FC2ブログ
2020年04月26日 (日) | Edit |
今回の新型コロナウイルスの問題に関して、政府や人びとに求められるのは「科学的に理にかなった、なすべきことを行う」ということだろう。あたりまえといえばあたりまえだが、やはりそれしかない。

でも、その「あたりまえ」は、じつはいろんな要素によって妨げられているのかもしれない。国の指導者にしても「科学的に問題に対処する」以外のことを大事にしている様子がみられないだろうか?

何がその「妨げ」になるかは、国によってちがいがあり、そこにそれぞれの国の特徴があらわれている。

例えば中国では、感染拡大の初期に情報の隠蔽があった。未知の感染症が広がりつつあることに警鐘をならした医師を弾圧したりもした。

中国の独裁的な体制では、権力者にとって不都合な情報が隠蔽されるのはよくあることだ。不都合な事実を速やかに認め、それを報告・公表するのは「科学的な対処」の前提だが、それは独裁国家では簡単なことではない。

これは、上層部が意図的に情報統制をするだけではなく、組織の力学も働いている。独裁国家の中間管理職は、自分の持ち場で「あってはならない」ことが起きれば、権力者の不興を買って非常に不利な立場に追い込まれてしまう。ときには命にさえかかわる。だから、多くの問題はできれば大ごとになる前におさえこみたい。そこで上層部にも、正しく情報が上がってこないことがしばしばある。

しかし、情報操作ではウイルスをどうすることもできない。いつものやり方が通用しない相手ということだ。

今回の件で「いつものやり方は通用しない」ということが、どうしても飲み込めない権力者がいる。トランプ大統領はその代表だろう。トランプ氏は、当初はコロナウイルスの脅威を露骨に過小評価していた。その脅威は自分の経済政策の成果を台無しにしかねない。とくに、今年の選挙を控えた民主国家の政治リーダーとしては「認めたくない」ものだ。だから、うやむやにしたかった。しかし、大統領がどう発言しようと、ウイルスにとってはまったく関係のないことだ。

これはもちろんあたりまえのことなのだが、あの大統領にはなかなか飲み込めない。「このウイルスはもうすぐ終息する」的な楽観論を、いろんな場面でくりかえしてきた。さらに、昨日のテレビのニュースによれば、「消毒液の注射が有効だ」などとトンデモ発言をしたのだそうだ。これにはさすがに驚いた。トランプさんは、科学がトコトン苦手なのだ。今のアメリカの民主主義が、このような大統領を生み出した。

ただし、科学が苦手なのはトランプ大統領だけではない。新興国・発展途上国ではもっと深刻な状況だろう。インドでは、与党人民党が西ベンガル州で新型コロナ対策として、牛の尿を飲む集会を開いたのだそうだ。尿がさまざまな病気に効くという考えが、インドでは根強くある。ヒンズー(インドの伝統宗教)至上主義者のなかには、ヨガがコロナに効くという者もいるという。(日経新聞4月19日朝刊、デリー大助教ローフ・ミール氏による)。

しかしこういう「迷信」は、先進国の問題でもある。アメリカ大統領が「消毒液の注射が効く」などと言うくらいなのだから。

***

日本はどうだろう。日本ではさまざまな関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、「科学的な対処」を迅速に実行できない傾向が強いようだ。

中国のような独裁国家では、政府の各部署はトップダウンで動く。だから、部署間での「調整」ということは、皆無であるか優先順位が低い。また、欧米の先進国の場合は、組織や役職の権限・職務について体系的で詳細なルールを整備し、そのルールに基づく運営を徹底しようとする伝統がある。そのような場合も日本的な「調整」は、あまり重要ではない。

日本では、もちろん中国のような独裁権力は存在しない。一応は欧米型の民主主義の体制ではある。しかし、体系的ルールに基づく運営よりも、抽象的であいまいな基本方針のもと、さまざまな「調整」「忖度」に基づいて多くのものごとが動いてきた。

そのような日本的な枠組みでは、さまざまな立場における権限や役割、そして責任が不明確になってしまうものだ。そして、こうした「あいまいさ」は、権力者やエリートには居心地のよいところがあった。責任の重圧を感じないで済むのだから。

しかし、「調整」「忖度」ばかりの政治・行政は、今回のような緊急事態に対しては、デメリットが大きすぎる。意思決定に時間がかかり、踏み込んだ施策も行われにくい。対策が「遅く」「生ぬるい」ものになりがちなのだ。今、それは現実の問題になっていて、多くの人が苛立ちを感じている。

