FC2ブログ
2014年05月16日 (金) | Edit |
 今回は,昨年11月の記事の再録です。
 「民主主義(多数決)には,少数派に奴隷的な服従を強いる側面がある」ということがテーマ。

 最近,そのことを考えざるを得ない状況が身の回りにあるのです。
 自分の属するコミュニティで,重要なことがらに関し,私には賛成できないことを公式に決議しようという動きがある。決議しだいで,私の日常に重大な影響が及ぶ。
 この記事に書いたことを,「身近な自分の問題」として実感しています。

 ***

 社会では,ある人たちが民主主義や自由を享受するためには,別の人たちには一種の「奴隷」になることが強いられるのかもしれません。

 少なくとも,古い時代の生産や技術の水準では,そうならざるを得ませんでした。

 「民主主義」で有名な古代ギリシア(今から2400~2500年前)にも,奴隷がいました。
 それは,一説には全人口の2~3割程度で,多数派ではなかったようです(「半分程度」ともいわれるが,いずれにせよ「奴隷のほうが市民とその家族よりもずっと多い」ということではない。なお,参政権などのある「市民」は,古代ギリシアでは男性のみ)。

 でも,その「2~3割」がめんどうな家事や労働を担うことで,快適な暮らしや余暇を得た人たちがいたのです。ギリシア社会の,比較的恵まれた人たちはそうでした。
 そのような人たちが,古代ギリシアの政治や文化を担いました。
 ギリシアの民主主義には,奴隷が必要だった,とさえいえるでしょう。
 「必要」とされる側は,たまったものではありませんが。

 しかし,当時の技術や生産力では,社会の多数派の人たちが,「自由」を感じられるような物質的・時間的な余裕を得ることは無理でした。
 それは,近代以前のすべての社会にあてはまることでしょう。

 古代ギリシアの奴隷は「商品」として売買されました。
 このように「人間が売買の対象になる」というのが「奴隷」ということです。

 そのような立場におかれた人たちは,世界史において広く存在しています。

 前近代の農民のかなりの人たちは,自分の住む土地を離れることはできず,その土地を支配する領主の所有物のように扱われました。領主によって土地といっしょに売買されることもあったのです。そのような不自由な農民を「農奴」と呼ぶこともあります。

 世界の歴史の流れは,かつては広くみられた「奴隷」的な立場の人たちを,だんだんと少数の「例外」にしていきました。

 ***

 そのような「世界史」の最先端に,現代の先進国の,民主的な社会があります。
 でも,そこにもやはり,「奴隷」はいます。

 ひとつは,違法なのだけど,いろんな事情で奴隷的労働を強いられている人たち。この人たちは,その労働がイヤでもやめることができない。普通の労働契約とはちがう状況で働いています。かなりの人たちは,背負った借金を返すために,そういう目にあっています。

 でも,現代の「奴隷」は,それだけではありません。
 奴隷という言葉は,「売買の対象となる人間」ではなく,もっと広く「自分の意志に反することに従わざるを得ない人」と定義することもできます。

 そのように定義すると,「奴隷」の状態を経験したことのある人は,世の中にたくさんいるのではないでしょうか。

 たとえば中学のころ,「アイドルの写真を学校に持ってくるのは禁止」というルールがありました。そういうことを生徒会で決めたりする。
 写真がみつかると没収されるので,不本意だけど好きなアイドルの写真を持っていくのをやめる……ささやかなことですが,そういうのだって,「意志に反することに従う」という意味で,「奴隷」的です。

 もう少し重たい例だと,喫煙者が今の「禁煙」の拡大の中で,タバコを吸うことをいろんな場でガマンする,というのはそうです。これも,意に沿わないことを強いられているのだと思います(なお,私はタバコは吸いません)。

 さらにずっと大きなことだと,自分の村や町にダムができる,原発ができる,「基地」ができる,といったことがあります。

 こういうとき,「賛成」と「反対」があり,結局は多数決で決まるわけですが,そのときの少数派の人たちは,深刻なかたちで「意志に反することに従う」のを強いられるわけです。不本意なかたちで,生活を大きく変えないといけないのです。

 前回の記事(2013年11月9日)で述べた「古い団地の建て替え」も同様です。
 その記事で述べた「諏訪団地」は,9割以上の賛成で建て替えとなりましたが,全員が賛成だったわけではありません。ということは,涙をのんだ少数派がいたわけです。その人たちも,不本意なかたちで自分の住まいや生活を大きく変えることになりました。

 もっと広い範囲にかかわる話だと,「税金」のことはまさにそう。今回の消費税アップに納得できない人も,国会で決議されたことであれば,従わざるを得ません。

 ***

 以上のような,現代における「奴隷」的状態には,たいていは「民主主義」「多数決」がかかわっています。

 多数決は民主主義の「最重要ツール」といっていいでしょう。

 2013年10月31日の記事「民主主義とは,政治的な意思決定に対し,それに従う多数派が参加すること」だと述べました。
 古い社会では,政治的なことは1人か少数の権力者が決めていました。それ以外の「ものごとの決め方」といったら,話し合いで折り合いがつかなければ,「多数決」くらいしかありません。多数派の人間がみんなで意思決定するのだから,そうなります。

