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2016年04月26日 (火) | Edit |
 最近ひたすら世界史のことを読んだり書いたりしていて,以下はその中でまとめたものです。これまで書いたもの(このブログでも複数の記事としてアップしている)をもとにしています。幅広い世界史の事実や大きな論点を扱いながら,それをコンパクトにシンプルに書くということを,自分のやり方として追求しています。

 ところで,今回の記事は当ブログにとってちょうど500本目になります。今現在公開している記事は500より少ないのですが,これは何本かをアップしたあとに非公開にしたため。とにかくこれまで500本の記事はつくってきたということ。ブログの記事としてはたいした数ではないけど,それでも自分にとってはそれなりの蓄積です。これからもまずは1000本めざして積み重ねていきたいものです。


「近代化=模倣」のむずかしさ


近代化という課題

 アジア・アフリカ諸国の多くは,1900年代の前半から1960年ころまでに,欧米の植民地支配から脱して独立しました。
 また,トルコ(オスマン帝国)や中国(清)は欧米の植民地にはならなかったものの,1900年代前半の時期に従来の王朝による支配を倒す革命が起こり,現在につながる建国がなされました。

 そして,独立や建国を果たしたあとのアジア・アフリカ諸国は「近代化」を目標に歩みはじめました。欧米人の生み出したものを自分たちも手に入れて,発展していこうということです。

 この近代化の中心課題は,経済成長です。国の経済を発展させ,貧困から抜け出すこと。

 しかし,独立・建国後のアジア・アフリカ諸国の多くは,しばらくのあいだは思うような経済成長を実現できずにいました。一定の経済成長はありました。しかし,その成長の勢いは,平均してみると欧米や日本などの先進国を下回るものでした。1950~60年代はそのような状態が続きます。

 それを,統計の数字でみてみましょう。つぎのデータは,世界各国の長期的な経済成長の歩みを統計的に研究した,アンガス・マディソンの著作などによるものです。(『世界経済史概観 紀元1年―2030年』岩波書店、2015)

1人あたりGDPの成長率(%)
       1950~73年 1973~2003
西ヨーロッパ  4.1       1.9
アメリカ     2.5       1.9
日  本     8.1       2.1
アジア      2.9       3.9
アフリカ     2.0       0.3

2013年の経済成長率=GDP増加率
ユーロ圏≒西欧   -0.3
アメリカ         1.5
日  本         1.6
中  国         7.7
インド          6.9
ASEAN主要5か国 5.1
サハラ以南アフリカ  5.2
(IMFによるデータ)

 1950年~1973年における西ヨーロッパの1人あたりGDPの年平均成長率は,4.1%でした(各国の合計による)。アメリカは2.5%,高度成長期だった日本は8.1%。一方,日本を除くアジアの成長率は2.9%,アフリカは2.0%です。

 この数字は,経済成長の勢いをあらわすものです。つまり,この時期のアジア・アフリカの経済成長率は,欧米などの先進国よりも低い傾向にあったのです。

 1973年で区切るのは,この年が「先進国の成長率の変化」や「アジア諸国の台頭」などにかんする節目であったと,マディソンが位置づけているためです(1973年には「石油ショック(第1次)」という世界経済をゆるがす事件がありました)。

 しかし,これ以降はアジアの経済成長の勢いは先進国を上回るようになります。1973年~2003年における,アジア(日本除く)の1人あたりGDPの年平均成長率は、3.9%でした。西ヨーロッパは1.9%、アメリカは1.9%,日本は2.1%です。先進国の成長率が低下する一方で,アジアが伸びてきたのです。

 一方,この時期のアフリカではかなりの国で内戦などの混乱が激しく,成長率は0.3%と落ち込んでいます。
 その後も「アジアの成長が先進国を上回る」傾向は続いています。さらにはっきりしてきた,といえるでしょう。アフリカ(サハラ以南)でも2000年代になると,一定の経済成長がはじまりました。

近代化とは「模倣」である

 なぜ,近年になってアジア・アフリカの発展が順調になってきたのでしょうか?

 これは「近代化=模倣・学び」という視点で考えることができるのではないか。

 当ブログの世界史関連の記事ではこれまで「世界のなかの中心的な先進国が周辺に影響をあたえ,影響を受けた地域で発展が起こる」ということをみてきました。影響を受けるとは,「学ぶ」といってもいいでしょう。自分たちより進んだ技術などに学ぶことは,その国の発展にとって必要です。だから,経済発展が順調に進んでいるのは,そのような「学び」「模倣」がスムースに行われているということです。

 「となりの先進国のすぐれた点に学ぶ」なんて,あたり前のことだと思うかもしれません。でも,「すぐれたものにきちんと学ぶ」というのは,結構たいへんなことなのです。そこに至るには,乗りこえるべき障害がじつはいろいろとあります。とくに大きな障害は「プライド」ということです。このことを,1950~1970年代に活躍したエリック・ホッファーという思想家が,つぎのように表現しています。

《近代化とは基本的には模倣――後進国が先進国を模倣――の過程である…そして、…自分よりもすぐれた模範(モデル)を模倣しなければならないときに苦痛を感じさせ、反抗を起こさせる何かが心の中に生じはしないだろうか……後進国にとって模倣とは屈服を意味する》
(『エリック・ホッファーの人間とは何か』河出書房新社、2003)

 つまり,近代化とは「欧米先進国を模倣すること」であり,プライドを傷つける面がある。しかし,模倣にたいする嫌悪や屈辱感を乗りこえていかないかぎり,まともに学ぶことはできません。

 「模倣がプライドを傷つける」という感覚は,個人にとってはわかりやすいはずです。「お前のしていることは人のマネだ」といわれるのは,ふつうはイヤです。それが国家や社会というレベルでもあるのではないか,ということです。

 最初のうちは,先進国を模倣することに抵抗している段階がある。しかし一定の試行錯誤のあと,それを乗りこえて,外の世界に積極的に学べるようになっていく。その結果,経済成長が軌道に乗っていく……

 独立・建国以後のアジア諸国の動きをみると,たしかにそのようなことがありました。「模倣への抵抗から,積極的な模倣へ」という過程があったのです。中国やインドの事例はその代表的なものです。

中国の「大躍進」

 中華人民共和国の建国から10年ほど経った1958年,中国では毛沢東によって,「大躍進」という経済発展の方針が打ち出されました。「国家主導のビジョンに基づいて,急速な経済成長をなしとげる」というものです。

 大躍進の特徴はまず,それが徹底的に国家主導のものであったことです。社会主義とはそういうものです。そしてもうひとつは,その計画をできるかぎり自前の技術・ノウハウでやり遂げようとしたことです。先進国から技術者を招いたり企業を誘致したりはしません。欧米からはもちろんのこと,もとは友好関係にあったソヴィエト連邦からも,大躍進のころ(1950年代末)から関係が悪化し,その支援を受けることはなくなりました。

 そこでとくに重視されたのは,鉄の大幅な増産でした。鉄はすべての工業の基礎となる材料である。だから経済発展はまず鉄の増産からだ――そう考えたのです。大躍進では,「15年後には鋼鉄の生産量でイギリスを追い越す」という目標がかかげられました。

 鉄の増産のための切り札は,「土法高炉(どほうこうろ)」というものでした。これは、土やレンガなどでつくった小型の簡易な溶鉱炉のことです。これを各地に何十万も建設して製鉄をさかんにしようとしたのです。土法高炉は,「自前で」という精神を象徴するものでした。
 
 この運動の結果は,悲惨なものでした。たしかに鉄の増産はそれなりに達成できました。しかし,《土法高炉でつくられた鉄で利用可能だったのは、三分の一にも満たなかった》といいます。(フランク・ディケーター『毛沢東の大飢饉』草思社、2011)
このような「粗製乱造」は,大躍進のときの工業全般にみられることでした。こんなことでは、経済の「大躍進」などムリな話です。

 さらに,この時期に農村の労働力の2割(かそれ以上)が工業や建設事業などに動員されたことや,さまざまな農業政策の失敗などから食料生産が大きく落ち込み,大飢饉が起こりました。それによって,1959~1961年の3年間で,1600万人から2700万人が餓死したと推定されています(先に引用したF.ディケーターの説では4500万人にのぼるという)。

インドの「自前主義」

 中国のように,いわば「自前主義」で発展していこうという発想は,1947年に独立したあとのインドでもみられました。

 インドでは,かつての(大躍進のころなどの)中国とはちがって,民間の企業活動が一応は認められてきました。しかし,国家による経済への介入や統制は積極的に行われました。国有企業が経済に占める役割も大きく,ソ連や中国とはちがったかたちでの「社会主義」的なところがありました。

 インドの経済政策で重視されたのは,「すべてをできるかぎり国産で」ということでした。自国で生産できるものは,国産品のほうが高くて低品質であっても,輸入しないようにする。海外企業の進出は,原則として認めない。外交的にも,アメリカ・ソ連どちらの側とも距離をおく方針をとったので,米ソからの技術的な支援もごく限られていました。

 国として,非常に閉鎖的な状態だったわけです。「先進国からの輸出や企業の進出を許すと,国の経済が先進国にのっとられてしまう」と考えたのです。そのようなインドの経済成長率は,低い水準にとどまっていました。1950年~1973年における1人あたりGDPの年平均の成長率は1.4%で,同時期の中国の2.8%を下回っていました(前掲のマディソンの著書による)。

 こうした中国やインドの政策は,まさに「模倣への抵抗」です。欧米の先進国に教わることなく,自分たちは自分たちのやり方でやっていく。それでいつか追い越してみせる――そんなスタンスです。そのように「教わるのはイヤ」であっても,やはり発達した工業や軍事力などの近代的な文明の成果は手に入れたいのです。それは「自己流の手前勝手な模倣」といってもいいかもしれません。

アジアNIEs

 しかし,このような「模倣への抵抗」が失敗であったことが,しだいにはっきりしてきました。「自国の成長が思うようにいかない」というだけはありません。自分たち以外で急発展するアジアの国があらわれ,先を越されてしまったのです。1970年ころから,韓国,台湾,シンガポールといった国・地域の急速な経済成長がめざましいものになったのです。これらの国ぐには「アジアNIEs(アジアニーズ,「アジアの新興工業経済地域」という意味)」といわれました。

 アジアNIEsの国ぐには,中国やインドのような「自前主義」ではありません。貿易についても海外企業の進出についても,オープンなスタンスでした。先進国の下請けの工場も,経済のなかで重要なものでした。
 
 こうして先進国との接点が増えていくと,いろんな学習・模倣が行われるようになります。先進国の製品やサービスに触れたり,国企業で働いたりすることで,技術やノウハウを身につける人が増えていったのです。これが経済発展につながっていきます。
 こういうことは,今ではあたりまえに思えます。しかし,かつてはかならずしも常識ではありませんでした。だからこそ,中国やインドでは「自前主義」の政策が行われたのです。

 経済が行き詰った結果,1980年代の中国や1990年ころのインドでは大きな路線変更がおこりました。「輸出入をさかんにする」「海外企業の進出を受け入れる」という方針に変わったのです。中国では,それまでは原則禁じられていた,民間の企業活動を大幅に認めるようにもなりました。

 その後は中国でもインドでも,持続的な高度成長がはじまったのです。その成長は今(2010年代)も続いています。今の中国やインドでは,先進国を模倣することへの抵抗は影をひそめ,先進国の技術やノウハウを積極的に取り入れようとしています。

ガンジーの主張

 「欧米とは異なる独自の道で理想を実現しよう」という考えは,欧米よりも遅れて近代化がはじまった国では相当な力を持ちました。中国やインドではまさにそういう時期があったのです。

 インドの独立・建国の父であるガンジーは,そのような「模倣への抵抗」の教祖のような人でした。彼はたとえば,こんな意味のことを言っています――《輸出も輸入も排斥されるべきである。…外国製品のボイコットは,…経済の恒常的基礎的原理である》――ガンジーは貿易を否定していたのです。

 また彼は《機械は西洋と結びついており,悪魔的》《経済的進歩は,それ自体,好ましい目的ではない》などとも述べています。機械文明や経済成長についても批判的だったのです。(ロベール・ドリエージ『ガンジーの実像』白水社、2002)

 ガンジーという人は「聖人」というイメージがあります。しかしここでは,国の指導者としてはずいぶんトンデモなことを言っていると思いませんか? ドリエージは,《ガンジーが断固として拒否する近代性》《ガンジーの反西洋主義》などと述べています。そのような一面も,ガンジーにはあったのです。

 インドは,1800年代以降イギリスの植民地でした。第二次世界大戦後(1947)に,そこからようやく独立を得たのです。「欧米のマネなどするものか」という気持ちもわかります。しかし,ガンジーの主張にはムリな面がたくさんありました。だからこそ,インドはガンジーのいう方向には結局は行きませんでした。そして,ほかの多くの国も,ガンジーの否定する「模倣=近代化」を積極的に行うほうへ進んだのでした。

昔話ではない

 ここで注目してほしいのは,これまで述べた毛沢東の「大躍進」もガンジーのトンデモな思想も,世界史の大きな流れでみれば,そんなに昔の話ではないということです。これらは1900年代半ばのことでした。

 ということは,産業革命以降の欧米が圧倒的な力で世界を制覇したあとなのです。すでに,欧米人が生み出した「近代」の威力はイヤというほど証明されています。それでも,近代化に向けた模倣に対しての、いろんな抵抗や葛藤があったわけです。

 しかし,今の多くの発展途上国では「屈辱感による模倣への抵抗」は,かなりなくなったようです。世界各地での新興国の台頭がそれを示しています。しかしそうはいっても,「模倣への抵抗」はまだまだいろんなかたちで残るのではないでしょうか。

 たとえば今の中国でも,欧米で生まれた民主主義の政治体制はまだ採用されていません。共産党に対抗する野党の存在が認められず,共産党の指導者が政治の全権を握っているのが中国の体制です。今の中国のスタンスは,「経済や技術は模倣するが、政治は模倣しない」ということです。近代社会の要素を全面的に模倣することは,まだ拒否しているのです。

徹底して模倣に抵抗する異端の人たち

 また,少数派や異端として徹底した「模倣への抵抗」を行う人たちも,世界にはいます。たとえば,欧米などの側から「イスラム原理主義」といわれる集団にはその傾向があります。

 「イスラム原理主義」とは,「自分たちなりに解釈する『コーラン』の教えを,妥協せず厳格に実践しようとする主義」だと,とりあえず理解してください。だとすれば,「近代的な価値観や生活とは相当相容れないところがありそうだ」と,想像がつきます。

 「イスラム原理主義」あるいは「イスラム過激派」の一派とされるタリバンという集団は,1990年代から2001年までアフガニスタンの大部分を統治していました。彼らは近代社会のさまざまな要素を否定しました。

 そのなかでも世界の多くの人たちがとくに違和感を持ったのは,女性の位置づけでしょう。タリバンは女性のさまざまな権利をはく奪しました。タリバン政権時代のアフガニスタンでは,女性は家の外で働くことも,まともな教育を受けることも許されませんでした。これが「イスラムの教え」に本当に関わっているのかどうか疑問はありますが,近代化=模倣を否定するものであることは確かです。

 そして,このような「原理主義」に共鳴する人びとが,今の世界にも一定の数存在しているのです。あるいは,2010年代現在の「イスラム国」のような,新たなイスラム過激派の勢力があらわれる,といったことがあります。

 毛沢東やガンジーのような「〈模倣=近代化〉への抵抗」は,かならずしも昔話ではないのです。

(以上)
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