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2013年06月06日 (木) | Edit |
「自分で考える勉強法」シリーズの第22回目。

このところ,科学とは,学問とは,宗教とはのような基本概念について述べています。今回は,一連の話なので2話分を一度に。「カルト」や「トンデモ」にご用心,のようなことを書いています。私は,古臭くて退屈な啓蒙主義者です。つまり,科学とか理性とかをかなり信用しているオジさんです。


「究極の心理」なんて,信じてはいけない。

「今,ひとりの天才があらわれて,この世のすべてを説明する究極の真理を発見した」「はるか太古の昔に,深遠な・絶対の真理に到達した民族がいた。私は,彼らの残した遺産の内容を知っている」

この手の話があとをたちません。「カルト」や「トンデモ」の世界です。
 
その筋でよく行われるのが,現在の科学の限界や不十分な点を突くことです。

中でも多いのは,現在の医学では治せない病気を,「我々なら治せる」というパターンです。中でも,心の不安定が影響して体にあらわれる病気=心身症的な病気は,その得意とするところです。

近代医学は,腐った盲腸を切りとるとか,抗生物質で病原体を死滅させるといった,いわば機械的なやり方から出発しています。だから,「人間の心」や「心が体に及ぼす影響」といったテーマについては,研究が遅れているのです。

しかし,今ではかなりの医師や学者たちが,この問題に取り組んでいます。たとえば,「明るい希望や信念を持つことが,病気から治ろうとする生理的な力を高める」といったことがわかっているのです。

司馬遼太郎の『胡蝶の夢』という小説に,関寛斎という幕末の医師が出てきます。

彼は,「病のほとんどを治す能力を,医学も医者も持っていない」と考えていました。「医者にやっとわかるのは,死期だけだ」と,家族にもらしています。

寛斎は,当時の日本でトップクラスの医師でしたが,当時の医学は未発達だったため,治療可能な病気の数は,きわめて限られていました。そんな現実を前に,まじめな寛斎は医師として「無力だ」と感じずにはいられなかったのです。

これは小説の中の描写ですが,司馬遼太郎のことですから史料に基づく可能性はかなりあります。そうでなくても,当時の状況からすれば,こういう医師はきっといたことでしょう。

今の医学の進歩をみたら,寛斎先生はどう思うでしょうか。もう「医者は無力だ」とは思わないはずです。「今も治せない病はあるようだが,治せる病はこれからも増えていくことだろう」と希望を持つでしょう。そして,「おまじないで病を治すなどと言う人の話は,信用しないほうがいいよ」と忠告してくれることでしょう。


学校教育は,体系だった世界観を
なかなか与えてくれない。


「カルト」的な世界の魅力のひとつに,一応は体系だった世界観を与えてくれるということがあります。

まず,「教祖」の立てた根本原理があって,そこからこの世界のいろんな現象を説明していきます。森羅万象を教義と結びつけて,まとまった世界観を示そうとします。ときには,新しい科学の成果も取りあげて,説得力を持たせようとしています。

「体系だった世界観」といっても,どの程度手の込んだ,もっともらしい体系をつくれるかは,ケース・バイ・ケースです。

子どもが見たって「これはおかしい」と思えるような教義や集団もありますが,中には指導的なメンバーが人生経験豊富な大人で,哲学や科学にもかなり通じたインテリだったりすることもあります。そういう知的水準の高い,手の込んだ体系をつくれる集団は,それなりに多くの信者を獲得できるでしょう。

みなさんの中には,とくに若い人の中には,「自分は議論には結構強いほうだ」と自負している人がいるかもしれません。でも,「手の込んだ体系」を持つその手の集団のメンバー(の指導的な立場の人)と議論したら,きっと負けます。「どうして言い負かされてしまうんだ」と,くやしい思いをするでしょう。

断片的・感覚的にあなたが正しいことを言っても,体系だったウソには,なかなか歯が立たないのです。体系というのは強いのです。

だから,論理や思想というのは,真理であるかどうかにかかわらず,昔から体系を志向してきました。たとえば,今は世界的な大宗教になっている教えだって,もともとは「教祖の思いや言葉をかき集めたもの」から始まりました。そしてのちの時代に,「体系」が整えられていったのです。

***

学校教育は,体系だった世界観をなかなか与えてくれません。高校の教科書を見てください。どの教科書も,すごい分量の知識がつまっています。これがいけないのです。

これらの知識を消化して,まとまったひとつの世界をイメージすることは,ほとんど不可能です。生徒はもちろん,先生だって消化しきれないのです。たとえば,歴史の授業では出てくる事件が多すぎて,全体的な歴史の流れがわかりません。

大学に行けばどうなのでしょうか? 大学でも,たぶん駄目です。大学の一般教養の講義は,「担当教官の専門に関する狭い範囲のことだけ」というのが多いです。

たとえば,あまり聞いたことのないひとりの思想家について一年間延々と講義したり,「西洋史」の授業といいながら,狭い地域の限られた時期について,こと細かに教えていたりします。世界を広く見わたす感じは,ありません。大学に入ったころ,私はそれでがっかりしました。

「世界は全体としてどうなっているんだろう?」「人間とは何だろう?」――それを知りたいという欲求に,学校の授業はなかなか答えてくれません。

それが,単に学校への不信にとどまらず,授業内容の源泉である科学や学問そのものに対する失望につながることがあります。とくに,まじめで思いつめやすい人の場合,そうなります。失望して,「世界観を与えてくれる教義」にひかれる人もいるはずです。科学や学問の代用品に走るのです。

少し勉強すればわかるのですが,そんな「代用品」よりも,本物の科学や学問が描き出す自然や人間や歴史のほうが,ずっと奥が深くて魅力的です。そのことを初心者にもわからせてくれる授業や本の少ないことが,困ったことなのです。

私のことを言えば,自分のテーマは「ほんものの科学や学問が描き出す世界」を,入門的な読みやすいかたちで書いていくことだと思っています。この文章も,そのテーマの一部なのです。

(以上,つづく)
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