 しかし,多数決というのは,決議での決定に反対であった少数派をも,その決定に従わせるのがふつうです。つまり,少数派を「奴隷」的な状態におく面があります。

 私が尊敬する学者の板倉聖宣さんは,1980年代に書かれたエッセイで「最後の奴隷制としての多数決原理(あるいは民主主義)」ということを,述べました。(「最後の奴隷制としての多数決原理」『社会の法則と民主主義』仮説社,1988)

 たとえばこんなことを,板倉さんは述べています。

《…私は,〈多数決というのは,もともと少数派を奴隷的な状態に置く決議法である〉という理解のもとに,〈できるだけ決議をしないことが大切だ〉と考えています。〈決議をするときは,少数派を奴隷にしなければならないほどに切実なことだけを決議しろ〉というのです。》(『社会の法則と民主主義』45ページ)

 そして,《民主主義の恐ろしさを知って民主主義を守る》ことが大切である,と言います。

《…私は――今のところ民主主義よりもいいものがない以上――その民主主義を守るために,〈民主主義は時によってはもっとも恐ろしい奴隷主義にもなりかねない〉ということを承知の上で事にあたる人々が増えることを期待して止まないのです。》(49ページ)

社会の法則と民主主義―創造的に生きるための発想法社会の法則と民主主義―創造的に生きるための発想法
(1988/06/10)
板倉 聖宣

商品詳細を見る

 ここで述べてきた「奴隷」の定義や,「現代の民主主義で〈少数派〉という奴隷が生じる」という考え方を,私は板倉さんのエッセイで知りました(学生時代のことです)。

 板倉さんのエッセイは,30年ほど前の,今よりもずっと「民主主義」という言葉に権威や信頼感があった時代のものです。その発想の先進性や鋭さには,やはり驚かされます。民主主義のさまざまな側面を,簡潔にやさしく述べた「民主主義の取り扱い説明書」として,ぜひ読んでみてください。

 ***

 板倉さんの論から,私はつぎのように考えました。

 今の民主主義というのは,社会のそれぞれの人たちが,その立場や状況に応じて一種の「パートタイム」で「奴隷」になっているのではないか

 「持ち回りの奴隷制」といっていいかもしれません。

 民主主義とは,「持ち回りの奴隷制」ということ。

 現実の社会では,じつは特権的な人もいて,「持ち回りの奴隷制」の輪の外にいたりするかもしれません。しかし,民主主義がめざす理想としては,「みんなが等しく〈持ち回り〉で〈パート奴隷〉を引き受ける」ということなのでしょう。

 でも,「パート」であっても,やはり「奴隷」はイヤです。

 だから,「奴隷」がまわってくる機会をいかに減らすかが,今の文明の課題です。
 そのための最大の手段は,技術革新や生産性の向上です。

 極論をいえば,みんなが欲しがるものをローコストでいくらでも生産できるようになれば,あるいはどんな病気でもすぐに治せるようになったら,また,なんでも面倒なことをやってくれるロボットが普及したら,人びとに「奴隷」を強いる必要はほぼなくなるでしょう。

 しかし,今の科学技術は,そこまでいっていません。
 そしてさらに,現代では「民主主義」の思想が一層深まってきて,「少数派を奴隷状態におく」ことへの反省や疑念が多少は自覚されるようになりました。
 また,「少数派」の自己主張というのもつよくなっています。そして,「自分が割を食う,苦しめられる」ことに対する抗議の声も,昔より相当強くあがるようになりました。要するに「みんなうるさくなった」ということ。

 だから,現代の社会では,「奴隷」を引き受けてくれる人をみつけるのが,以前よりも難しくなっているのです。

 でも,社会は一定の「奴隷」を,今も必要としています。「何でもやってくれるロボット」ができていない以上,そうなのです。どうすればいいのか……

 ***

 現代の民主主義では,ある種の新しい「奴隷」が発見され,そのフロンティアが開拓されたのだと,私は思います。

 その「新しい奴隷」とは,「未来の世代」です。


 放漫な国家財政で,今現在の自分たちのニーズを満たし,そのツケを将来の世代にまわすということが,現代の先進国では行われがちです。

 それはおもに,高齢化のなかで社会保障費(おもに高齢者の福祉)が大幅に増えるというかたちでおこっています。

 そのような財政であっても,若い世代は驚くほどおとなしいです。現代の先進国の政治で多数派である高齢者の決めたことに対し,大きな反発はおきていません。とくに日本ではその傾向が顕著です。

