2015年10月27日 (火) | Edit |
 今,「1時間くらいでざっと読める世界史の通史」の原稿を書いています。 以前にアップした「1万文字の世界史」という記事の改訂版です。

 近いうちにこれを小冊子にしてリリース・販売します。タイトルは仮に「1時間の世界史」というのを考えています。自分で行うインディーズ出版ですね。そういうのを最近は「リトル・プレス」と言ったりもするそうです。

 その原稿づくりにエネルギーをとられて,最近は更新が疎かになってしまいましたが,元気でやっております。

 今回の「世界史の通史」の改訂・増補の中心は,現代史です。
 1900年代以降の世界について。

 以下の記事は「1時間の世界史」の最終章にあたる,現代史の部分をもとにしています。
 20~30分で読めてしまう,世界現代史(の通史)です。文字数にしてほぼ1万文字。

 アメリカの勃興~第1次世界大戦~第2次世界大戦~大戦後の世界(アジア・アフリカの独立・冷戦)~近年の新興国の勃興~アラブ諸国の情勢といった流れで書いています。

 最低限のざっくりした流れは,この「1万文字」でつかめるはずです。
 こういうコンパクトなかたちで,一定の系統性をもって,通読できるように書かれた「短い世界現代史」はまずないのでは,と思っています。


30分で読む、短い世界現代史

アメリカの時代 

 「現代の世界で,世界の繁栄の中心といえる国はどこか?」と聞かれたら,かなりの人は「アメリカ合衆国」と答えるのではないでしょうか?
 
 イギリス=大英帝国の繁栄のあと,1900年ころからの世界は「アメリカ合衆国(アメリカ)の時代だった」といっていいでしょう。これは,今も続いています。

 1900年ころのアメリカの台頭を最もよく示しているのは,工業生産です。1800年代末にアメリカの工業生産額はイギリスに追いつき,1900年代初頭には,はるかに追い越していったのです。

 1880年代(81~85)には,アメリカの工業生産が世界に占めるシェアは29%で,イギリスの27%を少し抜いて,世界1位になっていました。それが1913年には,アメリカは36%で圧倒的な世界1位,2位はドイツが台頭して16%,イギリスは3位で14%となっていました。

 なお,1800年代後半のドイツでは,日本でいえば明治維新(1868)にあたるような,国家をひとつにまとめる変革が行われて「ドイツ帝国」という体制が成立し,急発展していました。これは,イギリスやフランスよりもやや遅れての発展です。ドイツは,1900年ころの世界で,新興の大国としてはアメリカに次ぐ存在でした。

 ところで,アメリカとイギリスは大西洋をはさんで「となり」といえる位置関係にあります。鉄道や自動車以前には,遠距離の移動は陸路より船のほうが便利でした。つまり,アメリカとイギリスは海という交通路でつながっているのです。それから,アメリカの東海岸は1700年代後半に独立するまで,イギリスの植民地でした。

 そのように,アメリカはイギリスの影響をつよく受けた地域です。その意味で,世界史のなかで「イギリスの繁栄を受け継いだ存在である」といってもいいでしょう。


産業革命のバージョンアップ

 1800年代後半以降のアメリカの工業では,イギリスではじまった産業革命に新たな革新が加えられました。「産業革命のバージョンアップ」がすすめられたのです。

 発明王エジソン(1847~1931)は,台頭するこの時代のアメリカを象徴しています。エジソンはアメリカ人で,1800年代末から1900年代はじめにかけて,蓄音機や電球などの数々の発明で,電気の時代を切りひらいた人物です。エジソンのライバルには,電話機を発明したベルや,「交流電流」という現代の電気技術に貢献したテスラやウェスティングハウスといった人たちがいました。

 これらの人たちはみなアメリカで活躍しました。つまり,最先端の技術研究が,イギリスではなくアメリカで行われるようになったのです。

 工業に少し遅れて,科学・芸術などの文化でも,アメリカは圧倒的な存在になりました。アメリカで発達した映画やポピュラー音楽などの大衆文化も,世界に広まりました。


今もまだアメリカの時代

 今現在も,世界の繁栄の中心はアメリカといっていいでしょう。
 アメリカのGDP(経済規模を示す)は世界第1位で,世界全体の22%を占めます(2012年,以下同じ)。1人当たりGDP(経済の発展度を示す)は,5万1千ドルで,世界でも上位のほうです。

 なお,GDPで世界2位の中国は世界の11・5%,3位の日本は8・2%です。2,3位とはかなり差をつけています。とくに,中国は1人あたりGDPが6100ドルに過ぎず,経済の発展度はまだまだです。

 軍事力でも,アメリカは世界の中で圧倒的な存在です。世界の国防予算の4割ほどは,アメリカによるものです。

 日本やEU諸国など,アメリカに準ずる別の「中心」といえる国や地域も,今の世界にはあります。しかし,少なくとも短期のうちにアメリカを追い越しそうな国は,今のところみあたりません。


2つの世界大戦

 ここで,1900年代の2つの世界大戦と,その後の世界についてみてみましょう。「アメリカ中心の世界」は,世界大戦が生んだ結果のひとつです。

 アジア・アフリカの多くの国や地域は,1900年ころまでに,イギリスをはじめとする欧米の支配下に入りました。欧米諸国が「世界を制覇」したのです。

 1900年代前半には,その欧米諸国のなかできわめて大きな争いがありました。第1次世界大戦(1914~1918)と,第2次世界大戦(1939~1945)です。これらの大戦はいずれも,イギリスとドイツの対立が軸になっています。

 イギリスは,いち早く産業革命を成し遂げ,経済力や軍事力をバックに,植民地の獲得で圧倒的な優位にありました。これに対しドイツは,やや遅れて発展したものの,1900年ころにはイギリスに匹敵する経済力や軍事力をもつようになりました。しかし,植民地の獲得では大きく後れをとっており,イギリスなどの先行する国の既得権に不満を持っていました。

 2つの大戦をごくおおざっぱにいうと,「ドイツという,当時勢いのあったナンバー2が,ナンバー1のイギリスに挑戦した」ということです。世界の秩序を,自国(ドイツ)にとってもっと有利なものに書きかえようとしたのです。

 そして,それぞれには「仲間」がいました。イギリスにとって最大の仲間は,2つの大戦ともアメリカでした。ドイツは,第2次世界大戦のとき,同じく「新興勢力」だった日本と同盟を組みました。
 そして,2つの世界大戦の結果は,どちらも「イギリス+アメリカ」側の勝利でおわったのでした。


第1次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦は,ヨーロッパの南東部のバルカン半島にある,セルビアでの地域紛争からはじまりました。バルカン半島の一部を支配していた当時のオーストリア(今と異なり周辺国をも支配する帝国だった)と,バルカンで勢力を伸ばしたいロシア……最初は両国のあいだの争いがメインでした。

 そのきっかけは,当時オーストリアの影響・圧迫を受けていたセルビア人の青年が,隣国ボスニア(当時はオーストリア領)の都市サラエボで,オーストリアの皇太子を射殺したことでした(1914年)。怒ったオーストリアがセルビアに宣戦布告したところ,ロシアがセルビア側で介入してきました。すると,ドイツがオーストリア側でこの戦争に加わりました。オーストリアとドイツは民族的に近く,親しい関係にありました。

 そして,その後のドイツの「暴挙」といえる行動によって,「地域紛争」は「大戦争」に発展します。ドイツがフランスを大軍で攻撃したのです。

 当時のドイツにはイギリスとフランスという「宿敵」がいました。ドイツは,アジア・アフリカの植民地支配で先行する英仏に対抗心や不満を抱いていました。とくに,ドイツとフランスの間では深刻な国境紛争もありました。

