2020年07月27日 (月) | Edit |
手洗い・マスクなどの努力
「ファクターX」とは、ノーベル賞の山中伸弥教授による言葉で、「新型コロナウイルスの感染拡大が、これまでのところ、日本で比較的抑えられた原因」のことだ。それがよくわからないので「X」という。
ファクターXの候補のひとつとして言われるもののひとつに、「手洗いの励行やマスク着用、外出自粛などの個々人の努力」ということがある。
たとえばマスク。今現在(2020年7月現在)、少なくとも都会では、日本人のほとんどは外出時や仕事中にマスクをしている。
しかし、報道をみると欧米ではマスクへの抵抗感は強く、「マスクを強制すべきか否か」についての議論がなかなか決着しない様子だ。
当局がマスク着用を呼びかけたり義務化したりしても、それに従わない人たちがいる。アメリカやブラジルのように、大統領がマスクに抵抗している国もある。そして、マスクに抵抗するような人たちが、どこまでこまめに手を洗っているのか、かなり不安な感じがする。
「感染は自動時得」と思うか
では、なぜ多くの日本人はマスクを着け、手洗いをまじめに行うのだろう?
これも、多くの人が薄々は感じていることだと思うが、世間体を強く気にする「同調圧力」が大きく作用しているのではないか?
もちろん「病気が怖い」ということはあるわけだが、それに加えて「マスクをするなどして、しっかり対策しています」というスタンスでないと、周囲から冷たい目でみられてしまう、という意識があるのでは、ということだ。
このことは、「たぶんそうだろう」と思っても、立証はむすかしいところがある。しかし、そこに関係する研究を新聞記事で知った。
それは、三浦麻子・大阪大学教授らの研究グループが行ったもので、コロナなどの感染症について「感染は自業自得だと思うか」について各国の人たちに行ったアンケート調査である。
この調査は“3~4月、日本、米国、英国、イタリア、中国の5か国で各400~500人からインターネットで回答を得た”もので、“「感染は自業自得だと思うか」の質問に「全く思わない」から「非常に思う」まで6段階で尋ねた”。
その結果「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」の3つのいずれかを選んだ人の割合は、つぎの通りだった。
日本11.5% 中国4.83% イタリア2.51% イギリス1.49% アメリカ1.0%
また、“反対に(感染が自業自得だとは)「全く思わない」と答えた人は“他の4か国は60~70%だったが、日本は29.25%だった”。
この結果について三浦教授は“日本ではコロナに限らず、本来なら「被害者」のはずの人が過剰に責められる傾向が強い……こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている”。
(読売新聞オンライン2020年6月29日『「コロナ感染が自業自得」日本は11%、米英の10倍……阪大教授など調査』より)
感染したときの社会的非難への恐怖
「感染は自業自得」という人の割合は、最も高い日本でも11%であり、全体からみれば少数派ではある。しかし、米英とくらべてその割合は10倍も高い。やはり日本と米英ではこの件に関し、大きな意識の違いがあることはまちがいないだろう。
つまり、日本ではコロナ感染は、責められるべきことなのだ。非常に「世間体が悪い」のである。
日本人の多くがマスク着用や手洗いをしっかり行うのには、単なる衛生観念だけでなく、このような社会心理的なものが作用しているのではないか?
つまり、「病気への恐怖」だけでなく、「感染したときの社会的非難への恐怖」がマスク着用や手洗い励行の大きな原動力となっている。
個人主義が弱い社会
日本社会には、周囲の目や世間体を強く気にして人に合わせようとする「同調圧力」的な雰囲気が存在する、とよくいわれる。私も経験的にそれはあると思う。
日本では、コロナに感染した人は感染症の被害者ではなく、「自分のせいで世間に迷惑をかけた者」とみなされる。「世間に迷惑をかける」というのは、「同調」からの逸脱である。そんなふうに考えるのは、それだけ同調圧力が強いということなのだろう。
同調圧力が強いというのは、個々人の価値観や判断を打ち出しにくい、「個人主義」が弱い社会だということだ。
そして、この個人主義の弱さは、感染症対策にはプラスに働く。政府が強権を発動しなくても、お互いに世間体を気にしてマスクを着けてこまめに手を洗い、さらにそのほかの行動を自粛する社会は、たしかに感染症を食い止めるうえでは有利なはずだ。
あるいは、個としての意識が弱いならば、マスクをつけることや、さまざまな予防を行うことを「弱さ」として忌み嫌う「強い人間」志向が邪魔することも比較的少ない。
以上をまとめると、「感染症の拡大をおさえるファクターXの根底にその社会の“個人主義の弱さ”という要素があるのでは」ということだ。
各国の人口あたりの感染者数
では、ほんとうに「個人主義が弱い」国では「個人主義が強い」国よりも感染拡大が抑えられているのだろうか?
