FC2ブログ
2020年04月10日 (金) | Edit |
7日に出た政府の緊急事態宣言は「大きな津波が迫ってきた、逃げろ、命を守る行動を!」という強い警報のはずだ。にもかかわらず、「どこへどう避難するのか」について、社会のさまざまなレベルで多くのことに縛られてきちんと動けていない。

たとえば9日までの時点で「どんな事業にどんなかたちで休業を要請するか」について、政府と東京都が「調整中」だったりする。「理髪店は要請の対象とすべきか」みたいな議論である。また、そもそも政府は「要請はとりあえず2週間様子をみてから」などという方針だ。

これは巨大な津波が迫っているのに「避難についてはもろもろの調整をしたうえで…」「まずはほどほどの高台に逃げて、様子をみて必要ならもっと高いところに避難を」みたいな話をしているようなものだ。

「“避難”によって何か不都合があった場合の責任はどうなる、誰が責任をとるのか」ということも、社会の各レベルで決定権を持つ人たちはおおいに気にしている様子である。自分自身が「避難」の号令を出すのは避けたい。別の誰かが号令を出してくれるのを待とう。誰かが出した避難指示に従うなら、責任を負わないで済む……

東京のオフィス街は、緊急事態宣言後も相変わらず大勢が出ている。しかし、出勤している人たちの多くは、本音では会社に対しテレワーク・自宅待機などの「避難」の号令を出してくれ、と思っているだろう。そして、会社で決定権を持つ人たちでさえ、「誰か」の号令を待っているのかもしれない。

「もろもろの調整」「何かあったときの責任は…」というのは、いつも日本の社会を縛っている事柄だ。日本は「もろもろの調整」の国なのだ。

コロナ関連のニュースをみていても、「調整」という言葉があふれている。「調整」のおもな目的のひとつは、当事者の責任回避ということだ。関係者どうしで調整して決めたことだから、これは特定の誰かの責任ではない、というわけである。

また、これと関わる日本社会の傾向として、上位の権力が明確で系統だった方針を示さず、「あとは現場でよろしく」ということもある。「あくまで自粛(あるいは要請)です、各自の判断でお願いします」というのはまさにそうだ。これも責任回避である。そして権力を背景に「調整」をしているのだともいえる。今回は「補償などによる財政支出の責任」をどう逃れるか、ということが政府や自治体のおもな関心事だ。

今回のような事態でさえ、こうしたおなじみの日本的な思考・行動のパータンはものすごく強力に作用している。政府の最高レベルから、会社組織のような世間の末端までそうなのだ。恐ろしくなる。

(以上)
関連記事
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック