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2019年08月02日 (金) | Edit |
最近「ビザンツ帝国」についての本を何冊か読んだ。とくにビザンツ研究の大家・井上浩一さんの著作(『ビザンツ 文明の継承と変容』京都大学学術出版会)を中心に。

ビザンツ(ビザンチン)帝国というのは、ローマ帝国が300年代末に東西に分裂したあとの東半分をさす(諸説あり)。首都はコンスタンティノープルという、今のイスタンブールにあたる都市。ビザンツの呼び名は、コンスタンティノープルの古い名称であるビザンチウムにちなんだものだ。なお、ローマ帝国の西半分というのは、今の西ヨーロッパにあたる地域である。

じつは、ビザンツ帝国の住民は自分たちを「ビザンツ人」と称したりはしていない。

では何と自称したかというと、「ローマ人」である。つまり偉大なローマ帝国の人間であるということだ。

「ビザンツ」というのは、だいぶ時代が下ってからの西ヨーロッパ人による呼び方だ。そこにはビザンツへの対抗意識や嫌悪がある。「あんなものは正当なローマ帝国ではない。ローマ文明の正当な後継者はこちら側(西ヨーロッパ)だ」という意識。そこでビザンツ人を「ギリシャ人」と呼ぶことも多かった。ビザンツ帝国の領域の中心はギリシア周辺で、人種的にもギリシャ人が中核を占めていたからだ。

しかし、ルネサンス以降、西ヨーロッパで古代ギリシアの文明が崇拝されるようになると、「ギリシャ人」というのも「ローマ人」同様に栄誉あるものになった。そこで西ヨーロッパの人びとは、ローマでもギリシャでもない「ビザンツ」という名でローマ帝国の東側を呼ぶようになった。ビザンツという名称には、そういう、ちょっとめんどくさい経緯がある。

300年代末に東西分裂したローマ帝国のうち、西側は400年代後半に体制崩壊して滅びてしまった。しかし、東側のビザンツ帝国は1000年余りの長期にわたって存続した。

ビザンツ帝国が滅びたのは1453年のことだ。この年にオスマン朝(オスマン・トルコ)の攻撃で、コンスタンティノープルが陥落した。長く続いたとはいえ、末期の頃のビザンチン帝国はすっかり衰退して、コンスタンティノープル周辺だけを支配する小国になっていた。

ビザンツ帝国について興味をひかれるのは、そこに現代の世界と似たものを感じるからだ。とくに、その初期の200~300年間の頃のあり方について、そう思う。

ビザンツ帝国は、古代ギリシアの文明を受け継いで発展させたローマ帝国の末裔である。その文明はギリシア・ローマの文明が長い過程を経てたどりついたものだ。だから、古典的なギリシア・ローマの文明にあったさまざまなものが変質・形骸化して存在している。

まず、民主主義・共和政的な政治のあり方。つまり、多くの市民が政治参加して、それが権力を拘束するということ。その伝統は民主主義で有名な古代ギリシアだけでなく、最盛期のローマ帝国にもあった。ローマ皇帝は、有力者の合議体である元老院やさまざまな法・慣習から一定の拘束を受けた。軍隊や市民の支持を絶えず意識して政治を行った。何にも縛られない専制君主というわけではなかった。

しかし、ビザンツ帝国の皇帝は、絶対的な専制君主だった。ビザンツ帝国では民主主義・共和政の伝統は過去のものになっていた。ビザンツ帝国の役人は自分たちを「皇帝の奴隷」だと意識していた。それを嫌がるのではなく、偉大な存在の「奴隷」であることにそれなりの誇りを持っていた。

しかし一方で民主主義的な伝統の「化石」といえるような儀式もあった。皇帝が就任するときの、市民たちによる歓喜の声。これは国家が動員した「市民」だった。そしてその「市民」は、国家のなかのひとつの官職になっていた。民主主義を演出するための役人という、奇妙なものがいたのである。

最盛期のローマ帝国では、コロッセオのような施設で連日さまざまな見世物が行われて、市民が熱狂した。巨大な競走場での戦車(馬車)によるレース(競馬のようなもの)もさかんだった。また、市民に対し無償で食糧配給も行われた。「パンとサーカス」といわれる一種の福祉政策だ。

