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2014年07月05日 (土) | Edit |
 前回の記事(今月の名言)で,哲学者ヘーゲルの言葉とされる「自由とは必然性の洞察」を取りあげたところ,読者の方から頂いたコメントに,つぎのようなお話がありました。

《 ヘーゲルはなんとなく僕にとって印象がよくないんです。僕自身がキルケゴールから哲学に入っていったということもあるでしょうし、なんとなく批判の対象になっているイメージが強く、今までその著作に触れることなしにきてしまいましたが、そういちさんはどのようにお考えでしょうか?
  もし、なにかおすすめの作品、ヘーゲルについてのなにかアドバイスございましたら、おねがいできないでしょうか。》


 コメントをくださったのは,ブログ孤独な放浪者の随想の著者hajimeさん。
 同ブログは,若い読書家である著者が,さまざまな古典を引用しながら思索していく,という記事がメインになっています。前回の記事で,私はヘーゲルのほかにデフォーの『ロビンソン・クルーソー』からの言葉も引用しましたが,これは同ブログの記事で知ったのでした。

 以下は,頂いたコメントに対する返信に手を加えたものです。

 ***

 キルケゴールに思い入れがあるとなると,たしかにヘーゲルは印象が悪くなりますね。
 両者の哲学は,同じ「哲学」といっても,全然別の学問だと思います。
 「昔のテツガクと今のテツガクの違い」といったらいいでしょうか。

*キルケゴール(1813~55,デンマーク)「ヘーゲル学派」的な抽象的な一般論を展開する哲学を批判し,自己の体験に基づいた主体的な思考を追求した哲学者。20世紀の哲学にも大きな影響を与えた。

*ヘーゲル(1770~1831,ドイツ)近代哲学を集大成した哲学者。その哲学は「客観的観念論」といわれ,この世界を「絶対精神の自己展開の場」としてとらえる理論を説いた・・・なんだそれは?という話ですが,「絶対精神」というのは,とりあえず非常に抽象化された「神」のようなものだとイメージすればいいでしょう。絶対精神はそのなかに「矛盾」(「矛盾≒対立」ととりあえず理解)を背負っていて,その矛盾をより高いレベルで統一・解決する方向で生成・展開していく。そのような運動・変化がこの宇宙や社会を貫いている,というのです。うーんたしかに抽象的です。


 キルケゴールの哲学は,乱暴な言い方をすれば「人生論を学問的・論理的に深く述べたもの」といえるでしょう。それが「今のテツガク」です。現代の哲学は,その扱う世界を「人生論」や「倫理学」,あるいは「論理学」などに限定しています。

 ところが,ヘーゲルの哲学は,もっと大風呂敷です。
 つまり「森羅万象の論理を究める」というのが,彼の哲学。
 これは「昔のテツガク」に属します。(「森羅万象の学」としての哲学,という見方は板倉聖宣さんの著作からのものです)。

 ヘーゲルは,いかにも「哲学」な感じの論理学などについて述べるだけではありません。彼の学位論文は「惑星軌道論」でした。『エンチュクロペディー』という著作では,電気学などの当時の「先端科学」についても論じています。そして,世界史や法学のような社会科学的な分野でも独自の理論を展開しているのです。
 
 そのような学問的な作業のうえに「世界についての一般理論」といえる彼の「論理学」の世界があります。

 **

 このような「昔のテツガク」の世界は,ヘーゲル以前から大きな流れとして長く続いてきたものでした。

 ヘーゲルより数十年前の大哲学者カントも,ヘーゲルと同様の取り組みをしたといえます。彼の学位論文は「星雲説(太陽系生成の理論)」でしたし,今でいう地理・歴史や法学や心理学などさまざまな学問分野をふまえて,彼の理論は構築されています。

  「近代哲学の元祖」といえる,フランシス・ベーコンやデカルトやジョン・ロックも,自然科学にたいする強い関心や素養がありました。
 たとえばベーコンは「科学技術を基礎とする産業国家」を構想しました。デカルトが数学や自然科学の領域を真正面から扱っていることは比較的よく知られています。ジョン・ロックは若いころは医学を学んでいます。

 そのような「森羅万象の学」の元祖は,古代ギリシアのアリストテレス(紀元前4世紀)です。
 岩波書店の「アリストレス全集」は1冊平均500ページほどで全17巻。論理学,政治学,経済学,心理学,力学,天文学,気象学,生物学,生理学等々を扱った論文集です。