 こうした背景から,ドイツの指導者のなかで「セルビアの紛争でロシアと戦う間にフランスに攻められないよう,こちらが先にフランスを攻める」という考えが有力となり,実行されたのでした。これはイギリスも見過ごせないので,ドイツとイギリスの戦争もはじまりました。

 アメリカは当初,この戦争に不参加の方針でしたが,大戦の後半(1917)からは英仏側で参戦しました。アメリカは,独立のときはイギリスと争ったものの,その後は経済的にも文化的にもイギリスと近い関係にありました。

 日本は,この戦争には全面的には参加しませんでしたが,英仏側として中国やシベリアに出兵しています(当時の日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいた)。

 また,バルカン半島には,オスマン・トルコの領域もありました。当時のトルコには,自国への圧迫や干渉を重ねていたロシアや英仏への反発があり,トルコはロシアなどの「敵」であるドイツの側で参戦しました。オスマン・トルコは,1500年代以降に台頭した,当時のイスラム圏で最大の国です。

 以上の経緯で2つの陣営に分かれて大戦争になったのです。ドイツを中心とする側と,イギリス・フランスを中心とする側です。ドイツ側を「同盟国」,イギリス・フランス側を「連合国(または協商国)」といいます。

 この戦争をはじめた政治家・軍人の多くは,当初「戦争は短期で決着する」とみていました。ところが予想外に泥沼化して,激しい戦いが続きました。当時の「戦争」に対する心理的ハードルは,今よりもずっと低いものでした。「国家のすべてを動員する激戦(「総力戦」という)」のイメージが薄かったのです。

 第1世界大戦は1918年に,イギリス・フランスなどの「連合国」側の勝利で終わりました。大戦の終わりのころ,ドイツ帝国の皇帝は亡命して帝国は解体され,ドイツは共和国になりました。

 そして,この戦争による死者は軍人と民間人を合わせて1600万人にのぼったのでした(大戦による死者の数は諸説あり)。


帝国の解体・滅亡

 第1次世界大戦の結果,世界の勢力図は変わりました。とくに重要なのは,それまでの世界で勢いのあった,昔ながらの帝国――有力な王朝がほかの民族を支配する体制――の多くが滅びたことです。

 大戦の結果,オーストリアはハンガリーなどの周辺諸国・地域への支配を失い,小粒な共和国になりました。

 そして,ロシア帝国の滅亡です。第1次大戦がはじまったときのロシアは,1600年代からロマノフ王朝という政権が支配していました。しかし,大戦中の混乱のなかで,1917年にこの王朝を倒す革命が起こりました。

 その結果,レーニン(1870~1924)の指揮のもとで新政権が樹立され,1922年にはベラルーシなどのロシア周辺の国を合わせて,ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)が成立しました。世界で初めての「社会主義」を掲げる政権です。

 「社会主義」とは,政府が生産の施設・手段を独占的に所有し,政治経済のすべてをコントロールする体制です。その体制で「平等な理想社会の建設」をめざすというのです。

 そして,オスマン・トルコ帝国。ドイツ側で参戦したトルコは敗戦国であり,戦後は混乱状態となって,イギリス・フランスなどによってほぼ征服・支配されました。そのなかで,ムスタファ・ケマル(1881~1938)の指導で,イギリス・フランスの勢力を排除し,さらにはオスマン朝の支配を終わらせる革命が起こりました。そして,1923年には現在に続くトルコ共和国が成立しました。

 トルコ共和国は,その領域をアナトリア(今のトルコの範囲)に限定し,イラク,シリアなどのオスマン朝の領域の多くを放棄することになりました。そして,イスラム教の政治・経済への影響を排除する「世俗化」の基本方針で,国づくりをはじめました。

 また,オスマン・トルコに支配されていたアラブの人びとの独立ということも起こりました。オスマン・トルコは,トルコ人が各地のアラブ人などを支配する「帝国」でした。1920~30年代には今のエジプト,イラク,シリア,レバノン,ヨルダンといった国ぐににつながる,各地の独立または自治の獲得といったことがあったのです。

 「アラブ人」とは,これらの国ぐに(エジプト,イラク…等)で主流の人びとやアラビア半島のアラビア人など,あるいはそれらが混血した人たちを総称する呼び名です。

 ただし,第1次世界大戦後にアラブ人が得た独立や自治は不完全なもので,イギリスとフランスによる事実上の支配や介入が行なわれました。イギリスとフランスは,オスマン・トルコ領だったアラブ地域を分割して支配しようとしたのです。

 またアラビア半島では内陸部を中心に,今に続くサウジアラビア王国が1930年代に建国されました。西アジアのほかの地域の動きに刺激を受けた,といえるでしょう。

 第1次世界大戦の以前にも,1911年には中国の清王朝を倒す革命が起き,翌年に中華民国が成立する,ということがありました。大戦以前から「帝国」は過去の遺物になりつつあったのです。その流れを,第1次世界大戦は決定づけたといえます。


第2次世界大戦の経緯

 第1次世界大戦に敗れたあと,ドイツでは経済・社会が大混乱に陥り,国民はおおいに苦しみました。ただし,その後1920年代には,ドイツは一定の復興をなしとげ,安定した時期もありました。

 しかし,1929年に起こったアメリカ発の金融恐慌(大恐慌)の影響がヨーロッパに波及すると,ドイツはまた大混乱となりました。

 この金融恐慌は2008年に起こった「リーマン・ショック」以降の不況と似ています。しかし,経済に与えた影響は「大恐慌」のほうがはるかに深刻でした。大恐慌の際,その最悪期にはアメリカでの失業率は25%ほどにもなりました。リーマン・ショック以降の不況では,アメリカの失業率は最悪期でも9%程度です。

 その混乱の時代に人びとの支持を集め,1933年に政権を獲得したのが,ナチ党(ナチス)を率いるヒトラー(1889~1945)でした。彼の「愛国」の主張は,当時のドイツ人に訴えるものがありました。ヒトラーがめざしたのは「ドイツによるヨーロッパ制覇」でした。

 政権を得たヒトラーは大胆な経済政策を行って失業を一掃するなど,社会の混乱をおさめることに成功しました。そのような実績と,批判者をテロで排除することや巧みな宣伝などによって,彼は独裁権力を固めました。そして1930年代半ば以降は,かねてからの「目標」の実現に向け動きはじめます。

 まず,オーストリアやチェコスロバキアといったドイツ周辺の国の併合です(1936~39)。さらにはポーランドを占領し,フランスなどの西ヨーロッパ諸国にも攻め入って,ほぼ制圧しました(1939~1940)。

 この動きのなかで,イギリス・アメリカなどとの戦争もはじまり,第2次世界大戦となりました。一般にドイツによるポーランド侵攻・占領に対し,イギリスとフランスがドイツに宣戦布告した時点(1939)で「第2次世界大戦が勃発した」とされます。

 また,ヒトラーはその政治思想のなかでロシアやソ連の社会主義に対して強い敵意を抱いていたので,大戦の途中(1941)からソ連に大軍で攻め入り,「独ソ戦」をはじめました。

 このようなドイツの動きに,イタリアと日本が同調しました。イタリアと日本も,イギリスやアメリカが主導する当時の国際秩序に不満を持っていました。

 日本では,1930年代に「アジアを制覇する」という野望が政治をつよく動かすようになりました。日本は中国に軍事的に進出し,1937年には中国(中華民国)との戦争(日中戦争)が本格的にはじまりました。1941年末には,日本軍がアメリカのハワイ(真珠湾)を攻撃して日米戦争(太平洋戦争)もはじまりました。

 第2次世界大戦では,ドイツ・日本などの陣営を「枢軸(すうじく)国」,アメリカ・イギリス・ソ連などの陣営を「連合国」といいます。この大戦を指導した当時のアメリカ大統領はフランクリン・ルーズベルト,イギリスの首相はチャーチル,ソ連の指導者はスターリンでした。

 大戦は1945年に連合国側の勝利で終わりました。敗戦国であるドイツも日本も連合国側によって占領支配され,独立を失った状態が1950年ころまで続きました(ドイツは1949年,日本は1952年に独立を回復)。ドイツは東西に分割されてしまいました。

 この大戦による死者は,軍人2300万人,民間人3200万人にのぼり,第1次世界大戦を大きく上回るものでした(この死者数も諸説あり)。


アジア・アフリカの独立

 第2次世界大戦は,第1次世界大戦以上に大きな被害を,負けた側はもちろん勝った側にももたらしました。

 そのなかで,アジア・アフリカの数多くの植民地が,武力あるいは交渉によって独立を求め,宗主国(植民地を支配する国)であるヨーロッパ諸国はこれを認めることになりました。植民地の人びとが力をつけてきたことに加え,戦争のダメージで,宗主国側には植民地をおさえきるエネルギーはなくなっていたからです。

 アジアの国ぐにの多くは,1945年から1950年代に独立しました。日本に支配されていた朝鮮(韓国と北朝鮮),それからインドネシア,ベトナム,フィリピン,ミャンマー,カンボジアといった東南アジアの国ぐにはそうです。インドも1947年に,ガンジー(1869~1948)の主導によりイギリスから独立しました。

 中国は清王朝が倒されて「中華民国」となっていましたが,第2次大戦後の1949年には,さらにこの政権が倒されて今の中華人民共和国が成立しました。そして,ソ連の影響を受けて社会主義の国づくりをはじめました。建国者の毛沢東(もうたくとう,1893~1976)は,第2次世界大戦中に独持の勢力を組織して台頭し,戦後に中華民国と争って勝利したのです。

 また,エジプト,イラク,シリアなどの西アジアのおもな国・地域は,第1次大戦後に一定の独立や自治を得ましたが,イギリスとフランスなどの欧米諸国による支配や介入が続きました。しかし第2次世界大戦後,1950年ころまでには以前より完全なかたちでの独立を得ていきました。

 アフリカではアジアよりもやや遅れて,1950年代後半から1960年代に多くの国が独立しました。とくに,1960年には一挙に17か国もの独立があり,「アフリカの年」といわれました。

 こうして,1970年代までには,世界のほとんどの地域が独立国となったのです。

 第1次世界大戦は,さまざまな帝国の滅亡をもたらしましたが,ヨーロッパによるアジア・アフリカの植民地支配という「帝国」は残りました。しかし第2次世界大戦は,結果としてそれを終わらせたのでした。


冷戦の時代

 ヨーロッパが後退する一方,アメリカの世界への影響力は,第2次世界大戦後にきわめて大きくなりました。アメリカは本土が戦場にならなかったので,戦争のダメージも限られました。

 1950年ころ,アメリカの工業生産は世界の約半分を占めました。GDP(経済全体の規模)では世界の3割弱で,その経済力は圧倒的でした。そして巨大な軍事力を,世界各地に展開するようになりました。

 ただし,アメリカは他国を「植民地」として支配するよりも,他国の独立一応認めながら,それらの国ぐに影響力をおよぼす,という基本方針をとりました。

 ソビエト社会主義共和国連邦(ソ連)も,第2次大戦後に大きな影響力を持つようになりました。かつてのソ連は,今のロシアよりもはるかに大きな領域を有していました。ロシア周辺の,現在は独立国であるさまざまな国が,ソ連の一部になっていたのです。これらの大半は,1920年代にソ連に統合されました。

 また,第2次世界大戦直後には,ポーランド,チェコスロバキア(現チェコとスロバキア),ハンガリー,ルーマニアなどの東ヨーロッパ諸国をソ連の属国としました。また,ドイツの東側の地域=東ドイツを占領して従属させました。これらの国ぐにでは,一応の独立は保たれながら,ソ連の意向に従う社会主義政権がつくられました。この時期のソ連には,アメリカに次ぐ強大な軍事力がありました。

 1940年代末までには,アメリカを中心とする勢力と,ソ連を中心とする勢力とが対立し,世界を2分するようになりました。アメリカ側は,「自由主義(資本主義)」の「西側」陣営,ソ連側は社会主義の「東側」陣営と呼ばれます。

 両者はそれぞれの社会体制を互いに否定しあっていました。ソ連の側によれば西側の資本主義は「資本家の独裁による不平等な格差社会」であり,西側によればソ連の社会主義は「政府の独裁によって自由や人権が抑圧される社会」でした。

 この「東西」の対立は「冷戦」といいます。これはアメリカとソ連のあいだで直接の戦争(熱い戦争)こそなかったものの,「いつ戦争になってもおかしくない」緊張状態であったことをさしています。冷戦は1950年代から1960年代に最高潮となりました。

 敗戦後の日本と,分割されたドイツの西側である西ドイツは,「西側」の一員となりました。そして,両国とも比較的短期間のうちに戦争の破壊から復興し,その後は「経済大国」として繁栄したのでした。

 ただ,アメリカとソ連のあいだに直接の戦争はなかったものの,「代理戦争」はありました。つまり,米ソ以外の国や地域で「アメリカが後押しする勢力」と「ソ連が後押しする勢力」とが戦争をしたのです。

 そのような「代理戦争」の代表的なもののひとつに,1950年に起きた,社会主義の北朝鮮と資本主義の韓国とが戦った朝鮮戦争があります。このときは,中国(当時,ソ連と近い関係にあった)がとくに前面に出て北朝鮮を支援しました。アメリカも韓国を支援して派兵しています。この戦争は明確な決着がつかないまま,現在に至るまで「休戦中」になっています。

 また1960年ころ~75年の長期にわたって続いたべトナム戦争も,アメリカが後押しする南ベトナムと,社会主義の北ベトナムの戦いであり,代理戦争の側面がありました。この戦争は北ベトナムが勝利し,ベトナムは「北」の主導で統一され,現在に至っています。

 この戦争でアメリカは打撃を受けましたが,その敗北は「社会主義の勝利」というよりも「アジアの独立・自立」という流れのなかに位置づけられるでしょう。


新興国の台頭・「欧米以外」の台頭

 一方,独立後のアジア・アフリカ諸国の状況はどうでしょうか。しばらくのあいだ,アジア・アフリカ諸国の多くは,政治的混乱や経済政策の失敗などから,思うように発展することができませんでした。

 しかし1970年ころから,韓国,台湾など,アジアの一部の国や地域で,本格的な経済成長が軌道にのりました。続いて東南アジアのいくつかの国でも成長が急速となっていきました。これらのアジアで経済成長が本格化した国ぐには,アメリカや日本との関係が深い傾向がありました。つまり「西側」の1員でした。そして,西側の先進国への輸出を伸ばすことが,経済発展の最大の原動力だったのです。

