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2016年04月29日 (金) | Edit |
 今度の東京オリンピックのエンブレムに決まった「市松模様」。
 オリンピックもパラリンピックも同じ数の長方形のパーツによって,ち密に考え抜かれた構造で組みたてられている。
 たしかに高いレベルのすぐれた作品だと,素人目にも感じます。
 最終選考に残ったほかの3つの案よりも,はっきりと際立っていると思いました。

東京2020エンブレム
    2020年東京五輪エンブレム(野老朝雄作)

 そして,今の日本の様子をよくあらわしているとも思います。
 詳しく分析すると「こんなところまで考えていたのか」と感心するほど,いろいろ精密な工夫や努力を重ねている。しかし,それが強力な明確な効果を生んでいるかどうかとなると微妙・・・そのような感じがするのです。

 日本の工業製品にかんし,「ガラパゴス化」ということが,少し前にずいぶん言われました。日本のメーカーは,自分たちの論理で細かい製品の改良を積み重ねているけど,市場のニーズに応えていないのではないか。とくにグローバルな市場に対応できていないのではないか。そのことを,ほかの世界とは切り離された独自の生物進化をとげたガラパゴス島の様子になぞらえた言い方でした。

 この市松模様のエンブレムは,たしかに力量のあるデザイナーの渾身の作品だと思います。しかし一方で,「ガラパゴス」なほうに行ってないだろうかと不安も感じます。

 外国の人たちは,これをみてどう思うのだろうか。私たちは「日本的」と感じるかもしれないけど,市松模様なんて,世界の多くの人たち(とくに新興国や発展途上国の人たち)にわかるのだろうか。

 また,このほぼモノトーンの幾何学模様を,会場や現場で掲示した場合に,「元気なお祭り」とは異質の無機的なクールすぎる感じにならないだろうか。このエンブレムを,たとえば「日本の伝統を紹介する博覧会」に使うのだったら,まさにしっくりくると思います。でも,これはオリンピックという「運動会」のためのものなのです・・・

 「ガラパゴス」でなければ「ひとりよがりなクール・ジャパン」になっている恐れも感じる,ということです。

 この不安がもしもあたっているとしても,これはデザイナーの責任ではありません。デザイナー自身は,自分の仕事を精いっぱい行って,それが採用されたということです。責任は,国家的なイベントの運営責任を負う,トップクラスのエリートの人たち=偉い人にあります。

 今度の東京オリンピックのエンブレムは,最初に選ばれた「サノケン」さんの案に「盗用ではないか」などのケチがついて,再度の選考の結果,今回の案が選ばれたわけです。

 あのサノケンさんの案が「類似」「盗用」といえるかどうかは,議論があるようです。とくに専門家といわれる人たちは「類似」とみることに慎重な傾向があるように,ニュースやネット上での発言をみるかぎり,私は感じます。しかし,多くの一般の人たちの(とくにネット上でつよく主張する人たちの)声に押されるような形で,「偉い人」たちはこの案をボツにして,再選考を行うことにした。このエンブレム以外のサノケンさんの仕事で,盗用を疑われるものが出てきたのも,大きなマイナスだった。

  東京2020エンブレム佐野案
 東京五輪エンブレム佐野研二郎案

 なお,私はあのサノケン案じたいは(盗用がどうかを問わないとしたら),オリンピックのエンブレムとしては,今回決まった案よりもよかったのではないかと思っていますが,ここでは立ち入りません。

 再選考では幅広い公募などの「民主的」な形式がとられました。最初の案のときのような「密室での選考」という非難をかわしたい,ということでしょう。 こういうのを「アリバイづくり」といいます。

 そのようなゴタゴタや,とりあえず「民主的」な手続きから決まったものが,もしもガラパゴスだったとしたら,このエンブレムの件は,まさに「日本の衰え」を示すできごとのように思います。

 1964年の,前の東京オリンピックのエンブレムは,亀倉雄策による「枠いっぱいの大きな日の丸」「金色の五輪」「同じく金色のTOKYO1964」の文字だけで構成されたものでした。シンプルで力強く,モダンで普遍性がありながら,日本的な要素がおそらく世界の人たちにもわかりやすいかたちで表現されている――そのような定評がある作品です。私もまさにそうだと思います。このような傑作は,民主的につくられたわけではありません。一部のエリートたちが密室で企画し,選んだものです。

   東京1964エンブレム

 1964東京五輪エンブレム(亀倉雄策作)

 国に勢いがあるときは,こういうことがよくおきるものです。つまり,エリートが密室で決めたことが時代のニーズにうまく適合していて,よい結果を生み出す。そのようなすぐれた構想やアイデアを持つ専門家が,権力の中枢で起用されるチャンスがある。権力を持つ組織に,そのような柔軟性やエネルギーがある。

 東海道新幹線(1964開業)は,国鉄総裁の十河信二が,国鉄内部や政財界で多くの批判があるにもかかわらず執念でおしすすめて実現したものでした。1970年の大阪万博は,若手官僚や当時30~40代だった梅棹忠夫や小松左京などの学者や文化人の発想を核にしてつくられました。

 そうした企画には,当時の多数派の人たちには理解しにくい(しかし今となっては評価の高い)ものが多く含まれていたわけです。たとえばもしも岡本太郎の「太陽の塔」の模型が「最終選考に残った案」として示されても,当時の国民の多くが支持したとは思えません。民主的な意思決定では「太陽の塔」は無理です。

 しかし,そのような「創造的なエリートの決断がよい結果を生んだ時代」はとっくに終わったのです。今の「偉い人」たちには,たぶんはっきりした構想はないのです。知恵を出してくれるはずの専門家たちだって,じつははっきりしない。無理もないことだと思います。そして,私たちのような多くのふつうの人たちも,明確な考えがあるわけではないけど,いろんなことを偉い人たちに対して言うようになりました。

 偉い人たちも自分のかじ取りに確信が持てないので,そのような批判には弱いです。「大先生=権威のある専門家」を持ち出しても,そういうものはネット上の多数派の人たちには,通用しない。やはりボツになってしまった国立競技場の最初の案(ザハ案)の選考では,安藤忠雄さんが中心にいたのに,その威光はあまり役立ちませんでした。なお,サノケン案を採用したときのエンブレムの選考委員のリーダーは,永井一正さんという日本のグラフィックデザインの歴史に残る仕事をした大御所でした。

 国のトップクラスで,いろんなことの構想がはっきりせず,創造的なアイデアや企画を権力の中枢で採用することが減っているのではないか。

 緻密な工夫や努力は行われている。でも,それが力強い効果を生み出すことにつながらない。
 大きな効果を生みだしうるアイデアや才能を持つ人材も社会の中にはいるはずだが,権力の側でその人材を選び出すことができない。「構想」がはっきりしないのだから,選びようがない。大衆からの批判も怖いので,決断がむずかしい。創造的なものには,何かしらの批判はあるものです。

 そういう様子が,今回のエンブレム騒動からは感じられます。
 この手のことが,社会のあちこちで積み重なっていくうちに,国は衰退するわけです。
 どうしたらいいのかは,今はよくわかりません。

※2016年4月30日追記:歴代のオリンピックのエンブレムをみると,日本のエンブレム(前回の東京,札幌,長野,今回の東京)のデザインは劣っていない,というか水準が高いと私は感じます。とくに64年の東京は,それまでのオリンピックのエンブレムの水準を超えるものだったと。なんだかんだいっても,日本は相当な文化力をもった大国ではあるのです。その力をどう維持・発展させていくか,ということが問題なわけです。 

(以上)
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