2013年04月06日 (土) | Edit |
「自分で考える勉強法」シリーズの7回目です。
「〇〇とは」という,基本的定義のことがテーマ。もっとあとのほうで取りあげるつもりでしたが,4月3日の記事で「団地とは」「建築家とは」「リノベーションとは」,4月4日の記事で「偉人とは」という話をしたので,その関連です。
まず,「〇〇とは」という基本的定義を押さえよう。
私は勉強を始めたころ,「学問とは,宗教とは」のような,「〇〇とは何か」といったことをいくつもいくつも学びました。「科学とは」「哲学とは」「精神とは」「社会とは」「生命とは」……どれも,シンプルな定義のかたちで学びました。そうやっていくうちに,世界観の基礎ができていきました。
これは,学生時代に私に学問の手ほどきをしてくれた若い先生が,大切なこととして教えてくれたのです。
ちょっとむずかしげな言い方をすれば,「本質を押さえろ」ということです。
「本質」とは,「そのモノ・コトの性質のうち,それなくしてはそのモノ・コトが成り立たないような核心の部分」のことです。
たとえば,「科学」とは何か。
科学とは,「仮説を立て,それを実験的に確かめることで成立する知識の体系」です。「仮説・実験」ということがなければ,科学は成立しません。だから,「仮説・実験」こそが科学の本質・核心ということになります(「科学とは何か」については,またあらためて)。
高いレベルをめざすなら,早いうちにいろんな大切なことについての「○○とは」を勉強したらいいと思います。あまり言われていないことですが,この方法は,上達への極意です。
だからと言って,やたらと人に「〇〇とは?」などと聞いてまわってはいけません。そういうことは,関係する本にもあたりながら,まず自分の頭で考えるのです。
それから,「〇〇とは」について,ひとつの答えがみつかったと思っても,それを簡単に「正解」だと決めつけないこと。
あくまで一種の「仮説」として扱い,いろんなことを考える上での手がかりとして使ってください。「科学とは」のような大きな事柄ほど,そうした慎重さが必要です。
そうやってあれこれ試すうちに,当初「これだ」と思っていた「〇〇とは」が修正されることも,よくあるのです。
このあたりは,かなりの上級編です。少なくとも,国語の辞書に書いてある定義が絶対だと思う,中高生のようなレベルからは早く卒業しましょう(でも,辞書は引きましょう。とにかく参考にはなります)。
***
学問というのは,細かな議論も積み重ねますが,結局は基本的な命題にたちかえっていきます。たとえば,経済学なら商品やサービスの「価値」とは何か,「市場」とは何か,といったことです。
エコノミストが具体的な景気刺激策を論ずるにしても,つきつめていけば「市場」とは何か,その機能をどう評価するのか,といった原理的な問題に突きあたります。「政府の市場への介入を,どの程度・どのように行うのか」といったことが議論の焦点なのですから。経済学における「新古典派」と「ケインジアン」の議論は,これです。
さらに古典的なところだと,「近代経済学」と「マルクス経済学」では,商品の「価値」がどこから生まれるかについて,見解が大きく異なります。「価値とは」という問いに対する答えがちがうのです。
このように,学派の対立というのは,基本事項に関する見解の相違がもとになっています。
たくさん本を読むわりには,学問的な上達がいまひとつという人がいます。その中には,基本的なことがらについての「〇〇とは」をおろそかにしてきた人が少なくありません。そのため,頭の中が整理されないのです。プロの学者や知識人でも,そんな人はいます。
論じていることがらに関する基礎概念――「〇〇とは」があやふやな本は,結構多いです。逆に,そこをきちんと書いてある本なら,いい本である可能性が高いと言えます。
「〇〇とは」をおろそかにしている人の議論は,あぶなっかしいです。それは,「卵とはどういうものか」があいまいなまま,オムレツのつくり方を論じているようなものなのです。
(第7回おわり,つづく)
「〇〇とは」という,基本的定義のことがテーマ。もっとあとのほうで取りあげるつもりでしたが,4月3日の記事で「団地とは」「建築家とは」「リノベーションとは」,4月4日の記事で「偉人とは」という話をしたので,その関連です。
まず,「〇〇とは」という基本的定義を押さえよう。
私は勉強を始めたころ,「学問とは,宗教とは」のような,「〇〇とは何か」といったことをいくつもいくつも学びました。「科学とは」「哲学とは」「精神とは」「社会とは」「生命とは」……どれも,シンプルな定義のかたちで学びました。そうやっていくうちに,世界観の基礎ができていきました。
これは,学生時代に私に学問の手ほどきをしてくれた若い先生が,大切なこととして教えてくれたのです。
ちょっとむずかしげな言い方をすれば,「本質を押さえろ」ということです。
「本質」とは,「そのモノ・コトの性質のうち,それなくしてはそのモノ・コトが成り立たないような核心の部分」のことです。
たとえば,「科学」とは何か。
科学とは,「仮説を立て,それを実験的に確かめることで成立する知識の体系」です。「仮説・実験」ということがなければ,科学は成立しません。だから,「仮説・実験」こそが科学の本質・核心ということになります(「科学とは何か」については,またあらためて)。
高いレベルをめざすなら,早いうちにいろんな大切なことについての「○○とは」を勉強したらいいと思います。あまり言われていないことですが,この方法は,上達への極意です。
だからと言って,やたらと人に「〇〇とは?」などと聞いてまわってはいけません。そういうことは,関係する本にもあたりながら,まず自分の頭で考えるのです。
それから,「〇〇とは」について,ひとつの答えがみつかったと思っても,それを簡単に「正解」だと決めつけないこと。
あくまで一種の「仮説」として扱い,いろんなことを考える上での手がかりとして使ってください。「科学とは」のような大きな事柄ほど,そうした慎重さが必要です。
そうやってあれこれ試すうちに,当初「これだ」と思っていた「〇〇とは」が修正されることも,よくあるのです。
このあたりは,かなりの上級編です。少なくとも,国語の辞書に書いてある定義が絶対だと思う,中高生のようなレベルからは早く卒業しましょう(でも,辞書は引きましょう。とにかく参考にはなります)。
***
学問というのは,細かな議論も積み重ねますが,結局は基本的な命題にたちかえっていきます。たとえば,経済学なら商品やサービスの「価値」とは何か,「市場」とは何か,といったことです。
エコノミストが具体的な景気刺激策を論ずるにしても,つきつめていけば「市場」とは何か,その機能をどう評価するのか,といった原理的な問題に突きあたります。「政府の市場への介入を,どの程度・どのように行うのか」といったことが議論の焦点なのですから。経済学における「新古典派」と「ケインジアン」の議論は,これです。
さらに古典的なところだと,「近代経済学」と「マルクス経済学」では,商品の「価値」がどこから生まれるかについて,見解が大きく異なります。「価値とは」という問いに対する答えがちがうのです。
このように,学派の対立というのは,基本事項に関する見解の相違がもとになっています。
たくさん本を読むわりには,学問的な上達がいまひとつという人がいます。その中には,基本的なことがらについての「〇〇とは」をおろそかにしてきた人が少なくありません。そのため,頭の中が整理されないのです。プロの学者や知識人でも,そんな人はいます。
論じていることがらに関する基礎概念――「〇〇とは」があやふやな本は,結構多いです。逆に,そこをきちんと書いてある本なら,いい本である可能性が高いと言えます。
「〇〇とは」をおろそかにしている人の議論は,あぶなっかしいです。それは,「卵とはどういうものか」があいまいなまま,オムレツのつくり方を論じているようなものなのです。
(第7回おわり,つづく)
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