FC2ブログ
2013年12月03日 (火) | Edit |
 「自分で考える勉強法」シリーズの66回目。
 11月3日の記事にある新刊の電子書籍『自分で考えるための勉強法』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)も,ぜひよろしくお願いします。

自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)自分で考えるための勉強法 (Discover Digital Library)
(2013/11/01)
秋田総一郎

商品詳細を見る

 このところ,「勉強のための生活論,組織論」について述べています。
 勉強するための「時間」「場所」「人のつながり」といったことです。細かなノウハウではなく,ざっくりとした基本的な考え方。今回は,いわば「多作の構造」です。たくさんの仕事ができる人は,どうしてできるのか。


多作な人は,多作だからこそ,書くことが尽きない。

 たくさんの仕事をしている人を見ていると,「多作なのに書くことが尽きない」のではなく,「多作だからこそ,書くことが尽きないのだ」と思えます。

 どの分野にも,寡作な人と多作な人がいます。学問の世界でも,ほとんど論文を書かないまま定年を迎える大学教授がいる一方で,百も二百も論文や著作を発表している学者がいます。

 そして,多くの場合,寡作な人よりも多作な人のほうが,ひとつひとつのアウトプットの質が高いのです。
 「量」の多い人は,「質」のほうも伴っているということです。

 「やはりすごい人はちがうなあ」と言ってしまえば,それまでかもしれません。でも,「その人がすごいから」というだけでなく,そこには「多作が多作を生む」というそれなりの構造があるように思えます。

 書くことによって,人は多くの情報にめぐり合うことができます。

 書くために調べものをするときには,いろんな問いかけを持って資料にあたります。問いかけを持つことで,目的のはっきりしない読書よりも,はるかに多くのことが頭に残ります。たくさん書く人は,たくさんの知識やノウハウを蓄えることになります。

 書くことによって,人はいろんなことを考えます。

 今書いているテーマに沿ったことだけではありません。その周辺にある,いろんなことに気がつきます。「今度は,このことをやってみたい」と思えるようなテーマを,いくつも発見するのです。そこで,たくさん書く人ほど,たくさんの書きたいテーマを抱え込むことになります。

 そして,たくさん書く人は,たくさんのテーマを次々と消化するだけの知識やノウハウを持っている。だから,たくさんのテーマを次々と消化していってしまいます。

 その過程で,さらにまたたくさんの知識やノウハウを蓄え,さらにまたたくさんの書きたいテーマを発見していく……

 もちろん,私はそんな境地を体験したわけではないのですが,たぶん,そうなのです。多作な人の仕事ぶりをこの目で見たり本で読んだりすると,そう思えるのです。

(以上)
関連記事
テーマ:勉強
ジャンル:学問・文化・芸術
コメント
この記事へのコメント
この記事の域ほど崇高ではないですが・・・
そういちさん、こんにちは。
言わんとすることが何となくですが、分かります。

勉強でも同じ現象があると思います。
1つのテーマに真剣に当たると、それに付随したことを
勉強したくなり、そして幅が広がる。
ちょっと、その域に入りつつあります。
そして、益々勉強が楽しくなってくるんですよね。

私の場合、現状はアウトプットの質が非常に残念ではありますが・・・ (泣)
2013/12/03(Tue) 22:56 | URL  | たきやん。 #2HkoM2sc[ 編集]
Re: この記事の域ほど崇高ではないですが・・・
たきやん。さん,コメントありがとうございます。
 たしかに,アウトプットを伴わない,いわゆる「勉強」でも,たきやん。さんの言われるように「勉強が勉強を呼ぶ」「ひとつの関心が新たな別の関心を呼ぶ」みたいなことがあると思います。そして,アウトプットをするときは,基本的にそこに生き生きした「勉強」が伴うわけです。

 私がこの記事を書くとき,思い浮かべたのは板倉聖宣さんというすばらしい学者ですが,そのような達人ではない私たち(ふつうの人)だって,それなりのレベルやスケールで似たようなことはあると思います。
2013/12/04(Wed) 20:00 | URL  | そういち #-[ 編集]
失礼します。