以下は、2020年7月22日時点の「人口10万人あたりの新型コロナウイルス(累計)感染者数」の各国比較である。(日本経済新聞のウェブサイト「チャートで見る世界の感染状況 新型コロナウイルス」より)
米国1195人 ブラジル1048人 スペイン569人 ロシア541人 イタリア405人 フランス272人 韓国27人 日本21人 中国6人
※日経新聞のこのサイトにはデータがないが、ドイツと英国について同様の計算を私そういちが行ったところ、ドイツ 240~250人程度 英国 440~450人程度
どれだけ感染が拡大・蔓延したかの国際比較は、感染の絶対数ではなく人口あたりでみるのが良い。
先進国のあいだで状況が違う
今回の新型コロナの感染拡大で印象的だったことのひとつに「アメリカや西欧の主要国のような、医療や保健衛生が発達している先進国での蔓延」ということがある。
しかし、同じく先進国あるいは準先進国といえる日本、韓国、中国(そして台湾も)では、感染は比較的抑えられている。
感染症の蔓延というのは、一般的には発展途上国でより深刻であり、経済発展の進んだ社会は感染症への抵抗力があるというのは、基本的には正しいだろう。
清潔な水や石鹸もろくに手に入らない人が多くいるような社会では、感染症が深刻になるのは当然だ。
そして、アフリカなどの発展途上国の感染者数のデータは、調査・把握ができないためにおそらく過小になっている。だから、先進国のデータと一緒に比較はできない。
一方、先進国あるいは中国のような「新興国」レベルにまで発展している国ならば、感染者数について一定以上の把握ができているので、一応は比較可能と考えていい。その比較のなかで、欧米の人口あたり感染者が多く、日本、韓国、中国の感染者が少ないのは顕著な傾向だ。つまり、先進国のあいだで状況が違うのだ。
ただし、ここでいう「先進国」は、人口数千万(4000~5000万)以上の大国であり、北欧諸国やニュージーランドなどの人口数百万規模の国は含まない。
これらの小規模な先進国は、政府の方針を徹底しやすく、国民の団結も強固な傾向がある。そこで、感染症対策において大国とはかなり条件がちがうのではないか。そこで、ここでの考察からは除外する。また、人口2000万人台の台湾やオーストラリアは「中間型」といえるが、これも一応除外である。
「個人主義の弱さ」という共通性
日本、韓国、中国――これらの東アジアの国ぐに共通していることは何か?
まず、個人主義の弱さということ。
ここでいう「個人主義」をもう少し説明すると、「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」だ。こういう価値観のもとでは他人の価値観や意思も尊重しないといけないということになる。また、自分の考えに基づいて組織や社会のために行動することと個人主義は矛盾しない。
これは、自分の利益ばかりを考える「利己主義」とは区別される。米国や英国は欧米のなかでも、とくに個人主義が強いといわれるのはご承知のとおり。
一方韓国は、日本と同様に、あるいは日本以上に世間体を気にする「個人主義の弱い」社会なのではないだろうか。特別な情報・知識がなくとも、多少ニュースなどをみているだけでも、そのことは伝わってくる。それは日本と似たところがあるからだろう。
不祥事を起こした韓国の著名人の謝罪会見などの様子は、まさにそうだ。「世間をお騒がわせして申し訳ない」という感じ、世間様に吊し上げられている感じが場合によっては日本以上に強くなっている。
それにしても、三浦教授らはほんとうはぜひ韓国についても「感染は自業自得か」の調査をしてほしかった。
中国はどうか。中国人はかなり個人主義的だともいわれる。ただしそれは「家父長や社長、国家のリーダーなどの権力者が圧倒的な力を持っていて、その権力者にバラバラの個人が服従して束ねられている」という独裁国家的な社会のあり方に根ざしたものだという見解がある(たとえば、益尾知佐子『中国の行動原理』中公新書)。
中国に「個人主義」の傾向があるとしても、それは欧米的な「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」とは異質なものだということだ。
三浦教授らの調査で「感染は自業自得」とする人の割合が中国は約5%と、1%台の米英にくらべて大幅に高く、調査対象のなかで日本と米英の中間的なレベルにあるのは、中国が欧米とは異質であることを示すひとつの材料だろう。
もう一つの共通性「一定の経済発展」
そして、このような「個人主義の弱さ」に加えて、もうひとつの要素が日本、韓国、中国にはある。
それは「経済発展」という要素である。産業・経済が発達していて、感染予防のためのさまざまなリソースを多くの人たちが利用できる条件が備わっているということだ。
これは、たとえば同調圧力のもとで「マスクをしなければ」ということになれば、それを比較的スムースに実行できるということだ。発展途上国では、たとえ同調圧力があったとしても、なかなかそうはいかない。マスクなどのいろんなものが手に入りにくい。一方欧米では、マスクが入手できるとしても、自分の考えからあえてそれをしない人たちがいるわけである。
なお、今の中国も、完全に先進国とはいえないが、先進国に準じた技術や工業力を持っている。分野よっては欧米や日本を凌ぐ力がある。先進国に及ばない面があったとしても、独裁国家ならではの力の結集や人民への強制力によってカバーができる。
「東アジア的社会」というカテゴリー
日本、韓国、中国には、もちろん違いがある。しかし、「個人主義の弱さ」「一定以上の経済発展」という2点については、この3国は共通している。その2点についても、個人主義の弱さの具体的な中身や、経済発展の度合いなどに違いはある。
しかしこれらの東アジアの3国は、欧米(とくに米英)のような個人主義の伝統が強くある国ぐにとも、経済発展が不十分なアジア・アフリカの発展途上国とも明らかに異なる、独特なカテゴリーとなっている。
これは「東アジア的社会」といったらいいだろうか。このカテゴリーには、台湾もおそらく含まれるだろうし、東南アジアの一部の国も含まれるかもしれない。
以上、「個人主義が弱く、かつ経済発展の進んだ国=東アジア的社会で、コロナの感染が比較的抑えられている」というのが結論である。
この2つの要素・条件はかなり漠然としていて、「ファクターX」といえる次元のことがらではないかもしれない。しかし、ファクターXを成り立たせている(かもしれない)社会の基本条件とはいえるだろう。
これは、「当たり前じゃないか」と言われてしまいそうな結論ではある。「個人主義」も「経済発展」も、社会を論じるうえではごくありきたりの概念だ。しかし、ここで述べた「当たり前」のことも、じつはあまり明確には述べられていないのではないかと、私は思っている。
「東アジア的アプローチ」と「合理的アプローチ」
そして、気になるのはここでいう「東アジア的社会」は、これからもコロナ感染症との戦いで、欧米よりも優位であり続けるかどうか、ということだ。
私はこのような東アジア的なアプローチには、限界があると思っている。コロナとの戦いで最も強いモデルは、これではない。最強なのは「当局が明確で科学的・合理的な方針を打ち出し」かつ「国民の多くがそれに自発的に合意・納得して協力する」というかたちのはずだ。
これまでの欧米では、この2つのうちの片方もしくは両方に弱いところがあった。未知のウイルスに対して科学的・合理的な方針を打ち出すことには困難が伴ったし、そのような状態では危機意識に個人差があるのも当然だった。そこで、個人主義的な国民は必ずしも当局の方針に従わなかった(マスクの件は典型的だ)。
しかし、このウイルスとの戦いでの経験値が増すにつれて「当局の合理的方針」と「合意・納得に基づく国民の協力」の2つが機能するようになっていくのではないか。
このようなあり方は「合理的アプロ―チ」とでもいえばいいだろうか。
たとえば新型コロナの感染者が今のところ(2020年7月下旬現在)激減してきたニューヨーク市の状態は、そのような「合理的アプローチ」による事例の先駆けなのかもしれない。ニューヨークでは、一時は感染が蔓延したものの、最近は大量のPCR検査、3000人もの専門スタッフによる感染者やその周辺の行動の追跡、感染者・濃厚接触者の隔離といった対策を行う体制整備を着々とすすめていた。このことは、最近さかんに報じられている。
そして、韓国(そして台湾)には、「東アジア的アプローチ」だけでなく、「合理的アプローチ」の要素もあったのである。一時よく報道されたような、感染者の検査・隔離・追跡などについての運営の様子をみれば、それは明らかだ。
日本での「合理的アプローチ」の弱さ
日本では、残念ながら「合理的アプローチ」の要素は弱かったといえるだろう。
だから「何で日本はこんなに感染者が少ないのだ」と世界から言われるのだ。「アベノマスクみたいな政府の不合理な対応や不手際が目立つのに、なぜ?」というわけだ。「ファクターX」というのも、そういう問いかけの一種ともいえる。日本は最も純度の高い「東アジア的アプローチ」の事例なのだ。
7月下旬現在の日本の状況は、弱い個人主義や同調圧力のもとでの「東アジア的アプローチ」の限界を示しているのかもしれない。政府は相変わらず系統だった方針を打ち出せていない。「感染対策をしっかりと」と呼びかけながら「旅行に行こう(ただし東京は除く)」と言っている。
また、当局には明確な軸がないので、目の前の事象に反応するばかりという面が強く、感染が再拡大した将来に備えての体制整備もあまりしてこなかった。そのことは、最近(7月)になってはっきりしてきた。
日本の私たちは、コロナ禍をのり越えるために、これまでの「東アジア的アプローチ」を卒業して「合理的アプローチ」に移行しなければならないはずだ。しかし、できるだろうか?
私たちは(とくに指導者は)過去の成功体験にこだわる傾向が強いので不安だ。もしもその移行ができなければ、遠くない未来に欧米、韓国、中国、台湾でコロナが終息したのをみながら、自分たちはまだ苦しみ続けるという事態になってしまうかもしれない。
そのときには「日本で感染が抑えられた原因=ファクターXは何か」などという議論は、まったく消えてしまっているわけだ。そんな未来はほんとうに避けなければならない。
(以上)
「ファクターX」とは、ノーベル賞の山中伸弥教授による言葉で、「新型コロナウイルスの感染拡大が、これまでのところ、日本で比較的抑えられた原因」のことだ。それがよくわからないので「X」という。
ファクターXの候補のひとつとして言われるもののひとつに、「手洗いの励行やマスク着用、外出自粛などの個々人の努力」ということがある。
たとえばマスク。今現在(2020年7月現在)、少なくとも都会では、日本人のほとんどは外出時や仕事中にマスクをしている。
しかし、報道をみると欧米ではマスクへの抵抗感は強く、「マスクを強制すべきか否か」についての議論がなかなか決着しない様子だ。
当局がマスク着用を呼びかけたり義務化したりしても、それに従わない人たちがいる。アメリカやブラジルのように、大統領がマスクに抵抗している国もある。そして、マスクに抵抗するような人たちが、どこまでこまめに手を洗っているのか、かなり不安な感じがする。
「感染は自動時得」と思うか
では、なぜ多くの日本人はマスクを着け、手洗いをまじめに行うのだろう?
これも、多くの人が薄々は感じていることだと思うが、世間体を強く気にする「同調圧力」が大きく作用しているのではないか?
