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2019年10月29日 (火) | Edit |
妻が家の近所でビルの一室を借りて、書道教室をしている。生徒さんは大人も子どももいるが、子どもが多い。今の場所に教室を構えて4年近く経つ。

教室には「おまけ」として、おもに子供向けの本を100何十冊並べた本棚を置いて、「そういち文庫」と呼んでいる。本は自宅から持ってきたものもあるが、ほとんどはこの文庫のために買ったものだ。頂いた本はほとんどない。

こういう文庫は、よく選んだ本をそろえないといけない。「要らなくなった本」を持ち寄ったのではダメだと思う。

そういち文庫で本を読む帽子の子

子どもたちはお稽古が終わってから、気が向いたら本を棚から取り出して読む。読まない子もいるけど、かなりの子が読む。それはお母さんが迎えに来るまでの、ほんの10分の間だったりする。

この「10分」はおおいに意味がある。

ほんの短い間でも、ぐりとぐらやだるまちゃんと遊んだ気持ちになったり、宇宙の構造や世界の国旗について知ったり、犬の写真集で癒されたり、「怪談レストラン」(松谷みよ子作の人気シリーズ)にドキドキしたり、「魔女の宅急便」のキキの成長や、書道マンガ「とめはねっ!」に登場する高校生たちの青春に自分を重ねたりするのは、有意義な時間だ。10分でも子どものアタマや心に、いろいろとのこしてくれるはずだ。

子どもの10分の読書は、大人の1時間くらいに匹敵するのではないか。

子どもたちは「この本をもっと読みたい」と思えば、借りることもできる。そういち文庫は開設4年目になるが、貸出のノートは今3冊め。ノート1冊には200件の貸し出し記録がある。文庫は、すごく繁盛しているわけではないが、それなりに機能している。

最初は貸出が大事だと思っていたが、最近は教室で合間にちょっと読むというのも、すごくいいと思っている。

同じ本を何度も手にするのに、その本を借りてはいかない子もいるが、そういう「合間の読書」をたのしんでいるのだろう。

忙しかったりで疲れ気味の子は、文庫には寄りつかない。

教室にはお手玉、サイコロ、万華鏡、キャラクターの置物、変わった文具などのちょっとしたおもちゃも置いてあるので、疲れた子はそれらをいじって癒しにする(子どもたちの様子は妻からいろいろ聞いている)。たしかにある程度余裕がないと読書は楽しめないよね……

3年前にこの教室で「オープンルーム」と称し、生徒やお母さん、友人・知人に来ていただいて交流会をした。そのとき私は、そういち文庫の蔵書を紹介するプレゼンをさせてもらった。この文庫の本は子ども時代の愛読書もあるし、近年の「これは」という本もある。本について語るのは楽しかった。

参加者のひとりのブロガー仲間の方は「そういちさんにとって本は人生そのものなんですね」と言っていた。そのとおり。一昨日から読書週間だそうだが、私は1年中読書週間だ。

(以上)
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2019年10月28日 (月) | Edit |
最近、狭い家、小さな家に関する本を2冊読んだ。ひとつは高村友也『スモールハウス 3坪で手に入れるシンプルで自由な生き方』(ちくま文庫)。

アメリカ発の「スモールハウス」というムーブメントがある。数坪程度の小さな小さな家を建てて暮らす。それによってローンやムダなモノに縛られず、シンプルかつ自由に生きていこうーーそんな人たちがいるのだそうだ。

アメリカ、オーストラリアの数人のスモールハウスを、著者の高村さんが取材している。高村さん自身も、雑木林の土地を買い、そこにセルフビルドの小さな小屋を建てて暮らしている(ただしその小屋と都会のアパート2か所の暮らし)。

もう1冊は、加藤郷子『あえて選んだ せまい家』(ワニブックス)。

30~50平米ほどの「せまい家」をあえて選び、リフォームやインテリアの工夫などで快適に暮らす人たちを、ライター兼編集者の著者が取材した本。たとえば30平米のワンルームに、夫婦2人で素敵に暮らしている様子が紹介されている。

この方たちはもっと広い家に住む経済力もある。しかし、都心に近い便利な場所で、小さな部屋を隅々まで整えて暮らすのが心地いいのだという。限られたスペースなので掃除も楽だ。

最近、本屋のインテリアのコーナーに行くと、「狭い家」「小さな家」をテーマにしたものが、以前より目につく。少し前に「ミニマリスト」(最小限のモノで暮らす人)という言葉が流行った。その言葉は最近は定着しているようだ。そういう「ミニマム(最小限)」への志向が高まっているということなのだろうか。

今よりも、もっと「小さな暮らし」をしたいという気持ちは、私にもある。

私は20坪、66平米ほどの昭和時代に建てられた団地をリノベして、夫婦2人で住んでいる。住み始めて10数年。たいへん気に入っていて、この家は自分にとってほんとうに大切なものだ。

しかし一方で、この家に住み始めた40歳ころとくらべて、自分が変わってきたのも感じている。たとえば「いろんなものが欲しい、揃えたい」ということが、当時よりも少なくなった。

40歳ころまでは、欲しいモノを買って家におさめていくのがうれしかった。結婚して10年ほどのあいだは、モノが年々増えていった。しかしこの10年は、家のモノが大幅に増えたということはない。たぶん我が家は、50代の夫婦2人暮らしとしてはモノは少ないほうだ。何千冊かある私の本を除いては。

それでも、買ったモノの多くを使っていない。本だって、蔵書の8~9割はこの1年手に取っていない。

40歳のころは「20坪の限られたスペース」だと思っていたけど、最近は「20坪って、私たち2人には結構な邸宅だ」と感じる。家でくつろぐとき、リビングのソファ周辺のわずかな一画で、2人で何時間もこじんまりと過ごしたりしている。

もっと少ないモノで、小さな狭い家で(20坪だって十分狭いけど、もっと)暮らしたら、たしかに気持ちいいかもしれない。使わないモノや空間を抱えているのは、大きな石を背負っているようなものだ。そんなことをときどき思います。

ただし、私がイメージする「小さな暮らし」は3坪のスモールハウスや小さなワンルームみたいな「究極」ではなく、もう少しマイルドなものだ。今より4~5割減といったところか。

それを近いうちに実行するという予定はない。でも、今回読んだ2冊にあった、極めた人たちの暮らしをみていると、「こんなミニマムな暮らしが可能なんだ」というイメージを描ける。自由になれそうな感じがしてくる。

(以上)
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2019年10月27日 (日) | Edit |
別ブログ「そういち総研」の新しい記事を、さきほどアップしました、

15分で読む世界史まとめ←クリック

世界史5000年の大きな流れを、15~20分で読める分量(6000文字ほど、原稿用紙十数枚分)で書いています。各時代の最も繁栄した「中心」といえる国・地域に焦点を合わせ、その移り変わりを追いかけるという方法によるものです。

これまで、ごく短い分量で世界史をまとめるというのは、数百文字、1000~2000文字、1~2万文字といったバージョンで書いたことがありますが、5000~6000文字というのは初めてです。正確には、10年近く前にそのくらいの長さで書いたものがありますが、それは公表せず、1~2万文字のバージョンに改定していきました。

「世界史を15分で」というのは、無謀な感じもしますが、多くの人が世界史に入門するうえでおおいに意義があると思っています。短時間で全体像をつかむことができれば、「わかりにくい」とされる世界史が、かなりとっつきやすくなるはずです。

「短い分量で世界史をまとめる」というのは、私にとって大事なテーマのひとつ。この「15分バージョン」は、今現在の自分の認識をふまえて、以前のものをベースにしながらも、新しく書き下ろした感じです。これからもバージョンアップなどを重ねていきたい。

そして、5000~6000文字の分量というのは、なかなかいいなと思います。読んでいただければ幸いです。

(以上)
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2019年10月26日 (土) | Edit |
テレビでみて知ったが、「正倉院の世界」展が今日から奈良と東京・上野で始まったそうだ。正倉院は、奈良時代(1300年前頃、文化史では天平時代という)の天皇ゆかりの品などをおさめた倉で、奈良の東大寺の一画にある。

もともとは奈良時代の官庁や寺院の主な倉庫一般を「正倉院」というのだが、今も残っているのは東大寺の正倉院だけなので、正倉院といえばそれを指すようになった。

正倉院の宝物について、博物館の学芸員の人が「その工芸品としての見事さを味わってほしい」ということを言っていた。テレビの出演者たちも宝物の画像をみて「こんなすばらしいものが1300年前につくられていたんですね」と感心していた。

たしかに正倉院の宝物には、天平の当時ならではの美しさがあると思う。しかしそれ以上にすごいのは、1300年前の品物の数々があれだけの保存状態で残っているということだ。

1300年前の世界(西暦700年頃)というと、中国では唐王朝が繁栄していた。西ではイスラムの巨大な帝国も勃興していた。これらの世界の「中心」には、きっと正倉院以上の宝物がはるかに大量に存在していたことだろう。

正倉院の品々も当時の世界ではすぐれたものではあったはずだが、世界で本当に最高のものであったか、というと話は別だ。その頃の日本は、まだ周辺の新興国だったのだから。

しかし、当時の唐やイスラムの帝国の皇帝たちの宝物殿など、今は残っていない。1300年前の世界の文明の中心の宝物は、そのほとんどが失われ、断片的に残っているだけ。正倉院ほどの保存状態でまとまったコレクションが残っているなどということはない。

つまり、ほかの国の人たちは、日本以上の長い歴史を持つ中国の人たちでさえも、正倉院にあたるようなものを持っていないのだ。

今の私たちが正倉院展を見物できるのは、1300年の間、日本の社会が、世界の中心的な地域に比べて安定していたからだ。

たしかに戦国時代のような戦乱はあった。しかし、国の根本が崩壊し、文化や伝統が断絶することにはならなかった。異民族による侵略・征服も限られていた。ただし太平洋戦争のときは、正倉院にとっての危機だったはずだが、幸いなことに破壊を免れた。

正倉院の品々は、私たちの国の比較的安定した、幸福な歴史を象徴しているのだと思う。

テレビでは、当時の天皇が用いた衣装や家具を、奈良の博物館長の「イチオシ」として紹介していた。その家具は、やはり1300年前のものとは思えない。せいぜい江戸時代くらいの骨とう品にみえる。すごい。なんだか見に行きたくなったが、混んでそうだなあ……

(以上)

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2019年10月25日 (金) | Edit |
ギャラップ社の調査(2017年)によると、アメリカでは「神が人類を創造した」という創造論を信じる人の割合は38%である。進化ということを認めながらも「人類の進化には神の導きがある」とする人も38%。

そして、「神の導きなしに人類は進化した」という進化論を支持する人は20%である。

この数字は、三井誠『ルポ 人は科学が苦手』(光文社新書、2019年)で知った。アメリカでの「科学不信」の実態や背景について掘り下げた本だ。

アメリカでは、進化論者は2割しかいないのだ。「進化に神が関与」という人も含めれば5~6割。

そして4割弱の人は創造論者である。おそらくその大部分は聖書にある創造論、つまり6000年ほど前にさまざまな生物を含むこの世界が神によって創造されたという話を信じているのだ。アメリカでは授業で進化論とともに創造論を教える学校も少なくないという。

日本ではどうなのか? ネットで検索してみると、2006年の海外の研究者による調査で、進化論の支持率は8割ほどという数字があった。調査の信頼性がどの程度かはわからないし、上記のアメリカのデータとの比較がむずかしい面もある。だが、数字として「まあそんなところかな」という感じはする。

日本とアメリカの違いはどこから来るのか? アメリカではキリスト教がきわめて有力であること、個人の主義主張を大事にする精神や、権威や知識人への反発心が強いことなどが考えられる。

アメリカにおけるさまざまなカルト的な思想・運動について述べた、カート・アンダーセン『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史(上・下)』(東洋経済新報社、2019)も、だいたいその立場だ。ただし同書では、もっと強く「狂気や幻想も含め何でもあり」というのがアメリカなのだと論じている。

