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2014年06月28日 (土) | Edit |
サラエボ事件・100年前の今日

 ちょうど100年前の今日,1914年6月28日は,第一次世界大戦(1914~1918)のきっかけとなった事件が起こった日です。
 それは,「サラエボ事件」というもの。
 オーストリアの皇太子が,ボスニアのサラエボという都市で,セルビア人の青年によって銃で暗殺された事件。

 「ボスニア」「セルビア」は,「バルカン半島」という地域に属します。
 「バルカン半島」は,南はギリシャやトルコ,東はロシア,西はオーストリアやドイツなどに囲まれた地域。さまざまな大国に囲まれた「狭間(はざま)の地域」といっていいです。
 
 ではなぜ,暗殺がおきたのか? セルビアは当時,オーストリアの圧迫を受けていました。それに反発し,オーストリアに抵抗する一派がこれを行ったのでした。

 当時のオーストリアは,今のような限定された範囲の共和国ではありません。ヨーロッパの複数の民族を支配する「帝国」でした。複数の民族とその領域を支配下におく国を「帝国」というのです。

 その帝国に君臨するのが「ハプスブルグ家」という王家。
 そこでこの帝国は「ハプスブルグ帝国」といわれました。
 このころ(1900年代初頭)のハプスブルグ帝国は,すでにかなり衰退していました。しかし,最盛期(1500~1600年代)にはドイツ,オーストリア,スペイン,ハンガリー,チェコなどヨーロッパの広い範囲を支配する一大勢力でした。

 オーストリア皇太子の暗殺は,セルビア人の一派がハプスブルグ帝国に反旗をひるがえしたということです。
 オーストリアは,セルビアに軍をすすめました。戦争です。


「大戦」となった経緯

 では,どういう経緯で「サラエボ事件」が,ハプスブルグ帝国内の地域紛争で終わらずに,「世界大戦」にまで広がってしまったのでしょう? 

 それは,ハプスブルグ帝国の周辺には,さまざまな立場の大国があり,セルビアでの戦争をめぐって,それぞれの大国が敵・味方に分かれて対立することになったからです。
 
 まず,オーストリアとセルビアの戦争にかんしては,ロシアがセルビア側として介入してきました。
 当時のロシアは,バルカン半島に勢力を伸ばそうとしていて(今もそうですが),オーストリアと対立していたのです。

 そして,オーストリアには,ドイツという仲間がいました。ドイツとオーストリアは民族的・文化的に近しい関係にありました。

 当時のドイツは,ヨーロッパのなかで「新興の超大国」といえる存在。イギリスやフランスよりもやや遅れて近代化がはじまったものの,急発展の結果,第1次世界大戦の前夜にはヨーロッパ最大の工業力を持つほどになっていました。

 そして,ドイツには英国とフランスという「敵」がいました。
 ドイツは,先に近代化をすすめ,アジア・アフリカの植民地支配などで優位に立つ英仏に対抗心を抱いていました。英仏も,ドイツをけん制していました。

 そして,当時のドイツは近東(バルカン半島,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトなど)で勢力を伸ばそうとしており,すでに近東で一定の勢力を築いていた英国と対立していました。
 また,ドイツとフランスのあいだには国境をめぐる深刻な対立がありました。

 ドイツはオーストリアの味方をして,セルビアとロシアとの戦争をはじめました。

 こんなとき,ドイツとしては「宿敵」の英国やフランスが恐ろしいものです。ロシアとの戦争をしているあいだに,「宿敵」が攻めてこないか。

 そこで,ドイツの権力中枢では「攻められる前にフランスを攻めてしまえ」という方針が力を持つようになり,それが実行されました。ドイツとフランスの戦争です。
 こうなると,英国もだまっていません。英国とドイツの戦争もはじまりました。

 そして,ドイツと英国が勢力争いをしていた「近東」というのは,「オスマン・トルコ」というイスラムの帝国の領域でもありました。

 オスマン・トルコは,当時のイスラム世界の最大の国でした。さきほど述べたように,バルカン半島の一部,今のトルコ,イラク,シリア,エジプトといった広い範囲を支配していました。
 しかし,1800年代以降は衰退しはじめ,欧米列強の侵略・圧迫を受けていたのです。

 オスマン・トルコは,迷いはありましたが,ドイツの側につきました。当時のトルコにとって最大の脅威はロシアでした。当時のロシアはトルコに対する圧迫を強めていたのです。そして,ロシアの「敵」であるドイツは,純粋に味方とはいえないが,「敵の敵はとりあえず友」ということです。

 この戦争をはじめた政治家・軍人たちの多くは,当初「この戦争は短期で決着する」と思っていました。
 ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。
 
 当時の人びとと今の私たちでは,「戦争」にたいするイメージは,かなり異なっていました。

 「戦争」というと,私たちがまず思いうかべるのは「世界大戦」です。「総力戦」といって,軍人だけでなく国民全体が巻き込まれて大惨事となる,というイメージ。

 しかし,当時の人びとにはそのような「戦争」のイメージがありません。「総力戦」というのは,世界大戦以降のことです。だから,今よりも「戦争」への心理的なハードルが低かったのです。


第1次世界大戦の2つの陣営 

 アメリカ合衆国は当初,ヨーロッパでの大戦については「不参加」の方針でしたが,後半からは英仏側で参戦しました。アメリカは,英国とは経済的にも文化的にも親密な関係にありました。