たとえば4月上旬の政府による緊急事態宣言のあと、政府と東京都は3日ものあいだ「どの業界が営業自粛要請の対象となるか」について「調整」していた。「生活に困窮する世帯に30万円支給」なのか「各人に10万円支給」なのかについても、官邸・官僚機構・自民党議員・公明党などのあいだで「調整」がバタバタした。

そして、そもそも緊急事態宣言が「遅かった」という意見もある。「宣言」とセットで出された経済対策の取りまとめに時間がかかったことも影響している、と言われる。このような取りまとめは、まさにさまざまな「調整」を通じて行われる。

助成金や融資を申請した際に、手続きに時間がかかり過ぎてしまうのも、「調整」重視の弊害だ。時間がかかるのは、言うまでもないが、さまざまな部署・役職のチェックや承認が必要だからだ。承認の根拠となる煩雑な資料も求められる。こうした手続きは、責任を分散する「調整」の一種である。平時にはそのやり方の弊害はそれほどはあらわれないが、スピードが求められる非常時には困ったことになる。たくさんのハンコを要するシステムは、申請が殺到したら対応しきれなくなってしまう。

そして、「調整」にエネルギーをとられていると、本来なすべきことを見失ったり、十分に取り組めなくなるだろう。今、日本の政治・行政は「調整」という、いつものやり方から離れられず、「科学的な対処」を迅速に行うことができないでいるのではないか。

権力や責任のある人たちが「調整」を重視するのはなぜだろうか? たぶんそれは「保身」「責任回避」ということに関わっている。「調整」というのは、「これは関係者が話し合って決めたことなので、その責任を特定の誰かが負うことはない」と確認する手続きでもある。

今回の件に関しては「できるだけ責任は負いたくない、とても負えない」という姿勢が、日本社会のさまざまな場所でみられる。外出や営業の制限が当局による「自粛のお願い」というかたちをとっているのは、象徴的だ。「強制」ではなく「お願い」であれば当局の責任は軽減される。これは法律がそうなっているからだが、その法律のあり方はまさに日本的である。

また、首相や大臣が重要な決定について述べるとき、いつも「専門家の意見に基づいて」と強調しているのも気になる。

これは、必ずしも「専門家を重視する」ということではないのだろう。本当に重視するなら、総理は緊急事態宣言のときに「人の接触を7割~8割削減」とは言わなかったはずだ。「8割おじさん」の西浦教授は「私は7割なんて言っていない、あくまで8割削減だ」と述べているという。

「7~8割」という言い方の背後には「8割だと経済にダメージが大きすぎる、もう少し幅を持たせたほうがいい」という、「経済重視」の思惑や配慮があるのだろう。そういう政治の立場を入れながらも、「これは専門家の意見」ということをくりかえすのである。

「専門家の見解は政治にとって免罪符であり、都合のいい部分はつまみ食い的に利用する」といった考えが、責任ある人たちの本音ではないか? それはいつものやり方だ。だとしたら、「科学的に問題に対処する」ことに背を向けているのである。もちろん、そればかりではないと信じたい……

このブログでは、これまで政治批判はそれほどは書いてこなかった。しかし今の状況では「政府のトップは、この問題に危機感を持って真剣に取り組む気があるのだろうか、大丈夫なのだろうか」と心配になる。

たとえば、PCR検査の拡充がなかなか進まないことや、医療現場でマスクをはじめとする物資の不足が続いていることなどを報道でみていると、そう感じてしまう。批判も多かったアベノマスクで多くの不良品が出ているというのも、「政府は大丈夫か」と不安にさせる話だ。個々の現場では目の前のことに懸命に取り組んでいるようだ。ならば、司令部はどうなっているんだろう?

そして、リーダーたちについて「問題に対処する身振りや発言はしているけど、じつは一番の関心は〈この事態のなかで自分はどうふるまえば損をしないか、非難されないか〉ということなのでは」と疑ってしまうのである。不眠不休で公務にあたっていたとしても、「問題の解決」そのもの以外の何かに多くのエネルギーを費やしてはいないか。もしもこの疑いがあたっているなら、「今は非常時だから、いつものやり方は通用しない、相手はウイルスだ」と強く言いたい。

さらに、政府の危機感が薄いのだとしたら、その背景には総理や高官が、じつは社会の現場の状況についてよくわかっていないということがあるのかもしれない。

総理に情報を伝えるうえで中心にいる高級官僚の人たちは、たしかに秀才にちがいない。しかし、企業活動や行政、医療の現場の具体的なところに通じているわけではないだろう。たとえば助成金の申請窓口の仕事など、経験していないのだ。そのほか、企業の人たちと腹を割って話をする機会も、じつはほとんどないはずだ(ここは私の会社員時代の知見からも想像がつく)。また、若い頃から仕事漬けで、ふつうの人たちの生活や感覚にも疎いところがあるかもしれない。しかし、自分たちとしては「何でもわかっている」つもりなのだ。

乱暴な言い方をすれば、世間に疎いエリートが、もっと世間に疎い世襲の政治家(安倍さんはまさにそう)にアドバイスして大事なことを決めているのである。政治記者や評論家たちによれば、今の首相はとくに官邸付きの官僚たちを重用しているという。

以上は素人の推測だ。しかし、その推測が正しいとしたら、「アベノマスク」や「自宅でくつろぐ動画配信」みたいな、かなりの人にとっておおいに「ズレ」を感じることが、なぜ行われたのかについてひとつの説明にはなる。

つまり総理には、世の中の情報が上がってきていないのだ。もっと言ってしまうと、熱心にテレビのニュースやワイドショーをみたり、新聞を丁寧に読んでいる一般国民よりも、今起こっていることについて知らないのかもしれない。そうではないことを願っているが、やはり心配だ。現状が把握できなければ、「科学的な対処」も何もない。

ずいぶん長々と書いてしまいました。私ごときが書いてどうなるわけでもないけど、限られた人数であっても、とにかく読んでくださる方がいるのだから、いいのです。

(以上)

*別ブログ「そういち総研」で新しい記事をアップしました。感染症の歴史に関する記事です。多くの人が知っておいてよい、世界史上のいくつかの感染症の事例についてまとめています。

知っておくべき、大きな被害をもたらした感染症の歴史←クリック

関連記事
2020年04月19日 (日) | Edit |
昨日、ある雑誌の編集者とライターの方々とお会いして、世界史における感染症について話をしました。特集記事の取材ということです。人類にとって感染症とは何か、世界史上の知っておくべき感染症の事例、新型コロナの問題から何がみえるか……そんなことについて1時間余りお話をしました。

場所は、我が家の近所のビルの一室を借りて。新型コロナのせいで最近は使っていない部屋です。いらしたお2人とは互いにマスクをして3~4m離れて、ということにしました。

昨日の東京地方は、取材の時刻には強い雨風のひどい天気。換気のため窓を大きく開けていたので、雨風が部屋にかなり吹き込んでくる。それでもどうにか集中してお話ができました。今日はいい天気だったので、昨日の取材も今日みたいな天気だったらよかったのに、と思いました。

「人類にとって感染症とは」ということですが、私は「感染症とは文明に必然的に伴う副作用のひとつ」だと思っています。そのことを、今回の新型コロナで再認識したといってもいいです。

この数十年ほど、「文明の発達によって感染症は撲滅できる」という楽観的な見方は有力でした。しかし、新型コロナの問題は、その見方に対して根本から修正を迫るものです。

このあたりのことを3000文字余りでまとめた記事を、別ブログ「そういち総研」にアップしましたので、ご一読いただければ幸いです。

感染症は文明の副作用←こちらをクリック

***

この土日の外出は、昨日の取材のほかには、今日30分ほど近所の公園で散歩して、20分ほどスーパーで食料品を買ったというもの。これで数日はスーパーには行かない予定。あとは家にひきこもって、本を読んだり、ブログの記事を書いたり、夫婦でご飯を作って食べたり。今夜は生姜焼き定食。

テレビは報道系のものを多少みて、あとは映画の放送をちらちら観ていました。土曜日は「時をかける少女」、日曜は「ねらわれた学園」。どちらも最近亡くなった大林宣彦監督の作品ですね。高校時代にリアルタイムで観た、なつかしい映画。

土日の最後に、この記事を書いています。今日も我が家としては無事に過ごせたことに感謝。毎日毎日が大事だなあと実感しています。

なおもちろんですが、感染症が文明に必然的に伴うものだからといって、対処する術がないなどというのではありません。文明の副作用をなくすことはできなくても、文明のさまざまな道具や手段をつかって、その副作用を緩和することはできるはずです。

そこで大事なのは、「科学的に、なすべきことをきちんと行うこと」です。しかし、各国のリーダーのあいだには、ときに「科学的に問題に対処する」こと以外の何かを大事にする様子がみられないでしょうか?