 しかし,このような「森羅万象の学としての哲学」というのは,今は骨董品です。
 ヘーゲル以後(1800年代半ば以降)は,「科学」の時代になります。つまり「森羅万象の学」ではなく,「個別的・専門的な領域を究める学」の時代になるわけです。
 ヘーゲルは「昔のテツガク」の最後の巨匠といっていいでしょう。「昔のテツガクの総決算」的な存在です。

 キルケゴールの時代(1800年代半ば)になれば,ヘーゲルのような「森羅万象の学」の感覚で世界を解釈する「哲学」など時代錯誤になりつつあった,といえるでしょう。

 哲学者が個別科学的な領域で「ああだ,こうだ」といっても,科学研究がすすめばボロがいっぱい出てくるわけです。1800年代は,哲学的な学問を「過去」のものにしてしまうような,自然科学の成果がつぎつぎとあらわれはじめた時代でした。

 それなら,テツガクが生き残るにはどうすればいいか? 「人はいかに生きるべきか」的な,科学にはなりにくいテーマに,哲学の仕事を限定するしかないのです。

 キルケゴールは,そんな時代のなかで,哲学を「大風呂敷な森羅万象の学」から「学的(哲学的・理論的な)人生論」に再編した1人だと思います。「今のテツガク」をつくるうえで重要な仕事をした哲学者だったということです。

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 でも,ヘーゲル的な「森羅万象の学」って,私は魅力的だと思っています。やはり大風呂敷な魅力がある。
 なじめない人もいると思いますが,「これはこれでそういうものだ」と思ってみていただければいいと思うのです。

 南郷継正という思想家は,へ―ゲル哲学の感覚を「世界を手のひらに乗せる」(ようなものだ)と説明していました。キルケゴールに言わせれば,「手のひらに乗せて眺めて何になる」ということでしょう。「私たちは世界の中で生きているんだから,世界の『中』にいる人間の視点でものを考えるべきだ」というわけです。

 たしかにそれも一理あります。でも,たまには「手のひら」に乗せるような感覚で,この世界について考えてみてもいいのではないでしょうか。そこで得られるものもあるはずです。

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 ヘーゲル入門でオススメはつぎの2つです。もしよろしければ。
 でも,私も「入門」のままで終わっているのでしょう・・・
 
 『哲学史序論』岩波文庫  冒頭の「就任演説」だけでも。
 『歴史哲学講義 上・下』岩波文庫  長谷川宏氏による新しい感覚の翻訳で読みやすい。

  ヘーゲルについては,私は南郷継正さんの著作を通して入門したのでした。『哲学史序論』は,南郷さんが「ヘーゲル入門」として紹介していたのです。

 コメントいただいたおかげで,前から書いてみたいと思っていたことを書く機会となりました。ありがとうございます。またよろしくお願いします。

(以上) 
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コメント
この記事へのコメント
はじめまして。
こんばんは。以前から時折読みにきておりました,はじめてコメントいたします。
わたしもヘーゲルは一時期夢中になりました。
ごぞんじのとおり大乘佛教の,“空”の理論は,西洋では,弁証法的にヘーゲルやベーメとあわせてよく分析されますね。とても神秘主義的な展開にもなりますが,森羅万象とはやはり東西共通なのでしょうね。
おっしゃられるところの“「世界を手のひらに乗せる」(ようなものだ)と説明”されたというのはひじょうに腑に落ちるものがあります。
仏陀掌の大乘,ということかもしれませんね。
わたしはヘーゲルには東洋と西洋の融合を見て,心癒されております。

突然お邪魔して取り留めなく書いてしまいました。失礼いたしました。
大暑の時候,ご自愛くださいませ

PS拍手コメに名前を記入し忘れました・・・・
2014/07/26(Sat) 00:04 | URL  | 玄少子 #3E8HQ5Yc[ 編集]
Re: はじめまして。
玄少子さん,コメントありがとうございます。私も貴ブログをときどき拝見しており,お声掛けいただき,うれしいかぎりです。

貴ブログの世界については,残念ながら私は素養や知識がありません。でも,色使いや文字・レイアウトなどの美しいブログだなーと思いながら,まさに眺めておりました。中国の古典というある意味「シブい」テーマでありながら「モダン」な雰囲気を感じます。そして,その内容を具体的には理解できなくても,「充実した内容である」ということがページから伝わってきます。

「世界を手のひらにのせる」ということは,釈迦もアリストテレスも中国の諸子百家も,それぞれの方法で行っているのだと思います。紀元前の偉大な「人類の教師」たちは,そういう「大きな視点」でものを考えている。

ただ,そこには「それぞれのやり方」があるのでしょう。アリストテレスはたとえば何百もの動物を解剖・観察したりして,そんな作業を積み重ねて「世界を手のひらに」ということを行おうとしました。こういう「科学」みたいなやり方は,今は「常識」かもしれませんが,やはり世界の思想のなかで特異なものだと思います。