 また,1950年ころから70年ころまでには,アメリカ,西ヨーロッパ諸国,日本といった西側の先進国も,順調に経済を成長させたのでした。

 これにくらべると,同じ時期の「東側」の経済は停滞傾向で,「東西」の格差は拡大していきました。1980年代には,ソ連はあい変わらず軍事大国でしたが,経済や人びとの生活は多くの問題をかかえ,自由も抑圧されていました。社会主義に対する,国内外の不信感も高まっていきました。

 「社会主義の行き詰まり」は,同じく社会主義である中国でも起きていました(なお,中国とソ連は,当初は友好的な関係だったが,1960年代以降対立し距離をおくようになった)。1980年代の中国では,鄧小平(とうしょうへい,1904~1997)によって「資本による経済活動の自由を大幅に認める」改革がおし進められるようになりました。その結果,中国経済の急速な発展がはじまりました。

 1980年代後半には,ソ連でもゴルバチョフ(1931~)が政治の大改革に取り組み,アメリカとの関係も改善しました。

 しかし,改革は十分な効果があがらないまま体制の動揺をまねき,1991年にソ連の体制は崩壊してしまいました。その少し前に,ソ連に従属していた東ヨーロッパの社会主義も同じ道をたどり,東西ドイツは統一されました。ロシアの周辺の「旧ソ連」の国ぐには独立していきました。「冷戦」の終結です。

 このような中,インドでも変化がありました。インドでは独立後,重要な産業の国営化などをすすめ,ソ連とは別のかたちで独自の社会主義的な路線を行こうとしました。西側先進国との経済的な交わりについても消極的でした。そうすることで「国の産業を守り育てる」方針だったのですが,結局は思うような経済発展ができませんでした。

 しかし1990年ころからは,路線を変更して先進諸国との関係を深め,「経済の自由化」を進めるようになりました。

 1990年代以降,中国やインドの経済発展は世界のなかできわだったものになりました。ソ連が崩壊したあと,西ヨーロッパとの関係を深めたチェコやポーランドなどの東ヨーロッパでも,経済発展が進みました。

 さらに2000年ころ以降は,経済発展が続く「新興国」が,ブラジルやメキシコなどのラテンアメリカ(中南米)や,それまで経済がとくに遅れていたアフリカも含め,世界各地で目立つようになっています。

 また,「新興国の台頭」の一方で,アジアの一画を占める日本が,おおいに発展して世界の繁栄の「中心」のひとつとなる,といったこともあったわけです。
 つまり,世界の勢力図は1900年ころの「欧米が圧倒的」という状態から,その後の100年ほどで大きく変わってきたのです。


イスラム諸国・アラブの情勢

 また,アラブを中心とするイスラム諸国の動きも,「欧米以外の台頭」という視点でとらえることができます。

 第2次世界大戦後,「独立」を得たものの,アラブ諸国の多くは,やはりは欧米から強い影響や干渉を受け続けました。欧米諸国は,それらの国にある豊富な石油資源を管理しようとしたのです。また,東西冷戦のなかで「ソ連にアラブを押さえられないように」という警戒心もあって,アメリカはアラブに影響力をおよぼすことにこだわりました。そうした欧米による干渉への抵抗は,アラブ諸国の主要な課題でした。

 第2次世界大戦が終わって間もなく(1948)から1970年代前半まで,アラブ地域では「中東戦争」という地域紛争が,4回にわたってくりかえされました。これは,アラブ諸国とイスラエルの戦争です。

 イスラエルは,ユダヤ人という,アラブ人とは系統や宗教の異なる人たちの国家です。ユダヤ人は,イギリスやアメリカの支援を受けて,アラブの一画のパレスチナにイスラエルを建国し,そこに住む多くのアラブ人を追い出しました。イスラエルは,そのもとになる自治の領域が第1次世界大戦後につくられ,第2次世界大戦の終結後まもなく,独立国となったのです。

 そのようなイスラエルとの戦いは,アラブの人びとにとって欧米への抵抗でもありました。

 ユダヤ人は,紀元前の古い時代に西アジアのパレスチナ地域でその国が栄え,世界最古といえる一神教であるユダヤ教を創始した民族です。その王国は滅びてしまいましたが,その後もユダヤ人は,自分たちの宗教と民族意識を保持し続けました。そして,のちに自分たちの国を復興させたもののローマ帝国によって滅ぼされてしまう,ということもありました。

 それでも民族・集団としては存続し,ローマ帝国,イスラムの国ぐに,ヨーロッパ各国などで経済,学問,芸術の分野で活躍しました。その一方で,マイノリティ(異端の少数派)として差別や迫害も受けました。

 イギリスやアメリカの繁栄の時代(つまり近代)になってから,その活躍はさらに盛んになりました。そしてユダヤ人は「世界の繁栄の中心」となった国のなかで,マイノリティでありながら大きな影響力を持つようになったのです。

 1800年代末以降,ユダヤ人のあいだでは「パレスチナで自分たちの国をつくる」という構想が有力となりました。そして,その影響力でイギリスやアメリカの政府を動かしたことで,イスラエルは建国されたといえます。ユダヤ人は欧米を中心に世界各地に分散していますが,その一部がイスラエルに移住していきました。

 また,ヒトラーはユダヤ人に対し異常な偏見を抱き,その政治思想のなかでユダヤ人を徹底的に排斥することを主張しました。そして,第2次世界大戦の際にはドイツ国内やその占領地域で600万人(諸説あり)ものユダヤ人を虐殺しています。

 このような歴史があるので,ユダヤ人はイスラエルという,やっと得た「祖国」を,激しく攻撃されても守り抜こうとするのです。アラブ諸国とイスラエルの対立は,今も続いています。

 中東戦争で,アラブ諸国はイスラエルを倒せませんでした。しかし1970年代後半以降は,こうした戦いや,さまざまな交渉・かけひきなどを経て,石油資源の管理については,欧米の干渉をほぼ排除することに成功しました。

 また,1979年のイランでは,アメリカと強く結びついた政権を倒す革命が起こりました。革命後の政府は,イスラム教の伝統や原則を重視する「イスラム主義」の徹底や,強固な「反米(反アメリカ)」の立場をとりました。

 このようなイスラム主義の動きは,イスラム圏に広く影響をあたえ,一部には過激で極端なかたちのイスラム主義の動きも生じました。1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を支配したタリバン政権は,そのひとつです。タリバン政権とも関係があったアルカイダという組織は,2001年にアメリカで複数の旅客機を超高層ビルなどに墜落させる大規模なテロ(事件の日にちなみ「9.11テロ」)を行いました。

 最近では,シリアなどの一部を支配し,2015年には日本人を人質にとって殺害した「イスラム国(IS)」といった勢力も,「過激な」イスラム主義に属するといえるでしょう。

 その一方,イスラム諸国のなかでトルコは建国以来,政治・経済にたいするイスラム教の影響を排除する「世俗主義」の路線を歩んできました。そして近年は着実な経済成長を重ねた結果,有力な新興国のひとつとなっています。

 国よって方向性はちがっていて,混迷もみられますが,イスラム諸国は全体として自己主張を強め,世界での存在感を増しているのです。
 
 以上のような「新興国の台頭」あるいは「欧米以外の台頭」の動きが,今後どうなっていくのか,確かなことはわかりません。しかしその動きが今後の世界史の重要なポイントであることは,まちがいないでしょう。

(以上)
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コメント
この記事へのコメント
こんにちは。すっかりごぶさたしております。
とってもすてきな世界史ですね!
こういう素樸な世界史こそ中道にすえられていくべきですね。
素樸というのは素(しろくてまっさらの)樸(あらき,たわめられず板にされてない木)という意味ですが。
近頃色に染めようという意圖がみえみえの“中立”が多くなってきてます
右に寄ったり左によったりする議論も起点がこういうところにあれば・・・・極端に傾きすぎないですもの。(といってふだん左に大きく極まる論陣張ってるものが言うのもおこがましいですが,・・・)

こんどはぜ一万字の世界思想史も書いてほしいです!今後のご健勝ご活躍いのります!

ついでに生意気申せば,国境線の引かれ方(引いた奴?)の存在と変容があれば・・・なんてことも。(それでは,それこそ“色づけ”になってしまいますかw)
シツレイしました
2015/10/28(Wed) 08:17 | URL  | 玄 #3E8HQ5Yc[ 編集]
玄さんへ
玄さん,こちらこそご無沙汰しております。コメント,ありがとうございます。

「素樸」という言葉があるのですね。「中立性」ということに関しそのような言葉で評価していただくのは,たいへんうれしいことです。そこは,私自身も意識しているところです。つまり,ある種の右の人からもある種の左の人からも,つまりどちら側からも「まちがっている」とか「浅い・低レベル」とか言われそうなものを書いているなーと思いながら,これを書いています。でも,それで本望です。

そして,もしもひどく批判されても,右の人に対しても左の人に対しても「では,ここで書いたことが大筋においてまるっきりでたらめだと言えるのですか?」と反論できるような基本的なことだけを素材に書いているつもりです。(現実には批判の対象にもならない無名の存在なので,そのようなことを私が考えても仕方ないのですが,それでも考えています)

「起点」がこういうところにあれば…というのは,まさに私自身そういう思いです。
「起点」という言葉,なるほどと思います。

世界の思想史・哲学史の「1万文字」あるいは「1時間」バージョン,そのうちぜひやりたいです。

地図などは,十分ではないかもしれませんが,最低限つけていくつもりです。
「国境線」を引いた人間(この記事の人物ならレーニンやヒトラーのような人物たち)の生きざまなどに立ち入るのは,この読み物では紙数の関係でむずかしいとは思います。でも私も大好きな世界なので,別の機会にできれば,と思います。

とにかく,こういう楽しいことを続けられるように,いろいろ頑張って生きていきたいものです。
後押しのお言葉,ありがとうございます。
2015/10/28(Wed) 21:24 | URL  | そういち #-[ 編集]
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2015/10/29(Thu) 10:44 |   |  #[ 編集]
鍵コメさんへ
> たとえば世界地図を見ると。
> 砂漠に土地の人間が作った国境線なら,直線はありえませんがいわば異様な直線が引かれている,ああいう国境線はいつ,どういう主体と時代の流れがあって,引くことが可能だったか,ということをやさしく教えてくれる世界史はないだろうか,とつねづねおもっていたのです。もちろんサイクスピコ協定,とか細かい記述はありますが,地球のメカニズムや歴史のダイナミズムとしてとらえるようなヒントはないかあ。

突っ込んだ興味深いご質問,ありがとうございます。
私はこんなふうに考えます。
ああいいう,直線の,歴史社会からみれば異常な国境がどうして発生したか。おっしゃるように「白人優位の時代だったから」といえばたしかにそうですが,もうちょっと説明の仕方はあるかと思っています。

あれは,「近代レベル」の国家・文明と,「本格的な国家以前」もしくは「未開段階」か「ほぼ無人」の地域との接触によって生じたといえるのではないでしょうか。

同じような「白人優位」で引かれた国境でも,南米のチリなどは,インカ帝国の領域をベースにしています。つまり,一定のレベルの国家形成があった地域だと,いかに「白人優位」であっても,その地域で歴史的に形成された「領域」のあり方がベースにはなっているのです。

一方で,「人工的」国境が目立つのがアフリカ大陸とアラビア半島,シリア周辺ですが,この地域は「本格的な国家以前」「未開段階」(サハラ以南のアフリカの多くの地域),「ほぼ無人」(サハラ砂漠など)にあたります。シリア周辺は,もとは相当な文明地帯だったのですが,中世以降,都市や文明の衰退がありました。

このような地域をヨーロッパ人が征服するには,それなりの進歩が必要でした。

これらの地域をヨーロッパ人が制覇したのは1800年代後半以降です。国家・文明の発展の遅れた「弱体」な地域であるのに,です。たとえば南米であれば1500年代に征服したヨーロッパ人が,ずいぶんあとの時代になって,ようやく上記の「遅れた」地域を征服したのはなぜか?

これは,自然環境が過酷だったからです。たとえば,サハラ以南のアフリカにはマラリアなどの風土病があって,1800年代にキニーネなどの特効薬が発明されるまで,ヨーロッパ人がアフリカで自在に活動することは困難だったのです。あるいは河川を自在にさかのぼれる蒸気船や,鉄道や自動車といった交通手段ができてはじめて過酷な自然の地域を征服することができるようになった,ということです(これはヘッドリクという歴史家の『帝国の手先』という本で論じられています)。

国家形成が大幅に遅れた地域というのは,ようするに自然環境が過酷だった地域です。

そして,そのような地域はその自然の過酷さゆえに,文明の主流である強大な国家を寄せつけないできたのでした。しかし,ヨーロッパ人が1800年代になって,歴史上はじめてそのような過酷な地域で活動しうるだけの技術力に到達し,侵略をはじめました。

そうなると,国家らしいものが形成されてない地域だけに,ヨーロッパ人はやりたい放題です。ああいう異常な国境も引けるわけです。でも1800年代のヨーロッパ人といえども,中国やインドやイスラム圏ではあんな国境の引き方はできないのです。その社会の歴史的な経緯や伝統を無視できない。

そもそも,非ヨーロッパで最強の,最も分厚い伝統を持つ2つの社会をヨーロッパはついには征服しきれませんでした。2つの社会とは,中国とオスマン・トルコ(イスラム最強国)のことです。インドは,集権的な統一国家としての伝統が弱いので(弱小国の集合体なので),どうにか征服できましたが。

つまり1800年代~1900年代前半に,発展度としてものすごく大きな「ギャップ」のある文明・地域どうしが出会ったことで,あのような国境線が生まれたということではないかと思います。

そして,こういうことは,歴史上一度だけのできごとなのでしょう。
南極でも同じような「異常な国境線」ができたかもしれなかったのですが,南極をある程度征服できるほどに文明が進歩したのは1900年代の,とくに後半のこと。そのころには技術だけでなく,むき出しの「帝国主義」の時代よりは人間の意識が進歩していたので,一応は「国際協調」路線がとられるようになりました。そこで,南極にはサハラ砂漠のような異常な国境線がないわけです。

以上のように私は考えました。
こんなことを考えて書くのは,たのしいです。きっかけを与えていただき,ありがとうございます。
2015/10/29(Thu) 21:48 | URL  | そういち #-[ 編集]
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2015/10/30(Fri) 14:54 |   |  #[ 編集]
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2015/10/30(Fri) 16:41 |   |  #[ 編集]
Re: お答えありがとうございました!
> やはりもう少しおききしてみたいなと思うことがでてしまいました。お付き合いいただけたらうれしいです
>
> 白人優位はイコールほぼ科学の発達,産業革命,プラス国際的支配における『帝国主義』的思想による優位,それ以外にはないという理屈。
> これはそれほど極端な理屈ではない,ということでとらえていいのでしょうね

はい,少なくとも1800~1900年代においては,欧米がほかの地域に対して科学技術や産業経済,国家や組織の運営においてほかの地域よりも有力だったということは,事実ではないでしょうか。


> >南米のチリなどは,インカ帝国の領域をベースにしています。つまり,一定のレベルの国家形成があった地域だと,いかに「白人優位」であっても,その地域で歴史的に形成された「領域」のあり方がベースにはなっているのです。
>
> とてもよくわかります。
> たしかに南米はインカ支配があってもすこし距離が離れたところになると,ほとんど壊滅状態になりました。
> あるいはたとえばコロンビアあたりの一部の民族など大変高度な美術工芸技術を持っていましたが,そこには家長制度職人ギルドらしきものくらいしかなかったのかもしれません。
> “国家形成”という意味ではインカ帝国よりはるかにおとっていました,今ではその領域がどこらへんにあったかもはっきり特定がなされません。白人の侵入によってインカとおなじ頃にほろびたのに!です。
>
> そうかんがえるといかに高度な文化を持っていても,能力(ここでは科学的技術の進化や文化というより “国家形成”の能力)がおとっているとその境界線は,消えてしまうと理解でよいのでしょうか。

国家としてしっかりとしたまとまり・組織を形成できなかった社会は,戦争や侵略には弱いです。
インカ帝国だって,ここで例にあげられている「すこし距離が離れたところ」よりは国家を形成していましたが,その国家には限界がありました。また,技術のレベルも,ユーラシアのアジア諸国と比べても限界があったといえるのではないでしょうか。なにしろ鉄器もなく,馬も車輪もなかったのです。だから,インカの周辺といえる地域であれば,いかにその工芸品にみるべきものがあったとしても,ヨーロッパ人の攻撃にはひとたまりもなかったでしょう。

> 一つ例をだすとモンゴルの世界制覇は中国大陸全土,中近東(アシアマイナー),オスマン,ロシアは中央アジアから,現ロシア連邦半ばにいたるまで,広大な版図で世界帝国を作りました。しかしそこに明確な線を引くという発想はまったく欠落していました,遊牧民ですのでそもそも国の境というものを意識していたかどうかさえ・・・・,なかったかもしれません
> しかも中國+オリエント制覇とオクシダン制覇は同時並行的に行われていますね。
> つまり漠然とした大きな版図をひろげるという意図はあっても國家経営としての版図のことはあまり意識していない世界“帝国”でしたね

そうですね。明確な国境線の概念は,モンゴル人はもちろんヨーロッパでも中世にはまだ確立していなかった,と私は理解しています。それが確立するのは近代国家になってからではないでしょうか。

> このばあい国家構成能力に優れなかった国,といえるかもしれません

国家の構成としては,おおいに限界があったと思います。

>
> しかし“版図”を広げる意志はあっても技術がともなわなかったから,ひとり白人だけに出来た,という結論以外にはないのでしょうかね・・・・

私の(前のコメントで書いたような)論じ方が,世間でよくある議論よりも「まだまし」と思うのは,「白人(ヨーロッパ)の優位」ということを,相対的に,それこそ歴史の変化のなかで考えている点ではないか,と思っています。
「白人の優位」というのは,「いつの時代において」「どの相手に対して」ということで,その優位の程度や中身が変わってくるのです。

そもそも,ヨーロッパがイスラムや中国にくらべて取るに足らない存在だった時代もありました。中世あたりにさかのぼれば,そうなります。
でも,その後のヨーロッパは,力をつけていくわけです。技術やそれと結びついた軍事力,経済力,国家や組織の運営能力を伸ばしていく。それに伴って,ヨーロッパが制圧できる「相手」もグレードアップしていきました。
最初にヨーロッパ人が完全制圧したのは,アメリカ大陸の文明でした。これば1500年代のこと。これはユーラシアの文明にくらべると,トータルにみれば非常に限界があったと私は思っています。さきほども述べたように鉄器も馬も持っていなかったのですから。

でもその後しばらくヨーロッパ人は,ユーラシアではアメリカにおけるほどに圧倒的に強い立場には立てませんでした。1600年代に中国を訪れた宣教師たちは,中国文明にかなり圧倒されています。相手が変われば,そうなります。
しかし1800年代になって力をつけたヨーロッパ人は,中国やイスラムを見下すようになっていきました。そして中国やイスラムを屈服させていきました。しかしそれでもヨーロッパは,アステカやインカを滅ぼしたように徹底的に中国やイスラムを蹂躙することはできませでした。それは,1500年代おけるヨーロッパとインカの「実力差」は大きかったけれど,1800年代におけるヨーロッパと中国・イスラムの「差」は,それほどまでには大きくなかったからではないかと思います。

こんなことは,いわば「あたりまえ」な感じもしますが,十分認識されていないようにも思います。「白人の優位」というのを,多くの人は,もっと平板にとらえているように思えます。「ヨーロッパVS非ヨーロッパ」というのは,いつの時代で,どの「非ヨーロッパ」に対してなのかで中身が変わってくるのに,ぜんぶ一緒にしちゃっているところがあるように思います。インカ帝国とイスラムや中国では「文明」としての発展度(技術力や国家・社会の組織力)に大きなちがいがあることも,おそらく多くの人は意識してないでしょう。

> じつはね,わたしはなぜ西歐に於いてのみ,東方問題という概念がおこったのか,そのことをずっと長く考えていまして,
> それは單に,技術力や地域の過酷さの格差だけの問題だろうか,あるいは征服欲
> だけだろうか,とおもっているのです。

たとえば「中東(ミドル・イースト)」という言葉は,1900年ころにアメリカの戦略研究者マハンという人が最初に使ったのだそうです(酒井啓子『〈中東〉の考え方』)。また,「東」というのには,文字通りの地理的位置としての「東」よりも「異国」「辺境」というニュアンスがあるわけです(この点も酒井さんの本に述べられていました)。
つまり帝国主義時代のヨーロッパ人の言葉づかいということです。

そこには,当時他の地域ににたいして圧倒的に優位だったヨーロッパ人の「中華思想」が反映しているといえるでしょう。
ただ,このような「中華思想」的な発想じだいは,世界史のなかでそんなに珍しいものだとは,私は思わないのです。世界史上の繁栄を極めた強国・大国で,自分たちを「中心」と考え,他の地域を「遠い辺境」とみなすことは,どちらかといえばあたりまえのようにも思うのです・・・

> この,西欧人の“「問題」に対する積極性” 「すぐ問題意識を持ちたがる積極性」は。
> 先に西方が進歩したから,だからだ,という以外にほんとうに合理的説明はないのでしょうかもちろん一神教の宗教の問題はありますが

私は,「西方が先に進歩したから」と言ってしまっていいと思っています。
近代以降の欧米人は,地球規模で大洋を超えて「侵略」的な活動ができる道具(技術・軍事力,国家や組織の運営力)を,ほかの民族よりも一足先に持ってしまったということではないかと思います。それも社会・国家として元気な興隆期にそうなってしまった。元気な連中がそういう道具を持っていれば「世界を征服する」「世界の国ぐにに干渉する」ということはリアルなものとして問題意識にのぼってくると思います。それ以前のほかの文明は,そのような「道具」を手にするところまで,まだ到達していなかったのです。そのように私は解釈しています。でも解釈にすぎないわけで,このことについて何が正しいかを明らかにするのはむずかしいです。


> それとはべつのなにか,地球のメカニズムがあって白人をそうさせているのではないか。と。おもえてならないのです
>
> 何か地球自体に「西欧的地域=“あまり過酷でない地域”のとりわけ西側」にすむ人間に 「“国境線” をひかせなければならなかった」意図,理由というのが・・・・太古から続く地球の?内部に潜在するのではないか,そう思えてしまう。

私は,そのような特別な未知の「地球のメカニズム」のようなものを考えなくても,十分説明できるように思っています。
それでは「平べったい・つまらない」感じに思えるかもしれませんが・・・

> 歴史に大変お詳しい人をお見かけするとすぐこのことを聞いてしまいます。たいがい,馬鹿にされますがw・・・・,
> おいそがしいと思いますし,またまた御読み棄て下さってかまいませんです。お返事いただけたら何よりうれしく存じますが。

問いかけへの答えにはなっていないかもしれませんが,私は近代における白人・ヨーロッパ人の文明というのを,世界史のなかでほかとは根本的に異なる特別で異様なものとは思わないのです。近代ヨーロッパの文明は,紀元前の西アジアやそれを引き継いだギリシア・ローマ,さらにそれを引き継いだイスラム,それからインドや中国の文明をも含め,先行するさまざまな文明の要素を引き継いで総合し,さらに展開したものだと思っています(別の記事「1万文字の世界史」はその観点で書いています)。
これはヨーロッパを絶対視するというのではなく,むしろ相対化する見方だと思っています。いつになるかわかりませんが,未来において,ヨーロッパで生まれた「近代」を引き継いで発展させる人たちが,欧米以外のどこかにあらわれることでしょう。

このあたりの「近代ヨーロッパが生んだ文明」に対するイメージのちがいがあって,鍵コメさんとなかなかかみ合わない部分があるのか,とも思いました。しかし,こうやって対話しながら考えていくことは楽しい経験で,感謝しています。ありがとうございました。
2015/10/30(Fri) 23:30 | URL  | そういち #-[ 編集]
Re: タイトルなし
> すみません幾分ことば足らずな氣がしましたので付け加えてさせてください。
>
> 以前ね,飲み屋で地質学に詳しい人が,日本は岩塩が取れない地だから孤立を保ち他国に侵略されなかったんじゃないか,といった人がいまして。
> わたしのように地質学のイロハも知らない人がきくと,こういう話は「すごい」眼からうろこの話なんですw
>
> そんなような,なにか文系の理屈以外に,たとえばおっしゃるところの,
> 陸路より海路,といったのも地球のメカニズムによる条件ですね,なにかそういうのはないのかと・・・・。科学が進んだいま,もっとちがうなにか
>
> これまでのボナパルテイズムから帝国主義にすすむみたいなマルクス主義的世界観(社会主義的な,搾取や植民地支配ということだけでなく,18世紀のことも説明しうる理論としてのマルクスということですが)
>
> いわば社会学や思想,ある種これまでどおりの・・・文系の理論といったものをくつがえすものがないだろうかと・・・・。
> そんなようなことなんです・・・・。無茶な話でしょうかね。


「文系の理論をくつがえす」とまではいかないでしょうが,私は社会・文明相互の位置関係や地理的条件は,世界史をみるうえで大事だと思っています。

世界史をみわたすと,世界の繁栄の中心といえるような強国・大国は移り替わってきました。その移りかわりはランダムなものではなく,従前の「中心」の比較的近隣の地域(「となり」)から新しい中心が生まれる,というものです。過去の伝統や遺産を活用できないと,強大にはなれないということです。

メソポタミアからその周辺の西アジア地域へ,西アジアからギリシアへ,ギリシアからローマへ,ローマ帝国の西側から再びローマ帝国の東側(ギリシア)へ,ギリシアからイスラム勃興以後の西アジアへ,イスラムからイタリア・スペインへ,イタリア・スペインからオランダ・イギリスへ,イギリスから大西洋をはさんだ「となり」のアメリカへ・・・

そしてこのように「となり」へ「中心」が映るたびに,文明が一皮むけて進歩しています。新しい担い手のもとで新しい展開が起きています。(このことは別の記事「1万文字の世界史」や関連記事で述べています)

こういう脱皮をくりかえすのに,西アジアとヨーロッパをあわせたまとまりは,有利だったと思います。西アジアとヨーロッパはひとつの大きな地理的なまとまりをつくっています。このまとまりの中では,海や山河によってそれなりにいくつかの地域で区切られながら,相当な行き来も可能です。
つまり,豊富な多様性をふくみながら,ひとつの連続した地域としてのまとまりもある。

ということは,近代のヨーロッパ(とくにイギリス)は西アジアやヨーロッパの先行する社会が築いてきたさまざまな文化遺産をフルに利用できる立場に位置的にも時代的にもあったといえるのではないでしょうか。この点はヨーロッパの勃興の原因を論じたジョーンズ『ヨーロッパの奇跡』という本の中でも少し論じられていたはずです。

このような,西アジア+ヨーロッパのような条件を,中国はそなえていません。中国はそれだけで巨大な世界を形成していますが,じつはユーラシアの東側で山脈やジャングルや砂漠に囲まれ,じつは世界のほかの範囲からは「孤立」した地域です。この点は中国科学史の薮内清が指摘しています。「となり・となり」という移行・脱皮がおこりにくいのです。

いかにも文系的な学問と自然科学をつなぐ学問として「地理学」というものがあります。
地理学は,地質学,海洋学,気象学,農学,動植物学・生態学等々の自然科学の成果をフル活用して,歴史や社会を認識しようとする学問です。学校の授業で暗記ばかりさせる,古臭い・つまらない学問というイメージがありますが,じつは面白い分野だと,私は思っています。

ここで述べたように「位置関係」や山河や気候などの自然条件に着目するのは「地理学」的発想といっていいでしょう。その初歩の初歩です。鍵コメさんが述べられた岩塩のような地下資源への視点は,まさに地理学の世界です。世界史本のベストセラーの,ダイアモンド『銃・病原菌・鉄』には,地理学的発想が多くみられます。古いところだと梅棹忠夫『文明の生態史観』も,地理学的です。

また,社会・国家のあいだの位置関係から世界情勢を考えることは「地政学」という分野の得意とするところです。ヨーロッパ(とくにイギリス)の勃興について石炭のような地下資源を重視する学者もいます(私はあまり評価しませんが)。

古いマルクス主義には,地理学的あるいは地政学的発想はたしかに希薄のように思います。でも,世界史をみるとき,位置関係や自然条件に着目するのは,あたりまえといえばあたりまえです。地理学的発想は,重要だと思っています。そんな地理学が扱うような諸条件を鍵コメさんが「地球のメカニズム」というならば,そういうものはたしかに歴史に作用していると,私も思います。ただ,「地球のメカニズム」という表現だと,すごく特異な何かを連想させるような気がして,表現としてはためらわれます。少なくとも説明が要ります。

また,楽しく書かせていただきました。このあたりのことは,すでにそれなりに原稿に書いていて(発表のあてもなく,いろいろ書いてます),そのうちブログにアップしたいと思っています。
2015/10/31(Sat) 07:14 | URL  | そういち #-[ 編集]
おてまとらせてもうしわけありませんでした。
ご丁寧にお付き合いいただき感謝しています,ありがとうございました

>このあたりの「近代ヨーロッパが生んだ文明」に対するイメージのちがいがあって,鍵コメさんとなかなかかみ合わない部分があるのか,とも思いました。

わたし自身,「かみあわない」とはまったくおもいませんでしたのでショックでしたがよくよくかんがえてみました。

キリスト教支配下の世界史と中國以外は,世界にはくわしくございませんし,かみ合わないといわれてしまうほどわたしは考え方はのべたつもりはなかったのですが,(ひごろ主観的に偏って考えていることはもちろんたくさんありまして(苦笑)そういう色がにじみ出てしまったのかもしれません。もちろんご不快に御感じでしたら失礼をおわび致します。お尋ねしたいことがあってあれこれ,歴史の事象を書いたつもりだったのですが。

わたしはもともと,ながいことキリスト教異端史とフランス思想を専門に学んでいました。十年ほど前西洋一辺倒だった歴史観を反転させるような,転換が・・・まあなぜかとつぜんおとずれて以來中國にのめりこんでいったのですが,中國側から見る歴史,世界観というのは・・・・なんともいいようがない,なんというか白人の「特異性」をきわだたせるものの「正躰」,それまでの自分の知識や歴史観でははかりようもない「わけのわからなさ」を感じたのです,天地がひっくり返ったような感覚でした

白人優位というのは,白人に對する反感とか価値観ではなく,なんですが,もろもろの進歩の先んじた部分,ということです,
「優位」ということばをつかったのは不適切でした,おっしゃるところの「有力」ということばは適切だと思いました。本意は“位”に重きをおいたつもりだったのですが,主観が匂うようなことばはつつしむべきだったとおもいます

「となり・となり」という移行・脱皮というのは,対立の概念ではない周辺同志の共生という,いわば,おっしゃるところの移行の原則以上のメッセージ性をかんじていました。

(へんな言い方ですが,バランスを大切にしていらっしゃるところ一番尊敬申し上げております,それが実は一番難しいことだと痛感しているからです

「東方問題」は狭義の意味,いわば固有名詞のほうで,ローマンVSビザンチンという概念でもなく,東洋(中國など)に対峙する西洋との対比,としての東方という意味でもありません,
近代史のなかにあらわれた歴史事象としての「東方問題」ということです,つまりそのために遠東(「東方問題」の直後に表れたインド以北をあえてFARというとらえなおしが行われたという,いわば極端に狭い語義のこのことばを後位の順序にあげたつもりだったのですが,

つまりおっしゃるところの『帝国主義時代のヨーロッパ人の言葉づかい』の遠東ですね,まさに中國の病態の発端として中國人が必ずあげる概念ですが。l

(この東方問題後の“FAR”定義のことがらは,帝国主義列強と対峙する中國が侵略の発端とすることはいわば緒の部分,わたしのブログでも執拗に提示してきた概念で,またテーマにすえてるもので,ごくあたりまえにつかってしまっています・・・)

優位,というのも絶対的優越性(つまり人種としてとか)ということではなく,進歩の度合い,や時代的な相としての“位置”が優であるという意味で使っておりまして。しかしことばもあまりにも短絡だったかもしれません。

中國おばさんとして「中華思想」で書いているわけではないです・・・と。ちょっとうったえたいです(w)。

ちなみに中華思想も大きく二つの意味,単に自国の文化を優越と思う中國(今の中國が正にそれを“演じて”おりますね。)という意味と,
歴史的用語としては朝貢をゆるす,という意味もありますね,
”東洋”においていわば狭義の「西方問題」がおこらなかったこと理由はこのような考え方で総括は一応なされているのだとおもいます。

中國は辺境もしくは蛮夷狄戎,そのまた辺境に“胡”もしくは“回”があったということで,そもそも,“となり”に,対峙し移行可能性ある“となり”の地域という概念がなかった,ということは,一般にはあるのではないかとおもいます。

ひとつ主観を申し上げれば,近代中國からみる西歐+米の文化的有力はやはり被害者意識を払拭できないほどの歴史的相克があったと,これは19世紀からつぶさに,それはそれこそ1年単位で見ていくときとほうもない「圧倒」だったと。だからこそ
その“とらえ”をするために,また吟味するうえで,單に”西歐米の有力”が相対的であっただけなのかどうか,条件を絞り込みたい,という意識があります。 

「未知の「地球のメカニズム」のようなもの」
を期待しているというよりそうであれば,この中國にとっての途方もない「圧倒」の真実がみえるのではないか,
逆に言えばそういうことがあるのであればそれを考えないでいかに圧倒的だったかということを
いわば,概念化できない,という思いがあるからです。そうであってほしい,とかあってほしくないとかいうことではなく,中國の近代史を考える上で,どうしても執拗に考えてしまうのです,

>こんなことは,いわば「あたりまえ」な感じもしますが,十分認識されていないようにも思います。「白人の優位」というのを,多くの人は,もっと平板にとらえているように思えます。「ヨーロッパVS非ヨーロッパ」というのは,いつの時代で,どの「非ヨーロッパ」に対してなのかで中身が変わってくる

わたしはこのような考え方をなさっていらっしゃるところにこそ,その部分においていろいろおききしたいとおもったのですが。疑問それ自体がことば足らずに過ぎ申し訳ありませんでした。いずれにせよこうした会話をさせていただく,わたしにとっては貴重なのです。ありがとうございました。ぶしつけなところ,厳密でないところはご寛恕くださいませ
2015/11/02(Mon) 00:42 | URL  | 玄 #3E8HQ5Yc[ 編集]
Re: おてまとらせてもうしわけありませんでした。
こちらこそ,世界史についていろいろなお話しができて,たいへんうれしかったです。
「かみ合わない」という言葉は「いろいろかみあって面白く楽しい中で,この点についてはイメージや考え方の違いがあるのではないか」というくらいの意味です。ちょっと不正確だったと反省しています。私はかなり能天気に「ヨーロッパで生まれた近代文明は,なんだかんだいっても,おおいに価値や力のあるものだ」と思っているのでしょう。

玄さんがもともとキリスト教やフランス思想の研究をされていた方とは,びっくりしました。ずっと中国のことを究めてこられた方だと思っていましたので。玄さんのブログをみれば,誰でもそう思うのでは?これと決めた対象にほんとうに深く入って研究していく方なのだな,すごい,と思います。ものごとへの問いかけも,論理だけでなく深い感情や想いがつたわってきて迫力を感じます。

私は,読書や何かを書くことについては「わかりやすく要約する」ことばかり追求してきました。誰かが解明してくれたことを,さらに整理したりまとめたりすることばかりでした。頭に残る知識もざっくりしたことばかりで専門性がまるでない。対象にほんとうに深く分け入って究めていかれる方をまぶしく思います。でも,私は私でよいところもあると思うし,自分の得意なことでがんばればいいのだ,と思ってはいるのですが。
今後とも,どうかよろしくお願いいたします。
2015/11/02(Mon) 20:17 | URL  | そういち #-[ 編集]
丁寧なおことばありがとうございました。わたしにとって一番足りないところをもっていらっしゃる,そうおもってここにうかがってきていました

”となりとなり”は単に整理などというものでないくこれからおこるであろう,史上初めての西歐から中國への大規模な移行脱皮をかんがえるうえで未来につながる考え方だなあと。
真剣にそう思っています,びみょうで生きのいい現実と離れてしまってはただの歴史オタク,未来なんか関係ないとなったらだれにも相手にもされませんし,わたしは自分のそういうオタク性にほんとうに厭気がさすときがあります

ここにきて総一郎さんの文章を読むことは,とてもたのしく,いつもかろやかさがあるなあ,と心が落ち着くんです。役に立ついいものを愛していらっしゃることもよくわかります,たとえば,「職人さんのほうき」。あのほうき,わたしも見つけておもわず卓上用のを買っちゃいました。(わたしにはちょっと高かったけどw一生使えそうだし今ではなくてはならな宝物となっています)

こちらこそまたどうぞよろしくおねがいします。
2015/11/04(Wed) 01:36 | URL  | 玄 #3E8HQ5Yc[ 編集]
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