もちろん「病気が怖い」ということはあるわけだが、それに加えて「マスクをするなどして、しっかり対策しています」というスタンスでないと、周囲から冷たい目でみられてしまう、という意識があるのでは、ということだ。
このことは、「たぶんそうだろう」と思っても、立証はむすかしいところがある。しかし、そこに関係する研究を新聞記事で知った。
それは、三浦麻子・大阪大学教授らの研究グループが行ったもので、コロナなどの感染症について「感染は自業自得だと思うか」について各国の人たちに行ったアンケート調査である。
この調査は“3~4月、日本、米国、英国、イタリア、中国の5か国で各400~500人からインターネットで回答を得た”もので、“「感染は自業自得だと思うか」の質問に「全く思わない」から「非常に思う」まで6段階で尋ねた”。
その結果「どちらかといえばそう思う」「ややそう思う」「非常にそう思う」の3つのいずれかを選んだ人の割合は、つぎの通りだった。
日本11.5% 中国4.83% イタリア2.51% イギリス1.49% アメリカ1.0%
また、“反対に(感染が自業自得だとは)「全く思わない」と答えた人は“他の4か国は60~70%だったが、日本は29.25%だった”。
この結果について三浦教授は“日本ではコロナに限らず、本来なら「被害者」のはずの人が過剰に責められる傾向が強い……こうした意識が、感染は本人の責任とみなす考えにつながっている可能性がある」としている”。
(読売新聞オンライン2020年6月29日『「コロナ感染が自業自得」日本は11%、米英の10倍……阪大教授など調査』より)
感染したときの社会的非難への恐怖
「感染は自業自得」という人の割合は、最も高い日本でも11%であり、全体からみれば少数派ではある。しかし、米英とくらべてその割合は10倍も高い。やはり日本と米英ではこの件に関し、大きな意識の違いがあることはまちがいないだろう。
つまり、日本ではコロナ感染は、責められるべきことなのだ。非常に「世間体が悪い」のである。
日本人の多くがマスク着用や手洗いをしっかり行うのには、単なる衛生観念だけでなく、このような社会心理的なものが作用しているのではないか?
つまり、「病気への恐怖」だけでなく、「感染したときの社会的非難への恐怖」がマスク着用や手洗い励行の大きな原動力となっている。
個人主義が弱い社会
日本社会には、周囲の目や世間体を強く気にして人に合わせようとする「同調圧力」的な雰囲気が存在する、とよくいわれる。私も経験的にそれはあると思う。
日本では、コロナに感染した人は感染症の被害者ではなく、「自分のせいで世間に迷惑をかけた者」とみなされる。「世間に迷惑をかける」というのは、「同調」からの逸脱である。そんなふうに考えるのは、それだけ同調圧力が強いということなのだろう。
同調圧力が強いというのは、個々人の価値観や判断を打ち出しにくい、「個人主義」が弱い社会だということだ。
そして、この個人主義の弱さは、感染症対策にはプラスに働く。政府が強権を発動しなくても、お互いに世間体を気にしてマスクを着けてこまめに手を洗い、さらにそのほかの行動を自粛する社会は、たしかに感染症を食い止めるうえでは有利なはずだ。
あるいは、個としての意識が弱いならば、マスクをつけることや、さまざまな予防を行うことを「弱さ」として忌み嫌う「強い人間」志向が邪魔することも比較的少ない。
以上をまとめると、「感染症の拡大をおさえるファクターXの根底にその社会の“個人主義の弱さ”という要素があるのでは」ということだ。
各国の人口あたりの感染者数
では、ほんとうに「個人主義が弱い」国では「個人主義が強い」国よりも感染拡大が抑えられているのだろうか?
以下は、2020年7月22日時点の「人口10万人あたりの新型コロナウイルス(累計)感染者数」の各国比較である。(日本経済新聞のウェブサイト「チャートで見る世界の感染状況 新型コロナウイルス」より)
米国1195人 ブラジル1048人 スペイン569人 ロシア541人 イタリア405人 フランス272人 韓国27人 日本21人 中国6人
※日経新聞のこのサイトにはデータがないが、ドイツと英国について同様の計算を私そういちが行ったところ、ドイツ 240~250人程度 英国 440~450人程度
どれだけ感染が拡大・蔓延したかの国際比較は、感染の絶対数ではなく人口あたりでみるのが良い。
先進国のあいだで状況が違う
今回の新型コロナの感染拡大で印象的だったことのひとつに「アメリカや西欧の主要国のような、医療や保健衛生が発達している先進国での蔓延」ということがある。
しかし、同じく先進国あるいは準先進国といえる日本、韓国、中国(そして台湾も)では、感染は比較的抑えられている。
感染症の蔓延というのは、一般的には発展途上国でより深刻であり、経済発展の進んだ社会は感染症への抵抗力があるというのは、基本的には正しいだろう。
清潔な水や石鹸もろくに手に入らない人が多くいるような社会では、感染症が深刻になるのは当然だ。
そして、アフリカなどの発展途上国の感染者数のデータは、調査・把握ができないためにおそらく過小になっている。だから、先進国のデータと一緒に比較はできない。
一方、先進国あるいは中国のような「新興国」レベルにまで発展している国ならば、感染者数について一定以上の把握ができているので、一応は比較可能と考えていい。その比較のなかで、欧米の人口あたり感染者が多く、日本、韓国、中国の感染者が少ないのは顕著な傾向だ。つまり、先進国のあいだで状況が違うのだ。
ただし、ここでいう「先進国」は、人口数千万(4000~5000万)以上の大国であり、北欧諸国やニュージーランドなどの人口数百万規模の国は含まない。
これらの小規模な先進国は、政府の方針を徹底しやすく、国民の団結も強固な傾向がある。そこで、感染症対策において大国とはかなり条件がちがうのではないか。そこで、ここでの考察からは除外する。また、人口2000万人台の台湾やオーストラリアは「中間型」といえるが、これも一応除外である。
「個人主義の弱さ」という共通性
日本、韓国、中国――これらの東アジアの国ぐに共通していることは何か?