先日はテレビに関する私の稚拙な意見に対し、懇切丁寧な御回答をいただき、ありがとうございました。また、それに対する御返事が遅れてしまい、大変失礼いたしました。ここ数日、少々あたふたとした日々を過ごしていましたもので(言い訳)

コメントに対するそういち様の真摯な対応、そして、相手の意見を極力尊重して下さる姿勢は、学ぶところの多いなあ、とあらためて思った次第ございます。


さて、本日の「多作と寡作」の違いですが、このことは私もしばしば考えるところでした。

そういち様のおっしゃるように、多作の人で素晴らしい人が多いことは十分わかるのですが、中には

様々な事に考えをめぐらすようなことはせず、ただ同じような主張を堂々と何度も言っているような多作家

もいますし

単なる思い付きをそのまま深く考えずに論文や本にしてしまう多作家

もいます。私の場合、どちらかというと、そういち様のおっしゃるような素晴らしい多作家に出会う機会が滅多になく、悪い意味での多作家に出会う機会が多かったように思います。そのため、私はどちらかというと

多作家はあまり信用しない方がいいな

と思っておりました。

ですが、そういち様の日記を読み、私自身、多作家に対する偏見を持っていたのだと思いました。確かに、多作家にも立派な方がいるんですよね。そういう人に私が出会えなかっただけなのかもしれません。


何が言いたかったのかわからなくなってしまいましたが、そういち様の考え方に一つ学ばせていただいたような心地がいたしました。




2013/12/05(Thu) 22:22 | URL  | どですかでん次郎 #-[ 編集]
どですかでん次郎さんへ 多作と寡作
 コメント,ありがとうございます。
 ありがたいお褒めの言葉,感謝です。励みになります。

 「多作と寡作」の問題ですね……私の今回の記事は,たしかに「素晴らしい多作家」を前提として書いています。たとえば私が直接接したことのある板倉聖宣さんという学者をまずイメージしました(ほかにも著名な学者や作家やクリエイターを思いうかべます…)。

 でも,どですかでん次郎さんのいわれるように「信用できない多作家」というのも,たしかにいますね。

 「様々な事に考えをめぐらすようなことはせず、ただ同じような主張を堂々と何度も言っているような多作家」「単なる思い付きをそのまま深く考えずに論文や本にしてしまう多作家」 という人はたしかにいます(ただし,そうであってもたとえばビジネス書のベテランの中谷彰宏のような「極端な多作」になれば,ひとつの立派な「芸」だとは思います)。

 でも,「信用できない多作家」の生み出している「作品」って,スカスカに思えるときがあります。たぶん「作品」としての総重量というか,総エネルギー量というか,総栄養量はかぎられるわけです。そういうのをほんとうに多作といえるのかどうか…

 このブログでもときどき出てくる,20世紀のデザイナー・イームズ夫妻のデザインスタジオがこなしたプロジェクトの件数は,同時代の一般的な(著名な)デザインスタジオと比べて「ヒトケタ(かそれ以上に)少ない」というものだったそうです。それでも,数十人のスタッフも「先生」も深夜まで忙しく働く毎日。そして,数々のデザインや表現の歴史に残る仕事を生みだしました。
 こういう場合は,まさに「多作」といっていいのでしょう。
 イームズは,同時代の同業者からみたら「寡作」にみえたかもしれないけど,後世からみると「素晴らしい多作家」だった,ということになります。

 いろいろ書きましたが,「多作・寡作」ということには「生み出した作品の,総エネルギー量(作品の質・価値といってもいいのでしょうが)」が,やはり大きく関わってくると思います。

 私自身は「寡作と多作」の問題そのものについては,今回の記事では掘り下げていませんでした。
 今回頂いたコメントが刺激になって,少しだけですが考えることができました。いつもながら,ありがとうございます。
2013/12/06(Fri) 08:17 | URL  | そういち #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック