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2018年06月10日 (日) | Edit |
今年2018年は生誕200年ということで、カール・マルクス(1818~1883)のことが取り上げられる機会が増えているようです。

『週刊東洋経済』(2018年6月2日号)に掲載されたカール・ビルトさん(元スウェーデン首相)のコラムによると、マルクスの生誕地であるドイツのトーリアでマルクス像が設置されたり、中国の祝賀式典で習近平主席がマルクスについて「抑圧や搾取のない理想社会への道筋を示した」と礼賛しているとか。

また、ドイツの祝賀行事では、欧州委員会のユンケル委員長がマルクスを擁護して「自身が意図しなかったことに対して責任を負わされている」と発言したのだそうです。

そして、コラムの筆者・ビルトさんは、そのようなマルクス礼賛や擁護の発言をつよく批判しています。それを要約すると、こんな感じです。

・共産主義国家による残虐行為はマルクス思想が歪曲されたせいだ、などど擁護したところで、マルクスの描いた未来構想の影響はやはり無視できない。

・資本主義を否定した国がたどった末路と、資本主義を受け入れた国の発展をみれば、マルクス主義の失敗は明らか。そして、私有財産制を否定し、国家が経済をコントロールする社会からは、経済の活力だけでなく自由そのものが奪われてしまった。

こうした見解は、現代では一般的なものでしょう。私も基本的にはその通りだと思います。

では、なぜマルクス主義をかかげる国はみな、抑圧的な全体主義国家となってしまったのか?

「全体主義国家」とは、個人の自由を否定した、国家権力が無制限の独裁的な力を持つ国のことです。かつてのソ連やそれに従属する東ヨーロッパ諸国は、まさにそうでした。

ビルトさんは、あるポーランドの哲学者(レシェフ・コワコフスキ)の主張を引用して、マルクスは生身の人間にまるで興味がなかった、マルクスの無機質な教義が全体主義へとつながっていった、という主旨のことを述べています。

“(コワコフスキいわく)「人間には生死がある。男もいれば女もいる。老いも若きもいれば、健康な者もそうでない者もいる。マルクス主義者はこうした事実をほぼ無視している」 マルクスの無機質な教義に基づく政府が例外なく全体主義に向かったのはなぜか。その理由を、コワコフスキ氏の洞察は教えてくれている”(『週刊東洋経済』2018年6月2日号、72ページ)

これはちょっと……と私は思いました。

これは要するに「マルクスの思想は人間味がなく、だからその理論に基づく国は非人間的なものになった」という話です。いくらなんでも、幼稚で単純すぎる感じがしませんか?

マルクスを礼賛する習近平の主張は、自分たちの共産党独裁を正当化するためのものです。これは、世界の多数派の人には受け入れられないでしょう。

「マルクス主義の失敗はマルクス自身のせいではない」という擁護論については、マルクス礼賛よりは支持者がいるかもしれませんが、その数はかぎられるでしょう。

やはり、マルクスの考えには根本的なまちがいが含まれていたのでしょう。

それは、マルクス主義をかかげた国家がどうなったかをみれば、明らかです。マルクスの考えに大きなまちがいがないのに、それを受け継いだマルクス主義者があれだけの失敗をおかすなんて、ふつうは考えられません。でも、なぜかマルクス主義にかんしては「悪いのはマルクス主義者で、マルクス本人はまちがっていない」みたいなことが、たまにいわれます。

でも、マルクスの何がどうまちがっていたのか正確につかんでおかないと、私たちはまた同じようなまちがいをくり返すのではないでしょうか。社会主義国だけでなく、西側の先進国にも、マルクス主義の信奉者はおおぜいいたのです。

つまりこれから先、マルクス主義をかかげる国の失敗の記憶が薄れてしまえば、どうなるのか? 

そこに現代的な何か―ーたとえばエコ、共生、格差解消、インターネットのもたらす「解放」等々の新しい装いの「人間味」や「理想」の要素を取り入れた、21世紀バージョンの「マルクス主義」的な何かがあらわれたら? 

「マルクス主義の国家は失敗したから」「マルクスの理論は人間味がないから」みたいな認識しかなかったら、また大きな失敗をするかもしれません。

おととし(2016年に)亡くなった政治学者の滝村隆一さんは、マルクス主義者として出発した人でしたが、ソ連などの社会主義国家のひどい状況が広く認識されるようになった1970年代以降、「マルクスの何がまちがっていたのか」を解明しようとしました。

滝村さんは、マルクスの残した政治理論・国家理論について再検討しました。一方で、世界史におけるさまざまな国家についても研究を重ねています。

そして、滝村さんが達したひとつの結論は、「マルクスには、三権分立という考え方がまったく欠けている」ということでした。

立法府や行政府の行うことを、司法が憲法などに基づいてチェックするという国家の基本構造。それを絶対的に守るべきものと考える国民のコンセンサス。それが近代国家の根幹をなしているという認識がマルクスには欠けていて、マルクス主義者たちもその誤りをそっくり引き継いでいるのだと、滝村さんはいいます(滝村『国家論大綱』など)。

三権分立は、立憲主義(国家権力が憲法によってコントロールされること)を具体的に実現するしくみです。近代国家の基本設計といってもいいです。その観念がないまま、政治・経済のすべてをにぎる政府をつくったら、それはもうどうしようもない強力な全体主義国家になるしかありません。*

マルクス主義の根本的なまちがいは、私有財産の否定だけではないということです。

社会主義国家は、少なくとも当初は一定以上の民衆の支持を得ていたし、民主主義をかかげてもいました。外見的には西側諸国と似た体裁の「憲法」も制定されています。しかし、現実には民主主義も立憲主義も全否定する国家が生まれてしまった。

その根本には三権分立の否定ということがあった。そして、その誤りはマルクス自身のものだった。マルクスほどの学識・教養のある人物でも、そのような基本的なところでまちがえてしまった。

こうやって滝村さんの主張を述べると、じつにあたりまえな感じもします。
でも、世界の常識にはなっていないようです。

なにしろ、ビルト元首相のような欧米のインテリでさえ、「マルクスの理論には人間味がない」みたいなことしかいっていない。

そんな議論よりも、滝村さんのほうがはるかに深く・具体的に問題をとらえていると、私は思います。

ここで述べた滝村さんの主張(「三権分立の欠如」論)がのみこめない、あるいは全面的には賛成できないという方もいるでしょう。それでも、滝村さん的な探究の仕方のほうが、はるかに真剣で意味がありそうだとは思いませんか?

(以上)
*滝村さんの原文を引用しておく。やや読みにくい文章ではあるが、丁寧に読めばちゃんとわかるよう書かれている。( )はそういちによる。またそういちによる一部改行あり。

大意:「三権分立」の重要性について理論化したことで、滝村さんはそれまで信じてきたマルクス主義の人間解放思想を根底から疑うようになった。マルクス主義による革命的権力は、三権分立を否定している。マルクスの人間解放の思想が、本格的な国家の理論を欠いていたためである。そのような基礎のうえに成り立つ権力は、必然的に民主主義と人権を抑圧する邪悪な独裁国家を実現させるほかない。

(引用)
“…国家権力の形式的制度論の核心である〈三権分立〉論……これは、……私が61(1961)年以来擁護してきたマルクス主義人間解放思想全体を、根底から揺さぶり倒壊させる性格をもっていた……
 因みに、蜂起した人民が……ひとたび革命的権力……を構成するや、この公的権力は、かつてない巨大な専制(独裁のこと)国家権力へと転じて、無限に肥大し自己増殖しつづけた。それは〈普遍人間解放〉の名の下に、〈民主主義〉と〈人権〉を圧殺し、少なくとも結果的には〈世界史〉上もっとも邪悪で醜悪な社会構成を、必然化させた。〈三権分立〉を全的に否定した、すべての〈国家権力〉構成は、〈親裁〉(1人の絶対権力者が統治する独裁)体制へと収斂(しゅうれん)される、純粋な〈専制国家〉を現実化させるほかないからである。
 この意味でマルクスの共産主義人間解放思想は、学的国家論(国家に関する科学的・体系的な理論)の脱落のうえに成り立っていた”(『国家論大綱』第1巻下714ページ)
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