まず、個人主義の弱さということ。
ここでいう「個人主義」をもう少し説明すると、「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」だ。こういう価値観のもとでは他人の価値観や意思も尊重しないといけないということになる。また、自分の考えに基づいて組織や社会のために行動することと個人主義は矛盾しない。
これは、自分の利益ばかりを考える「利己主義」とは区別される。米国や英国は欧米のなかでも、とくに個人主義が強いといわれるのはご承知のとおり。
一方韓国は、日本と同様に、あるいは日本以上に世間体を気にする「個人主義の弱い」社会なのではないだろうか。特別な情報・知識がなくとも、多少ニュースなどをみているだけでも、そのことは伝わってくる。それは日本と似たところがあるからだろう。
不祥事を起こした韓国の著名人の謝罪会見などの様子は、まさにそうだ。「世間をお騒がわせして申し訳ない」という感じ、世間様に吊し上げられている感じが場合によっては日本以上に強くなっている。
それにしても、三浦教授らはほんとうはぜひ韓国についても「感染は自業自得か」の調査をしてほしかった。
中国はどうか。中国人はかなり個人主義的だともいわれる。ただしそれは「家父長や社長、国家のリーダーなどの権力者が圧倒的な力を持っていて、その権力者にバラバラの個人が服従して束ねられている」という独裁国家的な社会のあり方に根ざしたものだという見解がある(たとえば、益尾知佐子『中国の行動原理』中公新書)。
中国に「個人主義」の傾向があるとしても、それは欧米的な「自分の考えや意思で自由に行動することを大切にする価値観」とは異質なものだということだ。
三浦教授らの調査で「感染は自業自得」とする人の割合が中国は約5%と、1%台の米英にくらべて大幅に高く、調査対象のなかで日本と米英の中間的なレベルにあるのは、中国が欧米とは異質であることを示すひとつの材料だろう。
もう一つの共通性「一定の経済発展」
そして、このような「個人主義の弱さ」に加えて、もうひとつの要素が日本、韓国、中国にはある。
それは「経済発展」という要素である。産業・経済が発達していて、感染予防のためのさまざまなリソースを多くの人たちが利用できる条件が備わっているということだ。
これは、たとえば同調圧力のもとで「マスクをしなければ」ということになれば、それを比較的スムースに実行できるということだ。発展途上国では、たとえ同調圧力があったとしても、なかなかそうはいかない。マスクなどのいろんなものが手に入りにくい。一方欧米では、マスクが入手できるとしても、自分の考えからあえてそれをしない人たちがいるわけである。
なお、今の中国も、完全に先進国とはいえないが、先進国に準じた技術や工業力を持っている。分野よっては欧米や日本を凌ぐ力がある。先進国に及ばない面があったとしても、独裁国家ならではの力の結集や人民への強制力によってカバーができる。
「東アジア的社会」というカテゴリー
日本、韓国、中国には、もちろん違いがある。しかし、「個人主義の弱さ」「一定以上の経済発展」という2点については、この3国は共通している。その2点についても、個人主義の弱さの具体的な中身や、経済発展の度合いなどに違いはある。
しかしこれらの東アジアの3国は、欧米(とくに米英)のような個人主義の伝統が強くある国ぐにとも、経済発展が不十分なアジア・アフリカの発展途上国とも明らかに異なる、独特なカテゴリーとなっている。
これは「東アジア的社会」といったらいいだろうか。このカテゴリーには、台湾もおそらく含まれるだろうし、東南アジアの一部の国も含まれるかもしれない。
以上、「個人主義が弱く、かつ経済発展の進んだ国=東アジア的社会で、コロナの感染が比較的抑えられている」というのが結論である。
この2つの要素・条件はかなり漠然としていて、「ファクターX」といえる次元のことがらではないかもしれない。しかし、ファクターXを成り立たせている(かもしれない)社会の基本条件とはいえるだろう。
