針は、それ自体は抽象的です。しかし、政策のさまざまな分野や個々の具体的場面で、明確な行動指針となり得る考え方です。単純明快ゆえの力を持っている。

これに対し、たとえば「世界に自由と平和と発展を」といったメッセージは、たしかに「すばらしい」のですが、それを実現するための行動指針が具体的にみえてこないところがあります。「対話を大切に」というのも、「とにかく話しあいましょう」といっているだけであって、対話のテーマになっている複雑な問題について解決策を示すものではない。話しあってもどうにもならないことは、たくさんあるわけです。

昔、ヒトラーがシンプルな(しかし事実を歪めた、矛盾に満ちた)メッセージで人びとに訴えたとき、多くのインテリはバカにしていました。

ヒトラーは、ドイツを再び偉大にすることを目標に掲げましたが、そのためのビジョンは軍拡と侵略による領土拡張です。単純で幼稚で、邪悪とも思えますが、そのために何をすべきかが明確に導き出せる。そういう「強さ」があるのです。具体的な方法や技術的なことはヒトラーに共鳴する専門家がしだいに集まってきて、やってくれました。

トランプの「アメリカ第一主義」にたいしても、そういう「専門家」があらわれるかもしれません。アメリカにはいろんな人材がいますし、権力は人材を集めるのです。

トランプの演説は、テレビや新聞で解説するような人をうならせるものではもちろんない。だからといって侮ってはいけない。やっぱりこの人物には、大きな何かをやらかす可能性・危険性がある。心配したほどではなかった、という結果になればいいのですが・・・

大統領選挙の結果で、識者や有力者たちは懲りたはずなのに、相変わらずです。エスタブリッシュメントやインテリに反発する人たちの思いに対し、あまりに鈍感すぎる。その鈍感さが、トランプ大統領を生んだのに。

この鈍感さが続くかぎり、たとえトランプが敗北していなくなったとしても、問題は終わらないはずです。

(以上)
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2017年01月21日 (土) | Edit |
前回の続き。「アメリカ第一主義」をかかげる大統領がついに就任するなど、アメリカが覇権国として世界にあたえる影響が大きく後退する流れが明確になってきた。

その影響について、中国やロシアはどう出るか、アラブ・中東の情勢はどうなるかなどの、比較的短期の国際情勢の話はとくにいろいろ出ています。しかしここでは、アメリカという「中心」の衰退が、おもに先進国における国家や政府のあり方に、中長期的にどう影響するのかについて考えます。これは、私たち日本人にとっても切実な問題です。

アメリカが覇権国として世界を仕切ることに消極的になると、つまり「世界の警察官」をやめると、世界の国ぐにの国家としての機能は、再編成を迫られます。

この何十年かは、世界の諸国のあいだの大小さまざまなもめごとの多くは、アメリカによる仲裁が有効でした。当事者どうしで話し合いがつかないことも、アメリカのジャッジによって一応のケリをつけていた。アメリカが前面に出なくても、アメリカが大きな影響力を持つ国際機関がジャッジしたりもした。

軍事的にも、アメリカの傘下に入ることで、ある程度の「属国」的な立場と引き換えに、相当な安全が保障された。

本来は国際社会には、国内の警察や裁判官にあたるような権力は存在しません。
「世界統一政府」がない以上、国際社会にはそれを統制する権力が存在しません。つまり、究極には「力」がものをいう世界です。その点では、かつての日本などの「戦国時代」とかわりません。

そして、20世紀前半までの国際社会は、まさに戦国時代だったわけです。

近代以降(1500年代以降)だけをみても、ヨーロッパ諸国は頻繁に戦争をしていますし、そのヨーロッパ諸国を主体として、アジア・アフリカ・アメリカ新大陸でも侵略的な戦いがくり広げられました。あげくの果てに世界大戦です。

近代以前でも、さまざまな国がおこったり滅びたり、領土を広げたりというのは、結局は戦争をしているのです。

この何千年のあいだ、世界はおおむねいつも「戦国時代」だった、といってもいい。

しかし、1900年代後半のアメリカは、国際社会の「警察」「裁判官」に準ずるような役割を果たしていました。もちろんそれは「世界統一政府」的な権力とは大きな隔たりがあります。1900年代後半にも、世界各地ではさまざまな戦争がありました。それでも、1900年代後半の世界では、アメリカの存在が国際社会の「戦国時代」的な本質を、かなりおさえこんでいたのは事実でしょう。