「パンとサーカス」はビザンツ帝国にも引き継がれた。ビザンツではコロッセオで行われたような剣闘士の戦いは廃れ、人気を集めたのは戦車競走だった。戦車競走の名選手はスーパーヒーローとしてもてはやされた。戦車競走の運営を支えるものとして、「青組」「緑組」という集団が組織され、市民はどちらかに思い入れをもって熱心に応援した。なんだかサッカーや野球の応援みたいである。

最盛期のローマ帝国では、おもに都市を単位とする、地域ごとの自治組織が強固で活発だった。「都市参事会」という公式の機関があり、それが地方政府のようなものだった。都市参事会が中心になって、インフラ整備などさまざまな行政活動が行われた。人びとはコミュニティに対し強い帰属意識をもっていた。

しかし、ビザンツ帝国ではそのような自治組織はすっかり衰退してしまった。人びとの地域コミュニティへの帰属意識も失われ、ばらばらの個人が皇帝という最高権力者によって支配される、という構図になった。

ビザンツの人々は、きわめて個人主義的だった。しかし、それは「かけがえのない自分」のような強い自我をともなう近代的なものではない。「自分たちは皇帝の奴隷」という意識のもとでの個人主義なのである。

このように、ビザンツの文化・社会は、古典時代の古代ギリシアや最盛期のローマとはかなり異質なものだった。しかし一方で、ビザンツ人は古代ギリシア以来の伝統を大事に守っていた。ビザンツの知識人が書くものは、ギリシア・ローマの文献の引用や注釈ばかり。社会が変わっても、古くからの「ローマ法」を後生大事にして、判決などの根拠にする。つまり、古い伝統をひきずったままそれを超えるものを生み出せない停滞状態だったともいえる。

技術的にみれば、ビザンツの建造物や生産の技術は、最盛期のローマ帝国を超えることはなかった。コンスタンティノープルでも、最盛期のローマ市にあったような巨大建築は建てられたが、ようするに同じようなものが(ややスケールダウンして)再現されたという感じである。

ビザンツ帝国を支配したイデオロギーはキリスト教だった。ビザンツの人びとの圧倒的多数はキリスト教徒だった。キリスト教は、皇帝の権力を正当化する役割も担った。ローマ帝国は特別な「神の国」で、ローマ皇帝(ビザンツ皇帝)は神に選ばれた支配者であると説明された。

キリスト教万能の社会では、自由な学問研究は抑圧され衰退してしまった。とくに古代ギリシア以来発達してきた、合理的に自然現象を説明しようとする学問は、神の否定につながるものとして敵視される傾向があった。

また美術では、古典期のギリシア彫刻のような、リアルで生き生きとした表現は衰退し、観念的で誇張の多い、平面的な表現が主流になっていく。それはそれで独特の味わいや深さがあり、現代美術的ともいえる。しかし、素直な子ども目線でみれば「絵がヘタになった」感じである。

どうだろうか。古典的な民主主義の衰退・化石化。地域コミュニティの衰退と個人主義の台頭。しかし自立した個人ではなく権威に隷属する個人。観念的なイデオロギーが強くなり、合理主義は後退。芸術表現にもそれがあらわれている。また科学・学問の創造性の低下……これって、現代世界と重なりませんか?

現代世界の文明も、ヨーロッパで生まれ、アメリカで展開した近代文明が長い時間を経て到達したものだ。その意味で、ギリシア・ローマの文明のなれの果てといえるビザンツの文明と似た立ち位置にある。井上教授もいうように、今の世界は「ビザンツ化」しているのではないか。

現代の世界を考えるうえでビザンツ帝国のことは参考になる。これからもこのテーマは考えていきたい。


*世界史専門の別ブログ『そういち総研』で、ビザンツ帝国についてより詳しく述べた記事を書いています。興味を持ってくださった方、ぜひご一読を。

こちら→ビザンツ帝国=東ローマ帝国とはどういう国だったか

(以上)
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