これは、「当たり前じゃないか」と言われてしまいそうな結論ではある。「個人主義」も「経済発展」も、社会を論じるうえではごくありきたりの概念だ。しかし、ここで述べた「当たり前」のことも、じつはあまり明確には述べられていないのではないかと、私は思っている。
「東アジア的アプローチ」と「合理的アプローチ」
そして、気になるのはここでいう「東アジア的社会」は、これからもコロナ感染症との戦いで、欧米よりも優位であり続けるかどうか、ということだ。
私はこのような東アジア的なアプローチには、限界があると思っている。コロナとの戦いで最も強いモデルは、これではない。最強なのは「当局が明確で科学的・合理的な方針を打ち出し」かつ「国民の多くがそれに自発的に合意・納得して協力する」というかたちのはずだ。
これまでの欧米では、この2つのうちの片方もしくは両方に弱いところがあった。未知のウイルスに対して科学的・合理的な方針を打ち出すことには困難が伴ったし、そのような状態では危機意識に個人差があるのも当然だった。そこで、個人主義的な国民は必ずしも当局の方針に従わなかった(マスクの件は典型的だ)。
しかし、このウイルスとの戦いでの経験値が増すにつれて「当局の合理的方針」と「合意・納得に基づく国民の協力」の2つが機能するようになっていくのではないか。
このようなあり方は「合理的アプロ―チ」とでもいえばいいだろうか。
たとえば新型コロナの感染者が今のところ(2020年7月下旬現在)激減してきたニューヨーク市の状態は、そのような「合理的アプローチ」による事例の先駆けなのかもしれない。ニューヨークでは、一時は感染が蔓延したものの、最近は大量のPCR検査、3000人もの専門スタッフによる感染者やその周辺の行動の追跡、感染者・濃厚接触者の隔離といった対策を行う体制整備を着々とすすめていた。このことは、最近さかんに報じられている。
そして、韓国(そして台湾)には、「東アジア的アプローチ」だけでなく、「合理的アプローチ」の要素もあったのである。一時よく報道されたような、感染者の検査・隔離・追跡などについての運営の様子をみれば、それは明らかだ。
日本での「合理的アプローチ」の弱さ
日本では、残念ながら「合理的アプローチ」の要素は弱かったといえるだろう。
だから「何で日本はこんなに感染者が少ないのだ」と世界から言われるのだ。「アベノマスクみたいな政府の不合理な対応や不手際が目立つのに、なぜ?」というわけだ。「ファクターX」というのも、そういう問いかけの一種ともいえる。日本は最も純度の高い「東アジア的アプローチ」の事例なのだ。
7月下旬現在の日本の状況は、弱い個人主義や同調圧力のもとでの「東アジア的アプローチ」の限界を示しているのかもしれない。政府は相変わらず系統だった方針を打ち出せていない。「感染対策をしっかりと」と呼びかけながら「旅行に行こう(ただし東京は除く)」と言っている。
また、当局には明確な軸がないので、目の前の事象に反応するばかりという面が強く、感染が再拡大した将来に備えての体制整備もあまりしてこなかった。そのことは、最近(7月)になってはっきりしてきた。
日本の私たちは、コロナ禍をのり越えるために、これまでの「東アジア的アプローチ」を卒業して「合理的アプローチ」に移行しなければならないはずだ。しかし、できるだろうか?
私たちは(とくに指導者は)過去の成功体験にこだわる傾向が強いので不安だ。もしもその移行ができなければ、遠くない未来に欧米、韓国、中国、台湾でコロナが終息したのをみながら、自分たちはまだ苦しみ続けるという事態になってしまうかもしれない。
そのときには「日本で感染が抑えられた原因=ファクターXは何か」などという議論は、まったく消えてしまっているわけだ。そんな未来はほんとうに避けなければならない。
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