より正確には、以前のアメリカは「世界の警察官」というよりは、「世界の番長」というべき存在でした。半分は暴力的に、半分は仲間うちのコンセンサスで、不明確な権力を行使する存在です。その権力には、警察のような明確な正統性はありません。その割にはいろんなことに目を配っている、かなり面倒見のいい番長でした。でも、やっぱり怖いところがあるし、時にはカツアゲをしてくる。

そんな「面倒見のいい番長」はもうやめた、と最近のアメリカはいい出した。たぶん「面倒見のよくない番長」になるつもりなのでしょう。

アメリカの覇権の後退は、国際社会の本質が「戦国時代」であることを、再びあきらかにするはずです。

それは、かならずしも世界大戦のような大戦争に直接つながるということではないでしょう。しかし、「自国優先」を掲げる利害や立場を異にする国ぐにがせめぎあい、ときにはげしく対立し、一方で(利害が一致すれば)協力したり同盟したりする。そのような局所的な対立や同盟が、あちこちで起こる。その動きを仕切る有力な存在はなく、もちろん国のあいだのもめごとをジャッジする警察官や裁判官、もしくは番長はいない。

トランプ大統領は先日の就任演説でも、これまで述べてきた「アメリカ優先」という原則をあらためて強く主張していました。そして、ほかの国もアメリカにならえばよい、と。これは、「世界は戦国時代に戻る」という宣言です。

戦国時代的な国際社会では、それぞれの国は、ほかの国ぐに(油断のならない危険な存在)に対し対抗できるだけの力や体制を強化することが求められます。

その最も切実な要素が、国防・軍事にかかわることです。軍隊そのものの組織や装備を強化するだけではありません。有事の際に、社会全体が軍を支える体制を築く必要があります。いざというとき国全体が安全保障のために結集できるようにする。その体制の邪魔になる反対者を排除するしくみも、当然重要になります。

日本でも、現総理をはじめ一部の政治家は、この問題を真剣に考えていることでしょう(ある程度実行もしてきた)。一方でその動きを真剣に危惧している人たちもいる。

「外敵から自分たちの社会を守る」という機能や目的は、国家にとって最も根本的なものです。近代国家では、国民であれば否応なしにそのための国家の活動に動員されてしまう。直接軍隊にとられることがなくても、何らかの協力や関与、あるいは犠牲を求められる。

そして、そのような動員をするだけの力を、行政の発達した現代の国家は持っています。第二次世界大戦のときなどよりもはるかに、です。

「社会を外的から守る」「そのために国民を動員する」「動員の体制やしくみをつくる」というのは、法の体系では「公法」といわれる分野の活動です。政治学の言葉でいえば国家の「統治」的な活動です。

戦国時代的な本質があらわになった国際社会では、国家の「公法」あるいは「統治」的な活動は、強化されることになるでしょう。逆にそれができなかった国は、「戦国の世」のなかで不利な立場になる。

「公法」「統治」の面では、国家や政府の存在感は、今後大きくなっていくのではないか。今のように国際情勢が不透明さを増すときには、ばくぜんと「国家の解体」みたいなことをいう人がたまにいますが、基本的にはまちがいだと思います。

しかし一方で、国家の存在感が薄れたり、機能が弱体化する領域もあるかもしれません。国民生活へのきめ細かいサービスにかかわる領域です。インフラの整備・維持、学校教育、社会保障・福祉などの、いわゆる「行政」的な分野です。政府の力は有限なので、ある面が強化されれば、ほかの面が割を食うことは考えられます。

アメリカの覇権の後退によって、戦国時代的な国際社会が再びあらわれるという見方は、すでに“「Gゼロ」後の世界”といういい方で、イアン・ブレマーという人が以前から述べています。ブレマーによる2012年の著作『「Gゼロ」後の世界』(日本経済新聞出版社)は、今あらためて読むと、見事です。数年前の本ですが、今現在や近未来の状況を理解するのに、おおいに参考になる。

また、アメリカの覇権の衰退やその影響については、私が若いころから影響を受けてきた政治学者・滝村隆一さんも、ブレマーと重なる見解を述べています(『国家論大綱 第二巻』、2014年)。国際社会の基本が「戦国時代」であるという見方や、国家の「統治」的活動といった概念は、滝村さんからのものです。私は、ブレマーや滝村さんの主張を、自分なりに編集・要約して述べているつもりです。

(以上)
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2017年01月09日 (月) | Edit |
私が昨年出版した『となり・となりの世界史』(日本実業出版社)では、「5000年余りの世界史において、世界の繁栄の中心(覇権国)といえる大国・強国の移り変わり」を追いかけることで、世界史を「ひと続きの物語」として述べることをめざしました。

具体的には、西アジア(メポソタミア・エジプトなど)→ギリシア→ローマ→イスラムの国ぐに→西ヨーロッパ(詳しくみるとスペイン・イタリア→オランダ→イギリス)→アメリカと、世界の繁栄の中心は移り変わってきました。
今の世界は、1900年代前半から続くアメリカの時代です。

アメリカの時代はいつまで続くのか?

アメリカが総合的にみて世界最強の大国である、という状態ならば、これからも何十年かは続くでしょう。もっと続く可能性も高いと思います。

しかし、その圧倒的な力で世界を仕切るという状態(それが「覇権」)は、これからますます明らかに後退していく。あと20年もすると、かつてのようなアメリカの覇権は過去のものになる。少なくともすっかり様子が変わっている。

あいまいでおおざっぱな予想ですが、ひとつの視点としては意味があるでしょう。私たちのほとんどが生きているうちに、大きな変化が一区切りついているのでは?という問いかけでものごとをみてはどうか。

アメリカの覇権の後退ということは、1970~80年代にはすでに言われてはいました。
たしかにその頃、アメリカの勢いは1950~60年代よりは後退していました。その一方で「アメリカの後退」という見解には、圧倒的な大国に反発する感情もあったように思います。「こんな国、衰退してしまえ」という願望が混じっている面もあった。

だから、本当に後退するまでには、まだ時間がかかりました。1990年代には、ライバルだったソヴィエト連邦の崩壊によって、唯一の超大国となったアメリカがまさに世界を制覇したような状況になりました。

しかし、そのようなアメリカの「世界制覇」は、10年ほど続いただけでした。

2000年代(ゼロ年代)初頭の、9.11テロへの対抗・報復として行ったアフガニスタン侵攻やその後のイラク戦争は、大きな転換点でした。このとき、アメリカはいろいろな誤りを犯した。その後、1990年代にひとつのピークに達したアメリカの覇権がさまざまな面で崩れていきます。

一方で、中国を筆頭とする新興国の発展がすすみ、GDPなどでみた世界経済でのアメリカのシェアが小さくなる、という流れも2000年ころから明確になりました。
今現在の世界の、アラブ・中東の混乱した状態や、中国が新たな超大国として自己主張を強めていることの直接の出発点は、2000年代初頭にあります。

そして、2000年代初頭のアメリカは、勇ましくアフガニスタンやイラクを攻めたのですが、今のアメリカはシリアなどの中東の情勢に対してかつてのような積極的な行動はとれないでいます。中東で積極的に動いているのは、ソ連崩壊後の混乱から一応は復活してきたロシアだったりする。

トランプのいう「アメリカ優先」は、「覇権国として世界を仕切るスタンスを見直す」ということです。近年は米国民のあいだで「世界でのリーダーシップよりも自国の問題に専念すべきだ」という世論が高まってはいました。トランプの当選も、そのような流れが生んだといえます。やはり、こういう大統領が出てきたことは、大きな転換点でしょう。

たしかに、昔のアメリカも自国優先の孤立主義をとっていました(「モンロー主義」という)。しかしそのような内向き志向が優勢だったのは1900年代前半までのことで、それ以前のアメリカは世界の中心=覇権国ではありませんでした。

「アメリカ優先」は、1900年代半ばの「偉大なアメリカ」の復活ではなく、「覇権国となる以前のアメリカへの回帰」を意味するのです。つまり「世界トップの経済力や軍事力を持つ大国には違いないが、世界を仕切るような“中心”ではない」ということ。それがこれからのアメリカのポジションなんだと。

現実の流れとしてそうなりつつあったことを、トランプの主張は、基本方針として確認していることになります。そのような方針は、現実の流れを後押しするはずです。つまり、世界の「中心=覇権国」としてのアメリカの役割の大幅な後退という流れです。

ほんとうは「再びアメリカを偉大な国にする」ではなく、「(100年以上前の)“ふつうの大国”のアメリカに回帰する」というべきです。でも、それではあまり輝かしい感じがしないので、選挙に勝てませんね。

(以上、つづく)
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2017年01月05日 (木) | Edit |
正月休みのかなりの時間を割いて、家の整理をしています。
妻といっしょに、要らない書類や資料、本・雑誌、洋服などを処分しようとしているのです。

とっておくものも、しかるべき形に整理して、置くべきところに置いて、使えるようにする。
まだ、片づけたいと思っていることの半分もできていません。
今月いっぱいは、おもに週末に、そうした整理に時間を割くつもりです。

そんな整理をしていて、あらためて大事だと思うことがあります。

過去の仕事を再検討して
あらためて取り組む。


もともとは、チャールズ・イームズという20世紀アメリカのデザイナーが言っていたことです。イームズは、20年、30年という時間のなかで、自分のアイデアやデザインを再検討してつくり直すことに何度も取り組んでいます。イームズの代表作の多くは、その作業のなかから生まれています。

過去の仕事の再検討――最近はこのことを一層つよく思います。

今回、身の回りの整理をしていても、思いました。自分が過去に書いたもの――発表したもの、下書き的なもの、ちょっとしたメモ等々――をみると、いかに多くの未完成のもの、発展途上のものを放っておいたままにしているか。

これらをきちんと完成させようとしたら、相当な時間やエネルギーが要ります。

私は50歳を少し過ぎています。
20歳ころから読んだり書いたりに興味をもってきましたが、それで去年やっと世界史の本を1冊出せただけの、かけ出しです。
もう時間がありません。

たしかに人生は長いです。
でも、若いころから取り組んできた「関心のある分野でものを書き、読者を得たい」という活動を軌道に乗せるということなら、私に残された時間はやはり限られている。

そんな私にとって大切なアプローチが、「過去の仕事の再検討」です。
未完成のものを、完成させていく。あるいは改定して、グレードアップする。かたちを変えて、別のユーザーにお届けする。

去年出した本『一気にわかる世界史』(日本実業出版社)も、そんな「再検討」から生まれました。

直接の出発は10年ほど前に書いた、試作品的な原稿(草稿)でした。
それを何人かの人に送ったり、研究会のようなところへ持って行って配ったりしましたが、反響は芳しくありませんでした。

その後数年の間に、ひとりで何度か再検討と書き直しをくりかえしていくうちに、多少の手ごたえがあったので、書いたものの一部をこのブログにのせました。

それから2年ほどして、ブログの記事を書き直してまとめることにしました。その作業がほぼおわったころに、偶然にブログをみた出版社の方からの声がけがあったのです。最後に書き直したバージョンをもとに、『一気にわかる世界史』はできています。

今年も、再検討してあらためて取り組みたいテーマ(以前の原稿など)がいくつかあります。
幸いにも、私の書いたものは世の中にほぼまったく広まっていないので、これらをつくり直して新しい読者に届ける余地はいくらでもあるわけです。50過ぎて、そういう「課題」がいっぱいあるのは、悪くないことです。

年末に、若い仲間が創刊する雑誌『うぞうむぞう』のための記事を複数書きましたが、それらも過去の仕事の再検討によってつくりました。記事のひとつは15年前の原稿を大幅に加筆・修正したものです。昔の原稿を、編集長の木村さんが(学生時代に読んだのを)おぼえていて、そのすすめに応じてのことでした。

「過去の仕事の再検討」というのは、過去にこだわって新しいものを受けつけない、ということではありません。過去の仕事を今現在の読者・ユーザーに届けるためには、新しい情報や視点をふまえて取り組む必要があります。新たに学び、考えることになるのです。過去の仕事を、今そのまま出しても多分ダメです。

新しいことを加えていかないと、過去の仕事は完成しない。そこで、「過去の仕事を完成させる」という過程から、新しいアイデアやスキルを得ることもできる。これは、やってみて実感しています。

「中高年の生き方」の話では、「まったく新しい何かにチャレンジ」ということに光があたりがちな気がします。とくに、元気な人はそういうことを言います。もちろん、それも悪くないと思います。でも生産性や成功の可能性が高いのは、過去の仕事を再検討し、今の状況にあうように、あらためて取り組むことでしょう。

なお、このことは中高年だけでなく、30歳くらいを過ぎたなら、もっと若い人にもあてはまるはず。

「今の状況にあうように」というのは、とくにむずかしいところです。たしかに、それがないと「過去の思い出に生きている」感じになってしまう。でも、そのあたりの自覚をもって勉強すれば、中高年でもかなりのことはできると思っています。

(以上)
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