上記の本で三井さんは、進化論のような「科学」を人が受け入れるのは、そんなに簡単ではないと述べている。人類の歴史の大部分は石器時代で、人間の脳や心は石器時代に基礎ができた。一方科学はつい最近に生まれた。だから本来石器時代的な人間の脳にとって、受け入れがたい面がある、というのだ。

「人が科学を受け入れるのは容易ではない」という点は、私もまさにそのとおりだと思う。しかし「現代人には石器時代の心が宿っている」とまでは言わなくもいいのではないか。そんなことをどうやって科学的に証明するのか。

それよりも「科学の理屈や説明には、日常的・常識的な感覚におおいに反するところがある」と言うべきだと思う。

「大地は平らではなく巨大な球体である」「太陽が地球のまわりをまわっているのではなく、地球は自転しながら太陽の周りをまわっている」「この世界や物体は真空と微細な粒子(原子)から成り立っている」「この世界の生命はすべて、単細胞の微生物が40億年ほどかけて進化・分化した結果生まれた」

たしかにこういう見解は、日常的な常識とは本来はかけ離れたものだ。大地は平らだと思うのが、普通の感覚だ。

だから「この説は科学という、権威のある真理なのですよ」と知識を押しつけたときに、それに反発する人や落ちこぼれてしまう人がいるのは当然なのだ。その困難を乗りこえるそれなりの教育的な方法というものは、やはり必要だ。「人は科学が苦手」という前提は大事なことだと思う。

しかし、科学の普及についての楽観的な見通しも、描けないわけではない。最初に述べたギャラップ社の調査をみると、1999年には「神の導きなしで人類は進化した」とする進化論者の割合は10%ほどだった。2017年にはそれが20%になった。

進化論者は、アメリカではまだ少数ではあるが、勢力を伸ばしつつあるようだ。最近は「科学不信が広まっている」ということがよく語られるが、そればかりではないように思う。

(以上)
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2019年10月24日 (木) | Edit |
「リベラル」「保守」という言葉があるが、どういうものか、あなたは説明できるだろうか?

両者は政治的な立場の代表的なものだ。現代の先進国における2大勢力といっていい。

まずリベラル。リベラルは、個人の自由を重視する立場である。

たとえば中絶、同性愛に対しては寛容。「みんながしたいことをすればいい」という考えからだ。また、移民にも寛容である。人間には好きな場所で暮らす自由がある。ならば、国外の人びとが自分たちの国に移り住むことも自由である。

また、リベラルの考えでは、自由を広く実現するため政府は積極的に社会に介入すべきだとされる。その一環としてさまざまな福祉の充実も重要である。だから「大きな政府」志向。一方、軍備の増強には消極的で、話し合いによる国際協調を重視する。

アメリカの民主党は、おおむね以上の立場だ。

一方、保守はこうした「自由万歳」に批判的な立場である。中絶や同性愛は人の道に反する。伝統的な家族を大切に。移民は国の経済・文化に大きな悪影響がある。過度の福祉は国家を破たんさせる(「小さな政府」志向)。強い軍事力で国益を守ろう。

アメリカの共和党は、おおむねこちら。

ただし以上の2つに収まらない主張もある。たとえば個人の自由を何よりも重視する一方、極限まで「小さな政府」志向する「リバタリアン」(リバタリアニズム)という立場がある。これは少数派だが、今のアメリカで一定の勢力ではある。

リバタリアンの立場では、政府というのは個人の自由を妨げる存在なのだ。政府による福祉など要らない。大きな軍隊も要らない。

***

リベラルの考え方は、それまでの古い社会から近代社会が生まれ発展するなかで出てきた、この200~300年の産物である。

その根底には、古い社会の暗黒な部分を是正して理想的な社会を実現しようとする発想がある。近代以前の身分社会には、あまりにも自由がなかったので、もっと自由を。封建領主の政府は民から搾取するばかりで、何もしてくれなかった。だからもっと福祉を。長い歴史を通じて、国際社会はいつもむき出しの弱肉強食だった。だからもっと国際協調を。

保守の考え方は、そんなリベラルの理想に「待った」をかけるものだ。

人間や社会というのは、そんなに急速には変わらないし、アタマで考えた「理想」どおりにはいかないものだ。長い伝統のなかで培われてきたものをもっと大事しないと、足もとをすくわれる。