 日本は,この戦争には積極的には参加しませんでしたが,英仏側に加わっています。
 
 以上のような経緯や相関関係のもとに,2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。
 2つの勢力とは,つぎのとおり。

 【連合国陣営】  英国,アメリカ,フランス,ロシア,日本など
 【同盟国陣営】  ドイツ,オーストリア,オスマン・トルコなど


大戦の結果・重要なのは帝国の解体・滅亡

 では,第1次世界大戦はどのような結末をむかえ,その後の世界にどんな影響を残したのでしょうか。

 「その後の影響」には,いろんな側面がありますが,ここでは「国家間の勢力関係」という視点でみてみましょう。

 まず,この大戦は英米仏などの「連合国」側の勝利でおわりました。
 しかし,敗者にも勝利者にも,大きな被害をもたらしました。
 何しろこの戦争で,死傷者は軍人・民間人をあわせて1800万人にもなったのです。(『角川世界史辞典』による)

 そして,この戦争の影響で,世界の勢力図は大きく変わっていきました。
 現代からみて,その変化の最も大事なものは「帝国の解体・滅亡」ということです。

 つまり,古代・中世以来の世界を支配してきた前近代的な「帝国」が,第1次世界大戦の結果,ほとんど滅びてしまったのです。

 まず,敗戦の結果,連合国側によってオーストリアのハプスブルグ家の支配体制は解体させられました。一時は全ヨーロッパの覇者であったハプスブルグ帝国はこれで終わりました。

 それから,ロシア帝国。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代以降続くロマノフ王朝の支配下にありました。しかし,大戦中に戦時下の混乱のなかで,1917年にロマノフ朝を倒す革命が起こりました。

 そして,ロシア帝国の体制にかわって,ソビエト社会主義共和国連邦が成立しました(この体制は1991年まで続きました)。

 ロシアは,戦勝国側の一員だったわけですが,その体制は戦争を引き金に,革命によって崩壊したのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。トルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となりました。そのなかで,オスマン帝国を倒す革命がおこります。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国の建国者は,新しいトルコの領域を,トルコ人が多数や主流を占める「アナトリア地方」に限定しました。つまり,現在のトルコ共和国の範囲です。

 オスマン帝国の領域だったそれ以外の地域(イラク,シリア,エジプトなど)は,トルコ人とは異なる「アラブ人」という人びとが主流を占めていました。オスマン帝国が滅びたあとは,それぞれの地域でいくつもの国や領域ができ,紆余曲折を経て現在の「アラブ諸国」につながっていきます。

 近代以前の世界では,ある有力な民族・王国が,ほかの国ぐにを武力で支配し,大きな「帝国」をつくるということが一般的に行われてきました。「ローマ帝国」や,「漢」のような「中華帝国」などはそうです。

 そのような大きな「帝国」が,昔の世界の「主役」だったといっていいでしょう。

 しかし,近代になって(だいたい1500年ころ以降),ヨーロッパで形成された「民族国家」「国民国家」というものが台頭してきます。
 
 「帝国」のようにさまざまな民族を支配下におく巨大化した国ではなく,もっと民族的に限定された範囲でまとまった国。帝国よりも小粒だけれど,国としてのまとまりはしっかりしており,強靭さを備えている。そんな国のあり方が有力になってきました。

 1900年ころまでには,「帝国」というものは,ほぼ「過去の遺物」になっていました。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝が倒されるという革命が起こって,翌年には「中華民国」が成立しています(この国は第二次世界大戦が終わって間もなく(1949年)に成立した,現在の中華人民共和国にとってかわられます)。

 このような「帝国の滅亡」という流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえるでしょう。
 「古代・中世の遺物の一掃」といってもいいです。

 そのような「流れ」や「結末」」など,戦争の当事者たちは意識していなかったはずです。
 しかし,歴史は大きく動いていった。

 第1次世界大戦は「古代・中世の遺物」を一掃したのです。
 けっきょくそれは「国民国家」のような近代的な国のあり方が勝利した,ということです。
 戦争の直接的な「勝ち負け」以外に,そのような大きな歴史の流れにおける「勝ち負け」があったのです。
 

第二次世界大戦がもたらしたものは?

 さて,第1次世界大戦が終わって20年余りのち,世界は再び大戦争に突入します。第2次世界大戦(1939~1945)です。
 第2次世界大戦がもたらしたものは何だったのか?

 ここで述べた文脈でいうと,この戦争の根底には「国民国家のあり方をめぐる基本的な対立」があったといえるでしょう。

 つまり,西欧的な自由民主主義の体制と,それへの対抗馬である「ファシズム」体制の対立。
 それは「国民国家」という枠組みを前提としたうえでの対立です。

 そして「自由民主主義」的な陣営の勝利で終わった。戦後はドイツ(西ドイツ)も日本もその陣営に加わった。
 
 このことはまた別の機会に。

 とにかく,第1次世界大戦から,もう100年なんですね。
 今年は,この大戦について考えるいい機会です。

 この大戦は「現代」の出発点といえるものでした。だから,第1次世界大戦のことを少し知っておくのは,現代の世界を考えるうえで,ムダではないはずです。

  関連記事:二番手はどうなった? 近代における大国の興亡

(以上)
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