諸子百家(あるいは古代中国)にも,「多数の生物を解剖し,生命や自然を論じた博物学者」のような人物はいるのでしょうか?司馬遷のように「歴史上の国家・社会・特筆すべき人物」についての資料を博物学者のように集めた学者はいるわけですよね・・・アリストテレスもギリシアの百数十のポリスの政体について,調査・研究を行っています。

なんだかまとまりのない話になりましたが,コメントをいただき,そんなことをぼんやりと考えました。
今後ともよろしくお願いいたします。
2014/07/27(Sun) 09:12 | URL  | そういち #-[ 編集]
お返事ありがとうございます。わたしは自然科学に,とんとウトイのですが,たいがいまっくらに常識ない,わたしにさえ,そういちさんのブログは分かりやすく,文章書きの極意をつかんでらっしゃるなあと,ほとほと感心しながら勉強させてもらっているんです。
幅広い意味での“社会の福祉”を柔軟にこなしてらっしゃる“知の用いられ方”はすがすがしくて,うらやましくあります。

だものですから,中國古代の自然科学を,相対的に西洋とは比べられないのですが,天文学,はやはりそうとう発達していたようです。日食月食は殷代からぼちぼち規律的な記述をこころみたあとが見られるということです。
また前11世紀には,(春秋時代の伝説として)殷末期周王朝が“測景台”を建立して,春分点を測出していたそうですよ?笑ってませんか?だいじょうぶでしょうか,何しろ,とんとウトいので・・・・。

確実なところでは,孔子の『春秋』では彗星の記述は,BC603年から続けられます。

中国の前四世紀(いわゆる稷下の学士ですね)の法家で慎到というひとは

「天形如彈丸,半覆地上,半隱地下,其勢斜倚」

つまり天形,彈丸のごとし,半ば地の上部,を覆い半ば地の下部を覆い,其姿勢は斜めに倚りかかる,というかんじでしょうか。そんなことを提示しています。しかし自然科学的な実証ということではないのでしょう。

またそこらへんを即席に調べてみればそのころ「黄赤交角」も測出していたと書いてありますねえ。
「黄赤交角」とは,地球と天王星と金星の「転軸傾角」?をあらわすε(Epsilon)?のことだと。まったくわたしはちんぷんかんぷん,ですが。

周王朝などの年代については例によって白髪三千丈式,の眉ツバでしょうが・・・・。いずれにせよ古くより天文の知識は発達していました。前二世紀にはそれこそ司馬遷は《天官書》に詳細な天文と氣象,また地理についての記録を詳述しています。

医学,人体,というのはどうなんでしょう。五臓六腑は陰陽五行説と密に絡み合って理論は構築されてはいたでしょうが・・・・。
ご存知李小龍の師匠など輩出した広東仏山の武術医術は,針による麻酔術の精妙など西洋人をおどろかせたそうですね,^^(笑)
はなしがとりとめなくなりました。

我が家近辺の雷雨もおさまりました。
またおじゃましにまいります。今後ともどうぞよろしくお願いいたします
2014/07/27(Sun) 16:50 | URL  | 玄少子 #3E8HQ5Yc[ 編集]
玄少子さんへ
こちらこそ,詳細なお返事をいただきありがとうございます。
即席で調べて,こんなにいろんなお話しが出てくるとは。
本当に詳しい方というのは,そういうものなのですね・・・

今回教えていただいたことのなかで,とくに「!」と思ったのは,「司馬遷が天文,気象,地理について詳述している」というお話しです。

そこで思い出したのが,川勝義雄という中国史家が述べていたことで,「司馬遷は,西洋の学問と対比するならヘロドトスではなく,アリストテレスに相当する」という見方です(『中国人の歴史意識』平凡社ライブラリー)。
アリストテレスも司馬遷も,その後の学問のお手本になるような総合的な学問体系を残した,というのです。

昔,それを読んだとき「そうかなー?」という感じだったのですが,さきほど本棚からその本を引っ張り出してちらっと読み返すと,「なるほど」と思えるところがありました。

私は司馬遷もろくに知りません。少しは読みたいものだ,と思いました。少しだけでも知っておくと,中国の文化や精神の大事な面を,より理解できるような気がします(そりゃそうだ,ということなのでしょうが)。

勝手に考えを展開してしまっていますが,知識や刺激をいただいたおかげです。
たのしい対話をありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。
2014/07/28(Mon) 22:58 | URL  | そういち #-[ 編集]
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