現に行きすぎた自由の追求によって、社会にはいろんな混乱が生じているではないか。また、大きな政府がますます肥大化することで、国家財政は破たんの危機にあるのではないか。安易な国際協調路線が、邪悪な敵国やテロリストをのさばらせているのではないか。

一方、「自由な社会」という理想を掲げながらも、「大きな政府」や軍拡路線を強く批判するのがリバタリアンということだ。

以上、ごくおおざっぱな見取り図です。日本人は欧米人にくらべると、こういう系統だった主義主張の世界が苦手だ。でも少しは知っておくと、政治のニュースを理解するうえで役立つのでは。

とくにこれからの政治の動きでは、たとえばリバタリアンのような、従来の主流派の枠に収まらない運動が力を持つ可能性が高いと思う。トランプ政権にしても、ここで述べた保守≒共和党の従来のあり方からは逸脱したところが多々ある。たとえば従来の保守にあったはずの手堅さよりも、自分の「理想」にあわせて都合よく現実を解釈する危うい傾向が目立つ。そういう「枠組みの崩壊」を理解するには、「従来の枠組み」についての常識が必要だ。

(以上)
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2019年10月23日 (水) | Edit |
デヴィッド・グレーバーという文化人類学者がうち出した「どうでもいい仕事」という概念がある。bullshit jobsという英語の訳だが、「要らない仕事」と言ってもいいかもしれない。

彼によれば、今のホワイトカラーの仕事の多くが「どうでもいい仕事」である。たとえば管理職、人事・広報・コンプライアンス(法令順守)の部署、コンサルタント、金融関係のプロたち……これらの多くはそれにあたる。

そして、こうした仕事に就く人たちは本音では「自分は人の役に立っていない」と感じている。それを示すアンケート結果もある。にもかかわらず、高給をもらっていたりする。

現代社会では「どうでもいい仕事」は増えているのだという。グレーバーは、美術の世界はひとつの典型だという。昔はアーティストと画廊のオーナーがいただけだったが、今はキュレーターなどのやいろんな専門家が美術作品の取引に関わっている。

たしかにそうだ。昔はコンプライアンス部なんて会社にはなかった。人事や広報のスタッフはもっと少なかった。こんなにさまざまな分野のコンサルタントはいなかった。

今の社会は「どうでもいい仕事」「要らない仕事」が蔓延しているのだ。

そして、自分の仕事をむなしいと感じる高給取りが多くいる一方、社会に必要な、ニーズの高い仕事をする人たちが不遇な目にあったりしているのではないか。

グレーバーも言うように、生産現場などのブルーカラーの仕事は、この何十年かで効率化がすすんで「どうでもいい仕事」はあまり存在しなくなった。しかしその現場では多くの非正規社員が働いている。

医療や介護の現場は、いつも人手不足。本来なら「どうでもいい仕事」が存在する余地はないはずだが、いろんな記録や打ち合わせなどの業務負担が大きく、本来の業務にしわ寄せが生じることもあるという。記録も打ち合わせもたしかに必要な仕事だが、やりすぎると「どうでもいい仕事」の側面が生じてしまう。

なんだかまずい状況だ。

なお、グレーバーの「どうでもいい仕事」に関する著書は、まだ日本語版が出ていない。私は、大野和基によるインタビュー集『未完の資本主義 テクノロジーが変える経済の形と未来』PHP新書(グレーバーへのインタビューが収録されている)で、この概念について知った。

(以上)
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2019年10月22日 (火) | Edit |
今日の即位に関する儀式のなかで、天皇は憲法と皇室典範特例法に基づいてご自身が即位したことをまず述べられた。

平安時代の装束を着た人が「憲法」や「特例法」といった近代的な枠組みのなかで存在している。何ともいえない、不思議や驚きのようなものを感じた。

1000年ほど前の平安時代に主な部分が形成された伝統が、博物館のなかではなくて、今現在の国家の生きたイベントとして姿をあらわしているのだ。

しかし、今の世界のさまざまな国家・社会というのは、みなそうなのだとも思う。つまり、近代的な原理で日常は動いているけれども、古い層の部分を掘り起こすと、近代とは遠く隔たった古い要素が存在している。

たとえば近代に建国されたアメリカ合衆国でさえそうだ。大統領の就任式では、「神よご照覧あれ」という決まり文句が出てくる。神とはキリスト教の神だ。教義の中身はいろいろ変遷をたどったとしても、古代ローマ帝国の時代以来、2000年の歴史を持つ信仰における神。近代的な人工国家アメリカの古い層にも、古代以来の神が存在しているのだ。

長い歴史の積み重なりのうえに、私たちはいる。

とにかくこれは日本だけのことではない。今日の儀式を報道でみた世界の人たちのなかにも、自分たちの古い伝統について思った人がいたはずだ。

ただ日本の儀式は、とくに純度も完成度も高いかたちで「古い伝統」ということを示している。その意味で、世界のなかでやはり特別なものではあると思う。

(以上)
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2019年10月15日 (火) | Edit |
台風19号の被害について、テレビのニュースでいろいろと報じている。ずっとみていると悲しくつらいので、チャネンルを変えることもある。

これからの日本では、台風やその他の自然災害は、さらに増えていくのだろう。そこには温暖化などの世界的な気候変動がかかわっているという。年に何度か「スーパー台風」が日本を襲うようになるとしたら、「災害の時代」がやってくるということだ。

「災害の時代」への対処として、政府は防災のためのさまざまな建設や投資を行う必要がある。しかし、これからの日本に、そのための財政的な余力があるのだろうか?

テレビでは、ある専門家が水害防止について「すべての河川に十分なハードを備えることは無理だ。だから、組織運営や人びとの行動、つまりソフトで対応するしかない」と言っていた。

たしかにそうかもしれない。しかしその「ソフト」の肝は「しかるべきときに避難する」ことだという。ということは、避難が終わって家に戻ったとき、家が泥に埋まっているのもやむを得ないということなのだろう。

うーん、それじゃあ困るなあ……命は助かるとしても自宅の浸水は防げないんじゃ、安心して暮らせないなあ……

いつ災害にあうかわからないような場所には、やはりできれば住みたくない。これからの日本では、災害に強い安全なエリアの地価や家賃は相対的に上がっていくのではないか。一方で、災害リスクの高いエリアの地価は下がっていく。なおこれは、おもに都市部でのことを言っている。

もちろん、災害への安全度が地価に影響することは従来からあるのだが、今後は一層拍車がかかっていくということだ。水害や地震の被害に関する「ハザードマップ」が地価に与える影響は、今後ますます強くなる(ということは、ハザードマップが経済的利権に深くかかわるようになるということで、ややこしい問題を生むかもしれないが、ここでは立ち入らない)。

その行きつく先は、都市のなかで安全なエリアは富裕層ばかりが住み、危険なエリアは庶民・低所得者が住む、という「分断」だ。

そして、危険なエリアに住む庶民は、それに適応したライフスタイルを選択するのかもしれない。それは「限られたモノで暮らす身軽な生活」である。

江戸時代の長屋に住む人びとは、家具や食器などの家財道具への関心が薄かったという。だからたいていの人は「ミニマリスト」のような暮らしをしていた。それは貧しかったからというだけでなく、江戸では頻繁に大きな火災があったからだともいわれる。いつ火事で燃えてしまうかわからないから、モノをためこんでも意味がないという価値観が定着したということだ。

そのような説明がほんとうに正しいかどうかは、立証が難しいところもある。だがともかく、「少ないモノで暮らす」のは、災害が頻発する状況では合理的な選択だろう。

極論だが、住んでいるところが賃貸で、スーツケースひとつに家財道具がすべておさまってしまうくらいだったら、それを持って避難すればかなり安心だ。もしも家が浸水や倒壊ということになっても、ダメージは少ない。

未来の日本では、防災上安全なエリアには金持ちが、危険なエリアには貧しい人ばかりが住むようになり、危険エリアでは、江戸の長屋暮らしのような「ミニマリスト」の生活がスタンダードになっている……

日本がそのような「分断」社会になるのはイヤだが、十分あり得ることではないだろうか。

(以上)

別ブログ「そういち総研」の新しい記事も、アップしました。
日本と世界の文化で創造の活力が低下している?

