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2013年11月11日 (月) | Edit |
 社会では,ある人たちが民主主義や自由を享受するためには,別の人たちには一種の「奴隷」になることが強いられるのかもしれません。

 少なくとも,古い時代の生産や技術の水準では,そうならざるを得ませんでした。

 「民主主義」で有名な古代ギリシア(今から2400~2500年前)にも,奴隷がいました。
 それは,一説には全人口の2~3割程度で,多数派ではなかったようです(「半分程度」ともいわれるが,いずれにせよ「奴隷のほうが市民とその家族よりもずっと多い」ということではない。なお,参政権などのある「市民」は,古代ギリシアでは男性のみ)。

 でも,その「2~3割」がめんどうな家事や労働を担うことで,快適な暮らしや余暇を得た人たちがいたのです。ギリシア社会の,比較的恵まれた人たちはそうでした。
 そのような人たちが,古代ギリシアの政治や文化を担いました。
 ギリシアの民主主義には,奴隷が必要だった,とさえいえるでしょう。
 「必要」とされる側は,たまったものではありませんが。

 しかし,当時の技術や生産力では,社会の多数派の人たちが,「自由」を感じられるような物質的・時間的な余裕を得ることは無理でした。
 それは,近代以前のすべての社会にあてはまることでしょう。

 古代ギリシアの奴隷は「商品」として売買されました。
 このように「人間が売買の対象になる」というのが「奴隷」ということです。

 そのような立場におかれた人たちは,世界史において広く存在しています。

 前近代の農民のかなりの人たちは,自分の住む土地を離れることはできず,その土地を支配する領主の所有物のように扱われました。領主によって土地といっしょに売買されることもあったのです。そのような不自由な農民を「農奴」と呼ぶこともあります。

 世界の歴史の流れは,かつては広くみられた「奴隷」的な立場の人たちを,だんだんと少数の「例外」にしていきました。

 ***

 そのような「世界史」の最先端に,現代の先進国の,民主的な社会があります。
 でも,そこにもやはり,「奴隷」はいます。

 ひとつは,違法なのだけど,いろんな事情で奴隷的労働を強いられている人たち。この人たちは,その労働がイヤでもやめることができない。普通の労働契約とはちがう状況で働いています。かなりの人たちは,背負った借金を返すために,そういう目にあっています。

 でも,現代の「奴隷」は,それだけではありません。
 奴隷という言葉は,「売買の対象となる人間」ではなく,もっと広く「自分の意志に反することに従わざるを得ない人」と定義することもできます。

 そのように定義すると,「奴隷」の状態を経験したことのある人は,世の中にたくさんいるのではないでしょうか。

 たとえば中学のころ,「アイドルの写真を学校に持ってくるのは禁止」というルールがありました。そういうことを生徒会で決めたりする。
 写真がみつかると没収されるので,不本意だけど好きなアイドルの写真を持っていくのをやめる……ささやかなことですが,そういうのだって,「意志に反することに従う」という意味で,「奴隷」的です。

 もう少し重たい例だと,喫煙者が今の「禁煙」の拡大の中で,タバコを吸うことをいろんな場でガマンする,というのはそうです。これも,意に沿わないことを強いられているのだと思います(なお,私はタバコは吸いません)。

 さらにずっと大きなことだと,自分の村や町にダムができる,原発ができる,「基地」ができる,といったことがあります。

 こういうとき,「賛成」と「反対」があり,結局は多数決で決まるわけですが,そのときの少数派の人たちは,深刻なかたちで「意志に反することに従う」のを強いられるわけです。不本意なかたちで,生活を大きく変えないといけないのです。

 前回の記事(11月9日)で述べた「古い団地の建て替え」も同様です。
 その記事で述べた「諏訪団地」は,9割以上の賛成で建て替えとなりましたが,全員が賛成だったわけではありません。ということは,涙をのんだ少数派がいたわけです。その人たちも,不本意なかたちで自分の住まいや生活を大きく変えることになりました。

 もっと広い範囲にかかわる話だと,「税金」のことはまさにそう。今回の消費税アップに納得できない人も,国会で決議されたことであれば,従わざるを得ません。

 ***

 以上のような,現代における「奴隷」的状態には,たいていは「民主主義」「多数決」がかかわっています。

 多数決は民主主義の「最重要ツール」といっていいでしょう。

 10月31日の記事「民主主義とは,政治的な意思決定に対し,それに従う多数派が参加すること」だと述べました。
 古い社会では,政治的なことは1人か少数の権力者が決めていました。それ以外の「ものごとの決め方」といったら,話し合いで折り合いがつかなければ,「多数決」くらいしかありません。多数派の人間がみんなで意思決定するのだから,そうなります。

 しかし,多数決というのは,決議での決定に反対であった少数派をも,その決定に従わせるのがふつうです。つまり,少数派を「奴隷」的な状態におく面があります。

 私が尊敬する学者の板倉聖宣さんは,1980年代に書かれたエッセイで「最後の奴隷制としての多数決原理(あるいは民主主義)」ということを,述べました。(「最後の奴隷制としての多数決原理」『社会の法則と民主主義』仮説社,1988)

 たとえばこんなことを,板倉さんは述べています。

《…私は,〈多数決というのは,もともと少数派を奴隷的な状態に置く決議法である〉という理解のもとに,〈できるだけ決議をしないことが大切だ〉と考えています。〈決議をするときは,少数派を奴隷にしなければならないほどに切実なことだけを決議しろ〉というのです。》(『社会の法則と民主主義』45ページ)

 そして,《民主主義の恐ろしさを知って民主主義を守る》ことが大切である,と言います。

《…私は――今のところ民主主義よりもいいものがない以上――その民主主義を守るために,〈民主主義は時によってはもっとも恐ろしい奴隷主義にもなりかねない〉ということを承知の上で事にあたる人々が増えることを期待して止まないのです。》(49ページ)

社会の法則と民主主義―創造的に生きるための発想法社会の法則と民主主義―創造的に生きるための発想法
(1988/06/10)
板倉 聖宣

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 ここで述べてきた「奴隷」の定義や,「現代の民主主義で〈少数派〉という奴隷が生じる」という考え方を,私は板倉さんのエッセイで知りました(学生時代のことです)。

 板倉さんのエッセイは,30年ほど前の,今よりもずっと「民主主義」という言葉に権威や信頼感があった時代のものです。その発想の先進性や鋭さには,やはり驚かされます。民主主義のさまざまな側面を,簡潔にやさしく述べた「民主主義の取り扱い説明書」として,ぜひ読んでみてください。

 ***

 板倉さんの論から,私はつぎのように考えました。

 今の民主主義というのは,社会のそれぞれの人たちが,その立場や状況に応じて一種の「パートタイム」で「奴隷」になっているのではないか

 「持ち回りの奴隷制」といっていいかもしれません。

 民主主義とは,「持ち回りの奴隷制」ということ。

 現実の社会では,じつは特権的な人もいて,「持ち回りの奴隷制」の輪の外にいたりするかもしれません。しかし,民主主義がめざす理想としては,「みんなが等しく〈持ち回り〉で〈パート奴隷〉を引き受ける」ということなのでしょう。

 でも,「パート」であっても,やはり「奴隷」はイヤです。

 だから,「奴隷」がまわってくる機会をいかに減らすかが,今の文明の課題です。
 そのための最大の手段は,技術革新や生産性の向上です。

 極論をいえば,みんなが欲しがるものをローコストでいくらでも生産できるようになれば,あるいはどんな病気でもすぐに治せるようになったら,また,なんでも面倒なことをやってくれるロボットが普及したら,人びとに「奴隷」を強いる必要はほぼなくなるでしょう。

 しかし,今の科学技術は,そこまでいっていません。
 そしてさらに,現代では「民主主義」の思想が一層深まってきて,「少数派を奴隷状態におく」ことへの反省や疑念が多少は自覚されるようになりました。
 また,「少数派」の自己主張というのもつよくなっています。そして,「自分が割を食う,苦しめられる」ことに対する抗議の声も,昔より相当強くあがるようになりました。要するに「みんなうるさくなった」ということ。

 だから,現代の社会では,「奴隷」を引き受けてくれる人をみつけるのが,以前よりも難しくなっているのです。

 でも,社会は一定の「奴隷」を,今も必要としています。「何でもやってくれるロボット」ができていない以上,そうなのです。どうすればいいのか……

 ***

 現代の民主主義では,ある種の新しい「奴隷」が発見され,そのフロンティアが開拓されたのだと,私は思います。

 その「新しい奴隷」とは,「未来の世代」です。


 放漫な国家財政で,今現在の自分たちのニーズを満たし,そのツケを将来の世代にまわすということが,現代の先進国では行われがちです。

 それはおもに,高齢化のなかで社会保障費(おもに高齢者の福祉)が大幅に増えるというかたちでおこっています。

 そのような財政であっても,若い世代は驚くほどおとなしいです。現代の先進国の政治で多数派である高齢者の決めたことに対し,大きな反発はおきていません。とくに日本ではその傾向が顕著です。

 そして,子供や赤ん坊やまだ生まれていない世代には,このことに関しなんの発言権もありません。「そんな財政赤字を積み上げるのはやめて」とは,絶対言わない。彼らは「多数決」の外にいるのです。その点では,ギリシアの奴隷と同じです。

 高齢者や,それに近い大人世代は,未来の世代を「奴隷」にしている。
 これが,現代における「民主主義」の到達点。
 
 ずいぶん「どぎつい」言い方なのかもしれませんが,重要な視点だと思っています。不快かもしれませんが,少しは意識すべき見方だと思うのです。
 
(以上)  
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コメント
この記事へのコメント
>>「新しい奴隷」とは「未来の世代」です。

なるほど!
原発の廃棄物問題にもそういう要素を感じます。

「最後の奴隷制としての民主主義原理」も、
すごくぴったりくる言葉ですね。
板倉 聖宣さんの本読んでみたくなりました!
でも近所の図書館に置いてないんですよねー。

選挙権のない世代に負担を押し付けるのって、卑怯ですね。
でも民主主義よりましな制度って
2013/11/11(Mon) 09:08 | URL  | ピピネラ #-[ 編集]
こんにちはー。
とても刺激的でした。
ずいぶん頑張って言葉をまとめようとしたんですが
まとまりません。トラックバックしてもいいですか?
自分なりに考えてまとめてみたくなりました。
2013/11/11(Mon) 15:17 | URL  | 偕誠館主人 #-[ 編集]
ピピネラさんへ
 コメントありがとうございます。
 ピピネラさんの言葉を借りれば,子供は「未来からの留学生」ということですね。
 とにかく「未来」の人間。

 たぶん,今の私たちの人間性は,同時代をともに生きている人たちを「奴隷」状態に置くのはしのびなくなったのです。そのくらいには人間性が進歩したようです。しかし,未来の人間なら,それほどは心が痛まず,「奴隷」にできる……今はそういう段階なんだと思います。でも将来は,未来の人間だって思いやるようになるかもしれません。

 原発の廃棄物問題には,「未来の世代の奴隷化」の要素はあるように,私も思います。

 近所の図書館にない本については,市内のほかの図書館や近隣の市の図書館から(あればですが)取り寄せることもできますね。そこにもなければ県立図書館などから取り寄せることもできます。ちょっと時間はかかりますが,まあ,急ぐ話でもないので……図書館って,お金を使わないで読書できる点は,やはり素晴らしいですね。
 ブログの記事の「自分で考えるための勉強法」のシリーズでも,かなり図書館のことは述べています。私も図書館好きの人間ですが,最近はあわただしくて,行ってないです…… 
2013/11/11(Mon) 22:25 | URL  | そういち #-[ 編集]
偕誠館主人さんへ
 こんにちは,コメントありがとうございます。
 「刺激的」と言っていただき,うれしいです。

 もちろん,トラックバックは大歓迎で,光栄です。
 ブロとものほうも,もちろんうれしいです。ただ,承認のためのアドレスにアクセスしようとしても,何かの手違いか,そのアドレスにアクセスできない(「アドレスがみつからない」という表示が出てしまう)のです。それでお返事できない状況になってます。とにかく,ブロとももリンクもいつでも歓迎ですので……
2013/11/11(Mon) 22:36 | URL  | そういち #-[ 編集]
今の民主主義というのは,社会のそれぞれの人たちが,その立場や状況に応じて一種の「パートタイム」で「奴隷」になっているのではないか。「持ち回りの奴隷制」といっていいかもしれません。
民主主義とは,「持ち回りの奴隷制」ということ。

持ち回りの奴隷制……誰かがどこかで一時奴隷を引き受けるということですね。そして現在の社会の問題をそのままにするというのは未来にツケをまわすということですか。民主主義とはツケをバケツリレーのように受け渡していくということでしょうか。
多数派が決めたものを実施し、それがうまくいかなくなったときに少数派の考えを取り入れ新たな一歩を踏み出していくという
実験精神の裏付けをもつている制度だと思っていたのですが、
だいぶ違うのですね。分かるのですがまだ納得できていません。
2013/11/14(Thu) 21:27 | URL  | かずゆき #-[ 編集]
かずゆきさんへ
 コメントありがとうございます。
 「民主主義とは未来にツケを回すことだ(問題のバケツリレーである)」などとは言っていません。
 ただ,「近年の先進国で,民主的な手続きに基づき決定した政策・予算は,大きな財政赤字を伴うので,未来の世代にツケを回すことになるのでは」と言っているのです。これとはちがう選択を,民主主義的な意思決定によって行うことも可能です。
 
 「民主主義とはどういうものか」ということと,「現実の民主主義で何を決定しているか」ということは,つながってはいますが,別のことであるはずです。

 民主主義は,かずゆきさんが言われるように「実験精神」などの「良い」側面を含んでいます。
 これよりも優れた政治的原理は,おそらくないでしょう。
 しかし,そこには「取扱い注意」な面もあるということ。そして,なんだってそういうものではないでしょうか?
 「民主主義には取扱い注意な面がある」と述べることは,民主主義の建設的な面を否定することにはならないと思っています。
 そして,「民主主義」を大切に・効果的に使うには,その「取扱い注意」な部分についてわきまえておくことが必要なはずです。板倉さんが「最後の奴隷制としての…」で述べたことのくり返しですが……
2013/11/14(Thu) 22:05 | URL  | そういち #-[ 編集]
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