中国では、感染拡大の初期に、当局による情報の隠蔽らしきことがありました。アメリカでは選挙を強く意識した大統領が、コロナウイルスの脅威について、自分の経済政策の成果に暗雲をなげかけるものとして当初は過小評価する言動をしました。そういうのをみていると「大丈夫か?」と思わざるを得ません。

そして日本では、さまざまな利害関係者や組織のあいだの「調整」に手間取って、あるいはリーダー自身の保身を気にしすぎて迷ってしまうのか、意思決定のペースが遅い傾向がみられます。きわめて日本的なかたちで「科学的に問題に対処する」こと以外の何かが幅を効かせているようです。非常に苛立ちを感じます。

(以上)
関連記事
2020年04月10日 (金) | Edit |
7日に出た政府の緊急事態宣言は「大きな津波が迫ってきた、逃げろ、命を守る行動を!」という強い警報のはずだ。にもかかわらず、「どこへどう避難するのか」について、社会のさまざまなレベルで多くのことに縛られてきちんと動けていない。

たとえば9日までの時点で「どんな事業にどんなかたちで休業を要請するか」について、政府と東京都が「調整中」だったりする。「理髪店は要請の対象とすべきか」みたいな議論である。また、そもそも政府は「要請はとりあえず2週間様子をみてから」などという方針だ。

これは巨大な津波が迫っているのに「避難についてはもろもろの調整をしたうえで…」「まずはほどほどの高台に逃げて、様子をみて必要ならもっと高いところに避難を」みたいな話をしているようなものだ。

「“避難”によって何か不都合があった場合の責任はどうなる、誰が責任をとるのか」ということも、社会の各レベルで決定権を持つ人たちはおおいに気にしている様子である。自分自身が「避難」の号令を出すのは避けたい。別の誰かが号令を出してくれるのを待とう。誰かが出した避難指示に従うなら、責任を負わないで済む……

東京のオフィス街は、緊急事態宣言後も相変わらず大勢が出ている。しかし、出勤している人たちの多くは、本音では会社に対しテレワーク・自宅待機などの「避難」の号令を出してくれ、と思っているだろう。そして、会社で決定権を持つ人たちでさえ、「誰か」の号令を待っているのかもしれない。

「もろもろの調整」「何かあったときの責任は…」というのは、いつも日本の社会を縛っている事柄だ。日本は「もろもろの調整」の国なのだ。

コロナ関連のニュースをみていても、「調整」という言葉があふれている。「調整」のおもな目的のひとつは、当事者の責任回避ということだ。関係者どうしで調整して決めたことだから、これは特定の誰かの責任ではない、というわけである。

また、これと関わる日本社会の傾向として、上位の権力が明確で系統だった方針を示さず、「あとは現場でよろしく」ということもある。「あくまで自粛(あるいは要請)です、各自の判断でお願いします」というのはまさにそうだ。これも責任回避である。そして権力を背景に「調整」をしているのだともいえる。今回は「補償などによる財政支出の責任」をどう逃れるか、ということが政府や自治体のおもな関心事だ。

今回のような事態でさえ、こうしたおなじみの日本的な思考・行動のパータンはものすごく強力に作用している。政府の最高レベルから、会社組織のような世間の末端までそうなのだ。恐ろしくなる。

(以上)
関連記事
2020年04月05日 (日) | Edit |
*4月6日8時追記を文末に加えました。

私はこの土日は仕事は休みで、歩いて10分くらいの圏内からは出ず、ほぼ家にいた。

妻はパート社員だが、このような事態でも動いているインフラ系の仕事なので、土曜日は出勤した。日曜日は、妻はいつもはダブルワークで書道教師をしているが、講師をつとめるカルチャーセンターが休講となった。このほか、雑居ビルの一室を借りて自分の教室も運営しているので、今後それをどうしていくかという問題も抱えている。

カルチャーセンターの休講で、今日は夫婦2人で休日を過ごした。朝6時半に起きて、朝ごはんを食べて、テレビの報道番組をみる。NHKの『日曜討論』では、都知事が特措法の担当大臣に(一応おだやかな口調だが)かみついていた。担当大臣は「しかるべきときが来たら、緊急事態宣言を出す」と言っていたが、都知事は「もうそのときでしょう」と。

安倍総理の緊急事態宣言についての決断をここまで引っ張らせているものは、何なのだろう。

経済を重視する側近たち、あるいは財務省の影響が強い、アベノミクスの「成果」を決定的に壊す恐れのある決断を躊躇している、といったことは考えられる。

また、緊急事態宣言は、総理にとっては一種の「敗北」なのかもしれない。これまでの対応が行き詰まったことを認めるという意味での「敗北」だ。

ただ、このような総理・官邸の考えについて、政治・経済のジャーナリストはあまり踏み込んで教えてはくれないように思う。テレビをみているかぎり、そう思う。

「なぜ総理は緊急事態宣言をためらっているのか」という質問を、キャスターがゲストの識者に投げかけても、今ここで述べたような「推測」が返ってくるだけ。それはそうだ。「識者」は取材をしていないのだから、わかるはずもない。ここは政治記者のような、現場で取材をするジャーナリストの出番なのだ。

しかし、そのジャーナリストたちも十分には踏み込めていないようだ。あるいは、大事なことを人びとに伝えようとする熱意がどうも弱いように感じる。

最近のコロナ関係の報道で不満なのは、政治・経済関係のジャーナリストの突っ込みの浅さである。当局の方針をかみくだいて伝えるだけが仕事ではないだろう、と思うことがあるのだ。権力者の密室での判断がとくに重要な今回のような事態だと、ジャーナリストがリアルタイムでできることには限界があるのかもしれない。でも、今こそ「現場で取材をする、本来の意味でのジャーナリスト」が本領を発揮するときだと思う。この人たちはコメンテーターや評論家にはできないことができる。どうか頑張ってほしい。

『日曜討論』が終わったあと、少しのあいだ机に向かって世界史関係の読み書きをした。それから、昼前には歩いて10分ほどのところに住んでいる80歳の母に夫婦で会いに行った。ただし、母の家には行かず、家のすぐ前の公園でちょっと会って話しをしただけ。互いにマスクをしたまま1メートルは距離を置いて。

母と別れたあとは、その足で近所のショッピングセンターに向かう。今日明日の食べ物をス―パーで買う。ほしい食品は普通に買えた。マスクや消毒液のたぐいは、一応売り場を覗くが、もちろんない。

買い物が済んだら、ショッピングセンター内のイタリア料理店に寄って、行きがけに注文したテイクアウトのピザを受け取って持ち帰った。この店は小さな個人店だが、安くておいしいので、夫婦でときどき行っている。でも、しばらくはテイクアウトで利用しようと思っている。買い物は15分くらいで切り上げた。何度かスーパー店内のアルコールで手を消毒した。

午後はずっと家にいた。2人でピザを食べながら、インターネットテレビを視る。月1で放映される元スマップの3人によるバラエティ番組。妻は(つられて私も)長年のスマップファン。この番組は、普段はいろんなゲストを呼んでにぎやかにやっているのだが、今回は急きょゲストの出演なしで、現在の情勢を意識した内容となった。いつもは7時間余りを生放送でやるのだが、今日は生放送は2時間で終わり、3人は家に帰るそうだ。あとは番組の過去の映像を流していた。

元スマップ3人の生放送が終わったところで、私はまた机に向かって世界史の読み書き。それにちょっと疲れて、ネットで今日の感染者数を調べる。東京はまた100人超えでこれまでで最悪の数字だ。そのあと、この記事を書き始めた。妻は田舎の義母に電話して、様子を聞いている。マスクをほとんど持っていないようなので、何枚か送ることにした。

今18時半。不安がありながらも、私たち夫婦には静かな休まる1日。窓から夕暮れの景色がみえる。

こんなふうに過ごせるのは、社会に守られているからだ。より具体的にいえば、生活に必要なさまざまな物資を生産して運んで、販売などで届けてくれる人たち、電気・ガス・水道、運輸、通信、放送関係などの、生活のインフラを維持してくれる人たち、そして医療関係者や対策にあたる行政の方たちなど、多くの人たちの働きに、私たちは守られている。ありがとうございます。

(以上)

*4月6日8時追記:今朝のテレビのワイドショーで、つぎのような見解を述べる政治記者もいた。「緊急事態宣言について、政府内では経済対策の提示とセットで行うべきという考えが強く、明日その対策が発表される予定なので、それ以降でないと宣言はないのでは」―-これも現状の分析として、あり得ることだとは思う。しかし、欧米諸国よりもかなり遅いタイミングで出てくる経済対策は、おそらく多くの人たちが期待するものとは隔たりがあるだろう。そのような「不満足な経済対策」と「多数派の感覚よりも遅い緊急事態宣言」のセットというのは、どうなのだろう?多くの失望を生むことになるのではないか。
関連記事