今年みたいくつかの展示・作品……工事中の新国立競技場、高畑勲展、建築家のアアルトやル・コルビュジエ、現代芸術のトム・サックス展などをみて考えたことをまとめています。当ブログの過去の記事も使い、そこにいろいろ加えたもの。
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2019年10月10日 (木) | Edit |
先週末にやっと高畑勲展(東京国立近代美術館)をみてきました(10月6日に終了してしまいましたが)。「ハイジ」「火垂るの墓」などで有名なアニメーション監督の仕事を回顧する、大規模展。

この展示をみてあらためて気が付いたのは「高畑監督は今の日本のアニメでおなじみの、生活を緻密に描き出すアニメの発明者だった」ということ。それは高畑1人によるものではないが、その業績の中心にいたということ。

その発明は1970年前後の頃(1960年代末から1970年代前半)のことだった。野心作だったけど大コケした映画『太陽の王子 ホルスの大冒険』(1968)から、『アルプスの少女ハイジ』(1974)にかけてのこと。「ホルス」は高畑の初監督作品。「ハイジ」は初めて(事実上の)監督として手がけたテレビシリーズで、こちらは大ヒットした。

「生活を緻密に描き出すアニメ」は、「ホルス」が先駆で、「ハイジ」によってかたちになり、みとめられるようになったといっていい。

それまでのアニメはあくまで子ども向けで、リアルさ、緻密さの要素は弱かった。たとえば銃や車が出てきたとしても、マンガ的・抽象的な「銃」「車」である。しかし、高畑勲やその周辺の人たちは、具体的なブランド・商品がわかるモノをアニメに登場させた。

高畑が演出の1人として参加した、最初のテレビシリーズのルパン(1971)はまさにそうだった。ルパン三世が持つのはワルサーP38という、実在の銃である。運転する車もフィアットの実在するタイプのものだったり。(この点については、当時の「ルパン三世」のチーフアニメーター・大塚康生の著作『作画汗まみれ』文春ジブリ文庫による)

ハイジにしても、「ロケハン」といって、スイスのアルプスにスケッチや撮影に行って、綿密に取材したうえで作品の舞台をつくりあげた。そんなことをテレビマンガで行うなど、当時は常識外だった。そしてそれは、当時は認識されていなかったが、世界の最先端でもあったのだ。

なお、「ホルス」は、北欧をモデルにした世界を舞台とするファンタジーだが、村人の暮らしの様子が、ロケハンこそしていないものの、かなりリアルに描かれている(今回の展示で再確認した)。そのときの試みを「ハイジ」でさらにつきつめていったのである。

今の日本のアニメで傑作とされるものの多くは、高畑監督とその仲間が築いた「緻密な生活描写」の土俵のうえで行われた仕事だ。たしかに精緻化はすすんだ。ものすごく細かくリアルに、また美しく描かれた東京の街や地方都市や学園の風景などが出てくる。

しかし一方で、今から半世紀前の若いクリエイターたちによる革新を大きく超えているわけでもないように思う。「進歩」「発展」はあるのだけど、フロンティアを開拓しているという感じではない。その開拓は高畑監督たちの時代でおわってしまった。「生活を緻密に描き出すアニメ」は、もう見飽きるほどおなじみになった。

こういうことは、日本文化のほかのジャンルでもいえるのではないだろうか。

つまり、創造の活気がこの30~40年で落ちたということだが、それは日本だけでなく欧米でもいえると思っている。これは世界的な現象ではないか。音楽とか美術とか建築とか、ほんとうにそうなっている。

それぞれの分野に詳しい人なら、思い当たるところがあるだろう。つまり、基本的なアイデアはかなり前に出尽くしていて、今の作り手は過去の遺産を精緻化したり、組み合わせたり、崩したりして、自分たちのオリジナリティをどうにかして出そうとしているのだ。

(以上)

別ブログ「そういち総研」の記事も最近また更新しました
大人のための世界史の勉強法

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