 そして,子供や赤ん坊やまだ生まれていない世代には,このことに関しなんの発言権もありません。「そんな財政赤字を積み上げるのはやめて」とは,絶対言わない。彼らは「多数決」の外にいるのです。その点では,ギリシアの奴隷と同じです。

 高齢者や,それに近い大人世代は,未来の世代を「奴隷」にしている。
 これが,現代における「民主主義」の到達点。
 
 ずいぶん「どぎつい」言い方なのかもしれませんが,重要な視点だと思っています。不快かもしれませんが,少しは意識すべき見方だと思うのです。
 
(以上)  
関連記事
コメント
この記事へのコメント
極論をいえば,みんなが欲しがるものをローコストでいくらでも生産できるようになれば,あるいはどんな病気でもすぐに治せるようになったら,また,なんでも面倒なことをやってくれるロボットが普及したら,人びとに「奴隷」を強いる必要はほぼなくなるでしょう。

面倒なことをやってくれる,ロボットの出現ですね。でも,それにより「奴隷」労働を減らす事はできると思いますが,根本的な「奴隷」は減らせない気がします。「奴隷」状態がより複雑になってくるのではないでしょうか。今度はそのロボットの「奴隷」なってしまうとかです。


民主主義の多数決で決められたことでも,「納得できなければ,従わない自由があること」が必要な気がします。お互いに痛めつけあわないというルールがあってのことです。すごく難しいですが。人は関係の中で,決まりごとを築き,少しでも過ごしやすい環境をつくってきました。この地球に生きるために,そうせざるをえなかったのでしょう。そのために知恵を出し合い,方向性を探りながら歩んできたのだと思います。その都度,「奴隷」状態の部分を作りながら。また方向で進んだ結果で,新たな方向性を探り新たな「奴隷」状態を作り出す。いわば,手探りの「実験」を積んでいっているのでしょう。社会の方向性は実験結果が,人の人生に比して出るのが時間がかかりますから,方向性の変更に時間がかかり,長期的な「奴隷」になってしまいます。こまったものです。

経済的な「奴隷」状態を解消し,人々が精神的な「奴隷」状態を減らしていく方策がとれないでしょうか。ふと思う事があります。

確かに財政破綻を後世に,押し付けていることは分かります。リーダーの様々な施策の実験結果なのですから。私たちの身から出たザビともいえます。
原発の問題も,年金問題も,財政問題も,平和の問題も……。その時は多数派が正しいと考えても,その結果は10年・20年…50年もの後に出てきます。その間には「奴隷」が存続してしまいます。なんとも民主主義は怖いものです。失敗したりうまくいったり。民主主義は生き物です。未来はどうなるか分かりません。だから過ごしやすい社会をつくる可能性が,あるのかも知れません。

とりとめもないことを書いてしまいました。
2014/05/17(Sat) 08:24 | URL  | かずゆき #-[ 編集]
かずゆきさんへ
コメント,ありがとうございます。
古典的な「奴隷状態」というのは,やはり経済や技術の発展や,人道的な考え方(人権思想など)の普及などによって,減ってきているとは思います。

そして,「奴隷状態」のあり方も,時代によって変化している。
新しい状況や問題があらわれるたび,それを克服することも行われてきた。
しかし,結果が出るのに時間がかかってしまうことも多い。
それが大きな不幸を生む。

おっしゃるのは,そのようなことかと。
私も以上の点,同感です。

「民主主義的に決めたことでも,納得がいかなければ従わない自由があることが大事」
というのも,まさにそのとおりだと思います。

悩ましいのは,現実には「従わない自由」が成立しない場面が多々あることです。
つまり,「逃げ場」のない意思決定というのが,世の中にはある。

たとえば今回の記事で例としてあげた,「基地やダムなどの建設」「団地の建替え」などはそうです。もしもそれが決まった場合,反対している人はどうしようもない。不本意な決定に従って自分の生活を変えざるを得ないのです。

その決定に「逃げ場」がないことについては,よくよく慎重に考えないといけないはずです。

しかし,「逃げ場」のない決定をともなうのに,「これは正しい,良いことだ,経済的にもメリットがある。みんなで決めておしすすめよう」ということが世の中にはかなりあると思います。

そして,それを「おしすすめよう」という人たちの視野には,たいていの場合「その決定によって奴隷状態におかれる人」のことは考慮に入っていない。

「〇〇の建設に反対なら,さっさと自分の家・土地を売って出ていけばいいではないか」と平然と言ったりするわけです。言わないとしても本気でそう思っていたりする。
「自分たちは正しい,みんなそう思うでしょ?これに反対するのはおかしいよ」という前提を疑わないことがあるのです。
そういう動きは,冷静にみる必要があります。

以上のような視点を持てる人が増えると,世の中の不幸な「奴隷状態」を少しは減らせるはず。
結局,板倉さんの述べていることと同じですね。
2014/05/17(Sat) 10:01 | URL  | そういち #-[ 編集]
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック